第十一 平家巻

 目録
第百一句 屋島 渡辺・福島船ぞろへ
 逆櫓の論 勝浦の陣 嗣信最後
第百二句 扇の的
 与市二の矢の功名 水尾谷のいくさ 弓流し
 牟礼・高松の陣
第百三句 讒言梶原
 伊勢の三郎義盛教能を生捕る事
 田辺の湛増源氏に参る事 住吉鏑の奏聞の事
 蒲の冠者と九郎判官と一つになる事
第百四句 壇の浦
 遠矢の沙汰 源氏の船の中に白旗きたる事
 阿波の民部心がはり 晴延陰陽師ことわざの事
第百五句 早鞆
 先帝・二位殿御最後 大臣殿生捕らるる事
 飛騨の三郎左衛門の事 能登殿最後
第百六句 平家一門大路渡し
 生捕の衆都入り 牛飼三郎丸の事
 頼朝二位に叙せらるる事 平大納言の婿義経の事
第百七句 剣の巻上
 天地開闢 素戔鳴大蛇を斬らるる事 草薙の起り
 熱田の起り
第百八句 剣の巻下
 渡辺の源四郎綱鬼切る事 安倍の貞任・宗任成敗の事
 友切の起り 曾我夜討の事
第百九句 鏡の沙汰
 天の岩戸の事 紀伊の国日前像の起り
 内侍所炎上のがれ給ふ事 神璽の沙汰
第百十句 副将
 大臣殿副将見参の事 大臣殿関東下向
 副将斬らるる事 乳母の女房身投ぐる事
第百一句 屋島

 元暦二年正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもつて申されけるは、
「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落さずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。今度義経においては、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申されける。
 院の御所を出で、国々の兵に向かつて、
「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはつて、平家追討にまかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓X擢のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子をかなしまん人は、これより鎌倉へ下られべし」とぞのたまひける。
 屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。
 春の草枯れては、秋の風におどろき、秋の風やんでは、春の草になれり。
 送り迎へて三年にもなりぬ。
 しかるを、
「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえしかば、男女の公達さし集まつて泣くよりほかのことぞなき。
 同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。
 これは
「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との御祈念のためとぞおぼえたる。
 同じく十四日、三河守みかはのかみ 範頼のりより、平家へいけ追討ついたうの為に七百余艘の船に乗つて、摂津の国神崎より山陽道を発向す。
 九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、同国渡辺より南海道へおもむく。
 同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。
 風枯木を折つて吹くあひだ、波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。
 あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日はとどまる。
 渡辺に、大名、小名寄りあひて、
「さて、船いくさの様は何とあるべき」と評定あり。
 梶原申しけるは、
「船に逆櫓をたて候はばや」と申せば、判官、
「逆櫓とはいかなるものにて候ふやらん」とのたまへば、梶原、
「さん候。馬は、駆けんと思へば駆け、引かんと思へば弓手へも、馬手へも、まはしやすきものにて候。
 船は、きつと押しなほすことたやすからぬものにて候へば、X櫨にも、X舶にも、梶をたてて、左右に櫓をたて並べて、X櫨へも、X舶へも、押させばや」とぞ申しける。
 判官殿、
「軍のならひは、一引きも引かじと約束したるだにも、あはひあしければ敵にうしろを見するならひあり。かねてより逃げ支度をしては、なじかはよかるべき。人の船には逆櫓もたてよ、かへさま櫓もたてよ。義経が船にはたてべからず」とぞのたまひける。
 梶原、
「あまりに大将軍の、駆くべきところ、引くべきところを知らせ給はぬは、『猪のしし武者』と申して、わろきことにて候ふものを」と申せば、
「よしよし義経は、猪のしし、鹿のししは知らず。敵をばただひた攻めに攻めて勝ちたぞ心地好うはおぼゆる」とのたまへば、梶原、
「天性、この殿につきて軍 せじ」とぞつぶやぎける。
 夜に入りて、判官、船ども少々あらため、
「一酒ものせよや。若党」とて、いとなむ体にて、物具ども運ばせ、馬ども乗せて、
「船出だせ」とのたまへば、梶取ども、
「風はしづまりて候へども、沖はなほ強うぞ候ふらん。かなふまじき」よしを申す。
 判官怒つて、
「勅宣を承り、鎌倉殿の御代官として、平家追討にまかり向かふ義経が下知をそむくおのれらこそ朝敵よ。野山の末、海川にて死するも、みな前業の所感なり。その儀ならば、奴ばらいちいちに射殺せ」とぞのたまひける。
 奥州の佐藤三郎兵衛、四郎兵衛、武蔵房弁慶なんど申す者ども、片手矢はげて、
「御諚にてあるに、まことに船を出だすまじきか」とて向かひければ、
「矢にあたつて死なん身も同じこと、風つよくは、はせ死に死ねや」とて、二百余艘の船のうちにただ五艘をぞ出だしける。
 五艘の船は、判官の船、田代の冠者信綱が船、後藤兵衛実基が船、奥州の佐藤三郎兵衛兄弟が船、淀の江内忠俊は船の奉行たり。
 のこりの船は、風に恐れて出でず。

「この風には見えねども、夜のうちに四国の地に着かんとおぼゆるぞ。船どもかがりたきて、敵に船数見すな。義経が船を本船にしてかがりをまぼれ」とて、とり梶、おも梶にはせ並べてゆくほどに、あまりに強きときは大綱をおろして引かせけり。
 十六日の丑の刻に、渡辺、福島を出でて、押すには三日に渡るところを、ただ三時に、十七日の卯の刻に阿波の勝浦に着きにけり。
 夜のほのぼのと 明けけるに、なぎさの方を見わたしければ、赤旗さしあげたり。
 判官のたまひけるは、
「あはや、われらが設けはしてんげり。船ども平着けに着けて敵の的になして射さすな。なぎさ近うならば、馬ども海へ追ひ入れ、船ばたに引つつけ、引つつけ、泳がせて、馬の足たつほどにならば、うち乗り、駆けよ」とて、なぎさ三町ばかりになりければ、船ばた踏みかたぶけ
「馬ども海へ追ひ入れ、引きつけ泳がせて、馬の足たつほどになりしかば、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめきさけびて駆く。
 敵も五十騎ばかりありけるが、これを見てざつと引くに、二町ばかりぞ逃げたりける。
 判官、しばしひかへて馬をやすめ、伊勢の三郎義盛を召して、
「きやつばらは、けしかる者とこそ見れ。あのなかに、しかるべき者あらん。召してまゐれ」とのたまへば、義盛ただ一騎、五十騎ばかりひかへたる敵のなかに駆け入れて、なにとか会釈したりけん、齢四十ばかりの男の、黒革縅の鎧着、鹿毛なる馬に乗りたる武者一騎、兜をぬがせ、弓をはづさせて、乗つたる馬をば下人に引かせ、具して参る。
 判官、
「これは何者ぞ」と問ひ給へば、
「当国の住人、板西の近藤六親家と申す者にて候」。

「何家にてもあれ、物具な脱がせそ。屋島の案内者に具してゆけ。目ばし離つな。逃げてゆかば射殺せ」とぞのたまひける。
「この所は何といふぞ」とのたまへば、
「これは『かつら』と申し候。『勝浦』と書いて候ふを、下臈げらふどもが申しやすきままにこそ、『かつら』とは申し候へ」。
 判官、
「これ聞き給へ、殿ばら。いくさしに来たる義経が、まづ勝浦に着くめでたさ よ。さていかに、屋島には勢はいかほどあるぞ」。
「千騎ばかりは候ふらん」。
「など少なきぞ」とのたまへば、
「阿波の民部が嫡子田内左衛門教能、三千余騎にて河野を攻めに伊予の国へ渡つて候。それ、勢の向かはぬ浦々も候はず。
 五十騎、百騎づつさし向けられ候」。
「さて、これに平家の方人しつべき者はなきか」。
「さん候。成能が弟桜間の能遠と申す者こそ候へ」。
「さらば能遠討つて軍神にまつれや」とて、桜間が城へぞ押し寄せたりける。
 桜間の介、しばし戦ひ、究竟の馬を持ちたりければ、そばの沼より落ちにけり。
 所の者ども二十余人が首を斬り、よろこびの鬨をつくり、軍神にぞまつられける。
 判官、近藤六を召して、
「これより屋島へはいかほどあるぞ」。
「二日路候」。
「さらば敵の知らぬさきに寄せよや」とて、駆け足になり、あゆませゆくほどに、その日は阿波の国板東、板西行き過ぎて、阿波と讃岐とのさかひなる大坂越といふ所にうち下つて、入野、白鳥、高松が里を、うち過ぎ、うち過ぎ寄せ給ふに、山中にて蓑笠背負うたる男一人ゆきつれたり。
「どこの者ぞ」と問はせられければ、
「京の者にて候」と申す。
「どこへ行くぞ」。
「屋島へ参り候」。
「屋島へはどの御方へ参るぞ」。
「女房の御つかひに都より大臣殿の御方へ参り候」。
「これも阿波の御家人にてあるが、屋島へ召されて参るなり。この道は不知案内なるに、わ殿、案内者つかまつれ」。
「これは案内は知りて候」と申す。
「何事の御つかひぞ」と問へば、
「下臈は御つかひつかまつるばかりにてこそ候へ。いかで か何事とは知り候ふべき」と申す。
「げにも」とて、乾飯食はせなんどして、
「さるにても何事の御つかひとか聞きし」。
「別の子細や候ふべき。河尻に源氏どもおほく浮かんで候ふとかや申されしごさんなれ」。
「さぞあらん。その文取れ」とて、うばひ取りて、
「しやつ縛れ」とて、縛つて道のほとりなる木に結ひつけてぞ通られける。
 判官、この文見給へば、まことにも女房の文とおぼしくて、
「九郎は心すすどき男にて、大風大波たつともよもきらひ候はじ。勢を散らさでよくよく御用意候へ」とぞ書かれたる。
「これは義経に天の与へ給へる文なり。鎌倉殿に見せたてまつらん」とて、深くをさめておき給ふ。
 近藤六を召して、
「さて屋島の城〔の様〕はいかに」とのたまへば、
「さん候。知ろしめさねばこそ候へ、城は無下にあさまに候ふ。潮の干候ふときは馬の腹もつからず」と申す。
「さらば寄せよ」とて、源氏の勢、潮干の潟より寄せけるに、ころは二月十八日のことなれば、蹴上げたる潮のしぐらうたるうちより、うち群れて寄せければ、平家は運や尽きぬらん、大勢とこそ見てんげれ。
 阿波の民部が嫡子田内左衛門、河野を攻めに伊予の国に越えたりけるが、河野は討ちもらし、家の子、郎等百余人が首を取り、わが身は伊予にありながら、さきだて、屋島へ奉りたりけるが、をりふし大臣殿の御宿所にて実検あり。
 兵ども、
「こはいかに。焼亡」なんどと騒ぎけるが、よくよく見て、
「さではなし。あはや。敵の寄せ候ふぞや」と申すほどこそあれ、白旗ざつとさし上げたり。
 すでに、
「源氏さだめて大勢にてぞ候ふらん。げらふいそぎ御船に召さるべし」とて、なぎさに上げおきたる 船ども、にはかに下ろしけり。
 御所の御船には、女院、北の政所、二位殿以下、女房たち召されけり。
 大臣殿父子は、一つ船にぞ乗り給ふ。
 平大納言、平中納言、修理大夫、新中納言以下の人々、みな船にとり乗つて、一町ばかりおし出だしたるところに、白じるしつけたる武者六騎、惣門のまへにあゆませて出で来る。
 まつ先にすすんだるぞ大将とは見えたる。
 赤地の錦の直垂に、 紫裾濃の鎧着て、金作りの太刀帯き、切文の矢負ひ、塗籠籐の弓のまつ中取つて、黒の馬の太うたくましきに、金覆輪の鞍おいてぞ乗つたりける。
 鐙ふんばりつ立ちあがりて、
「一院の御つかひ、大夫判官義経ぞや。われと思はん者は進み出でよ。見参せん」とぞ名のりける。
「こはいかに。大将軍にてありけるぞ。射取れや、射取れ」とて、指矢に射る船もあり、遠矢に射るもあり。
 つづいて名のるは、田代の冠者信綱、金子の十郎家忠、同じき与市近範、伊勢の三郎義盛、後藤兵衛実基なり。
 源氏は、五騎、三騎づつ、うち群れ、うち群れ、寄せけり。
 佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、渋谷の右馬允重助、これ三人はいくさをばせで、阿波の民部がこの三箇年があひだ、やうやうにして造りたる内裏や御所に火をかけて、片時の煙となしにけり。
 大臣殿これを見給ひて、
「源氏多くもなかりけるものを。内裏や御所を焼かせつるこそやすからね。能登殿はおはせぬか。一いくさし給へ」とありしかば、能登の前司、小船に乗つて寄せらる。
 兵二百余人、 兜の緒をしめて、同じくなぎさにあがる。
 越中の次郎兵衛すすみ出でて申しけるは、
「今日の源氏の大将軍はいかなる人ぞよ」。
 伊勢の三郎申しけるは、
「事もかたじけなや。清和天皇十代の御末、九郎大夫判官ぞかし」。
 盛嗣あざわらつて、
「それは金商人が所従ごさんなれ。平治に父義朝は討たれぬ。母常盤が腹にいだかれて、大和、山城に迷ひありきしを、故太政入道殿たづね出ださせ給ひしが、『をさなければ不便なり』とて、捨ておかれ給ひしほどに、鞍馬の稚児して十四五までありけるが、商人の供して奥に下りし者にてこそ」と申しければ、伊勢の三郎、
「なんぢは砥波山のいくさに、からき命を生きて乞食の身となり、京へのぼりしはいかに」と申す。
 盛嗣、
「なんぢも鈴鹿山の山がつよ」と申しけり。
 金子の十郎、
「雑言たがひに益なし。申さばいづれか劣るべき。去年の春、一の谷にて武蔵、相模の若殿ばらの手なみよく見たるらん」と申しもはてねば、弟の与市、よつぴいて射る。
 盛嗣が胸板、裏かくほどに射させて、そののちは言葉だたかひせざりけり。
 源平みだれあひ、しばし戦ふ。
 能登殿のたまひけるは、
「船いくさは様あるぞ」とて、わざと直垂は着給はず。
 巻染の小袖に黒糸縅の鎧着、大中黒の矢、首高に負ひなし、滋籐の弓まつ中取り、小船の舳に立つて、源氏の大将軍を射落さんとぞうかがひける。
 能登の前司は聞こふる精兵の、
「矢先にかけたてまつらじ」と兵ども、判官の矢面にふさがつてぞ戦ひける。
 能登殿、
「矢面のやつばら、 そこのき候へ」とて、さしつめ、ひきつめ、散々に射給ふに、鎧武者五騎射落さる。
 判官、あらはになり給ふところに、いつのまにかすすみけん、佐藤三郎兵衛嗣信、黒革縅の鎧着て、判官の矢面にむずとへだたるところを、胸板うしろへ射出だされて、馬よりさかさまに落ちぬ。
 能登殿の童、菊王丸とて生年十八歳になるが、萌黄縅の腹巻、兜の緒をしめ、白柄の長刀の鞘をはづし、船より飛んでおり、嗣信が首を取らんと寄るところを、弟の忠信よつぴいて射る。
 菊王が腹巻の引合せを射られて、犬居に倒れぬ。

