第七 平家巻

 目録
第六十一句 平家北国下向
 鳥羽の院朝覲の行幸 頼朝義仲和融の事
 木曾と城の四郎と合戦の事 経正行く道の狼藉
第六十二句 火打合戦
 平泉寺の長吏心がはり 火打が城落去
 平家砥波志保坂の陣 平家と木曾と合戦
第六十三句 木曾の願書
 義仲埴生の陣 覚明素生の事 鳩の沙汰
 平家砥波志保坂落去
第六十四句 実盛
 平家篠原落ち 武蔵三郎左衛門有国討死 首実検
 実盛錦の袴の事
第六十五句 玄□の沙汰
 飛騨守景家思ひ死の事 伊勢行幸
 大宰少弐広嗣観世音寺供養 兵乱の祈祷の事
第六十六句 義仲牒状
 木曾越後の国府にて合戦の評議 覚明願書の事
 山門衆徒の僉議 返牒の事
第六十七句 平家一門願書
 平家山門の衆徒計策の事 願書したためつかはす事
 平家平生神慮を背く事 衆徒平家を許容せざる事
第六十八句 法皇鞍馬落ち
 平家宇治瀬田の手退散の事
 春日大明神童子姿と現じ給ふ事
 薩摩守・俊成の卿対面の事 千載集の沙汰
第六十九句 維盛都落ち
 〔経正御室へ参らるる事〕 〔維盛〕北の方哀別の事
 若君姫君哀別の事 斎藤五・斎藤六哀別の事
第七十句 平家一門都落ち
 平家一門家々放火の事 池の大納言心かはりの事
 肥後守貞能振舞の事 福原旧都一宿の事
第六十一句 平家北国下向

 寿永二年二月二十二日、主上は朝覲のために、法住寺殿へ行幸なる。
 鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。
 同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。
 同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。
 これは兵乱のためなり。
 南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるまで、一向平家をそむき、源氏に心を通じけり。
 四方へ宣旨をなしくだし、諸国へ院宣をつかはすも、みな平家の下知とのみ心得て、したがひつく者なかりけり。
 そのころ、木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。
 兵衛佐、「木曾を討たん」とて、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。
 木曾これを聞き、乳人〔子〕の今井の四郎兼平をもつて、「なにによつてか義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、十郎蔵人殿こそ、それを恨むることあつて、これにおはしたるを、義仲さへ情なくもてなし申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほか意趣あるべしともおぼえず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたてまつり、合戦し、平家に笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりければ、兵衛佐、「今こそかくはのたまへども、頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それによるまじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、木曾、「真実に意趣なき」よしをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、そのほかあまたつけて、兵衛佐のもとへつかはす。
 兵衛佐、「このうえは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌倉へこそ帰られけれ。
 木曾はやがて越後〔の国〕へうち越えて、城の四郎と合戦す。
 いかにもして討ち取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行きがた知らずぞ落ちにける。
 越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木曾にしたがひつく。
 木曾は東山・北陸、両道をうちしたがへて、「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。
 平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」と披露せられたりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞のごとくに馳せのぼる。
 東海道にも、遠江の国より東こそ参らざれ、相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の国の住人伊東九郎祐澄、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家の方にぞ候ひける。
 東山道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり。
 平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。
 すでに討手をつかはす。
 大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前の三位通盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、三河守知度。
 侍大将には、上総太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国、高橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛盛嗣、武蔵の三郎左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東九郎祐澄、長井の斎藤別当実盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日の午の刻に都をたつて、北国へぞおもむきける。
 平家は片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、道にもちあふ権門勢家の正税、官物ともいはず、いちいちに奪ひ取る。
 まして志賀、唐崎、真野、高津、塩津、海津の辺を、いちいちに追捕して通りければ、人民多く逃散す。
 〔先陣はすすめども、後陣はいまだ近江の国、海津の辺にひかへたり。〕

第六十二句 火打合戦

 木曾義仲は、わが身は信濃にありながら、越前の国火打が城をぞかまへける。
 大将軍には平泉寺の長吏斎明威儀師、稲津の新介、斎藤太、林の六郎光明、富樫の入道仏誓、入善、宮崎、石黒を先として、七千余騎ぞ籠りける。
 さるほどに、平家の先陣は越前の国木辺山をうち越えて、火打が城へぞ寄せられける。
 この城のありさまを見るに、磐石そばたちて四方の峰をつらねたり。
 山をうしろに、山をまへに当つ。
 城のまへには、能見川、新道川とて二つの川流れたり。
 二つの川の落ちあひに大木を立てて、しがらみをかき、せきあげたれば、水、東西の山の根にさし満ちて、ひとへに大海に臨むがごとし。
 影南山をひたして、青うして滉瀁たり。
 波西日を沈めて、紅にして□淪たり。
 昆明池のありさまも、これにはいかでかまさるべき。
 平家は、むかへの山に宿し、むなしく日数をおくる。
 城のうちの大将軍、平泉寺の長吏斎明威儀師、心がはりして、消息を書きて、蟇目の中に籠めて、しのびやかに山の根をつたへて、平家の陣へぞ射入れたる。
「この蟇目の鳴らぬこそあやしけれ」とて、取つてこれを見るに、中に文あり。
 ひらきて見れば、かの川は往古の淵にあらず。
 一旦しがらみをかきあげたる水なり。
 いそぎ雑人どもつかはして、しがらみを切り破らせ給へ。
 山川なれば、水はほどなく落ちんずらん。
 馬の足立よく候へば、いそぎ渡させ給へ。
 うしろ矢は射てまゐらせん。
 平泉寺の長吏斎明威儀師が申状とぞ書いたりける。
 大将軍、副将軍、大きによろこんで、やがて雑人どもをつかはし、しがらみを切り破らせらる。
 案のごとく、山川なれば、水はほどなく落ちにけり。
 そのとき、平家の大勢ざつと渡す。
 斎明威儀師は、やがて平家と一つになつて忠をいたす。
 稲津の新介、斎藤太、入善、宮崎、是等これらは、みなしばし戦ひ、城を落ちて、加賀の国へぞ引きしりぞく。
 平家やがて加賀の国へうち越えて、林、富樫が二箇所の城郭を追ひ落す。
 さらに面を向くべしとも見えざりけり。
 都にはこれを聞き、よろこぶことかぎりなし。
 同じく五月八日、平家は加賀の国篠原にて勢揃ひして、それより軍兵を二手に分けて、大将軍には小松の三位の中将維盛。
 副将軍には越前の三位通盛。
 先陣は越中の前司盛俊。
 都合その勢七万余騎。
 加賀と越中とのさかひなる砥波山へぞ向かはれける。
 搦手の大将軍には左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて、能登と越中とのさかひなる志保坂へこそ駆けられけれ。
 さるほどに木曾の冠者義仲、越後の国府より五万余騎にて馳せ向かふ。
 先に十郎蔵人行家を大将軍にて、一万余騎を引き分けて、志保坂の手へさし向けらる。
 残るところの四万余騎を手々に分かつ。
 総じて七手に分かたれたり。
 〔木曾、わが身は一万余騎にて、小屋部の渡りをして、砥波山の北の埴生に陣をぞ取つたりける。〕木曾のたまひけるは、「平家は大勢にて下るなり、山うち越えて、黒坂の裾の松坂の柳原、ぐみの木林の広みへ出づるものならば、走り合ひの合戦にてこそあらんずれば、馳せ合ひの合戦は、いかにも勢の多く少なきによることなり、大勢かさにかけられてはかなふまじ。搦手をまはせや」とて、楯の六郎親忠、七千余騎にて北黒坂へまはる。
 仁科、高梨、山田の次郎、七千余騎にて、南黒坂へ向かふ。
 わが身は大手より一万余騎。
 また一万余騎をば、松坂の柳原に引き隠し、今井の四郎兼平六千余騎にて鷲の島をうち渡り、日宮林に陣をとる。
 木曾のたまひけるは、「この勢黒坂に向かはんことは、はるかのことぞ。さあらんほどに、平家の大勢、山よりこなたへ越えなんず。勢は向かはずとも、旗を先に立つるものならば、『源氏の先陣向かうたり』とて、山よりあなたへひかんずらん。旗を先に立てよ」とて、勢は向かはねども、黒坂の上に、白旗三十流ばかりうち立てたり。
 案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣すでに向かひてんげり。ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくはよもまはらじ。馬の草かひ、水かひ、ともによげなり。馬休めん」とて、大勢みな、山の中にぞおりゐたる。 

第六十三句 木曾の願書

 木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とつて、きつと四方を見まはせば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづくりの社壇あり。
 木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これはなにの社ぞ、いかなる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられければ、「これは、八幡を遷しまゐらせて、当国には『新八幡』とこそ申し候へ」。
 木曾おほきによろこんで、手書に具せられたる、木曾の大夫覚明を呼びて、「義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近づきたてまつりて合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつうは後代のため、かつうは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて参らせばや』と思ふはいかに」。
「もつともしかるべく候」とて、馬より飛び下り、書かんとす。
 覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、斑母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓持ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。
 箙より小硯、畳紙を取り出だし、木曾殿の御前にひざまづいてぞ書いたりける。
 数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめたりける。
 この覚明と申すは、勧学院に蔵人道弘とて候ひけるが、出家して最乗坊信救とぞ名のりける。
 しばしは南都にありしが、高倉の宮、三井寺にわたらせたまひしとき、南都へ牒状を送られたり。
 その返牒をこの信救ぞ書いたりける。
「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしこと、太政入道おほきに怒つて、「信救法師が首をはねよ」とのたまふあひだ、南都をひそかにのがれ出で、北国へ落ちくだり、木曾にぞつきたりける。
 かかる才人なれば、なじかは書きも損ずべき。
 書きあげてぞ読うだりける。
 帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。
 宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の金容をあらはして、三所の権扉をおしひらく。
 ここに向年よりこのかた、平相国といふ者あり。
 四海を管領し、万民を悩乱せしむ。
 これはすでに仏法の怨、王法の敵なり。
 義仲いやしくも弓馬の家に生まれ、わづかに箕裘の芸を継ぐ。
 彼の暴悪を見るに、思慮を顧みるにあたはず。
 運を天道にまかせ、身を国家になげうち、試みに義兵を起し、凶器を退けんと欲す。
 闘戦両家の陣を合はすといへども、士卒いまだ一塵の勇を得ざるのあひだ、まちまち心おそれをなすところに、いま一陣において旗を戦場に挙げて、たちまち三所和光の社壇を拝し、機感純熟、すでにあきらかなり。
 凶徒誅戮うたがひなし。
 歓喜の涙をおとし、渇仰胆に染む。
 なかんづく曾祖父、前の陸奥守源の義家の朝臣、身を宗廟の氏族に帰付し、名を「八幡太郎」と号してよりこのかた、その門葉として帰敬せざるといふ事なし。
 義仲、その後胤として、首を傾くること年久し。
 いまこの大功を起して、たとへば、嬰児蠡をもつて巨海を測り、螳螂が斧をとつて、隆車に向かふがごとし。
 しかれども国のため、君のためにこれを起し、家のため、身のためにこれを起さざる。
 心ざしの至り、神鑒暗からんや。
 たのもしいかな、よろこばしいかな。
 伏して願はくは、冥顕威を加へ、霊神力を合はせ、勝つことを一時に決し、怨を四方に退け給へ。
 しかればすなはち、丹祈冥慮にかなひ、幽玄加護をなすべくは、まづ一つの瑞相を見せしめたまへ。
 寿永二年五月十一日 源の義仲敬白と読みあげて、十三の上矢をそへて、御宝殿にぞ納めける。
 たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、はるかに照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たつて、源氏の白旗のうへに翩翻す。
 平家もこれを見て、みな身の毛もよだちたり。
 昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしに、霊鳩明天にあらはれ、軍に勝つことを得給へり。
 しかるに、この人々の先祖八幡太郎義家、奥州の貞任を追罰せしとき、厨川の館にて、王城の方にむかひ、はるかに八幡を拝したてまつりて、「これは私の火にあらず、すなはち神火なり」とて火をはなつ。
 霊鳩、炎のうちにあらはれ、旗の上に飛びめぐる。
 か様の先蹤を思ひつづけて、木曾殿兜を脱ぎ、霊鳩を拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。
 源平陣を合はせて、たがひに盾を突き、向かうたり。
 そのあはひ三町にはすぎじとぞ見えし。
 されども源氏もすすまず、平家もすすまず。
 ややあつて、源氏なにとや思ひけん、精兵をすぐり、十五騎を出だして十五の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。
 平家も十五騎出だして十五の鏑を射返す。
 源氏、また三十騎出だして、三十の鏑を射さすれば、三十の鏑を射返しけり。
 五十騎出だせば、五十騎を出だしあはせ、百騎を出だせば百騎を出だし、両方盾の面にすすんだる。
 たがひに勝負を決せんとすすめども、源氏の方には、総じて制して勝負をせず。
 源氏は、かくあひしらひて日を暮らし、「夜に入りて、うしろの谷へ追ひ落し、滅ぼさん」とするをば知らず。
 平家も、ともにあひしらひて、日を暮らすことこそはかなけれ。
 次第に、暗うなりしかば、搦手の勢一万余騎、平家の陣のうしろなる倶利伽羅の堂の辺にて参りあひ、倶利伽羅の堂のまへにて一万余騎、箙の方立を打ちたたき、天も響き、大地もうごくほどに、鬨をどつとつくる。
 木曾これを聞き、大手より一万余騎にて鬨をどつと合はす。
 松長の柳原にひき隠したるが、一万余騎にて戦ふ。
 今井の四郎兼平、六千余騎にて、日宮林より一度にをめいて寄せ向かふ。
 前後四万騎が鬨の声、「山も川もただ一度に崩るるか」とぞおぼえける。
 平家は、「ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくよもまはらじ」とて、うちとけたるところに、思ひもかけぬ鬨〔の声〕におどろきて、あわてさわぎ、「もしやたすかる」と、そばの谷へぞ落しける。
「きたなしや。返せ。返せ」と言ふやからも多かりけれども、大勢のかたぶきたちぬれば、取つて返すことなし。
 されば、「われ先に」とぞ落しける。
 親の落せば、子も落す。
 主の落せば、郎等もつづく。
 兄が落せば、弟も落す。
 馬には人、人には馬、落ち重なつて、さしも深き谷一つ、平家の勢七万余騎にてぞ埋みける。
 巌泉血をながし、死骸丘をなす。
 大将軍維盛ばかり、からき命生きて、加賀の国へ引きしりぞく。
 上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国みなこの谷にてぞ死にける。
 その谷の辺には「矢の穴、刀のあと、今にある」とぞうけたまはる。
 生捕にせられたる者おほかりけり。
 まづ火打が城にて心がはりしたりける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家の侍に聞こふる兵、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康、生捕にせられにけり。
「斎明威儀師、生捕にせられたり」と聞こえしかば、木曾殿、これを召し寄せ、まへに引き据ゑ、やがて首を刎ねられけり。
 夜明けてのち、しかるべき者ども、三十余人首を切りかけて、木曾殿のたまひけるは、「そもそも、十郎蔵人が志保の手こそおぼつかなけれ。
 いざ行きて見ん」とて四万騎が中より、馬、人、強きをすぐつて二万騎、志保の手に馳せ向かふ。
 越中の国、氷見の湊といふ所を渡さんとするをりふし、潮さし満ちて、深さ、浅さを知らず。
 鞍置馬を追ひ入れて泳がす。
 鞍爪ひたるほどにて、むかひの岸のはたへ渡り着く。
「こはいかに。浅かりけるを」とて、大勢うち入れて渡す。
 志保坂へ押し寄せ見給へば、案のごとく、十郎蔵人は散々に射しらまされて引きしりぞき、駒の足を休めゐけるところに、木曾、「さればこそ」とて、二万騎入りかはつて、鬨をつくり、をめいて駆く。
 平家、しばらくこそ支へけれ、志保の手も追ひ落されて、加賀の国篠原へこそ引きしりぞきけれ。 

