巻 第二 相聞・挽歌  目録

 巻第二は、私の歌である「相聞」と、死の歌である「挽歌」を収める。

八五 磐姫皇后が天皇を慕ってつくった歌四首
 君が行き 日長くなり 山たづね 迎へ行かむ 待ちにか待たむ

 あの方が出かけられてずいぶん長くなった。山を越えて尋ねてお迎えに行こうかしら、それともこのままお待ちしていようかしら。
磐姫(いはのひめ)皇后…仁徳天皇の皇后。ひどく嫉妬深い女性として、
『古事記』『日本書紀』に書かれている。
 天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、ふだんと違う気配があると地団駄を踏んで嫉妬したという。


八六 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の
磐根いはねし枕きて 死なましものを

 これほど恋い焦がれてなどいるよりは、高い山の岩を枕にして、いっそのこと死んでしまえばよかった。

八七 ありつつも 君をば待たむ 打ちなびく
わが黒髪に 霜の置くまでに

 このままずっとあの方をお待ちしよう。ゆらゆらなびくこの黒髪に、白いものが交じるほどになるまでも。

八八 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞あさかすみ
何処辺いつへの方に あが恋ひ止まむ

 秋の田に実った稲穂の上に立ちこめる朝霞、その霞のようにずっと晴れない私の恋は、いったいいつになったらやむのだろう。

九一 天智天皇が鏡王女に贈った御歌
 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる
大島の嶺に 家もあらましを

 逢えないのなら、せめてあなたの家をいつでも見ることができたらなあ。大和の大島の山の頂に私の家があったらよかったのに。
 そこからだと、いつでもあなたの家を見られるから。
*鏡王女かがみのおおきみ…額田王の姉。
 初め天智天皇の室、後に藤原鎌足の妻となった。


九二 九一に鏡王女が答えた歌
 秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ増さめ 思ほすよりは

 秋の山の樹の下を隠れて流れる水が、秋にはうんと水かさを増すように、私のほうがずっとあなたを思っています。あなたが私を思ってくださるよりは。

九三 鏡王女が内大臣藤原鎌足に贈った歌
 玉くしげ 覆おほふを易み 開けていなば
君が名はあれど わが名し惜しも

 美しい櫛箱にふたをするように、二人の仲を覆い隠すのは簡単だと、あなたは夜がすっかり明けてからお帰りになるけれど、あなたには浮き名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます。
 どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください。


九四 九三に対し、内大臣藤原鎌足が答えた歌
 玉くしげ 御室みむろの山の さなかづらさ
寝ずはつひに ありかつましじ

 玉くしげの実、その三輪の山のさなかづらの名のように、「さね」(共寝)をしないのなら、あなたはとてもこのまま生きてはいられないでしょう。
*さなかづら…つる性植物のびんなんかづら。


九五 内大臣藤原鎌足が采女うねめ安見児を娶めとったときに詠んだ歌
 吾はもや 安見児やすみこ得たり 皆人みなひと
得がてにすとふ 安見児得たり

 私は今まさに、美しい安見児を娶った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶った!
*采女…天皇の食事に奉仕した女官。
 郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られた。天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられた。この歌は、鎌足が安身児という采女を我が物にした喜びの歌だが、もちろん天智天皇の許しを得てのことだろう。


一〇三 天武天皇が藤原夫人に贈った歌
 わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後のち

 私の里には大雪が降った。あなたの住む大原の古ぼけた里に降るのはもっと後だろう。
*藤原夫人…藤原鎌足の娘で、天武天皇の夫人(后に次ぐ位)。大原は鎌足の生誕の地。


一〇四 一〇三に藤原夫人がお答えした歌
 わが岡の おかみに言ひて 降らしめし
雪のくだけし 其処そこに散りけむ

 私の住む岡の竜神に言いつけて降らせた雪のくだけたのが、そちらに降ったのですよ。それを先に降ったなどと得意になっておっしゃったりして…。

一〇五 大伯皇女が弟の大津皇子を思う歌二首
 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて:
暁露あかときつゆに わが立ち濡れし

