大塩平八郎  森 鴎外

一、西町奉行所
 天保てんぱう八年丁酉ひのととりの歳とし二月十九日の暁方あけがた七つ時どきに、大阪西町奉行所にしまちぶぎやうしよの門を敲たゝくものがある。
 西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手おほての方角から、内本町通うちほんまちどほりを西へ行つて、本町橋ほんまちばしに掛からうとする北側にあつた。
 此頃はもう四年前から引き続いての飢饉ききんで、やれ盗人ぬすびと、やれ行倒ゆきだふれと、夜中やちゆうも用事が断えない。
 それにきのふの御用日ごようびに、月番つきばんの東町ひがしまち奉行所へ立会たちあひに往つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅ほりいがのかみとしかたは何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力にしぐみよりき吉田勝右衛門かつゑもんを呼び寄せて、長い間密談をした。
 それから東町奉行所との間に往反わうへんして、けふ十九日にある筈はずであつた堀の初入式しよにふしきの巡見が取止とりやめになつた。
 それから家老中泉撰司なかいづみせんしを以もつて、奉行所詰ぶぎやうしよづめのもの一同に、夜中やちゆうと雖いへども、格別に用心するやうにと云ふ達たつしがあつた。
 そこで門を敲たゝかれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
 門外に来てゐるのは二人にんの少年であつた。
 一人にんは東組町同心どうしん吉見九郎右衛門よしみくらうゑもんの倅せがれ英太郎えいたらう、今一人は同組同心河合郷左衛門かはひがうざゑもんの倅八十次郎やそじらうと名告なのつた。
 用向ようむきは一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状そじやうを持参したのを、ぢきにお奉行様ぶぎやうさまに差し出したいと云ふことである。
 上下共じやうげとも何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。
 門番は猶予いうよなく潜門くゞりもんをあけて二人の少年を入れた。
 まだ暁あかつきの白しらけた光が夜闇よやみの衣きぬを僅わづかに穿うがつてゐる時で、薄曇うすぐもりの空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。
 英太郎えいたらうは十六歳、八十次郎やそじらうは十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付かきつけがあるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐ふところを指ゆびさした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅せがれか。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体いつたい東のお奉行所附づきのものの書付かきつけなら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎やそじらうの方に向いた。
「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違まちがひの無いやうに二人ふたりで往けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様おやぢさまは承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切きり、帰つて来ません。」
「さうか。」
 門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。
 吉見の父が少年二人を密訴みつそに出したので、門番も猜疑心さいぎしんを起さずに応対して、却かへつて運びが好かつた。
 門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉なかいづみに届ける。
 中泉が堀に申し上げる。
 間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状そじやうを受け取つた。
 堀は前役ぜんやく矢部駿河守定謙やべするがのかみさだかたの後のちを襲いで、去年十一月に西町奉行になつて、やうやう今月二日に到着した。
 東西の町奉行は月番交代つきばんかうたいをして職務を行おこなつてゐて、今月は堀が非番ひばんである。
 東町奉行跡部山城守良弼あとべやましろのかみよしすけも去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎に角かく一日じつの長ちやうがあるので、堀は引き廻まはして貰もらふと云ふ風になつてゐる。
 町奉行になつて大阪に来たものは、初入式しよにふしきと云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。
 初度しよどが北組きたぐみ、二度目が南組、三度目が天満組てんまぐみである。
 北組、南組とは大手前おほてまへは本町通ほんまちどほり北側、船場せんばは安土町通あづちまちどほり、西横堀にしよこぼり以西は神田町通かんだまちどほりを界さかひにして、市中を二分してあるのである。
 天満組てんまぐみとは北組の北界きたざかひになつてゐる大川おほかはより更に北方に当る地域で、東は材木蔵ざいもくぐらから西は堂島だうじまの米市場こめいちばまでの間、天満てんまの青物市場あをものいちば、天満宮てんまんぐう、総会所そうくわいしよ等を含んでゐる。
 北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。
 予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮とうせうぐう附近の与力町よりきまちに出て、夕ゆふ七つ時どきには天満橋筋長柄町ながらまちを東に入る北側の、迎方むかへかた東組与力朝岡助之丞あさをかすけのじようが屋敷で休息するのであつた。
 迎方むかへかたとは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力まちよりき同心どうしんの総代として祝詞しゆくしを述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許てもとの用を達す与力一人にん同心二人にんで、朝岡は其与力である。
 然しかるにきのふの御用日の朝、月番跡部あとべの東町奉行所へ立会たちあひに往くと、其前日十七日の夜東組同心平山助次郎ひらやますけじらうと云ふものの密訴みつその事を聞せられた。
 一大事と云ふ詞ことばが堀の耳を打つたのは此時このときが始はじめであつた。
 それからはどんな事が起つて来るかと、前晩ぜんばんも殆ほとんど寝ずに心配してゐる。
 今中泉なかいづみが一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。
 堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付かきつけの内容は、未知みちの事の発明ではなくて、既知きちの事の証験しようけんとして期待せられてゐるのである。
 堀は訴状を披見ひけんした。
 胸を跳をどらせながら最初から読んで行くと、果はたしてきのふ跡部あとべに聞いた、あの事である。
 陰謀いんぼうの首領しゆりやう、その与党よたうなどの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。
 長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲みがこひである。
 堀が今少しく精くはしく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼ぎく、愁訴しうそである。
 きのふから気に掛かつてゐる所謂いはゆる一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動やゝもすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。
 はつと思つては又読み返す。
 やうやう読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈だけの事が残つた。
 陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門わたなべりやうざゑもん、同組同心河合郷左衛門かはひがうざゑもんとの三人は首領を諫いさめて陰謀を止めさせようとした。
 併しかし首領が聴かぬ。
 そこで河合は逐電ちくてんした。
 筆者は正月三日後に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以もつて首領にことわらせた。
 此体このていでは事を挙げられる日になつても所詮しよせん働く事は出来ぬから、切腹して詫びようと云つたのである。
 渡辺は首領の返事を伝へた。
 そんならゆるゆる保養しろ。
 場合によつては立ち退けと云ふことである。
 これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。
 次いで首領は倅せがれと渡辺とを見舞によこした。
 筆者は病中やうやうの事で訴状を書いた。
 それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次とりつぎを頼むべき人が無い。
 そこで隔所かくしよを見計みはからつて托訴たくそをする。
 筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免しやめんを願ひたい。
 尤もつとも自分は与党よたうを召し捕られる時には、矢張やはり召し捕つて貰もらひたい。
 或は其間そのあひだに自殺するかも知れない。
 留置とめおき、預あづけなどゝ云ふことにせられては、病体で凌しのぎ兼ねるから、それは罷やめにして貰ひたい。
 倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質ひとじちのやうになつてゐて帰つて来ない。
 兎に角かく自分と一族とを赦免しやめんして貰ひたい。
 それから西組与力見習よりきみならひに内山彦次郎うちやまひこじらうと云ふものがある。
 これは首領に嫉にくまれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
 読んでしまつて、堀は前から懐いだいてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑ぶべつの念を起さずにはゐられなかつた。
 形式に絡からまれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠かへりちゆうを、真まことの忠誠だと看ることは、生うまれ附いた人間の感情が許さない。
 その上自分の心中の私わたくしを去ることを難かたんずる人程却かへつて他人の意中の私わたくしを訐あばくに敏びんなるものである。
 九郎右衛門は一しよに召し捕られたいと云ふ。
 それは責せめを引く潔いさぎよい心ではなくて、与党を怖おそれ、世間を憚はゞかる臆病である。
 又自殺するかも知れぬと云ふ。
 それは覚束おぼつかない。
 自殺することが出来るなら、なぜ先づ自殺して後に訴状を貽のこさうとはしない。
 又牢に入れてくれるなと云ふ。
 大阪の牢屋から生きて還かへるものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入らずに済めば入るまいとする筈である。
 横着者わうちやくものだなとは思つたが、役馴やくなれた堀は、公儀こうぎのお役に立つ返忠かへりちゆうのものを周章しうしやうの間にも非難しようとはしない。
 家老に言ひ付けて、少年二人を目通めどほりへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧れいりらしい目を見張つて、存外怯おくれた様子もなく堀を仰あふぎ視た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪ふうじやの跡あとで持病の疝痛せんつう痔疾ぢしつが起りまして、行歩ぎやうほが叶かなひませぬ。」
「書付かきつけにはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄までに脱けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合八十次郎やそじらうと相談いたしまして、昨晩四つ時どきに抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢おほぜいありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤つぐんだ。
 堀は暫しばらく待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。
「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田済之助せいのすけ、同小泉淵次郎えんじらうの二人が連判れんぱんに加はつてゐると云ふことは、平山の口上こうじやうにもあつたのである。
 堀は八十次郎の方に向いた。
「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬ほゝの円まるい英太郎と違つて、これは面長おもながな少年であるが、同じやうに小気こきが利いてゐて、臆おくする気色けしきは無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸ひばしで打擲ちやうちやくせられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助きんのすけを連れて、天満宮てんまんぐうへ参ると云つて出ましたが、それ切きりどちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜よろしい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色けしきを伺つた。