第六十四句 実盛

 同じく二十三日、卯の刻に源氏篠原へ押し寄せて、午の刻まで戦ひけり。
 暫時の合戦に、源氏の兵一千余騎討たれぬ。
 平家方には高橋の判官長綱をはじめとして、二千余騎ぞ滅びける。
 平家篠原を攻め落されて落ち行きけり。
 その中に武蔵の三郎左衛門有国、長井の斎藤別当実盛は、大勢に離れて、二騎つれて引き返し戦ひけり。
 三郎左衛門有国は敵に馬の腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついて下り立つたり。
 敵のなかに取りこめられて散々に射る。
 矢種みな射尽くし、打物抜いで戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられて、立死にこそ死にけれ。
 三郎左衛門討たれてのち、長井の斎藤別当実盛、存ずるむねありければ、ただ一騎残つてぞ戦ひける。
 信濃の国の住人手塚の太郎馳せ寄つて、「味方はみな落ち行くに、ただ一騎残つていくさするこそ心にくけれ。誰そや、おぼつかなし。名のれ、聞かん」と言ひければ、「かう言ふわ殿は誰そ。まづ名のれ」と言はれて、「かく言ふは、信濃の国の住人手塚の太郎光盛ぞかし」と名のる。
 斎藤別当、「さる人ありとは聞きおきたり。ただし、わ殿を敵に嫌ふにはあらず、存ずるむねあれば、今は名のるまじ。寄れ。組まん。手塚」とて押しならべて組まんとするところに、手塚が郎等、中にへだたつて、むずと組む。
 実盛は手塚が郎等を取つて、鞍の前輪に押しつけて、刀を抜き、首をかかんとす。
 手塚は、郎等が鞍の前輪に押しつけらるるを見て、弓手よりむずと寄せあはせて、実盛が草摺たたみあげて、二刀刺すところを、えい声をあげて組んで落つ。
 実盛、心は猛けれども、老武者なり、手は負うつ、二人の敵をあひしらふとせしほどに、手塚が下になつて、つひに首を取らる。
 手塚は、遅ればせに馳せ来たる郎等に、斎藤別当が物具はがせ、首持たせ、木曾殿のまへに馳せ参り、申しけるは、「光盛こそ今日奇異のくせ者に組みて討ち取つて候へ。なにと『名のれ』とせめ候ひつれども、つひに名のり候はず。『侍か』と見れば、錦の直垂を着て候。また、『大将軍か』と思へば、つづく勢も候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申せば、「あはれ、これは斎藤別当実盛にてやあらん。ただし、それならば、義仲ひととせ幼な目に見しかば、すでに白髪糠生なりしぞ。いまはさだめて白髪にこそあらんずるに、鬢、鬚の黒きは、あらぬ者やらん。年来の得意なれば見知りたるらんものを。樋口召せ」とて、召されたり。
 樋口の次郎参り、実盛が首をひと目見て、やがて涙にぞむせびける。
「いかに、いかに」とたづねられければ、「あな無慚や。
 実盛にて候ひけり」と申す。
「鬢、鬚の黒きはいかに」とのたまへば、樋口の次郎涙を押しのごひて申しけるは、「さ候へばこそ、その様を申さんとすれば、不覚の涙が先立つて、申し得ず候。弓矢取る身は、あからさまの座席とは思ふとも、思ひ出でになることを申しおくべきにて候ひけるぞや。つねは兼光に会うて物語り申せしは、『実盛、六十にあまつて軍の場に向かはんには、鬢、鬚を墨に染めて若やがんと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大人げなし。また、老武者とてあなどられんも口惜しかるべし』なんど、つねは申し候ひしが、今度を最後と存じて、まことに染めて候ひける無慚さよ。洗はせて御覧候へ」と申しもあへず、また涙にぞむせびける。
「さもあらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそ洗ひなせ。
 実盛、錦の直垂を今度着たりけることは、都を出でしとき、大臣殿に参り、申しけるは、「一年、東国のいくさにまかり下り候ひて、駿河の蒲原より矢一つも射ずして逃げのぼりて候ひしこと、老後の恥辱ただこのことに候ふなり。今度、北国へ向かふならば、年こそ寄りて候ふとも、真先駆けて討死つかまつらんずるにて候。それにとつては、実盛、もとは越前の者にて候ふが、近年所領につきて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事のたとへの候ひしぞかし。『故郷へは錦を着て帰る』と申すことの候。
 しかるべくは、実盛に錦の直垂を御ゆるされ候へかし」と申しければ、大臣殿、「まことにさるべし」とて、錦の直垂を許されけるとぞ聞こえし。
 昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがへし、今の実盛はその名を北国のちまたにあぐ。 

第六十五句 玄□の沙汰

 平家は、去んぬる四月北国に下りしときは、十万余騎と聞こえしが、今五月〔下旬に〕帰り上るには、わづかにその勢三万余騎。
 さしも花やかにいでたちて都をたちし人々の、いたづらに名をのみ残し、越路の末の塵となるこそかなしけれ。
 入道の末の子三河守知度も討たれ給ひぬ。
 忠綱、景高もかへらず、季国、長綱も討たれぬ。
「『流を尽くしてすなどるときは、多くの魚ありといへども、明年には魚なし。
 林を焼いて狩するときは、多くの獣ありといへども、明年には獣なし』と、のちを存じて少々は残されべきものを」と申す人もおほかりけり。
 飛騨守景家は、「最愛の嫡子景高討たれぬ」と聞こえしかば、臥ししづみて嘆きけるが、しきりにいとま申すあひだ、大臣殿ゆるされけり。
 やがて出家して、うち臥すこと十余日ありて、つひに思ひ死にこそ死にけれ。
 これをはじめとして、親は子を討たせ、子は親を討たせ、妻は夫におくれて、家々には、をめきさけぶ声おびたたし。
 北国のいくさにうち負けて、都へ帰り上りにけり。
 六月一日、蔵人の左衛門権佐定長、仰せをうけたまはつて、祭主神祇権少副大中臣の親俊を殿上のおり口へ召され、「兵革をしづめんがために、大神宮へ行幸なるべき」よし仰せ下さる。
 大臣宮と申すは、高天の原より天降らせ給ひて、大和の国笠縫の里にましましけるを、十一代の帝垂仁天皇二十五年丙辰三月に、伊勢の国五十鈴の川上、下津石根に大宮柱を広う敷き立てて、祝ひそめたてまつりしよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の神祇冥道のうちには無双なり。
 されども代々の帝の臨幸はいまだなかりけり。
 奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少将兼大宰少弐広嗣といふ人あり。
 天平十五年十月に、肥前の国松浦の郡にして、十万の凶賊をかたらひて、国家をあやぶめんとす。
 これによつて大野の東人、広嗣が討手に向かふ。
 その祈りのために、帝はじめて伊勢へ行幸なるとかや。
 広嗣討たれてのち、その亡霊荒れて、おそろしき事ども多かりけり。
 同じき天平十八年六月に筑前の国観世音寺供養せらる。
 導師には玄□僧正請ぜらる。
 すでに高座にのぼり、表白の鉦打ち鳴らして候ふとき、にはかに鳴神おびたたしく鳴つて、玄□のうへに落ちかかつて、その頭を取り、雲中へぞ入りにける。
 おそろしなんどもおろかなり。
 これは玄□僧正、広嗣を調伏したりけるによつてなり。
 これによつてかの霊をうやまひ、「松浦の鏡の宮」と号す。
 この僧正は吉備の大臣入唐のとき、法相宗をわたされし人なり。
 唐人、「玄□」といふ名を難じて、「玄□とは『還つて亡ぶ』といふ声あり。いかさまにも帰朝ののち、事にあふべき人なり」と申したりとかや。
 そののち、なか一年あつて、曝れたる頭に「玄□」といふ銘を書いて、興福寺に空より落し、どつと笑ふ声ありけり。
 おそろしかりし事どもなり。
 嵯峨の天皇の御時、平城の先帝、尚侍のすすめによつて、世を乱り給ひしその御祈りには、帝第三の姫宮を賀茂の斎院に立てまゐらせ給ひけり。
 朱雀院の御時、将門、純友、兵乱の御祈りに、八幡の臨時の祭礼はじめらる。
 か様の事どもを例として、さまざまの御祈りどもはじめられけり。 

第六十六句 義仲〔山門〕牒状

 木曾は越前の国府に着いて合戦の評定あり。
 井上九郎、高梨の冠者、山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべき者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かつて、木曾のたまひけるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経てこそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあらんずらん。蹴破つて通らんことはやすけれども、平家こそ、当時は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんずる者が大衆にむかつて合戦をせんずること、すこしもちがはざる二の舞なるべし。これこそ安大事のことなれ。いかにせん」とぞのたまひける。
 木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思ひにてこそ候はんずれ。まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見え候はんずらん」。
「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へこそ送られけれ。
 義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、長く人臣の礼を失ふ。
 しかりといへども、貴賤手をつかね、緇素足をいただく。
 ほしいままに帝位を進退し、あくまで国郡を虜掠す。
 道理、非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪、無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。
 その資財を奪ひ取り、ことごとく郎従に与へ、彼の荘園を没取し、みだれがはしく子孫に省く。
 なかんづく、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮にうつしたてまつり、博陸を絶域に流したてまつる。
 しかのみならず、同じき四年五月に、二の宮の朱閣を囲みたてまつり、九重の紅塵を驚かしむ。
 ここに帝子非分の害をのがれんがために、園城寺に入御の時、義仲、先日に令旨を賜はるによつて、鞭をあげんと欲するところに、怨敵巷に満ち、予参道を失ふ。
 近境の源氏なほ参候せず、いはんや遠境においてをや。
 しかるに、園城寺は分限なきによつて、南城におもむかしめ給ふのあひだ、宇治橋において合戦す。
 大将三位入道の父子、命を軽んじ、義を重んじ、一戦の功をはげますといへども、多勢の攻をまぬがれず、かばねを龍門原上にうづみ、名を鳳凰城にほどこす。
 令旨の趣肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。
 これによつて、東国、北国の源氏等おのおの参洛をくはだて、平家を滅ぼさんと欲す。
 その宿意を達せんがために、去年の秋、旗をあげ、剣をとつて、信濃を出でし時、越後の国の住人城の四郎長茂、数万の軍兵を召し具し発向せしむるのあひだ、当国横田川において合戦す。
 義仲わづかに三千余騎をもつて、彼の二万の兵を破りをはんぬ。
 風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍衆を北陸に発向す。
 越州、加州の砥波、黒坂、志保坂、篠原以下の城郭において数箇度の合戦、はかりごとを帷幕のうちにめぐらし、勝つことを咫尺のもとに得たり。
 しかれば、討てば必ず伏し、攻むれば必ず降す。
 たとへば秋の風の芭蕉を破るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすにあひ同じ。
 これひとへに、神明、仏陀のたすけなり。
 さらに義仲が武略にあらず。
 平氏敗北のうへは参洛をくはだたんとなり。
 今は叡岳の麓を過ぎ、洛陽のちまたに入るべし。
 この時にあたつて、ひそかに疑殆あり。
 天台の衆徒は平家に同心せんか。
 源氏に与力せんか。
 もし彼の悪徒を助けば、衆徒に向かつて合戦すべし。
 もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡くびすをめぐらすべからず。
 悲しきかなや、平氏宸襟を悩まし、仏法を滅ぼすのあひだ、彼の悪行をしづめんがために義兵を起すところに、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦いたさんこと。
 いたましきかなや、医王、山王に憚りたてまつて、行程に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣となつて、武略の瑕瑾のそしりを残さん。
 みだれがはしく進退に迷ひて案内を啓するところなり。
 乞ひ願はくは三千の衆徒おのおの思慮をめぐらし、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、凶徒を誅し、洪化に浴せば、懇丹の至りに堪へず。
 義仲恐惶敬白。
 寿永二年六月 日進上恵光律師御房
 とぞ書いたりける。
 山門には、これを披見し僉議まちまちなり。
 あるいは「平家に同心せん」と言ふ衆徒もあり、あるいは「源氏につかん」と言ふ大衆もあり。
 思ひ思ひの異議さまざまなり。
 老僧どもの申しけるは、「われらもつぱら金輪聖王、天長地久を祈りたてまつる。
 当代の、平家は御外戚にてまします。
 されば、いまに至るまで、かの繁昌を祈誓す。
 されども、悪行、法に過ぎ、万人これをそむけり。
 討手を国々へつかはすといへども、かへつて異賊のために滅ぼさる。
 源氏は、近年より度々合戦にうち勝つて、運命ひらけなんとす。
 なんぞ、宿運尽きぬる平家に同心して、運命をひらく源氏をそむかんや。
 平家値遇の儀をひるがへして、源氏合力の心に服すべき」のよし、一味同心に僉議して、やがて牒状を送る。
 そのことばに曰く、
 六月十日の牒状、同じき十六日到来。
 披閲のところに数日の鬱念一時に解散す。
 およそ平家の悪行累年に及んで、朝廷の騒動止む時なし。
 事人口にあり、委悉するにあたはず。
 それ叡岳に至つて、帝都東北の仁祠として国家静謐の祈誓をいたす。
 しかるを一天ひさしく彼の夭□にをかされて、四海とこしなへにその安全を得ず。
 顕密の法輪なきがごとし。
 擁護の神威しばしばすたる。
 貴家たまたま累代武備の家に生まれて、幸ひに当時精選の仁たり。
 あらかじめ規模をめぐらし、たちまちに義兵を起す。
 万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。
 その労いまだ両年を過ぎざるに、その名すでに七道にほどこす。
 わが山の衆徒かつがつ以て承悦す。
 国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。
 かくのごとくなるときんば、山上精祈空しからざることをよろこび、海内衛護のおこたりなきことを知らん。
 自寺、他寺、常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、さだめて〔教法の再び栄えんことをよろこび、崇敬の旧に〕復せんことを随喜し給はん。
 衆徒等心中、ただ賢察をたれ給へ。
 しかればすなはち冥に、十二神将、かたじけなくも、医王善逝の使者として、凶賊追罰の勇士にあひ加はり、顕には、三千の衆徒、しばらく修学鑽仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍をたすけしむ。
 止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外にはらひ、瑜伽三密の法雨は時俗を旧年の昔にかへす。
 衆議かくのごとし。
 つらつらこれを察せよ。
 寿永二年六月 日 〔大衆等〕とぞ書いたりける。 

