義経記  巻第七

 目録 判官北国落の事 大津次郎の事 愛発山の事
     三の口の関通り給ふ事 平泉寺御見物の事
     如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事
     直江の津にて笈探されし事 亀割山にて御産の事
     判官平泉へ御著の事

判官北国落の事

 文治二年正月の末になりぬれば、大夫判官は、六条堀河に忍びて御座しける時も有り、又嵯峨の片辺に忍びて御座しける時も有りけるが、都には判官殿の御故に、人々多く損じければ、義経故民の煩ひとなり、人数多損ずるなれば、如何なる所にも有りと聞き、見ばやと思はれければ、今は奥州へ下らばやとて、別々になりける侍共をぞ召されける。
 十六人は一人も心変はり無くてぞ参りける。
「奥州へ下らんと思ふに何れの道にかかりてかよからんずるぞ」と仰せられければ、各々申しけるは、
「東海道こそ名所にて候へ、東山道は切所なれば、自然の事有らんずる時は、避けて行くべき方もなし。北陸道は越前の国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船してよかるべし」とて道は定め、
「さて姿をば如何様にしてか下るべき」と様々に申しける中に、増尾の七郎申しけるは、
「御心やすく御下りあるべきにて候はば、御出家候ひて、御下り候へ」と申しければ、
「遂にはさこそ有らんずらめども、南都の勧修坊の千度出家せよと教化せられしを背いて、今身の置所無き儘に、出家しけると聞こえんも恥かしければ、此の度は如何にもして、様を変へもせで下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、
「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、
「いさとよ、それも如何有らんずらん、都を出でん日よりして、日吉山王、越前の国に気比の社、平泉寺、加賀の国下白山、越中国に蘆峅、岩峅、越後の国にはをき、国上、出羽の国には羽黒山とて、山社多き所なれば、山伏の行き逢ひて、一乗菩提の峰、釈迦岳の有様、八大金剛童子の護身さし、富士の峰、山伏の礼義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき」と仰せければ、武蔵坊申しけるは、
「それ程の事安き事候ふ。君は鞍馬に御座しまししかば、山伏の事は粗々御存じ候ふらん。常陸坊は園城寺に候ひしかば、申すに及ばず、弁慶は西塔に候ひしかば、一乗菩提の事粗々存じ仕りて候へば、などか陳ぜで候ふべき。山伏の勤には、懺法阿弥陀経をだにも、詳かに読み候ひぬれば、堅固苦しくも候ふまじ。只思し召し立たせ給へ」とぞ申しける。
「どこ山伏と問はんずる時はどこ山伏とか言はんずる」
「越後国直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより此方にては、羽黒山伏の熊野へ参り、下向するぞと申すべき。それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」と申しければ、
「羽黒の案内知りたらん者や有る。羽黒にはどの坊に誰がしと言ふ者ぞと問はんずる時は如何せんずる」。
 弁慶申しけるは、
「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ふ者申し候ひしは、大黒堂の別当の坊に荒讚岐と申す法師に弁慶は少しも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讚岐と申し候ふべし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。
 判官仰せられけるは、
「もとより法師なれば、御辺達は戒名せずとも苦しかるまじ。何ぞ男の頭巾篠県笈掛けたらんずるが、片岡或いは、伊勢の三郎、増尾などと言ひたらんずるは、似ぬ事にて有らんずるは如何に」
「さらば皆坊号をせよ」とて、思ひ思ひに名をぞ付きける。
 片岡は京の君、伊勢の三郎をば宣旨の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。
 さては上野坊、上総坊、下野坊などと言ふ名を付きてぞ呼びける。
 判官殿は殊に知る人御座しければ、垢の付きたる白き小袖二つに矢筈付けたる地白の帷子に、葛大口村千鳥を摺にしたる柿の衣に、古りたる頭巾、目の際までひつこうで、戒名をば、大和坊とぞ申しける。
 思ひ思ひの出立をぞしける。
 弁慶は大先達にて有りければ、袖短かなる浄衣に、褐の脛巾にごんづ履いて、袴の括高らかに結ひて、新宮様の長頭巾をぞ県けたりける。
 岩透と言ふ太刀あひぢかに差しなして、法螺貝をぞ下げたりける。
 武蔵坊は喜三太と言ふ下部を強力になして、県けさせたる笈の足に、猪の目彫りたる鉞に八寸ばかり有りけるをぞ結ひ添へたる。
 天頂には四尺五寸の大太刀を真横様にぞ置きたりける。
 心つきも出立も、あはれ先達やとぞ見えける。
 総じて勢は十六人、笈十挺有り。
 一挺の笈には鈴、独鈷、花皿、火舎、閼伽坏、金剛童子の本尊を入れたりけり。
 一挺の笈には、折らぬ鳥帽子十頭、直垂大口などをぞ入れたりける。
 残り八挺の笈には、皆鎧腹巻をぞ入れたりける。
 斯様に出で立ち給ふ事は正月の末、御吉日は二月二日なり。
 判官殿の奥州へ下らんとて、侍共を召して、
「斯様に出で立つと雖も、猶も都に思ひ置く事のみ多し。中にも一条今出川の辺に有りし人は、未だ有りもやすらん。連れて下らんなど言ひしに、知らせずして下りなば、さこそ名残も深く候はんずらめ。苦しかるまじくは、連れて下らばや」と宣ひければ、片岡武蔵坊申しけるは、
「御供申すべき者は、皆是に候ふ。今出河には誰か御渡り候ふやらん。北の方の御事候ふやらむ」と申しければ、此の頃の御身にては、流石にそよとも仰せられかねて、つくづくと打ち案じ思ひてぞ御座しける。
 弁慶申しけるは、
「事も事にこそより候はんずれ、山伏の頭巾篠県に笈掛けて、女房を先に立てたらんずるは、さしも尊き行者にも有らじ。又敵に追ひ掛けられん時は、女房を静に歩ませ奉り、先に立てたらんはよかるまじく候ふ」と申しけるが、思へばいとほしや、此の人は久我の大臣殿の姫君、九つにて父大臣殿には後れ参らせ給ひぬ。
 十三にて母北の方に後れ参らせ給ひぬ。
 其の後は乳母の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。
 容顔美しく、御情深く渡らせ給ひけれども、十六の御年までは幽なる御住なりしを、如何なる風の便にか此の君に見え初められ参らせ給ひしより此の方、君より外にまた知る人も渡らせ給はぬぞかし。
 惆悵の藤は松に離れて、便なし。
 三従の女は男に離れて力なし。
 また奥州へ下り給ひたるとても、情も知らぬ東女を見せ奉らんも痛はしく、御心の中も推量に朧けならではよも仰せられ出ださじ。
 さらば具し奉りて下らばやと思ひければ、
「あはれ、人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変はる習ひの候ふに、さらば入らせ御座しまして、事の体をも御覧じて、誠にも下らせ御座しますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし」と申しければ、判官世に嬉しげにて、
「いざさらば」とて、柿の衣の上に薄衣被き給ひ御出ある。
 武蔵も浄衣に衣被きして、一条今出河の久我の大臣殿の古御所へぞ御座しましける。
 荒れたる宿のくせなれば、軒の忍に露置きて、籬の梅も匂有り。
 彼の源氏の大将の荒れたる宿を尋ねつつ、露分け入り給ひける古き好も今こそ思ひ知られける。
 判官をば中門の廊下に隠し奉りて、弁慶は御妻戸の際に参り、
「人や御渡り候ふ」と問ひければ、
「何処より」と答ふる。
「堀河の方より」と申しければ、御妻戸を開けて見給へば、弁慶にてぞ有りける。
 日頃は人伝にこそ聞き給ひしに、余りの御嬉しさに北の方簾の際に寄り給ひて、
「人は何処にぞ」と問ひ給へば、
「堀河に渡らせ給ひ候ふが、明日は陸奥へ御下り候ふ」と申せと仰せの候ひつるは、
「日頃の御約束には如何なる有様もしてこそ具足し参らせ候はんと申しては候へども、道々も差し塞がれて候ふなれば、人をさへ具足し参らせて、憂き目を見せ参らせ候はん事いたはしく思ひ参らせ候へば、義経御先に下り候ひて、若し存命へて候はば、春の頃は必ず必ず御迎ひに人を参らせ候ふべし。それまでは御心長く待たせ御座しまし候へと申せ」とこそ仰せられ候ひつれ」と申しければ、
「此の度だにも具して下り給はぬ人の、何の故にかわざと迎ひには賜はるべき。あはれ下り著き給はざらん先に、老少不定の習ひなれば、ともかくもなりたらば、とても遁れざりけるもの故に、など具して下らざりけんと後悔し給ひ候ふ共、甲斐有らじ。御志有りし程は、四国西国の波の上までも具足せられしぞかし。然れば何時しか変はる心のうらめしさよ。大物浦とかやより、都へ帰されし其の後は思ひ絶えたる言の葉を、又廻り来たるとかく慰め給ひしかば、心弱くも打ち解けて、二度憂き言の葉にかかりぬるこそ悲しけれ。申すに付けて如何にぞやと覚ゆれども、知られず知られで、我如何にもなりなば、後世までも実に残すは、罪深き事と聞く程に申し候ふぞ。過ぎぬる夏の頃より、心乱れて苦しく候ひしを、只ならぬとぞや人の申し候ひしか、月日に添へて夕も苦しくなりまされば、其の隠れあるまじ。六波羅へも聞こえて、兵衛佐殿は情無き人と聞けば、捕りも下されざらん。北白川の静は、歌を歌ひ、舞も舞へばこそ、一の咎は遁れけれ。我々はそれにも似るべからず。只今憂き名を流さん事こそ悲しけれ。何と言うても、人の心強さなれば力なし」と打ち口説き、涙も堰き敢へず覚えければ、武蔵坊も涙に咽びけり。
 燈火の明にて、常に住み馴れ給ひつる御障子の引手の元を見ければ、御手跡と覚えて、
 つらからば我も心の変はれかしなど憂き人の恋しかるらん
とぞ遊ばされたりけるを、弁慶見て、未だ御事をば忘れ参らせさせ給はざりけると哀れにて、急ぎ判官にかくと申せば、判官さらばとて御座して、
「御心短の御怨かな。義経も御迎ひに参りて候へ」とて、つと入り給ひたりければ、夢の心地して、問ふにつらさの御涙いとど堰き敢へ給はず。
 判官
「さても義経が今の姿を御覧ぜられば、日来の御志も興醒めてこそ思し召され候はめ有らぬ姿にて候ふものを」と仰せられければ、
「予しに聞きし御姿の、様の変はりたるやらん」と仰せられければ、
「これ御覧じ候へ」とて、上の衣を押し除け給ひたれば、柿の衣に小袴、頭巾をぞ著給ひける。
 北の方見習はせ給はぬ御心には、げに疎からば恐ろしくも覚えぬべけれども、
「扨我をば如何様に出で立たせて具し給ふべきぞや」と仰せられければ、武蔵坊
「山伏の同道には、少人の様にこそ作りなし参らせ候はんずれ。容顔も御つくろひ候はば、苦しく御わたらせ候ふまじく候ふ。御年の程も良き程に見えさせ御座しまし候へば、つくろひ申すべく候ふが、只御振舞こそ御大事にて候はんずれ。
 北陸道と申すは、山伏の多き国にて候へば、花の枝などを、
「これ少人へ」と参らせ言はん時は、男子の言葉を習はせ給ひて、衣紋掻き繕ひ、姿を男の如く御振舞候へ、此の年月の様に、たをやかに物恥かしき御心つき御振舞にては、堅固叶はせ給ひ候ふまじく候ふ」と申しければ、
「然れば人の御徳に、習はぬ振舞をさへして下らんずると思ふ也。はや夜も更くるに、疾く疾く」と仰せられければ、弁慶御介錯にぞ参りける。
 岩透と言ふ刀を抜きて、清水を流したる御髪の丈にあまるを御腰に比べて情無くもふつと切る。
 末をば細く刈りなして、高く結ひ上げて、薄化粧に御眉細く作り、御装束は匂ふ色に花やうを引き重ねて、裏山吹一襲、唐綾の御小袖、播磨浅黄の帷を上にぞ著せ奉る。
 白き大口顕紋紗の直垂を著せ奉り、綾の脛巾に草鞋履かせ奉り、袴の括高く結ひ、白打出の笠をぞ著せ奉る。
 赤木の柄の刀にだみたる扇差し添へ、遊ばさねども漢竹の横笛を持ち奉る。
 紺地の錦の経袋に法華経の五の巻を入れて懸けさせ奉る。
 我が身一つだにも苦しかるべきに万の物を取り付け奉りたれば、しどけなげにぞ見え給ふ。
 是や此の王昭君が胡国の夷に具せられて下りけん心の中も、今こそ思ひ知られける。
 斯様に出で立ち給ひて、四間の御出居に燈火数多かき立てて、武蔵坊を側らに置きて、北の方を引き立て、御手を取りて彼方此方へ歩ませ奉り、
「義経山伏に似るや、人は児に似たるぞ」と仰せける。
 弁慶申しけるは、
「君は鞍馬に渡らせ給ひしかば、山伏にも馴れさせ給ひ候ひつれば、申すに及ばず候ふ。北の方は何時習はせ御座しまさねども、御姿少しも児にたがはせ御座しまし候はず。何事も戒力と申す御事にて渡らせ給ひ候ひける」と申す中にも、哀れを催す涙の頻りに零れけれども、さらぬ体にてぞ有りける。
 さる程に二月二日まだ夜深に、今出川を出でんとし給ふ。
 西の妻戸に人の音しける、如何なる者なるらんと御覧ずれば、北の方の御乳母に十郎権頭兼房、白き直垂に褐の袴著て、白髪交りの髻引き乱し、頭巾打ち著、
「年寄り候ふとも、是非とも御伴申し候はん」とて参りたり。
 北の方
「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、
「相伝の御主を妻子に思ひ代へ参らすべきか」と申しも敢へず、涙に咽びけり。
 六十三になりける儘に、良き丈な山伏にてぞ有りける。
 兼房涙を仰へて申しけるは、
「君は清和天皇の御末、北の方は久我殿の姫君ぞかし。只仮初に花紅葉の御遊、御物詣なりとも、ようの御車などこそ召さるべきに、遙々東の路に徒跣にて出で立ち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲しけれ」とて、涙を流しければ、残りの山伏共も、
「理なり、誠に世には神も仏もましまさぬか」とて各々浄衣の袖をぞ絞りける。
 さて御手に手を取り組みて歩ませ奉れども、何時か習はせ給はねば、只一所にぞ御座しける。
 をかしき事を語り出だして、慰め奉りて進め給ひけり。
 まだ夜深に今出川をば出でさせ給ひけれども、八声の鳥もしどろに鳴きて、寺々の鐘の声早打ち鳴らす程に明けけれども、漸々粟田口まで出で給ふ。
 武蔵坊片岡に申しけるは、
「如何せん、いざや北の方の御足早くなし奉るべし。片岡に申せ」と言ひければ、御前に参りて申しける様は、
「斯様に御渡り候はば、道行くべしとも存じ候はず。君は御心静かに御下り候へ。我等は御先に下り候ひて、秀衡に御所造らせて、御迎ひに参り候はん」と申して、御先に立ちければ、判官の仰せには、
「如何に人の御名残惜しく思ひ参らせ候へ共、是等に棄てられては叶ふまじ。都の遠くならぬ先に、兼房御伴して帰れ」と仰せられて、棄て置きて進み給へば、さしも忍び給ひし御人の御声を立てて仰せられけるは、
「今より後は道遠しとも悲しむまじ。誰に預け置きて、何処へ行けとて捨て給ふぞ」とて、声を立てて悲しみ給へば、武蔵又立ち帰り、具足し奉りける。
 粟田口を過ぎて、松坂近く成りければ、春の空の曙に霞に紛ふ雁の、微に鳴きて通りけるを聞き給ひて、判官かくぞ続け給ふ。
 み越路の八重の白雲かき分けて羨ましくも帰るかりがね
 北の方もかくぞ続け給ふ。
 春をだに見捨てて帰るかりがねのなにの情に音をば鳴くらん
所々打ち過ぎければ、逢坂の蝉丸の住給ふ藁屋の床を来て見れば、垣根に忍交りの忘草打ち交り、荒れたる宿の事なれば、月の影のみ昔に変はらじと、思ひ知られて哀なり。
 軒の忍を取り給ひて奉り給へば、北の方都にて見しよりも、忍ぶ哀れの打ち添ひて、いとど哀れに思し召して、かくぞ続け給ふ。
 住み馴れし都を出でて忍草置く白露は涙なりけり
 かくて大津の浦も近くなる。
 春の日の長きに歩む歩むとし給へども、関寺の入相の鐘今日も暮れぬと打ち鳴らし、怪しの民の宿借る程になりぬれば、大津の浦にぞかかり給ひける。

