蜀山家集 全 (附)網雑魚 歌謡俳書選集十
編輯及解説〔京大教授文学博士〕藤井乙男

   例言
一、本集は蜀山家集四冊に金鶏の『あみざこ』一冊を附録して一巻とした。
一、蜀山家集は家蔵写本を底本とした。これにはかなり誤脱もあるが、他に対校すべき善本を得なかつたので、已むを得ず不明の箇所は疑問標を付してそのまゝにして置いた。
一、本書の校訂は金子実英氏を煩はし且同氏執筆の狂歌小史と蜀山人評伝とを巻首に加へて、狂歌の性質、変遷、作者の人物風格を知るの便に供した。
 昭和二年明治節の朝 井乙男識

   蜀山家集解説
 蜀山家集四巻は蜀山人晩年の戯歌文を集めた家蔵の写本である。其の序文にもある通り、「朝な夕なのたはことを」出るにまかせて書きつけたのである。
 或は思ひ出るまゝに書き添へて行つたのである。
 だから玉石混淆である。未整理の草稿である。
 「千紅万紫」や、「万紫千紅」や、「千とせの門」などに収載されて居るものもあるし、居ないものもある。
 居ないものの中にも相当に面白いのがある。
 此の書の刊行が思ひ立たれた所以である。
 「六々集」は文化十一年正月から翌十二年の夏までの草稿に、仮に名づけたものであり、「七々集」は十二年の夏から翌十三年春までの請作に冠した名である。
 此の「七々集」から抜かれて「万紫千紅」(文化十五年刊)に加へられたものがかなり多い。
 次に「あやめ草」である。之は文化六年の暮から翌七年の秋と思はれる頃までのものが前半を領し、後半はずつと飛んで文政四五年の頃のものによつて占められて居る。前半からは「千紅万紫」(文化十四年刊)に、後半からは「千とせの門」(弘化四年)に、多くの歌が採られて居る。
 次に「をみなへし」である。之も初の方は天明頃のもので、中程から文化五六年のもが出て来、終の方には文政五年のものが現はれる始末である。初の方からは「千とせの門」へ、中程からは「千紅万紫」へ出て居るものが相当にある。
 最後に「放歌集」であるが、之は文化八年春頃から翌九年秋までのもので、主として「千紅万紫」と、「千とせの門」に収録されて居るのが多い。
 さて、「七々集」及び、「放歌集」は別として、「あやめ草」と「をみなへし」の混乱はどうした事であらうか。
 想ふに、前二者は蜀山人自ら草稿をまとめ、題名をつけて散佚を防いだのであらうが、後二者は散乱混雑した遺稿を秩序もなく取り集め、後人が勝手に二部に分ち、一を「あやめ草」他を「をみなへし」と名づけたのでもあらう。
 其の辺の事ははつきり解らない。
 単に推測に止まるのである。
 原本は随分蕪雑で、誤写がかなり多く、往々意味の通じない所や脱落がある。其等はその儘にして置いた。
 置かざるを得ないのである。
 何となれば原本は今の所只一部しか無いので、異本校合による補正が不可能だからである。それから文法上の誤がいくらもあるが、之もそのまゝ訂正しないで置いた。
 「あみざこ」の作者奇々羅金鶏は、上毛国七日市侯に仕へて居た医師である。本姓は赤松、奇々羅は其の戯号である。
 明和の頃江戸に生れ、若くして俳諧狂歌を嗜んだ。俳諧は也有翁に私淑し、狂歌は蜀山人を宗としたらしい。
 「網雑魚」は弱冠に近い頃の狂詠を集めたものである。
 鹿津部真顔と頭光の序を得て居る。
 天明三年の出版と思はれる。
 跋に耕雲堂主人蔦唐丸が上州第一の名物と称し、光の序に、今は上毛国七日市といふ所に在してとあるを見れば、その頃既に医を以て仕官して居たのであらう。
 若年ながら門人も相当にあつたらしい。
 狂歌そのものは概して平凡である。
 之といふ秀詠も無い様だ。天明七年に蜀山人の選した「才蔵集」に、其の片鱗を見得る。
 真顔や光程に多く採られて居ないのも頷かれる。
 三十六歳の時に致仕して、江戸の墨田川の畔に居をトし、花月を友として、悠々風狂を事とした。
 文化六年に死んで居る。
 「金鶏医談」「網ざこ」その他狂歌の著書がかなりある。
 戯作もしたと言ふが、今は見当たらない。

   蜀山家集

   狂歌小史
 狂歌史を書くには、先づ狂歌の定義から始めねばならない。而も狂歌を定義する事は、即ち狂の字の字義を鮮明する事である。さて狂の字には二つの意味がある。一つは狂気とか狂乱とかの狂で、之は説明の限ではない。
 他は狂狷とか狂簡とかの狂である。
 此の狂は高遠なる理想を抱きながら、それを実現する意力をもたない人々の心境を意味する。
 彼等は真の狂人ではない。只現実を逃避して以て自ら高しとする彼等の現行が狂気染みて見えるのである。
 常規を逸した奇抜な振舞にみえるのである。
 常規を逸した奇抜な振舞は見様によつては、滑稽でもあり、洒落でもあり、又皮肉でもある。
 狂歌の狂の字の意味は当に之である。
 狂歌に対して和歌が存在する。
 和歌は真面目なものである。其処には遊びがない。
 自然の歌にしろ、恋愛の歌にしろ、悼亡の歌にしろ、作家の胸奥の琴線はピンと張り詰められている。
 精一杯に秋を鳴く鈴虫の様に、歌人は満腔の熱と力を以て、喜怒哀楽の情を歌ひ出す。
 けれども狂歌師はさうではない。彼等が自然とか人生とかに対する態度は確に弛緩して居る。善く言へば余裕があるのだが、悪く言へば不真面目である。
 冷やかで、上つ調子で人を感動させる力はない。その代りに滑稽や諧謔を以て、人を笑はせる事が出来る。
 軽快な気分を味はせる事が出来る。
 或は皮肉や風刺を以て、間接的にではあるが、人の世の欠陥を匡正する事が出来る。斯う言つて来れば、ほゞ狂歌が何であるかと言ふ事が解るであらう。
 つまり和歌の生命とする所がまことであるならば、狂歌のそれは可笑味であり、たはむれである。
 和歌のねらふ所が優美で、高尚で風雅であるならば、狂歌のそれは滑稽で、凡下で、卑俗である。一方が貴族的尚古的であるならば、他方は平民的進取的である。
 以上の事を一つの定義に纏めて見ると次の様になる。即ち、
「狂歌とは用語及び取材に絶対的自由を与へられたる卑俗なる短歌であり、滑稽を旨とするものである。」
 要するに可笑味を有つ短歌なのである。泪の種ではなくて、笑の種を秘めて居る三十一字詩である。さて狂歌をさう言ふ風に定義すると、其の淵源は随分古い。
 古事記にもそんな歌があるかも知れない。
 万葉集には沢山ある。巻の十六に見える戯咲歌は凡て狂歌と言ふべきである。なかなか面白いのがある。
 大伴宿祢家持が、吉田連石麿と言ふ痩人を笑ふ歌などは、最もいゝ例である。

  石麿に吾もの申す夏痩に
よしといふものぞ鰻とりめせ

  痩す痩すも生けらばあらむはたやはた
鰻をとると川に流るな

 此の外鼻の赤い池田朝臣と痩ぎすの大神朝臣が互に戯れ合ふ歌とか、或は色の白い土師宿祢と色の黒い巨勢朝臣がやぢり合ふ歌など、いくらでも挙げる事が出来る。
 素朴な万葉人の諧謔は、此の如く無邪気である。竹の園生を礼讃し、人生への愛着を歌ふ人麿にしろ、自然の美を自然の美として写す赤人の歌にしろ、人間苦を人間らしい態度で歌ふ憶良の歌にしろ、その他無数の恋愛の歌や悼亡の歌や伝説の歌にしろ、集中の歌は総て皆真面目である。
 さう言ふ中に此の様な笑の歌、遊戯的な歌が混つて居るといふ事は、誠に面白い現象である。何故かと言ふ疑問は哲学の問題に属するから、此処では触れないで置く。万葉集が選せられてから、百数十年後、即ち平安朝の中頃に、延喜の帝の詔を戴いて、紀貫之等が古今集を選進した。
 古今集には俳譜歌として、さう言ふ遊戯的な歌が集められて居る。此の俳諧歌はとりもなほさず後に言ふ所の狂歌である。現に俊成の「和歌肝要」にも「俳諧といふは狂歌なり」と見えて居る。
 併し俳諧歌は狂歌の一体であつて、其の凡てではない。
 俊成も「狂歌と言ふは俳諧なり」と言つたのではないのだから、後世俳諧歌のみを以て真正の狂歌であると主張した一派の人々は、明かに論理の誤謬を犯して居るのである。
 況や狂歌の源流を古今集に求むるの非は論外である。
 其は万葉集十六の巻なる戯咲歌或は無心所著歌に求むべきである。可笑味を有つ短歌と言ふ定義を以て万葉以前に遡るならば、遠く記紀の歌にもそれに該当するもの、即ち狂歌が見出されるかも知れないのである。
 さて古今の俳諧歌は狂歌の一体ではあるが、流石に勅撰集に採録されて居るだけあつて、概して上品である。
 余り狂し過ぎたものや、俗過ぎたものは無いと言つていゝ。

  山吹の花色衣主やたれ
問へど答へず口なしにして 素性法師

  梅の花見にこそ来つれ鶯の
ひとくひとくと厭ひしも折る 読人しらす

  逢ふ事の今ははつかになりぬれば
夜深からではつきなかりけり 平中興

  人恋ふることを重荷と荷ひても
あふごなきこそ侘しかりけれ 読人しらず

 此の様にこゝろもしらべも共に優美である。
 優美な中に軽い洒落がある。それが俳諧歌の特質である。
 万葉の戯咲歌は大抵内容そのものに可笑味があり、其の可笑味が短歌の形式によつて表現されて居る。
 之に較べると古今の俳諧歌は、別段可笑しくもない事をば、可笑味のある言葉で以て詠まれて居るのが多い。
 歌の修辞が段々進んで来た結果と見るべきであらう。
 狂歌としては戯咲歌の方が一等勝れて居る。何となれば戯咲歌の可笑味は言葉が描写する可笑味であるが、俳諧歌のそれは言葉が創造する可笑味であるからである。
 可笑味の性質としては言葉が創造する可笑味は、第二次的のものであるからである。
 江戸時代の狂歌も大体は古今集のそれの様に、言葉の可笑味であつて、内容の可笑味ではない。
 だからまことにくだらない。
 と言つて古今集時代には俗意俗調を以て、ありの儘の滑稽を尽した狂歌らしい狂歌が無かつたと言ふのではない。

  竹馬はふしがちにしていと弱し
いま夕かげに乗りて参らむ
 「袋草子」に出て居る壬生忠見の歌である。
 内裏から召された時に乗物が無いと答へると、重ねて、では竹馬にでも乗つて来いとあつた際に詠んだものである。
 或は、
  昔より阿弥陀ぼとけのちかひにて
にゆるものをばすくふとぞ聞く
 藤原輔相字藤六がある下司の家へ入つて、家人の留守中に鍋の粥を抄ひ上げて食べようとする時、折悪しく見つけられ、三十一字の詭弁を弄したのである。
 「宇治拾遺物語」に見えて居る。探せばいくらもあらう。
 是等は所謂俳諧歌とは多少趣を異にする。
 狂歌らしい狂歌である。つまり優雅な滑稽、言葉の上の可笑味を旨とする俳諧歌と、卑俗な滑稽、内容の上の可笑味をねらふ狂体の短歌が共に存在したのである。さう言ふ短歌を狂歌と呼んだのは鎌倉時代以後であらう。
 しかとした名称が与へられなかつた程、俳諧歌に圧倒されて居たのである。けれども圧倒はされても、之が後世の狂歌の正系である事に疑はない。
 正系ではあるが此の種のものは至つて少い。何故かと言ふと平安朝の中期から鎌倉時代へかけて、狂歌は全く人を嘲罵し世を誹謗する落首に用ひられたからである。
 落首とは短歌体の落書であり、落書とは「玉かつま」にもある如く、「言はまほしき事の、あらはに言ひ難きを、誰がしわざとも知らるまじく、書て落し置く」ものである。
 正面から正々堂々と他人の非行を攻撃したり、為政者の失態を論難したりする勇気をもたない者が、其の不平不満を洩す一つの方法である。
 だから本来は非常に真面目なもので、大いなる社会的意義を有するものであるが、我国にあつてはそんな深い意味を有するのものは、殆ど無いと言つていゝ。
 人道の為に人の罪悪を諷誡するとか、正義の為に要路の人々の専横を憤るとか言ふ事は絶対に無いのである。
 只人を誹つて自ら快を遣るとか、或は他人の気付?ない社会の欠陥を指摘して、自ら足れりとするのが普通の様である。全くわるふざけに過ぎないものである。故に大宝令にも既に落書を罪する規定がある程度である。
 江戸時代はそれに対する取締がなか/\厳重であつた。
 兎に角落書はさう言ふ性質のもので、歌に限らず詩でも文章でも可いのであるが、狂体の短歌は短くて伝誦し易い所から、盛に応用されたらしい。それを落首といふのである。
 素朴な万葉人はお互の身体的欠陥に就いて、無邪気に欺謔し合つたのであつた。此の体から観れば、狂体の短歌が落首に向つて進展するであらう事は、既に万葉の戯咲歌に、暗示されて居るではないか。
 落書の詩は「本朝文粋」巻十二に見えるのが最古のものであり、落首は「平治物語」巻下に、比較的古いのが見出されるとは、「松屋筆記」のいふ所である。
 左馬頭義朝が平治の乱に破れて、長田ノ四郎忠致に殺されて、獄門に上げられた時である。
 「いかなる者かしたりけん、左馬頭もとは下野守たりしかば、一首の歌を書きつけたり。
 下野は紀の守にこそ成にけれ
よしとも見えぬあげ司かな