「番人を附けて留め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
 堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙いそがしげに手紙を書き出した。
 これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人そにんがあつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附おつつけ参上すると書いたのである。
 堀はそれを持たせて使つかひを出した跡あとで、暫く腕組うでぐみをして強ひて気を落ち着けようとしてゐた。
 堀はきのふ跡部あとべに陰謀者の方略はうりやくを聞いた。
 けふの巡見を取り止めたのはそのためである。
 然しかるに只たゞ三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。
 吉見が未明に倅せがれを托訴たくそに出したのを見ると方略を知らぬのではない。
 書き入れる暇ひまがなかつたのだらう。
 東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈てはずを話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。
 それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅やくたくに休息してゐる所へ襲おそつて来ようと云ふのである。
 一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文げきぶんにはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖そでの中から出した。
 堀は不安らしい目附めつきをして、二つの文書ぶんしよをあちこち見競みくらべた。
 陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部あとべの所へ往かずに書面を遣つたが、安座して考へても、思案が纏まとまらない。
 併しかし何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
 訴状には「御城おんしろ、御役所おんやくしよ、其外そのほか組屋敷等くみやしきとう火攻ひぜめの謀はかりごと」と書いてある。
 檄文げきぶんには無道むだうの役人を誅ちゆうし、次に金持の町人共を懲こらすと云つてある。
 兎に角かく恐ろしい陰謀である。
 昨晩跡部からの書状には、慥たしかな与力共の言分いひぶんによれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼かねて打ち合せたやうに捕方とりかたを出すことは見合みあはせてくれと云つてあつた。
 それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。
 併し数人すにんの申分まをしぶんがかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。
 跡部はどうする積つもりだらうか。
 手紙を遣つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。
 こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。
二、東町奉行所
 東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼あとべやましろのかみよしすけが堀の手紙を受け取つたのは、明あけ六つ時どき頃であつた。
 大阪の東町奉行所は城の京橋口きやうばしぐちの外、京橋通どほりと谷町たにまちとの角屋敷かどやしきで、天満橋てんまばしの南詰みなみづめ東側にあつた。
 東は城、西は谷町の通である。
 南の島町通しままちどほりには街を隔てて籾蔵もみぐらがある。
 北は京橋通の河岸かしで、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。
 只たゞ庭の外囲ぐわいゐに梅の立木たちきがあつて、少し展望を遮さへぎるだけである。
 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。
 きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴みつそした陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部あとべは東組与力の中で、あれかこれかと慥たしかなものを選り抜いて、とうとう荻野勘左衛門をぎのかんざゑもん、同人どうにんせがれ四郎助しろすけ、磯矢頼母いそやたのもの三人を呼び出した。
 頼母たのもと四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。
「あの先生は学問はえらいが、肝積持かんしやくもちで困ります」などと、四郎助が云つたこともある。
「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激げきして来て、六寸もある金頭かながしらを頭からめりめりと咬ん食べたさうでございます」と云つた。
 それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入ねんいりにしてゐる。
 そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
 さて捕方とりかたの事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良やゝ久しく顔を見合せて考へた上で云つた。
 平山が訴うつたへはいかにも実事じつじとは信ぜられない。
 例の肝積持かんしやくもちの放言を真に受けたのではあるまいか。
 お受うけはいたすが、余所よそながら様子を見て、いよいよ実正じつしやうと知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。
 後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目のあたり見た跡部は、一層切実に忌々いまいましい陰謀事件が嘘うそかも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。
 そこで逮捕を見合せた。
 跡部は荻野をぎの等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精くはしく聞いて置けば好かつたと後悔した。
