戻る
      十、城

 けふの騒動が始はじめて大阪の城代じやうだい土井の耳に入つたのは、東町奉行跡部あとべが玉造口定番たまつくりぐちぢやうばん遠藤に加勢を請うた時の事である。
 土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。
 丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰さたを受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時どきに定番ぢやうばん、大番おほばん、加番かばんの面々を呼び集めた。
 城代土井は下総しもふさ古河こがの城主である。
 其下に居る定番ぢやうばん二人ににんのうち、まだ着任しない京橋口定番米倉よねくらは武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江あふみ三上みかみの城主である。
 定番の下には一年交代の大番頭おほばんがしらが二人ゐる。
 東大番頭は三河みかは新城しんじやうの菅沼織部正定忠すがぬまおりべのしやうさだたゞ、西大番頭は河内かはち狭山さやまの北条遠江守氏春とほたふみのかみうぢはるである。
 以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。
 大番頭の下には各組頭くみがしら四人、組衆くみしゆう四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。
 京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。
 これ丈だけでは守備が不足なので、幕府は外様とざまの大名に役知やくち一万石宛づゝを遣つて加番かばんに取つてゐる。
 山里丸やまざとまるの一加番が越前大野の土井能登守利忠どゐのとのかみとしたゞ、中小屋なかごやの二加番が越後与板よいたの井伊右京亮直経うきやうのすけなほつね、青屋口あをやぐちの三加番が出羽では長瀞ながとろの米津伊勢守政懿よねづいせのかみまさよし、雁木坂がんきざかの四加番が播磨はりま安志あんじの小笠原信濃守長武しなのゝかみながたけである。
 加番は各物頭ものがしら五人、徒目付かちめつけ六人、平士ひらざむらひ九人、徒かち六人、小頭こがしら七人、足軽あしがる二百二十四人を率ひきゐて入城する。
 其内に小筒こづゝ六十挺ちやう弓二十張はりがある。
 又棒突足軽ぼうつきあしがるが三十五人ゐる。
 四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。
 定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
 定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正しやう九つ時どきに城内を巡見するから、それまでに各かく持口もちくちを固めるやうにと言ひ付けた。
 それから士分のものは鎧櫃よろひゞつを担かつぎ出す。
 具足奉行ぐそくぶぎやう上田五兵衛は具足を分配する。
 鉄砲奉行石渡彦太夫いしわたひこだいふは鉄砲玉薬てつぱうたまくすりを分配する。
 鍋釜なべかまの這入はひつてゐた鎧櫃よろひびつもあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方ひとかたならぬ混雑であつた。
 九つ時になると、両大番頭おほばんがしらが先導になつて、土井は定番ぢやうばん、加番かばんの諸大名を連れて、城内を巡見した。
 門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。
 どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。
 土井は暮くれ六つ時どきに改めて巡見することにした。
 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎あまがさき、岸和田きしわだ、高槻たかつき、淀よどなどから繰り出した兵が到着してゐる。
 坤ひつじさるに開ひらいてゐる城の大手おほては土井の持口もちくちである。
 詰所つめしよは門内の北にある。
 門前には柵さくを結ひ、竹束たけたばを立て、土俵を築き上げて、大筒おほづゝ二門を据ゑ、別に予備筒よびづゝ二門が置いてある。
 門内には番頭ばんがしらが控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。
 南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄とほたふみのかみたゞよしの一番手三百三十余人が西向に陣取る。
 略ほゞ同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷うつり、次いで跡部あとべの要求によつて守口もりぐち、吹田すゐたへ往つた。
 後に郡山こほりやまの一二番手も大手に加はつた。
 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。
 西の丸の北、乾いぬゐの角すみに京橋口が開いてゐる。
 此口の定番の詰所は門内の東側にある。
 定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。
 大筒の数は大手と同じである。
 門外には岸和田から来た岡部内膳正長和ないぜんのしやうながかずの一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与ひだのかみなほともの手、其外そのほか淀の手が備へてゐる。
 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵えんせうぐらである。
 焔硝蔵と艮うしとらの角すみの青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋ごくらくばしが掛かつてゐる。
 極楽橋から這入はひつた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。
 本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。
 此門は加番米津が守つて、中小屋加番なかごやかばんの井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。
 青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂がんきざか加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。
 雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印うまじるしを立ててゐる。
 玉造口定番ぢやうばんの詰所は巽たつみに開いてゐる。
