万葉抄
巻 第一 雑歌
 二十巻からなる万葉集は、巻第一を原核とし、数次の編纂過程を経て成立したとされる。
 巻第一は、天皇の御代の順にしたがって歌を配列する構成がとられ、雑歌のみの巻である。
 作歌年代は、雄略天皇の時代から奈良の宮の時代まで。
*雑歌…公的な場で歌われたさまざまの歌。
一 雄略天皇の御製歌おほみうた
 籠もよ み籠持ち 掘串ふくしもよ み掘串持ち
 この岳に 菜摘ます児 (いへ)()らせ 名告らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ
 しきなべて われこそ座いませ われこそば 告らめ
 家をも名をも

 おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも。
*雄略天皇…第二一代天皇。万葉の時代から約二百年も前の天皇であるため、実作ではなく伝承された歌謡と考えられる。
*堀串…木や竹でつくったヘラ。
*そらみつ…「大和」の枕詞。神の霊が行き渡った地、の意味。
*名告らさね…古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられ、名乗りは重要事だった。男が女の名を尋ねるのは求婚を意味し、女が名を明かすのは承諾を意味した。
 また、早春、娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式でもあったという。


二 舒明天皇が香具山に登って国見をなさった時の御製歌
 大和には 群山むらやまあれど とりよろふ
 天の香具山かぐやま 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は (かもめ)立ち立つ
 うまし国ぞ 蜻蛉島あきづしま 大和の国は

 大和には、数々の山があるけれど、なかでも特別に神聖な天の香具山、そこに登り立って国見をすれば、広々とした平野にはあちらこちらに煙が立ち、広々とした海にはあちらこちらに鴎が飛び立っている、ああ、良い国だ、蜻蛉島、大和の国は。
*蜻蛉島…「大和」の枕詞。蜻蛉はトンボ。


三 中皇命が間人連老をして舒明天皇に献上させた歌
 やすみしし わが大君おほきみの 朝あしたには
 とり撫でたまひ 夕ゆふべには い倚り立たし
 御執みとらしの 梓あづさの弓の 中弭なかはずの 音すなり
 朝猟あさかりに 今立たすらし 暮猟ゆふかり
 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

 天下のすべてをお治めになるわが大君が、朝には手にとってお撫でになり、夕方には側に寄って立っていらっしゃった、ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる、朝の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい、夕の狩りに今まさに臨もうとしていらっしゃるらしい、ご愛用の梓の弓の中弭の音が聞こえてくる。
*中皇命なかつすめらみこと…舒明天皇の皇女。
*やすみしし…「わご大君」の枕詞。
*中弭…弓の真ん中で矢をつがえる部分。


 たまきはる 宇智うちの 大野に 馬うまめて
朝踏ますらむ その草深野

 今ごろは、宇智の大きい野にたくさんの馬を並べて朝の御狩りをしたまい、その朝草を踏み走らせあそばしておいででしょう。

六 軍王の歌
 
山越やまごしの 風を時ときじみ 寝る夜落ちず
家なる妹を かけて偲しぬびつ

 山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕っている。
*軍王いくさのおおきみ…伝未詳。


八 額田王の歌
 熟田津にきたつに 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな

 熟田津で、これから船出しようと月の出を待っていると、潮の流れさえ私たちの思い通りとなってきた。
 さあ、今こそ漕ぎ出しましょうぞ。
*額田王ぬかだのおおきみ…万葉初期の代表的な女流宮廷歌人。
*熟田津…愛媛県松山市の海浜。六六一年、新羅の侵攻にさらされた百済救援に向かう斉明天皇の船団が一時停泊した港。
 ここにしばらくとどまった後、出航しようとする時の歌。
 この遠征には、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子ほか皇女たちも従った。この歌は斉明天皇の作だと伝わるが、額田王が天皇になり代わって詠んだとされる。月の出と潮流とは密接な関係があり、ともに船旅には重要な条件だった。この月を満月とし、ちょうど大潮の満潮にあたったとする見方もある。
 なお、斉明天皇は博多に到着の後に崩御、中大兄皇子は翌々年、朝鮮半島に軍を進めたが、白村江で大敗した。


