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       光と風と夢

       五

 ――サモアに於ては古来地方自治の制、極めて鞏固にして、名目は王国なれども、王は殆ど政治上の実権を有せず。
 実際の政治は悉く、各地方のフォノ(会議)によって決定せられたり。
 王は世襲に非ず。又、必ずしも常置の位にも非ず。
 古来此の諸島には、其の保持者に王者たるの資格を与うべき・名誉の称号、五つあり。
 各地方の大酋長にして、此の五つの称号の全部、もしくは過半数を(人望により、或いは功績により)得たる者、推されて王位に即くなり。
 而して、通常、五つの称号を一人にて兼ね有する場合は極めて稀にして、多くは、王の他に、一つ或いは二つの称号を保持する者あるを常とす。されば、王は、絶えず、他の王位請求権保持者の存在に脅されざるを得ず。
 かかる状態は必然的に其の中に内乱紛争の因由を蔵するものというべし。――J・B・ステェア「サモア地誌」――

 一八八一年、五つの称号の中、「マリエトア」「ナトアイテレ」「タマソアリィ」の三つを有つ大酋長ラウペパが推されて王位に即いた。
 「ツイアアナ」の称号を有つタマセセと、もう一つの称号「ツイアトゥア」の持主マターファとは、代る代る副王の位に即くべく定められ、先ず始めにタマセセが副王となった。
 其の頃から丁度、白人の内政干渉が烈しくなって来た。
 以前は、会議及び其の実権者、ツラファレ(大地主)達が王を操っていたのに、今は、アピアの街に住む極く少数の白人が之に代ったのである。元来アピアには、英・米・独の三国がそれぞれ領事を置いている。
 併し、最も権力のあるのは領事達ではなくて、独逸人の経営に係る南海拓殖商会であった。
 島の白人貿易商等の間に在って、此の商会は正しく小人国のガリヴァアであった。
 曾ては此の商会の支配人が独逸領事を兼ねたこともあり、又其の後、自国の領事(此の男は若い人道家で、商会の土人労働者虐待に反対したので)と衝突して之を辞めさせたこともある。
 アピアの西郊ムリヌウ岬から其の附近一帯の広大な土地が独逸商会の農場で、其処でコーヒー、ココア、パイナップル等を栽培していた。
 千に近い労働者は、主に、サモアよりも更に未開の他の島々や、或いは遠くアフリカから、奴隷同様にして連れて来られたものである。

 過酷な労働が強制され、白人監督に笞打たれる黒色人褐色人の悲鳴が日毎に聞かれた。
 脱走者が相継ぎ、しかも彼等の多くは捕えられ、或いは殺された。
 一方、遥かに久しい以前から食人の習慣を忘れている此の島に、奇怪な噂が弘まった。
 外来の皮膚の黒い人間が島民の子供を取って喰うと。
 サモア人の皮膚は浅黒、乃至、褐色だから、アフリカの黒人が恐ろしいものに見えたのであろう。島民の、商会に対する反感が次第に昂まった。美しく整理された商会の農場は、土人の眼に公園の如く映り、其処へ自由に入ることが許されぬのは、遊び好きな彼等にとって不当な侮辱と思われた。
 折角苦労して沢山のパイナップルを作り、それを自分達で喰べもせずに、船に載せて他処へ運んで了うに至っては、土人の大部分にとって、全く愚にもつかぬナンセンスである。
 夜、農場へ忍び入って畑を荒すこと、之が流行になった。
 之は、ロビンフッド的な義侠行為と見做され、島民一般の喝采を博した。
 勿論、商会側も黙ってはいない。犯人を捕えると、直ぐに商会内の私設監獄にぶち込んだばかりでなく、此の事件を逆用し、独逸領事と結んでラウペパ王に迫り、賠償を取るのは勿論、更に脅迫によって勝手な税法(白人、殊に独人に有利な)に署名させるに至った。
 王を始め島民達は、此の圧迫に堪えられなくなった。

 彼等は英国に縋ろうとした。そして、全く莫迦莫迦しいことに、王、副王以下各大酋長の決議で「サモア支配権を英国に委ねたい」旨を申出そうとしたのだ。
 虎に代うるに狼を以てしようとする此の相談は、しかし、直ぐ独逸側に洩れた。
 激怒した独逸商会と独逸領事とは、直ちにラウペパをムリヌウの王宮から逐い、代りに、従来の副王タマセセを立てようとした。
 一説には、タマセセが独逸側と結んで、王を裏切ったのだとも云われる。
 兎に角英米二国は独逸の方針に反対した。紛争が続き、結局、独逸は(ビスマルク流の遣り方だ)軍艦五隻をアピアに入港させ、其の威嚇の下にクー・デ・タを敢行した。
 タマセセは王となり、ラウペパは南方の山地深く逃れた。
 島民は新王に不服だったが、諸所の暴動も独逸軍艦の砲火の前に沈黙しなければならなかった。独兵の追跡を逃れて森から森へと身を隠していた前王ラウペパの許に、或夜、彼の腹心の一酋長から使が来た。
「明朝中に貴下が独逸の陣営に出頭しなければ、更に大きな災禍が此の島に起るであろう」云々。
 意志の弱い男ではあったが、尚、此の島の貴族にふさわしい一片の道義心を失ってはいなかったラウペパは、直ぐに自己犠牲を覚悟した。
 其の夜の中に彼はアピアの街に出て、秘かに前の副王候補者であったマターファに会見し、之に後事を託した。

