屋島 目録

 都方の僧が、讃岐国屋島の壇の浦で、漁翁より源平の合戦の昔話、殊に義経の大将振りなどを聞かされます。あまりに詳しい物語に、不審に思った僧が漁翁に名を尋ねると、義経の亡霊であることをほのめかして消え失せます。その夜の夢に、甲冑姿の義経が現れ、屋島合戦のありさまを語り、夜明けとともに消え失せます。
 田村・箙と並んで勝修羅三曲の一に数えられるように、修羅道の苦患よりも、義経の武将としての戦振りを表わすことに主眼を置いた曲と言えましょう。

 旅僧が屋島の壇の浦で一夜の宿を借り、主の漁翁から源平合戦の様子を物語って貰います。

 いでその頃は元暦元年三月十八日のことなりしに。
 平家は海の面一町ばかりに船を浮かめ、源氏はこの汀にうち出で給ふ。
 大将軍の御出立には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の御着背長。
 鐙踏ん張り鞍笠につゝ立ち上り。
 一院の御使、源氏の大将検非違使五位の尉、源の義経と、名のり給ひし御骨柄、あつぱれ大将やと見えし、

判官は どれだと笏で 陸へさし

 「笏」は、束帯を着けるとき右手に持っている細長い板。
 平家方は船の上から、名高き九郎判官はどれだと捜しているさまを詠んだものですが、甲冑も着けずいくぶんかは物見遊山モードの公家衆の多い平家と、本気で戦おうとしている源氏との対比が、何となく表現されていて面白い。
 那須与一の扇の的でもわかるように、平家は大勢の女官も船に乗っていましたから、なおのこと「どれが九郎よ」と捜すミーハー族もいたかも知れませんね。
 「笏」に関連してもう一句、

壇の浦 能州出やと 笏でつき
一門の きなかと頼む 能登守

 能州は能登守教経。
 この句は本来壇の浦の海戦で、屋島の合戦で取り上げるのはおかしいかも知れませんが、屋島にも壇の浦がありますし、ここで教経を取り上げなければ、他の曲ではチャンスがなくなるかも知れません。
 教経は平家方にあって、息を継ぐ暇もなく戦場を駆け巡り、独り舞台の観があります。
 ただし、その出動命令は背後から「笏でつく」状態、つまり内大臣宗盛あたりの公家衆からのものであります。

 屋島の物語は、前シテ漁翁の語りにある、三保の谷の四郎と悪七兵衛景清の戦い、佐藤継信の討死に、間狂言の那須語りでの那須与一と扇の的、後シテの弓流し、そしてキリでは能登守教経との戦いの順に展開して行きます。我々もその流れに沿って眺めて参りましょう。
 先ずは三保の谷と景清から

 「その時平家の方よりも、言葉戦い事終り、兵船一艘漕ぎ寄せて、波打際に下り立つて、陸の敵を待ちかけしに」
 「源氏の方にも續く兵五十騎ばかり。中にも三保の谷の四郎と名のって、真先かけて見えし處に」
 「平家の方にも悪七兵衛景清と名のり、三保の谷を目がけ戦ひしに」
 「かの三保の谷はその時に、太刀打ち折つて力なく、少し汀に引き退きしに」
 「景清追つかけ三保の谷が」
 「著たる兜の錣を掴んで」
 「後ろへ引けば三保の谷も」
 「身を遁れんと前へ引く」
 「互いにえいやと」
 「引く力に」
 鉢附の板より、引きちぎつて左右へくわつとぞ退きにける、

景清は 尻もち四郎 つんのめり
三保の谷が 帰りは襟に 日があたり
三保の谷が はたひたきりで 陣を引き
何やかを 三保の谷その日 損じさせ
千の手で 引くに三保の谷 気が付かず
御縁日 だけに景清 用捨する

 三保の谷と景清が、左右にくわっと退いた状態を考えれば、最初の句のようになっていたでしょうし、三保の谷の兜は変な形になり襟に陽があたったことでしょう。
 錣しころは兜の後に垂れ首を蔽う部分、鉢附の板は錣の第一枚目のこと。
 「はたく」は使いつくす、しくじるの意。
 「千の手」は千手観音。
 景清が観音を信仰していたことはよく知られています。
 その景清に兜の錣を引かれたなら、観音も力添えをして正しくは千と二本の手で引っぱられたことになるでしょうか。
 また十八日は観音の縁日の日であり、「用捨」は「容赦」、観音様の御祭礼だい、勘弁してやらあ、と景清が言ったか言わなかったか。
 景清の観音信仰について詠まれた句に、

