義経記  巻第三

 目録 熊野の別当乱行の事 弁慶生まるる事
     弁慶山門を出づる事 書写炎上の事
     弁慶洛中において人の太刀を取る事
     義経弁慶君臣の契約の事 頼朝謀反の事 義経謀反の事

熊野の別当乱行の事

 義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。
 俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。
 年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。
 天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。
 大臣師長懇ろに申し給ひければ、さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事有り。
 東の方は叶はじ。
 明年の春の頃と約束せられけり。
 御年十五と申す夏の頃如何なる宿願にか、五条の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、辰巳の方より俄に風吹き来たりて、御身にあたると思ひ給ひければ、物狂はしく労ぞ出で来給ひたる。
 大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、
「今度の病たすけさせ給へ。明年の春の頃は参詣を遂げ、王子王子の御前にて宿願を解き候ふべし」と祈られければ、程無く平癒し給ひぬ。
 斯くて次の年の春、宿願を晴らさせ給はん為に参詣有り。
 師長、大納言殿よりして、百人道者付け奉りて、三の山の御参詣を事故無く遂げ給ふ。
 本宮証誠殿に御通夜有りけるに別当も入堂したりけり。
 遙かに夜更けて、内陣にひそめきたり。
 何事なるらんと姫君御覧ずる処に、
「別当の参り給ひたる」とぞ申したり。
 別当幽なる燈火の影より此の姫君を見奉り給ひて、さしも然るべき行人にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、
「如何なる人ぞ」と問はれければ、
「是は二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方」とぞ申しける。
 別当、
「それは約束ばかりにてこそあんなれ。未だ近づき給はず候ふと聞くぞ。先々大衆の、あはれ熊野に何事も出で来よかしと人の心をも我が心をも見んと言ひしは今ぞかし。出で立ちてあしきの無からん所に、道者追ひ散らして、此の人を取つてくれよかし。別当が児にせん」とぞ宣ひける。
 大衆是を聞きて、
「さては仏法の仇、王法の敵とやなり給はんずらん」と申しければ、
「臆病の致す所にてこそあれ。斯かる事を企つる習ひ、大納言殿、師長、院の御所へ参り、訴訟申し給はば、大納言を大将として畿内の兵こそ向はんずらめ。それは思ひ設けたる事なれ。新宮熊野の地へ敵に足を踏ませばこそ」とぞ宣ひける。
 先々の僻事と申すは大衆の赴きを別当の鎮め給ふだにも、ややもすれば衆徒逸りき。
 況んや、是は別当起こし給ふ事なれば、衆徒も兵を進めけり。
 我も我もと甲冑をよろひ、先様に走り下りて、道者を待つ所に又後より大勢鬨を作りて追つかけたり。
 恥を恥づべき侍共皆逃げける。
 衆徒輿を取つて帰り、別当に奉る。
 我が許は上下の経所なりければ、若し京方の者有るやとて、政所に置き奉り、諸共に明暮引き篭りてぞおはしける。
 若し京より返し合はする事もやと用心きびしくしたりけり。
 されども私の計らひにて有らざれば、急ぎ都へ馳せ上りて、此の由を申したりければ右大臣殿大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人共を催して、師長、大納言殿を両大将として、七千余騎にて、
「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ」とて、熊野に押し寄せ給ひて攻め給へば、衆徒身を捨てて防ぐ。
 京方叶はじとや思ひけん、切目の王子に陣取て、京都へ早馬を立て申されければ、
「合戦遅々する仔細有り。其の故は公卿僉議有りて、平宰相信業の御娘、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひしを、今此の事に依つて熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には此の姫君を内より返し奉り給はば、何の御憤りか有るべき。又二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべきか。年長けたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ」とぞ僉議事畢りて、切目の王子に早馬を立て、此の由を申されければ、右大臣公卿僉議の上は申すに及ばずとて、打ち捨てて帰り上り給ふ。
 二位の大納言は又我一人して憤るべきならずとて、打ち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりと雖も、ややもすれば兵共我等がする事は宣旨院宣にも従はばこそと自嘆して、いよいよ代を世ともせざりけり。
 扨姫君は別当に従ひて年月を経る程に、別当は六十一、姫君に馴れて子を儲けんずるこそ嬉しけれ。
 男ならば仏法の種を継がせて、熊野をも譲るべしとて、斯くして月日を待つ程に、限り有る月に生まれず、十八月にて生まれける。

