蜀山家集 全 (附)網雑魚 歌謡俳書選集十
編輯及解説〔京大教授文学博士〕藤井乙男

例言
一、本集は蜀山家集四冊に金鶏の『あみざこ』一冊を附録して一巻とした。
一、蜀山家集は家蔵写本を底本とした。これにはかなり誤脱もあるが、他に対校すべき善本を得なかつたので、已むを得ず不明の箇所は疑問標を付してそのまゝにして置いた。
一、本書の校訂は金子実英氏を煩はし且同氏執筆の狂歌小史と蜀山人評伝とを巻首に加へて、狂歌の性質、変遷、作者の人物風格を知るの便に供した。
 昭和二年明治節の朝 井乙男識


蜀山家集解説
 蜀山家集四巻は蜀山人晩年の戯歌文を集めた家蔵の写本である。其の序文にもある通り、「朝な夕なのたはことを」出るにまかせて書きつけたのである。或は思ひ出るまゝに書き添へて行つたのである。だから玉石混淆である。未整理の草稿である。「千紅万紫」や、「万紫千紅」や、「千とせの門」などに収載されて居るものもあるし、居ないものもある。居ないものの中にも相当に面白いのがある。此の書の刊行が思ひ立たれた所以である。
 「六々集」は文化十一年正月から翌十二年の夏までの草稿に、仮に名づけたものであり、「七々集」は十二年の夏から翌十三年春までの請作に冠した名である。此の「七々集」から抜かれて「万紫千紅」(文化十五年刊)に加へられたものがかなり多い。
 次に「あやめ草」である。之は文化六年の暮から翌七年の秋と思はれる頃までのものが前半を領し、後半はずつと飛んで文政四五年の頃のものによつて占められて居る。
 前半からは「千紅万紫」(文化十四年刊)に、後半からは「千とせの門」(弘化四年)に、多くの歌が採られて居る。
 次に「をみなへし」である。之も初の方は天明頃のもので、中程から文化五六年のもが出て来、終の方には文政五年のものが現はれる始末である。初の方からは「千とせの門」へ、中程からは「千紅万紫」へ出て居るものが相当にある。最後に「放歌集」であるが、之は文化八年春頃から翌九年秋までのもので、主として「千紅万紫」と、「千とせの門」に収録されて居るのが多い。
 さて、「七々集」及び、「放歌集」は別として、「あやめ草」と「をみなへし」の混乱はどうした事であらうか。
 想ふに、前二者は蜀山人自ら草稿をまとめ、題名をつけて散佚を防いだのであらうが、後二者は散乱混雑した遺稿を秩序もなく取り集め、後人が勝手に二部に分ち、一を「あやめ草」他を「をみなへし」と名づけたのでもあらう。其の辺の事ははつきり解らない。単に推測に止まるのである。
 原本は随分蕪雑で、誤写がかなり多く、往々意味の通じない所や脱落がある。其等はその儘にして置いた。置かざるを得ないのである。何となれば原本は今の所只一部しか無いので、異本校合による補正が不可能だからである。それから文法上の誤がいくらもあるが、之もそのまゝ訂正しないで置いた。
 「あみざこ」の作者奇々羅金鶏は、上毛国七日市侯に仕へて居た医師である。本姓は赤松、奇々羅は其の戯号である。明和の頃江戸に生れ、若くして俳諧狂歌を嗜んだ。俳諧は也有翁に私淑し、狂歌は蜀山人を宗としたらしい。「網雑魚」は弱冠に近い頃の狂詠を集めたものである。鹿津部真顔と頭光の序を得て居る。天明三年の出版と思はれる。跋に耕雲堂主人蔦唐丸が上州第一の名物と称し、光の序に、今は上毛国七日市といふ所に在してとあるを見れば、その頃既に医を以て仕官して居たのであらう。若年ながら門人も相当にあつたらしい。狂歌そのものは概して平凡である。之といふ秀詠も無い様だ。天明七年に蜀山人の選した「才蔵集」に、其の片鱗を見得る。真顔や光程に多く採られて居ないのも頷かれる。三十六歳の時に致仕して、江戸の墨田川の畔に居をトし、花月を友として、悠々風狂を事とした。文化六年に死んで居る。「金鶏医談」「網ざこ」その他狂歌の著書がかなりある。戯作もしたと言ふが、今は見当たらない。


蜀山家集

狂歌小史
 狂歌史を書くには、先づ狂歌の定義から始めねばならない。而も狂歌を定義する事は、即ち狂の字の字義を鮮明する事である。
 さて狂の字には二つの意味がある。一つは狂気とか狂乱とかの狂で、之は説明の限ではない。他は狂狷とか狂簡とかの狂である。此の狂は高遠なる理想を抱きながら、それを実現する意力をもたない人々の心境を意味する。彼等は真の狂人ではない。只現実を逃避して以て自ら高しとする彼等の現行が狂気染みて見えるのである。常規を逸した奇抜な振舞にみえるのである。常規を逸した奇抜な振舞は見様によつては、滑稽でもあり、洒落でもあり、又皮肉でもある。
 狂歌の狂の字の意味は当に之である。狂歌に対して和歌が存在する。和歌は真面目なものである。其処には遊びがない。自然の歌にしろ、恋愛の歌にしろ、悼亡の歌にしろ、作家の胸奥の琴線はピンと張り詰められている。精一杯に秋を鳴く鈴虫の様に、歌人は満腔の熱と力を以て、喜怒哀楽の情を歌ひ出す。けれども狂歌師はさうではない。彼等が自然とか人生とかに対する態度は確に弛緩して居る。善く言へば余裕があるのだが、悪く言へば不真面目である。冷やかで、上つ調子で人を感動させる力はない。その代りに滑稽や諧謔を以て、人を笑はせる事が出来る。軽快な気分を味はせる事が出来る。或は皮肉や風刺を以て、間接的にではあるが、人の世の欠陥を匡正する事が出来る。
 斯う言つて来れば、ほゞ狂歌が何であるかと言ふ事が解るであらう。つまり和歌の生命とする所がまことであるならば、狂歌のそれは可笑味であり、たはむれである。和歌のねらふ所が優美で、高尚で風雅であるならば、狂歌のそれは滑稽で、凡下で、卑俗である。一方が貴族的尚古的であるならば、他方は平民的進取的である。
 以上の事を一つの定義にまとめて見ると次の様になる。即ち、「狂歌とは用語及び取材に絶対的自由を与へられたる卑俗なる短歌であり、滑稽を旨とするものである。」要するに可笑味を有つ短歌なのである。泪の種ではなくて、笑の種を秘めて居る三十一字詩である。さて狂歌をさう言ふ風に定義すると、其の淵源は随分古い。古事記にもそんな歌があるかも知れない。万葉集には沢山ある。巻の十六に見える戯咲歌は凡て狂歌と言ふべきである。なかなか面白いのがある。大伴宿祢家持が、吉田連石麿と言ふ痩人を笑ふ歌などは、最もいゝ例である。
  石麿に吾もの申す夏痩によしといふものぞ鰻とりめせ
  痩す痩すも生けらばあらむはたやはた鰻をとると川に流るな
 此の外鼻の赤い池田朝臣と痩ぎすの大神朝臣が互に戯れ合ふ歌とか、或は色の白い土師宿祢と色の黒い巨勢朝臣がやぢり合ふ歌など、いくらでも挙げる事が出来る。素朴な万葉人の諧謔は、此の如く無邪気である。
 竹の園生を礼讃し、人生への愛着を歌ふ人麿にしろ、自然の美を自然の美として写す赤人の歌にしろ、人間苦を人間らしい態度で歌ふ憶良の歌にしろ、その他無数の恋愛の歌や悼亡の歌や伝説の歌にしろ、集中の歌は総て皆真面目である。さう言ふ中に此の様な笑の歌、遊戯的な歌が混つて居るといふ事は、誠に面白い現象である。何故かと言ふ疑問は哲学の問題に属するから、此処では触れないで置く。
 万葉集が選せられてから、百数十年後、即ち平安朝の中頃に、延喜の帝の詔を戴いて、紀貫之等が古今集を選進した。古今集には俳譜歌として、さう言ふ遊戯的な歌が集められて居る。此の俳諧歌はとりもなほさず後に言ふ所の狂歌である。現に俊成の「和歌肝要」にも「俳諧といふは狂歌なり」と見えて居る。併し俳諧歌は狂歌の一体であつて、其の凡てではない。俊成も「狂歌と言ふは俳諧なり」
 と言つたのではないのだから、後世俳諧歌のみを以て真正の狂歌であると主張した一派の人々は、明かに論理の誤謬を犯して居るのである。況や狂歌の源流を古今集に求むるの非は論外である。其は万葉集十六の巻なる戯咲歌或は無心所著歌に求むべきである。可笑味を有つ短歌と言ふ定義を以て万葉以前に遡るならば、遠く記紀の歌にもそれに該当するもの、即ち狂歌が見出されるかも知れないのである。
 さて古今の俳諧歌は狂歌の一体ではあるが、流石に勅撰集に採録されて居るだけあつて、概して上品である。余り狂し過ぎたものや、俗過ぎたものは無いと言つていゝ。
  山吹の花色衣主やたれ問へど答へず口なしにして 素性法師
  梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしも折る 読人しらす
  逢ふ事の今ははつかになりぬれば夜深からではつきなかりけり 平中興
  人恋ふることを重荷と荷ひてもあふごなきこそ侘しかりけれ 読人しらず
 此の様にこゝろもしらべも共に優美である。優美な中に軽い洒落がある。それが俳諧歌の特質である。万葉の戯咲歌は大抵内容そのものに可笑味があり、其の可笑味が短歌の形式によつて表現されて居る。之に較べると古今の俳諧歌は、別段可笑しくもない事をば、可笑味のある言葉で以て詠まれて居るのが多い。歌の修辞が段々進んで来た結果と見るべきであらう。狂歌としては戯咲歌の方が一等勝れて居る。何となれば戯咲歌の可笑味は言葉が描写する可笑味であるが、俳諧歌のそれは言葉が創造する可笑味であるからである。可笑味の性質としては言葉が創造する可笑味は、第二次的のものであるからである。江戸時代の狂歌も大体は古今集のそれの様に、言葉の可笑味であつて、内容の可笑味ではない。だからまことにくだらない。
 と言つて古今集時代には俗意俗調を以て、ありの儘の滑稽を尽した狂歌らしい狂歌が無かつたと言ふのではない。
  竹馬はふしがちにしていと弱しいま夕かげに乗りて参らむ
 「袋草子」に出て居る壬生忠見の歌である。内裏から召された時に乗物が無いと答へると、重ねて、では竹馬にでも乗つて来いとあつた際に詠んだものである。或は、
  昔より阿弥陀ぼとけのちかひにてにゆるものをばすくふとぞ聞く
 藤原輔相字藤六がある下司の家へ入つて、家人の留守中に鍋の粥を抄ひ上げて食べようとする時、折悪しく見つけられ、三十一字の詭弁を弄したのである。「宇治拾遺物語」に見えて居る。探せばいくらもあらう。是等は所謂俳諧歌とは多少趣を異にする。狂歌らしい狂歌である。
 つまり優雅な滑稽、言葉の上の可笑味を旨とする俳諧歌と、卑俗な滑稽、内容の上の可笑味をねらふ狂体の短歌が共に存在したのである。さう言ふ短歌を狂歌と呼んだのは鎌倉時代以後であらう。しかとした名称が与へられなかつた程、俳諧歌に圧倒されて居たのである。けれども圧倒はされても、之が後世の狂歌の正系である事に疑はない。正系ではあるが此の種のものは至つて少い。何故かと言ふと平安朝の中期から鎌倉時代へかけて、狂歌は全く人を嘲罵し世を誹謗する落首に用ひられたからである。落首とは短歌体の落書であり、落書とは「玉かつま」にもある如く、「言はまほしき事の、あらはに言ひ難きを、誰がしわざとも知らるまじく、書て落し置く」ものである。正面から正々堂々と他人の非行を攻撃したり、為政者の失態を論難したりする勇気をもたない者が、其の不平不満を洩す一つの方法である。だから本来は非常に真面目なもので、大いなる社会的意義を有するものであるが、我国にあつてはそんな深い意味を有するのものは、殆ど無いと言つていゝ。人道の為に人の罪悪を諷誡するとか、正義の為に要路の人々の専横を憤るとか言ふ事は絶対に無いのである。只人を誹つて自ら快を遣るとか、或は他人の気付?ない社会の欠陥を指摘して、自ら足れりとするのが普通の様である。全くわるふざけに過ぎないものである。故に大宝令にも既に落書を罪する規定がある程度である。
 江戸時代はそれに対する取締がなか/\厳重であつた。兎に角落書はさう言ふ性質のもので、歌に限らず詩でも文章でも可いのであるが、狂体の短歌は短くて伝誦し易い所から、盛に応用されたらしい。それを落首といふのである。素朴な万葉人はお互の身体的欠陥に就いて、無邪気に欺謔し合つたのであつた。此の体から観れば、狂体の短歌が落首に向つて進展するであらう事は、既に万葉の戯咲歌に、暗示されて居るではないか。
 落書の詩は「本朝文粋」巻十二に見えるのが最古のものであり、落首は「平治物語」巻下に、比較的古いのが見出されるとは、「松屋筆記」のいふ所である。
 左馬頭義朝が平治の乱に破れて、長田ノ四郎忠致に殺されて、獄門に上げられた時である。「いかなる者かしたりけん、左馬頭もとは下野守たりしかば、一首の歌を書きつけたり。 下野は紀の守にこそ成にけれよしとも見えぬあげ司かな
 或る者此の落書を見て申しけるは、昔将門が首を獄門に懸けられたるを、藤六左近と云ふ数寄の者が見て、
  将門は米かみよりぞ切られけるたはら藤太がはかりごとにて
 と詠みたりければ、しいと笑ひけるなり。」と見えて居る。
 藤六左近とは前出の藤原輔相で、大体古今集時代の人であるから、此の後の歌が落首としては古いものらしい。同じく「平治物語」に、長田四郎忠致は相伝の主義朝と、正しき婿鎌田正家の首を持参して恩賞を要求した所が、壱岐守に任ぜられた、それが不平であるとて、せめて美濃尾張を賜りたいと上訴して斥けられ、国元へ逃げ帰つた時の狂歌として、 落ちければ命ばかりは壱岐の守みのをはりこそ聞かまほしけれ
 とあり、更に彼が頼朝に殺される時の落首として、
  嫌へども命の程は壱岐守みのをはりをば今ぞ賜はる
 とあるのである。皆落首の上乗である。
 「平家物語」の富士川合戦の条に、「さる程に落書ども多かりけり。都の大将軍を宗盛といひ、討手の大将をば権ノ亮(維盛)と言ふ間、平家をひらやになして、
  平屋なるむねもりいかに騒ぐらむ柱と頼むすけを落して」
 とあるのも好い例である。
 此の外「源平盛衰記」とか、或はもつと後の「太平記」「応仁記」などにもかなり多い。が孰れも他人の失敗を嘲笑したものであつて、時世に対する調刺は少い。江戸時代になると厳しい禁令を犯して、辛辣なる落首が往々現はれた。為政者の無能を冷罵した痛快なのがある。がそれとても真に社会意識に眼覚めた者が、社会組織の欠陥とか支配階級の横暴とかを、匡正すると言ふ様な意図をもつて作られたものではない事は、前述の通である。「寛天見聞記」や「武江年表」や、其の他江戸時代の随筆類をあされば、ざらに見付かる。要するに俳諧歌と同様に、落首も亦狂歌の一体である。狂歌と言ふのは其等の凡てを包括する広義の名称である。かう言へば近世宿屋飯盛が言ふ所の、狂歌は落首より出でたりと言ふ説の虚妄なる事は、自ら明らかであらう。
 前にも述べた如く、狂体の短歌に狂歌と言ふ名称を付したのは、多分鎌倉時代初期の事であらう。古くは「本朝文粋」巻一に、源順が此の字を使つて居るが、之は自作の詩を謙遜してさう言つたのである。
 「明月記」建久二年閏十二月の条に、「相次参一条殿。依昨日仰也。入夜被読上百首。事畢有当座狂歌等。深更相共帰家。」とあり、更に建保三年八月廿一日の条には、「日入以後参内。参御前。俄而召人々。各参入。始連歌。一両句間、雅経朝臣参入。按察可参之由女房申之。忽抑連歌。被待彼参入之間。有狂歌合。」とも見えて居る。
 之によつて察すると、其の頃は和歌或は連歌の余興として、狂歌が詠まれたらしい。而して歌人或は連歌師は孰れも余技として狂歌を嗜んだらしい。ところが「井蛙抄」によると同じ頃御歌所に、柿の本衆と栗の本衆とがあつて、柿の本を一名有心と言ひ、普通の和歌を専にし、栗の本は無心と呼んで主として狂歌を詠んだとある。水無瀬殿の庭の大きな松の木を距てゝ、有心座と無心座とが対立して居た。或る日松吹く風の音を聞いて有心側の慈鎮和尚が
  心あると心なきとが中にまたいかに聞けとか庭の松風
 と詠み遣はすと、無心側も黙つては居ない、早速
  心なしと人のたまへど耳しあれば聞きさぶらふぞ軒の松風
 と返歌した。「耳しあればが生さかしきぞ」と言つて、後鳥羽院が御笑になつたと言ふ話である。之によると和歌に対する狂歌の位置は、かなり高い様に見える。けれども大体から言へば、狂歌はやはり和歌や連歌に対しては、従属的地位に在つたのである。序だから連歌の事を一言して置かう。連歌起源は万葉以前にあるのであるが、専ら盛に成つたのは、鎌倉時代から室町時代へかけてゞある。大体支那の聯句の影響を受けたもので、簡単に言へば一首の歌を二人がゝりで詠むのである。
 源三位頼政が、夜な夜な近衛院を悩まし奉つた鵺を射止めた時に、院は御感の余り獅子王と言ふ御剣を賜つた。宇治左大臣頼長卿がそれを捧げて、南殿の御階を下りつゝ、折ふし一声二声啼いて過ぎた時鳥を聞きつけて、
  時鳥名をも雲居に揚ぐるかな
 と頼政の功を賞讃した。すると頼政は直に跪いて、傾く月を見遣りながら、
  弓張月のいるにまかせて
 謙遜した。それで益々叡感を深うしたといふ話が、「平家物語」に出て居る。之が即ち連歌である。崇徳院の御代に、俊頼が選進した「金葉集」から、其の代表的なものを一首引用する。
  田に喰むこまはくろにぞありける 永源法師
  苗代の水にはかげと見えつれど 永成法師
 一首の和歌を二人して詠むといふ事が、既に遊戯的であり、それが大抵言葉の創造する可笑味に重心を置いて詠まれて居る以上、初期の連歌は全く俳諧歌或は狂歌と同一である。只作者が二人と一人の相違である。二人して詠むと言ふ点から、連歌と言ふ名称が与へられて区別されて居るのだから、それはそれでいゝ。
 ところが鎌倉時代以後、斯ういふ連歌が複合されて、五十韻百韻の長篇が現はれた。いくら長篇になつても、之を歴史的発生的に見るならば、それはどこまでも可笑味を狙ふもので無ければならない。
 然るに当時の歌人は、大体に真面目な普通の和歌を貴んだので、自然彼等の連歌は、俳諧の連歌或は狂歌の連歌ではなくて、和歌の連歌となつて了つた。上品ではある。が死んで了つた。自由で軽快で活々とした所が無くなつた。面倒な規則が出来たり、用語を彼此いふ様になつた。それでは面白く無いと言ふので、俳諧の連歌狂歌の連歌を鼓吹して、優美とか幽玄とかを生命とする普通の和歌や連歌に対して、滑稽諧謔の方面に於て、大気焔を揚げたのが、かの山崎宗鑑であつた。「犬筑波集」の中から一二の例を拾へば、
   霞の衣すそは濡れけり
  佐保姫の春立ちながら尿をして
   舅のための若菜なりけり
  沢水につかりて洗ふ嫁が脛
 の類である。此の俳諧の連歌が貞門から談林を経て、益々滑稽に走り、理屈に堕して空疎なものと成つたのを承けて、之に生命を吹き込み、之に芸術的内容を与へたのが、元禄の芭蕉であつた。さて此の狂連歌は、こゝろと言ひ、すがたと云ひ、後世の狂歌と殆ど違はない。だから後世の狂歌は俳諧の連歌から遊離したものと考へてもいゝ。俳諧師であつた松永貞徳は一面狂歌師でもあつた。彼の門人も皆その通りである。併し、鎌倉時代にも狂歌と銘を打つて、和歌連歌に対立して居た狂体の短歌があつた事を忘れてはならない。只当時の狂歌は微力で、歌人や連歌師によつて、折々即興的に手をつけられたに止まる。彼等はみな座興的に狂歌を弄んだ。それは「明月記」の記す所によつても明かである。題しらず、
  七瀬川やせたる馬に水かへばくせになるとてとほせとぞ言ふ 西行法師
   発心の日より行住座臥西向きてのみありけり。或時東へ下るとて道につかれ馬に乗るに、うしろざまにのりながら詠める、
  浄土にも剛の者とや沙汰すらん西にむかひてうしろ見せねば 蓮生法師
   題しらず
  からかさのさしたる咎はなけれども人にはられて雨にうたるゝ 北条時頼
   暁月を近江国蒲生氏なる人いたはりて、寺地に田地など添置かれけるに、とかく我儘のみ度重りければ、所を立退き給へとこずきける時に詠める、
  費長鶴張博浮木達磨芦暁月坊はこずきにぞのる 暁月
 「古今夷曲集」「後撰夷曲集」に多少採録されて居る。
 室町時代に入つては、「七十一番職人歌合」「十二類歌合」「調度歌合」「狂歌合」などが出て、追々盛になつた。一方荒木田守武や山崎宗鑑によつて連歌の革新が企てられ、連歌は滑稽諧謔を旨とする様になり、それがやがて短歌の形式に於て分裂して、在来の狂歌と合流するに至るのである。
 が此の頃とても未だ専門の狂歌師は居なかつた。けれども好んで多くの狂歌を詠んだ人に一休がある。一休は禅の妙諦を把握した一種の超人であつたので、凡ゆる言行が自然滑稽洒脱の趣を帯びて居た。「仏法とは如何」とやられるとすぐ、
  仏法は鍋のさかやき石の鬚絵にかく竹のともずれの声
 とやり返す。では「世法は如何」と二の矢を番へると、
  世の中は食うてはこして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ
 と喝破する。是等は言葉の可笑味をねらふ様な皮相なものとは違ふ。其の洒脱なる人格と徹底したる悟道の自然の表れである。
 豊臣氏時代には曾呂利新左衛門が居る。黒胡麻をふつた餡餅を茶菓子に出して狂歌を所望された時に、
  黒ごまのかけて出でたる餅なれば食ふ人毎にあらうまと言ふ
 と詠んで太閤を笑はせたと云ふ様な咄を集めたものに、「曾呂利狂歌咄」がある。之は偽託であるが、兎に角彼は狂歌に堪能であつたらしい。
 織豊二氏時代から徳川時代初期へかけて、天下の詞宗を何(ママ)て任じた者に、松永貞徳がある。貞徳は玄旨法印細川幽斎に就いて、和歌連歌の奥旨を究めたが、宗鑑の俳諧連歌に共鳴し、「犬筑波集」を継いで、「淀川」及び「油糟」を出して其の正調を示し、更に「御傘」の一書によつて其の法式を明かにした。彼に「貞徳狂歌集」がある。歿後二十九年目、天和二年七月に刊行された。
   さる人閨の戸さしこめて寝たりしに、隣にけはしく砧打ければ、響に驚き眼を覚しぬ。殊の外恨みて擣衣と言ふ題にて歌よみてけり。
  肝心の寝入時分にまた衣うつけ者とや人に言はれん
   森の紅葉
  外からもほのかには見る松杉の枝の間々もりの紅葉ば
   更衣
  春過ぎて夏は来たれど帷子の着替もなくてあたまかくやま
 右は比較的面白さうなのを抜き出したのである。それにしても言葉の遊戯が主であつて、内容的な可笑味は殆ど見当らない。俳諧に就いて彼の門に入つた半井卜養、石田未得、池田正式、梶山保友等は一面に於て狂歌師であつた。俳諧連歌から狂歌を分離せしめたのは全く彼等である。未得には「吾吟我集」があり、ト養には「卜養狂歌集」がある。   ふる年に春立ちける日、人の子をまうけたるに詠み侍る、
  年の内の春にむまるゝみどり子をひとつとや言はん二つとや言はん
   首夏
  春過て夏の日影にわたぬきの衣ほす今日汗のかき初め(吾吟我集)
   ある人馬場に桜をうゑて花の頃歌よめといふて所望ありければ、
  白妙に綿帽子着る花のかほ年もふる木のばゝざくらかな
   花の頃興を催し花を見にまかりけるが、花も未だ開かざるその木の下にて酒飲みなどして、
  花盛り下戸も上戸ものみたべて開かぬ先にさけさけといふ(卜養狂歌集)
 ト養と未得は後江戸に住したのであるが、其の頃上方では永雄、信海、行風の三人が狂歌師として有名であつた。永雄は細川幽斎の姉の子で、建仁寺の長老であつた所から、雄長老と称した。
  死ぬるとてでこせぬ事をしだいたはそもたれ人の所行無常ぞ
  餌さしめがちやくとさすべき棹河の無用心にも鳴く千鳥かな
 と言つた調子である。元和中「新撰狂歌集」を編み、「雄長老百首」なる自家集がある。信海は男山八幡の社僧で、豊蔵坊と号した。或は玉雲翁ともいふ。能書家で狂歌の方に於ても名高い。油煙斎貞柳の師である。家集を鴆杖集と書ふ。
   上巳
  我むねは今日はな焼きそ若草の餅もこもれり酒もこもれり
   端午
  美しきあやめの前の小袖より真菰かぶつた粽目につく
 行風は生白堂と号し、浪華の高津あたりに棲んで居た。寛文五年に「古今夷曲集」を編して、後西院天皇の叡覧に供へた。次いで「後撰夷曲集」をも選集した。それは寛文十二年の春であつた。
 寛文延宝から元禄享保の頃へかけて、上方の狂歌壇を牛耳つたのは油煙斎である。油煙斎は大阪御堂前の菓子屋で、父貞固は貞門の俳諧師安原貞室に就いて学んだ。その縁によつて、彼も俳諧を嗜み貞柳と号した。後八幡山の信海を師として狂歌に入つたのである。油煙斎といふ戯号の起原は、
  月ならで雲の上まですみのぼるこれは如何なるゆえんなるらん
 の詠であると云ふ。奈良の古梅園主松井和泉掾が、重さ二十余斤の大墨を調製して雲居に献上したのを賞めたのである。此の様に彼もやはり最初は、言葉の創造する可笑味を旨として、無内容の駄洒落を喜んだ。けれども彼の狂歌に対する観念は、決して之に止まらなかつた。彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。「之は如何なるゆえんなるらん」などは、全くのこじつけで、狂歌の真髄に触れたものではない。真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。
  ほうぐわん日とて心よしつねよりもべんけい勝れ静なときはじや
 などは只言葉の意味の二重性を悪用したむだ口に過ぎないもので、少しも余韻余情と言ふものがない。技巧を衒ふ所が卑しい。もつと上品でなければならん。「狂歌は紙子に錦の裏を付ける」のだ。それに一般の人々は「布子にあかね木綿裏」である。
  散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれどもけれどもさうぢやけれども
  住吉の木の間の月の片割はありけるものを此処に反橋
  西行に杖と笠とは似たれども心は雪と墨染めの袖
  終にゆく道とは兼ねて業平の業平のとて今日も暮しつ
 かういふ風に一首を安らかに詠んで、其の安らかな中に作者の風流がしみ出て居るのでなければならん。無理があつては面白くない。さう言つて彼は門弟を訓へた。だから柳門の流を汲む者は、皆平易流暢を心掛けて、力めて拮屈晦渋の詠を避けた。
  世の中は何の糸瓜と思へどもぶらりとしては暮されもせず 木端
  出替の折は八十八夜にて今日を名残のしもの女子衆 華産
  つくづくと花のながめにあくびしつ隣もあられ煎る音のして 貞柳
  早乙女が気もせきやうの影法師東どなりの田を植ゑてゐる 奨圃
  山吹の枝に手をかけ鳴く蛙花がほしくば大皷でも持ちや 貞佐
 貞柳の歿後は大阪の栗柯亭木端と、岡山の芥川貞佐が其の遺風をうけ継いだ。門葉は全関西に拡つてなか/\盛であつた。けれども彼の所謂余韻余情の狂歌、或は箔の小袖に縄の帯の狂歌を理解する者は殆ど無かつた。そして一般の詠風は漸次平板に流れ、凡下卑俗なものと成り下つて行つた。木端への書簡に於て、彼は次の様に言つて居る。「之でなければ狂歌ならずと存候得共、我に等しき方御座なく候」と。それと同じ心持を、芭蕉は「此の道やゆく人なしに秋の暮」と吟じた。先覚者の淋しさである。開拓者の嘆きである。その嘆きの中に彼は死んで行つた。時に享保十九年である。生前会心の詠を、舎弟貞峨が門人知友に配つた。それに辞世がある。
  知る知らぬ人を狂歌で笑はせしその返報に泣いてたまはれ
 家集を「家土産」及び「読家土産」といふ。因に舎弟の貞峨は、豊竹座の浄瑠璃作者紀海音である。
 江戸では寛文延宝の頃以来、前述の半井卜養、石田未得、斎藤徳元などが各々俳諧と共に狂歌を弄び、相当に繁昌した様であるが、元禄享保の間は一時中絶した。油煙斎の狂歌は全関西を風靡しただけで、其の勢力は関東へまでは及ばなかつた。
 宝暦明和の頃に至つて、江戸に平賀源内、木室卯雲などが居つて、たま/\狂詠を事とする様ではあつたが、專らそれに身を委ねたのではなかつた。同じ頃尾張に横井也有が居た。也有は俳人ではあつたが、また狂歌も嗜んだ。「鶉衣」に「俳諧うた并弁」の一文がある。それによれば彼は古今集の俳諧体と俳歌うたとを区別し、更に俳諧うたと狂歌は同一ではないと主張して居る。古今集の俳諧体は歌人の俳諧うたで、俳人の歌ではないと言ふのだ。而して「狂歌は全体の趣向を求めず、其の物其の事に縋りて、他の物の名をかり秀句をとりなし、言葉をもぢりて全く言句にをかしみを求む」るものであり、俳諧うたは「趣向一つを立てゝ、其の事をすらすらと言ひ流して、言葉の縁字義の理窟は曾てとらざるもの」であると説く。例へば、
  たつた今乞食叱りし門口へ直にむくいて掛乞が来る
 などは正しく俳諧うたであり、
  あてなしに遣ひ遣ひて節季には銭は無いとて留守遣ひけり
 と詠めば、純然たる狂歌である示す。要するに彼の所謂俳諧うたとは内容に滑稽を有するものを指し、狂歌とは言葉にのみ可笑味を持つものを指すのである。私はどちらも狂歌と呼んで差支ないと思ふが、也有はさう別けて考へたのである。
 その後安永天明の頃に至つて、江戸に俄然狂歌が勃興した。
 只日本の政治的中心地たるに止つた江戸が、永い伝統を有する京阪を凌いで、真に日本の文化的中心地となつたのである。其の頃になつて漸く江戸は、其の文学に於て、美術に於いて、演劇に於いて、音楽に於て、京阪の模倣を離れて、独自な境地を開く様になつた。遊里や芝居や寄席や料理屋や見世物や、其の他都市としての亭楽機関が悉皆備つた。鉄砲は袋棚に納り、鎗は錦の袋をかぶつて長押に煤る御代である。火事か地震か喧嘩より他に、事件らしい事件が無いのである。
 春は花見の飛鳥山、夏は涼みの両国橋といふ風に、市民は悠々と四季の行楽を娯しんだ。武士も町人も表向は四角い階級とかで、儼然と区別されては居るが、内証では全く対等である。或は其の位置を顛倒する事すらあつた。花街や戯場へ行くと、「わちきや二本指はとんと好きいせんのさ」と言ふ具合で、武士は一向もてなかつた。
 平和な時代は何と言つても金である。幾ら柳生真影流の達人でも、金が無ければ駄目であつた。其の金を握つて居たのは町人である。町人は贅沢で自由で豪勢なものであつた。宵の中から惣花を打つて月と花との吉原を独占したり、役者に定紋付の衣裳を着せて、舞台から御礼を言はせたりする。十八大通が出る。黄表紙や洒落本や錦絵が生れる。小唄、都々逸、俳諧、狂歌、川柳、謎々、狂詩、狂文などが流行る。浮世は三分五厘で、間男が七両二分の世の中である。宵越の金は使はないのが江戸つ子で、意気だ伊達だ茶番だ狂言だと騒ぐのを得意とする。凡てが軽跳で浮薄で華奢で柔弱で皮肉で滑稽である。みんな笑つて、面白可笑しく世を渡らうとするのが、当事の風潮であつた。
 さういふ空気の中へ唐衣橘州が出て来た。四方赤良が生れて来た。此の二人が江戸の狂歌壇を開拓したのである。彼等は共に内山椿軒に就いて、和歌を学んだ。椿軒は軽俊の才子で折々狂詠を洩した。
 その影響を受けて橘州、赤良の徒も戯歌を口にする様になつたらしい。赤良の随筆「奴凧」によれば江戸で初めて狂歌会を開いたのは唐衣橘州である。橘州の書いた「弄花集序」は宝暦明和頃の江戸狂歌の濫觴から筆を起して、天明寛政の黄金時代に説き及ぼした小天明狂歌史とも言ふべきもの故、左に之を引用する。
 「余額髪の頃より和歌を賀邸(椿軒)先生に学び、暁月が高古なる、幽斎(主旨法師)が温雅なる、未得が俊逸、玉翁(信海)が清爽の姿をしたひ、事につけつゝ口網を荷ひ出だし侍りし。或時臨期変的恋といふ事を、
  今更に雲の下紐ひき締めて月のさはりの空言ぞ憂き
 とよみて、先生に見せ侍りしに、此歌流俗のものにあらず、深く狂歌の趣を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年あまりの昔なりけり。其頃は友とする人、僅に二三人にて、月に花に余が許に集ひて、莫逆の媒とし侍りしに、四方赤良は余が詩友にてありしが来りて、凡そ狂歌は時の興に詠むなるを、事がましく集ひをなして、詠む痴れ者こそ烏許なれ。我もいざ痴れ者の仲間入せんと、大根太木てふ者を伴ひ来り、太木また木網、知恵ノ内子を誘ひ来れば、平秩東作、浜部黒人など、類を以て集まるに、朱楽菅江亦入り来れり。是れ亦賀邸先生の門にして、和歌は予の兄なり。和歌の力をもて狂詠自ら秀でたり。彼の人々よりより予が許、或は木網が庵に集ひて、狂詠やうやう多からむとす。赤良固より高名の俊傑にして、其徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、予も亦ゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗上せしより、真顔、飯盛、金埓、光が輩次いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、飯盛は事ありて詠をとゞめ、光は早く黄泉の客となり、金埓は其の業によりて詠を専とせず、真顔ひとり四方歌垣と名乗りて、今東都に跋扈し、威霊盛なり。又一個の豪傑ならずや。之に次ぎて名だゝる者、淺草に市人、玉?に三陀羅を始として、尾陽、上毛、駿、相、奥、羽、総、房、常、越より、其外の国々のすき人、日を追ひ月を越して盛なり。斯く世に拡るは、実に赤良、菅江が勲にして、予は唯陳渉が旗上のみ。──」僅々二三十年で此の如き隆昌を見たのである。「岷江は始め觴を浮ぶるばかりなるも、楚に入て底なし」と、橘州が述懐して居るのも尤である。之は時代の風潮と狂歌の趣味とが完全に一致したからであらう。機智に富み、滑稽を喜び、皮肉を愛し、洒落を好んだ江戸市民が、其の戯謔癖を満足させるものとして、蓋し狂歌は上乗の手段であつたらう。「万才狂歌集」「古今馬鹿集」「徳和歌後万載集」「狂歌才蔵集」「万代狂歌集」を始として、各作家の家集が夥しく出版された。橘州の「酔竹集」、赤良の「千紫万紅」「万紅千紫」「巴人集」菅江の「朱楽館家集」、飯盛の「六樹園家集」金埓の「槍洲楼家集」、真顔の「蘆荻集」、手柄岡持の「我おもしろ」その他、赤良の「蜀山百首」「めでた百首」「狂歌百人一首」、金埓の「仙台百首」、蔦唐丸の「百鬼夜狂」、飯盛の判した「飲食狂歌合」などがある。中には未出版のものもあるが、大抵は上梓されたものである。以て当代の盛況を偲び得ると思ふ。さて此の時代の?歌は京阪に於ける貞柳一派のそれとは、全く系統を異にするものである。貞柳は俳諧連歌の方から狂歌に入り、縁語掛詞を排して、余韻余情の歌を理想とした。つまり京阪の狂歌は連綿たる伝統を有するに対して、江戸のそれは全く独自的のものである。只滑稽諧謔を愛する癖から、和歌めいた駄洒落をもてはやす様になつたまでゞある。それが古来の狂歌と全く同性質のものであつたので、それを狂歌と呼ぶまでのものである。従つて之は縁語、掛詞、地口、語呂合の類を自由自在に駆使して、奇想天外より来る体の詠を尚ぶのである。内容の可笑味よりは言葉の可笑味を求めるのである。時代が時代だし、機智や皮肉に屈託の無かつた江戸人の事故、実に垢抜のしたすらりとしたものが出来た。さういふ軽い明るい、此の時代特有の調子を持つ狂歌を特に天明調といふ。
  あらうなぎ何処の山のいもとせを割かれて後に身を焦すとは
  お端女の立たが尻をもみぢ葉のうすくこく屁に曝す赤恥(四方赤良)
  行春をしばし止めて眠らせよはたごやもなき海棠の花
  楊貴妃の湯上りならし白牡丹うまく太りて露を含むは(唐衣橘州)
  今日はまた引く手あまたの姫小松誰とねの日の春ののべ紙(朱楽菅江)
 幾らでもあるから此位にして置く。古歌をもぢつたリ、故事成語を詠み込んだり、俚諺を用ひたりしたものも多い。だが孰れも言葉の創造する可笑味以上に出て居ない。けれども赤良や菅江や橘州などの大家になると、言葉の創造する可笑味が、洗練された窮極の形に於て、言葉の描写する可笑味、形式としての可笑味ではなく、内容的な可笑味にまで達して居るのがある。
  時烏鳴きつる方に呆れたる後徳大寺の有明の顔(四方赤良)
  邪魔致す男や槌で追ひぬらん妹が砧のま延び間詰り(朱楽菅江)
  みどり子の裾吹き捲る涼しさや波もあら井の関の秋風(唐衣橘州)
  一夜寝し妹がかたみと思ふにはうつり虱もつぶされもせず(宿屋飯盛)
 多少の文学的価値は持つて居よう。が何と言つても言葉の手品である。言葉の遊戯に過ぎない詠が多いのである。江戸の様な呑気な時代、遊民やお洒落の多い都会に於てゞないと、決して栄えるものではない。一時殆ど全国的に流行したが、それも暫くであつた。天保以後、世の中が益々多事に成つて行くにつれ、狂歌は段々と衰微した。川柳の方は形が短いし、ダラダラして居ないから、今日でもかなり盛であるが、狂歌は駄目である。而してそれでいゝのである。其の滅亡の日も近からう。だが強ひて惜むに足らないと思ふ。さう言ふ理由の下に、文化文政以後の狂歌壇に就いての記述は、之を省略する。只専門の狂歌師が出来、大人と称し、判者と唱へて点料を貧り、益々狂歌の価値を下落せしめただけのものである事を附記する。


