第三 平家巻

 目録
第二十一句 伝法灌頂
 朝覲の行幸 法皇三井寺において伝法
 同じく天王寺において灌頂 山門の学生と堂衆と不快
第二十二句 大赦
 中宮御懐妊 覚快法印変成男子の法行はるる事
 赦免状 少将肥前の鹿瀬の荘に着く事
第二十三句 御産の巻
 寺社大願析誓の事 皇子誕生の事 法皇の御祈りの事
 御産の時万づ物怪の事
第二十四句 大塔修理
 弘法大師の通化 血書きの蔓陀羅 厳島の御託宣
 頼豪阿闍梨の沙汰
第二十五句 少将帰洛
 少将有木の別所の弔の事
 成経康頼七条河原にて行別るる事
 康頼東山双林寺へ着く事 康頼宝物集新作
第二十六句 有王島下
 亀王死去の事 俊寛の死去 俊寛の姫出家
 有王高野奥の院籠居
第二十七句 金渡医師問答
 辻風 重盛熊野参詣 重盛四十三死去
 重盛大唐育王山寄進
第二十八句 小督
第二十九句 法印問答
 大地震 浄憲法印福原へ使の事
 太政入道意趣述べらるる事 法印返答の事
第三十句 関白流罪
 法皇鳥羽殿へ御移りの事
 浄憲法皇の御前に参らるる事 主上臨時の御神事
 明雲座主還着
第二十一句 伝法灌頂

 治承ぢしよう二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝覲てうぎんの行幸ありけり。
 例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬことにてぞありける。
 太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてのちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが笑うてぞおはしける。
 同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。
 また「赤気」とも申す。
 十八日、光を増す。
 そのころ、法皇、三井寺みゐでらの公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさづけさせましまして、「三井寺みゐでらにて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門の大衆、これをいきどほり申す。
「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますこと先規なり。なかにも、山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。
「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。
 法皇なほ、御本位なりければ、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なつて、五智光院を建てて、亀井の水をもつて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。
 山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺みゐでらにて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。
 毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。
 山門に「堂衆」と申すは、学生の所従なり。
 童部の法師になりたるなり。
 もとは仲間の法師ばらにてありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して「夏衆」と号し、仏に花を奉る者どもなり。
 近年は「行人」とて、大衆をもことともせざりしが、かく度々軍に勝ちにけり。
「党衆と師衆の命をそむきて合戦をくはだつ。すみやかに誅伐せらるべき」よし、大衆、公家に奏聞し、武家に触れうつたへけり。
 これによて、太政入道、院宣をうけたまはりて、紀伊の国の住人湯浅権守宗重、大将として、畿内の兵二千余人、大衆にさしそへ、党衆を攻めらる。
 党衆、日ごろは東陽坊にありけるが、近江の国三箇の庄に下向して、国中の悪党をかたらひ、あまたの勢を卒して早尾坂の城にたてこもる。
 大衆、官軍、五千人、早尾坂の城に押し寄せ、散々にたたかふ。
 大衆は官軍を先に立てんとし、官軍は大衆を先に立てんとするあひだ、心々にして、はかばかしうもたたかはず。
 党衆にかたらはるる悪党と申すは、窃盗、強盗、山賊、海賊等なり。
 欲心熾盛しじやうにして、死生不知のやつばらなり。
「われ一人」と思ひきりてたたかふに、大衆、官軍、数をつくしてうち殺さる。
 学生、また負けにけり。
 そののち、山門いよいよ荒れはてて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶まれなり。
 谷々の講演も魔滅して、党々の行法も退転す。
 修学の窓をとぢ、座禅の床もむなしくせり。
 四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月もかくれり。
 三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香煙も絶えやしにけん。
 党舎は高くそびえて、三重のかまへを青漢のうちにさしはさみ、棟梁はるかにひいでて、四面しめんの椽たんを白霧はくぶの間あひだにかけたりき。
 されども、いまは、「供仏を峰の嵐にまかせ、〔金容を洪瀝こうれきにうるほす。〕夜の月、ともし火をかかげて軒のひまよりもれ、あかつきの露、玉をたれ、蓮座れんざのよそほひをそふ」とかや。
 それ、末代の俗にいたつては、三国の仏法も次第に衰微せり。
 とほく天竺に仏跡をとぶらへば、むかし仏の法を説き給ひし、祇園精舎、竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼のすみかと荒れはてて、いしずゑのみや残りけん。
 白鷺地には水絶えて、草のみ高くしげれり。
 退凡、下乗の卒都婆も、苔のみむしてかたぶきぬ。
 震旦にも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺も、いまは住侶なきやうに荒れはてて、大小乗の法文も、箱の底にや朽ちぬらん。
 わが朝にも、南都の七大寺荒れはてて、東大、興福両寺のほかは、のこる党舎もなし。
 愛宕、高雄も、むかしは党塔軒を並べたりしかども、荒れにしかば、〔今は〕天狗のすみかとなりにけり。
 さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法さへ、治承ぢしようの今におよんで滅びはてぬるにや。
 心ある人は、かなしまずといふことなし。
 離山しける僧坊の柱に、いかなる者のしはざやらん、一首の歌をぞ書きたりける。
 いのり来しわが立つ杣そまのひきかへて人なきみねとなりやはてなん
 伝教大師でんげうだいし、当山たうざん草創さうさうの昔むかし、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみやくさんぼだいの仏ほとけたちに祈り申させたまひけんこと、思ひ出だし詠みたりけるにや、いとやさしうぞ聞こえける。
 八日は薬師の日なれども、「南無」ととなふる声もせず。
 四月の垂迹の月なれども、幣帛をささぐる人もなし。
 朱の玉垣神さびて、標縄のみや残りけん。 

第二十二句 大赦

 そのころ、太政入道第二の御むすめ、建礼門院、いまだ中宮と聞こえさせ給ひしが、御悩とて、雲のうへ、天がしたの嘆きにてぞありける。
 諸寺に御読経はじまり、諸社に官幣をたてらる。
 陰陽術をきはめ、医家くすりをつくし、大法、秘法一ひとつとして残のこる処ところなうぞ修しゆせられける。
 され共ども、御悩ごなうただごとにもわたらせ給はず、「御懐妊」とぞ聞こえし。
 主上は、今年十八、中宮二十二にならせ給へども、いまだ皇子、姫宮もいでき給はず、「もし皇子にてわたらせ給はば、いかにめでたからん」と、平家の人々、ただいま皇子わうじ御誕生ごたんじやうなりたる様に、いさみよろこび合はれけり。
 他家の人々も、「平氏の繁昌、をりを得たり。
 皇子わうじ御誕生ごたんじやううたがひなし」とぞ申し合はれける。
 高僧、貴僧に仰せて、大法、秘法を修し、星宿、仏菩薩につけても、「皇子わうじ御誕生ごたんじやう」とぞ祈誓せられける。
 六月一日、中宮御着帯ありけり。
 仁和寺にんわじの御室守覚法親王、いそぎ御参内ありて、孔雀経の法をもつて御加持あり。
 天台座主覚快法親王、おなじう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。
 かかりしほどに、中宮は月のかさなるにしたがつて、御身くるしうせさせおはします。
 ひとたび笑めば百の媚ありけん漢の李夫人、昭陽殿のやまひの床に臥しけるも、かくやとおぼえ、唐の楊貴妃、梨花一枝雨をおび、芙蓉の風にしほれ、女朗花の露おもげなるよりも、なほいたはしき御さまなり。
 かかる御悩のをりふしにあはせて、こはき御物怪どもあまたとり入りたてまつる。
 よりまし、明王の縛にかけて、霊あらはれたり。
 ことに、「讃岐の院の御霊」「宇治の悪左府の御憶念」「新大納言成親の卿の死霊」「西光法師が悪霊」「鬼界が島の流人どもの生霊」なんどぞ申しける。
 これによりて、入道相国、「生霊をも、死霊をも、なだめらるべし」とて、そのころ讃岐の院の御遺号あつて、「崇徳天皇」と号し、宇治の悪左府、贈官贈位おこなはれて、太政大臣正一位をおくらる。
 勅使は少内記惟基とぞ聞こえし。
 くだんの墓所は、大和の国添上の郡川上の村、般若野の五三昧なり。
 保元の秋、掘りおこして捨てられしのちは、死骸路のほとりの土となつて、年年にただ春の草のみしげれり。
 いま勅使たづね来たつて宣命を読みけるに、亡魂いかに「うれし」とおぼしけん。
 怨霊は、むかしもかくおそろしきことなり。
 されば、早良の廃太子をば「崇道天皇」と号し、井上の内親王をば皇后の職位に復す。
 これみな怨霊をなだめられしはかりごととぞ聞こえし。
 冷泉院の、御もの狂はしくましまし、花山の法皇の、十善万乗の帝位をすべらせたまひしは、元方の民部卿の霊なり。
 三条の院の、御目も御覧ぜられざりしは、寛算供奉が霊とかや。
 門脇の帝相、か様のことをつたへ聞いて、小松殿におはして申されけるは、「今度、中宮御悩の御いのり、さまざまに聞こえ候。
 なにと申すとも、非常の大赦にすぎたるほどのこと、あるべしともおぼえ候はず。
 中にも、鬼界が島の流人ども召し返されたらんほどの功徳、善根、なにごとか候ふべき」と申されければ、小松殿、父の相国の御前におはして申されけるは、「あの丹波の少将がことを、宰相なげき申し候ふが、不便に候。
 今度、中宮の御悩の御こと、承りおよぶごとくんば、成親の卿の死霊なんどの聞こえ候ふ。
 大納言が死霊をなだめられんとおぼしめさんにつけても、いそぎ、生きて候ふ少将を召しこそ返され候はめ。
 人の思ひをやめさせ給はば、おぼしめすこともかなひ、人の願ひをかなへさせましまさば、御願ひもすなはち成就して、中宮御産平安に、皇子わうじ御誕生ごたんじやうあつて、家門の栄華はいよいよさかんに候ふべし」なんどぞ申されける。
 入道、日ごろにも似給はず、ことのほかにやはらいで、「さてさて、俊寛僧都、康頼法師がことはいかに」「それも、おなじくは召しこそ返され候はめ。もし一人もとどめられたらんは、なかなか罪業たるべう候」と申されたりければ、入道、「康頼法師がこともさることなれども、俊寛は浄海が口入をもつて人となりたる者ぞかし。それに、所こそ多けれ、わが山荘鹿の谷に寄りあひて、事にふれ、奇怪のふるまひどもがありけんなれば、俊寛においては、思ひもよらず」とぞのたまひける。
 小松殿帰つて、叔父の宰相よびたてまつりて、「少将はすでに赦免候はんずるぞ。
 御心やすくおぼしめされ候へ」と申されければ、宰相、あまりのうれしさに、泣く泣く手をあはせてぞよろこび給ひける。
「下り候ひしときも、『などか申しうけざらん』と思ひたるげにて、教盛を見候ふたびごとに涙をながし候ひしが、不便に候」と申されければ、小松殿、「まことに、さこそおぼしめし候ふらめ。子は、たれとてもかなしう候へば、よくよく申してみ候はん」とて入りたまふ。
 さるほどに入道相国、「鬼界が島の流人ども、召し返さるべき」とさだめられて、赦文を書きてぞ下されける。
 御使、すでに都をたつ。
 宰相、あまりのうれしさに、御使にわたくしの使をそへてぞ下されける。
「夜を日にして、いそぎ下れ」とありしかども、心にまかせぬ海路なれば、おほくの波風をしのぎ行くほどに、都をば七月下旬に出でたれども、九月二十日ごろにぞ鬼界が島には着きにける。
 御使は丹波の左衛門尉基康と申す者なり。
 いそぎ船よりあがり、「これに、都より流され給ひたる法勝寺の執行俊寛僧都、丹波の少将成経、康頼入道殿やおはす」と声々にぞたづねける。
 二人は、例の熊野詣してなかりけり。
 俊寛一人ありけるが、このよしを聞いて、「あまりに思へば夢やらん。また、天魔波旬が来たつて、わが心をたぶらかさんとて言ふやらん。さらにうつつともおぼえぬものかな」とてあわて騒ぎ、走るともなく、たはるるともなく、いそぎ御使の前にゆきむかつて、「なにごとぞ。これこそ都より流されたりし俊寛よ」と名のり給へば、雑色がくびにかけたる文袋より、入道相国の赦文とり出だして奉る。
 これをいそぎあげて見給ふに、「重科は遠流に免かれ、はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御悩の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。しかるあひだ、鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道赦免」とばかり書かれて、「俊寛」といふ文字はなし。
「礼紙にぞあるらん」とて、礼紙を見るにも見えず。
 奥よりはしへ読み、はしより奥へ読みけれども、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり。
 さるほどに、少将、康頼入道も出で来たり。
 少将取つて見るにも、康頼入道読みけるにも、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり。
 夢にこそかかることはあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ、うつつかと思へば夢のごとし。
 そのうへ、二人の人々のもとへは都よりことづてたる文どもありけれども、俊寛僧都のもとへは、こととふ文一つもなし。
「されば、わがゆかりの者ども、都のうちに跡をとどめずなりにけり」と思ひやるにもたへがたし。
「そもそも、われら三人は、罪もおなじ罪、配所もおなじ所なり。いかなれば、赦免のとき、二人召し返され、一人ここに残るべき。平家のおもひわすれか、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」と、天にあふぎ、地に伏して泣きかなしめどもかひぞなき。
 少将の袂にすがりつき、「俊寛がかくなるといふも、御辺の父故大納言殿のよしなき謀叛のゆゑなり。されば、よそのことに思ひ給ふべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはずとも、船に乗せて、九国の地まで着けてたべ。おのおのこれにおはしつるほどこそ、春はつばくらめ、秋はたのむの雁のおとづるる様に、京のことをも聞きつれ。いまよりのちは、いかにしてかは都のことを聞くべき」とて、もだえこがれ給ひける。
 少将、「まことにさこそおぼしめされ候ふらめ。われらが召し返さるるうれしさは、さることにて候へども、御ありさまを見たてまつるに、行くべき空もおぼえず。うち乗せたてまつりて上りたうは候へども、都の御使もかなふまじきよしを申し候。そのうへ、『ゆるされなきに、三人ながら島を出でたる』なんどと聞こえ候はんは、なかなかあしう候ひなんず。まづ成経まかり上りて、入道相国の気色をもうかがひ、むかへに人を奉らん。そのほどは、日ごろおはしつる様に思ひなして、待ち給へ。なにとしても命は大切のことにて候へば、このたびこそ漏れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なうては候ふべき」と、こしらへなぐさめ給へども、こらふべしとも見えざりけり。
 さるほどに、「船出だすべし」とて、ひしめきければ、僧都、船に乗りてはおり、おりては乗り、あらましごとをぞせられける。
 少将の形見には夜のふすま、康頼の形見には一部の法華経をぞとどめける。
 ともづな解いて船押し出だせば、僧都、網にとりつきて、腰になり、脇になり、たけの立つまでは引かれて出で、たけのおよばずなりければ、僧都、船にとりつきて、「さて、いかに、おのおの。
 俊寛をばつひに捨てはて給ふものかな。
 都までこそかなはずとも、この船に乗せて、九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使、「いかにもかなひ候ふまじ」とて、とりつき給ふ手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。
 僧都、せんかたなさに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんどをしたふやうに、足ずりをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とをめきさけべども、漕ぎゆく船のならひとて、あとは白波ばかりなり。
 いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、高きところに走りあがりて、沖のかたをぞまねかれける。
 かの松浦小夜姫が、もろこし船をしたひつつ領布ひれふしけんも、これにはすぎじとぞ見えし。
 船ども漕ぎかくれ、日も暮るれども、僧都はあやしのふしどへも帰らず、波に足うち洗はせ、露にしほれて、その夜はそこにてぞ明かされける。
「さりとも、少将はなさけふかき人にて、よき様に申すこともや」とたのみをかけて、その瀬に身をだに投げざりし心のうちこそはかなけれ。
 むかし早離、速離が海巌山にはなたれたりけんありさまも、これにはすぎじとぞ見えし。
 二人の人々、鬼界が島を出でて、肥前の国鹿瀬かせの荘しやうに着き給ふ。
 宰相、京より人を下して、「年のうちは波風もはげしう、道のあひだもおぼつかなう候へば、春になりて上られ候へ」とありければ、少将、鹿瀬かせの荘しやうにて年をぞ暮らされける。 

