義経記  巻第八

 目録 継信兄弟御弔ひの事 秀衡死去の事
     秀衡が子供判官殿に謀反の事
     鈴木の三郎重家高館へ参る事 衣河合戦の事
     判官御自害の事 兼房が最期の事 秀衡が子供御追討の事

継信兄弟御弔の事

 さる程に判官殿高館に移らせ給ひて後、佐藤庄司が後家の許へも折々御使遣はされ、憐み給ふ。
 人々奇異の思ひをなす。
 或る時武蔵を召して仰せられけるは、継信忠信兄弟が跡を弔はせ給ふべき由仰せられける。
「其の次に四国西国にて討死したる者共、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば名張に入れて弔へ」と仰せくださるる。
 弁慶涙を流し、
「尤も忝候ふ。上として斯様に思し召さるる事、誠に延喜天暦の帝と申すとも、如何でか斯様には渡らせ御座しまし候はん。急ぎ思し召し立ち給へ」と申しければ、さらば貴僧達を請じ、仏事執り行ふべき由仰せ付けらる。
 武蔵此の事秀衡に申しければ、入道も且は御志の程を感じ、且は彼等が事を今一入不便に思ひ、しきりに涙にぞ咽びける。
 兄弟の母尼公の方へも御使有りけり。
 孫共後家共引き具して参る。
 御志の余りに御自筆にも法華経遊ばされ、弔はせ給ふ。
 有り難き例には人々申しあへり。
 尼公申されけるは、
「兄弟の者の孝養、誠に身においては有り難き御志、又は死後の名何事か是に越え申すべし。是程の御志を、此の世に存命へて候はば、如何ばかりか忝ひ参らせ候はんといよいよ涙つくし難く候ふ。然れども今は思ひ切り参らせ候ふ。幼き者共を相続き君へ参らせ候はん、未だ童名にて候ふ」と申しければ、判官、
「それは秀衡が名をも付くべけれども、兄弟の者共の名残形見なれば、義経名を付けべし。さりながらも秀衡に聞かせよ」と仰せられて、御使有りければ、入道承り、
「内々申し上げたき折節候ふ。恐れ入るばかりに候ふ」と申しければ、
「さらば秀衡計らひて」と宣へば、秀衡、
「承る」と申して、髪取り上げ、烏帽子著せ、御前に畏まる。
 判官御覧じて、継信が若をば佐藤三郎吉信、忠信が子をば佐藤四郎義忠と付け給ふ。
 尼公斜ならず悦び、
「如何に和泉の三郎、予て申せし物、我が君へ奉れ」と申しければ、佐藤の家に伝はれる重代の太刀を進上す。
 北の方へは唐綾の御小袖、巻絹など取り添へて奉る。
 其の外侍達にもそれぞれに参らせける。
 尼公いとど涙に咽び、
「あはれ同じくは兄弟の者共御供して下り、御前にて孫共に烏帽子を著せなば、如何ばかり嬉しからまし」と流涕焦れければ、二人の嫁も亡き人の事を一入思ひ出だし、別れし時の様に、声も惜しまず悲しみけり。
 君も哀れに思し召し、御涙を流させ給ふ。
 御前なりし人々、秀衡は申すに及ばず、袂を顔に押し当てて、各々涙をぞ流しける。
 判官盃取り上げ給ひ、吉信に下さる。
 盃のけうはい、当座の会釈、誠に大人しく見えければ、
「さても継信によくも似たるものかな。汝が父屋嶋にて義経が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人目を驚かし、類有らじと言ひしが、実に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、かかる例なしとて、三国一の剛の者と言はれしぞかし。今日よりしては、義経を父と思へ」と仰せられて、御座近く召されて、後の髪を撫でさせ給ひ、御涙堰き敢へ給はず。
 其の時亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾の十郎、権守、荒き弁慶を始めとして、声を立ててぞ泣きにける。
 暫く有りて御涙を止め、義忠に御盃下され、
「汝が父、吉野山にて大衆追つ掛けたりしに、義経を庇ひ、一人峰に留まらんと言ひしを、義経も留めん事を悲しみ、一所にと千度百度言ひしに、侍の言葉は綸言にも同じ。猶し汗の如しとて、既に自害せんとせし儘に、力及ばず、一人峰に残し置きたりしに、数百人の敵を六七騎にて防ぎ、剰へ鬼神の様に言はれし横川の覚範を討ち取り、都に上り、江馬の小四郎を引き受け、其の所をも切り抜けしに、普通の者ならば、それより是へ下るべきに、義経を慕ひ、在所を知らずして、六条堀河の古き宿所に帰り来て、義経を見ると思ひて、是にて腹を切らんとて、自害したりし志、何時の世に忘るべき。例無き志、剛の者とて鎌倉殿も惜しみ給ひ、孝養し給ふと聞く。汝も忠信に劣るまじき者かな」とて、又御落涙有りけり。
 判官伊勢の三郎を召して、小桜威、卯花威の鎧を二人に下されけり。
 尼公涙を止めて、
「あら有りがたの御諚や。侍程剛にても剛なるべき者はなし。我が子ながらも剛ならずは、斯程までは御諚もあるまじ。汝等も成人仕り、父共が如く、君の御用に立ち、名を後代に上げよ。不忠を仕らば、父に劣れる者とて傍輩達に笑はれんぞ。後指を指されば、家の傷なるべし。御前にて申すぞ。よく承り止めよ」とぞ申しける。
 各々是を聞きて、
「兄弟が剛なりしも道理かな。只今尼公の申す様、奇特なり」とぞ感じける。