「敵に首を取らせじ」と、能登の前司、船より飛んでおり、菊王をひつさげて船に乗り給ふ。
 首をば敵に取られねども、痛手なれば死ににけり。
 さしも不便にし給ひし菊王を射させ、そののちはいくさもし給はず。
 船をば沖へおし出ださる。
 判官も、手負うたる嗣信を陣のうしろへ舁かせ、手を取つて、
「いかに、いかに」とのたまへば、息の下に、
「今はかう」とぞ申しける。
 判官涙をながし給ひて、
「この世に思ひおくことあらば、義経に言ひおけ」とのたまへば、世にも苦しげに申しけるは、
「などか思ひおくことのなくては候ふべき。まづ奥州に候ふ老母のこと、さては、君の御世を見たてまつらず、先に立ちまゐらするこそ、冥途の障りにて候へ」と、これを最後のことばにて、二十八と申す二月十八日の酉の刻、讃岐の屋島が磯にてつひに死ににけり。
 判官かなしみ給ひて、
「この辺に僧やある」とのたまへば、僧一人たづね出だしたり。
 判官、この
「射つべき者はなきか」。
「さん候。下野の国、那須の太郎助孝が子に、与市助宗こそ小兵なれども手はきいて候へ」。
「証拠はあるか」。

「さん候。翔け鳥を三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。
「さらば召せ」とて、召されたり。
 与市そのころ十八九なり。
 褐に、赤地の錦をもつてはた袖いろへたる直垂に、萌黄にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、その日のいくさに射残したるに、薄切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬための鏑差し添へたり。
 二所籐の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこまる。
 判官、
「いかに与市、傾城のたてたる扇のまつ中射て、人にも見物させよ」とのたまへば、与市、
「これを射候はんことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方の長ききずにて候ふべし。自余の人にも仰せつけらるべうや候」と申せば、判官怒つて、
「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむくべからず。それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるべし。そのうへ多くの中より一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかたつべき」とぞのたまひける。
 与市、
「かさねて申してあしかりなん」と、御前をついたつて、月毛駮なる馬に黒鞍おき、うち乗り、なぎさの方へあゆませゆれば、兵ども追つ様にこれを見て、ふりかかりしづまりて、
「一定この若者はつかまつらんとおぼえ候」と口々に申せば、判官もよにたのもしく思はれけり。
 なぎさよりうちのぞんで見れば遠かりけり。
 遠干なれば馬 の太腹ひたるほどにうち入るれば、いま七八段ばかりと見えたり。
 をりふし風吹いて、船、ゆりすゑ、ゆりあげ、扇、座敷にもさだまらずひらめきけり。
 沖には平家、一面に船を並べて見物す。
 うしろを見れば、みぎはに味方の源氏ども、轡を並べひかへたり。
 いづれも晴ならずといふことなし。
 なほ風しづまらざれば、扇、座敷にもさだまらず。
 与市、いかがすべき様もなくて、しばらく天に仰ぎ祈念申しけるは、
「南無帰命頂礼、御方を守らせおはします正八幡大菩薩、別してわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまつ中射させて賜ばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り、海に沈み、大龍の眷属となつて長く武士の仇とならんずるなり。弓矢の名をあげ、いま一度本国へ迎へんとおぼしめされ候はば、扇のまつ中射させて賜はり候へ」と心のうちに祈念して、目をひらき見たりければ、風もすこししづまり、扇も射よげにぞなつたりける。
 小兵なれば十三束、鏑取つてつがひ、しばしたもちて放つ。
 弓はつよし、浦にひびくほどに鳴りわたりて、扇のかなめより上一寸ばかりおいて、ひやうふつと射切つたれば、扇こらへず三つに裂け、空へあがり、風に一もみもまれて、海へざつとぞ散りたりける。
 みな紅の扇の日出だしたるが、夕日にかがやいて、白波の上に、浮きぬ、沈みぬゆられければ、沖には平家船ばたをたたいて感じたり。
 陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。
 あまりおもしろさに、感にたへざるに や、船のうちより齢五十ばかりの男の、黒革縅の鎧着て、白柄の長刀持ちたる武者一人出で来つて、しばし舞うたりけり。
 伊勢の三郎、与市がうしろへあゆませ寄つて、
「御諚にてあるぞ。にくい、奴ばらが今の舞ひ様かな。つかまつれ」と言ひければ、中差取つてつがひ、よつぴいて射る。
 しや首の骨、ひやうふつと射通され、舞ひ倒れに倒れけり。
 源氏方いよいよ勝に乗つてぞどよみける。
 平家の方には音もせず。
「本意なし」とや思ひけん、小船一艘なぎさへ寄す。
 長刀持ちたる者一人、楯つき一人、弓持ち一人、船のうちよりみぎはに上がりて、
「源氏方にわれと思はん兵寄せよや」とぞののじりける。
 判官見給ひて、
「にくいやつかな。馬つよからん者、向かつて蹴ちらせ」とのたまへば、承つてすすむ者たれたれぞ。
 武蔵の国の住人水尾谷の四郎、同じき十郎、上野の国の住人丹生の四郎、信濃の国の住人木曾の中太をはじめとして、五騎つれてぞ駆けたりける。
 まつ先にすすんだる水尾谷が馬の鞅づくしを、平家の楯のかげより筈のかくるるほどに射こまれて、馬は屏風を返すがごとし。
 主は右手の足を越し、馬の頭にゆらと乗り、やがて太刀をぞ抜いたりける。
 楯のかげより大長刀うち振つて出でたりける。
「あれは長刀、われは小太刀。かなはじ」とや思ひけん、かい伏して逃げてゆく。
 追うて薙ぐかと見れば、いかがはしたりけん。
 長刀脇にかいはさみ、兜の鉢をつかまんとす。
「つかまれじ」と逃げけるが、取りはづし、取りはづし、四度目にむずとつかみ、しばしたもつて見え けり。
 水尾谷もつよかりけるやらん、鉢つけの板ふつとひき切つて、味方のなかへ逃げ入り、しばらく息をぞやすめける。
 敵やがても追うても来ず。
 ひき切つたる錣をさしあげ、
「平家の侍に、上総の悪七兵衛景清」と名のり捨ててぞ帰りける。
 判官これを見給ひて、
「悪七兵衛ならば、もらすな。射取れや」とて、をめいて駆け給へば、三百余騎つづいて駆く。
 平家方にもこれを見て、
「悪七兵衛討たすな」とて、小船百艘ばかりなぎさへ寄す。
 楯の端を牝鶏羽につきむかへて、
「源氏寄せよ」と招きかく。
 源氏三百余騎、馬のひづめをたて並べ、をめいて駆く。
 乱れあひてしばし戦ふ。
 平家の兵みなかちだつたり、楯ども散々に駆けちらされて引きしりぞくところを、源氏は馬の足のおよぶほど攻め戦ふ。
 判官あまりに深入りし給ふほどに、船のうちより熊手を出だして、判官の兜にうちかけて、えい声を出だして引き落さんとす。
 味方の兵馳せ寄せて、熊手をうち払ひ、うち払ひ、戦ひけり。
 判官弓をかけ落されて、鞍爪ひたるほどにうち入れて、鞭の先にてかき寄せ、
「取らん。取らん」とし給へば、しきりに熊手をうちかけけり。
 陸の者ども、
「ただ捨ててしりぞかせ給へ」と、面々に申しけれども、判官つひに取り給ふ。
 兵ども、
「たとひ千金万金の御だらしなりといふとも、御命には代へさせ給ふべきか」と口々に申しければ、判官、
「まつたく弓を惜しむにあらず。叔父八郎為朝が弓なんどなりせば、わざとも浮かべて見すべけれども、□弱たる弓を、平家に取つて、『これこそ源氏の大将 の弓。強いぞ。弱いぞ』と、あざけられんが口惜しければ、命に代へて取つた〔る〕ぞかし」とのたまへば、みなこのことばをぞ感じける。
「今日は暮れぬ。明日のいくさ」と定めて、源氏引きしりぞき、当国牟礼、高松に陣を取る。
 源氏は三日があひだ寝ざりけり。
 渡辺より三日に渡るところを、ただ三時に渡りたれば、その夜は大波にゆられて寝ねず。
 明くれば勝浦のいくさして、夜もすがら中山越えて、今日も一日たたかひ暮らし、みなつかれはてて、あるいは兜を枕とし、あるいは鎧の袖を片敷き、前後も知らずうち臥したり。
 そのなかに、判官と伊勢の三郎は寝ねざりけり。
 判官は高き所にあがりて遠見し給へば、義盛はくぼみに隠れて、
「敵寄せば」とて、片手矢はげてぞ待ちかけたる。
 そののち平家方より、
「寄せて夜討にせん」と、能登殿大将にて、ひた兜五百余騎向かひけるが、越中の次郎兵衛盛嗣と、美作の住人江見の次郎盛方と先をあらそふあひだに、その夜むなしく明けにけり。
 夜討にだにもしたりせば、源氏はその夜滅ぶべかりしを、平家の運のきはまるところなり。
 平家も引きしりぞき、当国志度の道場にぞ籠られける。