第二十三句 御産の巻

 同じき十二月十二日の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。
 御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。
 関白殿をはじめたてまつりて、太政大臣以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。
「大冶二年九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
「御産平安、皇子わうじ御誕生ごたんじやうあるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。
 全玄法印、これを承りて、敬白す。
 神社は太神宮をはじめたてまつりて二十にじふ余箇所よかしよ、仏所ぶつしよは、東大寺とうだいじ、興福寺こうぶくじ以下いげ十六箇所じふろくかしよへ御誦経みじゆぎやうあり。
 御誦経みじゆぎやうの御使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。
 平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物みじゆぎやうもつ、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より南庭をわたり、西の中門に出づ。
 めづらしかりし見物なり。
 小松の大臣は善悪にさわがぬ人にて、そののちはるかに程経て、嫡子権亮少将以下、公達の車ども遣りつづけさせ、色々の御衣四十領、銀剣七、広蓋に置かせ、御馬十二匹ひかせ、参らるる。
 寛弘に上東門院御産のとき、御堂の関白殿の御馬参らせられける、その例とぞ聞こえし。
 この大臣は中宮の御舎兄にてましましけるうへ、父子の御ちぎりなれば、御馬参らせ給ひしはことわりなり。
 五条の大納言邦綱の卿も御馬二匹参らせらるる。
「心ざしのいたりか。徳のあまりか」とぞ人申しける。
 なほ伊勢よりはじめて、安芸の厳島にいたるまで、七十余箇所に神馬を立てらる。
 内裏には、寮の御馬に幣つけて、数十匹立てたり。
 仁和寺の御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一時金輪、五壇の法、六時河臨、八時文殊、普賢延命にいたるまで、のこるところなうぞ修せられける。
 護摩のけぶりは御所中にみち、鈴のこゑは雲をひびかし、修法の声、身の毛もよだち、いかなる御物怪なりとも、おもてをむかふべしとも見えざりけり。
 なほ仏所の法印に仰せて、御身等身の七仏薬師、ならびに五大尊の像をつくりはじめらる。
 かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。
 入道相国、二位殿の胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。
 人の参りて、もの申しけれども、ただ、「よき様に」「よき様に」とぞのたまひける。
 御験者は、房覚、昌雲両僧正、俊堯しゆんげう法印ほふいん、豪禅がうぜん、実全両僧都、おのおの僧伽そうがの句共くどもあげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊たち、責めふせ、責めふせ、揉まれけり。
 まことに身の毛もよだつて、たつとかりけり。
 〔なかにも、〕をりふし法皇は、新熊野へ御幸なるべきにて御精進のついでなりければ、錦帳ちかう御座あつて、千手経をうちあげ、うちあげ、あそばしけるにぞ、いまひときはこと変つて、さしもをどりくるひける御よりましが縛も、しばらくうちしづめける。
 法皇仰せなりけるは、「たとひいかなる御物怪なりとも、この老法師がかくて侍はんに、いかで近づきたてまつるべき。なかんづく、ただ今あらはるるところの怨霊は、みなわが朝恩をもつて人となりたる者ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、いかで豈あに障碍しやうげをなすべけんや。すみやかにまかりしりぞき候へ」と、「女人生産しがたからんときにのぞんで、邪魔遮障し、くるしみたへがたからんにも、心をいたして大悲呪を読誦どくじゆせば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」とあそばし、皆水精に御数珠をおしもませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてぞましましける。
 重衡しげひらの卿、そのときは中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子わうじ御誕生ごたんじやう候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇を始はじめたてまつり、太政大臣以下の卿相、すべて堂上、堂下おのおの、助修、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしづまりやらざりけり。
 入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。
 よろこび泣きとはこれをいふべきにや。
 小松の大臣、いそぎ中宮のかたへ参り給ひて、金銭九十九文、皇子の御まくらに置き、「天をもつては父とし、地をもつては母とさだめ、御命は方士、東方朔がよはひをたもち、御心には天照大神てんせうだいじん入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬の矢をもつて、天地四方を射させらる。
 御乳には、前の右大将宗盛の卿の北の方とさだめられたりしかども、去んぬる七月に、難産にて失せ給ひしかば、平大納言時忠の卿の北の方、御乳に参らせ給ふ。
 のちには「帥そつの典侍殿すけどの」とぞ申しける。
 法皇、やがて還御の御車を門前に立てられたり。
 入道相国、うれしさのあまりに、砂金一千両、富士綿二千両、法皇へ進上せらる。
 人々、「しかるべからず」とぞ内々申されける。
 今度の御産に、勝事なることあまたあり。
 まづ法皇の御験者。
 次に、后御産のときにのぞんで、御殿の棟より甑をころばかすことあり。
 皇子わうじ御誕生ごたんじやうには南へ落し、皇女御誕生には北へ落すを、これは、いかがしたりけん、北へ落す。
 人々、「いかに」とさわがれて、取りあげ、落し直されたりけれども、なほあしきことにぞ人申しける。
 をかしかりしは、入道相国のあきれざま。
 めでたかりしは、小松殿のふるまひ。
 本意なかりしは、右大将宗盛の卿の最愛の北の方におくれ給ひて、大納言、大将両職を辞して籠居ろうきよせられしこと。
 兄弟ともに出仕あらば、いかにめでたかるらんに。
 七人の陰陽師参りて、千度の御祓おはらひつかまつる。
 そのうちに、掃部頭時晴といふ老者あり。
 所従なんども乏少なり。
 あまりに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦のごとし。
「役人ぞ、あけられよ」とて、おしわけ、おしわけ参るほどに、いかがしたりけん、右の沓をふみぬがれ、そこにてちと立ちやすらふが、冠をさへつき落されて、さばかりのみぎりに、束帯ただしき老者が、もとどり放つてねり入りたりければ、若き〔公〕卿、殿上人はこらへずして、一同に笑ひあへり。
 陰陽師なんどいふ者は、「反陪」とて、足をもあだに踏まずとこそ承れ。
 それにかかる不思議のありけるを、そのときはなにとも思はざりけれども、のちこそ思ひあはせつることども多かりけれ。
 御産に六波羅へ参り給ふ人々、関白くわんばく松殿まつどの、太政大臣妙音院の、左大臣大炊の御門の、右大臣うだいじん月の輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、権大納言定房、三条大納言兼房、五条大納言邦綱、藤大納言資国、按察使あぜちの資賢、中の御門の中納言宗家、花山の院の中納言実綱、藤中納言資長、池の中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左の宰相の中将実宗、右の宰相の中将実家、新宰相の中将通親、平宰相教盛、六角の宰相家通、堀川の宰相頼定、左大弁の宰相長方、右大弁の三位俊経、左平衛督光能、右兵衛督成範しげのり、左京大夫脩範ながのり、皇太后宮大夫朝方、大宰大弐親教、新三位実清、以上三十三人。
 右大弁のほかは直垂なり。
 不参の人々には、花山の院の前の太政大臣忠雅公、大宮の大納言隆季卿たかすゑのきやう以下いげ十四人。
 後日に布衣着して、入道相国の西八条の第へむかはれけるとぞ聞こえし。
 御修法の結願に、勧賞共くわんじやうどもおこなはれける。
 仁和寺にんわじの御室の守覚法親王は、「東寺修造せらるべし。ならびに後七日御修法、大元帥の法、灌頂興行せらるべき」よし、仰せくださる。
 御弟子覚成僧都、法印にきよせらる。
 座主の宮は、「二品ならびに御車の宣旨」を申させ給ふ。
 仁和寺にんわじの御室ささへ給ふによて、御弟子法眼円良、法印になさる。
 そのほかの勧賞共くわんじやうども、毛挙にいとまあきあらずとぞ聞こえし。
 日数経にければ、中宮、六波羅より内裏へ入らせ給ふ。
 この御むすめ、位につかせ給ひしかば、入道相国、「あはれ、皇子わうじ御誕生ごたんじやうあれかし。 位につけたてまつりて、外祖父、外祖母とあふがれん」とぞ願はれける。
「われあがめたてまつる神に申さん」とて、厳島に月詣し給ひて祈られければ、中宮やがて御懐妊ありて、御産平安、皇子わうじ御誕生ごたんじやうにてましましけるこそめでたけれ。 

第二十四句 大塔修理

 そもそも、平家の厳島を信じはじめられけることは、何といふに、鳥羽の院の時、太政入道、いまだ安芸守あきのかみにておはしけるが、安芸の国をもつて、高野かうやの大塔だいたふを修理しゆりせよ」とて、渡辺わたなべの遠藤ゑんどう六郎ろくらう頼方よりかたを雑掌ざつしやうに付つけて、七年しちねんに修理しゆりをはんぬ。
 修理しゆりをはりて後のち、清盛きよもり、高野へ参り、大塔ををがみ、奥の院へ参られたりければ、いづくともなき老僧の、まゆには霜をたれ、ひたひに波をたたみ、鹿杖にすがりて出で来給へり。
 ややひさしう御ものがたりせさせおはします。
「むかしよりわが山は、密宗をひかへて、いまにいたるまで退転なし。
 天下にまたも候はず。
 越前の気比の社と安芸の厳島は両界の垂迹にて候ふが、気比の社はさかえたれども、厳島はなきがごとくに荒れはてて候。
 大塔すでに修理をはんぬ。
 同じくは、このついでに奏聞して、修理せさせ給へ。
 さだにも候はば、御辺は官加階肩を並ぶる者もあるまじきぞ」とて立ち給ふ。
 この老僧らうそうの居たまへる所ところに、異香薫じたり。
 人をつけて見給へば、三町ばかりは見え給ひて、そののちは、かき消すごとくに失せ給ひぬ。
「これただ人にてあらず。大師にてましましける」と、いよいよたつとくおぼえて、「娑婆世界の思ひ出に」とて、高野の金堂に曼荼羅を描かれけるが、西曼荼羅をば、常明法印といふ絵師に描かせらる。
 東曼荼羅をば、「清盛描かん」とて、自筆に描かれけるが、いかが思はれけん、八葉の中尊の宝冠をば、わがかうべの血を出だして描かれけるとぞ聞こえし。
 そののち、清盛都へのぼり、院参して、このよしをぞ奏聞せられたりければ、君なのめならずに御感ありて、なほ程をのべず、厳島を修理せらる。
 鳥居たてかへ、社をつくりかへ、百八十間の廻廊をぞつくられける。
 修理をはりてのち、清盛、厳島へ参り、通夜せられける夜の夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大明神の御使なり。なんぢ、この剣をもちて、一天四海をしづめて、朝家の御まぼりたるべし」とて、銀の蛭巻したる小長刀を賜はると、夢を見て、さめてのち見給へば、うつつに枕上にぞ立ちたりける。
 さて、大明神御託宣ありて、「なんぢ知れりや。
 忘れりや。
 弘法をもつて言はせしこと。
 ただし悪行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神はあがらせおはします。
 めでたかりしことどもなり。
 白河の院の御時、京極の大臣の御むすめ、后に立たせ給ひて、賢子中宮とて、御最愛ありけり。
 主上、この腹に皇子わうじ御誕生ごたんじやうあらまほしうおぼしめして、そのころ有験の僧と聞こえし三井寺みゐでらの頼豪阿闍梨あじやりを召して、「なんぢ、この腹に皇子わうじ御誕生ごたんじやうの御祈り申せ。
 御願成就せば、勧賞くわんじやうはのぞみによつて」とぞ、仰せける。
 頼豪、「やすき御こと候」とて、三井寺みゐでらにかへりて、肝胆をくだいて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊ありて、承保元年十一月十六日、御産平安、皇子わうじ御誕生ごたんじやうありけり。
 主上なのめならず御感ぎよかんありて、「汝なんぢ、所望しよまうの事ことはいかに」と仰おほせられば、三井寺みゐでらに戒壇かいだん建立こんりふの事ことを奏そうす。
 主上しゆしやう、「これは存知のほかなる所望なり。
 およそは、一階僧正なんどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。
 およそ皇子わうじ御誕生ごたんじやうあつて、位を継がしめんことも、海内無為をおぼしめしつるためなり。
 いま、汝なんぢが所望を達せば、山門いきどほり、世上しづかなるべからず。
 両門ともに合戦せば、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。
 頼豪、これを口惜しきことにして、三井寺みゐでらにかへりて、持仏堂にたてこもりて、干死せんとす。
 主上、なのめならずに御おどろきあつて、江の帥そつ匡房[*「としふさ」と有るのを他本により訂正]の卿、そのときはいまだ美作守と聞こえしを召して、「なんぢは頼豪と師檀しだんの契ちぎりあんなれば、行いてこしらへてみよ」と仰せければ、美作守かしこまり承つて、頼豪らいがうが宿坊しゆくばうに行ゆき向ひ、勅定ちよくぢやうの趣おもむきを申さんとするに、頼豪つひに対面もせざりけり。
 もつてのほかにふすぼつたる持仏堂にたてこもり、おそろしげなる声して、「天子にたはぶれのことばなし、綸言汗のごとしとこそ承れ。
 これほどの所望かなはざらんにおいては、わが祈り出だしたてまつる皇子にてましませば、取りたてまつりて、魔道へこそ行かん」とて、つひに対面もせずして、干死にこそしてんげれ。
 美作守、かへり参りてこのよしを奏聞しければ、主上なのめならず御おどろきありけり。
 さるほどに、皇子御悩つかせ給ひて、さまざまの御祈りありしかども、かなふべしとも見えざりけり。
 白髪なる老僧の、錫杖しやくぢやう持ちて皇子の御枕にたたずみて、人々の夢にも見え、まぼろしにもたちけり。
 おそろしなんどもおろかなり。
 さるほどに、承暦元年八月六日、皇子わうじ御年おんとし二歳にさいにて、つひにかくれさせ給ふ。
 敦文の親王これなり。
 主上なのめならず御なげきあて、またそのころ山門に、有験の僧と聞こえし、西京の座主良真大僧正、そのころいまだ円融坊の僧都と聞こえしを、内裏へ召して、「いかがせんずる」と仰せければ、「か様の御願は、いつもわが山の力にてこそ成就することにて候へ。
 されば、九条の右丞相、慈恵大僧正に申させ給ひしによてこそ、冷泉院の御願、皇子わうじ御誕生ごたんじやう候へ。
 やすきほどの御ことなり」とて、比叡山にかへりのぼりて、山王大師に百日肝胆をくだいて祈り申されければ、百日のうちに、中宮やがて御懐妊あつて、承暦三年七月九日、御産平安、皇子わうじ御誕生ごたんじやうありけり。
 堀河の天皇これなり。
 怨霊はみなかくおそろしきことなり。
 今度さしもめでたき御産に、大赦おこなはれたりといへども、俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ。
 同じく、十二月二十四日、皇子、東宮に立たせ給ふ。
 傅すけには小松の大臣、大夫には池の中納言頼盛の卿とぞ聞こえし。 

第二十五句 少将帰洛

 さるほどに、ことしも暮れて、治承ぢしようも三年になりにけり。
 正月下旬に、丹波の少将成経、肥前の国鹿瀬庄かせの荘しやうをたつて、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ十日ごろにぞ備前の児島に着き給ふ。
 それより父大納言の住み給ひける所をたづね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみを見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手を見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。
 さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。
 そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし」とも書かれたり。
 この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。
 その墓をたづね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承うけたまはりて候へしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候へしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。
 まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。
 苔の下には、誰かはこととふべき。
 ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。
 その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。
 明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫せさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒塔婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。
 年去り年来たれども、わすれがたきは撫育のむかしの思ひ。
 夢のごとく、まぼろしのごとし、尽きがたきは恋慕のいまの涙なり。
 三世さんぜ十方じつぱうの仏陀ぶつだの聖衆しやうじゆもあはれみ給ひ、亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけん。
「いましばらく念仏の功をも積むべう候へども、都に待つ人どもも心もとなう候ふらん。またこそ参り候はめ」とて、亡者にいとま申しつつ、泣く泣くそこをぞたたれける。
 草のかげにても、なごり惜しくもや思はれけん。
 同じき三月十六日、少将、鳥羽へぞ着き給ふ。
 故大納言の山荘、洲浜殿すはまどのとて鳥羽にあり。
 住み荒らして年経にければ、築地はあれどもおほひもなし、門はあれどもとびらもなし。
 庭にさし入り見給へば、人跡絶えて苔ふかし。
 池のほとりを見わたせば、秋の山の春風に、白波しきりにうちかけて、紫鴛しゑん白鴎はくおう逍遥せうえうす。
 詠ぜし人の恋しさに、尽きせぬものは涙なり。
 家はあれども格子もなし。
 蔀、遣戸もたえてなし。
「ここには大納言殿の、とこそ住み給ひしか」「この妻戸をば、かうこそ出で入りし給ひしか」「あの木はみづからこそ植ゑ給ひしか」なんど言ひて、言の葉につけても、ただ父のことを恋しげにこそのたまひけれ。
 やよひの中の六日なれば、花はいまだなごりあり。
 楊梅やうばい桃李たうりの梢こずゑこそ、をり知りがほにいろいろなれ。
 むかしのあるじはなけれども、春をわすれぬ花なれや。
 少将、花のもとに立ち寄りて、桃李たうりもの言はず、春いくばくか暮れぬ煙霞跡あとなし、昔誰が住まひぞ
 ふるさとの花のものいふ世なりせばいかにむかしのことを問はまし
この古き詩歌をくちずさみ給へば、康頼入道もそぞろにあはれにおぼえて、墨染の袖をぞ濡らされける。
 暮るるほど〔と〕は待たれけれども、あまりになごりを惜しみて、夜ふくるまでこそおはしけれ。
 ふけゆくままに、荒れたる宿のならひとて、古き軒の板間より、漏る月影ぞくまもなき。
 鶏籠けいろうの山やまけなんとすれども、家路はさらに急がれず。
 さてしもあるべきことならねば、都より乗物どもむかひにつかはしたれば、これに乗りて京へ入り給ひける人々の心のうち、さこそはうれしうも、またあはれにもありけめ。
 康頼入道がむかひにも乗物ありけれども、「いまさらなごり惜しきに」とて、それには乗らずして、少将の車に乗つて、七条河原までは行き、それより行き別れけるが、なほも行きやらざりけり。
 花のもとの半日の客、月の前まへの一夜いちやの友とも、旅びとが一むらさめのすぎゆくに、一樹のかげに立ち寄つて別るるだにも、なごりは惜しきものぞかし。
 いはんや、これは憂かりし島の住まひ、船中の波のうへ、一業所感の身なれば前世ぜんぜの芳縁はうえんも浅あさからずや思おもひ知られけん。
 少将の母上は霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所へおはして待たれける。
 少将のたち入り給ふ姿を一目見たて〔まつりて〕、「命あれば」とばかりぞのたまひける。
 やがて引きかづいてぞ伏し給ふ。
 宰相のうちの女房、侍どもさし群がつて、よろこびの涙をながしけり。
 乳母の六条は、尽きせぬもの思ひに、黒かりし髪もみな白くなり、北の方は、さしもはなやかにうつくしうおはせしかども、痩せおとろへて、その人とも見え給はず。
 流され給ひしとき三歳にて別れし幼き人、おとなしうなつて、髪ゆふほどになり、そのそばに三つばかりなる幼き者のありけるを、少将、「あれはいかに」とのたまへば、乳母の六条、「これこそ」とばかり申して、涙をながしけるにぞ、「下りしとき、よにも苦しげなるありさまを見置きしは、ことゆゑなう育ちけるよ」と思ひ出でてもあはれなり。
 少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相の中将にあがり給ふ。
 康頼入道は、東山双林寺にわが山荘のありければ、それにおちついて、見れば、三年があひだにあまりに荒れはてたるを見て、泣く泣くかうぞ申しける。
 ふるさとの軒の板間の苔むして思ひしほどはもらぬ月かな
 やがてそこに籠居ろうきよして、憂かりし昔を思ひつづけて、「宝物集」といふ物語を書きけるとぞ聞こえし。 