蜀山人評伝

 蜀山人太田南畝は、今は去る百七十六年前、寛延二年三月三日に、江戸牛込中御徒士町の組屋敷で呱々の声をあげた。其の家は代々幕府の御徒士で、七十俵と五人扶持を頂戴して居た。
 七十俵とは、所謂御蔵米であるから、三斗五升入として、二十四石五斗となり、五人扶持とは、一人一日の食量を五合宛として、其の五人前と言ふ意味であるから、月に七斗五升、年に積れば九石となる。即ち両方合して、三十三石五斗の玄米が、其の歳入の総てである。三十三石五斗の玄米は、今日の米価、石四十円宛として、千三百四十円となり、月に割れば平均百二十円余となる。即ち南畝の家庭経済を、今日の其に翻訳すると、大体月収百二十円の官吏と言ふ事になる。月収百二十円の官吏の生活は、余裕どころか、随分苦しいものである。其から推しても南畝の家庭が決して経済的に恵まれたもので無かつた事を知る可きである。
 況して元禄享保以後、一般の生活程度が向上するにつれて、物価は昻騰する一方で、米価が之に伴はなかつたから、所謂蔵米取は勿論の事、全武人階級の窮状はまことに憐む可きものがあつた。けれども保守的な幕府の事である。七十俵五人扶持は、いつまでも七十俵五人扶持である。其どころか折々は御勝手元不如意の名の下に、七十俵五人扶持が、七十俵五人扶持でなくなる事もあつた位である。と言つて、前垂掛で算盤を弾く訳にも行かず、跣足で肥桶を担ぐ訳にも行かない。お金は儲け度いが、お腰のものが邪魔になる。始末はし度いが、貧乏でも侍である。相当の体面は保たねばならないと来る。進退維れ谷つて、さて世の中を見ると何うだ。
 経済上の勝利者としての町人の生活は何うだ。憎い奴とて斬り殺され、甘い奴とて貸り倒され乍ら、あの豪奢な暮し向は何うだ。遊里や芝居に於けるあの面憎い振舞は何うだ。之と言ふのもみんな金のお蔭だ。二本棒は駄目だ。此の世は金だ。
 武士は食はねど高楊子と言つたのは、昔の夢だ。千軍万馬の真つ只中を、命を的に駈け巡つて、天晴れ武勲を輝かしたのは、其は祖父さんのその祖父さんであつた。今や弓は袋棚の上に煤け、お太刀は鞘形の小袖に纏はれ、鎧兜は笑道具となり果てゝ了つたのである。何時迄も武芸専念でもあるまい。先づお金の取れる算段をせねばならない。お侍衆は然う考へた。武士道も何もあつたものではない。一人息子を廃嫡して、町人の分限者の伜を養子にした旗本があるかと思ふと、上役に贈賄して出世をしやうとする御家人もあつた。要するに生活難と物質慾が、武士の魂をすつかり台無しにして了つたのである。
 斯う言ふ風潮は明和安永天明の頃、即ち田沼時代に至つて、其の極頂に達した。
 小やかな南畝の家庭は、此の様な時潮の中に、危くも支へられて居た。
 彼の父は、至つて正直な、温厚な人であつた。三十余年の間、眇たる一御徒士として、御奉公に出精し、薄給の故を以て、不平を懐いたり、後めたい行を敢てしたりするやうな事は、微塵も無かつた。
 能く足る事を知り、分に安んじて、頬笑みつ人生の行路を辿つた平和な幸福な性格の持主であつた。
 母は気前の確乎した人で、足らず勝ちな収入を以て、能く家を治め、子女を養育して、甚だしい破綻は見せなかつたと言はれる。
 が其でも、負債は相当にあつたと見えて、「蜀山文稿」中の興山士訓には、「嘗テ父ノ緒業ヲ承ケ、家宿債多シ。俸銭業ニ已に子銭家ノ有ト為レリ。」と記されて居る。
 当時旗本御家人等の主たる金融機関であつた蔵前の札差から、俸禄を担保にして応分の借銭をして居たのでもあらう。が之は決して浪費の為ではなくて、自然の成り行きである。経済状態の変遷に順応して、俸禄を増加する事をしないで、物価が安くて、生活程度の低かつた幕府草創時代の制度を、其の儘に固守した当局者の罪である。いや当局者も旗本や御家人の窮迫を知らなかつたのではない。が肝心の幕府が、経済的に疲弊し切つて了つたので、策の施し様が無かつたのである。無い袖は振れなかつたのである。
 さう考へると、之は日に日に進転流動して止まない経済状態に対して、固定不変の封建制度が、当然陥る可き必然の運命であつたと、言はねばならない。
 其は兎も角、結局南畝の家は貧困であつた。
 環境は人を造ると言はれる。物質生活が精神生活を左右すると言はれる。
 其の人の人生観や処世観は、其の人の経済的生活によつても、かなり多くの制約を受けるものである。其の点から言へば、人生に対する南畝の現実的な功利的な態度、社会に対する実際的な唯物的な態度、及び其の性格に於ける生真面目な勤勉な努力的な半面などは、明らかに此の恵まれざる経済的環境の影響であると見る可きである。

 彼の母の墓碑銘に、「覃(南畝の幼名)幼ニシテ塾師ニ就学スルヤ、先妣以テ之ヲ相スル有ル也。」とある句によれば、女ながらに、多少の見識があつて、貧しい中からも、嫡子の教育に深く意を用ひ、自ら師匠を撰定したものと推せられる。
 南畝が初めて師事したのは、牛込加賀屋敷に住んで居た幕儒、内山賀邸であつた。賀邸は椿軒と号し本来は漢学者であつたが、国学の素養も相当にあり、和歌狂詩の孰れにも長じて居た。
 峻厳犯す可らずと言ふ様な純学者肌の人ではなくて、冗談も言へば洒落も出る、至極気の軽い磊落な人であつた。
 別に野心も有たず、大望をも抱かなかつたので権門勢家に阿諛する事もなく、恬淡寡慾悠々として、自ら好む所に従つた人であるが、此の人の風格が其の門人に及した影響感化はまことに大なるものがあつた。
 「石楠堂随筆」を見ると賀邸の和歌凡そ二千首は、其の子明時の手によつて、十巻にまとめられたと記されて居る。其の狂詠は天明二年に、唐衣橘洲が撰した「若葉集」に収録されて居る。以て其の滑稽諧謔の才を見る可きである。
 南畝と共に、天明の狂歌壇に雄飛した平秩東作・唐衣橘洲・朱楽菅江等は皆和歌に就いて、賀邸の門に遊んだ人々である。
 橘洲は「弄花集」の序に、「余額髪の頃より、和歌を賀邸先生に学び、二十歳許りより戯歌の癖あり。
 臨機変約恋と云ふ事を、
  今更に雲の下帯ひき締めて月の障の空言ぞ憂き
 と詠みて、先生に見せ侍りしに、此の歌流俗のものにあらず、深く狂歌の体を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年余の昔なりけり。」と述懐して居る。
 「弄花集」は寛政九年に上梓されて居るから、三十余年前と言へば、ほゞ明和改元の頃となる。
 又「蜀山集」には、
 「癸の未の年は宝暦の十有五にて学に志す
 六十一年前の癸未は、わが十五の歳なればなり。」とある。
 即ち南畝は十五歳にして賀邸の門に入つたのであつて、明和改元の年は正に十六歳の少年であつた。少年ではあつたが、天禀の戯謔の才は、既に其の鋭鋒を顯はして、橘洲が江戸で初めて狂歌の会を催した時には、真つ先に其の同人となり、須臾にして一方の雄と推されたのである。
 其は兎も角、賀邸門は実に天明狂歌の揺籃とも言ふ可く、幾多の駿足を輩出せしめて、斯界空前絶後の盛運を将来する上に、大いなる役割を演ずるものと言ふ可きである。当時に於ける各作家の眼覚ましい活動は、各人の天賦と時代の性質、殊に日本文化の中心地と成り了せた江戸が有した特異な都会情調に基づくのは勿論であるが、誘導触発その宜しきを得た賀邸の功績も、亦見逃されてはならないものである。

 次に南畝が師事したのは、太宰春台門の逸材松崎観海であつた。
 観海は丹波亀山の城主松平信直の家老で、熱烈な斯文の学徒である。志は詩賦文章よりも、寧ろ経世済民に在つたので、熊沢蕃山あたりの所論には深く共鳴して居た。経世済民の方法論としては六術がある。六術は彼が二十歳前後に書いたものであるが、今日から見ても余程の卓見と言ふ可き点が多々ある。春秋戦国の君子は、出でゝは即ち将、入つては即ち相、文即武であつて、孰れにも偏する事が無かつた。其の様に文武二道を打つて一丸とした立場に立つて、六術によつて経世済民の実を挙げると言ふのが彼の理想であつたのである。然う言ふ人であつたから、狂詠を弄んで門生と共に戯謔する椿軒先生とは夜と昼との相違で、此方はいつも怖い顔をして弟子を叱り飛ばした。
 けれどもきつい言葉の裏には真心が溢れ、振り上げる鞭の先にはいつも慈悲が籠つて居たので、弟子達は衷心から彼に敬服して居た。
 南畝が後年狂歌狂文を事として遊戯三昧の日を送り、而もしんから軟弱軽浮の風に化せられないで、何処かに世俗と相容れない高潔真贄の一面を所有して居たのは、明らかに此の森厳なる観海の性格と、熱烈なる其の思想の影響であらねばならない。
 「蜀山文稿」中の与野子賤及び送熊阪子彦序の二文を見れば、南畝が如何に其の学に私淑し、其の徳に敬服し、其の教に期待して居たかを知る事が出来る。
 然るに此の観海は、南畝が教を乞うてから幾何もなくして易簀した。其は安永四年乙未の冬であつたが、同じき秋から疥癬を病んで、薬餌に親しんで居た南畝は、突然其の訃に接して、哀悼の念に耐へず、落胆の余り食を廃する程であつた。
 「蜀山女稿」中の与樋季成に次の様な一節がある。
  「之ニ加フルニ、天憗ニ一老ヲ遺サズ、観海先生ハ季冬を以テ逝キ給ヒヌ。山頽レ梁崩レ、吾誰ニカ適従セン。
 覃沈痼ノ余リ此ノ大喪ニ遭ヘリ。頓ヲ廃スル事数日。甚シ覃ノ窮スルヤ。」
 以て観海が如何に多く南畝の心を領して居たかを知る可きである。されば若し観海が、今数年其の齢を延べたであらうならば、南畝の一生は決して私が以下述べるが如きものとはならなかつたであらう。
 「杏園詩集」に故師を哭する七律が二首あるが、其の後の一篇は、盛厳なる観海の子弟に対する態度と、敬虔なる心を抱いて彼に師事した南畝の悌を、髣髴せしめて余あるものである。

 劉龍門こと宮瀬維翰は、南畝に詩を授けた人である。もと紀伊侯の医官であつたが、後龍門山に隠棲して蛍雪の功を積むこと数年、徂徠の学風を慕うて江戸へ赴き、服部南郭の門に入つた。門に入つて間もなく其の詩名は天下に轟き、其の講義を聴かうとする諸侯も随分多かつたが、自由と寛闊を愛する彼は、仕官は真つ平だと固辞して了つた。そして好きな笙を吹いたり、詩を作つたりして悠々自適し通したのであつた。
 「杏園詩集」の中の賀龍文翼先生五十寿といふ七律に於て、南畝は先生の風格と声誉とを称揚して、
 「社中遊好存兄弟、時下才名重古今」と詠つて居る。
 南畝の詩は全く劉龍門の衣鉢を襲いだものであるが、勿々秀逸に富んで居る。其の秀逸が狂歌狂詩の盛名にけ押されて、一向世にあらはれないのは実に遺憾千万である。
 平秩東作も其の随筆「莘莘野茗談」に於て、此の事に言及して居る。「南畝は狂詩専門と言ふべし。惜むらくは詩名之に蔽はれて知らぬ人多し。詩作も比類少き上手なり。」と。流石に肯綮に触れた言である。

 次に服部南郭の門人であつた耆山和尚も亦南畝の先輩で、色々な点に於て彼の性格に影響を及ぼして居る人である。「仮名世説」に記するところに依れば、此の人は十二で芝の増上寺の僧となり、十八で堅義部頭を勤め、三十二で青山百人町へ遁棲した。なかなか詩才も有り、弁舌も爽やかで、常に文人や墨客と会して、雅筵を張り清遊を試みた。
 「蜀山文稿」中の呈耆山上人に次の様な一節がある。
 「前日ノ会、誠ニ忘ル可ラズ。上人十笏ノ室、能ク諸子ヲ容ル。上人ノ長広舌、片言以テ百万ノ鋒ヲ摧ク可ク、玄理ヲ剖析シ、間々諧謔ヲ展ブ。故ニ能ク人々ヲシテ厭心無カラ使ムルニ至ル」
 此の外南畝の師事した人に沢田東江や井上金峨等がある。彼は飛目長耳博覧博聞を説く蘐園の学風を受けたか、能ふ限り広く学び広く交り、凡ゆる機会を利用して、其の学殖の愈々深且つ大ならん事を求めた。其の老年に及んでも尚、常に自己を空しうして、他に聴くに吝でなかつたのは之が為である。
 さて松崎観海・劉龍門・耆山和尚と並べて見ると、南畝の学問の系統が略々明らかに成るであらう。即ち其の主派をなすものは、何と言つても、物徂徠から発した蘐園の復古学であらねばならない。復古学を識らうとするには先づ朱子学を識る必要がある。故に朱子学から簡単に始める事とする。
 朱子学の根本理論は理気説或は性理説である。性理説は一種の形而上学であつて、極端に言へば単なる主観的唯心的空理論であるに過ぎない。が朱子学徒は其の性理説に基づいて、孔孟の教を整理しようとする。彼等は人世百般の事件を、精神のみに依つて解決し得ると考へ、誠心誠意と言ふ事を喧しく言ふ。従つて財を卑しみ富を排し、畢竟人間の物質的慾望を否定する事を以て、経世済民の根本条件と思惟する者である。之は既に天下の政権を掌握した幕府にとつて、何といふ恰好の学説であらう。幕府は此の学派を御用学汲たらしめる事によつて、間接に其の支配権並びに優越権を擁護しようとしたのである。
 之に対して起つたのが荻生徂徠である。徂徠の復古学は朱子学が独断的な性理説を以て、儒教本来の精神を曲解した点を猛烈に攻撃する。そして古文辞を習得して、古聖の遺書を如実に解釈しようとする。古聖の遺書を如実に解釈すれば、朱子学派の言ふ様な禁慾的な教は何処にも発見されない。聖教の本旨は慾望を全然否定する様な不合理なものでは無くて、只其を適宜に調節しようとする点に在るのである。即ち禁慾ではなくて減慾である。之が蘐園学派の復古学の主張の大要である。
 徂徠は言つた。「遊道は広きを要す。然るに日本の学者動もすれば党派を樹つるは何ぞや。学問の道は飛目長耳博く交り博く読むに在り。」さう言つて彼は学閥打破の大旆を翻へして、幕府に対する奴隷的奉仕に満足する朱子学派の党派的観念を破壊しようとした。実にも彼は学界に於ける熱烈なる反逆児であつた。英邁なる革命家であつた。が其丈けに彼の実生活は、多少の倫理的欠陥から免れる事が出来なかつたのである。誠心誠意を説き、禁慾生活を説き、絶対服従を説く朱子学派に反抗して起つた彼の実生活がどんなであつたかは、今更呶々するを要しないであらう。
 蘐園の高足太宰春台が徂徠を評する語に、「志進取ニ在リ。故ニ其ノ人ヲ採ルヤ才ヲ以テシテ徳ヲ以テセズ。二三ノ門生モ亦其ノ説ヲ習聞シテ徳行ヲ屑シトセズ、唯々文学ヲ是レ講ズ。此ヲ以テ徂徠ノ門二蹉跎ノ士多シ。其ノ才ヲ成スニ及ビテヤ文人タルニ過ギズ」とあるのは、その短所を剔抉して余蘊なきものである。
 徂徠没後の蘐蘐園は二派に分裂した。詩文の方は服部南郭が之を祖述し、経術の方は太宰春台が之を継承して居る。劉龍門は南郭の門に遊び、松崎観海は春台の衣鉢を襲いで居る。
 故に此の二人に師事した南畝は、蘐園学派の長所と短所を併有し、詩酒風流を娯しむ享楽的遊戯的傾向と、経世済民の術を施す実際的慨世的傾向とを兼ね具へて居る訳である。
 彼の生涯を通覧する時、此の相反する二面の世界が、交互に消長し相殺しつゝ、終に一個の円満にして圭角なき人格にまで、押し進められて行く過程を、明らかに看取する事が出来る。
 明和二年十七歳にして、南畝は父の職を襲いで徒士となつた。徒士は毎日柳営に出入して、色々の勤務に服するのであつたが、非番の日には或は賀邸の塾に和歌を学び、或は観海に就いて経学を修め、或は龍門・東江等に從つて詩才を磨き、或は親しき友を会して宴飲吟行を娯しんだ。
 「杏園詩集」の巻頭に掲げられた題壁なる一詩は、此の頃の彼及び彼をめぐる人々の生活及び思想の如何なるものであつたかを示すに充分である。
  生長牛門十八秋 濁酒弾琴拊髀遊 功名富貴浮雲似 笑他文繍羨犠牛
  人生上寿満従百 三万六千日悠々 満堂悉是同懐子 無酒須典我貂裘
  濁酒一杯琴一曲 一杯一曲忘我憂 時人若問行楽意 万年江漢向東流
 人生の須臾を嘆じ、名利に汲々たる輩を憐み、煩瑣なる社会生活を嫌忌し、大白の満を引いて絃声の妙に酔ひ、花鳥を友とし風月に嘯くのを以て、其の本領とした南畝の青春時代の享楽的傾向を見るべきである。
 明和四年丁亥九月九日には、南畝の弱冠に近い頃の狂詩狂文を収録した「寐惚先生文集」が、風来山人の序を得て刊行された。之は彼の処女出版であつて、其の江戸滑稽文学界への華々しい首途を意味するものである。
 平秩東作は「莘野茗談」に於て次の様に述べて居る。『寐惚先生文集と言へる狂詩集は、友人南畝が十七計りの時余が許へ来りて、此の頃慰に狂詩を作りたりとて二十首程携へ来りしを、申椒堂に見せければ達て懇望しける故、序跋文章などを書き足して贈りけるに、殊の外人の意に叶ひて、追々同案の狂詩出でたり』と。
 東作の序跋は何故か刊本には収載されて居ない。風来山人の寐惚先生初稿序には、「友人寐惚子、余ニ其初稿ニ序セン事ヲ請フ。余之ヲ読ムニ、詩或ハ文若干首。辞藻妙絶。外ニハ無イゾ哉。先生則チ寐惚ケタリト雖モ。臍ヲ探ツテ能ク世上ノ穴ヲ知レリ。彼ノ学者ノ学者臭キ者ト相去ルヤ遠シ矣。嗚呼寐惚子ヨ。始メテ与ニ戯家ト言フ可キノミ。語ニ曰ク。馬鹿孤ナラズ必隣有リ。」と見えて居る。初めて顔を合せて間も無い南畝を呼ぶに、友人云々を以てして居る点から察すれば、其の烱眼既に南畝の人物及び滑稽諧謔の才の凡ならざるを、看破したものと言ふべきである。
 其は兎も角、当時隋一の新人であり、併せて江戸滑稽文学界の耆宿であつた風来山人から、此の一言讃辞を得た南畝は、如何ばかり其の意を強うした事であらう。
 後年彼が京伝の「御存商売物」を推賞して、総軸巻上々吉の栄誉を与へた事が、京伝を刺戟して、終に浮世絵師としてよりも、寧ろ草双紙の作家として立たしむるに至つたのと同様に、南畝は風来山人並びに東作等の助言、及び戯文戯作を歓迎する社会の好尚に乗じて、其の伸ぶるに由無き学問才能をば、専ら此の方面に傾注するに至つたのである。
 「寐惚先生文集」中の水掛論は、風来山人をして感嘆措く能はざらしめたものであるとは、南畝自身の語る所である。
 元来彼の学問に対する態度は、極めて自由にして、博大であつた丈けに、かの朱子学派との間に於ける論争に対する非難攻撃は、明快なる批判と辛辣なる皮肉の連続であつて、まことに面白く読まれるのである。
 「夫レ儒ノ朱子学者タル者ハ、面ハ獅噛火鉢ノ如ク、体ハ金甲ノ如シ。縛ルニ三綱五常ノ縄ヲ以テシ、誉ムルニ格物致知ノ糟ヲ以テス。奥ノ手ノ許ハ、結糞ヲ便シテ生ケル聖人ト成ル也。徂徠派タル者ハ、髻は金魚ノ如ク、体ハ棒鱈ノ如シ。陽春白雪ヲ以テ鼻歌ト為シ、酒樽妓女ヲ以テ会読ニ交フ。足下ト呼ベバ不侫ト答ヘ、其ノ果ハ文集ヲ出シテ享保先生ニ比肩セント欲スル也。――故ニ曰ク。相互ニ気ヲ張リ以テ職敵ト為スハ、則チ人ノ味噌ヲ糞トシ、我ノ糞ヲ味噌ト為ルガ如シ。糞ニ瀉糞粘糞アリ、味噌ニ赤味噌白味噌アリ。斉シク是レ糞ト味噌トニシテ種類ノ分ナリ。糞味噌一ニシテ始メテ我糞ノ臭キヲ知ル。是ヲ之レ水掛論ト曰フ」
 徂徠は嘗て群儒の党同伐異の悪弊を痛嘆し、学閥打破、門戸開放、自由討究の旗幟を押し立てゝ、天下に呼号した事があつたが、学風の統一と言ふ彼の理想は終に実現されなかつた。のみならず彼は其の復古学を以て一層学界を混乱せしめ、各派の対立抗争を愈々旺ならしめたのである。南畝は其の失敗を充分に識つて居た。そして学者相軋り相鬩ぐの愚と不利とを夙に感得して、清濁併せ呑む純学者的態度を失はなかつた。
 けれども惜むらくは彼には徂徠の意気と熱とが無かつた。自家の所信を真つ向に振り翳して、堂々正面から積極的に、世の迷蒙を開明するには、余りに弱い南畝であつた。彼は其の鋭鋒を包むに戯女戯作を以てし、消極的な諷刺によつて世人の暗愚を嘲笑するに止つて居る。

 南畝が狂歌師の群に投ずるに至つた頃の様子を覗ふに足るものに「奴凧」中の一文があるが、橘洲の「弄花集」の序を見れば、尚一層其の間の消息を明らかにする事が出来る。『其の頃(明和初年)は友とする人僅に二三人にて、月に花に余の許に集ひて逆莫の友とし侍りしに、四方赤良(南畝の狂名)は余が詩友にてありしが、「来りて凡そ狂詠は時の興によりて詠むなるを、事がましく集を為して詠む痴れ者こそ烏許なれ。我もいざ痴れ者の仲聞入せん」とて、太根大木てふ者を伴ひ来り、大木亦木網・智慧内子を誘ひ来れば、平秩東作・浜辺黒人など類を以て集まるに、二年許りを経て朱楽菅江また入り来る。是れ亦賀邸先生の門にして和歌は余が兄なり。和歌の力もて狂詠自ら秀でたり。彼の人々よりより余が許或は木網が庵に集ひて、狂詠漸く起らんとす。赤良固より高名の俊傑にして、其の徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、余もゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗挙せしより、真顔・飯盛・金埓・光の徒相亜いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、――かく世に拡ごれるは、実に赤良・菅江の勲にして、余は只陳渉が旗挙のみなり』此の一文は簡単な天明狂歌史とも言ふべきであるが、文中南畝が、「?詠は時の興によりて云々」と狂歌会を否定し乍ら、其の言葉の下から直ちに、「いざ我も痴れ者の仲間入せん」などゝ之を肯定した様な事を平気で言つて居るのは、まことに了解に苦しむ所である。其はさて置き一体何が故に南畝は、漢詩和歌よりも寧ろ狂歌により多く傾いたのであらうか。彼自身をして言はしむれば、春日詠寄七福神祝夷歌序に、「やつがれいはたけたる頃より、文の園に遊び、詞の林に立ち交り、唐詩の筵に七あゆみの韻をふみ、敷島の道に六種の一をわいため、身を立て道を行ひ、名を此の世に聞え上げんと思ひしも、陽春白雪の高き調は唱ふる者少く、下里巴人の下がかりは誘ふ者多しとか言へる言の葉に違はず、何時しか博士だちたる交らひを出でゝ、只管戯れたる方に身をはふらかしぬ」とあつて、最初周囲の誘惑が其の主な動機であつたらしく、南畝はいつも薄志弱行の為に、識りつゝ軽跳浮薄な方面へ身を堕して行つたのである。
 彼の師内山賀邸が狂歌を弄んだ事は前述の通である。其の感化を受けた橘洲が先づ天明狂歌の烽火を揚げ、多少戯謔の癖ある社中の才子は忽ち其の麾下に馳せ参じ、相率ゐて斯道の興隆に力を尽したのであるが、彼等は狂歌興隆の手段として頻りに狂歌会を興行した。度々の会合に出席して詠を外部から強ひられるといふ事は、常人に在つては大いなる苦痛でなければならぬ。然るに南畝に在つては其が少しも苦痛では無かつた。彼には物に触れ事に当つて湧き起る泉の如き機智頓才があつた。故に転々会合に臨んでも、多々益々弁じた。言々皆滑稽であり、句々悉く諧謔であつた。口を衝いて出る秀逸佳作は、出る毎に人の称讃を博し、狂歌に於ける四方赤良の名は、頑童走卒も之を知らぬ者がないと言ふ程になつて来た。
 南畝は内心甚だ得意であつたに違ない。得意であればこそ、
  詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百善
 と揚言する事が出来たのである。
 賀邸は狂詠を娯しんだが、其に終始し其に没頭したのではなかつた。只文人の余技として、折々之を口にしたに過ぎなかつたのである。
 「金曽木」を見れば南畝が、狂女浮楽経自堕落品を作つて賀邸に見せ、大いに叱られた旨の一節がある。惟ふに賀邸は其の門生の間に、段々不真面目な思想が胚胎し、楽天的遊戯的傾向が浸潤せんとするのを見て、私に非常な不安と責任を感じたのであらう。其で偶々南畝の一作を閲したのを機会に、一場の訓誡を垂れたのである。
 また南畝自身にしても、一方には峻厳霜の如き観海先生の教もあり、他方には慷慨激越、相共に斯文の為に尽さんと誓つた旧友の手前もあり、旁々頽廃的な駄々的な方向にのみ進み勝ちな自己を、叱咜もし、激励もしたのであるが、何時も無意識にもとの遊戯的生活へかへる可く余儀なくされた。彼の旧友の一人大森見昌は。南畝と別れて久しく音信を絶つて居たが、偶々一書を寄せて南畝の学業が著しく進んだであらう事を喜んだ。
 南畝は之に答へて、「今書来リテ僕ノ学業大イニ進ムト言フモノ過賞殊ニ甚シ。徒ラニ愧赧ヲ増スノミ。僕進ンデ栄ヲ明時ニ取ツテ、以テ父母ヲ顕ハス事能ハズ。退イテ道ヲ陋巷ニ楽シミ、以テ天命ヲ待ツ事能ハズ。疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類ス──」と告白して居る。之によつて此を観れば、彼が滑稽文学に赴いたのは、時に志を得ざるよりの煩悶焦燥を忘れんが為であつたとも見受けられる。
 けれども昔日の親友の言に聴いて、疎然として不甲斐ない自己の姿を見出した彼の悔悟の真情は、実に言外に溢れて居ると言ふ可きである。
 此処に於て彼は発奮努力、以て新局面を展開すべく勇往邁進ずべきであつたが、而も行く手には幾多の障碍が、巍々として聳え、累々として横はつて居た。其に対して南畝の意志は余りに弱く、其の感奮は余りに果敢なく、其の努力は余りに短かつた。さて累々たる前途の障碍とは何であるか。其は言ふ迄もなく不合理な学制と不公平な階級制とである。

 抑々林大学守は曩祖道春以来、代々程朱性理の学を奉じて天下の文権を一手に把握し、其の学派の出身者、若しくは他の学派に属するも陽に朱子学を奉ずる者に非る限り、断じて要路に立つ機会を与へないと言ふ風であつた。即ち幕府に仕へて栄達せん事を希ふ者は、どうしても朱子学を奉じなければならなかつた。
 然るに南畝の学は御用学派たる朱子学とは、犬猿も只ならざる復古学である。而も自己を佯つて表面丈け朱子学を奉ずるなど言ふ事は、到底彼の忍ぶ能はざる所であつた。且つ生れつき清廉潔白で、権門に阿諛してどうと言ふ様な事は微塵も無かつたので、旁々立身出世は覚束なかつた。其の上に身分はと言へば、御目見以下の御家人である。祖先累代連綿として御奉公を励む御徒士である。
  両国の橋くれ武士の年礼に槍一本の数に入らばや
 と言つた所で、何うにも仕様がなく、御徒士は何処迄も御徒士で、到底侍にはなれなかつたのである。即ち如何に青雲の志があつたとて、如何に功名心が熾であつたとて、実力を以て栄達を願ひ得る世でもなければ身でも無かつた。封建社会の常として、上下の階級が厳重を極め、要路の高官は然るべき家からのみ選ばれ、然る可からざる家に生れた人材に対しては、固く固く登龍門が閉されて居た。
 けれども絶対に閉されて居たのではない。人知れず折々開かれる通用門は別に存在して居たのである。此の通用門を開く鍵は何か。其は賄賂の行使である。南畝は其を知らなかつたのではない。知つて居ても七十俵五人扶持では、珍品の出所が無いのである。譬へ珍品が有つたとて、己を欺き人に阿り、七重の膝を八重に折ると言ふ様な事は、彼の断じて為すに忍びない所である。斯くて彼は伸ばすに由なき才能を滑稽文学の方面へぶちまけるのである。
 「寐惚先生文集」に出て居る貧鈍行に
 為貧為鈍奈世何 食也不食吾口過 君不聞地獄沙汰金次第 于挊追付貧乏多
 とあるのをば、全くの言葉の遊戯と一笑に付して了ふのは何うであらうか。成る程表現の方法は不真面目である。けれども私は其処に時世に対する彼の不平を見、不満を見更に進んで為政者に対する辛辣なる諷刺を見ようとする者である。
 同じく貧々堂記に、「此堂穢ク、牛ノ廐ノ若シ。而モ中ニ千里一走ノ名馬アリ。故ニ以テ貧々堂ト名ク――焉」とあるが、此の千里一走の名馬とは即ち南畝自身である。其の名馬が其を相する伯楽に逢はないで、汚い廐舎に閉ぢ込められ、驥足を伸し得ない有様を、優れたる才能を有し乍ら、轗軻不遇の境に悶々の日を送る自己に譬へたものである。此の如く時世は已に彼にとつて非であつた。不合理な学制と、不公平な階級制度が全く彼の前途を遮つて了つた。故に彼にして若し革命的情熱と、英雄的意気があるならば、彼は須く此の人為的障碍に向つて猛烈なる爆撃を試みる可きであつた。けれども南畝は革命家ではない。英雄ではない。彼は古賀精里の所謂軽俊の才子であつた。飛んで灯に入る夏の虫を愚と笑ふ秋の鈴虫であつた。爆撃する事の代りにはヒラリと身を躱して此の障碍を見事に飛越した。と言つても哲学によつて解悶したのでもなければ、宗教に救を求めたのでもない。将た芸術に逃避したのでもなければ、学問に徹底したのでもない。只虐げられたるものゝ果敢ない諦めと、伝統的遺伝的従順さとから、然う言ふ対社会的戦闘意志反階級的不満感情を、否定し抑圧し忘却しようとしたに過ぎない。春日亀楼詠初芝?狂歌序を見れば、此の間の消息は自ら明らかと成るであらう。
 「大塊我に問うて曰く。汝が口節あらず只酒を嗜む。汝が舌法あらず只無駄を吐く。酒は量無くして常に乱酔に及び、無駄は務を廃して自暴自棄に近し。汝を天地の無駄者と言ふ。如何に如何に。四方山人酒杯を挙げ、青天を望んで曰く。吾寧ろ欣々として大通の如くならんや。寧ろ黒鴨を連れて五侯の門に入らんや。将た白眼にして世上を見下さんや。寧ろ深き山に小路隠をせんや。将た水草よき所に岡鈞をせんや。寧ろ茶に蹂り上らんや。将た香に鼻ひこつかせんや。寧ろ碁将棊に暇を潰さんや。将た十露盤を枕とせんや。寧ろ糸竹を友とせんや。将た書画を愛せんや。寧ろ雲と蛍とを集めて万巻の書を読み破らんや。将た詩と文とを作りて千秋の業に誇らんや。寧ろ高天原に神いぢりをし拍手の音を聞し召せと申さんや。寧ろ老荘の徒たらんや。将た医トの道に隠れんや。富貴天に在り。窮達命あり耳朶を探るのみ。大塊我を笑ふ事勿れ」。凡てが運命である。一切が宿命によつて不可変的に規定されて居る。人間の力の及ぶ所ではない。自分が現在の境遇に不満を感じて居る事其自身が既に天の指令である。どうにも仕様がない。只自然の成行に任せて生きよう。其が最も賢い。其が最も安全である。彼はさう考へたらしい。其?で彼は詠じた。 いざさらば円めし雪と身を成して浮き世の中を転げあるかん
 斯くて南畝は、若い血潮の漲るまゝに、駄々的な享楽的な茶気満な生活を続けつゝ、其の天賦の妙才に任せて、江戸滑稽文学界の驍将として、大いなる活躍振を見せるのである。明和四年に「寐惚先生初稿」が公にされてから、天明八年に「俗耳鼓吹」が出る迄、凡そ二十年の間は、実に江戸軟文学界に於ける南畝の黄金時代とも言ふ可き時期であつた。狂詩と狂歌は自他共に許して斯道の第一人者なりとし、狂文は愈々円熟の境に入つて滑稽洒脱の妙を尽し、洒落本も亦一作毎に世の視聴を集めた。殊に草双紙に対する批評に至つては、彼の片言隻語が直ちに文壇の指南車となり、照闇燈となつたのである。
 此の様に明和・安永・天明頃の南畝の文学的活動は、まことに眼覚ましいものがあつた。が吾々は其の華々しい活躍の背後には、必ず其を生み出し、其を特色づける生活のあつた事を閑却してはならない。凡ゆる作品が何等かの形に於て、作家の実生活の反映であり、直接経験の返照である事を想へば、其の作品から帰納的に其の人の実生活を復原する事が可能である。
 既に其の実生活を推定し、更に進んで其の実生活を根拠づける人世観や処世観に迄及ぶ事が出来たならば、其処に於て踵をめぐらし、今度は演繹的に再び其の個々の作品に臨む可きである。其の時にこそ初めて個々の作品が生きて来るのである。此の意味に於て私は、飲酒と狂歌に耽溺し、青楼と戯場に出入して、徹底的に与太振を発揮した彼の享楽生活を、其の作品を通じて眺めようと思ふ。
 「酒は百薬の長」と言ひ、「憂の玉箒」と言ひ、「酒無クバ須ク我ガ貂裘ヲ典ルベシ」と言ひ、「富は酒屋を潤し、徳利は身を潤す。心広く体よろよろと、足元の定まらぬこそ上戸はよけれ」と言ひ、「白銀の台に黄金の酒杯の――」と、水仙の花を見てさへも、直ぐ酒を思ひ出さねばならなかつた程、彼は酒好きであつた。酒がなくては一日も生きて居られない人であつた。
 前掲の明和丙戌題壁や、同戊子五律中の「未遂三冬業、徒逢弱冠春、牀頭有樽酒、随意賞良辰」なる句によれば、南畝は弱年の頃から既に酒に親しんで居たのである。「杏園詩集」を繙けば、到る処に酒に関する吟詠を拾ふ事が出来る。蘐園の享楽思想の為に、或は階級的社会的不満感情を忘れんが為に、彼は若い時から酒を飲んだのであらう。
 独り南畝に限らず、彼が交会した漢詩家流・狂歌者流の多くは、皆酒豪を以て誇る者であり、吟行会詠の際には必ず酒が用意されて居た。
 「四方のあか」に収められたから誓文によれば、痛飲斗酒を傾けると言つた様な御連中の宴集の凄しさが充分に覗はれる。が只ガブガブと飲んで計り居ても曲がない。飲むからには愉快に気持よく飲むに越した事はない。そこで七拳式酒令などと、勿体振つた法式を作つて見たりした。之は例の竹林の七賢に倣つて、酒は飲むとも酒に飲まれず、何処迄も平静に上品に、一糸も紊れないで、陶酔の無我境を楽まうとする快楽主義的な意図から発案されたものに違ひない。
 「四方の留糟」の此君盃の記を見ると、「たとひ時うつりうまごと去り,楽しみ悲しみ行き交ふとも、天さへ酔へる花の朝、頭もふらつく月の夕、雨の降る日も雪の夜も、日々酔ふて泥の如く、一年三百六十日、一日も此君無かる可けんや」と、アルコホル中毒に罹つた様な事を言つて居る。さうかと思ふと、グツとメートルをあげて、「君が為沽取ス十千ノ酒。一飲須ク数斗ヲ傾クベシ、已ニ玉杯ノ手ニ入リ来ルニ当ツテハ。胸中復磊塊有リヤ否ヤ、世人汲々タリ名利ノ間。歓楽未ダ極ラズシテ骨先ヅ朽ツ。千金ノ子万戸ノ侯。我ニ於テハ蜉蝣ノ如シ」と豪語する事もあつた。
 或る時は家居独酙酙を楽しんで、「独酙青天ヲ望ム。青天何ノ知ル所ゾ。只憐ム独酒ノ杯。
 浮雲ノ色ヲ帯ビザルヲ」と、虚無的な懐疑的な口吻を洩らし、或る時は戯謔して、「此ノ辺ノ居酒屋。処々借銭多シ。語ヲ寄ス番頭殿。我ニ許セ一本ノ波ヲ」と言ひ、更に「雀殿お宿はどこか知らねどもチヨツチヨと御座れさゝの相手に」などと洒落のめして、到る処に呑助を表明して居る。
 老後銅座役人として大阪及び長崎に出張して居た頃にも、常に酒杯を離さなかつたのを見れば、余程好きであつたと思はれる。

 狂文集「四方のあか」「四方の留糟」及び「巴人集」等によれば、如何に屡々狂歌の会合が催されたかを知る事が出来る。冬日逍遥亭詠夷歌序には、「戯れ歌は人の笑の種を蒔きて、万の口まめとはなりけらし。あるは浮世をまゝの土器町、砕けて元ノ木網が落栗庵。あるは本町二丁目の糸屋にあらぬ腹唐ノ秋人がよき砧庵など、月次の会たえずぞあんなりける」とある。即ち毎月定例に狂歌会を催す者及び其の道の好き者であつて、一身の名誉の為に、斯界一流の名士を招いて、盛大な雅宴を張る者などがあつたので、南畝・橘洲・菅江の輩は随分忙しかつたらしい。「巴人集」をだけ見ても、小伝馬町宿屋ノ飯盛ノ会・酒ノ上ノ不埓ノ日暮里ノ会・馬喰町ノ菱屋ノ会・雲楽斎ノ四谷別荘ノ会・牛天神下ノ山道高彦ノ会・坂上ノ竹藪ノ会・子ノ子ノ孫彦ノ会などを挙げる事が出来る。
 亀楼狂歌会序を見れば、其の繁昌の有様は大したものであつた。而も南畝は第一流の判者として、此等の会合には無くて叶はぬ人であつたので、真実東奔西走して、席の温まる暇も無い程であつた。お徒士として御奉公に出るひまびまに処々の会合に転々列席して居たのであるから、其の生活はかなり放埓な空虚な不真面目なものであつたに違ひない。

 「二大家風雅」の中の狂詩に、復銅脈先生の一篇がある。
  暮春十日書 卯月五日届 委細拝見所 益々御風流 此方無別条 馬鹿白相求 八百八町会 四里四方遊 朝窺堺町幕 夕上吉原楼 恨不得先生 作無礼講頭此は根も葉もない言葉の遊戯と見るよりは、寧ろ当時の南畝自身の生活を、有りの儘に表白したものと見る可きであらう。
 春色花鳥媒に、正月早々流連の長閑さを述べて、「二人禿の門松の、繁きみ影の中の町、嘉例の酒の二日酔、三日の今日も流連の、糸遊なびく櫺子窓──」などと言ひ、或は青楼四季歌の春には、
  「玉くしげ箱提灯の二人連花の中ゆく花の全盛」
 と艶に時めく太夫の姿に見惚れ、同じく冬の歌には、
  「やうやうと来てもぐり込む冷たさは君が心と鼻と雨脚」
 と言ふ様に、随分穿つた皮肉に敵娼を困らせたりする。或は鳥文斎栄之の「傾城三福対」に題して、
  「遊君五町廊 苦海十年流 二十七明夢 嗚呼蜃気楼」
 と憂き川竹の勤の身に深く同情して居る。
 そんな事から推しても、当時の南畝が如何に遊里の事情に精通して居たかが分ると思ふ。実際天明三四年、南畝三十五六歳頃の狂歌を、巴人集に就いて見ると、彼が屡々家を明けて青楼の人となつた事実に遭遇するのである。例へば、
 「睦月七日、五明楼に遊びて人々歌詠みけるに、八日は子の日なれば今日も泊り給へかしと、主人聞えければ詠める。
  昨日からよそにねの日の松なれば今日はひとまづうちへ引かまし」
 天明四年甲辰の吉原歳旦の詠に
  「千金の春の廓の初買は五丁まちまちひらく惣花」
   「三輪の里に朝顔を見て
  たつた今別れてきたの里ちかく眼にちらつける朝顔の花」
 北の里とは吉原を言ふのである。
 思ふに天明のはじめから三四年にかけては、南畝の狂名は其の極に達して居た時である。そして吉原名代の妓楼である扇屋や大文字屋の亭主は、皆彼の門人となつた。そんな関係からして、彼は自由に之等の家に出入して、所謂狭斜情調を心ゆくまで味はふ事が出来たのである。十八大通の一人なる大和屋文魚に従つて、日夜遊里に入り浸り乍ら、経済的な破綻を見せなかつた京伝の生活とよく似て居る。
 天明六年七月十五日には、新吉原江戸町、松葉屋の抱女三穂崎が、蛾眉を落してお賤と改名し、南畝の妾として牛込の家に引き取られた。
 其に就いては、「松楼私語」巻末の狂詩に、「一擲千金贖身時」なる一句があるが、南畝としては実際千金は愚か百金すらも覚束ない。だから年季明けを幸に取つたか、でなければ京伝の妻玉の井ことお白合(ママ)の様に、楼主の好意によつて然うなつたか孰れかであらう。

 南畝が頻々と戯場に出入したのも、俳優の間に多く知己を持つて居たからである。市川海老蔵こと五代目団十郎は、狂名を花ノ道つらねと言つたが、南畝は特に此の人と親しかつた。海老蔵が其の名を一子徳蔵に譲つて、五代目団十郎を立てる事とし、其の名広めの顔見世(天明二年壬寅)に親子揃つて舞台に立つたが、其の時新海老蔵が年に似合はぬ素晴しい荒事を見せた。それで市川贔屓の南畝等は有頂天になつて喜んだ。其の喜の徴として、趣向を凝らした狂歌狂文集「江戸の花海老」を連中の手から贈る事にした。其の請取が「巴人集」に出て居る。
 「海老蔵方へ狂歌被遣、慥に受取申候。例の御連中様面白き御事に御座候。折節顔見世取込。早々以上。
   十月廿六日    成田屋七左衛門
 四方御連中様」
 と言ふのが其である。
 此の他瀬川菊之亟をば籬ノき瀬綿、芳沢あやめをば菖蒲ノ真久良、中村仲蔵をば垣根ノ外成、松本幸四郎をば高麗屋洒落人、市村家橘をば橘太夫元家と、それぞれ狂名をつけて遣つたのは皆南畝であつた。当代一流の名優は凡て狂歌に就いては南畝の弟子であつたのである。

