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       七、船場

 大塩平八郎は天満与力町てんまよりきまちを西へ進みながら、平生私曲しきよくのあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町めうとまちの四辻よつつじから綿屋町わたやまちを南へ折れた。
 それから天満宮の側そばを通つて、天神橋に掛かつた。
 向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。
 ここまで来るうちに、兼かねて天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷きんがうの者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。
 不意に馳せ加はつたものの中に、砲術の心得こゝろえのある梅田源左衛門うめだげんざゑもんと云ふ彦根浪人もあつた。
 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸すがはらまちかしを西に進んで、門樋橋かどひばしを渡り、樋上町河岸ひかみまちかしを難波橋なんばばしの袂たもとに出た。
 見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足そまにんそくが、今難波橋の橋板を剥がさうとしてゐる所である。
「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。
 人足は抜身ぬきみの鑓やりを見て、ばらばらと散つた。
 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。
 そのうち時刻は正午になつた。
 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場きたせんばに簇むらがつてゐるので、もう悉ことごとく指顧しこの間あひだにある。
 平八郎は倅せがれ格之助、瀬田以下の重立おもだつた人々を呼んで、手筈てはずの通とほりに取り掛かれと命じた。
 北側の今橋筋いまばしすぢには鴻池屋こうのいけや善右衛門、同おなじく庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人おほしやうにんがゐる。
 南側の高麗橋筋かうらいばしすぢには三井、岩城桝屋いはきますや等の大店おほみせがある。
 誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝けふかつしてどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔などは、一々いちいち方略に取り極めてあつたので、ここでも為事しごとは自然に発展した。
 只銭穀せんこくの取扱とりあつかひだけは全く予定した所と相違して、雑人共ざふにんどもは身に着つけられる限かぎりの金銀を身に着けて、思ひおもひに立ち退いてしまつた。
 鴻池本家こうのいけほんけの外ほかは、大抵金庫かねぐらを破壊せられたので、今橋筋には二分金にぶきんが道にばら蒔いてあつた。
 平八郎は難波橋なんばばしの南詰みなみづめに床几しやうぎを立てさせて、白井、橋本、其外若党わかたう中間ちゆうげんを傍そばにをらせ、腰に附けて出た握飯にぎりめしを噛みながら、砲声の轟とゞろき渡り、火焔くわえんの燃え上がるのを見てゐた。
 そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂こじやくの空くうを感じてゐた。
 昼八つ時どきに平八郎は引上ひきあげの太鼓を打たせた。
 それを聞いて寄り集まつたのはやうやう百五十人許ばかりであつた。
 その重立おもだつた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。
 これは富豪を懲こらすことは出来たが、窮民を賑にぎはすことが出来ないからである。
 切角せつかく発散した鹿台ろくたいの財を、徒いたづらに烏合うがふの衆の攫つかみ取るに任せたからである。
 人々は黙つて平八郎の気色けしきを伺うかがつた。
 平八郎も黙つて人々の顔を見た。
 暫しばらくして瀬田が「まだ米店こめみせが残つてゐましたな」と云つた。
 平八郎は夢を揺り覚さまされたやうに床几しやうぎを起つて、「好い、そんなら手配てくばりをせう」と云つた。
 そして残のこりの人数にんずを二手ふたてに分けて、自分達親子の一手は高麗橋かうらいばしを渡り、瀬田の一手は今橋いまばしを渡つて、内平野町うちひらのまちの米店こめみせに向ふことにした。

八、高麗橋、平野橋、淡路町
 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部あとべに土井の指図さしづを伝へた。
 両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組たまつくりぐみとを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘まゝすわつてゐた。
 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。
 そこで席を離れるや否いなや、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。
 そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒こづゝを持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手さきてに立て」と堀が号令した。
 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞ことばを聞くと、一も二もなく領承した。
 そして鉄砲同心を引き纏まとめて、西組与力同心の前に立つた。
 堀の手は島町通しまゝちどほりを西へ御祓筋おはらひすぢまで進んだ。
 丁度大塩父子ふしの率ひきゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗しらはたが見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
 広瀬が同心等に「打て」と云つた。
 同心等の持つてゐた三文目もんめ五分筒ふんづゝが煎豆いりまめのやうな音を立てた。
 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳ねた。
 堀はころりと馬から墜ちた。
 それを見て同心等は「それ、お頭かしらが打たれた」と云つて、ぱつと散つた。
 堀は馬丁ばていに馬を牽かせて、御祓筋おはらひすぢの会所くわいしよに這入はひつて休息した。
 部下を失つた広瀬は、暇乞いとまごひをして京橋口に帰つて、同役馬場に此この顛末てんまつを話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川おほかはを隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
 御祓筋おはらひすぢから高麗橋までは三丁余あるので、三文目もんめ五分筒ふんづゝの射撃を、大塩の同勢どうぜいは知らずにしまつた。