第二十六句 有王島下り

 さるほどに、鬼界が島へ三人流されたりしが、二人は召し返されて都へのぼりぬ。
 いまは俊寛一人のこりとまつて、憂かりし島の島守りとなりにけるこそあはれなれ。
 俊寛僧都の、をさなうより不便にして召し使はれける童、有王、亀王とて二人あり。
 二人ながら、あけてもくれても主のことをのみ嘆きけるが、その思ひのつもりにや、亀王はほどなく死ににけり。
 有王いまだありけるが、「鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入る」と聞こえしかば、鳥羽まで行きむかひて見れども、わが主は見え給はず。
「いかに」と問ふに、「俊寛の御坊はなほ罪ふかしとて島にのこされぬ」と聞いて、有王涙にぞしづみける。
 泣く泣く都へたちかへり、その夜は六波羅の辺にたたずみて、うかがひ聞きけれども、聞き出だしたることもなし。
 泣く泣くわがかたに帰りて、つくづく嘆きくらせども、思ひ晴れたるかたもなし。
「かくて思へば、身も苦し。鬼界が島とかやにたづね下つて、僧都の御坊のゆくへを、いま一度見たてまつらばや」とぞ思ひける。
 姫御前のおはしけるところへ参りて、申しけるは、「君はこの瀬にも漏れさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにもして、わたらせ給ふ島におりて、御ゆくへをたづねまゐらせばやとこそ思ひたちて候へ。御文を賜はりて参り候はん」と申しければ、姫御前、なのめならずによろこび給ひて、やがて書いてぞ賜びにける。
「いとまを乞ふとも、よもゆるさじ」とて、父にも、母にも知らせず、泣く泣くたづねぞ下りける。
 唐船のともづなは、四月、五月に解くなれば、夏衣たつをおそくや思ひけん、三月の末に都を出でて、おほくの波路をしのぎつつ、薩摩潟さつまがたへぞ下くだりける。
 薩摩さつまよりかの島へわたる舟津にて、人あやしみ、着たるものをはぎ取りなんどしけれども、すこしも後悔せざりけり。
 姫御前の御文ばかりぞ、人に見せじと、元結のうちにかくしたりける。
 さて、商人の船のたよりに、くだんの島にわたりて見るに、都にてかすかに伝へ聞きしはことの数ならず。
 田もなし、畑もなし、村もなし、里もなし。
 おのづから人はあれども、言ふことばも聞き知らず。
「これに都より流され給ひし、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知つたる」と問ふに、「法勝寺」とも、「執行」とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭をふつて、「知らず」と言ふ。
 そのなかにある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は、三人これにありしが、二人は召し返されてのぼりぬ。いま一人のこされて、あそこ、ここにまよひありけども、ゆくへは知らず」とぞ言ひける。
 山のかたのおぼつかなさに、はるかにわけ入り、峰によぢのぼり、谷にくだれども、白雲跡を埋づみで、ゆききの道もさだかならず。
 青嵐ゆめをやぶりて、その面影も見えざりけり。
 山にてはたづねあはずして、海のほとりについてたづぬれば、沙頭さとうに印いんを刻きざむ鴎かもめ、沖おきの白洲しらすにすだく浜千鳥のほかは、こととふものもなかりけり。
 ある朝、磯の方より、かげろふなんどの様に痩せ衰へたる者、よろぼひよろぼひ出で来たり。
「もとは法師にてありける」とおぼしくて、髪はそらざまに生えあがり、よろづの藻屑とりついて、もどろをいただきたるがごとし。
 つぎめあらはれて皮ゆるみ、身に着たるものは、絹布の分けも見えずして、片手には海藻をひろひて持ち、片手には網人に魚をもらひて持ち、歩む様にはしけれども、はかちもゆかず、よろよろとして出で来たる。
 有王、「不思議やな。われ都みやこにて多おほくの乞丐人こつがいにんを見しかども、か様の者はいまだ見ず。諸阿修羅等、居在大海辺とて、修羅、三悪、四趣は深山大海の辺にあると、仏説き給へることなれば、知らず、餓鬼道にたづね来たるか」と思ふほどに、かれも、これも、次第に歩み近づく。
「もし、か様の者なりとも、わが主のゆくへもや知りまゐらせたることもや」と、「もの申す」と言へば、「なにごと」と答ふ。
「これに都より流され給ひたる、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知つたる」と問ふに、童は見わすれたれども、僧都はいかでかわすれ給ふべきなれば、「これこそよ」とのたまひもあへず、手に持ちたるものを投げ捨てて、砂の上に倒れ伏す。
 さてこそ、わが主の御ゆくへとも知りてけれ。
 僧都、やがて消え入り給ふに、有王、ひざの上にかき乗せたてまつりて、「有王参りて候。おほくの波路をしのぎて、これまではるばるとたづね参りたるかひもなく、いかでか、やがて憂き目を見せさせ給ふぞ」と、泣く泣く申しければ、ややあつて、僧都、すこし人ごころ出で来て、たすけおこされ、のたまひけるは、「さればとよ。去年少将、康頼入道がむかひのときも、その瀬に身をも投ぐべかりしを、よしなき、少将の『いかにもして都のおとづれをも待てかし』なんどなぐさめおきしを、おろかに、もしやとたのみつつ、ながらへんとはせしかども、この島には人の食ひ物なき所にて、身に力のありしほどは、山にのぼりて硫黄といふものを取り、九国よりわたる商人にあひ、食ひ物にかへなんどせしかども、日にそへて弱りゆけば、そのわざもせられず。か様に日ののどかなるときは、磯に出でて網人に魚をもらひ、潮干のときは貝をひろひ、あらめを取り、磯の苔につゆの命をかけてこそ、今日まではながらへたれ。さらでは憂き世のよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん。ここにて何事をも言ふべけれども、いざ、わが家に」とのたまへば、有王、「あの御ありさまにても、家を持ち給ふことの不思議さよ」と思ひて行くほどに、松の一群あるなかに、より竹を柱にし、葦を結ひて桁梁にわたして、上にも下にも松の葉をひしととりかけたれば、雨風のたまるべうも見えざりけり。
「むかしは法勝寺の寺務職じむしきにて、八十余箇所の荘務をもつかさどられしかば、棟門、平門のなかに、四五百人しごひやくにんの所従しよじゆう眷属けんぞくに囲饒ゐねうせられてこそおはせしに、まのあたりにかかる憂きめを見給ひけるこそ不思議なれ。業にさまざまあり、順現、順生、順後業といへり。僧都、一期のあひだ、身に用ゆるところは、みな大伽藍の寺物、仏物にあらずといふことなし。されば、かの信施無慚の罪により、はや、今生にて感ぜられにけり」とぞ見えたりける。
 僧都、うつつにてありけりと思ひさだめて、「少将、康頼入道がむかひのときも、これが文といふこともなし。ただ今なんぢがたよりにも、おとづれのなきは、かくとも言はざりけるか」とのたまへば、有王、涙にむせび、うつ伏して、しばしは御返事にもおよばず、ややあつて、涙をおさへて申しけるは、「君の西八条へ御出で候ひしとき、追捕の官人参りて、御内の人々からめとり、御謀叛の次第をたづねて、みな失ひはてられ候ひぬ。北の方は、をさなき人を、隠しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奥にしのびてわたらせ給ひ候ひしに、この童ばかりこそ、時々参り、宮仕ひつかまつり候へしが。をさなき人は、あまりに恋しがらせ給ひて、参り候ふたびごとに、『わが父のわたらせ給ふ鬼界が島とかやへ具して行け』とて、むづがらせ給ひしが、過ぎにし二月に、もがさといふものに、失せさせおはしまし候ひぬ。北の方は、その御思ひと申し、またこれの御ことと申し、ひとかたならぬ思ひに、同じく三月二日に、はかなくならせおはしまし候ひぬ。いまは姫御前ばかりこそ、奈良のをば御前のもとにしのびてわたらせ給ひ候ふが、その御文は賜はりて参りて候」とて、取り出だして奉る。
 僧都いそぎこれをあけて見給ふに、「などや、三人流され給ふ人の、二人は召し返され候さぶらふに、いままで御のぼりも候さぶらはぬぞ。あまりに御恋しう思ひまゐらせ候さぶらふに、この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。
 たなばたの海士のつりぶねわれに貸せ八重の潮路の父をむかへん
「これを見よ、有王よ。この子が文の書き様のはかなさよ。おのれを供にのぼれとは、心にまかせたる俊寛が身ならば、いままでなにとてこの島にて三年の春秋をばおくるべき。ことし十二になるとこそおぼゆれ、これほどはかなくては、いかで人にも見え、宮仕ひをもして、身をもたすくべきか」とて泣かれけるにぞ、「人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふ」とも、思ひ知られてあはれなり。
「さて、俊寛がこの島へ流されてのちは、暦なければ月日のたつをも知らず。おのづから花の咲き、葉の落つるをもつて、三年の春秋をわきまへ、蝉のこゑ麦秋を送るを聞いて夏と知り、雪のつもるを見て冬と知る。白月、黒月のかはりゆくをもつて、三十日をわきまへ、指を折りてかずふれば、ことし六つになると思ふをさなき者も、はや先立ちけるござんあれ。西八条へ出でしとき、この子が、『我われもゆかん』と慕ひしを、『やがて帰かへらんずるぞ』といさめ置きしが、今の様におぼゆるぞや。限りとだに思はましかば、いましばしもなどか見ざらん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、この世一つに限らぬちぎりぞかし。などか、されば、それらがさ様に先立ちけるを、夢まぼろしにも知らざりけるよ。人目をも恥ぢず、命を生きうと思ふも、これらをいま一度見ばやと思ふためなり。今は生きてもなにかせん。姫がことこそ心苦しけれども、それも生き身なれば、嘆きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれに憂き目を見せんも、わが身ながらつれなかるべし」とて、おのづから食をとどめて、ひとへに弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞ祈られける。
 有王島へわたりて三十三日と申すに、つひにその庵のうちにてをはり給ひぬ。
 年三十七とぞ聞こえし。
 有王、むなしきかばねにとりつき、心のゆくほど泣きこがれ、「やがて後世の御供つかまつるべう候へども、この世には姫御前ばかりこそわたらせ給ひ候へ。後世ごせとぶらひ参らすべき人ひとも候さうらはず。しばし永らへて後世ごせとぶらひ参らせん」とて、臥所をあらためず、庵をきりかけ、松の枯れ枝、葦の枯れ葉をとりおほひ、藻塩のけぶりになしたてまつる。
 白骨をひろひ、くびにかけ、また商人の船のたよりに、九国の地へぞ着きにける。
 泣く泣く都へたちかへり、親のもとへは行かずして、僧都の姫御前の御もとへ直ぐに参り、ありし様をはじめよりこまごまと語りたてまつる。
「なかなかに、御文を御覧じてこそ、御思ひはいとどまさらせ給ひ候さうらひしか。すずり、紙もなければ、御返事にもおよばず、おぼしめすこと、さながらむなしうやみにき。今は生々世々しやうじやうせせを送おくり、多生曠劫たしやうくわうごふ経るとも、いかにとしてか、御声をも聞き、御すがたをも見まゐらせ給ふべき」と申しければ、姫御前、声も惜しまずをめきさけび給ひけり。
 十二じふにの歳、やがて尼になり、奈良の法華寺におこなひすまして、父母の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。
 有王は俊寛僧都の遺骨をくびにかけ、高野へのぼり、奥の院にをさめ、蓮華谷にて法師になり、諸国七道修業して、主の後世をぞとぶらひける。
 か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。 

第二十七句 金渡し 医師問答

 さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかり、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもつて行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。
 檜皮ひはだ葺板ふきいたのたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。
 おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。
 舎屋破損す〔る〕のみならず、命失ふ者もおほかりけり。
 牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。
「これただ事にあらず。御占形あるべし」とて、神祇官じんぎくわんにして御占形あり。
「いま百日のうちに、禄を重んずる大臣のつつしみ。別して天下の御大事。ならびに仏法、王法ともにかたぶきて、兵革相続すべき」とぞ神祇官じんぎくわん、陰陽頭どもは占ひ申しける。
 小松の大臣は、か様の事どもを伝へ聞き給ひて、よろづ心細うや思はれけん、そのころ熊野参詣のことあり、本宮証誠殿の御前に参らせ給ひて、よもすがら敬白せられけるは、親父入道相国のふるまひを見るに、ややもすれば、悪行無道にして、君をなやましたてまつり、重盛、嫡子として、しきりに諫いさめをいたすといへども、身不肖のあひだ、彼をもつて服膺せず。
 そのふるまひを見るに、一期の栄華なほあやふし。
 枝葉連続して親をあらはし、名をあげんことかたし。
 このときにあたつて、重盛いやしくも思へり。
 なまじひに世につらなつて浮沈せんこと、あへて良臣りやうしん孝子かうしの法ほふにあらず。
 名をのがれ、身をしりぞいて、今生の名利をなげうつて、来世の菩提をもとめんにはしかじ。
 ただし、凡夫薄地、是非に迷へるがゆゑに、心ざしをほしいままにせず。
 南無権現金剛童子、ねがはくは子孫繁栄に絶えずして、朝廷に仕へてまじはるべくは、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得せしめ給へ。
 栄耀また一期をかぎつて、後昆の恥におよばば、重盛が運命をつづめて、来世の苦患くげんを助たすけ給たまへ。
 両箇の求願、ひとへに冥助をあふぐ。
 と、肝胆をくだいて祈り申されければ、大臣の御身より燈籠とうろの火の光の様なるものの出でて、ばつと消ゆるがごとくして失せにけり。
 人あまた見たてまつりけれども、恐れてこれを申さず。
 大臣下向のとき、岩田川を渡らせ給ひけるに、嫡子権亮少将ごんのすけぜうしやう維盛これもり以下いげの公達きんだち、浄衣じやうえのしたに薄色の衣を着給ひたりけるが、夏のことなりければ、なにとなう河の水にたはぶれ給ふほどに、淨衣のぬれて、衣にうつりたるが、ひとへに色のごとく見えければ、筑後守定能、これを見とがめたてまつりて、「あの淨衣、よに忌はしげに見えさせ給ひ候。召し替へられべうや候ふらん」と申しければ、大臣、「さては、わが所願、すでに成就しにけり。あへてその淨衣あらたむべからず」とて、岩田川より、別してよろこびの奉幣を熊野へぞたてられける。
 人「あやし」と思へども、その心を得ず。
 しかるにこの公達、程なく、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。
 大臣下向ののち、いくばくの日数を経ずして、病ひづき給ひしかば、「権現すでに御納受あるにこそ」とて、療治をもし給はず、また祈祷をもいたされず。
 そのころ、宋朝よりすぐれたる名医わたりて、本朝にやすらふことありける。
 入道相国、折節福原の別業におはしけるが、越中の前司盛俊を使者にて、小松殿へのたまひつかはしけるは、「所労のこと、いよいよ大事なるよし、その聞こえあり。かねては、また宋朝よりすぐれたる名医わたれり。をりふしよろこびとす。よて彼を召し請じて、療治をくはへしめ給へ」とぞのたまひたる。
 小松殿、さしもに苦しげにおはしけるが、たすけ起されて、人をはるかにのけて対面あつて、「まづ医療のこと、『かしこまつて承うけたまはり候ひぬ』と申すべし。ただし、なんぢも承れ。延喜の帝は、さばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、異国の相人を都のうちへ入れられたりしをば、末代までも『賢王の御あやまり、本朝の恥』とこそ見えたれ。いはんや重盛ほどの凡人が異国の医師を都のうちへ入れんこと、国の恥にあらずや。漢の高祖は三尺の剣をひつさげて天下ををさめしかども、淮南わいなんの黥布げいふを討ちし時とき、流矢ながれやにあたつて傷をかうぶる。后呂太后、良医を召して見せしむるに、医の曰く、『われこの傷を治すべし。ただし五十斤の金をあたへば治せん』と言ふ。高祖のたまはく、『われまぼりの強かりしほどは、多くのたたかひにあうて傷をかうぶりしかども、その痛みなし。運すでに尽きぬ、命はすなはち天にあり、扁鵲といふとも何の益かあらん、しかれば金を惜しむに似たり』とて、五十斤の金を医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言耳にあり、いまもつて甘心とす。重盛、いやしくも公卿に列し三台にのぼり、その運命をはかるに、みなもつて天心にあり。何ぞ天命を察せずして、おろかに医療を疲らかさんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、医療を加へずとも助かることを得べし。かの耆婆ぎばが医術いじゆつおよばずして、大覚世尊だいかくせそん、滅度めつどを拔提ばつだいの辺ほとりに唱となふ。これすなはち定業のやまひ癒えざることを示さんがためなり。治するは仏体、療ずるは耆婆ぎばなり。定業ぢやうごふ、医療いれうにかかはるべくんば、豈あに釈尊しやくそん入滅にふめつあらんや。定業ぢやうごふするに堪へざる旨むね明らけし。しかれば、重盛が身仏体にあらず、名医また耆婆ぎばにおよぶべからず。たとひ四部の書をかんがへて、百療はくれうに長ちやうずといふとも、有待うだいの依身えしんをすくひ療ぜん。たとひ五経の説をつまびらかにして衆病を癒すといふとも、いかでか前世の業病を治せんや。もしかの術によて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくんば、面謁所詮なし。就中なかんづく、本朝ほんてう鼎臣ていしんの外相ぐわいさうをもつて、異朝いてう浮遊の来客に見えんこと、かつうは国の恥、かつうは道みちの陵遅りようちなり。たとひ重盛命ほろぶといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらんや。このよしを申せ」とこそのたまひけれ。
 盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、このよし申したりければ、入道大きにさわいで、「是これほどくにの恥はぢを思ふ大臣、上古いまだなし。末代にあるべしともおぼえず。日本不相応の大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、泣く泣くいそぎ都へ上られけり。
 同じく七月二十八日、小松殿出家し給ふ。
 法名をば「照空」とぞつき給ひける。
 やがて八月一日。
 臨終正念に住して、つひに失せ給ひぬ。
 御年四十三。
 世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりしことどもなり。
「さしも入道の、横紙を破られつるをも、この人の直しなだめられつればこそ、世もおだやかなりつれ、こののち天下にいかばかりの事か出で来んずらん」とて、上下なげきあへり。
 前の右大将宗盛の卿の方様の人々は、「世はすでに大将殿へ参りなんず」とて、いさみよろこびあへり。
 人の親の子を思ふならひは、愚かなるが先立つだにもかなしきぞかし。
 いはんやこれは当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛のわかれ、家の衰微、かなしんでもなほあまりあり。
 されば世には良臣をうしなへることをなげき、家には武略のすたれぬることをかなしみ、およそこの大臣は文章うるはしくして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、ことばに徳を兼ね給へり。
 この大臣は不思議第一の人にておはしければ、去んぬる四月七日の夜の夢に見給ひける事こそ不思議なれ。
 たとへば、ある浜路をいづくともなくはるばるとあゆみ行き給ふほどに、大きなる鳥居のありけるを、大臣見給ひて、「あれはいかなる御鳥居ぞ」と見給へば、「春日の大明神の御鳥居なり」とぞ申しける。
 人おほく群集したり。
 そのなかに大きなる法師の頭を太刀のさきにつらぬき、高くさしあげたるを、大臣見給ひて、「あれは何者ぞ」とのたまへば、「これは平家太政入道殿の、悪行超過し給ふによて、当社大名神の召し取らせ給ひて候」と申すとおぼえて、夢さめぬ。
 大臣、「当家は保元、平治よりこのかた、度々朝敵をたひらげ、勧賞けんじやう身にあまり、太政大臣にいたり、一族の昇進六十余人。二十余年のこのかたは楽しみさかえて、肩をならぶる者なかりつるに、入道の悪行によて、一門の運命末になりぬることよ」と案じつづけて、御涙にむせば給ふ。
 をりふし妻戸をほとほとと打ちたたく。
 大臣、「あれ聞け」とのたまへば、「瀬尾の太郎兼康が参りて候。今夜不思議のことを見候ひて、申し上げんがために、夜の明くるが遅うおぼえ候ひて、参りて候。御前の人をのけられ候へ」と申しければ、大臣人をはるかにのけて対面あり。
 大臣の見給ひたりける夢を、はじめよりいちいち次第に語り申したりければ、「さては瀬尾の太郎兼康は、神にも通じたる者にてありける」とぞ大臣も感じ給ひける。
 そのあした、嫡子権亮少将、院へ参らんと出でたたれけるに、大臣呼び給ひて、「御辺は人の子にはすぐれて見え給ふ。貞能はなきか。少将に酒すすめよかし」とのたまへば、筑後守貞能うけたまはつて、御酌に参る。
 大臣、「この盃をまづ少将にこそ取らせたけれども、親よりさきにはよも飲み給はじ」とて、三度うけて、そののち」少将にぞさされける。
 少将も三度うけ給ふとき、「いかに貞能、少将に引出物せよ」とのたまへば、貞能うけたまはつて、錦の袋に入れたる御太刀を一振取り出す。
 少将、「当家に伝はれる小烏といふ太刀やらん」と思ひて、よにうれしげに見給ふところに、さはなくして、大臣葬のとき用ひる無文といふ太刀にてぞありける。
 少将、もつてのほかに気色あしげに見えられければ、大臣涙をはらはらと流いて、「いかに少将、それは貞能がひが事にはあらず。そのゆゑは、大臣葬のとき用ひる無文の太刀といふなり。この日ごろ、入道のいかにもなり給はば、重盛帯いて供せんと思ひつれども、いまは重盛、入道殿に先立たん。されば御辺に賜ぶなり」とのたまへば、少将これをうけたまはつて、涙にむせび、うつ伏して、その日は出仕もし給はず。
 そののち、大臣熊野へ参り、下向して、いくばくの日数を経ずして、病ひついて失せ給ひけるにこそ、「げにも」と思ひ知られけれ。
 大臣は天性滅罪生善の心ざし深うおはしければ、未来のことをなげいて、「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんこともありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世とぶらはればや」とて、安元のころほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召して、人をはるかにのけて対面あつて、金を三千五百両召し寄せて、「なんぢは大正直の者であるなれば、五百両をなんぢに賜ぶ。三千両をば宋朝へわたして、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、わが後世をとぶらはせよ」とぞのたまひける。
 妙典これを賜はりて、万里の波濤はたうをしのぎつつ、大宋国へぞわたりける。
 育王山の方丈、仏照禅師徳光に会ひたてまつりて、このよしを申したりければ、随喜感嘆して、一千両をば僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されける様に、つぶさに奏聞せられたりければ、帝大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞ寄せられける。
 されば「日本の大臣、平の朝臣重盛公の後生善所」と、今にあるとぞうけたまはる。
 入道相国、小松殿にはおくれ給ひぬ、よろづ心細うや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。 