 マターファは、ラウペパに対する独逸の要求を知っていた。
 ラウペパは、ほんの暫くの間、独艦に乗って何処かへ連去られねばならぬ。
 但し、艦上に於ては前王として出来る限り厚遇すると、独逸艦長が保証していることを、マターファは附加えた。
 ラウペパは信じなかった。彼は覚悟していた、自分は二度とサモアの地を踏めまいと。
 彼は、全サモア人への訣別の辞を認めて、マターファに渡した。
 二人は涙の中に別れ、ラウペパは独逸領事館に出頭した。
 其の午後、彼は独逐い、代りに、従来の副王タマセセを立艦ビスマルク号に載せられ、何処へともなく立去った。
 彼の訣別の辞は悲しいものであった。
「……我が島々と、我が全サモア人への愛の為に、余は独逸政府の前に自らを投出す。彼等は、その欲するままに余を遇するであろう。余は、貴きサモアの血が、我故に再び流されることを望まぬ。しかし、余の犯した如何なる罪が、彼等皮膚白き者をして、(余に対し、又、余の国土に対し)斯くも憤らしめたか、余には未だにそれが解らぬのだ。……」
 最後に彼は、サモアの各地方の名前を感傷的に呼びかけている。
「マノノよ、さらば、ツツイラよ。アアナよ。サファライよ……」
 島民は之を読んで皆涙を流した。スティヴンスンがこの島に定住するより三年前のでき事である。

 新王タマセセに対する島民の反感は烈しかった。衆望はマターファに集まっていた。
 一揆が相継いで起り、マターファは自分の知らぬ間に、自然推戴の形で、叛軍の首領になっていた。
 新王を擁立する独逸と、之に対立する英米(彼等は別にマターファに好意を寄せていた訳ではないが、独逸に対する対抗上、事毎に新王に楯ついた)との軋轢も次第に激化して来た。
 一八八八年の秋頃から、マターファは公然兵を集めて山岳密林帯に立籠った。
 独逸の軍艦は沿岸を回航して叛軍の部落に大砲をぶち込んだ。
 英米が之に抗議し、三国の関係は、かなり危い所まで行った。
 マターファは度々王の軍を破り、ムリヌウから王を追うてアピアの東方ラウリイの地に包囲した。タマセセ王救援の為に上陸した独艦の陸戦隊はファンガリィの峡谷でマターファ軍のために惨敗した。
 多数の独逸兵が戦死し、島民は欣んだというより寧ろ自ら驚いて了った。
 今迄半神の如く見えた白人が、彼等の褐色の英雄によって仆されたのだから。
 タマセセ王は海上に逃亡し、独逸の支持する政府は完全に潰えた。
 憤激した独逸領事は、軍艦を用いて島全体に頗る過激な手段を加えようとした。
 再び、英米、殊に米国が正面から之に反対し、各国はそれぞれ軍艦をアピアに急航させて、事態は更に緊迫した。
 一八八九年の三月、アピア湾内には、米艦二隻英艦一隻が独艦三隻と対峙し、市の背後の森林にはマターファの率いる叛軍が虎視眈々と機を窺っていた。
 方に一触即発のこの時、天は絶妙な劇作家的手腕を揮って人々を驚かせた。
 かの歴史的な大惨禍、一八八九年の大颶風が襲来したのである。
 想像を絶した大暴風雨がまる一昼夜続いた後、前日の夕方迄碇泊していた六隻の軍艦の中、大破損を受けながらも兎に角水面に浮んでいたのは、僅か一隻に過ぎなかった。
 最早、敵も味方もなくなり、白人も土人も一団となって復旧作業に忙しく働いた。
 市の背後の密林に潜んでいた叛軍の連中迄が、街や海岸に出て来て、死体の収容や負傷者の看護に当った。
 今は独逸人も彼等を捕えようとはしなかった。此の惨禍は、対立した感情の上に意外な融和を齎した。
 比の年、遠くベルリンで、サモアに関する三国の協定が成立した。
 その結果、サモアは依然名目上の王を戴き、英・米・独三国人から成る政務委員会が之を扶けるという形式になった。
 この委員会の上に立つべき政務長官と、全サモアの司法権を握るべきチーフ・ジャスティス(裁判所長)と、この二人の最高官吏は欧洲から派遣されることとなり、又、爾後、王の選出には政務委員会の賛成が絶対必要と定められた。
 同じ年(一八八九年)の暮、二年前に独艦上に姿を消して以来まるで消息の知れなかった前々王ラウペパが、ひょっこり憔悴した姿で戻って来た。サモアから濠洲へ、濠洲から独領西南アフリカヘ、アフリカから独逸本国へ、独逸から又ミクロネシアヘと、盥廻しに監禁護送されて来たのである。
 しかし、彼の帰って来たのは、傀儡の王として再び立てられる為であった。
 もし王の選出が必要とあれば、順序から云っても、人物や人望から云っても、当然マターファが選ばるべきだった。が、彼の剣には、ファンガリィの峡谷に於ける独逸水兵の血潮が釁られている。
 独逸人は皆マターファの選出に絶対反対であった。
 マターファ自身も別に強いて急ごうとしなかった。いずれは順が廻って来ると楽観的に考えてもいたし、又、二年前涙と共に別れた・そして今やつれ果てて帰って来た老先輩への同情もあった。ラウペパの方は又ラウペパで、始めは、実力上の第一人者たるマターファに譲るつもりでいた。元々意志の弱い男が、二年に亘る流浪の間に、絶えざる不安と恐怖とのために、すっかり覇気を失って了ったからである。
 斯うした二人の友情を無理やりに歪めて了ったのが、白人達の策動と熱烈な島民の党派心とである。
 政務委員会の指図で否応なしにラウペパが即位させられてから一月も経たない中に、(まだ仲の良かった二人が大変驚いたことに)王とマターファの間の不和の噂が伝えられ出した。
 二人は気まずく思い、そして、又実際、奇妙な、いたましいコースをとって、二人の間の関係は本当に気まずいものに成って行ったのである。

