第九 平家巻

 目録
第八十一句 宇治川
 今井の四郎瀬田を警固する事
 仁科・高梨宇治川を警固する事
 佐々木の四郎生□賜はる事
 大串の重親歩立ちの先陣の事
第八十二句 義経院参
 義仲優女暇乞ひの事 越後の中太家光自害の事
 義経禁廷言上 義経内裏を守護申さるる事
第八十三句 兼平
 巴のいくさ 兼平最後 義仲最後
 茅野の太郎光弘討死
第八十四句 六箇度のいくさ
 備前の国下津井のいくさ 淡路福良のいくさ
 安芸の国沼田の城のいくさ 和泉の国吹飯の城のいくさ
第八十五句 三草山
 蒲の御曹司大手の大将の事 義経搦手の大将の事
 鵯越に向かはるる事 鷲の尾案内者の事
第八十六句 熊谷・平山一二の駆
 熊谷名のる事 平山駆け入る事 熊谷駆け入る事
 熊谷・平山同心合戦の事
第八十七句 梶原二度の駆
 一の谷矢合せの事 河原兄弟討死
 梶原平次景高が歌の沙汰
 景時・景季同心の事
第八十八句 鵯越
 大鹿二つ落つる事 鞍置馬二匹落とさるる事
 義経落とし給ふ事 能登守逃れ給ふ事
第八十九句 一の谷
 忠度・知章・師盛・清房・経俊・業盛・敦盛以下討死
 河越黒の沙汰 熊谷発心
第九十句 小宰相身投ぐる事
 平家海上に浮かばるる事 首実検の事
 御乳母の女房髪剃る事 通盛夫婦の歌の沙汰
第八十一句 宇治川

 寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院なりければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべきにてあらねば、拝礼もなし。
 院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼もおこなはず。
 平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元日、元三の儀こそ事よろしからね。
 先帝ましませば、主上と仰ぎたてまつれども、四方の拝もなし。
 小朝拝もすたれぬ。
 氷のためしも奉らず。
 節会もおこなはれず。
 はらかも奏せず。
 吉野の国栖も参らず。
「世の乱れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはなかりしものを」と、あはれなり。
 青陽の春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになりゆけば、平家はただいつとなく氷に閉ぢられたる心地して、寒苦鳥にことならず。
 東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅開落すでに異にして、花の朝、月の夕べ、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、絵合、草尽、虫尽、さまざま興ありしことどもを思ひ〔出でて、語り〕出だし、永き日を暮らしかね給ふこそかなしけれ。
 正月十七日、院の御所より木曾左馬頭義仲を召して、「平家追罰のために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。
 木曾かしこまつて承り、まかりいづ。
 やがてその日、「西国への門出す」と聞こえしが、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、木曾西国へは向かはずして、宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつかはす。
 木曾、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国長野の城に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎にて今朝河内へ下りぬ。
 のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬田へ向かふ。
 仁科、高梨、山田の次郎、五百余騎にて宇治橋へ向かふ。
 信太の三郎先生義教、三百余騎にて一口をぞふせぎける。
 東国より攻めのぼる大手の大将軍蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、「都合その勢六万余騎」とぞ聞こえし。
 そのころ、鎌倉殿に「生□いけずき」「摺墨」とて聞こえたる名馬あり。生□いけずきを、蒲の御曹司以下の人々参りて所望申されけれどもかなはず。梶原平三景時参つて、「〔生□いけずき賜はつて、〕今度源太冠者に宇治川渡させ候はばや」と申せば、鎌倉殿、「生□いけずきは、自然の事のあらんずるとき、頼朝物具して乗るべき馬なり。摺墨を」とてぞ賜はりける。
 そののち、佐々木の四郎高綱参りて、「上洛つかまつるべき」よし申す。
 鎌倉殿いであひ対面し給ひて、「わ殿の父秀義は、故左馬頭殿に付きたてまつて、保元・平治両度の合戦に忠をいたす。なかにも平治の合戦のとき、六条河原にて命を惜しまずふるまひき。その奉公を思へば、わ殿までおろかに思はず。申す者どもありつれども賜はらぬぞ。これに乗りて、宇治川の先つかまつれ」とて、生□いけずきを佐々木にぞ賜はりける。
 佐々木の四郎、この御馬賜はつて、御前をまかり立つとて、あまりのうれしさにうち涙ぐみて申しけるは、「『身は恩のために仕へ、命は義によつて軽し』と申すことの候。この御馬賜はりながら、宇治川の先を人にせられて候ふものならば、いくさにもあひ候ふまじ。ふたたび鎌倉へ向かうて参るまじく候。いくさには子細なくあひたりと聞こしめされ候はば、『宇治川の先においては、しつらんものを』とおぼしめされ候へ」と申して出でぬ。
 参りあはれたる大名、小名、これを聞いて、「荒涼の申し様かな」とささやぎあへり。
 おのおの鎌倉を立つて都へ上る。
 駿河の国浮島が原にて、梶原源太高き所にうちあがり、しばしひかへて多くの馬を見るほどに、幾千万といふ数を知らず。
 思ひ思ひの鞍置き、色々の鞦かけて、あるいは諸口に引かせ、あるいは乗口に引かせ、引き通し、引き通ししけるなかにも、「景季が〔賜はつたる〕摺墨にまさる馬こそなかりけれ」とうれしく思ひて静かに歩ませゆくところに、「生□いけずき」とおぼしき馬こそ出で来たりたれ。
 黄覆輪の鞍置き、小総の鞦かけ、白泡噛ませて、さばかり広き浮島が原を狭しと躍らせ、引きてぞ出で来たる。
「生□いけずきやらん」と思ひてうち寄りて見ければ、まことに生□いけずきにてあるあひだ、舎人に会うて、「それは誰が御馬ぞ」と問へば、「佐々木殿の御馬にて候ふ」と申す。
「佐々木殿は、三郎殿か、四郎殿か」。
「四郎殿」と申す。
「四郎殿は通り給ひぬるか、さがつておはするか」。
「さがらせ給ひて候」と答ふ。
 そのとき梶原、「口惜しくも鎌倉殿は、同じ様に召しつかはれし侍を、佐々木に景季をおぼしめしかへられけるものかな。日ごろは、『都へ上りて、木曾殿の御内に四天王と聞こゆる今井、樋口、楯、根の井に組んで死ぬるか、しからずは西国へ向かつて、一人当千と聞こゆる平家の侍といくさして死なん』と思ひつれども、それも詮なし。ここにて佐々木と組んで差しちがへ、よき侍二人死んで鎌倉殿に損とらせたてまつらんずるものを」と〔思ひきり、〕つぶやいて待つところに、佐々木の四郎、何心もなく歩ませて出で来たる。
「押し並べてや組まん。向かうざまにや当て落さん」と思ひけるが、「まづことばをかけて組まん」と思ひ、「いかに、佐々木殿は生□いけずき賜はらせ給ひてげり」と言ひければ、佐々木、「まことや、この人も所望つかまつりたるよし、内々聞きしものを」と、きつと思ひ出でて、ちともさわがず、「さ候へばこそ、この御大事にまかり上るが、宇治川渡すべき馬は持たず、『生□いけずきを申さばや』と思ひつれども、『梶原殿の申されけるにも御許しなし』とうけたまはるあひだ、『まして高綱が申すとも、よも賜はらじ』と存じ、『後日の御勘当はあらばあれ』と思ひ、暁たつとての夜、舎人に心をあはせ、さしも御秘蔵候ふ生□いけずきを盗みすまして上り候ふはいかに」と言ひければ、梶原このことばに腹がゐて、「ねつたう、さらば景季も盗むべかりけるものを」と、どつと笑つて退きにけり。
〔佐々木の四郎が賜はつたる〕生□いけずきは黒栗毛なる馬の〔きはめてたくましきが、〕馬をも人をもあたりをはらつて食ひければ、「生□いけずき」と付けられたり。
「八寸の馬」とぞ聞こえし。
〔梶原に賜はつたる〕摺墨もおほきにたくましきが、〔まことに〕黒かりければ「摺墨」とぞ申しける。
 いづれも劣らぬ名馬なり。
 尾張の国より大手、搦手、軍兵二手に分かつ。
 搦手は伊勢の国へまはる。
 大手は美濃の国にかかる。
 大手の大将軍は蒲の御曹司範頼に、あひしたがふ人々、武田の太郎、加賀見の次郎、その子小次郎、一条いちでうの次郎、板垣の三郎、逸見の四郎、山名、里見の人々。
 侍大将には、土肥の次郎、稲毛の三郎、榛谷の四郎、小山田の小四郎、長沼の五郎、結城の七郎、岡部の六野太、猪俣の近平六、熊谷の次郎を先として、都合その勢三万余騎。
 近江の国野路篠原にぞ着きにける。
 搦手の大将軍九郎御曹司に、したがふ人々、安田の三郎、大内の太郎、田代の冠者、畠山の庄司次郎、同じく長野の三郎、梶原源太、佐々木の四郎、糟谷の藤太、渋谷の右馬允、平山の武者所季重を先として、都合その勢二万余騎。
 伊賀の国を経て田原路をうち越え、宇治川のはた、産霊の明神の御前をうち過ぎ、山吹が瀬へぞ向かひける。
 宇治も、瀬田も、ともに橋をひきたり。
 宇治川の向かうの岸には掻楯かき、水の底には乱杭打つて、大綱張り、逆茂木つないで流しかけ、ころは正月二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷とけあひて、水かさ、はるかにまさりたり。
 白波おびたたしく、瀬枕おほきに滝鳴つて、逆巻く水も早かりけり。
 夜はすでにほのぼのと明けゆけども、川霧深くたちこめて、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。
〔ここに〕大将軍九郎御曹司、川ばたにうち出でて、水の面を見わたし、「人々の心を見ん」とや思はれけん、「いかがせん。淀、一口へやまはるべき。水の落ち足をや待つべき」とのたまへば、武蔵の国の住人畠山庄司次郎重忠、そのときはいまだ二十一になりけるが、すすみ出でて申しけるは、「この川の御沙汰は、鎌倉殿の御前にてよく候ひしぞかし。日ごろ知ろしめされぬ海川の、今にはかに出できても候はばこそ。この川は近江の湖のすゑなれば、待つとも、待つとも、水干まじ。また、橋をば誰かは渡してまゐらすべき。一年治承の合戦に、足利の又太郎忠綱は十八歳にて渡しけるは、鬼神にてはよもあらじ。重忠瀬ぶみつかまつらん」とて、「武蔵の殿ばら、続けや」とて、丹の党をはじめとして五百余騎、轡を並ぶるところに、平等院の艮、橘の小島より、武者こそ二騎、ひつかけ、ひつかけ、出で来たれ。
 梶原源太、佐々木の四郎なり。
 人目には何とも見えねども、内々先をあらそふともがらなりければ、まつ先に二騎つれて出でにけり。
 佐々木に梶原は一段ばかり馳せすすむ。
 佐々木「川の先をせられじ」と、「や、殿。梶原殿。この川は、上へも、下へも、早うして、馬の足ぎきすくなし。腹帯の延びて見ゆるは。締め給へ」と言はれて、梶原「げにも」とや思ひけん、つ立ちあがりて、左右の鎧を踏みすかし、手綱を馬の小髪に捨て、腹帯を解いて締むるあひだに、佐々木、つと馳せぬけて、川へざつとうち入れたり。
 梶原これを見て「たばかられまじきものを」とて、同じくうち入れたり。
「水の底には大綱張りたるらんぞ。馬も乗りかけ、おし流されて不覚すな。佐々木殿」とて渡しけるが、川の中まではいづれ劣らざりけれども、いかがしたりけん、梶原が馬は篦撓形におし流さる。
 佐々木は川の案内者、そのうへ生□いけずきといふ世一の馬には乗つたりけり、大綱どもの馬の足にかかりけるをば、帯いたる「面影」といふ太刀を抜き、ふつふつとうち切り、うち切り、宇治川早しといへども、一文字にざつと渡して、思ふ所にうちあぐる。
 鎧踏んばり、つ立ちあがり、「宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣」と名のつて、をめいてかく。
 梶原は、はるかの下よりうちあぐる。
 畠山、五百余騎にてうち入れて渡す。
 向かひの岸より仁科、高梨、山田の次郎、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。
 畠山、馬の額を篦深に射させて、馬は川中より流れぬ。
 弓杖ついており立つたり。
 岩波おびたたしく兜の手先におしかけけれども、事ともせず。
 向かひの岸に渡りついて、あがらんとするところに、うしろより物こそひかへたれ。
 ふりまはりて見ければ、鎧武者がとりついたり。
 畠山の烏帽子子に、大串の次郎なり。
「誰そ」と問へば、「重親」と名のる。
「かかることこそ候へ。馬は弱る、おし流されて候へば、力およばずとりつきまゐらせ候」と申せば、「いつも、わ殿ばらは、重忠にこそ助けられんずれ。あやまちすな」と言ふままに、さし越えてむずとつかみ、岸の上にぞ投げあげたる。
 投げられながら起き直り、「武蔵の国の住人、大串の次郎重親。宇治川徒歩わたりの先陣」とぞ名のりける。
 敵も味方もこれを聞き、一度にどつとぞ笑ひける。
 九郎御曹司をはじめたてまつり、二万五千余騎、うち入れ、うち入れ、渡しけり。
 馬、人にせかれて、さばかり早き宇治川も下は瀬切れて浅かりければ、雑人ども、馬の下手に、とりつき、とりつき、渡しけり。
 佐々木の三郎、梶原平次、渋谷の右馬允、これ三人は馬を捨てて芥々をはき、弓杖をつき、橋の行桁をこそ渡りけれ。
 そののち畠山、乗替に乗りてうちあぐる。
 魚綾の直垂に緋縅の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗つたる敵の、まつ先にすすみ出でて、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」とこそ名のりけれ。
 畠山、「まづ軍神の血祭りせん」とて、かけ並べ、むずと取つて引き落し、首ねぢ切りて、本田の次郎が鞍のしほでにつけさせけり。
 これをはじめとして、木曾殿の方より宇治橋固めたる勢ども、しばしささへてふせげども、東国の大勢がみな渡して攻めければ、散散に駆けなされ、木幡山、伏見をさしてぞ落ち行きける。
 瀬田をば稲毛の三郎重成がはかりごとにて、田上の供御の瀬をこそ渡しけれ。
 いくさ破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもつて合戦の次第を注進申されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御たづねありければ、「宇治川のまつ先」と申す。
 日記をひらいて御覧ずれば、「宇治川の先陣、佐々木の四郎。二陣、梶原源太」とこそ書かれけれ。 

第八十二句 義経院参

 さるほどに、木曾左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きしかば、「最後のいとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所六条殿へ馳せ参る。
「あはや、木曾が参り候ふぞや。いかなる悪行かつかまつらんずらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、「東国の兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、木曾門の前よりとつて返す。
 御所にはやがて門をさしけり。
 木曾は「最愛の女に名残を惜しまん」とて、六条万里の小路なる所にうち入りて、しばしは出でもやらざりけり。
 新参したりける越後の中太家光といふ者あり。
 これを見て、「あれほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。いそぎ出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりければ、越後の中太、「世は、かうごさんなれ。さ候はば、家光は死出の山にて待ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切つておしのけ、腹掻き−切つてぞ死にける。
 木曾殿これを見給ひて、「これはわれをすすむる自害にこそ」とて、〔やがて〕うち出でられけれ。
 上野の国の住人、那波の太郎広澄を先として、百五十騎には過ぎざりけり。
 六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ばかり出で来る。
 その中に二騎進んだり。
 一騎は塩屋の五郎惟広、一騎は勅使河原の五三郎有直なり。
 塩屋が申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」。
 勅使河原申す様、「一陣破れぬれば、残党まつたからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。
「われ先に」と乱れ入る。
 あとより後陣続いたり。
 木曾殿これを見給ひて、いまを最後のことなれば、百四五十騎轡を並べて、大勢の中に駆け入る。
 東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面々にはやりあへり。
 両方火出づるほどこそ戦ひけれ。
 九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせ、「義経は院の御所のおぼつかなきに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひた兜五六騎、六条殿に馳せ参る。
 大膳大夫業忠、六条の東の築垣にのぼつて、わななく、わななく、世間をうかがひ見るところに、東の方より武者こそ五六騎、のけ兜に戦ひなつて、射向の袖を吹きなびかさせ、白旗ざつとさしあげ馳せ参る。
「あはや、木曾が参り候ふぞや。このたびぞ世は失せはてん」と申しければ、法皇をはじめまゐらせて、公卿、殿上人もことに騒がせ給ふ。
 業忠よくよく見て申しけるは、「笠じるし変つて見え候。木曾にては候はず。今日うち入りたる東国の兵とおぼえ候」と申しもはてねば、九郎義経、門の前に馳せ寄つて、馬より飛んで下り、「『鎌倉前の右兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経、参りて候』と奏せさせ給へ」と申されければ、大膳大夫あまりのうれしさに、築垣よりいそぎ飛び下りけるほどに、落ちて腰をつき損じたりけれども、痛さはうれしさにまぎれておぼえず。
 はふはふ参りて奏し申せば、やがて門をひらき入れられけり。
 大将軍ともに武士は六人なり。
 九郎義経は赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧着て、黄金づくりの太刀を帯き、切斑の矢負ひ、塗籠籐の弓の鳥打を、紙の広さ一寸ばかりに切つて、左巻きにぞ巻いたりける。
 これぞ今日の大将軍のしるしとは見えたりける。
 のこる五人は、鎧は色々に見えたりけれども、つらたましひ、骨柄、いづれも劣らざりけり。
 法皇、中門の連子より叡覧あつて、「ゆゆしげなる者どもかな。みな名のり申せ」と仰せければ、まづ大将軍、「九郎義経」、次には、「畠山庄司次郎重能が子に、畠山庄司次郎平の重忠」、「同じ氏、河越の太郎重頼が子に、河越の小太郎重房」、「渋谷の三郎庄司重国が子に、渋谷の右馬允重助」、「佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱」、「梶原平三景時が嫡子、梶原源太景季」とぞ申しける。
 みな庭上にかしこまつてぞ候ひける。
 大膳大夫業忠、大床に候ひて、合戦の次第をたづねらる。
 義経申されけるは、「木曾が悪行のこと、頼朝うけたまはりて大きにおどろき、範頼、義経二人の舎弟を参らせて候。兄にて候ふ範頼は瀬田より参り候ふが、いまだ見えず候。義経は宇治の手を追ひ落して、まづこの御所のおぼつかなさに、馳せ参りて候。木曾は河原を上りに落ちゆき候ふを、兵どもに追つかけさせ候ひつれば、いまはさだめて討ちとり候らん」と、いと事もなげにぞ申したる。
 君なのめならず御感ありて、「木曾が悪党なんど、なほ参りて狼藉つかまつり候ふべし。義経は候ひて、この御所よくよく守護したてまつれ」と仰せ下されければ、かしこまつて承り、門を固めて待つところに、ほどもなく一二千騎馳せ参りて、六条殿四面にうちかこみ、守護したてまつれば、人々も心静かに、君も御安堵の御心いできさせ給へり。 

