弟子  中島 敦

 魯の卞べんの游侠ゆうきょうの徒、仲由ちゅうゆう、字あざなは子路という者が、近頃ちかごろ賢者けんじゃの噂うわさも高い学匠がくしょう・陬人すうひと孔丘こうきゅうを辱はずかしめてくれようものと思い立った。
 似而非えせ賢者何程なにほどのことやあらんと、蓬頭突鬢ほうとうとつびん・垂冠すいかん・短後たんこうの衣という服装いでたちで、左手に雄鶏おんどり、右手に牡豚おすぶたを引提げ、勢いきおいもうに、孔丘が家を指して出掛でかける。
 鶏を揺り豚を奮ふるい、嗷かまびすしい脣吻しんぷんの音をもって、儒家じゅかの絃歌講誦げんかこうしょうの声を擾みだそうというのである。
 けたたましい動物の叫さけびと共に眼を瞋いからして跳び込んで来た青年と、圜冠句履えんかんこうりゆるく王夬けつを帯びて几に凭った温顔の孔子との間に、問答が始まる。
「汝なんじ、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣ちょうけんを好む。」と青年は昂然こうぜんとして言い放つ。
 孔子は思わずニコリとした。
 青年の声や態度の中に、余りに稚気ちき満々たる誇負こふを見たからである。
 血色のいい・眉まゆの太い・眼のはっきりした・見るからに精悍せいかんそうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。
 再び孔子が聞く。
「学はすなわちいかん?」
「学、豈あに、益あらんや。」
 もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴どなるように答える。
 学の権威けんいについて云々うんぬんされては微笑わらってばかりもいられない。
 孔子は諄々じゅんじゅんとして学の必要を説き始める。
 人君じんくんにして諫臣かんしんが無ければ正せいを失い、士にして教友が無ければ聴ちょうを失う。
 樹も縄なわを受けて始めて直くなるのではないか。
 馬に策むちが、弓に檠けいが必要なように、人にも、その放恣ほうしな性情を矯める教学が、どうして必要でなかろうぞ。
 匡ただし理おさめ磨みがいて、始めてものは有用の材となるのだ。
 後世に残された語録の字面じづらなどからは到底とうてい想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子は有っていた。
 言葉の内容ばかりでなく、その穏おだやかな音声・抑揚よくようの中にも、それを語る時の極めて確信に充ちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。
 青年の態度からは次第に反抗はんこうの色が消えて、ようやく謹聴きんちょうの様子に変って来る。

 「しかし」と、それでも子路はなお逆襲ぎゃくしゅうする気力を失わない。
 南山の竹は揉めずして自ら直く、斬ってこれを用うれば犀革さいかくの厚きをも通すと聞いている。
 して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?
 孔子にとって、こんな幼稚な譬喩ひゆを打破るほどたやすい事はない。
 汝の云うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃やじりを付けてこれを礪みがいたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮きゅうした
 顔を赧あからめ、しばらく孔子の前に突立つったったまま何か考えている様子だったが、急に鶏と豚とを抛ほうり出し、頭を低れて、
「謹つつしんで教を受けん。」と降参した。
 単に言葉に窮したためではない。
 実は、室に入って孔子の容すがたを見、その最初の一言を聞いた時、直ちに鶏豚けいとんの場違ばちがいであることを感じ、己おのれと余りにも懸絶けんぜつした相手の大きさに圧倒あっとうされていたのである。
 即日そくじつ、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。

 このような人間を、子路は見たことがない。
 力千鈞せんきんの鼎かなえを挙げる勇者を彼かれは見たことがある。
 明めい千里の外を察する智者ちしゃの話も聞いたことがある。
 しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物かいぶつめいた異常さではない。
 ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。
 知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡へいぼんに、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。
 一つ一つの能力の優秀ゆうしゅうさが全然目立たないほど、過不及かふきゅう無く均衡きんこうのとれた豊かさは、子路にとって正まさしく初めて見る所のものであった。
 闊達かったつ自在、いささかの道学者臭しゅうも無いのに子路は驚おどろく。
 この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。
 可笑おかしいことに、子路の誇ほこる武芸や膂力りょりょくにおいてさえ孔子の方が上なのである。
 ただそれを平生へいぜい用いないだけのことだ。
 侠者子路はまずこの点で度胆どぎもを抜かれた。
 放蕩無頼ほうとうぶらいの生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭するどい心理的洞察どうさつがある。
 そういう一面から、また一方、極めて高く汚けがれないその理想主義に至るまでの幅はばの広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻うならずにはいられない。
 とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。
 潔癖けっぺきな倫理的りんりてきな見方からしても大丈夫だいじょうぶだし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。
 子路が今までに会った人間の偉えらさは、どれも皆みなその利用価値の中に在った。
 これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。
 孔子の場合は全然違う。
 ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分じゅうぶんなのだ。
 少くとも子路には、そう思えた。
 彼はすっかり心酔しんすいしてしまった。
 門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離はなれ得ない自分を感じていた。
 後年の孔子の長い放浪ほうろうの艱苦かんくを通じて、子路ほど欣然きんぜんとして従った者は無い。
 それは、孔子の弟子たることによって仕官の途みちを求めようとするのでもなく、また、滑稽こっけいなことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。
 死に至るまで渝かわらなかった・極端きょくたんに求むる所の無い・純粋じゅんすいな敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。
 かつて長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。
 その時、四十而不惑しじゅうにしてまどわずといった・その四十歳さいに孔子はまだ達していなかった。
 子路よりわずか九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢ねんれいの差をほとんど無限の距離きょりに感じていた。

 孔子は孔子で、この弟子の際立った馴らし難さに驚いている。
 単に勇を好むとか柔じゅうを嫌きらうとかいうならば幾いくらでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑けいべつする男も珍めずらしい。
 究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。