大津次郎の事

 此処に憂き事ぞ出で来たる。
 天に口なし、人を以て言はせよと誰披露するとしも無けれ共、判官山伏になりて、其の勢十余人にて、都を出で給ふと聞こえしかば、大津の領主山科左衛門、園城寺の法師を語らひて、城郭を構へて相待つ。
 然れども判官は、大津の渚に大なる家有り。
 是は塩津、海津、山田、矢橋、粟津、松本に聞こえたる商人の宗徒の者、大津次郎と申す者の家なり。
 弁慶宿を借らせけるは、
「羽黒山伏の熊野に年籠りして下向し候ふ。宿を賜び候へ」と借らせたりければ、宿伝ふ習ひなれば、相違無く宿を参らせたり。
 さよ打ち更けて、懺法阿弥陀経を同音にぞ誦み給ひける。
 是ぞ勤めの始めなる。
 大津二郎は左衛門の召しにて城に有り。
 大津二郎が女、物越に見奉りて、あら美しの山伏児や、遠国の道者とは宣へども、衣裳の美しさは、如何にも只人には有らず、但し判官殿の山伏になりて下り給ふなるに、山伏大勢留めて、城に聞こえては身の為も大事なり。
 次郎を呼びて此の事を知らせて、判官にてましまさば、城まで申さずとも、私にも討つても、搦めても、鎌倉殿の見参に入れて、勲功に与りたらば、然るべきと思ひければ、城へ使を遣はして、男を呼びよせて、一間なる所へ招き入れて言ひけるは、
「時しもこそ多けれ。今夜しも我々判官殿に宿を借し参らせて候ふは、如何せんずる。御辺の親類我が兄弟を集めて搦めばや」とぞ申しける。
 男申しけるは、
「壁に耳、石に口」と言ふ事有り。判官殿にて御座すればとて、何か苦しかるべき。搦め参らせたればとて、勲功も有るまじ。実の山伏にて渡らせ給ふに付けては、金剛童子の恐れ有り、実に又判官殿にて御座しませばとても、忝くも鎌倉殿の御弟にてましませば恐有り。我思ひかかり奉りても、容易かるべき事ならず。かしがましかしがまし」とぞ言ひける。
 女是を聞きて、
「地体が和男は妻子に甲斐々々しくあたるばかりを本とする男なり。女の申す事は上つ方の御耳に入らぬ事やある。城へ、いでさらば参りて申さん」とて、小袖取りて打ち被き、やがて走り出でてぞ行きける。
 大津次郎是を見て、彼奴を放し立てては悪しかりなんとや思ひけん、門の外に追ひ著きて、
「汝、今に始めたる事か、風になびく苅萱、男に従ふ女」とて、引き伏せて、心の行く行くぞさやなみける。
 彼の女は極めたるえせ者なりければ、大路に倒れて喚きけるは、
「大津二郎は極めたる僻事の奴にて候ふぞ。判官の方人するぞ」とぞ申しける。
 所の者是を聞きて申しけるは、
「大津二郎が女こそ例の酔狂して、男に打たるるとて喚くは。又多くの法師の嘆きともならんや。只放し合はせて、打たせよ」とて、取りさゆる者無ければ、ふすふす打たれて臥しにけり。
 大津二郎は直垂取りて著て、御前に参りて、火打ち消して申しけるは、
「かかる口惜しき事こそ御座候はね。女奴が物に狂ひ候ふ。是聞召され候へ。何とも御語り候へ。今夜は是にて明かさせ給ひて、明日の御難をば何として逃れさせ給ひ候ふべき。是に山科左衛門と申す人城郭を構へて判官殿を待ち申し候ふ。急ぎ御出候へ。是に小船を一艘持ちて候ふに、召され候ひて、客僧達の御中に船に心得させ給ひて候はば、急ぎ御出候へ」と申しける。
 弁慶申しけるは、
「身に誤りたる事は候はねども、左様に所に煩ひ候はんずるには、取り置かれ候ひては、日数も延び候はんず。さ候はば暇申して」とて出で給ひければ、
「船をば海津の浦に召し棄てて、疾く愛発の山を越えて、越前の国へ入らせ給へ」と申しける。
 判官出でさせ給へば、大津二郎も船津に参り、御船こしらへてぞ参らせける。
 かくて大津次郎山科左衛門の許に走り帰りて申しけるは、
「海津の浦に弟にて候ふ者中夭に逢ひて、傷を蒙りて候ふと承はり候ふ間、暇申して、別の事候はずは、やがてこそ参り候はん」と申しければ、
「それ程の大事は疾く疾く」とぞ申しける。
 大津二郎家に帰りて、太刀取つて脇に挟み、征矢掻き負ひ、弓押し張り、御船に躍り入りて、
「御供申し候はん」とて、大津の浦をば押し出だす。
 瀬田の川風劇しくて、船に帆をぞ掛けたりける。
 大津二郎申しけるは、
「此方は粟津大王の建て給ふ石の塔山、此処に見え候ふは唐崎の松、あれは此叡山」と申す。
 山王の御宝殿を顧み給へば、其の行先は竹生島と申して拝ませ奉る。
 風に任せて行く程に、夜半ばかりに西近江、何処とも知らぬ浦を過ぎ行けば、磯浪の聞こえければ、此処は何処ぞと問ひ給へば、
「近江の国堅田の浦」とぞ申しける。
 北の方是を聞召して、かくぞ続け給ひける。
 しぎが臥すいさはの水の積り居て堅田を波の打つぞやさしき
白鬢の明神をよそにて拝み奉り、三河の入道寂照が、
 鶉鳴く真野の入江の浦風に尾花浪寄る秋の夕暮
と言ひけん古き心も今こそ思ひ知られけれ。
 今津の浦を漕ぎ過ぎて、海津の浦にぞ著きにける。
 十余人の人々を上げ奉りて、大津二郎は御暇申すなり。
 此処に不思議なる事有り。
 南より北へ吹きつる風の、今又北より南へぞ吹きける。
 判官仰せられけるは、
「彼奴は同じ次の者ながらも情ある者かな。知らせばや」と思し召し、武蔵坊を召して、
「知らせて下らば、後に聞きてあはれとも思ふべし。知らせばや」と宣へば、弁慶大津次郎を招きて、
「和君なれば知らするぞ。君にて渡らせ給ふなり。道にてともかくもならせ給はば、子孫の守りともせよ」とて、笈の中より、萌黄の腹巻に小覆輪の太刀取り添へてぞ賜びにける。
 大津二郎是を賜はつて、
「何時までも御伴申したく候へ共、中々君の御為悪しく候はんずれば、暇申して、何処にも君の渡らせ御座しまさん所を承りて、参りて見参らせ候はん」とて帰りけり。
 下郎なれども情有りてぞ覚えける。
 大津二郎家に帰りて見ければ、女は一昨日の腹を据ゑ兼ねて、未だ臥してぞ有りける。
 大津次郎、
「や御前御前」と言ひけれ共、音もせず、
「あはれ、わ女は詮無き事を思ふなり。山伏留めて判官殿と号して、既に憂き目を見んとせしよな。船に乗せて海津の浦まで送り、船賃など責めたれば、法も無く物を言ひつる間、憎さにかなぐり奪りたる物を見よ」とて、太刀と腹巻とを取り出だして、がはと置きければ、寝乱れ髪の隙より、恐ろしげなる眼しばたたき、流石に今は心地取り直したる気色にて、
「それも妾が徳にてこそあれ」とて、大笑みに笑みたる面を見れば、余りに疎ましくぞ有りける。
 男言ふとも、女の身にては如何など制しこそすべきに、思ひ立ちぬるこそ恐ろしけれ。

