江戸川柳で読む日本裏外史 高野冬彦 目録

   第三部平安時代

  第一 坂上田村麻呂--征夷大将軍の後楯清水観音の霊

  坂上田村麻呂降って湧いたる力を得

 いよいよ平安朝に入ったが、さてどういう順序で始めるか迷っている。考えてみると、平安初期というのは、歴史区分の中でも、一番大衆性のない時代かも知れない。
 何しろ六国史というのは、およそ普及度の低い書物だし、その後すぐに「大鏡」の時代になってしまう。
 江戸時代の書物の挿絵など見ても、摂関時代の衣冠束帯や直衣、狩衣の姿は描けるが、それ以前のボクトウ・有襴の袍とか言うものには、殆んど手がでなかったようだ。
 百人一首の持統天皇が、十二単衣を着ているようなものである。でまあ、その曖昧模糊たる中から一人、と選んだのが田村麻呂。武勲赫々たる征夷大将軍で、怒れば猛獣も畏れ、笑えば小児もなつく、五月の鍾馗様のモデルだなどの説もあるが、そういう部分はほとんど川柳子の眼に入っていないようである。
 題材として取られているのは、全て謡曲”田村”に出て来る。
 鈴鹿山での鬼神との闘いのことばかり、昔、平城天皇の御代、鈴鹿山に悪鬼が棲むとあって、田村麻呂が勅命を報じて征討に向かった所、鬼神は数千の軍兵に姿を変え、黒雲鉄火を降らせて将軍の軍勢に襲いかかったと言う。
 しかしこの時、将軍の背後に、日頃信仰する清水の先手観音が示現して、降魔の矢玉を降らせてくれたのだ、見事悪鬼を討ち取ることが出来たのである。 

  雨あられ降って鈴鹿の道開け

  鈴鹿山はかの観音ではいけず

 成程こゝは先手観音でないと困る所だと思うが、川柳子は謡曲の本文に「千の御手ごとに、大悲の弓には智恵の矢をはめて、一度放てば千の矢先、雨あられと降りかかって、鬼神の上に乱れ落つ ― 」とあるのを、どうも理屈に合わないと、計算のし直しをしたらしいのである。

  観音の千の矢先に五百うそ

  大悲の矢五百本ほど掛値なり

  千の矢に五百鉄砲鈴鹿山

 鉄砲というのは嘘のことだが、嘘が八百でなく五百と言ったあたり芸が細かい。

  観世音爪を取るのも一仕事

 なんて句もあって、御利益の掛値を見すかかされた上に、爪の数まで勘定されていたとは、観音さまも仕事のやりずらいことであろう。
 

   第二 弘法大師--万能の転載の欠点と盲点−

  空海もやはか郭巨におとるべき

 没後千百五十年とかで、超大作の映画が作られたりして、又々新しく見直されている空海・弘法大師だが、川柳の方では不思議に評判がよくない。
 何しろ我国の全歴史を通じて、比較する相手のない程の大天才、ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチと肩を並べる万能人である。
 こういう人物に対しては、平凡な俗人は、とかく羨望と反感を抱き易い。
 勿論、その華やかな才能に感嘆の声をあげている匂いも無いではない。

  五十字に足りず万事の用に足り

 これは勿論、いろはの仮名の発明であるが、他にも

  仏師屋をしても弘法食えるなり

 何しろ全国で弘法大師の御作と伝えられる仏像の数は、六百体以上はあると言うのだから、職業として十分食って行けたはずだと思う。
 又、字を書かせるとこれが又超人的。
 唐に居た時のことだが、王城の壁に向かって、多勢の見物の前で、両手両足のほか口にまで筆をくわえて、一度に五種類の文字を書いて見せ、五筆和尚の名を高めたというから、こうなるとそのまゝサーカスに出しても看板スターで通用する超能力である。
 しかし川柳子は、これでもなお飽き足りないらしく