第百三句 讒言梶原

 同じく十九日、判官、伊勢の三郎義盛を召して、
「阿波の民部成能が嫡子田内左衛門教能、河野を攻めに伊予の国へ越えたんなるが、これにいくさありと聞き て、今日はさだめて馳せ向かふらん。大勢入れたててはかなふまじ。なんぢ行き向かひ、よき様にこしらへて召して参れ」とのたまへば、伊勢の三郎、
「さ候はば、御旗を賜はつて向かひ候はん」と申す。
「もつともさるべし」とて、白旗をこそ賜はりけれ。
 その勢十六騎にて向かふが、みな白装束なり。
 兵どもこれを見て、
「三千余騎が大将を、白装束十六騎にて向かひ、生捕にせんことありがたし」とぞ笑ひける。
 案のごとく、田内左衛門、
「屋島にいくさあり」と聞きて馳せまゐる。
 道にて、義盛行き逢うたり。
 白旗ざつとさしあげければ、
「あはや、源氏よ」とて、これも赤旗さしあげたり。
 伊勢の三郎、田内左衛門にあゆみ寄つて申しけるは、
「かつうは聞き給ひつらん。鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿、西国の討手の大将に向かはせ給ひたり。一昨日御辺の叔父、桜間の介討たれまゐらせぬ。昨日屋島に寄せて、内裏や御所ども焼きはらひ、一日合戦の候ひしに、平家の人々数をつくして討たれ給ひぬ。そのなかに新中納言、能登殿ばかりぞようはおはせし。大臣殿の父子も生捕りぬ。そのほか生捕どもあまたあり。御辺の父民部の大夫も降人に参られたるを、義盛が預かり申して候。今宵夜もすがら嘆きて、『あはれ、この教能がこの世のありさまを知らずして、明日参り、合戦し、討たれまゐらせ候ひなんず。か様に預かり給ふも、前世の宿縁にてこそ候ふらめ。しかるべく候はば、御辺行き向かつて、教能にこのことを知らせて、いま一度見せ給へ』と嘆かれ候ふあひだ、参りたり」と言へば、田内左衛門、 うちうなづいて、
「かつ聞くことすこしも違はず」と言うて、やがて兜をぬぎ弓をはづし、降人にこそなりにけり。
 これを見て、三千余騎の兵ども、弓をはづして従ひけり。
 義盛、白装束十六騎にて、三千余騎の軍兵を従へて具して参る。
 平家いくさには負けたれども、大臣殿父子も生捕にせられ給はず。
 また民部の大夫も降人にも参らず。
 判官、いくさに勝つて馬よりおり、坐つてやすみ給ふところに、おめおめと召されて参る。
 やがて鎧ぬがせて召しおかれ、人に預けらる。
「さて、従ふところの軍兵どもはいかに」とのたまへば、
「これは吹く風に草木のなびくがごとし。いづれにてもましませ、世の乱れをしづめ、国を知ろしめさん人を上とせん」とぞ申しける。
「もつともさるべし」とて、みな勢にぞ具せられける。
 熊野の別当湛増、この日ごろは平家に従ひたりけるが、源氏すでに強ると聞いて、五十余艘の船に乗り、紀伊の国田辺の浦よりおし出だし、四国の地に渡つて、源氏につきぬ。
 伊予の国の住人、河野の四郎通信、五百余騎にて馳せ来たり、これも一つになりにけり。
 平家は、
「田内左衛門、生捕にせられぬ」と聞こえしかば、讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、潮に引かれて、いづくともなくゆられ行くこそかなしけれ。
 二十二日巳の刻に、渡辺にとまりたる二百余艘の船ども、梶原を先として、屋島の磯にぞ着きにける。
 人笑ひあへり。
「六日の菖蒲、会にあはぬ花、〔祭〕ののちの葵か」なんどとぞ申しける。
  先陣を所望しかねて、
「天性この殿は侍の主にはなりがたし」とぞつぶやきける。
 判官、
「総じてなんぢは烏滸の者ぞ」とのたまへば、
「こはいかに、鎌倉殿のほかは主持ちたてまつらぬものを」と申す。
 判官、
「につくいやつかな」とて、太刀に手をかけ、立ちあがらんとし給へば、梶原も太刀に手をかけ、身づくろひするところに、三浦の介、土肥の次郎むずと中にへだたりたてまつる。
 三浦の介、判官に申しけるは、
「大事を御目の前にあてさせ給ふ人の、か様に候はば、敵に力をそへさせ給ひなんず。
 なかんづく、鎌倉殿のかへり聞かせ給はんところも穏便ならず」と申せば、判官しづまり給ふうへは、梶原すすむにおよばず。
 これより梶原、判官をにくみはじめて、つひに讒言してうしなひけるとぞ聞こえける。

第百四句 壇の浦

 同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。
 上は梵天にも聞こえ、下は海龍神までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。
 門司、赤間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮なれば、源氏の船は潮に引かれて心ならず引き落さる。
 平家の船は潮に追うてぞ来たりける。
 沖は潮の早ければ、なぎさについて、梶原、敵の船の行きちがふ所を熊手うちかけて、乗りうつり、乗りうつり、散々に戦ふ。
 分捕あまたしたりければ、その日の功名の一にぞつきたりける。
 新中納言知盛、船の舳に立つて、
「いくさは今日をかぎりなる。おのおのすこしもしりぞく心あるべからず。天竺、震旦、わが朝にならびなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力およばず。さりながら東国のやつに弱気見すな。いつのために命をば惜しむべきか。これのみぞ知盛は思ふこと」とのたまへば、飛騨の三郎左衛門景経、
「仰せ承れや、侍ども」とぞ申しける。
 悪七兵衛景清が申しけるは、
「中坂東のやつばらは、馬に乗りてこそ口はきき候ふとも、船のうちにはいつ調練し候ふべき。魚の木にのぼりたる様にこそ候はんずれ。されば、しやつばら、一々に取つて海につけ候はん」とぞ申しける。
 越中の次郎兵衛申しけるは、
「九郎判官は色白き男の、たけ低く、向かふ歯二つさし出でて、ことにしるかんなる。心こそ猛くとも、何事のあるべき。目にかけて、ひつ組んで海に入れや、殿ばら」とぞ申しける。
 新中納言、大臣殿の御前に参りて申されけるは、
「今日は侍ども事よげに見え候。一定いくさこそつかまつらんとおぼえ候へ。そのなかに阿波の民部成能ばかりこそ、心変り候ふやらむ、気が変つて見え候へ。きやつが首を切り候はばや」と申されければ、大臣殿、
「いかに、見えたることもなくて首をば切るべき。成能召せ」とて、召されけり。
 木蘭地の直垂に洗革の鎧着て、御前にかしこまる。
「いかに、成能、日ごろの様に『侍ども、いくさようせよ』なんど掟をばせぬぞ。なんぢ心変りしたるか。臆したるか」とのたまへば、
「ただいま何事にか臆し候ふべき」とて、事もなげに御前をまかり立つ。
 中納言、
「あつぱれ、しやつが首を切らばや」と思はれけれども、大臣殿の許しなければ、切り給はず。
 平家は千余艘の船を三手に分かつ。
 先陣は、山鹿の兵頭次秀遠五百余艘、二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。
 先陣にすすみたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけるに、鎧も、楯も、射通さる。
 源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。
 平家はこれを見、
「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打つて、よろこびの鬨をつくる。
 陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかへて戦ひけり。
 そのうちに相模の国の住人、三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、ひかへて戦ひけるが、三町がうちの者は射はづさず。
 三町余里沖に浮かびたる〔新〕中納言の船を射越して、自箆の大矢を一つ波の上にぞ射浮かべたる。
 和田の小太郎、扇をあげて、
「その矢こなたへかへし賜ばん」とぞ招きける。
 新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆に鵠の羽にて矧いだる矢の、十三束三伏ありけるが、沓巻のうへ一束おきて、
「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもつて書きたりけり。
 伊予の国の住人、新居の紀の四郎親家を召して、
「この矢射かへせ」とのたまへば、親家異議も申さず、わが弓に取つてつがひ、射たりけり。
 沖より三町あまりをつと射わたし、和田が左手の肩を箆打ちにうつて、つれてひかへたる武蔵の国の住人、石迫の太郎が小がひなに、沓巻までこそ射込うだれ。
 和田の小太郎、
「われに過ぎたる大矢なしと思ひ、射かへさせたり」 と、一家の兵どもに笑はれて、腹を立てて馬よりおり、小船に乗つておし出ださせ、平家の船の中をおしめぐり、おしめぐり、さしつめ、ひきつめ射けるに、面を向くる者なし。
 平家の方より、また判官の船に大矢を一つ射たてて、
「その矢こなたへ賜ばん」とぞ招きける。
 召し寄せて見給へば、白箆に鶴の本白にて矧いだる矢の、十四束ありけるに、ただいま書きたるとおぼえて、
「伊予の国の住人新居の紀四郎親家」とぞ書いたりける。
 後藤兵衛実基を召して、
「この矢射かへしつべき者はなきか」とのたまへば、
「などかは候はざるべき。甲斐源氏のなかに、浅利の与市殿こそおはすらめ」。
「さらば」とて、召されけり。与市小船に乗りて出で来る。
「いかに浅利殿。この矢射かへせ」とのたまへば、この矢賜はり、つまよつて見て、
「この矢は矢束が短う、箆も弱く候。義成が矢にてつかまつらん」とて、大中黒にて矧いだる矢の十五束ありけるをつがひ、しばしたもちてひやうど射る。
 遠矢射て、思ふことなく大船の艫に立つたる新居の紀四郎が内兜、あなたへづんど射出だされて、船底へぞ倒れける。
 さるほどに、源平みだれあひ数刻たたかふ。
 白雲一むら、源氏の船の陣の上にたなびいて見ゆるが、雲にてはなかりけり。
 主なき旗一流れ舞ひくだつて、源氏の船の舳先、棹付の緒つくるほどに見えて、また空へぞのぼりける。
 兵どもこれを見て、いそぎ手水うがひどもして拝みたてまつる。
 今日源氏の負けいくさと見えしところに、この瑞相を見て、
「これほどに八幡大菩薩の守護せさせ給はんずるに、いかでかいくさに勝たざるべき」とぞいさみあひ ける。
 いるかといふ魚一二千、平家の船に向かうてはみければ、大臣殿、都より召し具したる晴延といふ陰陽師を召されて、
「きつと勘へ申せ」と仰せければ、晴延勘へて、
「このいるか、はみ通り候はば、御方のいくさ危う候ふべし。はみかへり候はば、源氏滅び候ふべし」と申しもはてねば、いるか平家の船の下をはうでぞ通りける。
 阿波の民部成能は、三が年のあひだ、平家に忠を尽くしてありけれども、嫡子田内左衛門を源氏の方へ生捕られて、恩愛の道のかなしさは、
「いま一度見ん」と思ひければ、たちまちに心変りして、赤じるし切り捨て、源氏の方へぞつきにける。
 平家は唐船には次さまの者を乗す。
「源氏さだめて唐船を攻めんずらん」とてなり。
 兵船にしかるべき人々を乗せて、
「源氏を中にとり籠めて討たん」と支度したりけるところに、成能返り忠して、
「唐船にはよき人乗り給はぬぞ。兵船射よ」と教へければ、さしあはせて散々に射る。さてこそ支度相違してんげれ。
 ただ今まで従ひついたりけん四国、西国の兵、君に向かうて弓を引き、主に向かうて太刀を抜き、かの岸へ着けんとすれば、波高うしてかなはず、この浦に寄らんとすれば、敵待ちかけて討たんとす。
 源平の国あらそひ、今日をかぎりと見えたりけり。
 水手、梶取ども、うち殺され、斬りふせられ、船底に倒れふためき、叫ぶ声こそかなしけれ。