「礼と云い礼と云う。玉帛ぎょくはくを云わんや。楽がくと云い楽と云う。鐘鼓しょうこを云わんや。」などというと大いに欣よろこんで聞いているが、曲礼きょくれいの細則を説く段になるとにわかに詰まらなさそうな顔をする。
 形式主義への・この本能的忌避きひと闘たたかってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。
 が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。
 子路が頼たよるのは孔子という人間の厚みだけである。
 その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。
 本もとがあって始めて末が生ずるのだと彼は言う。
 しかしその本もとをいかにして養うかについての実際的な考慮こうりょが足りないとて、いつも孔子に叱しかられるのである。
 彼が孔子に心服するのは一つのこと。
 彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、また別の事に属する。
 上智と下愚かぐは移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。
 欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。
 孔子はこの剽悍ひょうかんな弟子の無類の美点を誰だれよりも高く買っている。
 それはこの男の純粋な没利害性のことだ。
 この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀まれなので、子路のこの傾向けいこうは、孔子以外の誰からも徳としては認められない。
 むしろ一種の不可解な愚おろかさとして映るに過ぎないのである。
 しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。

 師の言に従って己おのれを抑おさえ、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。
 孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚しんせき中の評判である。
 褒められて子路は変な気がした。
 親孝行どころか、嘘うそばかりついているような気がして仕方が無いからである。
 我儘わがままを云って親を手古摺てこずらせていた頃ころの方が、どう考えても正直だったのだ。
 今の自分の偽いつわりに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。
 こまかい心理分析家ぶんせきかではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。
 ずっと後年になって、ある時突然とつぜん、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪なみだが出て来た。
 その時以来、子路の親孝行は無類の献身的けんしんてきなものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄にわか孝行はこんな工合ぐあいであった。

 ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二三に出会った。
 無頼とは云えぬまでも放縦ほうじゅうにして拘こだわる所の無い游侠の徒である。
 子路は立止ってしばらく話した。
 その中うちに彼等の一人が子路の服装ふくそうをじろじろ見廻みまわし、やあ、これが儒服という奴やつか?随分ずいぶんみすぼらしいなりだな、と言った。
 長剣が恋こいしくはないかい、とも言った。
 子路が相手にしないでいると、今度は聞捨ききずてのならぬことを言出した。
 どうだい。
 あの孔丘という先生はなかなかの喰わせものだって云うじゃないか。
 しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘あまい汁しるが吸えるものと見えるなあ。
 別に悪意がある訳ではなく、心安立こころやすだてからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。
 いきなりその男の胸倉むなぐらを掴つかみ、右手の拳こぶしをしたたか横面よこつらに飛ばした。
 二つ三つ続け様に喰くらわしてから手を離すと、相手は意気地なく倒たおれた。
 呆気あっけに取られている他の連中に向っても子路は挑戦的ちょうせんてきな眼を向けたが、子路の剛勇ごうゆうを知る彼等は向って来ようともしない。
 殴なぐられた男を左右から扶たすけ起し、捨台詞すてぜりふ一つ残さずにこそこそと立去った。

 いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。
 子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。
 古いにしえの君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。
 不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴しんぼうある時はすなわち仁をもってこれを固うした。
 腕力わんりょくの必要を見ぬゆえんである。
 とかく小人は不遜ふそんをもって勇と見做みなし勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂いいである云々。
 神妙に子路は聞いていた。

 数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭こかげで閑人達かんじんたちの盛さかんに弁じている声が耳に入った。
 それがどうやら孔子の噂のようである。
 ――昔むかし、昔、と何でも古いにしえを担かつぎ出して今を貶おとす。
 誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。
 しかし昔の道を杓子定規しゃくしじょうぎにそのまま履んで、それで巧うまく世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。
 俺おれ達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様ようこさまの方が偉いということになるのさ。
 下剋上げこくじょうの世であった。
 政治の実権が魯侯ろこうからその大夫たる季孫氏きそんしの手に移り、それが今や更さらに季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。
 しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。
 ――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎むかえを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。
 口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ。
 あの手合てあいはね。
 子路は背後うしろから人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。
 人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。
 今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣ひとがきの背後に身を隠かくした。
 眥まなじりを決した子路の形相ぎょうそうが余りにすさまじかったのであろう。

 その後しばらく、同じような事が処々で起った。
 肩かたを怒いからせ炯々けいけいと眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺そしる口を噤つぐむようになった。
 子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。
 彼は彼なりに心の中では言分いいぶんが無いでもない。
 いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒ふんぬを感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。
 しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。
 少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。
 きっと…………。

 一年ほど経ってから孔子が苦笑と共に嘆たんじた。
 由ゆうが門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。

 ある時、子路が一室で瑟しつを鼓していた。
 孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくして傍かたわらなる冉有ぜんゆうに向って言った。
 あの瑟の音を聞くがよい。
 暴励ぼうれいの気がおのずから漲みなぎっているではないか。
 君子の音は温柔おんじゅうにして中ちゅうにおり、生育の気を養うものでなければならぬ。
 昔舜しゅんは五絃琴ごげんきんを弾だんじて南風の詩を作った。
 南風の薫くんずるやもって我が民の慍いかりを解くべし。
 南風の時なるやもって我が民の財を阜おおいにすべしと。
 今由ゆうの音を聞くに、誠に殺伐激越さつばつげきえつ、南音に非あらずして北声に類するものだ。
 弾者の荒怠暴恣こうたいぼうしの心状をこれほど明らかに映し出したものはない。
 ――
 後、冉有が子路の所へ行って夫子ふうしの言葉を告げた。
 子路は元々自分に楽才の乏とぼしいことを知っている。
 そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。
 しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然がくぜんとして懼おそれた。
 大切なのは手の習練ではない。
 もっと深く考えねばならぬ。
 彼は一室に閉じ籠こもり、静思して喰くらわず、もって骨立こつりつするに至った。
 数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。
 そうして、極めて恐おそる恐る弾じた。
 その音を洩れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。
 咎とがめるような顔色も見えない。
 子貢しこうが子路の所へ行ってそのむねを告げた。
 師の咎が無かったと聞いて子路は嬉うれしげに笑った。
 人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔えがおを見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。
 聡明そうめいな子貢はちゃんと知っている。
 子路の奏かなでる音が依然いぜんとして殺伐な北声に満ちていることを。
 そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍あわれまれたために過ぎないことを。

 弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者は無い。
 子路ほど遠慮えんりょなく師に反問する者もない。