弁慶生まるる事

 別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、
「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。
 別当に此の由を申しければ、
「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置いては仏法の仇となりなんず。水の底に紫漬にもし、深山に磔にもせよ」とぞ宣ひける。
 母是を聞き、
「それは然る事なれ共、親となり、子と成りし、此の世一つならぬ事ぞと承る。忽ちに如何失はん」と嘆き入りてぞおはしける所に、山の井の三位と言ひける人の北の方は、別当の妹なり。
 別当におはして幼き人の御不審を問ひ給へば、
「人の生まるると申すは九月十月にてこそ極めて候へ。彼奴は十八月に生まれて候へば、助け置きても親の仇ともなるべく候へば、助け置く事候ふまじ」と宣ひける。
 叔母御前聞き給ひて、
「腹の内にて久しくして生まれたる者、親の為に悪しからんには、大唐の黄石が子は腹の内にて八十年の歯を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳、丈低く色黒くして、世の人には似ず。されども八幡大菩薩の御使者現人神と斎はれ給ふ。理をまげて、我等に賜はり候へ。京へ具して上り、善くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪くは法師になして、経の一巻も読ませたらば、僧党の身として罪作らんより勝るべし」と申されければ、さらばとて叔母に取らせける。
 産所に行きて産湯を浴びせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、具して京へ上り、乳母を付けてもてなし伝きける。
 鬼若五つにては、世の人十二三程に見えける。
 六歳の時疱瘡と言ふものをして、いとど色も黒く、髪は生まれたる儘なれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて、比叡の山の学頭西塔桜本の僧正の許に申されけるは、
「三位殿の為には養子にて候ふ。学問の為に奉り候ふ。眉目容貌は参らするに付けて恥ぢ入り候へども、心は賢々しく候ふ。書の一巻も読ませて賜び候へ。心の不調に候はんは直させ給ひ候ひて、如何様にも御計らひにまかせ候ふぞ」とて上せけり。
 桜本にて学問する程に、精は月日の重なるに随ひて、人に勝れてはかばかし。
 学問世に越えて器用なり。
 されば衆徒も、
「容貌は如何にも悪かれ。学問こそ大切なり」と宣ひぬ。
 学問に心をだにも入れなば、さてよかるべきに、力も強く骨太なり。
 児、法師原を語らひて、人も行かぬ御堂の後ろ、山の奥などへ篭り居て、腕取、腕押、相撲などぞ好みける。
 衆徒此の事を聞きて、
「我が身こそ、徒者にならめ、人の所に学問する者をだに賺し出だして、不調になす事不思議なり」とて、僧正の許に訴訟の絶ゆる事なし。
 斯く訴へける者をば敵の様に思ひて、其の人の方へ走り入りて、蔀、妻戸を散々に打ち破りけれども、悪事も武用も鎮むべき様ぞ無き。
 其の故は父は熊野の別当なり。
 養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊の学頭の児にて有る間、手をも指して良き事有るまじとて、只打ち任せてぞ狂はせける。
 されば相手は変はれども鬼若は変はらず、諍の絶ゆる事なし。
 拳を握り、人を締めければ、人々道をも直に行得ず。
 偶々逢ふ者も道を避けなどしければ、其の時は相違無く通して後、会うたる時取つて抑へて、
「さもあれ、過ぎし頃は行き逢ひ参らせて候ふに、道を避けられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ」と問ひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする物を、肱捩ぢ損じ、拳を以てこは胸を押し損じなどする間、逢ふ者の不祥にてぞ有りける。
 衆徒僉議して、僧正の児なり共、山の大事にて有るぞとて、大衆三百人院の御所へ参りて申しければ、
「それ程の僻事の者をば急ぎ追ひ失へ」
と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰所に公卿僉議有りて、古き日記見給へば、
「六十一年に山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にて是を鎮めつれば、一日が中に天下無双の願所五十四ケ所ぞと言ふ事有り。今年六十一年に相当たる。只棄て置け」とぞ仰せける。
 衆徒憤り申しけるは、
「鬼若一人に三千人の衆徒と思召しかへられ候ふこそ遺恨なれ。さらば山王の御輿を振り奉らん」と申しければ、神には御料を参らせ給ひければ、衆徒此の上はとて鎮まりけり。
 此の事鬼若に聞かすなとて隠し置きたりしを、如何なる痴の者か知らせけん、
「是は遺恨なり」とて、いとど散々に振舞ひける。
 僧正もて扱ひて、
「有らば有ると見よ。無くは無しと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。

弁慶山門を出づる事

 鬼若僧正の憎み給へる由を聞きて、頼みたる師の御坊にも斯様に思はれんに、山に有りても詮なし。
 目にも見えざらん方へ行かんと思ひ立つて出でけるが、斯くては何処にても山門の鬼若とぞ言はれんずらん。
 学問に不足なし。
 法師になりてこそ行かめと思ひて、髪剃り、衣を取り添へて、美作の治部卿と言ふ者の湯殿に走り入りて、盥の水にて手づから髪を洗ひ、所々を自剃にしたりける。
 彼の水に影を写して見れば、頭は円くぞ見えける。
 斯くては叶はじとて、戒名をば何とか言はましと思ひけるが、昔此の山に悪を好む者有り。
 西塔の武蔵坊とぞ申しける。
 廿一にて悪をし初めて、六十一にて死にけるが、旦座合掌して往生を遂げたると聞く。
 我等も名を継いで呼ばれたらば、剛になる事も有らめ。
 西塔の武蔵坊と言ふべし。
 実名は父の別当は弁せうと名乗り、其の師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶とぞ名乗りける。
 昨日までは鬼若、今日は何時しか武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 山上を出でて、小原の別所と申す所に山法師の住み荒らしたる坊に誰留むると無けれども、暫くは尊とげにてぞ居たりける。
 されども児なりし時だにも眉目悪く、心異相なれば、人もてなさず、まして訪ひ来る人も無ければ、是をも幾程無くあくがれ出でて、諸国修行にとて又出でて、津の国河尻に下り、難波潟を眺めて、兵庫の嶋など言ふ所を通りて、明石の浦より船に乗つて、阿波の国に著きて、焼山、つるが峰を拝みて、讚岐の志度の道場、伊予の菅生に出でて、土佐の幡多まで拝みけり。
 かくて正月も末になりければ、又阿波国へ帰りける。

