万葉にみる庶民女性 目録

 麻衣あさごろも着ればなつかし紀の国の妹背いもせの山に麻蒔く吾妹わぎも

 古代における庶民の服装は、埴輪はにわにみられる農民服で、材料はほとんどが麻布、他に栲布たふ・葛布などでした。
 家族の衣生活は一切が女性の労働でまかなわれました。
 山畑を焼いて麻の種子を蒔く日から、盛夏の刈入れ、そして糸紡ぎ―「衣に織るための糸の全長を指先で捻るのに、女はその生涯の半ば以上、夜も雨の日も糸引きをした」と柳田国男の「木綿以前のこと」にもあります。そして機織り。

 君がため手力たぢから疲れ織りたる衣きぬぞ春さらばいかなる色に摺りてば好けむ

 しかし心身を尽くして作りあげた一枚の麻布が、みんな家族や愛しい人の肌をつつんだわけではありません。
 男性の名義でとられる税のうち調地方物産や庸成人男子に課される力役は、遠い地方ではたいてい、軽くて都まで運びやすい布製品で代納されたからです。

 多磨川にさらす手作てづくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき

 たらちねの母が養ふ蚕の繭隠まゆごもりこもれる妹いもを見むよしもがな

 これらは辛い労働をみずから元気づけるため作業中に合唱されたのでしょうか。
 こうして出来た麻布や絹布は、都に送られ中央政府の経費にあてられました。
 奈良の都の繁栄、仏寺堂塔や正倉院御物に当時の文化の高さを偲ぶとき、私どもは必ず、それを支えたこれら無名の全国の女性たちを想起したいものです。
 彼女の一人は今夜も土間の片隅家全体が竪穴住居の土間ですで、麻糸を笥おけにさらしています。夫はそろそろいらだってきたようです。
 イイカゲンニシテ寝ロヨ、アス自分ノ着ル衣ジャナシサ。

 麻をらを麻笥をけに多ふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床をどこ

 太宝令に基づき、口分田が六才以上の公民に分たれます男子二段、女子はその三分の二と、田租は収穫にかかわらず一段につき稲二束二把のち一束五把の率でかかりました。

 衣手に水渋みしぶつくまで植えし田を引板ひきた吾が延へ守れる苦し

 苦心して稔らせた稲田の鳴子をひく苦労。

 稲つけばかかる吾が手を今夜こよひもか殿の若子わくごが取りて嘆かむ

 地方豪族の御曹子との愛に生きる農家の娘でしょうか。
 労働にあかぎれた手、元来誇るべきそれを羞じる乙女心、そんな彼女を慰め、いよいよ愛する若者。純枠であるゆえに、本能的に何が尊いかをかぎわける力をもった青年たちの愛。じじつ、苦しい庶民の生活の中の最大のよろこびは、異性との愛であり、そしてそれを集団で謳うことだったようです。
 若い男女が知りそめるのは、なによりもまず、日常田畑や山林でそれぞれの親の家の労働に従うときだったでしょう。それと今一つ、古代には、春秋の野山で神礼行事をかねて定期的な集団求婚の風習のあった事が知られています。
 東国では「かがい」畿内では「歌垣うたがき」とよばれ、集った青年男女は即興的に歌をやりとりして、意気投合すれぱ婚約が成りたつ仕組らしく、大和の海石榴つばいち市、常睦の筑波山のものが有名です。後者ではこの日ぱかりは既婚者すら参加を許された、いわば性の解放日だったようです。

 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津もはきずの その津の上に 率あともひて
 未通女壮士をとめをとこの 往き集つどひ かがふかがいに 他妻ひとずま
 吾も交らむ 吾が妻に 他ひとも言問こととへ この山を 領うしはく神の昔より
 禁いさめぬ行事わざぞ 今日のみは めぐしもな見 ことも咎とがむな

 こんなにふうにして愛する相手がみつかりますと「よばい」(「呼ばい」の意で、後世あて字された「夜這い」の語感ではありません)が始まります。
 娘は父母の家にあって労働に従い、若者もまた自家の労働の終った夜、あるいは日中のわずかのひまを、とぷように娘のもとにかけつけるのです。

 下毛野しもつけの安蘇あその河原よ石踏まず空そらゆと来ぬよ汝が心告

 夜は一層大変です。問答歌をみましょう。

 隠国こもりくの 泊瀬はつせの国に さ結婚よばいに わが来れば
 たなぐもり 雪はふり来 さぐもり 雨はふり来
 野つ鳥 雉きざしはとよみ 家つ鳥 鶏かけも鳴く
 さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ

 隠国こもりくの 長谷はつせ小国おぐに 結婚よばいせず わがすめろきよ
 奥床おくとこに 母は睡たり 外床とどこに 父は睡たり
 起き立てば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし
 ぬばたまの 夜は明け行きぬ ここだくも 思ふごとならぬ こもり妻づまかも