 堀が出た跡あとの東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生がまふが大筒を受け取つて帰つた。
 蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上ごんじやうすると、遠藤は岡翁助をうすけに当てて、平与力ひらよりき四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門なかゐはんざゑもん方へ出せと云ふ達しをした。
 岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒めづゝを一挺ちやうづゝ、脇勝太郎、米倉倬次郎よねくらたくじらうに三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣つた。
 中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。
 跡部あとべは坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併あはせて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。
 此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋うちほねやまちすぢを南に折れ、それから内平野町うちひらのまちへ出て、再び西へ曲らうとした。
 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川ひがしよこぼりがはの東河岸ひがしかしに落ち合つて、南へ内平野町うちひらのまちまで押して行き、米店こめみせ数軒に火を掛けて平野橋ひらのばしの東詰ひがしづめに引き上げてゐた。
 さうすると内骨屋町筋うちほねやまちすぢから、神明しんめいの社やしろの角をこつちへ曲がつて来る跡部あとべの纏まとひが見えた。
 二町足らず隔たつた纏まとひを目当めあてに、格之助は木筒きづゝを打たせた。
 跡部の手は停止した。
 与力本多ほんだや同心山崎弥四郎やまざきやしらうが、坂本に「打ちませうか打ちませうか」と催促した。
 坂本は敵が見えぬので、「待て待て」と制しながら、神明しんめいの社やしろの角に立つて見てゐると、やうやう烟の中に木筒きづゝの口が現れた。
「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒こづゝをつるべかけた。
 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向はしむかうまで開いてゐる。
 橋詰はしづめ近く進んで見ると、雑人ざふにんが一人打たれて死んでゐた。
 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎むせんで引き返した。
 そして始はじめて敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町ぶんごまちを西へ思案橋に出た。
 跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとうとう落馬した。
 思案橋を渡つて、瓦町かはらまちを西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生がまふの外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵かすやすけざう等が切れぎれに続いた。
 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢どうぜいは、又逃亡者が出たので百人余あまりになり、浅手あさでを負つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町あはぢまちを西へ退く所である。
 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通かはらまちどほりを坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。
 南北に通じた町を交叉かうさする毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。
 一丁目筋ちやうめすぢと鍛冶屋町筋かぢやまちすぢとの交叉点では、もう敵が見えなかつた。
 堺筋さかひすぢとの交叉点に来た時、坂本はやうやう敵の砲車を認めた。
 黒羽織くろばおりを着た大男がそれを挽かせて西へ退かうとしてゐる所である。
 坂本は堺筋さかひすぢ西側の紙屋の戸口に紙荷かみにの積んであるのを小楯こだてに取つて、十文目筒もんめづゝで大筒方おほづゝかたらしい、彼かの黒羽織を狙ねらふ。
 さうすると又また東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒れふづゝで坂本を狙ふ。
 坂本の背後うしろにゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒こづゝで金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。
 併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。
 そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間けんほど前へ出た。
 三人の筒は殆ほとんど同時に発射せられた。
 坂本の玉は大砲方たいはうかたの腰を打ち抜いた。
 金助の玉は坂本の陣笠ぢんがさをかすつたが、坂本は只たゞ顔に風が当つたやうに感じただけであつた。
 本多の玉たまは全まつたく的まとをはづれた。
 坂本等は稍やゝ久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。
 西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。
 東の方を見れば、火が次第に燃えて来る。
 四辻の辺あたりに敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒ひやくめづゝ三挺さんちやう車台付しやだいつき、木筒きづゝ二挺にちやう内一挺車台付、小筒こづゝ三挺、其外鑓やり、旗、太鼓、火薬葛籠つゞら、具足櫃ぐそくびつ、長持ながもち等であつた。
 鑓やりのうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓もちやりだと云つた。
 玉に中あたつて死んだものは、黒羽織くろばおりの大筒方の外には、淡路町の北側に雑人ざふにんが一人倒れてゐるだけである。
 大筒方は大筒の側に仰向あふむけに倒れてゐた。
 身の丈たけ六尺余の大男で、羅紗らしやの黒羽織の下には、黒羽二重くろはぶたへ紅裏べにうらの小袖こそで、八丈はちぢやうの下着したぎを着て、裾すそをからげ、袴はかまも股引もゝひきも着ずに、素足すあしに草鞋わらぢを穿いて、立派な拵こしらへの大小だいせうを帯びてゐる。