秀衡死去の事

 文治四年十二月十日頃より入道重病を受けて、日数重なりて弱り行けば、耆婆、扁鵲が術だにも敢て叶ふべきと見えざれば、秀衡娘子息其の外所従をあつめて、泣く泣く申されけるは、
「限りある業病を受け、命を惜しむなど聞きし事、極めて人の上にてだにも言ふ甲斐無き事に思ひつるに、身の上になりて思ひ知られたるなり。其の故は入道此の度命を惜しく存ずる事は、判官殿入道を頼みに思し召して、遙かの道を妻子具して御座したるに、せめて十年心安く振舞はせ奉らで、今日明日に入道死しぬるならば、闇の夜に燈火を消したる如くに、山野に迷ひ給はん事こそ口惜しく存ずれ。是ばかりこそ今生に思ひ置く事、冥途の障と覚ゆれ。然れども叶はぬ習ひなれば、力なし。判官殿に参り、最期の見参申したく存ずれども、余りに苦しく、合期ならず。是へ申さんは恐有り。此の旨を御耳に入れよ。又各々此の遺言を用ゆべきか。用ゆべきに有らば、言ふべき事を静かに聞くべし」と宣へば、各々
「争か背き申すべき」と申されければ、苦しげなる声にて、
「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なり共首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。仮令下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つ共」と言ひ置きて、是を最期の言葉にて十二月廿一日の曙に遂にはかなくなりぬ。
 妻子眷属泣き悲しむと雖も、甲斐ぞ無き。
 判官殿へ此の由申されければ、馬に鞭を打ち御座したり。
 むなしき体に向ひて歎き給ひけるは、
「境遙かの道を是まで下る事も、入道を頼み奉りてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都に御座すれども、平家に渡らせ給へば、互ひに快からず。兄弟有りと雖、幼少より方々に有りて、寄合ふ事も無く、剰へ頼朝には不和なり。如何なる親の歎き、子の別れと言ふとも、是には過ぎじ」と悲しみ給ふ事限なし。
 只義経が運の窮むる所とて、さしも猛き心を引きかへて歎き給ひけり。
 亀割山にて産れ給へる若君も、判官殿と同じ様に白衣を召して、野辺の送りをし給へり。
 見奉るにいとど哀れぞ勝りける。
 同じ道にと悲しみ給へども、むなしき野辺は只独り、送り捨ててぞ帰り給ひぬ。
 あはれなりし事共なり。