第百五句 早鞆

 新中納言知盛、御所の御船に参り給ひて、
「女房たち、見苦しきものどもみな海に沈め給へ」とのたまへば、
女房たち、「この世の中は、いかに、いかに」とのたまふ。
 新中納言いとさわがぬ体にて、
「いくさはすでにかう候ふよ。今日よりのちは、めづらしき東男こそ御覧ぜんずらめ」とうち笑ひ給へば、
「なんでふ、ただ今のたはぶれぞや」とぞをめき叫び給ひける。
 二位殿、先帝をいだきたてまつり、帯にて二ところ結ひつけたてまつり、宝剣を腰にさし、神璽を脇にはさみ、練袴のそばを高くはさみ、鈍色の二衣うちかづき、すでに船ばたに寄り給ひ、
「わが身は君の御供に参るなり。女なりとも敵の手にはかかるまじきぞ。御恵みに従はんと思はん人は、いそぎ御供に参り給へ」とのたまへば、国母をはじめたてまつり、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍以下の女房たちも、
「おくれまゐらせじ」ともだえられけり。
 先帝、今年は八歳。
 御年のほどよりもおとなしく、御髪ゆらゆらと御せな過ぎさせ給ひけり。
 あきれ給へる御様にて、
「これはいづちへぞや」と仰せられければ、御ことばの末をはらざるに、二位殿、
「これは西方浄土へ」とて、海にぞ沈み給ひける。
 あはれなるかなや、無常の春の風、花の姿をさそひたてまつる。
 かなしきかなや、分段の荒波に龍顔を沈めたてまつる。
 殿を長生殿となぞらへ、 門を不老門とことよせしに、十歳にだにも満たせ給はで、雲上の龍下つて海底の魚とならせ給ふ。
 国母もつづいて入らせ給ひけるを、渡辺の右馬允番といふ者、熊手をおろして御髪にかけ、取りあげたてまつる。
 女房たち生捕にせられておはしけるが、
「あさましや、あれは女院にてわたらせ給ふぞ」とのたまへば、そのとき、番、鎧唐櫃より、新しき小袖一かさね取り出だし、しほたれたる御衣に召しかへさせたてまつる。
 北の政所、臈の御方、帥の典侍以下の女房たち、みなとらはれ給ひけり。
 本三位の中将の北の方大納言の典侍、内侍所の御櫃を取りて海へ入れんとし給ふが、袴のすそを船に射つけられて蹴つまづき給ふところを、兵取りとどめたてまつり、御唐櫃の錠をねぢ切つて、御蓋あけんとしければ、たちまち目くれ、鼻血垂る。
 平大納言時忠の卿生捕られておはしけるが、これを見て、
「あな、あさましや。あれ内侍所と申す、神にてわたらせ給ふものを。凡夫は見たてまつらぬことを」とのたまへば、九郎判官、
「さることあらんずるぞ。そこのけよ」とて、平大納言に申して、もとのごとく納めたてまつる。
 末の世なれども、か様に霊験あらたなるこそめでたけれ。
 門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟は、手を手に取りくみ、海にぞ沈み給ひける。
 小松の三位の中将資盛、同じく少将有盛、いとこ左馬頭行盛、入道の四男知盛、これも手を手に取りくみ沈み給ふ。
 大臣殿は船ばたに立ち出でて、人々海に沈み 給へども、その気色もなきを、侍どもあまりのにくさに、海へつき入れたてまつる。
 御子右衛門督、これを見てつづいて海へぞ入り給ふ。
 大臣殿は、
「右衛門督沈まば、われも沈まん」と思はれけり。
 また右衛門督は、
「大臣殿沈み給はば、ともに沈まん」と、二人の人々、ややひさしう波の上に浮かんでおはしけるを、伊勢の三郎、船を漕ぎよせ、熊手をおろして、右衛門督を取りあげたてまつる。
 大臣殿、いとど沈みもやり給はず、同じく生捕られ給ひけり。
 大臣殿の御乳人、飛騨の三郎左衛門景経、
「わが君取りあげたてまつるは何者ぞ」とて、太刀を抜ぎ、伊勢の三郎に打ちてかかる。
 義盛、あぶなく見ゆるところに、ならびの船に立ちたる堀の弥太郎、よつぴいて射る。
 飛騨の三郎左衛門が内兜射させてひるむところを、弓を捨てむずと組む。
 三郎左衛門手負うたれども、ちともおくれず、上になり下になりころびあふところに、堀が郎等、三郎左衛門が草摺ひきあげ、二刀刺す。
 内兜も痛手なり、景経つひに討たれにけり。
 大臣殿、
「身にかはりても」と思はれける乳人子のなりゆくありさまを見給ひて、さこそかなしく思はれけん。
 能登の前司教経は矢だね尽き、
「今は最後」と思はれければ、赤地の錦の直垂に緋縅の鎧着て、源氏の船に乗りうつり、白柄の長刀茎短かに取つて薙ぎ給へば、兵おほく滅びにけり。
 新中納言見給ひて、使にて、
「詮なきしわざかな。あまりに罪なつくり給ひそ。さればとてしかるべき者にてもなし」とのたまへば、
「さては、このことば、『大将軍 に組め』とごさんなれ」とて、そののちは、源氏の船に乗りうつり、乗りうつり、おし分け、おし分け、九郎判官をたづね給ふ。
 思ひのままにたづね逢うて、よろこび、打つてかかる。
 判官、
「かなはじ」とや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、一丈ばかりゆらと跳び、味方の船にのび給ふ。
 能登殿心は猛けれども、早業や劣られけん、つづいても越え給はず。
 判官殿まぼらへて、
「これほど運尽きなんうへは」とて、長刀海へ投げ入れ、兜もぬいで海へ入れ、鎧の袖をかなぐり捨て、大童にて立ち、
「われと思はん者、教経生捕り、鎌倉へ具して下れ。兵衛佐にもの言はん。寄れや。寄れや」とのたまへども、寄る者なかりけり。
 ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、大領太郎実光とて、三十人が力あり。
 弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。
 主におとらぬ郎等一人。
 兄の太郎、判官の御前にすすみ出でて申しけるは、
「能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ幼き者不便にあづかるべし」と申せば、判官、
「神妙に申したり。子孫においては疑ひあるまじき」とのたまへば、安芸の太郎主従三人、小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。
 能登の前司、先にすすみたる郎等を、
「にくいやつかな」とて、海へざんぶと蹴入れらる。
 太郎をば左の脇へはさみ、次郎をば右の脇にはさみ、一しめ締めて、
「いざうれ。さらば、おのれら死出の山の供せよ」とて、生年二十六にてつひに海へぞ入り給ふ。
 新中納言これを見て、伊賀の平内左衛門家長を召して、
「今は見るべきことは見はてつ。ありとてもなにかせん」とのたまへば、平内左衛門、
「日ごろの約束ちがひたてまつるまじ」とて、寄つて、鎧二領着せたてまつりまゐらせ、わが身も二領着、手を取り組み、海にぞ入りにける。
 平生「一所に」とちぎりし侍ども二十余人、みな手を取り組み、海へぞ入りにける。
 海上には赤旗、赤印、投げ捨て、かなぐり捨てたれば、龍田山のもみぢの嵐に散るがごとし。
 なぎさに寄する白波も薄紅にぞなりにける。
 むなしき船は風にまかせて、いづくともなくゆられ行く。
 生捕の人々は、内大臣宗盛、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、兵部少輔尹明、僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円、侍には源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、藤内左衛門信康、橘内左衛門季康以下三十八人、女房たちには、国母建礼門院、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍、治部卿の御局以下およそ四十三人とぞ聞こえし。
 元暦二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人海の底に沈み、百官波の上に浮かぶらん。
 国母、官女は、東夷、西戎の手に従ひ、臣下、卿相は数万の軍旅にとらはれて、旧里に帰り給ひしに、あるいは朱買臣が錦を着て故郷へ帰らざることを かなしみ、あるいは王昭君が胡国へ向かふ思ひもかくやとおぼえてあはれなり。

第百六句 平家一門大路渡し

 同じく四月三日、西国より早馬、院の御所へ参る。
 使は源八兵衛広綱とぞ聞こえし。
「去んぬる三月二十四日の卯の刻、壇の浦、赤間関、田の浦、門司が関にて、平家つひに攻め落し、内侍所、神璽かへり入らせまします。大臣殿以下、生捕〔ど〕も数十人あひ具してまゐり候」と奏聞しければ、法皇御不審のあまりに、北面に候ふ藤判官信盛を召して西国へつかはす。
 同じく十六日、判官、大臣殿以下の生捕あひ具して、明石の浦にぞ着き給ふ。
 その夜は、月おもしろくして秋の空にもおとらず。
 女房たち、尽きせぬ思ひのうちにも思ひ出あり。
「昔は名のみ聞きし明石の月を、今見ることの不思議さよ」とて、歌を詠みなんどしてなぐさみあはれけり。
 そのなかに平大納言の北の方帥の典侍、古歌を思ひ出だし、
 ながむれば濡るる袂にやどりけり月よ雲井のものがたりせよ
 と泣く泣く口ずさみ給へば、判官、東男なれども、優に艶なる心地してあはれにぞ思はれける。
 同じく二十五日、内侍所、鳥羽殿に着かせ給ふ。
 御迎への公卿には、勘解由の小路の中納言経房、高倉の宰相泰通、殿上人には、権右中弁兼忠、榎並の中将公時、但馬の少将範能ぞ参ら れける。
 御供の武士には、石川判官代義兼、伊豆の蔵人の大夫頼兼、左衛門尉有綱とぞ聞こえし。
 その夜、子の刻に、内侍所太政官の朝所へ入らせ給ふ。
 波の上に浮かびたる神璽は、片岡の太郎親経が取りあげて、判官に奉るとかや。
 神璽を「しるしの箱」とも申す。宝剣は長く沈みて見え給はず。
 かつぎする海人に仰せて求めさせ、また水練長ぜる者を召して求めさせらるれども、見えざりけり。
 天神地祇幣帛をささげ、大法、秘法を修せられけれども験なし。
 龍宮に納めてんげるやらん、そののちはいまだ出で来ず。
 二の宮、都へ入らせ給はず。
 都にだにもましませば、この宮こそ位にもつかせ給ふべきに、これも四の宮の御運のめでたくわたらせ給ふによつてなり。
 御心ならず平家にとられて、この三が年があひだ、西国の波の上にただよはせ給ひしかば、御母儀も、御乳人の持明院の宰相も、
「いかなる御ありさまにか聞きなしまゐらせんずらん」とて、朝な、夕な、ただ泣くよりほかのことぞなき。
 されども、今別の御ことなく帰りのぼらせ給ひたれば、みなよろこびの涙をぞながしあはれける。
 法皇よりも迎ひに御車をぞ参らせらる。
 御迎ひには、七条の侍従信清、紀伊守範光とかや。
 七条の御母儀の御所へ入らせ給ひける。
 同じく二十六日、平氏の生捕都へ入る。
 みな八葉の車に乗せたてまつる。
 前後の簾をあげ、左右の物見を開かれたり。
 大臣殿は浄衣を着給ふ。
 御子右衛門督白直垂着て、父の車の尻 に乗り給ふ。
 平大納言時忠の車も同じくやり連れられたり。
 その子讃岐の中将時実、同車にてわたさるべかりしが、まことに所労にてわたされず。
 内蔵頭信基は傷をかうぶりたれば、間道よりぞ入りにける。
 兵前後にうちかこみたり。
 幾千万といふ数を知らず。
 大臣殿は四方を見まはし、いたく思ひしづめる気色も見え給はず。
 右衛門督は直垂の袖を顔におしあて、目もあげ給はず。
 さしも優なりし人々の、三が年があひだ潮風にやせ黒み、
「その人」とも見え給はぬぞいとほしき。
「生捕の人見ん」とて、都のうちにもかぎらず、遠国、近国の貴賤、上下、山々、寺々より老少来り集まる。
 鳥羽の南の門より四塚まで満ちみちたり。
 人は顧みることをえず、車は轅をめぐらすことをえず。
 治承、養和の飢饉、東国、北国の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。
 都を出で給ひても中一年、無下にま近きほどなれば、めでたかりしことどもを忘られず、親、祖父の代よりつたはりて召し使はれたる者ども、身の捨てがたさに、みな源氏につきたれども、昔のよしみを忘れねば、涙をながす人多かりけり。
 その日、大臣殿の車をつかひける牛飼は、もと召し使はれし三郎丸といふ者なり。
 弥次郎丸、三郎丸とて兄弟ありつるが、平家都を落ちてのち、弥次郎は木曾に仕へぬるが、木曾討たれてのち出家してんげり。
 こればかり男にてありけるが、鳥羽にて判官の御前にすすみ出でて申しけるは、
「舎人、 牛飼と申すは下臈のはてにて、心あるべき身にては候はねども、年ごろのよしみ、いかでか忘れたてまつらん。しかるべくんば御許しをかうぶり、今日大臣殿の御車をつかまつらばや」と申せば、なさけ深き人にて、
「さるべし」とぞ許されける。
 三郎丸はよろこび、泣く泣く御車をつかまつる。
 道すがら車のうちをのみ顧みて涙せきあへず。
 されば見る人袖をぞしぼりける。
 大宮をのぼりに、六条を東にわたされ給ふ。
 法皇も、六条東の洞院に御車を立て、叡覧あり。
 公卿、殿上人の車も同じく立て並べられたり。
 人々これを見給ひて、
「『あの人々に、目をも見かけられ、一ことばをも聞かばや』なんどとこそ思ひしに、かく見なすべしとは、はからざりしことを」とぞおのおののたまひあはれける。
 ある人言はれけるは、
「一年内大臣になりて、祝ひ申しのありしとき、公卿には花山の院の大納言、やがてこの平大納言もおはしき。殿上人、蔵人頭以下十六人前駆して、われおとらじと面々にきらめき給ひし儀式ありさま、優なりしことどもなり。参り給ふところごとに、御前に召されて、御引出物ども賜はられしこと、昔も今もためしすくなかりしに、今は月卿雲客一人もともなはず」。
 西国にて同じ生捕にせられし源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、これ二人ぞ白直垂着、馬上にせめつけられてわたされけり。
 六条を東へ、河原をわたされてのち、九郎判官の六条堀川の宿所に入れたてまつる。
 物まゐらせたれども、御覧じも入れられず、ひまなく涙をぞ ながさせ給ひける。
 夜になれども装束だにものけ給はず、袖を片敷き泣き臥し給へり。
 御子右衛門督そばに寝給ひたりしに、大臣殿、御衣の袖を着せ給へば、守護の武士これを見て、
「恩愛とて何やらん。
 せめての心ざしのいたすところよ」とて、猛き兵もみな袖をぞ濡らしける。
 同じく二十八日、前の兵衛佐頼朝、従二位に叙せらる。
 もとは正四位の下なりしが、越階とて三階するぞありがたき朝恩なるに、これはすでに三階なり。
 三位こそし給ふべかりしが、平家のしたりしを忌まうてなり。
 それよりしてぞ
「鎌倉源の二位殿」とは申しける。
 その夜の子の刻に内侍所、温明殿へ入らせ給ふ。
 行幸なつて、三が夜、臨時の御神楽あり。
 長久元年九月、永暦元年四月の例とぞ聞こえし。
 平大納言時忠の卿も、判官の宿所近くありけるが、なほ命やあしかりけん、子息讃岐の中将を呼うで、
「散らすまじき文どもを義経に取られたるぞ。この文関東へ見えなば、人も損じなんず。わが身も生けらるまじ」とのたまへば、中将、
「判官はなさけ探き男にて、女房なんどの訴へは、いかなる大事をもはなたずと承る。
 姫君数ましませば、なにか苦しかるべき。
 一人まみえさせ、親しくなりて、このよし仰せらるべうや候ふらん」と申されければ、
「無慚や、われ世にありしときは、女御、后にもとこそ思ひつれ」とのたまへば、
「今はそのことおぼしめし寄るべからず」とぞ申されける。
 当腹の十七になり給ふは、あまりに惜しみ給へば、さきの腹の姫君の二十三になり給ふをぞ 判官に見せられける。
 優にやさしき人なれば、判官よろこび給ひて、もとの上、河越の小太郎重頼が娘もありしかども、別の御方に尋常にもてなされけり。
 あるとき、女房くだんの文のことをのたまひ出だされたりければ、
「さること候」とて、あまつさへ封をも解かず、大納言へぞおくられける。
 時忠よろこびて、すなはち焼かれけるとかや。
「いかなることかありつらん、おぼつかなし」とぞ人申しける。
 建礼門院は、東山のふもと、吉田の辺にぞたち入り給ひける。
 中納言法印慶恵と申す奈良法師の坊なりけり。
 住み荒らして、庭には草ふかく、軒にはよもぎ茂り、簾絶え、閨あらはれて、雨風たまるべき様もなし。
 花は色々にほへども、主とたのむ人もなく、月は夜な夜なさし入れども、ながめて明かす友もなし。
 昔は、玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、明かし暮らさせ給ひしに、今は、ありとしありし人には別れはてて、あさましきすまひこそかなしけれ。
 女房たちもこれより散り散りになり、魚の陸にあがれるがごとく、鳥の巣をはなれたるさまなる。
 波の上いまさら恋しかりけり。
 同じく五月一日、女院御髪おろさせ給ふ。
 御戒の師には、長楽寺の別当阿証房の上人印西なり。
 御布施には先帝の御直衣とかや。
 上人賜はりて、とかくのことばは出ださねども、墨染の袖をぞしぼられける。
 その期まで召されたれば、御香もいまだ尽きず。
 形見とてこれまで持たせ給ひしかども、
「御菩提のためなれば」とて、泣く泣く取り出だし給ひけり。
 これを幡にぬひ、長楽寺の正面にかけられ けるとぞ承る。
 女院、十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政をすすめ、夜は夜をもつぱらにし給ふ。
 二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立たせましまし、二十五にて院号かうぶらせ給ひて、
「建礼門院」とぞ申しける。
 入道の御むすめなるうへ、天下の国母にてましませば、とかう申すにやおよぶ。
 今年二十九にぞならせ給ひける。
 桃李の粧ひ、なほ匂やかに、芙蓉の姿、いまだおとろへ給はねども、
「翡翠のかんざしをつけても、今はなににかせん」と、泣く泣く御様を変へさせ給ふ。
 人々沈みしありさま、先帝の御面影、いつの世にか忘れ給ふべき。
 五月の短夜なれども、明かしかね給へば、昔を夢にも御覧ぜず。
 壁にそむきたる残んの燈火のかすかに、夜もすがら窓をうつ雨の音さびしかりけり。
 上陽人が上陽宮に閉ぢこめられけんかなしさも、これには過ぎじとぞ見えし。
「昔をしのぶつまとなれ」とてやらん、もとの主が移し植ゑたるやらん、軒近く花橘のありけるが、風なつかしくかをりけるをりふし、山ほととぎすおとづれて過ぎければ、御硯の蓋に古歌をかうぞあそばしける。
 ほととぎす花たちばなの香をとめて鳴くは昔の人やこひしき女院、二位殿の様に水の底にも沈み給はず、武士どもに生捕られ、思ひもかけぬ岩のはざまにぞ明かし暮らさせ給ひける。
 すまひし宿は煙とあがり、むなしきあと のみ残りて茂みの野辺となりつつ、見なれし人の訪ひ来ることもなし。
 仙家より帰りて七世の孫にあひけんもかくやとおぼえてあはれなり。
 本三位の中将重衡の北の方は、五条の大納言邦綱卿の御むすめ、先帝の御乳母、
「大納言の典侍」とぞ申しける。
「重衡生捕られ給ひぬ」と聞こえしかば、西海の旅の空まで嘆きかなしみ給ひしが、先帝におくれたてまつり、姉の大夫三位と同宿して、日野といふ所におはしけり。
「中将、露の命いまだ消えやらぬ」と聞きしかば、
「いま一度、見もし、見えばや」とたがひに思はれけれども、かなはねば、ただ泣くばかりにて明かし暮らし給ひけり。