第二十八句 小督  
第二十九句 法印問答

 同じく十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。
 陰陽頭安部の泰親、いそぎ内裏へ馳せ参りて、奏聞しけるは、「今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経こんぎきやうの説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、もつてのほかに火急に候」とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も叡慮をおどろかせおはします。
 若き公卿、殿上人は、「けしからずの泰親が泣き様や。なんでうことのあるべき」とて笑ひあはれけり。
 されどもこの泰親は晴明せいめい五代ごだいの苗裔べうえいをうけて、天文は淵源をきはめ、推条たなごころをさすがごとし。
 一事いちじもたがはずありければ、「さすの神子」とぞ申しける。
 いかづちの落ちかかりたりしにも、雷火とともに狩衣の袖は焼けながら、その身はつつがもなかりけり。
 上代にも末代にもありがたかりし泰親なり。
 同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原へおはしけるが、なにとか思ひ給ひけん、数千騎の軍兵を率して都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中の上下、なにと聞きわけたることはなけれども、騒ぎあふことなのめならず。
 また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべし」といふ披露をなす。
 関白殿聞こしめすむねやありけん、急いそぎ御参内ごさんだいあつて、「今度入道相国入洛のことは、ひとへに基房をかたぶくべき結構にて候ふなり。つひにいかなる目にあひ候ふべきやらん」と奏せさせ給へば、主上聞こしめして、大きにおどろき給ひて、「そこにいかなる目にもあはれんは、ただわがあふにこそあらんずれ」とて、龍顔より御涙をながさせ給たまふぞ忝かたじけなき。
 誠まことに天下てんがの御政おんまつりごとは、主上しゆしやう、摂録せふろくの御おんはからひにてこそありつるに、こはいかにしつることどもぞや。
 天照大神てんせうだいじん、春日かすが大明神だいみやうじんの神慮しんりよの程ほどもはかりがたし。
 同じき十五日、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべきこと必定」と聞こえしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故小納言入道信西の子息、静憲法印じやうけんほふいん御使ひにて、入道相国の西八条の第へ仰せつかはされける。
「近年、朝廷しづかならずして、人の心もととのほらず、世間もいまだ落居せぬさまになりゆくことを、惣別そうべつにつけてなげきおぼしめせども、さてそこにあれば、万事はたのみおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ、あまつさへ嗷々がうがうなる体にて、朝家をうらむべしなんど聞こしめすは、なにごとぞ」と仰せつかはされける。
 静憲法印じやうけんほふいん、入道相国の西八条の第へむかふ。
 入道、対面もし給はず、あしたより夕べまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそ無益におぼえて、源げん大夫判官だいふのはうぐわん季貞すゑさだをもつて院宣のおもむきを言ひ入れたりければ、そのとき、入道相国、「法印呼べ」とて出でられたり。
 呼び返し、「やや、法印の御坊、淨海が申すところはひが事か、御辺の心にも推察し給へ。まづ内府がみまかりぬること、当家の運命をはかるにも、入道、随分悲涙をおさへてまかり過ぎ候ひしか。保元以後は乱逆うちつづいて、君やすき御心もわたらせ給ひ候はざりしに、入道はただおほかたをとりおこなふばかりにてこそ候へ、内府こそ手をおろし、身をくだいて、度々の逆鱗をやすめまゐらせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務、内府ほどの功臣はありがたうこそ候へ。いにしへを思ふに、唐の太宗は魏徴におくれて、かなしみのあまりに、『昔むかしの殷宗いんそうは夢のうちに良弼を得、今の朕はさめての後に賢臣を失ふ』と碑の文をみづから書いて廟べうに立ててこそかなしみ給ひけれ。かるがゆゑに、『父よりもむつまじく子よりも親しきは君臣の道なり』とこそ申すことにて候ふに、重盛が中陰のうちに八幡へ御幸のあつて御遊ある、人目こそ恥ぢ入り候ひしか。これ一つ。内府随分君のために忠功他に異なるものなり。されば保元、平治の合戦にも、命を君のために軽んじて、かばねを戦場に捨てんとふるまひ候ひしこと、久しからざることなれば、君いかでかおぼしめし忘るべき。これ二つ。そののち、大小度々御大事に、院宣といひ、勅命と申し、軍忠をぬきんづること度々におよべり。しかれば、越前の国を重盛に賜はりし時は、子々孫々ししそんぞんまで下され候ひしが、重盛が中陰のあひだに召し離さるる条、罪科なにごとぞや。これ三つ。次に、中納言闕げ候ふとき、二位の中将殿のぞみ申され候ひしかば、入道随分執し申し候ひしを、関白殿の御子息三位の中将殿、非分なし給ひしこと。入道たとひ一度は非拠を申しおこなふとも、いかでか聞こしめし入れざるべき。いはんや、家嫡といひ、位階といひ、かたがた理運左右におよばぬことなりしを、ひき違ひたてまつらるること、入道面目を失うて候ひしか。これ四つ。次に、昨日や今日、みなもつて、この一門を滅ぼすべき由よし結構あり。これまた私の計略にあらず候ふよし、伝へうけたまはるあひだ、先々の忠勤、今においてはいたづらごとになりぬ。向後さらに以前の軍忠ほどの苦衷あるべきとも存ぜざるあひだ、公家奉公のたのみなし。これ五つ。度々の忠勤をわすれずんば、いかでか入道をば七代まで捨てらるべき。それに、入道すでに七旬におよび、余命いくばくならず。一期のあひだにも、ややもんずれば滅ぼすべき御はかりごとあり。申さんや、子孫あひ継いで、一日片時も朝家に召しつかはれんことかたし。これ六つ。およそ『老いて子を失ふは、枯木の枝なきがごとし』と承り候。内府におくれ、運命の末にのぞめること、思ひ知り候ひぬ。天気のおもむきあらはれたり。たとひいかなる奉公いたすといふとも、叡慮に応ずることあるべからず。これ七つ。このうへは、不定の世の中に、七十におよんで、なにほどの楽しみ栄えを期して、心苦しく無益の奉公をいたしても詮あるべからず。『とてもかくても候ひなん』と存じ候。親の子を思ふならひ、『不孝の子なほ別れの涙いましめがたし』と承り候。いはんや重盛においては、奉公といひ、至孝といひ、礼法と申し、勇敢と申し、子ながらならびなき仁なり。一度わかれてのち、再会期しがたし。老父がなげきをば、いかがとか、一度の御あはれみをかけられざらん。これ八つ。鳥羽の院の御時、顕頼民部卿あきよりみんぶきやう、させる重臣ではなかりしかども、昇遐しようかののち、御立願の八幡御参詣延引す。なさけある御ことは、かやうにこそ候へ。一度の御芳言にもあづからず。たとひ入道が忠をおぼしめし忘るるといふとも、いかでか内府が労功を捨てらるべき。また重盛が奉公を捨てらるといふとも、浄海が数度の勲功をおぼしめし知らざらん。これ九つ。このほかうらみなげき、毛挙にいとまあきあらず」。
 はばかるところもなくくどきたてて、かつうは腹立し、かつうは落涙し給へば、法印は、「この条々案のうちのことなり。ことごとく院の御ひが事、禅門が道理」と聞きなして、あはれにも、またおそろしうもおぼえて、汗水にぞなられける。
 このときは、いかなる人も、一言の返事にもおよびがたきぞかし。
 そのうへ、「わが身も近習の人なり、鹿の谷に会合したりしことは、まさしう見聞かれしかば、その人数とていまも召しや籠められずらん」と思ふに、龍の鬚を撫で、虎の尾を踏む心地はせられけれども、法印もさるおそろしき人にて、ちとも騒がず申されけるは、「まことに、度々の御奉公あさからず。一旦申させおはすところ、そのいはれあり。ただし、官位といひ、俸禄といひ、御身にとつてはことごとく満足す。しかれば功の莫大なるところを、君御感あつてこそ候はめ。しかるに讒臣事をみだるを、君御許容ありといふは、謀臣の凶害にてぞ候ふらん。耳を信じて目をうたがふは、俗のつねの弊なり。小人の浮言を重んじて、朝恩の他に異なるに、君をかたぶけ給はんこと、冥顕につけてもその恐れすくなからず候。およそ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめてその儀にてぞ候ふらん。よくよく御思惟候へ。下として上に逆ふること、あに人臣の礼たらんや。詮ずるところ、このおもむきをこそ披露つかまつり候はめ」とて立たれければ、その座にいくらも並みゐ給へる人々、「あなおそろし。入道のあれほど怒り給ふに、ちとも騒がず、返事うちして立たるるよ」とて、法印をほめぬ人とぞなかりけれ。
 法印、御所へかへり参りて、このよしを奏せられければ 法皇も道理至極だうりしごくして、仰せ出だされたることもなし。 

第三十句 関白流罪

 さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめてみな追籠めたてまつる。
 なかにも摂政殿をば大宰帥だざいのそつにうつして、鎮西へ流したてまつる。
「かくあらん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古川といふ所にて御出家あり。
 御年三十五。
「礼儀よく知ろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつるものをとて、世の惜しみたてまつることなのめならず。遠流の人の、道にて出家しつるを、約束の国へはつかはさぬことにてあるあひだ、はじめは日向の国と定められたりしかども、備前の国府の辺に、湯迫といふ所にぞしばしやすらひ給ひける。大臣流罪の例は、左大臣蘇我の赤兄、右大臣豊成、左大臣魚名、菅原の右大臣、いまの北野の天神の御ことなり。右大臣高明公かうめいこう、内大臣藤原の伊周公いしうこうまで、その例すでに六人なり。されども、摂政関白流罪の例、これ初めとぞ承る。故中納言殿の御子、二位の中将基通もとみちは入道の聟むこにておはしければ、大臣関白にあがり給ふ。〔去んぬる〕円融院ゑんゆうゐんの御宇ぎよう、天禄てんろく三年さんねん十一月じふいちぐわつ一日ひとひのひ、〔一〕条いちでうの摂政せつしやう謙徳公けんとくこう、失せ給ひしかば、御弟堀川の関白忠義公ただよしこう、そのときはいまだ従二位じゆにゐ中納言にておはしき。御弟法興院ほふきようゐんの大納言入道殿兼家公かねいへこうは、大納言の右大将にてましまししかば、忠義公は御弟に越えられ給ひたりしかども、いままた越えかへして、内大臣正二位にあがりて、内覧の宣旨をかうぶらせ給ひたりしをこそ、時の人「耳目をおどろかしたる御昇進」とは申せしに、これはそれになほ超過せり。
 非参議二位の中将より、大納言を経ずして大臣関白になり給ふこと、承りおよばず。
 普賢寺殿ふげんじどのの御ことなり。
 されば上卿じやうきやう、宰相さいしやう、大外記だいげきの大夫史たいふさくわんにいたるまで、みなあきれたるさまにぞ見えたりける。
 太政大臣師長もろながは、官をやめて、あづまのかたへ流され給ふ。
 去んぬる保元に、父悪左府大臣殿あくさふおほいどの縁座によて、兄弟四人流罪せられ給ひしに、御兄右大将兼長かねなが、御弟左の中将隆長、範長禅師はんちやうぜんじ、三人は、帰洛を待たずして配所にて失せ給ひぬ。
 これは土佐の畑にて、九かへりの春秋を送りむかへ、長寛ちやうくわん二年八月に召し返されて、本位に復し、次の年正二位して、仁安元年十月に、前の中納言より権大納言にあがり給ふ。
 をりふし大納言あかざりければ、員の外に加はられけり。
 大納言六人になること、これ初めなり。
 また前の中納言より大納言にあがり給ふことも、後山階ごやましなの大納言三守公みもりこう、宇治の大納言隆国のほかは、これ初めとぞ承る。
 管絃くわんげんの道に達し、才芸ざいげいすぐれておはしければ、次第の昇進とどこほらず、太政大臣まできはめさせ給ひて、いかなる罪のむくいにて、かさねて流され給ふらん。
 保元のむかしは南海の土佐へうつされ、治承ぢしようの今は東関とうくわん尾張国をはりのくにとかや。
 もとより「罪なくして配所の月を見む」といふことは、心ある人のねがふことなれば、大臣、あへて事ともし給はず。
 かの唐の太子の賓客ひんかく白楽天はくらくてんは、潯陽じんやうの江の辺ほとりにやすらひ給ひけん、そのいにしへを思ふに、鳴海潟、潮路はるかに遠見し、つねは朗月をのぞみて浦風にうそぶき、琵琶びはを弾じ、和歌を詠じて、なほざりに月日をおくり給ひけり。
 あるとき、当国第三の宮熱田の明神へ参詣あり。
 その夜、神明法楽のために、琵琶びはひき、朗詠し給ふところに、もとより無智のさかひなれば、なさけを知れる者もなし。
 邑老、村女、漁人、野叟やそう、首かうべをうなだれ、耳をそばだつといへども、さらに清濁をわけて、呂律を知れることもなし。
 されども瓠巴琴こはことを弾ぜしかば、魚鱗をどりほとばしる。
 虞公歌をよみしかば、梁塵りやうぢんうごきうごく。
 ものの妙をきはむるときには、自然に感をもよほすことわりなれば、諸人身の毛よだつて、満座奇異の思ひをなす。
 やうやく深更におよんで、
  風香調ふかうでうのうちには、花馥くわふくいみじくして気をふくみ
  流泉曲りうせんきよくのあひだには、月清明のひかりをあらそふ
  願はくは今生世俗せぞくの文字の業をもつて
  狂言きやうげん綺語きぎよの誤あやまりをひるがへす
といふ朗詠の秘曲をひき給へば、神明感応にたへずして、宝殿大きに震動す。
「平家の悪行なかりせば、いかでかこの瑞相をあがむべき」とて、大臣感涙をぞ流されける。
 接察の大納言資賢の卿、子息右馬頭うまのかみを兼ねて讃岐守源の資時、二つの官をとどめらる。
 参議皇太后宮権大夫くわうたいごうぐうのごんのだいぶを兼ねて右兵衛督うひやうゑのかみ藤原の光能みつよし、大蔵卿おほくらのきやう〔右京うきやう〕の大夫だいぶを兼ねて伊予守高階たかしなの泰経やすつね、蔵人の左少弁を兼ねて中宮ちゆうぐうの権大進ごんのだいしん藤原の基親、三官ともにとどめらる。
 接察の大納言資賢の卿の子息右馬頭、孫の右少将雅賢まさかた、「これ三人は、配所を定めず、やがて都のうちを追ひ出ださるべし」とて、三条の大納言実房さねふさ、博士判官はかせのはうぐわん中原なかはらの康定やすさだに仰せて、追ひ出だしたてまつる。
 大納言のたまひけるは、「三界ひろしといへども、五尺の身おき所なし。一生程なしといへども、一日暮らしがたし」とて、夜中に九重のうちをまぎれ出で、八重立つ雲のほかへぞおもむかれける。
 かの大江山、生野の道にかかりつらん、丹波の村雲といふ所にぞしばしやすらひ給ひける。
 それよりつひにたづね出だされて、信濃の国とぞ聞こえし。
 また、前の関白松殿の侍に江の大夫の判官遠業とほなりといふ者あり。
 これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉さゑもんのじよう家業いへなりうち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山いなりやまにうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐ひやうゑのすけ頼朝よりともをたのまばやとは思へども、それも当時は勅勘ちよくかんの人の身にて、身ひとつだにもかなひがたうおはすなり。日本国に平家の荘園しやうゑんならぬところやある。また年来住みなれたるところを人に見せんも恥ぢがましかるべし。六波羅よりも召しつかひあらば、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、瓦坂かはらざかの宿所しゆくしよへとつて返す。
 さるほどに、源大夫判官げんだいふはうぐわん季貞すゑさだ、摂津の判官はうぐわん盛澄もりずみ、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂かはらざかの宿所しゆくしよに押し寄せて、時ときをどつとぞつくりける。
 江の大夫の判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら。六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切つて、父子ともに焔ほのほのなかにて焼け死にぬ。
 そもそも、か様に上下多くほろび損ずることを、いかにといふに、「当時関白にならせ給ひたる二位の中将殿と、前の殿の御子三位の中将殿と、中納言御相論ゆゑ」とぞ聞こえし。
 さらば関白殿御ひとりこそ、いかなる御目にもあはせ給ふべきに、のこり四十余人の人人の、事にあふべしや。
 去年、讃岐の院の御追号あつて崇徳天皇しゆとくてんわうと号し、宇治の悪左府贈官贈位ありしかども、世間なほしづかならず。
「およそこれにもかぎるまじきなり、入道相国の心に天魔入りかはつて、腹をすゑかね給へり」と聞こえしかば、「天下またいかなることか出で来んずらん」とて、上下おそれおののく。
 そのころ、前の左少弁させうべん行隆ゆきたかと申せしは、故中山の中納言顕時の卿の嫡子なり。
 二条の院の御宇には、弁官に加はられてゆゆしかりしかども、この十余年は夏冬の衣がへにもおよばず、朝夕のかしぎも心にまかせず、あるかなきかの体にておはしけるを、入道相国、使者をたてて、「申し合はすべきことあり。きつと立ち寄り給へ」とのたまひつかはされたりければ、行隆、「この十余年は、なにごとにも交はらずありしものを、人の讒言ざんげんしたるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけれども、六波羅より、使しきなみのごとし。
 北の方、君達も「いかなる目にやあはんずらん」とて、なげきかなしみ給ふ。
 されども力およばず、人に車を借つて、西八条へぞ出でられたる。
 思うたには似ず、入道やがて出で向うて対面あり。
「御辺の父の卿は、随分さばかりのこと申し合はせし人なり。そのなごりにておはすれば、御辺をもおろかに思ひたてまつらず。年来籠居のことも、いとほしう思ひたてまつれども、法皇御政務のうへは力およばず。いまは出仕し給へ。さらば、とう帰られよ」とて入り給ひぬ。
 帰られたれば、宿所には女房達、死したる人の生き返りたる心地して、うれし泣きどもせられけり。
 知行し給ふべき荘園状しやうゑんじやうども、あまたなし下し、出仕の料とて、直垂、小袖、雑色、牛飼、牛、車にいたるまで、きよげに沙汰し送られけり。
「まづさこそあるらん」とて、百疋、百両に、米を積みてぞ送られける。
 行隆、手の舞ひ、足の踏みどもおぼえ給はず、「こは夢かや。こは夢かや」とぞよろこばれける。
 同じき十七日、五位の侍中に補せられて、前の左少弁に、しかへり給ふ。
 今年五十一。
 いまさら若やぎ給ひけり。
 ただ片時の栄華とぞ見えし。
 同じき二十日、院の御所法住寺殿ほふぢゆうじどのへは、軍兵ぐんぴやう四面をうちかこむ。
「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。
 法皇も大きにおどろかせおはします。
 前の右大将宗盛の卿、御車を寄せて、「とうとう」と奏せられければ、法皇、「こはされば、なにごとぞや。御とがあるべしともおぼしめさず。成親、俊寛が様に、遠国はるかの島へも移しやられんずるにこそ。主上さればわたらせ給へば、政務に口入するばかりなり。それもさるまじくは、自今以後さらでこそあらん」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらと流いて、「その儀では候はず。『しばらく世をしづめんほど、鳥羽の北殿へ御幸なしまゐらせよ』と、父の禅門申し候」「さらば宗盛、やがて御供に侍へ」と仰せけれども、父の禅門の気色におそれをなして参らず。
「あはれ、これにつけても、兄の内府にはことのほかに劣りたるものかな。ひととせも、かかる目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日まで御心やすうもありつれ。『今はいさむる者もなし』とて、か様にこそあんなれ。行末とてもたのもしからず」とて、御涙せきあへさせ給はず。
 さて御車に召されけり。
 公卿、殿上人、一人も供奉せられず、北面の下臈げらふ、金行こんぎやうと申す力者ばかりぞ参りける。車のしりに尼御前一人参られたり。
 この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり。
 七条を西へ、朱雀しゆじやくを南へ御幸なる。
 あやしのしづの男、しづの女にいたるまで、「あはや、法皇の流されさせおはしますぞや」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。
「去んぬる十一月七日の夜の大地震も、かくあるべかりける先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、堅牢地神けんらうぢじんもおどろきさわぎ給ひけんもことわりかな」とぞ人申しける。
 さて鳥羽殿へ入らせ給ひたりければ、大膳だいぜんの大夫だいぶ信業のぶなりが、なにとしてまぎれ参りたりけん、をりふし御前近う候ひけるを召して、「やや、信業。いかさまにも今夜失はれなんず。御行水おんぎやうずいを召さばや」と仰せられければ、さらぬだに信業、今朝より肝たましひも身にそはず、あきれたるさまにてありけるが、この仰せを承り、かたじけなさに、狩衣に玉だすきあげ、小柴垣こしばがきこぼし、大床の束柱破りなんどして、形のごとくの御湯わかしまゐらせけり。
 故少納言入道信西しんぜいの子息静憲法印じやうけんほふいん、入道相国の西八条へ行き、「法皇の、鳥羽殿へ御幸ならせ給ひて候ふなるに、御前に人一人も候はぬよしうけたまはり候ふが、あまりにあさましく候。なにかくるしう候ふべき。御ゆるされをかうぶりて、参り候はん」と申されたりければ、入道、「御坊は、事あやまりあるまじき人なり。とうとう」とのたまへば、法印なのめならずよろこびて、いそぎ鳥羽殿に参り、門前にて車よりおり、門の中にさし入り見給ふに、をりふし法皇、御経うちあげ、うちあげ、あそばされける御声の、ことにすごうぞ聞こえさせましましける。
 法印、づんと参られたりければ、あそばされける御経に御涙のはらはらとかからせ給ふを、見まゐらせて、法印あまりのかなしさに、旧代きうたいの袖を顔におし当てて、泣く泣く御前へぞ参られける。
 御前には尼御前ばかりぞ侍はれける。
「やや、法印の御坊。君は、昨日法住寺殿にて供御きこしめされてのちは、夕べもきこしめしも入れず、ながき夜すがら御寝もならず、御命もすでにあやふくぞ見えさせましましさぶらへ」と申させ給へば、法印涙をおさへて、「なにごとも限りある御ことにて候へば、平家たのしみ栄えて二十にじふ余年よねん、されども悪行法にすぎて、すでに滅び候ひなんず。天照大神てんせうだいじん、正八幡宮も君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。なかにも、君の御たのみある日吉山王ひよしさんわう七社しちしや、一乗いちじよう守護しゆごの御ちかひあらためずんば、かの法華八軸にたち翔つて、君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。しからば政務は君の御代となり、凶徒は水のあわと消え失せ候ふべし」と申されたりければ、法皇、この言葉に、すこしなぐさませおはします。
 主上は、関白の流され、臣下の多く滅び失せぬることをこそ御歎おんなげきありつるに、あまつさへ「法皇鳥羽殿へ押しこめられさせ給ひぬ」と聞こしめしてのちは、供御もきこしめしも入れず、御悩とて、つねは夜の御殿にのみぞ入らせ給ふ。
 御前に候はせ給ふ女房たち、いかなるべしともおぼえ給はず。
 内裏には「臨時りんじの御神事ごじんじ」とて、主上夜ごとに清涼殿せいりやうでんの石灰の壇にして、伊勢大神宮いせだいじんぐうをぞ御拝ありける。
 これはただ法皇の御祈念のためなり。
 二条の院はさばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、「天子に父母なし」とて、つねは法皇の仰せをも申し返させましましければにや、継体の君にてもましまさず、御年二十三にてかくれさせ給ひぬ。
 御ゆづりを受けさせ給ひたりし六条の院も、安元二年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。
 あさましかりしことどもなり。
「百行はくかうのなかには孝行をもつてさきとす」「明王は孝をもつて天下を治む」と見えたり。
 されば、「唐堯たうげうはおとろへたる母をたつとみ、虞舜はかたくななる父をうやまふ」と見えたり。
 かの賢王聖主の先規を追はせましましける叡慮のほどこそめでたけれ。
 そのころ、ひそかに内裏より鳥羽殿へ御書あり。
「かくあらん世には、雲井にあとをとどめてもなにかせんなれば、寛平くわんぺいのむかしをもとぶらひ、花山のいにしへをもたづねて、山林流浪さんりんるらうの行者ぎやうじやともなりぬべうこそ候へ」とあそばされたりければ、法皇の御返事には、「さなおぼしめされ候ひそ。さてわたらせ給へばこそ、一つのたのみにても候へ。あとなくおぼしめしならせ給はんのちは、〔何の〕たのみか候ふべきか。ただ愚老がともかうもならん様を御覧じはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上、この御返事を龍顔りようがんにおし当てて、御涙せきあへさせ給はず。
「君は舟、臣は水、水よく舟をうかべ、水また舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣また君をくつがへす」。
 保元、平治のころは入道相国君をたもちたてまつるといへども、安元、治承ぢしようの今はまた君をなやましたてまつる。
 史書の文にたがはず。
 大宮の大相国、三条の内大臣、葉室の大納言、中山の中納言も失せられぬ。
 いま古き人とては、成頼、親範ばかりなり。
 この人々も、「かくあらん世には、朝につかへ身を立て、大納言を経てもなにかはせん」とて、いまださかんなりし人々の、出家をし、世をのがれ、民部卿入道親範は大原の奥の霜にともなひ、宰相入道成頼は高野の霧にまじはつて、「一向、後世菩提ごぜぼだいのほかは他事なし」とぞ承る。
 むかしも商山しやうざんの雲にかくれ、潁川えいせんの月に心をすます人もありければ、これ、あに清潔にして世をのがれたるにあらずや。
 なかにも、高野におはしける宰相入道成頼、か様のことどもつたへ聞いて、「〔あはれ〕心強うも世をのがれたるものかな。かくて聞くもおなじことなれども、まのあたりにたちまじはつて見ましかば、いかばかり心憂かるべし。雲をわけてものぼり、山をへだてても入らなばや」とぞのたまひける。
 げにや、心あらんほどの人の、跡をとどむべき世とも見えざりけり。
 同じき二十三日、天台座主覚快法親王しきりに御辞退ありければ、前の座主明雲大僧正、還着げんぢやくし給ふ。
 入道相国、かく散々にしちらされたりけれども、中宮と申すも御むすめにてまします、関白殿も聟むこなり、よろづ心やすうや思はれけん、「政務は一向主上の御ぱからひとあるべし」とて、福原へこそ下られけれ。
 前の右大将宗盛の卿、いそぎ参内あつて、このよしを奏せられたりけれども、主上は、「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただ、とうとう執柄に言ひあはせて、宗盛ともかうもはからへ」とて、聞こしめしも入れざりけり。
 さるほどに、法皇は城南の離宮にして、冬もなかばすごさせ給ヘば、射山の嵐の音のみはげしくて、閑亭の月ぞさやけき。
 庭には雪のみ降りつもれども、跡ふみつくる人もなし。
 池には氷閉ぢかさねて、群れゐし鳥も見えざりけり。
 大寺の鐘のこゑ、入相いりあひの耳をおどろかし、西山の雪の色、香炉峰かうろほうののぞみをもよほす。
 夜の霜にひややかなる砧のひびき、かすかに御枕につたひ、あかつき氷をきしる車の音、はるかに門前によこたはれり。
 ちまたをすぐる行人征馬のいそがはしげなる気色、憂き世をわたるありさまも、おぼしめし知られてあはれなり。
「宮門を守る蛮夷の、夜も昼も警固をつとむるも、前世のいかなるちぎりにて、いま縁をむすぶらん」と仰せなるこそかたじけなき。
 およそ物にふれ、事にしたがつて、御心をいたましめざるといふことなし。
 さるままには、かのをりをりの御遊覧、所所の御参詣、御賀のめでたかりしことどもおぼしめしつづけて、懐旧の御涙おさへがたし。
 年去り年来つて、治承ぢしようも四年になりにけり。