一一 中皇命の歌
 吾わが背子は 仮廬かりほ作らす 草かやなくば
小松が下の 草かやを苅らさね

 あなたがいま旅の宿りに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、もし屋根を葺く萱草かやが不足でしたら、あそこの小松の下の萱草をお刈りなさいませ。
*中皇命…伝未詳。


一三 中大兄皇子の大和三山の歌
 香具山は 畝火を愛しと 耳梨と 相あらそひき
 神代より 斯くにあるらし 古昔いにしへ
 (しか)にあれこそ うつせみも (つま)を あらそふらしき

 香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った、神代からそうであったらしい、昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう。
*中大兄皇子…後の天智天皇。
*大和三山…大和平野の南にある香具山・畝火山・耳梨山。この三山が妻争いをしたという伝説が『播磨風土記』に記されている。
 それによると、三山が争うと聞いて出雲の阿菩大神が仲裁に来たが、争いが止んだので、播磨の国(兵庫県)印南野に船を逆さに伏せて留まり、それが丘になったという。
 この歌は、中大兄皇子が新羅遠征の際、その地を過ぎた時に詠んだもの。また、この歌は弟の大海人皇子との額田王をめぐる妻争いも連想される。
 額田王ははじめ大海人皇子の妻で、十市皇女を生んだが、後に天智天皇となった中大兄皇子の後宮に入った。


一四 一三の反歌
 香具山と 耳梨山と あひしとき
立ちて見に来し 印南国原いなみくにはら

 香具山と耳梨山が争ったとき、立ち上がって見に来たという、この印南国原よ。
*反歌…長歌に添えられる歌。
 長歌は五音と七音を交互に六句以上並べて最後は七音で結ぶ形。
 反歌は多くの場合、短歌形式をとる。長歌に歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりする。


一六 わたつみの 豊旗雲とよはたぐもに 入日さし
今夜こよひの月夜つくよ まさやかにこそ

 海の神がたなびかす、大きく美しい雲に、今まさに入日がさしている。今夜の月はさやかに照るにちがいない。

一六 額田王が春秋の優劣を論じた歌
 冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂
 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の
 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてぞしのふ
 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山ぞわれは

 春がやってくると、冬の間鳴かなかった鳥もやって来て鳴く。
 咲かなかった花も咲いているけれど、山の木々が茂っているので分け入っても取らず、草も深いので手に取っても見ない。
 一方、秋山の木の葉を見ると、紅葉したのは取って美しいと思い、青いのはそのまま置いて嘆息する。その点こそが残念ですが、秋の山のほうが優れていると私は思います。
*冬こもり…「春」の枕詞。天智天皇が藤原鎌足に「春山の万花の(にほひ)」と、「秋山の千葉の彩いろ」を比べたとき、どちらの趣きが深いかと尋ねられ、額田王が歌で判定した。
 詩宴の場での、即興の歌であるとされる。


一七 額田王が近江の国に下った時に作った歌
 味酒うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の
 山の際に い隠るまで 道の隈くま い積るまでに
 つばらにも 見つつ行かむを しばしばも
 見放みさけむ山を 情こころなく 雲の 隠さふねしや

 なつかしい三輪の山よ、あの山が奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、よくよく振り返り見ながら行きたいのに、何度でも望み見たい山なのに、無情にも雲がさえぎり隠してよいものか。
*三輪の山…奈良県桜井市にある山。
 山全体が大神おおみわ神社の御神体。近江遷都にあたって、朝夕見慣れたなつかしい三輪山との別れを惜しんだ歌。
 また、大海人皇子と別れ、中大兄皇子に従って近江に下る切ない気持ちを表したとする見方もある。
*あをによし…「奈良」の枕詞。


一八 三輪山を しかも隠すか 雲だにも
(こころ)あらなも 隠さふべしや

 なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい。

二〇 天智天皇が蒲生野で薬狩をなさった時、額田王が作った歌
 あかねさす 紫野行き 標野しめの行き 野守は見ずや 君が袖振る

 茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。その番人たちに見られてしまうではありませんか、あなたが私に袖を振っているのを。それが不安です。
*あかねさす…「紫」「日」「昼」の枕詞。
*紫野…紫草を栽培している野。根から染料をとった。
 「標野」は一般の人が入れない野。
*袖振る…求愛のしるし。
*額田王…はじめ大海人皇子に婚い十市皇女を生んだが、後に天智天皇に召されて宮中に侍していた。
 このときの薬狩には大海人皇子と額田王も従っていて、この歌は額田王が大海人皇子にさしあげた歌。
 このとき、大海人は四〇歳くらい、額田王は三六歳くらい。


