巻 第十七 (分類の標目なし)
 巻第十七〜二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。
 巻第十七には、天平二年から二十年までの歌を収めている。

三八九三
 太宰帥大伴旅人が都に上るときに従った従者(作者未詳)の歌

 昨日こそ 船出はせしか 鯨魚いさなとり
比治奇ひぢきの灘を 今日見つるかも

 きのう船出をして、今日はもう比治奇の灘までやって来ましたねえ。
*鯨魚とり…「灘」の枕詞。


三八九六 家にいても たゆたふ命 波の上に
思ひし居れば 奥処おくか知らずも

 わが家にいてさえゆらゆらと不安定な私の命なのに、危険な波の上で思いつめていると、自分がこれからどうなってしまうのかとても心配だ。

三九〇四 大伴書持の歌
 梅の花 いつは折らじと いとはねど
咲きの盛りは 惜しきものなり

 つぼみの時も咲いている時も、いつ折るのも厭うわけではないが、咲いている盛りの梅を折らずにそのまま見ているのは実に惜しいものだ。
*大伴書持おおとものふみもち…大伴家持の弟。


三九一〇 玉に貫く 楝あふちを家に 植ゑたらば
山霍公鳥やまほととぎす 離れず来むかも

 楝(=栴檀)を家の庭に植えたら、山ホトトギスはいつもやって来るだろうか。

三九一五 山部赤人の歌
 あしひきの 山谷やまだに越えて 野づかさに
今は鳴くらむ 鶯うぐひすのこゑ

 もう春だから、鶯うぐいすたちは山や谷を越えて、今は野の上の小高いところで鳴いているようだ。
*あしひきの…「山」の枕詞。


三九二二 左大臣橘諸兄の歌
 降る雪の 白髪しろかみまでに 大君おほきみ
仕へまつれば 貴くもあるか

 降る雪のように白髪になるまで天皇にお仕え申し上げることができれば貴くかしこくあり難いことだ。

三九五八
 大伴家持が、弟の書持が亡くなった時につくった歌

 ま幸さきくと 言ひてしものを 白雲に
立ちたなびくと 聞けば悲しも

 無事でいてほしいと言っていたのに、白い雲になってたなびいている・・・。

三九六八 大伴池主の歌
 鶯うぐひすの 来鳴く山吹やまぶき うたがたも
君が手触れず 花散らめやも

 うぐいすがやって来て鳴く山吹は、まさかあなた様が手を触れないうちに散ったりはしないでしょう。

三九七〇 大伴家持の歌
 あしひきの 山桜花やまさくらばな 一目だに
君とし見てば 我れ恋ひめやも

 山に咲く桜の花をあなたさまと一緒に眺められたら、こんなにも花が恋しいとは思わないでしょうに。

四〇一八 港風 寒く吹くらし 奈呉なごの江に
妻呼び交し 鶴たづさわに鳴く

 海の風が寒く吹いているようだ。奈呉の入江で鶴の夫婦が互いを呼び合ってたくさん鳴いている。

四〇二九 珠洲すずの海に 朝びらきして 漕ぎ来れば
長浜の湾うらに 月照りにけり

 珠洲の海に朝早く船出して漕ぎ渡ってくると、長浜の浦にはもう月が照っていた。

巻 第十八 (分類の標目なし)
 巻第十七〜二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。
 天平勝宝五年から五年までの作歌。

四〇四二 田辺福麻呂の歌
 藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥ほととぎす
鳴くべき時に 近づきにけり

 藤の花が咲き広がっていくのを見ると、もうホトトギスが鳴く頃になったのだなあ。

四〇六六 大伴家持の歌
 卯の花の 咲く月立ちぬ 霍公鳥ほととぎす
来泣き響とよめよ 含ふふみたりとも

 卯の花が咲く季節がやって来た。ホトトギスよ、こちらに来て鳴いておくれ、まだ卯の花がつぼみのままであっても。

四〇七〇 一本ひともとの なでしこ植ゑし その心
:誰れに見せむと 思ひ始めけむ

 一本のなでしこを植えたのは、いったい誰に見せようと思って植えたのだろう。

四〇九四 陸奥国で黄金が出たという詔書を祝賀する歌
 (大伴家持)