 高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人ざふにん二人に過ぎない。
 堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。
 双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋さかひすぢでは町家まちやの看板が蜂はちの巣のやうに貫つらぬかれ、檐口のきぐちの瓦が砕くだかれてゐたのである。
 跡部あとべは大筒方おほづゝかたの首を斬らせて、鑓先やりさきに貫つらぬかせ、市中しちゆうを持ち歩かせた。
 後にこの戦死した唯一の士さむらひが、途中から大塩の同勢どうぜいに加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
 跡部が淡路町あはぢまちの辻にゐた所へ、堀が来合きあはせた。
 堀は御祓筋おはらひすぢの会所くわいしよで休息してゐると、一旦散つた与力よりき同心どうしんが又ぽつぽつ寄つて来て、二十人ばかりになつた。
 そのうち跡部の手が平野橋ひらのばしの敵を打ち退しりぞけたので、堀は会所を出て、内平野町うちひらのまちで跡部に逢つた。
 そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手さきてを命じ、天神橋筋てんじんばしすぢを南へ橋詰町はしづめまち迄出て、西に折れて本町橋ほんまちばしを渡つた。
 これは本町を西に進んで、迂廻うくわいして敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。
 併しかし一手ひとてのものが悉ことごとく跡あとへあとへとすざるので、脇等三人との間が切れる。
 人数もぽつぽつ耗つて、本町堺筋ほんまちさかひすぢでは十三四人になつてしまふ。
 そのうち瓦町かはらまちと淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やうやう堺筋さかひすぢを北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。
 そこで本町橋の東詰ひがしづめまで引き上げて、二人にんは袂たもとを分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入はひつた。
 坂本、本多、蒲生がまふ、柴田、脇並ならびに同心等は、大手前おほてまへの番場ばんばで跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。
九、八軒屋、新築地、下寺町
 梅田の挽かせて行く大筒おほづゝを、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。
 同勢は見る見る耗つて、大筒おほづゝの車を挽く人足にんそくにも事を闕くやうになつて来る。
 坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆ほとんど無節制の状態に陥おちいり掛かる。
 もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々ひとびと勝手に射撃する。
 平八郎は暫しばらくそれを見てゐたが、重立おもだつた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々めいめい此場を立ち退いて、然しかるべく処決せられい」と云ひ渡した。
 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田いばらた、高橋、父柏岡かしはをか、西村、杉山と瀬田の若党植松うゑまつとであつたが、平八郎の詞ことばを聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。
 瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意ごしゆいはなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。
 そして所々しよしよに固まつてゐる身方みかたの残兵に首領しゆりやうの詞を伝達した。
 それを聞いて悄然せうぜんと手持無沙汰に立ち去るものもある。
 待ち構へたやうに持つてゐた鑓やり、負つてゐた荷を棄てて、足早あしはやに逃げるものもある。
 大抵は此場を脱け出ることが出来たが、安田が一人にん逃げおくれて、町家まちやに潜伏したために捕へられた。
 此時同勢の中うちに長持ながもちの宰領さいりやうをして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子ふしの供がしたいと云つて居残ゐのこつた。
 質樸しつぼくな職人気質かたぎから平八郎が企くはだての私欲を離れた処に感心したので、強ひて与党に入れられた怨うらみを忘れて、生死を共にする気になつたのである。
 平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町あはぢまち二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。
 そして北裏の東平野町ひがしひらのまちへ抜けた。
 坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大だいぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹あとを晦くらますことが出来た。
 此時北船場きたせんばの方角は、もう騒動が済んでから暫しばらく立つたので、焼けた家の址あとから青い煙が立ち昇つてゐるだけである。
 何物にか執着しふぢやくして、黒く焦げた柱、地に委ゆだねた瓦かはらのかけらの側そばを離れ兼ねてゐるやうな人、獣けものの屍かばねの腐くさる所に、鴉からすや野犬のいぬの寄るやうに、何物をか捜さがし顔がほにうろついてゐる人などが、互たがひに顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立ち退く邪魔をするものはない。
 八つ頃から空は次第に薄鼠色うすねずみいろになつて来て、陰鬱いんうつな、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。
 まだ鉄砲や鑓やりを持つてゐる十四人は、詞ことばもなく、稲妻形いなづまがたに焼跡やけあとの町を縫つて、影のやうに歩あゆみを運びつつ東横堀川ひがしよこぼりがはの西河岸にしかしへ出た。
 途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾すそだけ残つた中に、青い火がちよろちよろと燃えてゐるのを、平八郎が足を停めて見て、懐ふところから巻物を出して焔ほのほの中に投げた。
 これは陰謀の檄文げきぶんと軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状れんぱんじやうであつた。
 十四人はたつた今七八十人の同勢を率ひきゐて渡つた高麗橋かうらいばしを、殆ほとんど世を隔てたやうな思おもひをして、同じ方向に渡つた。
 河岸かしに沿うて曲つて、天神橋詰てんじんばしづめを過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。