第六十七句 平家一門願書

 平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きをりふしなり、かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不忠を存ぜず。当家もまた山門のために怨をむすばず。山王大師に祈誓して三千の衆徒かたらひとらん」とて、一門の公卿、同心の願書を書いて山門に送る。
 願書に曰く、
 敬白延暦寺をもつて、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもつて、尊敬して氏社のごとくにす。
 一向天台の仏法を仰ぐべき事。
 右、当家一族の輩まことに祈誓あり。
 旨趣如何となれば、それ叡山は桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法をこの所にひろむ。
 遮那の大戒をそのうちに伝へしよりこのかた、もつぱら仏法繁昌の霊窟たり。
 久しく鎮護国家の道場にそなはり。
 まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源の頼朝、身の咎を悔いせず、かへつて朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同心いたす源氏等、行家、義仲、以下党を結んで数あり。
 隣境、遠境数国を抄領し、土宜、土貢、万物押領す。
 これによつて、かつうは累代勲功の跡を追ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、すみやかに賊徒を追罰し、凶徒を降伏すべきのよし、かたじけなくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ。
 ここに魚鱗鶴翼の陣の、官軍利を得ず。
 星旄電戟の勢、逆類勝に乗るに似たり。
 もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の凶乱をしづめん。
 ここをもつて一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の神慮を頼むらくのみ。
 いかにいはんや、かたじけなくも、臣等の曩祖を思へば本願の余裔と言つつべし。
 いよいよ崇重すべし、いよいよ恭敬すべし。
 自今以後、山門に悦びあらば、一門の悦びとせん。
 社家に慎みあらば、一家の慎みとせん。
 善につき、悪につき、悦びとなし、憂ひとなさん。
 おのおの子孫に伝へて長く失堕せじ。
 藤氏は春日の社をもつて氏社とし、興福寺をもつて氏寺と号す。
 久しく法相大乗の宗に帰す。
 平氏は日吉の社、延暦寺をもつて、氏寺、氏社とせん。
 円実頓悟の教に値遇せんや。
 かれは昔の遺跡なり、家のために栄幸を思ふ。
 これは今の精祈なり、民のために追罰を請ふ。
 仰ぎ願はくは、山王大師、東西満山の護法の聖衆、十二大願、日光、月光、医王善逝、十二神将、無二の丹誠を照らし、唯一玄応を垂れ給へ。
 しかればすなはち邪謀逆心の賊、〔手〕を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京都につたへん。
 我等が苦請の仏神、あになんぞ捨てんや。
 当家の公卿等、異口同音に礼をなし、祈誓くだんのごとし。
 寿永二年七月 日
 従三位行兼越前守平朝臣通盛
 従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
 正三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣維盛
 正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
 参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛
 従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛
 従二位権中納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
 従一位内大臣平朝臣宗盛
 敬白
 とぞ書かれたる。
 貫首、これを憐み給ひ、やがても披露せられず。
 十禅師の御殿に籠めて、三日加持してのち披露せらる。
 はじめはありとも見えざりつる一首の歌、願書の上巻に出で来たり。
 平かに花さくやども年経れば西へかたぶく月とこそなれ
「山王大師、憐みを垂れ給へ。三千の大衆、力をあはせよ」となり。
 されども、年ごろ、日ごろのふるまひ、神慮をそむき、人ののぞみにも違ひければ、祈れどもかなはず、かたらへどもなびかず。
 大衆これを見て、「まことにさこそ」とは憐みけれども、すでに源氏に同心の返牒を送るうへは、「その儀あらたむる〔に〕及ばず」。
 許容する大衆もなかりけり。 

第六十八句 法皇鞍馬落ち

 同じき二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。
 西国ばかりは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづまらず。
 同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへしたるごとくに騒ぎあへり。
 馬に鞍おき、腹帯しめ、物の具東西に運び隠しあふ。
 明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞といふ者あり。
 これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきけるを搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。
 八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、近年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参つて、「木曾すでに近江の国に乱れ入り、その勢五万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎等に楯の六郎親忠、木曾の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、総持院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と申したりけるゆゑとかや。
 平家これを防がんがために、瀬田へは新中納言知盛、三位の中将重衡、三千余騎にて向かはれけり。
 宇治へは越前の三位通盛、能登守教経、三千余騎くだられけり。
 さるほどに、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より入る」といふ。
「足利矢田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経て京へ入る」といふ。
「摂津の国、河内の源氏は、同じく力をあはせて淀川尻より攻め入るべし」とぞののじりける。
 平家これを聞きて、「こはいかがすべき。ただ一所にていかにもならん」とて、宇治・瀬田の手をもみな呼びぞ返されける。
「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもかくのごとし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入らなばや」とは思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。
 いづれの浦かおだやかなるべし。
「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の妙文なれば、なじかは少しもちがふべき。
 同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院の六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。されば、『院をも、内をも、取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」とぞ仰せける。
 大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙、ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。
 法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」といふことを内々聞こしめしてやありけん。
 右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひて、鞍馬のかたへ御幸なる。
 人これを知らざりけり。
 平家の侍に橘内左衛門季康といふ男あり。
 さかさかしき者にて、院にも召し使はれけるが、その夜しも法住寺殿へ御宿直して候ふが、つねに、御所の方、よにさわがしく、ささめきあひて、女房たちしのび声に泣きなんどし給へば、「こはなにごとやらん」と思ひて聞くほどに、「法皇のわたらせたまはぬは、いづかたへ御幸なりたるやらん」と申しあはるる声に聞きなして、「あな、あさましや」と思ひ、いそぎ六波羅へ馳せ参りて、このよしを申せば、大臣殿「いで、ひが事にてぞあるらん」とのたまひながら、やがて法住寺殿へ馳せ参り、見給へば、げにもわたらせ給はず。
 二位殿丹波殿以下御所に候はせ給ふ女房たち、みなはたらき給はず。
「いかにや、いかにや」と申されけれども、「われこそ御ゆくへ知りまゐらせたり」といふ女房一人もおはせず。
 明くれば七月二十五日なり。
「御所にもわたらせ給はず」と申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。
 いはんや平家の人々のあわて騒がれけるありさま「家々に敵討ち入りたらんも、かぎりあれば、これには過ぎじ」とぞ見えし。
 日ごろは、「院をも、内をも取りまゐらせ、御幸をも、行幸をもなしたてまつらん」と計らはれたりけれども、か様に法皇の捨てさせましまししかば、たのむ木のもとに雨のたまらぬ心地をぞせられける。
「さては行幸ばかりなりともなしたてまつれ」と、二十五日の卯の刻ばかりに、御輿寄せまゐらせたりければ、主上、六歳にならせ給ふ、なに心もわたらせ給はず、やがて御輿に召されけり。
 国母建礼門院も同じ御輿にぞ召されける。
 内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。
 そのほか「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿までも、取り具したてまつれ」と平大納言下知せられけれども、あまりにあわてて取り落す物ども多かりけり。
 摂政殿も供奉せさせ給ひたりけるが、東寺の門のほとりにびんづら結うたる童子の御車のまへを馳せ過ぎて御歌あり。
 いかにせん藤のうら葉の枯れゆくをただ春の日にまかせてやみん
 御車のうちを見入れたるを、御覧ずれば、左の肩に「春日」といふ文字ぞ見えさせ給ひける。
「これは法相擁護の春日の権現、淡海公の御末を守らせ給ふか」と、めでたかりし事どもなり。
 摂政殿、「大明神の御告げなり」とおぼしめされければ、御供に候ふ進藤右衛門信高を召して、なにとか仰せられたりけん、御牛飼にきつと目を見合はせられければ、御車を遣り返したてまつる。
 大宮をのぼりに、北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。
 これも人知りまゐらせず。
 平大納言時忠、内蔵頭信基、これ二人ばかりぞ衣冠にて供奉せられたる。
 そのほか近衛司も甲冑をよろひ、弓矢を帯して供奉す。
 七条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。
 漢天すでにひらけて、雲東西にそびえ、あかつき月さびしくして、鶏鳴またいそがはし。
「一年、都遷りとて、にはかにあわただしかりしは、かかるべかりける先表」とも、今こそ思ひあはれけれ。
 薩摩守忠度は、いづくよりか引き返されたりけん、侍五騎具して、五条の三位俊成の卿の宿所にうち寄りて見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
 うちを聞けば、「落人帰り上りたり」とて、おびたたしく騒動す。
 門をたたけども、あけぬあひだ、「これは薩摩守忠度と申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候うて、道より帰り上りて候ふなり。たとひ門をあけずとも、この際まで立ち寄らせ給へ」とのたまへば、三位これを聞き、「その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開き、対面ある。
 忠度紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着給へり。
 薩摩守のたまひけるは、「年来、申し承つてのち、いささかもおろかに思ひたてまつることは候はねども、この三四年は、京都のさわぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上にて候へば、この事どもにつきて、疎略を存ぜずといへども、つねに参り寄ることも候はず。されども、撰集のあるべきよし、承り候ひしかば、『生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや』と存じ候ふところに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰もなく候ひしことども、一身のなげきと存じ候。君すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するかたなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そのうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、『うれし』と存じ候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」とて鎧の引合より巻物一つ取り出だして、俊成の卿に奉る。
 三位この巻物ちとひらいて見給ひて、「かかるわすれがたみを賜はりおくなれば、ゆめゆめ疎略を存ずまじく候。勅撰のことは、人は知らず、愚身が承らんにおいては、御疑ひあるべからず」とのたまへば、忠度、「今生の見参こそ、ただ今をかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土に参りあはん」とてぞ出でられける。
 薩摩守、兜の緒をしめ、馬の腹帯をかため、うち乗つて、西をさして歩ませ行く。
 三位はるばると見送りて立たれたるところに、薩摩守の声とおぼしくて、前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲にはつすと、たからかにうち詠じ給へば、三位これを聞いて、涙をおさへて入り給ふ。
 げにも、世しづまつて、勅撰あり。
「千載集」これなり。
 その中に忠度の歌一首入れられたり。
「心ざし切なりしかば、あまたも入ればや」と思はれけれども、勅勘の人なれば、名字はあらはさず、「読人知らず」とぞ入れられける。
「故郷の花」といふ題にて詠まれたる歌なり。
 さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
 その身すでに朝敵となりしうへは、子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。 

第六十九句 維盛都落ち

 修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少にては、仁和寺の御室の御所に候ひしかば、かくある怱劇のなかにも、御名残をきつと思ひ出だして、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬よりおり、申し入れられけるは、「一門、運尽きて、今日すでに帝都をまかり出で候。うき世に思ひのこすこととては、ただ君の御名残ばかりなり。八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて元服つかまつり候ひしまでは、あひいたはることの候ひしよりほかは、御前をたち去ることも候はざりしに、今日よりのち、いづれの日、いづれの時、帰り参るべしとも覚えざることこそ、口惜しう候へ。いま一度、御前に参りて、君をも見まゐらせたう候へども、甲冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へば、はばかり存じ候」とぞ申されける。
 御室あはれにおぼしめし、「ただ、その体をあらためずして参れ」とこそ仰せけれ。
 経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓をわきばさみ、兜を脱いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる。
 御室やがて御出であつて、御簾高く巻かせ、「これへ、これへ」と召されければ、大床へこそ参られたれ。
 御琵琶持ちて参りたり。
 経正これを取り次ぎ、御前にさし置き、申されけるは、「先年下しあづかりて候ふ青山、持ちて参りて候。あまりに名残は惜しう候へども、さしも我が朝の名物を、田舎の塵になさんこと口惜しう候。もし不思議に運命開いて、また都へたち帰ること候はば、その時こそ、なほ下しあづかり候はめ」と泣く泣く申しければ、御室、あはれにおぼしめし、一首の御詠歌をあそばいて、下されけり。
 あかずしてわかるる君が名残をばのちのかたみにつつみてぞおく
 経正御硯下されて、
 呉竹のかけひの水はかはるともなほすみあかぬ宮のうちかな
 さて、いとま申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、寺僧にいたるまで、経正の袂にすがり、袖をひかへ、名残を惜しみ、涙を流さぬはなかりけり。
 幼少のとき、小師にましませし大納言の法印行尊と申すは、葉室の大納言光頼の卿の御子なり。
 あまりに名残を惜しみて、桂川のはたまでうち送り、さてあるべきならねば、それよりいとま乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひつらねける。
 あはれなり老木若木も山桜おくれ先だち花はのこらじ
 経正返歌に、
 旅衣よなよな袖をかた敷きて思へばわれは遠くゆきなん
 さて、巻いて持たせられける赤旗ざつとさし上げたりければ、かしこ、ここに、控へ待ちたてまつる侍ども、「あはや」と馳せ集まり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、駒をはやめて、ほどなう行幸に追ひつきたてまつらせ給ひけり。
 経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに、そのとき青山賜はりて、宇佐へ参り、御殿に向かひたてまつり、秘曲を弾じ給ひしかば、いつのとき聞き知りなれたることはなけれども、かたはらの宮人、おしなべて緑の袖を濡らしける。
 知らぬ奴までも、村雨とはまぎれで聞きけり。
 めでたかりしことどもなり。
 この「青山」と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇に、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏、渡唐のとき、大唐の琵琶の博士廉承武に会うて、かの三曲を伝へて帰朝せしに、そのとき、玄上、獅子丸、青山、三面の琵琶を相伝してわたされけり。
 龍神や惜しみ給ひけん、波風はげしかりければ、獅子丸をば海底に沈む。
 いま二面の琵琶をわたして、わが朝の帝の御宝とす。
 村上の聖代、応和のころ、三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半に、帝、清涼殿にて玄上をあそばされけるときに、影のごとくなるもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたくつかまつる。
 帝、御琵琶をしばらくさし置かせ給ひて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と御たづねあれば、「これは昔の貞敏に三曲を伝へさせ候ひし、大唐の琵琶の博士廉承武と申す者にて候ふが、三曲のうち秘曲を一曲残せる罪によつて、魔道に沈淪つかまつりて候。いま御琵琶の撥音、妙に聞こえはんべるあひだ、参入つかまつるところなり。願はくは、この曲を君に授けたてまつり、仏果菩提を証すべき」よし申して、御前に立てられたる青山を取つて、転手をひねりて、この曲を授けたてまつる。
 三曲のうちに、上原石上これなり。
 そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶をあそばしはんべることもなかりけり。
 御室へ参らせられたりけるを、仁和寺の守覚法親王、経正の幼少のとき、御最愛の童形たるによつて、下しあづけられたりけるとかや。
 夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でたるを、撥面に描かれたりけるゆゑにこそ「青山」とはつけられけれ。
 玄上にあひ劣らぬ希代の名物なり。 