 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天あま下り
 領らしめしける 天皇すめろきの 神の命みこと
 御代みよ重ね 天の日嗣ひつぎと 領らし来る
 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には
 山川を 広み厚みと 奉る 御調みつき宝は 数へ得ず
 尽くしもかねつ 然れども 我が大君おほきみの 諸人を
 誘いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて
 黄金くがねかも たしけくあらむと 思ほして
 陸奥みちのくの 小田なる山に 黄金ありと
 申したまへれ 御心を 明あきらめたまひ 天地あめつち
 神かみあひうづなひ 皇御祖すめろきの 御霊みたま助けて
 遠き代に かかりし事を 朕が御世みよ
 顕あらはしてあれば 食国をすくには 栄えむものと
 神ながら 思ほしめして 物部もののふ
 八十伴やそともの男を 服従まつろへの 向けのまにまに
 老人おひひとも 女童児おみなわらはも 其が願ふ
 心足だらひに 撫でたまひ 治めたまへば 此ここをしも
 あやに貴たふとみ 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の
 遠つ神祖かむおやの その名をば 大来目主おほくめぬし
 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水浸く屍
 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ と言こと立て
 大夫ますらをの 清きその名を 古いにしへよ 今の現うつつ
 流さへる 祖おやの子等こどもぞ 大伴と 佐伯の氏うぢ
 人の祖の 立つる言立ことだて 人の子は 祖の名絶えず
 大君に 奉仕まつろふものと 言ひ継げる
 言ことの職つかさぞ 梓弓あづさゆみ 手に取り持ちて
 剣つるぎ太刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに
 大君の 御門みかどの守護まもり われをきて
 人はあらじと 彌いや立て 思ひし増さる 大君の
 御言みことの幸さきの 聞けば貴たふと

 葦原の瑞穂の国を、天から降くだってお治めになられた代々の天皇の、その神の御代を幾代も重ね、天つ神の皇位を継いでこの国をお治めになってきた、その天皇の御代ごとに、治められる四方の国々では、山や川が広く豊かで、献上の宝は数え切れず、あげ尽くすこともできない。
 けれども、われらの大君が人々を誘われ、大仏建立のすばらしい事業をお始めになり、黄金がはたして十分足りるのかとご心配なさっていたところ、東の国の陸奥の小田にある山に黄金があるとの奏上があり、お心を安んじられた。
 天の神も地の神もこの事業を良いと思われ、代々の天皇の御霊も私を助けて、遠い御代にあったのと同じこのような事を、私の御世にも顕して下さったので、治める国は栄えるものと、神であるままにお思いになり、文武百官を従えてお思いの通りに、また老人や女子どもも、それぞれの願いがかなうまでにいつくしみお治めになるので、私たちはますますありがたくうれしく思い、大伴家の遠い祖先、その名を大来目主と呼ばれてお仕えしてきた職柄、海を行くなら水につかる屍、山を行くなら草むす屍となっても、大君のお側でこそ死のう、わが身を顧みるようなまねはするまいと誓い、大夫として潔い名を昔から今まで伝えてきた、その祖先の末なのだ。
 大伴と佐伯の氏は、祖先の誓いのままに名を絶やさず、大君にお仕えするものと言い継いできた、誓いの家なのだ。
 梓弓を手に持ち、剣太刀を腰に佩き、朝の警備にも夕方の警備にも、大君の御門をお守りするのは我らをおいて他にないと、さらに誓いを立て、その思いを増す。
 大君のおことばのありがたさをお聞きすると貴くて。


四〇九五 反歌
 大夫ますらをの 心思ほゆ 大君の
御言みことの幸さきを 聞けば貴たふと

 大夫の気概が自然と感じられてくる。
 大君のおことばのありがたさをお聞きすると貴くて。


四〇九六 大伴の 遠つ神祖かむおやの 奥津城おくつき
しるく標しめ立て 人の知るべく

 大伴の遠いご先祖の墓所に、はっきり標を立てよ、人々に分かるように。

四〇九七 天皇すめろきの 御代栄えむと 東あづまなる
陸奥みちのく山に 黄金くがね花咲く

 天皇の御代よ栄えよと、東の国に黄金の花が咲いた。

四一一二 大伴家持の歌
 橘たちばなは 花にも実にも 見つれども
いや時じくに なほし見が欲し

 橘は、花も実も見るけれど、いつの時も見ていたいものだ。

四一一四 なでしこが 花見るごとに 娘子をとめらが
まひのにほひ 思ほゆるかも

 なでしこの花を見るたびに、少女の笑顔の美しさを思い出す。

巻 第十九 (分類の標目なし)
 巻第十七〜二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。
 天平勝宝五年から五年までの作歌。