 ふと見れば、桟橋さんばしに一艘さうの舟が繋つないであつた。
 船頭が一人艫ともの方に蹲うづくまつてゐる。
 土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形やかたのやうな、余り大きくない舟である。
 平八郎は一行に目食めくはせをして、此舟に飛び乗つた。
 跡あとから十三人がどやどやと乗込のりこんだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
 不意を打たれた船頭は器械的に起つて纜ともづなを解いた。
 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒もんめづゝ、其外の人々は手鑓てやりを水中に投げた。
 それから川風の寒いのに、皆着込きごみを脱いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪を操あやつらせた。
 火災に遭つたものの荷物を運び出す舟が、大川おほかはにはばら蒔いたやうに浮かんでゐる。
 平八郎等の舟がそれに雑まじつて上のぼつたり下だつたりしてゐても、誰も見咎みとがめるものはない。
 併しかし器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚せいかくして来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。
「旦那方だんながたどこへお上あがりなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
 平八郎は側そばにゐた高橋に何やらささやいだ。
 高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。
「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
 これからは船頭が素直に指図を聞いた。
 平八郎は項垂うなだれてゐた頭かしらを挙げて、「これから拙者せつしやの所存しよぞんをお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。
 所存と云ふのは大略かうである。
 此度このたびの企くはだては残賊ざんぞくを誅ちゆうして禍害くわがいを絶つと云ふ事と、私蓄しちくを発あばいて陥溺かんできを救ふと云ふ事との二つを志こゝろざした者である。
 然しかるに彼かれは全まつたく敗れ、此これは成るに垂なん/\として挫くじけた。
 主謀たる自分は天をも怨うらまず、人をも尤とがめない。
 只たゞ気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方まへがたである。
 自分はお前方に罪を謝する。
 どうぞ此同舟の会合を最後の団欒だんらんとして、袂たもとを分つて陸りくに上のぼり、各おのおのいさぎよく処決して貰もらひたい。
 自分等父子ふしは最早もはや思ひ置くこともないが、跡あとには女小供がある。
 橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家かくれがへ往き、自裁じさいするやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。
 平八郎の妾めかけ以下は、初め般若寺村はんにやじむらの橋本方へ立ち退いて、それから伊丹いたみの紙屋某方かたへ往つたのである。
 後に彼等が縛ばくに就いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎ゆみたろうを残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
 暮くれ六つ頃から、天満橋北詰てんまばしきたづめの人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。
 次いで父柏岡かしはをか、西村、茨田いばらた、高橋と瀬田に暇いとまを貰つた植松うゑまつとの五人が上陸した。
 後に茨田は瀬田の妻子を落おとして遣つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主ぐわんにんばうずになつて、時疫じえきで死に、植松は京都で捕はれた。
 跡あとに残つた人々は土佐堀川とさぼりがはから西横堀川にしよこぼりがはに這入はひつて、新築地しんつきぢに上陸した。
 平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。
 人々は平八郎に迫せまつて所存しよぞんを問うたが、只たゞ「いづれ免まぬかれぬ身ながら、少し考かんがへがある」とばかり云つて、打ち明けない。
 そして白井と杉山とに、「お前方は心残こゝろのこりのないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
 一行は暫しばらく四つ橋の傍そばに立ち止まつてゐた。
 其時平八郎が「どこへ死所しにどころを求めに往くにしても、大小だいせうを挿してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。
 格之助始はじめ、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差わきざしばかりになつた。
 それから平八郎の黙つて歩く跡あとに附いて、一同下寺町したでらまちまで出た。
 ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残なごりは尽きぬと云つて、暇乞いとまごひをした。
 後に白井は杉山を連れて、河内国かはちのくに渋川郡しぶかはごほり大蓮寺村たいれんじむらの伯父の家に往き、鋏はさみを借りて杉山と倶ともに髪を剪り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。
 そのうち下寺町したでらまちで火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。
 後に庄司は天王寺村てんわうじむらで夜を明かして、平野郷ひらのがうから河内かはち、大和やまとを経て、自分と前後して大和路やまとぢへ奔はしつた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。
 平八郎は暫く黙つてゐて答へた。
「いや先刻せんこくかんがへがあるとは云つたが、別にかうと極まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己おれは今暫く世の成行なりゆきを見てゐようと思ふ。尤もつとも間断かんだんなく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。
 これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途ごせんとを見届けます」と云つて、河内かはちから大和路やまとぢへ奔はしることを父子ふしに勧めた。
 四人の影は平野郷方角へ出る畑中道はたなかみちの闇やみの裏うちに消えた。

続く

森 鴎外  寒山拾得 舞姫 大塩平八郎 A B C 付録 山椒太夫 青年 高瀬舟 ヰタ・セクスアリス 書架へ