 以上私は南畝壮年の家庭外の生活を、酒と狂歌と遊里と芝居の四方面から観察したのであるが、更に之を裏書するものは「千紅万紫」中の酒色財なる一文である。之によつて私は、彼が人生に対する現実的な態度、及び生活に対する駄々的な頽廃的な態度を、一層明瞭に理解する事が出来ると思ふ。
 「凡て劇場青楼の楽しみは、老少となく雅俗となく、此の上やある可き。また儀狄とやらんか初めて造れる狂水と言ふ物こそおかしき物なれ。されどこの酒色の二つも、財と言ふもの無くては、其の楽しみを得難し。民生は勤むるにあり。挊挊ぐに追つく貧乏撫しと、左伝に載せしも、此処ら辺なるべし願はくは金の番人守銭奴とならで、酒色の二つも程よく楽しまば、五十年も百年にむかひ、百年も千代万づ代の心地なるべし。
  千早振る神代の昔おもしろい事をはじめしわざをぎの道
  全盛の君あればこそ此の廓の花も吉原月もよし原
  世の中はいつも月夜に米の飯さてまた申し金の欲しさよ」
 と言ふが其である。働いて金を儲けよ。金が出来れば酒も呑め女郎も買へ芝居も見よ。金と心中する様では金を儲けた所詮がない。男と生れた甲斐がない。
  「世の中は色と酒とが敵なりどうぞ敵にめぐりあひ度い」
 中年時代の南畝はさう考へて居たのである。少年時代の敬虔にして熱烈なる思想は、今や全く其の影をひそめて了つた。
 宇宙や人生に対する根本的な疑ひ、神を求め自然に憧れる気高い心、愛と詩に捧げられた燃ゆる情熱、理想に向つて邁進する強い意志、良き戦を善く戦はんとする雄渾な気力――すべて然う言ふ脈の太い、生命の律動がありありと感得される様な態度は、微塵もないと言つていゝ。
 其は彼の生得的傾向が自然さう言ふ方面へ、向はなかつた結果である。
 と言ふのは、元来南畝は与へられたる世界に満足して居る人であつた。たとへ充分満足して居なくても強ひて満足して居ようと力めた人であつた。而も彼は与へられたる世界に在つては、能う限り多くを希求し、能う限り多くを享楽しようとした人であつた。此の点に於て彼は功利主義者であり、快楽主義者である。
 彼はいつも自我と外界とを、巧に同調し妥協せしめつゝ、一日も長く偸安の生を持続しようとした人であつた。此の点に於て彼は、卑怯なるされど賢き平和主義者であり、瓦全主義者であつた。
 自己並びに外界に向つて、絶えず厳正なる批判を下し、其の誤謬を指摘し、其の邪曲を糺弾し同時に真理と正義の何ものたるかを鮮明すると言ふ様な進取的な戦闘的な人では更々なかつたのである。之は独り南畝に限つた事ではなしに、当代一般の風潮、特に江戸市民の其が、其の通り無気力であり没理想であつたのである。明治維新はまだまだ先の事である。
 被支配階級として、胸中多少の磊塊はあつても、彼等は強ひて其を忘れようとした。そして「今や四の海波静にして沖釣の鯛かゝらぬ日なく、十日の雨風障なくして、一升の土くれ金一升の富に潤へり。
 されば猛き親分も太平楽を並べ、怪しの百姓も万歳を唱へて、誠に目出度う候ひけるとは、今此の時をや申すべき」と言ひ、或は「目出度めでたの若松さまよ、御代も栄えて葉も繁る」と唄ひつゝ、只管現実を肯定してかゝらうとするのである。肯定する所か、進んで其を讃美し、謳歌しようとするのである。
 けれども南畝は単なる凡人ではない。少くとも彼は非凡なる凡人である。何となれば単なる凡人であるならば、学者社会の迷蒙や、社会制度の不合理に気附く筈は無いのであるが、南畝は其を明確に意識して居たからである。明確に意識して居乍ら、其の誤謬を匡正し、其の不合理と善戦する丈の勇気を持たなかつたのである。凡ゆる困難を排除しつゝ、人生を直進する革命家の情熱を持たなかつたのである。だが其れだけに、私は彼に充分落着いた足取を見る事が出来る。彼は何ものにも驚かない何ものにも激しない。いつも自分を失はないで、綽々たる余裕を示して居る。何ものにも熱中する事なく何ものにも徹底する事なく、両極端の分水嶺を巧に歩んで行く、其は随分危険な道でなければならない。けれども彼は臨機に煥発する機知頓才を以て、見事に此の難路を通過する。之が南畝を目して非凡なる凡人となす所以のものである。

 「四方留糟」に見えた壁書に、一屁を放らば尻をすぼめよ。毒を食ふとも皿を舐る事勿れ。一寸先を闇と思はば、天道人を殺すべし」と言ふのがある。南畝の処世哲学である事は言ふ迄もない。

 以上私は南畝中年の家庭外の生活に就いて述べた。今度は家庭内の其に就いて少しく書いて見よう。彼が結婚したのは明和八年辛卯、二十三歳の時であつた。花嫁は富原福寿と言ふ人の娘で、名はリヨと言つた。芳紀十七と報ぜられて居る。爾来一男二女を儲けた。長女は夭折した。「杏園詩集」安永二年の作に、悼女児なる七絶がある。二女は恙なく成人して、西丸御徒士佐々木某へかたづいた。嫡男の定吉は安永九年生れである。
 南畝に二人の姉があつた。一人は野村新平なる人に嫁し、一人は吉見佐吉なる人に嫁した。佐吉の一子儀助は、狂名を紀定丸と言つて、狂歌黄表紙などに其の文才を示して居る。南畝の弟金次郎は、後に御家人島崎幸蔵の養子となるのである。
 天明二年、彼が三十四歳の頃の家庭生活を覗ふに足るものに、「四方のあか」に収められた夏草なる一文がある。七十俵五人扶持の御徒士の生活苦がまざ/\と描き出されて居る。狭くてむさい五月雨の家に、ヤヤコシイ日を送つて居た彼、「此の頃は世をすね草の倦みはてゝ」、公わたくしの事も大流しに流」して、ゴロゴロして居た彼、「無駄は勤を廃して自暴自棄に近し」と言つた彼――彼はやはり時世に対して不平を抱いて居たのである。其の不平を忘れんが為、其の鬱悶を晴さんが為に、「疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類」したのであつた。家に居つても面白くない。気が詰まるばかりだ。それで「八百八町ノ会」に臨み、「四里四方」の行楽を事とし、「朝ニ堺町ノ幕ヲ窺ヒ、夕ニ吉原ノ楼ニ」上つたのであつた。即ち本来楽天的な性格に、蘐園の感化が加はり、社会に対する不満が添ひ、更に周囲の誘惑が及んで、前述の享楽生活が始まつたのである
 故に此の頃の南畝は、家庭の人としては、まことに冷たい人であつたらうと察せられる。けれども然うした生活は、決して彼の性格の全てではない。彼の性格中の然うした分子を、外的条件が刺戟し作用して、膨脹せしめ拡大せしめたに過ぎないのである。而も膨脹せしめられたものは、やがて収縮しなければならない。拡大せしめられたものは、やがて復原されなければならない。南畝はいつか本然の姿に還らねばならない。胸に秘めた観海先生の言葉を思ひ出さねばならない。之は「毒を食ふても皿まで砥」めない彼としては、当然すぎる程当然である。

 明和・安永・天明の政局に立つて、権を專らにした者は田沼意次である。
 意次は凄い腕を持つた実際的な政治家で、其の放胆な積極政策は非常な成績を挙げたが、一方収賄を事とし、官紀を紊乱し、士風を頽廃せしめた罪も決して浅く無いのである。従つて敵もあれば味方もあつた。が彼の性質として、自己の政策に対する批難の声は、どうしても黙許して置けないのであつた。それで彼は彼に対する中傷讒謗に絶えず耳を澄して居た。そんな時であつたので、南畝が不用意の間に吟んだ一狂詠が、図らざる禍を招く事となつて了つたのである。
 天明六年の初夏の事である。彼は雨の中を番(御徒士が本御番・御供番・加番などの為に出仕すること)に出た。がひどい降で青漆の合羽に雨が染みとほつて、肌寒い位であつた。そこで彼は例の通り洒落て見た。
  「せいしつと言へども知れぬ紙合羽油断のならぬあめがしたかな」
 別に諷刺的な意を寓したのではなかつたが、神経過敏になつて居る意次の耳には、洒落が諷刺と聞えたのである。さあ大変だ。南畝はとうとう常職を解かれて、小普請入を命ぜられた。小普請組とは三千石以下であつて、年少又は虚弱の為に役に就き得ない者及び事情があつて、非役となつた者の凡てが属する団体の謂である。
 時に父は七十一、母は六十三、南畝自身は三十八、嫡子定吉は九歳になつて居た。彼は悉皆困つて了つた。困つた揚句、来し方行く末の事を色々と思ひ案じた。上には年をとつた父母がある。下には愛しい妻子が居る。それに彼は徒らに詩酒風流の徒と交遊し、放浪自恣の日を送つて居た。「三十無為違宿志」と反省した甲斐もなく、四十に近い武士たる身を以て、一戯歌の為に父祖累代の職を失つて了つたのである。此処に於て彼は大いに前非を悔いた。そして健全にして充実せる新生を欲する様になつた。其の結果当分戯歌戯文に筆を断たうと決心した。
 「物之本江戸作者部類」に、「天明七八年以来、憚る所ありて戯作をせずなりぬ」と言ひ、また其の頃の蔦重版の「吉原細見」の中にも、「四方山人は青雲の志を旨とせし故に、狂歌をすら止めたれば、細見に序を作らずなりぬ」と言ふ記事がある。ところが黒川春村の「壼すみれ」によると、寛政元年の蜀山翁月並会の題摺が其の手許に在つた様であるから確定は出来ないが、大体此の事件以来暫らく狂文学と関係を断つたのは事実である。関係を断つて真面目に勉強したのである。
 さて幕府に於いては、天明七年三月、家斉に将軍宣下があり、六月には、白河城主松平定信が、天下の輿望を担つて老中となり、大いに田沼一派の弊政を改める所があつた。旗本御家人の腐敗と窮乏とは、明和安永以来、特に甚しかつたので、彼等を如何に救済す可きかに就いての定信の苦心は、実に並大抵ではなかつた。
 彼は先づ経済と教養、物質と精神の二方面から,大々的の革新を断行する事にした。「宝暦現来集」の巻十七に、次の様なお触れが出て居る。「此度御蔵米取御旗本御家人勝手向為御救、蔵宿借金仕方御改正被仰出候」事と書き出して、六年前の借財は凡て無効とし、返済するの要なく、其の他は利子を下げて、年賦で償還す可しと言つて居る。札差仲間の怨嗟に引きかへて、旗本御家人等の喜悦、想ひやる可きである。「家宿債多ク俸銭已ニ業ニ子銭家ノ有」となつた南畝も、斉しく此の恩典に浴したのであらう。
 斯うして経済上の窮困を、緩和してやると共に、定信は大いに、彼等の無学と放埓と優柔とを、誡めたのである。即ち次いで出た御達しは、よく礼節を弁へ、一意専心、文武両道を励む可き趣を伝へて居る。だが余りに文武々々と言つて何事も窮屈に成つたので中には此の改革を、喜ばない者があつた。
  曲りても杓子は物をすくふなりすぐな様でもつぶすすりこ木
 などは反つて田沼時代を、追慕するものであり、
  孫の手の痒いところへとゞきすぎ足の裏までかきさがすなり
 などは定信の改革の有難迷惑なる事を、仄めかすものである。「天下一面鏡梅鉢」だとか、「文武二道万石通」など言ふ黄表紙が出たのも、此の頃の事である。「甲子夜話」を見ると、「太田直次郎と言へる御徒士の吟みける歌」として、
  世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶというて夜も寝られず
 と言ふ落首が出て居るが、南畝自身は其の著「一話一言」の中に於て、「是れ太田の戯歌に非偽作なり。太田の戯歌に時を誹りたるものは無し」と明言して居る。其もその筈である。時は正に南畝の謹慎中であり、狂詠はすつかり止めて居たのだから、南畝がそんな事を言ふ道理がない。殊に彼は此の名宰相の善政に隋喜し、今や四十年の非を改めて、新しい生涯に入らんとする念に燃えて居たのだから、旁々「甲子夜話」の説は附会である。寛政元年の夏には、「小普請ノ者、修身嗜芸ニ依リ、格式擢用ノ儀」の御達しがあつて、轗軻不遇に泣く人材が、始めて登用される時期が来たのである。今や彼には、新な世界が与へられた。彼は進んで自己をば、其に順応させようとした。
 青年時代の彼は、熱烈なる経斯文の学徒、松崎観海の教を受けて、経世済民を以て其の使命と観じたのであつた。が中途で先生を喪ひ、其からは周囲の誘惑と、其の性格に於ける享楽的傾向の優勢との為に遂に身を狂文学に委ねて、少壮有為の二十星霜を空費したのであつた。
 けれども多年の享楽生活の反動として、彼の性格の他の半面なる努力的傾向が、発顕しなければならなかつた。
 時や佳し、前代に弛緩した綱紀は再び粛正され、経済的に危期に瀕した武人階級は巧に救済され、富の威力を揮つた町人階級は、暫らく抑圧され、寛政改革の方策は、着々として其の緒につきつゝある。かくて政界の更新と、南畝一身の更新とが、うまく一致したのである。彼はこの機会を逃さなかつた。即ち寛政六年の春には、四十六の齢を以て、初々しくも学問吟味に応じて、而も甲科に及第した。其の熱心、其の根気は、全く驚嘆に値する。試験の顛末は「科場草稿」に、精しく出て居る。

 寛政八年には、狂歌堂真顔に、四方の姓を許し、判者の権を譲る事にした。そして自らは、此の年支配勘定を拝命して居る。支配勘定とは、勘定奉行に属する幕府の会計吏員である。勿論端役には違ひない。けれども新しい仕事を求め新しい生活を始めようとする南畝である。彼は其に満足した。彼は其に傾注した。かくて彼は幸福であつた。だが其の幸福は余りに果敢なかつた。と言ふのは彼は其の糟糠の妻を失つたのである。
 四十歳で父を失ひ、四十五歳で妾を亡ひ、四十八歳で母を失ひ、五十歳で四十九年の非を改めて祝福すべき新生に入るに当つて、最もよろしき人生の好伴侶を失つたのである。前半生に於ける南畝程、妻に対してタイラントであつた者はあるまい。そして南畝の妻程、夫に対して奴隷的奉仕に甘んじた者は更にあるまい。南畝が一遊女を妾として、狭い家に妻と同居させた一事が其を証する。そして妻が少しも不平を言はず、嫉妬を抱かず、よく命に服した事が其を証する。南畝は自らよく其を知つて居る。だから彼は熱涙を呑まざるを得なかつたのである。其の嗚咽の名残が詩となつた。そしていたましき妻の碑を飾つた。「万点桃花雨、粛々袖不乾」と言ひ、「自今頭上雪、歳々益毿毿々」と結ばれた美しき悲歌である。
 ところが妻の死後数旬にして、淋しき彼は自らその五十の寿を賀して、
  竹の葉の肴に板の箆たてむ鶴の吸物亀のなべ焼
 と洒落て居る。其につけて思ひ出されるのは、天才画家レムブラントである。彼は美しき妻ザスーキアの柩を、教会の墓地に葬るや否や、直ちにそのアトリエに引き返して、千古不磨の傑作なる自画像を完成した。そして驚いた事には、其の夜から、幼子の乳母なる女を妻とした。
 一切は流れると言ふ宇宙の摂理を信じ、凡てが自然現象であると諦めて、ひたすら芸術に精進したレムブラントの心境は、まことに貴いものであらねばならない。南畝にそんな深い理会と強い意志とが、有つたかどうかは知らない。が妻の死を悼む涙の底から、自らの五十を賀し、進んで新しい仕事を楽しんだ彼の心情は、等しく雄々しいものでなければならない。
 牛込仲御徒士町の家から、毎日欠かさず御役所へ勤めに出た。軽い疲労を覚えて、家路を辿る彼を、喜んで迎へてくれる者は、嫡子定吉を措いて他には無い。
  楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲よく三度くふ飯
 と歌つたのは、其は昔の夢である。父子二人の淋しい生活、女手のない不自由な生活に堪へ兼ねて南畝はやがて、定吉に嫁を迎へる事とした。其は寛政十二年中の事と推せられる。十一年には、銅座役人として、大阪在勤を命ぜられ、旅支度までしたが、急に御取止めとなり、林大学守が編算して居た「孝義録」を、完成すべき仰を被つた。此の間の消息は、「寛政御用留」に精しい。其の頃の南畝は、相愛らずの貧乏であつた。官遊の際には、旅の手当が下り、扶持も培増しになるのを見込んで、大分買物をしたのに、急に中止となつたので、忽ち支払に困つて了つた。それで毎年二両宛、十五箇年賦で返す約束で借りた官金が、たつた三十両と言ふ惨めさである。
 其は兎も角、「孝義録」の編纂が済むと、引き続いて御勘定所の帳簿の整理を、仰せ付けられた。其の苦心の程は、「竹橋蠧簡抄」及び「竹橋余筆」の序文によつて、察す可きである。或る時は余りの単調さに、
  五月雨や日も竹橋の反古調べ今日も降るてふあすも古帳
 と吟んでも見たが、また思ひ直して、真面目に努力を続けた。そして其の努力は、終に報いられる時が来た。即ち此の南畝の抄物は、江戸時代の政治史並びに経済史の研究には、必要欠く可からざる文献となつたのである。だが其の後の事で、此の大事業に対する物質的報酬は、まことに気の毒な程であつた。即ち十二年の冬に、「御勘定所御帳簿御用骨折相勤候為」銀子七枚を、拝領したに過ぎないのである。「孝義録」完成の際は、白銀十枚を下し置かれたのである。だが別に十一年中は、銀一枚宛の月手当、十二年の冬からは、二人扶持を頂戴したので,家族は減る、収入は増えると言ふ結果、大分余裕は出来て来たのであつた。
 かくて寛政十三年には、愈々銅座詰として、大阪に差遣せらるゝ事となり、就いては支度の為に金二十両、其の他数々の拝領物をして、二月の末に初めて、関西への旅の人となるのである。
 旅は人を啓発する。ゲーテはイタリーへの旅行を了へて、著しく古典に関する趣味と知識を豊にし、万葉人は旅によつて、自然に親しみ、人をなつかしみ、愈々其の歌境を純粋にした。芭蕉は旅によつて、自然即神、俳諧即宗教の域にまで達する事が出来た。旅は人格を完成する。
 南畝の旅はほんとうの旅ではない。其でも彼が其の見聞を広め、人と物とに対する愛を深めて、益々其の人格を円満ならしめたのは、前後二回にわたる、大阪ならびに長崎への官遊に、俟つ処が多いのである。
 彼が任地から、江戸の人々に当てゝ書いた数十通の尺牘は、まことによく彼自身を語るものである。其の頃の彼の思想と生活とは、全く其のみによつて遺憾なく知る事が出来る。親しき者への書信に於ては、人は少しも自分を飾る必要を有たない。見たまゝ、聞いたまゝ感じたまゝ、考へたまゝを、其の儘告げる。従つて然う言ふ尺牘には、其の人の不断の姿が表はれて居る。素顔の美しさが表はれて居る。此の故に私は狂歌よりも、狂文よりも、将た何よりも、彼の尺牘を愛する。彼の尺牘は実に温い父の愛の結晶である。其の平明なそして淡白な書き振りにすら、私は彼の個性の色を見る。匂を嗅ぐ。更闌けし灯の下に、しみ/゛\と其に読み耽る時、寛容にして博大なる彼の人格は、何時しか其の触手を伸べて、優しくも私を抱擁する。私は南畝の尺牘を愛する。
 定吉の嫁の妊娠を喜び、安産を祝し、新夫婦の無経験を案じて、育児上の事にまで、細々と気をつけて遣つて居るのが嬉しい。初孫は鎌太郎と名づけられたが、後年長崎から送つた書信中に、次の様なのがある。
 「鎌太郎唐詩を誦し候由、一段の事と存候。一詩を覚候はゞ餅少し宛賞し可被遣候。定めて今は、祖父の事忘居候哉、但は覚居候や、筆硯を弄び候や如何」
 異境の空に、遙かに児孫を憶ふ彼の真情は、誠に掬す可きものがある。「一詩を寛候はゞ」と言ふあたりなどは、可笑しさを通り越して、寧ろ涙ぐましくなる程である。「定めて今は」の条は、此の大阪祇役の後一旦江戸へ帰つて、暫らく可愛いゝ孫と共に暮し、間もなく長崎へ行つて了つたから、さう言つたのである。
 定吉が徒然なる父を慰める可く、近詠の狂歌を書き送つた時に、「我も是故に、流汚名候事故、無益の事と、本歌をば詠覚候が宜敷候。旅行などは、和歌宜敷候」と、誡めて居るのは、注目に値する。
 けれども此の頃、南畝の狂名は、益々旺になり、狂詠を罷めたと言ふものゝ、其が為に反つて隆々たる名声を博したのである。
 「此の地の者、孰れも余が詩歌を渇望致候。只今迄所持致居候物も偽物多く候。此度鑑定致候」とも言つて居る。
  世の中の人には時の狂歌師と呼ばるゝ名こそおかしかりけれ
 南畝自身は、然う言ふ心算でも、人が承知しないのである。即ち、
  また今年扇何千何百本書き散すべき口開きぞも
 と言ふ位の勢である。狂歌に淫する事は無かつたが、昔の思ひ出に、興に乗じて狂詠に筆を染める様に、成つたのであらう。
 宿は南本町五丁目に在つて、二階も有り、土蔵もあつて、かなりゆつたりして居た。銅座の役所は過書町にあり、南本町からは十町余であつた。
 「旅宿は風入第一。広く綺麗にて、屋根の漏候気遣無く、自由に成候はば、其表へ持参致度候」
 と言ふので、江戸の家の惨めさが分ると思ふ。
 「私印判一寸押候へば、穴蔵の畳をあげ、井戸車の如く銀箱を引揚、諷々と渡申候。昨日は三百貫目今日は四百九十八貫目、八千三百両などと申候には驚入候。私印判初ての事と大笑致候。さて/\重き御役と、始めて心附申候。是は大切の事故、外へは御沙汰なし」自分の仕事に、軽い誇と重い責任を感じつゝ、実直に立働らく彼の姿は、懐しさの限である。役所では随分忙しいが、
 「旅宿に帰候へば、門庭闃として無雑賓、烹茗拠梧或抄書或賦詩、仙境に入候」
 と言つた調子で、至つて気楽である。
 風雅な友には、蕪坊といふ狂歌詠み、蘇州と号した医者、天洋と称した詩人、其の他博識を以て有名な兼葭堂などがあつた。
 閑暇には市の内外の名所旧蹟、神社仏閣を巡拝して旅情を慰め、郷愁を忘れて居た様である。

享和二年の初夏、一旦役を了へて江戸へ帰つた南畝は、一年置いて、文化改元五十六歳の秋には再び銅座役人として、長崎へ赴任するのである。長崎には翌二年の十月まで逗留した。往途には蘭奢亭薫が行を共にし、夜毎に南畝の足腰を揉んで、深い親切を示したので、「甚だ実儀なる者にて狂歌師には珍敷候」と賞められて居る。其は扨て置き、此の一年間に特筆す可きは、彼が余財の許す恨り、書籍を購入し、其の奇斠斠なるものは、之を借覧書写せしめた事である。
 「此の方当時、歳暮年忘も何も無之、吏事と奇書のみに消日申候」
 と言ふ位の凝り方である。こんなに書物熱にうかされて、有頂天に成つて居るかと思ふと、急に心細い事を言ひ出したりする。寄る年波は争はれないものだ。
 「好奇の僻も奇物に飽果候。鶯谷の一隠吏として、読書小酙を娯み申度候。山水も奇書画も、最早左のみに存不申候。本膳の後の吸物を見る如く、胸につかへ申候」
 けれども愈々花のお江戸へ、憧れの鶯谷へ帰る暁には、実に夥しい奇書珍籍が蒐められてあつたのである。彼が如何に典籍を愛護秘蔵し、如何に其の散佚を防がんとしたかは、次の尺犢によつて明かで
 ある。
 「近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物一帖。屋代へ善光寺縁喜(三冊板本)。塙検校取次にて、松浦公へ宴曲抄(古の謡の様なもの)一帙(二十巻か十八巻か)貸置候。是は折々御催促、御取返置可然候」
 彼が一生涯抄書して倦まなかつた理由は、「南畝莠言」の序によつて見る可きである。兎に角彼の不断の努力と勤勉とによつて、其の堙滅を免れた書は多い。吾々は大いに其の労に謝す可く、其の功を永久に紀念す可きである。
 長崎滞在中、ロシアの使節レサノツトに、会見する事の顛末は、くどいから省略する。「唐紅毛オロシア人にまで、名を書留られ、絵の如き山水を目のあたり見、書画を沢山得候計が儲物にて、一刻も早く帰府致度候」
 で長崎を引き上げるのである。「小春紀行」は此の時の見聞を記したもので、なか/\面白い。文章も枯れ寂びて、床しさの限である。何でも芭蕉の「奥の細道」を讃む趣がある。

 文化五年から六年へかけては、治水の事に就いて、武相の間を東西に奔走した。「調布日記」を見ると彼が老躯に鞭つて、懸命に職務に尽瘁した悲惨な姿が、まざ/\と眼に浮ぶ。南畝程の学識ある者をば、土方の親分めいた役にしか、就け得なかつた当局者の不見識は呪を通り越して寧ろ笑ひ度くなる。時代の力は怖ろしい。寛政の改革などは蟷螂の斧だ。南畝こそ良い面の皮である。が兎に角彼はベストを尽した。弱いと言へば弱い。だが真剣さは貴い。
 其の頃末の孫女が、もがさを病んでゐると聞いて、早速其の辺で梨を五つ程買つて、人に持たせて、尋ねに遣つたが、帰つて来て、もう快くなつた、と聞いて、
 「嬉しなどは世の常なり。春雨しめやかに降れば、若鮎をなめ、酒飲みて臥しぬ」と書いて居る。老いて淋しき人の生活が、しみじみと物の哀をそゝるではないか。

 玉川治水の功によつて、御切米も百俵十人扶持となり、大分生活が楽に成つて来た。文化六年には公儀から新に宅地を賜つた。
  衣食住餅酒油炭薪何不足無き年の暮かな
 だが幾らお金が出来ても、年をとつては仕様がない。
  願はくは通り手形をうち忘れあとへ還らん年のお関所
 と言つても駄目だ。其で自然楽しかつた昔の追憶となる。
  春雨のほちほち古きその昔ゐつゞけけしたる遊び思ほゆ
 である。年をとつては、詩や歌もうるさくなる。
  詩を作り歌を詠みしも昔にて芋ばかり喰ふ秋の夜の月
 更に文化十一年、六十六歳の「吉書初」に曰く。
「――もう幾つ寝て正月と思ひし幼心には、余程面白きものなりしが、鬼打豆も片手に余り、松の下も数多度くぐりては、鏡餅に歯を立て難く、金平牛蒡は見た計なり。まだしも酒と肴に憎まれず。一杯の酔心地に命を延べ、一椀の吸物に舌を打てば、二挺皷の音を思ひて、三味線枕の昔を偲ぶ。止みなん。止みなん。我年十に余りぬる頃は、三史五経をたてぬきにし、諸子百家をやさがしゝて、詩は李杜の腸を探り、文は韓柳の髄を得んと思ひしも、何時しか白髪三千丈、此の如きの親父となりぬ。狂歌ばかりは言ひ立ての一芸にして、王侯大人の懸物を汚し、遠国波濤の飛脚を労し、犬打つ童も扇を出し、猫弾く芸者も裏皮を願ふ。わざをぎ人の羽織に染め、浮れ女の晴衣にもそこはかと無く書い遣り捨てぬれば、吉書初とは言ふなるべし」

 文政改元七十歳の早春、登営の砌り、神田橋畔に躓倒してからは、急に衰弱を増し、暫らく病床の人となつて居た。「奴凧」に、
 「つら/\思へば、老病ほど見たくでも無く忌々しきものはあらじ。家内の者には飽きられて、善く取扱ふ者無し」
 と愚痴つて居るが、之は畢竟老の繰言である。定吉夫婦が彼を除け者にしたのでも何でも無い。彼等は共に孝心の篤い良い子であつたのである。而も南畝は何時しか一人の妾を抱へて居る。老衰はしたものゝ、酒も飲めば遊びもする。芝居へも行けば、花見にも出かける。支配勘定を辞したのは怖らく文政改元春夏の候であるらしいが、さうすれば七十歳まで、御奉公に余念が無かつたので、その精力の絶倫さには、全く驚かされる。
 彼が死んだのは、文政六年四月六日である。年は七十五であつたが、死ぬ三日前には、まだ妾を伴れて市村座へ行き、馴染の梅幸と団十郎の狂言を見、帰つてからも平生通り酒を飲み、安らかに寝に就いた程であつた。南畝辞世の狂歌として、世に伝へられるものは、 時鳥鳴きつるかたみ初鰹春と夏との入相の鐘
 
 以上私は、其の作品の断片を以て、南畝の人物と生活に就いて、不完全なる記述と批評とを敢てして来た。
 が要するに彼は時代の子であつた。唯優れたる時代の子であつた。時代思潮の進むが儘に進み、時代生活の移るが儘に移つて行つた才子肌の人に過ぎなかつた。時代を超越し、時代を指導する様な天才肌の人では無かつた。
 自我の旗幟を押し立てゝ、人生を直線的に行進する戦闘的革命的な面影は無くて、自我を没し、衝突を避け、一歩退いた余裕に於て、人生を平行的に逍遥する平和的保守的性格の持主であつた。此の意味に於て、彼は当代の奇才平賀源内・近藤正斎等の如き野心満々たる怪傑とは自ら其の選を異にすると雖も、南畝も亦単なる凡人ではなかつた。即ち既に述べた如く、彼は非凡なる凡人であつた。其の密度と容積の大なる点に於て、彼の自我は、何時も時代の為に、圧迫され通しであつた。かれは正面から其に反抗する力は持たなかつた。が圧迫されたる自我は、何処かに其の放出口を見出さねばならない。其が前半世の享楽生活であつた。即ち社会的階級的党派的に、圧縮されたる自我が、其の方面に逃れたのである。そして後半世の奮闘生活は其の反動であり、逆潮である。
 其の狂詩・狂文・狂歌・洒落本・落語などは、大体に於て前期の享楽生活を反映するものであり、其の日記・随筆・考証・雑著・尺犢・纂輯の類は、ほゞ後期の奮闘生活を返照する。重ねて言ふ。南畝は実に優れたる時代の子であつた。偉大なる精力家であつた。其が彼をして、平民文学と日本文献学の上に、不朽の名声と絶大の功績とを残さしむる所以であつたのである。


蜀山家集

 去年六十六のとしのはじめに書きぞめし狂歌に、草稿を六々集と名づけて、ことし六十七のとしの夏までに書きはてぬ。例の七夕七首のうたよまんとて、いまだ俗をまぬがるゝ事あたはずといひけん七のかしこき人のふる事を思ひいでゝ、たんざく竹のはやしに、臂をとりて入りしこゝ地するまゝに、つゐに七首のうたとはなりぬ。さるまゝにこれを又七々集と名づけて、朝な夕なのたはことを書きそへんとなり。
  文化乙亥のとしはづきの比
           蜀山人