 或る者此の落書を見て申しけるは、昔将門が首を獄門に懸けられたるを、藤六左近と云ふ数寄の者が見て、
  将門は米かみよりぞ切られける
たはら藤太がはかりごとにて
 と詠みたりければ、しいと笑ひけるなり。」と見えて居る。
 藤六左近とは前出の藤原輔相で、大体古今集時代の人であるから、此の後の歌が落首としては古いものらしい。
 同じく「平治物語」に、長田四郎忠致は相伝の主義朝と、正しき婿鎌田正家の首を持参して恩賞を要求した所が、壱岐守に任ぜられた、それが不平であるとて、せめて美濃尾張を賜りたいと上訴して斥けられ、国元へ逃げ帰つた時の狂歌として、
 落ちければ命ばかりは壱岐の守
みのをはりこそ聞かまほしけれ
 とあり、更に彼が頼朝に殺される時の落首として、
  嫌へども命の程は壱岐守
みのをはりをば今ぞ賜はる
 とあるのである。皆落首の上乗である。
 「平家物語」の富士川合戦の条に、
「さる程に落書ども多かりけり。都の大将軍を宗盛といひ、討手の大将をば権ノ亮(維盛)と言ふ間、平家をひらやになして、平屋なるむねもりいかに騒ぐらむ 柱と頼むすけを落して」とあるのも好い例である。此の外「源平盛衰記」とか、或はもつと後の「太平記」「応仁記」などにもかなり多い。
 が孰れも他人の失敗を嘲笑したものであつて、時世に対する調刺は少い。江戸時代になると厳しい禁令を犯して、辛辣なる落首が往々現はれた。
 為政者の無能を冷罵した痛快なのがある。がそれとても真に社会意識に眼覚めた者が、社会組織の欠陥とか支配階級の横暴とかを、匡正すると言ふ様な意図をもつて作られたものではない事は、前述の通である。
 「寛天見聞記」や「武江年表」や、其の他江戸時代の随筆類をあされば、ざらに見付かる。
 要するに俳諧歌と同様に、落首も亦狂歌の一体である。
 狂歌と言ふのは其等の凡てを包括する広義の名称である。
 かう言へば近世宿屋飯盛が言ふ所の、狂歌は落首より出でたりと言ふ説の虚妄なる事は、自ら明らかであらう。
 前にも述べた如く、狂体の短歌に狂歌と言ふ名称を付したのは、多分鎌倉時代初期の事であらう。
 古くは「本朝文粋」巻一に、源順が此の字を使つて居るが、之は自作の詩を謙遜してさう言つたのである。
 「明月記」建久二年閏十二月の条に、
「相次参一条殿。依昨日仰也。入夜被読上百首。事畢有当座狂歌等。深更相共帰家。」とあり、更に建保三年八月廿一日の条には、
「日入以後参内。参御前。俄而召人々。各参入。始連歌。
 一両句間、雅経朝臣参入。按察可参之由女房申之。忽抑連歌。被待彼参入之間。有狂歌合。」とも見えて居る。
 之によつて察すると、其の頃は和歌或は連歌の余興として、狂歌が詠まれたらしい。而して歌人或は連歌師は孰れも余技として狂歌を嗜んだらしい。ところが「井蛙抄」によると同じ頃御歌所に、柿の本衆と栗の本衆とがあつて、柿の本を一名有心と言ひ、普通の和歌を専にし、栗の本は無心と呼んで主として狂歌を詠んだとある。水無瀬殿の庭の大きな松の木を距てゝ、有心座と無心座とが対立して居た。
 或る日松吹く風の音を聞いて有心側の慈鎮和尚が
  心あると心なきとが中にまた
いかに聞けとか庭の松風
 と詠み遣はすと、無心側も黙つては居ない、早速
  心なしと人のたまへど耳しあれば
聞きさぶらふぞ軒の松風
 と返歌した。「耳しあればが生さかしきぞ」と言つて、後鳥羽院が御笑になつたと言ふ話である。之によると和歌に対する狂歌の位置は、かなり高い様に見える。
 けれども大体から言へば、狂歌はやはり和歌や連歌に対しては、従属的地位に在つたのである。
 序だから連歌の事を一言して置かう。
 連歌起源は万葉以前にあるのであるが、専ら盛に成つたのは、鎌倉時代から室町時代へかけてゞある。
 大体支那の聯句の影響を受けたもので、簡単に言へば一首の歌を二人がゝりで詠むのである。
 源三位頼政が、夜な夜な近衛院を悩まし奉つた鵺を射止めた時に、院は御感の余り獅子王と言ふ御剣を賜つた。
 宇治左大臣頼長卿がそれを捧げて、南殿の御階を下りつゝ、折ふし一声二声啼いて過ぎた時鳥を聞きつけて、
  時鳥名をも雲居に揚ぐるかな
 と頼政の功を賞讃した。
 すると頼政は直に跪いて、傾く月を見遣りながら、
  弓張月のいるにまかせて
 謙遜した。それで益々叡感を深うしたといふ話が、「平家物語」に出て居る。之が即ち連歌である。
 崇徳院の御代に、俊頼が選進した「金葉集」から、其の代表的なものを一首引用する。
  田に喰むこまはくろにぞありける 永源法師
  苗代の水にはかげと見えつれど 永成法師
 一首の和歌を二人して詠むといふ事が、既に遊戯的であり、それが大抵言葉の創造する可笑味に重心を置いて詠まれて居る以上、初期の連歌は全く俳諧歌或は狂歌と同一である。只作者が二人と一人の相違である。
 二人して詠むと言ふ点から、連歌と言ふ名称が与へられて区別されて居るのだから、それはそれでいゝ。
 ところが鎌倉時代以後、斯ういふ連歌が複合されて、五十韻百韻の長篇が現はれた。
 いくら長篇になつても、之を歴史的発生的に見るならば、それはどこまでも可笑味を狙ふもので無ければならない。
 然るに当時の歌人は、大体に真面目な普通の和歌を貴んだので、自然彼等の連歌は、俳諧の連歌或は狂歌の連歌ではなくて、和歌の連歌となつて了つた。
 上品ではある。が死んで了つた。
 自由で軽快で活々とした所が無くなつた。
 面倒な規則が出来たり、用語を彼此いふ様になつた。
 それでは面白く無いと言ふので、俳諧の連歌狂歌の連歌を鼓吹して、優美とか幽玄とかを生命とする普通の和歌や連歌に対して、滑稽諧謔の方面に於て、大気焔を揚げたのが、かの山崎宗鑑であつた。
 「犬筑波集」の中から一二の例を拾へば、
   霞の衣すそは濡れけり
  佐保姫の春立ちながら尿をして
   舅のための若菜なりけり
  沢水につかりて洗ふ嫁が脛
 の類である。此の俳諧の連歌が貞門から談林を経て、益々滑稽に走り、理屈に堕して空疎なものと成つたのを承けて、之に生命を吹き込み、之に芸術的内容を与へたのが、元禄の芭蕉であつた。さて此の狂連歌は、こゝろと言ひ、すがたと云ひ、後世の狂歌と殆ど違はない。
 だから後世の狂歌は俳諧の連歌から遊離したものと考へてもいゝ。俳諧師であつた松永貞徳は一面狂歌師でもあつた。
 彼の門人も皆その通りである。
 併し、鎌倉時代にも狂歌と銘を打つて、和歌連歌に対立して居た狂体の短歌があつた事を忘れてはならない。
 只当時の狂歌は微力で、歌人や連歌師によつて、折々即興的に手をつけられたに止まる。
 彼等はみな座興的に狂歌を弄んだ。
 それは「明月記」の記す所によつても明かである。

   題しらず、
  七瀬川やせたる馬に水かへば
くせになるとてとほせとぞ言ふ 西行法師

   発心の日より行住座臥西向きてのみありけり。
   或時東へ下るとて道につかれ馬に乗るに、
   うしろざまにのりながら詠める、
  浄土にも剛の者とや沙汰すらん
西にむかひてうしろ見せねば 蓮生法師

   題しらず
  からかさのさしたる咎はなけれども
人にはられて雨にうたるゝ 北条時頼

 暁月を近江国蒲生氏なる人いたはりて、寺地に田地など添置かれけるに、とかく我儘のみ度重りければ、所を立退き給へとこずきける時に詠める、
  費長鶴張博浮木達磨芦
暁月坊はこずきにぞのる 暁月

 「古今夷曲集」「後撰夷曲集」に多少採録されて居る。
 室町時代に入つては、「七十一番職人歌合」「十二類歌合」「調度歌合」「狂歌合」などが出て、追々盛になつた。
 一方荒木田守武や山崎宗鑑によつて連歌の革新が企てられ、連歌は滑稽諧謔を旨とする様になり、それがやがて短歌の形式に於て分裂して、在来の狂歌と合流するに至るのである。が此の頃とても未だ専門の狂歌師は居なかつた。
 けれども好んで多くの狂歌を詠んだ人に一休がある。
 一休は禅の妙諦を把握した一種の超人であつたので、凡ゆる言行が自然滑稽洒脱の趣を帯びて居た。
 「仏法とは如何」とやられるとすぐ、
  仏法は鍋のさかやき石の鬚
絵にかく竹のともずれの声
 とやり返す。では「世法は如何」と二の矢を番へると、
  世の中は食うてはこして寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりよ
 と喝破する。
 是等は言葉の可笑味をねらふ様な皮相なものとは違ふ。
 其の洒脱なる人格と徹底したる悟道の自然の表れである。
 豊臣氏時代には曾呂利新左衛門が居る。黒胡麻をふつた餡餅を茶菓子に出して狂歌を所望された時に、
  黒ごまのかけて出でたる餅なれば
食ふ人毎にあらうまと言ふ
 と詠んで太閤を笑はせたと云ふ様な咄を集めたものに、「曾呂利狂歌咄」がある。之は偽託であるが、兎に角彼は狂歌に堪能であつたらしい。
 織豊二氏時代から徳川時代初期へかけて、天下の詞宗を何(ママ)て任じた者に、松永貞徳がある。
 貞徳は玄旨法印細川幽斎に就いて、和歌連歌の奥旨を究めたが、宗鑑の俳諧連歌に共鳴し、「犬筑波集」を継いで、「淀川」及び「油糟」を出して其の正調を示し、更に「御傘」の一書によつて其の法式を明かにした。
 彼に「貞徳狂歌集」がある。
 歿後二十九年目、天和二年七月に刊行された。
 さる人閨の戸さしこめて寝たりしに、隣にけはしく砧打ければ、響に驚き眼を覚しぬ。
 殊の外恨みて擣衣と言ふ題にて歌よみてけり。

  肝心の寝入時分にまた衣
うつけ者とや人に言はれん

   森の紅葉
  外からもほのかには見る松杉の
枝の間々もりの紅葉ば

   更衣
  春過ぎて夏は来たれど帷子の
着替もなくてあたまかくやま

 右は比較的面白さうなのを抜き出したのである。
 それにしても言葉の遊戯が主であつて、内容的な可笑味は殆ど見当らない。
 俳諧に就いて彼の門に入つた半井卜養、石田未得、池田正式、梶山保友等は一面に於て狂歌師であつた。
 俳諧連歌から狂歌を分離せしめたのは全く彼等である。
 未得には「吾吟我集」があり、ト養には「卜養狂歌集」がある。
 ふる年に春立ちける日、人の子をまうけたるに詠み侍る、
  年の内の春にむまるゝみどり子を
ひとつとや言はん二つとや言はん

   首夏
  春過て夏の日影にわたぬきの
衣ほす今日汗のかき初め(吾吟我集)

 ある人馬場に桜をうゑて花の頃歌よめといふて所望ありければ、
  白妙に綿帽子着る花のかほ
年もふる木のばゝざくらかな

 花の頃興を催し花を見にまかりけるが、花も未だ開かざるその木の下にて酒飲みなどして、
  花盛り下戸も上戸ものみたべて
開かぬ先にさけさけといふ(卜養狂歌集)

 ト養と未得は後江戸に住したのであるが、其の頃上方では永雄、信海、行風の三人が狂歌師として有名であつた。
 永雄は細川幽斎の姉の子で、建仁寺の長老であつた所から、雄長老と称した。

  死ぬるとてでこせぬ事をしだいたは
そもたれ人の所行無常ぞ

  餌さしめがちやくとさすべき棹河の
無用心にも鳴く千鳥かな
 と言つた調子である。元和中「新撰狂歌集」を編み、「雄長老百首」なる自家集がある。信海は男山八幡の社僧で、豊蔵坊と号した。或は玉雲翁ともいふ。
 能書家で狂歌の方に於ても名高い。
 油煙斎貞柳の師である。家集を鴆杖集と書ふ。

   上巳
  我むねは今日はな焼きそ若草の
餅もこもれり酒もこもれり

   端午
  美しきあやめの前の小袖より
真菰かぶつた粽目につく

 行風は生白堂と号し、浪華の高津あたりに棲んで居た。
 寛文五年に「古今夷曲集」を編して、後西院天皇の叡覧に供へた。次いで「後撰夷曲集」をも選集した。
 それは寛文十二年の春であつた。寛文延宝から元禄享保の頃へかけて、上方の狂歌壇を牛耳つたのは油煙斎である。
 油煙斎は大阪御堂前の菓子屋で、父貞固は貞門の俳諧師安原貞室に就いて学んだ。
 その縁によつて、彼も俳諧を嗜み貞柳と号した。
 後八幡山の信海を師として狂歌に入つたのである。
 油煙斎といふ戯号の起原は、
  月ならで雲の上まですみのぼる
これは如何なるゆえんなるらん
 の詠であると云ふ。
 奈良の古梅園主松井和泉掾が、重さ二十余斤の大墨を調製して雲居に献上したのを賞めたのである。
 此の様に彼もやはり最初は、言葉の創造する可笑味を旨として、無内容の駄洒落を喜んだ。けれども彼の狂歌に対する観念は、決して之に止まらなかつた。
 彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。
 何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。
「之は如何なるゆえんなるらん」などは、全くのこじつけで、狂歌の真髄に触れたものではない。真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。
  ほうぐわん日とて心よしつねよりも
べんけい勝れ静なときはじや
 などは只言葉の意味の二重性を悪用したむだ口に過ぎないもので、少しも余韻余情と言ふものがない。
 技巧を衒ふ所が卑しい。もつと上品でなければならん。
「狂歌は紙子に錦の裏を付ける」のだ。
 それに一般の人々は「布子にあかね木綿裏」である。
  散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれども
けれどもさうぢやけれども

  住吉の木の間の月の片割は
ありけるものを此処に反橋

  西行に杖と笠とは似たれども
心は雪と墨染めの袖

  終にゆく道とは兼ねて業平の
業平のとて今日も暮しつ

 かういふ風に一首を安らかに詠んで、其の安らかな中に作者の風流がしみ出て居るのでなければならん。
 無理があつては面白くない。さう言つて彼は門弟を訓へた。
 だから柳門の流を汲む者は、皆平易流暢を心掛けて、力めて拮屈晦渋の詠を避けた。
  世の中は何の糸瓜と思へども
ぶらりとしては暮されもせず 木端