第六十九句 維盛都落ち

 そのなかに、小松の三位の中将維盛は、日ごろより思ひまうけたりしことなれども、さしあたつて悲しかりけり。
 この北の方と申すは、故中の御門新大納言成親の卿の御むすめなり。
 この腹に六代御前とて十歳にならせ給ふ若君まします。
 〔夜叉御前とて八つにならせ給ふ姫君まします。
 〕この人々「おくれじ」と面々に出でたち給へば、三位の中将、北の方にのたまひけるは、「日ごろ申せし様に、維盛は一門の人々につらなつて、西国へ落ち行き候ふなり。『具したてまつらん』と思へども、道にも源氏どもあひ待つなれば、平らかに通らんことも難かるべし。もし、いづくの浦にも心安く落ちつきたらんとき、いそぎ迎ひに人を奉らん。またいかならん人にもまみえ給へかし。情をかけたてまつらん人、都のうちになどかなかるべき」とのたまへば、北の方はとかくの返事もし給はず、やがてひきかづきてぞ伏し給ふ。
 三位の中将、鎧着て、馬引き寄せ、出でんとし給へば、北の方泣く泣く起きあがり、袖にとりつきて、「都には、父も、母もなし。捨てられまゐらせてのち、また誰にかは、まみゆべき。『いかなる人にもまみえよかし』なんどとのたまふことの恨めしさよ。日ごろは御心ざし浅からずおはせしかば、人知れずこそ、深く、たのもしく思ひしに、いつの間に変りける心ぞや。『同じ野原の露とも消え、同じ底の水屑ともならばや』なんどとこそ契りしに、今は寝覚めの睦言も、みないつはりになりにけり。せめてわが身ひとつならば、捨てられたてまつる身のほどを思ひ知りてもとどまりなん。幼き者どもを、誰にゆづり、いかにせよと思ひ給ふ。うらめしうも、とどめ給ふものかな」とて、かつうは慕ひ、かつうは恨みて、泣き給ふにぞ、三位の中将せんかたなうぞ思はれける。
「まことに、人は十三、維盛十五と申せしより、たがひに見初め、見え初めて、今年はすでに十二年。『火の中、水の底までも、共に入り、共に沈み、限りある別れ路にも、おくれ、先立たじ』とこそ契りしかども、心憂きいくさの場におもむきければ、知らぬ旅の空にて憂き目を見せたてまつらんも心苦しかるべし。そのうへ、今度は用意も候はねば、迎へを待ち給へ」とこしらへおかんとし給へば、若君、姫君、御簾の外へ走り出でて、鎧の袖、草摺に取りつきて、「されば、こはいづくへとてわたらせ給ふぞや。われも行かん」「われも参らん」と慕ひつつ泣き給ふにぞ、三位の中将、「憂き世のきづな」とは今こそ思ひ知られけれ。
 さるほどに、舎弟新三位の中将、左中将、小松の少将、丹後の侍従、備中守、兄弟五人門の内へうち入り、「行幸ははるかに延びさせ給ひて候ふものを、いかにや、今まで」と面々に申しあはれ、すすめられければ、すでに馬にうち乗り、出で給ひけるが、また大床のきはにうち寄せ、弓の筈にて御簾をざつとかき上げて、「これ御覧ぜよ。幼き者どもがあまりに慕ひ申し候ふを、今朝より、とかうこしらへおかんとつかまつるほどに、存じのほかに遅参つかまつりぬ」と、のたまひもあへず泣き給へば、五人の人々も、みな鎧の袖をぞ濡らされける。
 斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。
 兄は十九、弟は十七になる侍あり。
 これは、去んぬる五月、篠原にて討たれし、長井の斎藤別当実盛が子どもなり。
 是等これらは三位の中将の馬のみづつきに取りつきて、「いづくまでも御供つかまつるべき」よしを申す。
 三位の中将、是等これらにいたく慕はれて、のたまひけるは、「多くの者どものなかに、なんぢらをとどむるは、思ふ様がありてとどむるぞ。『末までも六代が頼りとは、なんぢらこそなるべき者よ』とてとどむるなり。とどまりたらんは、具したらんよりも、われはなほうれしく思はんずるぞ」なんど、こまごまとのたまへば、力およばず涙をおさへてとどまらんとす。
 北の方、「日ごろは、これほどに情なかるべき人とは思はざりしが」とて、伏しまろびてぞ泣き給ふ。
 若君も大床にころび出で、声をはかりにをめき叫び給ふ。
 その声、門の外まで聞こえければ、三位の中将、馬をもすすめやり給はず、ひかへ、ひかへぞ泣かれける。
 まことに人は「今日別れては、いづれの日、いづれの時は、かならずめぐりあふべき」と契るだにも、その期を待つは久しきに、これは今日を限りの別れなれば、その期を知らぬこそ悲しけれ。
 この声声の耳の底にとどまつて、西海の旅の空までも、吹く風の声、立つ波の声についても、ただ今聞く様にこそ思はれけれ。 

第七十句 平家一門都落ち

 平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、西八条に火をかけたれば、黒煙天に満ちて、日の光も見えざりけり。
 あるいは聖主臨幸の地なり、鳳闕空しくいしずゑをのこし、鑾輿ただあとをとどむ。
 〔あるいは〕后妃遊宴のみぎりなり、椒房の嵐の音かなしむ、掖庭の露の色うれふ。
 藻□黼帳の基なり、弋林釣渚の館、塊棘の座、□鸞のすまひ、多日の経営を辞して、片時の灰燼となれり。
 いはんや郎従の蓬□においてをや。
 いはんや雑人の屋舎においてをや。
 余炎のおよぶところ、在々所々数十町なり。
「強呉たちまちに滅びて、姑蘇台の露荊棘に移れり。暴秦衰ひて虎狼なし、咸陽宮の煙、睥睨を隠しけんも、かくや」とおぼえてあはれなる。
 日ごろは函谷、二□のけはしきをかたうせしかども、北狄のためにこれを破られ、洪河、□渭の深きをたのみしかども、東夷のためにこれを渡らる。
 あにはからんや、たちまちに礼儀の都を攻め出だされ、泣く泣く無知のさかひに身をよせ、昨日は雲上に雨を降らす飛龍たりといへども、今日は轍中に水を失ふ□魚のごとし。
 昔は保元の春の花と栄え、今は寿永の秋の紅葉と落ちはてぬ。
 池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の北の門より都へ引きぞ返されける。
 越中の前司盛俊これを見て、大臣殿に申しけるは、「池殿のとどまらせ給ふに、侍どもあまたつきたてまつてとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに矢一つ射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくともありなん。年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬ奴ばら、とかう言ふに及ばず」とぞのたまひける。
「さて三位の中将はいかに」と、問ひ給へば、「小松殿の君達はいまだ一所も見えさせ給はず」と申す。
「さこそあらめ」とて、いよいよ心細げに思はれけり。
 新中納言のたまひけるは、「都を出でていまだ一日だにも経ぬに、はや人の心も変りはてぬ。まして、行く末こそおしはからるれ」。
「ただ都のうちにていかにもなるべかりつるものを」とて、大臣殿の方を見やりて、よにもうらめしげに思はれたり。
 まことに、ことわりとおぼえてあはれなり。
 池の大納言は、八条の女院の仁和寺の常盤殿にわたらせ給ひけるにぞ、参り籠らせ給ひける。
 およそ、兵衛佐、「大納言殿をば、故池の尼御前のわたらせ給ふとこそ思ひまゐらせ候へ。頼朝においては、意趣思ひたてまつらず。八幡大菩薩も御照覧候へ」と度々誓言をもつて申されけり。
 討手の使のぼるにも、「あひかまへて池殿の侍どもに弓を引きなんどすな」とのたまひけり。
 か様のことどもを頼みて、とどまり給ひけるとかや。
 なまじひに一門には離れぬ、波にも磯にも着かぬ心地ぞせられける。
 畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これ三人は去んぬる治承三年より、召し籠められてありしを、大臣殿ばかり「是等これらが首を刎ねらるべし」とのたまひけるを、平大納言と、新中納言と申されけるは、「是等これら百人千人を切らせ給ひて候ふとも、御運尽きさせ給はんのちは世を取らせ給はんことかたかるべし。国に候ふなるかれらが妻子ども、さこそ嘆き候ふらめ。『今や、今や』と待ち候ふらんところに、『斬られたり』と聞こえしかば、いかばかり嘆き候はんずらん。是等これらをば東国へ返しつかはさるべしとおぼえ候」とひらに申されければ、大臣殿「げにも」とて、是等これら三人を召し寄せてのたまひけるは、「いとまを賜ぶ。
 急ぎ下れ」とのたまへば、三人の者ども、かしこまつて申しけるは、「いづくまでも、行幸の御供つかまつるべき」よしを申す。
 大臣殿、「なんぢらが色代はさることなれども、魂はみな東国にこそあらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。とくとく下るべし」と、仰せ再三におよびければ、力およばず、涙をおさへて下らんとす。
 是等これらも、さすが二十余年の主なれば、別れの涙おさへがたし。
 小松殿の君達たちは、兄弟その勢六七百騎ばかりにて、淀の辺にて行幸に追つつきたてまつり給ひけり。
 大臣殿、この人々を見つけ給ひて、ちと力つき、よにもうれしげにて、「いかにや、今まで」とのたまへば、三位の中将、「さ候へばこそ、幼き者どもが今朝よりあまりに慕ひ候ひつるを、とかうこしらへおかんとつかまつり候ひつるほどに、遅参つかまつりぬ」と申されければ、大臣殿、「などや具したてまつり給はぬぞ、いかに心苦しくおはすらん」とのたまへば、三位の中将、「行く末とても頼もしうも候はず」とて、問ふにつらさの涙を流されけるぞ、あはれなり。
 落ちゆく平家は誰々ぞ。
 前の内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位の中将重衡、小松の三位の中将維盛、越前三位通盛、新三位の中将資盛。
 殿上人には内蔵頭信基、讃岐の中将時実、左中将清経、左馬頭行盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛。
 僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円。
 侍には、受領、検非違使、衛府、諸司、むねとの者ども百六十余人。
 都合その勢七千余騎。
 これは、東国、北国、この三四年所々の合戦に討ち漏らされて、残るところなり。
 山崎の関戸の院に玉の御輿をかきすゑて、男山を伏し拝み、平大納言時忠、「南無帰命頂礼、正八幡大菩薩、しかるべくんば君をはじめまゐらせて、われらをいま一度都へ返し入れさせ給へ」と泣く泣く申されけるこそ悲しけれ。
 肥後守貞能は、「川尻に源氏どもがむかうたり」と聞いて、「蹴散らさん」とて、五百余騎発向したりけるが、ひが事なれば帰り上るほどに、道にて行幸に参りあひたてまつり、大臣殿の御前にて、馬よりおり、弓わきばさみ、かしこまつて申しけるは、「これは、いづくへとて御わたり候ふやらん。西国へ落ちさせ給ひたらば、助からせおはすべきか。落人とて、かしこ、ここにて討ちとめられさせ給はんことこそ、口惜しくおぼえ候へ。ただ都にてともかくもならせ給はで」と申せば、大臣殿、「貞能はいまだ知らぬか。『源氏すでに天台山に攻め登つて、総持院を城郭とし、山法師みな与力して、今都に入る』といふに、せめて、おのおの身ばかりならばいかにもせん。女院、二位殿に憂き目を見せたてまつらんも、心苦しければ、『ひとまどもや』と思ふぞかし」とのたまへば、肥後守、「さらば、貞能、いとま賜び候へ」とて、手勢三百余騎、引き分かつて、都へ帰り入り、西八条の焼けあとに大きくひかせ、一夜宿したりけれども、返し入り給ふ平家一人もましまさざりければ、さすが心細くや思ひけん。
「源氏の馬のひづめにかけじ」とて、小松殿の墓掘りおこし、あたりの土賀茂川に流させ、骨をば高野へ送り、「世の中たのもしからず」と思ひければ、思ひきりて、勢をば小松の三位の中将殿の御方へ奉り、われは乗替一騎具して、宇都宮左衛門朝綱にうち連れて、平家と後あはせに東国へこそ落ち行きけれ。
 平家は小松の三位中将維盛のほかは、大臣殿以下みな妻子を具し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。
 夜がれをだにも嘆きしに、後会その期を知らず、妻子を捨ててぞ落ち行きける。
 相伝譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに先へはすすまざりけり。
 おのおのうしろをかへり見て、都の方はかすめる空の心地して、煙のみ心細くぞ立ちのぼる。
 そのなかに修理大夫経盛、都をかへり見給ひて、泣く泣くかうぞのたまひける。
 ふるさとを焼け野の原とかへり見て末もけぶりの波路をぞゆく
 薩摩守忠度、
 はかなしや主は雲井にわかるればあとはけぶりと立ちのぼるかな
 まことに、故郷をば一片の煙塵にへだて、前途万里の雲路におもむき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。
 ならはぬ磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂のしづく、落つる涙にあらそひて、袂もさらに乾しあへず。
 駒に鞭うつ人もあり、あるいは船に棹さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。
 福原の旧都に着いて、大臣殿、しかるべき侍ども三百余人召し集めてのたまひけるは、「積善の余慶、家に尽き、積悪の余殃、身に及ぶ。
 かるがゆゑに、宿報尽きて、神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上に浮かぶ落人となれり。
 すでに旅泊に漂ふうへは、行く末とても楽しみあるべうもなけれども、一樹のかげに宿るも前世の契り浅からず。
 一河の流れを汲むも他生の縁なほ深し。
 いはんや、なんぢらは一旦したがひつく門客にあらず。
 累祖相伝の家人なり。
 あるいは追臣のよしみ他に異なることもあり、あるいは重代の芳恩これ深きもあり。
 家門繁昌のいにしへは、恩波によつて私を顧み、たのしみ尽き、かなしみ来る。
 なんぞ思慮をめぐらし、重恩をむくひんや。
 十善帝王、かたじけなくも、三種の神器を帯しわたらせ給へば、いかならん野の末、山の奥までも、行幸の御供つかまつらんとは思はずや」とのたまへば、老少涙をながし、「あやしの鳥、獣も、恩を報じ徳をむくふ心みな候ふとこそ承れ。
 中にも、弓箭、馬上にたづさはる習ひ、二心あるをもつて恥とす。
 この二十余年があひだ、妻子をはごくみ、所従をたくはゆること、しかしながら君の御恩にあらずといふことなし。
 しかれば、すなはち、日本の外、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、行幸の御供つかまつるべき」よし一味同音に申しければ、人々すこし色をなほし、たのもしくこそ思はれけれ。
 平家、福原の旧里に一夜をぞ明かされける。
 をりふし秋の月は下の弓張なり。
 深更の空夜静かにして、旅寝の床の草枕、涙も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。
 いつ帰るべきともおぼえねば、故入道相国の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、雪の御所、萱の御所とて見られけり。
 馬場殿、二階の桟敷殿、人々の家々、五条の大納言邦綱の卿の造りまゐらせられし里内裏、いつしか三年に荒れはてて、旧苔道をふさぎ、秋草門を閉ぢ、瓦に松生ひ、蔦しげり、台かたぶいて苔むせり。
 松風のみや通ふらん。
 簾絶えて、閨あらはなり。
 月かげばかりやさし入りけん。
 明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々御船に召されけり。
 都を立ちしばかりはなけれども、これも名残は惜しかりけり。
 海士のたく藻の夕煙、尾上の鹿のあかつきの声、渚々に寄る波の音、袖に宿借る月の影、千草にすだくきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるること、一つとして、あはれをもよほし、心をいたましめずといふことなし。
 昨日は東山の関のふもとに轡を並べ、今日は西海の波の上に纜をとく。
 雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。
 孤島に霧へだたつて、月海上に浮かぶ。
 極浦の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。
 修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、行幸に供奉すとて、泣く泣くかうぞのたまひける。
 幸する末も都とおもへどもなほなぐさまぬ波のうへかな
 平家は、日数を経れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。
「はるばる来ぬる」と思ふにも、ただ尽きせぬものは涙なり。
 波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言問ひし、名もむつまじき都鳥かな」とあはれなり。
 寿永二年七月二十五日、平家都を落ちはてぬ。 