 第四 平家巻 目録

第三十一句 厳島御幸
 安徳天皇御践祚 新院鳥羽殿へ入御の事
 同じく福原別業入御の事 安徳天皇御即位
第三十二句 高倉の宮謀叛
 源氏揃ひ 相少納言占形 新宮十郎蔵人改名令旨
 鳥羽殿鼬怪事の事
第三十三句 信連合戦
 宮の都落 信連小枝持参 信連許さるる事
 信連鎌倉殿より召出ださるる事
第三十四句 競
 木の下鹿毛金焼の事 還城楽の物語の事 頼政の都出で
 南鐐金焼の事
第三十五句 牒 状
 三井寺の大衆宮同心の事 山門に対するの状 南都に対するの状
 興福寺の返牒
第三十六句 三井寺大衆揃ひ
 頼政夜討の下知 一如房が長僉議の事 浄御原の天皇の物語
 函谷関の沙汰
第三十七句 橋合戦
 小枝・蝉折れの沙汰 矢切の但馬のふるまひ
 筒井の浄妙のふるまひ 一来法師の討死
第三十八句 頼政最後
 足利又太郎宇治川下知 頼政辞世 長七唱頼政首かくす事
 嫡子仲綱・次男兼綱・三男仲家その子仲光討死の事
第三十九句 高倉の宮最後
 六条の大夫宗信未練 南都の大衆七千余騎御迎ひに参る事
 首実検 若宮出家
第四十句 鵺ぬえ
 頼政昇殿の歌並びに三位歌 堀河の院の時怪事
 頼長の左府を以て獅子王賜はる事 三井寺炎上

 平家 巻 第四

第三十一句 厳島御幸

 治承四年正月一日、鳥羽殿には、入道相国しやうごくもゆるされず、法皇もおそれさせましましければ、元日、元三のあひだ参入する人もなし。
 故少納言入道の子息、藤原の中納言成範しげのり、その弟おとと左京大夫さきやうのだいぶ脩範ながのり、これ二人ばかりぞゆるされて参られける。
 同じく二十日、東宮御袴着おんはかまぎ、ならびに御魚味初おんまなはじめきこしめすとて、めでたきことどもありしかども、法皇は御耳のよそにぞ聞こしめす 二月二十一日、主上ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつる。
 東宮践祚あり。
 これは、入道相国、よろづ思ふままなるがいたすところなり。
「時よくなりぬ」とてひしめきあへり。
 内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。
 上達部、陣に集まつてふるごとども先例にまかせておこなひしに、弁の内侍、御剣取て歩み出づ。
 清涼殿の西面にて、泰通の中将受け取る。
 備中の内侍、しるしの御箱取り出だす。
 隆房の少将受け取る。
 内侍所、しるしの御箱、「こよひばかりや手をもかけけん」と思ひあへり。
 内侍の心のうちども、「さこそ」とおぼえて、あはれぞ多かりける。
 なかにも、しるしの御箱をば少納言の内侍取り出づべかりしを、こよひこれに手をもかけては、長くあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるを聞いて、その期に辞して取り出ださざりけり。
「年すでにたけたり。ふたたびさかりを期すべきにもあらず」とて人々憎みあへりしに、備中の内侍は生年十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期に、わざとのぞみて取り出だしける、優なりけるありさまなり。
 つたはれる御ものども、品々、つかさづかさ、受け取りてける。
 新帝の皇居、五条の内裏へわたしたてまつる。
 閑院殿には火の影もかすかに、鶏人の声もとどまり、滝口の問籍も絶えにければ、ふるき人々、めでたき祝ひのなかにも涙をながし、心をいたましむ。
 左大臣、陣に出で、御位ゆづりのことども仰せしを聞いて、心ある人々は涙をながし、袖をうるほす。
 われと御位を儲の君にゆづりたてまつれば、「まこやの山のなかにも静かに」などおぼしめす。
 もともとだにもあはれは多きならひぞかし。
 いはんや、これは心ならずおしおろされさせ給ひけんあはれさ、申すもなかなかおろかなり。
 新帝、今年三歳。
「あはれ、いつしかなる位ゆづりかな」と人々申しあはれけり。
 平大納言時忠の卿は、うちの御乳母帥の典侍の夫たるによつて、「『今度の譲位いつしかなり』と、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳、普の穆帝二歳。わが朝には、近衛の院三歳、六条の院二歳、みな襁褓きやうほうのうちにつつまれて、衣帯正しうせざつしかども、『あるいは摂政負うて位につけ、あるいは母君抱いて朝にのぞむ』と見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに践祚ありて天子の位をふむ。先蹤、和漢かくのごとし」と申されけれど、そのときの有職の人々、「あなおそろし。ものな申されそや。さればそれはよき例どもか」とぞつぶやきあはれける。
 東宮、位につかせ給ひしかば、太政入道、夫婦ともに准三后の宣旨をかうむり、年官年爵を賜はつて、上日の者を召し使ひ、絵かき、花つけたる侍ども出で入りければ、院、宮のごとくにてぞありける。
 出家入道ののちも、栄耀なほ尽きせぬとぞ見えし。
 出家の人の准三后の宣旨をかうむることは、法興院の大入道兼家の卿の例とぞ承る。
 同じく三月に、「新院、安芸の厳島へ御幸なるべし」とぞ聞こえさせ給ひける。
 皇帝位去らせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡、賀茂、春日なんどへこそ御幸なるべきに、はるばるの西のはて、島国へわたらせ給ふ神へしも御幸なることは、人、「いかに」と申しあへり。
 ある人申しけるは、「白河の院は熊野へ御幸なる。〔後白河の〕法皇は日吉の社へ御幸なる。すでに知んぬ、叡慮にありといふことを。そのうへ、御心中にふかき御願あり、『御夢想の告げあり』とぞ仰せける。厳島は太政入道あがめたてまつり給へば、上には平家と御同心、下には、法皇のいつとなく鳥羽殿へおしこめられてわたらせ給へば、『入道の心をやはらげ給へ』との御祈念のため」とぞ聞こえし。
 山門の大衆、憤り申しけるは、「賀茂、八幡、春日なんどへ御幸ならずは、わが山の山王へこそ御幸なるべけれ。安芸の厳島までは、いつのならひぞや。その儀ならば神輿を振り下したてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」とぞ申しける。
 これによて、しばらく御延引あり。
 入道相国、様々になだめ給へば、山門の大衆しづまりぬ。
 同じく三月十七日、上皇、厳島の御門出でとて、入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。
 その夜、やがて厳島の御神事はじめらる。
 殿下より、唐の御車、うつしの馬など参らせらる。
 その日の暮れほどに、前の右大将宗盛の卿を召して、「明日、厳島御幸の御ついでに、鳥羽殿へ参りて、法皇の御見参に入らばやとおぼしめすはいかに。
 相国禅門に知らせずしてはあしかりなんや」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらとながして、「なんでう事の候ふべき」と申されたりければ、「さらば、宗盛参りて、その様を申せかし」と仰せければ、宗盛の卿、いそぎ鳥羽殿へ馳せ参りて、このよし申されたりければ、法皇は、あまりにおぼしめす御ことにて、「こは夢やらん」とぞ仰せける。
 あくる十九日、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜ふかう参りて、御幸をもよほされけり。
 この日ごろ聞こえさせ給ひし厳島の御幸をば、西八条の第よりとげさせおはします。
 ころは弥生なかば過ぎぬるに、かすみにくもる有明の月の光もおぼろにて、越路をさしてかへる雁、雲居におとづれてゆくも、をりふしあはれに聞こしめし、夜のほのぼのと明けけるに、上皇、鳥羽殿へ入らせ給ふ。
 門のうちへさし入らせ給へば、人まれにして木暗く、ものさびしげなる御すまひ、まづあはれにぞおぼしめす。
 春すでに暮れなんとす、夏木立にもなりにけり。
 こずゑの花の色おとろへて、谷のうぐひす声老いんだり。
 去年の正月六日、法住寺殿へ朝覲のために行幸なりたるには、諸衛陣をひき、諸卿列に立ち、楽屋に乱声を奏し、院司、公卿参りむかつて、幔門をひらき、掃部頭筵道を敷き、ただしかりし儀式、一つもなし。
 今日はただ夢とのみこそおぼしめせ。
 藤中納言成範しげのり参りて、御気色をうかがひ申されければ、法皇は寝殿の階隠の間に御座ありて、上皇を待ちまゐらせさせ給ひけり。
 上皇は、今年二十にならせおはします。
 明けがたの月の光に映えさせ給ひて、かがやくほどにいつくしうぞ見え給ふ。
 故建春門院にゆゆしく似まゐらせましましければ、法皇、まづ故女院の御ことをおぼしめしいだして、御涙せきあへ給はず。
 御前には、尼御前ばかりぞ侍はれける。
 両院の御座、近くしつらはれたり。
 御問答の御ことは、人承りおよばず。
 はるかに日たけて、上皇、鳥羽殿を出御なる。
 上皇は、法皇の離宮の故亭、幽閑寂□の御座のすまひ、御心ぐるしく御覧じおかせ給へば、法皇はまた、上皇の旅泊行宮の、波の上、船の中の御ありさま、おぼつかなうぞおぼしめす。
 供奉の人々は、前の右大将宗盛、三条の大納言実房、藤大納言実国、五条の大納言邦綱、土御門の宰相中将通親、殿上人には、高倉の中将泰通、左少将隆房、宮内少輔棟範とぞ聞こえし。
 前の右大将宗盛は随兵三十騎召し具し、げうげうしうぞ見えける。
 まことに、宗廟、八幡、賀茂をさしおいて、厳島までの御幸をば、神明もなどか御納受なかるべき。
 御願成就うたがひなしとぞ見えたる。
 同じき二十六日、〔厳島へ〕御参着あつて、太政入道の最愛の内侍が宿所、御所になる。
 なか一日御逗留ありて、経会、舞楽おこなはる。
 導師には、三井寺の公顕僧正とぞ聞こえし。
 高座にのぼり、鉦うち鳴らし、表白の詞にいはく、「まことに九重の内を出でさせ給ひて、八重の潮路をわけて参らせ給ふ御心ざしのかたじけなさよ」と高らかに申されたりければ、君も臣も感涙をぞもよほされける。
 〔大宮、〕客人をはじめまゐらせて、社々、所々へみな御幸なる。
 大宮より五町ばかり山をまはつて、滝の宮へ参らせ給ふ。
 公顕僧正、一首の歌をよみて、拝殿の柱に書きつけられけり。
 雲居よりおちくる滝のしら糸にちぎりをむすぶことぞうれしき
 国司藤原の在綱、品にのぼせられて、加階、従下の四品、院の殿上をゆるさる。
 神主佐伯の景弘加階、従上の五位。
 座主尊永、法印になさる。
 神慮もうごき、太政入道の心もやはらぎぬらんとぞ見えし。
 同じき二十九日、上皇、御船かざりて還御なる。
 風はげしかりければ、御船漕ぎもどし、厳島のうち、有の浦にとどまり給ふ。
 上皇、「大明神の御なごり惜しみに、歌つかまつれ」と仰せければ、隆房の少将、
 たちかへるなごりも有の浦なれば神もめぐみをかくるしらなみ
 夜半ばかりに、波もをさまり、風もしづかになりければ、御船漕ぎ出だし、その日は備後の国敷名の泊に着かせ給ふ。
 このところは、去んぬる応保のころ、一院御幸のとき、国司藤原の為成つくりたる御所のありけるを、入道相国、御まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。
「今日は卯月一日。衣がへといふことのあるぞかし」とて、おのおの都の方思ひやり、遊び給ふに、岸に、色ふかき藤の、松に咲きかかりたりけるを、上皇叡覧ありて、隆季の大納言を召して、「あの花、折りにつかはせ」と仰せければ、左史生中原の康定、はし舟に乗りて御前を漕ぎとほるを召して、折りにつかはす。
 藤の花を手折り、松の枝につけながら持ちて参りたり。
「心ばせあり」など仰せられて御感ありけり。
「この花にて歌つかまつれ」と仰せければ、隆季の大納言、
 千年まで君がよはひに藤波の松の枝にもかかりぬるかな
 その〔の〕ち、御前に人々あまた侍はせ給ひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、「白き衣着たる内侍が、邦綱の卿に心をかけたるな」とて笑はせおはしましければ、大納言、大きにあらがひ申さるるところに、文持ちたる女が参りて、「五条の大納言殿へ」とてさしあげたり。
「さればこそ」とて、満座、興あることに申しあはれけり。
 大納言、これを取りて見給へば、
 しら波のころもの袖をしぼりつつ君ゆゑにこそたちもわすれね
 上皇、「ゆゆしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」とて、やがて御すずりを下させ給ふ。
 大納言、返事には、
 思ひやれ君がおもかげたつ波の寄せくるたびにぬるる袖かな
 それより備後の国児島の泊に着かせ給ふ。
 五日の日は、天晴れ、風しづかに、海上ものどけかりければ、御所の御船をはじめまゐらせて、人々の船どもみな出だしつつ、雲の波、けぶりの波をわけしのがせ給ひて、その日の酉の刻に、播磨の国山田の浦に着かせ給ふ。
 それより御輿にめして、福原へ入らせおはします。
 供奉の人々は、「いま一日も都へとく」と急がれけれども、なか一日新院御逗留あつて、福原のところどころを歴覧ありけり。
 隆季の大納言、勅定をうけたまはつて、入道相国の家の賞おこなはる。
 〔入道〕養子丹波守清邦、正五位の下に叙す。
 同じく入道の孫越前の少将資盛、四位の従上とぞ聞こえし。
 七日、福原を出でさせ給ひ、その日、寺井に着かせ給ふ。
 御むかへの公卿、殿上人、鳥羽の深草へぞ参られける。
 還御のときは鳥羽殿へは御幸もならず。
 入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。
 同じく四月二十二日、新帝御即位あり。
 大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上ののちは、いまだ造り出だされず。
「太政官の庁にておこなはるべし」とさだめられたりけるを、そのときの九条殿申させ給ひけるは、「太政官の庁は、およそ人の家にとらば、公文所体の所なり。大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。
「去んぬる康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にておこなはしことは、主上御邪気によて、大極殿へ行幸かなはざりしゆゑなり。その例いかがあるべからん。ただ延久の佳例にまかせて、太政官の庁にておこなはるべきものを」と人々申しあはれけれども、九条殿の御ぱからひのうへは力およばず。
 中宮、弘徽殿を出でさせ給ひて仁寿殿へうつり、高御座へ参らせ給ふありさま、めでたかりけり。
 平家の人々みな出仕せられたりけれども、小松殿の君達ばかりは、父の大臣去年失せ給ひしあひだ、いまだ色にて籠居せられたり。
 蔵人左衛門権佐定長、今度の御即位、違乱なくめでたき様こまごまと記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へ奉り給ひたりければ、入道も二位殿も、これを見給ひて、笑をふくみてぞよろこび給ひける。
 か様にめでたき事どもは有つしかども、世間はなほしづかならず。 

