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           李 陵

           三

 乱軍の中に気を失った李陵が獣脂を灯し獣糞を焚いた単于の帳房の中で目を覚ましたとき、咄嗟に彼は心を決めた。
 自ら首刎ねて辱しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償うに足る手柄を土産として――か、この二つのほかに途はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于は手ずから李陵の縄を解いた。
 その後の待遇も鄭重を極めた。
 且是侯単于とて先代の句犁湖単于の弟だが、骨骼の逞しい巨眼赭髯の中年の偉丈夫である。
 数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広の名を引合いに出して陵の善戦を讃めた。
 虎を格殺したり岩に矢を立てたりした飛将軍李広の驍名は今もなお胡地にまで語り伝えられている。
 陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。
 食を頒けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴のふうであった。
 ここでは、強き者が辱しめられることはけっしてない。
 降将李陵は一つの穹盧と数十人の侍者とを与えられ賓客の礼をもって遇せられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。
 家は絨 帳穹盧、食物は羶肉、飲物は酪漿と獣乳と乳醋酒。
 着物は狼や羊や熊の皮を綴り合わせた旃裘せんきゅう
 牧畜と狩猟と寇掠と、このほかに彼らの生活はない。
 一望際涯のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于直轄地のほかは左賢王右賢王左谷蠡王さろくりおう右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。
 城郭もなければ田畑もない国。
 村落はあっても、それが季節に従い水草を逐って土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。
 単于麾下の諸将とともにいつも単于に従っていた。
 隙があったら単于の首でも、と李陵は狙っていたが、容易に機会が来ない。
 たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。
 胡地にあって単于と刺違えたのでは、匈奴は己の不名誉を有耶無耶のうちに葬ってしまうこと必定ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。
 李陵は辛抱強く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
 単于の幕下には、李陵のほかにも漢の降人が幾人かいた。
 その中の一人、衛律という男は軍人ではなかったが、丁霊王の位を貰って最も重く単于に用いられている。
 その父は胡人だが、故あって衛律は漢の都で生まれ成長した。
 武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉李延年の事に坐するのを懼れて、亡げて匈奴に帰したのである。
 血が血だけに胡風になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且 侯単于の帷幄に参じてすべての画策に与かっていた。
 李陵はこの衛律を始め、漢人の降って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。
 彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。
 そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞うたことがある。
 それは東胡に対しての戦いだったので、陵は快く己が意見を述べた。
 次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。
 李陵はハッキリと嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。
 単于も強いて返答を求めようとしなかった。
 それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。
 このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。
 爾後、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。
 待遇は依然として変わらない。
 他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。
 とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
 単于の長子・左賢王が妙に李陵に好意を示しはじめた。
 好意というより尊敬といったほうが近い。
 二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目な青年である。
 強き者への讃美が、実に純粋で強烈なのだ。
 初め李陵のところへ来て騎射を教えてくれという。
 騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧い。
 ことに、裸馬を駆る技術に至っては遙かに陵を凌いでいるので、李陵はただ射だけを教えることにした。
 左賢王は、熱心な弟子となった。
 陵の祖父李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は眸をかがやかせて熱心に聞入るのである。
 よく二人して狩猟に出かけた。
 ほんの僅かの供廻りを連れただけで二人は縦横に曠野を疾駆しては狐や狼や羚羊や雉子などを射た。
 あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙かに駈抜いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。
 馬に鞭うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。
 あとで調べると二人の馬は狼どもに噛み裂かれて血だらけになっていた。
 そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

 天漢三年の秋に匈奴がまたもや雁門を犯した。
 これに酬いるとて、翌四年、漢は弐師将軍李広利に騎六万歩七万の大軍を授けて朔方を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉路博徳にこれを援けしめた。
 ひいて因于将軍公孫敖は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃将軍韓説は歩三万をもって五原を、それぞれ進発する。
 近来にない大北伐である。
 単于はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水(ケルレン河)北方の地に移し、自ら十万の精騎を率いて李広利・路博徳の軍を水南の大草原に邀え撃った。
 連戦十余日。
 漢軍はついに退くのやむなきに至った。
 李陵に師事する若き左賢王は、別に一隊を率いて東方に向かい因于将軍を迎えてさんざんにこれを破った。