 私の弟を大和へ帰さなければと、夜が更けて暁の霜が降りるまで、私は立ち尽くしてその露に濡れていました。
*大津皇子…天武天皇の御子。
 大柄で容貌も男らしく人望も厚かった。
 草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていたが、六八六年、天武天皇崩御の直後、反逆を謀ったとして処刑された。享年二四歳。
 草壁の安泰を図ろうとする皇后の思惑がからんでいたともいわれる。大伯皇女は大津皇子の同母姉で、一四歳から伊勢神宮の斎宮となっていた。この歌は、事件の直前に、ひそかに伊勢の大伯を訪ねてきた大津を帰す時に詠まれたもの。


一〇六 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を
いかにか君が ひとり越ゆらむ

 二人で行っても通り過ぎるのに難儀するあの秋の山を、今ごろどのようにしてあなたは一人で越えているのだろう。

一〇七 大津皇子が石川郎女に贈った歌
 あしひきの 山のしづくに 妹待つと
われ立ち濡れぬ 山のしづくに

 あなたを待って立ち続け、山の木々から落ちてくるしずくに濡れてしまいましたよ。
石川郎女(いしかはのいらつめ)…伝未詳。大津皇子の皇位継承をめぐるライバルだった草壁皇子の求愛を受けながら退けたとも、すでに召されていたともいわれる。「郎女」は若い女子を親しんで呼ぶ語。
*あしひきの…「山」の枕詞。


一〇八 一〇七に対し石川郎女が答えた歌
 吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの
山のしづくに ならましものを

 私を待って、あなたがお濡れになったというその山のしづくに、私がなれたらいいのに。

一〇九 大津皇子と石川郎女の密会が、陰陽師の津守連通の占いで露見したときに、大津皇子がつくった歌
 大船おほぶねの 津守つもりが占うらに 告らむとは
まさしに知りて 我がふたり寝し

 津守の占いに出て分かるだろうとは前から承知の上で、私たち二人は寝たのだ。

一一〇 草壁皇子が石川郎女に贈った歌
 大名児おほなこを 彼方をちかた野辺のへに 刈る草の
束の間あひだも 我れ忘れめや

 大名児よ、お前を、遠くの野辺で刈っている萱の一握り、それほどの短い間も忘れることがあろうか、ありはしない。

一一四
 但馬皇女が穂積皇子を恋い慕ってつくった歌三首

 秋の田の 穂向ほむきの寄れる 片寄りに
君に寄りなな 言痛こちたくありとも

 秋の田の実った稲穂が一方に片寄っている。私もそのようにあの人に寄り添いたい、どんなに人の噂がうるさくても。
*但馬皇女 …天武天皇の皇女。
 穂積皇子も天武天皇の皇子だが、異母兄。
 当時は母親が違えば結婚も許された。
 しかし、但馬皇女はこのとき同じく異母兄の高市皇子の妻だったので、穂積皇子との仲は噂になった。


一一五 後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ
道の阿廻くまみに 標しめへわが背

 後に残って恋焦がれてばかりいるより、いっそのこと追い慕って行こう。私が無事に追いつけるよう、道の曲がり角に目印をつけておいてください、あなた。

一一六 人言ひとごとを 繁み言痛こちたみ 己おのが世に
いまだ渡らぬ 朝川渡る

 人の噂が激しくわずらわしいので、生まれてまだ一度も渡ったことのない朝の川を渡ります。

一一七 舎人皇子の歌
 ますらをや 片恋ひせむと 嘆けども
しこのますらを なほ恋ひにけり

 ますたおたるもの、片思いなどするものかと嘆いても、情けないますらおだ、やはりあなたが恋しい。
*舎人皇子…天武天皇の皇子。


一一八 一一七に対して舎人娘子が答えた歌
 嘆きつつ 大夫まるらをのこの 恋ふれこそ
わが髪結ゆふかみの 漬ちて濡れけれ

 嘆きながら、立派なお方が私を恋焦がれていらっしゃるからこそ、私の結い上げた髪がぐっしょり濡れてほどけてしまうのですね。
*舎人娘子…不詳。舎人皇子の養育を担当した氏族の娘?