 第八 平家巻 目録

第七十一句 四の宮即位
 鞍馬より山門へ御幸の事 同じく還御の事 義仲行家官途の事
 平家大宰府へ下着
第七十二句 宇佐詣で
 名虎相撲の事 惟喬惟仁位争ひ 祈祷の事同じく競馬の事
 時忠の卿還俗国王の沙汰
第七十三句 緒環
 頼経脚力の事 緒方の三郎追立て使の事 筑後の国竹野城合戦
 大宰府落ち
第七十四句 柳の浦
 柳の浦内裏の事 四国わたりの事 屋島やかたの事
 海上仮屋の事
第七十五句 頼朝院宣申
 鶴が岡八幡参詣 神前盃進物の事 頼朝、使盛定対面
 引出物の事
第七十六句 木曾猫間の対面
 猫間の中将殿入御 食をすすむる事 返礼として出仕の事
 車のうち振舞の事
第七十七句 水島合戦
 足利矢田の判官山陽道下向 水島陣 能登殿船軍下知
 矢田判官船乗り沈むる事
第七十八句 瀬尾最後
 倉光寝刺しの事 笹の畷城攻めの事 同じく板倉の城の事
 室山合戦
第七十九句 法住寺合戦
 鼓判官の沙汰 明雲僧正討死 首実検 信濃の次郎討死
第八十句 義経熱田の陣
 公朝・秋成熱田下向 同じく鎌倉へ参着 鼓判官鎌倉参上
 義仲大赦行はるる事

 平家巻 第八

第七十一句 四の宮即位

 寿永二年七月二十四日の夜半ばかりに、法皇は按察の大納言資朝の卿の子息右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬寺へ入らせ給ひけるが、「ここもなほ都近くてあしかりなん」とて、笹の峰、解脱が谷、寂場房、御所になる。
 大衆起つて、「東塔へこそ御幸なるべけん」とていきどほり申すあひだ、「さらば」とて、東塔の南谷、円融房、御所になる。
 かかるあひだ、武士も衆徒も円融房御所ちかく候ひて、君を守護したてまつる。
 院は天台山に、主上は平家にとられて西海へ、摂政は知足院に、女院の宮は八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、かたほとりについて逃げ隠れさせ給へり。
 平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入りかはらず。
 すでにこの京は主なき里とぞなりにける。
 開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず。
 聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。
 法皇は天台山へわたらせ給ふと聞こえしかば、馳せ参り給ふ人々、「入道殿」とは前の関白松殿。
「当殿」とは近衛殿。
 太政大臣、大納言、中納言、宰相。
 三位、四位、五位の殿上人。
 官加階にのぞみをかけ、所帯、所職を帯する人の、一人も漏るるはなかりけり。
 あまりに人参りつづいて、堂上、堂下、門外、門内、ひますきもなく満ち満ちたり。
 山門の繁昌、門跡の面目とぞ見えし。
 同じき二十八日、法皇は都へ還御なる。
 木曾の冠者義仲、五万余騎にて守護したてまつる。
 近江源氏山本の冠者義高、白旗ささせて先陣つかまつる。
 この二十余年見ざりつる白旗の今日はじめて都へ入る。
 めづらしかりし事どもなり。
 十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治橋より京へ入る。
 陸奥の新判官義康が子矢田の判官代五千余騎にて丹波の国大江山を経て京へ入る。
 京中には源氏の勢みちみちたり。
 法皇、法住寺殿へ入らせ給ふ。
 検非違使別当左衛門督実家、勘解由小路の中納言経房、三人、院の殿上の簀子に候ひて、行家、義仲を召して、「前の内大臣宗盛以下の平家の一類追罰すべき」むね、仰せ下さる。
 両人かしこまつて承る。
「おのおの宿所なき」よし申せば、十郎蔵人行家は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所を賜はりけり。
 木曾は、大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院を賜はる。
 主上は外戚の平家にとられて、西海の波のうへにただよはせ給ふ御ことを、法皇御嘆きあつて、「主上ともに三種の神器、ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せ下されけれども、平家もちひたてまつらねば、大臣殿以下参入して、「そもいづれの宮を位につけたてまつるべき」と僉議ありけるとかや。
 高倉の院の皇子、先帝のほか三ところわたらせ給ひけり。
 二の宮をば平家の「儲の君にしたてまつらん」とて、具しまゐらせて西国へ下向す。
 三、四はいまだ都にましましけるを、八月五日、法皇この宮たちを迎ひ寄せまゐらせ給ひて、まづ三の宮、五歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せられければ、法皇を見まゐらせ給ひて大きにむつがらせ給ふあひだ、「とうとう」とて、暇を出だしまゐらせさせ給ひぬ。
 そののち四の宮、四歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて御膝へ参らせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。
 法皇御涙をながさせ給ひて、「げにも、そぞろならん者は、か様の老法師を見ては、などか慣れ気には思ふべき。これぞまことのわが孫にはありける。故院の幼いにすこしも違はぬものかな。かかる忘れ形見のましましけるを、今まで見たてまつらざることよ」とて、御涙にむせびおはします。
 浄土寺の二位殿、そのころ「丹後殿」とて御所に候はれけるが、「さて、御譲りはこの宮にてわたらせ給はんや」と申されければ、法皇、「子細にや」とぞ仰せける。
 内々御占のありけるにも、「四の宮位につかせ給ひなば、天下おだやかなるべし」とぞ申しける。
 御母儀は七条修理大夫信隆の卿のむすめなり。
 中宮の御方に参りて宮仕ひしほどに、主上、夜な夜なこれを召されけり。
 うちつづき宮あまたいできさせ給ひけり。
 信隆の卿の御むすめあまたおはしけるなかに、「いかにもして一人后に立てばや」と思ふ心ざしおはしけり。
 この人、「白き鶏を千そろへて飼へば、かならずその家に后いできたるといふことあり」とて、白き鶏を千そろへて飼ひ給ひけるゆゑにや、御むすめ、皇子を生みたてまつり給ひけん。
 信隆の卿、内々はうれしう思はれけれども、中宮にも恐れをなしまゐらせ、平家にもはばかつて、もてなしたてまつることもましまさざりしを、太政入道の北の方、「くるしかるまじ。この宮たちをば育てまゐらせ、儲の君にもしたてまつれよ」とて、御乳母どもにつけてぞ育てまゐらせける。
 なかにも四の宮は、二位殿の舅法勝寺の執行能円ぞ養ひたてまつりける。
 能円、平家に連れて西国へ落ちしとき、あまりにあわてて、宮をも女房をも捨ておきたてまつり、西国へ落ちられたりけるが、能円途より人をのぼせて「女房、宮を具したてまつり、いそぎ下り給へ」とありければ、この女房、宮を具したてまつり、西京なる所まで出でられたりけるを、この女房の舅紀伊守範光これを聞き、いそぎ走り向かひて、「物について狂ひ給ふか。この宮の御運は、いま開かせ給はんずるものを」とて、とり留めまゐらせけり。
 次の日、法皇より御迎ひの御車は参りたりけり。
 何事もしかるべきこととはいひながら、紀伊守範光、四の宮の御ためには、奉公の人とぞ見えたりける。
 同じく十日、除目おこなはれて、木曾の冠者義仲、左馬頭になつて越後の国を賜はる。
 十郎蔵人は備後の国を賜はる。
 おのおの国をきらひ申す。
 木曾は越後の国をきらへば、伊予守になる。
 十郎蔵人は備後をきらへば、備前守になる。
 そのほか源氏十人受領す。
 検非違使、靱負尉、兵衛尉ども〔に〕なされけり。
 同じく十四日、前の内大臣宗盛以下の平家の一類百六十三人が官職を罷めて、殿上の御簡をけづられけり。
 見る人涙をながさずといふことなし。
 そのなかに平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、この三人はけづられず。
 これは「三種の神器ことゆゑなく返し入れたてまつれ」と、かの大納言のもとへ仰せ下さるるによつてなり。
 平家は、同じく十七日、筑前の国三笠の郡大宰府へこそ着き給へ。
 菊池の次郎隆直は都より付きたてまつり下りけるが、「大津山の関あけてまゐらせん」とて、いとま申す。
 肥後の国へ馳せ下り、わが城にひき籠り、召せども、召せども参らず。
 九国、二島の兵ども召されけれども、領状申しながらいまだ参らず。
 岩戸の少卿大蔵の種直ばかりぞ候ひける。
 平家は安楽寺へ参り、歌をよみ、連歌をして、手向けたてまつり給ひけり。
 そのなかに、本三位の中将重衡、
 住みなれしふるき都の恋しさは神もむかしをわすれ給はじ
 と泣く泣く申されければ、みな人袖をぞ濡らされける。 

第七十二句 宇佐詣で

 八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて即位し給ふ。
「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。
 摂政近衛殿は、平家の聟にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬによつてなり。
「天に二つの日なく、地に二人の王なし」と申せども、平家の悪行によつて、都鄙に二人の帝ましましけり。
 三の宮の御乳母は、泣きかなしみて、後悔すれどもかひぞなき。
 帝王、位につかせ給ふこと凡夫のとかく思ひよらざるに、ただ天照大神、正八幡宮の御ぱからひとぞおぼえける。 

第七十二句 宇佐詣で

 むかし文徳天皇は、天安二年八月二十三日にかくれさせ給ふ。
 御子の宮たちあまた位に望みをかけておはしけるが、さまざまの御祈りどもありけり。
 一の宮惟喬の親王をば「大原の王子」とも申しき。
 王者の才量をも心にかけさせ給ふ。
 四海の安危はたなごころのうちに照らし、百王の理乱は心のうちにかけ給へり。
 されば、賢王、聖主の名をとらせおはすべき君なりと見えさせ給へり。
 二の宮惟仁の親王は、そのころ執柄忠仁公の御むすめ染殿の后の御腹なり。
 一門の公卿列してもてなしたてまつり給ひしかば、これもまたさしおきがたき御ことなり。
 かれは守文継体の器量たり。
 これは万機輔佐の臣相あり。
 かれもこれもいたはしくて、おぼしわづらはれけり。
 一の宮惟喬の親王の御祈りは、柿本の紀僧正真済とて、東寺の一の長吏、弘法大師の御弟子なり。
 惟仁の親王の御祈りの師には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の恵亮和尚ぞうけたまはられける。
 いづれもおとらぬ高僧たちなり。
 真済東寺に壇を立て、恵亮は大内の真言院に壇を立ててぞおこなはれける。
「恵亮和尚、失せたり」と披露をなす。
 真済僧正、ここにたゆむ心やありけん。
 恵亮、「失せたり」といふ披露をなし、肝胆をくだいて祈られけり。
 帝かくれさせ給ひければ、公卿僉議のありさま、「臣等がおもんばかりをもつて選んで位につけたてまつらんこと、用捨私あるに似たり。万人唇をかへすことを知らず。競馬、相撲の折をもつて運を知り、雌雄によつて宝祚を授けたてまつるべし」と議定をはんぬ。
「この儀、もつともしかるべし」とて、同じ年の九月二日、二人の宮たち右近の馬場へ行啓あり。
 日ごろ心を寄せたてまつりし卿相雲客、たがひに引き分け、手を握り、心をくだき給へり。
 御祈りの高僧たちいづれか疎略あらん。
 ここに王候卿相、玉の轡を並べ、花の袂をよそほひ、雲のごとくに重なり、星のごとくにつらなり給ひしかば、このこと希代の勝事、天下さかんなる見物なり。
 すでに「十番の競馬あるべし」とて、競べ馬十番ありけるに、はじめ四番は惟喬の親王勝たせ給ふ。
 のちの六番は惟仁の親王勝たせ給ふ。
「すなはち相撲の節」と聞こえしかば、上下市をなし見物す。
 大原の皇子惟喬の御方よりは、「名虎の衛門督」とて、六十人が力あらはしたるといふ大力をぞ出だされける。
 惟仁の親王の御方よりは、「善男の少将」とて、勢ちひさう、妙にして、片手にもあふべしとも見えぬ人、「御夢想の告げあり」とて、申しうけてぞ出だされける。
 名虎寄せあはせて、ひしひしと取つてあふのけり。
 善男取つてさし上げ、二丈ばかりぞ投げたりける。
 されども、善男立ち直りて倒れず。
 善男つと寄り、えい声をあげて、名虎を伏せんとす。
 名虎もともに声を出だして、善男とつて伏せんとす。
 上下目をすます。
 されども名虎はかさにまはる。
 善男内手に入りて見えければ、惟仁の御母儀染殿の后より、「いかに」「いかに」と御使、櫛の歯をひくがごとくに走りつづけて申しければ、恵亮和尚は大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂きことかな」とて、独鈷をもつて頭を突き割つて、脳を砕いて芥子にまぜ、護摩にたき、黒煙をたてて一もみもまれたりければ、善男相撲に勝ちにけり。
 親王、位につかせ給ふ。
「清和の帝」これなり。
 のちには「水の尾の天皇」とぞ申しける。
 さてこそ山門には、いささかのことにも、恵亮脳を砕きしかば、二帝位につき給ふ尊意智剣を振りしかば、菅相霊ををさめ給ふとも伝へたり。
 これ法力といひながら、「天照大神、正八幡宮の御ばからひ」とぞおぼえたる。
 平家は西国にてこれを聞き、「やすからず。三の宮をも取りたてまつりて下りまゐらすべきものを」と後悔せられければ、平大納言時忠の卿のたまひけるは、「さあらんには、木曾が主にしたてまつりたる高倉の宮の御子、これは御乳人讃岐守重季が御出家せさせたてまつり、具しまゐらせ北国へ落ち下りたりしこそ、位にもつかせ給はんずらめ」とありければ、ある人申しけるは、「それは、出家の宮をばいかが位につけたてまつるべき」。
 時忠の卿のたまひけるは、「さも候はず。還俗の国王、異朝にも先蹤あらん。わが朝には、まづ天武天皇、いまだ東宮の御時、大友の王子にはばからせ給ひて、鬢髪を剃り、吉野の奥に忍ばせ給ひたりしかども、大友の王子を滅ぼして、つひに位につかせ給ひぬ。また、孝謙天皇も大菩提心をおこして御飾りをおろさせ給ひぬ。御名を『法基尼』と申せしかども、ふたたび位につき給ひて、『称徳天皇』と申せしぞかし。まして木曾が主にしたてまつりたる還俗の宮、子細あるまじ」とぞのたまひける。
 同じく九月二日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立てらる。
 勅使は参議脩範とぞ聞こえし。
 太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立てらるることは、朱雀、白河、鳥羽三代蹤跡ありといへども、みな御出家以前なり。
 以後の例、はじめとぞうけたまはる。
 平家は筑前の国三笠の郡大宰府に都をたてて、「内裏つくらるべき」と公卿僉議ありしかども、いまだ都もさだまらず、主上、当時は岩戸の少卿大蔵の種直が宿所にぞましましける。
 人々の家々は、野中、田中なりければ、麻のころもは打たねども、「十市の里」とも言ひつべし。
 内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやありけん」と、なかなか優なるかたもありけり。
 まづ宇佐の宮へ行幸なる。
 大宮司公通が宿所、皇居になる。
 社頭は月卿雲客の居所になる。
 廻廊は五位、六位の官人、庭上には四国鎮西の兵ども、甲冑、弓箭を帯して雲霞のごとくに並みゐたり。
 古りにし朱の玉垣も、ふたたび飾るとぞ見えし。
 七日御参籠のあかつき、大臣殿御夢想の告げぞありける。
 御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしうけだかげなる御声にて、
 世の中のうさには神もなきものをなに祈るらん心づくしに
 大臣殿夢さめてのち、胸うちさわぎ、あさましさに、
 さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな
 といふ古歌を心ぼそげに口ずさみ給ひて、さて大宰府へ還幸なる。 