 漢軍の左翼たる韓説の軍もまた得るところなくして兵を引いた。
 北征は完全な失敗である。
 李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。
 もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。
 李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉で牢に繋がれたとき、妙な弁解をした。
 敵の捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。
 だからといって自軍が敗けたことの弁解にはならないから、もちろん、因于将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。
 一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。
 軽薄なる世人の常とて、当時隴西(李陵の家は隴西の出である)の士大夫ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致された一漢卒の口からである。
 それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。
 たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。
 男は身をもがいて、苦悶の呻きを洩らした。
 陵の手が無意識のうちにその男の咽喉を扼していたのである。
 陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。
 その姿に目もやらず、陵は帳房の外へ飛出した。
 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。
 激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。
 老母や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。
 あまりに強い怒りは涙を涸渇させてしまうのであろう。
 今度の場合には限らぬ。
 今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか?
 彼は祖父の李広の最期を思った。
 (陵の父、当戸は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)
 名将李広は数次の北征に大功を樹てながら、君側の姦佞に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。
 部下の諸将がつぎつぎに爵位封侯を得て行くのに、廉潔な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧に甘んじなければならなかった。
 最後に彼は大将軍衛青と衝突した。
 さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下の一軍吏が虎の威を借りて李広を辱しめた。
 憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自ら首刎ねたのである。
 祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶えている。
 ……
 陵の叔父(李広の次男)李敢の最後はどうか。
 彼は父将軍の惨めな死について衛青を怨み、自ら大将軍の邸に赴いてこれを辱しめた。
 大将軍の甥にあたる嫖騎将軍霍去病がそれを憤って、甘泉宮の猟のときに李敢を射殺した。
 武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。
 ……。
 司馬遷の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。
 憤怒がすべてであった。
 (無理でも、もう少し早くかねての計画――単于の首でも持って胡地を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。
 彼は先刻の男の言葉「胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々」を思出した。
 ようやく思い当たったのである。
 もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒という者がある。
 元、塞外都尉として奚侯城を守っていた男だが、これが匈奴に降ってから常に胡軍に軍略を授け兵を練っている。
 現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。
 これだと李陵は思った。
 同じ李将軍で、李緒とまちがえられたに違いないのである。
 その晩、彼は単身、李緒の帳幕へと赴いた。
 一言も言わぬ、一言も言わせぬ。
 ただの一刺しで李緒は斃れた。
 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。
 心配は要らぬと単于は言う。
 だが母の大閼氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。
 単于はそれを承知していたのである。
 匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾のすべてをそのまま引きついで己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。
 生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣るから、とつけ加えた。
 その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山とうかんざん(額林達班嶺)の麓に身を避けた。
 まもなく問題の大閼氏たいえんしが病死し、単于の庭に呼戻されたとき、李陵は人間が変わったように見えた。
 というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与らなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。
 単于はこの変化を見て大いに喜んだ。
 彼は陵を右校王に任じ、己が娘の一人をめあわせた。

 娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。
 それを今度は躊躇なく妻としたのである。
 ちょうど酒泉張掖の辺を寇掠すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。
 しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山の麓を過ったとき、さすがに陵の心は曇った。
 かつてこの地で己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。
 病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

 翌、太始元年、且是侯単于が死んで、陵と親しかった左賢王が後を嗣いだ。
 狐鹿姑単于というのがこれである。
 匈奴の右校王たる李陵の心はいまだにハッキリしない。
 母妻子を族滅された怨みは骨髄に徹しているものの、自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。
 ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。
 考えることの嫌いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬を駆って曠野に飛び出す。
 秋天一碧の下、曷々と蹄の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。

 何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸に下り、馬に飲かう。
 それから己は草の上に仰向けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落の潔さ、高さ、広さ。
 ああ我もと天地間の一粒子のみ、なんぞまた漢と胡とあらんやとふとそんな気のすることもある。
 一しきり休むとまた馬に跨がり、がむしゃらに駈け出す。
 終日乗り疲れ黄雲が落暉に燻ずるころになってようやく彼は幕営に戻る。
 疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
 司馬遷が陵のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。
 李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。
 司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。
 むしろ、厭に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。
 それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。
 よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