秀衡が子供判官殿に謀反の事

 かくて入道死しけれども変はる事も無く、兄弟の子供打ち替へ打ち替へ、判官殿へ出仕して、其の年も暮れにけり。
 明くる二月の頃、泰衡が郎等何事をか聞きたりけん、夜更け、人静まりてひそかに来たり、泰衡に言ひけるは、
「判官殿泉の御曹司と一つにならせ給ひ、御内を討ち奉らんと用意にて候ふ。合戦の習ひ、人に先を取られぬれば、悪しき御事にて候ふなり。急ぎ御用意あるべし」と語りける程に、泰衡安からぬ事に思ひ、
「さらば用意あるべし」とて、二月廿一日入道の孝養仏事を営まんと用意しけるが、仏事をば差し置き、一腹の舎弟泉の冠者を夜討にしけるこそうたてけれ。
 それを見て、兄の西木戸、比爪の五郎、弟のともとしの冠者、此の事人の上ならずとて、各々心々になりにけり。
 六親不和にして、三宝の加護なしとは是なり。
 判官も、さては義経にも思ひかからんとて、武蔵を召して、廻文を書かせらる。
 九州には菊地、原田、臼杵、緒方、急ぎ参るべき由を仰せ下されて、雑色駿河次郎に賜びぬ。
 夜を日に継ぎて、京に上り、筑紫へ下らんとす。
 如何なる者か言ひけん、此の由六波羅に聞きて、駿河を召し捕りて、下部廿四人差し添へて、関東へ下されけり。
 鎌倉殿廻文を御覧じて、大きに怒り、
「九郎は不思議の者かな。同じ兄弟と言ひながら、頼朝を度々思ひ替へるこそ不思議なれ。秀衡も他界しつ。奥も傾きぬ。攻めんに何程の事あるべき」と仰せ有りければ、梶原御前に候ひけるが、仰せにて候へども、愚の御計らひにて候ふや。
 宣旨なりて秀衡を召されけるに、昔将門八万余騎、今の秀衡十万八千余騎にて、片道を賜はらば参るべき由申しけるに、さては叶はずとて止められ、遂に京を見ずとこそ承りて候へ。
 秀衡一人にても妨げ候はば、念珠、白川両関をかため、判官殿の御下知に従ひて、軍を仕り候はば、日本国の勢を以て、百年二百年戦ひ候ふとも、一天四海民の煩とはなり候ふとも、打ち従へん事叶ひ候ふまじ。
 只泰衡を御賺し候ひて、御曹司を討ち参らさせ給ひ、其の後御攻め候はば、然るべく候はんずる由を申しければ、
「尤も然るべし」とて、頼朝
「私の下知ばかりにて適ふまじ」とて、院宣を申されけり。
 泰衡が義経を討ちたらば、本領に常隆を添へて、子々孫々に至るまで賜はるべき由なり。
 鎌倉殿御下知を添へて遣はさる。
 泰衡何時しか故入道の遺言を背いて、領承申しぬ。
 但し御宣旨を賜はりて討ち奉るべき由申しければ、さらばとて、安達の四郎清忠を召して、此の二三年知行をいくまみたるらん。
 検見に罷り下るべき由仰せ出ださるる。
 承り候ひて、清忠奥へぞ下りける。
 さる程に泰衡俄に狩をぞ始めける。
 判官も出でて狩し給ふ。
 清忠粉れ歩きて見奉るに、疑無き判官殿にて御座します。
 軍は文治五年四月廿九日巳の時と定めけり。
 此の事義経は夢にも知り給はず。
 斯かりし所に民部の権少輔基成と言ふ人有り。
 平治の合戦の時、失せ給ひし悪衛門督信頼の兄にて御座します。
 謀反の者の一門なればとて、東国に下られたりけるを、故入道情をかけ給へり。
 其の上秀衡が基成の娘に具足して、子供数多有り。
 嫡子二男泰衡、三男和泉の三郎忠致、是等三人が外祖父なり。
 然れば人重くし奉り、少輔の御寮とぞ申す。
 此の子供より先に嫡子西木戸太郎頼衡とて、極めて丈高く、ゆゆしく芸能もすぐれ、大の男の剛の者、強弓精兵にて、謀賢くあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、男の十五より内に儲けたる子をば、嫡子に立てぬ事なりとて、当腹二男を嫡子に立てける。
 入道思へば敢無かりけり。
 此の基成は判官殿に浅からず申し承り候はれけり。
 此の事ほのかに聞きて、あさましく思ひて、孫共を制せばやと思はれけれ共、恥づかしくも所領を譲りたる事もなし。
 我さへ彼等に預けられたる身ながら勅勘の身なり。
 院宣下る上、何と制するとも適ふまじ。
 余り思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。
「殿を関東より討ち奉れとて院宣下りぬ。此の間の狩をば栄耀の狩と思し召すや。命こそ大切に候へ、一先づ落ちさせ給ふべくもや候ふらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与せられ、謀反の為にひくはの死罪に行はれ給ひぬ。又基成東国に遠流の身となり、御辺も是に御渡り候へば、ちしの縁深かりけると思ひ知られて候ひつるに、又後れ参らせて、歎き候はん事こそ口惜しく候へ。同道に御供申し候はんこそ本意にて候ふべきに、年老ひ、身甲斐々々しく候はで、甲斐無き御孝養を申さん事行くも止るも同じ道」と掻き口説き、泣く泣く遣はされけり。
 判官此の文御覧じて、御返事には、
「文悦び入り候ふ。仰せの如く、何方へも落ち行くべきにて候へ共、勅勘の身として空を飛び、地を潛るとも適ひ難し。此処にて自害の用意仕るべし。然ればとて錆矢の一つも放つべきにても候はず。此の御恩今生にてはむなしくなりぬ。来世にては必ず一仏浄土の縁となり奉るべし。是は一期の秘記にて候ふ。御身を放さず、御覧候へ」と唐櫃一合御返事にそへて遣はされけり。
 其の後も文有りけれども、自害の用意仕るとて、御返事にも及ばず。
 然れば産して七日になり給ふ北の方を呼び出だし参らせて、
「義経は関東より院宣下りて失はるべく候ふ。昔より女の罪科と言ふ事なし。他所へ渡らせ給ひ候へ。義経は心静かに自害の用意仕るべし」と宣へば、北の方聞召しもあへず、袖を顔に押し当てて、
「幼きより片時も放れじと慕ひし乳母の名残を振り捨てて付き奉りて下りけるは、斯様に隔て奉らん為かや。女の習ひ片思ひこそ恥づかしくも候へども、人の手に懸けさせ給ふな」と御傍をはなれじとし給へば、判官も涙ながら持仏堂の東の正面をしつらひて、入れ奉り給ひけり。