第七十三句 緒環

 さるほどに、九月十日あまりにぞなりにける。
 荻の葉わけの夕あらし、片敷く袖もしをれつつ、ふけゆく秋のあはれさは、「いつも」とはいひながら、旅の空こそしのびがたけれ。
 九月十三夜は名をえたる月なれども、その夜は都を思ひいづる涙に、われから曇りてさやかならず。
 九重の雲のうへ、ひさかたの月に思ひをのべしたぐひも、今の様におぼえて、薩摩守忠度、
 月を見しこぞの今宵の友のみや都にわれを思ひ出づらん
 修理大夫経盛、
 恋しとよこぞの今宵の夜もすがらちぎりし人の思ひでられて
 皇后宮亮経正、
 わけて来し野辺の露ともきえもせで思はぬ方の月を見るかな
 あはれなりしことどもなり。

第七十三句 緒環

 豊後の国は刑部卿頼輔の国なりければ、子息頼経を豊後の国の代官に下されけり。
 刑部卿、頼経のもとに脚力を下し給ひて、「平家は宿報尽きて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるを、鎮西の者ども受け取り、もてなすこそ奇怪なれ。当国においてはしたがふべからず。一味同心して、平家を追ひ出だすべし。これ頼輔が下知にあらず。一院の勅諚なり」とぞのたまひける。
 頼経の朝臣、この様を当国の住人緒方の三郎維義に下知せられけり。
 かの維義はおそろしき者の子なり。
 豊後の国の片山里に、ある者の一人娘の、いまだ夫もなかりけるところに、男、夜な夜なかよひけり。
 月日をおくるほどに、身もただならずなりにけり。
 母これをあやしんで、「なんぢがもとへかよふ男はいかなる者ぞ」と問ひければ、「来るをば知れども、帰るをば知らず」と申す。
 母教へていはく、「さらば、あひかまへて、朝帰らん時を知つて、しるしをつけて、行かん方をつないでみよ」とぞ教へける。
 女、母の教へに従ひ、あかつき起きて帰る男を見れば、水色の狩衣をぞ着たりける。
 狩衣の頸のうへに針を刺しつつ、しづの緒環をつけて、経てゆく方をつないでみれば、豊後の国と日向の国とのさかひ、祖母岳といふ岳の腰に、大きなる岩屋のうちにぞ入りにける。
 うちを聞けば、大きなる声にて叫ぶ声しけり。
 女、岩屋の口にゐて、「わらはこそこれまで参りてさぶらへ。出でさせ給へ。対面したてまつらん」と言ひければ、岩屋のうちより大きなる声にて答へけるは、「われはこれ凡夫にあらず。なんぢわが姿を見つるものならば、肝魂も身にもそふまじきなり。いそぎそれより帰るべし。なんぢが孕めるところの子は男子なるべし。弓矢を取つて、九国、二島に並ぶ者あるまじきぞ。われは今宵、なんぢがもとに行きて傷をかうむれり」と申せば、女かさねていはく、「さこそ深く契りまゐらせしぞかし。たとひいかなる姿にてもおはせよ、なじかはくるしかるべき。対面したてまつらん」と申せば、岩屋のうちより、五丈ばかりなる大蛇にてぞ出でける。
「狩衣の頸のうへに刺す」と思ひつる針は、大蛇の喉笛にぞ刺したりける。
 女、まことに肝魂も身にそはず。
 召し具したる所従ども、をめいて逃げ去りぬ。
 件の大蛇と申すは、日向の国に崇敬せられける高知尾の大明神これなり。
 女帰りて、いくほどなくて産してけり。
 とりあげ見れば、まことに男子なり。
 これを七歳まで育てたれば、並びなき大力にてぞありける。
 いまだ幼稚の者の、普通の男よりも勢も大きに、丈も高かりけり。
 十一歳と申すに、母方の祖父、元服せさせて、名をば「大太」とぞつけたりける。
 夏も、冬も、足手に大きなるあかがり、ひますきもなく切れて、絶えざりければ、人みな「あかがり大太」とぞ申しける。
 かの緒方の三郎はあかがり大太が五代の孫なり。
 かかる不思議なる者の末なりければ、「九国、二島をも、われ一人して討ち取らばや」なんどと、常は申しける。
 かの緒方の三郎は、国司の仰せを「院宣」と号し、「院宣にしたがはんともがらは、維義を先として、平家を追ひ出だしたてまつれ」と、九国、二島をあひもよほしければ、九国、二島にさもしかるべき者ども、みな維義にしたがひつく。
 平家は「内裏つくるべき所やある」とたづねられけるところに、この事どもを聞きて、「いかがすべき」とてさわがれけり。
 平大納言のたまひけるは、「緒方の三郎は小松殿の御家人なりければ、小松殿の公達一人むかはせ給ひて、こしらへて御覧ぜよ」とのたまへば、小松の新三位の中将、五百余騎にて、豊後の国へうち越えて、「参るべき」よしこしらへ給へども、維義さらにしたがひたてまつらず。
「君をもやがて取り籠めたてまつるべう候へども、何ほどのことかわたらせ給ふべきなれば、ただ帰らせ給ひて、一所にていかにもならせ給へ」とて、追つ返したてまつる。
 そののち、子息野尻二郎維村をもつて、緒方の三郎、大宰府へ申しけるは、「まことに年ごろの主にてわたらせ給へば、重恩をかうむりて候ひき。されば兜をぬぎ、弓をもはづいて降人に参るべう候へども、一院の勅諚にて候ふうへは力およばず候。すみやかに九国のうちを出でさせ給へ」とぞ申したる。
 平大納言時忠の卿、維村にいで向かひ、のたまひけるは、「わが君は天孫四十九世の正統、人皇八十一代の帝にてわたらせ給ふ。天照大神、正八幡宮もいかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき。なかんづく、故大相国、保元、平治両度の朝敵をたひらげしよりこのかた、不次の賞を賜はり、天下をたなごころに握り給ひしときは、鎮西の者どもをば内ざまにこそ召されしか。それに、当国の者ども、頼朝、義仲にかたらはれて、『しおほせたらば、国を預けん』『庄をとらせん』なんどといふことを、まことと思ひて、その鼻豊後が、彼が下知にしたがはんこと、しかるべからず」とぞのたまひける。
 豊後の国司、刑部卿三位頼輔は、きはめて鼻の大きにおはしければ、かくのたまひけるなり。
 維村、豊後へ帰りて、父にこのよし申しければ、緒方の三郎、「こはいかに。昔は昔、今は今にてこそあれ。その儀ならば、すみやかに追ひ出だしたてまつらん」とて、大勢にて豊後をうちたつと聞こえしかば、平家の侍ども、「向後傍輩のために奇怪に候。召し取り候はん」とて、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄三千余騎にて、筑後の国竹野城に行きむかつて、三日たたかふ。
 されども緒方は多勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。
 平家は、「緒方三郎維義が、三万余騎にて、すでに寄する」と聞こえしかば、取るものも取りあへず、大宰府をこそ落ち給へ。
 駕輿丁もなければ玉の御輿をうち捨てて、主上手輿に召されけり。
 国母をはじめまゐらせて、やごとなき女房たち、袴のそばを取り、大臣殿以下の公卿殿上人、指貫のそばをはさみ、水城の戸をたち出でて、住吉の社を伏し拝み、徒歩はだしにて、「われ先に」「われ先に」と筥崎の津へこそ落ちゆきけれ。
 をりふし、降る雨車軸のごとく、吹く風砂をあぐるとかや。
 落つる涙、降る雨、われていづれも見えざりけり。
 筥崎、香椎、宗像伏し拝み、主上、垂水山、鶉浜なんどといふ嶮難をしのがせ給ひて、眇々たる平地へぞおもむかれける。
 いつならはしの御ことなれば、御足より出づる血は、砂を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける。
 かの玄奘三蔵の流沙葱嶺をしのがれけんも、いかでかこれにはまさるべき。
 されどもそれは求法のためなれば、来世のたのみもありけん。
 これは怨敵のゆゑなれば、後世のくるしみ、かつ思ふこそかなしけれ。
 原田の大夫種直二千余騎にて、送りに馳せまゐる。
 山鹿の兵頭次秀遠数千騎の勢にて、平家の御迎ひに参るよし聞こえしかば、種直はもつてのほかに不和の事ありければ、「種直はあしかりなん」とて途よりひきかへす。
 芦屋の津といふ所をすぎ給ふにも、「いにしへ、われわれが都より福原へかよふとき見なれし里の名なれば」とて、いづれの里よりもなつかしう、あはれをぞもよほされける。
「新羅、百済、高麗、契丹までも落ちゆかばや」とは思へども、波風むかうてかなはねば、兵頭次秀遠に具せられて、山鹿の城にぞ籠られける。
 山鹿へも敵寄すると聞こえしかば、海士の小舟にとり乗りて、夜もすがら豊前の国柳が浦へぞわたり給ふ。 

第七十四句 柳が浦落ち

 さるほどに、小松殿の三男左中将清経は、ある夜船の屋形にたち出でて、なにごとにも思ひ入り給へる人にて、心をすまし、横笛の音とり朗詠して、こしかたゆく末のことども、のたまひつづけて、「都をば源氏がために追ひ落され、鎮西をば維義がために攻め落され、網にかかれる魚のごとし。いづちへ行かばのがるべきかは。ながらへはつべき身にあらず」。
 しづかに経をよみ、念仏して、つぎに海にぞ入り給ふ。
 男女泣きかなしみけれどもかひぞなき。 

第七十四句 柳の浦落ち

 柳浦にも内裏つくるべき僉議ありしかども、分限なければつくられず。
 また長門より寄すると聞こえしかば、海士の小舟に乗り、海にぞ浮かび給ひける。
 長門の国は新中納言知盛の国なりけり。
 目代は紀伊の刑部大夫道資といふ者なり。
「平家の、小船に乗り給へる」よしを聞いて、安芸、周防、長門三箇国の材木積みたる船ども百余艘、点じてたてまつる。
 これによりて、讃岐の屋島にうち渡り給ふ。
 阿波の民部成能が沙汰にて、四国のうちをもよほして、屋島の浦にかたのごとくの板屋の内裏や御所をぞ造られける。
 そのほどは、あやしの民の屋を皇居とし、船を御所とぞさだめける。
 大臣殿以下の人々、海士の苫屋に日を暮らし、しづがふしどに夜をかさね、龍頭鷁首を海中に浮かべ、波のうへの行宮はしづかなる時なし。
 月をひたせる潮のふかきうれひにしづみ、霜をおほへる葦の葉のもろき命をあやぶむ。
 洲崎にさわぐ千鳥の声は、あかつきのうれひを増し、そばひにかかる梶の音、夜半に心をいたましむ。
 白鷺のとほき浦に群れゐるを見ては、「源氏の旗をあぐるか」とうたがひ、夜の雁のはるかの空に鳴くを聞いては、「兵船を漕ぐか」とおどろく。
 晴嵐はだへををかし、翠黛紅顔の色やうやうにおとろへ、蒼波まなこをうがち、外土望郷の涙おさへがたし。
 翠帳紅閨〔に〕ことなる埴生の小屋のあらすだれ、薫炉のけぶりにかはれる葦火たく屋のいやしきにつけても、女房たち、つきせぬ物思ひに紅の涙せきあへ給はねば、翠黛みだれつつ、その人とも見えざりけり。 

第七十五句 頼朝院宣申

 鎌倉の兵衛佐頼朝は、「都に上らんこともたやすからじ」とて、ゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。
 御使には、左史生中原の康定とぞ聞こえし。
 康定は家の子二人、郎等十人具したりけり。
 寿永二年十月四日、康定鎌倉へ下着す。
 兵衛佐のたまひけるは、「頼朝は流人の身なりしかども、武勇の名誉長ぜるによつて、今はゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。
 いかでか私にては賜はるべき。
 鶴が岡の社にて賜はるべし」とて、若宮へこそ参られけれ。
 八幡は鶴が岡に立ち給へり。
 地形石清水にちがはず。
 廻廊あり、楼門あり。
 つくり道十余町見くだしたり。
「そもそも院宣をば、誰してか賜はるべき」と評定あり。
「三浦の介義澄して賜はるべし」と評定をはん〔ぬ〕。
 この義澄と申すは、三浦の平太郎為嗣が五代の孫、三浦の大介義明が子なり。
 父義明は君の御ために命をすてたる者なれば、これによつて義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞおぼえたる。
 義澄も、家の子二人、郎等十人具したりけり。
 二人の家の子は、和田の三郎宗実、比企の藤四郎能員なり。
 郎等十人は大名十人して、にはかに一人づつしてしたてけり。
 十二人みなひた兜なり。
 義澄は褐の直垂に黒糸縅の鎧着て、いかものづくりの太刀はき、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓わきばさみ、兜をぬぎ高紐にかけ、膝をかがめて院宣を受け取りたてまつる。
「誰そ、名のれ」と康定申しければ、〔兵衛佐の「佐」の字にやおそれけん、〕「三浦の介」とは〔名のらで、本名を〕「三浦の荒次郎義澄」とこそ名のりけれ。
 兵衛佐、院宣を受け取りたてまつり、覧箱をひらき、院宣を拝したてまつる。
 箱に沙金百両入れてぞ返されける。
 やがて若宮の拝殿にて、康定に酒すすめらる。
 斎院の次官親能、勧盃す。
 そのとき、馬三匹ひかる。
 一匹は鞍置いたり。
 これは大宮侍たる工藤一郎祐経、これをひく。
 ふるき萱屋をこしらへて康定を入れられ、盃飯ゆたかにして美麗なり。
 厚綿の絹二領、小袖十かさね、長持に入れて置かれたり。
 そのほか紺の藍摺、白布千反をまへに積めり。
 次の日、康定、兵衛佐の館へ行きむかひ、見れば、内外に侍あり。
 ともに十六間なり。
 外侍には郎等ども肩をならべ、膝を組み、並みゐたり。
 内侍には一門の源氏どもをはじめとして、大名、小名どもゐながれたり。
 康定をこの上座に請ぜられ、ややあつて康定、兵衛佐の命にしたがひて、寝殿に向かひてけり。
 広廂に紫縁の畳を敷きて康定をゐせらる。
 わが身は高麗縁を敷き、御簾をなかばにあげて康定に対面あり。
 兵衛佐殿は顔大きに、勢ひきかりけり。
 容顔優にして、言語分明なり。
 兵衛佐のたまひけるは、「平家は、頼朝が威勢におそれて都を落つ。そのあとに木曾の冠者、十郎蔵人、わが高名がほに攻め入り、官をなし、加階をし、あまつさへ国をきらひ申し候ふこそ、かへすがへすも奇怪におぼえ候へ。されども当時までは、頼朝が書状には、『十郎蔵人』『木曾の冠者』と書いてこそ返事はして候へ。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹の四郎隆義が常陸守になり候ひて、頼朝が命にしたがはず。これを追罰すべきむね、院宣を下されよ」とのたまへば、康定申しけるは、「これもやがて名簿をたてまつるべう候へども、今度は御使にて候へば、まかりのぼり候。弟にて候ふ史大夫も『かう申せ』とこそ申し候ひしか」と申しければ、兵衛佐おほきに笑ひて、「当時頼朝が身として、いかでかおのおのの名簿を賜ふべき。ただし、げにもさ様に候はば、向後はさこそ存ぜめ」とぞのたまひける。
「やがて今日上洛つかまつるべき」よし申せば、「今日ばかりは逗留あるべし」とてとどめらる。
 次の日、また兵衛佐の館へむかひて出でられければ、白金物打つたる萌黄縅の腹巻、黄金づくりの太刀、滋籐の弓に、十二差いたる矢をそへてひかる。
 鞍置き馬十三匹、荷懸駄三十匹ぞひかれける。
 十二人の家の子、郎等に、馬、鞍、鎧、兜、弓、太刀、小袖、直垂、大口におよぶ。
 鎌倉出での宿より、近江の国鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつの米を置く。
「沢山なるによつて、施行をひかれける」とぞ聞こえし。
 都へのぼり、院の御所へ参りて奏しければ、人々もゑつぼに入り、君も御感なのめならず。 