七々集

 年々の七夕七首ひこぼしのひく牛に汗し、はたおり姫の梭もなりつべし。今年は竹の林のふる事ながら、かの犢鼻褌をさらせし事を思ひ、七のかしこき人々の名によそへて 稽康
 あまの川ひきて水うつ柳かげてんから/\とかぢのはのうた
  阮籍
 短冊の竹の林のあをまなこあすしら露のうきめをやみん
  劉伶
 七夕に婦人の言をきくなとはちとさしあひな妻むかへ酒
  呂安
 星合の天の戸口にかく文字は凡鳥ならぬかさゝぎのはし
  山濤
 璞玉のよにあらはれぬ天河ふかきちぎりやかさねこん金
  阮咸
 天河さらすふどしのさらさらにむかしの人のふりなわすれそ
  王戎
 折からの桃も林檎もありのみに苦き李は星に手向じ
  朱楽菅江狂歌草稿序
 むかしわかざれ歌の友がきに朱楽菅江といふ人ありけり。姓は山崎名は景基ときこへしが、後に景貫とあらたむ。字を遺文といひ卿助と称す。西城へつかへて先鋒騎士たり。市谷加賀のみたちのあと二十騎町といふところにすめり。和歌をよくし、俳諧をこのみ、前句附といふものをたしむ。その比の俳名を貫立といひしが、人みな心やすくなれて貫公々々とよびて、ついにその名となれり。これにあけらといふ文字をかぶらしめしは、安永の比わがやどりにまとゐせし夜、行燈はりたる紙にたはむれて、われのみひとりあけら菅江とかきしをはじめとす。中頃菅江二家の姓をはゞかりて、漢江とかきかへしが、あづまの比叡山の宮のきかせ給ひて、もとよりたはれたる名なれば菅江といふとも何かくるしからんとのたまひしより、またもとの名にあらためしとぞ。そののち朱楽館と称し、豆腐をすけるによりて淮南堂と呼び、不忍の池のほとりにうつろひて芬陀利華庵ともいひき。われ六十七のとし明和の比椿軒先生の筵にありて、其の師静山先生遠忌のうたに、古寺秋鐘といふ題にて、古寺の秋のわかれはさらぬだにかなしき秋をかねひゞくなり、と菅江よみしを先生鐘ひゞく声と直させ給ひしとき、はじめて景基ある事をしりき。?明の比万載集えらびし比は、朝夕にちなみて筆と硯をともにせし事いひつゞくれば昌平橋の真木のたばねつくしがたく、御成道の馬車ひきもきらざるべし。ことし神田のほとりにすめる独楽斎真木炭といへるもの、菅江自筆小集を携へ来りてわが序をこふまゝに、老のくりごとくりかへし、小手巻のいとながながしくかいつくるになんありける。菅江のよめるうたの中にも人々のもてはやせしは、
  あし原やけさはきりんもまかり出ておのが角ぐむ春にあへかし
  いつまでもさておわかいと人々にほめそやさるゝ年ぞくやしき
  わが命直にはよしやかへずとも河豚にしかへばさもあらばあれ
 此の外あまたあるべし。
  傾城と樽酒と河豚とを画きたる扇子に
 こがれゆく猪牙の塩さいふぐと汁ひとたる物をやぶる剣びし
  新川米屋のもとより剣菱の酒を贈りけるに
 入舟はいかゞと案じわづらひし憂をはらふ剣菱の酒
  此比上方の洪水に酒舟のいりくる夕なければなり。
  萩寺
 みさむらい萩の下露わけゆけば伏猪の牙と見ゆる大小
  松阪屋の別荘は根岸といふ処にあり。はつき六日こゝにはじめて萩の花を見て夕日かげ山の根岸の西陣に錦織り出す萩のはつ花
  大阪米市の商売道具は火縄箱・水手桶・柏子木・小判丁銀・往来六間にて、終日商の手合するゆへに、木火土金水の五行の称にあへば、その道具をゑりきて歌よめとこふにより、さて書きやりぬ。拍子木の木、火縄箱の火、小判丁銀の金、水手桶の水、かけひきあらそふ米相場、上るはのぼりて天気次第、濁るは下りて土間のあきなひ、あはせて木火土金水の五行にかなへるを、ざれ歌によめと人のこふによりて
 米といふ字は八木土金水これぞ五つの花の堂じま
  堂島の古名を五花堂島といへばなり。
  ある人のもとより蝦夷の黒百合の苗をおくれるに、月草の花さきけるもおかしくて、黒百合がさくかと思ひつき草のうつろひしとはえぞしらぬ事
  庭に朝がほ夕がほあり。隣のやねに糸瓜の花さきしもおかしく、
 藍しぼり黄色に白くさきたるはあさがほへちま夕顔の花
  これをたゞごとうたともいふべくや。
  古河のわたりにすめる人うかれめのもとにことづてゝ、桑の木もてつくれる飯櫃をおくりけるに
 これなくは中気やせんとまくらかの古河のおきやくの思しめし次
  萩寺にて人々まとゐすときゝて、竪川より舟にのりゆくとて
 細はぎの力やすめて萩見んとふすゐの牙の舟にこそのれ
  寄武具恋〔萩寺席上当座〕
 なぎなたにあひしらはれし我なればあふ事もまたなまり庖丁
  花やしきの秋の七草みにまかりけるに、歌妓おかつもきたりければ、
 七くさの花はあれどもをみなへしたゞひともとにかつものはなし
  俄見物をよめる
 見物は江戸町の人さらになしみんな木篇に京町の鳥
  関宿侯のもとより香の物たたきといふものを賜りけるに、
 香のものたたきいたゞき御礼を申上ぐべきことのはもなし
  狩野探幽斎かしく梅の画に
 これがかのかの探幽が筆にかく梅としきけばめでたくかしく
  狩野養川の福禄寿の画に
 寿をやしなふ門のほとりには頭のこるよ山とこそみれ
  布袋舟にのりたるゑに
 きんざん寺和尚も舟にのりの道ながむる空に月ひとつなし
  蒲の穂を画がきたるが鎗のごとくにみえければ、
 その時代あるかしらぬがもたせたる蒲の冠者の鎗二三本
  浅草庵の剃髪を祝して
 あらためて浅草のりの道にいる東仲町もとの市人
  小松屋といふ飯屋の釜に、春注連をひき置きける。その釜鳴りしを祝ひて歌よめと人のいふに
 此釜のうなる子の日の小松屋に千とせの春のしめやひくらん
  紅葉に鹿のゑに
 秋はてしのちは紅葉の吸物となるともしかとしらでなくらん
  秋述懐
 いさほしのならぬ名のみや秋のよの長き夜すがら何かこつらん
  十六夜の日萩寺にて
 山寺の庭のま萩の下露にいさよう月をかけてやりみん
  うば玉といふ菓子をしらぬ人をあさみて
 うば玉か何ぞと人のとひし時求肥といひて胡麻かさんものを
  柑林狗のゑに
 朝夕の手がひのちんがこゝろにもまかせぬものはあづけたる菓子
  ふきといへるうたひめによみて贈る
 ふきといふ草の名なればことぶきのふき自在なる名こそやすけれ
  遠州浜松ひろいやうでせまい、そこでもつて車が二丁たたぬといふうたうたふをきゝて
 さみせんのいとにひかるゝ盃のそこでもつてや長くなるらん
  市川三升むさし坊弁慶にて大薩摩源太夫安宅の浄るりかたるをきゝて 河原崎座東西の国おほさへよ武蔵坊あたかも花の江戸のおや玉
  三升狐忠信
 忠信も江戸の市川七代は一世一代などと格別
  此比中村座にて中村歌右衛門一世一代の狂言きつね忠信なればなり。
  秋草に鹿ふたつかける画に
 秋の野のにしきの床にふたりねて何を不足に鹿のなくらん
  狸図
 陰嚢八畳敷、腹皷一挺声、文武久茶釜、其名世上鳴
 身仕舞部屋にうかれめのむらがれる画に
 傾城の身仕舞部屋は藻をかつぐきつねも干鱈さげてこんこん
  初茸の画に
 秋の田のかりほの庵の歌がるた手もとにありてしれぬ茸狩
  ことしの春中村芝翫のわざおぎに其九重彩花桜といふ九変化のかたかきたる豊国の絵に、四季の歌よめと芝翫のもとより乞ひけるによみてつかはしける
  春
  文使。老女の花見。酒屋の調市
 けさぞ文つかひは来たり酒かふて頭の雪の花やながめん
  夏
  雨乞小町。雷さみせんをひく
 雨乞の空にさみせんなる神のとどろとどろとてんつてんてん
  秋
  やりもち奴。月の辻君
 辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん
  冬
  江口の君。石橋
 冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石橋の獅子
  中村芝翫餞別に硝子もてつくれる手拭かけを贈るとて
 引戻す手拭掛は浪華津の大手笹瀬の連城のたま
  高砂の尉さかづきをもち、姥の徳利をかくせるかたかきたるに
 過ぎますと姥はいへども高砂やかのかた腕に帆をあげてのむ
  得人雅堂書
 魚麗干鰡鱨鯊、君子有酒旨且多、署名三嶽霞樵印、大雅堂
 奈無名何、日本橋南四日市、買得青銭二十波、請看世上文無
 者、千八万客日経過
  蘇鉄のゑに
 大きなる蘇鉄じやさかひ妙国寺文珠四郎の多きかな糞
  ながつき朔日森田やのもとより新豆の豆腐贈りけるに
 進物の御礼まうすも山々屋まことにこれはあたらしんまめ
  芝氏飛弾の任にゆくを送るとて
 一寸たち一寸たちかへる木の鶴は飛弾のたくみの細工なるべし
  蓬莱亭扇屋の額
 なるは滝の水茶屋なれば蓬莱の道はいづくぞなじよの翁や
  盆石に品川の景をうつせしときゝて
 盆石の景には芝の浜庇ひさしく底をながめ入海
  南天に寒菊の絵に
 北面の窓の雪にや動くらん南の天のともし火のかげ
  土岐城州のみたちに参りけるに、あるじ、暮るゝともかへしはせじな稀人のたづね車の轄かくして、ときこへさせ給ひしかば
 生酔のまはりかねたる口車うちいでぬべき轄なければ
  和櫟園見寄韻
 誰道東方九千歳、竊桃三度世中遊、功名已共金銭擲、日月徒随質物流、
 桔梗御紋看瓦入、櫟国言葉学狂稠、先生寐惚噛臍久、未到毛唐四百州、
  原詩
  寄蜀山人寐惚子。    櫟園狂生
 先生趣似東方朔、玩世年来面白遊、一段機嫌酒疑浴、百篇狂詠筆如流、
 近郷在町聞風起、遠国波濤結社稠、打犬児童知寐惚、名高六十有余州
  近江屋といへる商家のみせの中に柱あり。そのはしらがくしのうたをこふ
 あふみやのかゞみの山は楽屋にておもてにたてし大臣ばしら
  九月六日は母の忌日、九日は父の忌日なれば
 山くづれ海かれにしを忘れめやそのなが月のむゆかこゝのか
  母の忌日に
 たらちねの乳をたらふくのみしより六十七の年もへにけり
  大津絵 座頭杖をふり上げて犬褌をひく
 世の中は四方八面めくらうちふんどしをひく犬ぞうるさき
  武蔵野
 花すゝきほうき千里のむさし野はまねかずとても民の止る
  紀乙亥秋日劇場事
 芝翫去之、市鶴為之奴、来芝飛而逃、江戸日坂有三津焉、狂言冷色鮮矣人
  芝翫が句に、漕戻すあとはやみなり花火船といふを、秀佳のもとよりおこして評をこひければ
 年々の花火はたえず川開き
  又内々によみしは
 三津又の花火はたえず川びらきぬしでなければ夜は明けいせん
  下の句は此の頃もてはやせる青棲のことばをもて役者を評せしことばを用ひたり。うまごのわづらひし時、鬼子母神のかけ物をかしける人のありければ
 親の親いのりきしもの神なれば子の子の末も守らざらめや
  駿河町のおかつがいもとありときゝて
 するが町ふじの裾野にはらからのありとしきけばかつがなつかし
  もろ人とともに舟にのりて、深川といふところに、何がしの山里あるをたつねゆく。うたひめおかつおきくもともにのれり
 秋もやゝ深川さしてゆく舟はきをひかゝつてかつ酒をのむ
  額の上に紙をはりて息にてふく絵に
 つばきにて額の上にしら紙をはりこの虎の風に嘯く
  唐人あまた巻物をひろげて見る絵に
 晴雨とも来る三月三日には蘭亭の記の会主王義之
  神田祭の宵祭の日、大島町大阪屋にて
 祭礼を、古くひるみやといふ事は夜みやに人の大伝馬町
  ことしの御用祭は通旅籠町より出て豊年の稲刈のわざに亀の引物、富本豊前太夫弟子あまたきやりうたひて車を引くをみて
 千早振神田祭に豊年のいねをかりつる亀の尾の山
 もしさやの昔の通旅籠町むべも富本一世一代
  宵祭の日大丸のもとにて
 大丸の大丸一座大一座酒のまん引用心々々
  横大工町巨勝子円うるもとにて、あるいらつめによみておくる
 千早振神田祭の申酉のわたらぬ先にみてし君かも
  神田祭
 九月明神祭礼前、外神田至内神田、桟敷両側如花並、蝋燭金屏光照氈。
  本町薬店太中庵のもとめによりて
 正銘のこれが本町一丁目江戸の太中庵の妙薬
  菊
 酒をのむ陶淵明がものずきにかなふさかなの御料理菊
 水鳥のすがもの里のたそがれに羽白のきくの色ぞまがはぬ
  秋野
 むさしのの千草の秋はから錦やまとにしきも及ぶものかは
 秋の野をわけゆく道は一筋の原につらぬく露のしら玉
  海辺月
 いかなればくらげといへる文字なれどあかるくみゆる海の月影
  寄泉祝
 新川の流れを樽の口あけばくめどもつきぬ泉なるべし
 白水をながすといへる言のはの文字はすなはち泉なりけり
  鎮西八郎の絵に
 八郎は弓手のながき生れにて琉球いもをただとりてくふ
  龍田川の画に
 龍田川もみぢ葉流るめりめりとわたらば錦横ざけやせん
  大津絵の鬼三味線ひくかたかきたるに
 さみせんもね仏も同じ鬼の首かた/\おれてくだけおれ/\
  同鬼の居風呂にいる。虎の皮の褌雲の上に在り
 虎飛戻天鬼躍淵とは如何々々
  同奴雷におそれ挟箱のふたとみにて、耳をふたぐかた
 奴でも二つの耳をはさみ箱もつての外につらきなるかみ
  おなじく女のおどるかた
 ちらほらと裾からみゆる甚九もて甚九おどりか何かしら菊
  同お杉お玉
 田舎にもさてよいこきうさみせんはお杉お玉の相の山かも
  おなじく弁慶
 弁慶が七つ道具もなぎなたのたゞ一ふりにしくものぞなき
  遊女花妻が竹の画に
 川竹のふしどをいでゝきぬ/゛\に袖ひきとめてはなつまじくや
  同大井のかける山水に
 島田よりちゝの金谷へわたるよし大井の川のとをき水あげ
  清元延寿太夫へよみて贈る。ちゝの延寿斎と年頃なじみふかゝりし事を思ひて源のきよ元なればそのながれ二世のゑん寿のちぎり幾千代
 鰹と茄子のゑに
 鎌倉の鰹ににたる三茄子みな一ふじの高ねとぞきく
  布袋梅の枝をくゞる画に
 松の下いくたびくぐる南極のほしの南枝の梅もめづらし
  娘藍錆のかたびらをきて、青傘をすぼめてもつ絵に
 藍錆の藍より出でゝ青傘をひらかぬうちを娘なりけり
  紅白の梅の画に
 とくおそく一二りんづゝさきわけし南枝北枝の紅白の梅
  蝦蟇仙人
 みな人は蛇をつかふに仙人はひきがへるのみつかへるはなど
  九月尽の日植木やの荷をみて
 菊紅葉おりしり顔に植木やの秋を一荷にになひゆくらん
  お玉が池にて見奉りしある女君のもとより、梅が枝に冠と末広扇をそへし加賀紋の絹を賜りければ
 池の名のおたまものとて末広きうゐ冠の梅がかが紋
  書画会は多く百川楼万八楼にてあれば
 万八の六書六法五七言落つれば同じ百川の水
 おそろしや書画の地獄の刀番つるぎの山をふむ草履番
  市川鰕十郎浪花にかへるを送るとて、文一子の画がける鰕に題するうた
 (歌脱落)
  市川市蔵-市鶴ことし鰕十郎-新升と改名して難波にかへるを祝して
 あらたなるかへなをみます市のつるなにはの葦はいせの大鰕
  荘子に蝶のゑに
 二三年已前に植ゑし郭ちうのさかした黄菊としら菊の花
  富士
 みづうみの出来たあふみの御届の二三日すぎて富士の注進
  鎌倉円覚寺什宝仏牙の舎利、牛込済松寺にて内拝ありしとき
 おがむならならくにしづむ事あらじ仏の骨が舎利になるとも
 儒者としてこの宝物を見る事はこれ仏骨の表裏の侍
  同じ日水稲荷毘沙門堂の紅葉をみて
 鎌倉の舎利を見たれば毘沙門の塔はまだまだ青いもみぢ葉
  朝に鎌倉の舎利を見しが、夕つかた薬研堀の辺よしの屋にて、山谷の墨跡一巻を見たり。うたひめおかつ黒き繻子の帯して来りければ
 鎌倉の舎利と山谷の墨跡としめてお勝が黒繻子の帯
 めづらしきお勝がしゆすの帯の肌ちよとさはりても千代はへぬべし
  此日十月三日にして已前も又三絶と云べし。必不得已而舎之、於斯三者矣。先曰舎舎利。又曰舎山谷。自古皆有帯。帯無心不立。ともいふべし
  市川鰕十郎加藤清正のわざおぎのゑに
 朝鮮で鬼とよばれし神の名を名のれや鰕の髭に及ばず
  中村芝翫の舞台にてゑがける吃の又平の像に
 上方の役者は性がきらひじやといはんとしては吃の又平
  十二月の画賛
  正月若水
 湯の盤の銘にくめる若水はまことに日々にあらたまのとし
  二月燕
 かりがねの交代なればつばくらも野羽織きてやきさらぎのころ
  三月鶏合
 もゝ敷の桃の節句ににはとりを二羽あはせてやみそなはすらん
  五月菖蒲
 長命のいととしきけば薬玉のあやめの酒の百薬の長
  七月二星に月
 天の河ふたつの星の仲人はよひのものとや月のいるらん
  八月稲穂に雀
 むらむらと雀のさがすたつなもの落穂ひろふぞあまの八束穂
  九月菊に琴と酒壼
 淵明がつくらぬ菊に糸のなきことたるものは一盃の酒
  十月柿栗
 神無月神の御留守にうみ柿のいつみの栗とゑみさけてまつ
  十一月(歌欠)
  十二月(同上)
  老子嬰児八十歳、東方桃樹三千年
 よろこびのあまの羽衣たちぬはん君がみけしを置きそめし日に
  浦島太郎の画に
 乙姫の吸つけざしものまれねばあけてくやしき玉煙草かな
  弁慶扇を里の子にわかちあたふるかたかきたる
 弁慶が里の子どもにくれてやる堀河御所の万歳あふぎ
  孟宗の画に
 末の代となりゆきふりの孝行も孟宗竹もやすくこそなれ
  桔梗
 秋ちかく野べ一画にさきいでゝ月のかゞみや磨んとすらん
  百合
 くれないのあつき日影に夏の野の露わきかへるさゆりばの花
  菜花
 春の野の蝶々とまれなの花にこがねはたれもにくからぬ色
  阪東秀佳〔三津五郎〕、中村芝翫〔歌右衛門〕やりもち奴のわざおぎのゑに
 大和やと加賀やと江戸と大阪の奴は外にまたない/\/\
  かねといへる小女の虫のやまひをやみける時
 心よくいねのしだりほかりいれて虫のかぶれる気づかひはなし
 金太郎小僧がもてる熊のゐにおかねが虫やふみつぶしけん
  兎の画に
 枇杷の葉をもときこしめし玉兎それでお耳や長くなりけん
  蝦夷細工の飯匙に
 駒の爪つがるの奥のゑぞ人の髭あげてくふめしやもるらん
  紅葉に秋茄子のゑに(歌脱落)
  なまづ二つ不忍池にはなつとて
 おさへたるなまづはなしの種ふくべいけるをさくに不忍の池
  下谷根津氏彦五郎菊見にまかりて
 花よりも葉をやしなふやかたからん春からわけし根津氏の菊
  同じやどりにいたらんとするに、河東節『松の内』をあるじのかたるをきゝて南陽の河東のふしをきくの花みこしの松の内ぞゆかしき
 きくの花もすそに鞠のとくさぐさくずのからまる竹垣のもと
 高砂尉と姥との絵に
 高砂の松の落葉をかきよせてたくや二人の茶のみ友だち
  神無月十三日甲子の夜、堺町泉屋のもとに、万秀斎の花を挿むをみて
 甲子にこがねの菊をいけの坊水ぎはたちてきよきいづみや
  うしろむきの大黒をゑがきて
 世の中にうしろをみせてわがやどにむかひてゑめる大黒のかほ
  土橋帰帆 深川八景の内
 あらがねの土橋にこがれゆく舟もちよとたちかへれひらに平清
  平清は料理茶屋の名也。一号養老亭
  八山紅葉
 もみぢばも七つ八つ山御殿山にしきのとばりかゝげてぞみる
  霊芝
 ひとふたつ三つ秀たる草みればよつの翁のとしもつむべく
  東厚子のもとにのろま狂言をみて
 とりがなくあづまなまりの若かいでこれやのろまの玉子なるら
 ん
  猿猴盃をとる絵に
 曲水のゑんこうが手をのばしてもとることかたきさかづきの影
  福禄寿亀図
 南極老人頭似匏、万年亀甲尾如毛、人間万事慾無戴、頭与
 年齢不厭高
  みちのくの風俗かきたる巻物に
 みちのくの十ふのすがごも一巻にかきつくしたる壼のいし文
  栄之がゑがける柳に白ふの鷹に
 右にすへ左にすゆるひともとの柳はみどり鷹はましらふ
  白木や夷講 十月二十二日
 西の宮神のみまへにかけ鯛をならべてすゆる台のしろ木や
 柳樽桜鯛をもこきまぜてけふぞ小春の若夷講
  白木屋にて栄之のかける黄金の龍の富士の山をこす絵に
 としどしにこがねの龍ののぼり行ふじの高根の雪のしろ木や
  同じく高どのに、白隠禅師のかける竹の葉に鮎をつけたる絵に、鰷はせにすむ、鳥は木にとまる、人はね酒の気をやすむ、と書かせ給へるかたへに、一方をこひければ
 惜いかな白隠和尚出家してさすがさびたる鮎もくはれず
  此夜何がし新宅の祝にゆきけるに、去年伊勢に写せしとて見せられける往昔童謡録といへるものの内に、鰷は瀬にすむ、鳥は木に泊る、人は情の下に住む、といふ歌あり。白隠和尚のかき賜へることばも此の頃はやりし歌によりてなるべし。さてさて書物といふものは一日もよまねばならぬものにて、其の日の事が其の夜にしらるゝ重宝なるものなり。
  仙人駕鶴
 遼東の華表の前の立場にて仙人の乗る鶴の宿かる
  茶屋長意のもとにて時雨ふりければ
 村しぐれふりはへていこふ呉ふくばしなじみの茶やにきぬるうれしさ
  同じ日歌妓おかつさはる事ありて来らざりければ
 おかつとは馴染といへどかつみへず茶屋が茶屋でもいかゞなる茶屋
  鎌倉河岸の豊島屋のもとにて夷講の日、辰斎夷の鰹つりたる所画きければ
 名にしおふ鎌倉河岸の魚なれば鯛より先にゑびす三郎
 酒ぐらは鎌倉河岸にたえせじなとよとしまやの稲の数々
  大津絵の讃
 雲井から落す太皷の鳴神は天の怒をおろしてやとる
  福寿草の画讃
 花生福海波、根固寿山名、
 元日の草としきけば春風のふくと寿命の花をこそもて
  弁慶が鐘をかつぐ大津絵に
 叡山のゑい/\/\と弁慶が力の程を三井寺の鐘
  桔梗おみなへしの画に
 陣中へ女はつれぬはづなるを桔梗が原にたつ女郎花
  鳥居にたんぽゝの絵に
 初午の鳥居と思ふつぼすみれきねがつゞみのたんぽゝの花
  茶事をあさみて
 つくばひていかほど手をばあらふともにじり上りにつかむわらぐつ
  大黒ゑびす二俵の米をさしあげたるかたかきたるに
 大黒のふめる俵を曲持に布袋も腕をまくるなるべし
  尾上梅幸、菊五郎と改名せしを賀して
 千金の春をもまつの下陰に菊後の梅の花の顔みせ
  松かげに立てるまなづるのゑに
 高砂のまつの謡の一ふしにさす胡麻塩のまなづるの色
  ひきがへる年始にきたるゑに
 年々に御慶めでたく候とかいるのつらへかゝる若水
  四日市魚会所にて、歌妓おきをの来りければ
 あたらしき魚の数々品川のおきをのりこむ押おくり舟
  何がしの宿に雪ふりける日、白き鳩の蔵の内に飛入りしを賀して
 ふり来る三枝の礼のしら雪のみくらの内にはいる銀鳩
  剥六々歌仙色紙、以古役者絵代為一帖因題
 新明六ゝ歌仙店、張此狂言役者図、莫道狂言歌舞賤、其猶万葉古今乎
  十月晦日の花柳屋とともに市川三升をとひしに、十三年目にて堺町へかへりしときゝて
 たれもきけ十三年のかへる花堺町ではしばらくの声
  ことしの顔見世堺町は立形多ければ男湯とよび、木挽町は若女形多ければ女湯といふ。葺屋町は嵐三五郎ふあたりにてしまひし後は顔見世なし。故にあさみて薬湯ともよび、又は水きれにて休ともいふ
 女湯も男湯もある世の中に足の病はいかゞくすり湯
  芳村おますの女子をうめるを賀すしてよめる。名は米といふ。長芋問屋何がしの子なり
 米の数ますにはかれどつきせじなちぎりも長きいもとせの中
 酔中直江氏によみておくる
 酒のんだ上杉なればはかりごとあるべき直江山しろの守
  三升の暫のわざおぎを
 暫くといふ一声に大入の二千余町の花の江戸ツ子
  中村座に沢村田之助下りければ
 男湯も入込の湯となりにけり衛士のたく火の松に田之助
  関根氏美濃尾張の川々のつゝみを修理すべき仰せ事うけ給はれるに、虎の絵にうたをこひければ
 千里ゆき千里かへれるいきをひは虎の尾張や美濃の川々
  同じく毘沙門天をゑがきし扇に
 来年は子のとしなれどうしとらの関根をまもらせたもん天
  ある高どのによべより酒のみて、えもいはぬものつらきちらして
 老ぬれば又あたらしく二丁目にこまもの店を出さんとぞ思ふ
  文化乙亥のとし水無月十三日、難波の蕪坊みまかりけるときのうた
 極樂の東門前にすみぬれば目をふさぐとも道はまよはじ
  思へば享和はじめのとし、なにはにまかりし時、折々なれむつみし事きのふの夢の心地して
 われむかし転法輪の車みちたづねし寺の西門中心
  歌妓おかつの丸髭にゆひしをみて
 さゞれ石のいはほとなれる寿はよもぎが島田丸くなるまで
  栄之の画に瀬戸物町おのぶと駿河町おかつをかけるをみて
 われものの瀬戸物町もまた過ぎぬ島田も丸くするが町より
  大のしや富八の額に
 盃も客の一座と大のしの富八此屋を潤しぬらん
  新橋伊勢島画帖序
 この比世に名だゝる人々の書画のふたつ文字牛の角文字、伊勢島のふるきをたづねてあたらしき橋のたもとに、雨にきる合羽の袖たゝみかさねつゝ、何がしのみたちの紋賜はりし蔦かづらながくつたへんとて、はし鷹の餌かひの雀の千声に鶴の一声をまじへ、鳩に三枝の礼義三百威儀、三千のこがねにもかへがたき一帖あり。之にそのことはりを書てよとあるじのもとめいなみがたく、あたり近き薬品の味をなめて、柳原のいとぐちをとくことしかり。
  戴斗子三体画法序
 書に真行草の三体あり。画も亦しかり。豈たゞ書と画とのみならんや。花のまさにひらくや真なり、かつちりかゝるは行なり。落花狼籍は草なり。月のまさにみつるや真なり。弓張月のかたぶくは行なり。みそかにちかき有様は草なり。雪の降りつもるや真なり。わた帽子とふりかゝるは行なり。大根おろしととくるは草なり。しからば雪ころばしはいかゞといはれ、この返答に行くれて、後へも先へもまゐりがたく、これなん窓の梅の北斎が雪の封きり絵本の版元、十二街中にあまねく円転して、世上に流行する事、猶雪まろげの布袋とよめり、雪仏とよめり、雪の山ともかたちをうつして、気韻生動いきてはたらくいきほいは、北斗をいただくきつねの如き変化自在の筆のあとに、かきつくす稿本数十張、これを三体画法と名づく。
  文化乙亥のとし雪のあした    蜀山人
  ふきや町高木屋にて
 高きやにのぼりて見ればふきや町民のかまどのにぎやかなみせ
  千住にすめる中田六右衛門六十の寿に、酒のむ人をつどへて酒合戦をなすときゝ、かの慶安二年の水鳥記の事を思ひて
 よろこびの安きためしの年の名を本卦がへりの酒にこそくめ
  又
 はかりなき大盃のたゝかひはいくらのみても乱に及ばず
  定家卿月をみる絵に
 十五夜にかたむく月の歌よめばあかつきのかねごん中納言
  木挽町松川といへるやどの額に、伊川法眼の画がける梅に福寿草をみて
 春風のふく寿さうさう咲きいでゝ梅の立枝の花をまつかは
  竿の先に皿をまはしてたてるに、つばくらの竿にとまれるかたちかきたるに
 春の日の長竿なればくるくるとまはれる皿にとまるつばくら
  福禄寿のつぶりをから子のかつぎたる画に
 福禄寿みつをかねたる長つぶりからこのかたにかけておもたき
  冬至の日浅草司天台にて〔霜月二十六日天気よし〕
 天正の冬至の晴かけふの日は七観音か御講日和か
  小西氏八十八の賀に
 長生ときく仙人の子にしあれば八そぢ八とせはいまた童べ
 あづさ弓八そぢ八とせを玉椿やちよの春のためしにぞひく
  岩井杜若のわざおぎをたゝへて
 杜若もとゆえに紫の朱をうばへる女しばらく
 みつ扇まねくこがねのやまとやは日本一の花の顔見世
 見物は日々にあらたに又日々にはいる女の銭湯の盤
  杜若に玉盃を贈るとて
 硝子をさかさにくめばうつくしき玉のさかづき大入のさけ
  瀬川多門名を菊の丞と改めしを祝して
 大あたりきくのはま村いく瀬川きのふの多門卿の君が名
  このたびよしつねのおもひもの卿の君のわざおぎなればなり。
 中村座にて阪東杢蔵といへる少年、羅生門かし青野といへる小女のわざおぎをみて顔色の奇野がはらのきりみせもいまは千とせの鶴賀新内
  因州鳥取の大夫のふところ紙いるゝものに、うたかけといはれてとりあへず
 千年の鶴の鳥取たちわかれいなばの山の松に巣をくふ
  源氏絵の色紙をみて
 此の色紙土佐にもみえず狩野家にもあらねばすこし二割源氏絵
  江口遊女象にのる絵
 江口遊君尻自重、普賢大象鼻何長、文珠若衆是馴染、不駐西行乞食坊
 現金にかひなばわづか百象のかりのやどりをおしむ君かな
  同じく西行のゑに
 ふんばりが江口をあいてかりのやどに心とむなと釈迦に心経
  後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
 不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
 としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、
 江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
 干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひ?かば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし?天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、な?丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
 むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
        六十七翁蜀山人
        緇林楼上にしるす
  傘古骨買の声をきゝて
 この頃の天気のよきにからかさのふるほねかひて雨やまつらん
  猿子をあはれむ絵に
 子を思ふさるの心は人間に三筋ばかりや毛もましぬらん
  みやこの崋山のゑがきし女のゑに
 ふり袖のみやこのてぶりわすられずなにはの帰りあしにみてしが
  同
 いにしへの吉野よくみし人しあらばかゝるあそびのさまやとはまし
  同
 みどり子をもつべき末はまろが竹すぎにしいもが袖にしらるゝ
  旅
 なめてしるくるしきものと旅衣きそ道中の軒の玉味噌
 詠五色狂歌
  青
 藍瓶の藍よりいで、紺屋丁柳つゝみになびく染もの
  黄
 金屏風菜たねの花の御殿山同じ色なるてふてふつがひ
  赤
 山王の夜宮の桟敷しきつめてみせの柱もつゝむ毛せん
  白
 八朔の白無垢きたる傾城の雲のはだへのふりもよし原
  黒
 すみだ川墨すりながす雪ぞらに今戸の烟たつ瓦竈
  十二月の景物に女の風俗をゑがけるに
  正月羽子板に娘
 ねがはくは手がひの狆となりてみんやあらよい子や千代のこきの子
  二月摘草に囲者
 籠の鳥かこはれもののつみ草はいつか広野にすみれたんぽゝ
  三月汐干の浜女
 つまとれる汐干にみえぬ貝と貝あはせてうつせはまのせゝなぎ
  四月黒木売の女房
 一声を人に忍ぶの黒木うりやせや小原の山ほとゝぎす
  五月菖蒲湯娘
 湯上りにみしをあやめのねざさしにて下女のさつきが文の取次
  六月三線芸者
 さみせんの駒がたさして二上りの舟は夕ベに三下りかも
  七月七夕官女
 黒がみもいつか素麺としどしの七夕のうたよむとせしまに
  八月白無垢傾城
 北国のしるしの雪のしろむくはたれをたのみのけふの約束
  九月生花後家
 此花の後にはいける甲斐なしとたけなる髪をきりかぶろ菊
  十月夷講の下女
 神代より赤女といへる魚の名に若えびすとてこしをぬかしつ
  十一月酉の市屋敷者
 御屋敷の外面如ぼさつ内心は慾の熊手にかきとりの市
  十二月市帰り女房
 浅草の市に女のたつ事は三十年も前にてはなし
  海老のゑに
 いせ海老もかまくらえびも芝海老のお江戸にこしをかゞめてぞよる
  周信のゑに猩々雪を杯にうけもちたるかたかきたるに
 酔ざめにいざひとさしと盃も雪をめぐらす猩々の舞
  鍾馗捉鬼図
 笛ぬすむ鬼をとらへて笛ならふをにこもれりとしらぬ大臣
  浅草市
 浅草の市にひかれて梓弓矢大臣門いづるひとむれ
  歳暮
 行くとしをしめゆふうちにくる春をまつやまつやの声ぞ聞ゆる
 とめたとめた暮れゆく年をおつとめん草摺引のたぐひなりせば
  低屋丸彦のろま人形つかふかたかきたる画に、歌かきてよとその子のこふにまかせて今の世にのこるくぐつのたはぶれもあたゞのろまの露の丸彦
  芋のゑに
 畑中にかぶりふれども皆人のほりするものはいもが面影
  破魔弓のゑに
 高砂の尉と姥とは一対の弓のつるかめ松と竹の矢
  中村松江の来れるに
 たまさかの君の御出を松江とて三光鳥の初ねをぞきく
  甲子の日に小槌をゑがきて
 智仁勇みつの宝をときどきにうち出の小槌ゑこそわすれね
 仁と倹あへて天下の者たらずみつのたからをうち出の小槌
 春の夜のたゞ一時も千金の月や小判のはし居してみん
  達磨画賛
 南天竺の菩提達磨はるばると西より来りては梁の武帝にまみへし時、民の膏血をしぼりし堂塔伽藍をつくるをみて無上功徳とこゝろえ、つゐに少林のもとにかくれて面壁九年、教外別伝不立文字とはいへど、一切経の板行もこの門流の末になりて、おがみづきのめしくふぼんさんも、この蘗板のおかげによりて大般若の転読も出来、五七言の偈でも作るはまだまだ此輩なるべし。いたづらに雪まろげの作りものとなりて、子供の杖に穴をあけられ、疱瘡見舞の不倒翁、おきやがれ小法師とあたまをはらるゝも、また白眼のいたりならずや。 松前のうかれめを名づけて我の字といふ
 松前のまつ人の名はえぞしらぬ我の字といへるわれならなくに
  蜀山人々々々とにせ筆の多ければ
 書きちらす筆は蜀山兀として阿房の出るにた山師ども
  春の比みやこにゆく人に物をおくるとて蒔絵にせんといふうたをこふに
 (歌脱落)
  瓢箪から駒の出る絵に
 瓢たんを出でたる駒やかひつらん斉の景公馬は千なり
  香取屋又七四十二の厄に
 四十二の厄もいつしかこゆるぎのいそいそとしてむかふいそかぜ
 これよりは六七十も八十も九十も百もいはふ香とりや
  尾関矢之助養子にゆきける祝に門松をゑがきて
 松かざり一かどふえて破魔弓のねらひし的にあたる矢之助
  白米吉と改名しければ
 段々に禄もすゝみて取上る末はかりなき米の数々
  傾城禿にきせるもたせたるかたかきたるに
 けいせいの与力は通ふ神(脱字)吸付て出すきせる一本
  生姜と蕃椒の画に
 はじかみをすてずにくひし聖人もとうがらしをばくふやくはずや
  服紗にかきし竹の画に
 千代よろづ幾よをかけて音づるゝ風のふくさになびく呉竹
  八景
  日の宮の晴嵐
 さしのぼる朝日の宮の朝あらしはれてまばゆき床の山風
  高橋夕照
 山にいる日も高橋と思ふまに田づら一面てりわたるかげ
  鹿野山暮雪
 さを鹿の山にはやつの御耳のふりたてを見る雪の夕ぐれ
  花下楽秋月
 上々も下々らも秋の月一つながむるこゝろ千差万別
  歓喜晩鐘
 二またの大根を時の撞木にて入相のかねくわん/\喜天
  阪戸夜雨
 夜もすがらしきりふる木の松の雨あすの阪戸の道やぬからん
  原田落雁
 ひらふべき人さへみえず目の下の原田にちかく落る雁金
  畔洲帰帆
 入船は一ばん二ばん洲の上に浦賀の切手帰る帆のあし
  六十七になりけるとしのくれに
 わがとしもけふの日あしも六十あまり七つ下りになりにけるかな
  歳暮
 雪ふらず天気もよくて火事もなしひまさへあればよい年の暮
  祝歌
 箒たて草履へ灸をすゆるとも千秋万歳われは長尻
  蛍
 冬がれに朽ちにし草も時をえて野辺の蛍の光とぞなる
  豆男画巻序
 いせ物がたりのまめ男はまめやかなる男なるべきを、形のちひさき豆にたとへて色事の豌豆まめにかきなせしは、一合八文舎のたはぶれにして、大通豆の世のことわざなる、青豆の青黛、黒豆の黒仕立、枝豆の枝をかはし、羽根をならぶる雁くひ豆も、鬼うち豆の年を重ねて、座禅豆のさとりをひらく豆右衛門のむかしがたりを、鳥文斎の筆まめにゑがゝれし一巻に、わが口まめの序をそへよと、豆のまめがら七あゆみ、七里かへりてくふみそ豆に、そら豆のそらごとをまじへてしるす。
  白藤の説
 主人の号を白藤といへるは熊野鈴木の氏によりて、藤白根といふ事なるべし。東上総の夷潜の郡白藤源太の事にてはあるべからず。そもそも長き藤かつらくりかへしいへば、藤原の宮のふるごとはさらなり天の児屋根のみこと藤氏の栄は北の藤波さかりにして、藤のしなひの三尺あまりと、いせ物がたりに書きしるし、源氏の藤壺藤のうら葉、南円堂の藤は南都八景にあらはれ、野田の藤は浪花の酔舞にのこれり。亀戸の藤は門字池にたれ、佃の藤は碇綱と長さをあらそふ。藤寺は根岸と小日向にして、藤沢寺は遊行の道場なり。大津絵の娘は藤花をかつぎ、神明の千木箱は藤をゑがく。香櫨の藤灰うづだかくして、香匙火箸をまち、連歌の藤のはながきは一軒の執事につたふ。牛は朝から藤のはなづらを通され、松のふぐりは藤づるにしめらる。八ツ藤の御紋、みとせの藤衣、色目に藤色藤ねづみ、紋に上り藤下り藤、八百屋お七の紋は藤巴といひつたへ、藤伊が紙子は富士山をはりぬく。藤屋のあづまは与五郎になじみ、遠藤武者はけさ御前にはまる。藤戸のわたしは佐々木が先陣、斎藤太郎左が身がはり番頭、佐藤兄弟が忠義、加藤清正が鬼しやぐはん、後藤又兵衛が生酔、藤堂家の先手のはなしはすり毛なしの馬谷にゆづり、近?助五郎清春がむかし絵は骨董集の後編をまつ。呉服後藤今後藤、後藤がほりもの三所ものはみな藤棚の上にあげて、藤間のおどりを一おどり、狂言綺語のたはむれに、紫藤花落て鳥関々たる白氏文集、その白の字をちよとからかつて、藤といふ字の上におき、白藤などはどでごんすともいはまほしけれ。
  十二単衣の装束に十軒店の節句前を思ひ、すべりがみのたけ長きに五丁町の髪洗をしのぶ
 ひのはかま一つぬぎても二つ三つよついつゝぎぬむつかしき恋
  六十八になりけるとし
 五十から十八年のあまつ風春狂言の雪のまくあき
  かうがいばしにて
 年礼のかりの一つらかへるなり後なが先にかうがいのはし
  春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
 やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山
  鳥越の明神にまうでゝ
 六十あまり七曲りをもゆきすぎて又としひとつとりごえの神
  筋違橋より浅草までの道を俗に七まがりと云。
  むつき四日下谷のほとりの書肆にて、年比もとめし芭蕉翁の消息を得て
 年比の思ひの丈の草まくらばせをにつゝむしかもまさゆめ
  その消息は翁のもとより丈草に贈れる消息にて、卯の花やくらき峠の及びごしといへる発句あり。
  梅に鷹の画に
 はし鷹の身よりたなさき両袖にふれてや梅の軒羽うつらん
  鷹の書に軒翥とかきてノキバウツとよむなり。
  子の日ざうしがやにまうでける帰るさに、水道町のほとりなる松がね茶漬といふをたうべて
 子の日してひくべきものもあらざれば松がね茶漬よりてこそくへ
  姫路前侍從の君のもとより子日松を贈り給ひけるに
 棹姫の姫路の国の姫小松子の日ねこじて賜ふ(以下脱落)
  孔明
 孔明の羽根の扇も綸巾もどこやら似たる菊水の紋
  春月
 春の日の長きよひるのにしききて花のみやこにゆく人はたぞ
  むつき廿八日上野の松原にむかしわが友麗水子のめでたる野中の梅をゆきてみしにいまださかざりければ
 むかしみし梅は野中の清水門もとの心を知るやしらずや
  上野の桜をみて
 剃立の月代ひえの山ざくら花のさくべき面影もなし
  妻恋坂にて
 もののふもさすがに恋のやまと竹あが妻恋のみこと思へば
  仙人王処一の絵に
 かへすべき所もしれず傘に王処一とはなどしるしなき
  白川少将五十の御賀に〔今年丙子五十九歳にて五十の御賀〕
 いそぢより末ぞたのしき久かたの天の下なる人におくれて
  火をいましむる詞
 火は五行の一にして民生一日もかくべからざるものなり。されどその災をなすにいたりては、むかひちかづくべからす。天火は猶さくべし。人火はつゝしまずばあるべからず。禍を転じて福となすは其の徳をおさむるにあり。柳々州が王参元の失火を賀する文も小むつかし。われに七字の秘文あり。毎朝手あらひ口そゝぎて、南にむかひて三遍となふべし。その文にいはく
 家内安全火用心。ゆめゆめうたがふ事なかれ
  ゐのしゝの子をつれてかけゆく絵に
 いきほひをかるもの露にうり坊も臥猪の床やかけ出ぬらん
  粟穂に雀の絵
 粟坊も稗坊も出よ雀子は百になりても踊わすれず
  七十の賀に
 七十はをろか七百歳までも慈童ときくは古来まれなる
  鷹の画に
 あら玉の年のはじめの初夢は春駒よりもましらふの鷹
  初午
 手ならひの稽古に上るいなり山いねのいの字やかきはじむらん
  わかゝりし頃は初午の前よりその日まで、太皷のかしましきまできこえし。近頃は稀なり
 はつ午のたいこの音のすくなきは老たる耳の遠くなりしか
  太田姫いなりはみやこのいもあらひといへる所より、太田道灌の西城にうつして後、今の所にはうつれるなりときゝて
 山城のいもあらひなる稲荷をば世の一口に思ふべからず
  傾城傘をさゝせて道中の絵に
 八文字ふりだす雨の中の町ぬれにゆくべき姿なるべし
  竹に菊の画に
 くれ竹のよはひも長き菊慈童七百歳や千とせへぬらん
  抱一上人月と鼈の画に
 大空の月にむかへるすつぽんの甲のまろきや地丸なるらん
  大阪にて鼈をまるといふ。看板に地丸とかき、又は○とかきしもあり。本草細目釈名に丸魚は俗名とあり。
  同じく福禄寿に鶴
 福禄寿みつの重荷に鶴一羽こづけをそへて一寸千年
  梅と酒とを好む人の酒壼に歌かきつけん事をこふに
 なには津にさくや此花寒づくり今をはるべと匂ふ一壼
  きさらぎ十一日呉船楼にて歌ひめお勝あすは眉を落し歯黒めすときゝて
 白い歯のけふはみおさめあすよりは又くろうととなりてさかえん
 千金の眉を落して万金の歯をもそめなばよはひ十千万
  同十二日よみて遣しける
 青柳の眉うちはらふ春風のすがたを千々のかねつけてみん
  黒き鷺に葦ある画に
 白鷺の黒きもあれば難波江のよしとあしとのあらそひもなし
  土岐甲州の馬見所の聯に
 うま酒の壼うま場にてみるときは心の駒もいさみたて髪
  上野の山に梅をふたゝびとひて
 ふたもとの杉をしるしに二日まで一木の梅をたづねてぞきつ
  すみ田川五百崎のほとりに百椿ありときゝて
 玉つばき百種のみかは五百崎も八千代の数もいでんとぞ思ふ
  紅葉のもと二人たてり。一人は若く一人はとしたけたり
 むら紅葉ならびて二人たつた姫うすきは妹こきはあね君
  庚申
 みずきかずいはざる三つを守りなば三尸の神も感応の編
  甲子
 甲子にうち出の小槌うち出でゝ数の宝をまくやこの神
  三巳
 つちのとのみまちに願をかけまくもかけてぞいのるくちなはの神
  竹
 信濃には竹なしときく王子猷一日も居る事はあたはじ
 劉器之も一盃くふた蘇東披の玉版和尚その名たがへな
  布袋笛をふく絵に
 きんざん寺背中に目ある和尚殿あななき笛やふきすさむらん
  両国橋のほとりにて此頃尾張の海にてとりしといふしやち鯨のみせ物あり
 いさなとりいざや見んとて両国のはしによりつくわれ一の森
  ふじの山に鶴をゑがきて戯子芝翫のうたよめと人のいひければ
 吾妻なるふじをみすてゝなには江のあしべをさしてかへりつるかも
  鶴は芝翫のかへ紋なり
  布袋月を指さす画に
 大かたは月を指さす指ばかりみて袋には一物もなし
  万歳才蔵の肩に鳶凧の落ちかゝりたるゑに
 鳶飛で天から落ちしいかのぼりいかゞはせんず万歳のかほ
  麹塢のもとにて
 細道は梅にたどられてたれもきく塢のやどぞしらるゝ
  発句
 江南の花や三百六十本
 春もはや梅の世界となりにけり
  新楽氏母君の八十の賀に、津の国三田にて陶すといふ富士の形したる小皿十枚をおくるとて
 はたち山よつかさねたる八十より十づゝ十もさらにかさねん
  神田明神肚内人丸大明神像縁起奥書
 右崔下庵菊岡沽凉翁の記する所かくのごとし。已に翁の著はす所の江戸砂子にもそのよしをしるし、法楽の発句をさへしるせしに、いかなる故ありてか神田の社地にもおさめずして、今に菊岡氏の家にありしを、ことし藤原県麿此神影を拝して翁の志をつぎ、新に新田のみやしろの端、籬の中に宮づくりして此神影をうつす事とはなりぬ。嗚呼翁なくなりにたれど神のみかげとゞまれるかなともいふべし。
  文化十三年丙子月    杏花園しるす
  梅くゞりの福禄寿のゑに、
 南極のほしのつぶりのきらきらと梅の南枝の下くゞるらし
  三月三日はわが生れし日なり。朝とく湯あみするとて
 むそ八そをむかしのもゝの節句には産湯かゝりしはだか人形
  雛
 雛と雛鶏合さんむさしのゝ原舟月雛に皇都玉山
 はまぐりのあさつき鱠玉山と舟月雛やいかがみるらん
  三月三日松の屋にてなにはの歌女市松がうたをきゝて
 三千とせになるてふ桃の節句にはよもぎが島の内にこそいれ
  浪花島の内の歌妓なれば也
 三線のねあがり松の髪かたち見ればそのまゝ玉山の雛
          狂歌堂真顔
 雛棚のそのはちうへの桃よりも節おもしろきものは市松
  朝顔
 牽牛子の名におふ花は七夕ののちのあしたとみるべかりける
 豆腐うる声なかりせば朝顔の花のさかりは白川夜舟
  鶯谷に家居しける頃、あたりちかき乳のなき子をやしなひたてしが、ことし弥生ついたちうみの母のなくなりけるときゝて
 鶯のかひこの中におひいでゝ死出の田長をしるやしらずや
  やよひ五日上野の花をみて
 山桜去年もけふこそ見に来つれ又のやよひのいつかわすれん
 しら雲の上野の花はみよしのゝちもとの中のひともとゝきく
  伝通院の糸桜やゝさかりなり。三月六日
 百八の珠をつらぬく糸桜七分のかねに花やさくらん
  和歌三神
 朝霧に島がくれゆく舟かたをよくみつけたる人丸のうた
 垂跡は玉津島にて御本地は衣通姫の流とこそみれ
 和歌の浦のひかたまりたる芦田鶴も汐みちくればぱつとたつ波
  南隣甲賀氏の庭の桜さかりなり
 南殿の桜の宴やかくやらんこなた隣の花おぼろ月
  木下川薬師開帳の奉納の聯に、なこその関の桜のゑかきたるに
 山桜ちれど鎮守府将軍のなこその関の名こそ朽せね
  瓢箪に鯰の画に
 高値なうなぎはくへず顔淵の鯰をさいて一瓢の飲
  弥生十二日舟にてすみだ川にまかりけるに、花いまださかず
 すみだ川さくらもまだきさかなくにうきたる心花とこそみれ
  春の日芝のほとりにて
 春の日もやゝたけ柴の浜づたい磯山ざくら見つゝあかぬも
  浜庇といへる茶屋にて
 しばしとてやすらふ芝の浜びさしひさしく見れどあかぬ海づら
  御殿山を見やりて
 御殿山花はいづことしら雲のかさなる山やなゝつやつ山