「請う。古の道を釈てて由ゆうの意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いてみたり、孔子に面と向ってずけずけと
「これある哉かな。子の迂なるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。
 それでいて、また、子路ほど全身的に孔子に凭り掛かっている者もないのである。
 どしどし問返すのは、心から納得なっとく出来ないものを表面うわべだけ諾うべなうことの出来ぬ性分だからだ。
 また、他の弟子達のように、嗤わらわれまい叱られまいと気を遣つかわないからである。
 子路が他の所ではあくまで人の下風に立つを潔しとしない独立不羈ふきの男であり、一諾千金いちだくせんきんの快男児であるだけに、碌々ろくろくたる凡弟子然ぼんていしぜんとして孔子の前に侍はんべっている姿は、人々に確かに奇異きいな感じを与あたえた。
 事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索しさくや重要な判断は一切いっさい師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽こっけいな傾向も無いではない。
 母親の前では自分に出来る事までも、してもらっている幼児と同じような工合である。
 退いて考えてみて、自ら苦笑することがある位だ。

 だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。
 ここばかりは譲ゆずれないというぎりぎり結著の所が。
 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。
 そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。
 侠といえばやや軽すぎる。
 信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動やくどうの気に欠ける憾うらみがある。
 そんな名前はどうでもいい。
 子路にとって、それは快感の一種のようなものである。
 とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴ともなわないものが悪しきことだ。
 極めてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑を感じたことがない。
 孔子の云う仁とはかなり開きがあるのだが、子路は師の教の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂り入れる。
 巧言令色足恭コウゲンレイショクスウキョウ、怨ウラミヲ匿カクシテ其ノ人ヲ友トスルハ、丘之コレヲ恥ヅ とか、生ヲ求メテ以モッテ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者ケンジャハ為サザル所アリ とかいうのが、それだ。
 孔子も初めはこの角つのを矯めようとしないではなかったが、後には諦あきらめて止めてしまった。
 とにかく、これはこれで一匹ぴきの見事な牛には違いないのだから。
 策むちを必要とする弟子もあれば、手綱たづなを必要とする弟子もある。
 容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。
 敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフ とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヘイヤ賊ゾク、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞カウ などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格じゅくとうかくとしての子路に向っての叱言こごとである場合が多かった。
 子路という特殊な個人に在ってはかえって魅力みりょくとなり得るものが、他の門生一般いっぱんについてはおおむね害となることが多いからである。

 晋しんの魏楡きゆの地で石がものを言ったという。
 民の怨嗟えんさの声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。
 既すでに衰微すいびした周室は更に二つに分れて争っている。
 十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈かんかの止む時が無い。
 斉侯せいこうの一人は臣下の妻に通じて夜ごとその邸やしきに忍しのんで来る中についにその夫に弑しいせられてしまう。
 楚では王族の一人が病臥びょうが中の王の頸くびをしめて位を奪うばう。
 呉では足頸を斬取きりとられた罪人共が王を襲おそい、晋では二人の臣が互たがいに妻を交換こうかんし合う。
 このような世の中であった。
 魯の昭公は上卿じょうけい季平子きへいしを討とうとしてかえって国を逐われ、亡命七年にして他国で窮死きゅうしする。
 亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後の己おのれの運命を案じ公を引留めて帰らせない。
 魯の国は季孫・叔孫しゅくそん・孟孫もうそん三氏の天下から、更に季氏の宰さい・陽虎の恣ほしいままな手に操られて行く。
 ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚しっきゃくしてから、急にこの国の政界の風向きが変った。
 思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。
 公平無私な官吏かんりや苛斂誅求かれんちゅうきゅうを事とせぬ政治家の皆無かいむだった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的きょういてきな治績を挙げた。
 すっかり驚嘆きょうたんした主君の定公が問うた。
 汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん?孔子が答えて言う。
 何ぞ但ただ魯国のみならんや。
 天下を治むるといえども可ならんか。
 およそ法螺ほらとは縁えんの遠い孔子がすこぶる恭うやうやしい調子で澄ましてこうした壮語を弄ろうしたので、定公はますます驚いた。
 彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇だいしこうに進めて宰相さいしょうの事をも兼ね摂らせた。
 孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。
 孔子の内政改革案の実行者として真先まっさきに活動したことは言うまでもない。
 孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。
 このためには、現在魯侯よりも勢力を有つ季・叔・孟・三桓かんの力を削がねばならぬ。
 三氏の私城にして百雉ひゃくち(厚さ三丈じょう、高さ一丈)を超えるものに后こう・費・成せいの三地がある。
 まずこれ等を毀こぼつことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
 自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快ゆかいに違いなかった。
 殊ことに、既成きせい政治家の張り廻めぐらした奸悪かんあくな組織や習慣を一つ一つ破砕はさいして行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐いきがいを感じさせる。
 多年の抱負ほうふの実現に生々いきいきと忙いそがしげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉うれしい。
 孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼たのもしいものに映った。
 費の城を毀こわしに掛かった時、それに反抗して公山不狃こうざんふちゅうという者が費人を率い魯の都を襲うた。
 武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍はんぐんの矢が及およぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによって纔わずかに事無きを得た。
 子路はまた改めて師の実際家的手腕しゅわんに敬服する。
 孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮あざやかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。
 もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。
 久しぶりに揮ふるう長剣の味も、まんざら棄てたものではない。
 とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、粗あらい現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。

 斉との間の屈辱的くつじょくてき媾和こうわのために、定公が孔子を随したがえて斉の景公と夾谷きょうこくの地に会したことがある。
 その時孔子は斉の無礼を咎とがめて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤しったした。
 戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫ふるえ上ったとある。
 子路をして心からの快哉かいさいを叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国りんこくの宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政しせいの下もとに充実して行く魯の国力に、懼おそれを抱いだき始めた。
 苦心の結果、誠にいかにも古代支那しな式な苦肉の策が採られた。
 すなわち、斉から魯へ贈おくるに、歌舞かぶに長じた美女の一団をもってしたのである。
 こうして魯侯の心を蕩とろかし定公と孔子との間を離間りかんしようとしたのだ。
 ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相あいって、余りにも速く効を奏したことである。
 魯侯は女楽に耽ふけってもはや朝ちょうに出なくなった。
 季桓子きかんし以下の大官連もこれに倣ならい出す。
 子路は真先に憤慨ふんがいして衝突しょうとつし、官を辞した。
 孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽くせるだけの手段を尽くそうとする。
 子路は孔子に早く辞めてもらいたくて仕方が無い。
 師が臣節を汚けがすのを懼れるのではなく、ただこの淫みだらな雰囲気ふんいきの中に師を置いて眺ながめるのが堪たまらないのである。
 孔子の粘ねばり強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。
 そうして、師に従って欣よろこんで魯の国を立退たちのいた。
 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離とおざかり行く都城を顧かえりみながら、歌う。
 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。
 かの美婦の謁えつには君子ももって死敗すべし。…………
 かくて、爾後じご永年に亘わたる孔子の遍歴へんれきが始まる。