 玉造口の北側である。
 此門は定番遠藤が守つてゐる。
 これに高槻の手が加はり、後には郡山こほりやまの三番手も同じ所に附けられた。
 玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々しよ/\を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。
 夜に入つてからは、城の内外の持口々々もちくちもちぐちに篝火かゞりびを焚き連つらねて、炎焔えん/\てんを焦こがすのであつた。
 跡部の役宅やくたくには伏見奉行加納遠江守久儔かなふとほたふみのかみひさとも、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山まがりぶちかひのかみけいざんが、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。
 又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配てくばりは、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。
 吹田村すゐたむらで氏神うぢがみの神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩しまの所へ捕手とりての向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池ためいけに飛び込んだ。
 船手ふなて奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。
 城の兵備を撤てつしたのも二十一日である。
 朝五つ時に天満てんまから始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思おもひの外ほかにひろがつた。
 天満は東が川崎、西が知源寺ちげんじ、摂津国町つのくにまち、又二郎町またじらうまち、越後町、旅籠町はたごまち、南が大川、北が与力町を界さかひとし、大手前から船場せんばへ掛けての市街は、谷町たにまち一丁目から三丁目までを東界ひがしさかひ、上大かみおほみそ筋から下難波橋しもなんばばし筋までを西界にしさかひ、内本町うちほんまち、太郎左衛門町たらうざゑもんまち、西入町にしいりまち、豊後町ぶんごまち、安土町あづちまち、魚屋町うをやまちを南界みなみさかひ、大川、土佐堀川を北界きたさかひとして、一面の焦土となつた。
 本町橋ほんまちばし東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃えて来たので、夕ゆふ七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。
 丁度火消人足ひけしにんそくが谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮くれ六つ半はんに谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。
 鎮火したのは翌二十日の宵よひ五つ半である。
 町数まちかずで言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数いへかず、竈数かまどかずで言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災わざはひに罹かゝつたのである。

十一、二月十九日の後の一、信貴越

 大阪兵燹へいせんの余焔よえんが城内の篝火かがりびと共に闇やみを照てらし、番場ばんばの原には避難した病人産婦の呻吟しんぎんを聞く二月十九日の夜、平野郷ひらのがうのとある森蔭もりかげに体からだを寄せ合つて寒さを凌しのいでゐる四人があつた。
 これは夜の明けぬ間に河内かはちへ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早もはや一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子ふしと瀬田、渡辺とである。
 四人は翌二十日に河内かはちの界さかひに入つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道かんだうを東へ急いだ。
 さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。
 やうやう産土うぶすなの社やしろを見付けて駈け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏てあしまとひにならぬやうにすると云つて、手早く脇差わきざしを抜いて腹に突き立てた。
 左の脇腹に三寸余り切先きつさきが這入はひつたので、所詮しよせん助からぬと見極みきはめて、平八郎が介錯かいしやくした。
 渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅わづかに四十を越したばかりであつた。
 二十一日の暁あかつきになつても、大風雨は止みさうな気色けしきもない。
 平八郎父子ふしと瀬田とは、渡辺の死骸しがいを跡あとに残して、産土うぶすなの社やしろを出た。
 土地の百姓が死骸を見出して訴うつたへたのは、二十二日の事であつた。
 社のあつた所は河内国かはちのくに志紀郡しきごほり田井中村たゐなかむらである。
 三人は風雨を冒をかして、間道を東北の方向に進んだ。
 風雨はやうやう午頃ひるごろに息んだが、肌まで濡れ通とほつて、寒さは身に染みる。
 辛からうじて大和川やまとがはの支流幾つかを渡つて、夜に入つて高安郡たかやすごほり恩地村おんちむらに着いた。
 さて例の通とほり人家を避けて、籔陰やぶかげの辻堂を捜し当てた。
 近辺から枯枝かれえだを集めて来て、おそるおそる焚火たきびをしてゐると、瀬田が発熱ほつねつして来た。
 いつも血色の悪い、蒼白あをじろい顔が、大酒たいしゆをしたやうに暗赤色あんせきしよくになつて、持前の二皮目ふたかはめが血走ちばしつてゐる。
 平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々あひだあひだは焚火の前に蹲うづくまつて、現うつゝとも夢ゆめとも分からなくなつてゐる。
 ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱いで平八郎に襲かさねさせたので、誰よりも強く寒さに侵をかされたものだらう。
 平八郎は瀬田に、兎に角かく人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道たんぼみちを百姓家のある方へ往かせた。
 其後影うしろかげを暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。
 そして信貴越しぎごえの方角を志こゝろざして、格之助と一しよに、又間道かんだうを歩き出した。