鈴木の三郎重家高館へ参る事

 重家を御前に召され、
「抑和殿は鎌倉殿より御恩賜はるに、世に無き義経が許に来たり、幾程無く斯様の事出で来たるこそ不便なれ」と宣へば、鈴木申しけるは、
「さん候。鎌倉殿より甲斐の国にて所領一所賜はりて候ひしが、寝ても寤めても君の御事片時も忘れ参らせず。余りに御面影身にしみて参りたく存じ候ひし間、年来の妻子など熊野の者にて候ひしを、送り遣はし候ひて、今は今生に思ひ置く事いささかも候はず。但し心にかかる事候ふは、一昨日著き申す道にて、馬の足を損ざし候ひて傷み候へ共、御内の案内如何と存じ、申し入れず候ふ。今斯く候へば、然るべき、是こそ期したる弓矢にて候へ。仮令是に参り会ひ候はずとも、遠き近きの差別にてこそ候はんずれ、君討たれさせ給ひぬと承り候はば、何の為に命をかばひ候ふべき。所々にて死候はば、死出の山路も遙かに離り奉るべきに、心安く御供仕り候はん」とて、世に心地よげに申しければ、判官も御涙に咽び、打ち頷き給ひけり。
 さて鈴木申し上げけるは、
「下人に腹巻ばかりこそ著せて参じて候へ。討死の上具足の善悪は要るまじく候へども、後に聞こえ候はん事無下に候はんか」と申しければ、鎧は数多させたるとて、敷目に巻きたる赤糸威の究竟の鎧を取り出だし、御馬に添へ下さる。
 腹巻は舎弟亀井に取らせけり。