 をとつひの夜平山が来て、用人ようにん野々村次平に取り次いで貰もらつて、所謂いはゆる一大事の訴うつたへをした時、跡部は急に思案して、突飛とつぴな手段を取つた。
 尋常なら平山を留め置いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。
 若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼おそれ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許こゝろもとないと思つたのである。
 そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守するがのかみ定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。
 平山はきのふ暁あけ七つ時どきに、小者こもの多助たすけ、雇人やとひにん弥助やすけを連れて大阪を立つた。
 そして後のち十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸やしきに着いた。
 意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞ことばをたやすく聴き納れて、逮捕の事を見合みあはせたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼ぎくが生じて来た。
 延期は自分が極めて堀に言つて遣つた。
 若し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免まぬかれて自分は免れぬのである。
 跡部が丁度この新あらたに生じた疑懼ぎくに悩まされてゐる所へ、堀の使つかひが手紙を持つて来た。
 同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人そにんが出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。
 跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。
 此決心には少し不思議な処がある。
 堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。
 瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。
 さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴うつたへで聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。
 これには決心を促うながす動機としての価値は殆ほとんど無い。
 然しかるにその決心が跡部には出来て、前には腫物はれものに障さはるやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。
 これは一昨日の夜平山の密訴みつそを聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
 跡部は荻野等を呼んで、二人にんを捕とらへることを命じた。
 その手筈てはずはかうである。
 奉行所に詰めるものは、先づ刀を脱だつして詰所つめしよの刀架かたなかけに懸ける。
 そこで脇差わきざしばかり挿してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下たゝみらうかに抜いて置いて、無腰むこしで御用談ごようだんの間に出る。
 この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。
 併しかし万一の事があつたら切り棄てる外ほかないと云ふので、奉行所に居合ゐあはせた剣術の師一条一いちでうはじめが切棄きりすての役を引き受けた。
 さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。
 それを聞いた時、瀬田は「暫時ざんじ御猶予ごいうよを」と云つて便所に起つた。
 小泉は一人いつもの畳廊下たゝみらうかまで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。
 此畳廊下の横手に奉行の近習きんじゆ部屋がある。
 小泉が脇差を下に置くや否いなや、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。
「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴つかんだ。
 引き合ふはずみに鞘走さやはしつて、とうとう、小泉が手に白刃しらはが残つた。
 様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間まで踏み出した小泉の背後うしろから、一条が百会ひやくゑの下へ二寸程切り附けた。
 次に右の肩尖かたさきを四寸程切り込んだ。
 小泉がよろめく所を、右の脇腹わきはらへ突つきを一本食はせた。
 東組与力小泉淵次郎えんじらうは十八歳を一期いちごとして、陰謀第一の犠牲として命いのちを隕おとした。
 花のやうな許嫁いひなづけの妻があつたさうである。
 便所にゐた瀬田は素足すあしで庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀へいを乗り越した。
 そして天満橋てんまばしを北へ渡つて、陰謀の首領大塩平八郎おほしほへいはちらうの家へ奔はしつた。
三、四軒屋敷

 天満橋筋てんまばしすぢ長柄町ながらまちを東に入つて、角かどから二軒目の南側で、所謂いはゆる四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助おほしほかくのすけの役宅やくたくがある。
 主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫あをたいふの弟に生れたのを、養父平八郎が貰もらつて置いて、七年前にお暇いとまになる時、番代ばんだいに立たせたのである。
 併しかし此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
 玄関を上がつて右が旧塾きうじゆくと云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕したつて寄宿したものがある。
 左は講堂で、読礼堂どくれいだうと云ふ扁額へんがくが懸けてある。
 その東隣が後に他家たけを買ひ潰つぶして広げた新塾しんじゆくである。
 講堂の背後うしろが平八郎の書斎で、中斎ちゆうさいと名づけてある。
 それから奥、東照宮とうせうぐうの境内けいだいの方へ向いた部屋々々へやべやが家内かないのものの居所ゐどころで、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館きやうちゆうかんくわくわんと云ふ扁額へんがくが懸かつてゐる。
 これだけの建物の内に起臥きぐわしてゐるものは、家族でも学生でも、悉ことごとく平八郎が独裁の杖つゑの下もとに項うなじを屈してゐる。