 瀬田は頭がぼんやりして、体からだぢゆうの脈が鼓つゞみを打つやうに耳に響く。
 狭い田の畔道くろみちを踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。
 動やゝもすれば苅株きりかぶの間の湿しめつた泥に足を蹈み込む。
 やうやう一軒の百姓家の戸の隙すきから明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫しばらく休息させて貰もらひたいと云つた。
 雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭あから顔の爺いさんである。
 瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思おもひの外ほかこばまうともせずに、囲炉裏ゐろりの側そばに寄つて休めと云つた。
 婆あさんが草鞋わらぢを脱がせて、足を洗つてくれた。
 瀬田は火の側そばに横になるや否いなや、目を閉ぢてすぐに鼾いびきをかき出した。
 其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。
 瀬田は知らずにゐた。
 爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差わきざしを抜き取つた。
 そしてそれを持つて、家を駈け出した。
 行灯あんどうの下にすわつた婆あさんは、呆あきれて夫の跡あとを見送つた。
 瀬田は夢を見てゐる。
 松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限ちからかぎりけて行く。
 跡あとから大勢おほぜいの人が追ひ掛けて来る。
 自分の身は非常に軽くて、殆ほとんど鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。
 それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。
 瀬田は自分の足の早いのに頗すこぶる満足して、只たゞ追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。
 足音は急調きふてうに鼓つゞみを打つ様に聞える。
 ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。
 意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡くなつたのを知つた。
 そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確てきかくに判断することが出来た。
 瀬田は跳ね起きた。
 眩暈めまひの起おこりさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。
 そして前に爺いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。
 行灯あんどうの下もとの婆あさんは、又呆あきれてそれを見送つた。
 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹まうそうちくの大籔おほやぶがある。
 その奥を透かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。
 瀬田は堆うづたかく積もつた竹の葉を蹈んで、松の下に往つて懐ふところを探つた。
 懐には偶然捕縄とりなはがあつた。
 それを出してほぐして、低い枝に足を蹈み締めて、高い枝に投げ掛けた。
 そして罠わなを作つて自分の頸くびに掛けて、低い枝から飛び降りた。
 瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期さいごを遂げた。
 村役人を連れて帰つた爺いさんが、其夜そのよの中うちに死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守たんごのかみに届けた。
 平八郎は格之助の遅おくれ勝がちになるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和やまとの境さかひに入つた。
 それから日暮に南畑みなみはたで格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入はひつた。
 暫しばらくすると出て来て、「お前も頭を剃るのだ」と云つた。
 格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。
 親子が僧形そうぎやうになつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明あけ六つ頃であつた。
 寺にゐた間は平八郎が殆ほとんど一言ごんも物を言はなかつた。
 さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。
「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
 格之助も此このことばには驚いた。
「でも帰りましたら。」
「好いから黙つて附いて来い。」
 平八郎は足の裏が燃えるやうに逃げて来た道を、渇かつしたものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。
 傍はたから見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。
 格之助も寺で宵よひと暁あかつきとに温あたゝかい粥かゆを振舞ふるまはれてからは、霊薬れいやくを服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。
 併しかし一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考かんがへが念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。

十二、二月十九日後の二、美吉屋
 大阪油懸町あぶらかけまちの、紀伊国橋きのくにばしを南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋みよしやと云ふ手拭地てぬぐひぢの為入屋しいれやがある。
 主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外ほか、家内かないに下男げなん五人、下女げぢよ一人を使つてゐる。
 上下十人暮しである。
 五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向かつてむきの用を達したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰さたで町預まちあづけになつてゐる。