衣河合戦の事

 さる程に、寄手長崎の大夫のすけを初めとして、二万余騎一手になりて押し寄せたり。
「今日の討手は如何なる者ぞ」
「秀衡が家の子、長崎太郎大夫」と申す。
 せめて泰衡、西木戸などにても有らばこそ最期の軍をも為め、東の方の奴原が郎等に向ひて、弓を引き矢を放さん事あるべからずとて、
「自害せん」と宣ひけり。
 此処に北の方の乳母親に十郎権頭、喜三太二人は家の上に上りて、遣戸格子を小楯にして散々に射る。
 大手には武蔵坊、片岡、鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢の三郎、備前の平四郎、以上人々八騎なり。
 常陸坊を初めとして残り十一人の者共、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、其の儘帰らずして失せにけり。
 言ふばかり無き事共なり。
 弁慶其の日の装束には黒革威の鎧の裾金物平く打ちたるに、黄なる蝶を二つ三つ打ちたりけるを著て、大薙刀の真中握り、打板の上に立ちけり。
「囃せや殿原達、東の方の奴原に物見せん。若かりし時は叡山にて由ある方には、詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には悪僧の名を取りき。一手舞うて東の方の賎しき奴原に見せん」
とて、鈴木兄弟に囃させて、
 嬉しや滝の水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずと二人、東の奴原が鎧冑を首諸共に衣河に斬り付け流しつるかな
とぞ舞ふたりける。
 寄手是を聞きて、
「判官殿の御内の人々程剛なる事はなし。寄手三万騎に、城の内は僅十騎ばかりにて、何程の立合せんとて舞舞ふらん」とぞ申しける。
 寄手の申しけるは、
「如何に思し召し候ふとも、三万余騎ぞかし。舞も置き給へ」と申せば、
「三万も三万によるべし。十騎も十騎によるぞ。汝等が軍せんと企つる様の可笑しければ笑ふぞ。叡山、春日山の麓にて、五月会に競馬をするに、少しも違はず。可笑しや鈴木、東の方の奴原に手並の程を見せてくれうぞ」とて、打物抜きて鈴木兄弟、弁慶轡を並べて、錏を傾ぶけて、太刀を兜の真向に当てて、どつと喚きて駆けたれば、秋風に木の葉を散らすに異ならず。
 寄手の者共元の陣へぞ引き退く。
「口には似ざる物や。勢にこそよれ。不覚人共かな、返せや返せや」と喚きけれども、返し合はする者もなし。
 斯かりける所に鈴木の三郎、照井の太郎と組まんと、
「和君は誰そ」
「御内の侍に照井の太郎高治」
「さて和君が主こそ鎌倉殿の郎等よ。和君が主の祖父清衡後三年の戦の時、郎等たりけるとこそ聞け、其の子に武衡、其の子に秀衡、其の子に泰衡、然れば我等が殿には五代の相伝の郎等ぞかし。重家は鎌倉殿には重代の侍なり。然れば重家が為には合はぬ敵なり。然れども弓矢取る身は逢ふを敵、面白し、泰衡が内に恥ある者とこそ聞け。それが恥ある武士に後ろ見する事やある。穢しや、止まれ止まれ」と言はれて返し合はせ、右の肩切られて、引きて退く。
 鈴木既に弓手に二騎、右手に三騎切り伏せ、七八騎に手負ほせて、我が身も痛手負ひ、
「亀井の六郎犬死すな。重家は今は斯うぞ」と是を最期の言葉にて、腹掻き切つて伏しにけり。
「紀伊国鈴木を出でし日より、命をば君に奉る。今思はず一所にて死し候はんこそ嬉しく候へ。死出の山にては必ず待ち給へ」とて、鎧の草摺かなぐり捨てて、
「音にも聞くらん、目にも見よ、鈴木の三郎が弟に亀井の六郎生年廿三、弓矢の手並日頃人に知られたれども、東の方の奴原は未だ知らじ。初めて物見せん」と言ひも果てず、大勢の中へ割つて入り、弓手あひ付け、右手に攻め付け、切りけるに、面を向ふる者ぞ無き。
 敵三騎打ち取り、六騎に手を負せて、我が身も大事の傷数多負ひければ、鎧の上帯押しくつろげ、腹掻き切つて、兄の伏したる所に同じ枕に伏しにけり。
 さても武蔵は、彼に打ち合ひ、是に打ち合する程に、喉笛打ち裂かれ、血出づる事は限りなし。
 世の常の人などは、血酔などするぞかし。
 弁慶は血の出づればいとど血そばへして、人をも人とも思はず、前へ流るる血は鎧の働くに従ひて、朱血になりて流れける程に、敵申しけるは、
「此処なる法師、余りのもの狂はしさに前にも母衣かけたるぞ」と申しけり。
「あれ程のふて者に寄合ふべからず」とて、手綱を控へて寄せず。
 弁慶度々の戦に慣れたる事なれば、倒るる様にては、起上がり起上がり、河原を走り歩くに、面を向ふる人ぞ無き。
 さる程に増尾の十郎も討死す。
 備前の平四郎も敵数多討ち取り、我が身も傷数多負ひければ、自害して失せぬ。
 片岡と鷲尾一つになりて軍しけるが、鷲尾は敵五騎討ち取りて死にぬ。
 片岡一方隙きければ、武蔵坊伊勢の三郎と一所にかかる。
 伊勢の三郎敵六騎討ち取り、三騎に手負せて、思ふ様に軍して深手負ひければ、暇乞して、
「死出の山にて待つぞ」とて自害してんげり。
 弁慶敵追ひ払うて、御前に参りて、