第七十六句 木曾猫間対面

 兵衛佐は、かうこそめでたうゆゆしうおはしましけれ。 

第七十六句 木曾猫間の対面

 木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。
 あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしたれば、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見参申すべきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、木曾これを聞き、「猫もされば人に見参することあるか、者ども」とのたまへば、「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて入れたてまつ〔り〕て対面す。
 木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ」とぞのたまひける。
 中納言、「ただいまあるべうも候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやあるべき」。
 なにもあたらしきは無塩といふと心得て、「ここに無塩の平茸やある。とくとく」といそがせけり。
 根の井の小弥太といふ者の急ぎて陪膳す。
 田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひなし、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。
 木曾殿のまへにもすゑたりけり。
 木曾は箸をとり、これを召す。
 中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。
 木曾は同じ体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。
 中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。
 中納言帰られてのち、木曾出仕せんとていでたちけり。
 木曾は、「官加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に、とり装束す。
 されども車につかみ乗りぬ。
 鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗つたるには似も似ずしてわろかりけり。
 牛、車も平家〔の〕牛、車。
 牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸といふ者なり。
 牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、なじかはよかるべき。
 つと出でけるに、木曾、車のうちにてあふのけに倒れぬ。
 蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。
 五六町こそ引かせたれ。
 今井の四郎、鞭鐙をあはせて追つついて、「いかでか御車をばかうはつかまつるぞ」と申しければ、「御牛の鼻のこはう候ひて」とぞのべたりける。牛飼「あしかりなん」とや思ひけん、「それに候ふ手形にとりつかせ給へ」と申せば、手形にむずととりつきて、「あつぱれ支度や。牛小舎人がはからひか。また殿様か」とぞ問うたりける。
 御所へ参り、車のうしろより降りんとすれば、京の者の雑色に使はれけるが、「車には、召され候ふときこそ、うしろよりは召され候へ、降りさせ給ふときはまへより降り候ふなり」と申しければ、「いやいや、車のうちならんからに、直通りをばすべきか」とて、うしろより降りたりけり。
 そのほかをかしき事どもありしかども、人おそれてこれを申さざりけり。 

第七十七句 水島合戦

 平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国を討ち取れり。
 木曾左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて討手をつかはす。
 大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住人海野の弥平次郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道へ馳せくだる。
 平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。
 たがひに海を隔ててささへたり。
 閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣舟か」と見るほどに、平家の方より牒の使の舟なりけり。
 これを見て、源氏の船五百余艘、少々水島が磯まで上りたるを、にはかにをめき叫んでおろしけり。
 平家は新中納言知盛、能登の前司教経、都合その勢一万余騎、千余艘の船に乗り、押し寄せたり。
 能登殿のたまひけるは、「いかに、殿ばら、いくさをばゆるくはしけるぞ。北国のやつばらに生捕にせられんを心憂しとは思はずや。味方の船をば組めや」とて、千余艘の船のともづなを組みあはせ、なかに、もやひを入れ、あゆみの板をひきなほし、ひきなほし、渡いたれば、船のうへは平々たり。
 源平両方鬨をつくり、矢合せして、船ども押しあはせて攻め戦ふ。
 遠きをば弓で射、近きをば太刀で斬り、熊手にかけて引くもあり、ひつ組んで海に入るもあり、刺しちがへて死する者もあり。
 首を掻くもあり、掻かるるもあり。
 思ひ思ひ、心々に勝負をしけり。
 源氏方の侍大将に海野の弥平四郎幸広討たれぬ。
 これを見て、大将軍足利の矢田判官代義清、「やすからぬことなり」とて、主従七人小船に乗り、平家の船の中へ攻め入り、をめき叫んで戦ひけるが、いかがしたりけん、船踏み沈めて、みな死にけり。
 平家は船に、鞍置き馬をたてければ、船さし寄せ、能登の前司を先として、馬どもひきおろし、ひきおろし、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめいて駆く。
 源氏の兵、大将軍は討たれぬ。
「われ先に」と落ちゆき、散々にこそなりにけれ。 

第七十八句 瀬尾最後

 平家は備中の国水島の軍に勝つてこそ、会稽の恥をきよめけれ。
 

第七十八句 瀬尾最後

 木曾これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。
 ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康といふ者あり。
 去んぬる五月に砥波山にて生捕にせられたりしを、「聞こふる剛の者なれば」とて、木曾惜しんで切られず。
 加賀の国の住人倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申しけるは、「木曾殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜はらせ給へかし。去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、いくさ候はば、まつさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉光の三郎この様を木曾左馬頭殿に申す。
 木曾殿これを聞き、「きやつは剛の者と聞くが、惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内者させよ」とぞのたまひける。
 蘇武が胡国に捕はれ、李陵が漢国に帰らざるがごとし。
 遠く異国のことについては、昔の人もかなしめるところなり。
 をしかはのたまき、かもの幕、もつて風雨を防ぎ、なまぐさき肉、酪のつくり水、もつて飢渇にあつ。
 夜は夜もすがら寝ねず、昼はひめむすに仕へ、木を樵り、草を刈らんばかりにしたがひけるも、「木曾殿を滅ぼし、平家の方へいま一度参らん」と思ふがためなり。
 木曾、倉光を召して、「さらばこの瀬尾をまづ具して下りて、御馬の草をかまへさせよ」とのたまへば、倉光、瀬尾の太郎あひ具して備中の国へ下る。
 瀬尾が嫡子小太郎宗康とてあり。
 父が下るよしを聞いて、年ごろの郎等三十余人あひ具して、父が迎ひにのぼるほどに、播磨の国府にてぞ行き逢ひぬ。
 それより連れて下るほどに、備中の国三石の宿にぞ着きにける。
 夜もすがら酒盛りして、倉光三郎前後も知らず酔ひたりけるを、刺し殺して首をとり、家の子、郎等二十余人ありけるを、一人も漏らさず討ち取り、やがて、備前、備中に脚力をつかはし、「兼康こそ木曾殿のてゆるされて、これまで下りて候へ。平家に心ざし思ひたてまつらんずる殿ばらは、兼康を先として、木曾殿の下り給ふに、行き向かつて矢一つ射よ」とぞ触れたりける。
 山陽道の兵ども、五人持ちたる子は三人は平家に奉る。
 三人持ちたる子は二人を奉る。
 馬、鞍、弓、矢にいたるまで平家に奉る。
 されば、郎等もなく、物具もなかりけれども、兼康にもよほされて、かり武者なれども、備前、備中に二千余人、備前の国福龍寺畷、笹の迫を掘り切りて、城郭にかまへて待ちかけたり。
 備前の国は十郎蔵人の国なりければ、国府に押し寄せて代官を討つてけり。
 代官が下人ども逃げて都へ上る。
 播磨と備前とのさかひなる船坂山といふ所にて、木曾殿に行き逢ひたてまつる。
 木曾これを聞き、「やすからぬものかな。切るべかりけるものを」とのたまへば、今井申しけるは、「さ候へばこそ、まなこの様、骨がら、気の者と見候ひしあひだ、さしもに『切らせ給へ』と申せしことは」と申せば、木曾、「剛の者と聞くが惜しさにこそ、いままで切らでおきたりつれ。思ふに、なにほどのことかあるべきぞ。なんぢ追つかけて討て」とぞのたまひける。
 今井の四郎うけたまはつて、船坂山より三千余騎にて馳せ下る。
 笹の迫へ押し寄せたり。
 城のうちの者ども、おし肌ぬいで、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。
 馬多く射殺されて、おもてを向くる者なし。
 今井の四郎、「かくてはかなはじ」とて、むかしより馬の足およばぬといふ、そばなる深田へ多勢ざつとうち入れ、馬のくさわき、むながいづくし、太腹に立つところを事ともせず、すぢかへにぶらめかいて渡しければ、城のうちの者、矢種少々射つくして、「われ先に」と落ちて、備中の国板倉川のはたに城郭をかまへて待ちかけたり。
 今井の四郎やがて追つかけて、板倉が城へぞ寄せたりける。
 備前、備中のかり武者ども、あるいは竹箙に、五すぢ、六すぢの矢差したる者もあり、あるいは山うつぼに素雁股三つ四つ差したる者もあり。
 または切れ腹巻なんど着たる者どもが、あるいは山へ追ひ入れられ、あるいは河に追つつめられ、残り少なく討たれけり。
 瀬尾の太郎、つひに主従三騎に討ちなされ、馬をも射させ、徒歩だちになりて落ちゆく。
 嫡子の小太郎は齢二十ばかりなる大男の、あまりにふとりて、一町もはたらきえざる者なり。
 鎧ぬぎすて行きけれど、かなはざりければ、瀬尾、うち捨てて、郎等と二人、十余町こそ逃げのびけれ。
 瀬尾立ちどまり、郎等に言ひけるは、「兼康は千万の敵に向かつていくさしつれども、四方晴れておぼえつるが、小太郎を捨てて行くゆゑやらん、一向さき暗うして見えぬぞ」と申せば、郎等、「さればこそ『ただ一所にていかにもならせ給へ』と申しつるは、これにて候。返させ給へ」とぞ申しける。
 瀬尾、郎等とつれてまた走り帰る。
 下部の一人ありけるを、「なんぢはいかにもして屋島に参りて、この様を申すべし」とてつかはして、走り帰りて見れば、小太郎はおほきに足腫れて伏しゐたり。
 瀬尾申しけるは、「なんぢを捨てて行くゆゑにや、さきの暗うして見えぬあひだ、『一所にていかにもならん』と思ひ返したるぞ」と言ひければ、そのとき、小太郎、起きなほり、「この身こそ不器量の者にて候へ。されば自害つかまつらうずるにて候ふに、宗康がゆゑに御命を失ひたてまつらんことは五逆罪にて候へば、ただ一あゆみも延びさせ給はで」と申しければ、「思ひきりたるうへは」とて、しばしやすらうて待つところに、今井の四郎押し寄せたり。
 瀬尾、郎等と立ち並んで、射残したる矢ども、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。
 おもてに向かふ者なし。
 されども矢種尽きければ、弓をなげ捨て、打物の鞘をはづし、斬つてまはる。
 走り寄つて、嫡子の小太郎がまづ首を討ちおとし、わが身も痛手負うたりければ、自害してこそ亡せにけれ。
 郎等ともに自害しつ。
 今井の四郎、是等これら三人が首を取り、当国鷺の森にぞかけたりける。
 木曾殿これを見給ひて、「あはれげの者かな。いま一度助けで」とぞのたまひける。
 木曾は、備中の国万寿が荘といふ所にて勢揃へして、すでに屋島へ渡さんとするほどに、都の留守に置きたる樋口の次郎兼光、脚力をたてて申しけるは、「十郎蔵人殿ましまさぬあひだに、院ちかき人にて、おことをさまざまに讒奏せられ候ふなり。
 急ぎのぼらせ給へ」と申したりければ、木曾これを聞き、いくさをばせず、うち捨てて、夜を日にして馳せ上る。
「木曾殿すでに都へ入る」と聞こえしかば、十郎蔵人、「かなはじ」とや思ひけん、二千余騎にて都をたち、丹波路にかかりて播磨の国へ馳せ下る。
 木曾は摂津の国を経て京へ入る。
 さるほどに、平家は新中納言知盛一万余〔騎、千余〕艘の船に乗り、播磨の国へおし渡つて、室山に陣をとる。
 十郎蔵人これを聞き、「平家といくさして木曾に仲なほりせん」とや思ひけん、二千余騎にて室山に押し寄せ、一日たたかひ暮らす。
 されども平家は多勢なり、身方は無勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。
 播磨をば平家におそれ、都をば木曾におそれ、船に乗り和泉の国へおし渡り、河内の国長野の城にぞ籠りける。
 平家は室山のいくさに勝つてこそ、いよいよ大勢つきにけれ。 