 此美吉屋みよしやで二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵よひの五つ過に表の門を敲たゝくものがある。
 主人が起きて誰たれだと問へば、備前島町びぜんしままち河内屋かはちや八五郎の使つかひだと云ふ。
 河内屋は兼かねて取引とりひきをしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜に入つて人をよこしたかと訝いぶかりながら、庭へ降りて潜戸くゞりどを開けた。
 戸があくとすぐに、衣の上に鼠色ねずみいろの木綿合羽もめんかつぱをはおつた僧侶が二人つと這入はひつて、低い声に力を入れて、早くその戸を締めろと指図した。
 驚きながら見れば、二人共僧形そうぎやうに不似合ふにあひな脇差わきざしを左の手に持つてゐる。
 五郎兵衛はがたがた震えて、返事もせず、身動きもしない。
 先に這入つた年上の僧が目食めくはせをすると、跡あとから這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除けて戸締とじまりをした。
 二人は縁えんに腰を掛けて、草鞋わらぢの紐ひもを解き始めた。
 五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。
 髪かみをおろして相好さうがうは変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。
「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
 二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸なんどの小部屋に案内した。
 五郎兵衛が、「どうなさる思召おぼしめしか」と問ふと、平八郎は只たゞ「当分厄介になる」とだけ云つた。
 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。
 併しかし平八郎の言ふことは、年来暗示あんじのやうに此爺いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮しよせん出来ない。
 其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇ゐかくの功を奏してゐる。
 五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃くわあうを未来に推し遣る工夫をするより外ない。
 そこで小部屋の襖ふすまをぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調とゝのへて運ぶことにした。
 一日立つ。
 二日立つ。
 いつは立ち退いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗うかゞつてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。
 心安こゝろやすい人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重ふすまひとへの先にお尋者たづねものを置くのが心配に堪へない。
 幸さいはひに美吉屋みよしやの家には、坤ひつじさるの隅すみに離座敷はなれざしきがある。
 周囲まはりは小庭こにはになつてゐて、母屋おもやとの間には、小さい戸口の附いた板塀いたべいがある。
 それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次ろじに附いてゐる。
 此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞おそれもない。
 そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。
 そして日々にちにち飯米はんまいを測はかつて勝手へ出す時、紙袋かみぶくろに取り分け、味噌みそ、塩しほ、香かうの物ものなどを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。
 それを親子炭火すみびで自炊じすゐするのである。
 兎角とかくするうちに三月になつて、美吉屋みよしやにも奉公人の出代でかはりがあつた。
 その時女中の一人が平野郷ひらのがうの宿元やどもとに帰つてこんな話をした。
 美吉屋では不思議に米が多くいる。
 老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供そなへるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
 平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家しちめいかと云ふ土着のものが支配してゐる。
 其中の末吉すゑよし平左衛門、中瀬なかせ九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷がうの陣屋ぢんやに訴へた。
 陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。
 土井が立入与力たちいりよりき内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。
 立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許もとへ出して用を聞せる与力である。
 五郎兵衛は内山に糺問きうもんせられて、すぐに実を告げた。
 土井は大目附時田肇ときだはじめに、岡野小右衛門こゑもん、菊地鉄平、芹沢せりざは啓次郎、松高縫蔵まつたかぬひざう、安立讃太郎あだちさんたらう、遠山とほやま勇之助、斎藤正五郎しやうごらう、菊地弥六やろくの八人を附けて、これに逮捕を命じた。
 三月二十六日の夜四つ半時はんどき、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度したくをして中屋敷に集合させた。
 中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒いけどりにするやうにと云ふ城代の注文を告げた。
 岡野某は相談して、時田から半棒はんぼうを受け取つた。
 それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤くじで極めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。
 岡野は重ねて、自分は齢よはひ五十歳を過ぎて、跡取あととりの倅せがれもあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰もらつて、次の二番から八番までの籤くじを人々に引かせたいと云つた。
 これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