  出替の折は八十八夜にて
今日を名残のしもの女子衆 華産

  つくづくと花のながめにあくびしつ
隣もあられ煎る音のして 貞柳

  早乙女が気もせきやうの影法師
東どなりの田を植ゑてゐる 奨圃

  山吹の枝に手をかけ鳴く蛙
花がほしくば大皷でも持ちや 貞佐

 貞柳の歿後は大阪の栗柯亭木端と、岡山の芥川貞佐が其の遺風をうけ継いだ。
 門葉は全関西に拡つてなか/\盛であつた。
 けれども彼の所謂余韻余情の狂歌、或は箔の小袖に縄の帯の狂歌を理解する者は殆ど無かつた。そして一般の詠風は漸次平板に流れ、凡下卑俗なものと成り下つて行つた。
 木端への書簡に於て、彼は次の様に言つて居る。
「之でなければ狂歌ならずと存候得共、我に等しき方御座なく候」と。それと同じ心持を、芭蕉は
「此の道やゆく人なしに秋の暮」と吟じた。
 先覚者の淋しさである。開拓者の嘆きである。
 その嘆きの中に彼は死んで行つた。
 時に享保十九年である。
 生前会心の詠を、舎弟貞峨が門人知友に配つた。
 それに辞世がある。
  知る知らぬ人を狂歌で笑はせし
その返報に泣いてたまはれ

 家集を「家土産」及び「読家土産」といふ。
 因に舎弟の貞峨は、豊竹座の浄瑠璃作者紀海音である。
 江戸では寛文延宝の頃以来、前述の半井卜養、石田未得、斎藤徳元などが各々俳諧と共に狂歌を弄び、相当に繁昌した様であるが、元禄享保の間は一時中絶した。
 油煙斎の狂歌は全関西を風靡しただけで、其の勢力は関東へまでは及ばなかつた。宝暦明和の頃に至つて、江戸に平賀源内、木室卯雲などが居つて、たま/\狂詠を事とする様ではあつたが、專らそれに身を委ねたのではなかつた。
 同じ頃尾張に横井也有が居た。也有は俳人ではあつたが、また狂歌も嗜んだ。
 「鶉衣」に「俳諧うた并弁」の一文がある。
 それによれば彼は古今集の俳諧体と俳歌うたとを区別し、更に俳諧うたと狂歌は同一ではないと主張して居る。
 古今集の俳諧体は歌人の俳諧うたで、俳人の歌ではないと言ふのだ。而して「狂歌は全体の趣向を求めず、其の物其の事に縋りて、他の物の名をかり秀句をとりなし、言葉をもぢりて全く言句にをかしみを求む」るものであり、俳諧うたは「趣向一つを立てゝ、其の事をすらすらと言ひ流して、言葉の縁字義の理窟は曾てとらざるもの」であると説く。
 例へば、
  たつた今乞食叱りし門口へ
直にむくいて掛乞が来る

 などは正しく俳諧うたであり、
  あてなしに遣ひ遣ひて節季には
銭は無いとて留守遣ひけり
 と詠めば、純然たる狂歌である示す。要するに彼の所謂俳諧うたとは内容に滑稽を有するものを指し、狂歌とは言葉にのみ可笑味を持つものを指すのである。
 私はどちらも狂歌と呼んで差支ないと思ふが、也有はさう別けて考へたのである。その後安永天明の頃に至つて、江戸に俄然狂歌が勃興した。
 只日本の政治的中心地たるに止つた江戸が、永い伝統を有する京阪を凌いで、真に日本の文化的中心地となつたのである。其の頃になつて漸く江戸は、其の文学に於て、美術に於いて、演劇に於いて、音楽に於て、京阪の模倣を離れて、独自な境地を開く様になつた。遊里や芝居や寄席や料理屋や見世物や、其の他都市としての亭楽機関が悉皆備つた。
 鉄砲は袋棚に納り、鎗は錦の袋をかぶつて長押に煤る御代である。火事か地震か喧嘩より他に、事件らしい事件が無いのである。春は花見の飛鳥山、夏は涼みの両国橋といふ風に、市民は悠々と四季の行楽を娯しんだ。
 武士も町人も表向は四角い階級とかで、儼然と区別されては居るが、内証では全く対等である。
 或は其の位置を顛倒する事すらあつた。
 花街や戯場へ行くと、「わちきや二本指はとんと好きいせんのさ」と言ふ具合で、武士は一向もてなかつた。
 平和な時代は何と言つても金である。幾ら柳生真影流の達人でも、金が無ければ駄目であつた。
 其の金を握つて居たのは町人である。
 町人は贅沢で自由で豪勢なものであつた。宵の中から惣花を打つて月と花との吉原を独占したり、役者に定紋付の衣裳を着せて、舞台から御礼を言はせたりする。
 十八大通が出る。黄表紙や洒落本や錦絵が生れる。
 小唄、都々逸、俳諧、狂歌、川柳、謎々、狂詩、狂文などが流行る。
 浮世は三分五厘で、間男が七両二分の世の中である。
 宵越の金は使はないのが江戸つ子で、意気だ伊達だ茶番だ狂言だと騒ぐのを得意とする。
 凡てが軽跳で浮薄で華奢で柔弱で皮肉で滑稽である。
 みんな笑つて、面白可笑しく世を渡らうとするのが、当事の風潮であつた。さういふ空気の中へ唐衣橘州が出て来た。
 四方赤良が生れて来た。
 此の二人が江戸の狂歌壇を開拓したのである。
 彼等は共に内山椿軒に就いて、和歌を学んだ。
 椿軒は軽俊の才子で折々狂詠を洩した。
 その影響を受けて橘州、赤良の徒も戯歌を口にする様になつたらしい。赤良の随筆「奴凧」によれば江戸で初めて狂歌会を開いたのは唐衣橘州である。
 橘州の書いた「弄花集序」は宝暦明和頃の江戸狂歌の濫觴から筆を起して、天明寛政の黄金時代に説き及ぼした小天明狂歌史とも言ふべきもの故、左に之を引用する。
「余額髪の頃より和歌を賀邸(椿軒)先生に学び、暁月が高古なる、幽斎(主旨法師)が温雅なる、未得が俊逸、玉翁(信海)が清爽の姿をしたひ、事につけつゝ口網を荷ひ出だし侍りし。或時臨期変的恋といふ事を、
  今更に雲の下紐ひき締めて
月のさはりの空言ぞ憂き
 とよみて、先生に見せ侍りしに、此歌流俗のものにあらず、深く狂歌の趣を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年あまりの昔なりけり。
 其頃は友とする人、僅に二三人にて、月に花に余が許に集ひて、莫逆の媒とし侍りしに、四方赤良は余が詩友にてありしが来りて、凡そ狂歌は時の興に詠むなるを、事がましく集ひをなして、詠む痴れ者こそ烏許なれ。
 我もいざ痴れ者の仲間入せんと、大根太木てふ者を伴ひ来り、太木また木網、知恵ノ内子を誘ひ来れば、平秩東作、浜部黒人など、類を以て集まるに、朱楽菅江亦入り来れり。是れ亦賀邸先生の門にして、和歌は予の兄なり。
 和歌の力をもて狂詠自ら秀でたり。
 彼の人々よりより予が許、或は木網が庵に集ひて、狂詠やうやう多からむとす。赤良固より高名の俊傑にして、其徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、予も亦ゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗上せしより、真顔、飯盛、金埓、光が輩次いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、飯盛は事ありて詠をとゞめ、光は早く黄泉の客となり、金埓は其の業によりて詠を専とせず、真顔ひとり四方歌垣と名乗りて、今東都に跋扈し、威霊盛なり。
 又一個の豪傑ならずや。
 之に次ぎて名だゝる者、淺草に市人、玉?に三陀羅を始として、尾陽、上毛、駿、相、奥、羽、総、房、常、越より、其外の国々のすき人、日を追ひ月を越して盛なり。
 斯く世に拡るは、実に赤良、菅江が勲にして、予は唯陳渉が旗上のみ。──」
 僅々二三十年で此の如き隆昌を見たのである。
 「岷江は始め觴を浮ぶるばかりなるも、楚に入て底なし」と、橘州が述懐して居るのも尤である。之は時代の風潮と狂歌の趣味とが完全に一致したからであらう。
 機智に富み、滑稽を喜び、皮肉を愛し、洒落を好んだ江戸市民が、其の戯謔癖を満足させるものとして、蓋し狂歌は上乗の手段であつたらう。「万才狂歌集」「古今馬鹿集」「徳和歌後万載集」「狂歌才蔵集」「万代狂歌集」を始として、各作家の家集が夥しく出版された。
 橘州の「酔竹集」、赤良の「千紫万紅」「万紅千紫」「巴人集」菅江の「朱楽館家集」、飯盛の「六樹園家集」金埓の「槍洲楼家集」、真顔の「蘆荻集」、手柄岡持の「我おもしろ」その他、赤良の「蜀山百首」「めでた百首」「狂歌百人一首」、金埓の「仙台百首」、蔦唐丸の「百鬼夜狂」、飯盛の判した「飲食狂歌合」などがある。中には未出版のものもあるが、大抵は上梓されたものである。
 以て当代の盛況を偲び得ると思ふ。
 さて此の時代の?歌は京阪に於ける貞柳一派のそれとは、全く系統を異にするものである。
 貞柳は俳諧連歌の方から狂歌に入り、縁語掛詞を排して、余韻余情の歌を理想とした。
 つまり京阪の狂歌は連綿たる伝統を有するに対して、江戸のそれは全く独自的のものである。
 只滑稽諧謔を愛する癖から、和歌めいた駄洒落をもてはやす様になつたまでゞある。それが古来の狂歌と全く同性質のものであつたので、それを狂歌と呼ぶまでのものである。
 従つて之は縁語、掛詞、地口、語呂合の類を自由自在に駆使して、奇想天外より来る体の詠を尚ぶのである。
 内容の可笑味よりは言葉の可笑味を求めるのである。
 時代が時代だし、機智や皮肉に屈託の無かつた江戸人の事故、実に垢抜のしたすらりとしたものが出来た。
 さういふ軽い明るい、此の時代特有の調子を持つ狂歌を特に天明調といふ。
  あらうなぎ何処の山のいもとせを
割かれて後に身を焦すとは

  お端女の立たが尻をもみぢ葉の
うすくこく屁に曝す赤恥(四方赤良)

  行春をしばし止めて眠らせよ
はたごやもなき海棠の花

  楊貴妃の湯上りならし白牡丹
うまく太りて露を含むは(唐衣橘州)

  今日はまた引く手あまたの姫小松
誰とねの日の春ののべ紙(朱楽菅江)

 幾らでもあるから此位にして置く。古歌をもぢつたリ、故事成語を詠み込んだり、俚諺を用ひたりしたものも多い。
 だが孰れも言葉の創造する可笑味以上に出て居ない。
 けれども赤良や菅江や橘州などの大家になると、言葉の創造する可笑味が、洗練された窮極の形に於て、言葉の描写する可笑味、形式としての可笑味ではなく、内容的な可笑味にまで達して居るのがある。
  時烏鳴きつる方に呆れたる
後徳大寺の有明の顔(四方赤良)

  邪魔致す男や槌で追ひぬらん
妹が砧のま延び間詰り(朱楽菅江)

  みどり子の裾吹き捲る涼しさや
波もあら井の関の秋風(唐衣橘州)

  一夜寝し妹がかたみと思ふには
うつり虱もつぶされもせず(宿屋飯盛)

 多少の文学的価値は持つて居よう。
 が何と言つても言葉の手品である。
 言葉の遊戯に過ぎない詠が多いのである。
 江戸の様な呑気な時代、遊民やお洒落の多い都会に於てゞないと、決して栄えるものではない。
 一時殆ど全国的に流行したが、それも暫くであつた。
 天保以後、世の中が益々多事に成つて行くにつれ、狂歌は段々と衰微した。川柳の方は形が短いし、ダラダラして居ないから、今日でもかなり盛であるが、狂歌は駄目である。
 而してそれでいゝのである。其の滅亡の日も近からう。
 だが強ひて惜むに足らないと思ふ。さう言ふ理由の下に、文化文政以後の狂歌壇に就いての記述は、之を省略する。
 只専門の狂歌師が出来、大人と称し、判者と唱へて点料を貧り、益々狂歌の価値を下落せしめただけのものである事を附記する。

   蜀山人評伝

 蜀山人太田南畝は、今は去る百七十六年前、寛延二年三月三日に、江戸牛込中御徒士町の組屋敷で呱々の声をあげた。其の家は代々幕府の御徒士で、七十俵と五人扶持を頂戴して居た。七十俵とは、所謂御蔵米であるから、三斗五升入として、二十四石五斗となり、五人扶持とは、一人一日の食量を五合宛として、其の五人前と言ふ意味であるから、月に七斗五升、年に積れば九石となる。
 即ち両方合して、三十三石五斗の玄米が、其の歳入の総てである。三十三石五斗の玄米は、今日の米価、石四十円宛として、千三百四十円となり、月に割れば平均百二十円余となる。即ち南畝の家庭経済を、今日の其に翻訳すると、大体月収百二十円の官吏と言ふ事になる。
 月収百二十円の官吏の生活は、余裕どころか、随分苦しいものである。其から推しても南畝の家庭が決して経済的に恵まれたもので無かつた事を知る可きである。
 況して元禄享保以後、一般の生活程度が向上するにつれて、物価は昻騰する一方で、米価が之に伴はなかつたから、所謂蔵米取は勿論の事、全武人階級の窮状はまことに憐む可きものがあつた。けれども保守的な幕府の事である。
 七十俵五人扶持は、いつまでも七十俵五人扶持である。其どころか折々は御勝手元不如意の名の下に、七十俵五人扶持が、七十俵五人扶持でなくなる事もあつた位である。
 と言つて、前垂掛で算盤を弾く訳にも行かず、跣足で肥桶を担ぐ訳にも行かない。お金は儲け度いが、お腰のものが邪魔になる。始末はし度いが、貧乏でも侍である。
 相当の体面は保たねばならないと来る。
 進退維れ谷つて、さて世の中を見ると何うだ。
 経済上の勝利者としての町人の生活は何うだ。憎い奴とて斬り殺され、甘い奴とて貸り倒され乍ら、あの豪奢な暮し向は何うだ。遊里や芝居に於けるあの面憎い振舞は何うだ。之と言ふのもみんな金のお蔭だ。二本棒は駄目だ。此の世は金だ。
 武士は食はねど高楊子と言つたのは、昔の夢だ。千軍万馬の真つ只中を、命を的に駈け巡つて、天晴れ武勲を輝かしたのは、其は祖父さんのその祖父さんであつた。今や弓は袋棚の上に煤け、お太刀は鞘形の小袖に纏はれ、鎧兜は笑道具となり果てゝ了つたのである。何時迄も武芸専念でもあるまい。先づお金の取れる算段をせねばならない。お侍衆は然う考へた。武士道も何もあつたものではない。一人息子を廃嫡して、町人の分限者の伜を養子にした旗本があるかと思ふと、上役に贈賄して出世をしやうとする御家人もあつた。要するに生活難と物質慾が、武士の魂をすつかり台無しにして了つたのである。
 斯う言ふ風潮は明和安永天明の頃、即ち田沼時代に至つて、其の極頂に達した。
 小やかな南畝の家庭は、此の様な時潮の中に、危くも支へられて居た。
 彼の父は、至つて正直な、温厚な人であつた。三十余年の間、眇たる一御徒士として、御奉公に出精し、薄給の故を以て、不平を懐いたり、後めたい行を敢てしたりするやうな事は、微塵も無かつた。
 能く足る事を知り、分に安んじて、頬笑みつ人生の行路を辿つた平和な幸福な性格の持主であつた。
 母は気前の確乎した人で、足らず勝ちな収入を以て、能く家を治め、子女を養育して、甚だしい破綻は見せなかつたと言はれる。
 が其でも、負債は相当にあつたと見えて、「蜀山文稿」中の興山士訓には、「嘗テ父ノ緒業ヲ承ケ、家宿債多シ。俸銭業ニ已に子銭家ノ有ト為レリ。」と記されて居る。
 当時旗本御家人等の主たる金融機関であつた蔵前の札差から、俸禄を担保にして応分の借銭をして居たのでもあらう。が之は決して浪費の為ではなくて、自然の成り行きである。経済状態の変遷に順応して、俸禄を増加する事をしないで、物価が安くて、生活程度の低かつた幕府草創時代の制度を、其の儘に固守した当局者の罪である。いや当局者も旗本や御家人の窮迫を知らなかつたのではない。が肝心の幕府が、経済的に疲弊し切つて了つたので、策の施し様が無かつたのである。無い袖は振れなかつたのである。
 さう考へると、之は日に日に進転流動して止まない経済状態に対して、固定不変の封建制度が、当然陥る可き必然の運命であつたと、言はねばならない。
 其は兎も角、結局南畝の家は貧困であつた。
 環境は人を造ると言はれる。物質生活が精神生活を左右すると言はれる。
 其の人の人生観や処世観は、其の人の経済的生活によつても、かなり多くの制約を受けるものである。其の点から言へば、人生に対する南畝の現実的な功利的な態度、社会に対する実際的な唯物的な態度、及び其の性格に於ける生真面目な勤勉な努力的な半面などは、明らかに此の恵まれざる経済的環境の影響であると見る可きである。