  空海はへのこばかりが無筆なり

 もう一本加えて、六筆和尚にして見たらと言わんばかりの調子である。
 この他にも、応天門の額の文字に、点が一つ欠けていたのを、下から筆を投げ上げて補ったとか、神泉苑で雨乞いの祈祷くらべをして、見事勝利を得たとか、逸話の種は尽きないが、余りにも偉大な才能のために、言い伝えの間に次第に誇張と歪曲を繰り返し、いつしか非人間的な奇怪な姿が残されてしまうというのも、天才の一面の悲劇なのであろう。
 そうした中で、特に川柳子が噛みついているのは、上州世良田村に残る”石の芋”の伝統である。
 この村に住む一人の老婆が、畑のイモを取り入れて、自宅の納屋に納めようとしていると、折から通りかゝった旅の坊主が、空腹で苦しんでいるから、何とかそのイモを頒けてもらえないかと頼みこんだ。
 ところがこの婆、意地悪のけちん坊で
「これは芋ではない。石だわい。」と、すげなく追い払った。
 お定まりの通り、この坊主が実は弘法さまで、その立去った後では、納屋の芋は勿論、畑になった芋全部が、石に変わっていたというのである。
 これに類する話は、全国で数十ヶ所に及び、時には反対に、親切にしてやったおかげで、大師さまが杖で衝いた所から清水が湧いた、素晴らしい大きな栗が出来たとして、弘法水、弘法栗の名を残す例も多いようだ。
 結果の良かった話は、目出度し目出度しで結構だが、婆さんの少しばかりの意地悪に目くじらを立てゝ、畑の芋を皆石にするなんて、”弘法さんも少しやりすぎじゃないの”と言うのが、人間派の川柳子の反発を招いたらしく次のような句が作られている。

  屁のような遺恨で芋の石返し

  弘法は一生おなら封じこめ

 しかし弘法大師に対する非難の内、何と言っても最大のものは、女性に対する差別…と言うよりは、僧たる者は生涯女に触れるべからずと、厳しい戒律を強制した点にあったようだ。
 江戸時代には当然至極と考えられ、もし僧にしてこの禁を犯すことあれば、三日間日本橋に晒しの上追放と決められたてん化の法度に、今更難くせをつけようと言うのでもあるまいが、考えて見ればやはり、どこかおかしいと言うのであろう。
「誰だい、こんな理屈に合わねえ規則を作った奴は?」となると、坊主の中の大坊主
「弘法の野郎に違えねえ。」ということになったのであろうか。
「いや、それより前に、お釈迦さんてのが居るからな。
 一概には言えねえさ。」
「でもよ、釈迦ってのは天竺の人だろ。日本で決めるとなりゃ。
 弘法しかいねえわな。」
 なんて馬鹿な会話があったかどうだた知らないが

  故郷に弘法大師けちをつけ

  弘法は我が身つめってみぬと見え

 人間本来の故郷我々自身の生命の淵叢神聖なる母胎に、何でけちをつけるのか?
 真言宗を開き、高野山金剛峯寺を建てる、偉いには違いないが、何故そのお山を女人禁制にせねばならぬのか?
 江戸ッ子に女性解放論者が多かったとも思えないから、こういう批難も結局は一種のやっかみに過ぎないのかも知れないが、そこから生まれた反感の余波が
「つまりは彼奴 女が嫌いなのだ。」という結論になり、そうすると…?と次の飛躍につながって行く。

  そもそも味噌のすり始めは高野山

  弘法はこれが好きだと阿彌陀言い

  弘法大師の御作なり陰間

 自分の偏った嗜好が原因での女人禁制だとしたら、許されないと言うのであろうか。

  花なればこそ高野にも女郎花

  弘法の落ち初めたのは男郎花おとこへし

 少しは他人の迷惑も考えたらいゝのに、益々図に乗って

  弘法は尻を許して屁を封じ

  させぬと尻を石にすると弘法

  いれて見せ弘法阿字を考える

 江戸ッ子の憤激は収まらず、神通力をそなえた極悪坊主のようになってしまったが、これに対して、殺生も姦淫も、止むをえぬ人間の悪業と見て、それ故にこそ摂取不捨の阿彌陀仏の本願にすがるべしと教えた。
 一向他力の親鸞上人の方は、川柳では仲々評判がいゝのである。

  尻の義は一向知らぬ御宗旨

  精進と尻けつをばしない良い宗旨

  弘法は裏、親鸞は表門

  親鸞は世を広く見てあなかしこ

 勿論、中には

  良い宗旨頭まるめるぶんのこと

 などと皮肉な見方としている者もないではないが、こうした不自然な制約への疑問、煩悩肯定の現実主義など見ていると、江戸の町人に取っては、文化的ルネサンスは可成進んでいたんだなと感心すると同時に、こうした世俗的合理主義が、しきりに反発を感ずるということは、弘法大師がそれだけ偉人だったという証拠ではないかという気もして、もう一度勉強して見たい気持ちにかられるのである。

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