愛発山の事

 判官は海津の浦を立ち給ひて、近江国と越前の境なる愛発の山へぞかかり給ふ。
 一昨日都を出で給ひて、大津の浦に着き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞ無き。
 愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立ち枯れ、巌石峨々として、道すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。
 何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は紅を注くが如くにて、愛発の山の岩角染めぬ所は無かりける。
 少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。
 見奉る山伏共余りの御痛はしさに、時々代はり代はりに負ひ奉りける。
 かくて山深く分け入り給ふ程に、日も既に暮れにけり。
 道の傍二町ばかり分け入りて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。
 北の方
「恐ろしの山や、是をば何山と言ふやらん」と問ひ給へば、判官、
「是は昔はあらしいの山と申しけるが、当時は愛発の山と申す」と仰せければ、
「面白や、昔はあらしいの山と言ひけるを、何とて愛発の山とは名づけけん」と宣へば、
「此の山は余りに巌石にて候ふ程に、東より都へ上り、京より東へ下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、
「あはれ是程跡方無き事を仰せ候ふ御事は候はず、人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血の山と申し候はんには、日本国の巌石ならん山の、あら血山ならぬ事は候はじ。此の山の仔細は弁慶こそよく知りて候ふ」と申せば、判官、
「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」
と仰せければ、弁慶、
「申し候はんとする所を、君の遮りて仰せ候へば、如何でか弁慶申すべき、此の山をあら血の山と申す事は、加賀の国に下白山と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其の月近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国へ下り給ひける程に、此の山の禅定にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神「御産近づきたるにこそ」とて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、
「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。