 初め一概に野卑滑稽としか映らなかった胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。
 厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精力を貯えることができない。
 固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない。
 漢人のふうをあくまで保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
 かつて先代の且是侯単于の言った言葉を李陵は憶えている。
 漢の人間が二言めには、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行ないをもって禽獣に近いと看做すことを難じて、単于は言った。
 漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。
 利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。
 ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。
 漢初以来の骨肉相喰む内乱や功臣連の排斥擠陥の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。
 実際、武人たる彼は今までにも、煩瑣な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。
 たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙かに好ましい場合がしばしばあると思った。
 諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。
 たとえば今まで人間には名のほかに字がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人しい女だった。
 いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利けない。
 しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝に匍上がって来る。
 その児の顔に見入りながら、数年前長安に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然とするのであった。

 陵が匈奴に降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将蘇武が胡地に引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。
 ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚えられることになってしまった。
 単于は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅かしてこれを降らしめた。
 ただ蘇武一人は降服を肯んじないばかりか、辱しめを避けようと自ら剣を取って己が胸を貫いた。
 昏倒した蘇武に対する胡医の手当てというのがすこぶる変わっていた。
 地を掘って坎をつくり温火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈んで血を出させたと漢書には誌されている。
 この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹返した。
 且是侯単于はすっかり彼に惚れ込んだ。
 数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復すると、例の近臣衛律をやってまた熱心に降をすすめさせた。
 衛律は蘇武が鉄火の罵詈に遭い、すっかり恥をかいて手を引いた。
 その後蘇武が窖の中に幽閉されたとき旃毛を雪に和して喰いもって飢えを凌いだ話や、ついに北海(バイカル湖)のほとり人なき所に徙されて牡羊が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。
 とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
 李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。
 かつて時を同じゅうして侍中を勤めていたこともある。
 片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。
 天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵までその葬を送った。
 蘇武の妻が良人のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁した噂を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。
 そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
 しかし、はからずも自分が匈奴に降るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。
 武が遙か北方に遷されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。
 ことに、己の家族が戮せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
 狐鹿姑単于が父の後を嗣いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂が伝わった。
 父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。
 陵が武の友人であることを聞いていたのである。
 やむを得ず陵は北へ向かった。
 姑且水を北に溯り至居水との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。
 まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海の碧い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎へと導いた。
 小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被った鬚ぼうぼうの熊のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監 蘇子卿の俤を見出してからも、先方がこの胡服の大官を前の騎都尉李少卿と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。
 蘇武のほうでは陵が匈奴に事えていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内に在って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。
 二人とも初めほとんどものが言えなかった。
 陵の供廻りどもの穹廬がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑やかになった。
 用意してきた酒食がさっそく小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。
 滞在は教日に亙った。
 己が胡服を纏うに至った事情を話すことは、さすがに辛かった。
 しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。
 蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺たるものであったらしい。
 何年か以前に匈奴の於干王が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於干王の死後は、凍てついた大地から野鼠を掘出して、飢えを凌がなければならない始末だと言う。
 彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が剽盗どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝らしい。
 陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。
 いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。
 蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。
 それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか?単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。
 陵の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。
 李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。
 蘇武の場合は違う。
 彼にはこの地での係累もない。
 漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。
 はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。
 李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。
 単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。
 餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。
 蘇武はそう考えているのではなかろうか。
 運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。
 想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。
 昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。
 しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。
 自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。
 誰にもみとられずに独り死んでいくに違いない。
 その最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。
 誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。
 李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。
 人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。
 何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。
 蘇武は義人、自分は売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。
 それに、気のせいか、日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。
 どことハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。
 繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍の色を、豪奢な貂裘をまとうた右校王李陵はなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然と南へ去った。
 食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎に残してきた。
 李陵は単于からの依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。
 蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。
 離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる。
 李陵自身、匈奴への降服という己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。
 ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。
 ときどき彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈を贈った。
 蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海のほとりの丸木小舎を訪ねた。
 そのとき途中で雲中の北方を戍る衛兵らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守以下吏民が皆白服をつけていることを聞いた。
 人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪に相違ない。
 李陵は武帝の崩じたのを知った。
 北海の滸に到ってこのことを告げたとき、蘇武は南に向かって号哭した。
 慟哭数日、ついに血を嘔くに至った。
 その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。
 彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯さを疑うものではない。
 その純粋な烈しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。
 だが、自分には今一滴の涙も泛んでこないのである。
 蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。
 どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたいのである。
 それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵は己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。
 武帝の死と昭帝の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。
 その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵の故人・隴西の任立政ら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、僅か八歳の太子弗陵が位を嗣ぐや、遺詔によって侍中奉車都尉霍光が大司馬大将軍として 政 を輔けることになった。
 霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀もまた陵の故人であった。
 この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。
 今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。
 いつもは衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。
 任立政は陵を見たが、匈奴の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。
 席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己の刀環を撫でて暗にその意を伝えようとした。
 陵はそれを見た。
 先方の伝えんとするところもほぼ察した。
 しかし、いかなるしぐさをもって応えるべきかを知らない。
 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯とをもって漢使をもてなした。
 そのとき任立政が陵に向かって言う。
 漢ではいまや大赦令が降り万民は太平の仁政を楽しんでいる。
 新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟・上官少叔じょうかんしょうしゅくが主上を輔けて天下の事を用いることとなったと。
 立政は、衛律をもって完全に胡人になり切ったものと見做して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚った。
 ただ霍光と上官桀との名を挙げて陵の心を惹こうとしたのである。
 陵は黙して答えない。
 しばらく立政を熟視してから、己が髪を撫でた。
 その髪も椎結とてすでに中国のふうではない。
 ややあって衛律が服を更えるために座を退いた。
 初めて隔てのない調子で立政が陵の字を呼んだ。