 彼の母の墓碑銘に、「覃(南畝の幼名)幼ニシテ塾師ニ就学スルヤ、先妣以テ之ヲ相スル有ル也。」とある句によれば、女ながらに、多少の見識があつて、貧しい中からも、嫡子の教育に深く意を用ひ、自ら師匠を撰定したものと推せられる。
 南畝が初めて師事したのは、牛込加賀屋敷に住んで居た幕儒、内山賀邸であつた。
 賀邸は椿軒と号し本来は漢学者であつたが、国学の素養も相当にあり、和歌狂詩の孰れにも長じて居た。
 峻厳犯す可らずと言ふ様な純学者肌の人ではなくて、冗談も言へば洒落も出る、至極気の軽い磊落な人であつた。
 別に野心も有たず、大望をも抱かなかつたので権門勢家に阿諛する事もなく、恬淡寡慾悠々として、自ら好む所に従つた人であるが、此の人の風格が其の門人に及した影響感化はまことに大なるものがあつた。
 「石楠堂随筆」を見ると賀邸の和歌凡そ二千首は、其の子明時の手によつて、十巻にまとめられたと記されて居る。
 其の狂詠は天明二年に、唐衣橘洲が撰した「若葉集」に収録されて居る。以て其の滑稽諧謔の才を見る可きである。
 南畝と共に、天明の狂歌壇に雄飛した平秩東作・唐衣橘洲・朱楽菅江等は皆和歌に就いて、賀邸の門に遊んだ人々である。橘洲は「弄花集」の序に、
「余額髪の頃より、和歌を賀邸先生に学び、二十歳許りより戯歌の癖あり。臨機変約恋と云ふ事を、
  今更に雲の下帯ひき締めて
月の障の空言ぞ憂き
 と詠みて、先生に見せ侍りしに、此の歌流俗のものにあらず、深く狂歌の体を得たりと、ほとほと賞し給へりしは、三十年余の昔なりけり。」と述懐して居る。
 「弄花集」は寛政九年に上梓されて居るから、三十余年前と言へば、ほゞ明和改元の頃となる。又「蜀山集」には、
「癸の未の年は宝暦の十有五にて学に志す 六十一年前の癸未は、わが十五の歳なればなり。」とある。
 即ち南畝は十五歳にして賀邸の門に入つたのであつて、明和改元の年は正に十六歳の少年であつた。少年ではあつたが、天禀の戯謔の才は、既に其の鋭鋒を顯はして、橘洲が江戸で初めて狂歌の会を催した時には、真つ先に其の同人となり、須臾にして一方の雄と推されたのである。
 其は兎も角、賀邸門は実に天明狂歌の揺籃とも言ふ可く、幾多の駿足を輩出せしめて、斯界空前絶後の盛運を将来する上に、大いなる役割を演ずるものと言ふ可きである。
 当時に於ける各作家の眼覚ましい活動は、各人の天賦と時代の性質、殊に日本文化の中心地と成り了せた江戸が有した特異な都会情調に基づくのは勿論であるが、誘導触発その宜しきを得た賀邸の功績も、亦見逃されてはならないものである。

 次に南畝が師事したのは、太宰春台門の逸材松崎観海であつた。
 観海は丹波亀山の城主松平信直の家老で、熱烈な斯文の学徒である。志は詩賦文章よりも、寧ろ経世済民に在つたので、熊沢蕃山あたりの所論には深く共鳴して居た。
 経世済民の方法論としては六術がある。
 六術は彼が二十歳前後に書いたものであるが、今日から見ても余程の卓見と言ふ可き点が多々ある。
 春秋戦国の君子は、出でゝは即ち将、入つては即ち相、文即武であつて、孰れにも偏する事が無かつた。其の様に文武二道を打つて一丸とした立場に立つて、六術によつて経世済民の実を挙げると言ふのが彼の理想であつたのである。
 然う言ふ人であつたから、狂詠を弄んで門生と共に戯謔する椿軒先生とは夜と昼との相違で、此方はいつも怖い顔をして弟子を叱り飛ばした。けれどもきつい言葉の裏には真心が溢れ、振り上げる鞭の先にはいつも慈悲が籠つて居たので、弟子達は衷心から彼に敬服して居た。
 南畝が後年狂歌狂文を事として遊戯三昧の日を送り、而もしんから軟弱軽浮の風に化せられないで、何処かに世俗と相容れない高潔真贄の一面を所有して居たのは、明らかに此の森厳なる観海の性格と、熱烈なる其の思想の影響であらねばならない。「蜀山文稿」中の与野子賤及び送熊阪子彦序の二文を見れば、南畝が如何に其の学に私淑し、其の徳に敬服し、其の教に期待して居たかを知る事が出来る。
 然るに此の観海は、南畝が教を乞うてから幾何もなくして易簀した。
 其は安永四年乙未の冬であつたが、同じき秋から疥癬を病んで、薬餌に親しんで居た南畝は、突然其の訃に接して、哀悼の念に耐へず、落胆の余り食を廃する程であつた。
 「蜀山女稿」中の与樋季成に次の様な一節がある。
「之ニ加フルニ、天憗ニ一老ヲ遺サズ、観海先生ハ季冬を以テ逝キ給ヒヌ。山頽レ梁崩レ、吾誰ニカ適従セン。覃沈痼ノ余リ此ノ大喪ニ遭ヘリ。頓ヲ廃スル事数日。甚シ覃ノ窮スルヤ。」
 以て観海が如何に多く南畝の心を領して居たかを知る可きである。されば若し観海が、今数年其の齢を延べたであらうならば、南畝の一生は決して私が以下述べるが如きものとはならなかつたであらう。
 「杏園詩集」に故師を哭する七律が二首あるが、其の後の一篇は、盛厳なる観海の子弟に対する態度と、敬虔なる心を抱いて彼に師事した南畝の悌を、髣髴せしめて余あるものである。

 劉龍門こと宮瀬維翰は、南畝に詩を授けた人である。
 もと紀伊侯の医官であつたが、後龍門山に隠棲して蛍雪の功を積むこと数年、徂徠の学風を慕うて江戸へ赴き、服部南郭の門に入つた。門に入つて間もなく其の詩名は天下に轟き、其の講義を聴かうとする諸侯も随分多かつたが、自由と寛闊を愛する彼は、仕官は真つ平だと固辞して了つた。
 そして好きな笙を吹いたり、詩を作つたりして悠々自適し通したのであつた。
 「杏園詩集」の中の賀龍文翼先生五十寿といふ七律に於て、南畝は先生の風格と声誉とを称揚して、
 「社中遊好存兄弟、時下才名重古今」と詠つて居る。
 南畝の詩は全く劉龍門の衣鉢を襲いだものであるが、勿々秀逸に富んで居る。其の秀逸が狂歌狂詩の盛名にけ押されて、一向世にあらはれないのは実に遺憾千万である。
 平秩東作も其の随筆「莘莘野茗談」に於て、此の事に言及して居る。
「南畝は狂詩専門と言ふべし。惜むらくは詩名之に蔽はれて知らぬ人多し。詩作も比類少き上手なり。」と。
 流石に肯綮に触れた言である。

 次に服部南郭の門人であつた耆山和尚も亦南畝の先輩で、色々な点に於て彼の性格に影響を及ぼして居る人である。「仮名世説」に記するところに依れば、此の人は十二で芝の増上寺の僧となり、十八で堅義部頭を勤め、三十二で青山百人町へ遁棲した。なかなか詩才も有り、弁舌も爽やかで、常に文人や墨客と会して、雅筵を張り清遊を試みた。
 「蜀山文稿」中の呈耆山上人に次の様な一節がある。
「前日ノ会、誠ニ忘ル可ラズ。上人十笏ノ室、能ク諸子ヲ容ル。上人ノ長広舌、片言以テ百万ノ鋒ヲ摧ク可ク、玄理ヲ剖析シ、間々諧謔ヲ展ブ。故ニ能ク人々ヲシテ厭心無カラ使ムルニ至ル」
 此の外南畝の師事した人に沢田東江や井上金峨等がある。彼は飛目長耳博覧博聞を説く蘐園の学風を受けたか、能ふ限り広く学び広く交り、凡ゆる機会を利用して、其の学殖の愈々深且つ大ならん事を求めた。
 其の老年に及んでも尚、常に自己を空しうして、他に聴くに吝でなかつたのは之が為である。
 さて松崎観海・劉龍門・耆山和尚と並べて見ると、南畝の学問の系統が略々明らかに成るであらう。
 即ち其の主派をなすものは、何と言つても、物徂徠から発した蘐園の復古学であらねばならない。復古学を識らうとするには先づ朱子学を識る必要がある。
 故に朱子学から簡単に始める事とする。
 朱子学の根本理論は理気説或は性理説である。
 性理説は一種の形而上学であつて、極端に言へば単なる主観的唯心的空理論であるに過ぎない。が朱子学徒は其の性理説に基づいて、孔孟の教を整理しようとする。
 彼等は人世百般の事件を、精神のみに依つて解決し得ると考へ、誠心誠意と言ふ事を喧しく言ふ。
 従つて財を卑しみ富を排し、畢竟人間の物質的慾望を否定する事を以て、経世済民の根本条件と思惟する者である。之は既に天下の政権を掌握した幕府にとつて、何といふ恰好の学説であらう。
 幕府は此の学派を御用学汲たらしめる事によつて、間接に其の支配権並びに優越権を擁護しようとしたのである。
 之に対して起つたのが荻生徂徠である。
 徂徠の復古学は朱子学が独断的な性理説を以て、儒教本来の精神を曲解した点を猛烈に攻撃する。そして古文辞を習得して、古聖の遺書を如実に解釈しようとする。
 古聖の遺書を如実に解釈すれば、朱子学派の言ふ様な禁慾的な教は何処にも発見されない。聖教の本旨は慾望を全然否定する様な不合理なものでは無くて、只其を適宜に調節しようとする点に在るのである。
 即ち禁慾ではなくて減慾である。
 之が蘐園学派の復古学の主張の大要である。
 徂徠は言つた。
「遊道は広きを要す。然るに日本の学者動もすれば党派を樹つるは何ぞや。学問の道は飛目長耳博く交り博く読むに在り。」さう言つて彼は学閥打破の大旆を翻へして、幕府に対する奴隷的奉仕に満足する朱子学派の党派的観念を破壊しようとした。
 実にも彼は学界に於ける熱烈なる反逆児であつた。
 英邁なる革命家であつた。が其丈けに彼の実生活は、多少の倫理的欠陥から免れる事が出来なかつたのである。
 誠心誠意を説き、禁慾生活を説き、絶対服従を説く朱子学派に反抗して起つた彼の実生活がどんなであつたかは、今更呶々するを要しないであらう。
 蘐園の高足太宰春台が徂徠を評する語に、
「志進取ニ在リ。故ニ其ノ人ヲ採ルヤ才ヲ以テシテ徳ヲ以テセズ。二三ノ門生モ亦其ノ説ヲ習聞シテ徳行ヲ屑シトセズ、唯々文学ヲ是レ講ズ。此ヲ以テ徂徠ノ門二蹉跎ノ士多シ。其ノ才ヲ成スニ及ビテヤ文人タルニ過ギズ」とあるのは、その短所を剔抉して余蘊なきものである。
 徂徠没後の蘐蘐園は二派に分裂した。
 詩文の方は服部南郭が之を祖述し、経術の方は太宰春台が之を継承して居る。劉龍門は南郭の門に遊び、松崎観海は春台の衣鉢を襲いで居る。故に此の二人に師事した南畝は、蘐園学派の長所と短所を併有し、詩酒風流を娯しむ享楽的遊戯的傾向と、経世済民の術を施す実際的慨世的傾向とを兼ね具へて居る訳である。彼の生涯を通覧する時、此の相反する二面の世界が、交互に消長し相殺しつゝ、終に一個の円満にして圭角なき人格にまで、押し進められて行く過程を、明らかに看取する事が出来る。明和二年十七歳にして、南畝は父の職を襲いで徒士となつた。
 徒士は毎日柳営に出入して、色々の勤務に服するのであつたが、非番の日には或は賀邸の塾に和歌を学び、或は観海に就いて経学を修め、或は龍門・東江等に從つて詩才を磨き、或は親しき友を会して宴飲吟行を娯しんだ。
 「杏園詩集」の巻頭に掲げられた題壁なる一詩は、此の頃の彼及び彼をめぐる人々の生活及び思想の如何なるものであつたかを示すに充分である。
  生長牛門十八秋 濁酒弾琴拊髀遊
  功名富貴浮雲似 笑他文繍羨犠牛
  人生上寿満従百 三万六千日悠々
  満堂悉是同懐子 無酒須典我貂裘
  濁酒一杯琴一曲 一杯一曲忘我憂
  時人若問行楽意 万年江漢向東流
 人生の須臾を嘆じ、名利に汲々たる輩を憐み、煩瑣なる社会生活を嫌忌し、大白の満を引いて絃声の妙に酔ひ、花鳥を友とし風月に嘯くのを以て、其の本領とした南畝の青春時代の享楽的傾向を見るべきである。明和四年丁亥九月九日には、南畝の弱冠に近い頃の狂詩狂文を収録した「寐惚先生文集」が、風来山人の序を得て刊行された。
 之は彼の処女出版であつて、其の江戸滑稽文学界への華々しい首途を意味するものである。
 平秩東作は「莘野茗談」に於て次の様に述べて居る。
『寐惚先生文集と言へる狂詩集は、友人南畝が十七計りの時余が許へ来りて、此の頃慰に狂詩を作りたりとて二十首程携へ来りしを、申椒堂に見せければ達て懇望しける故、序跋文章などを書き足して贈りけるに、殊の外人の意に叶ひて、追々同案の狂詩出でたり』と。
 東作の序跋は何故か刊本には収載されて居ない。
 風来山人の寐惚先生初稿序には、
「友人寐惚子、余ニ其初稿ニ序セン事ヲ請フ。余之ヲ読ムニ、詩或ハ文若干首。辞藻妙絶。外ニハ無イゾ哉。先生則チ寐惚ケタリト雖モ。臍ヲ探ツテ能ク世上ノ穴ヲ知レリ。彼ノ学者ノ学者臭キ者ト相去ルヤ遠シ矣。嗚呼寐惚子ヨ。始メテ与ニ戯家ト言フ可キノミ。語ニ曰ク。馬鹿孤ナラズ必隣有リ。」と見えて居る。初めて顔を合せて間も無い南畝を呼ぶに、友人云々を以てして居る点から察すれば、其の烱眼既に南畝の人物及び滑稽諧謔の才の凡ならざるを、看破したものと言ふべきである。
 其は兎も角、当時隋一の新人であり、併せて江戸滑稽文学界の耆宿であつた風来山人から、此の一言讃辞を得た南畝は、如何ばかり其の意を強うした事であらう。
 後年彼が京伝の「御存商売物」を推賞して、総軸巻上々吉の栄誉を与へた事が、京伝を刺戟して、終に浮世絵師としてよりも、寧ろ草双紙の作家として立たしむるに至つたのと同様に、南畝は風来山人並びに東作等の助言、及び戯文戯作を歓迎する社会の好尚に乗じて、其の伸ぶるに由無き学問才能をば、専ら此の方面に傾注するに至つたのである。
 「寐惚先生文集」中の水掛論は、風来山人をして感嘆措く能はざらしめたものであるとは、南畝自身の語る所である。
 元来彼の学問に対する態度は、極めて自由にして、博大であつた丈けに、かの朱子学派との間に於ける論争に対する非難攻撃は、明快なる批判と辛辣なる皮肉の連続であつて、まことに面白く読まれるのである。
「夫レ儒ノ朱子学者タル者ハ、面ハ獅噛火鉢ノ如ク、体ハ金甲ノ如シ。縛ルニ三綱五常ノ縄ヲ以テシ、誉ムルニ格物致知ノ糟ヲ以テス。奥ノ手ノ許ハ、結糞ヲ便シテ生ケル聖人ト成ル也。徂徠派タル者ハ、髻は金魚ノ如ク、体ハ棒鱈ノ如シ。陽春白雪ヲ以テ鼻歌ト為シ、酒樽妓女ヲ以テ会読ニ交フ。足下ト呼ベバ不侫ト答ヘ、其ノ果ハ文集ヲ出シテ享保先生ニ比肩セント欲スル也。――故ニ曰ク。相互ニ気ヲ張リ以テ職敵ト為スハ、則チ人ノ味噌ヲ糞トシ、我ノ糞ヲ味噌ト為ルガ如シ。糞ニ瀉糞粘糞アリ、味噌ニ赤味噌白味噌アリ。斉シク是レ糞ト味噌トニシテ種類ノ分ナリ。糞味噌一ニシテ始メテ我糞ノ臭キヲ知ル。是ヲ之レ水掛論ト曰フ」
 徂徠は嘗て群儒の党同伐異の悪弊を痛嘆し、学閥打破、門戸開放、自由討究の旗幟を押し立てゝ、天下に呼号した事があつたが、学風の統一と言ふ彼の理想は終に実現されなかつた。のみならず彼は其の復古学を以て一層学界を混乱せしめ、各派の対立抗争を愈々旺ならしめたのである。
 南畝は其の失敗を充分に識つて居た。そして学者相軋り相鬩ぐの愚と不利とを夙に感得して、清濁併せ呑む純学者的態度を失はなかつた。
 けれども惜むらくは彼には徂徠の意気と熱とが無かつた。
 自家の所信を真つ向に振り翳して、堂々正面から積極的に、世の迷蒙を開明するには、余りに弱い南畝であつた。
 彼は其の鋭鋒を包むに戯女戯作を以てし、消極的な諷刺によつて世人の暗愚を嘲笑するに止つて居る。