四一三九 大伴家持の歌
 春の苑その 紅にほふ 桃の花 照る道に 出で立つ少女をとめ

 春の園は紅色に照り輝いている。その桃の花の木陰までも輝いている道に、つと立っている少女よ。

四一四〇 わが園の 李すももの花か 庭に散る
はだれのいまだ 残りたるかも

 わが園の李の白い花なのだろうか、庭に散っているのは。それともまだらの雪が残っているのだろうか。

四一四一 春まけて 物がなしきに さ夜更けて
ぶき鳴く鴫しぎ 誰が田にか住む

 春になって何となく憂愁をおぼえるのに、この夜更けに羽ばたきをしながら鴫が一羽鳴いて行った。
 ああ、あの鴫は誰の田に住んでいる鴫だろうか。


四一四二 春の日に 張れる柳を 取り持ちて
見れば都の 大路おほぢ思ほゆ

 春の日に芽吹いた柳を折り取って見れば、奈良の都の大通りがしみじみ思われる。

四一四三 もののふの 八十やそ少女をとめらが
汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花

 大勢の少女らが入り乱れて水を汲む寺の境内にある井戸。そのほとりにカタクリの花が咲いている。
*もののふの…「八十」の枕詞。


四一四六
 夜ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬かはせ
こころもしのに 鳴く千鳥かも

 真夜中過ぎに目覚めると、川の浅瀬を求めて、私の心がしおれるほどに、千鳥がしきりに鳴いている。

四一四八 杉の野に さ躍をどる雉きざし いちしろく
にしも泣かむ 隠こもり妻かも

 杉の野で跳ねて鳴く雉きじは、つい声をたてて泣いてしまう忍び妻のようなものか。

四一四九 あしひきの 八峰やつをの雉きぎし なき響とよ
朝けの霞 見ればかなしも

 幾重にも畳まっている山々、その山中の暁に雉きじが鳴きひびく。そして、暁の霧がまだ一面に立ちこめている。

四一五〇 朝床に 聞けば遥はるけし 射水川いみづがは
朝漕ぎしつつ 唄うたふ舟人

 朝の寝覚めの床で聞いていると、遥かに遠い。
 射水川を朝漕ぎしながら唄う舟人の声が。


四一六五 丈夫ますらをは 名を立つべし 後の代
聞き継ぐ人も 語り継ぐがね

 大丈夫たるものは、まさに名を立てるべきである。
 後代その名を聞く人々が、またその名を人々に語り伝えるように、そうありたいものだ。


四二二六 この雪の 消のこる時に いざ行かな
山橘やまたちばなの 実の照るも見む

 この大雪が少なくなった残雪のころにみんなで行こう。
 そして山橘の実が真っ赤になっているのを見よう。


四二九〇 春の野に 霞たなびき うら悲し
この夕かげに 鶯うぐひす鳴くも

 春の野に霞がたなびき、何となく物悲しい夕暮れの薄明かりのなかで、うぐいすが鳴いている。

四二九一 わが屋戸の いささ群竹むらたけ 吹く風の
音のかそけき この夕ゆふへかも

 わが家の庭の清らかな笹竹に吹く風の音がかすかに聞こえる、この夕暮れよ。

四二九二
 うらうらに 照れる春日はるひに 雲雀ひばりあがり
こころ悲しも 独ひとりしおもへば

 うららかな陽光の春の日に、雲雀の声も空高く舞い上がる。しかし、私の心は悲しい、一人で物思いをしていると。

巻 第二十 (分類の標目なし)
 巻第十七〜二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、巻第二十には防人歌を多く載せている。
 家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。
 天平勝宝五年から天平宝字三年までの作歌。

四二九三 元正天皇の御製歌
 あしひきの 山行きしかば山人やまびと
われに得しめし 山づとぞこれ

 朕が山に行ったところが、山に住む仙人どもがいろいろと土産をくれた。これらはその土産である。
*あしひきの…「山」の枕詞。


四三〇五 大伴家持の歌
 木の暗くれの 繁しげき尾の上を ほととぎす
鳴きて越ゆなり 今し来らしも

 うっそうと木が繁っている山の上に、ホトトギスが今鳴いている。あの峰を越してもうすぐここにやって来るらしいな。

四三二二 防人の歌
 わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に
かごさへ見えて 世に忘られず

 私の妻はひどく恋しがっているようだ。飲む水の上に映って見えて、とても忘れられやしない。
*防人…上代から平安初期にかけて、唐・新羅の侵入に備え九州北部を守った兵士。約三千人からなり、三分の一が一年ごとに交替、任期は三年。東国出身者が多かった。