書写山炎上の事

 弁慶阿波国より播磨国に渡り、書写山に参り、性空上人の御影を拝み奉り、既に下向せんとしたるが、同じくは一夏篭らばやと思ひける。
 此の夏と申すは諸国の修行者充満して、余念も無く勤めける。
 大衆は学頭の坊に集会し、修行者経所に著く。
 夏僧は虚空蔵の御堂にて、人に付いて夏中の様を聞きて、学頭の坊に入りけるに、弁慶は推参して、長押の上に憎気なる風情して、学頭の座敷を暫く睨みて居たりけり。
 学頭共是を見て、
「一昨日昨日の座敷にも有り共覚えぬ法師の推参せられ候ふは、何処よりの修行者ぞ」と問ひければ、
「比叡の山の者にて候ふ」と申しければ、
「比叡の山はどれより」
「桜本より」と申す。
「僧正の御弟子か」と申せば、
「さん候」
「御俗姓は」と問はれて、事しげなる声して、
「天児屋根の苗裔、中の関白道隆の末、熊野の別当の子にて候ふ」と申しけるが、一夏の間は如何にも心に入れて勤め、退転無く行ひて居たりける。
 衆徒も
「初めの景気今の風情相違して見えたり。されば人には馴れて見えたり。隠便の者にて有りけるや」とぞ褒めける。
 弁慶思ひけるは、斯くて一夏も過ぎ、秋の初めにもなりなば、又国々に修行せんとぞ思ひける。
 されども名残を惜しみて出でもやらで居たり。
 さてしも有るべき事ならねば、七月下旬に学頭に暇乞はんとて行きたりければ、児大衆酒盛してぞ有りける。
 弁慶参じては詮無しと思ひて出でけるが、新しき障子一間立たる所有り。
 此処に昼寝せばやと思ひて、暫く臥しけるに、其の頃書写に相手嫌はぬ諍好む者有り。
 信濃坊戒円とぞ申しける。
 弁慶が寝たるを見て、多くの修行者見つれども、彼奴程の広言して憎気なる者こそ無けれ。
 彼奴に恥をかかせて、寺中を追ひ出ださんと思ひて、硯の墨摺り流し、武蔵坊が面に二行物を書いたりけり。
 片面には「足駄」と書き、片面には「書写法師の足駄に履く」と書きて、弁慶は平足駄とぞなりにけり面を踏めども起きも上がらずと書き付けて、小法師原を二三十人集めて、板壁を敲いて同音に笑はせける。
 武蔵坊悪しき所に推参したりけるやと思ひて、衣の袂引き繕ひて衆徒の中へぞ出でにける。
 衆徒是を見て、目引き鼻引き笑ひけり。
 人は感に堪へで笑へども、我は知らねばをかしからず。
 人の笑ふに笑はずは、弁慶遍執に似ると思ひ、共に笑ひの顔してぞ笑ひける。
 されども座敷の体隠しげに見えければ、弁慶我が身の上と思ひて、拳を握り、膝を抑へて、
「何の可笑しきぞ」と叱りける。
 学頭是を見給ひて、
「あはや此の者座こそ損じて見え候へ。如何様寺の大事となりなんず」と宣ひて、
「詮無き事に候ふ。御身の事にては候はぬ。外処の事を笑ひて候ふ。何の詮かおはすべき」と宣へば、座敷を立つて、但島の阿闍梨と言ふ者の坊、其の間一町ばかり有り、是も修行者の寄合所にて有りければ、何処へ行き会ふ人々も弁慶を笑はぬ人はなし。
 怪しと思ひて、水に影を写して見れば、面に物をぞ書かれたる。
 さればこそ、是程の恥に当たつて、一時なりとも有りて詮なし。
 何方へも行かんと思ひけるが、又打ち返し思ひけるは、我一人が故に山の名をくたさん事こそ心憂けれ。
 諸人を散々に悪口して咎むる者をならはして、恥をすすぎて出でばやと思ひて、人々の坊中へめぐり、散々に悪口す。
 学頭此の事を聞きて、
「何ともあれ。書写法師面を張り伏せられぬと覚ゆる。此の事僉議して、此の中に僻事の者有らば、それを取つて修行者に取らせて、大事を止めん」とて衆徒催して、講堂にして学頭僉議す。
 されども弁慶は無かりけり。
 学頭使者を立てけれども、老僧の使の有るにも出でざりけり。
 重ねて使ひ有るに、東坂の上に差し覗きて、後ろの方を見たりければ、廿二三ばかりなる法師の、衣の下に伏縄目の鎧腹巻著てぞ出で来たる。
 弁慶是を見て、こは如何に、今日は隠便の僉議とこそ聞きつるに、彼奴が風情こそ怪しからね、内々聞くに、衆徒僻事をしたらば拷を乞へ、修行者僻事有らば小法師原に放ち合はせよと言ふなるに、かくて出で、大勢の中に取り篭められ叶ふまじ。
 我もさらば行きて出で立たばやと思ひて、学頭の坊に走り入りて
「こは如何」と人の問ふ返事をもせず、人も許さざりけるに、何時案内は知らねども、納殿につと走り入りて、唐櫃一合取つて出で、褐の直垂に黒糸威の腹巻著て、九十日剃らぬ頭に、揉烏帽子に鉢巻し、石榴の木を以て削りたる棒の、八角に角を立てて、本を一尺ばかり丸くしたるを引杖にして、高足駄を履いて、御堂の前にぞ出で来る。
 大衆是を見て、
「此処に出で来る者は何者ぞ」と言ひければ、
「是こそ聞こゆる修行者よ」
「あら怪しからぬ有様かな。此の方へ呼びてよかるべきか、捨てて置きてよかるべきか」
「捨て置いても、呼びてもよかるまじ」
「さらば目な見せそ」と申しける。
 弁慶是を見て、如何にとも言はんかと思ひつるに、衆徒の伏目になりたるこそ心得ね。
 善悪を外処にて聞けば大事なり。
 近づきて聞かばやと思ひ、走り寄つて見ければ、講堂には老僧児共打ち交りて三百人ばかり居流れたり。
 縁の上には中居の者共、小法師原一人も残らず催したり。
 残る所無く寺中上を下に返して出で来る事なれば、千人ばかりぞ有りける。
 其の中に悪しく候ふとも言はず、足駄踏みならし、肩をも膝をも踏み付けて通りけり。
 あともそとも言はば、一定事も出で来なんと思ふ。
 皆肩を踏まれて通しけり。
 階の許に行きて見れば、履物共ひしと脱ぎたり。
 我も脱ぎ置かばやと思ひけるが、脱げば災を除くに似ると思ひ、履きながらがらめかしてぞ上りけり。
 衆徒咎めんとすれば事乱れぬべし。
 詮ずる所、取り合ひて詮なしとて、皆小門の方へぞ隠れける。
 弁慶は長押の際を足駄履きながら彼方此方へぞ歩きける。