第八十三句 兼平

 さるほどに、木曾は「もしもの事あらば、院をとりたてまつり、西国の方へ御幸なしたてまつり、平家とひとつにならん」とて、力者二十余人用意しておいたりけれども、「院の御所には、義経の参り給ひて守護したてまつる」と聞こえしかば、「力およばず」とて、数万の大勢の中へ駆け入り、討たれなんずること度々におよぶといへども、駆けやぶり、駆けやぶり、通りけり。
「かくあるべしと知りたりせば、今井を瀬田へやらざらましものを。幼少より『死なば一所にて、いかにもならむ』とちぎりしに、所々にて死なんことこそ本意なけれ。今井が行くへを見ばや」とて、河原を上りに駆けけるに、大勢追つかくれば、とつて返し、とつて返し、六条河原と三条河原の間、無勢にて多勢を五六度まで追つかへす。
 賀茂川ざつとうち渡し、粟田口、松坂にもかかりけり。
 去年信濃を出でしときには、五万余騎と聞こえしかど、今日四の宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。
 まして中有の旅の空、思ひやるこそあはれなれ。
 木曾殿は、信濃より巴、款冬とて二人の美女を具せられたり。
 款冬は労ることありて、都にとどまりぬ。
 巴は七騎がなかまでも討たれざりけり。
 そのころ齢二十三なり。
 色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。
 されども大力の強弓精兵、究竟の荒馬乗りの悪所おとし。
 いくさといへば札よき鎧着て、大太刀に強弓持ち、一方の大将にさし向けられけるに、度々の高名肩を並ぶる人ぞなき。
「木曾は長坂を経て、丹波路へおもむく」と言ふ人もあり、また「龍華越にかかつて北国へ」とも聞こえけり。
 されども、今井が行方のおぼつかなさに、瀬田の方へぞ落ち行きける。
 今井も主の行くへのゆかしさに、旗をひん巻き、五十騎ばかりにて都へとつて返すほどに、大津の打出浜にて、木曾殿に逢ひたてまつる。
 一町ばかりより、たがひに「それ」と目をかけて、駒を早めて寄せ合はせたり。
 木曾殿、今井が馬にうち並べ、兼平が手を取りて、「いかに今井殿、義仲は、今日六条河原にていかにもなるべかりしかども、幼少より『一所にていかにもならん』とちぎりしことが思はれて、かひなき命のがれ、これまで来れるなり」とのたまへば、「〔さん候。〕兼平も、瀬田にていかにもなるべう候ひつるが、君の御行くへのおぼつかなさに、敵の中に取り籠められて候ひしを、うち破りてこれまで参りて候」と申す。
 木曾殿、「ちぎりはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は敵におしへだてられ、山林に馳せ入りぬ。さだめてこの辺にもあるらん。旗さし上げみよ」とのたまへば、今井持たせたる旗をざつとさし上げたれば、案のごとく、これを見て、京より落つる勢ともなく、瀬田より落つる者ともなく、三百余騎ぞ馳せ集まる。
 木曾殿大きによろこんで、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。この先にしぐらうで見ゆるは、誰が手とか聞く」。
「甲斐の一条の次郎殿とこそうけたまはり候へ」。
「勢はいかほどあるやらん」。
「六千余騎と聞こえて候」。
「さらばよき敵ごさんなれ。同じくは、大勢の中にてこそ討死もせめ」とて、まつ先にこそ進まれけれ。
 木曾は赤地の錦の直垂に、「薄金」とて唐綾縅の鎧着て、いかものづくりの太刀を帯き、石打の矢のその日のいくさに射のこしたるを首高に負ひなし、滋籐の弓のまつ中取つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛に、沃懸地の鞍置いてぞ乗つたりける。
 大音あげて名のりけり。
「昔は聞きけんものを、木曾の冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊予の前司朝日将軍源の義仲ぞや。一条の次郎とこそ聞け。討ちとり、勧賞かうむれ。なんぢがためにはよき敵ぞ」とて、破って入る。
 一条の次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。もらすな。討ちとれや」とて大勢の中にひと揉み揉うで戦ふ。
 木曾三百余騎にて、縦ざま、横ざま、蜘蛛手、十文字に駆けやぶり、六千余騎があなたへ〔ざつと〕駆け出でたれば、百騎ばかりになりにけり。
 土肥の次郎、一千余騎にてささへたり。
 そこを駆けやぶりて出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
 稲毛、榛谷五百余騎。
 そこを過ぐれば、小山、細道、森、結城、小沢。
 ここかしこに二三百騎ひかへたるを、駆けやぶり、駆けやぶり行くほどに、主従五騎にぞなりにける。
 五騎がうちまで、巴は討たれざりけり。
 木曾のたまひけるは、「義仲は、ただいま討死せんずるにてあるぞ。なんぢは女なれば、一所にて死なんことも悪しかりなん。『木曾殿こそ、最後のいくさに女をつれて討死せさせたり』なんど言はれんことも口惜しかるべし。これよりいづちへも落ちゆき、義仲が後世をとぶらひなんや」とのたまへども、落ちゆかず。
 あまりにいさめ給へば、「あつぱれ、よからむ敵もがな。最後のいくさして見せたてまつらん」と見まはすところに、武蔵の国の住人に恩田の八郎師重、聞こふる大力の剛の者、三十騎ばかりにて出で来たる。
 巴その中へ駆け入り、恩田に押し並べて、むずと取つて引き落し、鞍の前輪に押しつけて、首ねぢ切つて捨ててけり。
 そのまま物具脱ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。
 手塚の別当自害しつ。
 手塚の太郎は討死す。
 今は、今井と主従二騎にぞなりにける。
 木曾のたまひけるは、「いかに今井。日ごろは何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うおぼゆるぞや」。
 兼平申しけるは、「別の様や候ふ。それは君の無勢にならせましまして、臆させ給ふにこそ候へ。御馬疲れ候はず。御身弱らせ給はず。日ごろ召されし御鎧、何によつてただいま重くはならせ給ふべき。兼平一人候へば、余の者千騎とおぼしめされ候ふべし。箙に矢七つ八つ射のこして候へば、この矢のあらんかぎりは、ふせぎ矢つかまつらん。あれに見え候ふは『粟津の松原』と申し候。三町には過ぎ候ふまじ。あれにて御自害候へ」とて、二騎うち並べて行くほどに、また瀬田の方より新手の武者、百騎ばかり出で来たり。
 今井申しけるは、「さ候はば、君はあの松原にてしづかに御自害候へ。兼平はこの敵ふせぎ候はん」と申せば、木曾殿、「幼少より『一所に』とちぎりしはここぞかし。死なば同じ枕にこそ」と、馬の鼻を並べ、駆けんとし給へば、今井馬より飛んでおり、御馬の鼻にむずと取りつき、「いかなる御言候ふ。弓矢取りは、日ごろ高名をし候へども、最後に不覚しつれば永き瑕に候ふものを。いふかひなき冠者ばらに組み落され、討たれ給はば、『日本国に聞こえ給ふ木曾殿をば、それがしが家の子、それがしが郎等こそ討ちとりたてまつれ』なんどと申さんこと、あまりに口惜しうおぼえ候。ただ松の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と申せば、木曾殿力およばず、松原へぞ入り給ふ。
 今井の四郎ただ一騎、大勢に駆け向かひ、大音声をあげて、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。木曾殿の御乳人に今井の四郎兼平。三十三にぞまかりなる。鎌倉殿までも『さる者のあり』とは知ろしめされたるらん。討ちとり、勧賞かうむれ」とて、残りたる八すぢの矢を、さしつめ、引きつめ、散々に射る。
 死生は知らず、矢庭に敵八騎射おとし、矢種尽きければ、弓をかしこに投げすて、打物の鞘をはづし、斬つてまはるに、面を合はする者ぞなき。
「ただ射とれや。射とれや」とぞ、中にとり籠め、遠だてながら雨の降る様に射けれども、鎧よければ裏かかず。
 隙間を射ねば手も負はず。
 木曾殿は松原へ入り給ふ。
 ころは正月二十日の暮れがたなりければ、薄氷張りたりけるに、「深田あり」とも知らずしてうち入れ給へば、聞こふる木曾の鬼葦毛も、一日馳せ合ひの合戦にやつかれけん、あふれども、あふれども、打てども、打てども、はたらかず。
「今はかう」とや思はれけん、うしろへふり仰のき給ふところを、相模の国の住人石田の次郎為久、追つかけてよつ引いて射る。
 内兜をあなたへ通れと射通されて、痛手なれば兜の真向を馬のかしらにあてて、うつぶしにぞ伏し給ふ。
 石田が郎等二人落ちあひて、つひに木曾殿の首をば取つてけり。
 太刀の先に刺しつらぬき、高くさしあげ、今井が言ひつるに違はず、「日本国に聞こえ給ふ木曾殿を、相模の国の住人三浦石田の次郎為久、かうこそ討ちたてまつれ」とて高らかに名のりければ、今井の四郎これを聞き、「今は誰を囲はんとてかいくさをすべき。これ見よや、剛の者の自害する様。手本にせよや、東国の殿ばら」とて、太刀を抜き、口にくくみ、馬よりさかさまに落ちかかり、つらぬかれてぞ失せにける。
 今井討たれてそののちぞ、粟津のいくさは果てにける。
 今井が兄、樋口の次郎兼光は、「十郎蔵人を討たん」とて、河内の国長野の城へ越えけるが、そこにては討ちもらし、「紀伊の国名草にあり」と聞こえしかば、やがて追つかけ、越えたりけるが、「都にいくさあり」と聞きて馳せのぼるほどに、淀の大渡〔の橋〕にて今井が下人に行き逢うたり。
「君は、はや討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿は御自害」と申せば、樋口涙をながし、「これ聞き給へ、殿ばら。世はすでにかうごさんなれ。命惜しからん人々は、いづちへも落ち給へ。君に心ざしを思ひたてまつらんともがらは、兼光を先として都へ入りて討死せよ」と申しければ、これを聞き、かしこにては「馬の腹帯かたむる」、ここにては「兜の緒をしむる」と言うて、二三十騎、四五十騎、ひかへ、ひかへ、落ち行くほどに、樋口が勢六百余騎が、いま二十騎ばかりにぞなりにける。
「樋口の次郎、今日すでに都に入る」と聞こえしかば、党も高家も七条、朱雀、四塚へ「われも」「われも」と馳せむかふ。
 信濃の国の住人に茅野の太郎光弘といふ者あり。
 これも樋口につれて河内へ下りけるが、同じく今日京へ入る。
 茅野の太郎、何とか思ひけん、鳥羽より樋口の次郎が先に立つて馬の足をはやめ、四塚にて大勢にうち向かひ、「この中に一条の次郎殿の手の人やおはする」と呼ばはりけり。
 敵一度にどつと笑つて、「一条の次郎殿の手にてばかり、いくさをばすることか」と言ひければ、茅野の太郎「もつとも、さ言はれたり、殿ばら。かの手をたづぬることは、光弘が弟茅野の七郎その手にあると聞く。信濃に光弘が子ども二人あり。彼らが『あつぱれ。わが父は、ようてや死したりけん、悪しうてや死したりけん』なんど思はんところが不便なれば、弟の七郎が見んまへにて討死して、彼らに語らせんと思ふぞかし。信濃の国諏訪の〔上の〕宮の住人、茅野の大夫光家が子に茅野の太郎光弘。敵はきらふまじ」とて、あれに駆けあはせ、これに駆けあはせ、戦ふ敵三人討ちとりて、四人にあたる敵にひつ組んで落ち、たがひに刺しちがへてぞ死ににける。
 これを見て、惜しまぬ人こそなかりけれ。
 樋口の次郎兼光は児玉党の聟なりけるが、かの党申しけるは、「弓取りの広き縁に入ることは、かやうのときのためぞかし。されば、樋口がわが党にむすぼほりけんも、さこそ思ひけめ。いざ、今度の勲功に、樋口を申して賜はらん」とて、樋口がもとへ飛脚をたて、この様申しつかはしたりければ、樋口、聞こふる兵なれども、命や惜しかりけん、児玉党がなかへ降人にこそなりにけれ。
〔うち連れて都へのぼり、このよし申しければ、〕九郎御曹司、院に奏聞せられけり。
「くるしかるまじ」とてなだめられけるを、御所女房たち、「去年、木曾法住寺殿に火をかけて攻めたてまつりしときは、今井、樋口、といふ者どもこそ、かしこにも、ここにも、満ち満ちたる様に聞こえしか。これをなだめられば口惜しかるべし」なんど訴へ申されければ、樋口の次郎、また死罪にさだまりぬ。
 同じく二十二日、新摂政殿、とどめられさせ給ひて、もとの摂政殿還着し給へり。
 わづかに六十日のうちにとどめられさせ給ふ。
 いまだ見はてぬ夢のごとし。
 昔、粟田の関白は拝賀ののち七か日だにおはせしか、これは六十日のうちなれども、除目おこなはれ、節会もあり。
 思ひ出なきにはあらず。
 同じき二十四日、木曾左馬頭の首、大路をわたさる。
 高梨の冠者、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太、長瀬判官、総じて与党五人が首、同じくわたされけり。
 樋口の次郎、「すでに斬らるべし」と聞こえしかば、「木曾殿の御首の御供せん」と所望申すあひだ、藍摺の水干の、葛の袴に、立烏帽子にてわたされけり。
 同じき二十五日、樋口の次郎、六条河原にてつひに斬られぬ。
「『今井、樋口、楯、根の井とて、木曾が四天王のそのひとつなり。是等これらをなだめられば、虎をやしなふに似たり』と御沙汰あつて、つひに斬られける」とぞ聞こえし。
 伝へ聞く、虎狼国おとろへ、諸侯蜂のごとくにおこり、沛公さきに咸陽宮に入るといへども、項羽が来らんことを恐れて、最愛〔の美〕人を犯さず、金銀珠玉を掠めず。
 ただいたづらに函谷の関をまぼつて、漸々に敵をほろぼして天下ををさむることを得たり。
 されば義仲さきに都に入るといふとも、慎んで頼朝が下知を待ちしかば、沛公がはかりごとには劣らざらまし。 

第八十四句 六箇度のいくさ

 さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。
 東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。
 そのうち、福原、兵庫、板宿、須磨にこもるる勢、ひた兜八万余騎。
 これは備中の国水島、播磨の国室山、二か度の合戦にうち勝つて、山陽道八か国、南海道六か国、都合十四か国をうちなびかせて、したがふところの軍兵なり。
 一の谷は、口は狭くて奥広く、北は山、南は〔海、〕岸高うして屏風を立てたるがごとし。
 北の山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切つて逆茂木にひきたり。
 大船をそばだてて掻楯にかき、うしろには鞍置馬、十重二十重にひき立てたり。
 おもてには櫓をかき、櫓のうへには、兵ども兜の緒をしめ、つねに大鼓を打ちて乱声し、一張の弓のいきほひは半月胸のまへにかかり、三尺の剣のひかりは秋の霜の腰の間によこたふ。
 高き所に赤旗ども、その数を知らず立て並べたれば、春風に吹かれて天にひるがへれば、ひとへに火炎の焼けのぼるにことならず。
 まことにおびたたしかりけり。
 阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者が、今日参りたらば、よも用ひられじ。
 平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、小船百艘ばかりにとり乗つて、「門脇の〔平の中納言、〕平宰相教盛の子息、備前の国下津井におはしけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。
 能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこさずうち殺せ」と、五百余騎にてをめきて駆け給へば、是等これらは、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたへ逃げのぼるが、淡路の福良に着きにけり。
 この国に、六条の判官為義が末の子、賀茂の冠者末秀、淡路の冠者為清とて源氏の大将二人あり。
 これを大将として城郭をかまへて待つところに、能登の前司、二千余騎にて淡路の福良に寄せて〔攻め給ふに、〕一日一夜戦ひ、賀茂の冠者討死す。
 淡路の冠者痛手負うて自害しつ。
 是等これら百余人が首をとり、福原へ参らせ給ひけり。
 門脇の平中納言、それより福原へのぼり給ふ。
 子息たちは、「伊予の河野が源氏に心ざしあり」と聞きて、「それを討たん」とて伊予の国へわたり給ふ。
 河野の四郎これを聞き、「かなはじ」とや思ひけん、「安芸の国の住人沼田の次郎、源氏に心ざしあり」と聞いて、「それとひとつにならん」とて、安芸の国へぞわたしける。
 能登の前司これを聞き、やがて追つかけ、安芸の国へぞわたり給ふ。
 その日蓑島に着く。
 次の日、安芸の国沼田の城へぞ寄せたりける。
 河野の四郎と沼田の次郎とひとつになつて、二千余騎にてたて籠る。
 能登の前司三千余騎にて攻め給ふに、一日戦ひ暮らし、次の日、沼田の次郎矢種みな射尽くし、「かなはじ」とや思ひけん、兜をぬぎ弓をはづして、降人にこそなりにけれ。
 河野の四郎も二百余騎にて越えたりしが、五十騎ばかりに討ちなされ、なほも降人にはならずして、「船に乗らん」と沼田畷にかかり、浜をさして落ち行くほどに、能登殿の郎等に平八為貞といふ者、二百余騎にて追つかくる。
 返しあはせて、しばし戦ふ。
 主従七騎に討ちなされ、「助け船に乗らん」と江のかたへ落ち行くほどに、為貞が家の子讃岐の七郎義範、究竟の弓の上手にて、追つかけて、七騎を矢庭に五騎射落す。
 河野の四郎、主従二騎になりにけり。
 讃岐の七郎、河野が身にかへて思ひける郎等にひつ組んで落ち、取つて押さへて首をかかんとせしところに、河野そのとき十八になりけるが、返しあはせて、郎等が上なる敵の首かき切つて、田の中へ投げ入れ、郎等をば取つて肩にひき−かけ、そこを逃げのび、四国の地にこそわたりけれ。
 能登の前司、河野を討ちもらしたれども、沼田の次郎が、降人たるをあひ具して福原へこそのぼられけれ。
 また、淡路の国の住人、阿万の六郎忠景といふ者あり。
 これも源氏に心ざしありけるが、郎従百余人、大船二艘にとり乗つて、都へ上る。
 能登の前司これを聞き、小船二十余艘にとり乗つて、攻め給ふほどに、西の宮の沖にて追つかけたり。
 返しあはせ、しばし戦ふ。
 阿万の六郎「かなはじ」とや思ひけん、河尻へは入らずして、紀伊の地をさして落ち行くほどに、和泉の国吹飯の浦にぞ着きにける。
 紀伊の国の住人、園部の兵衛忠泰といふ者あり。
 これも源氏に心ざしありけるが、「阿万の六郎が平家に追はれて、和泉の国吹飯の浦にあり」と聞こえしかば、「それとひとつにならん」とて、六十騎にて馳せ越えて、阿万の六郎とひとつになる。
 能登の前司、二千騎にて和泉の国吹飯の浦に押し寄せ、攻め給ふほどに、一日戦ひ暮らし、夜に入りて、郎等どもにふせぎ矢射させて、阿万の六郎、園部の兵衛は都へ逃げのぼる。
 能登殿、ふせぐところの者ども五十余人が首をとつて、福原へこそ帰られけれ。
〔また、〕「豊後の国の住人、臼杵の次郎維高、緒方の三郎維義、伊予の国の住人河野の四郎通信、三人ひとつになり、三千余騎、備前の国まで攻めのぼり、今来の城に籠りたる」より告げたりければ、能登の前司一万余騎馳せくだり、今来の城に押し寄せ、三日と申すに、城のうちの者ども矢種射尽くし、打物の鞘をはづし、城の木戸をひらいて、うち出で戦ふこと度々におよぶといへども、平家はいよいよ大勢馳せかさなる。
 城のうちには、次第に落ちゆくほどに、「かなはじ」とや思ひけん、緒方の三郎、河野の四郎、城を落ち、河野は伊予の国へ〔わたり、〕臼杵、緒方は豊後の国へぞわたりける。
 能登の前司「いまは攻むべき者なし」とて、福原へこそのぼられけれ。
 大臣殿以下平家の一門、能登の前司このほど所々の合戦に、度々の巧名をぞ感じあはれける。
 正月二十八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝には、神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまつて承り、まかり出づ。
 同じく二月四日、福原には「故太政入道の忌日」とて、形のごとくの仏事おこなはれけり。
 朝夕のいくさに、過ぎゆく月日は知らねども、かぎりある去年は今年にうつりきて、憂かりし春にもなりにけり。
 世が世にてあらましかば、起立塔婆のくはだて、供仏、施僧のいとなみもあるべけれども、ただ男女の君達さしつどひて、泣くよりほかのことぞなき。
 このついでに、形のごとくの除目などおこなはれ、僧も俗も〔みな〕官なりにけり。
「門脇の平中納言教盛は、正二位して、大納言になり給ふべき」よし、大臣殿より御使ありけり。
 中納言、大臣殿の御返事に、
 今日までもあればあるかのわが身かはゆめのうちにもゆめを見るかな
とのたまひて、つひに大納言にはなり給はず。
 大外記中原の師貞が子、周防介師澄大外記になる。
 兵部少輔尹明、五位の蔵人になりて、いつしか「蔵人の少輔」とぞ申しける。
 むかし、将門が東八か国をうちなびかし、下総の国相馬の郡に都をたて、わが身を「平親王」と称して百官をなしたりしには、暦の博士ぞなかりける。
 それには〔これは〕似るべからず。
 故郷をこそ出でさせ給へども、主上、三種の神器を帯して、万乗の位にそなはり給へり。
 されば除目おこなはれけるも、ひが事にはあらざりけり。
「平氏すでに福原まで攻めのぼり、都へ入るべし」と聞こえしかば、平家の方さまの人々みなよろこび合はれけり。
 二位の僧都全真は、梶井の宮の年来の御同宿にてありけるが、西国より風のたよりには、文して申されけり。
 梶井の宮よりも御返事ありけるに、「旅のそら思ひやるこそ心ぐるしけれ。都もいまだしづかならず」なんどと、こまごまとあそばされ、奥に一首の歌ぞありける。
 人しれずそなたをしのぶ心をばかたぶく月にたぐへてぞやる
とあそばされければ、二位の僧都、これを顔に押しあてて、かなしみの涙せきあへず。 