二一 二〇に対し、大海人皇子がお答えになった御歌
 紫草(むらさきの)の にほへる(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに あれ恋ひめやも

 茜色の紫草のように色美しいあなたを憎く思うのであれば、もはや人妻であるあなたに、これほどまでに恋するはずはないではないか。そういう危ないことをするのも、あなたが可愛いからだ。

二二 吹黄刀自の歌
 河上(かはのへ)の ゆつ岩群(いはむら)に 草むさず 常にもがもな 常処女(とこをとめ)にて

 川上の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが皇女の君もその岩のように変わらず永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい。
*吹黄刀自ふきのとじ…伝未詳。「刀自」は女性に対する尊称。
 この歌は、十市皇女(大海人皇子と額田王の娘)が伊勢神宮に参拝したとき、それに従った吹黄刀自が詠んだ歌。


二四 麻続王の歌
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ
伊良虞いらごの島の 玉藻刈り食

 こんな身の上になっても、この世での命を惜しんで、波に濡れながら伊良虞の島の海藻を刈って食べているのだ。
*麻続王をみのおほきみ…伊勢国伊良虞島に流罪に処せられた。


二七 天武天皇の御製歌
 よき人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ よき人よく見

 昔のよい人が、よい所だと言ってよく見て、よいと言った吉野をよく見てみよ。今のよい人もよく見てみよ。

二八 持統天皇の御製歌
 春過ぎて 夏来きたるらし 白妙しろたへの 衣乾したり 天の香具山

 春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。
 聖なる香具山の辺りには真っ白な衣がいっぱい乾してある。
*持統天皇…天武天皇の皇后で、夫をたすけて政治を執った。
 天武崩御後しばらく皇后のまま政治を執り草壁皇子を天皇に立てようとしたが、草壁が没したため自ら即位した。
 六九四年に都を藤原京に遷したが、藤原京は大和三山を近くにのぞむ地で、この歌もここで詠まれたのかもしれない。


二九 近江の旧都を通ったときに柿本朝臣人麻呂が作った歌
 玉襷たまたすき 畝火の山の 橿原の
 日知ひじり御代ゆ生れましし 神のことごと
 樛つがの木の いやつぎつぎに 天あめの下
 知らしめししを 天そらにみつ 大和を置きて
 あをによし 奈良山を越え いかさまに
 思ほしめせか 天あまざかる 夷ひなにはあれど
 石いは走る 淡海あふみの国の 楽浪ささなみの 大津の宮に
 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろき
 神の尊みことの 大宮は 此処ここと聞けども 大殿おほとの
 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞かすみ立つ
 春日の霧れる ももしきの 大宮処(おほみやところ) 見れば悲しも

 畝火山のふもとの橿原で、御位につかれた神武天皇の御代以来、この世に姿を現された天皇が次々に天下を治めになっていたのに、大和を捨て置いて奈良山を越え、どうお思いになって、田舎である近江の国の楽浪の大津の宮で天下をお治めになるのだろうか。
 天智天皇の神の旧都はここと聞いたけれど、春草が生い茂り、霧が立っているこの大宮の跡を見ると、何とも悲しい。
*柿本人麻呂…持統〜文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人の第一人者。天武・持統・文武天皇に仕える。官人としては下級だった。
*玉襷…「畝火」の枕詞。
*天にみつ…「大和」の枕詞。
*あをによし…「奈良」の枕詞。
*天離る…「夷」(田舎)の枕詞。
*石走る…「淡海」の枕詞。
*霞立つ…「春日」の枕詞。
*ももしきの…「大宮」の枕詞。
 壬申の乱で近江大津の宮は荒れ果てた。


三〇 楽浪ささなみの 志賀の唐崎からさき 幸さきくあれど
大宮人の 船待ちかねつ
 ささなみの志賀の唐崎は元のように何の変わりはないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊びをした大宮人もいなくなった。それゆえ、その船をいくら待っていても再び見ることはできないのだ。
*楽浪…琵琶湖の西南岸地方。
*唐崎…大津市の北、大津の宮があった琵琶湖岸。
*大宮人…宮廷に仕える人々。