学頭「見苦しきものかな、さすが此の山と申すは、性空上人の建立せられし寺なり。然るべき人おはする上、幼き人の腰もとを足駄履いて通る様こそ奇怪なれ」と咎められて弁慶つい退つて申しけるは、
「学頭の仰せは勿論に候ふ。然様に縁の上に足駄履いて候ふだにも狼藉なりと咎め給ふ程の衆徒の、何の緩怠に修行者の面をば足駄にしては履かれけるぞ」と申しければ、道理なれば衆徒音もせず。
 中々放ち合はせて置きたらば、学頭の計らひに如何様にも賺して出づべかりしを、禍起こりたりける。
 信濃是を聞きて、
「興なる修行法師奴が面や」と居丈高になりて申しける。
「余りに此の山の衆徒は驍傲が過ぎて、修行者奴等に目を見せて、既に後悔し給ふらんものを、いで習はさん」とて、つと立つ。
 あは、事出で来たりとて犇めく。
 弁慶是を見て、
「面白し、彼奴こそ相手嫌はずのえせ者よ。己れが腕の抜くるか、弁慶が脳の砕くるか。思へば弁慶が面に物を書きたる奴か、憎い奴かな」とて、棒を取り直し、待ち懸けたり。
 戒円が寺の法師原五六人、座敷に有りけるが、是を見て、
「見苦しく候ふ。あれ程の法師、縁より下に掴み落して、首の骨踏み折つて捨てん」とて、衣の袖取りて結び、肩にかけ、喚き叫んで懸かるを見て、弁慶えいやと立ち上がり、棒を取つて直し、薙打に一度に縁より下へ払ひ落しける。
 戒円是を見て走り立ちて、あたりを見れども打つべき杖なし。
 末座を見れば、檪を打ち切り打ち切りくべたる燃えさしを追つ取り、炭櫃押しにじりて、
「一定か和法師」とて走り懸かる。
 弁慶しきりに腹を立て、以て開いてちやうど打つ。
 戒円走り違ひてむずと打つ。
 弁慶、がしと合はせて、潛り入りて、弓手の腕を差しのべ、かうを掴んでむずと引き寄せ、右手の腕を以て戒円が股を掴みそへて、目より高く引つさげて、講堂の大庭の方へ提げもて行く。
 衆徒是を見て、
「修行者御免候へ。それは地体酒狂ひするものにて候ふぞ」と申しければ、弁慶
「見苦しく見えさせ給ふものかな。日頃の約束には修行者の酒狂ひは大衆鎮め、衆徒の酒狂ひをば修行者鎮めよとの御約束と承りしかば、命をば殺すまじ」と言うて、一振振つて
「えいや」と言ひて、講堂の軒の高さ一丈一尺有りける上に、投げ上げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転び落ち、雨落ちの石たたきにどうど落つ。
 取つて押ヘて、骨は砕けよ、脛は拉げよと踏んだり。
 弓手の小腕踏み折り、馬手の肋骨二枚損ず。
 中々言ふに甲斐なしとて、言ふばかりもなし。
 戒円が持ちたる燃えさしを、さらば捨てもせで、持ちながら投げ上げられて、講堂の軒に打ち挟む。
 折節風は谷より吹き上げたり。
 講堂の軒に吹き付けて、焼け上がりたり。
 九間の講堂七間の廊下多宝の塔、文殊堂、五重の塔に吹き付けて、一宇も残さず、性空上人の御影堂、是を始めて、堂塔社々の数、五十四ケ所ぞ焼けたりける。
 武蔵坊是を見て、現在仏法の仇となるべし、咎をだに犯しつる上は、まして大衆の坊々は助け置きて、何にかせんと思ひて、西坂本に走り下り、松明に火を付けて、軒を並べたる坊々に一々に火をぞ付けたりける。
 谷より峰へぞ焼けて行く。
 山を切りて懸造にしたる坊なれば、何かは一つも残らず、残るものとては礎のみ残りつつ、廿一日の巳の時ばかりに武蔵坊は書写を出でて、京へぞ行きける。
 其の日一日歩み、其の夜も歩みて、二十二日の朝に京へぞ着きにける。
 其の日は都大雨大風吹きて、人の行来も無かりけるに、弁慶装束をぞしたりける、長直垂に袴をば赤きをぞ著たりける。
 如何にしてか上りけん、さ夜更け、人静まりて後、院の御所の築地に上り、手を拡げて火をともし、大の声にてわつと喚きて、東の方へぞ走りける。
 又取つて返し、門の上につい立ちて、恐ろしげなる声にて、
「あらあさまし。如何なる不思議にてか候ふやらん、性空上人の手づから自ら建て給ひし書写の山、昨日の朝、大衆と修行者との口論によつて、堂塔五十四ヶ所、三百坊一時に煙となりぬ」と呼ばはつて、掻き消す様に失せにけり。
 院の御所には是を聞召し、何故、書写は焼けたると、早馬を立てて御尋ね有り。
「誠に焼けたらば学頭を始めとして衆徒を追ひ出だせ」との院宣なり。
 寺中の下部向ひて見れば、一宇も残らず焼けければ、全く時を移さず、参りて陳じ申さんとて、馳せ上り、院の御所に参じて陳じ申しければ、
「さらば罪科の者を申せ」と仰せ下さる。
「修行者には武蔵坊、衆徒には戒円」と申す。
 公卿是を聞き給ひて、
「さては山門なりし鬼若が事ごさんなれば、是が悪事は山上の大事にならぬ先に、鎮めたらんこそ君ならめ。戒円が悪事是非なし。詮ずる所戒円を召せ。戒円こそ仏法王法の怨敵なれ。しやつを取りて、糾問せよ」とて、摂津国の住人昆陽野太郎承つて、百騎の勢にて馳せ向ひ、戒円を召して、院の御所に参る。
 御前に召されて、
「汝一人が計らひか、与したる者の有りけるか」と尋ねらる。
 糾問厳しかりければ、とても生きて帰らん事不定なれば、日頃憎かりしものを入ればやと思ひて、与したる衆徒とては十一人までぞ白状に入れたりける。
 又昆陽野太郎馳せ向ふ所に、かねて聞こえければ、先立て十一人参り向ふ。
 されども白状に載せたりとて召し置かる。
 陳ずるに及ばず、戒円は遂に責め殺さる。
 死しける時も
「我一人の咎ならぬに、残りを失はれずは、死するとも悪霊とならん」とぞ言ひける。
 かく言はざるだにも有るべし。
 さらば斬れとて、十一人も皆斬られにけり。
 武蔵坊都に有りけるが、是を聞きて、
「かかる心地良き事こそ無けれ。居ながら敵思ふ様にあたりたる事こそ無けれ。弁慶が悪事は朝の御祈りになりけり」とて、いとど悪事をぞしたりける。

弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事

 弁慶思ひけるは、人の重宝は千揃へて持つぞ。
 奥州の秀衡は名馬千疋、鎧千領、松浦の太夫は胡娘千腰、弓千張、斯様に重宝を揃へて持つに、我々は代はりの無ければ、買ひて持つべき様なし。
 詮ずる所、夜に入りて、京中に佇みて、人の帯きたる太刀千振取りて、我が重宝にせばやと思ひ、夜な夜な人の太刀を奪ひ取る。
 暫しこそ有りけれ、
「当時洛中に丈一丈ばかり有る天狗法師の歩きて、人の太刀を取る」とぞ申しける。
 かくて今年も暮れければ、次の年の五月の末、六月の初めまでに多くの太刀を取りたり。
 樋口烏丸の御堂の天井に置く。
 数へ見たりければ、九百九十九こそ取りたりける。
 六月十七日五条の天神に参りて、夜と共に祈念申しけるは、
「今夜の御利生によからん太刀与へて賜び給へ」と祈誓し、夜更くれば、天神の御前に出で、南へ向ひて行きければ、人の家の築地の際に佇みて、天神へ参る人の中に良き太刀持ちたる人をぞ待ち懸けたり。
 暁方になりて、堀河を下りに行きければ、面白く笛の音こそ聞こえけれ。
 弁慶是を聞きて、面白や、さ夜更けて、天神へ参る人の吹く笛か、法師やらん男やらん、よからん太刀を持ちたらば、取らんと思ひて、笛の音の近づきければ、差し屈みて見れば、未だ若人のしろき直垂に胸板を白くしたる腹巻に、黄金造りの太刀の心も及ばぬを帯かれたり。
 弁慶是を見て、あはれ太刀や、何ともあれ、取らんずるものをと思ひて待つ所に、後に聞けば恐ろしき人にてぞ有りける。
 弁慶は如何でか知るべき。
 御曹司は見給ひて、四辺に目をも放たれず、むくの木の下を見給ひければ、怪しからぬ法師の太刀脇挟みて立ちたるを見給へば、彼奴は只者ならず、此の頃都に人の太刀奪ひ取る者は彼奴にて有るよと思はれて、少しもひるまずかかり給ふ。
 弁慶さしも雄猛なる人の太刀をだにも奪ひ取る、まして是等程なる優男、寄りて乞はば、姿にも声にも怖ぢて出ださんずらん。
 げに呉れずは、突倒し奪ひ取らんと支度して、弁慶現れ出で、申しけるは、
「只今静まりて敵を待つ所に怪しからぬ人の物具して通り給ふこそ怪しく在じ候へ。左右無くえこそ通すまじけれ。然らずは其の太刀此方へ賜はりて通られ候へ」と申しければ、御曹司是を聞き給ひて、
「此の程さる痴の者有りとは聞き及びたり。左右無くえこそ取らすまじけれ。欲しくは寄りて取れ」とぞ仰せられける。
「さては見参に参らん」とて、太刀を抜いで飛んでかかる。
 御曹司も小太刀を抜いで築地の許に走り寄り給ふ。
 武蔵坊是を見て、
「鬼神とも言へ、当時我を相手にすべき者こそ覚えね」とて以て開いてちやうど打つ。
 御曹司
「彼奴は雄猛者かな」とて、稲夫の如く弓手の脇へづと入り給へば、打ち開く太刀にて築地の腹に切先打ち立てて、抜かんとしける暇に、御曹司走り寄りて、弓手の足を差し出だして、弁慶が胸をしたたかに踏み給へば、持ちたる太刀をからりと棄てたるを取つて、えいやと言ふ声の内に九尺ばかり有りける築地にゆらりと飛び上がり給ふ。
 弁慶胸はいたく踏まれぬ。
 鬼神に太刀取られたる心地して、あきれてぞ立ちたりける。
 御曹司
「是より後にかかる狼藉すな。さる痴の者有りかとかねて聞きつるぞ。太刀も取りてゆかんと思へども、欲しさに取りたりと思はんずる程に取らするぞ」とて築地の覆ひに押し当てて、踏みゆがめてぞ投げかけ給ふ。
 太刀取つて押し直し、御曹司の方をつらげに見遣りて、
「念無く御辺はせられて候ふ物かな。常に此の辺におはする人と見るぞ。今宵こそ仕損ずるとも是より後においては心許すまじき物を」とつぶやきつぶやきぞ行きける。
 御曹司是を見給ひて、何ともあれ、彼奴は山法師にてぞ有るらんと思召しければ、
「山法師人の器量に似ざりけり」と宣へども、返事もせず。
 何ともあれ、築地より下り給はん所を切らんずるものをと思ひて待ちかけたり。
 築地よりゆらりと飛び下り給へば、弁慶太刀打ち振りてづと寄る。
 九尺の築地より下り給ひしが、下に三尺ばかり落ちつかで、又取つて返し上にゆらりと飛び返り給ふ。
 大国の穆王は六韜を読み、八尺の壁を踏んで天に上がりしをこそ上古の不思議と思ひしに、末代と雖も、九郎御曹司は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びの中に宙より飛び返り給ふ。
 弁慶は今宵は空しく帰りけり。