第八十五句 三草山

 さるほどに、源氏は四日、一の谷へ寄すべかりしが、「故太政入道の忌日」と聞いて、仏事をおこなはせんがためにその日は寄せず。
 五日は西ふさがり。
 六日は道虚日。
 七日の卯の刻に摂津の国一の谷にて、源平矢合せとぞ定めける。
 七日の卯の刻に、大手、搦手の軍兵二手に分かつて、大手の大将軍、蒲の冠者範頼にあひしたがふ人々、佐竹の太郎信義、加賀見の次郎遠光、その子小次郎長清、板垣の三郎兼信、逸見の四郎有義、胆沢の五郎信光、山名の次郎兼義、〔同じく三郎義行。〕侍大将には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、畠山の庄司次郎重忠、長野の三郎重清、稲毛の三郎重成、榛谷の四郎重朝、森の五郎行重、小山の四郎朝政、長沼の五郎宗政、結城の七郎朝光、小野寺の禅師太郎道綱、佐貫の四郎大夫広綱。
 児玉党には、庄の三郎忠家、同じく四郎高家、塩屋の五郎惟広、勅使河原の五三郎有直、中村の五郎時綱、椎名の次郎有胤、曾我の太郎祐信、河原の太郎高直、同じく次郎守直、久下の次郎重光、小代の八郎行平、藤田の三郎大夫行康、江戸の四郎、玉の井の四郎を先として、都合その勢五万余騎。
 四日の卯の刻に都をたつて、その日の申酉の刻には摂津の国昆陽野に陣をとる。
 搦手の大将軍、九郎義経にあひしたがふ人々、大内の太郎維義、安田の三郎義定、村上の判官代基国、田代の冠者信綱。
 侍大将には、土肥の次郎実平、その子太郎遠平、和田の小太郎義盛、同じく五郎義茂、佐原の十郎義連、天野の次郎直経、河越の小太郎重房、師岡兵衛重綱、熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、小川の二郎助義、大川戸の太郎弘行、岡部の六野太忠澄、猪俣、金子の十郎家忠、同じく与市近範、渡柳弥五郎清忠、別府の小太郎清重、多々良の五郎義春、その子太郎光義、片岡の太郎親経、同じく八郎為治。
 御曹司の手〔の〕郎等には、鈴木の三郎重家、亀井の六郎重清、源八広綱、熊井の太郎、江田の源三、奥州の佐藤三郎嗣信、同じく四郎忠信、伊勢の三郎義盛、武蔵房弁慶を先として、都合その勢一万余騎。
 同日、同時、都をたつて、丹波路にかかつて、二日路を一日にうつて、その日播磨と丹波とのさかひなる三草山の東の山口、小野原にこそ着き給へ。
 御曹司、土肥の次郎を召して、「平家は、小松の新三位の中将、同じく少将、丹後の侍従、備中守。侍には、平内兵衛、江見の次郎。三千余騎にて、これより三里へだてて西の山口をかためたんなり。今夜寄すべきか、明日の合戦か」とのたまへば、田代の冠者すすみ出でて申されけるは、「平家は、さ様に三千余騎にて候ふなり。味方は一万余騎、はるかの利にて候ふものを。明日の合戦にのべられ候はんに、平家に勢つきなんず。夜討よからんとこそおぼえ候へ。これいかに、土肥殿」と申せば、土肥の次郎、「いしうも申させ給ひたる田代殿かな。実平も、かうこそ申したう候ひつれ」とぞ申したる。
 この田代の冠者と申すは、伊豆の国のさきの国司、中納言為綱の卿の子なり。
 母は狩野の工藤の介茂光が娘なり。
 これを思ひまうけたりしを、母方の祖父にあづけて、弓矢取りには、なされけり。
 先祖をたづぬるに、後三条の院の第三の皇子、輔仁の親王五代の孫なり。
 俗姓もよかりけるうへ、弓矢取つてもならびなし。
 二日路を一日にうつて、馬、人みなつかれたれども、「さらば寄せよ」とて、みなうち立ちけり。
 兵ども、「暗さはくらし、知らぬ山路にかかつて、松明なうてはいかにすべき」と口々に申しければ、御曹司、土肥の次郎を召して、「いつもの大松明はいかに」とのたまへば、土肥の次郎「さること候」とて、小野原の在家に火をぞつけたりける。
 そのほか、野にも山にも、草にも木にも火をつけたれば、昼にはすこしもおとらず。
 平家は三千余騎にて、西の山口をかためらる。
 先陣はおのづから用心するもあり、後陣の者どもは、「〔さだめて〕明日の合戦にてぞあらん。いくさもねぶたいは、大事のものぞ。よく寝て、明日いくさせよ」とて、あるいは兜を枕にし、あるいは鎧の袖、箙なんどを枕にして、前後もしらずぞ寝たりける。
 思ひもかけぬ寅の刻ばかりに、源氏一万余騎、三里の山をうちこえて、西の山口へ押し寄せ、鬨をどつとぞつくりける。
 平家あわてさわぎ、「弓よ」「矢よ」「太刀よ」「刀よ」と言ふほどに、源氏、なかをざつと駆けやぶりて通る。
「われ先に」と落ちゆくを、追つかけ、追つかけ、散々に射る。
 平家の勢、そこにて五百余人討たれけり。
 小松の〔新〕三位の中将、同じく少将、丹後の侍従、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より船に乗つて、讃岐の屋島へ渡り給ふ。
 備中の前司は、平内兵衛、江見の四郎を召し−具して、これより一の谷へ参りて、合戦の次第を申せば、大臣殿おほきにおどろき給ひて、一門の人々のかたへ、「九郎義経が向かひて候ふ。三草の手、すでに敗れ候。人々向かはせ給へ」とありければ、「山の手は大事に候」とて、みな辞退せられけり。
 そののち能登殿のもとへ使者をたて給ひて、「三草の手すでに敗れて候。『人々向かはせ給へ』と申せども、『山の手は大事に候』とて、みな辞退せられ候ふなり。『盛俊向かへ』と申せば、『大将軍一人ましまさではかなふまじき』よし申す。度々のことにて候へども、御辺向かはせ給ひなんや」とありければ、能登殿の御返事に、「いくさと申すものは、人ごとに『われ一人が大事』と思ひきつてこそよく候へ。さ様に、狩、すなどりのやうに、『足だちのよからん方へは、われ向かはん。あしき方へは向かふまじき』なんど候はんには、いつもいくさに勝つことは候ふまじ。何が度にても、教経命のあらむかぎりは、いかに強う候ふとも、一方はうけたまはつて打ちやぶり候はん」とぞ申されける。
 大臣殿おほきによろこび給ひて、越中の前司盛俊を先として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。
〔兄の〕越前の三位通盛とうちつれて、鵯越のふもとに陣をぞとり給ふ。
 平家も四日に、大手、搦手二手に分けてつかはさる。
 大手の大将軍には、新中納言知盛、本三位の中将重衡、その勢四万余騎にて、大手生田の森にぞ向かはれける。
 搦手の大将軍は、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて〔一の谷の〕西の手へぞ向かはれける。
 五日の夜に入りて、生田の方より雀の松原、御影の松、昆陽野の方を見わたせば、源氏、手々に陣をとりて、かがりをたくこと、晴れたる空の星のごとし。
 平家も「向かひ火をたけや」とて、生田の森にもたいたりけり。
 ふけゆくままに見わたせば、沢辺のほたるにことならず。
 越前の三位通盛は、弟能登殿の屋形に女房を請じて臥し給へり。
 能登殿おほきに怒つて、「さらぬだに、この手をば大事の手とて、教経を向けられて候。まことに強かるべし。ただいまにても候へ、上の山より、敵ざつと落して候はんときは、弓は持ちたりとも、矢をはげずはかなひがたし。矢ははげたりとも、おそく引かばなほも悪しかりぬべきところなり。ましてさ様にうちとけさせ給ひては、何の詮にかたたせ給ふべき」といさめられて、三位やがて物具して、いそぎ女房を返されけるとかや。
 この女房と申すは、つひに同じ道におもむき給ひし女房なり。
 源氏は、「七日の卯の刻矢合せ」と定めければ、かしこに陣とり、馬やすめ、ここに陣とり、馬を飼ひなんどしていそがず。
 平家はこれを知らずして、「いまや寄す」「いまや寄す」とやすき心もなかりけり。
 六日のあけぼの、九郎義経一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎を大将として、七千余騎をば一の谷の西の手へさし向けらる。
 わが身は三千余騎にて一の谷のうしろ、摂津の国と播磨のさかひなる鵯越、搦手にこそ向かはれけれ。
 兵ども、「これは聞こゆる悪所にてあり。敵に合うてこそ死にたけれ。悪所に落ちて死にたらんは無下のことかな」、「あつぱれ、案内知りたる者やある」と口々に申すところに、平山の武者所季重すすみ出でて申しけるは、「この山の案内は、季重こそ知つて候へ」と申す。
 御曹司、「さもあれ、坂東そだちの人の、いまはじめて見る西国の山の案内はしるべからず」とぞのたまひける。
 平山申しけるは、「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、初瀬の花のころは歌人これを知る。敵の籠りたる城のうしろの案内をば、剛の者が知り候」とぞ申しける。
 御曹司「これまた傍若無人なり」とぞ笑はれける。
 また、武蔵の国の住人別府の小太郎清重とて、生年十八歳になる小冠者、御前にすすみ出でて申しけるは、「親にて候ふ入道の教へ候ひしは、『敵にもとり籠められ、山越えの狩をもして深山にまよひたらんときは、老馬に手綱をむすんでうちかけ、さきに追つたてて行け。かならずこの馬は道に出でんぞ』と教へ候ひしか」と申しければ、御曹司、「やさしうも申したるものかな。『雪は野原をうづめども、老いたる馬ぞ道は知る』といふ心なり。さらば」とて、白葦毛なる馬に白覆輪の鞍おいて、手綱むすんでうちかけ、さきに追つたてて、一度も知らぬ深山へこそ入り給へ。
 ころはきさらぎはじめのことなりければ、峰の雪むら消えて、花かと見ゆるところもあり。
 谷のうぐひすおとづれて、霞にまよふところもあり。
 のぼれば白雲皓々として峰そびえ、くだれば青山峨々として岸高し。
 松の雪だに消えやらず、苔のほそ道かすかなり。
 嵐のさそふをりをりは、梅の花かともまたおぼえたり。
 山路に日暮れければ、「今日はいかにもかなふまじ」とて、兵どもみな馬よりおりて陣をとる。
 武蔵房弁慶、ある老翁を一人具して、御曹司の御前に参りたり。
「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「この山のふるき猟師にて候」と申す。
「さては案内知りたるらん。これより平家の城へ落さんと思ふはいかに」とのたまへば、「思ひもよらぬことに候。『三十丈の岩崎、十五丈の岸』なんどと申し候へば、人のとほるべき様も候はず。まして御馬は、いかでかかなひ候ふべき」と申せば、「鹿のかよふことはなきか」と問ひ給ふ。
「鹿はおのづからかよひ候。世間だにあたたかになり候へば、草の深きに伏さんとて、丹波の鹿は播磨のいなみ野へかよひ候。ときどきこの谷をとほり候」と申す。
「さて鹿のかよはん所を、馬のかよはん様やあるべき。なんぢやがてしるべせよ」とのたまへば、「この身は年老い、かなふまじき」よしを申す。
「子はないか」。
「候」とて、熊王丸と申して生年十六歳になるを奉る。
 やがて物具せさせ、馬に乗せて案内者に具せらる。
 父を鷲の尾の庄司武久と申しければ、これを元服せさせて、義経の「義」をや賜びけん、「鷲の尾の十郎義久」とぞ名のりける。
 御曹司、鎌倉殿と仲ちがうて奥州にて討たれ給ひしとき、「鷲の尾の十郎義久」とて討死しける者なり。 

第八十六句 熊谷・平山一二の駆

 熊谷の次郎直実は、そのときまでは搦手に候ひけるが、その夜の夜半ばかりに、嫡子の小次郎を呼うで申しけるは、「いかに小次郎。思へばこの手は、悪所を落さんずるとき、うちごみのいくさにて、すべて『誰さき』といふことあるまじきぞ。いざや、これより播磨路に出でて、一の谷の先を駆けん」と言ふ。
 小次郎、「よく候はん。向かはせ給へ」と申す。
「まことや、平山もうちごみのいくさを好まぬぞ。見てまゐれ」とて郎等をやりたれば、案のごとく、平山は、はや、物具して、誰に会つて言ふともなく、「今度のいくさに、人は知らず、季重においては一足も引くまじきものを」と、ひとりごとをぞ言ひける。
 下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食ひかな」とて打ちければ、平山、「さうなせそ。季重、明日は死なんぞ。その馬のなごりも今夜ばかり」とぞ言ひける。
 郎等走りかへりて、「かうかう」とぞ言ひける。
 熊谷「さればこそ」とて、うちたちけり。
 熊谷は、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着、紅の母衣かけて、「権田栗毛」といふ馬に乗り、嫡子の小次郎は、沢瀉をひと摺り摺つたる直垂に、伏繩目の鎧着て、黄瓦毛なる馬にぞ乗つたりける。
 旗差は、麹塵の直垂に、小桜を黄にかへたる鎧着て、「西楼」といふ白月毛なる馬にぞ乗つたりける。
 主従三騎うちつれて、一の谷をば弓手に見なし、馬手へあゆませ行くほどに、年来人もかよはぬ「田井の畑」といふ古みちをとほりて、播磨路の波うちぎはへぞうち出でたる。
 土肥の次郎実平は、「卯の刻の矢合せ」と定めたりければ、いまだ寄せず、七千余騎にて塩屋尻といふ所にひかへたり。
 熊谷は、土肥の次郎が大勢にうちまぎれて、そこをづんどうち通りて一の谷へぞ寄せたりける。
 いまだ寅卯の刻ばかりのことなりければ、敵の方にも音もせず。
 味方の勢一騎も見えず。
 静まりかへつてありしところに、熊谷言ひけるは、「剛の者はかならずわればかり、と思ふべからず。この辺にひかへて、夜の明くるをや待つ人もあらんぞ。いざや、人の名のらぬさきに名のらん。小次郎」とて、木戸のきはにあゆませ寄せて、大音声をあげて名のりけるは、「つたへても聞くらん、武蔵の国の住人熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、一の谷の先陣ぞや」とぞ名のりける。
 敵の方にはこれを聞き、「音なせそ。ただ敵が馬の足を疲らかさせよ。矢種を尽くさせよ」とて、音する者もなかりけり。
 さるほどに、武者こそうしろにつづいたれ。
「誰そ」と問へば、「季重」と名のる。
「平山殿か。直実これにあり」。
「いかに、熊谷殿か。いつより候」と問へば、「直実は、宵より」とぞこたへける。
 そのとき平山、うち寄せて申しけるは、「さればこそ、季重も、とう寄すべかりつるが、成田の五郎にたばかられて、いままで遅々して候ぞ。『死なば平山殿と一所にて死なん』とちぎるあひだ、うち連れたりつるが、成田がこよひ言ふ様は、『いたう、平山殿、先駆け早く、なし給ひそ。いくさの先を駆くるは、味方の大勢をうしろにおきて駆けたればこそ、高名、不覚のほどもあらはれておもしろけれ。味方の勢一騎も見えで、雲霞のごとくの大勢の中に駆け入つて討たれては、されば何の詮ぞ』と制するあひだ、『げにも』と思ひ、連れてうつほどに、小坂のある所を、つとうちのぼせ、馬をくだりがしらになして、味方の勢を待つところに、成田も同じくうちのぼせて、『ものを言ひ合はせんずるか』と思うたれば、季重をすげなげに見なして、そこをつとうち延びて、やがてただ延びに先へ行くあひだ、『あつぱれ。きやつは季重をたばかつて、先を駆けんとするよ』と心得て、五六段先だつたりつるを、ひと揉み揉んで追つついて、『季重ほどの者をば、どこをたばかるぞ、わ殿は』と言うて、うちすぎて寄せつれば、季重が馬はるかにまさりたり、その人には、うしろ影よも見えじ」とぞ申しける。
 夜はすでにほのぼのと明けゆけば、熊谷さきに名のりたれども、「平山が名のらぬさきに、名を名のらばや」と思うて、また木戸のきはにあゆませ寄せて、「武蔵の国の住人熊谷の次郎直実、嫡子小次郎直家、一の谷の先陣ぞや。平家の侍のなかに、われと思はん殿ばらは駆け出でよや。見参せん」とぞ申しける。
 平家の侍ども、これを聞き、「よもすがらののじる熊谷親子、ひつさげて来ん」とて、進む者ども誰々ぞ。
 越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、上総の悪七兵衛景清を先として、究竟の者ども二十三騎、木戸をひらいて駆け出でたり。
 平山は熊谷がうしろにひかへたり。
 されば城のうちの者ども、熊谷よりほか、敵ありとも知らざりけるに、平山は敵の木戸をひらいて出づるを見て、重ね目結の直垂に、緋縅の鎧着て、白母衣かけて、上総介が許より得たりける「目糟毛」といふ馬にぞ乗つたりける。
 旗差は、洗革の鎧に兜をば猪首に着なして、銹月毛なる馬に乗る。
 鐙ふんばり、つつ立ちあがり、「保元、平治両度の合戦に名をあげたる、武蔵の国の住人平山の武者所季重」と名のつて、熊谷が先を馳せすぎて、二十三騎が中へをめいて駆け入る。
 城のうちの者ども、「熊谷ばかりと思うたれば、こはいかにしても討ちとらん」とののじりけり。
 熊谷これを見て、「平山を討たせじ」とつづいて駆く。
 平山駆くれば熊谷つづく。
 熊谷駆くれば平山つづく。
 二十三騎の者どもを中にとり籠めて、火の出づるほどぞ戦ひける。
 二十三騎の者どもは手痛う駆けられて、城のうちへざつと引き、敵 を外ざまになしてぞ戦ひける。
 熊谷は馬の腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖ついており立つたり。
 嫡子の小次郎は、掻楯のきはへ馬の鼻をつかするほど攻め寄つて、「熊谷の小次郎直家、生年十六歳」と名のつて戦ひけるが、弓手のかひなを射させて引きしりぞき、馬よりおり、父と並んでぞ立つたりける。
 熊谷これを見て、「なんぢは手負うたるか」「さん候。弓手のかひな射させて候。〔矢〕抜いてたべ」と申せば、熊谷、「しばし待て。ひまもないぞ。つねに鎧づきせよ。矢に裏かかすな。つねに錣をかたぶけよ。内兜射さすな」と教へてぞ戦ひける。
 熊谷、鎧に立つたる矢ども折りかけて、城のうちをにらまへてののじりけるは、「去年の冬のころ、鎌倉を出でしより、命は兵衛佐殿にたてまつる。かばねを戦場にさらさんと思ひきつたる直実ぞや。室山、水島二か度のいくさに高名したりと名のるなる、越中の次郎兵衛はないか。上総の五郎兵衛はないか。悪七兵衛景清はないか。能登殿はおはせぬか。高名も敵によつてこそすれ。人ごとに合うてはえせぬものを。直実に落ちあへや、落ちあへや」とぞののじりける。
 越中の次郎兵衛はこれを聞き、紺村濃の直垂に、緋縅の鎧着て、白川原毛なる馬に乗り、「熊谷に組まん」と、しづかにあゆませて向かひけるが、熊谷これを見て、「中を割られじ」と親子間もすかさず立ち並んで、肩を並べ、太刀をひたひにあて、うしろへは一引きも引かず、いよいよ先へぞ進みける。
 盛嗣これを見て、「かなはじ」とや 思ひけん、とつて返す。
 熊谷、「越中の次郎兵衛とこそ見れ。敵にうしろを見せぬものを。直実に落ちあへや」とことばをかけけれども、「をこの者」と言うてひき返すを、悪七兵衛これを見て、「きたない殿ばらのふるまひかな」とて、すでに「落ちあうて組まん」と出でけるを、「君の御大事、これにかぎるまじ。あるべうもなし」とてとりとどめければ、力におよばず出でざりけり。
 そののち熊谷は、乗替に乗つて城のうちへ駆け入り、平山も熊谷親子が戦ふまぎれに、馬の息を休めて、これもやがてつづいて駆け入る。
 城のうちの者ども、馬に乗るはすくなし。
 みな歩だちになり、櫓の上より矢先をそろへ散々に射る。
 されども味方はおほし、敵はすくなし。
 矢にもあたらず駆けまはる。
「ただ押し並べて組めや。組めや」と、櫓の上より下知しけれども、平家の馬は、乗ることは繁う、もの飼ふことはまれに、船にはひさしく立つたり、みな竦んでよりつきたる様なり。
 熊谷、平山が馬にひと当て当てては蹴倒さるべければ、押し並べても組まざりけり。
 平山は郎等を討たせて敵の中へ割つて入り、やがてその敵討つてぞ出でたりける。
 熊谷も分取あまたしたりけり。
 熊谷先に寄せたれども、木戸をひらかねば駆け入らず。
 平山のちに寄せたれども、木戸をひらきたれば駆け入りぬ。
 さてこそ「熊谷、平山一二の駆け」をあらそひけれ。
 さるほどに、成田五郎も出で来る。
 土肥の次郎七千余騎にて押し寄せ、鬨をどつとつくる。
 熊谷、平山は引きしりぞいて、駒の息をぞ休めける。

第八十七句 梶原二度の駆

 大手生田の森には蒲の冠者範頼、その勢五万余騎。
「卯の刻の矢合せ」と定めければ、いまだ寄せず。
 その手に、武蔵の国の住人、河原の太郎、河原の次郎とて兄弟あり。
 河原太郎、弟の次郎を呼うで申しけるは、「いかに次郎殿。卯の刻の矢合せと定まつたれども、あまりに待つが心もとなうおぼゆるぞ。敵を目の前におきながら、いつを期すべきぞや。弓矢取る法は、かうはなきものを。高直、鎌倉殿の御前にて『討死つかまつらんずる』と申したることがあるぞ。されば城のうちを入りて見ばやと思ふなり。わ殿生きて、証人に立て」と言へば、次郎申しけるは、「口惜しきことをのたまふものかな。ただ兄弟あらんずるものが、『兄を討たせて証拠に立たん』と申さんずる、弓矢取る法に『よし』と言ひ候ひなんや。守直とても討死せんずるに、同じくは一所にこそいかにもならん」と言ふあひだ、力およばで、河原太郎「さらば」とて、下人ども呼び寄せ、故郷にとどめおく妻子のもとへこの様ども言ひつかはし、「馬ども、なんぢらに取らする。生あるものなれば、命あらんほどは形見とすべし」とて、馬にも乗らず、下人も具せずして、ただ二人芥芥をはき、逆茂木乗り越えて、城のうちにぞ入りたりける。
 いまだ暗かりければ、鎧の毛もさだかに見えわかず。
 河原太郎兄弟、立ち並うで名のりけるは、「武蔵の国の住人、私の党、私市の高直、同じく次郎守直。源氏大手の先陣ぞや」とぞ名のりける。
 平家の方にはこれを聞き、どつと笑う て申しけるは、「東国の者どもほど、すべて恐ろしかりけるものはなし。これほどの大勢の中に、ただ二人入りたらば、何ほどのことかあるべき。その者ども、しばし置いて愛せよ」とぞ申しける。
 河原兄弟、立ち並びて、さしつめ、引きつめ、散々に射る。
 究竟の手だれなりければ、矢ごろにまはる〔ほどの〕者は外るることなし。
「この者、愛しにくし。今は射とれや、若党」とて、備中の国の住人、真鍋の四郎、真鍋の五郎とて、強弓の精兵兄弟あり。
 五郎は一の谷に置かれたり。
 四郎は生田の森に候ひしが、これを見て、よつ引いて射る。
 河原太郎が左のわきを右のわきへ、づんど射通されて、弓杖にすがつて立つところに、弟の次郎これを見て、「敵に首を取らせじ」とや思ひけん、つと寄つて兄を肩に引つかけ、逆茂木乗り越えけるを、真鍋の四郎、二の矢をつがうて放つ。
 河原の次郎が右の膝口射させて、兄と同じ枕に倒れけり。
 真鍋が郎等二人、打物の鞘をはづいて出で、河原兄弟が首を取つてぞ入りにける。
 河原が下人ども、「河原殿は、はや城のうちへ入りて、討たれさせ給ひて候」と呼ばはりければ、梶原平三これを聞き、「あな、無慚や。これは、私の党の殿ばらが不覚にてこそ、河原兄弟は討たせたれ。あたら者どもを」と言うて、城の木戸のわきに押し寄せ、足軽ども寄せて逆茂木引きのけさせ、五百騎轡を並べ、をめいて駆け入る。
 梶原が次男、平次景高、あまりに進んで駆けければ、大将軍、使者をたて給ひて、「後陣のつづかぬに先駆けしたらん者は、勲功あるまじき ぞ」とのたまへば、平次ひかへて、「御返事に、
 もののふのとり伝へたる梓弓ひいては人のかへるものかは と申させ給へ」と言ひすてて、をめいて駆け入る。
 これを見て、「平次討たすな」とて、父の平三、兄の源太つづいて駆け入る。
 新中納言これを見給ひて、「梶原は東国に聞こえたる兵ぞ。漏らすな、討ちとれ」とて、大勢の中におつとり籠め、ひと揉み揉んで攻め給ふ。
 梶原も命も惜しまず、をめきさけんで戦ひけり。
 五百余騎が五十騎ばかりに駆け散らされて、ざつと引いてぞ出でたりける。
 その中に景季は見えず。
 梶原、「景季は」と問へば、郎等ども、「源太殿は敵の中にとり籠められて、はや討たれさせ給ひて候ふにこそ。見えさせ給はず」と申す。
 梶原、「世にあらんと思ふも、子どもを思ふがためなり。源太討たせ、景時世にありても何かせん。さらば」と言ひて、とつて返す。
 鐙ふんばりつい立ちあがり、大音声をあげて、「昔、八幡殿の、三年の合戦に、出羽の国千福金沢の城を攻め給ひけるに、十六歳にてまつ先駆け、左のまなこを鉢付の板に射つけられながら、答の矢を射てその敵を射落し、名を後代にあげし鎌倉の権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵とは知らずや」とて、をめいて駆け入る。
 敵もこれを聞いて、中をざつとあけてぞ通しける。
「源太いづくにあるらん」と駆けまはつてたづぬれば、源太は馬を射させてかちだちになり、兜をうち落され、大童になつて、二丈ばかり の岸をうしろにあて、郎等二人左右に立て、敵五人にとり籠められ、「ここを最後」と戦ひけり。
「景季いまだ討たれざりけり」と、うれしさに、急ぎ馬より飛んでおり、「景時これにあり。死ぬとも敵にうしろばし見すな」と言ひて、つと寄り、五人の敵を三人討ちとり、二人に手負うせて、「弓矢取る身は、駆くるも引くもをりによるぞ。いざやれ。源太」とて、かい具してこそ出でたりけれ。
 これを「梶原が二度の駆け」とは申すなり。
 そののち、秩父、足利、三浦、鎌倉。
 党には児玉、猪俣、野与、山口、小沢、横山。
 あるいは五百騎、〔三百騎。〕あるいは百騎、二百騎。
 色々の旗さしあげて、名のりかへ、名のりかへ、戦ひけり。
 源平の兵乱れあひて、白旗、赤旗あひまじへ、両方をめきさけぶ声、山をひびかし、馬の馳せちがふ音は雷のごとし。
 敵とひつ組んで落ち、たがひに刺しちがへて死ぬるもあり。
 首を取るもあり、取らるるもあり。
 薄手負うて戦ふもあり、手負ひ武者をば肩にかけて、敵も味方もうしろへ引きのき、分取して出づるもあり。
 源平いづれも隙ありとも見えざりけり。