あやめ草

  大津絵の賛
 双六のひとつあまれば大津絵の四十八鷹五十三次
  冬至府中戯作
 冬至一陽勘定元、雪中生二下駄痕、烟筒灰動湯呑所、彩線尻長仕舞番
 韓信股をくゞる画の賛
  からはから、日本は日本、唐の紙屑のみを拾ひて、にほんの刀をわするゝ事なかれ道なかにたつの市人きりすてゝまたはくゞらぬやまとだましひ
  鬼ノ念仏の画讃
 悟れば九品のうてな、迷へば二本の角。念珠となりてくだくるとも、鬼瓦なりて全き事なかれ。
  頼朝伏木がくれの絵に
 七人の中にひとつの大あたまふしきのうちにかくしかねつゝ
  久永氏の庭に白鷺池あり
 しら鷺の池としきけばいやにても五位の上にはのぼるべきなり
  将之浅草市、雪後道悪。半途而帰
 浅草市泥残雪深、欲行引返半途心、近来乗駕不乗興、何必夜参観世音
  わざおぎ人の市にゆくときき(ママ)ゝて、
 浅草のけふ市村か中村か名にたてものとみたはひがめか
  尾上松緑松助父子を祝して
 周の春殷の柏のわか緑名は夏后氏の松をもつては
  としのくれに
 衣食住もち酒油炭たきぎなに不足なきとしの暮かな
  此歌よみし師走廿五日大久保といふ所にて宅地賜りて住居を得たり。折からもちゐねる日にあたりしも、衣食住もちとつゞけしさとしにや名歌のとくもあればあるもの哉年の尾のしるしをみせて大まくり大小にこそ暮れて行くらめ
 今さらに何かおしまん神武より二千年来くれて行くとし
  防河の事うけたまはれる国のかみ二所よりしろがねを贈りければ
 御手伝大名二軒二度の雪十七枚の銀世界なり
  ことしのくれのよろこびをしるす
 家くらの修復家うちのきぬくばり子孫繁昌屋敷拝領
  六十二になりけるとしのはじめによめる
 ことはざの人間六十二年とは甲陽軍を鑑もちかな
  甲陽軍鑑第八品に人間六十二年の身をたもちかねといひかしことばを思ひいでゝなり。 去年よりあまたたび雪ふりて、若菜一抱のあたへ七十二文にかふるもめづらしとて三文の若菜も雪の高ねにて七十二文棒にふりつゝ
  ことしは若菜も芹にかふるもの多し
 春の野の若菜も雪にうづもれて思はぬ岸の根芹をぞつむ
  正月二月の夜雪ふりければ
 初夢の一ふじの雪ふりいでてゝ茄子も白なす鷹もましらふ
  花さかせ爺の絵に
 むかしたれいかなつかさの灰をまきてかれ木の枝に花さかせけん
  辰巳屋翁扮戯図
 おまつりと神楽の堂にたつみやのかれ木むすめや花さかせぢゝ
  示禅僧
 逢仏殺仏、逢祖殺祖、逢布子殺布子、逢蚊屋殺蚊屋、通八箇月、始得解脱。
  題土屋清三壁
 地近若宮神徳深、居号土屋土生金、年中正直寿延命、家内安全火用心
  去年より雪しばしばふりけるに
 こぞことしふりつむ雪にあやかりてあくまで花をみるよしもがな
  金馬亭にて岩井杜若が羽織のうらに書いてつかはしける
 蓬莱山には千とせふる、万歳千穐かさなれり、松の枝には鶴すくひ、岩井の上に亀あそぶ これなん祇王が『君をはじめて』、静が『しづやしづ』とうたひし今様ともいふべきかも。
  花井才三郎はじめて朝比奈のわざおぎすときゝて口とくよみてつかはしける
 初春の花井才三が大入はこれ元日の三ツの朝比奈
  席上作
 唐大和堺町、葺屋町尤栄、春色千金富、市村第一評
  又
 岩井流清杜若叢、市川団助字三紅、更迎花井朝比奈、築地笑談対善公
  金馬亭にて神農・張仲景の掛物を見る
 神農も張仲景もあきれなん長沙の大酒その意ゑん帝
  舟にのりて深川へ行くとて
 宝舟のり初もよし千金の富ケ岡辺の春の一時
  尾花楼のあるじ置酒洞と号す
 千々の秋尾花なみよる高どのはまた格別に春をおく洞
  節松嫁々むつき九日身まかりしと聞て
 ふしまつの嫁女さまことしゆかれけりさぞや待つらんあけら菅江
  堺町の番付に中村歌右衛門の名の左右をあけて書くもおかしくて
 江戸ものの仲間はづれの歌右衛門左右のすきて見ゆる番付
  杜老といへる二字を岩井杜若に書てもらふとて
 少陵の野老帽子の紫のゆかりの色の名をかきつばた
  けふより蜀山の杜老ともいはんかし
  詠柳狂歌并序
 六樹園のあるじ一樹の柳を題としてざれ歌のむしろをしく。その巻のひもとくとくの柳の糸のかゝれることのは、根ほり葉ほりあまさずもらさず、からのやまとの古事来歴、淵鑑類函・佩文韻府・五車韻瑞にもつみあまりて、淀ばしの水ぐるまくるくるめぐり、大木戸の荷付馬ひきもきらざるべく、今さら馬蹄の跡へんとなりて、覇橋の柳も折りつくしたれば、かの左の肘に生たる柳を枕として、柳原の何楼の刀、よいほり出しも中の町、道のほとりの二もと柳は柳まちの一ふしをつたへ、柳樽桜鯛千金還軽とは雲州の消息にみえたり。今少し柳花苑の調子をあげて怨を苑に書きかへし四角な文字で申さふならば、詩に柳を折り圃を樊ふ狂夫の狂の字もなつかしく、易の枯楊梯を生ずは大師の御鬮の吉なるべし。孟子に性は杞柳のごとしと、蝦夷檜の曲物にたとへ、草木子に柳を焼て炭となし。又灰計に入るときは銅を点じて銀となすといヘり。漢代の人柳は日に三度起きて三度眠り、楡柳の火のかちかち山には楊花の粥をすゝるとかや。大原にすむ御殿ものは岸柳秋風遠塞の情をうたひ、女郎花の姫君は青柳に五月の雨をこきまぜぬ。三河の柳堂はお有がたい御旧跡を残し、曹司谷の柳颪は風車の風になびく。本所に柳島、甲府に柳町?柳の道場、柳の馬場、柳原大納言、柳里恭のひとり寝は路柳檣花の趣をのべ、楊柳小蠻が腰もとは白楽天の御秘蔵なり。その外明律の柳葉刑はきくもおそろしく、柳花と柳絮と同じからずとは、寄園寄所寄のうがちにして、いひつゞくれば柳のはてしなく、絮煩をやめて話下にあらずとしやれておくべし。これはさておきこゝに又その小説の聞取法問、通俗本の俗語の両点、此比世にみちみちたり。其書たるをみれば殺伐の画だらけ、幽冥のうすどろどろ、御慶めでたき正月したる生ひさき祝ふわらはべの見るべきものにあらず。敵討といひ仇討といひ、柳子厚の駁復讐議、八重がたきの推刃の道、礼記の共に点を戴かざるは周礼の調人の役義をいかん。日本史の孝子伝にも曾我兄弟や阿新をのせて、史職旌表の跡たへし時の盛衰のためしにひけり。時の盛衰世の汚隆、隆達のやぶれ菅笠しめ子の兎の耳長く伝はりぬ。それかとみればあふみのや鏡の山のかんがらす鯛のみそずで四方の赤は太平の代のすがたにあらずや、がてんかがてんかと、ひとりがてんしたところが、千匹の鼻かけ猿、さるうたよみと人にいはるゝ難波のうみは伊勢の大人、あさか山の山のいも、うなぎの名びらき多かる中に、六樹の六租のから臼などはむかしとり?る杵づかなれば、四方の扇の要ぬけてばらばら扇となるとても、衣鉢も鯨爪もいるべからず。かゝるいくぢもない袖をふらせ、もえ杭に火のつくごとく如在の序をかけといふ。されどかの殺伐のはなし、幽冥のいまはしきにくらぶれば、めでたやめでたや春の初の春駒のかひに行きかふひなぶりなんどは、夢に見てさへよいとや申さん。よりて久しく休み株もあらたに、しめ木の糟をしぼりて、石炭のことばをかきまぜぬ。もとより火入のかんざまし、少々水のまじれるは、かた山の手の事なればなるべし。
 ところ/゛\ふし/゛\ありてなまよみの甲州糸に似たる青柳
  梅川詞
 諾楽旅籠屋、三輪茶屋端、廿余四十両、遣果二分残
  書画帖序
 口より出るを詩歌といひ、尻より出るをおならといふ。たゞおならのみくさきにあらず。詩歌にも亦わるくさきあり。唐一代を四ツ割にして、初盛中晩の梯子屁といひしも、盛唐くさきの偽唐くさいのとブウブウをひり散して今は放翁・誠斎のすかし屁をこく世とはなりぬ。やまとうたは馬鹿律儀にして、奈良のはのおならのは外は、草庵集や新題林をにぎり屁のにぎりつめて、おもしろく候をかしく候と、屁玉のやうな御放庇をいただくもおかし。こゝに狂歌こそをかしこものなれ。師伝もなく秘説もなし。和歌より出てわかよりをかしく、藍より出し青瓢たん、そのつるよもにはびこりて、性はせんなり瓢箪の、丸ののの字をかくばかり、二百五十の同庵が、やきもちをやくこととはなりぬ。いらざる老のにくまれ口、こゝらで筆をとめ木のかほり、自讃くさいはくさいもの身しらずとでもいひなさへ。
  女達磨のゑに題す
 庭前柏葉斎宮紋、面壁九年弟子分、私同色客乗蘆去、教外別伝不立文
  題寒垢離画
 寒氷可履也、中庸不可能也
  鰹の画に
 鎌倉の海よりいでゝむさしのゝはらにいるてふ三千もとの魚
  傾城の画に
 白妙の藤伊は雪のふじのねをはりぬきにせし夕霧が文
  猿牽の画に
 身代在嚢猿在肩、不堪煩悩犬追懸、朝四生烟一升米、暮三起浪百文銭
 さる引の百一升の米と銭あしたに四軒くれに三軒
  出女の化粧するかたかきたる豊国の画に
 頬べにの赤阪ちかき黒髪の油じみたる御油の出女
  竹に雀の画に
 とまるべき雀色にやなりぬらん夕くれ竹のふしどもとめて
  鷺と柳に雪の絵
 こもり江にひそめる魚やもとむらん柳がくれの雪のしら鷺
  ことしの初年礼にきたる門々に返礼をせざる申訳とて
 ふる雪も二三べん又三四へん御へん礼にはこまる正月
  鳥羽絵の巻物のはし書
 笛皷の音おもしろく戯をなすごときものあり。祈祷の壇を構へて大息つくがごときものあり。田楽法師のごときものあり。千引の岩よりおもかるべき宮木ひく綱きれてふしまろぶかたのごときものあり。綱代車の牛こてははなれて走るがごときものあり。すべてたなひく雲のたちゐ定めず。流れたゞよふ水茎の岡に、たゞ高山寺の三字のみさだかにみゆ。夢かと思へばうつゝ、うつゝかと見れば夢。
  文化ときこゆる暦も七まきかさなれるとしのむつきの末、柳を結て車とし草をつかねて舟となすの日
          遠桜山人
  京都初午
 いなり山稲をになへる老翁にあひしむかしを今に初午
  難波初午
 妻と子の手さげのにぎりたづさへて初午酒をひとつ杉山
  江戸初午
 いざあけんゑびや扇屋とざすとも王子のきつね鍵をくわへて
  岩井杜若かわざおぎに墓よりほり出したるかたをみて
 むらさきの江戸の根生のかきつばたほり出してこそみるべかりけれ
 目のあたへ口のあたへも千両をたかにせん両かねのやまとや
 俳諧は夏和歌は春いつとてもあたりはづさぬかきつばたかな
  木挽町森田座の芝居になにはのわざおぎ人多く来りけるときゝて
 百余里を三十間に引きよせて道頓堀の春の入ふね
  市川市蔵・藤川友吉といへるわざおぎをみて
 あづまぢにきかぬ藤川市の川美濃と播磨の新下り米
  松有春色
 梅やなぎ枝かはせども一もとの松のみどりの色ぞえならぬ
  竹に雀の画に
 雀どのおやどはどこかしらねどもちよつ/\とござれさゝの相手に
  唐詩のことはをもてよめるうだ
 高館に燈張れば風清く夜鐘残月雁帰声
 不知心誰をか恨む朝顔はたゞるりこんのうるほへる露
  月雪花
 花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかはと、ならびが岡のすねものはいへれど、花は立春より七十五日、月は三五夜中の新月、後の月もまためでたし。雪は豊年の貢物とはいへど、つめたく跡くさらかしもうるさしと、明阿弥陀仏の文にもかけり。けふふるとても若菜のあたひたかうならぬほどこそ、門田もる犬もよろこぶべけれ。
  琵琶法師
 あふさかの山はたくぼく流泉は関の清水ときくや蝉丸
  花
 蚕きせ米をくわせて花までもみよと造化のいかい御造作
  無量山の花をみて
 はかりなき仏の御名の寿を山の桜にゆづりてしがな
  瘡寺いなりのやしろの前にしだれ桜あり
 ひもろきの団子のくしをさしかざせしだれ桜の花のかさもり
  上野に笠ぬぎざくらといふあり。慈眼大師の植ゑさせ給ふといへり。むかし黒人の社中の人の歌に
  中堂のこなたにたてる一本は慈眼大師のおんさくら花といへるを思ひいでゝ
 此花は慈眼大師のおんさくらみな笠ぬぎて拝あらせ給へ
  上野第一の古木にしてよしのの種なり。かこみは一丈にあまれる大木なり
  夷の画に
 釣上げし赤女を横に抱きしめていつも心のわか夷かな
  大黒のゑに
 鬼は外幅はうち出の小槌にて数の宝をまかきやらの神
  三番叟
 舞よりもまたにぎはしき三番叟さあらば鈴をまいら千歳
  中村座の狂言に沢村源之助梅の由兵衛をなせしとき
 見物も八重さく花の大入の比は弥生の梅の由兵衛
  山門五三桐といへる狂言の名題によせて
 山門の高き弁当桟敷代五三の桐の金もおしまじ
 葷酒でも何でもはいる山門に五三の桐のこがね花さく
  おのぶといへる芸者によみてつかはしける
 三味線の糸ながながとひきつれてちとせのよはひおのぶとぞきく
  土屋にて紅梅をみる
 紅梅をみんとてけふはこうばいの客も亭主も顔は紅梅
  はとり阪道栄寺の桜をみてはとり阪といふを物名に
 花あれば見にこそたづねくれはとりさかしき道のやみもあやなし
  神齢山護国寺の花をみて
 千はやふる神のよはひの山ざくらさかりもながき心地こそすれ
 入相のかねはならねど山寺の花は寂滅為楽とぞなる
  折から入相のかねをつきければ、
 山寺にちりしく花の小紋形注文の通入相のかね
  蓑市
 七重八重こがねの蔵の山吹のみのひとつだにうれものこらず
  隅田川に花を見て
 遠乗の馬二三匹すみ田川つかれたりとも花につなぐな
  わざおぎ市川市鶴によみて贈る
 なにはえのあしのこやくのはじめより至上々吉の市鶴
 御ひいきのひく木挽町尾張町市に鶴ありみせに亀あり
  市川団作によみて遣しける
 短冊も団作もまたたはれうた市川流のひとつ反古庵
  反古庵はすみ田川の辺にかくれすみし白猿が庵の名なり。
  木挽町の茶屋尾野屋といふによみてやる
 山鳥の尾の屋にさく初桜ながながしくもあかぬ大いり
  案山子のゑに
 心なき弓矢に心ある鳥をいかゞしてかや驚かすらん
  北馬子と外一人とともに巴屋の酒楼に酒のみけるに一人は下戸なりければ
 みつ巴ひとつ巴はき下戸にてふたつ巴はゆらゆらの助
  北馬のゑがける傾城の二人禿をつれたるに
 北馬の槍北里と対の禿筆沢山さうに見る事なかれ
  日光山よりうつせし桜ありときゝて
 根ごしたる桜ひともとふたら山ふたをしつゝも風やいとはん
  長瓠の銘
 瓠子夕顔五条露、蕉翁朝飯四山烟
  金埓がかける大般若六百巻転読の僧の画に
 大般若六百巻も何かせん金埒が歌ははだか百貫
  蘭洲がかける画月僊に似たれば
 月僊かそれかあららぎ洲の上にたてるしら鷺しらがの親仁
  桜のもとに三猿あり。一つの白猿口をとぢて両の手にてふたつの猿の耳と目をふたぎたるは、見ざるきかざるの心なるべし
 面白い事をもみざるきかざるはさくらを花といはざるの智慧
  徹山が鹿の画に
 たがみても馬とは見へず徹山が羊の毛にてかけるさをしか
  坂東三津五郎岩井半四郎大のしやと書たる傘をさして出しわざおぎに
 浄るりの幕は大入大のしの相合傘のやまと大和屋
  新材木町にすめる花の屋少々道頼をいたむ
 思ひきや芝居がへりの道よりが香華の屋にならんものとは
 少々の道よりなればよけれども十万億土さつてかへらず
  郭公の玉章といふものさぬきの国しら峯にあり。うたよめと人のいふに
 しら峯の山ほととぎすはま千鳥あとはなしともかよふ玉章
  親鸞上人五百五十年忌
 こゝのつのはすのうてなにあなうらをむすびしよりもとしはいくとせ
  郭公
 ほとゝぎすなきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明のかほ
  庸軒流生華の師五英女一週忌に
 いつまでも猶いけ花と思ひしにはや一めぐり水ぎはぞたつ
  吟蝉女二十七回忌
 かぞふればはたとせあまり七とせの春秋しらぬ空蝉のそら
  右の二うたは北馬のもとめによりてよめり。
  小日向壁付番所といふ所に此君亭あり。中ノ橋普請にてまはり道せし時
 江戸川をへだつる中の橋ばしらたつた一重の壁付番所
  杜若の芸をみて
 麻の葉のかのこまだらに業平のひしこそ立のふじの大和屋
  住吉白楽天の画讃
 青苔帯衣掛岩肩、白雪似帯廻山腰
 苔ごろもきたるいはほはさもなくてきぬきぬ山の帯をするかな
  楽天が詩白俗の称ありといへども、かゝる平仄のなき詩はつくらじ。神詠は神主の上手下手によるといへども、津守の何がしもかくつたなき歌はよむまじ。成事不説、既往不咎といへば、とにもかくにも謡つくれるものの心次第なるべし。
 むだ口をはくらくてんがことのはも久しくこれですみよしの松
  浅草並木巴屋にて蜂房の画会あり
 さしてゆくはちはみつ蜂みつ巴むらがりあそぶ蜂房の会
  かひこ庵に酒のみて
 山まゆのいとひきいだすかひこ庵酔ひての夢は蝶とこそなれ
 たちかへりまたくふべしとおもひきや鱧のほねきり難波江の波
  すみといふうたひめによみてつかはしける
 かくれなき江戸のすみからすみまでもすみよし町のすみがすみかは
  かひこ庵にてすみかへらんとするに、又きよといへるうたひめの来りければ
 はや一座すみてかへれば生酔におきよとつぐる三線の音
  夏富士
 時しらぬ山とはいへどさくや姫かのこまだらに裾は当世
  狸酒かひに行くかたかきたるに
 払はずに年ふる狸さけかひにゆくや化物やしきになるらん
  布袋味噌する画
 味噌すりてまたんお客のくるまでは五十六億七千万歳
  さつき十一日萩の屋翁大屋裏住身まかりしときゝて
 長櫃と思ひしものを重箱のを萩となりぬあきもこぬまに
  五月十七日狂歌堂にて其子礼蔵有卦に入りし祝すときゝて
 今日の祝とわれにさゝげ飯師走をうけに入りし礼蔵
  五月雨
 おりおりは時あかりしてからかさをたゝめばまたもひらく五月雨
  有卦の祝に
 福の数七ツにみてる幸をけふよりうけの年は来にけり
  同祝にふの字七かさねて
 うけにいる数はなゝとせ何事もわらふてくらせふゝふふゝふゝ
  山水の画に堂あり虹あり
 此堂は観音堂か夕立のはれわたるにじ無尽意菩薩
  島田氏狂名をこふまゝに大井川明となづく
 島田から通るは歌の御状箱俊成卿の九十川でも
  鯉の画に
 魚の名はむさし下総ふたつもじ牛の角文字川向ふ島
  西行銀の猫のゑに
 此猫は何もんめほどあらうとはかけてもいはぬ円位上人
  福禄寿とから子を亀の甲にのせたる画に
 福禄寿こだま銀をもかけそへてはかりくらべん万歳の亀
  むかふ島のゑに
 むさしやを出てまつちや/\と提灯ふりしむかし恋しき
  さつき十七日狂歌堂にてわらはのうけに入りたる祝歌よめりしに、同十九日身まかりければ
 思ひきや涙をひとめうけにいる七年の夜の雨ふらんとは
 たらちねの親のまなこのおくつきはかのちゝのみの大きなる寺
  小石川中台山光円寺なり。
  水無月十九日真玄院慈光修言の墓にて
 ちゝのみのしげれる寺の木のもとにたちよりてまづぬるゝ朝露
  嵯峨釈尊回向院にて開帳のとき
 両国の三国一のみほとけのとばりひらけばこがね花ふる
  あつき日両国橋に鑓のかげたへければ
 両国の橋に一筋たへたるはやりはなしなる世にこそありけれ
  鰡魚
 みなひとのいなとはいはぬすばしりの名よしの名こそめでたかりけれ
  晴雲妙閑信女忌日
 晴れわたる夏野の末の草の原朝露わけて誰かとはまし
 雲となり雨となりしも夢うつゝきのふはけふの水無月の空
 妙なりしみのりの花をねざしにて露もにごりにしまぬはちすば
 閑にもしづの小手まきくりかへし思へばながき夏のひぐらし
  天王祭
 天王の夜宮の光やはらけく御殿の瓜もちりにまじはる
 玳瑁の櫛いなだ姫二三人ゆかたのまゝで出雲八重垣
  福禄寿
 ふくと寿の二ツに事はたる酒の天の美禄も其中にあり
  此頃狂歌さかりにて、彦星のひくうしうしうしら、いほはたたてる織姫の糸のちすぢにわかれたれば、何がしの連くれがしのつらを乱る初雁、あとながさきへゆくをやらじと、天の川波たちさはぎて、星にかすべき錦もなく、へんとつもなきことのはのみ。見るにものうく聞くもうるさし。そもそも狂歌におかしみなきは冷素麺にからしなく、刺鯖に蓼なきがごとしと、馮婦が虎の髭をなでゝ、久しいものだが七夕七首
 彦星のひくてふ牛のよだれよりこのちぎりこそ長たらしけれ
 中元の半元服や近からん三伏の夏たけしおり姫
 いく秋のへちまちぢみのすかたびらてんつるてんの星にかさまし
 かさゝぎのはしも紅葉のはしもあるを猶おいとまの妻むかへ舟
 七夕のひよくの鳥の玉子酒れんりの枝の豆やくふらん
 天河かしにまれなる秋鰹ほしのあふ瀬の一ふしもがな
 星合の床ばなれには心せようき世の嵯峨の朝まいりども
  桜に小町の画
 日のもとに桜といへる花あれば小野小町といふ美人あり
  四手綱ひく画に
 鯉を抱く両手なけれど四手綱ひきてのどかに日をくらすめり
  起あがり小法師の画に
 ひいふうみよついつゝむつなゝころび八おきあがりて九年面壁
  恵美須鯛を荷ひて来る画に
 日本橋から三ぶといふ若夷かついで来たりあつらへの鯛
  狐藻をかつぐ画に
 浜むらの大夫さんには藻をかつぐきつねもかなやせん女なるべし
  王子の月蔵坊に酒のみて
 昼中に月蔵坊の門とへばまづ盃に酒のなみたつ
  火炎玉屋といふ青楼にて
 たまたまやとは思へどももえ杭に火のつきやすき火炎にぞいる
  春日野といふうかれめ
 春日野の若むらさきのうちかけにお客のみだれかぎりしられず
  宮戸といふうかれめ
 宮戸川わたりもあへず引四ツの鐘が淵こそはやうきこゆれ
  題しらず
 加賀笠の俘世小路になれなれてきぬる人とはたれかわかなや
  川吉といふ船やかたにて大川に出しに、此ごろの雨に水たかうして船すくなく花火もなし
 屋根船と思ひしものをやかた船花火なくともまゝの川よし
  筋違橋に長芋問屋あり
 川端の御用問屋の長芋はうなぎになりてにげぬべからん
  梅川といへる酒屋のもとに舟さしよせて肴もとむるに、伴ふ人に松下忠兵衛といふ人あれば
 梅川は松下ならぬ柳ばし相方の名はちつと差合
  日本橋いづみやのもとに肴もとめに人をつかはすとて
 あたらしき肴もとめにこゆるぎのいそぎ使のあしにほんばし
  扇の画賛
  伯夷
 わらびばかりくふとはいかい不自由な焼豆腐でも周の豆かは
  水のゑに
 ゆくものはかくのごときかすみ田川昼夜をすてぬ猪牙とやね舟
  やぶこうじ
 和名薮柑子、漢字紫金牛、裏白根松外、先令此物求
 大黒の画に賛せよと人のいふにまかせて
 福分にあきたりぬれば大黒のおかほを見るも今はうるさき
  数十枚たのみけるときなり。
  元善光寺如来護国寺にて開帳。霊宝に寝釈迦あり
 釈迦はちとねるがそこもと善光寺おたのみだ仏たすけておくれ
  山王祭に船屋台あり。鉄砲洲よりいでしといふ
 船頭が多くて船は山王の山にものぼるけふの祭礼
  新場にて山王祭をみる
 江戸ツ子のきほふ日吉のおまつりはげにあたらしき魚のたなごひ
  盆すぎに鰹多く来りけるもをかしく
 盆すぎにかつをかつをの声するは夏やせをして出ずやありけん
  朝顔
 思へどもなど葉がくれに咲きぬらんひかげまつまの露の朝顔
  八朔二日十日ともに何事もなしといふ事をいはふて歌よめと人のいひければ
 八朔も二日十日もおだやかにいはふ百姓なげくもののふ
  埋三猫児
 呼馬呼牛無町畦、非南非北豈東西、可憐三個猫児子、如是畜生発菩提
  山城の名所のうたこひける人によみて遣し侍る
 山城のこはたの里の馬かしは君を思はぬ人の得意場
  月のもとにて蜆子和尚がはまぐりすくふかたかきたるに
 蜆子かと思ひの外のはまぐりはげにぐりはまに思ひつき影
  牛込のはしよりながれ落る滝のもとに舟さしよせて
 たちよりて許由が耳やあらひなん巣父のひける牛込の滝
  文武久茶釜の絵に
 文武久の茶釜にも毛のはえたるは上手の手から水がもりん寺
  江戸川大曲といふところに女の身をしづめしときゝて
 すぐならぬ人の心のまがり江のなどうけがたき身をしづめけん
  皷盆
 大耋のなげきもまゝのかはらけのほとほとぎをやうちてうたはん
  此比大用とゞこほりしを甲子の暁心よく通じければ
 甲子のけふは二また大根を輪切にしたる大黒のくそ
 名にしおふ文武丸をも用ひずによく通じたる小松教訓
  これは飯田町小松屋といふ薬店にある文武丸といへる通じ薬を年比用ひたればなり。 曾孫のはつ幟を祝して
 あやめ草ふき自在にて上をみぬかさこにおほふ孫やしは子
 たけの子の自然生して幟棹七代つゞきたつる珍宝
 しらが昆布三千丈のあやめ草ひきくらぶればかくのごとく長し
 あやめふく五月五関もやぶるべし青龍刀を御手にふりつゝ
 六衛府のわかかぶとのあがりての世にも奢やふせぎかねけん
 朝ごとに座禅豆きん時とうるものあり金時は赤豆の名なりとぞ
 座禅豆きんときあづき西来の風の鬼神取拉くらし
  夏菊
 五斗米のあきをもまたず取こしてさつきのきくをみるもはづかし
  富士
 四季ともに雲をいたゞく気ちがひや方西国もあきれたる不二
  浪華の人によみてつかはしける
 思ひ出る鱧の骨きりすり流し吹田のくわゐ天王寺蕪
  さつき廿日河原崎のわざおぎみてよめる
 庖丁の音羽屋たかきはつがつほたいてはくはぬ江戸ツ子のはら
  去年の此比深川狩野秦川のもとにて音羽屋にあひしに、発句江戸ツ子の肴なりけり初鰹といふ句かきてくれし事を思ひ出てなり。
  市川門之助八百屋お七の役
 八百八千代めでたき野屋の封じ文あけてうれしき大入の門
  頭経寺帝釈天は祖師の筆なり
 さしてゆく帝釈天はわたるべき舟をまつ戸のまかりかねむら
  市川三升によみてつかはしける、ことし深川にて成田山不動の開帳あり
 七代に成田の不動明王の霊験天下いち川の関
  林麓草堂先生門人林亭雄辰、借両国河内楼、開書画会筵、
  賦贈林亭会自遠方遷、衆妙門人玄又玄、地転十番為両国、天廻森月照前門
 もろこしの河朔の宴を河内屋にけふうつし絵の両国の会
 趙氏連城玉屋船、由来花火満前川、只今元柳橋前後、曾照中洲両国辺
 柳橋河内屋、麻布日南遥、六月雄辰会、尽来書画家
  編笠きたる男奴をつれて里通ひとみゆる上に、郭公なきたるゑに
 八助をつれてふし見の里がよひうきとしりてやなくほとゝぎす
 いにしへのさんや通ひの編笠のてつぺんかけてなくほととぎす
  ある人炭俵の中より出し茶碗を炭俵となづく茶碗は唐津なり
 もろこしのけものの炭のたはらより出し茶碗や唐津なるらん
  さつき廿八日川開には例のことゝて船出すべきを腹病にて
 くだり舟くそ丸ゆへに例年の川開をもよそにこそみれ
  長春花に四十雀のゑに
 初老の四十からして長春の花のさかりをみるやいく春
  天王燈籠の絵に櫛もて永代橋とし、玳瑁のかうがいを筏とし、毛筋通もて帆柱としたるに
 橋の名の永たいまいのさしぐしに毛筋通してたてる帆柱
  同じく毛抜をもて郭公をつくり、小き鏡を月となし、下に鰹船のあるところ
 初かつほひたす新場の水かゞみぬきあはせになく郭公
  同じく猿の臼引くかた
 ゆき来つゝさるの臼引く水車くるゝ/\ときつる見物
  仙台瑶光園鷹見をいたむ
 ほとゝぎす鳴きつるかたのたかみには月なき瑶の光をぞみる
  八十八のことぶきを
 八十あまり八のとしよりいつまでも米の飯くふ事ぞめでたき
  秋海棠に鳥の絵
 比翼にはあらぬ一羽の烏鳴てねぶりをさます秋の海棠
  過し寅のとしの二月つまづきしより病にふしければ
 ながらへば寅卯辰巳やしのばれんうしとみし年今は恋しき
  小舟町祇園会のつくりものは大きなる山門をつくりて、額に正徳五年始之と書けり、水無月十二日福の屋内成の稚室にまねかれて
 新宅の格子にならび建てたるは正徳五年建てし山門
  文晁のかける鬼箭のゑに
 一筋に思ふ心は目にみへぬ鬼の箭ながらたつる錦木
  千里遙来漢々躍、一年又過唐々春
 唐船の舟玉あげに捧つかひ銅鐸うちならしかんかん踊
  文晁のゑがけるかんかんおどり
 かんかんの踊をみても本つめのむかしの人の名こそわすれね
  文晁の故妻幹々といふ、唐画をよくせり。
  六月十二日夜望月
 凉風六月天如水、処々楼台烟樹裏、一葉軽舟遡墨河、独登艇
 板誰家子
 水無月のかげをすゞしくすみ田川棹さしのぼる舟はたが子ぞ
  思ひいづるまゝに書きつけみれば、狂言にあらずまことの詩歌なり
  かんかん踊
 かんかんの舳のみなとのさはぎ歌もろこし船の舟玉まつり
 かんかんの踊のしるしあらはれて五月雨もなく夕立もなし
  如意宝珠
 物ごとに意のごとくかなへるをさして宝珠のたまとこそいへ
  水無月十九日例の晴雲忌に甘露門にて
 三十年にひととせたらず廿日にはふつかにみたぬ日こそわすれね
  虎山子の佐渡に帰るを送る
 あら海を虎の子をわたし恙なく帰る故郷は千々の金山
  文月一日美璵子の二十一めぐりの忌に
 難波江のあしきたよりの文月もはたとせあまり一つへにけり
  伊勢人七十の賀に
 七十は古来稀とはいせ人のひがごとならぬ千代の寿
  辛巳七夕七首和歌
  七夕迎夜
 ほし合の顔やまち見ん秋風のそよぎもあへぬさゝの一夜に
  行路萩露
 花ずりの衣のすそもほしあへず露わけこゆる野路の萩原
  初雁雲連
 夕さればあまつ空より音づるゝ雲のかたての初雁のこゑ
  秋夕傷心
 何となくとありかゝりとうき秋の夕ぐれにさへなりにけらしな
  対月待客
 柴の戸の月かげきよく初秋のあつさにつどふ友ぞまたるゝ
  山家擣衣
 山ずみの軒端にすかくさゝがにのいとのみだれて衣うつらし
  文月八日竹本氏のおくれるむなぎめすとて
 水無月のそのはたちまり八日より十日ほどへてむなぎとりめす
  あこや琴ぜめの絵
 景清き月やいづこにやどるらむ雲ふきはらへ峯の松かぜ
  松浦静山老侯より二画賛をこはる、旧作を小補してとみの責をふたぐ
  月下子規
 林高夏月明、霧滴郷心切、莫使子規啼、啼時山竹裂
  葦間翡翠
 ざれ歌の口ばしなればなには江のよしやあしともまゝのかはせみ
  浅草広小路巴屋の額に三番叟の面あり
 お客の手しきりになるは滝の水たえずとふたり酒の巴屋
  六歌仙
  文屋康秀
 康秀のむかし御存じあらし吹くむべ山ばかりとるかるたうた
  僧正遍照
 僧正も乙女のすがたしばしとはまだ未練なるむね貞の主
  喜撰法師 絵に僧綱あり、いかゞ
 わが庵は人も出入らず僧綱のゑり立衣御免あれかし
  小野小町
 やまと歌衣通姫の流義にてつよからぬこそ女はよけれ
  在原業平
 在原の業平といふいろおとこつくも髪をもやらずのがさず
  大伴黒主
 立よりて見んもうぬぼれかゞみ山髭むしやくしやと色の黒ぬし
  十五夜の月
 おとどしはおしよく去年は近星やこよひ無疵の月をこそみれ
  山屋豆腐をくふ
 燈籠や俄見にゆく足引の山屋の豆腐くふばかりなり
  玄宗教楊貴妃笛図
 玄宗皇帝鼻毛長、楊貴妃顔似海棠、且欲丁寧教横笛、陣中太皷響逸蕩
  夕顔棚の下凉の絵に
 万葉のうちにもみえず夫木にも夕顔棚の下すゞみ歌
  日の出に稲の穂の画
 日のいづる本つ国とは臼と杵つくともつきじ稲の八束穂
  芋の葉かげに桔梗の画
 あきちかく花さきそむる恋風にかぶりをふれるいもはあらじな
  摂門法師のいせのくにゝまかれるを送るとて
 いすゞ川水と波とを神垣の内外のへだてあらじと思ふ
 いせの海きよき渚の神かけて衣の袖に月やどさまし
 髪長と神もないひそこれも又人の国なる人ならなくに
  神田祭
 らふそくの油町からこはめしの塩町かけておやとひまつり
 かんかんの神田祭に唐人の踊もいでんとしま町より
 拍子木の音なかりせばたをやめのいつまで踊るうすものの袖
  九月十三夜蔦屋重三郎がもとにて月を見る
 市中のけしきも蔦屋重三夜あすの祭を松の月かげ
  十五日豊島や長兵衛がもとにて雨ふり出けるに
 ふりかゝり雨と風とのふく来る長き兵衛のやどぞめでたき
  贈梅幸
 河原崎座有金箱、尾上松高菊五郎、玉藻前身外無類、忠臣後日又将当
  久貝氏馬見所聯
 勇立春駒一春始、馴来秋草千秋中
 いにしへの耳のけものをまのあたり口とらせつゝみるぞめでたき
  二条良基公の嵯峨野物語に馬を耳のけものと云ふあり。
  ことし紅毛の国より来れるもの駱駝をひきて長崎に来れるかたをうつして、狂歌のすりものとなせるよし、五揚舎福富のもとよりいひおこしければ
 老ては狂歌もよまぬが駱駝
  と書きつかはしけるもおかし。
  神田まつりの日雨ふりければ
 笛太皷神田ばやしの曲撥の音もどんどとふりしきる雨
  済松寺に菊ありときゝて白菊をこふに。とみに贈り給ひければ
 そもさんか払子を竪におこせしはまさに一鉢しらぎくの花
 しら菊の花一本はふる寺の雪の山をやいでゝ来にけん
  神無月十七日ざうしがや大行院のつくり物をみて
 かざり物みんと門辺にたつの口秋の小春の行合の川
  巣鴨の植木屋弥三郎がもとの西施白といふ菊を
 姑蘇台のしかと病も直らねば西施の肌のしら菊もみず
  この菊もろこしよりただ一本大村の地にわたりしを、弥三郎が求め置きたるにて外になしと云。
  佐々木花禅翁をいたみて
 みほとけの手折りし花をうけ得つゝ笑をふくみし面影ぞする
 家の風ふきもたゆまで鳥が啼くあづまぶりをやのこすことのは
 あら玉のとしのはじめのあらましにちぎりしことも夢とこそなれ
  ことしの顔見世の番付をみれば、松本幸四郎の名、京四条と河原崎と市村座にあるもおかしくて
 顔見世の名は三韓の高麗屋京の四条と江戸両芝居
  猫といへる火桶を抱きて
 この猫はしろがねにてはあらがねの土一升の江戸今戸焼
  井上氏の手づからつくれる菊をおくれるに
 霜月の下着の黄菊白菊ははや諸太夫のしるしなるべし
  坂太といへる札差の家督の祝に亀をゑがきて
 老の阪たちこえゆかん万代の亀の子のこの子の末までも
  顔見世は三軒ともにはじめたれど一向に評判なし
 顔見世は三軒ともにはじめてもあら計にて見どころはなし
 大江戸になにはのあしのみだれ入り市川流もたえてしばらく
  初瀬川といへる角力、本所相生町にて人とたゝかひうせしときゝて
 二もとの松さへかれぬ本庄の相生町の三丁目にて
  又
 角觝夫号泊瀬川、二株松樹立岩阿、乍聞讐敵雌雄決、不比尋常勝敗多
  雲蜂のゑがける雲に郭公
 ほとゝぎすなくてふ夏の雲の峰たてたる筆とはしり書
  福の屋主人角力立狂歌合番文序
 角力立のたはれ歌合は秋の田のほてといひ、人をまつほのうら手とよびし面影をうつして、その取合の番文を取組といふ。古の左右は今の東西とかはり、すまひの長をとしよりと名付るも、はばかりの関の大関せきわき、はた露ならぬ小結前頭などいひて、更に霞に霧や千重へだたつまくのうちとよぶ事になん。たはれうたも亦是にならひて、小鳥づかひのはじめより、抜出追相撲の末にいたるまで、勝と負とをわいだむる事とはなれりける。こゝに福の屋のあるじ、ことし文のまつりごち給ふ辛巳のとしの春のはじめより年の暮にいたるまで、みそじあまりひとつの角力立に、大かたいはゆる幕の内に入りたる番文を一巻とし、たはれし道のめいぼくにせんとて、これがはしつかたにそのことはりをしるしてよと、せちきのせちにこはるゝまゝ、筆のまにまにかいやりぬ。まことかの吉田の何がしとやらんが家につたへし追風のたよりをだにしらねば、今のすがたはたどたどしくなんありける。 神風のいせ伝ははし鷹のゑとりやしきの、ふるきをたづねて、あたらし橋のほとりにすめり。つとにおきよはにいねて、その家の業におこたりなきをたゝへて
 ざうしがやせんだ木村のむら雀すゞめの千声鷹の一こゑ
  元日雪
 初雪にけさはふりこめられたりし小野のむかしを思ふ元日
  歳暮
 七十にあまれるとしのくれ竹のよたびも松の下くぐるべき
  立春 小川町を錦のきれといふ
 柳原桜の馬場をこぎ(ママ)まぜて春の錦のきれやたつらん
  平戸の老侯静山公のもとめによりて、翁の画に
 なるは滝の水のながれの音たへずとうとうたらりたらり長いき
  若菜の日雪ふりければ
 若菜つむ野路はみゆきにうづもれてたが七種の数をわくべき
  焉馬翁八十のとしの春のはなし初の会に子の日といへる題にて
 八十の春の子日の小松原十八公と若がへれかし
  春雨
 上天の事は音なくまた花のかもなき庭に春雨ぞふる
 赤坂塚口氏といへる酒家の半切桶を、去年十二月朔日に失ひしが、ことし正月六日門前にしたゝかなる音せしをいでゝみれば、かの桶なり。これに神符と書付あり。鞍馬山の大餅舂にて清浄の盤をもとめてかり置きしが、今かへすなり。これより家内繁昌すべきむねありて、鞍馬山執事と書きしものあり。そのうたよみてよと塚口氏のこふにまかせてくらま山僧正坊のもちつきの御用にたちし半切の桶
  その桶に雪のつきたるも不思議にて、都下に雲のふりしは翌七日のことなり
 くらま山大もちつきの御用にも立臼ならぬ半切の盤
  とよみ直せしなり。
  夢想のうた
 屠蘇の酒曲水花見月見菊年わすれまでのみつゞけばや
  むつき廿五日亀戸天神にうそかへの神事あり。文政三年庚申よりはじまれり
 此神のまことつくしのうそならば宰府の銭かへんとぞ思ふ
  浜名納豆
 から皮の猫にあらねばさみせんのいとをばひかぬ浜名納豆
  みやこの画師のかける傾城のかたはらに禿文を手にもてり
 ふもとよりふみ出す禿遠からず高きお山にならんとぞ思ふ
  おなじく芸子
 色糸の一の芸子のねをあげて二の転手をばまくぞあやしき
  琵琶に転軫といひ三線に転手と云、ふるき草紙にもてん手海老の尾とかけり。閏むつきなぬかの日はじめて後園をうかゞふに一本の梅さけり
 うづみ火のあたりをいでゝうかがへばいつしか梅の花さきにけり
  新楽閑叟無性箱といふものをもて来て歌をこふ
 みさかなに春はものうき蕨より夏秋冬も此無性箱
  草履うちの画に
 うつものもうたるゝものも奥女中かはらけならぬ毛沢山なり
  あこや三曲の画に
 世の中は皆つるのあし鳧の脛重忠もあり岩氷もあり
  閏月九日市村座のわざおぎに
 市川が又市村の再興はいち/\時にあたる狂言
 正月のふたつあるとし市川をかさねてみます大入の春
  式亭三馬閏正月六日身まかりしときゝて
 ゆくものはかくのごときか江戸の水ながれて三馬駟馬も及ばず
  とし比本町二丁目にて江戸の水といふものをひさぎければなり。
  浅草巴屋歳旦のすり物に
 春風のふくろひらけば鳴神のつゞみの殿のみつのともえや
  甲州八幡差出磯のもの二人霜柿をもて来りければ
 名物の品とさし出の磯千鳥はちやの柿も八千代なるべし
  南岳の印譜に
 よき玉をきざむこの手のあし鼎南の岳のおしてこそみれ
  江島の富士の画に
 北条がみつの鱗をさづかりしそのひとつかや江島の富士
  越後獅子
 謙信も軍が下手であるならばまづ鏡磨さて越後獅子
  瀬川路考・岩井粂三郎がわざおぎをたゝへて、
 浜村に岩井の水をくめさとは江戸紫のあたりなるべし
  同ぬれ髪のおせき
 浜村や瀬川の水にぬれ髪のせきもとゞめぬ木戸の大入
  同放駒のおはや
 大和屋の岩井のあたりはなれ駒おはやくおいで朝はとうから
  彼岸の入の日八百善のもとにて
 庖丁も八百善根やつくすらんさんやのほりのかの岸に入
  病をつとめて法林堂とともに上野の花を見る
 白雲の上野の花のさかりにはしばし心もはるゝうれしさ
  扇に書たる詩に二句あり、今日の事に似たるもおかしくて
  入洞題松遍
 天台の霞の洞に入りぬればからうた書かん松原のまつ
  看花選石眠
 ねごゝろのよろしきところえらびつゝ石の上にも三春の花
  同じ日浄行堂にて探幽の画けるといへる涅槃像をみる
 世の中のはかなきためししらせんと釈迦もごろりと横にごねはん
  きさらぎ廿一日青山堂、孫畯とともに伝通院の花を見るに盛なり
 此春の命ひとつのあるゆへに無量の山の花をしもみれ
  白山の花をみてよめる、本社のかたに筆桜ありしがみえず
 旗桜あれは備後の三郎がもてる矢立の筆ざくらならし
  いせ伝のもとより蕙斎が画がける料理通のさし画の賛をこふ蝶や夢鶯いかゞ八百善が料理通にてみたやうなかほ
  松浦静山老侯のもとより大神楽の獅子にむかひて犬の吠ゆる画に賛せよと宣ひければから国のおそろ獅子もやいかならん准南王の犬にむかはば
  帰雁
 秋冬をこしぢの帰雁とびたてばじだんだをふむ石亀ぞうき
  白藤子によみて贈る
 いかほどに波のぬれぎぬきするとももとよりかたき岩次郎どの
  蕗と自在を画たるに
 草の名のそのふき自在徳ありてめうがもあらせ玉琴のうた
  桜ぐさ
 むさしのの一もとならずむらさきの地に丁どおふ江戸さくらそう
  桜草の唐名を紫花地丁とかいひし。
  佐々木氏より牡丹の花をきりて贈られけるに
 八十あまり八夜弥生の廿日草いつかもはやくいつか咲きにき
  病気にて起居かなはず、十五日ばかりもふせればなるべし。
  丸屋より藤花をおこせしに
 亀井戸の藤とおもへばふじながら身をそり橋になしてこそみれ
  牡丹
 褻衣にせざるくれなゐ紫の色ふかみ草春のはれぎぬ
  病中のうた
 こしおれの歌のむくひかあさましやうしろにしめし前にしゝ筒
  松魚
 三両の初がつほにもあふ事はかた身で二百四十八文
  卯旧朔日初がつほを献上になりしときゝて
 たてまつるはつのかつほを夕河岸の衣にかへん卯月朔日
  芍薬
 穆々とふかみ草かも芍薬のたすくるはこれ花の辟公
  躑躅
 春ふかき霧島つゝじしらぬ火のもゆるが如き花とこそみれ
  撫子
 飛鳥井の色もこきんの撫子はから紅にやまといろ/\
  杜若
 あやめ草似たるやうでもかきつばたかほよき花の江戸の紫
  夏菊
 時しらぬ不時の花とてむらさきのかのこまだらにさける夏菊
  白きつゝじ
 花の名も所によりて岩つゝじ浪華の平戸江戸の琉球
  卯月十四日の暁時鳥をきゝて
 まてしばし蛙もだまれ鶯の巣を出る時の鳥の一声
  国の守のおめぐみをかしこみて角力を興行せしに、そのしるしありてや守の殿の禄高うまし給ふときゝて
 いのりつる弓矢八幡神かけて角力とろなら古河の御城下
  上総国歯吹阿弥陀回向院にて開帳あり
 願だてにたつ蛤の口あいて歯吹の弥陀の影ぞたうとき
  津の国舎利尊勝寺の聖徳太子浅草八幡にて開帳
 天王寺一舎利二舎利尊勝幸南無仏舎利の数の一粒