弁慶義経に君臣の契約申す事

 頃は六月十八日の事なるに、清水の観音に上下参篭す。
 弁慶も何ともあれ、昨夕の男清水にこそ有るらんに、参りて見ばやと思ひて参りける。
 白地に清水の惣門に佇みて待てども見え給はず。
 今宵もかくて帰らんとする所に何時もの癖なれば、夜更けて清水坂の辺に例の笛こそ聞こえけれ。
 弁慶
「あら面白の笛の音や、あれをこそ待ちつれ。此の観音と申すは、坂上田村丸の建立し奉りし御仏なり。我三十三身に身を変じて衆生の願ひを満てずは、祇園精舎の雲に交り、永く正覚を取らじと誓ひ、我地に入らん者には福徳を授けんと誓ひ給ふ御仏なり。されども弁慶は福徳も欲しからず、只此の男の持ちたる太刀を取らせて賜べ」と祈誓して、門前にて待ちかけたり。
 御曹司ともすればいぶせく思召しければ、坂の上を見上げ給ふに、彼の法師こそ昨日に引き替へて、腹巻著て、太刀脇挟み、長刀杖に突き待ちかけたり。
 御曹司見給ひて、曲者かな、又今宵も是に有りけるやと思ひ給ひて、少しも退かで門を指して上り給へば、弁慶
「只今参り給ふ人は、昨日の夜天神にて見参に入りて候ふ御方にや」と申しければ、御曹司
「さる事もや」と宣へば、
「さて持ち給へる太刀をば賜び候ふまじきか」とぞ申しける。
 御曹司
「幾度も只は取らすまじ。欲しくは寄りて取れ」と宣へば、
「何時も強言は変はらざり」とて、長刀打ち振り、真下りに喚いて懸かる、御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。
 弁慶が大長刀を打ち流して、手並の程は見しかば、あやと肝を消す。
 さもあれ、手にもたまらぬ人かなと思ひけり。
 御曹司
「終夜、斯くて遊びたくあれども、観音に宿願有り」とて打ち行き給ひぬ。
 弁慶独言に、
「手に取りたるものを失ひたる心地する」とぞ申しける。
 御曹司、何ともあれ、彼奴は雄猛なる者なり。
 あはれ、暁まであれかし。
 持ちたる太刀長刀打ち落して、薄手負せて生捕にして、独り歩くは徒然なるに、相伝にして召し使はばやとぞ思召しける。
 弁慶此の企を知らず、太刀に目を懸けて、跡につきてぞ参りける。
 清水の正面に参りて、御堂の中を拝み奉れば、人の勤の声はとりどりなりと申せば、殊に正面の内の格子の際に、法華経の一の巻の始めを尊く読み給ふ声を聞きて、弁慶思ひけるは、あら不思議やな、此の経読みたる声は有りつる男の
「憎い奴」と言ひつる声に、さも似たるものかなと、寄りて見んと思ひて持ちたる長刀をば正面の長押の上に差し上げて、帯きたる太刀ばかり持ちて、大勢の居たる中に、
「御堂の役人にて候ふ。通させ給へ」とて人の肩をも嫌はず、押へて通りけり。
 御曹司御経遊ばして居給へる後ろに踏みはたかりて立ち上がりけり。
 御燈火の影より人是を見て、
「あらいかめしの法師や、丈の高さよ」とぞ申しける。
 何として知りて是まで来たるらんと、御曹司は見給へども、弁慶は見付けず。
 只今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣打ち被き居給ひたり。
 武蔵坊思ひわづらひてぞ有りける。
 中々是非無く推参せばやと思ひ、太刀の尻鞘にて、脇の下をしたたかに突き動かして、
「児か女房か、是も参りにて候ふぞ。彼方へ寄らせ給へ」と申しけれども返事もし給はず。
 弁慶さればこそ、只者にては有らず。
 有りつる人ぞと思ひ、又したたかにこそ突いたりけれ。
 其の時御曹司仰せられけるは、
「不思議の奴かな。己れが様なる乞食は木のした、萱の下にて申す共、仏の方便にてましませば、聞召し入れられんぞ。方々おはします所にて狼籍なり。其処退き候へ」と仰せられけれども、弁慶
「情無くも宣ふものかな。昨日の夜より見参に入りて候ふ甲斐も無く、其方へ参り候はん」と申しもはたさず、二畳の畳を乗り越え、御傍へ参る。