第八十八句 鵯越

 源氏大手ばかりにては勝負あるべしとも見えざりければ、七日の卯の刻に、九郎義経、三千余騎にて一の谷のうしろ、鵯越にうちあがつて、「ここを落さん」とし給ふに、この勢にや驚きたりけん、大鹿二つ、一の谷の城のうちへぞ落ちたりける。
「こは いかに。里近からん鹿だにも、われらにおそれて山深くこそ入るべきに、ただいま鹿の落ち様こそあやしけれ」とて騒ぐところに、伊予の国の住人、高市の武者清教、「何にてもあれ、敵の方より出で来んものをあますべき様なし」とて、馬にうち乗り、弓手にあひつけて、先なる大鹿のまつ中射てぞとどめける。
 やがて二の矢を取つて、次なる鹿をも射とめたり。
「思ひもよらぬ狩したり」とぞ申しける。
 越中の前司、「詮ない、殿ばらのただ今の鹿の射様かな。罪つくりに。矢だうないに。ただ今の矢一つにては、敵十人はふせがんずるものを」とぞ制しける。
 九郎義経、鞍置馬を二匹追ひ落されたりければ、一匹は足うち折りてころび落つ。
 一匹は相違なく平家の城のうしろへ落ちつき、越中の前司が屋形の前に、身ぶるひしてぞ立つたりける。
 鞍置馬二匹まで落ちたりければ、「あはや、敵の向かふは」とて騒動す。
 義経、「馬どもは、主々が乗つて心得て落さんずるには、損ずまじきぞ。義経は、すは、落すぞ」とて、まつ先にこそ落されけれ。
 白旗三十流ばかりさし上げて、三千騎ばかりつづいて落す。
 後陣に落す人々の鐙の鼻、先陣に落す人の鎧、兜に当るほどなり。
 えいえい声を忍び忍びに力をつけ、小石まじりの真砂なれば、流れ落しに二町ばかりざつと落ちて、壇なる所にひかへたり。
 それより下を見くだせば、大磐石苔むして、釣瓶だちに十四五丈ぞ見くだしたる。
 兵ども、「今はこれより引き返すべき様もなし。ここを最後」と言ふところ に、三浦の佐原の十郎義連、「きたなしや、殿々。三浦の方にては、鳥ひとつ立てても、朝夕かかる所をこそ馳せありきけれ。思へばこれは、三浦の方の馬場よ」と言うて、まつ先にこそ落しけれ。
 これを見て、大勢やがてつづいて落す。
 あまりのいぶせさに、目をふさいでぞ落しける。
 おほかた人のしわざとはおぼえず。
 ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。
 落しもあへず、鬨をどつとつくる。
 三千余騎が声なれども、山びこ答へて、数万騎とこそ聞こえけれ。
 落しもあへず、信濃源氏村上の三郎判官代基国が手よりして、平家の屋形に火をかけたれば、をりふし風はげしく吹いて、黒けぶり押しかけたり。
 兵ども煙にむせて、射落し引き落さねども、馬より落ちふためき、あまりにあわてて、まへの海へ向いてぞ馳せ入れける。
 助け船多かりけれども、物具したる者どもが、船一艘に、四五百人、五六百人、「われ先に」とこみ乗らんに、なじかはよかるべき。
 なぎさより五六町押し出だすに、一人も助からず。
 大船三艘しづみにけり。
 そののちは、「しかるべき人々をば乗すとも、雑人どもをば乗すべからず」とて、さるべき人をば引き乗せ、雑人どもをば、〔太刀、〕長刀にて船を薙がせけり。
 かかることとは知りながら、敵に合うては死なずして、「乗せじ」とする船に取りつき、つかみつき、腕うち切られ、あるいは肘うち落されて、なぎさに倒れ伏してをめきさけぶ声おびたたし。
 能登守教経は一度も不覚せぬ人の、「今度はいかにもかなはじ」とや思はれけん、「薄墨」といふ馬に乗つて、播磨の明石へ落ち給ふ。
 兄越前の三位通盛 は、近江の国の住人、佐々木の木村の源三成綱といふ者に、七騎が中にとり籠められて、つひに討たれ給ひけり。
 越中の前司盛俊は、木蘭地の直垂に、赤革縅の鎧着て、白月毛なる馬に乗り、落ちゆくが、「いづちへ行かば遁るべきか」と思ひければ、ひかへて敵を待つところに、猪俣の近平六則綱、「よき敵」と目をかけて、鞭をあげ、馳せ寄せ、おし並べて組んで落つ。
 越中の前司、平家の方には「七十人が力あらはしたり」といふ大力なり。
 猪俣、東八か国に聞こえたる強者なれども、越中の前司が下になる。
 あまりに強く押さへられて、もの言はんとすれども声も出でず、刀を抜かんと、柄に手をかくれどもはたらき得ず。
「これほど則綱を手ごめにしつべき者こそおぼえね。あつぱれ、これは平家の方に聞こふる越中の前司やらん」と思ひければ、力はおとつたれども、剛の者にてあるあひだ、すこしもさわがざる体にて、「そもそも御辺は、平家の方にてはさだめて名ある人にてぞおはすらん。敵を討つといふは、われも人も名のつて聞かせ、敵にも名のらせて討ちつればこそおもしろけれ」。
 越中の前司、やすらかに、思ひて「これは越中の前司盛俊なり。もとは平家の一門なりしが、今は侍になりたり。わ君は誰そ。名のれ。聞かん」と言ひければ、「武蔵の国の住人、猪俣の近平六則綱と申す者にて候。助けさせ給へ。平家すでに負軍とこそ見えさせ給ひて候へ。もし源氏の世となり候はば、御辺の一家、したしき人々何十人もましませ、則綱が勲功の賞に申しかへ て、助けたてまつらん」と申しければ、「憎い君が申し様や。盛俊、身こそ不肖なれども、さすがに平家の一門なり。いまさら源氏をたのまんとは思はぬものを」と言ひて、やがてとつて押さへ、首をかかんとするあひだ、猪俣「かなはじ」と思ひて、「まさなしや。降人の首切る様や候ふ」と言はれて、「さらば」とて引き起す。
 田の畔のある所に、腰うちかけてゐたり。
 うしろは山田の泥深かりけり。
 まへは干あがつて畑の様なる所に足さしおろし、二人物語りして息つぎゐたるところに、黒革縅の鎧着て、鹿毛なる馬に乗つたる武者一騎、歩ませて出で来たる。
 越中の前司これを見て、「あれは誰そ」と問へば、「くるしうも候ふまじ。則綱がしたしき者に、人見の四郎と申す者にて候。則綱をたづねて来り候ふらん」と言へども、そばなる猪俣をうち捨てて、今の敵をいぶせげに思ひて、目もはなさずまぼるところに、「あつぱれ。あれが近うなるほどならば、則綱いま一度組まんずるものを。組むほどならば、人見落ちあひて力合はせぬことはあらじ」と思ひて待つところに、人見が次第に近くなるあひだ、猪俣つつ立ちあがり、力足を踏んで、こぶしを握つて盛俊が胸板をちやうど突く。
 思ひもかけぬことなれば、うしろの水田へあふのけに突き入れられ、起きあがらんとするところに、猪俣うへにむずと乗りかかり、やがて敵が刀を抜いて、草摺引きあげ、「柄も、こぶしも、通れ。通れ」と、三刀刺して首をとる。
 人見の四郎落ちあうたり。
「論ずるところもあらば」と思ひて、盛俊が首、太刀の先につらぬき、さし上げて、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。 武蔵の国の住人、猪俣の近平六則綱、平家の方に聞こゆる越中の前司をば、かうこそ討て」と高らかに名のつて、その日の巧名の一の筆にぞつきにける。

第八十九句 一の谷

 一の谷の西の手をば、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にてふせがれけるが、「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、いとさわがで落ち給ふ。
 猪俣党に岡部の六野太忠澄、薩摩の前司におし並べて組んで落つ。
 天性、忠度は大力のはやわざにてましましければ、岡部の六野太を、馬の上にて二刀、落ちつくところにて一刀、三刀までこそ刺し給へ。
〔されども〕鎧よければ裏かかず。
 上になり、下になり、ころび合ふところに、岡部が郎等出で来たつて、薩摩守の右のかひなをうち落す。
 薩摩の前司「今はかう」とや思はれけん、「しばしのけ。十念となへて斬られん」とて、左の手にて六野太を弓杖ばかりつきのけて、西に向かひ、高声に念仏となへ給ひて、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とのたまひて、果てざるに、六野太うしろより首を討つ。
 六野太、首を取り〔たれども〕、誰とも知らず。
「これは平家の一門にてぞおはすらん。名のらせて討つべかりつるものを」と思ひて見けるに、高紐にひとつの文をつけられたり。
 これを解いて見れば、「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌をぞ書かれたる。
 行き暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならまし
 と書いて、「薩摩守忠度」と書かれたるにぞ知りてんげる。
 そのとき、「武蔵の国の住人、岡部の六野太。薩摩守忠度を、かうこそ討ちたてまつれ」と名のりければ、「いとほしや。平家の一門の中には、歌道にも武芸にも達者にてましましつるものを。さては、はや討たれ給ひけるにこそ」とて、敵も味方も涙をながし、袖をしぼらぬはなし。
 新中納言知盛は、生田の森を東に向かひてふせがれけり。
「源平の勝負あるべし」とも見えざりけるに、一の谷より乱れ入りたる勢の中に、児玉党より、新中納言に使者を奉る。
「一の谷の西の手も、山の手も、すでに敗れて候。うしろは御覧候はぬか」と申したりければ、うしろをかへりみ給ふに、黒煙おしかけたり。
 そのとき、四万余騎の大勢、あわて騒ぎて落ちぞ行く。
 ここに、中納言は、武蔵の国司にておはせしかば、そのよしみによつて、児玉党、かうは申したりけるとかや。
 本三位の中将〔重衡も〕、国々のかり武者なれども、一万余騎にておはしけるが、みな落ちて、主従二騎にぞなり給ふ。
 褐に白糸にて群千鳥ぬうたる直垂に、紫裾濃の鎧着て、大臣殿の秘蔵し給ひたる「童子鹿毛」といふ馬に乗り給へり。
 乳人の後藤兵衛盛長は、三つ目結の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将の秘蔵せられたる「夜目無月毛」にぞ乗つたりける。
 なぎさに船は浮かべたれども、うしろに敵つづいたり、乗るべきひまなければ、西をさしてぞ落ち給ふ。
 児玉党、庄の四郎高家、「よい敵」 と目をかけて、鞭をあげ、追つかけたてまつる。
 三位の中将、究竟の馬には乗り給へり、湊川、苅藻川を馳せ渡り、駒の林を弓手にして、蓮の池をば馬手になし、うち過ぎ、うち過ぎ行くほどに、須磨の関屋も近づきぬ。
 庄の四郎、「長追ひして、追つつくべしともおぼえず。ただ、延ばしに延ばしたてまつるよ」と、思ひければ、馳せ引きによつ引いて、遠矢に「もしや」と、ひやうど射る。
 三位の中将の馬の、三頭に射つけたり。
 後藤兵衛、主の馬に矢の立つを見て、「わが馬を召されてん」とや思ひけん、鎧につけたる旗を引つかなぐつて捨つるままに、鞭をあげてぞ逃げたりける。
 三位の中将、これを見て、「いかに盛長、われを捨て、いづくへ行くぞ。さは契らぬものを。あな、うらめしの者や」とのたまへども、耳にも聞きいれず、ただ、逃げにぞ逃げたりける。
 三位の中将、馬はよわる、せんかたなさに、馬より飛んでおり、「自害せん」とや思はれけん、刀を抜き、鎧の上帯切つてのけ、高紐解いて脱ぎ捨て給ふところに、庄の四郎、馬より飛んでおり、つと寄りて、「君のわたらせ給ふと見まゐらせて候」と申して、むずと抱きたてまつり、刀をうばひ取り、わが馬にかき乗せたてまつり、手綱をときて鞍にしめつけ、わが身は乗替に乗つて、具したてまつりてぞ帰りける。
 三位の中将、生捕にせられ給ふぞいとほしき。
 後藤兵衛盛長は、究竟の馬には乗つたり、そこをつと馳せのびて、かひなき命はたすかりぬ。
 のちには、熊野法師の法橋といふ者の後家のもとに、後見して候ひける。
 この尼公、訴訟のために都へのぼりたりければ、盛長も供し たり。
 上下に見知られたりければ、「あな無慚や。
 三位の中将殿の、さしも不便にし給ひしに、一所にてはいかにもならずして、思ひもよらぬ尼公の供したるうたてさよ」と、憎まぬ者ぞなかりける。
 小松殿の末の子、備中守師盛とて、生年十七歳になり給ふが、小船に乗り、侍五六人召し具して、なぎさ近う漕ぎ寄せ、いくさのなりゆくはてを見給ふところに、新中納言の侍に、清右衛門といふ者、敵に追つかけられて、海へうち入れたりけるが、備中の前司の乗り給へる船をまねき、「御船に参り候はん」と申せば、「乗せよ」とて、船さし寄せ給へば、さらば静かにも乗らで、大男の大鎧着て、大太刀肩にうちかけ、鐙つよう踏んで、小船に、がばと飛び乗らんずるに、なじかはよかるべき。
 船踏みまはして、あわてふためくところに、畠山の郎等に、本田次郎馳せ来り、そこにて備中の前司をば討ちたてまつる。
 修理大夫経盛の嫡子、但馬守経正は、河越の小太郎重房が手にかかつて、討たれ給ひぬ。
 その弟、若狭守経俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つらなつて敵の中へ駆け入り、散々に戦ひ、敵あまた討ちとり、ともに討死せられけり。
 門脇の中納言教盛の末の子、蔵人の大夫業盛は、常陸の国の住人、土屋の五郎に組まれて、業盛は大力にておはすれば、土屋をとつて押さへ、首をかかんとし給ひしところに、兄の土屋の四郎落ちあうたり。
 業盛、心は猛く思はれけれども、二人の敵に、つひに討たれ給ひ けり。
 新中納言知盛は、嫡〔子〕武蔵の前司知章、侍に監物太郎頼方あひ具して、主従三騎にて落ち給ふ。
 児玉党とおぼえて、団扇の旗さしあげ、十騎ばかりをめいて追つかけたてまつる。
 監物太郎、返しあはせて、究竟の手だれなりければ、よつ引いて、まつ先にかかつたる旗差が首の骨射て落す。
 大将とおぼしき者、監物太郎には目をかけずして、中納言に目をかけて、「組みたてまつらん」とおし並ぶるところに、嫡子武蔵守、中にへだたり、ひつ組んで落ち、敵が首を掻いて、さしあげんとし給ふところに、敵が童落ちあひて、武蔵の前司の首を掻く。
 監物太郎落ちかさなつて、童が首をも取りてげり。
 頼方、右の膝口を射させて、立ちもあがらず、ゐながら討死してんげり。
 その間に、中納言は、「井上黒」といふ逸物には乗り給へり、海のおもて七八段ばかり泳がせ、大臣殿の船にぞ乗り給ふ。
「馬の立つべき所があるか」と見給へども、船には人おほく混み乗つて、馬の立つべき様もなかりければ、手綱むすんでうちかけ、馬をばなぎさへ向けて、追つかへさる。
 阿波の民部、これを見て、「御馬、敵の物になり候ひなんず。射殺し候はん」とて、矢取つてつがひければ、中納言、「何物にもならばなれ。命をたすけたる馬なり。あるべうもなし」とのたまひければ、成能、矢さしはづいて射ざりけり。
 この馬、しばしは船をしたひつつ、離れもやらざりけれども、乗する者なければ、なぎさをさして泳ぎ帰り、なほも沖の方をなごり惜しげにまぼらへて、高いななきして、足掻き してぞ立つたりける。
 なぎさに走りまはりけるを、河越の小太郎取つて、九郎御曹司に奉る。
 それより院へ参らせられければ、「河越黒」とて、一の御廐に立てられたり。
 もとも「井上」とて、院の御秘蔵の御馬なりしを、宗盛の内大臣になりて、祝申のありしとき、院より御引出物に賜はられたりしを、中納言あまりに秘蔵して、「この馬の祈祷」とて、毎月に泰山府君をぞ祀られける。
 そのゆゑにや、馬もたすかり、御命もいまのび給ふこそ不思議なれ。
 この馬は、信濃の国井上だちにてありければ、「井上黒」とぞ申しける。
 中納言、大臣殿の御前に参りて、「武蔵守にも後れ候ひぬ。頼方も討たれ候。心細うこそなりて候へ。ただひとり持ちたる子が、われを助けんとて、敵と組むを見ながら、引き返さざりつるこそ『よく命は惜しきものを』と、われながらも肝づれなうこそ候へ。人のうへならば、いかばかりか知盛もどかしうも候ひなん」と、さめざめとぞ泣かれける。
 大臣殿、「まことは、さこそ思はれ候ふらめ。武蔵守は今年十六。手もきき、心も剛なり。よき大将にてありつるものを。惜しや、あたらもの。今年は、あれと同年ぞかし」とて、御子右衛門督清宗とて、生年十六になり給ふが、そばにましましけるを、つくづくと見給ひて泣き給へば、船のうちの人々、みな袖をぞ濡らされける。
  熊谷の次郎直実は、「よからん敵がな、一人」と思ひて待つところに、練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬に乗つたる武者 一騎、沖なる船に目をかけて、五段ばかり泳がせて出で来たる。
 熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ。返せ」とまねきけり。
 とつて返し、なぎさへうちあぐるところを、熊谷、願ふところなれば、駒の頭を直しもあへず、おし並べて組んで落つ。
 左右の膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへて、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄□つけたり。
 熊谷、「これは平家の公達にてぞましますらん。侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこそ、この人の父も思ひ給はめ。いとほしや。助けたてまつらん」と思ふ心ぞつきにける。
 刀をしばしひかへて、「いかなる人の公達にておはするぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申せば、「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。
「その者にては候はねども、武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実と申す者にて候」と申せば、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。首実検のあらんとき、〔やすく〕知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」とぞのたまひける。
「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、源氏勝つべきいくさに負くべからず。討ちたればとて、それによるまじ」と思ひければ、「助けたてまつらばや」と、うしろをかへりみるところに、味方の勢五十騎ばかり出で来たる。
「直実が助けたりとも、つひにこの人のがれ給はじ。後の御孝養をこそつかまつらめ」と申して、御首掻いてんげり。
 のちに聞けば、「修理大夫経盛の末の子に、大夫敦盛」とて、〔生年〕十七歳 にぞなられける。
 御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引合せに差されたり。
 これは、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の院より賜はられたりけるを、経盛相伝せられたりけるを、名をば「小枝」とぞ申しける。
 熊谷これを見て、「いとほしや。今朝、城のうちに管絃し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。当時、味方に、東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめども、合戦の場に笛持ちたる人、よもあらじ。何としても、上臈は優にやさしかりけるものを」とて、これを九郎御曹司の見参に入れたりければ、見る人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。
 それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける。
「狂言綺語のことわり」といひながら、つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。
 さても熊谷は、夜もすがら敦盛のこと嘆きかなしみけるが、つくづく、ものを案ずるに、「いとほしや。この君と申すは、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿、葛原の親王に九代の後胤、讃岐守正盛の子、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男清盛の御舎弟、修理大夫の末の子なり。いまだ無官の人にて、大夫敦盛、生年十七歳になり給ふ。討ちたてまつるときのありさま、いつの世にかは忘れたてまつるべき。直実が嫡子小次郎直家、武蔵よりはるばる連れのぼり、都にて、去んぬる正月二十日、木曾殿討たれ給ひしときの合戦に、味方あまた討たれしかども、相違なかりしに、小次郎生年十六歳になりつるを、今朝一の谷の大手 にて、敵の矢先にかかりつる死骸をまたも見ぬ思ひ、修理大夫殿の御嘆き、直実がかなしみ、いづれかおとりまさるべき」。
 あまり思ひのかなしさに、「敦盛の御形見、沖なる御船にたてまつらばや」とて、最後のとき召されたる御衣裳、鎧以下の兵具ども、ひとつも残さず、御笛までもとりそへて、牒状を書きそへ、使ひに受け取らせて、小船一艘したてて、御船、修理大夫殿へ奉りけり。
 その牒状にいはく、 直実謹んで申す。
 不慮にこの君に参会したてまつり、呉王、勾践がたたかひを得、秦王、燕丹が怒りをさしはさみ、直に勝負を決せんと欲するきざみ、にはかに怨敵の思ひを忘れ、すみやかに武威の勇みをなげうち、かへつて守護を加へたてまつるのところに、雲霞の大勢襲ひ来り、落花狼藉をなす。
 この−時、たとひ直実、源氏をそむき、初めて平家に参ずといふとも、彼は多勢、これは無勢なり。
 樊□かへつて養由が芸をつつしむ。
 ここに直実たまたま生を弓馬の家に受け、はかりごとを洛西にめぐらし、〔怨敵〕旗をなびかし、敵をしへたぐる事天下無双の名を得たりといへども、蚊虻むらがつて雷をなし、蟷螂あつまつて車をくつがへすがごとし。
 なまじひに弓をひき、矢を放ち、剣を抜き、楯をつき、命を同朋の軍士にうばはれ、名を西海の波に流すこと、自他、家の面目にあらず。
 なかんづく、この君の御素意を仰ぎたてまつる のところに、「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあひだ、はからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひをはん。
 うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結びたてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うして、怨敵の害をなしたてまつる。
 しかりといへども、これ逆縁にあらずや。
 なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の身とならざらんや。
 かへつて順縁に至らんや。
 しかるときんば、閑居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきものなり。
 直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。
 この旨をもつて、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。
 誠惶誠恐謹言。
  寿永三年二月八日 丹治直実進上伊賀平内左衛門殿 返牒にいはく、 今月七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物、たしかに送り賜はり候ひをはん。
 そもそも花洛の故郷を出で、西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思ふに、はじめておどろくべきにあらず。
 また戦場に臨むうへ、なんぞふたたび帰らんことを思はんや。
 生者必滅は穢土のならひ、老少不定は人間のつねのことなり。
 しかりといへども、親となり、子となることは、前世の契り浅からず。
 釈尊すでに御子羅□羅尊者をかなしみ 給ふ。
 応身の権化、なほもつてかくのごとし。
 いはんや底下薄地の凡夫においてをや。
 しかるときんば、去んぬる七日、うち立ちし朝より、今日の夕べに至るまで、その面影いまだ身を離れず。
 燕来たつてさへづれども、その声を聞くことなし。
 雁飛んで帰れども、音信を通ぜず。
 必定討たるるよし、承るといへども、いまだ実否を聞かざるのあひだ、いかなる風の便りにも、その音信を聞くやと、天にあふぎ、地に伏し、仏神に祈りたてまつる。
 感応をあひ待つところに、七か日のうちにかの死骸を見ることを得たり。
〔これ、〕しかしながら仏天の与ふるところなり。
 しかれば、内には信心いよいよ肝に銘じ、外には感涙ますます心をくだき袖をひたす。
 よつてふたたび帰り来たるがごとし。
 またこれ甦るにあひ同じ。
 そもそも貴辺の芳恩にあらずんば、いかでかこれを見ることを得んや。
 古今いまだそのためしを聞かず。
 貴恩の高きこと、須弥山すこぶる低し。
 芳志の深きこと、滄溟海かへつて浅し。
 進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。
 退いて報ぜんとすれば、未来永永たり。
 万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。
 しかしながらこれを察せよ。
 恐々、謹言。
 寿永三年二月十四日 修理大夫経盛 熊谷の次郎殿 返報