をみなへし
          蜀山人
  男色の心をよみ侍る
 女郎花なまめきたてる前よりもうしろめたしやふじばかま腰
  鰻鱺
 あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは
  橘州のもとにて障子のやぶれたるをみて
 やぶれたる障子をたつてはらざるはそれゆうふくな家のしまつか
  小島源之助(橘洲)のもとにて人々狂歌をよみ侍りしに、あるじの驪龍のたまをとられて鱗もとりあへぬといひければ
 北条のうろこもなどかとらざらんひるが小島の源之助どの
  多賀谷氏より三線をかりて
 さみせんのどうもいはれぬ御無心にいとやすやすとかすたがやさん
  ある人ゑびやの箙といへるうかれめのもとに通ふときゝて
 ゑびらにはあらぬゑびやの梅折りて盆と暮とに二度のかけ取
  あめ原憲の樞をうるほしていたくもりければ
 さす板に雨のふる屋のむねもりはかさはりの子のしるしなりけり
  返し
 かさはりの子ならばよしやむねもりもさらでいとはじ雨のふる屋を
  翫大菊
 大菊をめづる狂歌ははなかみの小菊を折てかくもはづかし
  西向寺の隠居のつくれる菊をみて
 この花を東まがきにうゑたるは西に向へる寺の隠居か
  うら盆
 かけとりのみるめかぐはなうるさきに人にしのぶのうらぼんもがな
  花
 春の夜のたゞ一時も千金にかへまじものを花が三文
  狐藻をかづく絵に
 うつくしき女と見えし狐こそ人の思ひをやきねづみなれ
  猿水の月とるかたかきたるに
 水の面にてる月かげをとらんとはこれさるぢゑの最中なりけり
  しのぶうりの女のゑに
 しのぶ草京の田舎におひ出て八瀬や小原やせりうりとなる
  羽子をつく小女のゑに
 はごの子のひとこにふたこ見わたせばよめ子にいつかならんむすめ子
  鍬のかたへに桜草のゑ
 いにしへのならのみやこの桜草けふくわのえに匂ひぬるかな
  鬼念仏
 念仏を申す心のやさしさは鬼も十八檀林の僧
  伊尹は爼板を背たらおひて成湯に目みえし、山かげの中納言は口腹のために
  世味をわする、十能のひとつにかぞへ一座の興をたすく。それゆるかせにす可けんや。客をみてなぎなたならぬあしらひは料理に上もなきり庖丁
  これは尾張のみたちにつかふなる料理をこのめる人にかきおくれるなり。
  柳かげに女のたてる画に
 ゑにかけるその女なら柳なら心も風もうごきこそすれ
  大和菊
 言の葉の花香にめでゝ立ちとまる人の心をたねのやまと菊
  日本橋月
 二千里の海山かけてゆく月もいでたつ足の日本ばしより
  吉原花
 吉原の夜みせをはるの夕ぐれは入相のかねに花やさくらん
  堺町雪
 評判はよそからつもる雪つぶであたりはづれぬ堺町かな
  寄力恋
 あふ事はかたひねりなるつかの間も心ほそ身に思ひきられじ
  船饅頭
 こがれよる船まんぢうの名に立ちてこの川竹の夜をふかすらし
  十三夜橘州のもとにて諷謡十三番を題にて月のうたよみけるに田村を
 あれをみよふしぎやなぐひ大空にひとたび放つ千々の月影
  御紋菊
 白がさねきまさん君が御紋菊ものきほしとぞあやまたれぬる
  鰹魚にゑひて
 鍋のふた明けてくやしく酔ひぬるは浦島が子がつるかつほかも
  卯雲翁を下谷にとひて
 狂歌をば天井までもひゞかせて下屋にすめる翁とはばや
  大鳥明神にて
 此神にぬさをもとりの名にしおはばさぞ大きなるかごありぬべし
  千駄が谷八幡宮の門前にて道ゆく女の子をうめるとてさはぎあへりけるに
 弓八幡宮ゐのわきで三番叟よろこびありやよろこびありや
  寄煙草恋
 うづみ火のしたにさはらで和らかにいひいひよらん言のはたばこもがな
  寄火入恋
 きゆるまで思ひ入りてもあふ事は猶かた炭のいけるかひなし
  寄灰吹恋
 灰ふきの青かりしより見そめたる心のたけをうちはたかばや
  神無月祖師の御影供にざうしがやにて扇をひろひて
 おちたるをひろひゑしきのもち扇とる手おそしの御影堂まへ
  章魚をさかなに酒たうべて
 誰にても酒をしひてや足あれど手のなきものぞたこの入道
  御取越
 みな人のきる肩衣の下なきは神無月にもおとりこしかな
  恩報講
 西東参る人々御中にひらく御文の御報恩講
  等思両人恋
 片身づゝわけし思ひの中落はいづれかつほの骨つきもなし
  雲雀
 舞雲雀籠のとりやが手に落ちてから直も高くあがりこそすれ
  郭公
 ほととぎすほぞんのみくりふりぬればいまはてつぺんかけたとやなく
  花
 わきて猶思ふ心の花だしや春をまつりの老にこそたて
 咲きなばとわがおもほえし犬桜遠山鳥の尾をふりてみん
 待遠の心いられやいり豆に花咲くほどの日数おもへば
 よしの川そのしら波やふせがんとかけし木末の花ねむりかも
 咲く花の帰る根付の琥珀にもなりて木かげの塵をすはばや
  一八の花
 うつくしき二八あまりのすがたよりこの一八の花ぞえならぬ
  端午
 のぼり竹すぐなるよとはかみしもの麻の中なる蓬にもしれ
  卯雲翁に久しく音づれもえせで申遣しける
 一寸のひまなき用にさしつまりつい五分さたとなりにけるかな
  返し
 此方も一寸のひまなきゆへにつまるところは無沙汰五分五分
  布袋和尚牛にのりてから子のひきてゆく画に
 寺子どもひきだす牛のつのもじはいろはにほてい和尚なるかな
  飯田町雁奴のもとにやどれりけるに、となりのからうすの音におどろかされてごほごほとふむからうすに目さむれば東しらける飯田町かな
  寄楽庵祝
 卓子の四すみも腹におさまりて御代は太平楽庵の客
  楽庵萱葉町にあり。唐料理の茶亭なり。
  松かげに鳥さし竿をもちて天人をさゝんとねらふ絵に
 乙女でもなんでもさいてくれは鳥さいとりさしを三保の松かげ
  みどり町滝口氏のもとにて
 庭の面にしげれる木々の緑町ふりそふ雨の音はたき口
  扇に吉野の花かきたるを狂歌せよと人のいひ侍りしかば
 むかしたれかゝる狂歌のたねまきて吉野の花もちりになしけん
  日吉の祭みんとて星の岡にまかりけるに、いはきますやとかいへるくれはあきなふ者のさんじきに、よきむすめあなりとて人々とよみあひければよめる
 みな人の心いはきにあらざれば思ひますやの娘をぞみる
  猿猴素麺をくふ絵
 足引の山ざるの手のひだり右ながながしくもすゝる素麺
  文字六といへる豊後節の浄瑠璃をかたれるもの仙台浄るりを語りければ
 仙台のことばをうつす浄るりもそのみちのくのしのぶ文字六
  同じく地獄破りといへる浄るりを語りけるが折しも祇園の祭の夜なれば
 けふは又牛頭天王の祭とて地獄やぶりの浄るりにめづ
  箸紙に題す
 米の飯の菩薩と同じ一体のはしがみといふ神はこの神
  みどり町滝口氏にて扇に画かきたるをあまたもち出て狂歌せよと望む
  芦に翡翠
 とりあへずよめる狂歌は難波江のよしやあしともまゝのかはせみ
  雪のふりつもる杉の間に伊達道具のみゆるところ
 しら雪のふる行列のたて道具いづれの宿をすぎのむら立
  角兵衛獅子の絵に
 打出てみれば太皷の音にきく獅子奮迅もかくや角兵衛
  わいわい天王のゑに
 絵にかける天王さまを見はやしてすきの狂歌のたねをまくまく
  高砂のゑに
 たれをかも仲人にせん高砂の松もむかしの茶のみ友だち
  末広といへる狂言のかたを扇にかきたるに
 からかさも扇もともに末広の名にやめでてたくかい太郎冠者
  淀橋のほとりにすめる五風子狂歌の巻に点せよとおこせしかば
 淀橋の狂歌に点をかけてみんたがおまけやらおかち町やら
  歳暮
 借銭をもちについたる年の尾や庭にこねとり門にかけとり
  かけとりをみてよめる
 かけとりのわたらぬ金にむく目玉しろきをみればよぞふけいきな
  辛丑歳旦
 くれ竹のよの人なみに松たてゝやぶれ障子をはるは来にけり
  同行四人龍隠庵に昼寝して
 虎ならで龍隠庵に四睡とは耳にもきかづ目白にもみず
  ほのといへるうかれめにあひて
 ほのぼのとあかぎの山のひときりに玉かへりゆく馬おしぞ思ふ
  浪花の耳鳥斎とかやかける牛若浄るり御前の絵の扇に狂歌せよと、浜辺黒人のいひければとりあへずよめる
 しゝをみて矢はぎの里の琴の音にこゝろひかるゝ虎のしり鞘
  牡丹
 咲きしよりうつらうつらと酒のみて花のもとにて廿日酔ひけり
  又
 うつくしきはながみ入のふかみ草露のぼたんをかけてこそみれ
  白牡丹
 くれなゐのくるへる獅子の洞よりも又しら雪をはく牡丹かな
  石燈籠に雪のふりたるに、みゝづくの赤き頭布きてとまり居る画に
 木兎引の千引の石の燈籠にあかい頭巾をかぶりふる雪
  柳に燕のかたかきたる絵に
 つか糸にみだれてなびく柳原ならぶ刀のつばくらめかな
  市川三升しばらくの画賛
 市川のながれて四方にひゞくらん愁人のためにしばらくのこゑ
  嵩松子かしらおろして土器のほとりにすめるよしをきゝて
 おつぶりに毛のないゆへか若やぎてかはらけ町にちかきかくれ家
  卯雲翁のもとより肥後の小代焼といへる花生をおくられければ
 肥後ずゐきそれにはあらで花生の名におふいもがこしろやきかな
 尾張のみたちにつかふまつれる岡田氏のもとよりかずの絵をかゝせて、これにたゝえごとをそへてよとておこされしうち蛍のゑに
 勧学の窓に蛍はあつむれど尻からもゆる火をいかにせん
  松かげに船の帆のみえて有明の月のこりたる絵に
 あかつきのそのふんどしを真帆片帆かけて立たる松ふぐりかも
  柳に馬のかたかきたるに
 青柳にあれたる駒はつなぐともさいた桜のかげは御無用
  車引牛車の上に仰さまにふしてひかれゆくかたかきたる
 小車の牛の角文字ゆがみもじ大の字なりにいびきかくなり
  おたふくうしろむきに鏡をうかゞふところ
 尻くらひ観音にまたおたふくの弁才天をあはせ鏡か
  南極寿星図
 南極の星を三年まもりなば福禄寿ともそへてあたえん
  同じく
 宝船いざよい風がふくろく寿あたまのゑてに帆をあげてみん
  溜池月
 山里の猿となりてもとらまほし数のこがねをためいけの月
  瀬川路考松本錦考おはん長右衛門道行瀬川仇浪の狂言の画に
 金箱をせなかにおはん長右衛門二人が芸にあだなみはなし
 音にきく瀬川のきしのあだなみはあてしや入のくづれこそすれ
  小松引の画
 子日する野辺に小松の大臣は今に賢者のためしにぞひく
  滝見の李白
 滝の音はたえてもたえぬ名の高き三千丈の大白の糸
  僧正遍照落馬の絵賛
  われおちにきと口とめも心もとなければ
 女郎花口もさが野にたつた今僧正さんが落ちなさんした
  すりばちのはたを白きねづみ黒きねづみのめぐるゑに
 すりばちをめぐる月日のねづみ算われても末にあはん玉味噌
  小原女
 小原女がひくてふ牛の黒木よりこしおれ歌もかきのせてみん
  橋場の慶養寺に慶長のむかし袖をたち桃をわかちしちかひより、はかなくなりし二人の墓ありときゝてたづね侍るしに、此寺もと浅草のみくらまへにありて、そののち亀戸村にうつり、また今の地に移れるよしにて、そのおくつきどころのあとだになしといふ。あまりにほいなくてたちいでつ。二人の事は羅浮子の藻屑物語に見へたり。
 あとかたもなみのもくづの物語今かきわけてとふ方ぞなき
  山手と同じく肥前座の操を見侍りし帰るさ、新和泉町の銭湯に入りしに、浴室新しく清げなれば
 ひぜんなら薬湯へこそ入るるべきにこれはきれいな新和泉町
  四角画の自賛
  女芸者の絵
 丸くとも一ト角あれな駒下駄のあまりまろきはころびやすきに
  富士見西行
 風になびく富士の煙の薄墨はかくゑもしらぬわが思ひつき
  太刀折紙の使者
 かどびしのたちおり紙のおり目高四角四面に通る使者の間
  市川三升しばらくの所
 三升をにせうにせうと思へどもかゝるかく画は一升に見ず
  かんこ鳥
 四角なる玉子をみてもかんこ鳥ふかくかく画の鳥おどろかす
  朝とく野べをありきしに、つりがね草といふ草をみて
 朝露のすはすはうごく風の間につりがね草を引きあげてみる
  女の猫を愛する四角画
 猫の目のかはるにつけて時々のはやりとも見よ身をばかく袖
  煙草をのむ使客 同画
 稲妻に煙草の煙吹出すはこれ雷の喧嘩大將
  石町に竹本佐太夫を訪ひて
 石町の鐘よりひゞくその声はあまつ空まですみ太夫かな
  はじめて茶屋四郎二郎にあひてよみてつかはしける
 これは又よい折鷹の茶屋氏にお目にかゝるは初むかし哉
  食肴飲酒曲肱而枕之楽亦在其中矣
 てる月のかゞみをぬいて樽枕雪もこんこん花もさけさけ
  春の日つくば山をみて
 つくば山このもはかすみかのもにはまだ消残る雪もみへけり
  三河島といふ処にて
 舟つなぐ松も昔の海づらにいくたび小田やすきかへしけん
  むつき三日上野にて夷曲
 まいれどもなま物しりのかなしさはなま有がたき大師大黒
  同じく護国院にて
 大黒の宝の山に入りながらむなしく帰る湯ものまずして
  岩み町本所青山白山小石川の五所までやしき給はらん事を願ひしに、その事かなひがたければ
 梓引やしきなきこそ悲しけれ五たびねらふ的ははづれて
  としのはじめに
 門々の年始の礼のなかりせば春の心はのどけからまし
  富ケ岡にて
 春秋にとみが岡とて一むれの梅をかざしてまいる尾花や
  柳
 ところどころふしぶしありてなまよみの甲州糸ににたる青柳
  浅草庵にてもろ人梅のざれ歌よむと
 風の神こちらをむけば浅草の庵にちかき梅匂ふ小屋
  梅音院のもとの名を二王小屋とも匂ふ小屋ともいへばなるべし。
  富小路殿貞直卿より
 (歌脱落)
  返し
 千金の富の小路のたまものを拝してよものあからめもせず
  真葛が原にすめる狼狽窟のあるじによみてつかはしける
 長き日のあしにわらびの手をそへて真葛が原も風のとりなり
  酒あれども肴なし、つまり肴の三のものの名によまばかくもあらんかし
  からすみ、うるか、たらこ
 金銀がないからすみぬ利をうるかまうけたらこのさかなもとめん
  壬生狂言おけとりのゑに
 千代のうが心をくまば桶取の水もたまらず月もやどらじ
  寿祝 九十賀
 かぞへゆく春の日数のよはひより猶幾千代の花やかざさん
  施薬所に梅の花をみて
 花みれば気の薬なり腰ぬけになるとも梅のかげにたふれん
  根立氏ふゆくのとしの賀に
 のりこえぬひじりのみちをためしにて千代も心の思ふまにまに
  銭屋金埒のもとより
 ふたつもじ牛のつの文字ふたつもじゆがむ文字にてのむべかりける
  返し
 すぐな文字帯むすび文字お客文字字はよめずとものむべかりける
  こいこくしやうといふ事なるべし。
  一樹海前一放翁のこゝろを
 梅のさかぬ野山もなかりけり身を百千にわけつゝも見ん
  布袋川をわたる絵に
 かりの世をわたりざりせば川のせにみるめありともたれかしるべき
  伝通院に花見にまかりて
 花にゑふ去年の春より今年までのみつる酒もはかりなき山
  山を無量山といへばなり。
  紅毛大通詞石橋氏餞別
 阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍をきなの句にもみえし道中
  亀屋何がしの妾眉をそりし日にゆきて、その名を熊とあらためしときゝて
 相生の中吉なればもろともに松の落葉をかく熊手かも
  もと富ケ岡にめる(ママ)白拍子中吉といへるものなればなり。
  春の雪ふるあした、すみだ川のほとりにすめる亀屋菊屋の何某と吹屋町升楼にてよめる
 世の中の人には雪とすみだ川春風寒く吹屋町がし
  升楼のいらつめ市といふが乞ふにまかせてその壁にかく
 むかし人はかくいちはやきみやびをなんしけると書きし伊勢物語
  庭のさくら盛なるに
 きのふまでわか家桜ありとしもしらで野山の花になれにき
 立てみつゐてみつ庭のなかばちりなかば桜の花の木のもと
  さくらのちりけるに
 花みんと思ふ心のなかなかにちりはてゝこそ長閑なりけれ
  春雨の夜よみける
 春雨の空かきくらしふる夜半はきのふ花みし事も思ほゆ
  久米仙人の画に
 たをやめのあらふ衣の塵ひぢやつもりてなれる恋の山人
  庭の桜の枝に提灯をかけしに風ふきて提灯をうごかしけるに
 火ざくらにてうちん桜焼きすてしまづ何事もなでんなりけり
  嘯月園のふすまに秋の七草をゑがけるを春の夕ぐれにみて
 風をむかへ月に嘯く山里や春の百花秋の七草
  三又の江のほとりにて並木五瓶にあひて
 生酔の八またのおろち三ツまたで五つの瓶にあふぞうれしき
  かもめをみて
 すみ田川沖のかもめをよくみればむかしのたぼのなりにことなり
  駒が原のしだれ桃を見にまかりて
 きぬがさを張るかとばかりみちとせの桃さく野べやさしてたづねん
  卯月のはじめ雨ふりけるに
 春雨の名さへ花にはいとひしをいとゞうづきは言の葉もなし
  七年さきにうせにし美瑛子の夢のうちに、かたへにある刀かけといふものをうつすとみて
 つるぎ太刀みにそふ影も今は世にかけはなれたる夢の浮橋
  感応寺の牡丹の花見にまかりしに、ふかみ草といふ五文字を上におきて歌よみけるふる寺の庭の木蔭のふかみ草春の光をのがれてやさく
 かしこしな千ぐさの花のおほきみの名におふ花や法の大君
 見しや夢きゝしやうつゝ花鳥の色音の後にさく廿日草
 くさぐさの草の中にも一枝のぼたにの花の色ぞえならぬ
 さくらのみ花と思ひし目うつしにたぐひもなつの色ふかみ草
  圓珠庵の楓のたねをうつし植ゑおきけるが、卯月ばかりに一枝折て政隣のもとにつかはしける
 露ながら折りてや見せん若楓かげまどかなる玉と思へば
  返し
 まどかなるたまものなれや若楓君がことばの露もそはりて
  浮舟のゑに
 心からよるべもなみの浮舟の名にたち花の色はかはらじ
  たけしまゆりといふを物名に
 朝まだき咲きそめしより日たけしまゆりもこぼさぬ花の上の露
  おなじく夷曲
 年はたけ島田にゆへる娘かとみればうつむくさゆりばの花
 咲出る花の形はひあふぎをかざすに似たるたけしまの百合
  卯月のはじめ郭両をきく
 鎌倉の海の初音もきかなくに山ほととぎす空に飛魚
  おなじ日尚左堂にて初鰹をくふ
 ほととぎす聞くみゝのみか初鰹ひだり箸にてくふべかりける
  焼絵の富士の夷曲
 風になびくふじの烟の空に消えて焼絵もしらぬかたを見るかな
  嵐はげしき夜伊藤氏のもとに、屋代弘賢のすみ田川花見の記をみて、ひそかにたづさへ帰りてうつしてかへしける時
 夜嵐に花の香ぬすむすみだ川いざしらなみの名にやたつらん
  かき根に白き藤花さけり
 いづこともしら波かゝる藤の花ながむる末のまつやこへけん
  やよひの末内田屋に躑躅の花をみて
 春もやゝ末寺町のいはつゝじ花は赤城の宮ちかくさく
  むつきの頃白川楼のあるじに莫大河といふものをおくるとて
 千金の春の光は莫大の海にながるゝ百川の水
  三月三日中戸やみせ開の日に
 梓弓やよひの色のみせびらきあたりはづさぬ文字の中戸や
  五月五日馬蘭亭にて
 此庭の馬蘭の葉にもにたるかなあやめのねざし長き出会は
  六日のあやめといふ事をよめる
 世の中はさつき六日のあやめ草猶いく年をひかんとぞ思ふ
  たゞの扇にものかくとて
 鳥にあらず鼠にあらず蝙蟷にものかきすさむ我ぞ何なる
  市にかつほをあまたうりありくをみて
 鎌倉の海の幸ありて大江戸の道もさりあへず鰹うるこゑ
  夕立
 一しきりはれゆくあとの山本にまたもたゞよふ夕立の雲
  俳優沢村源之助表徳を曙山といふ、観世水と蝶のかたある染ゆかたをきたるをみてうたよめと人のいふに
 観世水ながるゝ沢にむらむらとこてふの夢や曙の山
  小野の滝の絵に
 山さらにかすかにひゞく小野の滝木曾の伐木丁々として
  狂歌堂の庭に秋草うゑたるをみて
 ことのはの六くさの庵は秋草の一つ二つはたらいでもよし
  七夕
 七夕を思へば遠きあめりかのあまさうねんの事にや有けん
 天河蓮台輿のなき世とて紅葉の橋やかさゝぎのはし
  十五夜姫路の大守の高どのにて
 中秋の月毛のこまの名にしおはば此大下馬の前にとゞまれ
 馬蘭亭池の端にて池の坊流の花の会ありけるに鴨と芹を贈る
 しのばずの池の坊なる会席に岸の根芹をちよとつまんかも
  鉄砲矢場に真蘇芳の薄さけり
 狂言の鉄砲矢場の花薄だあと一声はける真蘇芳
  狂歌房米人、霊岸島檜皮河岸にうつりすみけるに
 軒迎吾友論風骨、房詠狂歌題檜皮、
 まきものの檜原が河岸に庵しめて狂歌の斧をとる人はたぞ
  尚左堂のもとにまとゐして
 霊宝は左へといふことのはも此やどよりやいひはじめけん
  暮秋
 菊おりてことしも秋はくれにけり梅をかざせし事もありしが
 草も木もかれゆく比をゝのれさへわびしと秋やくれて行くらん
  さんまひものといふ物名に
 もろ人のとりめすものをわれも亦きなくさんまのひものとくとく
  冬の柳を
 木がらしにたてる柳の一葉なくちりはてゝこそ青みそめけれ
  市人の酒をのむをみて
 寒き日は酒うる門にむれゐつゝさかなもとめて酔へる市人
  食火鳥
 あつき日に水こひ鳥もあるものを火をくふ鳥もなどかなからん
  和田酒盛の盃に
 一門で三日三五十五城つらねし和氏がたまのさかづき
  六俳仙女の画に
 俳諧のうたも六くさの女郎花など男へしひとつだになき
  冬の田をみて
 鍋の尻するすみの世と思ふにも冬の田足をながめこそすれ
  目白の滝
 布引の滝をながめし目白台たつた手拭一すぢの水
  賀七代三升元服
 七代市川団十郎、吉辰元服仲冬望、三升滝水龍門鯉、天地乾坤大戯場
  十二月八日柳長をいたみて
 家々のいかきの目にも涙かなおことおさめにかゝる柳屋
  六十になりけるとし
 したがふかしたがはぬかは知らねども先これよくの耳たぶにこそ
 六十の手習子とて里に杖つくやつえつき乃の字なるらん
  元日狂歌堂にて賀茂の葵盆を曾津漆にぬりたる折敷に鶴の吸物を出しければ
 二葉より千とせの春にあふひ盆かもにもまさる鶴の吸物
  庭松契久 真田大守七十の賀
 久しきを契るためしにうつし植ゑて庭も籬もすみよしの松
 さゝれ石のいはほに生る種よりや千とせを庭の松にちぎらん
  立春雪
 一面の銀世界にて千金の春の相場や安くたつらん
 千金の春たつけふの両替は八千片のしろがねの雪
 (題脱落)
 鶯にさそはれいでゝ此春もまた谷の戸の花をながめん
  春のうた源氏若紫の心にて読めり
 みやこべは霞にこめて棹鹿もたゝずみぬべき春の山里
  王寺権現に雪の山といへる桜ありしが、枝おれてもとのすがたにあらず
 むかしみし桜の花の山もなし頭の雪はふりつもれども
  あらきたといふ所にゆかんとて道にまよひて尾久村をすぐ
 あらきたのあらぬかたへとひかれゆく狐の尾久の長き道筋
  小金井の花みんと思ひしが道遠ければゆかず
 花よりも先かごちんぞおしまるゝわづか一歩の小金井の道
  袖の岡の花をみて
 風もなき花の盛は大空におほふばかりの袖の岡かも
  東海寺の中なるくすしのがりまかりしに、庭にひと木のひざくらあり
 花見んとけさ立出し道のほどを思へば長き春のひ桜
  すみだ川に花をみて
 すみ田川堤の上に駒なべて花のあたりをゆくはたが子ぞ
 すみだ川堤の桜さく比は花のしらなみよせぬ日ぞなき
 あすはまた雨もやふらんすみ田川けふばかりなる花も見るべく
  まなべかしにて魚をあみす
 すなどりの翁の道をまなべかし 属山
  気は若さぎに髪は白魚  万彦
  庭のさくらさかりなるに
 わがやどの花さくら戸をおし明て吉野初瀬も軒端にぞみる
  郭公 文化五年戌辰芝翫初て下る時の歌也
 座がしらのてへんかけたる歌右衛門下駄も血になく初郭公
  甚牟江戸子之気之衰也
  久矣吾不復夢見白猿
 江戸ツ子の随市川のおめおめとなど京談の下駄をいたゞく
 公家悪の背負てたゝれぬ葛籠など大入なれど舟月が雛
 若い衆の骨折ゆへに傘のたてもつきぬく金の勢ひ
 いづ平が節も覚へぬ二才どもめづらしさうにみる猿廻し
  いづ平は泉屋平兵衛八重太夫が事也。
  さるなまけたる上方もの江戸の子とならん事をねがふときゝて
 大谷か千日へゆけ大江戸は土一升に金が一升
 大あたり大あたりとは金元と帳元座元よみと歌右衛門
 ねぶたくて朝はとうからゆかれぬは無言の幕はみずにだんまり
  五月十七日歌右衛門三階にて打れしよしをきゝて
 うつものも歌右衛門も亦かはら者くだけてのちはもとの大入
  八百善といふ酒家に郭公をきく
 きくたびに新鳥越のほととぎすなくや八千八百善が門
  山家に紅梅のかたかきたる扇に
 紅のこぞめの梅の色そへて春の光も深き山ざと
 西が原の牡丹見にまかりしにほととぎすいまだなかず
 ほととぎす四の五のいふてなかぬまに四五の二十日の日数へし花
  阪東三津五郎によみてつかはしける
 三津といふ名は日本の三ケの津京大阪にまさる阪東
  本朝廿四孝のわざおぎみる人女のみ多しときゝて
 女にはみな孝行の芝居とて雪の膚にほれる竹の子
  亀戸天神開帳に天国の太刀ありときゝて、みにゆくに雨にあふ
 天国の御太刀のしるしみせんとて一ふりふつてはるゝ夕立
  金語右庵亭にて古庵屋敷といふ事を
 なみなみと金魚を池にたゝえしは小判やしきか古庵やしきか
  述懐
 とても世につながるゝ身はいとせめて思ふ人にぞあはまほしけれ
  此比新川の船便なくて酒すくなしときゝて
 菊の酒白衣はおろか入船のこもかぶりさへみえぬ此比
  巣鴨村に菊をみる
 畑ものの皆不出来なる秋なれや待にもたらぬ菊の花まで
  どうだんつゝじ
 よのつねの蔦や紅葉にくらぶれば言語道断つゝじなるかな
  紅梅に雪のかゝりたる絵に
 白妙の雪につゝめるくれないのこぞめの梅の色ぞゑならぬ
  耳順のとし
 わけもしらずものかけかけといふ人の耳にしたがふ年ぞうるさき
  夕つかたざうしがやにまうでゝ
 ざうしがや七ツ下りにくる人は高田あたりの麦の遅蒔
  擣衣
 こまのつめつがるの奥にせなをやりて立かへるべきころもうつなり
  上野山に紅葉をみて
 鐘の音ひゞくかた枝に色そふやあづまのひえの山のもみぢ葉
  まかしよ無用といへる札をみて
 大人大人がかくふえゆかば摺物をまかしよ無用の札や出なん
  予が幼かりし頃はまかしよとはいはで御行といひしなり。此頃伝通院前の町に御行無用といへる札あり。古意を失はざる事思ふべし。礼失ひて野に求むといふ事のにもかよひ侍らんかし。
  葛飾蟹子丸大のしやにてたはれ歌人をつどふまゝ、一筆かいて君奈斎のもとめいなみがたく、右に筆をとり左に盃をとりて、諸白のすみ田川にうかばんとなり
 みさかなに大のしあはび蟹よけんかつ鹿早稲のにゐしぼり酒
  北閭南瓦の末までも山東曲亭の風行はれて、あられぬ文字に仮名をふる事とはなりぬ蓬莱仙はまだ是当と思ひしが松をいろそふ仙をしまだい
  やがて大人と書きてうまとよみ、難有とかきてくそくらへともよむべし。これは市村座顔見世の名題松二代源氏、中村座の名題御贔屓恩賀仙といへばなり。
  みなひとこぞりてめできこゆるわざおぎをあざける
 五常軍甘輝のやうな清盛はげに小芝居の翫びもの
  中村芝翫の事なり、清盛の装束天冠に唐装束なり。
  准南子の邪許は江戸ツ子のきやりうたなり、隣の松助うしろの豊前にもはづべしいか程に梅の加賀屋がうなるとも松と柳に及ぶものかは
  加賀屋中村歌右衛門芝翫が事なり。
 山の手の芸者まがひは引ずりの下駄もはきあへず昼ぞころべる
  霜月初子
 霜月の初子のけふの玉箒とりてはき出す貧乏の神
  来年大小
 小遣の帳は三六十八の大晦日なきとしとしるべし
  同年の年徳
 大門は鬼門の右にあきの方寅卯の間よろづよし原
  かつををめすとて
 水の江の浦島の子がつる鰹鯛にもまさる心地こそすれ
  卯月の比かつをすくなければ
 かしましい八千八声なかずとも三千本をたつた一本
  賀三升初工藤
 一臈工藤称別当、三升大人酒無量、天神七代唐天竺、日本市川団十郎
  戊辰のとし浪花より中村歌右衛門とか何とかいへる下手な役者きたりて、都下をさはがせしがごとし。白猿が孫三升が工藤に鼻をひしがれぬ。もとより江戸は江戸浪花は浪花とはいへども、江戸には立小便する女と四文の蜜柑を四つにきりて一文に売るものはなし。これは焉馬が扇に書てやりし文字なり。ゆめゆめ人に見すべきものにあらじかし
  葡萄
 紫のひとも之ならぬゑびかつらつらぬきそめし玉かとぞみる
  琴松亭の聯にかく
 糸筋の十三峠木曾路より琴柱にかよふ峯の松風
  防河使の一月の費用はこがねの三ひらとぞいふなる。俸米は日々十四口を養ふべし。去年の師走の半ばよりことし卯月のはじめにいたりて五ケ月をへたるを、衣をちゞめ食を減じてニケ月の用途をもてつぐのひたれば、三ケ月の衣食の費こがね九ひらをあませり。このこがねをもて酒のみ物くひつくさんも空おそろし。年比たくはへ置たる文の数々、千々にあまれるがおさむべきくらはあれど、棟かたむきつみ石くち、上もり下うるほひて風雨をだにさゝえがたし。いでやこのこがねあらましかばと思ひおこして、木のみちのたくみをめしてつちをこぼち石をかへ、柱のくちたるをつぎ棟のかたぶけるを正して、としごろの文をおさめ、むそぢの老の名をなぐさめんとするもおかしくて
 くらなしの浜とないひそけふよりやおさめんちゞのふみの数々
  すでに螟蛉の子を得たり。又よめが君もあれば鼠算の子孫は多かるべし。いでや浮世をはなし亀の池の汀にあそばんとすれば、猶一すじのほだしありて尾を泥中にひく事もあたはず。つらつら過ぎこしかたを思へば、首をのべ手足を出して富貴利達をもとめんとせしも、神亀のうれへ桑の木のいましめをまぬがれずして、首尾四足の六をかくして万代のよはひをたもたんには
 つながれぬ心をつなぐ一筋の糸も緑の毛の長き亀
  曾我祭をよめる
 宮ばしら建て久しき四のとしさつきの廿日あまり八の日
  清河玄同といへるくすしと岩井杜若のうはさしければ、杜若によみてつかはしける音たかき岩井の水を清河のながれの末にきくぞゆかしき
  両国薬湯
 両国の湯にいりぬれば伊豆相撲(ママ)あたみ箱根も及ぶものかは
  夏月
 久寒し春は朧に秋ぞうきめでたきものは夏のよの月
  千秋井の記
 千秋井のほりぬき井戸より水と金砂の出し事は、平津氏の気さんじに書きちらされしより、平沢のひらたくあやまり入て外にほるべき穴もみへず。されど流しても流してもぬけめなき朝白園のもとめいなみがたく、こがねの砂の数をひろはば、むかし周の国の御家門魯国御殿の御家老つとめし季桓子とやらいふた人あり。井をうがちて羊を得られしに御家老これをあやしみて、千年むぐらのたぐいにやと孔子といふ物しりをよびて尋ねられし時、何やらむつかしき事を引て木石の怪を鬼畜といひ、山の怪をももんぐわといひ、水の怪をかつぱの屁とやらいいふと答へ給ひしとなん。もとより紅皿闕皿の籠耳の事なれば、筒井づゝの井づゝにかけし丸でくわしくは覚へ侍らず。翁がむかしいとけなかりし時、よなよな聞きし物語の耳の底にのこれるあり。むかしむかし舌切雀のおうぢうばの物語に、重き葛籠の中よりはあやしきもの出、かろき葛籠の中はよろづの宝出しときく。此度ほり給へる井戸より此比もてあそべる五冊物の化物が出ずして、めでたき水とこがねの砂の出しこそ、舌きり雀のつゞらのためしにならはば心まめなるむくひなるべし。それ正直は日天様かけて浅草のそばの名のみにあらず。つゐに日月の憐をかふむる。か?べに神の宿札をうち給ふ所となん。さればほりぬきの井の深きめぐみありて、若水はやき車井のめぐりよく幸来るべしとまをす。
  文化六のとしの六月    蜀山人しるす
  背面の芸子のゑに
 唇の黒きはみねどはりがねのつとや都の手ぶりなるらん
  納涼
 日よけ舟すゞしゐの木に首尾の松うれしの森やちかづきぬらん
  水無月十九日晴雲妙閑信女の十七周の忌にあたりければ、礼の甘露門につどふとて、しづのおだまきといふ七文字をかみにおきて、老のくりごとくりかへし、そぞろなるまゝにかいつけぬ
 しるしらぬ人もとひきて夢うつゝさだめなき世の常やかたらん
 つくづくとながめつるかなこしかたを思へばながき夏のひぐらし
 のちの世はかくとみのりの味ひをあまなふ露の門にこそいれ
 をみなへしおりつる時に思ひきや草の原までとはんものとは
 たむけつるとうとうことの言のはのちりやつもりて山となるらん
 まつの葉のちりうせぬ名の高殿にちよを一夜の夢とちぎりき
 きのふけふいつか十年に七かへりたなばたつめの秋もちかづく
  とよみけるも猶も思ひのやるかたなければ
 夢うつゝむかしを今にくりかへすしづの小手巻はてしなきかも
  朝顔
 早起のたねともなれば朝顔の花みるばかりめでたきはなし
  たなばたまつりといふ七文字を句ごとの上におきてよめば、歌のやうにもあらぬをぞそのまゝに手向となしぬ
 たそがれにたなびく雲のたちゐつゝたなばたつめやたれもまつらん
 名にしおふなつ引の糸長き日もなにか文月七日とぞなる
 はねかはす橋をためしにはるかなるはつ秋の夜のはてしなきかも
 たむけつるたがことのはの玉の露たもとの風のたちなちらしそ
 まれにおふまどをの星のますかゞみまそでにぬぐふまどの月かげ
 つきに日のつもる思ひはつむとてもつきじとぞ思ふつまむかへ舟
 りうそくのりちのしらべのりともみよりしんのおれるりうたんの花
  残暑
 世の中に秋はきぬれどけふのごとのこるあつさの身をいかにせん
  尾上松助同栄三郎がわざおぎを祝して
 高砂の松の栄を三の朝尾の上のかねのひびく大入
  坂東善好におくる
 かたきとはうそをつき地の役まいり善を好むときくはまことか
  八十八の賀に
 山鳥の尾張の尾より寿は長い八十八の字の紋
  八朔の日むかい町に幽璽のわざおぎをみて
 白無垢のくるわをすてゝむかい丁北も南もはやる幽霊
  朝顔
 思へどもなど葉がくれに咲きぬらん日かげまつまの露の朝がほ
  庭の桜のかれけるをみて
 ちるをだにをしみし去年の桜花かれなんものと思ひしりきや
 軒ちかき一木のさくらかれにけり遠き野山の花を見しまに
  姉君の一周忌ちかくなれるに雨ふりければ
 思ひいづることのは月のきのふけふこぞもかくこそ雨はふりしか
 末の露先だつ草のはらからのもとの雫の身にこそありけれ
  葉月十日の朝十千亭のあるじみまかりしときゝて
 思ひきや野分の後の音信に露の玉の緒たえんものとは
 かぞへみんはたとせあまり二とせのむかしの夢を今のうつつと
  同じ夜夢にみえければ
 なき魂のありかはきのふきその夜のゆめのただちにみえし面影
  軒ちかき竹を童子の折りければ
 軒ちかくされたる竹をわらはべの折りこそしつれ月もまたずて
  十五夜月くもりけるに森山のふもと朝白園にて
 月かげはくもの間をもり山のうなきのもなるさすがとぞみる
 雲おりおり雨ちりちりと顔みせて思はせぶりな月にこそあれ
  南川軒猫画
 東西であらそふとてもきることはよしなんせんか猫の迷惑
  丹霞焼木仏画
 経文に人のあたまをわらせたるむくひは丹霞端的の斧
  柳橋にすめる雪といへる娘によみて遣しける
 花ならば初桜月十三夜雪ならばげに柳橋かな
 しら雪のいとの音じめに盃もみつよついつゝ又六の花
  鳥目生風四手駕、猪牙如月一扁舟
 よし原に真さきかけし先陣はさあいけづきとするすみだ川
  題五代市川三升顔見世扇
 花道春風本舞台、颯開切幕暫徘徊、鼻高名家五代芸、猶飲三升大入盃
  福牡丹は家のかへ紋なれば
 富貴をも福の一字にこめておく牡丹は花の贔屓なるもの
  癩病をうれへて
 思ひきやわがしやくせんのしやくならでわき証文にこはるべしとは
  品川月
 品川の海にいづこの生酔がひらりとなげし盃のかげ
  長櫃序
 萩を姓とし藤を名とし給へる人、たはれたる名を紫由加里とよぶ。年ごろ赤良が筆の跡をもとめて一巻となし給ひぬれば、やがて長櫃とは名づけ侍りぬ。ゆめ/\人にみやぎ野の露ばかりももらし給ひそといふ。
          四方赤良
  巴人集序
 巴人集は四方赤良が家集なり。按ずるに宝暦本絵草子に鯛の味噌ずで四方の赤、のみかけ山の寒鴉(かんとんびトモ)、今の本に載る事なし。築地善閤御説を以て、さまよがどうだと考ふるに、鯛は魚の名、進上目録に云鮮鯛一折と是なり。みそずは旧説みそうずといふは非なり。みそずは味噌すい物の下畧。(四方は)江都泉町の商家の名にして酒醤をひさぐもの。赤はあからななり。又文選ごさ花薦にいはく宋玉陽春の白雪は和するものすくなく、下里巴人は和する者多しといへることばあり。四方の家の紋、扇に三巴なり。彼是合せてかく名付たるか。或は四方山のはなしにかけて四方山人ともいひ、或は丈夫四方の志をいだくおもいれなきにしもあらず。くはしくは先の辻番に問ふべし。
  天明四のとし皐月十あまり八日    たれかしるす
 追考、宝暦の頃鱗形屋絵草紙の作者にて津軽侯の邸にありし某というふものにて、婦人小子呼でおぢいといひしものなり。絵草紋やのものをつくりて酒銭にかへし隠者なり。かの鯛の味噌ずで四方の赤、大木のはへぎはふといのね等いへることばは、彼がつねに口ぐせにせし言葉なりといふ。
  松風台の記
 松風のうてなはいづれの緒よりしらベそめけん、琴のうてなのたぐひなるにや。相生の松の風は颯々の夢をたのしみ、李元礼が松の風は謖々の風をつたふ。行平の中納言のめでたまひし村雨のはらからか、又は何がしのえせ受領の浦さびしときこへししほ松風のふるごと、問へどこたへぬあけらかん江が丸ののの字のかく斗、相違あらざる譲り状、墨江にかける松風のうてななるべし。
  北沢薬師糀町天神にて帳をひらき給ふが、大きなる灸をすゑて願かなふときけば此やいとすへてやるのは恩ならずすへさするのを恩にきた沢
  鎌倉腰越の祖師の開帳、深川浄石寺に、佐渡阿仏房のみてらの開帳、下谷稲荷町東国寺にありときく
 十三里さきのこしごへこしがたしましてや四十五里波の上
  狂歌堂主人の愛子の十三回忌に
 十あまりみかゝえほども年やへんちゝのみひとつのこしおきつき
  白氏が詩を誦して
 したしきもうときもわかず家桜花さく門やさしいでゝみん
  壬午のとしさつき九日土性水性の人有卦に入るとて、謡曲のふの字の上にあるを七ツえらびて扇にゑがきて歌よみてよとこふ、その中に、
  伏見の翁
 蘭奢待ありとやきくの花もちて寺のたつまで伏見の翁
  藤戸
 宇治川のふちせのふかい浅いをばふゝふふつ/\人にかたるな
  富士大皷
 ふじ浅間烟くらべん今までの五年の無卦に七年の有卦
  船橋
 駒とめて水かふ事はまづよしにせいの詞の雪の夕ぐれ
  船弁慶
 弁慶がいが栗あたま知盛が烏帽子に勝てあとはしら浪
  有卦のいはひのうた
 七年のうけにいるべきうけ合は七なん即滅七ふく即聞
  竹酔日より七日の間酒やめければ
 さつきまつ竹の酔ふ日に酒やめば七賢人も中やたへなん
  扶桑花
 から人の扶桑といへるあだし名をうるまの国の花とこそみれ
  紅麒麟
 くれないの麟麟のふせる床夏は大和にあらぬ唐のなでしこ
  栗鼠に葡萄の画
 名にしおふ栗の鼠やえびかづらゑみかへりつゝもとめくらはん
  狩野休意が老松のゑ
 まめ人のともに老べきしるしをもそよ相生のもろしらがまつ
  同じく六十六部矢立の筆にて堂のはしらにらく書する処
 らく書は無用といひし一寸のひまをぬすめる六十六部
  月仙がゑがけるといふ禅僧蘿蔔をみたるかたに
 鎮州の土大根かとよくみればとりも直さず天王寺蕪
  七夕
 詩も歌もどこへか筆ははしり井の冷素麺をすゝる七夕
 天にあらば比翼の鳥もち、地にあらば連理の枝豆、七月七日長
 生殿、夜半無人私語時、シイ声が高い
 壬午のとし新吉原燈籠の時、揚屋町に子供芝居あり、狂言は累与右衛門・しづか・狐忠信なり
 燈籠に子供芝居をかさねがさねはつねのつゞみうち揚屋町
  題鶴廼屋平伏丸門人狂歌五十人一首
 万葉集称戯笑新、古今歌入俳諧真、浪華鶴廼屋生子、自五大人満百人
  題狂歌房連中五十人一首狂歌首
 茶碗頻傾巵米人、信濃陸奥四方巡、狂歌房在金吹町、大屋主人裏住隣
  十日菊
 清香の黄ぎくはいまだおとろへずきのふの節句折り残す枝
  瀬川路考葛の葉の役
 はまむらの菊はひいきのませがきの竹のしのだの森の葛の葉
  岩井粂三郎おちよの役
 半兵衛も岩井の水にたちよりておちよとまゝよちよつと粂さん
  同牛若の役
 振袖の鳥井をこした芸なればたれもひきての多き牛若
  長月望の夜の暁の夢の吉に
 すべらぎのみことかしこみいや高きふじの高根のうたたてまつる
  菊
 ひとはちにみるもめづらし紫の雲の上なるしらぎくの花
  文政いつつのとし壬午神無月二日、曾孫暫光如元童子をいたむ
 月読の神なき月かしばらくのひかりはもとのごとくなれども
 みなづきの朔日うまれいとまごひ九月の尽は三歳の尽
 ぬぎすてしもがさのあとにのこれるは漁陽のつゞみ山陽の笛
 大川の玉やかぎやの花火舟山王あかきまつりをも見き
 わがひこの三ツ子のたましい百迄はいきずとせめて五十六十
  雑司ケ谷大行院の会式に近江八景のからくりをみてけるに
 水うみの瀬田の長はし長房の珠の時さんあふみ八景
  岩井半四郎ふきや町へ下るときゝて
 から衣きつゝなれにしかきつばた花のかほみせよい折句なり
 大入の人の大和屋まちわびし花の吾妻風ふきや町
  中村三光難波より下るときゝて
 きのふけふ三光鳥がつき日ほしなにはの梅の花の立ふれ
  霜月廿九日市川白猿十七回忌
 わびしさにましらなゝきそ大入の山のかひある顔みせの度
  銀といふ女八十八の寿に
 しろがねの数よりは猶千代までも米のめしくふ事ぞめでたき
  隣松のかける鰹に卯花
 面白し雪を鄰の松の魚大根おろしにあらぬ卯の花
  霜月廿日あまり四とひくる人に
 中村の座元頭取さみせんの糸にひかれて紀の国の客
  中村勘三郎中村少長は紀州熊野の人、三線の師とともにきたれるなり。