 人推参尾篭なりと憎みける。
 斯かりける所に、御曹子の持ち給へる御経を追つ取つて、ざつと開いて、
「あはれ御経や、御辺の経か、人の経か」と申しける。
 されども返事もし給はず、
「御辺も読み給へ。我も読み候はん」と言ひて読みけり。
 弁慶は西塔に聞こえたる持経者なり。
 御曹司は鞍馬の児にて習ひ給ひたれば、弁慶が甲の声、御曹司の乙の声、入り違へて二の巻半巻ばかりぞ読まれたる。
 参り人のえいやづきもはたはたと鎮まり、行人の鈴の声も止めて、是を聴聞しけり。
 万々世間澄み渡りて尊く心及ばず、暫く有りて、
「知る人の有るに立ち寄りて、又こそ見参せめ」とて立ち給ふ。
 弁慶是を聞きて、
「現在目の前におはする時だにもたまらぬ人の、何時をか待ち奉るべき。御出候へ」とて、御手を取りて引き立て、南面の扉の下に行きて申しけるは、
「持ち給へる太刀の真実欲しく候ふに、それ賜び候へ」と申しければ
「是は重代の太刀にて叶ふまじ」
「さ候はば、いざさせ給へ。武芸に付けて、勝負次第に賜はり候はん」
と申しければ、
「それならば参りあふべし」と宣へば、弁慶やがて太刀を抜く。
 御曹司も抜き合はせ、散々に打ち合ふ。
 人是を見て、
「こは如何に。御坊の、是程分内もせばき所にて、しかも幼き人と戯れは何事ぞ。其の太刀差し給へ」と雖も、聞きも入れず、御曹司上なる衣を脱ぎて捨て給へば、下は直垂腹巻をぞ著給へる。
 此の人も只人にはおはせざりけりとて、人目をさます。
 女や尼童共、周章狼狽き、縁より落つるものも有り、御堂の戸を立て、入れじとするものも有り。
 されども二人の者はやがて舞台へ引いて、下り合うて、戦ひける。
 引いつ進んづ討ち合ひける間、始めは人も懼ぢて寄らざりけるが、後には面白さに行道をする様に付きてめぐり、是を見る。
 他人言ひけるは、
「抑児が勝るか、法師が勝るか」
「いや児こそ勝るよ。法師は物にても無きぞ。早弱りて見ゆるぞ」と申しければ、弁慶是を聞きて、
「さては早我は下になるごさんなれ」とて、心細く思ひける。
 御曹司も思ひきり給ふ。
 弁慶も思ひきつてぞ討ち合ひける。
 弁慶少し討ちはづす所を御曹司走りかかつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむ所を太刀の脊にて、散々に討ちひしぎ、東枕に打ち伏して上に打ち乗り居て、
「さて従ふや否や」と仰せられければ、
「是も前世の事にてこそ候ふらん。さらば従ひ参らせん」と申しければ、著たる腹巻を御曹司重ねて著給ひ、二振の太刀を取り、弁慶を先に立てて、其の夜の中に山科へ具しておはしまし、傷を癒して、其の後連れて京へおはして、弁慶と二人して平家を狙ひ給ひける。
 其の時見参に入り始めてより、志又二つ無く身に添ひ、影の如く、平家を三年に攻め落し給ひしにも度々の高名を極めぬ。
 奥州衣川の最後の合戦まで御供して、遂に討死してんげる武蔵坊弁慶是なり。
 斯くて都には九郎義経、武蔵坊と言ふ兵を語らひて、平家を狙ふと聞こえ有りけり。
 おはしける所は四条の上人が許におはする由、六波羅へこそ訴へたり。
 六波羅より大勢押し寄せて、上人を捕る。
 其の時御曹司おはしけれども、手にもたまらず失ひ給ひけり。
 御曹司
「此の事洩れぬ程にてあれ、いざや奥へ下らん」とて、都を出で給ひ、東山道にかかりて木曾が許におはして、
「都の住居適はぬ間、奥州へ下り候へ。斯くて御渡り候へば、万事は頼もしくこそ思ひ奉れ。東国北国の兵を催し給へ。義経も奥州より差し合はせて、疾く疾く本意を遂げ候はんとこそ思ひ候へ。是は伊豆国近く候へば常に兵衛佐殿の御方へも御訪れ候へ」とて木曾が許より送られて、上野の伊勢三郎が許までおはしけれ。
 是より義盛御供して、平泉へ下りけり。