第百七句 剣の巻

 上 神代よりつたはれる二つの霊剣あり。
「十握の剣」「叢雲の剣」これなり。
 十握の剣は、素戔烏尊大蛇を切り給ひてのち、
「天〔の〕蝿切の剣」と名づけらる。
 大和の国石の上布留の社にこめられたり。
 叢雲の剣は、のちに「草薙の剣」と号す。
 内裏にあつて御守りたりしに、この度長く沈みて見えず。
 それ神代といつぱ、天神のはじめ、国常立尊は色はありて体なし。
 虚空にあること煙のごとし。
 ただ天地陰陽の儀なり。
 国狭立尊より体はありて面目なし。
 豊□渟尊より面目はありて陰陽なし。
 第四より陰陽 ありて和合なし。
 □土□尊、沙土□尊、大戸之道尊、大戸間辺尊、面足尊、□根尊等なり。
 第七代伊□諾、伊□□より、天の浮橋のもとにしてはじめて和合のまじはりあり。
 下界なきことを思ひ、天の逆矛をもつて大海の底をさぐり給ふ。
 ひきあげまします矛のしただり島となる。
「あは、地よ」とのたまへば、「淡路島」と申しけり。
 それより国々出で来り、山河草木生ひ長じ、また、「主なからんや」とて一女三男生み給ふ。日神、月神、蛭児、素戔烏これなり。
 日神はこれ天照大神、国を譲り給へり。
 月神は月読尊、山と岳を譲り給ふ。
 蛭児は五体不具なれば、天の浮船に乗せたてまつり、大海へ流されしが、摂津の国にかかつて、海を領ずる神となる。
 西の宮これなり。
 素戔烏は、「所分なし」とて遺恨あり。
 つひに出雲の国へ流され給ふ。
 その国霧が崎、簸の川上の山に、尾、頭八つの大蛇あり。
 背は苔むして眼は月日のごとし。
 年々に人を食す。
 親呑まれて子かなしみ、子呑まれて親嘆く。
 尊あはれみ〔見〕給へば、老人夫婦泣きゐたりけるがなかに、一人の美女あり。
「いかに」と問ひ給ふに、
「尉はこれ手摩乳、姥はこれ足摩乳、これなるが娘、『稲田姫』と申す。かの姫大蛇がために今宵餌食にあひあたりぬれば、泣きかなしめり」と申す。
 尊、あはれにおぼしめし、
「姫を得させなば、大蛇を従へん」とのたまへば、
「子細にやおよび候」。やがてはかりごとをぞなされける。
 八つの槽に酒を入れ、中に高く 棚をかき、つよく八重垣をかまへ、火をとぼし、あかりに姫をよそほへば、八つの槽に影うつる。
 これを飲みしかば、大蛇、八岐ともに酔ひふしけり。
 このとき、十握の剣をもつて、段々に斬り給ふに、一つ斬れざる尾あり。
 あやしみ見給へば、中に一つの霊剣あり。
 大蛇の尾にありしときは、つねに八色の雲立ちければ、「天の叢雲」と号し、国を、「出雲」と申すなり。
 さてこそ尊の歌に、
 八雲立つ出雲八重垣つまこめて八重垣つくるその八重垣を
 それよりしてこそ三十一字ははじまりけれ。
 大蛇は風水龍王天下りし、死してのち、近江と美濃とのさかひなる伊吹の明神これなり。
 姫をばやがて尊へ参らするに、かづらよそほひたる黄楊のつま櫛を、「かたみに」とて、うしろへ投げければ、夫婦これを取りてのち、ふたたびあはず。それより「別れの櫛」とは言ひつたへたり。
 尊は出雲の国へ宮居ましましき。今の大社これなり。
 かの剣は、また天照大神に参らせられ、御仲なほらせ給ひけり。
 それより代々つたはりしを、第十代の帝、崇神天皇、
「同じ殿にはおそれあり」とて、伊勢大神宮へうつしたてまつり給ひけり。
 十二代の帝、景行天皇四十年の六月、東夷そむけり。
 第二の皇子倭建尊、官軍を召し具して、同じき十月、都をたたせ給ひ、まづ伊勢大神宮へ参詣ある。
 御妹の斎の宮をもつて、
「帝の御命に従つて東夷にまかり向かふ」よし申し給へば、
「つつしんで、怖るることなかれ」とて、 叢雲の剣を賜はりけり。
 これを帯いて下り給ふに、かの大蛇、なほいきどほりやまずして大路に伏しはびこる。
「破りて通りがたし」とて、官軍みな帰りければ、「不破の関」とは申すなり。
 倭建尊、もとより剛にましませば、
「君命そむきがたし」とて、一人踏み越え給ふ。
 御足ほとほりたへがたし。
 心に悲願をおこし、清水にひやし給へば、ほとほり醒めけり。
「醒が井の水」これなり。
 駿河の国まで攻め下りましますに、その国の凶徒、
「狩野の遊び」と申しこしらへ、浮島が原へ具足し申し、四方の野に火をつけ、
「焼き殺したてまつらん」とせしとき、御剣にて三十余町の草を薙がれければ、すなはち燃え退きぬ。
 それよりしてぞ
「草薙の剣」とは申したてまつる。
 かくて三年のうちに東を攻めしたがへ、同じき四十三年癸未に帰りのぼらせ給ふが、御下りのとき、尾張の国松が小島といふ所の源太夫が娘岩戸姫に一夜の契りあさからずして、また、たち寄らせ給ふ。
 御悩つかせましまして、生捕の夷どもを武彦の宮に仰せて、帝へ奉り、近江の国千本の松原といふ所に悩み臥し給ひしを、岩戸姫心もとなくおぼしてたづねゆかれければ、尊うれしさのあまりに、
「あは、つま」とのたまへば、東を
「あづま」と名づけられけり。
 尊はたち帰り、松が小島にてはて給へば、国を
「尾張」と申すなり。
 白き鳥となりて、西をさして飛び去りぬ。

「白鳥塚」これなり。
 剣を田作りの記太夫といふ者が田なかの杉原に暫時寄せかけ置かれたれば、剣の光燃えたちて、杉みな焼けにけり。
 今 の熱田これなり。
 倭建尊は大明神と現じ給ふ。
 岩戸姫も、源太夫も、田作りの記太夫も同じく神とぞ斎はれける。
 幡納められし所をば、
「幡屋」と号して今にあり。
 頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける。
 剣はそのまま熱田の宮にこめられしを、天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、
「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。
 なほ望みをかけしゆゑ、生不動といふ聖に七つの剣を持たせ、日本へ渡さる。
 尾張の国へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。
 七つの剣、御剣にくはへて宝殿に斎はれけり。
 今の
「八剣〔の〕大明神」これなり。
 天武天皇の御宇、朱鳥元年に内裏に納めたてまつり給ひ、
「宝剣」と名づけらる。
 昔はかうこそありしに、今海底に沈みし末の世こそうたてけれ。
 つらつら事の心を案ずるに、大蛇の執着深かりければ、みな彼が化身にて、
「剣をとらん」としてんげるにや。
 不破の関の大蛇も、沙門道行、生不動、みなこの化身なり。
 あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。

第百八句 剣の巻 下
 渡辺の源四郎綱鬼切る事 安倍の貞任・宗任成敗の事
 友切の起り 曾我夜討の事

 下源家に二つの剣有り。

「膝丸」
「鬚切」と申まうしけり。
 人皇五十〔六〕代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申まうし奉たてまつる。
 その御子経基六孫王、その嫡子ちやくし多田の満仲、上野介たりし時とき、源の姓を賜たまはつて、
「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。
 筑前の国御笠の郡出山といふ所ところより鍛冶の上手を召されけり。
 彼もとより名作なる上うへ、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳ゐとくをぞ祈りける。
 南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。
 他の人よりも、わが人なれば、氏子をまぼり給たまふらめ、しからばかの太刀たちを剣となし、源氏げんじの姓の弓矢ゆみやの冥加みやうが長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御おん社を出でにけり。
 やがて都みやこへのぼり、最上の鉄くろがねを六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。
 いづれも二尺七寸なり。
 人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、
「鬚切」と名づけらる。
 今いま一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、
「膝丸」と申すなり。
 満仲の嫡子ちやくし、摂津守頼光につたはりけり。
 かの時とき人多おほくかき消す様に失せければ、恐ろしかりしことどもなり。
 これを詳しく尋たづぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女有り。
 あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、
「願はくは鬼おにとなり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申まうしける。
 神は正直なれば、示現じげんあらたなり。
 やがて都みやこに帰り、丈たけなる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹をぬり、頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝きもを消し、やがて鬼おにとぞなりにける。

「宇治の橋姫」とはこれなり。

「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。
 京中、申さるの刻こくよりのちは門戸を閉ぢて音もせず。
 そのころ、頼光よりみつの郎等らうどう
「渡辺わたなべの源四郎げんしらうつな」といふ者もの有り。
 武蔵むさしの国くに箕田みたといふ所ところにて生まれければ、箕田みたの源四げんしと申まうしけり。
 頼光よりみつの使として、一条いちでう大宮おほみやにつかはしけるが、夜陰やいんにおよび、馬むまに乗り、おそろしき世の中なかなればとて、鬚切をはかせらる。
 一条いちでう堀川ほりかはの戻橋もどりばしにて、齢よはひ二十あまりの女房にようばうの、まことにきよげなるが、紅梅こうばいの薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱つながうち過ぐるを見て、夜ふけおそろしきに、送り給たまひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱つなむまより飛んでおり、子細にやおよび候さうらふべきとて、いだいて馬むまに乗せ、わが身も後輪しづわにむずと乗り、堀川ほりかはの東ひがしを南みなみへ行きけるに、女房にようばう申す様やう、わが住む所ところは都みやこのほか。おくり給はんや」。

「さん候ざうらふ」とこたへければ、
「わが行く所ところは愛宕山ぞ」とて、綱つなが髻もとどりひつ掴つかんで、乾いぬゐをさして飛んで行く。
 綱つなはちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、
「鬼おにの手切る」と思おもへば、北野の社の回廊の上うへにぞ落ちにける。
 髻もとどりにつきたる手を取つてみれば、女房にようばうの姿すがたにては、雪の膚はだへとおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮こちぢみなり。
 これを持参ぢさんしければ、頼光よりみつおどろき給たまひて、播磨はりまなる晴明せいめいを呼びて問はれければ、
「綱つなには七日のいとま賜たまはつて、仁王経にんわうぎやうを購読かうどくすべし」とぞ申まうしける。
 第六日だいむいかになる夜、門もんをたたく者もの有り。