 大きな疑問が一つある。
 子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。
 それは、誰もが一向に怪あやしもうとしない事柄ことがらだ。
 邪じゃが栄えて正が虐しいたげられるという・ありきたりの事実についてである。
 この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤ひふんを発しないではいられない。
 なぜだ?なぜそうなのだ?悪は一時栄えても結局はその酬むくいを受けると人は云う。
 なるほどそういう例もあるかも知れぬ。
 しかし、それも人間というものが結局は破滅はめつに終るという一般的な場合の一例なのではないか。
 善人が究極の勝利を得たなどという例ためしは、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。
 なぜだ?なぜだ?大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。
 彼は地団駄じだんだを踏む思いで、天とは何だと考える。
 天は何を見ているのだ。
 そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗はんこうしないではいられない。
 天は人間と獣けものとの間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。
 正とか邪とかは畢竟ひっきょう人間の間だけの仮の取決とりきめに過ぎないのか?子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真の在り方について説き聞かせられるだけだ。
 善をなすことの報むくいは、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか?師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えてみると、やはりどうしても釈然としない所が残る。
 そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知出来ない。
 誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。
 天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。
 ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうした不遇ふぐうに甘んじなければならぬのか。
 家庭的にも恵めぐまれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。
 一夜、
「鳳鳥ほうちょう至らず。河、図を出さず。已んぬるかな。」と独言に孔子が呟つぶやくのを聞いた時、子路は思わず涙なみだの溢あふれて来るのを禁じ得なかった。
 孔子が嘆じたのは天下蒼生そうせいのためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。
 この人と、この人を竢つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。
 濁世だくせのあるゆる侵害しんがいからこの人を守る楯たてとなること。
 精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労はんろう汚辱おじょくを一切己おのが身に引受けること。
 僭越せんえつながらこれが自分の務つとめだと思う。
 学も才も自分は後学の諸才人に劣おとるかも知れぬ。
 しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を抛なげうって顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

「ここに美玉あり。匱ひつに納おさめて蔵かくさんか。善賈ぜんかを求めて沽らんか。」と子貢が言った時、孔子は即座そくざに、
「これを沽らん哉かな。これを沽らん哉。我は賈あたいを待つものなり。」と答えた。
 そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。
 随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。
 権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴いただくといった風な特別な条件が絶対に必要である。
 それが出来ないなら、むしろ、「褐かつ(粗衣そい)を被て玉を懐いだく」という生き方が好ましい。
 生涯しょうがい孔子の番犬に終ろうとも、いささかの悔くいも無い。
 世俗的な虚栄心きょえいしんが無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえって己おのれの本領たる磊落らいらく闊達を害するものだと思っている。

 様々な連中が孔子に従って歩いた。
 てきぱきした実務家の冉有ぜんゆう
 温厚の長者閔子騫びんしけん
 穿鑿せんさく好きな故実家の子夏しか
 いささか詭弁派的きべんはてきな享受家きょうじゅか宰予さいよ
 気骨きこつ稜々りょうりょうたる慷慨家こうがいかの公良孺こうりょうじゅ
 身長みのたけ九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮たんわいな愚直者ぐちょくしゃ子羔しこう
 年齢から云っても貫禄かんろくから云っても、もちろん子路が彼等の宰領格さいりょうかくである。
 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。
 孔子がいつも口を極めて賞める顔回がんかいよりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。
 孔子からその強靱きょうじんな生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。
 それは決して嫉妬しっとではない。
 (子貢しこう子張輩しちょうはいは、顔淵がんえんに対する・師の桁外けたはずれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)
 子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事に拘こだわらぬ性たちでもあったから。
 ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟じゅうなんな才能の良さが全然呑み込めないのである。
 第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。
 そこへ行くと、多少軽薄けいはくではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。
 この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。
 頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。
 余りの軽薄さに腹を立てて一喝いっかつを喰わせることもあるが、大体において、後世畏おそるべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。
 ある時、子貢が二三の朋輩ほうばいに向って次のような意味のことを述べた。
 ――夫子は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過うますぎると思う。
 これは警戒けいかいを要する。
 宰予などの巧さとは、まるで違う。
 宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎる故、聴者に楽しみは与え得ても、信頼しんらいは与え得ない。
 それだけにかえって安全といえる。
 夫子のは全く違う。
 流暢りゅうちょうさの代りに、絶対に人に疑を抱いだかせぬ重厚さを備え、諧謔かいぎゃくの代りに、含蓄がんちくに富む譬喩ひゆを有つその弁は、何人なんぴとといえども逆らうことの出来ぬものだ。
 もちろん、夫子の云われる所は九分九厘りんまで常に謬あやまり無き真理だと思う。
 また夫子の行われる所は九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範はんとすべきものだ。
 にもかかわらず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的ふへんてきな真理と必ずしも一致いっちしない極少部分の)弁明に用いられる惧おそれがある。
 警戒を要するのはここだ。
 これはあるいは、余り夫子に親しみ過ぎ狎れ過ぎたための慾よくの云わせることかも知れぬ。
 実際、後世の者が夫子をもって聖人と崇あがめた所で、それは当然過ぎる位当然なことだ。
 夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。
 ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。
 顔回のような夫子と似通った肌合はだあいの男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。
 夫子がしばしば顔回を讃められるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………
 青二才あおにさいの分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟ひっきょう顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦ばかにしきれないものを感じた。
 肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。
 おれ達には漠然ばくぜんとしか気付かれないものをハッキリ形に表す・妙みょうな才能が、この生意気な若僧わかぞうにはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。