三の口の関通り給ふ事

 夜も既に明けければ、あら血の山を出でて、越前の国へ入り給ふ。
 愛発の山の北の腰に若狭へ通ふ道有り。
 能美山に行く道も有り。
 そこを三の口とぞ申しける。
 越前国の住人敦賀の兵衛、加賀国の住人井上左衛門両人承りて、愛発の山の関屋を拵へて、夜三百人、昼三百人の関守を据て、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く、向歯の反りたるなどしたる者をば、道をも直にやらず、判官殿とて搦め置きて、糾問してぞひしめきける。
 道行き人の判官殿を見奉りては、
「此の山伏達も此の難をばよも逃れ給はじ」とぞ申しける。
 聞くに付けても、いとど行先も物憂く思し召しける所に、越前の方より浅黄の直垂著たる男の、立文持ちて忙はしげにてぞ行き逢ひける。
 判官是を見給ひて、
「何ともあれ、彼奴は仔細有りて通る奴にてあるぞ」と宣ひけるに、笠の端にて顔隠して通さんとし給ふ所に十余人の中を分け入りて、判官の御前に跪きて、
「斯かる事こそ候はね。君は何処へとて御下り候ふぞ」と申しければ、片岡、
「君とは誰そ。此の中に汝に君と傅かるべき者こそ覚えね」と言ひければ、武蔵坊是を聞きて、
「京の君の事か、宣旨の君の事か」と言ひければ、彼の男、
「何しに斯くは仰せ候ふぞ。君をば見知り参らせて候ふ間、斯くは申し候ふぞ。是は越後の国の住人上田左衛門と申す人の内に候ひしが、平家追討の時も御伴仕りて候ひし間、見知り奉り候ふ。壇の浦の合戦の時、越前と能登、加賀三箇国の人数著到付け給ひし武蔵坊と見奉るは僻事か」と申せば、如何に口の利きたる弁慶も力無くて伏目になりにけり。
「詮無き御事かな。
 此の道の末には君を待ち参らせ候ふものを。
 只是より御帰り候へかし。
 此の山の峠より東へ向うて、能美越にかかりて、燧が城へ出でて、越前の国国府にかかりて、平泉寺を拝み給ひて、熊坂へ出でて、菅生の宮を外処に見て、金津の上野へ出でて、篠原、安宅の渡をせさせ給ひて、根上の松を眺めて、白山の権現を外処にて礼し給ひ、加賀国宮越に出でて、大野の渡りし給ひて、阿尾が崎の端を越えて、たけの、倶利伽羅山を経て、黒坂口の麓を五位庄にかかりて、六動寺の渡して、奈呉の林を眺めて、岩瀬の渡、四十八箇瀬を越え、宮崎郡を市振にかかりて、寒原なかいしかと申す難所を経て、能の山を外処に伏し拝み給ひて、越後国国府に著きて、直江の津より船に召して、米山を冲懸に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け、国上弥彦を拝みて、九十九里の浜にかかりて、乗足、蒲原、八十里の浜、瀬波、荒川、岩船と言ふ所に著きて、須戸うと道は雪白水に、山河増さりて叶ふまじ。
 いはひが崎にかかりて、おちむつやなかざか、念珠の関、大泉の庄、大梵字を通らせ給ひて、羽黒権現を伏し拝み参らせ、清河と言ふ所に著きて、すぎのをか船に棹さして、あいかはの津に著かせ給ひて、道は又二つ候ふ。
 最上郡にかかりて、伊奈の関を越えて、宮城野の原、榴の岡、千賀の塩竃、松島など申す名所名所を見給ひては、三日、横道にて候ふ。
 それより後さうたう、亀割山を越えては、昔出羽の郡司が娘小野の小町と申す者の住み候ひける玉造、室の里と申す所、又小町が関寺に候ひける時、業平の中将東へ下り給ひけるに、妹の姉歯が許へ文書きて言伝しに、中将下り給ひて、姉歯を尋ね給へば、空しくなりて、年久しくなりぬと申せば、
「姉歯が標は無きか」と仰せられければ、ある人
「墓に植ゑたる松をこそ姉歯の松とは申し候へ」と申しければ、中将姉歯が墓に行きて、松の下に文を埋めて読み給ひける歌、
 栗原や姉歯の松の人ならば都の土産にいざと言はましものを
と詠み給ひける名木を御覧じては、
「松山一つだにも超えつれば、秀衡の館は近く候ふ。理に枉げて此の道にかからせ給ふべし」と申しければ、判官是を聞き給ひて、
「是は只者にてはなし。八幡の御計らひと覚ゆるぞ。いざや此の道にかかりて行かん」と仰せられければ、弁慶申しけるは、
「かからせ給ふべき。わざと憂き目を御覧ぜんと思し召されば、かからせ給ふべし。彼奴は君を見知り参らせ候ふに於ては、疑も無き作事をして、君を欺り参らせんとこそすると覚え候ふ。先へ遣りても、後へ返しても、良き事はあるまじ」と申しければ、
「良き様に計らへ」とぞ仰せられける。
 武蔵坊立ち添ひて、
「どの山をどの迫にかかりて行かんずるぞ」と問ふ様にもてなし、弓手の腕を差し伸べて、頚をつかみ、逆様に取つて伏せ、強胸を踏まへて、刀を抜きて、心先に差し当てて、
「汝有りの儘に申せ」と責めければ、顫ひ顫ひ申しけるは、
「誠には上田左衛門が内に候ひしが、恨むる事候ひて、加賀国井上左衛門が内に候ふ。
「君を見知り参らせて候ふ」と申して候へば、
「罷り向ひ参らせて賺し参らせ、候へ」と仰せられ候へ共、如何でか君をば疎に存じ参らすべき」と申しければ、
「それこそ己が後言よ」とて、真中二刀刺し貫き、頚掻き離し、雪の中に踏み込うで、さらぬ体にてぞ通り給ふ。
 井上が下人平三郎と言ふ男にてぞ有りける。
 余りに下郎の口の利きたるは、却つて身を食むとは是なり。
 さて十余人の人々、とてもかくてもと打ちふてて、関屋をさしてぞ御座しける。
 十町ばかり近づきて、勢を二手に分けたりけり。
 判官殿の御供には武蔵坊、片岡、伊勢の三郎、常陸坊、是を始めとして七人、今一手には北の方の御供として、十郎権頭、根尾、熊井亀井、駿河、喜三太御供にて、間五町ばかりぞ隔てける。
 先の勢は木戸口に行き向ひたりければ、関守是を見て、
「すはや」と言ふこそ久しけれ、百人ばかり七人を中に取り籠めて、
「是こそ判官殿よ」と申しければ、繋ぎ置かれたる者共、
「行方も知らぬ我等に憂き目を見せ給ふ。是こそ判官の正身よ」と喚きければ、身の毛もよだつばかりなり。
 判官進み出でて仰せられけるは、
「抑羽黒山伏の、何事をして候へば、是程に騒動せられ候ふやらん」と宣へば、
「何条羽黒山伏。判官殿にてこそ御座しませ」と申しければ、
「此の関屋の大将軍は誰殿と申すぞ」と問ひ給へば、
「当国の住人敦賀の兵衛、加賀の国の井上左衛門と申す人にて候へ。兵衛は今朝下り候ひぬ。井上は金津に御座する」と申しければ、
「主も御座せざらん所にて、羽黒山伏に手かけて、主に禍かくな。
 其の儀ならば此の笈の中に羽黒の権現の御正体、観音の御座しますに、此の関屋を御室殿と定めて、八重の注連を引きて、御榊を振れ」とぞ仰せられける。
 関守共申しけるは、
「げにも判官にて御座しまさずは、其の様をこそ仰せらるべく候ふに、主に禍をかくべからん様は如何にぞ」と咎めける。
 弁慶是を聞きて、
「形の如く先達候はんずる上は、山法師原が申す事を御咎め候ひては詮なし。やあ大和坊其処退き候へ」とぞ申しける。
 言はれて関屋の縁にぞ居給へる。
 是こそ判官にて御座しましけれ。
 弁慶申しけるは、
「是は羽黒山の讚岐坊と申す山伏にて候ふが、熊野に参りて、年籠りにして、下向申し候ふ。判官殿とかやをば、美濃国とやらん尾張国とやらんより生捕りて、都へ上るとやらん。下るとやらむ承り候ひしが、羽黒山伏が判官と言はるべき様こそなかれ」と言ひけれども、何と陣じ給へ共、弓に矢を矧げ、太刀長刀の鞘を外してぞ居たりける。
 後の人々も七人連れてぞ来たりける。
 いとど関守共然ればこそとて、大勢の中に取り籠めて、
「只射殺せ」とぞ喚きければ、北の方消え入る心地し給ひけり。
 或る関守申しけるは、
「しばらく鎮まり給へ。判官ならぬ山伏殺して後の大事なり。関手を乞うて見よ。昔より今に至るまで、羽黒山伏の渡賃関手なす事は無きぞ。判官ならば仔細を知らずして関手をなして通らんと急ぐべし。現の山伏ならば、よも関手をばなさじ。是を以て知るべき」とて、賢々しげなる男進み出でて申しけるは、
「所詮山伏なりとても、五人三人こそ有らめ、十六七人の人々に争か関手を取らではあるべき。関手なして通り給へ。鎌倉殿の御教書にも乙家甲家を嫌はず、関手取りて兵糧米にせよと候ふ間、関手を賜はり候はん」とぞ申しける。
 弁慶言ひけるは、
「事あたらしき事を言はるるものかな。何時の習ひに羽黒山伏の関手なす法やある。例無き事は適ふまじき」と言ひければ、関守共是を聞きて、
「判官にては御座せぬ」と言ふも有り、或ひは
「判官なれども、世に超えたる人にて御座しませば、武蔵坊などと言ふ者こそ斯様には陳ずらめ」など申す。
 又或る者出でて申しけるは、
「さ候はば、関東へ人を参らせて、左右を承り候はん程、是に留め奉り候はん」と申しければ、弁慶、
「是は金剛童子の御計にてこそ。関東の御使上下の程、関屋の兵糧米にて道せん食はで、御祈祷申して、心安く暫く休みて下さるべし」とて、ちつとも騒がず十挺の笈は関屋の内へ取り入れて、十余人の人々、むらむらと内へ入りて、つつとしてぞ居たる。
 猶も関守怪しく思ひけり。
 弁慶関守に向つて問はず語りをぞし居たる。
「此の少人は出羽国の酒田の次郎殿と申す人の君達、羽黒山にて金王殿と申す少人なり。熊野にて年籠りして、都にて日数を経て、北陸道の雪消えて、山家山家に伝ひて、粟の斎料など尋ねて、斎食などなりとも取りて下るべく候ひつるに、余りに此の少人故郷の事をのみ仰せられ候ふ間、未だ雪も消え候はねども、此の道に思ひ立ち候ひて、如何せんずると歎き候ひつるに、是にて暫日数を経候はん事こそ嬉しく候へ」と物語共して、草鞋脱ぎ足洗ひ、思ひ思ひに寝ぬ起きぬなど、したり顔に振舞ひければ、関守共、
「是は判官にては御座せぬげなり。只通せや」とて、関の戸を開きたれ共、急がぬ体にて一度には出でずして、一人二人づつ、静かに立ち休らひ立ち休らひぞ出で給ふ。
 常陸坊は人より先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊と未だ関の縁にぞ居給へり。
 弁慶申しけるは、
「関手御免候ふ上、判官にてはなしと言ふ仰せ蒙り候ひぬ。旁々以て悦び入りて候へども、此の二三日少人に物を参らせ候はず候へば、心苦しく候ふ。関屋の兵糧米少し賜はり候ひて、少人に参らせて、通り候はばや。且は御祈祷、且は御情にてこそ候へ」と言ひければ、関守共、
「物も覚えぬ山伏かな。判官かと申せば、口強に返事し給ふ。又斎料乞ひ給ふ事は如何」と申しければ、賢しき者、
「実は御祈祷にてこそあれ。それ参らせよ」と言ひければ、唐櫃の蓋に白米一蓋入れて参らせける。
 弁慶是を取りて、
「大和坊、是を取れ」と言ひければ、傍らより差し出でて、受け取り給ひけり。
 弁慶長押の上につい居て、腰なる法螺の貝取り出だし、夥しく吹き鳴らし、首に懸けたる大苛高の数珠取つて押し揉みて、尊げにぞ祈りける。
「日本第一大霊権現、熊野は三所権現、大嶺八大金剛童子、葛城は十万の満山の護法神、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷、祇園、住吉、賀茂、春日大明神、比叡山王七社の宮、願はくは判官此の道にかけ参らせて愛発の関守の手にかけて留めさせ奉り、名を後代に揚げて、勲功たいくわいならば、羽黒山の讚岐坊が験徳の程を見せ給へ」とぞ祈りける。
 関守共頼もしげにぞ思ひける。
 心中には
「八幡大菩薩願はくは送護法迎護法となりて、奥州まで相違無く届け奉り給へ」と祈りける心こそ哀れなる祈りとは覚ゆれ。
 夢に道行く心地して、愛発の関をも通り給ふ。
 其の日は敦賀の津に下りて、せいたい菩薩の御前にて一夜御通夜有りて、出羽へ下る舟を尋ね給へども、未だ二月の初めの事なれば、風はげしくて、行き通ふ舟も無かりけり。
 力及ばず夜を明かして、木芽と言ふ山を越えて、日数も経れば越前の国の国府にぞ著き給ふ。
 それにて三日御逗留有りけり。