四三二三 時々の 花は咲けども 何すれぞ
母とふ花の 咲き出来でこずけむ

 季節の折々に花は咲くものの、どうして母という花が今まで咲いてはこなかったのか。

四三二七 わが妻も 絵に描きとらむ 暇いつまもが
旅行く吾あれは 見つつしのはむ

 私の妻を絵に描きとる時間がほしい。
 旅に出る私は、それを見て妻をしのぼう。


四三二八 大君おほきみの 命みことかしこみ 磯に触り
海原うのはら渡る 父母を置きて

 大君のご命令をかしこみ承り、船は荒磯に触れ、海原を渡っていく。父母を故郷に残して。

四三三〇 難波津なにはつに 装よそひ装ひて 今日の日や
出でて罷まからむ 見る母なしに

 難波の港で船に装いを重ねて、いよいよ今日は出立して任地におもむくのだ。私の姿を見てくれる母はいないが。

四三四二
 真木柱まけはしら 讃めて造れる 殿の如ごと
いませ母刀自ははとじ 面変おめがはりせず

 立派な柱をたたえて造った御殿のように、いつまでもご無事でいらしてください、お母さん。どうぞお変わりなく。

四三四四 忘らむと 野行き山行き 我来れど
わが父母は 忘れせぬかも

 忘れようとして、野を行き山を行きして来たけれど、父母のことを忘れることはできないよ。

四三四六
 父母ちちははが 頭かしらかき撫で 幸くあれて
いひし言葉けとばぜ 忘れかねつる

 父母が私の頭を撫でながら、「無事でね」と言った言葉が忘れられない。

四三四九
 百隈ももくまの 道は来にしを また更に
八十島やそしま過ぎて 別れか行かむ

 数え切れないほど多くの道を曲がって曲がってここまで来たけれど、まだこのうえ多くの島々を過ぎて別れゆかなければならないのか。

四三五二 道の辺の 荊うまらの末うれに 這ほ豆の
からまる君を 別はかれか行かむ

 道のほとりのいばらの先に豆のつるがからみつくように、私にからみついて離れようとなさらない若君と、別れて行かなくてはならないのか。

四三五六 わが母の 袖持ち撫でて わが故から
泣きし心を 忘らえぬかも

 母親が私の袖を持って撫でながら、私ゆえに泣いた心持を忘れることができない。

四三五七
 葦垣あしかきの 隈処くまとに立ちて 吾妹子わぎもこ
袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ

 葦の垣根の隅に立ち、愛しい妻が袖もぐっしょり濡れるほど泣いていた、その姿が思い出されてならない。

四三六四 防人に 発たむ騒さわきに 家の妹いむ
なるべき事を 言はず来ぬかも

 防人に出立するあわただしさに、家に残る妻の暮らしの手立てについて何も話さず来てしまった。

四三六九
 筑波嶺つくばねの さ百合ゆるの花の 夜床ゆどこにも
かなしけ妹ぞ 昼もかなしけ

 筑波嶺に咲く百合の花のように、夜の床でも可愛い妻だが、昼日中でもやはり可愛くて忘れられない。

四三七〇 あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ
皇御軍すめらみくさに 吾われは来にしを

 武神にまします鹿島の神に武運をお祈りしながら、天皇の御軍勢のなかに、私は加わりまいりました。
*あられ降り…「鹿島」の枕詞。


四三七三 今日よりは 顧かへりみなくて 大君の
しこの御楯みたてと 出で立つわれは

 今日からは後ろを振り返らず、大君の醜の御楯として出立するのだ、私は。
*醜の御楯…「醜」は自分を卑下する語。


四三八二 ふたほがみ 悪しけ人なり あた病ゆまひ
わがする時に 防人にさす

 「ふたほがみ」は意地悪な人だ。急病で私が苦しんでいる時に防人に指名するなんて。
*ふたほがみ…諸説あり未詳。
 「かみ」を「守」として、長官や首長の意味か?