第三十二句 高倉の宮謀叛

 一院第二の皇子以仁の親王と申すは、御母は加賀の大納言季成の卿の御むすめ。
 三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。
 御歳十五と申せし永万元年十二月十五日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。
 御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず。
 花のもとの春のあそびには、紫毫をふるつて手づから御製を書き、月のまへの秋の宴には、玉笛を吹いてみづから雅音をあやつらせ給ひけり。
 かくて明かし暮らし給ふほどに、治承四年には三十二にぞならせましましける。
 治承四年卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。
「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の御宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず、宮にてわたらせ給ふことをば、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさまを見候ふに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛を起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし。また、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められてわたらせ給ふをも、やすめまゐらせ給へかし。これ御孝行の御いたりにてこそ候はんずれ。神明三宝もなどか御納受なかるべき。君、まことにおぼしめし立つて、令旨を諸国へくださせ給ふものならば、よろこびをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ国々に多く候へ」とて申しつづく。
「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基、出羽の蔵人光長、出羽の判官光重、出羽の冠者光義。熊野には、故六条の判官為義が末の子、十郎義盛とてかくれて候。津の国には、多田の蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親の卿の謀叛のとき、同心しながら返り忠したる不当人で候へば、申すにおよばず。さりながらも、その弟に、多田の次郎朝実、手島の冠者高頼、太田の太郎頼基。河内の国には、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼。大和の国には、宇野の七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。近江の国には、山本、柏木、錦織。美濃、尾張には、山田の次郎重弘、河辺の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、葦敷の次郎重頼、その子太郎重資、同じく三郎重澄、木田の三郎重長、開田の判官代重国、八島の先生重高、その子太郎重行。甲斐の国には、逸見の冠者義清、その子太郎清光、武田の太郎信義、加賀見の次郎遠光、同じく小次郎長清、一条の次郎忠頼、板垣の三郎兼信、逸見の兵衛有義、武田の五郎信光、安田の三郎義定。信濃の国には、大内の太郎維義、岡田の冠者親義、平賀の冠者盛義、その子四郎義信。帯刀先生義賢が次男、木曾の冠者義仲。伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝。常陸の国には、〔為義が三男、〕信太の三郎先生義教。佐竹の冠者昌義、その子太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎隆義、五郎義季。陸奥の国には、故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。これみな六孫王の苗裔、多田の満仲が後胤なり。朝敵をもたひらげ、宿望とげしことは、源平いづれも劣りまさりはなかりしかども、いまは雲泥のまじはりをへだてて、主従の礼にもなほ劣れり。国には国司に従ひ、荘には領家につかはれ、公事雑事にかり立てられて、安き心も候はず、いかばかりか心憂く候ふらん。君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道こそ年寄つて候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。
 宮は、「このこといかがあらん」とて、しばしは御承引もなかりしかども、阿古丸の大納言宗通の卿の孫、備後の前司季通が子、少納言伊長と申せしは、すぐれたる相人なりければ、時の人、「人相少納言」とぞ申しける。
 その人、この宮を見まゐらせて、「位につかせ給ふべき相まします。天下のこと、おぼしめし放させ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「しかるべき天照大神の御告げやらん」とて、ひしひしとおぼしめし立たせ給ひけり。
 熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。
 同じき四月二十八日、都をたつて、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに次第に触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨〔を〕奉る。
「信太の三郎先生義教にとらせん」とて、常陸の国信太浮島へ下る。
「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。
 そのころ、熊野の別当湛増は平家に心ざし深かりけるが、なにとしてか漏れ聞こえたりけん、「新宮の十郎行盛こそ、高倉の宮の令旨賜はつて、美濃、尾張の源氏ども触れもよほし、すでに謀叛おこすなれば、那智、新宮の者どもは源氏の方人をぞせんずらん。湛増〔は〕、平家の御恩天山とかうぶりたれば、いかでか背きたてまつるべし。那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた兜一千人、新宮の湊へ発向す。
 新宮には、鳥居の法眼、高坊の法眼。
 侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲。
 那智に、執行法印以下、都合その勢二千余人なり。
 鬨つくり、矢あはせして、源氏のかたには、とこそ射られ、平家のかたには、かくこそ射られて、矢叫びの声の退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそ戦うたれ。
 熊野の別当湛増、家の子郎等おほく討たれ、わが身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。
 さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。
 同じき五月十二日、午の刻ばかり、御所中に鼬おびたたしう走りさわぐ。
 法皇大きにおどろきおぼしめして、御占形をあそばいて、近江守仲兼、そのころはいまだ蔵人にて侍はれけるを召して、「この占形持ちて、泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せられける。
 仲兼これを賜はつて、陰陽頭泰親がもとへ行く。
 をりふし宿所にはなかりけり。
「白河なるところへ」と言ひければ、それへたづねゆき、勅定のおもむきをしるしければ、泰親、やがて勘状を参らせける。
 仲兼、鳥羽殿へ帰り参りて、門より参らんとすれば、守護の武士ども許さず。
 案内は知りたり、築地を越え、大床の下を経て切板より泰親が勘状をこそ参らせたれ。
 〔法皇〕ひらいて御覧ずるに、「いま三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き」とぞ申しける。
 法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身となりて、またいかなる御嘆きのあらんずらん」とぞ仰せける。
 さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たへふし申されければ、入道相国、やうやうに思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる。
「いま三日がうちの御よろこび」とは、泰親がこれをぞ申しける。

第三十三句 信連合戦

 かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもつて、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国をりふし福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず。高倉の宮からめ取つて、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。
 上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。
 追立の官人には、源大夫判官兼房、出羽の判官光長うけたまはつて、宮の御所へぞむかひける。
 源大夫判官と申すは、三位入道の養子なり。
 しかるを、この人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによてなり。
 三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ。

第三十三句 信連合戦

 宮は五月十五夜の雲間の月を詠ぜさせ給ふところに、「三位入道の使」とて、いそがしげにて消息持ちて参りたり。
 宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。
「君の御謀叛、すでにあらはれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺へ入らせ給へ。入道も子どもひき具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。
 宮は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。
 長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける。
 佐大夫宗信、直垂に玉襷あげて、からかさを持ちて御供つかまつる。
 鶴丸といふ童、袋にもの入れていただきたり。
 青侍の、女を迎へて行く様にもてなしたてまつる。
 高倉の西の小門より出でさせ給ひて、高倉をのぼりに落ちさせ給ふ。
 溝のありけるを、宮のいともの軽く、ざつと越えさせ給ひければ、道ゆき人が立ちとどまつて、「あな、はしたなの女房の溝の越え様や」とて、あやしげに見たてまつりければ、いとどそこを足早に過ぎさせおはします。
 長兵衛は御所の御留守に候ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず御よろこびあり。
「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける。
「やがて御供つかまつれ」と仰せられければ、長兵衛、「もつとも御供こそつかまつりたく候へども、ただいま官人どもが御迎ひに参り候ふなるに、御所中にひと言葉あひしらふ者候はでは、あまりうたてしくおぼえ候。そのものにては候はねども、『あの御所には長兵衛信連が〔侍ふ〕と、見る人知りて〕候ふに、こよひ候はずんば、『それもその夜逃げたり』なんど申されんこと、弓矢取る身のならひは、かりにも名こそ惜しう候へ。ひと言葉あひしらひて、やがて参らん」とて、いとま申して走りかへる。
 三条面の総門をも、高倉面の小門をも、ともに開いてただ一人待つところに、夜半ばかりに、出羽の判官、源大夫判官、都合三百騎ばかりにて押し寄せたり。
 源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかへたり。
 出羽の判官、馬に乗りながら庭にうち入れて、申しけるは、「君の御謀叛すでにあらはれさせ給ひて、官人とにて候ふやらん。当時はこの御所にては候はず」と申せば、出羽の判官、「なんでう、これならでは、いづちへわたらせ給ふべきか。その儀ならば、下部ども、参りて、御所中をさがしたてまつれ」とぞ申しける。
 〔長兵衛、〕「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんぢらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける。
 源大夫これを聞き、をめいて駆け入る。
 下部のなかに金武といふ大力の剛の者あり。
 大長刀の鞘をはづし、信連に目をかけて斬つてあがれば、同類ども十四五人ぞ続いたる。
 信連は狩衣の下に腹巻を着て、衛府の太刀をぞ帯いたりける。
 下部ども斬つてのぼるを見て、信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬つてまはるに、おもてを合はする者ぞなき。
 信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざつとぞおりたりける。
 さみだれのころなれば、ひとむらさめの絶え間の月の出でけるに、敵は不知案内なり、わが身は案内者なれば、ここの面廊に追つかけては、はたと斬り、かしこの詰に追つこめては、ちやうど斬り、斬つてまはれば、「宣旨の御使をば、いかでかかうはするぞ」と申せば、「宣旨とは何ぞ」とて、太刀ゆがめばをどり退いて、踏みなほし、押しなほし、立ちどころに屈強の者十五人ぞ斬りふせたる。
 太刀の切つ先五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。
「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。
 高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ合うたり。
「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ。
 そののち御所中をさがしたてまつれども、宮はわたらせ給はず。
 信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり。
 前の右大将、大床に立つて、「いかに、なんぢらは『宣旨とは何ぞ』とて斬りたりけるぞ。なんぢが宣旨の御使悪口し、庁の下部刃傷殺害、奇怪なり。仔細を召し問ひて、そののち河原へひき出だし、首をはね候へ、人々」とぞのたまひける。
 信連、あざわらひて申しけるは、「さん候。あの御所を、夜な夜な物が襲ひ候ふほどに、門をひらいて待つところに、夜半ばかりに鎧うたる者が二三百騎、庭に群れ入り、ひかへて候ふあひだ、『何者ぞ』と問ひつれば、『宣旨の御使』と申し候ひつるあひだ、強盗などと申し候ふやつばらは、あるいは『君達の入らせ給ふ』あるいは『宣旨の御使ぞ』なんどと申し候ふと、内々うけたまはりおよび候ふほどに、『宣旨とは何ぞ』とて斬つて候。天性、日本国をすでに敵にうけさせ給はんずる宮の御侍として、庁の下部刃傷殺害は、こともおろかに候ふや。鉄よき太刀をだに持ちて候ひしかば、官人どもを安穏にはよも一人も返し候はじ。宮の御在所いづくとも知りたてまつらず。たとひ知りたてまつり候ふとも、侍ほどの者が『申さじ』と思ひきりぬることを、糺問によつて申すべき様や候はん。信連、宮の御ゆゑにかうべをはねられんことは、今生の面目、冥途の思ひ出に候」と申して、そののちはものも言はず。
 平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男の、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり。
 そのうちにある者が申しけるは、「先年、御所の衆につらなつてありし時、大番衆が止めかねたりし強盗六人を、ただ一人して追つかかり、四人は矢庭に斬りふせ、二人生捕にして、そのときなされたる左兵衛尉ぞかし。あれこそ一人当千とも申さんずらん」などと口々に申せば、右大将、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。
 入道も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちには当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆の日野へぞ流されける。
 そののち源氏の世となりて、鎌倉殿より土肥の次郎実平に仰せてたづね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、心ざしのほどをあはれみて、能登の国に御恩ありけるとぞ聞こえし。 