第九十句 小宰相身投ぐる事

 平家はいくさ敗れければ、先帝をはじめたてまつり、人々船にとり乗つて、海にぞ浮かび給ひける。
 あるいは芦屋の沖に漕ぎ出でて、波にただよふ船もあり、あるいは淡路の瀬戸をおし渡り、島がくれゆく船もあり。
 いまだ一の谷の沖にただよふ船もあり。
 浦々、島々おほければ、たがひに生き死にを知りがたし。
 平家、国をなびかすことも十四か国、勢のしたがふことも十万余騎、都へ近づくことも、思へばわづかに一日の道なり。
 今度「さりとも」と思はれつる一の谷をも落されて、心細うぞなり給ふ。
 海に沈み死するは知らず、陸にかかりたる首の数、「二千余人」とぞ記されたる。
 一の谷の小笹原、緑の色もひきかへて、薄紅にぞなりにける。
 このたびの合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、以上十人のしるし、都に入る。
 越中の前司盛俊が首も都へ入る。
 本三位中将重衡は、生捕にせられて、わたされ給へり。
 母二位殿、これを聞き給ひて、「弓矢取りの討死することは、つねのならひなり。
 重衡は、今度生捕にせられて、いかばかりのこと思ふらん」とて泣き給へば、北の方大納言の典侍も「さまを変へん」とのたまひけるを、「内の御乳母にてまします、さればとて、 いかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき」とて、二位殿制し申し給ひければ、力におよばず、明かし暮らし給ふなり。
 越前の三位通盛の侍に、郡太滝口時員といふ者あり。
 北の方へ参りて、泣く泣く申しけるは、「殿は、はや、敵七騎が中にとりこめられて、つひに討死せさせましまし候ひぬ。敵は、近江の国の住人、木村の源三とこそうけたまはり候ひつれ。時員も、やがてそこにて御供に討死をもつかまつるべう候ひつるが、かねがね御ことをのみ仰せ候。『われはひまなくいくさの庭に向かふ。〔われ〕いかにもならん所にて、後世の御供つかまつらんと、〔あひかまへて〕思ふべからず。ただ命生きて、御行くへをも見つぎまゐらせよ』と、さしも仰せの候ひしあひだ、かひなく命生きて、これまで参りて候」と申しもあへず泣きにけり。
 北の方、聞こしめしもあへず、思ひ入り給へる気色にて、伏ししづみてぞ泣かれける。
「一定、討たれさせ給ひぬ」とは聞きながら、「もしや生きて帰り給ふ。ひが事にてもや」と、二三日は、ただかりそめに出でたる人を待つ様に、待たれけるこそかなしけれ。
 むなしき日数も過ぎゆけば、「もしや」のたのみもかき絶えて、心細うぞ思ひ給ふ。
 乳母の女房ただ一人ありけるも、同じ枕に伏ししづみてぞかなしみける。
 二月十三日の夜もふけゆくほどに、北の方、乳母の女房にかきくどきのたまひけるは、「あはれや、明日うち出でんとての夜、さしもいくさの庭に、わらはを呼びて、『さても、通盛がはかなき情に、都のうちをさそはれ出でて、ならはぬ旅の空にただようて、すでに二とせ送られしに、いささかも思ひこめたる色の、つひにおはせざりつるこそ、いつの世にも 忘れがたけれ。われはひまなくいくさの庭に向かへば、われいかにもなりてのち、いかなる有様にてかおはせんずらん。思へばそれも心苦し』なんどのたまひしがあはれさに、日ごろは隠して言はざりけれども、『心強う思はれじ』と、『〔われも、〕ただならずなりたる』ことを言ひ出だしければ、なのめならずに喜びて、『通盛すでに三十になるまで、子といふことのなかりつるに、うれしきものかな。憂き世のわすれ形見はあらんずるにこそ。ただしいつとなき波のうへ、船のうちの住まひなれば、身々とならんも心苦し』なんど言ひおきしも、はかなかりける兼言や。ありし六日のあかつきを限りとだに思はましかば、などか『後の世』と契らざりけん。ひらに思ひ過ぎたりとも、幼き者を育てて、うち見んをりをりには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数はまさるとも、慰むことはよもあらじ。ながらへたらば、また思はぬふしもあらんぞかし。もしも思はぬふしあらば、草の陰にて見んもうたてかるべし。今はなかなか、見初め、見え初めし、その夜の契りさへ恨めしければ、『生きてゐて、ひまなく物を思はんよりは、ただ火の中へも、水の底へも入らなん』と思ひさだめてあるぞとよ。さても、さても、それにつけても、これまでくだり給へる心ざしこそありがたけれ。書きおきたる文どもは都へ奉り給へ。これは後の世のことを申しおきたり」なんど、来し方、行くすゑの事ども語りつづけて、〔さめざめと〕泣かれたりければ、乳母の女房、「日ごろはいかなる事あれども、泣き給ふばかりにて、はかばかしう物ものたまはざる人の、例ならずか様にのたまふことの怪しさよ。まことに千尋の底にも沈み給ふべきにか」とあさましくおぼえて、 「今度討たれさせ給へる人々の北の方の、いづれかおろそかなる御ことのさぶらふ。かならず御身一人のことならず。身々とならせ給ひて、幼き人をも育てまゐらせて、亡き人の御形見にも見まゐらせさせ給へかし。それに御心のゆかざらんときこそ、御様をも変へさせ給うて、後の世をも弔ひまゐらさせ給はめ。『かならず同じ道』とはおぼしめすとも、六道四生のならひにてさぶらふなれば、どの道へかおもむかせ給はんずらん。されば『水の底に沈ませ給へば』とて、亡き人を見まゐらせ給はんこと難かるべし。げにもさ様にさぶらはば、わらはをもいづくまでも召しこそ具せられさぶらはめ」と申しければ、北の方、「思ひのあまりにこそ言ひつれ。いかに思ふとも、水の底に沈むべしともおぼえず。今宵ははるかにふけゆくらん。いざや寝なん」とて、より臥し給へば、乳母の女房、たのもしうおぼえて、ちとうち臥しつつ、すこし寝入りたりけるに、北の方起きて、ふなばたへこそ出で給へ。
 漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、「その方やらん」と伏し拝み、しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、友まよひするかとおぼゆるに、天の戸わたる梶の声、かすかに聞こゆるえいや声、いとどあはれやまさりけん、「南無、西方極楽世界の阿弥陀如来、あかで別れし妹背の仲、ふたたびかならず同じ蓮に迎へ給へ」とかきくどき、「南無」ととなふる声とともに、海にぞ沈み給ひける。
 屋島へ漕ぎわたる夜半のことなれば、人これを知らず。
 梶取が一人寝ざりけるが、これを見て、「あな、あさましや。女房の海へ入らせ給ひぬるぞや」と申しければ、その と申すは、故藤刑部卿憲方のむすめなり。
 上西門院に、小宰相殿とて、美人の聞こえありし女房なり。
 越前の三位、いまだ中宮亮にておはせしとき、この女房十六と申せしを、〔ただ〕一目見給ひて、歌を詠み、文をつくし給へども、取り入れ給ふこともなし。
 すでに三年に満ちけるに、今はかぎりの文を書きて、取りつたへける女房のもとへつかはさる。
 この女房、小宰相殿の、をりふしわが宿所より院へ参られけるに、道にて行き逢ひたてまつり、むなしく帰らんことが本意なさに、つと走りすぐる様にて、小宰相殿の乗り給へる車の簾のうちに、通盛の文をぞ投げ入れたる。
 供の者にたづぬれども、「知り給はず」と申す。
 あけて見給へば、日ごろ申されける通盛の文なるあひだ、大路に捨てんも、車に置かんもさすがにて、袴の腰にはさみつつ、御所へぞ参り給ひける。
 さて宮仕ひし給ひしほどに、思ひわすれて、文をぞ御前に落されける。
 女院、文をいそぎ御衣の袖にひき隠させおはしまして、女房たちを召し集めて、「めづらしき物もとめたり。この主は誰やらん」と御たづねありけれども、女房たち、よろづの神、仏にかけて「知らず」とのみぞ申し合はれける。
 そのなかに、小宰相殿、顔うちあかめて、しばしものも申させ給はず。
「通盛の申す」とは、女院までもかねて知ろしめされたりければ、この文を御覧ずるに、匂ひ殊にありがたし。
 筆の立てども世のつねならず、いつくしう一首の歌ぞ書かれたる。
 わが恋はほそ谷川の丸木橋ふみかへされて濡るる袖かな
 とありければ、「これは、ただ逢はぬを恨みたる文にこそ。あまりに人の心づよきも、なかなかあたとなるものを。この世には、青き鬼となりて、身をいたづらになす者おほし。これみな、人の思ひのつもりとこそ聞け。なかごろ小野の小町とて、みめ姿いつくしう、なさけの道世にすぐれたり。されども心づよき名をや取りたりけん、つひには人の思ひのつもりとて、風をふせぐたよりもなく、雨をもらさぬはてもなし。宿にくもらぬ月星を涙にうかべ、沢の根芹、野辺の若菜を摘みてこそ、露の命をかかへけれ。この返事はあるべきものぞ」とて、女院、御硯を召し寄せ、かたじけなくも、御みづから御返事をぞあそばされける。
 ただたのめほそ谷川の丸木橋ふみかへしては落ちざらめやは
 通盛、女院よりこの女房を賜はつて、いと重んぜられけり。
 みめは幸ひの花なれば、浅からずちぎりて、憂かりし波の上、船のうちまでもひき具して、つひに同じ道におもむかれけるこそあはれなれ。
 門脇の中納言教盛の卿は、嫡子越前の三位、末の子業盛にも後れ給ひぬ。
 今はたのむ人とては、能登守教経、僧には、中納言律師忠快ばかりなり。
 故三位の形見ともこの女房をこそ御覧ずべきに、これさへか様になり給へば、いとど心細くぞなられける。

 第十 平家巻 目録

第九十一句 平家一門首渡さるる事
 卿相の首大路を渡すや否やの事
 斎藤五・斎藤六首ども見奉る事 三位の中将の文
第九十二句 屋島院宣
 重衡小路を渡す事 三種の神器所望の事 院宣
 平家院宣の御返事
第九十三句 重衡受戒
 重衡出家許されざる事 硯松蔭法然上人に奉らるる事
 重衡大内女房玉づさ 重衡と女房と参会の事
第九十四句 重衡東下り
 池田の宿熊野あるじ歌 頼朝と重衡と対面
 千手の前湯殿へ参る事 千手・重衡遊宴の事
第九十五句 横笛
 維盛屋島出でらるる事 滝口発心 横笛死去 滝口高野の籠居
第九十六句 高野の巻
 維盛高野参詣 滝口入道対談の事
 延喜の帝御衣を高野に送らるる事 大師帝の御返事
第九十七句 維盛出家
 重景石童丸出家 維盛武里に遺言の事
 維盛湯浅に行逢はるる事 大臣殿熊野参詣
第九十八句 維盛入水
 維盛熊野参詣 那智籠りの僧維盛見知り奉る事
 維盛卒都婆の銘 与三兵衛・石童丸入水
第九十九句 池の大納言関東下り
 弥平兵衛宗清述懐 頼朝と池殿と参会 武里都へ上る事
 新帝即位
第 百 句 藤戸
 源氏室山の陣 平家児島の陣 佐々木の三郎先陣の事
 都に大嘗会行はるる事

 平家巻第十

第九十一句

 平家一門首渡さるる事 寿永三年二月十二日、去んぬる七日、一の谷にて討たれたる平家の首ども、京へ入る。
 平家に縁をむすぼふれたる人々、「わが方さまに何事をか聞かんずらん。
 いかなる目をか見んずらん」とて、嘆く人々おほかりけり。
 その中に大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、「西国へ討手の向かふ」と聞くたびに、「今度のいくさに中将のいかなる目にかあひ給はんずらん」としづ心なく思はれけるところに、「平家は、一の谷にて残りずくなく滅び、三位の中将といふ公卿一人生捕られて、のぼり給へる」と聞きしかば、北の方、「この人に離れじものを」とぞ泣かれける。
 ある女房の来つて申しけるは、「三位の中将と申すは、本三位の中将の御ことにてわたらせ給ふ」と申しければ、「さては首どもの中にぞあらん」とて、なほ心やすくも思ひ給はず。
 同じく十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使等、「平家の首ども受け取りて、大路をわたし、獄門に懸けべき」よし、奏しければ、法皇おぼしめしわづらはせ給ひて、太政大臣、〔左右大臣、〕内大臣、堀河の大納言忠親、以上公卿五人に仰せあはせらる。
 大納言申されけるは、「この人々は、先帝の御時、戚里の臣としてひさしく君に仕へる。
 なかにも卿相の首、大路をわたさるること先例なし。
 範頼、義経らが申状、あながちに御許容あるべから ず」と申されければ、さてはわたされまじきにてありけるを、「父義朝が首、大路をわたし、獄門に懸けられ候ひぬ。父の恥をきよめんがため、君の御いきどほりをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、忠を重んじ、命を軽んず。申し請ふところ、御ゆるされ候はずは、自今以後、何のいさみありてか朝敵を滅ぼすべく候ふぞや」と、義経ことにいきどほり申されければ、「さらば」とてつひにわたされ、獄門にぞ懸けられける。
 見る人、河原に市をなす。
 大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の若君六代御前につきたてまつりける斎藤五、斎藤六、無官なりけるうへ、いたう人にも見知られじ。
 この一二年は隠れゐたりけれども、あまりにおぼつかなさに、様をやつして見ければ、三位の中将殿の御首は見え給はねども、みな見知りたる首どもにてあるあひだ、目もあてられずおぼえて、涙もさらにせきあへず、よその人目もあやしげなり。
 そらおそろしくおぼえて、いそぎ大覚寺へたち帰る。
 北の方、まづ「いかにや」と問ひ給へば、「小松殿の公達の御なかには、備中守の御首ばかりこそわたされさせ給ひつれ。
 そのほか、その首、その首」と申せば、「いづれとても人のうへならず」とてぞ泣かれける。
 斎藤五、斎藤六かさねて申しけるは、「今日よく案内知りたりける者の候 ひしが申しつるは、『小松殿の公達は、播磨と丹波とのさかひなる三草をかためさせ給ひて候ひけるが、源氏どもに破られて、播磨の高砂より御船に召され、讃岐の屋島へ渡らせ給ひて候』と申す。『さて三位の中将殿はいかに』と問ひしかば、『その日のいくさ以前に、大事の御いたはりとて、 屋島に渡らせ給ふあひだ、今度の御ことはいくさにはあひ給はず』とこそ申し候ひつれ」と申せば、北の方、「いとほしや、それもただ思ひ嘆きのつもりて、病となり給ひたるにこそ。いかなる御いたはりやらん。あな、おぼつかなや」とのたまへば、若君も、姫君も、「『何の御いたはりぞ』とは、問はざりしか」とぞのたまひける。
 斎藤五、「身ばかりだにもしのびかねて候ふものが、『何の御いたはりぞ』なんどまでは、問ひ候はんずる」と申せば、北の方「げにも」とてぞ泣かれける。
 三位の中将もかよふ心なれば、「都にさこそわれをおぼつかなう思ふらめ。首どもの中には見えざれども、『水の底にや沈みつらん』とて嘆きなんどもすらん。『いまだこの世にながらへたり』と知らせばや」とは思へども、「しのびたる住みかを人に見えんもさすがなれば」とて泣く泣く明かし給ひけり。
 夜にもなれば、与三兵衛重景、石童丸なんどいふ者どもそばに召し、「都にはただ今、わが事をこそ思ひ出でつらめ。いとけなき者どもは忘るるとも、人はよも忘るるひまあらじ。とかくただ一人いつとなく明かし暮らすは、なぐさむかたもなけれども、越前の三位のうへを見れば、かしこくこそ幼き者どもをとどめおきけるぞ」とて、泣く泣くよろこび給ひけり。
 北の方、商人の便りに文なんどのおのづから通ふにも、「なにとて今まで迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へ給へ。幼き者ども、なのめならず恋しがりたてまつる。われも尽きせぬ物思ひにながらへつべくもなし」と、こまごまと書きつけられたりければ、三位中将、この返事見給ひて、いまさらまた何事も思ひ入り給ひ、伏ししづみてぞ嘆かれける。
  大臣殿も二位殿も、これを聞き給ひて、「さらば、北の方、幼き人をも迎へとらせ給ひて、一所にていかにもなり給へ」とのたまへども、「わが身こそあらめ、人のためにはいかが」とて、泣く泣く月日を送り給ふにぞ、せめての心ざしの深きほどもあらはれける。
 さりてもあるべきならねば、近う召し使はれける侍一人したてて、都にのぼせ給ふに、三つの文をぞ書かれける。
 北の方への御文には、「一日片時の絶え間をだにも、わりなくこそ思ひしに、むなしき日数もへだたりぬ。都には敵満ち満ちて、わが身ひとつの置きどころだにもなき、いとけなき者ども引き具して、さこそ心苦しくおはすらん。『とくして迎へとりたてまつり、一所にていかにもならばや』なんどは思へども、御ために心苦しく候へば」なんど、こまごまと書きて、奥に一首の歌をぞ書かれける。
 いづくともしらぬあふせのもしほ草かきおくあとを形見とも見よ
 いとけなき人の御文には、「つれづれをばいかにしてなぐさむらん。
 とくして迎へとらんぞ。
 さこそあらめ」なんど書いて、奥には「六代殿へ、維盛」「夜叉御前へ、維盛」と書いて日付けせられけり。
「これは、われいかにもなりてのち、形見にも見よかし」とてぞ、中将書かれける。
 御使都へのぼりて、この文どもを奉る。
 北の方は見給ひて、思ひ入りてぞ嘆かれける。
 御使「急ぎくだるべき」よし申せば、「さるにても御返事あらんずるぞ」とて、泣く泣く起きあがり、こまごまと返事あそばされてぞ賜はりける。
 若君、姫君、筆を染めて、「さて、御返事はいかに書くべきやらん」と申し給へば、御前、「ただ、 ともかくも、わ御前たちの思はんずる様に書け」とぞのたまひける。
「何とて今までは迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へとらせ給へ。あな、御恋しや。御恋しや」と、言葉も変り給はず、二人ともに同じ言葉に書かれたり。
 御使屋島へくだり、この返事参らせたりければ、三位の中将、北の方の御文よりも、若君、姫君の「恋し。恋し」と書かれたるを見給ひてぞ、今ひときは、せんかたなうは思はれける。
 三位の中将、今は、いぶせかりつる故里のことも伝へ聞き給へども、妻子はもとより心をなやますものなれば、恋慕の思ひいやましなり。
「今は穢土を厭ふにいとまあり。閻浮愛執のきづな強ければ、浄土を願ふに物憂し。今生にては妻子に心をくだき、当来にては修羅に落ちんこと、心憂かるべし。されば維盛都へのぼり、妻子を見てのち、妄念を離れて自害せんにはしかじ」とぞさだめ給ひける。