朝参り 主馬と七兵衛 黙礼し
清水を 祈れど痣は 抜けぬなり

 初句の「主馬」は主馬判官盛久、二人ともに清水の観世音を信仰しており、諺にいう「朝観音夕薬師」の通り、観音の朝参りの途中ですれ違って黙礼を交わすことがあっただろうというもの。
 次句、景清は顔に大きな痣があったが、観音に祈っても痣は抜けなかっただろうというもの。
 余談ついでに、文句取りを少々、

言葉戦い 事終わり 花でぶち
言葉戦い 事終わり 火吹竹
去り状は 言葉戦い 事終わり
野雪隠 身をのがれんと 前へ出る
同行は 身をのがれんと 前へ引く
鉢附けの 板はりちぎる おいたづら

 「言葉戦い・・」は夫婦喧嘩のありさまを詠んだもの。
 火の出るような舌戦の後、花で打つくらいならよろしいが、火吹き竹をおっ取って進撃する、果ては去り状となると穏やかではありません。
 屋島の戦いの状況をうまくかぶらせているものです。
 次の「野雪隠・・」はいわずと知れた野原で大便をすること。
 最後の二句は最後のの意味が少々判りづらいのですが、「古川柳と謡曲」によれば、「同行は・・」旅籠の留め女に「連れが先へ行ったから」と逃げようとする。
 「鉢附けの板・・」殿様が腰元あたりを捕らえようとして、袂がほころびたあたりか、とあります。

 次は、佐藤継信の戦死。

 これを御覧じて判官、お馬を汀に打ち寄せ給へば。
 佐藤継信能登殿の矢先にかゝつて馬より下にどうと落つれば。
 船には菊王も討たれければ。
 共に哀れと思しけるか船は沖へ陸は陣に、相引きに引く汐の、後は鬨の聲絶えて。
 磯の波松風ばかりの音淋しくぞなりにける。

次信は 十ォが九ッは あたらぬ気
次信を 損にしておく 勝いくさ
あと王手 らしく次信 討死し
浅草 祭礼の日に 次信死に

 佐藤継信は、能登守教経が射た矢から義経をかばおうとして、その身代わりとなって討死にします。
 ただ、「あと王手」の意味が判りづらい。
 浅草の祭礼は三社祭。
 江戸自代には観音祭と呼ばれて三月十七日、十八日両日に行われていました。
 明治政府の神仏離令により浅草寺の法要としての「示現会」と浅草神社の「三社祭」とに分かれ、「示現会」は三月十七、十八日に、「三社祭」は五月十七、十八日に行われるようになっています。

 謡曲の最後の一節から文句取りを一句

音さみしくぞ 帰りける 四つ手かご

 吉原へ駈けて来たときの勢いや掛け声からすると・・・、ということのようです。(古川柳と謡曲)

 さて、小書「弓流」の場合には、間狂言も替間語(大蔵流は「那須語」、和泉流は「奈須与市語」)になり、一人で語り手と源義経・後藤兵衛実基・与市の三役を仕分け、扇の的を射落とす様子を仕方話に語ります。

美しい 顔をふくらし 船に乗り
平家では ぼちやぼちやらしひ 船を出し
美しい虫 船はりへ 出てまねき
顔を見い見い よつぴいて ひやうと射る

 扇の的です。
 扇の的を立てた小船に乗り込み、源氏においでおいでと挑発した女官の名は玉虫。
 美しい虫です。
 けれどもきっと厭だったのでしょうね。
 那須与一も玉虫の美しい顔が気がかりだったことでしょう。
 「ぼちゃぼちゃ」は船饅頭の異称、大川に船を浮かべて岸に着けては往来の人を呼んでは客とし、船中で売淫をした私娼。
 玉虫をこれに比したもの(岩波・日本古典文学大系)ですが、それでは玉虫姐さん、ちょっと可哀そうではありませんか。

 中入りの後、シテ源義経が甲冑に身を固めて颯爽と登場します。
 そして弓流しへと続きます。

 「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落とし、波に揺られて流れしに」
 その折しもは引く汐にて、遥かに遠く流れ行くを
 「敵に弓を取られじと、駒を波間に泳がせて、敵船近くなりし程に」
 敵はこれを見しよりも、船を寄せ熊手に懸けて、既に危く見え給ひしに
 「されども熊手を切り拂ひ、終に弓を取り返し、元の渚にうち上がれば」
 その時兼房申すやう。
 口惜しの御振舞やな、渡辺にて景時が申ししも、これにてこそ候へ。
 たとひ千金を延べたる御弓なりとも、御命には代へ給ふべきかと、涙を流し申しければ。
 判官これを聞こし召し。
 いやとよ弓を惜しむにあらず。