 南畝が狂歌師の群に投ずるに至つた頃の様子を覗ふに足るものに「奴凧」中の一文があるが、橘洲の「弄花集」の序を見れば、尚一層其の間の消息を明らかにする事が出来る。
『其の頃(明和初年)は友とする人僅に二三人にて、月に花に余の許に集ひて逆莫の友とし侍りしに、四方赤良(南畝の狂名)は余が詩友にてありしが、「来りて凡そ狂詠は時の興によりて詠むなるを、事がましく集を為して詠む痴れ者こそ烏許なれ。我もいざ痴れ者の仲聞入せん」とて、太根大木てふ者を伴ひ来り、大木亦木網・智慧内子を誘ひ来れば、平秩東作・浜辺黒人など類を以て集まるに、二年許りを経て朱楽菅江また入り来る。是れ亦賀邸先生の門にして和歌は余が兄なり。和歌の力もて狂詠自ら秀でたり。彼の人々よりより余が許或は木網が庵に集ひて、狂詠漸く起らんとす。赤良固より高名の俊傑にして、其の徒を東に開き、菅江は北に興り、木網は南に聳ち、余もゆくりなく西に拠りて、共に狂歌の旗挙せしより、真顔・飯盛・金埓・光の徒相亜いで起り、之を狂歌の四天王と称せしも、――かく世に拡ごれるは、実に赤良・菅江の勲にして、余は只陳渉が旗挙のみなり』
 此の一文は簡単な天明狂歌史とも言ふべきであるが、文中南畝が、「?詠は時の興によりて云々」と狂歌会を否定し乍ら、其の言葉の下から直ちに、「いざ我も痴れ者の仲間入せん」などゝ之を肯定した様な事を平気で言つて居るのは、まことに了解に苦しむ所である。
 其はさて置き一体何が故に南畝は、漢詩和歌よりも寧ろ狂歌により多く傾いたのであらうか。彼自身をして言はしむれば、春日詠寄七福神祝夷歌序に、
「やつがれいはたけたる頃より、文の園に遊び、詞の林に立ち交り、唐詩の筵に七あゆみの韻をふみ、敷島の道に六種の一をわいため、身を立て道を行ひ、名を此の世に聞え上げんと思ひしも、陽春白雪の高き調は唱ふる者少く、下里巴人の下がかりは誘ふ者多しとか言へる言の葉に違はず、何時しか博士だちたる交らひを出でゝ、只管戯れたる方に身をはふらかしぬ」とあつて、最初周囲の誘惑が其の主な動機であつたらしく、南畝はいつも薄志弱行の為に、識りつゝ軽跳浮薄な方面へ身を堕して行つたのである。
 彼の師内山賀邸が狂歌を弄んだ事は前述の通である。
 其の感化を受けた橘洲が先づ天明狂歌の烽火を揚げ、多少戯謔の癖ある社中の才子は忽ち其の麾下に馳せ参じ、相率ゐて斯道の興隆に力を尽したのであるが、彼等は狂歌興隆の手段として頻りに狂歌会を興行した。
 度々の会合に出席して詠を外部から強ひられるといふ事は、常人に在つては大いなる苦痛でなければならぬ。
 然るに南畝に在つては其が少しも苦痛では無かつた。彼には物に触れ事に当つて湧き起る泉の如き機智頓才があつた。
 故に転々会合に臨んでも、多々益々弁じた。言々皆滑稽であり、句々悉く諧謔であつた。口を衝いて出る秀逸佳作は、出る毎に人の称讃を博し、狂歌に於ける四方赤良の名は、頑童走卒も之を知らぬ者がないと言ふ程になつて来た。
 南畝は内心甚だ得意であつたに違ない。
 得意であればこそ、
  詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百善
 と揚言する事が出来たのである。
 賀邸は狂詠を娯しんだが、其に終始し其に没頭したのではなかつた。只文人の余技として、折々之を口にしたに過ぎなかつたのである。
 「金曽木」を見れば南畝が、狂女浮楽経自堕落品を作つて賀邸に見せ、大いに叱られた旨の一節がある。
 惟ふに賀邸は其の門生の間に、段々不真面目な思想が胚胎し、楽天的遊戯的傾向が浸潤せんとするのを見て、私に非常な不安と責任を感じたのであらう。其で偶々南畝の一作を閲したのを機会に、一場の訓誡を垂れたのである。
 また南畝自身にしても、一方には峻厳霜の如き観海先生の教もあり、他方には慷慨激越、相共に斯文の為に尽さんと誓つた旧友の手前もあり、旁々頽廃的な駄々的な方向にのみ進み勝ちな自己を、叱咜もし、激励もしたのであるが、何時も無意識にもとの遊戯的生活へかへる可く余儀なくされた。彼の旧友の一人大森見昌は。南畝と別れて久しく音信を絶つて居たが、偶々一書を寄せて南畝の学業が著しく進んだであらう事を喜んだ。南畝は之に答へて、
「今書来リテ僕ノ学業大イニ進ムト言フモノ過賞殊ニ甚シ。徒ラニ愧赧ヲ増スノミ。僕進ンデ栄ヲ明時ニ取ツテ、以テ父母ヲ顕ハス事能ハズ。退イテ道ヲ陋巷ニ楽シミ、以テ天命ヲ待ツ事能ハズ。疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類ス──」と告白して居る。之によつて此を観れば、彼が滑稽文学に赴いたのは、時に志を得ざるよりの煩悶焦燥を忘れんが為であつたとも見受けられる。
 けれども昔日の親友の言に聴いて、疎然として不甲斐ない自己の姿を見出した彼の悔悟の真情は、実に言外に溢れて居ると言ふ可きである。
 此処に於て彼は発奮努力、以て新局面を展開すべく勇往邁進ずべきであつたが、而も行く手には幾多の障碍が、巍々として聳え、累々として横はつて居た。
 其に対して南畝の意志は余りに弱く、其の感奮は余りに果敢なく、其の努力は余りに短かつた。
 さて累々たる前途の障碍とは何であるか。其は言ふ迄もなく不合理な学制と不公平な階級制とである。