平泉寺御見物の事

「横道なれども、いざや当国に聞こえたる平泉寺を拝まん」と仰せける。
 各々心得ず思ひけれ共、仰せなればさらばとて、平泉寺へぞかかられける。
 其の日は雨降り、風吹きて世間もいとど物憂く、夢に道行く心地して、平泉寺の観音堂にぞ著き給ふ。
 大衆共是を聞きて、長吏の許へぞ告げたりける。
 政所の勢を催して、寺中と一つになりて、僉議しけるは、
「当時関東は山伏禁制にて候ふに、此の山伏は只人とも見えず、判官は大津坂本愛発の山をも通られて候ふなる。寄せて見ばや、如何様にも是を判官にて御座すると覚え候ふ」と僉議す。
 尤もとて大衆出で発つ。
 彼の平泉寺と申すは山門の末寺なり。
 然れば衆徒の規則も山上に劣らず、大衆二百人、政所の勢も百人、直兜にて夜半ばかりに観音堂にぞ押し懸けたる。
 十余人は東の廊下にぞ居たりける。
 判官と北の方は西の廊下にぞ御座したる。
 弁慶参りて、
「今はこそと覚え候ふ。是は余の所には似るべくも候はず。如何御計らひ候ふ。さりながら叶はざるまでは、弁慶陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀を抜き、「憎い奴原」など申して飛んで下り候はば、君は御自害候へ」とぞ申して出でける。
 大衆に問答の間、
「憎い奴原」と言ふ声やすると耳を立ててぞ聞き給ふ。
 心細くぞ有りける。
 衆徒申しけるは、
「抑是は何処山伏にて候ふぞ。打ち任せては留まらぬ所にて候ふぞ」と申しければ、弁慶申しけるは、
「出羽の国羽黒山の山伏にて候ふ」
「羽黒には誰と申す人ぞ」
「大黒堂の別当に讚岐の阿闍梨と申す者にて候ふ」と答へけり。
「少人をば誰と申すぞ」
「酒田の次郎殿と申す人の御子息金王殿とて、羽黒山にはかくれ無き少人にて候ふぞ」と言ひければ、衆徒是を聞きて、
「此の者共は判官にては無き者ぞ。判官にて御座しまさんには、争か是程に羽黒の案内をば知り給ふべき。金王と申すは、羽黒には名誉の児にて候ふなるぞ」。
 長吏事を聞きて、座敷に居直りて、武蔵坊を呼びて、
「先達の坊に申すべき事候ふ」と言へば、弁慶も長吏に膝を組みかけてぞ居たりける。
 長吏申されけるは、
「少人の事承り候ふこそ心も言葉も及ばず御座しまし候ふなれ。学問の精は如何様に御座しまし候ふぞ」と言ひければ、
「学問に於ては羽黒には並も御座しまし候はず。申すに付けても、過言にて候へ共、容顔に於ては山三井寺にも御座しまし候ふべき」と誉めたりけり。
「学問のみにも候はず、横笛に於ては日本一とも申すべし」と言ひければ、長吏の弟子に和泉美作と申しける法師は極めて案深き寺中一のえせ者なり。
 長吏に申しけるは、
「女ならばこそ琵琶弾く事は常の事にて候ふ。是は女ぞと疑ふ所に、笛の上手と申すこそ怪しく候へ。げに児か笛吹かせて見候はん」と申す。
 長吏げにもとて、
「あはれ、さ候はば音に聞こえさせ給ふ御笛を承り候ひて、世の末の物語にも伝へ候はばや」とぞ申されける。
 弁慶是を聞きて、
「安き事や」と返事はしたれども、両眼真暗になる様にぞ覚えける。
 さてしもあるべき事ならねば、其の様を少人に申し候はんとて、西の廊下に参りて、
「かかる事こそ候はね。有りても有らぬ事を申して候ふ程に、御笛を遊ばさせ参らせて、承るべき由申し候ふ。如何仕るべく候ふ」と申しければ、
「さりとては吹かずとも出で給へ」と判官仰せられければ、
「あら心憂や」とて、衣引き被き臥し給ふ。
 衆徒は頻りに
「少人の御出で遅く候ふ」と申せば、弁慶
「只今只今」と答へて居たりけり。
 和泉と申す法師言ひけるは、
「流石に我が朝には熊野羽黒とて、大所にて候ふぞかし。それに左右無く名誉の児を平泉寺にて呼び出だして、散々に嘲哢したりけると聞こえん事、此の寺の恥に有らずや。少人を出だし奉りもてなす様にて、其の序でに吹かせたらんは苦しからじ」と申しければ、
「尤も然るべし」とて、長吏の許に念一、弥陀王とて名誉の児有り。
 花折りて出で立たせ、若大衆の肩頚に乗りてぞ来たりける。
 正面の座敷長吏、東は政所、西は山伏、本尊を後ろにし奉りて、仏壇の際に南へ向けて、少人の座敷をぞしたりける。
 二人の児座敷に直りければ、弁慶参りて
「御出候へ」と申しければ、北の方只暗に迷ひたる心地して出で立ち給ふ。
 昨日の雨にしほれたる顕紋紗の直垂に下には白なへ色を召したりければ、猶も美しくぞ見え給ひける。
 御髪尋常に結ひなして、赤木の柄の刀に彩みたる扇差し添へて、御手に横笛持ちて御出である。
 御伴には十郎権頭、片岡、伊勢の三郎、判官殿は殊に近くぞ御座しける。
 自然の事有らば、人手には掛くまじきものをとぞ思し召しける。
 正面に出で給へば、殊に其の時は燈火を高く挑げたり。
 北の方扇取り直し、衣紋掻き繕ひ、座敷に直り給ふ。
 今までは頑はしき所も御座しまさず。
 武蔵坊心安く思ひけり。
 何ともあれ、仕損ずる程ならば、差し違へてこそ如何にもならめと思ひければ、長吏に膝をきしりてぞ居たりける。
 弁慶申しけるは、
「詞候はぬ事、笛に於ては日本一ぞかし。但し仔細一つ候ふ。此の少人羽黒に御座しまし候ふ時も明暮笛に心を入れて、学問の御心も空々に御渡り候ひし程に、去年の八月に羽黒を出でし時、師の御坊、今度の道中上下向の間、笛を吹かじと言ふ誓事をなし給へとて、権現の御前にて金を打たせ奉りて候へば、少人の御笛をば御免候へかし。是に大和坊と申す山伏候ふが、笛は上手にて候ふ。常に少人も是にこそ御習ひ候へ。御代官に是を参らせ候はばや」と申しければ、長吏是を聞きて感じ申しけるは、
「あはれ人の親の子を思ふ道有り。師匠の弟子を思ふ志是なり。如何でか御いたはしく、それ程の御誓をば是にて破り参らせ候ふべき。疾く疾く御代官にても候へ」と申しければ、武蔵坊余りの嬉しさに腰を抑へ、空へ向ひて溜息ついてぞ居たりける。
「早々参りて、大和坊、御代官に笛を仕れ」と言はれて、判官仏壇の蔭のほの暗き所より出で給ひて、少人の末座にぞ居給ひける。
 大衆
「さらば管絃の具足参らせよ」と申しければ、長吏の許よりくさきのこうの琴一張、錦の袋に入れたる琵琶一面取り寄せ、琴をば御客人にとて北の方に参らせける。
 琵琶をば念一殿の前に置き、笙の笛をば弥陀王殿の前に置き、横笛は判官の御前に置き、かくて管絃一切れ有りければ、面白しとも言ふも愚か也。
 只今までは合戦の道にてあるべかりつるに、如何なる仏神の御納受にてや、不思議にぞ覚えし。
 衆徒も是を見て、
「あはれ児や、あはれ笛の音や。念一、弥陀王殿をこそ、良き児と有り難く思ひつるに、今此の児と見比ぶれば、同じ口にも言ふべくもなし」などと若大衆共口々にぞささやきける。
 長吏寺中に帰りけり。
 小夜更けて長吏の本より様々に菓子積みなどして、瓶子添へて、観音堂に送りけり。
 皆人疲れにのぞみつ。
「いざや酒飲まん」ととりどりに申しけるを、武蔵坊、
「あはれ詮無き殿原かな。欲しさの儘に誰も飲まんずる程に、程無く酒気には本性を正すものなれば、しばらく
「少人に参らせよ」
「先達の御坊、京の君」などと言ふとも、後は味気無き娑婆世界の習ひ、
「北の方に今一つ申せ」
「熊井や片岡に思ひざしせん」
「伊勢の三郎持ちて来よ」
「いで飲まん弁慶」などと言はん程に、焼野の雉子の頭を隠して、尾を出だしたる様なるべし」
「酒は上下向の間断酒にて候ふ」とて、長吏の許へぞ返しける。
「希有なる山伏達にて有りけるよ」とて、急ぎ僧膳仕立て、御堂へ送りけり。
 各々僧膳したためて、夜も曙になりければ、今夜の懺法をぞ読みける。
 伊勢の三郎を使にて、長吏に暇をぞ乞はれける。
 心ある大衆達、徒歩にてむらむら消え残る雪を踏み分けて、二三町ぞ送りける。
 恐ろしく思はれし平泉寺をも、鰐の口を逃れたる心地して、足早に通られける。
 かくて菅生の宮を拝みて、金津の上野へ著き給ふ。
 唐櫃数多舁かせて、引馬其の数有り。
 ゆゆしげなる大名五十騎ばかりにぞ逢ふたりける。
「是は如何なる人ぞ」と問ひければ、
「加賀の国井上左衛門と申す人なり。愛発関へ行くぞ」と申しける。
 判官是を聞き給ひ、
「あはれ遁れんとすれども遁れぬものかな。今はかくぞ」と宣ひて、刀の柄に手を打ち掛け給ひて、北の方の後ろに後ろを差し合はせて、笠の端にて顔を隠して通さんとし給ふ所に、折節風烈しく吹きたりけり。
 笠の端を吹き上げたりければ、井上一目見参らせて、判官と御目を見合はせ奉り、馬より飛んで下り、大道に畏まつて申しけるは、
「かかる事こそ候はね。途中にて参り合ひ参らせ候ふこそ無念に存じ候へ、候ふ所は井上と申して、程遠き所にて候ふ間、彼方へとも申さず候ふ。山伏の色代は恐れにて候ふ。疾く疾く」と申して、我が身馬引き寄せて、左右無くも乗らず、遙かに見送り奉り、御後ろ遠ざかる程にもなりぬれば、各々馬にぞ乗りたりける。
 判官は余りの事に行きもやり給はず、しきりに見顧り給ひつつ、
「七代まで弓矢の冥加あれ」とぞ、面々に申しけるぞあはれなる。
 其の日は細呂木と言ふ所に井上著きて、家の子郎等共を呼びて申しけるは、
「今日行き合ひ参らする山伏をば誰とか見奉る。是こそ鎌倉殿の御弟判官殿よ。あはれ日頃の様におはさんには、国の騒動、道路の大事とこそなるべきに、此の御有様になり給へる御事のいとほしさよ。討ち奉りたらば、千年万年過ぐべきか。余りの痛はしさに難無く通し奉りてこそ」と言ひければ、家の子郎等共是を聞きて、井上の心の中、あはれ情も慈悲も深かりける人やと頼もしくぞ覚えける。
 判官其の日篠原に泊り給ひけり。
 明けければ、斉藤別当実盛が手塚の太郎光盛に討たれけるあいの池を見て、安宅の渡りを越えて、根上の松に著き給ふ。
 是は白山の権現に法施を手向くる所なり。
 いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜有り。
 明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み参らせて、其の日は剣の権現の御前に参り給ひて、御通夜有りて、終夜御神楽参らせて、明くれば林の六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀の国富樫と言ふ所も近くなる。
 富樫介と申すは、当国の大名也。
 鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して判官を待ち奉るとぞ聞こえける。
 武蔵坊申しけるは、
「君は是より宮腰へ渡らせ御座しませ、弁慶は富樫が館の様を見て参り候はん」と申しければ、
「偶々有るとも知られで通る道のあるに、寄りては何の詮ぞ」と仰せられければ、弁慶申しけるは、
「中々行きてこそよく候へ。山伏大勢にて通ると聞こえ、大勢にて追ひ掛けられては悪しく候はんずれば、弁慶ばかり罷り候はん」とて、笈取つて引つ掛けて、只一人行きける。
 富樫が城を見れば、三月三日の事なれば、傍には鞠小弓の遊び、傍には闘鶏、又管絃、酒盛にぞ見えける。
 酒に酔ひたる所も有り。
 武蔵坊相違無く館の内に入りて、侍の縁の際を通りて、内を差しのぞき見れば、管絃只今盛なり。
 武蔵坊大の声を上げて、
「修行者の候ふ」と申しける。
 管絃の調子も外れにけり。
「御内只今機嫌悪しく候ふ」と申しければ、
「上つ方こそ候ふとも、御後見の御方にそれ申して賜び候へや」とて、強ひて近くぞ寄りたりける。
 仲間雑色二三人出でて、
「罷り出でられ候へ」と言ひけれ共、聞きも入れず。
「狼籍なり。さらば掴んで出だせ」とて、左右の腕に取り付きて、押せども圧せども、少しも働らかず。
「さらば所にな置いそ。放逸に当たりて出だせ」とて、大勢近づきければ、拳を握りて、散々に張りければ、或いは烏帽子打ち落され、髻かかへて間所へ入るも有り。
「此処なる法師の狼籍するぞ」とて騒動す。
 富樫介も大口に押し入れ烏帽子著て、手鉾杖に突きて、侍にぞ出でにける。
 弁慶是を見て、
「これ御覧ぜられ候へ、御内の者共狼籍し候ふ」とて、やがて縁にぞ上がりける。
 富樫これを見て、
「如何なる山伏ぞ」と言へば、
「是は東大寺勧進の山伏にて候ふ」
「如何に御身一人は御座するぞ」
「同行の山伏多く候へども、先様に宮腰へやり候ひぬ。是は御内勧進の為に参りて候ふ。伯父にて候ふ美作の阿闍梨と申すは、東山道を経て、信濃国へ下り候ふ。此の僧は讚岐の阿闍梨と申し候ふが、北陸道にかかり、越後に下り候ふ。御内の勧進は如何様に候ふべき」と申しければ、富樫
「よくこそ御出候へ」とて、加賀の上品五十疋女房の方より罪障懺悔の為にとて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡、さては家の子郎等女房達下女に至るまで、思ひ思ひに勧進に入り、惣じて名帳につく百五十人、
「勧進の物は、只今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、其の時賜はり候はん」とて、預け置きてぞ出でにける。
 馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。
 行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。
 それより大野の湊にて参り逢ひけり。
「如何に今まで久しく、如何に」と仰せられければ、
「様々にもてなされて、経を誦みなどして、馬にて是まで送られて候ふ」と申しければ、武蔵を人々上げつ、下しつ、守りける。
 其の日は竹橋に泊り給ひて、明くれば倶利伽羅山を越えて、馳籠が谷を見給ひて、是は平家の多く亡びし所にてあるなるにとて、各々阿弥陀経を読み、念仏申し、彼の亡魂を弔ひてぞ通られける。
 兎角し給ふ程に、夕日西へかかりて、黄昏時にもなりぬれば、松永の八幡の御前にして、夜を明かし給ひけり。