弓流す 日も鎌倉は 懐手
弁慶に 一本借りて 弓を取り
兼房は 悪推回はす 男なり

 義経が、一の谷、屋島と苦労しているのに、鎌倉におわす頼朝公はと、判官贔屓でつい言いたくもなりますよね。
 でも義経はその名が九郎ですから仕方が無いのかも知れません。
 「弁慶に一本借り」たのは、恐らく熊手でしょう。
 それで流れる弓をすくいあげたということでしょう。
 兼房は増尾十郎、平泉まで供をする義経の老臣です。
 親身で主の心配をしているのですから、悪推はないでしょう。

 さていよいよキリの大立ち回り、能登守教経との戦いです。

 「今日の修羅の敵は誰そ、なに能登の守教経とや。あら物々し手並は知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の。
 「その船戦今ははや、その船戦今ははや。閻浮に帰る生死の。海山一同に、震動して。船よりは鬨の聲。
 「陸には波の盾」月に白むは「劔の光」潮に映るは「兜の、星の影」水や空空行くもまた雲の波の。
 撃ち合ひ差し違ふる、船戦の駆引。
 浮き沈むとせし程に。
 春の夜の波より明けて。
 敵と見えしは群れ居る鴎、鬨の聲と聞えしは。
 浦風なりけり高松の浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける。

 ここは屋島の合戦ではありますが、謡曲でも壇の浦の戦いの様子を述べていますから、ついでに教経がらみの川柳を洗い出してみることにいたします。

鬨の声 聞くと能登殿一 つ飲み
能登殿は お歯黒壷を 提げて乗り

 「いざ、おん敵判官ござんめれ」と景気づけに一杯というところなのでしょうか。
 また戦の最中にあっても、身だしなみを忘れぬことはさすがと申せましょう。

義経は 八艘飛んで べかこをし
能登殿は 蚤を逃がした 顔つつき
尻つ尾を とらまえはぐる 能登守

 能登守教経が義経をまさに捕らえようとした時、義経は船を八艘飛んで遁れたといいます。
 まるで蚤が飛び跳ねたようだというものです。
 「べかこ」は「あかんべえ」のこと。
 孤軍奮闘の教経ですが、時利あらず最期を迎えます。

教経の 入水あぶくが 三つ出る
能登殿は ふたり禿で 入水をし

 教経は奮戦の後、源氏の兵士二人を両脇に掻い込んで入水します。
 そこであとにはあぶくが三つ浮かんだであろうということです。

 能登守教経の最期まで眺めましたが、序でのついでに屋島とは直接関係ありませんが、平家一門の海上での様子を呼んだ句もいくつか拾い上げておきます。

平家では 焙烙の入る 船を出し
こじつけの 帝を船へ 乗せ申し
平家方 小便もせず 船に乗り
まぜこぜに なつて御船へ 入ッしやり
船虫に 門院始め 総に立ち
平家方 みな船梁で 癪を押し

 最初の句。「焙烙ほうろく」は素焼きの土鍋。殷の紂王の行ったのは「焙烙ほうらくの刑」。
 いづれにしても、この句の意味が判っていません。
 こじつけの帝は安徳天皇。「こじつけ」とはちょっとひどい。
 「小便もせず」と「まぜこぜになって」は一の谷の急襲に驚き船に退避する一門のさまを詠んだもの。
 門院は建礼門院、平清盛の娘で安徳天皇の生母。
 門院と義経を扱ったバレ句がまた結構多くありますが、ここでは通過します。
 船虫を見て建礼門院はじめ女官たち、みなキャーと大きな悲鳴をあげたことでしょう。
 最後の句。
 癪は今の胃痙攣や胆石症のように、胸部・腹部に起こる激痛の通俗的な総称、特に婦人に多い。指圧を加えて患部を押さえるのが一般的な治療法ですが、合戦の最中、人手の無い戦中であれば、舷ふなばたなどで胸を押さえるほかはなかったであろう、という想像です。

 いずれにしても、平家を滅ぼした頼朝・義経などは、一時は殺されても仕方の無い境遇から、一命を助けられた者です。

一門の 仇は禅尼の 慈悲から出
懐に 抱いていたのに 滅ぼされ
 初めの句は源頼朝。
 池の禅尼の慈悲によって、かろうじて助けられ伊豆に配流となります。
 二句目は義経、清盛が常盤御前の嘆願を聞き入れ鞍馬山に預けます。
 どちらもそのときにバッサリと片付けておけば良かったものを。
 「情けはひとのためならず」とは申しますが、自分のためにもならなかった、諺の裏バージョンとでも言えましょうか。