 抑々林大学守は曩祖道春以来、代々程朱性理の学を奉じて天下の文権を一手に把握し、其の学派の出身者、若しくは他の学派に属するも陽に朱子学を奉ずる者に非る限り、断じて要路に立つ機会を与へないと言ふ風であつた。即ち幕府に仕へて栄達せん事を希ふ者は、どうしても朱子学を奉じなければならなかつた。
 然るに南畝の学は御用学派たる朱子学とは、犬猿も只ならざる復古学である。而も自己を佯つて表面丈け朱子学を奉ずるなど言ふ事は、到底彼の忍ぶ能はざる所であつた。且つ生れつき清廉潔白で、権門に阿諛してどうと言ふ様な事は微塵も無かつたので、旁々立身出世は覚束なかつた。其の上に身分はと言へば、御目見以下の御家人である。祖先累代連綿として御奉公を励む御徒士である。
  両国の橋くれ武士の年礼に槍一本の数に入らばや
 と言つた所で、何うにも仕様がなく、御徒士は何処迄も御徒士で、到底侍にはなれなかつたのである。即ち如何に青雲の志があつたとて、如何に功名心が熾であつたとて、実力を以て栄達を願ひ得る世でもなければ身でも無かつた。封建社会の常として、上下の階級が厳重を極め、要路の高官は然るべき家からのみ選ばれ、然る可からざる家に生れた人材に対しては、固く固く登龍門が閉されて居た。
 けれども絶対に閉されて居たのではない。人知れず折々開かれる通用門は別に存在して居たのである。此の通用門を開く鍵は何か。其は賄賂の行使である。南畝は其を知らなかつたのではない。知つて居ても七十俵五人扶持では、珍品の出所が無いのである。譬へ珍品が有つたとて、己を欺き人に阿り、七重の膝を八重に折ると言ふ様な事は、彼の断じて為すに忍びない所である。斯くて彼は伸ばすに由なき才能を滑稽文学の方面へぶちまけるのである。
 「寐惚先生文集」に出て居る貧鈍行に
 為貧為鈍奈世何 食也不食吾口過 君不聞地獄沙汰金次第 于挊追付貧乏多
 とあるのをば、全くの言葉の遊戯と一笑に付して了ふのは何うであらうか。成る程表現の方法は不真面目である。けれども私は其処に時世に対する彼の不平を見、不満を見更に進んで為政者に対する辛辣なる諷刺を見ようとする者である。
 同じく貧々堂記に、「此堂穢ク、牛ノ廐ノ若シ。而モ中ニ千里一走ノ名馬アリ。故ニ以テ貧々堂ト名ク――焉」とあるが、此の千里一走の名馬とは即ち南畝自身である。其の名馬が其を相する伯楽に逢はないで、汚い廐舎に閉ぢ込められ、驥足を伸し得ない有様を、優れたる才能を有し乍ら、轗軻不遇の境に悶々の日を送る自己に譬へたものである。此の如く時世は已に彼にとつて非であつた。不合理な学制と、不公平な階級制度が全く彼の前途を遮つて了つた。故に彼にして若し革命的情熱と、英雄的意気があるならば、彼は須く此の人為的障碍に向つて猛烈なる爆撃を試みる可きであつた。けれども南畝は革命家ではない。英雄ではない。彼は古賀精里の所謂軽俊の才子であつた。飛んで灯に入る夏の虫を愚と笑ふ秋の鈴虫であつた。爆撃する事の代りにはヒラリと身を躱して此の障碍を見事に飛越した。と言つても哲学によつて解悶したのでもなければ、宗教に救を求めたのでもない。将た芸術に逃避したのでもなければ、学問に徹底したのでもない。只虐げられたるものゝ果敢ない諦めと、伝統的遺伝的従順さとから、然う言ふ対社会的戦闘意志反階級的不満感情を、否定し抑圧し忘却しようとしたに過ぎない。春日亀楼詠初芝?狂歌序を見れば、此の間の消息は自ら明らかと成るであらう。
 「大塊我に問うて曰く。汝が口節あらず只酒を嗜む。汝が舌法あらず只無駄を吐く。酒は量無くして常に乱酔に及び、無駄は務を廃して自暴自棄に近し。汝を天地の無駄者と言ふ。如何に如何に。四方山人酒杯を挙げ、青天を望んで曰く。吾寧ろ欣々として大通の如くならんや。寧ろ黒鴨を連れて五侯の門に入らんや。将た白眼にして世上を見下さんや。寧ろ深き山に小路隠をせんや。将た水草よき所に岡鈞をせんや。寧ろ茶に蹂り上らんや。将た香に鼻ひこつかせんや。寧ろ碁将棊に暇を潰さんや。将た十露盤を枕とせんや。寧ろ糸竹を友とせんや。将た書画を愛せんや。寧ろ雲と蛍とを集めて万巻の書を読み破らんや。将た詩と文とを作りて千秋の業に誇らんや。寧ろ高天原に神いぢりをし拍手の音を聞し召せと申さんや。寧ろ老荘の徒たらんや。将た医トの道に隠れんや。富貴天に在り。窮達命あり耳朶を探るのみ。大塊我を笑ふ事勿れ」。凡てが運命である。一切が宿命によつて不可変的に規定されて居る。人間の力の及ぶ所ではない。自分が現在の境遇に不満を感じて居る事其自身が既に天の指令である。どうにも仕様がない。只自然の成行に任せて生きよう。其が最も賢い。其が最も安全である。彼はさう考へたらしい。其?で彼は詠じた。 いざさらば円めし雪と身を成して浮き世の中を転げあるかん
 斯くて南畝は、若い血潮の漲るまゝに、駄々的な享楽的な茶気満な生活を続けつゝ、其の天賦の妙才に任せて、江戸滑稽文学界の驍将として、大いなる活躍振を見せるのである。明和四年に「寐惚先生初稿」が公にされてから、天明八年に「俗耳鼓吹」が出る迄、凡そ二十年の間は、実に江戸軟文学界に於ける南畝の黄金時代とも言ふ可き時期であつた。狂詩と狂歌は自他共に許して斯道の第一人者なりとし、狂文は愈々円熟の境に入つて滑稽洒脱の妙を尽し、洒落本も亦一作毎に世の視聴を集めた。殊に草双紙に対する批評に至つては、彼の片言隻語が直ちに文壇の指南車となり、照闇燈となつたのである。
 此の様に明和・安永・天明頃の南畝の文学的活動は、まことに眼覚ましいものがあつた。が吾々は其の華々しい活躍の背後には、必ず其を生み出し、其を特色づける生活のあつた事を閑却してはならない。凡ゆる作品が何等かの形に於て、作家の実生活の反映であり、直接経験の返照である事を想へば、其の作品から帰納的に其の人の実生活を復原する事が可能である。
 既に其の実生活を推定し、更に進んで其の実生活を根拠づける人世観や処世観に迄及ぶ事が出来たならば、其処に於て踵をめぐらし、今度は演繹的に再び其の個々の作品に臨む可きである。其の時にこそ初めて個々の作品が生きて来るのである。此の意味に於て私は、飲酒と狂歌に耽溺し、青楼と戯場に出入して、徹底的に与太振を発揮した彼の享楽生活を、其の作品を通じて眺めようと思ふ。
 「酒は百薬の長」と言ひ、「憂の玉箒」と言ひ、「酒無クバ須ク我ガ貂裘ヲ典ルベシ」と言ひ、「富は酒屋を潤し、徳利は身を潤す。心広く体よろよろと、足元の定まらぬこそ上戸はよけれ」と言ひ、「白銀の台に黄金の酒杯の――」と、水仙の花を見てさへも、直ぐ酒を思ひ出さねばならなかつた程、彼は酒好きであつた。酒がなくては一日も生きて居られない人であつた。
 前掲の明和丙戌題壁や、同戊子五律中の「未遂三冬業、徒逢弱冠春、牀頭有樽酒、随意賞良辰」なる句によれば、南畝は弱年の頃から既に酒に親しんで居たのである。「杏園詩集」を繙けば、到る処に酒に関する吟詠を拾ふ事が出来る。蘐園の享楽思想の為に、或は階級的社会的不満感情を忘れんが為に、彼は若い時から酒を飲んだのであらう。
 独り南畝に限らず、彼が交会した漢詩家流・狂歌者流の多くは、皆酒豪を以て誇る者であり、吟行会詠の際には必ず酒が用意されて居た。
 「四方のあか」に収められたから誓文によれば、痛飲斗酒を傾けると言つた様な御連中の宴集の凄しさが充分に覗はれる。が只ガブガブと飲んで計り居ても曲がない。飲むからには愉快に気持よく飲むに越した事はない。そこで七拳式酒令などと、勿体振つた法式を作つて見たりした。之は例の竹林の七賢に倣つて、酒は飲むとも酒に飲まれず、何処迄も平静に上品に、一糸も紊れないで、陶酔の無我境を楽まうとする快楽主義的な意図から発案されたものに違ひない。
 「四方の留糟」の此君盃の記を見ると、「たとひ時うつりうまごと去り,楽しみ悲しみ行き交ふとも、天さへ酔へる花の朝、頭もふらつく月の夕、雨の降る日も雪の夜も、日々酔ふて泥の如く、一年三百六十日、一日も此君無かる可けんや」と、アルコホル中毒に罹つた様な事を言つて居る。さうかと思ふと、グツとメートルをあげて、「君が為沽取ス十千ノ酒。一飲須ク数斗ヲ傾クベシ、已ニ玉杯ノ手ニ入リ来ルニ当ツテハ。胸中復磊塊有リヤ否ヤ、世人汲々タリ名利ノ間。歓楽未ダ極ラズシテ骨先ヅ朽ツ。千金ノ子万戸ノ侯。我ニ於テハ蜉蝣ノ如シ」と豪語する事もあつた。
 或る時は家居独酙酙を楽しんで、「独酙青天ヲ望ム。青天何ノ知ル所ゾ。只憐ム独酒ノ杯。
 浮雲ノ色ヲ帯ビザルヲ」と、虚無的な懐疑的な口吻を洩らし、或る時は戯謔して、「此ノ辺ノ居酒屋。処々借銭多シ。語ヲ寄ス番頭殿。我ニ許セ一本ノ波ヲ」と言ひ、更に「雀殿お宿はどこか知らねどもチヨツチヨと御座れさゝの相手に」などと洒落のめして、到る処に呑助を表明して居る。
 老後銅座役人として大阪及び長崎に出張して居た頃にも、常に酒杯を離さなかつたのを見れば、余程好きであつたと思はれる。

 狂文集「四方のあか」「四方の留糟」及び「巴人集」等によれば、如何に屡々狂歌の会合が催されたかを知る事が出来る。冬日逍遥亭詠夷歌序には、「戯れ歌は人の笑の種を蒔きて、万の口まめとはなりけらし。あるは浮世をまゝの土器町、砕けて元ノ木網が落栗庵。あるは本町二丁目の糸屋にあらぬ腹唐ノ秋人がよき砧庵など、月次の会たえずぞあんなりける」とある。即ち毎月定例に狂歌会を催す者及び其の道の好き者であつて、一身の名誉の為に、斯界一流の名士を招いて、盛大な雅宴を張る者などがあつたので、南畝・橘洲・菅江の輩は随分忙しかつたらしい。「巴人集」をだけ見ても、小伝馬町宿屋ノ飯盛ノ会・酒ノ上ノ不埓ノ日暮里ノ会・馬喰町ノ菱屋ノ会・雲楽斎ノ四谷別荘ノ会・牛天神下ノ山道高彦ノ会・坂上ノ竹藪ノ会・子ノ子ノ孫彦ノ会などを挙げる事が出来る。
 亀楼狂歌会序を見れば、其の繁昌の有様は大したものであつた。而も南畝は第一流の判者として、此等の会合には無くて叶はぬ人であつたので、真実東奔西走して、席の温まる暇も無い程であつた。お徒士として御奉公に出るひまびまに処々の会合に転々列席して居たのであるから、其の生活はかなり放埓な空虚な不真面目なものであつたに違ひない。

 「二大家風雅」の中の狂詩に、復銅脈先生の一篇がある。
  暮春十日書 卯月五日届 委細拝見所 益々御風流 此方無別条 馬鹿白相求 八百八町会 四里四方遊 朝窺堺町幕 夕上吉原楼 恨不得先生 作無礼講頭此は根も葉もない言葉の遊戯と見るよりは、寧ろ当時の南畝自身の生活を、有りの儘に表白したものと見る可きであらう。
 春色花鳥媒に、正月早々流連の長閑さを述べて、「二人禿の門松の、繁きみ影の中の町、嘉例の酒の二日酔、三日の今日も流連の、糸遊なびく櫺子窓──」などと言ひ、或は青楼四季歌の春には、
  「玉くしげ箱提灯の二人連花の中ゆく花の全盛」
 と艶に時めく太夫の姿に見惚れ、同じく冬の歌には、
  「やうやうと来てもぐり込む冷たさは君が心と鼻と雨脚」
 と言ふ様に、随分穿つた皮肉に敵娼を困らせたりする。或は鳥文斎栄之の「傾城三福対」に題して、
  「遊君五町廊 苦海十年流 二十七明夢 嗚呼蜃気楼」
 と憂き川竹の勤の身に深く同情して居る。
 そんな事から推しても、当時の南畝が如何に遊里の事情に精通して居たかが分ると思ふ。実際天明三四年、南畝三十五六歳頃の狂歌を、巴人集に就いて見ると、彼が屡々家を明けて青楼の人となつた事実に遭遇するのである。例へば、
 「睦月七日、五明楼に遊びて人々歌詠みけるに、八日は子の日なれば今日も泊り給へかしと、主人聞えければ詠める。
  昨日からよそにねの日の松なれば今日はひとまづうちへ引かまし」
 天明四年甲辰の吉原歳旦の詠に
  「千金の春の廓の初買は五丁まちまちひらく惣花」
   「三輪の里に朝顔を見て
  たつた今別れてきたの里ちかく眼にちらつける朝顔の花」
 北の里とは吉原を言ふのである。
 思ふに天明のはじめから三四年にかけては、南畝の狂名は其の極に達して居た時である。そして吉原名代の妓楼である扇屋や大文字屋の亭主は、皆彼の門人となつた。そんな関係からして、彼は自由に之等の家に出入して、所謂狭斜情調を心ゆくまで味はふ事が出来たのである。十八大通の一人なる大和屋文魚に従つて、日夜遊里に入り浸り乍ら、経済的な破綻を見せなかつた京伝の生活とよく似て居る。
 天明六年七月十五日には、新吉原江戸町、松葉屋の抱女三穂崎が、蛾眉を落してお賤と改名し、南畝の妾として牛込の家に引き取られた。
 其に就いては、「松楼私語」巻末の狂詩に、「一擲千金贖身時」なる一句があるが、南畝としては実際千金は愚か百金すらも覚束ない。だから年季明けを幸に取つたか、でなければ京伝の妻玉の井ことお白合(ママ)の様に、楼主の好意によつて然うなつたか孰れかであらう。

 南畝が頻々と戯場に出入したのも、俳優の間に多く知己を持つて居たからである。市川海老蔵こと五代目団十郎は、狂名を花ノ道つらねと言つたが、南畝は特に此の人と親しかつた。海老蔵が其の名を一子徳蔵に譲つて、五代目団十郎を立てる事とし、其の名広めの顔見世(天明二年壬寅)に親子揃つて舞台に立つたが、其の時新海老蔵が年に似合はぬ素晴しい荒事を見せた。それで市川贔屓の南畝等は有頂天になつて喜んだ。其の喜の徴として、趣向を凝らした狂歌狂文集「江戸の花海老」を連中の手から贈る事にした。其の請取が「巴人集」に出て居る。
 「海老蔵方へ狂歌被遣、慥に受取申候。例の御連中様面白き御事に御座候。折節顔見世取込。早々以上。
   十月廿六日    成田屋七左衛門
 四方御連中様」
 と言ふのが其である。
 此の他瀬川菊之亟をば籬ノき瀬綿、芳沢あやめをば菖蒲ノ真久良、中村仲蔵をば垣根ノ外成、松本幸四郎をば高麗屋洒落人、市村家橘をば橘太夫元家と、それぞれ狂名をつけて遣つたのは皆南畝であつた。当代一流の名優は凡て狂歌に就いては南畝の弟子であつたのである。