放歌集

 平千秋の佐渡の任におもむき給ひけるときよみて奉るうた
 みちのくの山ならなくによろこびの長きためしのこがね花咲く
 黄金はなさくてふ島にことのはの玉藻かるべき時もこそあれ
  文宝亭が上毛下毛のくにゝゆくを送る
 われもむかし黒髪山にのぼりしが今はかしらのしもつけの国
 かみつけのいかほのぬまのいかひ事おつれもあれば面白い旅
  赤羽ばしほとり上林といへる茶屋の夜ざくらの花をゑがきてうたをこふ
 馬くるま立場の茶やの名にしおふ花はみよしの茶は上林
  郭公
 ほととぎす鳴きつる影はみへねどもきいた証拠は有明の月
 山の手の山ほととぎす折々は庭の木ずへにとまりてもなく
  山の手初夏
 目に青葉耳に鉄砲ほととぎす鰹はいまだ口ヘはいらず
  此比の雨に所々の開帳へまいるものもなければ
 開帳の山ほととぎす雨ふれば国へかへるにしかずとやなく
  童謡に、朝きて昼きて晩にきて、よるきてちよときて、帰れば何の事もない、させもを/\、とうたふをきゝて
 朝夕に来つゝさせもをさせもをのさせもが露や命なるらん
  又
 わぎもこは朝なに夕なに夜に昼にあからさまにもきてはまかせず
  鶯
 慈悲心も仏法僧も一声のほうほけきようにしくものぞなき
  日光後幸畑種抜漬唐がらし本紫蘇巻一箱を人のおくりけるに
 ことのはのたねぬきづけの唐がらしお札を本に何と紫蘇巻
  松有子のもとに沢村曙山来る約束ありしが、伝法院の僧来るときゝて来らず
 でんぼうといふ名をきいて芝居ものおそれをなして来ぬもことわり
  芝居の方言あたへなくしてただ見に来るものをでんぼうとはいふとなん、ふるくは油むしといひしなり。
  滝の画に
 酒かいに李白や里へゆかれけん三千尺の長い滝のみ
  閏きさらぎ廿九日にたてしといふ日ぐらしの里修性院のいしぶみを見て
 三河島みなかわらけに埋むともこのいしぶみのかけずくづれず
 書ちらすこの手柏のふた面とにもかくにものこれいしぶみ
  碑の面には詩を記し背にはざれ歌書たれば也。

 平々山人伝
 無量無偏王道平々たりとは洪範五行の大雑書にしるし、爾が来るをみれば平々たるのみとは世説新語のしやれ本に見へたる、その平々とは事かはり、平はたいらかたやすく本望ときこえし忠臣藏の義平の平でもなく、旦那おたわらにはや舟にのれといひし伊勢物語の船をさの平にもあらず、平音ハイにてハヒフヘホの相通、ハイは哇にかよふ、アカサタナハマヤラワの横通なり。何をきいても半といひ、かをきいても平といふ。平々平々頭を畳に平々平々、両手をついて平々平々、異見と小言は頭の上を通し、好事と大利は目の前に来る。司馬徳操が何をきいても好々といひしを学び、千人の諾々といひしたぐひなるべし。さればこそ上戸のたてしくらのうちには、経史の糟粕平太郎が棟にみち、稗官野乗の稗々々史平楽寺の古を思ひ、平陽の歌舞をやめにして、家業に奢る平家をいましめ、晏平仲よく人と交りて門には人馬平安散、平砂に落る雁金や青山堂の千巻文庫、あらゆる図書を左右にして、平日平話の宣千法皇太平楽をのぶるのみ。
  文化八のとし辛未卯月甲子の日あたり近き伝通院大黒殿のみまへにしるす
  伯牙琴をひき鍾子期きくゑに
  古今唯有一鍾期
 玉琴の糸をたちしもことはりやかなつんぼうの多き世の中
  大きなる玉を亀の甲にいたゞくゑに
 沢庵のおもしに似たる石亀の甲のものかや大きなるたま
  さつきもちの日小石川木沢何がしの君の山荘にて
 夏草の下ゆく水と思ひしをなぎさは玉のいさごをぞしく
 世の中に夏ありとしも思ほへず水草浄き池の心は
  小倉氏の別荘にあぢさいの花あり、井上氏の子のうつしゑにものせしに
 ひとつふたつみつやよひらの露なしにのみほす酒のあぢさいの花
  傾城猫をひくゑに
 京町の猫もしやくしも大名も揚屋にかよふ里の全盛
  題画〔鍾馗留主鬼洗濯ノ図〕
 冠剣猶照壁、錘馗非出門、請看鬼洗濯、不洗虎皮褌
 水無月十九日甘露門のおきつきにて晴雲妙閑信女をとぶらふ長歌并反歌
 いくかへり、かゝなへみれば、十とせあまり、こゝのとせをや、過ぎぬらん、そのみな月の、けふの日もはつかにちかき、友がきの、あるはすくなく、なきは数、そふる中にも、末のつゆ、あきなふ門の、山寺の、もとのしづくの、とくとくの、ながれたへせず、としごとに、のりのむしろの、からにしき、たゝまくおしく、思ふそよ、思ひ出れば、久かたの、天あきらけき、としの比、長雨ふりて、川水の、みかさもまさり、ひたしける、水や空かと、たどるまで、舟をまつちの、山をかね、岡に、のぼりし、高どのの、名におふ松の、ことのはの、ちりうせずして、山ざとに、うつろひすみし、年月の、夢のうきはし、とだへして、むすびもとめぬ、玉のをの、長き別れも、つれなしや、つれなき色に、いづるてふ、大田の松の、大かたの、なげきならねど、たちまじる、うき世の事の、よしあしの、なにはにいゆき、しらぬひの、心づくしの、はてしなき、このまどひこそ、久しけれ、とにもかくにも、老にける、身をしる雨の、風さはぎ、むら雲まよふ、折からの、むかしを今に、なすよしも、なつの日ぐらし、わすられなくに
 夕だちのふる事思ふひとしきりはれ行く雲のあとぞすゞしき
  ながらのはし
 長柄のはしの銫屑井出の蛙の陰干よりちとあたらしき慶長のとし、なにはの芦毛の馬をかへし、牛をはなせし唐人の寐ごとに、あづま錦のきれはしをかきあつめたる一帖は、青山堂の什物なるべし。
  朽木形
 朽木可雕、敝帚自珍、唯供雅翫、不示俗人
  財源福湊序
 これを好むものは拱璧にもかへずして十襲しておさめ、これを好まさるものは反古堆に擲ち紙屑籠にいれて惜む事なし。されど宇宙第一の書も壁の中の下張よりいで、惜字紙のいましめも陰隲の一助ともなれば、かの夕霧が文もて富士の山を張ぬきし如く、己が堂の青山をも張つくすべき勢ひに、人のねたみ世のそしりをもいとはず、からのやまとのいにしへに今に、雅でも俗でも木でも金でも、耳掻が一文微塵つもりて財の源福の湊と題せしは、学而第一のおつかぶせなり、先例のない事にはあらじかし。
  文化辛未文月のはじめ
           蜀山人
  人聞至楽
 此帖やはじめは書画会の書ちらしのごとくなり、中比は葛籠の下張か又は田舎のふすまの張まぜに似たれど、つゐには手鑑のぬけがらをまぬがれす。此帖に名をつけんとならば、何ともかとも名づけがたし。ヲツトそこらは北山時雨、反古千束の転学のことばによりて、人間至楽と題す。此比はやる白面の書生たちあんまり無理でもあるまへが、わろくば何とでもいひなさへ。
  辛禾七夕       蜀山人酔書
  此帖の始に北山の書あり、北山住千束。
  橘千蔭のかける百足の画に賛をこふ 深谷氏
 百の足千蔭の手もてうつし絵は猶よろづよをこめ多聞天
  両替やのみせにて酒油うる所の画に
 はかりなき大みき油手もたゆくあしにかへなんこがねしろがね
  ふみつきなぬかといふ文字を上に七夕七首
 ふみつき七日のけふにあふこともむそとせあまりみとせなるらし
 みしや夢きゝしやうつゝ七夕の日もくれ竹のよゝのふるごと
 つきもやゝかたむく庭に乙女子がほしのあふ夜をたちあかすらし
 きみまさでまがきが島のまつもあるを星合の空を烟たえせぬ
 なつ引の千曳の糸もはつ秋のけふの願やかけてまつらん
 ぬさとみし紅葉のはしや中たえぬ錦をあらふ天の川なみ
 かぢのはにかくともつきじ星まつる人の心をたねのくさぐさ
 七夕のうたらしきものをよみてのち、例のざれごとうたもふみつき七日といふ文字を上にして
 ふんどしをさらすとやみん珍宝の青とふがらし星にたむけば
 みじゆくなる星のからうたやまとうたかきちらしたる文月のけふ
 つる長く生ふるへちまのかはぶくろ鉢植ながら星にかさまし
 きん銀の沢山ならば盆前に七夕まつりしてもあそばん
 ながるべきしち草ながらけふばかり利上をしても星にかさなん
 ぬい物が下手か上手か針の目どまつくらがりでとほす糸筋
 かどなみに短冊竹をおしたてゝいろがみにかくかな釘のおれ
  奉加帳序 翁名燕斜又号豆三
 燕斜が別業に題せし日は、嚢中おのづからまんまんたりしが、豆三暮四のいとなみも、引込紫衣の隠居となりては、渋団扇をばうちすてゝ、柿の衣の奉加せよと。さる大檀那のすゝめにまかせ、鬼の念仏の大津絵の、万人講の催に、心もいちゞせりなづな、五行たびらこ仏の座、台座後光もすゝびたる、すずなすずしろ箔しろの建立、思へば春の一籠の、土一升に金一升とつかへ兵衛の冥加銭は、御心持次第、秋の七草一葉づゝ、お志をまつのはの、ちりもつもれば山々、有がたく奉存候已上
  時も時盆の十二日蜀山人庵主にかはりて書す。
  万屋麗水をいたむ
 麗水になるてふ金の足駄でも玉の行衛やたづねわぶらん
  落栗庵元ノ木網水無月二十八日身まかりしときゝて
 水神の森の下露はらはらと秋をもまたぬ落栗のおと
  むかし水神の森にかざりおろして、つゐに浅草の寺のほとりにて身まかりしなり。 文宝亭のみどり子生れて百日に廿五日たらでうせにしよしをきゝて
 思ひきや七十五日はつものの一口ものに頬やかんとは
  文月五日小田原町の人々ととみにすみ田川に舟逍遥しけるとき、十七年さきに故訥子のもてる塩や判官の短刀をその子源之助にゆづり遣すとて
 鉛刀一割活人刀、手沢猶存沢子毫、附子勾欄歌吹海、当場喝采起波濤
 つるぎたち身にそふ父の玉くしげふたたびかへすゑんや判官
  松に月の蒔絵したる額に沢村訥子がたゝへごとすとて
 明月の光もみちてきの国や沢村訥子もわかのうらまつ
  清少納言の絵に
 清といふ名代のむすめまくら絵の笑本よむはるのあけぼの
  神齢山に月をみて
 月よみの神のよはひの山たかく猶幾秋を松の下かげ
  庚午の春の雪は盈尺の瑞をあらはし、辛未の秋の月は五夜の清光あり
 去年は雪今年は月の大あたり思ひやらるゝ来年の花
  菅原伝授の狂言大あたりなりときゝて 中村座
 人の目はくもらぬ天下一面の菅原伝授手ならひかゞみ
  蛸の画あしければ
 此たこは新場たことは思はれず三河町にてみたやうなかほ
  和唐紙にものかけといふ人に
 和唐紙に物かく事は御免酒にこはだのすしや豆腐つみいれ
  樵雲楼といふ額は独立の書にして鎌倉河岸豊島屋十右衛門の二階にあり
 生酔のたゞよふ雲にたきぎかる鎌倉河岸の秋のさかもり
  ある人狩野秦川のかきし福禄寿の画を携へ来たり、南極を北極によみかへよといふに南極を北極にして見るからは此絵師もとは吉原がすき
  秦川をしれる人はほゝゑむべし。
  長橋東原書画の会に断申遣すとて
 今日の無拠断に君が牛王をのまんとぞ思ふ
  東原は神田紺屋二丁目牛王を出す家なり。
  小田原海野やを賀するひとのあやまりて脇差のさやはしりけるを祝して歌よめと柳屋のこふにまかせて
 おさまれる四海野なみにさか月の玉の兎もさやはしるらん
 はまぐりの貝の口あく婚礼にみのいる豆のさやはしるなり
 筆のさやはしり書せん相生の松こそめでたかる口のうた
  沢村訥子菅原の狂言に覚寿と松王の二役なり
 老の身はげにも覚寿のはゝたみて又若松をまちに松王
  観戯場
 本院時平車上乗、梅桜忠義向松凝、讒言一入筏沈波、斎世親王菅相丞
  鳥文斎栄之三福対の画の表具に書きちらせり 左 つとにしたる赤貝より傾城のすがたを吹出したる表具に大尽舞の歌をかきて一文字に
 花さかば御げんといひて赤貝のしほひの留守に使は来たり
 中 蛉貝より青楼の屋根の形と土手を四手駕籠の通るかた吹出したる絵かきたる表具に、まことはうその皮うそは誠のほねのことばとたはれ歌とをかきて一文字に
 遊君五町廓、苦海十年流、二十七明夢、嗚呼蜃気楼
 右 つと苞にしたる蜆貝よりかぶろ二人ふきいだしたる表具には河東節の禿万歳の文句をかきさして
 しゞみ貝つとめせぬまにさく梅の雪だまされし風情なり平
  中村歌右衛門忠臣藏の寺岡平右衛門に菖蒲皮の衣きざるを嘲る
 菖蒲皮きぬ足軽は虎の皮のふんどしをせぬ鬼も同前
 菖蒲皮きぬ足軽のみえ坊は寺岡ならぬ米や平右衛門
 菖蒲皮きぬ足軽はもののふの鎌倉風をしらぬ上方
  鯉の画に
 龍門の上下きたる出世鯉あられ小紋は滝のしら玉
  虫
 秋の夜の長きに腹のさびしきはたゞくうくうと虫のねぞする
  赤き紙に歌をこふ
 疱瘡をかるくするがのうけ合は三国一の山をあげたり
  枝折にかけるうた
 龍田山去年のしをりは林間に酒あたゝめてしれぬ紅葉
  市村の芝居に新場のものの喧嘩ありときゝて岩井杜若の事をよめる
 われも亦岩井の水をくみぬれば新場の事のはやくすめかし
  これはかつて杜若とともに酒くみけるとき戯に杜老とかきし事あればなり。
  小田原町柳屋のもとに沢村訥子尾上三朝来りければ此の程の狂言を思ひいでゝ一鉢に植し松王さくら丸にほんのはしの柳屋のもと
  同じ夜酔ひふして
 活鯛の目をさましつゝよくみれば小田原町の秋の朝いち
  九月六日は母の忌日八日は祖父九日は父の忌日なり
 かぞいろのなくなりしよりしら菊の花にもそゝぐわが涙かな
 ねがはくは九月十日にわれ死なん祖父ちゝわれと三世のみほとけ
  煙草入に鷺をかきたる絵に狂歌をかけといふに
 しら鷺はむかひにきたかたゞきたかしばしやすらへ煙草一ぷく
  河東節の文句によりてなり。
  菊の絵かきたる盃に
 酒のめばいつも慈童の心にて七百歳もいきんとぞおもふ
 すみ田川寺島村名主和昶の茶室に一円窓あり、竹のたがもてふちとせり
 くれ竹のたが名の主かすみだ川一ゑんさうは見えぬかくれ家
 三囲いなりの上に雲ありて雷のなるべきもよほしある絵に
 秋ならば神もたて引く夕立を一ふりふらせ田をもみめぐり
  題しらず
 加賀笠のうき世小路になれなれてきぬる人とは誰かわかなや
  玉の画に
 下和氏がほり出したる連城の玉は代金十五枚かも
  十三夜雨ふりければ
 十三夜雨はふりきぬさといものきぬかづきてぞふすべかりける
  紺屋町自身堂かけ物のことば
 近松平安翁が用明天皇職人鑑に云、門に松たつあしたより桃に柳にあやめふく軒のとうろう二度の月菊の節句や年のくれと云々。近頃宮城野忍の上るりにも、古きをたづねてあたらしく、染め直したる洗張、ことし紺屋町の付祭、五節供の趣向あらたまのとしたつ松の引物に、弥生の汐干しさつきの兜、文月の女七夕長月の菊慈童、七百余歳八百八町、二千余町も千早振、神田祭の宵祭、あさはとうからあかねさす、べにかけ色の空色に、東天紅の諌鼓どり、わたらぬ先に筆とりて、早染草の正の字の、正筆酔て不断のごとし。 辛未九月十四日の朝直筆書之
  大津絵にかく鳥毛やりをもる奴をよめる
 あづさ弓やつこ茶屋にも程ちかき翔雀堂の鳥毛やりかも
  贈戯子三升
 今歳中村与市村、狂言助六又菅原、祇園筒守多霊験、唯頼成田不動尊
  市川三升七代目義経千本桜の狂言に五役をなすときゝて
 市川の家桜にもなき芸をせんぼんざくらあたる忠信
 評判もよしのの花のやぐら幕大入船や大物のうら
 五役ははつねのつゞみうちつれてたれもこんこん狐忠信
 あゝつがもない五役を一人の市川流にうけし江戸ツ子
  市村の座頭高麗屋によみてつかはしける
 男なら上方ものもにせてみよ河越太郎いがみの権太
  岩井杜若がしづか御前りわざおぎをみて
 薙刀で心しづかになぎちらせ小山の開山よしのやまとや
  阪東秀佳がよしつねをみて
 かくれがさかくれみの助時代より大だてものとみえし義経
  花井才三郎亀井六郎なれば
 亀屋より亀井の六郎きてみればよしのの花井才三郎丈
  馬の耳に風のかたかきし羽織のうらに
 うしろから羽織をかけていつお出なんすといへど馬の耳にかぜ
  柳かげに西行の画に
 立どまりつれもなくしてたゞひとり柳のかげにやすむ西行
  七賢人のゑに
 竹林に藪蚊の多き所ともしらでうかうか遊ぶ生酔
  横須賀の城主のもとにて山寿といへる額をみて
 いく千代も動かぬ山の寿や遠くあふみにつゞく櫛松
  同じく小梅の山里の瓶に
 一枝の小梅を折ていけ水に釣花いけの三日月の影
  同じくみたちにて、姫君のあやめの琴柱に書つけるうた
 ふき自在みやうがある上にいく千代もあやめのねざし長き草の名
  おなじく琴の銘をこはせ給ひければ、あやめの縁によりて根差といふ名を奉れり。 九月尽
 もみぢちる菊や薄の本舞台まづ今日は是きりの秋
  宗鑑が志那弥三郎、芭蕉が甚三郎、翁の大野や喜三郎いはずともよい事なり
 たづねきしもとの木阿弥しろがねの町の子の子の子宝のやど
  これはもとの木網の孫岸本氏の白銀町のやどりをとひてかきて贈れるなり。
  時雨
 おもふ事かなへつくづくながむればしぐれの空にふる小ぬか雨
 神々の留守をあづかる月なれば馬鹿正直に時雨ふるなり
 木挽町芝居にて岩井半四郎しら井権八もどり駕籠の狂言大入ときゝて、岩井杜若のもとによみてつかはしける
 顔みせの花のかげ膳すへてまつ堺町へはいつもどり駕籠
  かいつぶりの絵に
 水鳥のかいつぶりをやふりぬらんうき世の事を人にとはれば
  上総浦にて地引網ひくものによみて贈る
 あら海をつくせるりやうの地引こそまことに上つ総々しけれ
  太田姫いなり別当安重院にて
 われも亦やしきをかへて院の名を安住すべき心地こそすれ
  飯田町の亀屋の夷講に出店二軒の亀屋も来れり
 本店に出店のけふの夷講三万年の亀や手をうつ
  聞沢村宗十郎改名
 観世水流溢沢村、宗徒贔屓若雲屯、十千万両金箱勢、郎党合紋い字繁
  市の川市蔵市川となり、紋所の一つ字をもとりて三升となるを賀して
 升にひく一文字をとりてあめつちのまことに和合太平記かな
  和合一字太平記の故事なり。
  中村芝翫が番付に兼々といふ宇を書きしをみて
 当今の御諱をも憚らず書きちらしたる上方役者
 浄るりの義太夫ぶしも内職にかねがね是をかねるとぞきく
  橘の名を六歌仙によそへて歌よめと人のいひければ
  駿河たらゑふ橘      小野小町
 もゝいろのうつらぬものかたち花の花にもまさる色にぞありける
  今するが多羅葉在原     業平朝臣
 大かたは月あかき夜とみしゆきもつもればふじのするがなるもの
  黄たらえふ       喜撰法師
 我いほはみやこのいぬゐきたら葉うき世の塵をはくさんの西
  萌黄たら葉       文屋康秀
 吹からに秋の草木をいつまでも萌黄の色は外にあらじな
  鳳凰たらえふ       大伴黒主
 鳳鳳の尾をたちよりてみてゆかん玉の光もますかゞみ山
  玉子多羅葉       僧正遍照
 みがきなす玉子の君にもとむれば千々のこがねの色とあざむく
  沢村宗十郎を祝して
 二三年前から江戸の見物は宗十郎のきの国やなり
 その位大政入道清盛を源翁和尚などゝおもふな
 活鯛の目出度一寸しめませう尾ひれのつきし花のかほみせ
  兼るといふ字を名の上に書きし俳優あり
 もとよりも江戸にふさはぬ座頭に居兼るといふ文字をいたゞく
  沢村訥子によみて贈る
 沢村のかなのいの字の和らかに実事ばかり兼るものなし
  十月十九日甲子に天赦日なれば
 甲子の大黒天じやよろづよしあすは小春の若夷講
  小春
 朝めしと昼げの間みじかくて腹も小春の空の長閑さ
  妻沼にすめる人利兵衛母の手織の羽織のうらに歌をこふ
 たらちねの手織の羽織肩にきて綿よりあつきめぐみをぞ思ふ
  女の己惚鏡をみる絵に
 世の中に楊貴妃小町司などありともしらぬうぬぼれかゞみ
  五明楼の遊女司ちかごろ出たればなり。
  十一月七日酉の市の日、舟にて羅漢寺の普茶会にゆくとて
 霜月のとりのまちがひ羅漢寺のわしのみ山へまいる普茶船
  釜や堀より市川三升のもとに大火鉢をゐて贈りけるに、大中といふ文字をゐたりときゝて
 よくよりてあたり給へや梅桜松の烟のたてる鉢の木
  市川三升渋谷金王丸にて暫のわざおぎするをみて
 暫の声は成田や不動尊七代目黒渋谷金玉
 暫のこゑなかりせば雪のふる顔みせいかに春をしらまし
  芝翫が一寸法師の狂言をみて
 三丈のゐたけ高なるかけ声におそれてちゞむ一寸法師
 花道をちよこちよこ出る座頭は膝がしらとぞいふべかりける
  ちよこのちよこ平といへる名なればなり。
  与市川三紅 団之助
 看君姑射一神人、綽約還疑婦女身、三尺寒泉浸紅玉、緑雲鬟
 上紫綸巾
 ねがはくは扇となりて君が手にふれなん三の紅の袖
  霜月十九日の朝鷹の絵をゆめに見て
 一富士のするが台にはみゝよりの願ひも叶ふはしたかの夢
  此比駿河台のわたりのやしきとわがやしきとかへん事を願ふ時なればなり。
  長崎丸山町遊女千代菊が菊の絵に
 袖よりもすねふりてみん千代菊の籬のもとの露の丸山
 千代菊の千代も長崎長月のすはの祭の折はたがはじ
 いにしへの沈香亭の中葉にもおとらぬ千代の菊の一本
  一元大武の肉を得て秋一無冬の禁もわするべし
 牛くふて水をますかはしら太夫一石六斗二升八合
  瀬川仙女一周忌
 ぶんまはし年ひとめぐりめぐれどいかにせん女の顔も見せざる
  青楼四季のうたの中に
  春
 ▽くしげ箱提灯のふたりづれ花の中ゆく花の全盛
  夏
 みじか夜を比翼莚の天鵞絨の毛のたつまなくぬるよしもがな
  秋
 玳瑁のくしの光や硝子をさかさにつるす燈籠の鬢
  冬
 やうやうと来てむぐりこむつめたさは君が心と鼻と両足
  題古一枚絵
 北廓大門肩上開、奥村筆力鳥居才、風流紅彩色姿絵、五町遊君各一枚
  白川城主三夕の画に、
 羅漢寺槙犬まきたつは御林か百姓山の秋の夕暮
 藤沢の西行堂にゐる鴫の看経にたつ秋の夕ぐれ
 此比は浦の苫屋も不蝋にて何もかもなき秋の夕ぐれ
  早咲の梅を見て
 おれを見てまた歌をよみちらすかと梅の思はん事もはづかし
  年内追灘
 歯がないと断いへど一つかみ鬼打まめをくれてゆくとし
  年のくれまで雪ふらねば
 暮てゆくとしも道中双六の亀山あたり雨ふりにけり
  飛鳥山花見のゑに
 山際飛鳥入、心遂落花狂、不覚青春暮、何知白日長
 花そめの袖をつらねて飛鳥のあすかの山のさくらかざしつ
  大神楽の獅子をみて
 銭相場やすきも悪事災難は十二文にてはらふ獅子舞
  雨ごひ小町
 ことはりやさりとては又せめつけて空をながむる雨乞小町
  医学道しるべ序
 周礼に医師は上士二人中土二人疾医食医も二人づゝなり。それさへ一人は養生よければ療養におよばず。賤きものは風寒暑湿に疾あるゆへにこの官を設くといへり。わが日の本の古の典薬寮にも十人ばかりには過ぎざるべし。今時は横町の新道にも出格子もたぬ庸医なく、宿札かけぬ竹斎なし。されば酒屋は伊丹三白と号し、餅は今坂上庵と改め、大工は建前棟梁と名のり、八百屋は椎茸干瓢と称して、猫も杓子も藪の仲間にいらぬものなし。われかつてやまひあり。ある人医薬をすゝむ。こたふるに一いんの詩をもつてす。
 吾奉先人体、直通生死路、草根与木皮、不使庸医誤
 たゞしかくいへばとて明日にも疾病ならば、家内のおもはく親戚の外聞に、人参ものまねばならす、熊胆もしやぶらすばなるまじけれど、もとより死生にかゝはらぬ事なれば、これもまた世わたりのひとつなるべし。此の書の序をこふものあるによりて、うらずかはずの一ことを題して、白紙の数をよごすことしかり。
  富士のすそに紅葉のゑに
 白むくのふじのすそ野にぬぎすてしきぬや紅葉の錦なるらん
  松伏村有松云曾根松種或請詩歌
 播陽菅廟一株松、移植孤根手自封、偃蓋重々村落裏、歳時伏蝋蔭三農
 はりまぢにありといふなる松の根をうつしてこゝにしげる一村
  海老のゑに
 海老の顔なまず坊主はおそるれど蜆子和尚やいかゞみるらん
  釈迦荘子紫式部のうたかきたるに
  釈尊の方便、荘子が寓言、紫式部のつくり物がたり等、みなまことから出たうそにして、人を道びくためなるべし。たとはゞ歌をうたひて飴を
 うり、こまをまはして歯磨をひさぐがごとし
 雪の山出でし仏やいかゞみんみんなみの花湖の月
  壬申試筆
 又ことし扇何千何百本かきちらすべき口びらきかも
  大川にかすみたつをみて
 見わたせば大橋かすむ間部河岸松たつ船や水の面梶
  焉馬のもとめに応じて矢の根五郎のゑに
 虎をみて石に立川市川のかぶら矢の根のあたり狂言
  六十四歳になりければ
 わがとしも六十四文ねがならでうれのこりたる河岸の門松
  宝船
 長き夜のとをのねぶりの目ざましき数の宝をつみて入船
  元日
 あめつちのわかれそめしやかくならんむつきのけふの人の心は
  堺町二番目狂言台頭霜のいろ幕の仕組よろしければ
 鶯の笠や三勝台がしら梅のさくしやの出来し二番目
  鶯村君の松の絵は金川宿羽根沢といふ桜の庭にある松なり
 かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢
  むつき六日夜遊侠窟にて酒のみけるに酔て足ふみあやまちて打身の療治をたのむとて新宅の壁をぬるべき瑞相に春からこてをたのみこそすれ
 つねに筑摩鍋住が足袋はきてたかどのののぼりばしなおりそといひしいましめも思ひいでられて
 足袋ぬげと思ひつくまの鍋住がことばのはしごすべりてぞしる
  紅葉に鹿のならびたてる絵に
 紅葉のにしきの床をふみしきてたてるや鹿のもろ声になく
  二月三日任子補蔭のよろこびに
 うみの子のいやつぎつぎにめぐみある主計のかづにいるぞうれしき
  同じときによめる
 子を思ふやみはあやなし梅の花今をはるべとさくにつけても
  芝翫をほめてうたよめと人のいひけるに
 はいりさへすればかまはずなには江のよしといふ人あしといふ人
  傾城のゑに
 千金の春のくるわの全盛も一両二分はたゞ二人なり
  上野の花を見て
 鳥がなくあづまのひえの山桜さくやゆたかに永き春の日
  堀の内妙法寺にて
 参詣のあゆみはとしのおそし様頭を上に掘のうちかな
  男女の髪をきりて納めしはいかなる願にや
 日蓮はかゝれとてしもうばかゝになど黒髪をきれといふべき
  内藤宿に三河や久兵衛といふ酒家あり、人みな三久とよぶ、此家にてつくれる雛を見て
 段々にのぼる位の内裏びなこれや龍門三きうの浪
  きさらぎ十八日より十九日の朝までに、かまくら町豊嶋屋がみせにて白酒二千四百樽うりしときゝて申つかはしける
 山川の酒のかけたるしがらみは道もさりあへぬ豊島やが門
 樽徳利鎌倉がしをいくかへりかはんとしまやうらんとしまや
  大久保七面社の花をみて
 七おもて立かへりても見まほしき享保の頃の花の盛を
  七面に赤井得水のかける額あり、社の前に筆ざくら二本さけり
 七面と書きたる額の筆ざくら花の赤井のひもを得水
  題雨降亭
 富士山兼丹沢山、大山大聖石尊間、三山景色三山別、自似茶亭三客顔
  送四方歌垣真顔西遊
 乾坤無処不狂歌、南北東西山又河、段尻長過天満祭、燈籠恐及吉原俄
 口にひく津々浦々の果までもみそぢひともじよものうた垣
 神路山きびの中山ひえの山のち瀬の山をとはん四方山
 旅衣ひつぱりだこにあひぬともつましき宿のいもなわすれそ
  上野の花を見んとゆくみちに鐘の音をきゝて
 九つは遅し八つにはまだはやし雲の上野の花をもる鐘
  後にとへば午時のかねなり。
  すみ田川の花みんと中田圃といふ処を過ぎて大音寺の前にいづる道は、むかし若かりし時山谷通ひに目なれし所なり
 いまさらに恐れ入谷のきしも神あやうく過ぎし時を思へば
 むかし見し鶴の園生の額もなし三本松やいくよへぬらん
 若かりし日の出いなりをいく年の関のやしきやこえて行きけん
 ながめやる天水桶のたがためにむかし飛立つ思ひなりけん
 千束にあまる思ひや思ひ出る親の異見の大音寺前
  すみ田川の花さかりなれば
 仙人もかゝるおくにやすみ田川みなかみ清き花のしら雲
 すみ田川月見の桜さく比は花のしら波たゝぬ日ぞなき
  ある人天狗の鼻高きうたよめといふに
 小天狗の鼻高かれと朝夕に僧正坊やつまみあぐらん
  西来庵にて酒のみけるに、ふさといへるうたひめによみてつかはしける
 さみせんの川をへだてゝきくもよしむさしと下つふさの一曲
  せいといへるうたひめにおくる 瀬戸物町おのぶの妹なり
 何にせいかにせいとては酒をのむ寿命をのぶのいもととは猶
  同じく二人のいらつめの歌うたふをきくに、醒が井の醒が井の水の垂井の水ざかりといふうたなり
 花見酒酔ふてはいづる醒が井の雨の垂井に風の手おどり
  駒込吉祥寺の桜をみる、此寺の門前に洞家済家襪子所あり
 駒込の花をふむべき沓はなし洞家酒家の襪子あれども
  神明社頭の桜一木は別当大泉院の先住千寿院といへる隠居九蔵のときうゑし木にして、九十六歳にて遷化せられしは四十年前の事なり
 植置くも花に心をそみかくだつたえて千々の寿やへん
  五百羅漢の開帳にゆかんとするに雨ふり風はげし
 雨風のさはり三百ふり来り五百羅漢へゆくもゆかれず
  けふの雨風をいとひて、あすはかならす開帳見にゆかんと、ある人のもとにいひやりけるに、道成寺の狂言みにゆきしときゝて
 てらてらと日のさし出るをしたふなりけふ道成寺あすは羅漢寺
  羅漢寺の庭に石にて亀のかたちをつくり、大きなる桜をうゑて蓬莱桜と名づけしをみて、烏亭焉馬によみてつかはしける
 此さくら此開帳にあふ事はげにもうき木の亀の尾の山
  弥生九日庭の桜さかりなるに月さへ出ければ
 春の夜の月と花とをわがやどの一木の蔭にこめてこそみれ
 わがやどの一木の桜さきにけりみはやしぬべき友垣もがな
  河津股野
 すけ殿もまさこも角力見物は赤沢山の棒柱の外
  錦木をたつるゑに
 にしき木は鬼木とともに朽にけり上総木綿かけふの細布
  此比吉原に桜を植るを五百羅漢開帳の庭にも植しときゝて
 南北に植し桜の花ざかり五百の羅漢三千の妓女
  忍待恋
 さすが又まきの板戸も明けやらでひとりしたうつ心くるしき
  同じ心を狂歌に
 はなのしたひそかにのべのつくづくしまちほうけたる身こそつらけれ
  追灘の画に
 郷人の鬼やらひには聖人も麻上下で椽側にたつ
  柳屋安五郎が掌中の珠を得しよろこびに
 手の上の玉の柳のやすやすとうまれいでたる春のみどり子
  瀬川路考が浅間ケ嶽の狂言を奥州屋といふ茶屋にて
 奥州やから奥州がたち姿見にこそ来つれ大入の客
  同じく石橋の狂言
 御贔屓の深見草とて石橋の獅子奮迅の大あたりかな
  同じく三月廿日なれば
 石橋のあたるやよひの廿日草花のさかりにくるふ菊蝶
  阪東秀佳は鳴神、沢村訥子は雷といふ角力のわざおぎに
 狂言のやまと紀の国世の中にひゞく鳴神雷の声
  市川三升細川勝元のわざおぎに
 細川も市川流はたれにてもまくる事なき勝元の芸
  宇治の新茶柳葉といふを亀屋文宝のもとより贈られけるに
 茶をわかす烟みだれて煮花さへほころびかゝる宇治の柳葉
  麻布長谷寺に清水観音の開帳あり、梅窓院のうしろより田の中の溝をこゑて来るとて蛙飛ぶ田道あぜ道清水のお開帳へと心はせ寺
 桂川国瑞翁の画がける大津絵の鬼の念仏に、国瑞の文字をいれて賛せよとこふ
  蕙苡仁珠数、椶櫚葉夜叉
 鬼のつのつき地の筆の命毛もみだのみ国の瑞とこそなれ
  今はなき人なればなり
  三月尽の日道成寺のわざおぎをみて
 行春の龍頭にたれか手をかけん思へば此かねけふの入合
  にせ紫鹿子道成寺のわざおぎをみて
 紫はにせか何かはしら拍子祇園守りに人のいり筒
  中村東蔵によみておくる
 上方のこがねの箱を持下り今は東の蔵の中村
  よし菊といへるもの雄龍雌龍の身ぶりをするを見て
 脇の下から火のもゆる龍の顔お龍め龍は何の雲なし
  野の宮に月の出たるかたかきたる画に
 斎宮の色事をしてかけ落の跡は野の宮高砂の月
  升勘のみせに下駄をかふて 本所一ツ目なり
 ふみ切た鼻緒に下駄をかさゝぎのはしは一つ目二の口の村
  狆に菓子あづけたるかたかきて
 加茂川の水双六の賽よりかちんが心にまかせざる菓子
  郭公
 朝めしの山ほととぎす山もりにほし大根汁かけたかとなく
  卯月三日日本橋柳屋のもとよりかつほを贈りければ
 山の手をさして一本はつ鰹にほんのはしも取あへずくふ
  松本錦升がほくに、度々の仁木古世のはつ鰹といふをみて
 見るたびに仁木弾正はつ鰹いつも新せの心地こそすれ
  松に鶴のすごもりの絵に
 尺八の竹にはあらで千丈の松にやどれる鶴の巣籠り
  新宅の釿始の日野見てふなごん墨金によみて贈る
 飛弾たくみうつ墨金ぞゆがみなき野見てふなごん手をのはじめは
  墨田川半右衛門がやどにて
 江戸よりの船路は一里半右衛門世をのがれたるかたすみ田川
 わればかり世をのがれしと思ひ入るひよけの舟のまたもつきの出
  花の枝の画に
 おみやげに吉野の雲をひとつかみつかみてかへる枝おりの花
  傾城傾国は古よりのいましめ多しといへど、かゝるもの世になからましかば、東家の娘の袖をひき、小夜衣のかさねぎたえざるべし
 人の城人の国をもかたぶけて子孫をたやすものぞ恋しき
  談州楼焉馬が余があらたにいとなむ家の柱立しけるとき 卯月廿八日
 あゝつがもないとはいへどつか柱談州楼のたてし立川
  沢村宗十郎が角力鳴神わざおぎを張子の人形につくりて、柳屋の初幟の祝につかはすとて
 鳴神のとつしとつしと力士立ふみとどろかす本舞台顔
  島原の城主の山荘を千代が崎といふ、さいつ比長崎にて見し人にあひて
 はからずも千代が崎にてめぐりあふ事ぞうれしき玉々の浦
  朝妻船のかたを柳橋の芸者のかたちにゑがきたれば
 柳ばし両国橋のたもとよりよせてはかへすあだしあだ波
  夢羅久がもとにて歯の落ちけるに
 おしむらくむらくがやどで落る歯はおとしばなしといふべかりける
  江戸芝神明前に江見屋元右衛門といふ草子やあり。三代目上村吉右衛門といふ者、延享元年甲子三月十四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色も梅酢にてとき初め、また板木の左に見当といふものをなして、一二遍ずりの見当とす。今に至るまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、又団扇に大文字屋○の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘右衛門といふものに贈りしより、今の五代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今其の流をくみて源をたづね、末を見て本を忘れざる人々にあたふるものならし
 くれないの色に梅酢をときそめて色をも香をもする人ぞする
  二幅対の絵左は塩がまの桜さけり
 すまの浦の若木の桜二本よりつひに行平中納言殿
  右は苫屋に紅葉あり
 なかりけるとはいふもののあるもよし浦の苫屋の紅葉四五本
  鉄砲洲松平君縫殿頭のたかどのにて
 鉄砲洲打いでゝ見れば山の手のかくもはづれし玉たまの海
  けいせいに郭公の画に
 君はゆきわが身はのこるみつぶとんよつ手をおふてなく郭公
  女芸者
 さかもりのしやくとり女やね船にかゞみて入るはのびんためなり
  浄るり太夫
 よくきけば不忠不孝の相対死しかつべらしくかたるますらを
  下村山城によみてつかはしける
 雪の花つやおしろいをかはんとて誰しも村に人の山城
  兼好法師ともし火のもとにふみよむかたかきたるゑに
 よもすがらみぬよの人をともし火に命松丸よ茶をひとつくれ
  逢恋
 みつ蒲団よつ手にかゝむみだれがみ心に手ありゑりに足あり
  狐拳のかたを融川法師のかける三幅対の絵に詩歌せよと、秋田の大守の求によりて、
  左 狐
 をぎつねにめぎつねまじり拳酒もきはまる時はらん菊の園
  中名主、名主組頭年寄交、門前高札守如教、常々急度能申付、
  在々何人放鉄砲
  右 鉄砲
 てつぽうの玉の盃そこぬけにうつや一けん二けん三けん
  六玉川のうた
  山吹
 山吹の口なし色やもらんとておたまじやくしも井出の玉川
  卯花
 玉川の卯花月や波はしる玉兎をぞいふべかりける
  調布
 玉川のむかしの人のてづくりは徳用向か何かしら波
  萩
 旅人のから尻馬のからにしきふみこむはぎの野路の玉川
  千鳥
 生酔の引汐風にふかれては野田の玉川千鳥あしなり
  毒水
 六玉川同じ直段にかふならば毒水はちと高野山なり
  神齢山のふもとに音羽町滝あり、玉すだれと名づくるとて
 深山より落ちくる滝の玉すだれかゝげてやみんみな月の雲
  寿命院にてお団を見て五月五日の日なりければ
 此やうにお団のごとく円居して寿命をつなぐ続命の糸
  たとへのことばをゑかきて歌よめと人のいひければ、賛語をもまじへてかけり
  盗人をみて縄をなふ
 しら波をみて縄なふはとしのくれにかけ乞をみて金かるがごと
  木から落ちたさる
 おぼつかないづくの木からおちこちのたづきもしらぬ山中の猿
  瓢箪にて鯰おさふる
 にごり江に鯰おさふる瓢箪のぬらりくらりと世をわたらばや
  鬼の眼に涙
 蒼頡造字鬼神泣
  てうちんにつりがね
 泰山鴻毛
  蛇の道はへび
 くちなはの道一筋にたづねずば雲ゐにかけるたつをみましや
  かいるのつらに水
 面張生皮
  寺にかつたる太皷
 義経の手にうたれしや宇治川の寺に勝たる太鼓なるらん
  しゝをみて矢をはぐ
 渇而鑿井、戦而鋳兵
  猫に小判
 またゝびの草だにあらばみちのくのこがねの花もなにゝかはせん
  目くらのかきのぞき
 群盲評器、独立面牆
  お月さまとすつぽん
 天上玉兎、泥中野亀
  鵜のまねする烏
 何事も鵜の真似をして水をのむうかれ烏のうき世カアカア
  足もとから鳥のたつ
 草に臥す文字ともしらずくたびれし足もとよりや鳥のたつらん
  狼に衣
 墨染の世わたり衣上にきて身をやすやすと送りおほかみ
  さつきの比塩引の鮭多くみえければ
 流行にをくれたる身は此比の鰹にまじる塩引の鮭
  北山先生身まかりしときくに、その墓はわが寺と同じければ
 われも亦おしつけゆきた苔の下に永き夜すがらかたりあかさん
  四方歌垣の子真言院慈光子三回忌
 父は旅子はよもつ国ほととぎすともに帰るにしかじとやなく
  遠州流挿花百瓶図序
 様によりて胡蘆を画き柱に膠して琴瑟をひかば可ならんや。遠州百瓶の図を見て花を挿さんと思ふもまたかくのごとし。しかりといへども木馬にのらざれば馬を御する事あたはず。花法を学ばざれば剣を撃つ事を得ず。万巻の書を読むといへども一箇の誠なくば何ぞ聖賢のみちに入らんや。魚を得て筌をわすれ兎を得て蹄を忘る。後の挿花を学ぶもの此の書を以て筌蹄とせば挿化の妙を得るにいたらんか。これ師の弟子を養ふ道なるべし。豈たゞ挿花のみならんや。
  狂歌水の巴序
 久かたの天あきらけきとしの比、さゞれいしの川辺すゞしき岷江の流に觴を浮べ、楚に入て底ぬけの名をとりし糟句斎余旦坊といふ人ありけり。もとより絵のことは素人ならぬ、大に黒き神の形をゑがきし家の風に巴扇の風をまじへて、四方のすき人にまじはり、たはれ歌よみて心をやる媒とせり。そののち水戸の大城のもとにうつりすみて、畑うつわらは薪こる山人とともに、たはれ歌よみてたのしみとせり。敷島の大和にはあらぬ唐絹とかやいふ人、もろ人のうたをあつめて水の巴となづけ、そのいとぐちをとかん事をこふにまかせて、禿なる筆をとるものならし。
  永代橋のもとなる生すにしたる鰡船にて
 おほ江戸にいけるかひありて永代の名よしの船のはしをとるかも
  芳町桜井といふ酒楼にて
 正つらのやうにむす子に酒のめと教のこさん桜井の宿
  やれたる壁に蛛のゐのかゝれる画に
 わがせこがよしや来るとも此やどは何もくはせぬ蛛の振舞
  花火
 流星の玉屋たまやの声ばかりなど鍵屋とはいはぬ情なし
  勝と亀文字といへるうたひ女とともに、永代橋のもとに舟をとゞめて酒くむ
 酒かめもしばし舟とめかつ酌まん夏の日ざしの永き代のはし
  勝といふうたひ女によみてつかはしける
 盃もあさかの沼の花かつみかつみる度にいつも生酔
  亀文字によみてつかはす
 万代のたえせぬみつの緒をひくはこれ蓬莱の亀といふ文字
  盃托銘 橋爪寛平の求に応ず
 さかづきをむかふの客へさしすせそいかな憂もわすらりるれろ
  次第に酒がまはらば舌のまはらぬ事もあるべし。
  瀬戸物町の妓王妓女には〔おのぶおせい〕しばしばまみえしが、駿河町の姉〔おかつ妹はおふさ〕とはたまさか舟を同じうして
 今の世の仏御前とするが町かつは大通智勝仏かも
  木賊刈の画に
 老の身の枯木のごとくなりにけりとくさをかりて何を磨かん
  小原女梅を折て牛の角にかけし画に
 小原女の心も春や黒牡丹くろ木にしろき梅の一枝
  吉野山桜木の枝折に
 もろこしの吉野の花も万巻の文の枝折や一目千本
  駒込の富士
 駒込にうる麦わらの蛇の道はへびのしるべき鱣縄手を 長崎名村氏進八たはれうたの名をこふに、扇末広と名づけて
 いく千代をあふぎが島の末広くさし入る船や要なるらん
  月ごとの十九日に物かきて人にあたふるは、晴雲妙閑信女の忌日なればなり、ことし水無月十九日例の甘露門にまとゐして、しふくにちといふ五文字を上にして五首のうたを手向けぬ
 しづやしづしづのをだ巻はてしなくなど物思ふ夏のひぐらし
 ふねの中なみの上なる浮草のやどりもいつか六とせ七とせ
 くりかへす暦の数もはたまきにちうたばかりの手向とぞなる
 にごり江のみかさまさりてすむ人の門辺もむかしみえずなりにき
 ちかひてしはねもならべず松のはの枝もかはさず年をふるつか
  日吉祭
 傘鉾のおほはぬ町もなかりけりあつき日吉の神の水無月
  寒山拾得
 寒山が拾得きたる絵姿は医者でもあらず茶坊主てもなし
  七夕祭のうたよむとて、ふみつきなぬかといふ七文字を上によめる
 ふるくよりきゝわたりつる天河ほしのあふ瀬もこよひなるらん
 みちのくのとふの菅ごも七ふをもなぬかのけふの星にかさまし
 つきかげもほのめく空にありありとふたつのほしの影やあふらん
 きならせし天の羽衣いく秋か七夕つめのみけしなるらん
 ながめやるほしをこそまてさゝがにのいとなみたてし軒の高どの
 ぬしやたれもとみし庭の松かげにほし合の夜やたちあかすらん
 かぞいろのなにいつをだにつゞけぬとみどり子もなく梶のはのつゆ
  新場いづみ屋にて夜鰹をよめる
 ながながと長生をしてくふもよし新さかな場の秋の夜鰹
  朝鮮国に天満宮あり、ある人奉納の額にうたこひければ
 あまみつる神のめぐみは日の本のこまもろこしもへだてあらじな
  休息六歌仙の画
 文屋の康秀ゆかたにて、薄かいたる団扇をつかひて胸に風をいるゝ形かいたるに
 ふくからに汗のくさきの湯かたびらむべ団扇をやつかふなるらん
  僧正遍照ふくべの口より酒のむ
 女郎花口もさが野にたつた今僧正さんが落ちなさんした
  小野小町べにをつけたる
 花の色もうつらふ小野の小町べにわが身ひとつの口につけばや
  在原業平うつの山の十団子をくふ
 てんとうまいかしらをうつの山辺にも夢にもくはぬ十団子なり
  喜撰法師茶をたてたる
 千服の茶の湯とちがひ我手前たつた一度と人はいふなり
  大伴黒主鏡をもちてけぬきにて鼻毛をぬく
 かゞみ山いざ手にもちてみてぬかん鼻毛の長くのびやしぬると
  蜀都園
 蜀は三都の賦の一にして、白狼の夷歌章をなせしは色紙の価もこれがために貴かるべく、そのはじめは桑楊の菴に觴の光を泛べて一つきふたつみつき連、岷江の流の底ぬけ上戸となりけらし。
 青柳もくは子のまゆにこもり江の水や巴の文字にながれん
  蜀錦園
 柳原のやなぎ並木の桜こきまじへたる浅草のみやこぞ春の錦より、夏にもかゝる藤波のたちならびたるみくら町、錦番城のにしきなるべし
 蜀江の波のあやおる西陣のにしきをあらふむらさきの藤
 蜀雞園
 碧雞の神はかたちをかゞやかし、蜀雞の冠はかたちを大にす。もとよりひろき広莫の野に無何有のさとの雞合、団扇をあぐるかたやはたそ。敷島の道ひろびろと長点を長鳴鳥のかけろとぞなく
  雉に桜のゑに
 きゞすなくけんけんけんをけんとして桜色なる色にかへめや
  うたひめ豊仲が扇に
 三味線のね心もよき仲ならばとよももゝよも座敷かさねん
  同おれんが扇に
 さみせんにうき世の塵をあらひ髪心の角もおれんとぞきく
  音羽町玉水簾のもとに養老の滝の白玉扇をひらきて
 玉だれの小がめの酒をくみ見ればあめが下みな養老の滝
  寄冬瓜恋
 百一つあふ夜を花にはふ鬘の長々し夜をひとりかも瓜
  寄糸瓜述懐
 世の中は何がへちまのかはぶくろしぼりとられし望月の水
  室町高島周見といへるくすしのもとに、久しく見ざりし升屋のお市にあひて
 市女笠きつれし中にましますやあまねくみつる人の目にたつ
  そののちいなばの国の守のもとに召されしときゝて
 立わかれいなばの山の松のいろます屋ときけばいちごさかへん
  仁正寺侯の山荘楽山楼にて
 はかせめく仁者はまさにあふみのや水の鏡の山をたのしむ
 ことはざの一夜検校大名に半日なりし心地こそすれ
  小網町おせんといへるいらつめによみて贈る
 三味線の引手あまたの小あみ町けふを出舟のひきぞめにせん
  題しらず
 世の中は何かつねなる飛鳥山きのふの花はけふ桜ん坊
  北里に菊を植しときゝて
 菊は花の隠逸なりと唐人のいひしはたわけ見よ仲の町
  三田元札の辻といふ所にすむ嘉山のもとに、近きわたりのうたひめ来れり
 めづらしく芸者をけふはみたみたとみつけん番の元札の辻
  楽屋新道丸七のもとにて関三十郎によみて贈る
 あふ阪と鈴鹿と不破のいにしへにまされるものは今の関三
  贈中村芝翫
 山姥名残山又山、狂言大入五年間、吾妻贔屓兼京摂、柳緑花紅
 色々顔
 狂言のやまとうた右衛門山姥も小春のにしき着てや帰らん
  鯉屋藤左衛門がかたにて河東節松の内をきく
 末の代に沅湘日夜ながれてもむかしにかへれ花の江戸節
  浅草の奥山に菊を植しときゝて
 奥山に植たる菊を門番の風の神殿ふきな倒しそ
  中村座三番叟翁七三郎千歳明石三番叟芝翫つとめしとき
 ほのぼのと明石に七三三番叟芝かくれゆく幕おしぞ思ふ
  題しらず
 ぼんぼりにたつろうそくも二丁目の東籬にみゆるしら菊の花
  隅田川雁
 すみだ川のちのあしたも細見の山形なりにわたるかりがね
  二藤の娘おらいが扇に都鳥の絵あり
 みやこどりいざこととはんわが思ふ人に二藤はおるかおらいか
  住吉町松本のもとに酒のみけるに、岩戸香といへる髪の油をひさぐ家なれば
 神代よりひらけし天の岩戸町つたへてこゝにすみよしの松
  この頃わが名をなのりて、市中にて物かき酒のむおこのものありときゝて
 みな人のよもやにかゝる紫の赤良を奪ふ事ぞ悲しき
  此方よりせりうり一切出し不申候。
  中村歌右衛門十月十六日の舞納より、下駄はきて近きわたりにゆくふりにて、たゞちに甲州道中をへて浪花にかへりしが、その妻子はあとにのこりて、はつかすぎて女切手など乞ひうけて東海道を上りしが、川崎といふ所にて雲助四十人斗出て酒手をこひければ、こがねあたまとらせしが、これよりゆくさきも亦かくの如くならんと、ひとまづ江戸にかへりしときゝて
 歌右衛門下駄ながらこそにげにけれ女の切手間にあはずとや
  うた右衛門は上下の者五人やとひて金十五両遣しけるとぞ、その妻の川崎にて酒手をこはれしは三十五金ばかりとなん、此の比の世がたりなり。
  豊島屋十右衛門扇橋別荘の碑に
 山里は水をかなめの扇橋末ひろがりの海にこそ入れ
  いづみや与四郎浪花にかへる餞別
 なには江のあしたはよしやよしさんの声のみ耳にのこる秋風
  鯉屋にて河東節松の内をきく
 あら玉の空青みたるあけぼのはつねきく鳥もわか水の音
  九月廿九日鯉屋にて鮟鱇汁をくふ
 此冬も御鮟鱇とは秋ながら吸物わんのふたとりてしる
  河東ぶしかぶろ万歳うたふをきゝて
 にぎやかなつぶりの禿万歳は今をさかりの花の江戸ぶし
  鳥羽絵にかける河津の角力に
 此角力蟇股野は河津がけ鳥羽僧正の筆を取組