「弁慶こそ参りて候へ」と申しければ、君は法華経の八の巻を遊ばして御座しましけるが、
「如何に」と宣へば、
「軍は限になりて候ふ。備前、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢の三郎、各々軍思ひの儘に仕り、討死仕りて候ふ。今は弁慶と片岡ばかりになりて候ふ。限にて候ふ程に、君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候ふ。君御先立ち候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参らせ候はば、三途の川にて待ち参らせん」と申せば判官、
「今一入名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打ち出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に止めんとすれば、味方の各々討死する。自害の所へ雑人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、仮令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば実に三途の河にて待ち候へ。御経もいま少しなり。読み果つる程は、死したりとも、我を守護せよ」と仰せられければ、
「さん候」と申して、御簾を引き上げ、君をつくづくと見参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申し立ち出づるとて、又立ち返り、かくぞ申し上げける。
 六道の道の衢に待てよ君後れ先立つ習ひ有りとも
 かく忙はしき中にも、未来をかけて申しければ、御返事に、
 後の世も又後の世も廻り会へ染む紫の雲の上まで
と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。
 さて片岡と後合に差し合はせ、一ちやう町を二手に分けて駆けたりければ、二人に駆け立てられて、寄手の兵共むらめかして引き退く。
 片岡七騎が中に走り入りて戦ふ程に、肩も腕もこらへずして、疵多く負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹掻き切り亡せにけり。
 弁慶今は一人なり。
 長刀の柄一尺踏折りてがはと捨て、
「あはれ中々良き物や、えせ片人の足手にまぎれて、悪かりつるに」とて、きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合はせて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと切り付け、馬より落つる所は長刀の先にて首を刎ね落し、脊にて叩きおろしなどして狂ふ程に、一人に斬り立てられて、面を向くる者ぞ無き。
 鎧に矢の立つ事数を知らず。
 折り掛け折り掛けしたりければ、簔を逆様に著たる様にぞ有りける。
 黒羽、白羽、染羽、色々の矢共風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるるに異ならず。
 八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者共申しけるは、
「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり如何に狂へ共、死なぬは不思議なり。音に聞こえしにも勝りたり。我等が手にこそかけずとも、鎮守大明神立ち寄りて蹴殺し給へ」と呪ひけるこそ痴がましけれ。
 武蔵は敵を打ち払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、二王立に立ちにけり。
 偏に力士の如くなり。
 一口笑ひて立ちたれば、
「あれ見給へあの法師、我等を討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。
 然る者申しけるは、
「剛の者は立ちながら死する事あると言ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しければ、
「我あたらん」と言ふ者もなし。
 或る武者馬にて辺を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。
 長刀を握りすくみてあれば、倒れ様に先へ打ち越す様に見えければ、
「すはすは又狂ふは」とて馳せ退き馳せ退き控へたり。
 され共倒れたる儘にて動かず。
 其の時我も我もと寄りけるこそ痴がましく見えたりけれ。
 立ちながらすくみたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて守護の為かと覚えて、人々いよいよ感じけり。