 こんな辛いおもいとスリルに満ちたデートも、成功するとは限りません。

 汝が母に嘖られ吾は行く青雲のいで来吾妹子わぎもこあい見て行かむ

 妹をこそあひ見に来しか眉びきの横山へろの鹿猪ししなす思おもへる

 馴れないウブな若者がまごまごしている間に、娘の母親に猪のように追っぱらわれたのです。しかし娘もそれくらいでへこたれてはいませんでした。

 かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ

 駿河の海磯おしべに生ふる浜つづら汝いましをたのみ母に違たがひぬ

 シヌホドオ慕イシテイルンデスモノ。
 オカアサンニモ打明ケタワ。
 ダカラ遠慮セズ、止マズニイラシテネ。
 アナタガ頼リヨ。
 カアサントケンカシチャッタノ。
 こういう問題については、母親の子供に対する規制力は絶大だったようです。
 一つには母系制家族以来の母権の強さを示すものでしょうし、新しい一面としては大化改新以来、じじつは母系家族でも、法的には男子を戸主とする房戸ぼうこへと切替へが強制されたため、しぜん入婿ではあっても従来のように種子もらい的でなく、家庭内で男性の占める位置が大きくなり、しかも房戸が納税の単位であってみれば、女の一生の先輩として母は娘の婿えらびに慎重にならざるを得なかったでしよう。それだけに、晴れて親たちに許されて妻問い婚までこぎつけた二人の愛情は、千三百年後の私どもの心をも無条件に打つ力を持っているようです。

 上毛野安蘇かみつけのあその真麻群まそむらかき抱むだき寝れど飽かむを何どか吾がせむ

 コンナニキツク抱キアッテネテイテモ、スコシモ飽キナインダヨ。
 ホントニドウシチャオウ。
 同居でないだけに愛情はよけいいつまでも新鮮だったのでしょう。
 働く妻の夫つま恋いもあります。

 吾背子わがせこにわが恋ふらくは夏草の刈り除くれども生い及くがごと

 夫婦が同居するのは子供たちも出来てからでしたろうか。
 はじめのうちは双方の親とも、わが家の貴重な労働力を離したがらなかったと想像されます。恋する男女も、国家の租税負担者でない者は一人もなかったからです。山上憶良の貧窮問答歌は、海藻のようなぼろを着て土間に藁を敷き、飯も炊けずに寒さをしのぐ堀立小屋ヘ、むごい里長が税をとりたてに鞭を鳴らしてやってくる生活を描いています。庶民の家庭生活を更に不安と困窮に陥入れたのは、夫たちにふりかかるさまざまな徭役ようえきさらに兵役でした。
 調・庸などの租税を都へ運ぷほかに、雑徭という土木工事に動員されるのが年六十日。更に都の宮廷の衛士えじや北九州の防人さきもりに選抜されたが最後、三年交代とはいえ事実は家族との再会を期しがたいことも多かったでしょう。万葉に収められた防人歌は、天平七年に東国から筑紫へ下る男たちのものです。

 父母が頭かしらかき撫で幸く在れていひし言葉けとばせ忘れかねつる

 畳薦牟良自たたみけめむらじが磯の離磯はなりその母を離れて行くが悲しさ

 まだほんの若者。母一人子一人もあったでしょう。
 が、妻子を持つ者には、後にのこす生活の憂いがありました。

 防人に発たむさわぎに家の妹いむが業るべき事を言はず来ぬかも

 わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影かごさへ見えて世に忘られず

 唐衣からころもすそに取りつき泣く子らを置きてぞ来のや母おもなしにして

 夫婦同居ののち妻が死んだ家庭でしょうか、胸突かれるような歌です。
 武蔵国だけは防人の妻の歌も共にのせています。

 家いはろには葦火あしぶけども住み好けを筑紫に到りて恋しけもはも

 草まくら旅の丸寝まるねの紐絶えば吾が手と附けろこれの針はる持し

 コンナニ煤ノ多イ葦火ヲタイテル堀立小屋ダケド筑紫へ行ケパ恋シク思イダスダロウョ。私ノ手ダトオモッテコノ針デ自分デツクロイナサイネ。
 出征前夜の夫婦の、しめやかな語らいです。以上はしかし、ともかくも良民といわれる公民の生活でした。その下に牛馬とならぷ財産であった奴婢ぬひがいました。
 全国良民の総数の一割内外ですが、中央の貴族や寺院に集中的に所有され、労働し売買されました。
 奈良の都の大寺院の建立には彼らの力がどれほど役立ったか計りしれませんが、いざ完成してみると、傍へ近づく事すら許されなかったのです。

 香こりれる塔にな寄りそ川隅かわくまの屎鮒くそぶなめる痛いたき女奴めやっこ

 つぎねふ 山城道を 他夫ひとづまの 馬より行くに
 おの夫づまし 歩より行けぱ 見るごとに 哭のみし泣かゆ
 そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と わが持てる
 まそみ鏡に 蜻蛉領巾あきつひれ 負ひ並め持ちて 馬替へ 吾背あがせ

 馬買はば妹歩行かちならむよしえやし石は履むとも吾は二人行かむ