如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

 夜も明けければ、如意の城を船に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。
 彼が申しけるは、
「暫く申すべき事候ふ。是は越中の守護近き所にて候へば、予て仰せ蒙りて候ひし間、山伏五人三人は言ふに及ばず、十人にならば、所へ仔細を申さで、渡したらんは僻事ぞと仰せ付けられて候ふ。既に十七八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候ふ。守護へ其の様を申し候ひて渡し参らせん」と申しければ、武蔵坊是を聞きて、妬げに思ひて、
「や殿、さりとも此の北陸道に羽黒の讚岐見知らぬ者やあるべき」と申しければ、中乗に乗つたる男、弁慶をつくづくと見て、
「実に実に見参らせたる様に候ふ。一昨年も一昨々年も、上下向毎に御幣とて申し下し賜はりし御坊や」と申しければ、弁慶嬉しさに、
「あ、よく見られたり見られたり」とぞ申しける。
 権守申しけるは、
「小賢しき男の言ひ様かな。見知り奉りたらば、和男が計らひに渡し奉れ」と申しければ、弁慶是を聞きて、
「抑此の中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」と申しければ、
「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶
「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて人々に怪しめらるるこそ詮無けれ」と言ひけれども、返事もせで打ち俯きて居給ひたり。
 弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕を掴んで肩に引つ懸けて、浜へ走り上がり、砂の上にがはと投げ棄てて、腰なる扇抜き出だし、労はしげも無く、続け打ちに散々にぞ打ちたりける。
 見る人目もあてられざりけり。
 北の方は余りの御心憂さに声を立てても悲しむばかりに思し召しけれども、流石人目の繁ければ、さらぬ様にて御座しけり。
 平権守是を見て、
「すべて羽黒山伏程情無き者は無かりけり。「判官にてはなし」と仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程痛はしく情無く打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。かかる御労はしき事こそ候はね。是に召し候へ」とて、船を差し寄する。
 □取乗せ奉りて申しけるは、
「さらばはや船賃なして越し給へ」と言へば、
「何時の習ひに羽黒山伏の船賃なしけるぞ」と言ひければ、
「日頃取りたる事は無けれども、御坊の余りに放逸に御座すれば、取りてこそ渡さんずれ。疾く船賃なし給へ」とて船を渡さず。
 弁慶、
「和殿斯様に我等に当たらば、出羽の国へ一年二年のうちに来たらぬ事はよも有らじ。酒田の湊は此の少人の父、酒田次郎殿の領なり。只今当たり返さんずるものを」とぞ威しけり。
 然れども権守、
「何とも宣へ、船賃取らで、えこそ渡すまじけれ」とて渡さず。
 弁慶、
「古へ取られたる例は無けれ共、此の僻事したるによつて取らるるなり」とて、
「さらばそれ賜び候へ」とて、北の方の著給へる帷の尋常なるを脱がせ奉りて、渡守に取らせけり。
 権守是を取りて申しけるは、
「法に任せて取りては候へども、あの御坊のいとほしければ参らせん」とて、判官殿にこそ奉りける。
 武蔵坊是を見て、片岡が袖を控へて、
「痴がましや、只あれもそれも同じ事ぞ」と囁きける。
 かくて六動寺を越えて、奈呉の林をさして歩み給ひける。
 武蔵忘れんとすれ共、忘られず。
 走り寄りて判官の御袂に取り付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、
「何時まで君を庇ひ参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥顕の恐も恐ろしや。八幡大菩薩も許し給へ。浅ましき世の中かな」とて、さしも猛き弁慶が伏し転び泣きければ、侍共一つ所に顔を並べて、消え入る様に泣き居たり。
 判官
「是も人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思へば、涙の零るるぞ」とて、御袖を濡らし給ふ。
 各々此の御言葉を聞きて、猶も袂を絞りけり。
 かくする程に日も暮れければ、泣く泣く辿り給ひけり。
 やや有りて北の方、
「三途の河をわたるこそ、著たる物を剥がるるなれ。少しも違はぬ風情かな」とて、岩瀬の森に著き給ふ。
 其の日は此処に泊り給ひけり。
 明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひ、黒部四十八箇瀬の渡を越え、市振、浄土、歌の脇、寒原、なかはしと言ふ所を通りて、岩戸の崎と言ふ所に著きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語有りけるに、浦の者共、搗布と言ふものを潛きけるを見給ひて、北の方かくぞ続け給ひける。
 四方の海浪の寄る寄る来つれどもいまぞ初めて憂き目をば見る
 弁慶是を聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞ続け申しける。
 浦の道浪の寄る寄る来つれども今ぞ初めて良き目をば見る
 かくて岩戸の崎をも出で給ひて、越後の国の府、直江津花園の観音堂と言ふ所に著き給ふ。
 此の本尊と申すは、八幡殿安倍の貞任を攻め給ひし時、本国の御祈祷の為に直江の次郎と申しける有徳の者に仰せ付けて、三十領の鎧を賜びて、建立し給ひし源氏重代の御本尊なりければ、其の夜はそれにて夜もすがら御祈念有りけり。