 以上私は南畝壮年の家庭外の生活を、酒と狂歌と遊里と芝居の四方面から観察したのであるが、更に之を裏書するものは「千紅万紫」中の酒色財なる一文である。之によつて私は、彼が人生に対する現実的な態度、及び生活に対する駄々的な頽廃的な態度を、一層明瞭に理解する事が出来ると思ふ。
 「凡て劇場青楼の楽しみは、老少となく雅俗となく、此の上やある可き。また儀狄とやらんか初めて造れる狂水と言ふ物こそおかしき物なれ。されどこの酒色の二つも、財と言ふもの無くては、其の楽しみを得難し。民生は勤むるにあり。挊挊ぐに追つく貧乏撫しと、左伝に載せしも、此処ら辺なるべし願はくは金の番人守銭奴とならで、酒色の二つも程よく楽しまば、五十年も百年にむかひ、百年も千代万づ代の心地なるべし。
  千早振る神代の昔おもしろい事をはじめしわざをぎの道
  全盛の君あればこそ此の廓の花も吉原月もよし原
  世の中はいつも月夜に米の飯さてまた申し金の欲しさよ」
 と言ふが其である。働いて金を儲けよ。金が出来れば酒も呑め女郎も買へ芝居も見よ。金と心中する様では金を儲けた所詮がない。男と生れた甲斐がない。
  「世の中は色と酒とが敵なりどうぞ敵にめぐりあひ度い」
 中年時代の南畝はさう考へて居たのである。少年時代の敬虔にして熱烈なる思想は、今や全く其の影をひそめて了つた。
 宇宙や人生に対する根本的な疑ひ、神を求め自然に憧れる気高い心、愛と詩に捧げられた燃ゆる情熱、理想に向つて邁進する強い意志、良き戦を善く戦はんとする雄渾な気力――すべて然う言ふ脈の太い、生命の律動がありありと感得される様な態度は、微塵もないと言つていゝ。
 其は彼の生得的傾向が自然さう言ふ方面へ、向はなかつた結果である。
 と言ふのは、元来南畝は与へられたる世界に満足して居る人であつた。たとへ充分満足して居なくても強ひて満足して居ようと力めた人であつた。而も彼は与へられたる世界に在つては、能う限り多くを希求し、能う限り多くを享楽しようとした人であつた。此の点に於て彼は功利主義者であり、快楽主義者である。
 彼はいつも自我と外界とを、巧に同調し妥協せしめつゝ、一日も長く偸安の生を持続しようとした人であつた。此の点に於て彼は、卑怯なるされど賢き平和主義者であり、瓦全主義者であつた。
 自己並びに外界に向つて、絶えず厳正なる批判を下し、其の誤謬を指摘し、其の邪曲を糺弾し同時に真理と正義の何ものたるかを鮮明すると言ふ様な進取的な戦闘的な人では更々なかつたのである。之は独り南畝に限つた事ではなしに、当代一般の風潮、特に江戸市民の其が、其の通り無気力であり没理想であつたのである。明治維新はまだまだ先の事である。
 被支配階級として、胸中多少の磊塊はあつても、彼等は強ひて其を忘れようとした。そして「今や四の海波静にして沖釣の鯛かゝらぬ日なく、十日の雨風障なくして、一升の土くれ金一升の富に潤へり。
 されば猛き親分も太平楽を並べ、怪しの百姓も万歳を唱へて、誠に目出度う候ひけるとは、今此の時をや申すべき」と言ひ、或は「目出度めでたの若松さまよ、御代も栄えて葉も繁る」と唄ひつゝ、只管現実を肯定してかゝらうとするのである。肯定する所か、進んで其を讃美し、謳歌しようとするのである。
 けれども南畝は単なる凡人ではない。少くとも彼は非凡なる凡人である。何となれば単なる凡人であるならば、学者社会の迷蒙や、社会制度の不合理に気附く筈は無いのであるが、南畝は其を明確に意識して居たからである。明確に意識して居乍ら、其の誤謬を匡正し、其の不合理と善戦する丈の勇気を持たなかつたのである。凡ゆる困難を排除しつゝ、人生を直進する革命家の情熱を持たなかつたのである。だが其れだけに、私は彼に充分落着いた足取を見る事が出来る。彼は何ものにも驚かない何ものにも激しない。いつも自分を失はないで、綽々たる余裕を示して居る。何ものにも熱中する事なく何ものにも徹底する事なく、両極端の分水嶺を巧に歩んで行く、其は随分危険な道でなければならない。けれども彼は臨機に煥発する機知頓才を以て、見事に此の難路を通過する。之が南畝を目して非凡なる凡人となす所以のものである。

 「四方留糟」に見えた壁書に、一屁を放らば尻をすぼめよ。毒を食ふとも皿を舐る事勿れ。一寸先を闇と思はば、天道人を殺すべし」と言ふのがある。南畝の処世哲学である事は言ふ迄もない。

 以上私は南畝中年の家庭外の生活に就いて述べた。今度は家庭内の其に就いて少しく書いて見よう。彼が結婚したのは明和八年辛卯、二十三歳の時であつた。花嫁は富原福寿と言ふ人の娘で、名はリヨと言つた。芳紀十七と報ぜられて居る。爾来一男二女を儲けた。長女は夭折した。「杏園詩集」安永二年の作に、悼女児なる七絶がある。二女は恙なく成人して、西丸御徒士佐々木某へかたづいた。嫡男の定吉は安永九年生れである。
 南畝に二人の姉があつた。一人は野村新平なる人に嫁し、一人は吉見佐吉なる人に嫁した。佐吉の一子儀助は、狂名を紀定丸と言つて、狂歌黄表紙などに其の文才を示して居る。南畝の弟金次郎は、後に御家人島崎幸蔵の養子となるのである。
 天明二年、彼が三十四歳の頃の家庭生活を覗ふに足るものに、「四方のあか」に収められた夏草なる一文がある。七十俵五人扶持の御徒士の生活苦がまざ/\と描き出されて居る。狭くてむさい五月雨の家に、ヤヤコシイ日を送つて居た彼、「此の頃は世をすね草の倦みはてゝ」、公わたくしの事も大流しに流」して、ゴロゴロして居た彼、「無駄は勤を廃して自暴自棄に近し」と言つた彼――彼はやはり時世に対して不平を抱いて居たのである。其の不平を忘れんが為、其の鬱悶を晴さんが為に、「疎放ノ性淪ンデ酒人ト為リ、遊戯ノ文大イニ俳倡ニ類」したのであつた。家に居つても面白くない。気が詰まるばかりだ。それで「八百八町ノ会」に臨み、「四里四方」の行楽を事とし、「朝ニ堺町ノ幕ヲ窺ヒ、夕ニ吉原ノ楼ニ」上つたのであつた。即ち本来楽天的な性格に、蘐園の感化が加はり、社会に対する不満が添ひ、更に周囲の誘惑が及んで、前述の享楽生活が始まつたのである
 故に此の頃の南畝は、家庭の人としては、まことに冷たい人であつたらうと察せられる。けれども然うした生活は、決して彼の性格の全てではない。彼の性格中の然うした分子を、外的条件が刺戟し作用して、膨脹せしめ拡大せしめたに過ぎないのである。而も膨脹せしめられたものは、やがて収縮しなければならない。拡大せしめられたものは、やがて復原されなければならない。南畝はいつか本然の姿に還らねばならない。胸に秘めた観海先生の言葉を思ひ出さねばならない。之は「毒を食ふても皿まで砥」めない彼としては、当然すぎる程当然である。

 明和・安永・天明の政局に立つて、権を專らにした者は田沼意次である。
 意次は凄い腕を持つた実際的な政治家で、其の放胆な積極政策は非常な成績を挙げたが、一方収賄を事とし、官紀を紊乱し、士風を頽廃せしめた罪も決して浅く無いのである。従つて敵もあれば味方もあつた。が彼の性質として、自己の政策に対する批難の声は、どうしても黙許して置けないのであつた。それで彼は彼に対する中傷讒謗に絶えず耳を澄して居た。そんな時であつたので、南畝が不用意の間に吟んだ一狂詠が、図らざる禍を招く事となつて了つたのである。
 天明六年の初夏の事である。彼は雨の中を番(御徒士が本御番・御供番・加番などの為に出仕すること)に出た。がひどい降で青漆の合羽に雨が染みとほつて、肌寒い位であつた。そこで彼は例の通り洒落て見た。
  「せいしつと言へども知れぬ紙合羽油断のならぬあめがしたかな」
 別に諷刺的な意を寓したのではなかつたが、神経過敏になつて居る意次の耳には、洒落が諷刺と聞えたのである。さあ大変だ。南畝はとうとう常職を解かれて、小普請入を命ぜられた。小普請組とは三千石以下であつて、年少又は虚弱の為に役に就き得ない者及び事情があつて、非役となつた者の凡てが属する団体の謂である。
 時に父は七十一、母は六十三、南畝自身は三十八、嫡子定吉は九歳になつて居た。彼は悉皆困つて了つた。困つた揚句、来し方行く末の事を色々と思ひ案じた。上には年をとつた父母がある。下には愛しい妻子が居る。それに彼は徒らに詩酒風流の徒と交遊し、放浪自恣の日を送つて居た。「三十無為違宿志」と反省した甲斐もなく、四十に近い武士たる身を以て、一戯歌の為に父祖累代の職を失つて了つたのである。此処に於て彼は大いに前非を悔いた。そして健全にして充実せる新生を欲する様になつた。其の結果当分戯歌戯文に筆を断たうと決心した。
 「物之本江戸作者部類」に、「天明七八年以来、憚る所ありて戯作をせずなりぬ」と言ひ、また其の頃の蔦重版の「吉原細見」の中にも、「四方山人は青雲の志を旨とせし故に、狂歌をすら止めたれば、細見に序を作らずなりぬ」と言ふ記事がある。ところが黒川春村の「壼すみれ」によると、寛政元年の蜀山翁月並会の題摺が其の手許に在つた様であるから確定は出来ないが、大体此の事件以来暫らく狂文学と関係を断つたのは事実である。関係を断つて真面目に勉強したのである。
 さて幕府に於いては、天明七年三月、家斉に将軍宣下があり、六月には、白河城主松平定信が、天下の輿望を担つて老中となり、大いに田沼一派の弊政を改める所があつた。旗本御家人の腐敗と窮乏とは、明和安永以来、特に甚しかつたので、彼等を如何に救済す可きかに就いての定信の苦心は、実に並大抵ではなかつた。
 彼は先づ経済と教養、物質と精神の二方面から,大々的の革新を断行する事にした。「宝暦現来集」の巻十七に、次の様なお触れが出て居る。「此度御蔵米取御旗本御家人勝手向為御救、蔵宿借金仕方御改正被仰出候」事と書き出して、六年前の借財は凡て無効とし、返済するの要なく、其の他は利子を下げて、年賦で償還す可しと言つて居る。札差仲間の怨嗟に引きかへて、旗本御家人等の喜悦、想ひやる可きである。「家宿債多ク俸銭已ニ業ニ子銭家ノ有」となつた南畝も、斉しく此の恩典に浴したのであらう。
 斯うして経済上の窮困を、緩和してやると共に、定信は大いに、彼等の無学と放埓と優柔とを、誡めたのである。即ち次いで出た御達しは、よく礼節を弁へ、一意専心、文武両道を励む可き趣を伝へて居る。だが余りに文武々々と言つて何事も窮屈に成つたので中には此の改革を、喜ばない者があつた。
  曲りても杓子は物をすくふなりすぐな様でもつぶすすりこ木
 などは反つて田沼時代を、追慕するものであり、
  孫の手の痒いところへとゞきすぎ足の裏までかきさがすなり
 などは定信の改革の有難迷惑なる事を、仄めかすものである。「天下一面鏡梅鉢」だとか、「文武二道万石通」など言ふ黄表紙が出たのも、此の頃の事である。「甲子夜話」を見ると、「太田直次郎と言へる御徒士の吟みける歌」として、
  世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶというて夜も寝られず
 と言ふ落首が出て居るが、南畝自身は其の著「一話一言」の中に於て、「是れ太田の戯歌に非偽作なり。太田の戯歌に時を誹りたるものは無し」と明言して居る。其もその筈である。時は正に南畝の謹慎中であり、狂詠はすつかり止めて居たのだから、南畝がそんな事を言ふ道理がない。殊に彼は此の名宰相の善政に隋喜し、今や四十年の非を改めて、新しい生涯に入らんとする念に燃えて居たのだから、旁々「甲子夜話」の説は附会である。寛政元年の夏には、「小普請ノ者、修身嗜芸ニ依リ、格式擢用ノ儀」の御達しがあつて、轗軻不遇に泣く人材が、始めて登用される時期が来たのである。今や彼には、新な世界が与へられた。彼は進んで自己をば、其に順応させようとした。
 青年時代の彼は、熱烈なる経斯文の学徒、松崎観海の教を受けて、経世済民を以て其の使命と観じたのであつた。が中途で先生を喪ひ、其からは周囲の誘惑と、其の性格に於ける享楽的傾向の優勢との為に遂に身を狂文学に委ねて、少壮有為の二十星霜を空費したのであつた。
 けれども多年の享楽生活の反動として、彼の性格の他の半面なる努力的傾向が、発顕しなければならなかつた。
 時や佳し、前代に弛緩した綱紀は再び粛正され、経済的に危期に瀕した武人階級は巧に救済され、富の威力を揮つた町人階級は、暫らく抑圧され、寛政改革の方策は、着々として其の緒につきつゝある。かくて政界の更新と、南畝一身の更新とが、うまく一致したのである。彼はこの機会を逃さなかつた。即ち寛政六年の春には、四十六の齢を以て、初々しくも学問吟味に応じて、而も甲科に及第した。其の熱心、其の根気は、全く驚嘆に値する。試験の顛末は「科場草稿」に、精しく出て居る。