第九十二句 屋島院宣

 同じく十四日、本三位の中将重衡、六条を東へわたされ給ふ。
「入道にも、二位殿にも、おぼえの子にておはしければ、一門の人々にも、もてなされ、院内へ参り給へば、当家も、他家も、所をおきてうやまひしぞかし。これは、ただ奈良を滅ぼし給へる伽藍の罰にてこそ」とぞ人申しける。
 六条を東の河原までわたされてのち、故中の御門中納言家成の卿の造られたる堀川の御堂へ入れたてまつる。
 土肥の次郎実平 は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将同車したてまつる。
 兵ども六十余人具して守護しけり。
 院より御使あり。
 蔵人の右衛門権佐定長、赤衣に剣、笏を帯して向かふ。
 三位中将は紺村濃の直垂に、折烏帽子ひきたてられたり。
 昔は何とも思はざりし定長を、今は冥途にて冥官に向かへる心にて、おそろしげにぞ思はれける。
 定長申しける、「勅諚には、所詮、『三種の神器をだにも都へ入れたてまつらせ給はば、西国へつかはさるべき』と候。このおもむき申させ給へ」と申しければ、三位の中将、「今は、かかる身となりて候へば、一門面を合はすべしともおぼえず候。女性にて候へば、二位の尼なんどや、『いま一度見ん』とも思はんずらん。そのほかあはれをかくべき者、あるべしともおぼえず候。さはありながら、院宣だに下されば、申してこそ見候はめ」とのたまへば、定長この様を奏聞す。
 法皇、やがて院宣をぞ下されける。
 その院宣にいはく、 一人先帝、金闕、鳳暦の台を出でて、諸州に幸す。
 しかるあひだ三種の神器、南海にうづもれて数年を経。
 もつとも朝家の御嘆き、亡国の基なり。
 なかんづくかの重衡の卿は東大寺焼失の逆臣たるによつて、すべからく頼朝の朝臣の申し請くる旨にまかせて、死罪に行はるべきといへども、ひとり親族を離れて、生捕となる。
 籠鳥雲を恋ひて、思ひをはるかに千里の南海にうかぶ。
 帰雁友を失つて、心さだめて旧都の中途にかよは んや。
 しかるときんば、三種の神器ことゆゑなく都に返し入れたてまつらば、かの卿においては、〔すみやかに〕寛宥せらるべきものなり。
 院宣かくのごとし。
 よつて執達件のごとし。
 寿永三年二月十四日 大膳大夫業忠奉。
 とぞ書かれたる。
 院宣の御使には、御坪の召次花方を下されけり。
 三位の中将の使には、いにしへ召し使ひし平左衛門尉重国をつかはされけり。
 大臣殿、平大納言殿へ勅諚のおもむき、条々申し下さる。
 母の二位殿にもこまかなる御文どもにて、「いま一度御覧ぜんとおぼしめされ候はば、内侍所の御こと、よくよく申させ給へ」とぞ書かれたる。
 北の方大納言の典侍殿へも、「御文奉らばや」と思はれけれども、わたくしの文をばゆるされねば、「ことばにて、『いくさは常のことなれども、去んぬる七日をかぎりとも知らずして、別れたてまつりしこと、心憂くこそおぼえ候へ。『夫婦は二世の契り』とやらん申せば、後生にてかならず生まれ合ひたてまつらん』と申すべし」とぞのたまひける。
 御使、屋島へ下り、この院宣を奉る。
 二位殿は本三位の中将の文を見給ひて、この文おし巻き、大臣殿の御前に倒れ伏し、のたまひけるは、「何の様かあるべき。はや内侍所返し入れたてまつり、中将助けて見せ給へ。世にあらんと思ふも、子どものためなり。
 われを助けんと思ひ給はば、中将をいま一度見せ給へ」とぞ泣かれける。
 また人々の申しけるは、「帝王の御位をたもた せ給ふと申すは、ひとへに内侍所の御ゆゑなり。これを都へ返し入れたてまつらば、君は何の御たのみにて世にもわたり給ふべき。いかでか君を捨てまゐらせて、多くの一門をば滅ぼさんとはおぼしめし候ふやらん」と、面々にうらみ申されければ、二位殿も、力および給はず。
 平大納言時忠、院宣の御使花方を召し寄せて、「なんぢは花方か」。
「さん候」。
「なんぢ、おほくの波路をしのぎて、これまで御使したる一期があひだの思ひ出ひとつさせん」とて、花方が顔に、「波方」といふ焼きじるしをぞ差されける。
 帰り参りたりければ、法皇これを叡覧あつて、「よしよし。さらば『波方』とも召せかし」とぞ仰せられける。
 さるほどに平家の人々、院宣の御返事をぞ申さる。
  今月十四日の院宣、同じき二十八日、讃岐の国屋島の磯に到来す。
 謹んで承るところ、件のごとし。
 ただしこれにつき、かれを案ずるに、通盛の卿以下、当家数輩、摂州一の谷において、討たれをはんぬ。
 なんぞ重衡一人が寛宥をよろこぶべきや。
 それわが君は高倉の院の御ゆづりを受けしめ給ひて、御在位すでに四か年、まつりごと、尭、舜の古法をとぶらふところに、東夷、北狄、党をむすび、群をなし、入洛するあひだ、かつうは幼帝、母后の御嘆きもつとも深く、かつうは外戚、近臣の憤り浅からず。
 しばらく九国に行幸す。
 還幸なきにおいては三種の神器いかでか玉体を離ちたてまつるべきや。
 それ、臣は君をもつて心とし、君は臣をもつて体とす。
 君やすければ臣 やすし。
 臣やすければ国やすし。
 君、上に憂へあれば、臣下に楽しまず。
 心中に憂へあれば、体外によろこびなし。
 曩祖平将軍貞盛、相馬の小次郎将門を追討せしよりこのかた、東八か国を討ちしたがへ、代々世々に朝家の聖運をまぼりたてまつる。
 しかのみならず、故太政入道、保元、平治両度の合戦に、勅命をおもんじ、私命をかろんず。
 そもそも、かの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父義朝が謀叛によつて死罪におこなふべきといへども、故大相国、慈悲のあまりに申し許さるるところなり。
 しかるに昔の高恩を忘れ、芳恩を存ぜず、たちまちに蛍類の身をもつて、蜂起の乱をなす。
 至愚のはなはだしきこと、述ぶるになほあまりあり。
 はやく神明の天罰をまねき、ひそかに廃跡の損滅を期するものか。
 それ、日月は一物のために明らかなることを晦うせず。
〔明王、〕一人のためにその法を枉げず。
 一悪をもつてその善をすてず、小瑕をもつてその功をおほふことなかれ。
 しかるときんば、当家代々の奉公、亡父数度の忠節、おぼしめし忘れずんば、君かたじけなくも西国の御幸あるべきや。
 時に臣等、君をはじめたてまつり、ふたたび旧都に帰り、会稽の恥をきよめん。
 もし、しからずんば、新羅、百済、鬼界、高麗、契丹、天竺、震旦に至るべし。
 悲しきかな、人王八十一代におよんで、わが朝神代の霊宝を異国の宝となさんや。
 とぞ申されける。
 三位の中将これを聞き給ひて、「さこそあらんずれ。いかに一門の人々、重衡をにくう思はれけん」と後悔し給へどもかひぞなき。

第九十三句 重衡受戒

 三位の中将、土肥の次郎を召して、「出家の心ざしあるをば、いかがすべき」とのたまへば、土肥の次郎この様を御曹司に申す。
 御曹司、院へ奏聞せられけり。
「あるべうもなし。頼朝に見せてのちこそ法師にもなさめ」とて、御ゆるされもなかりければ、力および給はず。
「わが在世のとき見参したる聖に、後生のことを申し合はせんと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「御聖はたれにて候ふやらん」。
「黒谷の法然房」とぞのたまひける。
「さらば」とて、法然上人を請じたてまつる。
 三位の中将出で向かひたてまつり、申されけるは、「さても、南都を滅ぼし候ふこと、世にはみな『重衡一人が所行』と申し候ふなれば、上人もさこそおぼしめされ候ふらん。まつたく重衡が下知たることなし。悪党おほく籠り候ひしかば、いかなる者のしわざにてか候ひけん、放火の時節、風はげしく吹いて、おほくの伽藍を滅ぼしたてまつる。『すゑの露、もとの雫となることにて候ふなれば、重衡一人が罪にて、無間の底にしづみ、出離の期あらじ』とこそ存知候ひつるに、みな人の『生身の如来』とあふぎたてまつる上人に、ふたたび見参に入り候へば、『今は無始の罪障も、ことごとく消滅し候ひぬ』とこそ存じ候へ。出家 はゆるさねば、力およばず。髻つきながら授戒させ給ふべうや候ふらん」と申されければ、上人泣く泣く、いただきばかり剃り、戒をぞさづけ給ひける。
 その夜は上人とどまりましまして、夜もすがら、浄土の荘厳を観ずべき、さまざま法文どもをぞのたまひける。
 三位の中将、「心よかりける善知識かな」とよろこうで、年ごろつねにおはしまして遊び給ひし侍のもとに預けおかれたる御硯のありけるを、召し寄せて、「これは、故入道相国の、宋朝より渡して、秘蔵して候ひしを、重衡に賜びてげり。名をば『松蔭』と申して、名誉の硯にて候。これを御目のかよはんところに置かせ給ひて、御覧ぜんたびに、『重衡がゆかり』とおぼしめし出だして、後世とぶらひてたび給へ」とて、奉り給へば、上人これを受け取りて、ふところに入れ、涙をおさへ出で給ふ。
 この硯は、親父入道相国、砂金をおほく宋朝の帝へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、「日本和田の平大相国のもとへ」とて、贈られ給ひたりけるとかや。
 八条の女院に木工右馬允政時といふ侍あり。
 ある暮れがた、土肥の次郎がもとへ行きて申しけるは、「中将殿の、もと召し使はれ候ひし、木工の右馬允と申す者にて候ふが、八条の女院に兼任の身にて候ふなり。西国へも中将殿の御供つかまつるべう候ひつれども、弓のもとすゑをも知り候はねば、『ただ、なんぢはとまれ』と仰せられ、西国へは御供つかまつらず候。なじかは苦しかるべき。御ゆるされ候へかし。夕さり参りて、何となきことども申してなぐさめまゐらせん」と 申せば、土肥の次郎、「刀をだにも帯し給はずは、苦しかるまじ」と申すあひだ、太刀、刀を預けてげり。
 政時参りたりければ、三位の中将これを見給ひて、「いかに政時か」。
「さん候」とて、その夜は泊まり、夜もすがら、昔、今のことども語りつづけて、なぐさめたてまつる。
 夜もすでに明けければ、政時いとま申して帰らんとす。
 三位の中将、「さてもや、なんぢして物言ひし女房の行くへはいかに」と問ひ給へば、「いまだ御わたり候ふが、当時、内裏にわたらせ給ふとこそ承り候へ」と申せば、「さればこそ。かかる身になり、されども、そのことがつねは忘られぬをば、いかがすべき」とのたまへば、政時、「やすき御ことに候。御文賜はつて、参り候はん」と申せば、三位の中将、やがて文を書いてぞ賜はりける。
 守護の武士ども、「いかなる御文にて候ふやらん。出だしまゐらせじ」と申す。
 中将、「見せよ」とのたまへば、見せてげり。
「苦しう候ふまじ」とて取らせけり。政時、内裏へ参りたりけれども、昼は人目もしげければ、その辺ちかき小屋にたち入りて日を待ち暮らし、たそがれ時にまぎれ入りて、局の下り口の辺にたたずみて聞きければ、この人の声とおぼしくて、「いくらもある人のなかに、三位の中将殿しも生捕にせられて、大路をわたされ給ふこと、人はみな『南都を焼きたる罪のむくい』と言ひあへり。中将もさぞ言はれし。『わが心よりおこしては焼かねども、悪党おほかりしかば、手々に火を放ちて、おほくの堂舎を焼きはらふ。すゑの露もとの雫となるなれば、重衡一人の罪業にこそならんずらめ』と言ひしが、げに、さとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞ泣かれける。
 政時、「これにも、思ひ 給ひけるものを」とあはれにおぼえて、「もの申さん」と言へば、「いづくより」と問ひ給ふ。「三位中将殿より御文の候」と申す。
 年ごろは恥ぢて見え給はぬ女房の、走り出で、手づから取つて見給へば、「西国より捕はれてありしありさま、今日、明日とも知らぬ身の行くへ」と、こまごまと書きつづけて、奥に一首の歌ぞありける。
 なみだ川憂き名をながす身なれどもいま一たびの逢ふ瀬ともがな
 女房、文をふところにひき入れて、とかくのことものたまはず。
 ただ泣くよりほかのことぞなき。
 ややありて御返事を書き給ふ。
 心苦しくおぼつかなくて、二年を送りつる心のうちを書き給ひて、
 君ゆゑにわれも憂き名をながすともそこの水屑とともになりなん
 政時持ちて参りたり。
 また守護の武士ども、「見まゐらせん」と申せば、見せてげり。
「苦しうも候ふまじ」とて参らする。
 中将、文を見給ひて、いよいよ思ひや増さり給ひけん、土肥の次郎に向かひてのたまひけるは、「年頃あひ知りたる女房に対面して、申したき事のあるは、いかがすべき」とのたまへば、実平なさけある者にて、「まことに、女房なんどの御ことにてわたらせ給ひ候はんには、何か苦しう候ふべき」とて許したてまつる。
 中将、なのめならずよろこびて、人の車を借りて参らせ給へば、女房、取るものも取りあへず、いそぎ乗りてぞおはしたる。
 縁に車をさし寄せて、「かう」と申せば、中将車寄せに出で向かひ、「守護の武士どもの見たてまつるに、下りさせ給ふべからず」とて、車の簾をうち かづいて、手に手を取りくみ、顔を顔に押しあてて、しばしは物ものたまはず。
 ややありて、三位の中将のたまひけるは、「西国へ下り候ひしときも見まゐらせたう候へしかども、おほかたの騒がしさに、申すべきたよりもなくて、まかりくだり候ひぬ。
 そののちは、いかにもして、文をも参らせ、御返事をも承りたく候ひしかども、心にまかせぬ旅のならひ、朝夕のいくさにひまなくて、さながらむなしき年月を送り候ひき。
 今また、人知れぬありさまを見え候へば、ふたたび見たてまつるべきにて候ひけり」とて、袖を顔に押しあてける。
 たがひの心のうちおしはかられてあはれなり。
 かくて小夜もなかばになりければ、「このごろは大路の狼藉に候。とくとく」とて、出だしたてまつり給ひけり。
 車を遣り出だせば、中将、涙をおさへつつ、
 逢ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらん
 女房とりあへず、
 かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきに消えぬべきかな
 さあつて、女房は内裏へ参り給ひぬ。
 そののちは守護の武士許したてまつらねば力およばず。
 時々御文ばかりぞかよひける。
 この女房と申すは、民部卿入道親範のむすめなり。
 みめかたちすぐれ、なさけ深き人なり。
 さありて「中将、南都へわたされて、斬られ給ひぬ」と聞こえしかば、やがて様を変へて、形のごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひける。

第九十四句 重衡東下り

 鎌倉の前の右兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、三位の中将重衡をば、〔同じき〕三月十三日、関東へこそ下されけれ。
 梶原平三景時、土肥の次郎が手より受けとつて、具したてまつりてぞ下りける。
 西国より生捕られて、故郷へ帰るだにかなしきに、なじか、また東路はるかにおもむき給ひけん、心のうちこそあはれなれ。
 粟田口をうち過ぎて、四の宮河原にもなりければ、ここはむかし延喜の第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶を弾じ給ひしに、博雅の三位、夜もすがら、雨の降る夜も、降らぬ夜も、三年があひだ、琵琶の秘曲を伝へけん、藁屋の床の旧跡も、思ひやられてあはれなり。
 逢坂山をうち越えて、瀬田の長橋駒もとどろと踏みならし、雲雀のぼれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹が岳も近づきぬ。
 心とまるとはなけれども、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板びさし。
 いかに鳴海の潮干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしが「唐衣着つつなれにし」と詠じけん、三河の国八橋にもなりしかば、「蜘手にものを」とあはれなり。
 浜名の橋を過ぎければ、松の梢に風さえて、入江にさわぐ波の音。
 さらでも旅はものうきに、心をつくす夕まぐれ、池田の宿にぞ着き給ふ。
 かの宿の遊君、熊野がもとにぞ宿し 給ふ。
 熊野は三位の中将を見たてまつりて、「いとほしや。いにしへは、この御さまにて東方へ下り給ふべしとは、夢にも思はざりしことを」と申して、一首の歌をぞ奉る。
 旅のそら埴生の小屋のいぶせきにふる里いかにこひしかるらん
 三位の中将御返事に、
 ふる里もこひしくもなし旅のそら都もつひのすみかならねば
 三位の中将、梶原を召して、「ただいまの歌の主はいかなる者ぞ。やさしうもつかまつりたるものかな」とのたまへば、景時かしこまつて、「君はいまだしろしめされ候はずや。あれこそ、屋島の大臣殿の当国の守にてわたらせ給ひしとき、召されまゐらせて御最愛候ひしに、『老母のいたはり』とてしきりに暇申しけれども、賜はらざりければ、ころは弥生のはじめにてもや候ひけん、
 いかにせん都の春も惜しけれど慣れしあづまの花や散るらん
 とつかまつりて、御暇賜はりてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候」とぞ申しける。
 都を出でて日数経れば、弥生もなかば過ぎなんとす。
 遠山の花は「のこる雪か」と見えて、浦々、島々もかすみわたり、来し方、行く末を思ひつづけて、「いかなる宿業やらん」とかなしみ給へどかひぞなき。
 小夜の中山にかかり給ふにも、「また越ゆべし」ともおぼえねば、いやましあはれも数そひて、袂ぞいたく濡れまさる。
 宇津のや手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて雪のしろき山あり。
「あれはいづくやらん」と問ひ給へば、「甲斐の白根」 とぞ申しける。
 そのとき、中将、
 惜しからぬ命なれども今日まではつれなきかひの白根をも見つ
 清見が関も過ぎ行けば、富士の裾野にもなりにけり。
 北には青山峨々として、松吹く風も索々たり。
 南は蒼海漫々として、岸うつ波も茫々たり。
「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と、明神のうたひはじめ給ひけん足柄山もうち過ぎ、「急がぬ旅」とは思へども、日数やうやうかさなれば、鎌倉へこそ入り給へ。
 兵衛佐、三位中将に対面し給ひて、「会稽の恥をきよめ、君の御憤りをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、平家を滅ぼしたてまつらんこと案中に候ひき。さるほどに、まのあたりに、か様に見参に入るべしとは思ひよらざつしかども、さだめて今は屋島の大臣殿の見参にも入りつべしとこそおぼえ候へ。そもそも奈良を滅ぼし給ふこと、故太政入道の御ぱからひか、また臨時の御事に候ふか。はかりなき罪業にてこそ」とのたまへば、三位中将のたまひけるは、「南都炎上の事、入道の成敗にもあらず、重衡が発起にもあらず。衆徒の悪行をしづめんがためにまかり向かうて候ひしほどに、不慮に伽藍滅亡におよび候ひしこと、力およばず。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御まぼりたりしかども、近来は源氏の運かたぶきたりしことは、事あたらしく申すべきにあらず、人みな存知のことなり。当家は保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげ、かたじけなくも一天の君の御外戚 として、一族の昇進六十余人。二十余年このかたは、楽しみ、栄え、申すはかりなし。しかるに、今運尽きぬれば、重衡捕はれてこれまで下り候ひき。それにつき、『帝王の御敵を討ちたる者、七代まで朝恩失はず』と申すことは、きはめたるひが事にて候ひけり。まのあたりに、入道は君の御ために命を失はんとすること、たびたびにおよぶといへども、わづかにその身一代のさいはひにて、子孫、か様にまかりなるべくや。されば一門運尽きて、都をすでに落ちしうへは、『かばねは山野にも晒し、江海にも沈めべし』とこそ存知候ひつれ、これまで下るべしとは思ひよらず。『殷の湯は夏台に捕はれ、文王は□里に捕はる』。弓矢取る身の、敵の手に捕はれて滅ぼさるること、昔よりみなあることなり。重衡一人にかぎらねば恥ぢつべきにあらねども、前世の宿業こそ口惜しう候へ。ただ芳恩には、とくとく首を刎ねらるべく候」とのたまひて、そののちは物をも言ひ給はず。
 梶原これを承り、「あはれ、大将軍や」と、涙をぞながしける。
 その座にゐたりける侍ども、みな袖をぞ濡らしける。
「南都を滅ぼしたる伽藍の敵なれば、大衆さだめて申す旨あらんずらん」とて、伊豆の国の住人、狩野介宗茂に預けらる。
 その体、「冥途にて、娑婆世界の罪人を、七日、七日に十王の手にわたすらんも、かくや」とおぼえてあはれなる。
 狩野介、なさけある男にて、さまざまにいたはりなぐさめたてまつる。
 湯殿をこしらへ、御湯ひかせたてまつりなんどしけり。
 あるとき、湯殿におり給ひけるところに、よはひ二十ばかりなる女房の、色 白うきよげなるが、目結の帷子に、染付の湯巻着て、湯殿の戸をひらき参らむとす。
 三位の中将、「いかなる人ぞ」と問ひ給へば、「兵衛佐殿より、御湯殿のために参らせられてさぶらふ」とて、十四五ばかりなる女童の、半插盥に櫛入れ参りたり。
 二人に介錯せられて、髪洗ひ、湯浴びなんどしてあがり給ひぬ。
 この女房、帰らんとて、いとまごひして申しけるは、「『なにごとにても候へ、おぼしめさん御ことをば承つて、申せ』とこそ兵衛佐殿より承つてさぶらひつれ」と申す。
 中将笑ひて、「重衡ただ今なにごとをか申すべき。『ちかく斬らるるべきこともやあらん』と思へば、髪こそ剃りたけれ」とのたまへば、この女房帰り参りて、この様を申せば、「兵衛佐がわたくしの敵にあらず、すでに朝敵となれる人なり。出家のことあるべうも候はず」とぞのたまひける。
 三位の中将、守護の武士に向かひ、「さても、この傾城はいたいけしたる者かな。名をば何と言ふやらん」とのたまへば、狩野介かしこまつて申しけるは、「あれは手越の長者が娘にて候ふが、心ざまの優にやさしく候ふとて、兵衛佐殿、この三四年召し使はれ候ふが、名をば『千手の前』と申し候」。
 兵衛佐殿、三位の中将か様にのたまふよし伝へ聞き給ひて、この女房をはなやかに仕立たせて、三位の中将のもとへつかはさる。
 その夕べ、雨降り、世の中うちしづまりて、物すさまじかりけるをりふし、くだんの女房、琵琶、琴を持ちて参りたり。
 狩野介も、家の子、郎等十余人具して御前に参り、酒すすめたてまつらんとす。
 狩野介、かしこまつて申しけるは、 「兵衛佐殿より、『よくよく宮仕ひ申せ。懈怠にて頼朝うらむな』と承つて候へば、宗茂は心のおよばんほどは宮仕ひ申さんずる」とて、御酒すすめたてまつる。
 千手の前、酌をとりて参りたりけれども、中将、いと興もなげにおはしければ、狩野介、「なにごとにても候へ、申させ給へかし」と申せば、千手、酌をさしおいて、羅綺の重衣たるは情なきことを機婦にねたまるといふ朗詠したりければ、中将これを聞き給ひて、「この朗詠せん人は、北野の天神『一日に三度翔り守らん』と誓願ましましけり。されども重衡、今生ははや捨てはてられたてまつりぬ。されば助音してもなにかせん。今はただ、罪障かろくなるべきことならば、なびきたてまつるべし」とぞのたまひける。
 千手また酌をさしおいて、十悪といへどもなほ引摂す極楽をねがふ人はみな弥陀の名号となふべしといふ今様を歌ひすましたりければ、中将そのとき、盃をかたぶけられて、千手の前に賜はる。
 千手飲みて、狩野介に差す。
 狩野介飲むとき、千手、琴をひきすます。
 中将、笑つて、「この楽は普通には『五常楽』とこそ申せども、重衡がためには『後生楽』とこそ観ずべけれ。されどもやがて『皇□』の急をつがばや」とたはぶれ給ひて、琵琶を取り、転手を捻ぢて、皇□の急をぞひかれける。
 狩野介が盃を、みな家の子、郎従、飲み下してげり。
 小夜もやうやうふけゆけば、世の中もうちしづまりて、いとど物あはれなりけるに、三位の中将、心をすましておはしけるをりふし、ともし火の消え たりけるを見給ひて、三位の中将、とぼし火くらうしては数行虞氏が涙夜ふけて四面楚歌の声といふ朗詠を、泣く泣くぞせられける。
 この詩の心は、昔漢の高祖と、楚の項羽と合戦すること七十余度、いくさごとに高祖は負け給ふ。
 されどもつひには項羽負けて落ち行くとき、虞氏といふ最愛の后に名残を惜しみ給ふをりふし、とぼし火さへ消えて、たがひに形をあひ見ることなくして、泣く泣く別れける、とぞ承る。
 三位の中将心をすまし給ひて、「や、御前。あまりにおもしろきに、何事にてもいま一度」とのたまひければ、千手心をすましつつ、一樹のかげにやどり一河の流れをくむもこれ先世の宿縁なりといふ白拍子を、返す返す、歌ひすましければ、三位の中将、よにもおもしろげにぞのたまひける。
 夜もすでに明けゆけば、千手はいとま申して帰りけり。
 そのあした、兵衛佐殿は、持仏堂に御経読誦してましましけるところに、千手参りたり。
 兵衛佐、千手を御覧じて、「頼朝は千手におもしろきなかだちをしたるものかな」とのたまへば、斎院の次官親能、彼方にもの書きて候ひしが、「なにごとにて候ふやらん」と申せば、「日ごろは平家の人々は、弓矢の勝負のほかは他事あらじとこそ思ひつるに、この三位の中将は琵琶の撥音、口ずさみの様、夜もすがら立ち聞きしたるに、これほど優なる人にておはしけるいとほしさよ」とぞのたまひける。
 親能、筆をさしおいて、「誰も、さだに承つて候ひしかば、立ち聞きつかま〔つ〕るべう候ふものを、いかに御諚候はぬやらん。平家は代々、文人、歌人たちにて候ふものを。 一年平家の一門を花にたとへ候ひしとき、この人は『牡丹の花』にたとへ候ひしぞかし」と申しければ、兵衛佐殿、「まことに優なる人にてましましける」とて、後までもありがたくこそのたまひけれ。
 それよりしてこそ千手の前は、いとど思ひも深うはなりにけれ。
 されば、「中将、南都へわたされて、斬られぬる」と聞こえしかば、様を変へ、信濃の国善光寺に、行ひすまして、かの後世菩提をとぶらひ、わが身も往生の素懐をとげにけり。