「たれ」と問へば、
「綱つなが養母、渡辺わたなべよりのぼりたる」とこたふ。
 この養母と申まうすは、綱つながためには伯母をばなり。

「人してはあしかりなん」とて、綱つなたち寄りて言ひけるは、
「七日の物忌ものいみにて候さうらへば、いづくにも一夜いちやの宿やどを借り給たまひて、明日みやうにち入らせ給たまふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、
「生まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光よりみつの御内に、『箕田みた源四げんし』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者ものなし。うれしきにつけても、恋しとのみ思おもへば、このごろはひとしほ夢見心こころもとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝ふけうの咎なれば、神明しんめいもまぼり給はじ。七日の祈誓きせいよしなし。今いまよりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱つなは道理にせめられて、
「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。
 来し方、行く末の物語りして、
「さても物忌とは何事ぞ」と尋たづねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。
 母、
「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さてその鬼おにの手といふなるもの、世の物語ものがたりに見ばや」とぞ望みける。
 綱つな
「見せじ」とは思おもへども、さきの恨みが肝きもに染み、深く封じたる鬼おにの手を取り出だし、養母に見せければ、
「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼おにになり、破風蹴破り、出でにけり。
 それより渡辺党わたなべたうは家に破風をたてず。
 あづまやにつくるなり。
 鬚切、鬼おにを切りてより
「鬼丸」と改名かいみやうしけり。
 また頼光よりみつ、そのころ瘧病ぎやへいわずらはる。
 なかばさめたるをりふしに、空より変化へんげの者ものくだり、頼光よりみつを綱つなにて巻かんとす。
 枕なる膝丸抜きあはせ、
「切る」と思おもはれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。
 掘りてみれば、蜘蛛にて有り。
 鉄くろがねの串にさしてぞさらされける。
 それより膝丸を
「蜘蛛切」とぞ申まうしける。
 頼光よりみつよりのち、三河守みかはのかみ頼綱よりつなにつたはる。
 天喜五年ごねんに頼光よりみつの弟、河内守かはちのかみ頼信よりのぶの嫡子ちやくし、伊予守いよのかみ頼義よりよし、奥州あうしうの住人ぢゆうにん、厨川くりやがはの次郎、安倍の貞任さだたふ兄弟きやうだいを攻めんとせし時とき、陸奥守に任ぜらる。
 宣旨せんじにて鬼丸、蜘蛛切を頼綱よりつなが手より頼義よりよしに賜びにけり。
 かの太刀たちにて九年があひだに攻め従したがへ、貞任さだたふを首を切り、宗任むねたふをば生捕いけどりにし、上のぼられけるが、丈たけ六尺四寸なり。
 殿上人うち群れて、
「いざや、奥の夷えびすを見ん」とて行かれけるに、一人梅むめの花を手折たをりて、
「やや宗任むねたふ。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、わが国くにの梅むめの花とは見たれども大宮人おほみやびとはいかがいふらんと申まうしければ、殿上人しらけてぞ帰かへられける。
 そののち筑紫つくしへ流され、今いま
「松浦党まつらたう」とぞ承うけたまはる。
 かくて頼義よりよしより嫡子ちやくし八幡太郎義家よしいへにつたはる。
 また奥州あうしうを賜たまはつて下くだりしほどに、出羽の国千福せんぶく金沢かなざはの城じやうに家衡いへひら武衡たけひらとぢ籠こもりて、国を乱す。
 義家よしいへ向かつて、三年に攻め従したがへ、あはせて十二年の合戦かつせんに、朝敵てうてきほろびぬること、二つの剣の威光ゐくわうなり。
 義家よしいへの嫡子ちやくし対馬守つしまのかみ、の国に謀叛むほんの者もの有り」とて、因幡いなばの正盛まさもりを下くだされ、かの国くににて討たれしかば、四男六条ろくでうの判官はうぐわん為義ためよしにつたはる。
 十四にて叔父をぢを討ち、左近将監さこんのしやうげんに任ぜらる。
 十八歳にて、南都なんとの衆徒しゆとの謀叛むほんをたひらげ、栗子山の峠たうげより追つ返し、あまさへ物具もののぐはぎなんどしけるも、剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
 その時とき山法師聞きてかくぞ詠みける。
 奈良法師栗子山までしぶり来ていが物具もののぐをむきぞとらるる奈良法師やすからざることに思おもひける所ところに、山法師、阿波の上座じやうざといふ者ものにたばかられて禁獄きんごくせられたれば、これを栗子山の返答へんたふにかくなん。
 ひえ法師ほふしあはの上座じやうざにはかられてきびしく牢につがれけるかな為義ためよし勧賞くわんしやうに右衛門尉ゑもんのじようになる。
 三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、
「頼義よりよし、義家よしいへ、数年すねんの戦たたかひ有り。
 門出かどであしければ他国たこくを賜たまはるべし」と仰せ下くださる。

「先祖せんぞの国くにたまはらずして、なにかせん」とて、つひに受領じゆりやうせざりけり。
 ある時とき、かの剣夜もすがら吠ゆる声こゑ有り。
 鬼丸は獅子の声こゑなり。
 蜘蛛切は蛇の鳴く声こゑなり。
 かかりければ鬼丸を
「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を
「吠丸」とつけらる。
 為義ためよし、思おもひ者ものあまた有りければ、男女なんによ四十六人の子なり。
 熊野くまのに有りけるは、
「鶴原たづはら[*
「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の女房」とぞ申まうしける。
 その腹に娘むすめ有り。
 白河しらかはの院ゐん熊野くまのへ参詣さんけい有りし時とき
「別当べつたうは」と御おんたづね有りければ、
「もとより候はず」と申す。

「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠こもりたる山伏を、
「院宣ゐんぜんなれば」とて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。
 教真けうしん別当べつたうこれなり。

「別当べつたうは重代ぢゆうだいすべき者ものなれば、子なくしてかなふまじ」とて、最愛さいあいを尋たづねしに、
「為義ためよしが鶴原たづはらの娘むすめ」とぞ聞こえし。
 為義ためよしつたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者しゆぎやうじやをおさへて合はせられしこと、口惜しき」ことにして、不孝ふけうの子のごとし。
 かかりける所ところに、
「源平げんぺいくにをあらそふべき」よし、遠国をんごくまでも披露ひろう有り。
 教真けうしん
「この時とき与力よりきして、不孝ふけうをも許さればや」と思おもひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都みやこにのぼりけり。
 為義ためよし聞きて、
「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。
 さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋たづぬれば、実方さねかた中将ちゆうじやうの末葉ばつえふ、系図、目録あざやかなれば、対面たいめんにおよんで、吠丸をこそ引きにけれ。
 教真けうしん別当べつたうこれを賜たまはつて、
「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現ごんげんに籠め奉たてまつる。
 昔むかしより二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、まさるほどにぞつくりける。
 目貫に烏をつくらせければ、
「小烏こがらす」とぞ申まうしける。

「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。
 ある時とき二つの剣を、柄、鞘を取り、障子しやうじに寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏こがらすが中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。
 それより獅子の子を、
「友切」とは呼ばれけり。
 為義ためよし、二つの剣を嫡子ちやくし下野守しもつけのかみ義朝よしともにゆづられけり。
 さるほどに、保元ほうげんの乱れ出で来る。
 為義ためよしは、父子七人、院ゐんの御所へ参まゐらる。
 義朝よしとも一人内裏だいりへ召さる。
 保元ほうげん元年ぐわんねん七月十一日寅の刻こくより辰の刻こくまで三時みときのいくさに、新院しんゐん負け給たまふあひだ、為義ためよし東国とうごくへは単己無頼なれば下くだらず。
 天台山てんだいさんにて出家しゆつけして、
「義法房ぎほふばう」と申せしが、
「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子ちやくし義朝よしともを頼み行かれけり。
 朝敵てうてきなれば力ちからおよはず、義朝よしともうけたまはつて斬られけるこそ口惜しけれ。
 同じく舎弟しやてい、為朝ためともばかり助かりて、五人は斬られぬ。
 腹々の子四人ともに殺さる。
 為朝ためともは伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。
 今度こんどの勧賞くわんしやうに、義朝よしとも左馬頭さまのかみになされしが、やがて悪右衛門督あくゑもんのかみ信頼のぶよりにかたらはれて朝敵てうてきとなり、都みやこを落ちし時とき、西近江にしあふみ比良ひらといふ所ところにて、八幡大菩薩を恨み奉たてまつる。

「祖父そぶ義家よしいへは、大菩薩の御烏帽子子えぼしごとして、八幡太郎と号かうせしよりこのかた、『弓矢ゆみやの冥加みやうがにおいては疑うたがひなし』と思おもひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議ふしぎなれ。
 ことに剣の威徳ゐとくまで劣りはてぬるくやしさよ。
 今いまは放たせ給たまふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現じげん有り。

「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性みやうせんじしやうは、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔むかしにかへさば、末すゑはたのもしからん」とて、夢ゆめははてにけり。
 義朝よしともうちおどろき、すなはち昔むかしの名にぞかへされける。

「産衣うぶぎぬ」といふ鎧よろひ
「鬚切」そへて、頼朝よりともにこそゆづられけれ。
 十二歳。
 いくさの場よりして、かの太刀たち、鎧よろひを着ちやくせしは、末代まつだいの将軍しやうぐんと見なし給たまふぞ奇特なる。
 塩津しほづの庄司しやうじがもとに一宿し、東近江ひがしあふみへ道しるべせられ、
「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。
 討手うちてくだる」と聞こえしかば、雪山せつさんに分け入りぬ。
 悪源太あくげんだ義平よしひらは、飛騨の国くにへ落ち行きぬ。
 頼朝よりともはいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとどまる。
 義朝よしともは朝長ともながを召し具して、美濃の国くに青墓の長者ちやうじやが宿所へ行かれしが、朝長ともながは痛手いたでなれば、自害じがいしつ。
 尾張をはりの国くに長田の庄司しやうじ忠致ただむねをたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉たてまつり、御おん首に小烏こがらすあひそへて、平家の見参げんざんに入りしより、小烏こがらすは平家の剣となりにけり。
 頼朝よりともは、雪山せつさんを出でて、東近江ひがしあふみ、草野の尉じようにやしなはれ、御堂みだうの天井てんじやうに隠されしが、をさなけれどもかしこくて、
「われつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思おもひ、草野の尉じようを深く頼み、母方の祖父おほぢなればとて、熱田あつたの大宮司だいぐうじにあづけけり。
 清盛きよもりの舎弟しやてい三河守みかはのかみ頼盛よりもり、今度こんどの勧賞くわんしやうに尾張守をはりのかみになり、弥平兵衛やひやうびやうゑ宗清むねきよを下くださる。
 頼朝よりともをさがし取つてのぼりければ、やがて宗清むねきよにあづけらる。
 頼盛よりもりの母の尼公にこう、死罪しざいを申まうしなだめ、伊豆の国北条ほうでうの蛭が小島へ流され、三十一と申す治承ぢしよう四年の夏、一院いちゐんの宣旨せんじをかうぶりて、謀叛むほんをおこされし時とき、熱田あつたの宮より申まうし乞ひ、鬚切を帯き、五畿ごき七道しちだうを従したがへ給たまふ。
 牛若うしわか、その時とき当歳たうざいなり。
 九つの年より鞍馬くらまへのぼり、東光房とうくわうばう円忍ゑんにんの弟子でし、覚円房かくゑんばうに学問がくもんし、遮那王しやなわうと言ひけるが、十六と申す承安じようあん四年の春、五条ごでうの橋の辺なる末春すゑはるといふ商人あきんどと東あづまへ下くだり、道にてみづから元服げんぶくして、源九郎義経よしつねと名のり、権太郎秀衡ひでひらを頼みしが、舎兄しやきやうの与力よりきとしてのぼるほどに、合沢あひざはにて行き逢ひけり。
 木曾を誅戮ちゆうりくし、摂津の国くにいちの谷たにへ向かはんとす。
 ここに熊野くまのの教真けうしんが子に、田辺たなべの湛増たんぞう
「源氏は母方なれば」とて、為義ためよしの手より渡されし膝丸を引きて、見参げんざんにこそ入りにけれ。
 熊野くまのより春の山を出でたればとて、名をば
「薄緑うすみどり」とあらためらる。
 山陽さんやう、山陰さんいん、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳ゐとくとぞおぼえし。
 義経よしつね、鎌倉かまくらへ下くだらんとせし時とき、梶原かぢはらが讒言ざんげんによつて、かへり上のぼられけるに、剣を箱根はこねに籠められけり。
 建久けんきう四年五月二十八日の夜、曾我そが兄弟きやうだいが夜討ようちの時とき、箱根はこねの別当べつたう行実ぎやうじつが手より兵庫鎖ひやうごぐさりの太刀たちを五郎に得しは、この薄緑うすみどりなり。
 されば名を後代にあげしとかや。
 その時とき鎌倉かまくらに召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。