 子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。

「死者は知ることありや?将た知ることなきや?」
 死後の知覚の有無、あるいは霊魂れいこんの滅不滅についての疑問である。
 孔子がまた妙な返辞をした。

「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生を妨さまたげてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子その親を棄てて葬ほうむらざらんとすることを恐る。」
 およそ見当違いの返辞なので子貢は甚はなはだ不服だった。
 もちろん、子貢の質問の意味は良く判わかっているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換えようとしたのである。
 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。
 子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死について訊たずねてみた。

「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」
 これが孔子の答であった。
 全くだ!と子路はすっかり感心した。
 しかし、子貢はまたしても鮮あざやかに肩透かたすかしを喰ったような気がした。
 それはそうです。
 しかし私の言っているのはそんな事ではない。
 明らかにそう言っている子貢の表情である。

     九

 衛えいの霊公は極めて意志の弱い君主である。
 賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言かんげんよりも甘い諂諛てんゆに欣よろこばされてしまう。
 衛の国政を左右するものはその後宮であった。
 夫人南子なんしはつとに淫奔いんぽんの噂が高い。
 まだ宋そうの公女だった頃異母兄の朝ちょうという有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれと醜しゅう関係を続けている。
 すこぶる才走った女で、政治向むきの事にまで容喙ようかいするが、霊公はこの夫人の言葉なら頷うなずかぬことはない。
 霊公に聴かれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。
 孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公には謁えっしたが、夫人の所へは別に挨拶あいさつに出なかった。
 南子が冠かんむりを曲げた。
 早速さっそく人を遣つかわして孔子に言わしめる。
 四方の君子、寡君かくんと兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君かしょうくん(夫人)を見る。
 寡小君見んことを願えり云々。
 孔子もやむをえず挨拶に出た。
 南子は糸希帷ちい(薄うすい葛布くずぬのの垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。
 孔子の北面稽首ほくめんけいしゅの礼に対し、南子が再拝して応こたえると、夫人の身に着けた環佩かんぱいが樛然きゅうぜんとして鳴ったとある。
 孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨ろこつに不愉快な顔をしていた。
 彼は、孔子が南子風情ふぜいの要求などは黙殺もくさつすることを望んでいたのである。
 まさか孔子が妖婦ようふにたぶらかされるとは思いはしない。
 しかし、絶対清浄せいじょうであるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。
 美玉を愛蔵する者がその珠たまの表面おもてに不浄なるものの影かげの映るのさえ避けたい類たぐいなのであろう。
 孔子はまた、子路の中で相当敏腕びんわんな実際家と隣となり合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑おかしくもあり、困りもするのである。

 一日、霊公の所から孔子へ使が来た。
 車で一緒いっしょに都を一巡いちじゅんしながら色々話を承うけたまわろうと云う。
 孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。
 この丈たけの高いぶっきらぼうな爺じいさんを、霊公が無闇むやみに賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。
 自分を出し抜いて、二人同車して都を巡めぐるなどとはもっての外である。
 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装せいそうを凝らした南子夫人が乗込んでいた。
 孔子の席が無い。
 南子は意地の悪い微笑を含ふくんで霊公を見る。
 孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺うかがう。
 霊公は面目無げに目を俯せ、しかし南子には何事も言えない。
 黙だまって孔子のために次の車を指ゆびさす。
 二乗の車が衛の都を行く。
 前なる四輪の豪奢ごうしゃな馬車には、霊公と並ならんで嬋妍せんけんたる南子夫人の姿が牡丹ぼたんの花のように輝かがやく。
 後うしろの見すぼらしい二輪の牛車には、寂さびしげな孔子の顔が端然たんぜんと正面を向いている。
 沿道の民衆の間にはさすがに秘ひそやかな嘆声たんせいと顰蹙ひんしゅくとが起る。
 群集の間に交って子路もこの様子を見た。
 公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸はらわたの煮え返る思いがするのだ。
 何事か嬌声きょうせいを弄ろうしながら南子が目の前を進んで行く。
 思わず嚇かっとなって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。
 背後うしろから引留める者がある。
 振切ふりきろうと眼を瞋いからせて後を向く。
 子若しじゃくと子正しせいの二人である。
 必死に子路の袖そでを控ひかえている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。
 子路は、ようやく振上げた拳を下す。

 翌日、孔子等の一行は衛を去った。

「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

     十

 葉公しょうこう子高しこうは竜りゅうを好むこと甚だしい。
 居室にも竜を雕り繍帳しゅうちょうにも竜を画き、日常竜の中に起臥きがしていた。
 これを聞いたほん物ものの天竜が大きに欣んで一日葉公の家に降くだり己おのれの愛好者を覗のぞき見た。
 頭は片甫まどに窺うかがい尾は堂に施くという素晴らしい大きさである。
 葉公はこれを見るや怖おそれわなないて逃げ走った。
 その魂魄こんぱくを失い五色主無ごしきしゅなし、という意気地無さであった。
 諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。
 いずれも葉公の竜における類である。
 実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。
 孔子を国賓こくひんとして遇ぐうしようという国はある。
 孔子の弟子の幾人いくにんかを用いた国もある。
 が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。
 匡きょうでは暴民の凌辱りょうじょくを受けようとし、宋では姦臣かんしんの迫害はくがいに遭い、蒲ではまた兇漢きょうかんの襲撃しゅうげきを受ける。
 諸侯の敬遠と御用ごよう学者の嫉視と政治家連の排斥はいせきとが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
 それでもなお、講誦を止めず切磋せっさを怠おこたらず、孔子と弟子達とは倦まずに国々への旅を続けた。

「鳥よく木を択えらぶ。木豈に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。
 そして、己等おのれらの用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で――全く呆あきれたことに本気でそう考えている。
 乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。
 誠に不思議な一行であった。
 一行が招かれて楚の昭王の許もとへ行こうとした時、陳ちん・蔡さいの大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。
 孔子の楚に用いられることを惧おそれこれを妨げようとしたのである。
 暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥おちいった。
 糧道りょうどうが絶たれ、一同火食せざること七日に及およんだ。
 さすがに、餒え、疲つかれ、病者も続出する。
 弟子達の困憊こんぱいと恐惶きょうこうとの間に在って孔子は独り気力少しも衰おとろえず、平生通り絃歌して輟まない。
 従者等の疲憊ひはいを見るに見かねた子路が、いささか色を作して、絃歌する孔子の側そばに行った。
 そうして訊ねた。
 夫子の歌うは礼かと。
 孔子は答えない。
 絃を操る手も休めない。
 さて曲が終ってからようやく言った。