三一 楽浪ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも
昔の人に またも逢はめやも

 志賀の大きな入り江の水は流れずに淀んでいるが、時の流れとともに過ぎ去った昔の人々には、再び会うことがあるだろうか、いや、もう会えはしない。

三二 高市古人が近江の旧都を悲しんで作った歌
 古いにしへの 人に我れあれや 楽浪ささなみ
ふるき京みやこを 見れば悲しき

 私は昔の人になってしまったのだろうか。この大津の宮を見ると、この都が栄えていたころの人であるかのように悲しくてならない。
*高市古人…柿本人麻呂とほぼ同時代の下級官人。高市黒人と同一。


三三 楽浪ささなみの 国つ御神みかみの 心うらさびて
荒れたる京 見れば悲しも

 国の神の霊威が衰えてしまい、人気もなく荒れ果ててしまった都(近江の旧都のこと)を見るのは、たまらなく悲しい。

三六 持統天皇の吉野行幸の折、柿本朝臣人麻呂が作った歌
 やすみしし わご大君おほきみの 聞きこしめす
 天あまの下に 国はしも 多さはにあれども 山川の
 清き河内かふちと 御心を 吉野の国の 花散らふ
 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの
 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競(ふなきそ)ひ 夕河渡る
 この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす
 水滾つ 滝の都は 見れど飽かぬかも

 わが大君が御統治なさるこの天下に、国は実に多くあるけれども、山や川の清く美しい河内であるとして御心をお寄せになる吉野の国の、花がしきりに散っている秋津の野辺に宮殿を立派にお作りになっていらっしゃるので、お仕えする人々は舟を並べて朝の川を渡り、舟の先を競って夕方の川を渡ってくる。
 この川の流れのようにいつまでも絶えず、この山が高いようにいよいよ立派にお治めになる、この水の激しく流れ落ちる滝の御殿は、いくら見ても飽きることがない。
*河内…山に囲まれた、川を中心とした場所。


三七 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑とこなめ
絶ゆることなく また還かへり見む

 いくら見ても飽きない吉野の川の滑らかな岩のように、いつまでも絶えずやって来て、この吉野の宮を眺めよう。

三九 山川も 寄りて奉つかふる 神ながら
たぎつ河内に 船出するかも

 山の神も川の神も諸共に寄ってきて仕え奉る、現人神として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝の河内に、群臣と共に船出したまう。

四〇 持統天皇の伊勢行幸の折、
    都に残った柿本朝臣人麻呂が作った歌

 嗚呼見あみの浦に 船乗りすらむ をとめらが
珠裳たまもの裾に 潮満つらむか

 あみの浦で船遊びをしているだろう、天皇に供奉していった若い女官たちの美しい裳の裾に、今ごろ潮が満ち寄せているだろうか。
*嗚呼見の浦…鳥羽市あたりか?「英虞あご」の誤り?
 飛鳥浄御原の宮に留まった人麻呂が、お供をした人々の華やかな舟遊びのようすを思い描いて詠んだ歌。
*をとめら…持統天皇のお供をした若い女官たち。
*珠裳…「珠」は美称。「裳」は当時の女官たちがはいていた長く裾を引くロングスカート。


四一 釧くしろ着く 答志たふしの崎に 今日もかも
大宮人の 玉藻刈るらむ

 あの答志の崎で今日もまた、大宮人たちは美しい藻を刈っているのだろうか。
*釧着く…釧(腕輪のこと)を付ける意で、手首の連想で「答志(=手節)」にかかる枕詞。


四二 潮騒しほさゐに 伊良虞いらごの島辺しまべ こぐ船に
妹乗るらむ 荒き島回しまみ

 潮が満ちてきて鳴りさわぐころ、伊良虞の島あたりを漕ぐ船に、供奉してまいった私の恋人も乗っていることだろう。あの波の荒い島のあたりを。
*妹…男性が妻や恋人を呼ぶ語。
 お供の女官の中に人麻呂の恋人がいたらしい。
 船上で荒々しい波に揺られるその身を、ふと心配している。