 当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平ひらの学生に比べて、殆ほとんど何等なにらの特権をも有してをらぬのである。
 東町奉行所で白刃はくじんの下したを脱のがれて、瀬田済之助せいのすけが此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天せいてんの霹靂へきれきとして聞くやうな、平穏無事の光景ありさまではなかつた。
 家内中かないぢゆうの女子供をんなこどもはもう十日前に悉ことごとく立ち退かせてある。
 平八郎が二十六歳で番代ばんだいに出た年に雇つた妾めかけ、曾根崎新地そねざきしんちの茶屋大黒屋和市わいちの娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩しまの二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎ゆみたらうを附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立ち退かせたのである。
 女子供がをらぬばかりでは無い。
 屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。
 それは兼かねて門人の籍にゐる兵庫西出町にしでまちの柴屋長太夫しばやちやうだいふ、其外そのほか縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯しつさくをする度たびに、科料の代かはりに父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入つてからそれを悉ことごとく運び出させ、土蔵にあつた一切経いつさいきやうなどをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛かはちやきへゑ、同新次郎しんじらう、同記一兵衛きいちべゑ、同茂兵衛もへゑの四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀なんぎする人民に施ほどこすのだと云つて、安堂寺町あんだうじまち五丁目の本屋会所ほんやくわいしよで、親類や門下生に縁故のある凡およそ三十三町村のもの一万軒に、一軒けん一朱しゆの割わりを以もつて配つた。
 質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家うちはがらんとしてしまつた。
 今一つ此家の外貌が傷きずつけられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。
 町与力まちよりきは武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組たまつくりぐみ与力柴田勘兵衛しばたかんべゑの門人で、佐分利流さぶりりうの槍やりを使ふ。
 当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎ふぢしげまごさぶらうの門人で、中島流の大筒おほづゝを打つ。
 中にも砲術家は大筒をも貯たくはへ火薬をも製する習ならひではあるが、此家では夫それが格別に盛さかんになつてゐる。
 去年九月の事であつた。
 平八郎は格之助の師藤重ふぢしげの倅せがれ良左衛門りやうざゑもん、孫槌太郎つちたらうの両人を呼んで、今年の春堺さかひ七堂だうが浜はまで格之助に丁打ちやううちをさせる相談をした。
 それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締とじまりをして、塾生を使つて火薬を製させる。
 棒火矢ぼうひや、炮碌玉はうろくだまを作らせる。
 職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。
 火矢ひやの材木を挽き切つた天満北木幡町てんまきたこばたまちの大工作兵衛さくべゑなどがそれである。
 かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。
 大筒おほづゝは人から買ひ取つた百目筒ひやくめづゝが一挺ちやう、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村もりぐちむらの百姓兼質商白井孝右衛門しらゐかうゑもんが土蔵の側そばの松の木を伐つて作つた木筒きづゝが二挺ある。
 砲車はうしやは石を運ぶ台だと云つて作らせた。
 要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々げんしようやうやうの地が次第に喧噪けんさうと雑踏 ざつたふとを常とする工場こうぢやうになつてゐたのである。
 家がそんな摸様もやうになつてゐて、そこへ重立おもだつた門人共の寄り合つて、夜の更けるまで還らぬことが、此頃次第に度重たびかさなつて来てゐる。
 昨夜は隠居と当主との妾めかけの家元、摂津せつつ般若寺村はんにやじむらの庄屋橋本忠兵衛、物持ものもちで大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村もりぐちむらの百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門しやうじぎざゑもん、同組同心の倅近藤梶五郎かぢごらう、般若寺村の百姓柏岡かしはをか源右衛門、同倅伝七でんしち、河内かはち門真もんしん三番村の百姓茨田郡次いばらたぐんじの八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々をりをりいつもの人を圧伏あつぷくするやうな調子の、隠居の声が漏れた。
 平生最も隠居に親したしんでゐる此八人の門人は、とうとう屋敷に泊まつてしまつた。
 此頃は客があつてもなくても、勝手の為事しごとは、兼て塾の賄方まかなひかたをしてゐる杉山三平すぎやまさんぺいが、人夫を使つて取り賄まかなつてゐる。
 杉山は河内国かはちのくに衣摺村きぬすりむらの庄屋で、何か仔細しさいがあつて所払ところばらひになつたものださうである。
 手近な用を達すのは、格之助の若党大和国やまとのくに曾我村生そがむらうまれの曾我岩蔵いはざう、中間ちゆうげん木八きはち、吉助きちすけである。
 女はうたと云ふ女中が一人、傍輩はうばいのりつがお部屋に附いて立ち退いた跡あとで、頻しきりに暇いとまを貰もらひたがるのを、宥なだめ賺すかして引き留めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。
 そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方まかなひかた杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔などがゐたのである。
 瀬田済之助せいのすけはかう云ふ中へ駆け込んで来た。

続く

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