直江の津にて笈探されし事

 此処に越後の国府の守護鎌倉へ上りてなし。
 浦の代官はらう権守と言ふ者有り。
 山伏著き給ふと聞きて、浦の者共を催して、櫓櫂などを乳切木材棒にして、網人共を先として、理非も弁へぬ奴原が二百余人観音堂を押し巻きたり。
 折節侍共、方々へ斎料尋ねに行きければ、判官只一人御座しける所に押し寄す。
 直江の御堂に騒動する事聞こえければ、弁慶走り合はんと急ぐ。
 判官問答し給ひけるは、昨日までは羽黒山伏と宣ひしが、今は羽黒近ければ、引き代へて、
「熊野より羽黒へ参り候ふが、船を尋ねて是に候ふ。先達の御坊は旦那尋ねに御座しまして候ふ。是は御留守に候ふ。何事ぞ」などと問答し給ふ所に武蔵坊物の翔りたる様にてぞ出で来たり申しけるは、
「あの笈の中には三十三体の聖観音京より下し参らせ候ふが、来月四日の頃には御宝殿に入れ参らせ候はんずるぞ。各々身不浄なる様にて、左右無く近づきて権現の御本地汚し給ふな。仰せらるべき事有らば、外処にて仰せられ候へ。権現を汚し参らせ給ふ程ならば、笈を滌がざらんより外はあるまじ」と威しけれ共、少しも用ゐずして、口々に罵りけり。
 権守申しけるは、
「判官殿、道々も陳じて通り給ふ事、其の隠れなし。是には今程守護こそ留守にて候へども、形の如くも此の尉が承つて候ふ間、上つ方まで聞召し候はんずる事にて候ふ間、斯様に申し候ふ。さ候はば、心休めに笈を一挺賜はつて見参らせ候はん」と申しければ、
「是は御本尊の渡らせ御座しまし候ふ笈を、不浄なる者に左右無く探させん事恐れにてはあれども、和殿原が疑をなし、好む禍なれば、罪を蒙らんは汝等次第よ。すは見よ」とて手に当たる笈一挺取つて投げ出だす。
 何と無く取りて出だしたるが、判官の笈にてぞ有りける。
 武蔵坊是を見て、あはやと思ひける所に三十三枚の櫛を取り出だして、
「是は如何」と申しければ、弁慶あざ笑ひて、
「えいえい、何も知り給はずや、児の髪をば梳らぬか」と言ひければ、権守理と思ひければ、傍らに差し置きて、唐の鏡取り出だし、
「是は如何」と言へば、
「児を具したる旅なれば、化粧の具足を持つまじき謂れが有らばこそ」と言ひければ、
「理」とて八尺の掛帯、五尺の鬘、紅の袴、重の衣を取り出だして、
「是は如何に。児の具足にも是が要るか」と申しければ、
「法師が伯母にて候ふ者、羽黒の権現の惣の巫にて候ふが、鬘袴色良き掛帯買うて下せ」と申し候ふ程に、
「今度の下りに持ちて下り、喜ばせんが為にて候ふぞ」と言ひければ、
「それはさもさうず」と申す。
「さ候はば、今一挺の笈御出し候へ。見候はばや」と申す。
「何挺にてもあれ、心に任す」とて、又一挺投げ出だす。
 片岡が笈にてぞ有りける。
 此の笈の中には兜籠手臑当、柄も無き鉞をぞ入れたりける。
 兎角すれども強くからげたり。
 暗さは暗し。
 解き兼ねてぞ有りける。
 弁慶は手を合はせて、南無八幡と祈念して、
「其の笈には権現の渡らせ給ひ候ふぞ。返す返す不浄にして罰当たり給ふな」と申しければ、
「御正体にて渡らせ給はば、必ず開けずとも知るべき」とて、笈の掛緒を取つて引き上げて振りたりければ、籠手臑当鉞がからりひしりと鳴りければ、権守胸打ち騒ぎ、
「斯かる事こそ候はね。実に御正体にて渡らせ給ひ候ひけるを」とて、
「是受け取り給へ」と申しければ、弁慶、
「然ればこそさしも言ひつる事を。笈滌がざらんには、左右無く受け取り給ふな、御坊達」と言ひければ、左右無く人受け取らず。
「予て言はぬ事か、滌がずは祈れ。清めには物が多く要らんずるぞ」と言ひければ、権守、
「理を枉げて、受け取り給へ」と言へば、
「笈滌がずは、権守が許に御正体を振り棄て奉りて、我等は羽黒に参りて、大衆を催して、御迎ひに参らんずるなり」と威されて、寄せたりける者も一人一人散り散りにぞなりける。
 権守一人は大事になりて、
「笈を滌ぎ候はんには、幾ら程物の要り候ふぞ」と言ひければ、
「権現も衆生利益の御慈悲なれば、形の如くにてこそ有らんずれ。先づ御幣紙の料に檀紙百帖、白米三石三斗、黒米三石三斗、白布百反、紺の布百反、鷲の羽百尻、黄金五十両、毛揃へたる馬七疋、粗薦百枚、これ敷きて積みて参らせば、形の如くなりとも、滌ぎて奉らん」とぞ申しける。
 権守
「如何に思ひ候ふとも極めて貧なる者にて候ふ。叶ひ難く候へ」とて米三石、白布三十反、鷲の羽七尻、黄金十両、毛揃へたる神馬三疋、
「是より外は持ちたるものも候はず。然るべく候はば、申し上げて賜はり候へ」と詫びければ、
「いでさらば権現の御腹なぐさめ参らせん」とて兜、籠手、臑当の入りたる笈に向ひて、何事をか申し、
「むつむつかんかんらんらん蘇波訶蘇波訶」と申して、
「おんころおんころ般若心経」などぞ祈りける。
 笈を突き働かして、
「権現に其の旨申し上げ候ひぬ。世の例なれば、かくは執り行ひ候ひぬ。是等は御辺の計らひにて、羽黒へ届けて参らせて賜び候へ」とて、権守が許にぞ預けける。
 さて夜も更けければ、片岡直江の湊へ下りて見れば、佐渡より渡したりける船に、苫をも葺かず主も無く、櫓櫂□なども有りながら、波に引かれ揺られゐたり。
 片岡是を見て、
「あはれ物やな、此の船を取つて乗らばや」と思ひて、観音堂に参りて、弁慶にかくと言ひければ、
「いざさらば此の船取りて、今朝の嵐に出ださん」とて、湊に下り、十余人取り乗りて押し出だす。
 妙観音の岳より下したる嵐に帆引き掛けて、米山を過ぎて、角田山を見付けて、
「あれ見給へや、風は未だ嵐風弱くならば、櫓を添へて押せや」とぞ申しける。
 青島の北を見給へば、白雲の山腰を離れて、宙に吹かれて出で来るを、片岡申しけるは、
「国の習ひは知らず、此の雲こそ風雲と覚ゆれ。如何すべき」と言ひも果てねば、北風吹き来たりて、陸には砂を上げ、沖には潮を巻いてぞ吹きたりける。
 蜑の釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも、
「我が船もかくぞ有らめ」と思ひ給ふに、心細くして、遙かの沖に漂ひ給ひけり。
「とても叶ふまじくは、只風に任せよ」とて、御舟をば佐渡の島へ馳せ付けて、まほろし加茂潟へ船を寄せんとしけれども、浪高くして寄せ兼ねて、松かげが浦へ馳せもて行く。
 それも白山の岳より下したる風はげしくて、佐渡の島を離れて、能登の国珠州が岬へぞ向けたりける。
 さる程に日も暮方になりければ、いとど心ぞ違ひける。
 御幣を接いで、笈の足に挟みて祈られけるは、
「天を祭る事はさる事にて候へ、此の風を和らげて、今一度陸に著けて、ともかくもなさせ給へ」とて笈の中より白鞘巻を取り出だして、
「八大龍王に参らせ候ふ」とて、海へ入れ給ふ。
 北の方も紅の袴に唐の鏡取り添へて、
「龍王に奉る」とて海に入れさせ給ひけり。
 然れども風は止む事なし。
 さる程に日も既に暮れぬれば、黄昏時にもなりにけり。
 いとど心細くぞ覚えける。
 能登国石動の岳より又西風吹きて船を東へぞ向けたりける。
 あはれ順風やとて、風に任せて行く程に、夜も夜半ばかりになれば、風も静まり、波も和らぎければ、少し人々心安くて、風をはかりに行く程に、暁方に其処とも知らぬ所に御舟を馳せ上げて、陸に上がりて、苫屋に立ち寄りて、
「是をば何処と言ふぞ」と問ひければ、
「越後の国寺泊」とぞ申しける。
「思ふ所に著きたるや」と悦びて、其の夜の中に国上と言ふ所に上がりて、みくら町に宿を借り、明くれば弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の浜にかかりて、蒲原の館を越えて、八十八里の浜などと言ふ所を行き過ぎて、荒川の松原、岩船を通りて、瀬波と言ふ所に左胡□、右靭、せんが桟などと言ふ名所名所を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も無ければ、
「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、
「多くの難所をのがれて、是まで御座しましたれば、今は何事か候ふべき。さりながら用心はせめ」とて、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の□杖に突き、
「あゆめや法師」とて、しとと打ちて行きければ、関守共是を見て、
「何事の咎にて、それ程苛み給ふ」と申しければ弁慶答へけるは、
「是は熊野の山伏にて候ふが、是に候ふ山伏は、子々相伝の者にて候ふが、彼奴を失ふて候ひつるに、此の程見付けて候ふ間、如何なる咎をも当ててくれうず候ふ。誰か咎め給ふべき」とて、いよいよ隙無く打ちてぞ通りける。
 関守共是を見て、難無く木戸を開けて通しけり。
 程無く出羽の国へ入り給ふ。
 其の日ははらかいと言ふ所に著き給ひて、明くれば笠取山などと言ふ所を過ぎ給ひて、田川郡三瀬の薬師堂に著き給ふ。
 是にて雨降り、水増さりければ、二三日御逗留有りけり。
 此処に田川郡の領主田川の太郎実房と言ふ者有り。
 若かりし時より数多子を持ちたりけるが、皆先立てて十三になる子一人持ちたりけるが、瘧病をして、万事限りになりにけり。
 羽黒近き所なれば、然るべき山伏など請じて祈られけれども、其の験もなし。
 此の山伏達御座する由を伝へ聞きて、郎等共に申しけるは、
「熊野羽黒とて、何れも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野権現と申すは、いま一入尊き御事なれば、行者達もさこそ御座すらん。請け奉りて、験者一座せさせ奉りて見ばや」とぞ申しける。
 妻女も子の痛はしさに、
「急ぎ御使参らせ給へ」とて、実房が代官に大内三郎と言ふ者を三瀬の薬師堂へ参らする。
 客僧達へ斯くと申しければ、判官仰せられけるは、
「請用は得たけれども、我等が不浄の身にては何を祈りても其の験やあるべき。
 詮も無からぬもの故に、行きても何かせん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、
「君こそ不浄に渡らせ給へ。我等は都を出でしより、精進潔斎もよく候へば、たとひ験徳の程は無く共、我等が祈り候はん景気の、恐ろしさになどか悪霊も死霊もあらはれざるべき。偶々の請用にて候ふに、只御出で候へかし」と申して、各々寄合ひ笑ひ戯れ奉りければ、
「是は秀衡が知行の所にて候へば、定めて是も伺候の者にて候はめ。何か苦しく候はん、知らせさせ給へ」と申しければ、弁慶聞きて、
「あはれや殿、親の心を子知らずとて、人の心は知り難し。自然の事有らば、後悔先に立つべからず。君の御下著の後、実房参らぬ事は有らじ。其の時の物笑にも知らすべからず」とぞ申しける。
「さて祈手は誰をかすべき。護身は君、数珠押し揉みて候はん為には、弁慶に過ぎ候ふまじ」とて、出で立ち給ひけり。
 御供には武蔵坊、常陸坊、片岡、十郎権頭四人田川が許へ入らせ給ふ。
 持仏堂に入れ奉る。
 田川見参に入り、子をば乳母に介錯せさせて、具してぞ出で来たる。
 験者始め給ふに、よりまはしに十二三ばかりなる童をぞ召されける。
 判官護身し給へば、弁慶数珠をぞ揉みける。
 此の人々祈り給ひける景気心中の恐ろしさにや、口走る。
 幣帛静まりければ、悪霊も死霊も立ち去り、病人即ち平癒す。
 験者いよいよ尊くぞ見え給ふ。
 其の日は止め奉りけり。
 日々に発こりける瘧病今は相違なし。
 いとど信心増さり、喜悦斜ならず、仮初なれども、権現の御威光の程も思ひ知られて、尊く思し召しけり。
 御祈りの布施とて、鹿毛なる馬に黒鞍置きて参らせける。
 砂金百両、
「国の習ひにて候ふ」とて、鷲の羽百尻、残る四人の山伏に小袖一重ねづつ参らせて、三瀬の薬師堂へ送り奉る。
 使帰りけるに、
「御布施賜はり候ふ事、さる事に候へども、是も道の習ひにて候へば、羽黒山にしばらく参籠し候はんずれば、下向の時賜はるべく候ふ。其の間預け申し候ふべし」とて返されけり。
 かくて田川をも発ち給ひ、大泉の庄大梵字を通らせ給ひ、羽黒の御山を外処にて、拝み給ふにも、御参籠の御志は御座しましけれども、御産の月既に此の月に当たらせ給ふに、万恐れをなして、弁慶ばかり御代官に参らせらる。
 残りの人々はにつけのたかうらへかかりて、清河に著き給ふ。
 弁慶はあげなみ山にかかりて、よかはへ参り会ふ。
 其の夜は五所の王子の御前に一夜の御通夜有り。
 此の清川と申すは、
「羽黒権現の御手洗なり。月山の禅定より北の腰に流れ落ちけり。熊野には岩田河、羽黒には清川とて流れ清き名水なり。是にて垢離をかき、権現を伏し拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、此処にては王子王子の御前にて御神楽など参らせて、思ひ思ひの馴子舞し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。
 やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭をばいや権守とぞ申す。
 御船支度して参らせけり。
 水上は雪白水増さりて、御船を上せ兼ねてぞ有りける。
 是や此のはからうさの少将庄の皿島と言ふ所に流されて、
「月影のみ寄するはたなかい河の水上、稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、其処とも知らぬ琵琶の声、霞の隙に紛れる」と謡ひしも今こそ思ひ知られけれ。
 かくて御船を上する程に、禅定より落ちたぎる滝有り。
 北の方、
「是をば何の滝と言ふぞ」と問ひ給へば、白糸の滝と申しければ、北の方かくぞ続け給ふ。
 最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝
 最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝
とすさみつつ、鎧の明神、冑の明神伏し拝み参らせて、たかやりの瀬と申す難所を上らせ、煩ひて御座する所に、上の山の端に猿の声のしければ、北の方かくぞ続け給ひける。
 引きまはすかちはは弓に有らねどもたが矢で猿を射て見つるかな
 かくて差し上らせ給ふ程に、見るたから、たけ比べの杉などと言ふ所を見給ひて、矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。
 判官、
「寄道は二日なるが、湊にかかりては、宮城野の原、榴が岡、千賀の塩亀など申して、三日に廻る道にて候ふに、亀割山を越えて、へむらの里、姉歯の松へ出でては直に候ふ。 何れをか御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ、
「名所名所を見たけれども、一日も近く候ふなれば、亀割山とやらんにかかりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかかり給ひける。