第九十五句 横笛

 さるほどに、小松の三位の中将維盛は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよはれけり。
 故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々のことを、明けても、暮れても、思はれければ、「あるにかひなきわが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年三月十五日のあかつき、しのびつつ屋島の館をまぎれ出で給ふ。
 乳人の与三兵衛重景、石童丸といふ童、下郎には「舟もよく心得たる者なれば」とて、武里といふ舎人、是等(これら)三人ばかり召し具して、阿波の国、由岐の浦より海士小舟に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位の北の方、耐へざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路へおもむき給ひけり。
 和歌、吹上の浜、衣通姫の神とあらはれおはします玉津島の明神、日前権現 の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。
「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度見もし、見えばや」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれて、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばねに血をあやさんもさすがにて、千たび心はすすめども、心に心をからかひて、ひきかへ高野の御山へのぼり給ひけり。
 高野に年ごろ知られける聖あり。
 三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に「斎藤滝口時頼」といふ者なり。
 もとは小松殿の侍なりしが、十三のとき、本所へ参り、宮仕ひしたてまつる。
 建礼門院の雑仕に「横笛」といふ女を思ひて、最愛してかよひけり。
 かの女の由来を詳しくたづぬるに、もとは江口の長者が娘なり。
 故太政入道殿、福原下向のとき、長者が宿所へ入り給ふに、横笛十一歳と申すに、瓶子取りにぞ出でたりける。
 入道これを見給ふに、みめかたち優なりければ、中宮の雑仕に召さるる。
 かかるわりなき美人なれば、横笛十四、滝口十五と申す年より、浅からず思ひそめてぞかよひける。
 父茂頼これを聞き、「なんぢを世にあらん者の聟にもなして、よきありさまを見聞かんとこそ思ひしに、いつとなく出仕なども懈怠がちなるものかな」と、あながちにこれを制しけり。
 滝口申しけるは、「西王母と聞きし人、昔はありて、今はなし。東方朔が九千歳も、名をのみ聞きて、目には見ず。老少不定の 世の中は、石火の光に異ならず。たとへば人の命、長しといへども、七八十をば過ぎず。そのうちに身のさかりなること、わづかに二十余年を限れり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をば片時も見ては何かせん。『思はしきものを見ん』とすれば、父の命を背くに似たり。『父の命を背かじ』とすれば、五百生まで深からん女の心をやぶるべし。とにかくに、父のため、女のため、これすなはち善知識のもとゐなり。憂き世を厭ひ、まことの道に入らんにはしかじ」とて、滝口十九にて菩提心をおこし、髻切りて、嵯峨の奥、「往生院」といふ所に、行ひすましてゐたりけるに、横笛、これをつたへ聞きて、「われをこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの無慚さよ。たとひ世をこそ厭ふとも、なじかはかくと知らせざらん。人こそ心づよくとも、たづねて、いまは恨みん」と思ひつつ、人一人召し具して、ある夕かたに、内裏を出でて、嵯峨の奥へぞあこがれ行く。
 ころは如月十日あまりのことなれば、梅津の里の春風に、綴喜の里やにほふらん。
 大井川の月影も、霞にこもりておぼろなり。
 一方ならぬあはれさも、「誰ゆゑか」とこそ思ひけれ。
「往生院」とは聞きたれども、さだかなる所を知らざりければ、ここにたたずみ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞ無慚なる。
 灯籠の光のほのかなるに目をかけて、はるばる分け入り、住み荒らしたる庵室にたち寄り、聞きければ、滝口とおぼしくて、内に念誦の声しけり。
 召し具したる女を入れて、「わらはこそ、これまで訪ねまゐりたれ」と柴の編戸をたたかせければ、滝口入道、 胸うちさわぎ、障子のひまよりのぞきて見れば、寝ぐたれ髪のひまよりも、流るる涙ぞところ狭く、今宵も寝ねやらぬとおぼえて、面痩せたるありさま、たづねかねたる気色、まことにいたはしく見えければ、いかなる道心者も心弱くなりつべし。
 滝口、「いまは出で会ひ、見参せばや」と思ひしが、「かく、心かひなくしては、仏道なりや、ならざるや」と心に心を恥ぢしめて、いそぎ人を出だして、「まつたくこれにはさる人なし。門たがひにてぞ候ふらん」とて、心強くも滝口は、つひに会はでぞ返しける。
 横笛、「うらめしや。発心をさまたげたてまつらんとにはあらず。ともに閼伽の水をむすびあげて、ひとつ蓮の縁とならんとこそのぞみしに、夫の心は川の瀬の、刹那に変るならひかや。女の心は池の水の積りてものを思ふなるも、いまこそ思ひ知られけれ」。
 滝口入道、同宿の聖に向かひて申しけるは、「ここもあまりにしづかにて、念仏の障碍はなけれども、飽かで別れし女に、このすまひを見えて候へば、一度は心強くとも、またもしたふことあらば、心うごくこともや候ふべし。
 いとま申して」とて、嵯峨をば出で、高野へのぼり、清浄院に行ひすまして〔ゐたりけり。〕横笛も様を変へたるよし聞こえければ、滝口入道、高野より、ある便りに一首の歌をぞ送りける。
 剃るまではうらみしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき
 横笛、返事に、
 剃るとてもなにかうらみんあづさ弓ひきとどむべき心ならねば
 その思ひの積りにや、横笛、奈良の法華寺にありけるが、ほどなく死してげり。
 滝口入道、このことをつたへ聞きて、いよいよ行ひすましてゐたりければ、父の不孝もゆるされたり。
 したしき者どもは、「高野の聖の御坊」とぞもてなしける。
 高野の人は、「梨の本の阿浄坊」と申す。
 由来を知りたる者は「滝口入道」とも申しけり。

第九十六句 高野の巻

 さるほどに三位の中将維盛、高野へのぼり、ある庵室にたち寄り、滝口をたづね給ひければ、内より聖一人出でたり。
 すなはち滝口入道これなり。
 この聖は夢の心地して申しけるは、「このほどは屋島にわたらせ給ふとこそ承つて候ひつるに、なにとしてこれまでつたはり給ひて候ふやらん。さらにまぼろしとも、うつつともおぼえず」とて、涙をながす。
 中将、見給ふに、本所にありしときは、布衣に立烏帽子、衣文かいつくろひ、鬢をなでて、優なりし男の、出家ののちは、いまはじめて見給ふ。
 いまだ三十にだにたらぬ者の老僧すがたに痩せおとろへ、濃き墨染の衣に同じ袈裟、香のけぶりに染みかほり、さかしげに思ひ入りたる道心すがた、うらやましうや思はれけん。
「漢の四晧が住みけん商山、晋の七賢がこもりし竹林のすまひもかくや」とおぼえてあはれなり。
 三位の中将、のたまひけるは、「人なみなみに都を出でて、西国へ落ち下りしかども、ただおほかたの恨めしさもさることにて、故郷にとどめ おきし幼き者どもがことをのみ、明けても暮れても思ひゐたれば、もの思ふ心のほかに著うや見えけん、大臣殿も二位殿も、『池の大納言の様に、この人も二心あらん』とて、うちとけ給はねば、いと心もとどまらず、屋島の館をまぎれ出でて、これまで迷ひ来れり。『これより山づたひに都へ行き、恋しき者どもを、見もし、見えばや』なんどと思へども、それも重衡がことの口惜しければ、はや思ひきりたるなり。同じくは『これにて髻を切り、火の中、水の底にも入らん』と思ふぞや。ただし『熊野へ参らん』と思ふ宿願あり」とのたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。
 滝口入道、申しけるは、「夢まぼろしの世の中は、とてもかうても候ひなん。ただ長き世の闇こそ心憂く候へ」とて、やがて滝口入道先達にて、堂、塔、巡礼して、奥の院へぞ参り給ふ。
 大師の御廟を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。
 大塔と申すは、南天の鉄塔を表して、高さ十六丈の多宝なり。
 金堂と申すは、兜率の摩尼殿を表して、四十九院につくられたり。
 上には千体の阿弥陀如来、中尊は薬師の十二神、千手の二十八部衆、みなこれ大師の御作なり。
 そもそも延喜の帝の御時、御夢想の告あり。
 檜皮色の御衣を、かの御山へ送られけるに、勅使中納言資澄の卿、般若寺の僧正観賢あひ具して、奥の院へ参り給ひて、石室の御戸をひらき、御衣を着せたてまつらんとしけるところに、霧ふかくへだたりて、大師拝まれ給はず。
 そのとき僧正、悲涙をながして、「われ悲母の胎内を 出で、師匠の室に入りしよりこのかた、禁戒を犯さず。さればなどか拝まれ給はざらん」と、五体を地に投げ、発露啼泣し給へば、漸々に霧はれて、山の端より月の出づるがごとくにして、大師拝まれ給ひけり。
 観賢随喜の涙をながし、御衣を召させたてまつる。
 御髪の長く生ひさせ給ひたりけるを、僧正剃りたてまつり給ひけり。
 石山の内供淳祐、そのときはいまだ童形にて供奉せられけるが、大師を見たてまつらず、嘆きしづみておはしけるところに、僧正、かの内供の手をとりて、大師の御膝のほどにおし当てられしかば、御身あたたかにして触らせ給ひけり。
 その手一期があひだ、香しかりけるとかや。
「そのうつり香は石山の聖教にとどまりて、今にある」とぞ承る。
 大師、帝の御返事に、「われ、昔薩□に会ひたてまつり、まのあたりことごとく印明をつたへ、無比の誓願をおこして、辺地異域に侍る。昼夜万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生を待つ」とぞ申させ給ひける。
「かの摩訶迦葉の鶏足の洞にこもり、鷲頭の春の風を期し給ふらんもかくや」とぞおぼえたる。
 高野山と申すは、帝城を去つて二百里、郷里をはなれて無人声、晴嵐梢をならし、夕日の影のどかなり。
 八葉の峰、八つの谷、峨々としてそびえたり。
 渺々として限りもなし。
 峰の嵐はげしくして、振鈴のこゑにまがふ。
 花の色は林霧の底にほころび、鐘のこゑは尾 上の雲にひびきけり。
 瓦に松おひ、垣に苔むして、星霜 ひさしくおぼえたり。
 説法衆会の庭もあり、坐禅入定の窓もあり、念仏三昧のうてなもあり。
 天竺より摩訶迦葉の渡されて、大師相伝し給ひし、七条の袈裟もあるとかや。
 御入定は承和二年三月二十一日、寅の刻のことなれば、過ぎにしかたも三百余歳、行くすゑもなほ五十六億七千万歳ののち、慈尊出世三会の暁を待たせ給ふらんひさしさよ。

第九十七句 維盛出家

「維盛が身は雪山の鳥の鳴くらん様に『今日よ、明日よ』と物を思ふことよ」とて涙にむせぶぞいとほしき。
 塩風に痩せくろみ給ひて、その人とは見えねども、なべての人にはまがふべくもなし。
 その夜は、滝口入道が庵室に帰りて、夜もすがら、昔、今のことをこそ語り給ひけれ。
 聖が行儀を見給へば、至極甚深の床のうへには、真理の玉をみがくらんと見え、後夜、晨朝の鐘のこゑは、生死のねぶりをさますらんとおぼえたり。
 世を遁るるべくんば、かくもあらまほしくぞ思はれける。
 夜もすでに明けければ、三位の中将、戒の師を請じたてまつらんと、東禅院の聖智覚上人を申し請けて、出家せんと出でたち給ひけるが、与三兵衛、石童丸を召して、「われこそ道せばく、のがれがたき身なれば、今はかくなるとも、なんぢらは都のかたへのぼり、いかならん人にも宮仕ひ、身をたすけ、妻子をはごくみ、また維盛 が後の世をもとぶらひなんどもせよかし」とのたまへば、重景も石童丸も、はらはらと泣きて、しばしもものも申さず。
 ややあつて、与三兵衛、涙をおし拭うて申しけるは、「親にて候ひし与三左衛門景康は、平治の合戦のとき、小松殿の御供に候ひけるが、二条堀河の辺にて、悪源太に御馬を射させ、材木のうへにはね落され給ふ。義朝の乳人、鎌田兵衛政清よろこうで懸り候ひけるに、景康なかにへだたり、鎌田と組みしに、悪源太落ちあひて、景康討たれ候ひぬ。そのまぎれに、重盛、御乗替に召され、二条を東に馳せのび給ふ。重景、そのときは二歳とかやにて候ひし。七歳にして母におくれ、そののちはあはれむべき親しき者一人も候はざりしに、小松殿、『あれは、わが命にかはりたる者の子なれば』とて、ことに不便にましまして、九つの年、君の御元服候ひしに、『五代が男になるなれば、松王もうらやましからん』とて、同じく髻とりあげられまゐらせて、『盛の字は家の字なれば、五代に付くる。重の字を松王に賜ぶ』とて、『重景』とは名のらせましましけり。又童名を『松王』と申すことも、生まれて五十日と申すに、父が抱いて参り候ひければ、『この家を小松と言へば、なんぢが子をば祝ひて』とて、『松王』と賜はりけり。御元服ののちは、とりわき君の御方に候ひて、今年すでに十九年になるとこそおぼえて候へ。上下もなくあそびたはぶれまゐらせて、一日片時もたち離れたてまつらず。親のよくして死にけるも、わが身の冥加とこそ存じ候へ。されば重盛御臨終 のとき、この世の中をばみなおぼしめし捨て、一言も仰せの候はざつしかども、重景を御前近う召して、『なんぢが父は、重盛が命にかはりたる者ぞかし。さればなんぢは、重盛を父の形見と思ひ、重盛は、なんぢを景康が形見とこそ思ひてすごしつれ。今度の除目に靫負の尉になして、おのれが父景康を呼びし様に召し使はばやと思ひしに、かくなる身こそ口惜しけれ。少将殿の御方に候ひて、あひかまへてあひかまへて心にちがはず宮仕ひ申し候へ』とこそ、最後の仰せまでも承り候ひしが、君も日ごろは『御命にもかはりまゐらすべき者』とふかくおぼしめしつるに、いまさら、『見捨てまゐらせよ』と仰せ候ふ御心のうちこそ恥づかしう候へ。そのうへ、『世にあらん人をたのめ』と仰せ候。当時は源氏の郎等どもこそ候ふなれ。君の、神にも、仏にもならせ給ひてのち、楽しみ、栄え、世にあるとも、千歳の齢を延ぶべきか。たとひ万年をたもつとも、つひに終りのなかるべきか。西王母が三千年昔語りに今はなし。東方朔が九千歳、名のみ残りてすがたなし。これぞ善知識のもとゐにて候」とて、手づから髻を切りて、滝口入道に剃らせ、やがて戒をぞたもちける。
 石童丸も滝口入道に髪剃らせ、同じく戒をぞたもちける。
 これも八歳のときより付きたてまつり、不便にし給ひしかば、重景にも劣らず思ひたてまつる。
 是等(これら)がか様に先だつありさまを見給ひて、中将いよいよ心ぼそうおぼしめして、御涙いとどせきあへ給はず。
 さてもあるべきことならねば、流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者と三返となへて、剃りくだし給ひけるにも、「故里にとどめおきし北の方、幼き人々に、いま一度かはらぬすがたを見えもし、見もしてかくならば、思ふことあらじ」と思はれけるぞ罪ふかき。
 三位の中将も、与三兵衛も、同年にて、今年は二十七とかや。
 石童丸は十八歳。
 不定のさかひはまことなれども、いまだ行くすゑははるかなり。
 そののち舎人武里を召して、「なんぢは、『われ終らんを見つるものならば、やがて都へのぼすべし』と思ひつれども、つひにかくれあるまじきことなれば、『しばらくは知らせじ』と思ふなり。そのゆゑは、都に行きて、『この世に亡き者』と申すならば、さだめて様をも変へ、かたちをもやつさんずるも不便なり。
 幼き者どもが嘆かんことも無慚なり。『迎へとりなどせん』とこしらへおきし言の葉も、みないつはりとなりぬべし。屋島にのこりゐる侍どもが、おぼつかなく思ふらんも心憂ければ、『ただ屋島へ渡さん』と思ふぞとよ。新三位の中将に、ありつるありさまを申すべし。『御覧じし様に、おほかた世の中ももの憂きさまにまかりなりぬ。頼みすくなきことも数そひて見え候ひしかば、おのおのにも知らせまゐらせず、うかれ出でてかくなり候ひぬ。西国にては左の中将失せ給ひぬ。一の谷にて備中守討たれ、維盛さへかくなり候へば、いかにおのおの頼りなうおぼしめされ候はんずらん。これのみ心苦しう候。そもそも、唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家嫡嫡に相伝して、維盛までは九代にあたるなり。その鎧と太刀は 貞能にて平家の世にも立ち直らば、六代に賜べ』と申すべし」とぞのたまひける。
 滝口入道を善知識として召し具せられ、山伏、修行者の様にて、高野をたち、まづ粉河の観音に参り給ひ、一夜通夜して、「南無大慈大悲、願はくは、維盛が宿願成就」と祈りつつ、紀伊の国山東へこそ出でられけれ。
 山東の王子をはじめたてまつり、藤白の王子以下、王子、王子を伏し拝み、坂のぼりて、和歌、吹上、玉津島をかへり見、またいつ参るべしともおぼえねば、心に涙ぞすすみける。
 千里の浜地を指すほどに、岩代の王子の辺にて、狩装束したる武士七八騎がほどに逢うたりけり。
 そのとき「すでにから〔め〕捕られん」と思ひて、おのおの腰の刀に手をかけ、自害せんと思ひ給ふところに、是等(これら)は見知りまゐらせたりけるにや、あやしむべき気色もなくして、みな馬より下り、ふかくかしこまつてぞ通しける。
「こはいかに。誰なるらん。見知りたる者にこそ」とおぼしめされければ、いとど足ばやにぞ通られける。
 敵にてはなかりけり。
 平家譜代の家人に、当国の住人、湯浅権守宗重が子に、七郎兵衛宗光と申す者にてぞ候ひける。
 七郎兵衛が郎等ども、「いかなる修行者たちにて御渡り候ふやらん」と問ひければ、宗光、うち涙ぐみて、「あな、事もかたじけなや。これこそ太政入道殿の御孫、小松の大臣の御嫡子、三位の中将殿よ。この人こそ、日本国のあるじ小松殿の御時は、父湯浅権守、 侍の別当つかまつりしかば、諸大名に仰がれき。この君、世にまさば、われまたさこそあらんずるに、かくなりはて給ふいとほしさよ。『このほどは屋島におはします』とこそ承りつるに、これまではなにとしてつたはり給ひけるやらん。はや御様変へさせ給ひけり。見参に入りたくは思へども、はばからせましますとおぼえければ、思ひながらうち過ぎぬ。与三兵衛、石童丸も同じく様変へ、御供したるぞや。熊野路の方へおぼしめすとおぼえたり。夢の様なることどもかな」とて、涙にむせびければ、郎等ども、直垂の袖をぞ濡らしける。
 岩田川にも着きしかば、「この川を一たび渡る人、悪業煩悩、無始の罪障も消するなるものを」と、たのもしくぞ渡り給ふ。
 向かひの岸にあがり、たちかへり水の面をまばらへて、さめざめと泣き給ふ。
 滝口、「とにかくに尽きぬ御涙にて候。さりながら、ただ今は何事をおぼしめし出で候ふや」と申しければ、三位入道、「なんぢは知らずや。去んぬる治承三年五月のころ、大臣熊野参詣のとき、維盛をはじめとして、新三位の中将、越前の侍従、左中将、四位の少将、兄弟四人下向の道におよぶ。そのころ浅葱染のめづらしければ、浄衣の下に浅葱の帷子を着、この川にて水をたはぶれしに、われらが着たりし浄衣、みな色のすがたにて見えしを、貞能がとがめ申す様、『公達の御浄衣、いまいましく見えさせ給ふ。替へたてまつらん』と申せしを、大臣、御覧じて、『あるべからず。改むべからず』とて、これよりまた、よろこびの奉幣を奉る。同じく五月二十八日より、 悪瘡わづらはせ給ひて、同じき八月一日かくれさせ給ひぬ。ただ今の様におぼえて、不覚の涙おさへがたし」とのたまへば、滝口をはじめて、御ことわりとぞ感じける。