 二十七日の暁あけ八つ時どき過、土井の家老鷹見たかみ十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附へやめつけ鳥巣とす彦四郎を添へて、偵察に遣ることを告げた。
 岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見たかみの処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。
 七つ半過に鳥巣とすが中屋敷なかやしきに来て、内山の口上を伝へて、本町ほんまち五丁目の会所くわいしよへ案内した。
 時田以下の九人は鳥巣とすを先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。
 暫しばらく本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。
 油懸町あぶらかけまちの南裏通みなみうらどほりである。
 信濃町しなのまちでは、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口ひがしおもてぐちに向ふ追手おつてと、西裏口にしうらぐちに向ふ搦手からめてとに分れることになつた。
 追手おつては内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手からめては同心二人、遠山、安立あだち、芹沢せりざは、斎藤、時田の七人である。
 此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次ひだこでんじ、永瀬ながせ七三郎三人の率ゐた火消人足ひけしにんそくに前以まへもつて取り巻かせてある美吉屋みよしやへ、六つ半時に出向いた。
 搦手からめては一歩先に進んで西裏口を固めた。
 追手おつては続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。
 内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。
 鉄平は一人では心元こゝろもとないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
 追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。
「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。
 お前は板塀いたべいの戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。
 内の五郎兵衛はお預あづけになつてゐるので、今家財改かざいあらためのお役人が来られた。
 どうぞちよいとの間裏うらの路次口ろじぐちから外へ出てゐて下さいと云ふのだ。
 間違へてはならぬぞ」と云つた。
 つねは顔色が真つ蒼さをになつたが、やうやう先に立つて板塀の戸口に往つて、もしもしと声を掛けた。
 併しかし教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
 暫くすると戸口が細目に開いた。
 内から覗のぞいたのは坊主頭ばうずあたまの平八郎である。
 平八郎は捕手とりてと顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
 岡野等は戸を打ちこはした。
 そして戸口から岡野が呼び掛けた。
「平八郎卑怯ひけふだ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷はなれざしきの雨戸の内から叫んだ。
 岡野等は暫しばらくためらつてゐた。
 表口おもてぐちの内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立ち退いた跡あとで暫しばらく待つてゐたが、板塀いたべいの戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形かぎがたになつてゐる表の庭を、縁側の角すみに附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜よろしうございませう」と同心が答へた。
 鉄平は戸口をつと這入はひつて、正面にある離座敷はなれざしきの雨戸を半棒はんぼうで敲たゝきこはした。
 戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭にほひがした。
 鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
 離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆おほひ、間内まうちの障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。
 雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃えながら庭へ落ちた。
 死骸らしい物のある奥の壁際かべぎはに、平八郎は鞘さやを払つた脇差わきざしを持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手とりてを見て、其刃やいばを横に吭のどに突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
 投げた脇差は、傍輩はうばいと一しよに半棒で火を払ひ除けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟えりから袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。
 弥六の襟、袖、手首には、灑そゝぎ掛けたやうに血が附いた。
 火は次第に燃えひろがつた。
 捕手は皆焔ほのほを避けて、板塀の戸口から表庭おもてにはへ出た。
 弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。
 鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。
 併しかし火が強くて取りに往くことが出来ない。
 そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔つばがありますから、引つ掛けて掻き寄せませう」と云つた。
 脇差は旨うまく掻き寄せられた。
 柄つかは茶糸巻ちやいとまきで、刃が一尺八寸あつた。
 搦手からめては一歩先に西裏口にしうらぐちに来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真ん中なかに道を開け、逃げ出したら挟撃はさみうちにしようと待つてゐた。