亀割山にて御産の事

 各々亀割山を越え給ふに、北の方御身を労り給ふ事有り。
 御産近くなりければ、兼房心苦しくぞ思ひける。
 山深くなる儘に、いとど絶え入り給へば、時々は傅り奉りて行く。
 麓の里遠ければ、一夜の宿を取るべき所もなし。
 山の峠にて道の辺二町ばかり分け入りて、或る大木の下に敷皮を敷き、木の下を御産所と定めて宿し参らせけり。
 いよいよ御苦痛を責めければ、恥づかしさもはや忘れて、息吹き出だして、
「人々近くて叶ふまじ。遠く退けよ」と仰せられければ、侍共皆此処彼処へ立ち退きけり。
 御身近くは十郎権頭、判官殿ばかりぞ御座しける。
 北の方
「是とても心安かるべきには有らね共、せめては力及ばず」とて、又絶え入り給ひけり。
 判官も今はかくぞとぞ思し召しける。
 猛き心も失ひ果てて、
「斯かるべしとは予て知りながら、是まで具足し奉り、京をば離れ、思ふ所へは行き著かず、道中にて空しくなし奉らん事の悲しさよ。誰を頼みて、是まで遙々有らぬ里に御身をやつし、義経一人を慕ひ給ひて、かかる憂き旅の空に迷ひつつ、片時も心安き事を見せ聞かせ奉らず、失ひ奉らん事こそ悲しけれ。人に別れては片時もあるべしとも覚えず、只同じ道に」と掻き口説き涙も堰き敢へず悲しみ給へば、侍共も、
「軍の陣にては、かくは御座せざりしものを」と皆袂をぞ絞りける。
 しばらく有りて息吹き出だして、
「水を」と仰せられければ、武蔵坊水瓶を取りて出でたりけれども、雨は降る、暗さは暗し、何方へ尋ね行くべきとは覚えねども、足に任せて谷を指してぞ下りける。
 耳を欹てて谷川の水や流るると聞きけれ共、此の程久しく照りたる空なれば、谷の小川も絶え果てて、流るる水も無かりければ、武蔵只掻き口説き、独言に申しけるは、
「御果報こそ少なく御座するとも、斯様に易き水をだにも、尋ね兼ねたる悲しさよ」とて、泣く泣く谷に下る程に、山河の流るる音を聞き付けて悦び、水を取りて嶺に上らんとすれども、山は霧深くして、帰るべき方を失ひけり。
 貝を吹かんとすれども、麓の里近かるらんと思ひて、左右無く吹かず。
 然れども時刻移りては叶ふまじと思ひて、貝をぞ吹きたりける。
 嶺にも貝を合はせたる。
 弁慶とかくして水を持ちて、御枕に参りて参らせんとしければ、判官涙に咽びて仰せられけるは、
「尋ねて参りたる甲斐もなし。はや言切れ果て給ひぬ。誰に参らせんとて、是まではたしなみけるぞや」とて泣き給へば、兼房も御枕にひれ伏してぞ泣き居たり。
 弁慶も涙を抑へて、御枕に寄りて、御頭を動かして申しけるは、
「よくよく都に留め奉らんと申し候ひしに、心弱くて是まで具足し参らせて、いま憂き目を見せ給ふこそ悲しけれ。仮令定業にて渡らせ給ふとも、是程に弁慶が丹誠を出だして尋ね参りて候ふ水を、聞召し入りてこそ如何にもならせ給ひ候はめ」とて、水を御口に入れ奉りければ、受け給ふと覚しくて、判官の御手に取り付き給ひて、又消え入り給へば、判官も共に消え入る心地して御座しけるを、弁慶、
「心弱き御事候ふや。事も事にこそより候へ。そこ退き給へ、権頭」とて、押し起こし奉り、御腰を抱き奉り、
「南無八幡大菩薩、願はくは御産平安になし給へ。さて我が君をば捨て給ひ候ふや」と祈念しければ、常陸坊も掌を合はせてぞ祈りける。
 権頭は声を立ててぞ悲しみける。
 判官も今は掻き昏れたる心地して、御頭を並べて、ひれふし給ひけり。
 北の方御心地つきて、
「あら心憂や」とて、判官に取り付き給へば、弁慶御腰を抱き上げ奉れば、御産やすやすとぞし給ひける。
 武蔵少人のむづかる御声を聞きて、篠懸に押し巻きて抱き奉る。
 何とは知らねども、御臍の緒切り参らせて、浴せ奉らんとて、水瓶に有りける水にて洗ひ奉り、
「やがて御名を付け参らせん。是は亀割山、亀の万劫を取りて、鶴の千歳になぞらへて、亀鶴御前」とぞ付け奉る。
 判官是を御覧じて、
「あら幼なの者の有りさまやな。何時人となりぬとも見えぬ者かな。義経が心安からばこそ、又行末も静かならめ。物の心を知らぬ先に、疾く疾く此の山の巣守になせ」と宣ひけり。
 北の方聞召して、今まで御身を悩まし奉りたるとも思し召されず、
「怨めしくも承り候ふものかな。偶々人界に生を受けたるものを、月日の光をも見せずして、むなしくなさん事、如何にぞや。御不審蒙らば、それ権頭取り上げよ。是より都へは上るとも、如何でかむなしく為すべき」と悲しみ給へば、武蔵是を承つて、
「君一人を頼み参らせて候へば、自然の事も候はば、また頼み奉るべき方も候ふまじきに、此の若君を見上げ参らせんこそ頼もしく候へ。是程美しく渡らせ給ふ若君を、争か失ひ参らせ候ふべき」
とて、
「果報は伯父鎌倉殿に似参らせ給ふべし。力は甲斐々々しくは候はねども、弁慶に似給へ。御命は千歳万歳を保ち給へ」とて、是より平泉は又さすがに程遠く候ふに、道行人に行き会うて候はんに、はかなとはしむづかりて、弁慶恨み給ふな」とて、篠懸に掻い巻きて、帯の中にぞ入れたりける。
 其の間三日に下り著き給ひけるに、一度も泣き給はざりけるこそ不思議なれ。
 其の日はせひの内と言ふ所にて、一両日御身労はり、明くれば馬を尋ねて乗せ奉り、其の日は栗原寺に著き給ふ。
 それよりして亀井の六郎、伊勢の三郎御使にて、平泉へぞ遣はされける。

判官平泉へ御著きの事

 秀衡判官の御使と聞き、急ぎ対面す。
「此の程北陸道にかかりて、御下りとは略承り候ひつれども、一定を承らず候ひつるに依つて、御迎ひ参らせず。越後、越中こそ恨み有らめ、出羽の国は秀衡が知行の所にて候へば、各々何故御披露候ひて、国の者共に送られさせ御座しまし候はざりけるぞ。急ぎ御迎ひに人を参らせよ」とて、嫡子泰衡の冠者を呼びて、
「判官殿の御迎ひに参れ」と申しければ、泰衡百五十騎にてぞ参りける。
 北の方の御迎ひには御輿をぞ参らせける。
「かくも有りける物を」と仰せられて、磐井の郡に御座しましたりければ、秀衡左右無く我が許へ入れ参らせず、月見殿とて常に人も通はぬ所に据ゑ奉り、日々の□飯をもてなし奉る。
 北の方には容顔美麗に心優なる女房達十二人、其の外下女半物に至るまで、整へてぞ付け奉る。
 判官と予ての約束なりければ、名馬百疋、鎧五十両、征矢五十腰、弓五十張、御手所には桃生郡、牡鹿郡、志太郡、玉造、遠田郡とて、国の内にて良き郡、一郡には三千八百町づつ有りけるを、五郡ぞ参らせける。
 侍共には勝れたる胆沢、江刺、はましの庄とて、此の中分々に配分せられけり。
「時々は何処へも出で、なぐさみ給へ」とて、骨強き馬十疋づつ、沓行縢に至るまで、志をぞ運びける。
「所詮今は何に憚るべき、只思ふ様に遊ばせ参らせよ」とて、泉の冠者に申し付けて、両国の大名三百六十人を選つて、日々の□飯を供へたる。
 やがて御所つくれとて、秀衡が屋敷より西にあたりて、衣川とて地を引き、御所つくりて入れ奉る。
 城の体を見るに、前には衣川、東は秀衡が館なり。
 西はたうくが窟とて、然るべき山に続きたり。
 斯様に城郭を構へて、上見ぬ鷲の如くにて御座しけり。
 昨日までは空山伏、今日は何時しか男になりて、栄華開いてぞ御座しける。
 折々毎に北陸道の御物語、北の方の御振舞など仰せられ、各々申し出だし、笑草にぞなりける。
 かくて年も暮れければ、文治三年になりにけり。

義経記巻第七了

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