一三一 柿本朝臣人麻呂が妻と別れて都に上るときにつくった歌
 石見いはみの海 角つのの浦廻うらみを 浦なしと
 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし
 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
 鯨魚いさな取り 海辺うみへを指して 和多津にきたづ
 荒磯ありその上に か青く生ふる 玉藻たまも沖つ藻
 朝羽あさは振る 風こそ寄らめ 夕羽ゆふは振る
 波こそ来寄れ 波の共むた か寄りかく寄る
 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜つゆしも
 置きてし来れば この道の 八十隈やそくまごとに
 万よろづたび かへり見すれど いや遠とほ
 里は離さかりぬ いや高たかに 山も越え来ぬ 夏草の
 思ひ萎しなえて 偲しのふらむ 妹が門かど見む なびけこの山

 石見の海の角の海岸を、よい浦などないと人は見るだろうが、よい干潟などないと人は見るだろうが、それならそれでよい。
 たとえよい浦はなくても、たとえよい干潟はなくても、私にとってはかけがえのない所、この海辺を指して、和田津の岩場のあたりに、青々とした玉藻や沖の藻を、朝、鳥が羽ばたくように風が吹き寄せ、夕べに鳥が羽ばたくように波が打ち寄せる。
 その波のままに、あちらへ寄ったりこちらへ寄ったりして揺らぐ美しい藻のように寄り添って寝た妻を、露霜が置くように角の里に置いてきたので、この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。
 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。
 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎しおれるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。
*石見国…島根県西部。人麻呂は国司の役人として赴任、現地で妻を娶り、この時妻を置いて上京したとみられる。
*角の浦廻…「角」は地名。「浦廻」は海岸で湾曲している地形。
*鯨魚取り…「海」の枕詞。
*露霜の…「置く」の枕詞。
*夏草の…「思ひ萎ゆ」の枕詞。


一三二 石見いはみのや 高角山たかつのやまの 木の際より
わが振る袖を 妹見つらむか

 妻の住む石見の角の里にある高い山の木の間から、私が袖を振る姿を、妻は見てくれただろうか。

一三三 小竹ささの葉は み山もさやに さやげども
われは妹思ふ 別れ来ぬれば

 小竹の葉は山全体をさやさやと鳴り響かすようにさやいでいるが、私は妻のことばかり思っている、別れてきてしまったので。

一三六
 青駒あをこまの 足掻あがきを速はやみ 雲居くもゐにぞ
妹があたりを 過ぎて来にける

 妻のいる辺りをもっと見たいのに、自分の乗っている青毛の馬の駈けるのが速くて、妻のいるはずの里も、いつか空遠くになってしまった。

一四一
 有間皇子、自らを傷みて松が枝を結ぶ歌二首

 磐代いわしろの 浜松が枝を 引き結び
ま幸さきくあらば また還かへり見む

 自分はこのような身の上で磐代まで来たが、いま浜辺に生えている松の枝と枝を引き結んで幸を祈って行く。もし無事であることができたら再び帰ってきてこれを見よう。
*有間皇子…孝徳天皇の皇子。六五八年、斉明天皇と皇太子中大兄皇子が紀の湯に行幸中に反逆を企てたとして、捕えられ絞首された。享年一九歳。
*自らを傷みて松が枝を結ぶ歌…連行される途中、和歌山県岩代で詠んだ歌。自分の身を嘆き悲しんで、松の枝と枝とを引き結んで詠んだ歌。松の枝を結ぶのは上代の人々の信仰によるもの。