「由ゆうよ。吾われ汝に告げん。君子楽がくを好むは驕おごるなきがためなり。小人楽を好むは懾おそるるなきがためなり。それ誰だれの子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」

 子路は一瞬いっしゅん耳を疑った。
 この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや?しかし、すぐにその心に思い到いたると、途端とたんに彼は嬉しくなり、覚えず戚ほこを執って舞うた。
 孔子がこれに和して弾じ、曲、三度みたびめぐった。
 傍にある者またしばらくは飢うえを忘れ疲を忘れて、この武骨な即興そっきょうの舞まいに興じ入るのであった。

 同じ陳蔡の厄やくの時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。
 君子も窮することあるか?と。
 師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。
 孔子が即座に答えた。

「窮するとは道に窮するの謂いいに非ずや。今、丘きゅう、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体瘁つかるるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。但ただ、小人は窮すればここに濫みだる。」と。
 そこが違うだけだというのである。
 子路は思わず顔を赧あからめた。
 己の内なる小人を指摘された心地である。
 窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子の容すがたを見ては、大勇なる哉かなと嘆ぜざるを得ない。
 かつての自分の誇ほこりであった・白刃はくじんまえに接まじわるも目まじろがざる底ていの勇が、何と惨みじめにちっぽけなことかと思うのである。

     十一

 許きょから葉しょうへと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅おくれて畑中の路みちを歩いて行くと、條あじかを荷になうた一人の老人に会った。
 子路が気軽に会釈えしゃくして、夫子を見ざりしや、と問う。
 老人は立止って、
「夫子夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やら俺おれに分わかる訳がないではないか」と突堅貪つっけんどんに答え、子路の人態にんていをじろりと眺めてから、
「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮らしている人らしいな。」と蔑さげすむように笑う。
 それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。
 隠者いんじゃの一人に違いないと子路は思って一揖いちゆうし、道に立って次の言葉を待った。
 老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。
 既に日が暮れかかっていたのである。
 老人は鶏をつぶし黍きびを炊かしいで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。
 食後、いささかの濁酒にごりざけに酔よいの廻まわった老人は傍なる琴を執って弾じた。
 二人の子がそれに和して唱うたう。

 湛々タンタンタル露ツユアリ
 陽ニ非ザレバ晞
 厭々エンエントシテ夜飲ス
 酔ハズンバ帰ルコトナシ

 明らかに貧しい生活くらしなのにもかかわらず、まことに融々ゆうゆうたる裕ゆたかさが家中に溢あふれている。
 和なごやかに充ち足りた親子三人の顔付の中に、時としてどこか知的なものが閃ひらめくのも、見逃みのがし難い。
 弾じ終ってから老人が子路に向って語る。
 陸を行くには車、水を行くには舟ふねと昔から決ったもの。
 今陸を行くに舟をもってすれば、いかん?今の世に周の古法を施ほどこそうとするのは、ちょうど陸に舟を行るがごときものと謂うべし。
 爰狙さるに周公の服を着せれば、驚いて引裂ひきさき棄てるに決っている。
 云々…………子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。
 老人はまた言う。

「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕けんべんの謂ではない。」と。
 澹然無極たんぜんむきょくとでもいうのがこの老人の理想なのであろう。
 子路にとってこうした遁世哲学とんせいてつがくは始めてではない。
 長沮ちょうそ・桀溺けつできの二人にも遇った。
 楚の接与せつよという佯狂ようきょうの男にも遇ったことがある。
 しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。
 穏やかな老人の言葉と怡々いいたるその容に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望せんぼうをさえ感じないではなかった。
 しかし、彼も黙って相手の言葉に頷うなずいてばかりいた訳ではない。

「世と断つのはもとより楽しかろうが、人の人たるゆえんは楽しみを全まっとうする所にあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫を紊みだるのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険を冒おかしてもなお道を説く必要があるのではないか。」

 翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。
 みちみち孔子と昨夜の老人とを並ならべて考えてみた。
 孔子の明察があの老人に劣おとる訳はない。
 孔子の慾よくがあの老人よりも多い訳はない。
 それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎悪ぞうおを、あの老人に対して覚え始めた。
 午ひる近く、ようやく、遥はるか前方の真青まっさおな麦畠むぎばたけの中の道に一団の人影が見えた。
 その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然とつぜん、何か胸を緊め付けられるような苦しさを感じた。

     十二

 宋から陳に出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論をしている。

「十室の邑ゆう、必ず忠信丘きゅうがごとき者あり。丘の学を好むに如かざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大いだいな完成はその先天的な素質の非凡ひぼんさに依るものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方が与あずかって大きいのだと言う。
 宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。
 孔子の有っているものは万人のもっているものだ。
 ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。
 子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変る所は無いという。
 それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠しょうこではないかと。
 だが、何にも増して孔子の天才の核心かくしんたるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。

「あの優れた中庸ちゅうようへの本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。
 何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。
 口先ばかりで腹の無い奴等め!今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼まっさおな顔をするだろう。
 何といってもいったん有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。
 才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊るという言葉を考え、矜ほこらかに我が胸中一片の氷心ひょうしんを恃たのむのである。

 子路にも、しかし、師への不満が必ずしも無い訳ではない。
 陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けて朝ちょうに立ち、それを見せびらかした時、泄冶せつやという臣が諫いさめて、殺された。
 百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋たずねたことがある。
 泄冶の正諫せいかんして殺されたのは古の名臣比干ひかんの諫死と変る所が無い。
 仁と称して良いであろうかと。
 孔子が答えた。
 いや、比干と紂王ちゅうおうとの場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤かいごするのを期待した訳だ。
 これは仁と謂うべきであろう。
 泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにも非ず、位も一大夫に過ぎぬ。
 君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚いんこんを正そうとした。
 自ら無駄に生命を捐てたものだ。
 仁どころの騒さわぎではないと。
 その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしても頷うなずけない。
 早速、彼は口を出す。
 仁・不仁はしばらく措く。
 しかしとにかく一身の危あやうきを忘れて一国の紊乱びんらんを正そうとした事の中には、智不智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。
 空しく命を捐つなどと言い切れないものが。
 たとえ結果はどうあろうとも。