判官御自害の事

 十郎権頭、喜三太は、家の上より飛び下りけるが、喜三太は首の骨を射られて失せにける。
 兼房は楯を後ろにあてて、主殿の垂木に取り付きて、持仏堂の広庇に飛び入る。
 此処にしやさうと申す雑色、故入道判官殿へ参らせたる下郎なれども
「彼奴原は自然の御用に立つべき者にて候ふ。御召し使ひ候へ」と強ちに申しければ、別の雑色嫌ひけれども、馬の上を許され申したりけるが、此の度人々多く落ち行けども、彼ばかり留まりてんげり。
 兼房に申しけるは、
「それ見参に入れて給はるべきや。しやさうは御内にて防矢仕り候ふなり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の山の御伴仕り候ふべし」とて散々に戦ふ程に、面を向かふる者なし。
 下郎なれども彼ばかりこそ、故入道申せし言葉を違へずして留まりけるこそ不便なれ。
「さて自害の刻限になりたるやらん、又自害は如何様にしたるを良きと言ふやらん」と宣へば、
「佐藤兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々讚め候へ」と申しければ、
「仔細なし。さては疵の口の広きこそよからめ」とて、三条小鍛治が宿願有りて、鞍馬へ打ちて参らせたる刀の六寸五分有りけるを、別当申し下して今の剣と名付けて秘蔵しけるを、判官幼くて鞍馬へ御出の時、守刀に奉りしぞかし。
 義経幼少より秘蔵して身を放さずして、西国の合戦にも鎧の下にさされける。
 彼の刀を以て左の乳の下より刀を立て、後ろへ透れと掻き切つて、疵の口を三方へ掻き破り、腸を繰り出だし、刀を衣の袖にて押し拭ひ、衣引き掛け、脇息してぞ御座しましける。
 北の方を呼び出だし奉りて宣ひけるは、
「今は故入道の後家の方にても兄人の方にても渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情無くはあたり申し候はじ。故郷へも送り申すべし。今より後、さこそ便を失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかかり候はんずれども、何事も前世の事と思し召して、強ちに御歎きあるべからず」と申させ給へば、北の方、
「都を連れられ参らせて出でしより、今まで存命へてあるべしとも覚えず、道にてこそ自然の事も有らば先づ自らを亡はれんずらんと思ひしに、今更驚くに有らず。早々自らをば御手にかけさせ給へ」とて、取り付き給へば、義経、
「自害より先にこそ申したく候ひつれ共、余りの痛はしさに申し得ず候ふ。今は兼房に仰せ付けられ候へ。兼房近く参れ」と有りけれども、何処に刀を立て参らすべしとも覚えずして、ひれ伏しければ、北の方仰せられけるは、
「人の親の御目程賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入りて、多くの者の中に女にてある自らに付け給ひたれ。我に言はるるまでもあるまじきぞ。言はぬ先に失ふべきに暫くも生けて置き、恥を見せんとするうたてさよ。さらば刀を参らせよ」と有りしかば、兼房申しけるは、
「是ばかりこそ不覚なるが理にて候へ。君御産ならせ給ひて三日と申すに、兼房を召されて、
「此の君をば汝が計らひなり」と仰せ蒙りて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱き初め参らせてより、其の後は出仕の隙だにも覚束無く思ひ参らせ、御成人候へば、女御后にもせばやとこそ存じて候ひつるに、北の政所打ち続きかくれさせ給へば、思ふに甲斐無き歎きのみ、神や仏に祈る祈りはむなしくて、斯様に見なし奉らんとは、露思はざりしものを」とて、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、
「よしや嘆くとも、今は甲斐有らじ。敵の近づくに」と有りしかば、兼房目も昏れ心も消えて覚えしかども、
「かくては叶はじ」と、腰の刀を抜き出だし、御肩を押へ奉り、右の御脇より左へつと刺し透しければ、御息の下に念仏して、やがてはかなくなり給ひぬ。
 御衣引き披け参らせて、君の御傍に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、
「御館も上様も、死出の山と申す道越えさせ給ひて、黄泉の遙かの界に御座しまし候ふなり。
 若君もやがて入らせ給へ」と仰せ候ひつると申しければ、害し奉るべき兼房が首に抱き付き給ひて、
「死出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方無く、前後覚えずになりて、落涙に堰き敢へず、
「あはれ前の世の罪業こそ無念なれ。若君様御館の御子と産れさせ給ふも、かくあるべき契りかや。
「亀割山にて巣守になせ」と宣ひし御言葉の末、実に今まで耳にある様に覚ゆるぞ」とて、又さめざめと泣きけるが、敵はしきりに近づく。
 かくては叶はじと思ひ、二刀刺し貫き、わつとばかり宣ひて、御息止まりければ、判官殿の衣の下に押し入れ奉る。
 さて生まれて七日にならせ給ふ姫君同じく刺し殺し奉り、北の方の衣の下に押し入れ奉り、
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申して我が身を抱きて立ちたりけり。
 判官殿未だ御息通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、
「北の方は如何に」と宣へば、
「早御自害有りて御側に御入り候ふ」と申せば、御側を探らせ給ひて、
「是は誰、若君にて渡らせ給ふか」と御手を差し渡させ給ひて、北の方に取り付き給ひぬ。
 兼房いとど哀れぞ勝りける。
「早々宿所に火をかけよ」とばかり最期の御言葉にて、こと切れ果てさせ給ひけり。