 此の島に来た最初から、スティヴンスンは、此処にいる白人達の・土人の扱い方に、腹が立って堪らなかった。
 サモアにとって禍なことに、彼等白人は悉く――政務長官から島巡り行商人に至る迄――金儲の為にのみ来ているのだ。
 これには、英・米・独、の区別はなかった。彼等の中誰一人として(極く少数の牧師達を除けば)此の島と、島の人々とを愛するが為に此処に留まっているという者が無いのだ。
 スティヴンスンは初め呆れ、それから腹を立てた。植民地常識から考えれば、之は、呆れる方がよっぽどおかしいのかも知れないが、彼はむきになって、遥かロンドン・タイムズに寄稿し、島の此の状態を訴えた。
 白人の横暴、傲岸、無恥。土人の惨めさ、等々。
 しかし、此の公開状は、冷笑を以て酬いられたに過ぎなかった。

 大小説家の驚くべき政治的無知、云々。「ダウニング街の俗物共」の軽蔑者たるスティヴンスンのこととて、(曾て大宰相グラッドストーンが「宝島」の初版を求めて古本屋を漁っていると聞いた時も、彼は真実、虚栄心をくすぐられる所でなく、何か莫迦莫迦しいような不愉快さを感じていた)政治的実際に疎いのは事実だったが、植民政策も土着の人間を愛することから始めよ、という自分の考が間違っているとは、どうしても思えなかった。
 此の島に於ける白人の生活と政策とに対する彼の非難は、アピアの白人達(英国人をも含めて)と彼との間に溝を作って行った。
 スティヴンスンは、故郷スコットランドの高地人の氏族制度に愛着をもっていた。
 サモアの族長制度も之に似た所がある。彼は、始めてマターファに会った時、その堂々たる体躯と、威厳のある風貌とに、真の族長らしい魅力を見出した。
 マターファはアピアの西、七哩のマリエに住んでいる。
 彼は形の上の王ではなかったが、公認の王たるラウペパに比べて、より多くの人望と、より多くの部下と、より多くの王者らしさとを有っていた。
 彼は、白人委員会の擁立する現在の政府に対して、曾て一度も反抗的な態度を執ったことがない。
 白人官吏が自ら納税を怠っている時でも、彼だけはちゃんと納めたし、部下の犯罪があれば何時でも大人しく裁判所長の召喚に応じた。
 にも拘わらず、何時の間にか、彼は現政府の一大敵国と見做され、恐れられ、憚られ、憎まれるようになっていた。
 彼が秘かに弾薬を集めているなどと政府に密告する者も出て来た。
 王の改選を要求する島民の声が政府を脅していていたことは事実だが、マターファ自身は一度も、まだ、そんな要求をしたことはない。
 彼は敬虔なクリスチャンであった。独身で、今は六十歳に近いが、二十年来、「主のこの世に生き給いし如く」生きようと誓って(婦人に関することに就いて言っているのだ)、それを実行して来た、と、自ら言っていた。
 夜毎、島の各地方から来た語り手を灯の下に集めて円座を作らせ、彼等から、古い伝説や古譚詩の類を聞くのが、彼の唯一つの楽しみであった。

六へ続く

 悟浄出世 悟浄歎異 李陵 南島譚.幸福 仝.夫婦 仝. 光と風と夢 山月記 名人伝 牛人 
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