第九十八句 維盛入水

 維盛、まづ証誠殿の御前に参り、法施参らせて、御山の様を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。
 大悲擁護の霞は、熊野山にそびえき。
 霊験無双の神明は音無川に跡を垂れ、かの一乗修行の峰には、感応の月くまもなし。
 六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。
 いづれもいづれもあはれをもよほさずといふことなし。
 夜もすがら祈念申されけるなかにも、父大臣、治承のころ、この御前にて「命を召し、後世をたすけさせましませ」と、申させ給ひけんこと思ひ出でてあはれなり。
「本地弥陀如来にておはしければ、摂取不捨の本願あやまたず、西方浄土へ迎へ給へ」とかきくどき申されける。
 なかにも「故郷にとどめおきし妻子安穏」と祈られけるこそかなしけれ。
「憂き世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほ尽きず」とおぼえて、いよいよあはれはまさりけり。
 それより船に乗り、新宮へ参り、神倉を拝み給ふに、「巌松高くそびえて、嵐妄想の夢をやぶり、流水清く流れて、波煩悩の垢をそそぐらん」とおぼえたり。
 飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山へ参詣す。
 三重にみなぎり落つる 滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像あらはれ、「補陀落山」とも申しつべし。
 霞の底には法華読誦の声聞こえ、「霊鷲山」とも言ひつべし。
 寛和の夏のころ、花山の法皇、十善の位をのがれさせ給ひて、九品の浄刹をおこなはれし御庵室の旧跡も、昔をしのぶばかりにて、老木の桜のみぞのこりける。
 那智籠りのうちに、三位の中将を都にてよく見知りたる僧のありけるが、「いとほしや、これなりつる修行者をいかなる人やらんと思ひたれば、小松の三位の中将殿にておはしけるぞや。あの殿のことぞかし。安元の御賀に、そのころ十八か九かにて、桜をかざいて青海波を舞はれしに、当家にも、他家にも、みめよき殿上人にえらばれて垣代にたち給へる、橋もとには関白以下の大臣、公卿、おほく着き給ひしなかにも、父の大将にて着せられたりしかば、人また並ぶべしとも見えざつしものを。嵐ににほふ花のすがた、風にひるがへる舞の袖、天を照らし地を輝かすほどなりき。『あはや。大臣の大将只今待ちかけ給ふ人よ』とて、われも、人も、申せしに、移れば変る世のならひこそかなしけれ」とて、涙にむせびければ、かたへの僧どもも、みな袖をぞしぼりける。
 三つの御山ことゆゑなく遂げ給へば、浜の宮の御前より、一葉の船をさし出だして、万里の波にぞ浮かび給ふ。
 沖の小島に松のありける所にあがりて、大きなる松の側をけづりて、泣く泣く名をぞ書かれける。
 祖父六波羅の入道、前の太政大臣平の朝臣清盛公、法名 浄海親父小松の内大臣重盛公、法名浄蓮その子三位の中将維盛、法名浄円。
 二十七にて浜の宮の御前にて入水をはんと書きつけて、また船に乗り、海にぞ浮かび給ひける。
 歌に、
 生まれてはつひに死にてふことのみぞさだめなき世のさだめあるかな
 ころは三月二十八日のことなりければ、春もすでに暮れなんとす。
 海路はるかに霞みわたりて、あはれをもよほすたぐひなり。
 沖の釣舟、浮きぬ、沈みぬ、波の底に入る様に見ゆるもあり。
「みな、わが身のうへ」とや思はれけん。
 帰雁、雲居におとづれ行くを聞き給ふにも、故郷にことづてせまほしく、蘇武が胡国のうらみまで、思ひのこせるかたぞなき。
 三位の中将、西に向かひ、手をあはせ、高声に念仏をとなへ給ふが、念仏をとどめ、滝口入道にのたまひけるは、「あはれ、人の身に持つまじきものは妻子にてありけるぞ。ただ今もなほ思ひ出づるぞとよ。思ふこと心にとどむれば、罪深からんなれば、懺悔するなり」と、のたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。
 滝口入道、申しけるは、「さん候。たつときも、いやしきも、恩愛の道は力におよばず。なかにも夫婦は、一夜の契りし給ふも、みな五百生の宿縁とこそ申し候へ。生者必滅、会者定離は憂き世のならひにて候へば、たとひ遅速こそ候ふとも、後れ、先だつ御別れは、なくてしもや候ふべき。しかれば第六天の魔王は、欲界をわがものと領じて、このうちの衆生の生死を離るることを惜しみ、もろもろの方便をめぐらし妨げ んとするを、三世の諸仏は、一切衆生を子のごとくおぼしめして、極楽浄土不退の地にすすめ入れんとし給ふに、妻子といふものが、生死のきづなとなるによつて、仏おほきにいましめ給ふ、これなり。源氏の先祖、伊予入道頼義は、貞任、宗任を滅ぼせしとき、十二年のあひだ人の首を斬ること一万六千人、そのほか山野のけだもの、江河のうろくづ、その命をたつこと幾千万といふことを知らず。されども、一度菩提心をおこすによつて、つひに往生することを得たりき。御先祖平将軍は、将門を滅ぼし、八か国を討ちしたがへ給ひしよりこのかた、代々朝家の御かためにて、九代にあたり給へば、君こそ日本国の将軍にてわたらせ給ふべけれども、御運尽きさせ給ひぬれば、力およばず。されども出家の功徳は莫大なれば、前世の罪業も滅し給ひぬらん。『百千歳、百羅漢を供養するといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『たとひ、人ありて、七宝の塔婆を建てて三十三天にいたるといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『一子出家すれば九族天に生ず』とこそ申しぬれ。罪深き頼義さへ、心たけきによつて往生の素懐を遂ぐる。いはんや、させる罪業ましまさず。なじかは、君、浄土へ向かはせ給はざらん。弥陀如来は『十悪五逆をも導かん』と悲願まします。かの悲願の力に乗ぜんには、うたがひやは候ふべき。二十五の菩薩は伎楽歌詠じて、法性の御戸をひらき、ただ今むかひ給ふべし。今こそ蒼海の底に 沈みんとおぼしめし候ふとも、つひには紫雲の上にこそのぼらせ給はんずれ。成仏得道して、悟りをひらき給ひて、娑婆世界の故郷へかへりて、去りがたかりし人をも引導し、恋しき人をも迎へ給はんこと、程を経るべからず。ゆめゆめ、余念わたらせ給ふな」とて、しきりに鉦鼓打ち鳴らしつつ、念仏をすすめたてまつる。
 三位中将、たちまちに妄念をひるがへし、念仏数百返となへつつ、つひに海にぞ入り給ふ。
 与三兵衛、石童丸、二人の入道、共につづいて入りにけり。
 舎人武里もこれを見て、かなしみのあまりに耐へず、つづいて海に入らんとす。
 滝口入道これを見て、「いかに、なんぢは御遺言をばちがへたてまつるぞ。下臈こそ思へば口惜しけれ」とて、泣く泣くとりとどめければ、船底にたふれ伏し、泣きさけぶことなのめならず。
 ものによくよくたとふれば、「昔、悉達太子、檀特山に入らせ給ひしとき、車匿舎人、□陟駒を賜はりて王宮へ帰りけんかなしさも、かくや」とおぼえてあはれなり。
 聖もあまりのかなしさに、墨染の袖をぞしぼりける。
「もしや、浮きもあがり給ふ」と見けれども、日も入りあひになるまで、つひに浮きあがり給はず。
 海上も次第に暗うなれば、名残は惜しけれども、さてしもあるべきならねば、むなしき船を泣く泣くなぎさに漕ぎかへす。
 棹のしづく、落つる涙、いづれもわきて見えざりけり。
 武里、屋島へ参りて、新三位の中将以下の人々に、このよしを申せば、「大臣に後れまゐらせてののちは、高き山、深き海ともたのみたてまつりてこそありつるに、さ様になり給ひ けんことのかなしさよ」とて、泣きかなしみ給ひけり。
 大臣殿も、二位殿も、これを聞き給ひて、「『池の大納言の様に、二心ありて、都のかたへのぼり給ふか』と思ひたれば、さはなくてこそ」とて、涙をながしあはれけり。

第九十九句 池の大納言関東下り

 同じく四月一日、鎌倉前の右兵衛佐頼朝、正四位下に叙す。
 もとは従五位下なりしが、五階を越え給ふこそめでたけれ。
 同じく三日、崇徳院を神にあがめたてまつる。
 むかし保元のとき合戦ありし、大炊の御門の末にこそ社を造り、宮遷りあり。
 賀茂の祭りの以前なれども、法皇の御ぱからひにて、内には知られず。
 そのころ池の大納言頼盛、関東より、「下られべき」よし申されければ、大納言関東へこそ下られけれ。
 その侍に弥平兵衛宗清といふ者あり。
 しきりに暇申して、とどまるあひだ、大納言、「なにとて、なんぢは、はるかの旅におもむくに見送らじとするぞ」とのたまへば、弥平兵衛申しけるは、「さん候。戦場へだにおもむき給はば、まつ先駆くべく候ふが、参らずとも苦しうも候ふまじ。君こそかうてわたらせ給へども、西国におはします公達の御事存知候へば、あまりにいとほしく思ひまゐらせ候。兵衛佐殿を宗清が預かり申して候ひしとき、随分つねはなさけありて、芳志をしたてまつりしこと、よも御忘れ候はじ。故池殿の、死罪を申しなだめさせ給ひて、 伊豆の国へながされ給ひしとき、仰せにて、近江の篠原までうち送りたてまつりしこと、つねはのたまひ出だされ候ふなる。下り候はば、さだめて饗応し、引出物せられ候はんずらん。さりながらこの世はいくばくならず。西国にわたらせ給ふ公達、また侍どもが返り承らんこと、恥づかしうおぼえ候」と申せば、大納言、「何とて、さらば都にとどまりしとき、さは申さざるぞ」とのたまへば、「君のかうてわたらせ給ふを『悪しし』と申すにはあらず。兵衛佐もかひなき命生き給ひてこそ、かかる世にも逢はれ候へ」と、しきりに暇申してとどまるあひだ、大納言、力および給はで、四月二十日関東へこそ下られけれ。
 兵衛佐、大納言に対面し給ひて、「何とて宗清は来たり候はぬやらん」とのたまへば、「宗清は、今度はいたはること候ひて、下り候はず」とのたまへば、兵衛佐殿、よにも本意なげにて、「むかし彼がもとに預けられ候ひしとき、なさけある芳心の候ひしこと、いつ忘れつともおぼえず。
 『さだめて御供に下り候はんずらん』と恋しく心待ち候ひしに、あはれ、この者は意趣の候ふにこそ」とのたまひけり。
「所知賜ばん」とて、下文どもあまたなしおかれ、大名、小名、「馬ども引かん」とて用意したりけれども、下らざりければ、人々、「賢人だて」とぞ思はれける。
 大納言、「もと知行し給ふ荘園、私領、一所もあひ違ひあるまじき」よし申されけるうへに、所領どもあまた賜はられ、六月六日、都へ帰り給ふ。
 大名、小名、「われ劣らじ」と面々にもてなしたてまつる。
 鞍置馬だにも五百匹におよべり。
 命生きて上り 給へるのみならず、ゆゆしかりける事どもなり。
 さるほどに、大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、風のたよりのことづても、絶えて久しくなりにけり。
「月に一度はかならずおとづれしものを、今は火の中へも入り、水の底にも沈みて、この世に亡き人やらん」と思へる心ぞひまもなき。
 ある女房、大覚寺に来たりて申しけるは、「三位の中将殿こそ、当時は屋島にもゐさせ給ひさぶらはずなれ」と申せば、「さればこそ、世はあやしかりつるものを」とて、いそぎ人を下されたれども、やがてもたち帰らず。
 夏もたけ、六月の末にぞ帰りまゐりたる。
 北の方、まづ、「いかに」と問ひ給へば、「さ候へばこそ、過ぎにし三月十五日の暁、しのびつつ屋島の館を御出で候ひて、高野にて御出家あり。そののち熊野へ参らせ給ひて、三つの御山に参詣あつて、後世のことよくよく申させ給ひてのち、浜の宮の御前にて、御身を投げさせ給ひ候ふなり。武里は、『わがはてを見つるものならば、都へ上れと思へども、ただ屋島へ参れと思ふぞ。そのゆゑは、都にてこの世に亡き者と申すならば、やがて御様をも変へさせ給はんも御いたはしければ、屋島に参れと御遺言にて候ひけり』と申して、当時は屋島に候」と申しければ、聞きもあへ給はず、ひきかづきてぞ伏し給ふ。
 若君も、姫君も伏し倒れてぞ泣き給ふ。
 若君の乳母の女房、北の方に申しけるは、「ささぶらへども、本三位の中将の様に生捕られて、京、鎌倉、ひきしろはれて、憂き名を流させ給はんより、高野にて御出家あつて、熊野へ参らせ給ひて、後世のこと祈請申させ、御身を投げさせましますこと、これは御嘆きの中 のよろこびなり。
 今はいかにおぼしめすとも、かなはせ給ふまじ。
 ただ御様を変へさせ給ひて、彼の後世をとぶらひまゐらせさせ給はめ」と申しければ、北の方、「げにも」とて、泣く泣く様を変へて、彼の後世をぞとぶらひ給ひける。
 兵衛佐これを伝へ聞いて、「頼朝を、故池の尼公申しなだめられし使をば、小松殿こそ、『わが身ひとつの大事』と思ひて、嘆き給ひしか。その奉公を思へば、子孫までもおろそかに思はず。維盛もへだてなし。頼朝を頼みておはしたりせば、命ばかりは助けんずるものを」とぞのたまひける。
 そのころ平家追罰のために、新手二万余騎、都へさしのぼせらる。
 そのうへ「鎮西より菊池、原田、松浦党、五百余艘の船に乗りて、屋島へ寄する」とも聞こえたり。
 これを聞き、かれを聞くにつけても、心を迷はし、魂を消すよりほかのことぞなき。
 さるほどに七月二十五日にもなりぬ。
 去年の今日は都を出でしぞかし。
 あさましう、あわただしかりし事ども、思ひ出だし、語り出だし、泣きぬ、笑ひぬせられけり。
 同じく二十八日、都には新帝御即位。
 大極殿にてあるべかりしを、後三条の院の延久の佳例にまかすべしとて、太政官の庁にておこなはれ、「神璽、宝剣、内侍所なくして御即位の例、神武天皇より八十二代、これはじめ」とぞ承る。
 同じく八月六日、蒲の冠者範頼、三河守になる。
 九郎義経、左衛門尉になる。
 すなはち宣旨をかうむつて、「九郎判官」とぞ申しける。
 そのころ改元あつて、「元暦」と号す。
 やうやう秋もなかばになりぬれば、月すさまじく、荻の上風身にしみ、 萩の下露夜な夜なしげし。
 稲葉うちそよぎ、うらむる虫のこゑ、木の葉かつ散り、さらぬだに、ふけゆく秋の空はかなしきに、平家の人々の心のうち、おしはかられてあはれなり。
 昔は九重の内にして、春の花をもてあそび、今は屋島の磯にて、秋の月をかなしめり。
「都に、今宵いかなるらん」と思ひやる心をすまし、涙をながしてぞつらねける。
 行盛、
 君すめばここも雲居の月なればなほ恋しきは都なりけり

第百句 藤戸

 同じく九月十二日、三河守範頼、平家追罰のために山陽道へ発向す。
 あひしたがふ人々には、足利の蔵人義兼、北条の四郎時政、侍大将には、土肥の次郎実平、その子弥太郎遠平、和田の小太郎義盛、佐原の十郎義連、佐々木三郎盛綱、比企の藤四郎能員、大野の藤四郎遠景、一法房性賢、土佐房昌春を先として、都合その勢三万余騎、都をたつて播磨の国へ馳せくだり、室山に陣をとる。
 さるほどに、「〔平家の方の大将軍には、〕小松の〔新〕三位の中将資盛、同じき少将有盛、丹後の侍従〔忠房〕、侍大将には、飛騨の三郎左衛門景経、越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、五百余艘の船に乗り、備前の国児島に着く」と聞こえしかば、源氏三万余騎、 播磨の室山をたつて、備前の藤戸へぞ寄せたりける。
 源平両方、海のあはひ五町あまりをへだてたり。
 船なくしてはたやすく渡るべき様もなし。
 船はあれども、平家方に点じ置きたれば、「源氏方に船なし」と見て、平家方よりはやりをの者ども、小船に乗りておし浮かべ、扇をあげて、「源氏、ここを渡せ」とぞまねきける。
 されども、船なければ渡るにおよばず。
 むなしく日数をおくるほどに、同じき二十三夜の夜に入りて、佐々木の三郎盛綱、この浦の遠見するよしにて、浦人のおとなしき者を〔一人〕かたらひて、「や、殿。『ここを渡さん』と思ふはいかに。馬にて渡すべき所はなきか」と問へば、「案内知らせ給はでは、悪しう候ひなん」と申す。
 そのとき佐々木の三郎、小袖と刀を取らせて、「知らぬことはよもあらじ。教へよ」と言ひければ、「たとへば、川の瀬の様なる所こそ候へ。この瀬が不定にして、月がしらには東に候。月尻には西に候。馬の脚のおよばぬ所は、三段にはよも過ぎじ」と申す。
「うれしきことを聞きつるものかな」と思ひて、家の子、郎等にも知らせず、人ひとりも具せず、裸になりて、この男を先にたて、渡りてみれば、げにも、いたう深うはなかりけり。
 腰、膝、脇にたつ所もあり、鬢のひたる所もあり。
 先は次第に浅くなりければ、「敵陣矢先をそろへて待つところに、裸にては、かなはせ給はじ。帰らせ給へ」と申せば、佐々木の三郎それより帰りぬ。
 行き別れけるが、佐々木の三郎、「きやつ、また人に案内もや教へんずらん」と思へば、「や、殿、言ふべきことあり」とて呼びかへし、もの言ふ様にて取つておさへ、首かき切つ て、捨ててげり。
 同じき二十四日辰の刻ばかりに、平家方より扇をあげ、「源氏ここを寄せ」とまねきたるに、佐々木の三郎、これを見て、滋目結の直垂に、かし黒摺りの鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、家の子、郎等七騎、馬の鼻を並べてうち入れてぞ渡しける。
 大将軍三河守、これを見給ひて、「あの佐々木は、物について狂ふか。あれ制せよ。とどめよ」とのたまへば、土肥の次郎、馬にうち乗りて、「や、殿。佐々木殿。大将の御ゆるしもなきに。とどまれ」と言ひけれども、耳にも聞き入れず、ただ渡しに渡すあひだ、制しかねて、土肥の次郎もつづいて渡す。
 鞍爪に立つ所もあり、鞍爪越ゆる所もあり。
 深き所は泳がせて、浅き所にうちあぐる。
 三河守これを見て、「こはいかに。浅かりけるぞ。渡せ」とて、三万余騎うち入れてぞ渡しける。
 平家これを見て、「あはや。源氏の勢渡すは」とて、われ先に船に乗り、おし浮かべて、矢先をそろへて散々に射る。
 源氏は兜の錣をかたぶけて、平家の船に乗りうつり、乗りうつり、火の出づるほどにぞ戦ひける。
 源氏の兵に、和見の八郎行重と名のつて、平家の兵、讃岐の国の住人加部の源次〔光経〕とひつ組んで、上になり、下になり、ころびあふところに、加部の源次が郎等出で来り、和見の八郎を三刀さして首をとる。
 和見の八郎が従兄弟に小林の三郎重高と名のつて、加部と〔ひつ〕組み、やがて海へぞ入りにける。
 小林が郎等に黒田の源太といふ者あり。
 主を失うて、あなたこなた見まはすところに、水の泡だつ所あり。
 熊手を振り たてければ、物、むずと取りついたり。
 引きあげて見ければ敵なり。
 主は敵が腰にいだきつきてぞあがりたる。
 主を船にひき乗せて、息をつがせ、敵をばやがて磯に押しつけて首をかく。
 辰の刻に矢合せして、一日戦ひ暮らし、夜に入りて、平家「かなはじ」とや思ひけん、「われ先に」と船に乗り、おし浮かべ、四国の地に渡さんとす。
 源氏つづいて攻めけれども、船なければ力およばず、児島の地にうちあげて、馬の息をぞやすめける。
 昔より〔馬にて〕川を渡す戦はあれども、〔馬にて〕海を渡すことはこれがはじめとぞ承る。
 鎌倉殿、備前の児島を佐々木の三郎にぞ賜はりける。
 御教書には、「天竺、震旦は知らず、わが朝に、昔より〔馬にて〕川を渡す例はあれども、海を渡すことなし。希代のためしなり」とあそばしてぞ賜はりける。
 同じく二十五日、都には九郎判官、五位になる。
「大夫の判官」とぞ申しける。
 さるほどに十月にもなりぬ。
「大嘗会おこなはるべし」とぞ聞こえける。
 屋島には浦ふく風もはげしく、磯うつ波も高ければ、兵も攻め来らず、商人の歩行もまれなり。
 都のおとづれも聞かまほしく、いつしか空かきくもり、霰うち散る。
 平家の人々は、これにつけても、いとど消え入る心地ぞせられける。
 都には「大嘗会おこなはるべし」とて、御禊の行幸あり。
 節下には徳大寺の内大臣実定公、勤ぜらる。
 去々年、先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣つとめ給ひて、節下の幄屋につきて、前には幢の旗を立てておき給ひたりし気色、ゆゆしかりしことなり。
 三位の中将以下、御縄に候は れしに、「また、人並ぶべし」とも見えざつしものを。
 今日は九郎判官、先陣に供奉す。
 木曾なんどには似ず、ことのほか京慣れたりしかども、平家には似も似ず劣りたり。
 治承、養和よりこのかた、人民、百姓等、あるいは源氏に滅ぼされ、あるいは平家に悩まされ、家園を捨てて山林にまじはりしかば、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにおよばず。
 されば、いかがしてか様の大礼をおこなはるべきなれども、〔さてしも〕あるべきことならねば、形のごとくおこなはる。
 源氏、やがてつづいて攻めば、平家はその年みな滅ぶべかりしに、大将軍、室山、高砂辺にやすらうて、遊君、遊女ども呼び集め、遊びたはぶれのみにして、月日をおくり給ひけり。
 大名、小名おほかりしかども、大将の下知にしたがふことなれば、力におよばず。
 ただ国のつひえ、民のわづらひのみありて、今年も暮れなんとす。
 元暦も二年になりにけり。

続く

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