一四二 家にあれば 笥に盛る飯いひを 草枕
旅にしあれば 椎しひの葉に盛る

 家にいるときはいつも食器に盛っていた飯を、今は旅の途上であるので、椎の葉に盛って食べている。

一四七
 天智天皇がご病気のときに倭姫大后がつくった歌

 天の原 ふりさけ見れば 大王おほきみ
御寿みいのちは長く 天あま足らしたり

 天を遠く仰ぎ見れば、悠久にしてきわまりない。
 今、天皇のお命もその天のように無極である。


一四八 天智天皇崩御の後、倭姫大后がつくった歌
 青旗あをはたの 木幡こはたの上を 通ふとは
目には見れども 直ただに逢はぬかも

 木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありと思い浮かべられるけれど、直接にお逢い奉ることがない。
 御身と親しくお逢いすることがかなわない。
*青旗の…「木旗」の枕詞。「木幡」は地名。


一四九 人はよし 思ひ止むとも 玉かづら
影に見えつつ 忘らえぬかも

 他の人はたとい御かくれになった天皇を思い慕うのをやめてしまっても、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れられません。

一五三
 天智天皇がご病気のときに倭姫大后がつくった歌

 鯨魚いさな取り 淡海あふみの海を 沖さけて
 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂かい
 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
 若草の 夫つまの 思ふ鳥立つ

 近江の海を遠い沖から漕いでくる船、岸辺に沿って漕いでくる船、沖の櫂よ、ひどく撥ねないで、岸辺の櫂よ、ひどく跳ねないで、若草のような私の夫が愛した鳥が飛び立ってしまうから。

一五八 十市皇女が亡くなった時、高市皇子がつくった歌
 山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水
みに行かめど 道の知らなく

 山吹の花が咲いている山の清水を汲みに行こうと思っても、どう通って行ったらよいか、道が分からないのです。
*十市皇女…天武天皇と額田王との娘。
*高市皇子…天武天皇の長子。
 山吹の花にも似た姉の十市皇女が急死し、どうしてよいのか分からないという心が含まれている。


一六一 天武天皇崩御の時、皇后(後の持統天皇)がつくった歌
 北山に つらなる雲の 青雲の 星離さかりゆき 月も離りて

 北山に連なってたなびいている雲の、青雲の中の星も移り、月も移って行く。

一六三 大津皇子が処刑された後、
 大伯皇女が伊勢神宮から都へ上る時に詠んだ歌

 神風かむかぜの 伊勢の国にも あらましを
なにしか来けむ 君もあらなくに

 こんなことなら伊勢の国にいたほうがよかったのに、いったい私は何をしに都へ帰ってきたのだろう、あなたももうこの世にいないというのに。

一六四 見まく欲り 我がする君も あらなくに
何しか来けむ 馬疲るるに

 会いたくて仕方ないあなたももういないのに、私は何をしに帰ってきたのだろう、馬も疲れるというのに。

一六五 大津皇子の遺体を葛城の二上山に移して葬る時に、
 大伯皇女が詠んだ歌
 
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは
二上山ふたかみやまを いろせとわが見む

 この世の人でいる私は、明日からは、この二上山をいとしい弟と思って眺めようか。

一六六 磯の上に生ふる馬酔木あしびを手折たをらめど
見すべき君がありといはなくに

 水辺の岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。

二〇三
 但馬皇女が亡くなった後、穂積皇子がつくった歌

 降る雪はあはにな降りそ吉隠よなばり
猪養ゐかひの岡の寒からまくに

 降っている雪よ、もうこれ以上ひどく降らないでおくれ。
 (但馬皇女の墓所の)吉隠の猪養の岡が寒くなるから。
*穂積皇子…天武天皇の皇子。但馬皇女も天武の皇女で二人は異母兄妹。当時は母親が違えば結婚も許された。