四四〇〇
 家おもふと 寝を寝ず居れば 鶴たづが鳴く
葦辺あしへも見えず 春の霞に

 わが家を思って寝られずにいると、鶴が鳴いている。しかし、その鶴の鳴く葦辺も見えない、春霞が立ちこめて。

四四〇一 韓衣からころむ 裾すそに取りつき 泣く子らを
置きてぞ来のや 母おもなしにして

 韓衣の裾に取りすがって泣く子どもたちを置き去りにして来てしまった。母親もいないままで。
*韓衣…大陸風の衣服。


四四〇七 ひなぐもり 碓日うすひの坂を 越えしだに
妹が恋しく 忘らえぬかも

 まだようやく碓氷うすい峠を越えたばかりなのに、もうこんなに妻が恋しくてたまらない。

四四一七
 赤駒あかごまを 山野やまのに放はかし 捕りかにて
多摩の横山よこやま 徒歩かしゆか遣らむ

 赤駒を山野に放しているものだから捕らえられず、夫を、多摩の山並みを歩いて行かせることになるのか。

四四一八 わが門かどの 片山椿 まこと汝なれ
わが手触れなな 土に落ちもかも

 私の家の門に咲く椿よ、おまえは私が触れないのに土に落ちてしまうのか。

四四一九
 家いはろには 葦火あしぶけども 住み好けを
筑紫に到りて 恋こふしけ思はも

 家では葦の火を焚くからすすけているけど住みよい。
 筑紫に行けばさぞ恋しく思うだろう。


四四二〇 草枕 旅の丸寝まるねの 紐ひも絶えば
が手と付けろ これの針はる

 草を枕にする旅のごろ寝で着物の紐がちぎれたら、私の手だと思ってつけてください、この針を持って。

四四二三 足柄の 御坂みさかに立して 袖振らば
家なる妹は さやに見もかも

 足柄の坂に立って袖を振ったなら、家にいる私の妻は私の姿をはっきりと見てくれるだろうか。

四四二五 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を
見るが羨ともしさ 物思ものもひもせず

 見送りの人たちがたくさんいる中に交じって、防人に行くのはどなたのご主人ですかなどと、何の心配もなく尋ねている人を見ると、羨ましい限りです。

四四三一
 小竹ささが葉の さやぐ霜夜しもよに 七重ななへ
衣にませる 子ろが膚はだはも

 笹の葉に冬の風が吹きつけて音がするほどの寒い霜夜には、七重もかさねて着る衣の暖かさより、恋しい女の膚はだのほうが温かい。

四四三六 闇の夜の 行く先知らず 行くわれを
何時いつまさむと 問ひし児らはも

 将来のことも分からず防人に出立する私に、
「いつおいで下さるのですか」と尋ねた彼女よ。


四四八七 藤原朝臣仲麿の歌
 いざ子ども 戯たはわざな為そ 天地あめつち
固めし国ぞ やまと島根は

 者どもよ、ふざけたことをするなよ。この日本の国は、天地の神々によって固められた御国柄なのだから。
*藤原朝臣仲麿…恵美押勝のこと。


四五一六 大伴家持の歌
 新しき 年の始めの 初春はつはる
今日降る雪の いや重け吉事よごと

 新しい年の始めの初春の、今日降る雪が積もるように、いよいよ積もり重なれよ。めでたいことが。

【万葉集について】
 現存する最古の歌集で、七世紀半ばから八世紀半ばにかけて詠まれた四五〇〇余首の歌が二〇巻に収められている。「万葉集」の意味は、
@万よろずの言ことの葉を集めたものとする説、
A万世よろずよに伝われとの願いから題されたとする説、
B多くの紙数を有する集とする説、
C草木の葉の多いように歌数の多い集とする説などがある。


 万葉集には序文や跋文がなく、また同時代の他の文献にも万葉集について記したものがないので、いつ成立したかという確証はない。長年にわたる数次の編纂をへて八世紀末ごろに現在のようなかたちをとるようになったとされる。
 勅撰と私撰の両説があり、編纂者については、
@橘諸兄、A橘諸兄・大伴家持共撰、B大伴家持、など諸説ある。
 家持説については、巻十七から巻二十までが家持の歌日記のようなものであることから、家持が多くの部分にかかわったと考えられる。


 作者は天皇から庶民までと広く、生活に密着した歌が多い。表記は、漢字の音と訓を表音的に用いた、いわゆる万葉仮名が使われている。
 万葉仮名は、日本が固有の文字を持たなかったために、中国大陸から渡来した漢字を日本語の表記に応用したもので、この表記法によっているため、平安時代にはすでに読解が難しくなっており、訓読が試みられている。


 「万葉集」には、集団歌謡と個人の抒情を詠む歌が共存し、政治、文化の激動期の歌がふくまれ、日記・説話・物語など他ジャンルの芽生えともみられるものがある。
 このことから、「古今集」以降の勅撰歌集にくらべて複雑な歌集といわれるが、その率直な表現はとくに中世以降の歌人や国学者をひきつけてやまず、今も多くの人に愛読されている。



索引 栞 巻1雑歌 2相聞 挽歌 3雑 譬喩 挽歌 4相聞歌 5雑歌 6雑歌 7雑 譬喩 挽歌 8雑 相聞歌 9雑 相聞 挽歌 10雑 相聞歌
11古今相聞往来歌 12同下 13雑 相聞 問答 譬喩 挽歌 14東歌[雑 相聞往来 譬喩 防人 挽歌] 15 16雑歌 17 18 19 20 戻る