 そのうち余り手間取てまどるので、安立、遠山、斎藤の三人が覗のぞきに這入つた。
 離座敷には人声がしてゐる。
 又持場もちばに帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。
 三人が又覗のぞきに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。
 そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。
 併しかし火気が熾さかんなので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
 そこへ内山が来て、「もう跡あとは火を消せば好いのですから、消防方せうばうかたに任せてはいかがでせう」と云つた。
 遠山が云つた。
「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
 遠山はかう云つて、傍輩はうばいと一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方せうばうかたが段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
 総年寄そうどしより今井が火消人足ひけしにんそくを指揮して、焼けた材木を取り除けさせた。
 其下から吉兵衛と云ふ人足が先づ格之助らしい死骸を引き出した。
 胸が刺し貫つらぬいてある。
 平生歯が出てゐたが、其歯を剥き出してゐる。
 次に平八郎らしい死骸が出た。
 これは吭のどを突いて俯伏うつぶしてゐる。
 今井は二つの死骸を水で洗はせた。
 平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋うづまつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体めんていを見定めた。
 格之助は創きずの様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。
 今井は近所の三宅みやけといふ医者の家から、駕籠かごを二挺ちやう出させて、それに死骸を載せた。
 二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜たかはらたまりへ送られた。
 道筋には見物人の山を築きづいた。
十三、二月十九日後の三、評定

 大塩平八郎が陰謀事件の評定ひやうぢやうは、六月七日に江戸の評定所ひやうぢやうしよに命ぜられた。
 大岡紀伊守忠愛きいのかみたゞちかの預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同おなじく英太郎、河合八十次郎やそじらう、大井正一郎、安田図書やすだづしよ、大西与五郎よごらう、美吉屋みよしや五郎兵衛、同おなじくつね、其外そのほか西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗わうばくの僧剛嶽がうがく、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人ぐわんにん冷月れいげつ、西村の死骸を葬はうむつた浅草遍照院へんせうゐんの所化しよけ尭周げうしう等が呼び出されて、七月十六日から取調とりしらべが始まつた。
 次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。
 罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏うるふ四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
 平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田いばらだ、高橋、父柏岡かしはをか、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津せつゝ森小路村もりこうぢむらの医師横山文哉ぶんさい、同国猪飼野村ゐかひのむらの百姓木村司馬之助しまのすけとの十九人、それから返忠かへりちゆうをし掛けて遅疑ちぎした弓奉行組ゆみぶぎやうぐみ同心小頭どうしんこがしら竹上たけがみ万太郎は磔はりつけになつた。
 然しかるに九月十八日に鳶田とびたで刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一人にんである。
 他の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼かの江戸へ廻された大井迄悉ことごとく牢死したので、磔柱はりつけばしらには塩詰しほづめの死骸を懸けた。
 中にも平八郎父子ふしは焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。
 西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀こぼたれた。
 松本、堀井、杉山、曾我そが、植松うゑまつ、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間ちゆうげん浅佶あさきち、深尾の募集に応じた尊延寺村そんえんじむらの百姓忠右衛門と無宿むしゆく新右衛門とは獄門ごくもん、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門かうゑもんの甥をひ儀次郎ぎじらう、般若寺村はんにやじむらの百姓卯兵衛うへゑは死罪、平八郎の妾めかけゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の倅せがれで、穉をさない時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島ゑんたう、安田と杉山を剃髪させた同人どうにんの伯父、河内かはち大蓮寺たいれんじの僧正方しやうはう、西村の逃亡を助けた同人の姉婿あねむこ、堺の医師寛輔くわんぽの二人にんとは追放になつた。
 併しかし此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
 密訴みつそをした平山と父吉見とは取高とりだかの儘まゝ譜代席小普請入ふだいせきこぶしんいりになり、吉見英太郎、河合八十次郎やそじらうは各おのおの銀五十枚を賜たまはつた。
 此中このうちで酒井大和守忠嗣やまとのかみたゞつぐへ預替あづけがへになつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所つめしよの棚の刀箱かたなばこから脇差を取り出して自殺した。
 城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。
 中にも坂本鉉之助げんのすけは鉄砲方てつぱうかたになつて、目見以上めみえいじやうの末席ばつせきに進められた。
 併し両町奉行には賞与がなかつた。

終わり 付録へ