第百九句 鏡の沙汰さた
 天の岩戸の事 紀伊の国日前像の起り
 内侍所炎上のがれ給ふ事 神璽の沙汰

 神代より三つの鏡有り。
 内侍所ないしどころと申し奉たてまつるは、その一つなり。
 昔むかし天照大神てんせうだいじん、天あまの岩戸いはとを閉ぢて、天下てんが暗闇とならせましませし時とき、よろづの神かみたちあつまつて、こはいかがすべきとて、はかりごとを思おもひまうけ、榊さかきの御四手をささげ、御神楽みかぐらを奏し給たまひしかば、天照大神てんせうだいじん、岩戸いはとを細目に開ひらかせ給たまひて、御覧ごらんぜられし時とき、世の中少し明あけになりて、集あつまらせ給たまひける神々の御顔おんかほの白々として見えければ、岩戸いはとのうちより面おも白しと宣のたまひける。
 おもしろしと言ふ言葉は、それよりしてぞ始まりける。
 天照大神てんせうだいじん岩戸いはとより御目を少し出ださせ給たまふを、集あつまられける神かみたちの、あな目出たやといさまれければ、それよりこそ悦よろこびの言葉を、めでたしとは申すなれ。
 その時とき手力雄命たぢからをのみことと言ふ大力だいぢからの神有りしが、えい声ごゑをあげて、岩戸いはとをひき開ひらき、扉をひきちぎつて、虚空へ遠く投げられける程ほどに、信濃国しなののくにに落ち着きぬ。
 戸隠の明神みやうじんこれなり。
 それよりこのかた、日月星宿しやうしゆく照り給へば、天照大神てんせうだいじんと申し奉たてまつる。
 岩戸いはとをひき破られて、大神だいじんあらはれ給へば、千岩破ちはやぶる神と申すなり。
 その後のちよしあれば、又色々の文字書き替ゆるなり。
 かくて天照大神てんせうだいじん岩戸いはとに住ませましませし時とき、わが子孫しそんわれを見まほしく思おもはん時ときは、此の鏡を見よとて、神かみたちに仰せて、天あまの香具山よりあらがねを取り、鋳給たまひけれども、曇りてあしかりければ、末すゑの世にはいかがとて、捨て給たまひぬ。
 今いま紀伊きいの国くに日前像と申す所ところなり。
 次つぎに鋳給へるは、床しやうを一つにして御かたちをありありと鋳うつされければ、内侍所ないしどころと名づけて、御子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさやわれかつかつはやひあまのおしほにのみことに譲ゆづり給たまひけり。
 神といつぱ鏡なり。
 神はにごれるをきらふ故ゆゑに、「が」の字を中略して、「かがみ」を「かみ」とは申し奉たてまつるなり。
 御子の尊みこと、恋しくおぼしめされし時ときは、大神だいじんの御形よとて見給へば、亡きあとのしるしを今いま、「形見かたみ」とは申すなり。
 それより次第に伝はつて人皇にんわうの御代に及および、九代くだいの御門みかど、開化天皇かいくわてんわうの御宇までは、御門みかども内侍所ないしどころも一宇の殿にましましけるが、第十代だいじふだいの御門みかど、崇神天皇すじんてんわうの御時おんとき、霊威れいゐに恐おそれて、別殿べちでんに移し奉たてまつらる。
 それよりしてこそ内侍所ないしどころ、温明殿うんめいでんへは移らせ給たまひけれ。
 遷都せんと遷幸せんがうの後のちは、百六十年ひやくろくじふねん有りて、村上天皇むらかみのてんわうの御時おんとき、天徳てんとく四年しねん九月くぐわつ二十二日にじふににちの子の刻こく、内裏だいりの中の辺より火出で来る。
 火元は左衛門さゑもんが陣ぢんにて、内侍所ないしどころのおはします温明殿うんめいでん近かりけり。
 静しづかなる夜半やはんの事なりければ、内侍ないしも女官によくわんも参まゐり合はずして、内侍所ないしどころを出だし奉たてまつるべき人も無し。
 小野をのの宮殿みやどの、急ぎ参まゐり見給たまふに、内侍所ないしどころの渡らせ給たまふなる温明殿うんめいでんすでに焼けさせ給たまひぬ。
 今いまは世はかうこそとて、御涙おんなみだにむせばせ給へば、内侍所ないしどころは温明殿うんめいでんの唐櫃からびつより飛び出でさせましまして、南殿なんでんの桜さくらの木にかからせ給たまひけり。
 光明くわうみやう赫奕かくやくとして、朝日の山の端より出づるに異ならず。
 その時とき、小野をのの宮殿みやどの、世は尽きざりけりとて、悦よろこびの涙なみだせきあへず、右の膝ひざをつき、左の袖そでをひろげさせ給たまひて、昔むかし天照大神てんせうだいじん百王を守まぼり給はんとの御誓おんちかひましますなり。
 その御誓おんちかひいまだあらたまらずんば、神鏡しんきやう実頼さねよりが袖そでに宿やどらせ給たまへと申まうさせ給たまへば、その言葉の末すゑいまだ果てざるに、内侍所ないしどころは桜さくらの梢こずゑより、御袖おんそでに飛び移らせ給たまひけり。
 やがて御袖おんそでにつつみ奉たてまつり、主上しゆしやうのまします太政官だいじやうくわんの朝所てうしよへ渡し奉たてまつり給たまひけり。
 此の代だいにはうけ奉たてまつるべき臣下しんかも誰たれかおはすべき。
 内侍所ないしどころも宿やどらせ給たまふまじ。
 思おもへば上古しやうここそめでたけれ。
 さればにや長門の国壇の浦にて、夷えびすども取り奉たてまつらんと唐櫃からうとの錠じやうをねぢ切つて、御蓋おんふたひらかんとしければ、たちまち目くれ鼻血たる。
 平へい大納言だいなごん時忠卿ときただのきやう、あなあさまし。
 それは内侍所ないしどころと申まうして、神にて渡らせ給たまふ。
 凡夫ぼんぶはかからはぬことをと宣のたまへば、皆みなおそれてぞのきにける。
 同おなじく元暦げんりやく二年にねん四月しぐわつ二十五日にじふごにち鳥羽殿とばどのに着かせ給たまふ。
 その夜の子の刻こくに太政官だいじやうくわんの朝所てうしよへ入らせ給たまふ。
 同おなじく二十八日の子の刻こくに温明殿うんめいでんに入らせ給たまふ。
 行幸ぎやうがうなつて、三箇夜さんがよ臨時の御神楽みかぐら有り。
 長久ちやうきう元年ぐわんねん、永暦えいりやく元年ぐわんねん四月しぐわつの例とぞ聞こえし。
 左近将監さこんのしやうげんおほの好方よしかた、別勅べつちよくを承うけたまはり、家に伝はりたる弓立ゆだちの宮人みやびと神楽かぐらの秘曲ひきよくをつかまつり、優いうに珍重ちんちゆうにぞ聞こえし。
 此の歌は好方よしかたが祖父そぶ、八条はつでうの判官はうぐわん資忠すけただがほかは知れる者無し。
 資忠すけただあまりに秘して、子息しそく近方ちかかたにも伝つたへずして、堀河ほりかはの天皇てんわう御在位おんざいゐの時とき、授さづけ奉たてまつりて死してげり。
 さてこそ内侍所ないしどころの御神楽みかぐらの有りし時ときは、主上しゆしやう御簾みすのうちにましまして、拍子ひやうしを取らせ給たまひつつ、近方ちかかたに教をしへさせ給たまひけり。
 誠まことに父ちちに習ならひたらんは世のつねなり。
 いやしき身として、かかる面目をほどこしけるこそめでたけれ。
 道みちを絶やさじとおぼしめされたる君の御心ざしのかたじけなさに、皆人みなひと感涙かんるいをぞ流しける。
 今いま一つの鏡と申すは、素戔烏そさのをのみことの稲田姫いなだひめの所ところより得て、村雲むらくもの剣つるぎと一つに天照大神てんせうだいじんへ参まゐらせ給たまふ。
 今いまは伊勢の国くに二見ふたみの浦うらにあるとかや。
 ことに岩いはの奥に石に添うて有りければ、満潮みちしほには見え給はず。
 潮干しほひの時ときはあらはれ給たまふ。
 されば海上かいしやうおだやかなる時ときは、押し渡り、先達せんだちをまうけて拝し奉たてまつるとぞ承うけたまはる。
 鏡をば岩いはの間あひだに納めたればこそ、蓋身ふたみの浦うらとは申しけれ。
 又神璽しんしと申すは、第六天だいろくてんの魔王まわうの押手おしての判はんなり。
 いかなる子細しさいにて、帝王の御宝おんたからとはなるぞと申すに、第六天だいろくてんとは他化自在天たけじざいてんなり。
 魔王まわうすなはち六欲天ろくよくてんの主ぬしなり。
 日本はじめて出で来しかば、わが欲界よくかいと定さだめし所ところを、天照大神てんせうだいじんりやうじ給たまふ。
 神と言ひ仏ほとけと言ひ、一致の体用たいよう、遂つひには仏法ぶつぽふ流布すべし。
 許すべからずとて、三十一万五歳まで、魔界まかいと同おなじ。
 しかるを天照大神てんせうだいじん方便はうべんをもつて宣のたまひけるは、此の国を譲ゆづり給はば、我われも魔王まわうの眷属けんぞくなりとて、手印てしるしを出だし給たまふに、三宝さんぼうを見べからずとぞ誓ちかひある。
 さては疑うたがひ無しとて、押手おしての判はんを奉たてまつる。
 此の判はんあらんかぎりは、神前しんぜんにおいて、魔縁まえんの障碍しやうげあるまじと、かたく誓ちかひ渡し奉たてまつる。
 されば今いまにいたるまで、神明しんめいの加護かごつよければ、悪魔あくまも恐おそれけるとかや。
 神は正直なれば、御約束を違ひ給はず、かれが鑑かがみる所ところなればとて、殿前でんぜんに出家しゆつけを辞退じたいし給へり。
 平家滅びて後のち、国々くにぐにもしづまりて、人の通かよひもわづらひ無し。
 されば九郎くらう判官はうぐわんほどの人こそなかりけれ。
 鎌倉かまくら源二位殿げんにゐどのは何事なにごともし出だし給はず。
 高名かうみやうあるはただ判官はうぐわんの世にてあるべしと、内々ないない申すと聞こえしかば、鎌倉殿かまくらどの、是これを聞き伝つたへ給たまひて、こはいかに頼朝よりともがゐながらはかりごとをめぐらせばこそ、平家は滅びぬれ。
 九郎くらうばかりしてはいかでかよをおさむべき。
 人の言ふにおごりて、いつしか世をばわがままにしたるにこそ。
 さばかんの朝敵てうてき、平大納言だいなごんが婿むこになる事しかるべからず。
 又世にもはばからず大納言だいなごんが婿むこに取るも心得ず。
 定さだめて今度こんどくだりては、九郎くらうは過分くわぶんの振舞ふるまひをぞせんずらんと、心よからずぞ思おもはれける。
 第百十句 副将ふくしやうそのころ九郎くらう判官はうぐわん大臣殿おほいとのの父子ふしを具して、関東くわんとうへ下くだらるると聞こえしかば、大臣殿おほいとの、判官はうぐわんのもとへ宣のたまひつかはされけるは、この程ほどまことや東あづまへ下くだるべしと承うけたまはる。
 さては生捕いけどりのうちに、八歳はつさいの童わらはと記したるはいまだ此の世に候ふやらん。
 関東くわんとうへ下らぬさきにいま一度いちど見候はばやと宣のたまへば、やすき御事に候とぞいはれける。
 二人の女房にようばう、若君わかぎみを中に置き奉たてまつり、いかなる御有様おんありさまにか見なし参まゐらせんずらんとて、朝な夕ゆふな泣くよりほかの事ぞ無き。
 判官はうぐわん河越かはごえの小太郎こたらうがもとへ言ひやられければ、河越かはごえ人の牛車うしくるまを借つて、若君わかぎみを女房にようばうともに乗せ奉たてまつり、大臣殿おほいとのの方かたへ入れ参まゐらする。
 若君わかぎみはるかに父ちちを見奉たてまつり給はで、よにも心よげにおはしけり。
 大臣殿おほいとの、いかに副将ふくしやう
 是これへと宣のたまへば、やがて御そばに寄り給たまふ。
 若君わかぎみを膝ひざにかきのせ、髪かきなで、守護しゆごの武士共ぶしどもに向かつて宣のたまひけるは、是これ見給へ、殿原とのばら、是これが母ははは、是これを生むとて、難産なんざんをして死にぬ。
 産はたひらかにしたりしかども、うち臥してなやみしかば、今度こんどはかなくなりぬとおぼゆるなり。
 いかなる人の腹に若君わかぎみをまうけ給たまふとも、是これを育てて童わらはが形見かたみに御覧ごらんぜよ。
 乳母めのとなんどのもとへさし放ちやり給たまふべからずと、あまりに言ひしが無惨むざんさに、天下てんがに事出で来ん時ときは、あの清宗きよむねは大将軍たいしやうぐんにて、是これは副将軍ふくしやうぐんをせさせんずればとて、是これが名をばやがて副将ふくしやうと言はんと言ひしかば、なのめならず悦よろこんで、名を呼びなんどして愛せしが、七日と言ふに遂つひにはかなくなりしぞとよ。
 見るたびにその事が忘られでとて泣き給へば、守護しゆごの武士ぶしも涙なみだを流す。
 右衛門督ゑもんのかみも泣かれけり。
 二人の女房にようばうどもも袖そでをぞしぼりける。
 既すでに日もやうやう暮れゆけば、大臣殿おほいとの、さらば副将ふくしやう嬉しく見つ、とくとく帰かへれと宣のたまへば、大臣殿おほいとのにひしひしと取りついて、いざや帰かへらじとぞ泣かれける。
 右衛門督ゑもんのかみ立ちて、今宵こよひは是これに見苦みぐるしき事のあらんずるぞ。
 とくとく帰かへりて又明日みやうにちまゐるべしと宣のたまへ共、なほも立ち給はず。
 二人の女房にようばうどもよりて、すすめいだき奉たてまつり、車くるまにぞ乗せ参まゐらする。
 大臣殿おほいとの、若君わかぎみのうしろを遥はるかに見送り給たまひて、日来ひごろの思おもひ嘆きは事の数ならずとぞ泣かれける。
 母御前ははごぜんの遺言ゆいごんのいとほしければとて、遂つひにさし放ちて乳母めのとのもとへもつかはさず、わが御前おんまへにて育て奉たてまつり給たまひける。
 三歳さんざいの年、冠かぶり賜はり、初冠うひかぶりして、名のりを能宗よしむねとぞ申しける。
 生ひたち給たまふまま、見めかたちいつくしくして、心ざまさへ優におはせしかば、大臣殿おほいとのなのめならずいとほしき事にし給たまひて、西海さいかいの旅の空そらまで、遂つひに片時かたときもはなれ給はぬ所ところに、軍いくさやぶれて後のち、四十余日になりぬるに、今日けふぞはじめて見給たまひける。
 五月七日の卯の刻に、判官はうぐわん、大臣殿おほいとのの父子ふしし奉たてまつり、既すでに関東くわんとうへぞ下くだり給たまふ。
 六日の夜、河越かはごえの小太郎こたらう判官はうぐわんに参まゐりて申しけるは、さてあの若君わかぎみをば何とし奉たてまつり候ふべき。
 判官はうぐわん、当時たうじ暑き中に、幼をさなき者ひき具して、関東くわんとうまで下くだるに及およばず、是これにてよき様やうにはからへと宣のたまへば、さては失うしなふべき人よと心得て、若君わかぎみは乳母めのとの女房にようばうと寝ね給へり。
 その夜、深更しんかうに及およんで、河越かはごえの小太郎こたらう、女房にようばうどもに申しけるは、大臣殿おほいとのすでに関東くわんとうへ御下くだり候ふ。
 重房しげふさも判官はうぐわんの御供おんともに下くだり候へば、若君わかぎみを、緒方をがたの三郎がもとへ入れ参まゐらすべきにて候ふ。
 御車おんくるま寄せて、とくとくと申せば、女房にようばうども、誠まことぞと心得て、寝入り給へる若君わかぎみを驚おどろかし奉たてまつり、いざさせ給へ、御迎ひに車くるまの候ふと申せば、若君わかぎみおどろかされて、昨日きのふの様やうに大臣殿おほいとのの御方おんかたへ又参まゐらんずるかと悦よろこび給たまふぞいとほしき。
 若君わかぎみ乗せ奉たてまつり、六条ろくでうを東ひがしへやる。
 河原かはらに車くるまをやりとどめ、敷皮しきがはしきて、若君わかぎみをおろし奉たてまつる。
 二人の女房にようばうたち、日来ひごろより思おもひまうけたる事なれども、さしあたつては悲かなしかりけり。
 人の聞くをもはばからず、声こゑも惜しまずをめき叫びけり。
 若君わかぎみはあきれ給たまへる様やうにて、二人の女房にようばうどもの泣くを見て、大臣殿おほいとのはいづくに渡らせ給たまふぞと宣のたまへば、武士ぶしども寄りて、只今ただいまこれへいらせ給はんずるに、おりて待ち参まゐらせ給へとて、敷皮しきがはの上うへにいだきおろし奉たてまつる。
 河越かはごえが郎等らうどう太刀たちを抜き、寄りければ、太刀かげを見給たまひて、泣くをおどすとや思おもはれけん、いなや泣かじとて、乳母めのとが懐ふところへ顔かほさし入れて泣かれける。
 河越かはごえ、遅しと目を見あはせければ、太刀たちにてはかなはじとて、刀かたなを抜き、乳母めのとが懐ふところに顔かほさし入れ給へる若君わかぎみを、ひきはなち奉たてまつり、遂つひに御首取つてげり。
 首をば判官はうぐわんに見せ奉たてまつらんとて持ちてゆく。
 むくろはむなしく河原かはらへ捨てにけり。
 二人の女房にようばうども、かちはだしにて、判官はうぐわんの御前おんまへに行きて、なにか苦しう候ふべき。
 あの若君わかぎみの御首賜たまはつて、後世ごせとぶらひ奉たてまつらばやと申せば、判官はうぐわん、もつともさるべしとてぞ許されける。
 二人の女房にようばうたち、若君わかぎみの御首を得て、乳母めのとの女房にようばうの懐ふところに入れ、二人連れて、泣々なくなくかへるとぞ見えし。
 その後のち五六日有りて、女房にようばう二人、桂川かつらがはに身を投げたる事有り。
 一人の女房にようばうは幼をさなき者の首を懐ふところに入れて、沈みたりしは、若君わかぎみの乳母めのとなりけり。
 乳母めのとが投げしは理ことわりなり。
 介錯かいしやくの女房にようばうさへ身を投げけるこそ有りがたけれ。