 寛政八年には、狂歌堂真顔に、四方の姓を許し、判者の権を譲る事にした。そして自らは、此の年支配勘定を拝命して居る。支配勘定とは、勘定奉行に属する幕府の会計吏員である。勿論端役には違ひない。けれども新しい仕事を求め新しい生活を始めようとする南畝である。彼は其に満足した。彼は其に傾注した。かくて彼は幸福であつた。だが其の幸福は余りに果敢なかつた。と言ふのは彼は其の糟糠の妻を失つたのである。
 四十歳で父を失ひ、四十五歳で妾を亡ひ、四十八歳で母を失ひ、五十歳で四十九年の非を改めて祝福すべき新生に入るに当つて、最もよろしき人生の好伴侶を失つたのである。前半生に於ける南畝程、妻に対してタイラントであつた者はあるまい。そして南畝の妻程、夫に対して奴隷的奉仕に甘んじた者は更にあるまい。南畝が一遊女を妾として、狭い家に妻と同居させた一事が其を証する。そして妻が少しも不平を言はず、嫉妬を抱かず、よく命に服した事が其を証する。南畝は自らよく其を知つて居る。だから彼は熱涙を呑まざるを得なかつたのである。其の嗚咽の名残が詩となつた。そしていたましき妻の碑を飾つた。「万点桃花雨、粛々袖不乾」と言ひ、「自今頭上雪、歳々益毿毿々」と結ばれた美しき悲歌である。
 ところが妻の死後数旬にして、淋しき彼は自らその五十の寿を賀して、
  竹の葉の肴に板の箆たてむ鶴の吸物亀のなべ焼
 と洒落て居る。其につけて思ひ出されるのは、天才画家レムブラントである。彼は美しき妻ザスーキアの柩を、教会の墓地に葬るや否や、直ちにそのアトリエに引き返して、千古不磨の傑作なる自画像を完成した。そして驚いた事には、其の夜から、幼子の乳母なる女を妻とした。
 一切は流れると言ふ宇宙の摂理を信じ、凡てが自然現象であると諦めて、ひたすら芸術に精進したレムブラントの心境は、まことに貴いものであらねばならない。南畝にそんな深い理会と強い意志とが、有つたかどうかは知らない。が妻の死を悼む涙の底から、自らの五十を賀し、進んで新しい仕事を楽しんだ彼の心情は、等しく雄々しいものでなければならない。
 牛込仲御徒士町の家から、毎日欠かさず御役所へ勤めに出た。軽い疲労を覚えて、家路を辿る彼を、喜んで迎へてくれる者は、嫡子定吉を措いて他には無い。
  楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲よく三度くふ飯
 と歌つたのは、其は昔の夢である。父子二人の淋しい生活、女手のない不自由な生活に堪へ兼ねて南畝はやがて、定吉に嫁を迎へる事とした。其は寛政十二年中の事と推せられる。十一年には、銅座役人として、大阪在勤を命ぜられ、旅支度までしたが、急に御取止めとなり、林大学守が編算して居た「孝義録」を、完成すべき仰を被つた。此の間の消息は、「寛政御用留」に精しい。其の頃の南畝は、相愛らずの貧乏であつた。官遊の際には、旅の手当が下り、扶持も培増しになるのを見込んで、大分買物をしたのに、急に中止となつたので、忽ち支払に困つて了つた。それで毎年二両宛、十五箇年賦で返す約束で借りた官金が、たつた三十両と言ふ惨めさである。
 其は兎も角、「孝義録」の編纂が済むと、引き続いて御勘定所の帳簿の整理を、仰せ付けられた。其の苦心の程は、「竹橋蠧簡抄」及び「竹橋余筆」の序文によつて、察す可きである。或る時は余りの単調さに、
  五月雨や日も竹橋の反古調べ今日も降るてふあすも古帳
 と吟んでも見たが、また思ひ直して、真面目に努力を続けた。そして其の努力は、終に報いられる時が来た。即ち此の南畝の抄物は、江戸時代の政治史並びに経済史の研究には、必要欠く可からざる文献となつたのである。だが其の後の事で、此の大事業に対する物質的報酬は、まことに気の毒な程であつた。即ち十二年の冬に、「御勘定所御帳簿御用骨折相勤候為」銀子七枚を、拝領したに過ぎないのである。「孝義録」完成の際は、白銀十枚を下し置かれたのである。だが別に十一年中は、銀一枚宛の月手当、十二年の冬からは、二人扶持を頂戴したので,家族は減る、収入は増えると言ふ結果、大分余裕は出来て来たのであつた。
 かくて寛政十三年には、愈々銅座詰として、大阪に差遣せらるゝ事となり、就いては支度の為に金二十両、其の他数々の拝領物をして、二月の末に初めて、関西への旅の人となるのである。
 旅は人を啓発する。ゲーテはイタリーへの旅行を了へて、著しく古典に関する趣味と知識を豊にし、万葉人は旅によつて、自然に親しみ、人をなつかしみ、愈々其の歌境を純粋にした。芭蕉は旅によつて、自然即神、俳諧即宗教の域にまで達する事が出来た。旅は人格を完成する。
 南畝の旅はほんとうの旅ではない。其でも彼が其の見聞を広め、人と物とに対する愛を深めて、益々其の人格を円満ならしめたのは、前後二回にわたる、大阪ならびに長崎への官遊に、俟つ処が多いのである。
 彼が任地から、江戸の人々に当てゝ書いた数十通の尺牘は、まことによく彼自身を語るものである。其の頃の彼の思想と生活とは、全く其のみによつて遺憾なく知る事が出来る。親しき者への書信に於ては、人は少しも自分を飾る必要を有たない。見たまゝ、聞いたまゝ感じたまゝ、考へたまゝを、其の儘告げる。従つて然う言ふ尺牘には、其の人の不断の姿が表はれて居る。素顔の美しさが表はれて居る。此の故に私は狂歌よりも、狂文よりも、将た何よりも、彼の尺牘を愛する。彼の尺牘は実に温い父の愛の結晶である。其の平明なそして淡白な書き振りにすら、私は彼の個性の色を見る。匂を嗅ぐ。更闌けし灯の下に、しみ/゛\と其に読み耽る時、寛容にして博大なる彼の人格は、何時しか其の触手を伸べて、優しくも私を抱擁する。私は南畝の尺牘を愛する。
 定吉の嫁の妊娠を喜び、安産を祝し、新夫婦の無経験を案じて、育児上の事にまで、細々と気をつけて遣つて居るのが嬉しい。初孫は鎌太郎と名づけられたが、後年長崎から送つた書信中に、次の様なのがある。
 「鎌太郎唐詩を誦し候由、一段の事と存候。一詩を覚候はゞ餅少し宛賞し可被遣候。定めて今は、祖父の事忘居候哉、但は覚居候や、筆硯を弄び候や如何」
 異境の空に、遙かに児孫を憶ふ彼の真情は、誠に掬す可きものがある。「一詩を寛候はゞ」と言ふあたりなどは、可笑しさを通り越して、寧ろ涙ぐましくなる程である。「定めて今は」の条は、此の大阪祇役の後一旦江戸へ帰つて、暫らく可愛いゝ孫と共に暮し、間もなく長崎へ行つて了つたから、さう言つたのである。
 定吉が徒然なる父を慰める可く、近詠の狂歌を書き送つた時に、「我も是故に、流汚名候事故、無益の事と、本歌をば詠覚候が宜敷候。旅行などは、和歌宜敷候」と、誡めて居るのは、注目に値する。
 けれども此の頃、南畝の狂名は、益々旺になり、狂詠を罷めたと言ふものゝ、其が為に反つて隆々たる名声を博したのである。
 「此の地の者、孰れも余が詩歌を渇望致候。只今迄所持致居候物も偽物多く候。此度鑑定致候」とも言つて居る。
  世の中の人には時の狂歌師と呼ばるゝ名こそおかしかりけれ
 南畝自身は、然う言ふ心算でも、人が承知しないのである。即ち、
  また今年扇何千何百本書き散すべき口開きぞも
 と言ふ位の勢である。狂歌に淫する事は無かつたが、昔の思ひ出に、興に乗じて狂詠に筆を染める様に、成つたのであらう。
 宿は南本町五丁目に在つて、二階も有り、土蔵もあつて、かなりゆつたりして居た。銅座の役所は過書町にあり、南本町からは十町余であつた。
 「旅宿は風入第一。広く綺麗にて、屋根の漏候気遣無く、自由に成候はば、其表へ持参致度候」
 と言ふので、江戸の家の惨めさが分ると思ふ。
 「私印判一寸押候へば、穴蔵の畳をあげ、井戸車の如く銀箱を引揚、諷々と渡申候。昨日は三百貫目今日は四百九十八貫目、八千三百両などと申候には驚入候。私印判初ての事と大笑致候。さて/\重き御役と、始めて心附申候。是は大切の事故、外へは御沙汰なし」自分の仕事に、軽い誇と重い責任を感じつゝ、実直に立働らく彼の姿は、懐しさの限である。役所では随分忙しいが、
 「旅宿に帰候へば、門庭闃として無雑賓、烹茗拠梧或抄書或賦詩、仙境に入候」
 と言つた調子で、至つて気楽である。
 風雅な友には、蕪坊といふ狂歌詠み、蘇州と号した医者、天洋と称した詩人、其の他博識を以て有名な兼葭堂などがあつた。
 閑暇には市の内外の名所旧蹟、神社仏閣を巡拝して旅情を慰め、郷愁を忘れて居た様である。

享和二年の初夏、一旦役を了へて江戸へ帰つた南畝は、一年置いて、文化改元五十六歳の秋には再び銅座役人として、長崎へ赴任するのである。長崎には翌二年の十月まで逗留した。往途には蘭奢亭薫が行を共にし、夜毎に南畝の足腰を揉んで、深い親切を示したので、「甚だ実儀なる者にて狂歌師には珍敷候」と賞められて居る。其は扨て置き、此の一年間に特筆す可きは、彼が余財の許す恨り、書籍を購入し、其の奇斠斠なるものは、之を借覧書写せしめた事である。
 「此の方当時、歳暮年忘も何も無之、吏事と奇書のみに消日申候」
 と言ふ位の凝り方である。こんなに書物熱にうかされて、有頂天に成つて居るかと思ふと、急に心細い事を言ひ出したりする。寄る年波は争はれないものだ。
 「好奇の僻も奇物に飽果候。鶯谷の一隠吏として、読書小酙を娯み申度候。山水も奇書画も、最早左のみに存不申候。本膳の後の吸物を見る如く、胸につかへ申候」
 けれども愈々花のお江戸へ、憧れの鶯谷へ帰る暁には、実に夥しい奇書珍籍が蒐められてあつたのである。彼が如何に典籍を愛護秘蔵し、如何に其の散佚を防がんとしたかは、次の尺犢によつて明かで
 ある。
 「近藤重蔵へ北斎画五十三次摺物一帖。屋代へ善光寺縁喜(三冊板本)。塙検校取次にて、松浦公へ宴曲抄(古の謡の様なもの)一帙(二十巻か十八巻か)貸置候。是は折々御催促、御取返置可然候」
 彼が一生涯抄書して倦まなかつた理由は、「南畝莠言」の序によつて見る可きである。兎に角彼の不断の努力と勤勉とによつて、其の堙滅を免れた書は多い。吾々は大いに其の労に謝す可く、其の功を永久に紀念す可きである。
 長崎滞在中、ロシアの使節レサノツトに、会見する事の顛末は、くどいから省略する。「唐紅毛オロシア人にまで、名を書留られ、絵の如き山水を目のあたり見、書画を沢山得候計が儲物にて、一刻も早く帰府致度候」
 で長崎を引き上げるのである。「小春紀行」は此の時の見聞を記したもので、なか/\面白い。文章も枯れ寂びて、床しさの限である。何でも芭蕉の「奥の細道」を讃む趣がある。

 文化五年から六年へかけては、治水の事に就いて、武相の間を東西に奔走した。「調布日記」を見ると彼が老躯に鞭つて、懸命に職務に尽瘁した悲惨な姿が、まざ/\と眼に浮ぶ。南畝程の学識ある者をば、土方の親分めいた役にしか、就け得なかつた当局者の不見識は呪を通り越して寧ろ笑ひ度くなる。時代の力は怖ろしい。寛政の改革などは蟷螂の斧だ。南畝こそ良い面の皮である。が兎に角彼はベストを尽した。弱いと言へば弱い。だが真剣さは貴い。
 其の頃末の孫女が、もがさを病んでゐると聞いて、早速其の辺で梨を五つ程買つて、人に持たせて、尋ねに遣つたが、帰つて来て、もう快くなつた、と聞いて、
 「嬉しなどは世の常なり。春雨しめやかに降れば、若鮎をなめ、酒飲みて臥しぬ」と書いて居る。老いて淋しき人の生活が、しみじみと物の哀をそゝるではないか。

 玉川治水の功によつて、御切米も百俵十人扶持となり、大分生活が楽に成つて来た。文化六年には公儀から新に宅地を賜つた。
  衣食住餅酒油炭薪何不足無き年の暮かな
 だが幾らお金が出来ても、年をとつては仕様がない。
  願はくは通り手形をうち忘れあとへ還らん年のお関所
 と言つても駄目だ。其で自然楽しかつた昔の追憶となる。
  春雨のほちほち古きその昔ゐつゞけけしたる遊び思ほゆ
 である。年をとつては、詩や歌もうるさくなる。
  詩を作り歌を詠みしも昔にて芋ばかり喰ふ秋の夜の月
 更に文化十一年、六十六歳の「吉書初」に曰く。
「――もう幾つ寝て正月と思ひし幼心には、余程面白きものなりしが、鬼打豆も片手に余り、松の下も数多度くぐりては、鏡餅に歯を立て難く、金平牛蒡は見た計なり。まだしも酒と肴に憎まれず。一杯の酔心地に命を延べ、一椀の吸物に舌を打てば、二挺皷の音を思ひて、三味線枕の昔を偲ぶ。止みなん。止みなん。我年十に余りぬる頃は、三史五経をたてぬきにし、諸子百家をやさがしゝて、詩は李杜の腸を探り、文は韓柳の髄を得んと思ひしも、何時しか白髪三千丈、此の如きの親父となりぬ。狂歌ばかりは言ひ立ての一芸にして、王侯大人の懸物を汚し、遠国波濤の飛脚を労し、犬打つ童も扇を出し、猫弾く芸者も裏皮を願ふ。わざをぎ人の羽織に染め、浮れ女の晴衣にもそこはかと無く書い遣り捨てぬれば、吉書初とは言ふなるべし」

 文政改元七十歳の早春、登営の砌り、神田橋畔に躓倒してからは、急に衰弱を増し、暫らく病床の人となつて居た。「奴凧」に、
 「つら/\思へば、老病ほど見たくでも無く忌々しきものはあらじ。家内の者には飽きられて、善く取扱ふ者無し」
 と愚痴つて居るが、之は畢竟老の繰言である。定吉夫婦が彼を除け者にしたのでも何でも無い。彼等は共に孝心の篤い良い子であつたのである。而も南畝は何時しか一人の妾を抱へて居る。老衰はしたものゝ、酒も飲めば遊びもする。芝居へも行けば、花見にも出かける。支配勘定を辞したのは怖らく文政改元春夏の候であるらしいが、さうすれば七十歳まで、御奉公に余念が無かつたので、その精力の絶倫さには、全く驚かされる。
 彼が死んだのは、文政六年四月六日である。年は七十五であつたが、死ぬ三日前には、まだ妾を伴れて市村座へ行き、馴染の梅幸と団十郎の狂言を見、帰つてからも平生通り酒を飲み、安らかに寝に就いた程であつた。南畝辞世の狂歌として、世に伝へられるものは、 時鳥鳴きつるかたみ初鰹春と夏との入相の鐘
 
 以上私は、其の作品の断片を以て、南畝の人物と生活に就いて、不完全なる記述と批評とを敢てして来た。
 が要するに彼は時代の子であつた。唯優れたる時代の子であつた。時代思潮の進むが儘に進み、時代生活の移るが儘に移つて行つた才子肌の人に過ぎなかつた。時代を超越し、時代を指導する様な天才肌の人では無かつた。
 自我の旗幟を押し立てゝ、人生を直線的に行進する戦闘的革命的な面影は無くて、自我を没し、衝突を避け、一歩退いた余裕に於て、人生を平行的に逍遥する平和的保守的性格の持主であつた。此の意味に於て、彼は当代の奇才平賀源内・近藤正斎等の如き野心満々たる怪傑とは自ら其の選を異にすると雖も、南畝も亦単なる凡人ではなかつた。即ち既に述べた如く、彼は非凡なる凡人であつた。其の密度と容積の大なる点に於て、彼の自我は、何時も時代の為に、圧迫され通しであつた。かれは正面から其に反抗する力は持たなかつた。が圧迫されたる自我は、何処かに其の放出口を見出さねばならない。其が前半世の享楽生活であつた。即ち社会的階級的党派的に、圧縮されたる自我が、其の方面に逃れたのである。そして後半世の奮闘生活は其の反動であり、逆潮である。
 其の狂詩・狂文・狂歌・洒落本・落語などは、大体に於て前期の享楽生活を反映するものであり、其の日記・随筆・考証・雑著・尺犢・纂輯の類は、ほゞ後期の奮闘生活を返照する。重ねて言ふ。南畝は実に優れたる時代の子であつた。偉大なる精力家であつた。其が彼をして、平民文学と日本文献学の上に、不朽の名声と絶大の功績とを残さしむる所以であつたのである。
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