 少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。
 霍子孟と上官少叔からよろしくとのことであったと。
 その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。
 少卿よ、帰ってくれ。
 富貴などは言うに足りぬではないか。
 どうか何もいわずに帰ってくれ。
 蘇武の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。
 しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。
「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことではないか? 如何?」
 言葉半ばにして衛律が座に還ってきた。
 二人は口を噤んだ。
 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。
 陵は頭を横にふった。
 丈夫ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。
 その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧れたためではない。

 後五年、昭帝の始元六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。
 漢の天子が上林苑中で得た雁の足に蘇武の帛書がついていた云々というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于を説破するためのでたらめである。
 十九年前蘇武に従って胡地に来た常恵という者が漢使に遭って蘇武の生存を知らせ、この嘘をもって武を救出すように教えたのであった。
 さっそく北海の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭につれ出された。
 李陵の心はさすがに動揺した。
 ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。
 見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。
 彼は粛然として懼れた。
 今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。
 胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた。
 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。
 いいたいことは山ほどあった。
 しかし結局それは、胡に降ったときの己の志が那辺にあったかということ。
 その志を行なう前に故国の一族が戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。
 それを言えば愚痴になってしまう。
 彼は一言もそれについてはいわなかった。
 ただ、宴酣たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

  径万里兮度沙幕 万里を径て沙幕を渡る
  為君将兮奮匈奴 君の為将となり匈奴に奮う
  路窮絶兮矢刃摧 路窮絶し矢刃摧け
  士衆滅兮名已落 士衆滅び名已に落つ
  老母已死    老母すでに死す
  雖欲報恩将安帰 恩に報いんと欲するもまたいづくにか帰らん

 歌っているうちに、声が顫え涙が頬を伝わった。
 女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった。
 蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。

 司馬遷はその後も孜々として書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。
 現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである。
 あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは藺相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。
 楚の屈原の憂憤を叙して、そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑の禍に遭ってから八年。
 都では巫蠱の獄が起こり戻太子の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史がひととおりでき上がった。
 これに増補改刪推敲を加えているうちにまた数年がたった。
 史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。
 列伝第七十太史公自序の最後の筆を擱いたとき、司馬遷は几に凭ったまま惘然とした。
 深い溜息が腹の底から出た。
 目は庭前の槐樹の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。
 うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉の声に耳をすましているようにみえた。
 歓びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷い虚脱の状態が来た。
 憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄けた。
 武帝の崩御も昭帝の即位もかつてのさきの太史令司馬遷の脱殻にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政らが胡地に李陵を訪ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡かった。

 蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。
 元平元年に胡地で死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑単于は死に、その子壺衍是単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王、右谷蠡王の内紛があり、閼氏や衛律らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難くない。
 漢書の匈奴伝には、その後、李陵の胡地で儲けた子が烏籍都尉を立てて単于とし、呼韓邪単于に対抗してついに失敗した旨が記されている。
 宣帝の五鳳二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。
 李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。

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