第百十句 副将ふくしやう
 大臣殿副将見参の事 大臣殿関東下向
 副将斬らるる事 乳母の女房身投ぐる事

 そのころ九郎くらう判官はうぐわん大臣殿おほいとのの父子ふしを具して、関東くわんとうへ下くだらるると聞こえしかば、大臣殿おほいとの、判官はうぐわんのもとへ宣のたまひつかはされけるば、この程ほどまことや東あづまへ下くだるべしと承うけたまはる。
 さては生捕いけどりのうちに、八歳はつさいの童わらはと記したるはいまだ此の世に候ふやらん。
 関東くわんとうへ下らぬさきに一度いちど見候はばやと宣のたまへば、やすき御事に候とぞいはれける。
 二人の女房にようばう、若君わかぎみを中に置き奉たてまつり、いかなる御有様おんありさまにか見なし参まゐらせんずらんとて、朝な夕ゆふな泣くよりほかの事ぞ無き。
 判官はうぐわん河越かはごえの小太郎こたらうがもとへ言ひやられければ、河越かはごえ人の牛車うしくるまを借つて、若君わかぎみ女房にようばうともに乗せ奉たてまつり、大臣殿おほいとのの御方おんかたへ入れ参まゐらする。
 若君わかぎみはるかに父ちちを見奉たてまつり給はで、よにも心よげにおはしけり。
 大臣殿おほいとの、いかに副将ふくしやう
 是これへと宣のたまへば、やがて御そばに寄り給たまふ。
 若君わかぎみを膝ひざにかきのせ、髪かきなで、守護しゆごの武士共ぶしどもに向かつて宣のたまひけるは、是これ見給へ、殿原とのばら、是これが母ははは、是これを産むとて、難産なんざんをして死にぬ。
 産はたひらかにしたりしかども、うち臥してなやみしかば、我われは今度こんどはかなくなりぬとおぼゆるなり。
 いかなる人の腹に若君わかぎみまうけ給たまふとも、是これを育てて童わらはが形見かたみに御覧ごらんぜよ。
 乳母めのとなんどのもとへさし放ちやり給たまふべからずと、あまりに言ひしが無惨むざんさに、天下てんがに事出で来ん時ときは、あの清宗きよむねは大将軍たいしやうぐんにて、是これは副将軍ふくしやうぐんをせさせんずればとて、是これが名をばやがて副将ふくしやうと言はんと言ひしかば、なのめならず悦よろこんで、名を呼びなんどして愛せしが、七日と言ふに遂つひにはかなくなりしぞとよ。
 見るたびにその事が忘られでとて泣き給へば、守護しゆごの武士ぶしも涙なみだを流す。
 右衛門督ゑもんのかみも泣かれけり。
 二人の女房にようばうどもも袖そでをぞしぼりける。
 既すでに日もやうやう暮れゆけば、大臣殿おほいとの、さらば副将ふくしやう嬉しく見つ、とくとく帰かへれと宣のたまへば、大臣殿おほいとのにひしひしと取りついて、いざや帰かへらじとぞ泣かれける。
 右衛門督ゑもんのかみ立ちて、今宵こよひは是これに見苦みぐるしき事のあらんずるぞ。
 とくとく帰かへりて又明日みやうにちまゐるべしと宣のたまへ共、なほも立ち給はず。
 二人の女房にようばうどもよりて、すすめいだき奉たてまつり、車くるまにぞ乗せ参まゐらする。
 大臣殿おほいとの、若君わかぎみのうしろを遥はるかに見送り給たまひて、日来ひごろの思おもひ嘆きは事の数ならずとぞ泣かれける。
 母御前ははごぜんの遺言ゆいごんのいとほしければとて、遂つひにさし放ちて乳母めのとのもとへもつかはさず、わが御前おんまへにて育て奉たてまつり給たまひけり。
 三歳さんざいの年、冠かぶり賜はり、初冠うひかぶりして、名のりを能宗よしむねとぞ生ひたち給たまふまま、見めかたちいつくしくして、心ざまさへ優におはせしかば、大臣殿おほいとのなのめならずいとほしき事にし給たまひて、西海さいかいの旅の空そらまで、遂つひに片時かたときもはなれ給はぬ所ところに、軍いくさやぶれて後のち、四十余日になりぬるに、今日けふぞはじめて見給たまひける。
 五月七日の卯の刻に、判官はうぐわん、大臣殿おほいとの父子ふしし奉たてまつり、既すでに関東くわんとうへぞ下くだり給たまふ。
 六日の夜、河越かはごえの小太郎こたらう判官はうぐわんに参まゐりて申しけるは、さてあの若君わかぎみをば何とし奉たてまつり候ふべき。
 判官はうぐわん、当時たうじ暑き中に幼をさなき者ひき具して、関東くわんとうまで下くだるに及およばず、是これにてよき様やうにはからへと宣のたまへば、さては失うしなふべき人よと心得て、若君わかぎみは乳母めのとの女房にようばうと寝ね給へり。
 その夜、深更しんかうに及およんで、河越かはごえの小太郎こたらう、女房にようばうどもに申しけるは、大臣殿おほいとのすでに関東くわんとうへ御下くだり候ふ。
 重房しげふさも判官はうぐわんの御供おんともに下くだり候へば、若君わかぎみを、緒方をかたの三郎がもとへ入れ参まゐらすべきにて候ふ。
 御車おんくるま寄せて、とくとくと申せば、女房にようばうども、誠まことぞと心得て、寝入り給へる若君わかぎみを驚おどろかし奉たてまつり、いざさせ給へ、御迎ひに車くるまの候ふと申せば、若君わかぎみおどろかされて、昨日きのふの様やうに大臣殿おほいとのの御方おんかたへ又参まゐらんずるかと悦よろこび給たまふぞいとほしき。
 若君わかぎみ乗せ奉たてまつりて、六条ろくでうを東ひがしへやる。
 河原かはらに車くるまをやりとどめ、敷皮しきがはしきて、若君わかぎみをおろし奉たてまつる。
 二人の女房にようばうたち、日来ひごろより思おもひまうけたる事なれども、さしあたつては悲かなしかりけり。
 人の聞くをもはばからず、声こゑも惜しまずをめき叫びけり。
 若君わかぎみはあきれ給たまへる様やうにて、二人の女房にようばうどもの泣くを見て、大臣殿おほいとのはいづくに渡らせ給たまふぞと宣のたまへば、武士ぶしども寄りて、只今ただいまこれへいらせ給はんずるに、おりて待ち参まゐらせ給へとて、敷皮しきがはの上うへにいだきおろし奉たてまつる。
 河越かはごえが郎等らうどう太刀たちを抜き、寄りければ、太刀かげを見給たまひて、泣くをおどすとや思おもはれけん、いなや泣かじとて、乳母めのとが懐ふところへ顔かほさし入れて泣かれけり。
 河越かはごえ遅しと目を見あはせければ、太刀たちにてかなはじとて、刀かたなを抜き、乳母めのとが懐ふところに顔かほさし入れ給へる若君わかぎみを、ひきはなち奉たてまつり、遂つひに御首取つてげり。
 首をば判官はうぐわんに見せ奉たてまつらんとて持ちてゆく。
 むくろはむなしく河原かはらへ捨てにけり。
 二人の女房にようばうども、かちはだしにて、判官はうぐわんの御前おんまへに行きて、なにか苦しう候ふべき。
 あの若君わかぎみの御首賜たまはつて、後世ごせとぶらひ奉たてまつらばやと申せば、判官はうぐわん、もつともさるべしとてぞ許されける。
 二人の女房にようばうたち、若君わかぎみの御首を得て、乳母めのとの女房にようばうの懐ふところに入れ、二人連れて、泣々なくなくかへるとぞ見えし。
 その後のち五六日有りて、女房にようばう二人、桂川かつらがはに身を投げたる事有り。
 一人の女房にようばうは幼をさなき者の首を懐ふところに入れて、沈みたりしは、若君わかぎみの乳母めのとなりけり。
 乳母めのとが投げしは理ことわりなり。
 介錯かいしやくの女房にようばうさへ身を投げけるこそ有りがたけれ。

続く

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