「由ゆうよ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼に付いて、それ以上は判わからぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれを輔たすけ、国に道無ければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはいまだ判らぬと見える。詩に曰う。民僻よこしま多き時は自ら辟のりを立つることなかれと。蓋けだし、泄冶の場合にあてはまるようだな。」

「では」と大分長い間考えた後あとで子路が言う。
 結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか?身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか?一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生そうせいの安危ということよりも大切なのであろうか?というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙ひんしゅくして身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう?まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。

「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。但ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別に私わたくしの利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」

 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。
 身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲めいてつ保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。
 それがどうも気になるのだ。
 他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。
 それをすべての根柢こんていとした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
 子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然しゅうぜんとして言った。
 邦くにに道有る時も直きこと矢のごとし。
 道無き時もまた矢のごとし。
 あの男も衛の史魚しぎょの類だな。
 恐らく、尋常じんじょうな死に方はしないであろうと。

 楚が呉を伐った時、工尹商陽こういんしょうようという者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄疾きしつ
「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、
「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃しゃへいした。
 しかしすぐにまた弓を韋長かわぶくろに収めてしまった。
 再び促うながされてまた弓を取出し、あと二人を斃たおしたが、一人を射るごとに目を掩おおうた。
 さて三人を斃すと、
「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
 この話を孔子が伝え聞き、
「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。
 子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。
 殊に、
「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。
 彼は怫然ふつぜんとして孔子に喰って掛かる。

「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶ所を尽くし、死して而しこうして後に已む。夫子何ぞ彼を善しとする?」
孔子もさすがにこれには一言も無い。
 笑いながら答える。

「然しかり。汝の言のごとし。吾われ、ただその、人を殺すに忍しのびざるの心あるを取るのみ。」

十三

 衛に出入すること四度、陳に留まること三年、曹そう・宋・蔡・葉・楚と、子路は孔子に従って歩いた。
 孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。
 世の溷濁こんだくと諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣ふんまん焦躁しょうそうを幾年か繰返くりかえした後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。
 それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。
 同じく命なりと云うにしても、
「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸ぼくたく」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。
 匡きょうの地で暴民に囲まれた時昂然こうぜんとして孔子の言った
「天のいまだ斯文しぶんを喪ほろぼさざるや匡人きょうひとそれ予われをいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解わかって来た。
 いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧ちえの大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措きょその意味も今にして始めて頷けるのである。
 あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。
 朴直ぼくちょく子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。
 放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。
 圭角けいかくがとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。
 後世のいわゆる
「万鍾ばんしょう我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人やせろうにんの徒いたずらなる誇負こふから離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。

十四

 孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿孔叔圉こうしゅくぎょ等から乞われるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。
 孔子が十余年ぶりで故国に聘むかえられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。
 十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争ふんそうを重ねていた。
 まず公叔戍こうしゅくじゅという者が南子排斥を企くわだてかえってその讒ざんに遭って魯に亡命する。
 続いて霊公の子・太子萠耳貴かいがいも義母南子を刺そうとして失敗し晋に奔はしる。
 太子欠位の中に霊公が卒しゅっする。
 やむをえず亡命太子の子の幼い輒ちょうを立てて後を嗣がせる。
 出公しゅつこうがこれである。
 出奔しゅっぽんした前太子萠耳貴は晋の力を借りて衛の西部に潜入せんにゅうし虎視眈々こしたんたんと衛侯の位を窺う。
 これを拒こばもうとする現衛侯出公は子。
 位を奪うばおうと狙ねらう者は父。
 子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
 子路の仕事は孔家こうけのために宰として蒲の地を治めることである。
 衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫の誉ほまれが高い。
 蒲は、先頃南子の讒に遭って亡命した公叔戍の旧領地で、従って、主人を逐うた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。
 元々人気じんきの荒あらい土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。
 任地に立つ前、子路は孔子の所に行き、
「邑に壮士多くして治め難し」といわれる蒲の事情を述べて教を乞うた。
 孔子が言う。

「恭きょうにして敬あらばもって勇を懾おそれしむべく、寛かんにして正しからばもって強を懐くべく、温にして断ならばもって姦を抑おさうべし」と。
 子路再拝して謝し、欣然きんぜんとして任に赴おもむいた。
 蒲に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子等を呼び、これと腹蔵なく語り合った。
 手なずけようとの手段ではない。
 孔子の常に言う
「教えずして刑けいすることの不可」を知るが故に、まず彼等に己の意の在る所を明かしたのである。
 気取の無い率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。
 壮士連はことごとく子路の明快闊達に推服した。
 それにこの頃になると、既に子路の名は孔門随一ずいいちの快男児として天下に響ひびいていた。

「片言もって獄ごくを折さだむべきものは、それ由ゆうか」などという孔子の推奨すいしょうの辞までが、大袈裟おおげさな尾鰭おひれをつけて普あまねく知れ渡わたっていたのである。
 蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。

 三年後、孔子がたまたま蒲を通った。
 まず領内に入った時、
「善い哉、由や、恭敬にして信なり」と言った。
 進んで邑に入った時、
「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。
 いよいよ子路の邸に入るに及んで、
「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。
 轡くつわを執っていた子貢が、いまだ子路を見ずしてこれを褒める理由を聞くと、孔子が答えた。
 已すでにその領域に入れば田疇でんちゅうことごとく治まり草莱そうらい甚だ辟ひらけ溝洫こうきょくは深く整っている。
 治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くしたからである。
 その邑に入れば民家の牆屋しょうおくは完備し樹木は繁茂はんもしている。
 治者忠信にして寛なるが故に、民その営を忽ゆるがせにしないからである。
 さていよいよその庭に至れば甚だ清閑せいかんで従者僕僮ぼくどう一人として命めいに違たがう者が無い。
 治者の言、明察にして断なるが故に、その政が紊みだれないからである。
 いまだ由を見ずしてことごとくその政を知った訳ではないかと。