〔狂歌類題〕網雑魚

 中つ代の諺にいへらく、雑魚とふいをもとゝ交と、且きゝつ此鰕雑魚とふものは、空かぞふおほうみの原を、棹楫ほさず射往廻ほる舟人らが、まりすつるくその潮左猪に凝りて、なれるになもありとぞ、否にや然にや、くはしきはしらず。爰に又、あみざことうは書せるとぢぶみあり。足はしも、野べの高萱草ぶかき国に在ながら、大江戸の手振をまねびて、其名風のとの遠くきこえたる荻野屋のぬしが荻の葉さやぎ、熟睡せられぬよひのすさびにいひ捨たるたはれ言を、おのがものから後みむには心なぐさむわざなりとて、ひたかい集たる物にもなも有ける。故くすしき人の見つゝ、多倶理をつきていやしむ事を思ひはかり、みづから八重だゝみへりくだりて、およづれ言に穢しつる、あやしきいをの名もて冠らせたるなるべし。こをとりてよむに、其数すべて三百余、たゞに網ざこの骨なき歌のみならず、いすぐはし鯨のたけある詞、おほをよし鮪のひれあるすがた、はたふくべのおかしき、あか棘鬣魚のめでたきをさへに、調べとゝのほり心ひでたるもいとさはに見ゆめり。これがはしに言くはへてしがなとこはるゝを、辞びていふ、おのれ真がほ、あら玉のとし月此芸にふけりて、わだの底澳津ふかえのふかきを極み、龍の窟の?くかをもうかゞはまくつとめれど、阿古や珠のひかり顕れつべき幸やなかりけん、あしがきの隣にだもしられずなむなりにたる、譬ば魔竭の魚にさばかりならぶものなきもおほよそ人のめには真しろなる山、あけなる海とのみ見さけられて、とほしろき魚ともしられざれば、いをとなり出しかひもなくて、藻にしづむ鮒にすらおとりぬるがごとし。かくいひつゝおるほどに、いよゝざへあざれ詞ふりにたれば、人みな真そでもて鼻おほはむ事を、やさしみおもへりとわびあへれど、彼ぬしさらに諾なはずしていへらく、臭を逐ふ人なからむや、屎鮒喫る女奴もあるをと、あまの栲縄くるしきまでさいなまるるをもだしやらで、なまなまにしかしるしつ。是ぞ此雑魚とふいをのとゝまじりと、許々良の人のみたまはむを、恥ざらめやもおそりざらめやも。
          鹿津部真顔がいふ
  序
 それたはれ事のすき人らは、すさのをのみことを祭てふみな月のあつき、下照姫のてる日をも厭はす、春は飛鳥山のうなゐらが土器を投るたはむれにもよみ、難波津にさくやこのはなのしもけぬべう覚ゆる冬の日もよみ出ることになんありける。さればあかゞりのいたくすけるをこそ此道のすきとはいふめれ。こゝにひとりのすき人あり。かばねは赤松名は金鶏、家の名は荻野屋とかきこえし。うまれは大江戸のまなかにして、うぶ湯のたらひのまろくかどなき人になんありける。今は上毛のくになぬかいちといふ所にいまして此みちもてたのしみ、花につけ月につけてよみ出るざれ歌あまたなるを、一の巻となして、そのすけるてふゑにしあればとて、あみざことものして世にひろめ玉ふとかや。同じこゝろのすき人ら此巻をずし玉はば、金雞子の道をすける事をもしり、はた歌のあさらけきいをのごとくなるをもしり玉はん。やつがれ年老、筆もたちかね侍れど、せちに乞るゝにいなみがたう、つたなき言の葉をのぶるになん。
          桑楊庵光いふ


狂歌網雑魚目録

第一巻春之部 年内立春 立春 関路立春 早春 初春 山霞 関霞 鶯
 題しらず 若菜 残雪 梅 柳 早蕨 花 山桜 雨中花 落花 春曙 蛙
 欸冬 雲雀 三月尽

第二巻夏之部 更衣 葵 郭公 山蜀魂 五月雨 滝五月雨 照射 水鶏
 夕立早過 納凉 荒和祓

第三部秋之部 初秋 早秋 七夕 七夕川 七夕舟 萩 野萩 雁 深夜雁
 海霧 月 名所月 秋風 擣衣 山家虫 菊 紅葉 九月尽

第四春冬之部 初冬 落葉 時雨 霜 雪 冬月 河上氷 神楽 埋火 歳暮
第五巻恋之部上 恋 久忍恋 祈恋 侍恋 待空 逢恋 初逢恋 別恋
第六巻恋之部下 思 片思 欲絶恋 恋雨 春見恋 秋待恋 旅恋 恋命 恋心
 恋情 賤恋 寄雪恋 寄川恋 寄鷹恋 寄馬恋

第七巻雑之部上 暁 山家 羇旅之類 無題 画賛之類 俳優を見るうた
第八巻雑之部下 報恩之歌 夢 述懐 懐旧 哀傷之類 神祇之類 祝

網雑魚巻一 春之部
          隠士赤松金鶏著
  年内立春
 うぐひすの時分つかひを待もせずをしかけて来る年内の春
  立春
 岩戸あけし神代のまゝのひかりにてちつともさびぬあら玉の春
  関路立春
 此あさけかすみのまくもあたらしやとしの関所へ春の交代
  早春
 うごきなき春やこよみの大将軍もちのそなへもかたく見へたり
  初春
 やり梅の中に柳の青表紙文武二道の春はきにけり
  山霞
 春がすみたなびきしより杣人もめをたてゝ見るのこぎりがだけ
  関霞
 あしがらの関のまむきにはるがすみたちはだかれどしかりてもなし
  鶯
 春もやゝこはだのすしや鯛のすしまどよりなるゝうぐひすの声
  題しらず
 みとれてはつゐに前後を忘じけり梅にうぐひすうぐひすにうめ
  若菜
 ぬり桶のわたのやうなる雪わけて一二把つまんまだき若菜を
  残雪
 春の日を七十五日ひきのばせのこんの雪のおはりはつもの
  梅
 難波津に昨夜の雨やつよかりしけさほころびた梅の花がさ
  柳
 淵明が隠者かた気やならひけん門の柳もちらしがみなり
  同
 采配に似たる柳をうつし植てうき世のちりをはたき出さん
  早蕨
 さほ姫の御紋か山の背をかけて一つ巴にいづるさわらび
  花
 をる人のにげゆくあとへ声かけて大事の花をしかりちらすな
  山桜
 ひろがりし足高山のさくら花徒士ならねども風はわきよれ
  雨中花
 ならづけのかすみやたてる遠山の花にあまけの雲を起して
  落花
 さくら花ちりてもおしき虎の尾はいづれふまれぬものにしぞあれ
  春曙
 おこされてよんどころなき寐覚にもこれはとおもふ春のあけぼの
  蛙
 心にはたれもおもへどかはづほど春のわかれをなくものはなし
  欸冬
 なにごともいはぬ色とぞしられけり他人めきたる山ぶきのはな
  雲雀
 春の野にけぶるたばこの舞ひばりみればやにむにあがりこそすれ
  三月尽
 花鳥にまちえし春も三ぶくめつねのごとくにせんじ詰たり
  同
 東へはもどりもやらでうぐひすのとんだ跡へ春のいぬめり


網雑魚巻二 夏之部

  更衣
 春風の手形ありともぬぎかえてはな見しらみを夏へ通さじ
  同
 ぬぎかえて醭くさいかとかぐさへもとにかく春のはなをわすれず 葵
 是もまたときにあふひや氏なうてかく玉だれにのぼるさかえは
  郭公
 ほととぎす名のつてすぎよ青葉せし木の丸どののお目通りをば
  山郭公
 頼母子にいるさの山のほととぎすひと口ならずば半口もなけ
  五月雨
 くされつく畳より猶さみだれにひつたゝぬものは心なりけり
  滝五月雨
 布引にふりつゞきたるさつきあめひとはゞひろくおつるたきつせ
  照射
 夏むしのたぐひなりけり小男鹿のとんでともしの火にぞいりつつ
  水鶏
 たゝくのみ人もこずえのくひなにてつまどばかりかはなあかせぬる
  夕立早過
 神なりの太皷はやめてとろとろとひゞきの滝をすぐる夕立
  納凉
 竹夫人だいてぬるよのすゞしさはしやうのものより嬉しかりけり
  同
 夕すゞみ二十八宿あたりよりふき送る風や秋の先ぶれ
  同
 凉風にあつさわすれて思はずももとこべが夏をやり水の影
  荒和祓
 ひやひやとみそぎやすらん索麪の名にながれたる三輪の川なみ
  同
 やうやうと夏の仕舞へこぎつけて貴船の川のみそぎ凉しき


あみざこ巻三 秋之部

  初秋
 凉しさはいかにもすこしおどろけどびつくりはせぬ秋のはつ風
  同
 きのふまで威をふるあふぎけふよりはしたにしたにと秋のはつかぜ
  早秋
 秋風の吹絵とや見んきのふけふちらりほらりとをつる木のはは
  七夕
 七夕もすゝりてはなきたまふらんひや索麪のながきわかれを
  七夕河
 天河小町がうたに似るものかなみのうねうねしける七夕
  擣衣
 われもまた遠のきぬたの相槌にねがへりをうつ秋の小夜中
  山家虫
 西陣はいかに桐生の山ざとははたおるむしの声も色よき
  菊
 これやこれ七もゝとせのおきなぐさ杖はついても腰はかゞまず
  紅葉
 だまさるゝとはしりながらいなり山もみぢのにしき金と見る迄
  九月尽
 灸点の九喩かぎりにゆくあきをおさへてもけふひとひなりけり
  月
 八月のはちの名によぶ月なればはるゝも道理さすもことはり
  月
 のみつくせいざこれからは四斗樽傾くまでの月をこそ見め
  同
 月の中に老せぬくすり製すともこよひの月にくまのゐはされ
  名所月
 近々のうみと山とをひとまたぎまたいで出たるあしの屋の月
  秋風
 秋風をはりこの虎やおこすらんのべにちぐさのかぶりふれるは
  同
 風の神もいたみ入らんおしなべてのはきにあへる草の平伏
  七夕船
 恋中へ水をばさすなたなばたのとわたる船の梶原平三
  萩
 山中のはぎの花妻手折なりごめん候へ鹿之すけ殿
  野萩
 宮城野のはぎのにしきをきて見ればわれも赤面するばかりなり
  雁
 南鐐のみなみへかへるかりがねはただ一片の月になくなり
  深夜雁
 これ一番たのむの雁よ小夜中に汝なくともわれをなかすな
  海霧
 帆柱はうみのかための棒つきかすき間もあらぬきりの立番


網雑魚巻四 冬の部

  初冬
 けふよりはおとこやもめの世帯かやかみさまのなき冬のさびしさ
  同
 十月はけし坊主にも似たるかないつの間にやらかみも立たり
  同
 山姫の発足したるそのあとへおるす見舞の冬は来にけり
  落葉
 かぜにのりてつばさなくとも飛ゆくは銭神論に似たるもみぢは
  時雨
 こぬか程しぐるゝ雨は山ひめの紅葉ぶくろの口やときけん
  霜
 冬がれにときはの松の木むすめもはやそろそろとしもをこそ見れ
  雪
 佐野の源左よんどころなく僧とめてない袖をふる雪の夕ぐれ
  雪
 善光寺などはものかは雪ぼとけきえこそはすれ一寸八分
  冬月
 冬の夜はわきてするどし龍田山月のまなこのぴかりぴかりと
  河上氷
 水神の罰もあたるか河づらをはつたこほりに手のかゞむのは
  神楽
 月さえてうたふをきけば手もあしもかんじ入たる霜の夜神楽
  埋火
 おのがその山での事をわすれずに花に紅葉にまがふうづみ火
  歳暮
 くれてゆく月日の駒にしやくせんを小附にしてもどうぞやりたき
  同
 ひととせの尾張大根よかけとりをからみてかへすきものふとさは
  同
 年のくれ頭痛にやむはかべひとへちかき隣の千金の春


網雑魚巻五 恋之部上

  恋
 かなしきはふみまよふたる恋の道いかにととはん辻番もなし
  同
 恋やめばあはぬさきからやせるほどなみだに水をへらすくるしさ
  同
 玉しひを進物にしてくどけども御受納のなき君ぞつれなき
  同
 重代のゆづりものなるたましひをうばひ取しぞ恋はくせもの
  同
 うしや君恋かぜの手はありながら我いふことをとり上もせず
  同
 かくばかりからき思のつもりなば塩とや見へん雪のはだへも
  同
 だきつけどうしや女にまけずもふなげのなさけに身もころけたり
  同
 けいせいにあらねど君はおもかげを名代にしてあてがふぞうき
  同
 偽の数はいくつと十露盤にかけても見たり割くどいたり
  同
 よし今は門にたつをもやめにして腰をぬかすと君にしられん
  同
 恋やみのおもる斗でうき人はをちかぬるなり二十五のやく
  同
 君をしばしみそかの月にたとへし朔日丸をいまはすゝむる
  同
 うき人の心くだけよくだけよとわれのみ口をたゝくつれなさ
  久忍恋
 不思議にもしびれのきれぬ年月やしのぶあふせをかしこまり居て
  祈恋
 よし今は貧乏神やいのらまし手鍋さげてもそはんと思へば
  待恋
 我せこが来べきと思ふうらかたにうれしやよばひぐものふるまひ
  待空
 とひ来ねば夜着もろともに茶碗酒ひつかぶりつゝものをこそ思へ
  逢恋
 君今宵恋の山田のおろちなら七重にまいて我をかへすな
  同
 見るは目の毒といとひしうき人もあへば変じて薬とぞなる
  同
 肌とはだこほりつけよとおもふ夜はひよくの床のあたゝかもうし
  初逢恋
 とくよりも思ひのたねはまきぬれどちぎるは今宵はつ茄子なり
  別恋
 あふときに心のやみははれぬれどあかるく帰るきぬぎぬもうし
  同
 別路はまりの稽古に似たるかなさきへ一あしあとへ一あし
  同
 もそつと引ぱられてはよはるなり上州ぎぬの衣々の袖


あみざこ巻六 恋之部下

  思
 かたいとのあはずば何をとばかりにわくわくものを思ふくるしさ
  片思
 君がこと夢にもしばしわすれずといふをかへつて寐言とや思ふ
  欲絶恋
 機にのぞみ恋に応じてくどけどもをちざる君に軍法ぞなき
  恋雨
 ふりしきる涙の雨もふせぎえぬみのひとつだにあるぞかなしき
  春見恋
 見そめてしその恋風と春風ははなのちり毛をそつと吹なり
  秋待恋
 約束の夜は恋風のそゝふくべふらりと君を待あかしぬる
  旅恋
 木まくらのをしやちぎりも一夜ずしなるゝまもなき旅の別路
  恋命
 あふにかふる命としれば我ながらあづかりものの心地こそすれ
  恋心
 此心老馬もしらじ雪のはだふみまよひたる恋の道をく
  恋情
 なさけある君が返事のあいあいはあゐよりもこき声の色かな
  賤恋
 しづが身も恋にはこゝろこがしつ胸に一ぱいむせかへりなく
  寄雪恋
 興つきてかへる心はさらになし君がはだへの雪のあけぼの
  寄川恋
 いつとなくなみだの川にしづみつゝ命しらずの恋もするかな
  寄鷹恋
 たかならばうき名の外にぱつとたつ小鳥もおのがえにしなるべき
  寄馬恋
 いくたびかくどきかけても馬の耳はねつけてのみきかぬ恋風

網雑魚巻七 雑の部上

  暁
 あかつきのしぎのはねかきもゝはがきのみにくはれて我ぞ数かく
  同
 人はみなおきいづるそのあかつきに小便をしてぬるぞたのしき
  山家
 山里にすむたのしさはうき事のきこへぬほどに松風ぞふく
  海路
 心ある人に見せばや画師も手をおき津あたりの春のあけぼの
  むこの浦にて
 波風もたゝでひときは目にたつはこぬか三合いりむこの浦
  うつの山を越えける時いたうへりぬれど何たうふべきものなかりければ
 すき腹をしめつゆるめつするが路や舌つゞみのみう津の山越
  無題
 たのしめや人間わづか五十けんちろりと酒のかんたんの夢
  同
 諺に酒はうれひの玉はゝきはき出したる跡ぞ清けれ
  銭の賛
 是を人の心ともがな銭の穴おもては丸くうらは四角に
  白鼠かぶらをくふかたかけるに
 大黒の番頭なれやしろねづみあそんでくらふかぶの大さ
  亀の画に題して隠居の心を
 おく山へかくれんよりは亀を見てをのれにかくせをのが手足を
  俳優を見侍りて
 鉄砲のあたりしばゐは桟しきもまづ五六間ぶちぬいて見ん
  同
 うしろから見るはそんじやと思ふ哉羅漢さしきにのつたりそつたり
  同
 見物はかくもしばゐにふける哉くびばかり出すうづら桟敷
  同
 いつの世にかく狂言の種をまきて芝居を人の山となしけん
  同
 くまどりの青き赤きをこき洗ふ楽屋の風呂ぞ錦なりけり


網雑魚巻八 雑の部下

 報恩の歌二首
  半掃庵菴也有翁
 御遺稿はひとり案内道中記筆の立場をおしえ玉はる
  四方赤良先生
 いづれ手もとゞかぬ程の御厚恩山より高し海より深し
  夢
 うたゝねに千両富をとりしより夢てふものはたのみそめてき
  同
 夢の世ときけば彭祖や浦島はいかいたはけな大寐坊かな
  述懐
 われら事たしかにかりの命ながら千年ふるとも返済はいや
  同
 一つゝみ金がうのみにしたいかなひんの病にきつと即効
  同
 いかなれば貧の病の妙薬を千金方に書もらしけん
  懐旧
 またがりし乳母が脊中を正真の馬と見し世ぞ今は恋しき
  山東ぬしの妹みまかりける時
 かなしみのいたれる場には文もなしさぞ御愁傷さぞ御愁傷
  松斎沙明がわらはをいためる
 みくすりのしるしもさらにならさかやこのてがしはのとかくしぬれど
  初午祭
 はつ午にまつるこのしろあかのめし神はあがらせ玉ひけるかも
  草薙の社にまうでゝ
 くさなぎのふる身のつるぎ正銘もわからぬほどに神さびにけり
  祝
 戸をあけてぬれどもさらにいさゝかのかぜさへひかぬ御代ぞめでたき
  同
 唐人もきけあしはらの腹つゞみうちおさめたる御代のしらべを

         校合門人
            万徳斎
            宝敦麿
            寝語軒美隣


 金鶏狂歌集一名網雑魚。耕書堂主人所秘蔵也。唐丸申云。
 篇中狂詠高如妙義山、深似榛名沼。上州第一名物不可之者歟。
 即於彼人亭一覧此本。真希有之者也。
 今日席上応需闇雲加奥書畢。
 這金鶏集宜為淀屋宝、而虫干外勿許他見。可秘。可秘。穴賢。
  癸卯七月
          伯楽軒主人判

(奥付)
 昭和二年十一月三十日印刷 昭和二年十一月三十日印刷
 歌謡俳書選集十 蜀山家集 金弐円
 著作者 藤井乙男
 発行者兼印刷者
  京都市下長老町油小路西入株式会社文献書院 代表者武藤欽
 印刷所 京都市下長者町堀川東入 文献書院印刷所
 発行所 東京市神田区表神保町三(振替口座東京七一九四五)
 文献書院 京都市下長老町油小路西(振替口座大阪六一二〇九二)


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