四三 当麻真人の妻が夫の旅に出た後に詠んだ歌
 吾わが背子せこは いづく行くらむ 奥おきつ藻
名張なばりの山を 今日か越ゆらむ

 夫は今どこを歩いていられるだろうか。
 今日はたぶん名張の山を越えていられるだろうか。
*奥つ藻の…「名張」の枕詞。


四六 軽皇子が亡父草壁皇子を慕って、ゆかりの地に出遊したのに同行した柿本朝臣人麻呂が作った歌
 阿騎あきの野に 宿る旅人 うちなびき
も寝らめやも 古いにしへ思ふに

 阿騎野に今宵宿る旅人たちは、くつろいで寝つくことなどできないだろう。昔のことを思うにつけて。
*軽皇子…草壁皇子の皇子で、後の文武天皇。この時一〇歳。草壁は天武天皇と持統天皇との間の皇子だが、皇太子のままで夭折した。
*阿騎の野…奈良県宇陀郡の山野。
 草壁皇子も同じこの地で狩りをした。


四七 ま草刈る 荒野あらのにはあれど 黄葉もみちば
過ぎにし君が 形見とぞ来

 荒れ野ではあるけれど、ここを亡き皇子の形見の地と思ってやって来ました。

四八 東ひんがしの 野に炎かぎろひ 立つ見えて
かへり見すれば 月傾かたぶきぬ

 東の野にあけぼのの茜色が見え始め、振り返ってみると、もう月が傾きかけている。
*炎…光り輝くものの意。軽皇子をあけぼのの光にたとえ、沈み行く月の光を草壁皇子にたとえて追慕している。


六一 明日香宮から藤原宮への遷都の後、志貴皇子が作った歌
 采女うねめの 袖吹きかへす 明日香あすかかぜ
都を遠み いたづらに吹く

 采女たちの美しい衣の袖を吹き返していた明日香の風も、今は都も遠くてむなしく吹くばかりだ。
*志貴皇子…天智天皇の第七皇子。近江朝の生き残りで、すでに中央から外れた立場にあった。
 この歌は、藤原京に遷都して間もないころ、廃都となった飛鳥御浄原に吹く風を詠んだもの。
*采女…天皇の食事に奉仕した女官。郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られた。
 天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられた。
 遷都に伴って采女たちも飛鳥を去っていった。


六六 春日老の歌
 河上かはのへの つらつら椿つばき つらつらに
見れども飽かず 巨勢こせの春野は

 河のほとりに点々と咲く椿。つくづく見ても見飽きることがない、この椿咲く巨勢の春の野は。

六三 山上憶良が唐土にいたとき、故郷・日本を思って作った歌
 いざ子ども はやく日本やまとへ 大伴おほとも
御津みつの浜松 待ち恋ひぬらむ

 さあ皆の者どもよ、早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜のあの松原も、我々を待ち焦がれているだろうから。
*大伴…難波の辺り一帯の地域名。もと大伴氏の領地だった。


六四 志貴皇子の歌
 葦辺あしへ行く 鴨の羽がひに 霜降りて
寒き夕ゆふへは 大和し思ほゆ

 葦が生い茂る水面を行く鴨の羽がいに霜が降っている。このような寒い夕暮れは、大和のことがしみじみ思い出される。
*志貴皇子…天智天皇の第七皇子。
 この歌は、文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)にお供して、難波離宮へ旅した時の歌。
*羽がひ…たたんだ翼が背で交わるところ。


八二 長田王の歌
 うらさぶる 情こころさまねし ひさかたの
あめの時雨しぐれの 流らふ見れば

 天から時雨の雨が降り続くのを見ていると、うら寂しい心が絶えずおこってくる。
*長田王ながたのおおきみ…奈良朝の官人。
*ひさかたの…「天」「雨」「月」などの枕詞。



索引 栞 巻1雑歌 2相聞 挽歌 3雑 譬喩 挽歌 4相聞歌 5雑歌 6雑歌 7雑 譬喩 挽歌 8雑 相聞歌 9雑 相聞 挽歌 10雑 相聞歌
11古今相聞往来歌 12同下 13雑 相聞 問答 譬喩 挽歌 14東歌[雑 相聞往来 譬喩 防人 挽歌] 15 16雑歌 17 18 19 20 戻る