第三十四句 競

 宮は、高倉をのぼりに、近衛河原を東へ、川を渡らせ給ひて、如意山へかからせまします。
 いつならはせ給ふべきなれば、御足かけ損じて腫れたり。
 血あえて、いたはしうぞ見えさせ給ひける。
 知らぬ山路をよもすがら分け過ぎさせ給へば、夏山の茂みがもとの露けさも、さこそ所せばくおぼしめされけん。
 とかうして、あかつきがたに園城寺へこそ入らせ給ひけれ。
「かひなき命の惜しさに、衆徒をたのみ来たれり」と仰せられければ、大衆うけたまはつて、法輪院に御所しつらひて、入れまゐらせけり。
 あくれば十六日、「高倉の宮の、御謀叛おこして失せさせ給ひぬ」と申すほどこそありけれ、都の騒動おびたたし。
 法皇、「『三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き』と、泰親が勘へ申したりしは、これを申しけるにこそ」と、御涙にむせびおはします。
 年ごろ日ごろもあればこそあれ、源三位入道、今年はいかなる心にて、か様に謀叛をば起したりけるぞといふに、前の右大将宗盛、不思議の事し給へり。
 されば、人の世にあればとて、すまじきことをし、言ふまじきことを言ふは、よくよく思慮あるべきことなり。
 たとへば、そのころ、源三位入道の嫡子、伊豆守仲綱がもとに、九重に聞こえたる名馬あり。
 鹿毛なる馬のならびなき逸物なり。
 名をば「木の下」とぞいひける。
 前の右大将、使者を立て給ひて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」とのたまひつかはされたりけれども、「乗り損じ候ふあひだ、このほどいたはらんがために、田舎へつかはして候。やがて召しこそのぼせ候はん」と返事せられたりければ、右大将、「さらば力およばず」とておはしけるところに、平家の侍並みゐたりけるが、ある者が、「あはれ、その馬は一昨日まではありつるものを」と申す。
 またある者が、「昨日も候ひしものを」、「今朝も庭乗り候ひつる」なんどと口々に申せば、右大将、「憎し。さては惜しむごさんなれ。その儀ならば、その馬、責め乞ひに乞へや」とて、侍してはしらせ、文などして、おし返し、おし返し、五六度までこそ乞はれけれ。
 三位入道これを聞きて、伊豆守を呼びて、「たとひ黄金をまろめたる馬なりとも、それほどに人の乞はんに、惜しむ様やあるべき。その馬、すみやかに六波羅へ遣はせ」とありければ、伊豆守、「馬を惜しむにては候はず。権威について責めらるると思へば、本意なう候ふほどにこそ遣はし候はね」とて、やがて木の下を六波羅へ遣はすとて、歌をぞ一首そへられける。
 恋しくば来ても見よかし身にそへるかげをばいかにはなちやるべき
 右大将、歌の返しをばし給はで、この馬を引き廻し、引き廻し、見るべきほど見て、「憎し。さしもにこれをば主が惜しみたる馬ぞかし。やがて主が名乗を金焼にし候へ」とて、「仲綱」といふ焼印をしてぞ置かれける。
 客人来たりて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」と申せば、右大将、「仲綱めがことに候ふや〔らん〕。仲綱め、引き出だせ」「仲綱め、打て」「はれ」なんどぞのたまひける。
 伊豆守これを聞き、「馬をば、いつかは『打つ』とはいへども『はる』といふことを聞くことなし。命にも代へて惜しかりつる馬を、権威について取られつるだにやすからぬに、馬ゆゑ仲綱が、けふあす日本国の笑はれぐさとならんことこそ本意なけれ。『恥を見んよりは死をせよ』と申すことの候ふものを」とのたまへば、父入道これを聞き、「げにも、それほどに人に言はれて、命生きて詮あるまじ。所詮は便宜をうかがふ身にてこそあらめ」とてありしほどに、さすがに私には、え思ひ立たずして、宮をすすめまゐらせたりけるとかや。
 これにつけても、天下の人、小松殿のことをぞ申されける。
 あるとき、小松殿、参内のついでに、中宮の御方へ参り給ひけるに、四五尺あるくちなは、大臣の指貫の左の輪をはひまはりけるを見給ひて、「重盛さわがば、女房たちもさわぎ、また中宮もおどろき給ひなんず」と思ひ給ひて、右の手にてくちなはの頭をおさへ、左の手にて尾をおさへ、殿衣の袖のうちにひき入れて、御前をつい立つて、あゆみ出でられけり。
「六位や候ふ、六位や候ふ」と召されけれども、をりふし人もなかりけり。
 伊豆守、そのとき衛府の蔵人にて侍はれけるが、「仲綱侍ふ」と名のりて参られたりければ、このくちなはを賜ぶ。
 弓場殿を経て、殿上の小庭に出で、御倉の小舎人を召して、「これを賜はれ」とありければ、頭をふつて逃げ去りぬ。
 渡辺の競滝口を召して、これを賜ぶ。
 競賜はつて捨ててけり。
 そのあした、小松殿、よき馬に鞍おいて、太刀一振そへて、仲綱のもとへつかはさるるとて、「昨日のふるまひこそ、ゆゆしく見えられ候ひしが、これは乗一の馬にて候。夜陰におよび、傾城のもとへ通はれんとき用ひらるべし」とて、仲綱へ遣はさる。
 御返事には、六位の使なれば、「御馬かしこまつて賜はり候ひぬ。また昨日のふるまひは、一向、還城楽にこそ似て候ひしが」とぞ申されける。
 いかなれば、兄の小松殿はか様にこそおはするに、弟の宗盛は、人の馬を責め取つて、天下の大事におよびぬるこそあさましけれ。
 同じき十六日夜に入りて、源三位入道、家の子郎等引き具して、都合その勢三百騎、屋形に火をかけて三井寺に馳せ参る。
 渡辺の滝口が宿所は、六波羅の裏の檜垣のうちにてぞありける。
 競が馳せおくれてとどまつて候ふよしを、右大将聞き給ひて、あくる十七日の早朝に使者を立て、召されければ、競、召しによつて参りたり。
 右大将出であひ対面し給ひて、「いかに、なんぢは相伝の主三位入道の供をせずとどまりたる。存ずるむねあるか」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「日ごろはなにごと候はば、まつ先駆けて討死せんとこそ存じ候ひつるに、今度はなにと思はれ候ひけるやらん、つひにかうと知らせられず候。このうへは、あとをたづねて行くべきにても候はねば、かくて候」とぞ申しける。
「年ごろなんぢがこの辺を出で入りするを、『召し使はばや』と常に思ひしに、さらば当家に奉公いたせかし。三位入道の恩にはすこしも劣るまじ」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「たとひ三位入道年来のよしみ候ふとも、朝敵となられたる人に、いかでか同心をばつかまつり候ふべき。今日よりは、当家に奉公つかまつらむ」と申せば、右大将、よにもうれしげにて入り給ひぬ。
 その日は、「競があるか」「侍ふ」、「あるか」「侍ふ」とて、朝より夕べまで伺候す。
 すでに日もやうやう暮れければ、競申しけるは、「宮ならびに三位入道、すでに三井寺にと承り候。さだめて今は討手を向けられ候はんずらん。三井寺法師、渡辺には、そんぢやうそれなんどぞ候ふらめ。競は、撰り討ちなんどつかまつるべう候。乗りて事にあふべき馬の候ひつるを、したしき奴ばらに盗まれて候。御馬一匹、下しあづからばや」と申しければ、右大将、「いかにもして、ありつけばや」と思はれければ、白葦毛なる馬の太くたくましきが、「南鐐」とつけて秘蔵せられたるに、白覆輪の鞍置いて競に賜ぶ。
 この馬を賜はつて宿所にかへり、「はやはや、とくして日の暮れよかし。三井寺へ馳せ参りて、三位入道殿のまつ先駆けて討死せん」とぞ思ひける。
 次第に日も暮れければ、妻子どもしのばせ、わが身は、水に千鳥押したる狂文の狩衣に、菊綴大きにきらやかにしたるを着、重代の着背長、緋縅の鎧着て、いかもの作りの太刀を帯き、大中黒の矢かしら高に負ひなし、塗籠籐の弓のまつ中取り、滝口の骨法わすれずして、的矢一手ぞさしそへたる。
 賜はりたりける南鐐にうち乗りて、乗りがへ一匹具し、舎人の男にも太刀わきばさませて、屋形に火をかけ、三井寺に馳せ参る。
「競が屋形より火出できたれり」と申すほどこそありけれ、六波羅中騒動す。
 右大将、「競はあるか」とたづねられければ、「候はず」とぞ申しける。
「すは、きやつに出しぬかれけるよ。やすからぬものかな」と後悔し給へども、かひぞなき。
 三井寺には、をりふし競が沙汰あつて、「あはれ、競を召し具せらるべきものを、すでに、捨ておかせ給ひて、いかなる目にあひ候ひなんず」と口々に申せば、入道、心をや知り給ひけん、「その者、無体に捕へからめられなんどはよもせじ。いま見よ、参らんずるぞ」とのたまひもはてねば、参りたり。
 入道、「さればこそ」とてよろこばれけり。
 競、かしこまつて申しけるは、「伊豆守の木の下が代りに、右大将殿の南鐐をこそ取つて参りて候へ」と申せば、伊豆守大きによろこびて、この馬を乞ひて、やがて「宗盛」といふ金焼をさして、そのあした六波羅へつかはし、門のうちへぞ追ひ入れたる。
 侍ども、この馬を取つて参りたり。
 右大将、この馬を見給へば、「宗盛」といふ金焼を見給ひて、大きに怒られけり。
「今度三井寺に寄せたらんずるに、余は知らず、あひかまへて、まづ競を生捕にせよ。のこぎりにて首を切らん」とぞのたまひける。 

第三十五句 牒状

 三井寺には、貝鉦をならし、大衆おこつて僉議しけるは、「そもそも、近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、今度にあたれり。いま清盛入道が暴悪をいましめずんば、いづれの日をか期すべき。ここに、宮入御のことは、正八幡大菩薩、新羅大明神の冥助にあらずや。天神地類も影向し、仏慮神慮も降伏をくはへましまさんこと、なじかはなかるべき。そもそも、北嶺は円宗一味の学地なり。南都はまた夏臈得度の戒場なり。牒奏のところになどか与せざるべき」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をつかはす。
 まづ山門への牒状にいはく、園城寺牒す、延暦寺の衙殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅を助けられんと欲するの状。
 右、入道浄海、ほしいままに仏法を失ひ、王法をほろぼさんと欲す。
 愁嘆きはまりなきのあひだ、去んぬる十五日の夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、ひそかに入寺せしむ。
 ここに院宣と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その聞こえありといへども、あへて出だしたてまつるにあたはず。
 当寺の破滅、まさにこの時にあたれり。
 延暦、園城両寺は、門跡二つにあひ分かるといへども、学ぶところはこれ円宗一味の教門なり。
 たとへば鳥の左右のつばさのごとく、または車の両輪に似たり。
 一方欠くるにおいては、いかでかその嘆きなからんや。
 ていれば、殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅をたすけられば、はやく年来の遺恨をわすれ、かさねて住山のむかしに復せん。
 衆議かくのごとし。
 よつて牒件のごとし。
 治承四年五月 日とぞ書かれたる。
 山門には、これを披見して、「こはいかに。当山の末寺として、『鳥の左右のつばさのごとく、車の両輪に似たり』と押して書く条、狼藉なり」とて、返牒を送らずと聞こえし。
 そのうへ、平家、近江米一万石、北国の織延絹三千匹、山の往来に寄せらる。
 これを谷々峰々にひかれけるに、にはかのことではあり、一人してあまた取る大衆もあり、また手をむなしくして一つも取らぬ衆徒もあり。
 何者のしわざにやありけん、落書をぞしたりける。
 山法師織延絹のうすくして恥をばえこそかくさざりけれ
 また、配分にもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
 織延の一きれも得ぬわれらさへうすはぢをかく数に入るかな
 座主同心して、「園城寺一味はしかるべからざる」よし、こしらへ給へば、宮の方へは参らざりける。
 南都の牒状にいはく、園城寺牒す、興福寺の衙殊に合力を豪つて、当寺仏法破滅を助けられんと請ふの状。
 右、仏法殊勝なることは、王法をまぼらんがためなり。
 王法また長久なることは、すなはち仏法によるなり。
 ここに去年よりこのかた、入道前の太政大臣平の清盛、ほしいままに王法をうしなひ、朝政を乱る。
 内外につけ、うらみをなし嘆きをなすのあひだ、去んぬる十五〔日〕の夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。
 ここに「院宣」と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その責めありといへども、衆徒、一向これを惜しみたてまつる。
 よつて、かの禅門、武士を当寺に入れんと欲す。
 仏法といひ、王法といひ、一時にまさに破滅せんとす。
 諸衆なんぞ愁嘆せざらんや。
 むかし唐の会昌天子、軍兵をもつて仏法を滅せんとせしむるのとき、清涼山の衆徒、合戦してこれを防ぐ。
 なんぞいはんや、謀叛八逆のともがらにおいてをや。
 なかんづく南京は、無例無罪、長者を配流せらる。
 今度にあらずんばいづれの日にか会稽をとげんや。
 願はくは、衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪逆のたぐひを退け、ていれば、同心の至り、本懐に足んぬべし。
 よつて牒件のごとし。
 治承四年五月 日とぞ書かれたる。
 南都には、東大、興福両寺の大衆僉議して、やがて返牒をぞ送られける。
 興福寺の牒、園城寺の衙来牒一紙に載せられたり。
 入道浄海がために貴寺の仏法をほろぼさんとするのよしのことを牒す。
 玉泉、玉花両家の宗義を立つるといへども、金章、金句おなじく一代の教文より出づ。
 南京、北京ともに〔もつて〕如来の弟子たり。
 自寺、他寺たがひに調達魔障を伏すべし。
 そもそも、清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。
 祖父正盛、蔵人五位に仕じ、諸国受領の鞭をとる。
 大蔵卿為房、加州の刺史〔の〕いにしへ、検非違使に補せらるるのところに、修理大夫顕季、播磨の太守として、むかし、厩の別当職に任ず。
 しかるに、親父忠盛昇殿をゆるされしとき、都鄙の老少みな蓬壷の瑕瑾をそねむ。
 内外の英豪、おのおの馬台の□文に泣く。
 忠盛、青雲のつばさをかいつくろふといへども、世の民なほ白屋の種をかろんず。
 名を惜しむ青侍は、その家にのぞむことなし。
 しかるに、平治元年十二月、信頼、義朝追討せしとき、太上天皇、一戦の功を感じて、不次の賞を授け給ひしよりこのかた、高く相国にのぼり、かねて兵仗を賜はる。
 男子、あるいは台階をかうむり、羽林につらなる。
 女子、あるいは中宮職にそなはり、あるいは准三后の宣旨をかうぶる。
 群弟庶子みな棘路をあゆむ。
 その孫、その甥、ことごとく竹符を裂く。
 しかのみならず、九州を統領し、百司を進退す。
 みな奴婢僕従となり、一毛も心にたがへば、皇侯といへどもこれをとらへ、片言も耳にさかへば、公卿といへどもこれをからむ。
 ここをもつて、あるいは一旦の身命をのべんがため、あるいは片時の凌辱をのがれんがため、万乗の聖主、なほ面□の媚をなす。
 重代の家君、かへつて七行の礼をいたす。
 代々相伝の家領をうばふといへども、上宰もおそれて舌を巻き、官々相承の荘園を取るといへども、権威にはばかりてものいふことなし。
 勝つに乗るのあまりに、去年の冬十一月、太上皇帝のすまひを追捕し、博陸公の身をおし流したてまつる。
 叛逆のはなはだしきこと、〔まことに〕古今に絶えたり。
 そのときわれら、すべからく賊衆にゆきむかつて、その科を問ふべしといへども、あるいは神慮にはばかり、あるいは皇憲を称するによつて、鬱胸をおさへて、光陰をおくるのあひだ、かさねて軍兵をおこし、一院第二の宮の朱閣を押し囲みたてまつる。
 八幡三所、春日大明神、ひそかに影向をたれ、仙蹕を捧げたてまつり、貴寺におくりつけ、新羅の扉にあづけたてまつる。
 王法尽くべからざるのよし明らけし。
 したがつて、貴寺身命を捨て守護したてまつるの条、含識のたぐひ、たれか随喜せざらん。
 われら遠域にあつて、その情を感ずるのところに、清盛入道、なほ凶器をおこして貴寺に入らんとするのよし、ほのかに〔もつて〕承りおよぶ。
 かねて用意をいたし、十八日辰の一点に大衆をおこして、十九日諸寺牒送、末寺に下知して群衆を得て、のちに案内をのべんと欲するのところに、青鳥飛び来たつて芳翰を通ず。
 数日の鬱念、一時に解散す。
 かの唐家の清涼一山の□□、なほ武宗の官兵をかへす。
 いはんや和国南北両門の衆徒、なんぞ謀臣の邪類を払はざらん。
 よく梁園左右の陣をかためて、よろしくわれら進発の告を待つべし。
 状を察し、疑殆をなすことなかれ。
 もつて牒件のごとし。
 治承四年五月 日とぞ書きたりける。 

第三十六句 三井寺大衆揃ひ

 同じき二十三日の夜に入りて、源三位入道、宮の御前に参り、申しけるは、「山門はかたらひあはれず、南都はいまだ参らず。事のびてはかなふまじ。こよひ六波羅へ押し寄せ、夜討にせんと存ずるなり。その儀ならば、老少千余人はあらんずらん。老僧どもは、如意が峰よりからめ手にまはるべし。若き者ども一二百人は、先立つて白河の在家に火をかけて、下りへ焼きゆかば、京、六波羅のはやりをの者ども、『あはや、事いでくる』とて、馳せ向かはんずらん。そのとき、岩坂、桜本に引つ懸け、引つ懸け、しばしささへて防がんあひだに、若大衆ども、大手より伊豆守大将として六波羅へ押し寄せ、風上より火をかけ、ひと揉み揉うで攻めんずるに、なじかは太政入道、焼き出だして討たざるべき」とぞ申されける。
 さるほどに、やがて大衆おこつて僉議しけり。
 そのうちに、平家の祈りしける一如坊阿闍梨心海といへる老僧あり。
 僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「かう申せばとて、平家の方人するとはおぼしめされ候ふまじ。
 たとひさも候へ、いかでかわが寺の恥をも思ひ、門徒の名をば惜しまでは候ふべき。
 むかしは源平左右にあらそひて、いづれ勝劣なかりしかども、平家世を取つて二十余年、〔天下に〕なびかぬ草木も候はず。
 内々の館のありさまも、小勢にてたやすう落しがたし。
 よくよく〔ほかには〕はかりごとをめぐらし、勢をあつめて寄せ給ふべうや候ふらん」と、時刻をうつさんがために、長々とぞ僉議しける。
 乗円坊の阿闍梨慶秀、節縄目の腹巻を着、頭つつんで、僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「証拠をほかに引くべからず。われらが本願浄御原の天皇、大友の王子におそれさせ給ひて、大和の国吉野山を出でて、当国宇陀の郡を過ぎさせ給ひけるに、その勢わづかに十七騎。されども、伊賀、伊勢に越え、美濃、尾張の勢をもつて、つひに大友の王子をほろぼし、位につき給ひけり。『窮鳥ふところに入れば、人倫これをあはれむ』といふ本文あり。余は知らず、慶秀が門徒においては、こよひ六波羅へ押し寄せて討死せよ」とぞ申しける。
 円満院の大輔源覚が申しけるは、「僉議端多し。夜のふくるに、いそげや、すすめや」とぞ申しける。
 如意が峰よりからめ手にむかふ老僧どもの大将軍には源三位入道。
 乗円坊の阿闍梨慶秀、律静坊の阿闍梨日胤、帥の法印禅智、禅智が弟子に義宝、禅永を先として、ひた兜六百余人ぞ向かひける。
 大手より向かふ若大衆には、円満院の鬼土佐、律静坊の伊賀の公、これ三人は、打ち物取つては鬼にも神にもあふべきといふ一人当千の者どもなり。
 平等院には、因幡の竪者荒大夫、成喜院の荒土佐、角の六郎坊、島の阿闍梨。
 筒井の法師に卿の阿闍梨、悪少納言。
 北の院には、金光院の六天狗、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、備後等なり。
 五智院但馬、水尾の定連、〔四郎坊、〕松井の肥後、大矢の俊長。
 乗円坊の阿闍梨慶秀が坊の人六十人がうち、加賀の光乗、刑部俊秀、法師ばらには一来法師すぐれたる。
 堂衆には、筒井の浄妙明秀、小蔵の尊月、尊永、慈慶、楽住、かなこぶしこんけんの玄永坊。
 武士には、伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条の蔵人仲家、子息蔵人太郎仲光、下河辺の藤三郎清親、渡辺の省播磨の二郎、授薩摩の兵衛尉、長七唱、適の源太、与馬の三郎、競滝口、清、勧を先として、ひた兜一千余人、三井寺をこそうち立ちけれ。
 三井寺には、宮入らせ給ふのちは、大関、小関掘り切つて、逆茂木をひいたりければ、堀に橋を渡し、逆茂木をのけんとしけるほどに、時刻おしうつりて、関路の鶏鳴きあへり。
 円満院大輔源覚が申しけるは、「しばし。むかし秦の昭王のとき、孟嘗君が君のいましめをかうむりて召し籠められたりけるが、はかりごとをもつて逃げのがれけるときに、函谷関にいたりぬ。鶏の鳴かぬかぎりは、この関の戸をひらくことなし。孟嘗君が三千の客のうちに、田客といふ兵あり。鶏の鳴くまねをありがたうしければ、鶏鳴きつづくとぞ言ひける。かれが高きところに登つて、鶏の鳴くまねをしたりければ、関路の鶏鳴きつたへて、みな鳴きぬ。鳥のそら音にばかされて、関の戸あけて通しけり。これも敵のはかりごとにてもやあらんずらん。ただ寄せよ」と申しけれども、五月の短か夜なれば、はやほのぼのとぞ明けにける。
 伊豆守のたまひけるは、「ただいまここにて鶏鳴いては、六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ。夜討こそさりともと思ひつれ、昼軍にはいかにもかなふまじ」とて、搦手は如意が峰より呼び返す。
 大手は松坂よりとつて返す。
 若大衆どもが申しけるは、「これは所詮、一如坊が長僉議にこそ夜は明けたれ。その坊切れや」とて押し寄せて、散々に打ち破る。
 防ぎ戦ふ弟子、同宿、数十人討たれぬ。
 一如坊は、はふはふ六波羅へ参り、このよしをいちいちに訴へ申されけれども、六波羅へ軍兵馳せあつまつて、騒ぐこともなかりけり。 