第七十九句 法住寺合戦

 都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取りおほし。
 賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、はては人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち通る物をうばひとり、衣裳を剥ぎとる。
 平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方おそろしかりしばかりなり。
 衣裳を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏はおとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。
 院の御所より、壱岐守知親が子壱岐の判官知康、「京中の狼藉しづめてまゐらせよ」とて、木曾がもとへつかはさる。
 この知康はならびなき鼓の上手にてありければ、人「鼓判官」とぞ申しける。
 木曾殿、知康にいで向かひ、まづ勅諚にはおよばで、「わ殿を人の『鼓判官』と言ふなるは、よろづの人に打たれ給うてか、張られ給うてか」とぞ問うたりける。
 知康この言葉がにがにがしさに、やがて御所へ帰りて、「まことに木曾はをこの者にて候ふなり。
 いかさま、追罰せさせ給はではあしう候ひなん」と申せば、法皇も、天性内々、さおぼしめされけるあひだ、「さあらば」とぞのたまひける。
 しかるべき武士を召して仰せあはせられずして、山の座主、寺の長吏に仰せあはせ、山、三井寺の悪僧どもをぞ召されける。
 院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、木曾にしたがひたる五畿内の兵ども、みな木曾をそむいて院方に参る。
 近江源氏をはじめて、美濃、尾張の源氏どもみな木曾をそむく。
 信濃源氏村上の三郎判官代基国[*「よしくに」と有るのを他本により訂正]も木曾をそむけて、院方へこそ参りけれ。
 すでに院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郎兼平、木曾殿に申しけるは、「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人に参らせ給へかし」と申せば、木曾殿のたまひけるは、「われ信濃の国横田川の軍よりはじめて、北国、砥波、黒坂、志保坂、篠原、西国にいたるまで、度々のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは参るまじけれ。これは鼓判官が凶害とおぼゆるぞ。あひかまへて〔その〕鼓判官、補へて試し打ち申せ」とぞのたまひける。
「関々は閉ぢられて、たえて上る物なければ、冠者ばらが『かひなき命生きん』とて、をりをり、かたほとりにつきて入り取りせんは、なにかひが事ならん。また王城の守護とてあらんずる者が、馬一匹づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田を少々刈らせて、ときどき馬草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様はなきものを。鎌倉の兵衛佐がかへり聞かんところもあり。いくさようせよ、者ども。今度は最後のいくさにてあらんずるぞ」と言はれけり。
 木曾はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかに三千余騎ぞありける。
「木曾がいくさの吉例」とて、勢はいくらもあれ、まづ七手に分けて、三手にも、二手にもなるはかりごとをしけり。
 今度も三千余騎を七手に分かつ。
 樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方へ搦手にまはる。
「のこる六手は、おのおのがゐたらん条里小路より河原へ出でて、七条が末にて行き逢へ」とて、十一月十九日辰の刻に、院の御所法住寺殿へ押し寄せたり。
 院の御所には、山法師、寺法師、京中の向礫、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記されたる。
 御方の笠じるしには、松の葉をぞつけたりける。
 鼓判官知康は、いくさの行事をうけたまはる。
 いくさの行事知康は、赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ざりけり。
 兜ばかり着たりけるが、兜には四天王を書いてぞおしたりける。
 法住寺殿の西の築垣にあがりて、片手には金剛鈴を持ち、片手には鉾を持ち立つたりけるが、なにとか思ひけん、金剛鈴をうち振り、うち振り、ときどき舞ふをりもあり。
 公卿殿上人これを見て、「風情なし。知康に、はや天狗のついたり」とぞ笑はれける。
 知康、寄せ来る勢に向かひて、金剛鈴をうち振りて申しけるは、「むかしは、宣旨を、向かうて読みければ、枯れたる草木にも花さき、実なり、悪鬼、悪神までもしたがひたてまつりけるなり。末代ならんからにや、なんぢら夷の身として、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかで弓を引くべき。なんぢが放さん矢は、かへつて身にあたるべし。抜かん太刀は、なんぢが身を斬るべし」なんどぞ申しける。
 木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。
 樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向かふ。
 やがて御所に火をかけたり。
 院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。
 おびたたしく騒動す。
 いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。
 行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。
「われ先に」と落ちゆくに、あまりにあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足を〔突き〕ぬく者もあり、あるいは弓の筈を物にかけ、はづさで逃ぐる者もあり。
 倒るる者は、起き上がるひまもなくて、落つる者に踏み殺さるる者もおほかりけり。
 八条が末を山法師がかためたりけるが、恥ある者は討死し、つれなき者は落ちぞゆく。
 七条が末をば摂津の国源氏がかためたりける。
 これも七条を西へ落ちゆく。
 いくさ以前に、京の在地の者どもに、「明日、落人あらんずるをば、みな打ち殺せ」と院宣を下されたりけるあひだ、在地の者ども、家のうへに楯をつき、おそひの石ども拾いあつめて、摂津の国源氏の落ちゆくを、「あはや、落人よ」とて、石を拾いかけてぞ打ちたりける。
「これは御方ぞ、あやまちすな」と言ひけれども、院宣にてあるあひだ、ただ「打ち殺せ」「打ち殺せ」とて打つあひだ、鎧ぬぎすて落ちゆく者もあり、あるいは馬を捨てて逃ぐる者もあり。
 散々のことどもなり。
 伯耆守光長が子息検非違使光経も討たれにけり。
 近江の中将為清、越前守信行も討たれぬ。
 主水正近業は、木賊色の狩衣に萌黄縅の腹巻着て白葦毛なる馬に乗り、河原をのぼりに落ちゆく。
 今井四郎追つかけて、首の骨を射て落す。
 これは清原の大外記頼業が子なり。
「明経道の博士、甲冑をよろふこと、しかるべからず」と申しける。
 按察の大納言資賢の孫、播磨の中将雅賢生捕にせられ給ふ。
 天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあひだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首取られ給ふ。
 寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射られさせ給ひて、御首取つてげり。
 法皇も御輿に召されて出御なる。
 兵ども御輿を散々に射たてまつりければ、御輿を捨てまゐらせて、ちりぢりに逃げてげり。
 豊後の少将宗長の御供に侍はれけるが、「これは院のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」と高らかにのたまひけるほどに、そのとき、兵みな馬より降りてかしこまる。
 豊後の少将、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「信濃の国の住人、矢島の四郎行綱」と名のり申す。
 やがて御輿に手をかけまゐらせ、五条の内裏へおし籠めたてまつる。
 主上は、池なる御船に召されけり。
 御供には、七条の侍従信清、紀伊守範光ぞ候はれける。
 兵ども御船を射たてまつりければ、主上は四歳にならせおはします、なに心もわたらせ給はず、七条の侍従、船底にかき伏せまゐらせて、「これは内のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」とのたまひければ、そのとき兵ども、取りまゐらせて、閑院殿へ行幸なしたてまつる。
 行幸の儀式のありさま、あさましなんどもおろかなり。
 源の蔵人仲兼、河内守仲信兄弟、その勢百騎ばかりにて散々に戦ひけるが、七八騎に討ちなされ、ひかへたるところに、近江源氏山本の冠者義高、法住寺殿に防がれけるが、これを見て、「いまはおのおの、誰をかこはんとていくさをばし給ふぞや。行幸も、御幸も、はや他所へなりぬるものを」と申しければ、「さらば」とて、南をさして落ちぞゆく。
 源の蔵人が郎等、河内の国の住人日下の加賀坊といふ法師武者ありけり。
 白葦毛なる馬、太くたくましきが、きはめて口のこはきにぞ乗りたりける。
「この馬あまりにいばひにて、乗りたりべしともおぼえず候」と申せば、蔵人、「いで、さらば仲兼が馬に乗りかへん」とて、栗毛なる馬の下尾の白きに乗りかへて、瓦坂に誰とは知らず北国武者の大勢にてひかへたるところを、八騎にてざつと駆け破りて通る。
 八騎が五騎はそこにて討たれぬ。
 三騎になりて落ちゆく。
 五騎がうちに、馬乗りかへたる加賀坊討たれけり。
 蔵人の家の子に、信濃の次郎頼経といふ者あり。
 御所のたたかひより敵にかけへだてられて、蔵人の行方を知らざれば、加賀坊が馬に乗りかへたることをも知らざりけり。
 栗毛なる馬の下尾の白きが、主は討たれて河原に走りまはりけるを見て、信濃の次郎、下人を呼んで、「ここなる馬は、蔵人殿の馬と見るはいかに」と問へば、「さん候。蔵人殿の御馬にて候」と申す。
「あな無慚や。日ごろは『一所にていかにもならん』と契りたてまつりたるに、はや先立ち給ひけるにこそ。なんぢは帰つて、妻子どもにこの様を語るべし。頼経は討死して、蔵人殿の供せんと思ふぞ」とて、ただ一騎瓦坂の大勢にうち向かひ、名のりけるは、「日ごろはその者にては候はねば、名をもよも知り給はじ。今をはじめて聞き給へ。源の蔵人が家の子に、信濃の次郎頼経。かうこそかかれ」と言ひて、大勢の中に駆け入りて、をめき叫んで戦ひけるが、つひに討死してんげり。
 河内守仲信、稲荷山にうちあげて、醍醐の方へ落ちにけり。
 蔵人は宇治をさして落ちゆくほどに、摂政殿の、都をいくさにおそれ給ひて宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追つつきたてまつり、「誰そ。仲兼か。人もないに、ちかう侍へ」と仰せければ、「承り候」とて、宇治まで守護したてまつり、いとま申して、河内の方へ落ちゆきけり。
 豊後の国司刑部卿三位頼輔も御所に籠られたりけるが、敵はすでに攻め入る、侍一人もつきたてまつらず、ただ一人七条河原へ走り出で給ひたるところに、下部どもに衣裳を剥ぎとられて、立たれたるに、三位の小舅越前の法眼といふ者ありけり。
 その仲間法師が、「いくさ見ん」とて河原へ出でたりけるが、三位の立たれたるを見て、あまりのあさましさに、さらば小袖は脱ぎて着せたてまつらで、あわてで衣を脱ぎ、投げかけたてまつり、「法眼の宿所へ」と六条を西へましましけるに、大の男の、衣をうつほに着、頬かぶりて、白衣の法師を供に具しておはしける後姿こそをかしけれ。
 宰相脩範の卿は、「法皇の、五条の内裏へおし籠められ給ひたり」とうけたまはりて、いそぎ馳せ参られければ、兵ども入れたてまつらざれば、力およばず、走り帰りて、もとどりを切り、髪を剃りおろし、墨染の衣に袴着て参られければ、そのとき兵ども入れたてまつる。
 御前に参りて、この様を奏せられければ、法皇これを御覧じて、にはかに様をかへたる心ざしのほどの切なることをぞ、御感なる。
 今日のいくさの様を、次第次第に語り申す。
 さるほどに、「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ふ。また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれさせ給ひぬ」と申されければ、法皇、「明雲は非業の死したるものかな。今度はただ、われいかにもなるべかりける命に、代りたるにこそ」とて、御涙にむせばせおはします。
 木曾はいくさに勝ち、あくる卯の刻に、三千余騎、六条河原にうち入りて、馬の鼻を東へ向けて、天もひびき、大地も動くほどに、鬨を「どつ」とつくる。
 京中またさわぎあへり。
 これは、「いくさに勝ちたるよろこびの鬨をつくる」とも申しけり。
 いまはとても兵衛佐といくさせんこと決定なれば、今日吉日にてあるあひだ、「東国へむかひ、鏑を射はじめんとての鬨」とも申しけり。
 昨日討たるるところの首ども、六条河原へかけ並べて記したりければ、六百三十余人なり。
 そのなかに、寺の長吏八条の宮の御首もかからせ給へり。
 天台座主明雲大僧正御坊の御首もかかり給へり。
 見る人、涙をながさずといふことなし。 

第八十句 義経熱田の陣

 木曾左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、義仲、十善の君に向かひたてまつり、いくさは勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。
 大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふなれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。
 法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞあさましき。
 院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしなつて、丹波の国を知行しけり。
 前の関白松殿の姫君をとりたてまつり、聟になる。
 同じき二十三日、三条の中納言以下、卿相雲客四十九人が官職をとどめ、追つ籠めたてまつる。
 平家のときは三十余人が官職をこそとどめたりしか。
 これは四十九人なれば、平家の悪行にはなほ超過せり。 

第八十句 義経熱田の陣

 北面に候ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ下る。
 これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐舎弟、蒲の冠者範頼、九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおはする」と聞きて、木曾が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし。
 そもそも、当時この人々はなにごとに都へ上るぞといふに、平家都におはせしほどは、「道の狼藉もあらば」とて、東八箇国の年貢を君に奉ることもなし。
 平家都を落ちてのち、兵衛佐、「王地にはらまれて、さのみ年貢を対捍せんもおそれなれば」とて、両三年の年貢の未進を沙汰して、一千人の兵士をそへ、都へ参らせられけるほどに、道にて、「いくさあり」と聞き、「左右なく上り、いくさしてあしかりなん。ひき退いて、鎌倉殿へ子細を申さん」とて、大宮司のもとにぞおはしける。
 宮内判官、藤内左衛門馳せ下つて、木曾が悪行のこといちいちに申す。
 九郎義経のたまひけるは、「宮内判官、いそぎ鎌倉へ下るべしとおぼえ候。
 そのゆゑは子細も知らぬ使は、かへして問はれんとき、申しかねば不審ののこるに」とのたまへば、宮内判官、夜を日にして鎌倉へ下る。
 兵衛佐対面し給ひて、事の様をたづねらる。
「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ひぬ、また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれ給ひて候」と申せば、兵衛佐、「木曾が悪行あらば、頼朝にこそ仰せ下され追罰せらるべきに、いふかひなき鼓判官知康なんどが申すことにつかせ給ひて、御所をも焼かせ、高僧たちをも多く失はせ給へることこそ、かへすがへすもあさましく存じ候へ。こののち、知康召しつかはせ給ふべからず」と、脚力をたてて院に奏聞せられけり。
 知康このことを聞きて、「陳ぜん」と鎌倉へ下る。
 兵衛佐、「しやつに目な見せそ。会釈なせそ」とのたまへば、あひしらふ者もなかりけり。
 知康、面目失ひ、帰りのぼる。
 そののちいづくにかありけん、「行方も知らず」とぞ聞こえし。
 そのころ「木曾追罰のために東国より討手上る」と聞こえしかば、木曾は西国へ早馬をたてて、「平家の人々、いそぎ都へ上り給へ。ひとつになつて東国を攻めん」とぞ申したる。
 平家の人々これを聞き、よろこびあはれけり。
 平大納言時忠、新中納言知盛申されけるは、「さればとて、いまさらに木曾にかたらはれ、都へ帰りのぼり給はんことしかるべしともおぼえず候。
 十善の帝王、かたじけなくも三種の神器を帯してわたらせ給へば、ただ兜をぬぎ、弓をもはづして降人に参り給へ」と申されければ、大臣殿、この様を都へのたまひのぼせたりけれども、それを木曾もちひたてまつらず。
 そのころ、松殿禅定殿、木曾を召して仰せられけるは、「清盛は悪行たりしかども、希代の善根をせしかば、世をもめでたく二十四年までも持ちたりしなり。悪行ばかりにて世を保つことはなきものを。追ひ籠められたる人々の官どもゆるされよかし」と仰せければ、ひたすらの荒夷の様なれども、したがひたてまつて、追ひ籠められたる人々の官ども、みな許したてまつる。
 松殿の御子師家の、中納言の中将にてましましけるを、内大臣の摂政になしたてまつる。
 をりふし大臣あかざりければ、徳大寺の内大臣にておはしけるを借りたてまつり、師家に殿の摂禄せさせたてまつる。
 いづれも人の口なれば、師家の殿を「かりの大臣」とこそ人申しけれ。
 同じき十二月五日、法皇は五条の内裏より大膳大夫業忠が宿所、六条の西洞院へ御幸なる。
 同じき十三日、歳末の御修法あり。
 やがて除目おこなはるる。
 木曾はかりごとにて、人々の官ども思ふ様になりにけり。
 前漢、後漢のあひだに王莽が世をとつて、十八年をさめたりしがごとし。
 平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都にて張行し、諸国七道みな〔乱れて、〕おほやけの貢物をも奉らず、わたくしの年貢ものぼらねば、京中の人々は、ただ魚の水に離れたるに異ならず。
 あやふきながらも、今年もすでに暮れ、寿永も三年になりにけり。

続く

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