十五

 魯の哀公あいこうが西の方かた大野たいやに狩かりして麒麟きりんを獲た頃、子路は一時衛から魯に帰っていた。
 その時小朱しょうちゅの大夫・射えきという者が国に叛そむき魯に来奔した。
 子路と一面識のあったこの男は、
「季路をして我に要せしめば、吾盟ちかうことなけん。」と言った。
 当時の慣ならいとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安んじて居つくことが出来るのだが、この小朱の大夫は
「子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓ちかいなど要らぬ」というのである。
 諾だくを宿するなし、という子路の信と直とは、それほど世に知られていたのだ。
 ところが、子路はこの頼をにべも無く断ことわった。
 ある人が言う。
 千乗の国の盟をも信ぜずして、ただ子一人の言を信じようという。
 男児の本懐ほんかいこれに過ぎたるはあるまいに、なにゆえこれを恥とするのかと。
 子路が答えた。
 魯国が小朱と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事のいかんを問わず欣んで応じよう。
 しかし射という男は国を売った不臣だ。
 もしその保証に立つとなれば、自ら売国奴ばいこくどを是認することになる。
 おれに出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!
 子路を良く知るほどの者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。
 余りにも彼のしそうな事、言いそうな事だったからである。

 同じ年、斉の陳恒ちんこうがその君を弑しいした。
 孔子は斎戒さいかいすること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉を伐たんことを請うた。
 請うこと三度。
 斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。
 季孫きそんに告げて事を計れと言う。
 季康子きこうしがこれに賛成する訳が無いのだ。
 孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。

「吾、大夫の後しりえに従うをもってなり。故にあえて言わずんばあらず。」
 無駄とは知りつつも一応は言わねばならぬ己おのれの地位だというのである。
 (当時孔子は国老の待遇たいぐうを受けていた。)
 子路はちょっと顔を曇くもらせた。
 夫子のした事は、ただ形を完まっとうするために過ぎなかったのか。
 形さえ履めば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?
 教を受けること四十年に近くして、なお、この溝みぞはどうしようもないのである。

十六

 子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱孔叔圉こうしゅくぎょが死んだ。
 その未亡人で、亡命太子萠耳貴かいがいの姉に当る伯姫はくきという女策士が政治の表面に出て来る。
 一子里かいが父圉ぎょの後あとを嗣いだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。
 伯姫から云えば、現衛侯輒ちょうは甥おい、位を窺う前太子は弟で、親しさに変りはないはずだが、愛憎あいぞうと利慾との複雑な経緯けいいがあって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。
 夫の死後頻しきりに寵愛ちょうあいしている小姓こしょう上りの渾良夫こんりょうふなる美青年を使として、弟萠耳貴との間を往復させ、秘かに現衛侯逐出おいだしを企んでいる。

 子路が再び衛に戻もどってみると、衛侯父子の争は更に激化げきかし、政変の機運の濃く漂ただよっているのがどことなく感じられた。

 周の昭王の四十年閏うるう十二月某日ぼうじつ
 夕方近くになって子路の家にあわただしく跳び込んで来た使があった。
 孔家の老・欒寧らんねいの所からである。

「本日、前太子萠耳貴都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫と共に当主孔里こうかいを脅おどして己を衛侯に戴かしめた。大勢は既に動かし難い。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉ほうじて魯に奔るところだ。後あとはよろしく頼む。」という口上である。
 いよいよ来たな、と子路は思った。
 とにかく、自分の直接の主人に当る孔里が捕とらえられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。
 おっ取り刀で、彼は公宮へ駈け付ける。
 外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。
 子羔しこうだ。
 孔門の後輩で、子路の推薦すいせんによってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。
 子羔が言う。
 内門はもう閉しまってしまいましたよ。
 子路。
 いや、とにかく行くだけは行ってみよう。
 子羔。
 しかし、もう無駄ですよ。
 かえって難に遭うこともないとは限らぬし。
 子路が声を荒らげて言う。
 孔家の禄ろくを喰む身ではないか。
 何のために難を避ける?
 子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。
 ドンドンと烈はげしく叩たたく。
 はいってはいけない!と、中から叫ぶ。
 その声を聞き咎とがめて子路が怒鳴どなった。
 公孫敢こうそんかんだな、その声は。
 難を逃のがれんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。
 その禄を利した以上、その患かんを救わねばならぬのだ。
 開けろ!開けろ!
 ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。
 見ると、広庭一面の群集だ。
 孔里の名において新衛侯擁立ようりつの宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。
 皆それぞれに驚愕きょうがくと困惑こんわくとの表情を浮かべ、向背こうはいに迷うもののごとく見える。
 庭に面した露台ろだいの上には、若い孔里が母の伯姫と叔父おじの萠耳貴とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、強いられている貌かたちだ。
 子路は群衆の背後うしろから露台に向って大声に叫んだ。
 孔里を捕えて何になるか!孔里を離せ。
 孔里一人を殺したとて正義派は亡ほろびはせぬぞ!
 子路としてはまず己の主人を救い出したかったのだ。
 さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動せんどうを始めた。
 太子は音に聞えた臆病者おくびょうものだぞ。
 下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(里)を舎ゆるすに決っている。
 火を放けようではないか。
 火を!
 既に薄暮はくぼのこととて庭の隅々すみずみに篝火かがりびが燃されている。
 それを指さしながら子路が、
「火を!火を!」と叫ぶ。
「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
 台の上の簒奪者さんだつしゃは大いに懼れ、石乞せききつ・盂黶うえんの二剣士に命じて、子路を討たしめた。
 子路は二人を相手に激はげしく斬り結ぶ。
 往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。
 次第に疲労ひろうが加わり、呼吸が乱れる。
 子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟きしを明らかにした。
 罵声ばせいが子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体からだに当った。
 敵の戟ほこの尖端さきが頬ほおを掠かすめた。
 纓えい(冠の紐ひも)が断れて、冠が落ちかかる。
 左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。
 血が迸ほとばしり、子路は倒たおれ、冠が落ちる。
 倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。
 敵の刃やいばの下で、真赤まっかに血を浴びた子路が、最期さいごの力を絞しぼって絶叫ぜっきょうする。
「見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
 全身膾なますのごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。
 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、
「柴さい(子羔)や、それ帰らん。由ゆうや死なん。」と言った。
 果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目ちょりつめいもくすることしばし、やがて潸然さんぜんとして涙下った。
 子路の屍しかばねが醢ししびしおにされたと聞くや、家中の塩漬類しおづけるいをことごとく捨てさせ、爾後じご、醢は一切食膳しょくぜんに上さなかったということである。

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