二〇八 妻が死んだ後、柿本朝臣人麻呂がつくった歌
 秋山の もみぢを茂み 迷まとゐぬる
妹が求めむ 山道やまぢ知らずも

 秋の山に、紅葉した草木が茂っていて、そこに迷い込んだ妻を捜す山道すらわかわない。

二〇九 もみぢ葉の 散りゆくなへに 玉梓たまづさ
使を見れば 逢ひし日思ほゆ

 もみじがはかなく散りゆく折りしも、文の使いをする人を見ると、妻と逢った日のことを思い出す。

二一〇
 うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し
 走出はしりでの 堤つつみに立てる 槻つきの木の
 こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし
 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど
 世の中を 背そむきし得ねば かぎろひの
 燃ゆる荒野あらのに 白妙しろたへの 天あま領巾ひれ隠り
 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば
 吾妹子が 形見に置ける みどり児の
 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ
 男じもの 腋わきばさみ持ち 吾妹子と
 二人わが宿し 枕づく 嬬屋つまやの内に
 昼はもうらさび暮し 夜はも 息づき明あか
 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども
 逢ふ因よしを無み 大鳥の 羽易はがいの山に
 わが恋ふる 妹は座いますと 人の言へば
 石根いはねさくみて なづみ来し 吉けくもぞなき
 うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも
 見えなく思へば

 妻はずっとこの世の人だと思っていた時、手を取り合って私たち二人が見た、突き出た堤に立っていた槻の木の、あちらこちらの枝に春の葉がたくさん茂っていたように、思い続けた妻であったが、頼りにしてきた妻であったが、無常の世の道理に背くことはできず、陽炎かげろうがゆらめく荒野に、真っ白な天女の領巾に覆われて、鳥でもないのに朝早く飛び立ってしまい、夕日のように隠れてしまったので、妻が形見として残していった幼な子が、何かを欲しがり泣くたびに、与えるものも無く、男だというのに脇に抱えて、いとしい妻と寝た離れの中で、昼には心寂しく過ごし、夜にはため息をついて明かし、いくら嘆いてもどうしようもなく、恋焦がれても逢えず、羽易の山に妻がいると人が言ってくれるので、大地に根を張ったような大きな岩を踏み分けて、骨折りながらやって来たものの、その甲斐も無い。
 ずっとこの世の人だと思っていた妻が、玉の光ほどにほのかにも見えないことを思うと。


二一一 去年こぞ見てし 秋の月夜は 照らせども
あひ見し妹は いや年さかる

 去年に見た秋の月は変わらず照ってはいるが、一緒に眺めた妻は、年月とともにますます遠ざかっていく。

二一二
 衾道ふすまぢを 引手ひきでの山に 妹を置きて
山道やまぢを行けば 生けりともなし

 引手の山に妻を置いて、寂しい山道を帰っていくと、とても自分が生きているとは思われない。
*衾道を…「引手」の枕詞か?


二二一 柿本朝臣人麻呂が、讃岐(さぬき)狭岑(さみね)島で溺死者を見てつくった歌
 妻もあらば 採みてたげまし 佐美さみの山
の上の宇波疑うはぎ 過ぎにけらずや

 もし妻が一緒なら、野の辺の兎芽子うはぎを摘んで食べさせようものを、あわれにもただ一人こうして死んでいる。
 そして、野の兎芽子はもう季節を過ぎてしまっているではないか。


二二三
 石見の国で自らの死に臨んだ柿本朝臣人麻呂の歌

 鴨山かもやまの 岩根いはねし枕ける 我をかも
知らにと妹が 待ちつつあるらむ

 鴨山の岩を枕にして横たわっている私だが、それを知らずに妻は今ごろ私を待っていてくれるだろうか。


索引 栞 巻1雑歌 2相聞 挽歌 3雑 譬喩 挽歌 4相聞歌 5雑歌 6雑歌 7雑 譬喩 挽歌 8雑 相聞歌 9雑 相聞 挽歌 10雑 相聞歌
11古今相聞往来歌 12同下 13雑 相聞 問答 譬喩 挽歌 14東歌[雑 相聞往来 譬喩 防人 挽歌] 15 16雑歌 17 18 19 20 戻る