頼朝謀反の事

 治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給ひて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同十九日相模国小早川の合戦に打ち負けて、土肥の杉山に引き篭り給ふ。
 大庭三郎、股野五郎、土肥の杉山を攻むる。
 廿六日の曙に伊豆国真名鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押し出だす。
 折節風はげしくて、岬へ船を寄せ兼ねて、二十八日の夕暮に安房国州の崎と言ふ所に御舟を馳せ上げて、其の夜は、滝口の大明神に通夜有りて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと覚しくて、御宝殿の御戸を美しき御手にて押し開き、一首の歌をぞ遊ばしける。
 源は同じ流れぞ石清水たれ堰き上げよ雲の上まで
 兵衛佐殿夢打ち覚めて、明神を三度拝し奉りて、源は同じ流れぞ石清水堰き上げて賜べ雲の上までと申して、明くれば州の崎を立ちて、坂東、坂西にかかり、真野の館を出で、小湊の渡して、那古の観音を拝して、雀島の大明神の御前にて形の如くの御神楽を参らせて、猟島に著き給ひぬ。
 加藤次申しけるは、
「悲しきかなや。保元に為義切られ給ふ。平治に義朝討たれ給ひて後は、源氏の子孫皆絶え果てて弓馬の名を埋んで星霜を送り給ふ。偶々も源氏思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて、世を損じ給ふこそ悲しけれ」と申しければ、兵衛佐殿仰せられけるは、
「斯く心弱くな思ひそ。八幡大菩薩如何でか思召し捨てさせ給ふべき」と諌め給ひけるこそ頼もしく覚ゆれ。
 さる程に三浦の和田小太郎、佐原十郎、久里浜の浦より小船に取り乗りて、宗徒の輩三百余人猟島へ参りて源氏に属く。
 安房国の住人丸太郎、安西の太夫、是等二人大将として五百余騎馳せ来たり源氏に属く。
 源氏八百余騎になり、いとど力付きて、鞭を上げて打つ程に、安房と上総の堺なる造海の渡をして、上総国讚岐の枝浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎を打ち通りて、篠部、いかひしりと言ふ所に著き給ふ。
 上総国の住人伊北、伊南、庁北、庁南、武射、山辺、畔隷、くはのかみの勢、都合一千余騎周淮川と言ふ所に馳せ来たつて、源氏に加はる。
 され共介の八郎は未だに見えず。
 私に広常申しけるは、
「抑兵衛佐殿の安房、上総に渡りて二ケ国の軍兵を揃へ給ふなるに、未だ広常が許へ御使ひを賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜に押し向ひて、源氏を引き立て奉らん」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に黒革威の腹巻に黒津羽の矢負ひ、塗篭藤の弓持ちて、介の八郎の許にぞ来たりける。
「上総介殿に見参」と申しければ、兵衛佐殿の御使ひと申せば、嬉しさに、急ぎ出で合ひて対面す。
 御教書賜はり、拝見す。
 家の子郎等も差し遣はせよと仰せられんとこそ思ひつるに、
「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ」と書き給ひたるを打ち見て、
「あはれ、殿の御書かな。斯くこそ有らまほしけれ」とて、則ち千葉介の許へ送る。
 葛西、豊田、うらのかみ、上総介の許へ馳せ寄りて、千葉、上総介を大将軍として、三千余騎開発の浜に馳せ来たり源氏につく。
 兵衛佐殿四万余騎になりて、上総の館に著き給ふ。
 斯くする程にこそ久しけれ。
 されども八ケ国は源氏に心有る国なりければ、我も我もと馳せ参る。
 常陸国には宍戸、行方、志田、東条、佐竹別当秀義、高市の平武者太郎、小野寺禅師道綱、上野国には大胡太郎、山上さゑよりの信高武蔵国には河越太郎重頼、小太郎重房同じき三郎重義、党には丹、横山、猪俣馳せ参る。
 畠山、稲毛は未だ参らず。
 秩父庄司に小山田別当は在京によりて参らず。
 相模国には本間、渋谷馳せ参る。
 大庭、股野、山内は参らず。
 治承四年九月十一日武蔵と下野の境なる松戸庄市河と言ふ所に著き給ふ。
 御勢八万九千とぞ聞こえける。
 此処に坂東に名を得たる大河一つ有り。
 此の河の水上は、上野国刀根庄、藤原と言ふ所より落ちて水上遠し。
 末に下りては在五中将の墨田河とぞ名付けたる。
 海より潮差し上げて、水上には雨降り、洪水岸を浸し流れたり。
 偏へに海を見る如く、水に堰かれて五日逗留し給ひ、墨田の渡両所に陣を取つて、櫓をかき、櫓の柱には馬を繋で、源氏を待ち懸けたり。
 兵衛佐殿は是を御覧じて、
「彼奴首取れ」と宣へば、急ぎ櫓の柱を切り落して、筏にし、市河へ参り、葛西兵衛について、見参に入るべき由申したりけれども用ゐ給はず。
 重ねて申しければ、
「如何様にも頼朝を猜むと思ふぞ。伊勢加藤次心許すな」と仰せられける。
 江戸太郎色を失ひける所に千葉介近所に有りながら如何有るべき。
 成胤申さんとて、御前に畏まつて、不便の事を申しければ、佐殿仰せられけるは、
「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣ひける。
 江戸太郎承りて
「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、
「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。
 折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。
 佐殿神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著き給ひけり。

頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事

 さる程に佐殿の謀反奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、本吉冠者泰衡を召して秀衡に仰せけるは、
「兵衛佐殿こそ謀反起こして、八ケ国を打ち従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心苦しく候へ。追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや」とぞ仰せられける。
 秀衡申しけるは、
「今まで、君の思召し立たぬ御事こそ僻事にて候へ」とて、泉冠者を呼びて、
「関東に事出で来、源氏打ち出で給ふなり。両国の兵共催せ」とぞ申しける。
 御曹司仰せられけるは、
「千騎万騎も具足したく候へども、事延びては叶ふまじ」とて打ち出で給ふ。
 取り敢へざりければ、先づかつがつ三百余騎を奉りける。
 御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じく四郎忠信是等を先として三百余騎馬の腹筋馳せ切り、脛の砕くるをも知らず、揉みに揉うで馳せ上る。
 阿津賀志の中山馳せ越え、安達の大城戸打ち通り、行方の原、ししちを見給へば、
「勢こそ疎になりたるぞ」と仰せられけるに、
「或いは馬の爪欠かせ、或いは脛を馳せ砕きて、少々道に止まり、是までは百五十騎御座候ふ」と申しければ、
「百騎が十騎にならんまでも、打てや者共、後を顧るべからず」とて、とどろ馳けにて歩ませける。
 きづかはを打ち過ぎて、下橋の宿に著いて、馬を休ませて、絹河の渡して、宇都宮の大明神伏し拝み参らせ、室の八嶋を外に見て、武蔵国足立郡、小川口に著き給ふ。
 御曹司の御勢八十五騎にぞなりにける。
 板橋に馳せ著きて、「兵衛佐殿は」と問ひ給へば、
「一昨日是を発たせ給ひて候ふ」と申す。
 武蔵の国府の六所の町に著いて、
「佐殿は」と仰せければ、
「一昨日通らせ給ひて候ふ。相模の平塚に」とぞ申しける。
 平塚に著いて聞き給へば、
「早足柄を越え給ひぬ」とぞ聞こえける。
 いとど心許無くて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山を打ち越えて、伊豆の国府に著き給ふ。
「佐殿は昨日此処を発ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に」と申しければ、さては程近しとて、駒を早め、急がれける。

義経記巻第三了

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