兼房が最期の事

 十郎権頭、
「今は中々心に懸かる事なし」と独言し、予てこしらへたる事なれば、走りまはりて火をかけたり。
 折節西の風吹き、猛火は程無く御殿につきけり。
 御死骸の御上には遣戸格子を外し置き、御跡の見えぬ様にぞこしらへける。
 兼房は焔に咽び、東西昏れて有りけるが、君を守護し申さんとて、最期の軍少なくしたりとや思ひけん、鎧を脱ぎ捨て、腹巻の上帯締め固め、妻戸よりづと出で見れば、其の日の大将長崎太郎兄弟、壷の内に控へたり。
 敵自害の上は何事かあるべきとてゐたりけるを、兼房言ひけるは、
「唐土天竺は知らず、我が朝に於て、御内の御座所に馬に乗りながら控ゆべきものこそ覚えね。かく言ふ者をば誰かと思ふ、清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿の御舎弟九郎大夫判官殿の御内に、十郎権頭兼房、もとは久我の大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊□を欺く程の剛の者、いざや手並を見せてくれん。法も知らぬ奴原かな」と言ふこそ久しけれ。
 長崎太郎が右手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鎧の鐙靼金、馬の折骨五枚かけて斬り付けたり。
 主も馬も足を立て返さず倒れけり。
 押し懸かり首をかかんとせし処に、兄を討たせじと弟の次郎兼房に打つてかかる。
 兼房走り違ふ様にして、馬より引き落し、左の脇に掻い挟みて、
「独り越ゆべき死出の山、供して越えよや」とて、炎の中に飛び入りけり。
 兼房思へば恐ろしや、偏に鬼神の振舞なり。
 是は元より期したる事なり。
 長崎二郎は勧賞に与り、御恩蒙り、朝恩に驕るべきと思ひしに、心ならず捕はれて、焼け死するこそ無慙なれ。

秀衡が子供御追討の事

 かくて泰衡は判官殿の御首持たせ、鎌倉へ奉る。
 頼朝仰せけるは、
「抑是等は不思議の者共かな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、是は現在頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右無く討ちぬるこそ奇怪なれ」とて、泰衡が添へて参らせたる宗徒の侍二人、其の外雑色、下部に至るまで、一人も残さず首を斬りてぞ懸けられける。
 やがて軍兵差し遣はし、泰衡討たるべき僉議有りければ、先陣望み申す人々、千葉介、三浦介、左馬介、大学頭、大炊介、梶原を初めとして望み申しけれども、
「善悪頼朝私には計らひ難し」とて、若宮に参詣有りけるに、畠山夢想の事有りとて、重忠を初めとして、都合其の勢七万余騎奥州へ発向す。
 昔は十二年まで戦ひける所ぞかし、今度は僅に九十日の内に攻め落されけるこそ不思議なれ。
 錦戸、比爪泰衡、大将以下三百人が首を、畠山が手に取られける。
 残る所、雑人等に至るまで、皆首を取りければ数を知らざる所なり。
 故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、争か斯様になり果つべき。
 親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。
 侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。
 口惜しかりしものなり。

義経記巻第八了

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