第三十七句 橋合戦

 宮は、山門、南都をもつてこそ、「さりとも」とおぼしめされつれども、「三井寺ばかりにてはいかにもかなふまじ」とて、同じき二十三日のあかつきに、南都へおもむき給ひけり。
 宮は、「蝉折」「小枝」と聞こえし漢竹の御笛二つ持たせ給ひけり。
 蝉折は、鳥羽院の御時、黄金を千両、宋朝の帝へ奉らせ給ひたりければ、その御返報とおぼしくて、生身の蝉のごとくに節ついたる漢竹の笛竹、一節わたさせ給ふ。
「いかが、これほどの重宝をば左右なく彫るべき」とて、大納言僧正覚宗に仰せて、壇の上にて、七日加持して彫らせ給へる御笛なり。
 おぼろげの御遊びには取りも出だされざりけるを、あるときの御遊びに、高松の中納言実行の卿、御笛を賜はつて吹かれけるが、ただ世のつねの笛の様に思はれて、膝より下に置かれたりければ、笛やとがめたりけん、そのとき蝉折れにけり。
 それ〔より〕してぞ「蝉折」とはつけられける。
 この宮の伝はらせ給ひたりしを、いま〔は御〕心細うやおぼしめされけん、泣く〔泣く〕金堂の弥勒に奉らせ給ひけり。
「龍花の御あかつき、値遇の御ためか」とおぼえて、あはれなりし御ことなり。
 乗円坊の阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがり、宮の御前に参りて申しけるは、「この身はすでに齢八旬にたけて、行歩かなひがたく候へば、いとま申してまかり留まりて候。弟子にて候ふ刑部卿俊秀を参らせ候。かの俊秀と申すは、相模の国の住人、山内の須藤刑部丞義通が子なり。父須藤刑部は、平治の合戦のとき、故左馬頭義朝について、六条河原にて討死つかまつり候ひぬ。いささかゆかり候ふによつて、幼少より跡懐にて生ほしたてて、心の底までも知りて候。これをば、いづくまでも召し具せらるべう候」と申しもあへず、涙にむせびければ、「いつのよしみに、さればかくは申すらん」とて、宮も御涙にむせびおはします。
 しかるべき老僧どもをば留めさせ給へり。
 三位入道の一類、三井寺法師、都合その勢一千余人、醍醐寺にかかつて南都へおもむき給へり。
 さるほどに、宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬あり。
 これは、去んぬる夜、御寝もならざりつるゆゑなりとて、宇治の橋二間ひきはづし、平等院に入らせ給ふ。
 しばし御休息ありけり。
 宇治川に馬ども引きつけ、引きつけ、冷やし、鞍、具足をこしらへなんどしけるほどに、六波羅にはこれを聞きて、「宮は、はや南都へおもむき給ふなり」とて、平家の大勢追つかけたてまつる。
 大将軍には入道の三男左兵衛督知盛、中宮亮通盛、薩摩守忠度。
 侍大将には上総守忠清、太郎判官忠綱、飛騨守景家、飛騨の太郎判官景高、越中の前司盛俊、武蔵の三郎左衛門有国、伊藤、斎藤のしかるべき者ども、「われも」「われも」と進みけり。
 都合その勢二万余騎、木幡山をうち越えて、宇治の橋詰に押し寄す。
「敵、平等院にあり」と見てければ、橋よりこなたにて二万余騎、天もひびき、地も動くほどに、鬨をつくること三箇度なり。
 先陣の「橋を引いたぞ。あやまちすな」と言ひけれども、後陣はこれを聞きつけず、「われ先に」とかかるほどに、先陣二百余騎押し落されて、水におぼれて流されけり。
 宮の御方には、大矢の俊長、渡辺の競が射ける矢ぞ、ものにも強く通りける。
 橋の両方の詰にうち立つて矢合せしけり。
 五智院の但馬は、長刀の鞘をはづし、兜の錣をかたぶけて、橋は引いたり、敵には寄りあひたし、錣をかたぶけて立ちたるところに、平家これを見て、差しつめ、引きつめ、散々に射る。
 但馬は、越ゆる矢をばついくぐり、さがる矢をば躍り越え、むかうて来る矢をば長刀にて切つて落す。
 敵も味方も、「あれを見よ」とて見物す。
 それよりしてぞ、「矢切の但馬」とは申しける。
 堂衆に筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、大中黒の矢負ひ、塗籠藤の弓のまつ中取つて、好む白柄の長刀と取りそへて、橋のうへにぞすすみける。
 大音あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。園城寺にはそのかくれなし。堂衆に筒井の浄妙坊明秀とて、一人当千の兵ぞや。平家の方にわれと思はん人々は、駆け出で給へ。見参せん」と言ふままに、二十五差したる矢を、差しつめ、引きつめ、散々に射けるに、十二人矢庭に射殺し、十二人に手負ほせて、一つは残りて箙にあり。
 弓をうしろへからと投げ捨て、箙も解いて川へ投げ入れ、敵「いかに」と見るところに、貫脱いではだしになり、長刀の鞘をはづいて、橋の行桁をさらさらと走り渡る。
 人は恐れて渡らねども、浄妙坊が心には、一条、二条の大路とこそふるまひけれ。
 長刀にて、むかふ敵五人なぎふせ、六人にあたるところに、〔長刀の〕柄うち折つて捨ててけり。
 そののち、太刀を抜いて斬りけるが、三人斬りふせ、四人にあたる度に、あまりに兜の鉢に強う打ち当て、目貫のもとよりちやうど折れ、川へざぶと入る。
 いまは頼むところなし。
 腰の刀にて、ひとへに「死なむ」とくるひけり。
 乗円坊の阿闍梨の召し使ひける下部のうちに、一来法師とて、生年十七歳になる法師あり。
 浄妙に力をつけんとて、続いて戦ひけるが、橋の行桁はせばし、通るべき様はなし、浄妙が兜の手先に手を置いて、「あしう候、浄妙坊」とて、肩をゆらりと越えてぞ戦ひける。
 一来法師はやがて討死してけり。
 浄妙は、はふはふかへりて、平等院の門前なる芝の上に鎧ぬぎ置いて、矢目を数へければ六十三ところ、裏かく矢目五ところ、されども痛手ならねば、頭をつつみ、弓切り折つて杖について、南都のかたへぞ落ち行きける。 

第三十八句 頼政最後
 源三位入道は、長絹の直垂に、科革縅の鎧着て、「いまを最後」と思はれければ、わざと兜は着給はず。
 嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、「弓をつよく引かん」とて、これも兜は着ざりけり。
 橋の行桁を浄妙が渡るを手本にして、三井寺の悪僧、渡辺の兵ども、走り渡り、走り渡り、戦ひけり。
 ひつ組んで川へ入るもあり。
 討死する者もあり。
 橋の上のいくさ、火の出づるほどこそ見えにけれ。
第三十八句 頼政最後

 先陣は上総守忠清、大将に申されけるは、「橋の上のいくさ、火の出づるほどになりて候。かなふべしともおぼえ候はず。今は川を渡すべきにて候ふが、をりふし五月雨のころにて、水量はるかにまさりて候。渡すほどにては、馬、人、押し流され、失せなんず。淀、一口へや向かひ候ふべき、河内路をやまはり候ふべき」と申せば、下野の国の住人、足利の又太郎すすみ出でて申しけるは、「おおそれある申しごとにて候へども、悪しうも申させ給ふ上総殿かな。目にかくる敵をただいま討ちたてまつらで、南都へ入らせ候ひなば、吉野、十津川とかやの者ども参りて、ただいまも大勢にならせ給はんず。それはなほ御大事にて候ふべし。いくさ延びてよきことは候はぬものを。淀、一口、河内路をば天竺、震旦の武士が参りて向かふべきか。それも、われわれどもこそ向かはんずらめ。武蔵と下野とのさかひに、『坂東太郎』と聞こえし利根川といふ大河あり。故我杉、長井の渡とて、ともに大事の渡なり。秩父と足利と仲をたがひて、つねに合戦をつかまつり候。上野の国の住人、新田の入道かたらはれて、搦手にむかひ候ふ。秩父が方よりみな舟を破られて、新田入道、『人にたのまれながら、舟がなければとて只今ここを渡さずは、われらが長き疵なるべし、水におぼれて死なば死ね。いざ渡らん』とて、馬筏をつくりて、杉の渡をも渡せばこそ渡しけめ。坂東武者のならひとして、川をへだてつる敵を攻むるに、淵、瀬をばきらふ様やある。この川深さ、浅さも、利根川にいかほどの、劣り、まさりはよもあらじ。いざ渡さん」とて、手綱かい繰り、まつ先にこそうち入れけれ。
 同じく轡を並ぶる兵ども、小野寺の禅師太郎、兵庫の七郎太郎、佐貫の四郎太郎広綱、〔大胡、〕小室、深須、山上、那波の太郎。
 郎等に〔金子の〕丹の二郎、弥の六郎、大岡の安五郎、切生の六郎、小深の次郎、田中の宗太を先として、三百余騎ぞうち入れたる。
 足利、大音声をあげて下知しけるは、「強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足のおよばんほどは、手綱をくれてあゆませよ。はづまば手綱かい繰つて泳がせよ。さがらん者をば弓筈にとりつかせよ。肩をならべて渡すべし。馬のかしら沈まば引きあげよ。いたう引いて、引きかづくな。馬には弱く、水には強くあたるべし。敵射るとも、あひ引きすな。つねに錣をかたぶけよ。あまりにかたぶけて、天辺射さすな。かねに渡して、あやまちすな。水にしなひて、渡せや、渡せ」と下知をして、三百余騎を一騎も流さず、むかひの岸にざつと渡す。
 足利は、褐の直垂に、赤革の鎧着て、白月毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたりけり。
 鎧ふんばり、つつ立ちあがつて、鎧の水うちはらひ、まづ名のりけるは、「朝敵将門をほろぼして、勧賞にあづかる俵藤太秀郷が十代、足利の太郎俊綱が嫡男、又太郎。生年十八歳。か様に無官無位なる者の、宮に向かひたてまつりて弓を引くことは、冥加のほど、そのおそれすくなからず候へども、弓も、矢も、冥加のほども、今日みな平家の太政入道殿の御身のうへにこそ候はんずれ。宮の御方にわれと思はん人々は駆け出で給へや。見参せん」と言ひ、平等院の門のまへに押し寄せ、をめいて戦ひけり。
 これを見て、二万余騎うち入れて渡す。
 馬、人にせかれて、さすがに早き宇治川の水は、上へぞたたへたる。
 おのづから、はづるる水は、いづれもたまらず流れけり。
 いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の軍兵六百余騎、馬筏を押し切られ、水におぼれて流れけり。
 萌黄、緋縅、色々の鎧の、浮きぬ、沈みぬ、流れければ、神南備山のもみぢ葉の、峰のあらしにさそはれて、龍田川の秋の暮、堰にかかつて流れもやらぬにことならず。
 いかがしたりけん、緋縅の鎧着たる武者が三人、宇治の網代にかかつて揺られけるを、いかなる人や詠みたりけん、
 伊勢武者はみな緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな
 これは、伊勢の国の住人に、黒田の後平四郎、日野の十郎、鳥羽の源六といふ者なり。
 黒田が弓筈を岩のはざまにねぢ立て、かきあがりつつ、二人をも引きあげ、助けたりけるとかや。
 そののち、大勢川を渡して、平等院の門のうちへ、攻め入り、攻め入り、戦ひけり。
 宮を南都へ先立てまゐらせて、三位入道以下残りとどまつて、ふせぎ矢射けり。
 三位入道、八十になりていくさして、右の膝口射させて、「今はかなはじ」とや思はれけん、「自害せん」とて、平等院の門のうちへ引きしりぞく。
 敵追つかくれば、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、緋縅の鎧着て、白葦毛なる馬に沃懸地の鞍置いて乗りたりけるが、中にへだたり、返しあはせ、返しあはせ、戦ひけり。
 上総守、七百余騎にてとり籠めて戦ひけるに、源大夫判官十七騎にて、をめいて戦ふ。
 上総守が放つ矢に、内兜を射させてひるむところに、上総守が童、三郎丸といふ者、押し並べてむずと組んで落つ。
 判官手負ひたれども、三郎丸を取つて押さへ、首かき切つて立ちあがらんとするところに、平氏の兵ども、「われも」「われも」と落ちかさなつて、判官をつひにそこにて討ちてげり。
 三位入道は、釣殿にて長七唱を召して、「わが首取れ」とのたまへば、唱、涙をながし、「御首、ただいま賜はるべしともおぼえず候。
 御自害だに召され候はば」と申しければ、入道、「げにも」とて、鎧脱ぎ置き、高声に念仏し給ひて、最後の言こそあはれなれ。
 むもれ木の花さくこともなかりしにみのなるはてぞかなしかりける
 と、これを最後のことばにて、太刀のきつ先を腹に突き立て、たふれかかり、つらぬかれてぞ失せ給ふ。
 このとき、歌詠むべうはなかつしかども、「若きよりあながちにもてあそびたる道なれば、最後までもわすれ給はざりけり」とあはれなり。
 首をば、唱泣く泣く掻き落し、直垂の袖に包み、敵陣をのがれつつ、「人にも見せじ」と思ひければ、石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めてけり。
 伊豆守仲綱は、散々に戦ひ、痛手負うて、「今はかう」とや思はれけん、自害してこそ伏しにけれ。
 その首をば、下河辺の藤三郎清親が取つて、本堂の大床の下に投げ入れけり。
 三男六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も一所にて腹かつ切つてぞ伏しにける。
 この六条の蔵人と申すは、六条の判官為義が次男帯刀先生義賢が子なり。
 父義賢は、久寿二年、武蔵の国大倉にて、鎌倉の悪源太義平がために討たれぬ。
 そののちみなし子にてありしを、源三位入道、子にして、蔵人になしたりしほどに、日ごろのちぎりを変ぜず、今はか様に討死しけるとぞ、弓矢取りのならひとはいひながら、あはれなりし事どもなり。
 競滝口をば、平家の兵、「いかにもして生捕にせん」とて、面々に心をかけたりけれども、競も心得て、散々に戦ひ、自害してこそ失せにけれ。
 円満院の大輔は、矢種のあるほど射〔つくし〕て、「今は、宮ははるかに延びさせ給ひぬらん」と思ひければ、大太刀帯き長刀持ちて、敵の陣をうち破り、宇治川へ飛び入り、物の具一つも捨てずして、むかひの岸に泳ぎ着く。
 高き所にのぼりて、「平家の人々、これまでは御大事かな」と呼ばはつて、長刀にてむかひの方を招きつつ、三井寺にむかつてぞ帰りける。 

第三十九句 高倉の宮最後

 飛騨守景家は古き兵にて、「宮をば南都へ先立てまゐらせたるらん」と、いくさをばせで、五百余騎にて南都をさして追ひたてまつる。
 案のごとく、宮は二十四騎にて落ちさせ給ふに、光明山の鳥居のまへにて、〔飛騨守、〕宮に追つつきたてまつり、雨の降る様に射たてまつる。
 いづれが矢とは知らねども、宮の御側腹に矢一つ射立てまゐらする。
 御馬にもたまらせ給はず落ちさせ給ふを、兵ども落ちあひまゐらせて、やがて御首をぞ賜はりける。
 鬼土佐、荒土佐、〔荒〕大夫なんどといふ者ども、そこにてみな討死してんげり。
 御供つかまつるほどの悪僧の、そこにて一人も漏るるはなかりけり。
 宮の御乳母子に六条の佐大夫宗信は、ならびなき臆病者なりけるが、馬は弱し、敵はつづく、せんかたなさに、馬より飛びおり、新羅が池に飛び入りて、目ばかりわづかにさし出だしてふるひゐたれば、しばらくありて、敵、みな首ども取つて帰る。
 その中に、浄衣着たる人の首もなきを、蔀に乗せて舁いて通るを、「たれやらん」と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましましける。
「われ死なば、御棺に入れよ」と仰せられし小枝ときこえし笛も、いまだ御腰にぞさされたる。
「走り出でて、とりつきまゐらせばや」とは思へども、恐ろしければかなはず。
 ただ水の底にてぞ泣きゐたる。
 敵みな過ぎてのち、池よりあがつて、濡れたるものども絞り着て、泣く泣く京へむかひてぞのぼりける。
 南都の大衆、先陣は木津川にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南の大門にぞゆらへたる。
 老少七千余騎、御むかへに参りけるが、「宮ははや光明山の鳥居のまへにて討たれ給ひぬ」と聞こえしかば、大衆ども涙を流してひき返す。
 いま五十町ばかりを待ちつけさせ給はで討たれさせ給へる宮の御運のほどこそうたてけれ。
 平家は、宮ならびに三位入道の一類、三井寺法師、都合其の勢五百余人が首を取つて、夕べにおよんで京へ入る。
 兵ども、ののじり騒ぐことおびたたし。
 三位入道の首をば、長七唱が石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めければ、人見ざりけり。
 子どもの首は、みなたづね出だされけり。
 宮の御首は、宮の御方へつねに参りかよふ人もなければ、見知りまゐらせたる者もなし。
 典薬頭〔定成〕が、ひととせ御療治のために召されたりしかば、「それぞ、見知りまゐらせん」とて、召されけれども、所労とて参らず。
 宮の年ごろ召されける女房一人召し出だされて、たづねられければ、御子を生みまゐらせける女房なれば、なじかは見損じたてまつるべき。
 御首を見まゐらせて、やがて涙にむせびけるにこそ、宮の御首には定まりけれ。
 宮の御額に疵のわたらせ給ひけり。
 これは、ひととせあしき瘡の出で来させ給ひたりしを、典薬頭めでたう療治しまゐらせて、そのときはのがれさせおはせしが、今はあへなく失せさせ給ふぞあさましき。
 宮は、腹々に御子あまたわたらせ給ふ。
 八条の女院に、伊予守盛章がむすめ、三位の局とて候ひける女房の腹にも若君わたらせ給ひけり。
 この宮たちをば、女院、わが子のごとくにおぼしめされて、御ふところにて育てまゐらせ給ひけり。
 高倉の宮の御謀叛おこさせ給ひて失せ給ふと聞こえしかば、女院、「たとひいかなる御大事におよぶとも、この宮たちをば、出だしたてまつるべしともおぼえず」とて、惜しみまゐらせ給ひけり。
 六波羅より、太政入道、他の中納言頼盛をもつて、「この御所に、高倉の宮の若君、姫君わたらせ給ふなる。姫君をば申すにおよばず、若君をば出だしまゐらせ給へ」と申せば、女院の御乳母宰相と申す女房に、中納言あひ具して、つねに参られければ、日ごろはなつかしうこそおぼしめされしに、今かく申して参られたれば、あらぬ人の様にうとましくこそおぼしめせ。
 女院御返事には「さればこそ。かかる聞こえありしあかつき、御乳母なんど、心をさなうも具したてまつりて出でにけるやらん、この御所にはわたらせ給はず」と御返事ありければ、中納言、「さては力におよばず」とてましましけるに、太政入道、重ねてのたまひけるは、「なんでう、その御所ならではいづくにわたらせ給ふべき。その儀ならば、御所中をさがしたてまつれ」とて、使しきなみにありければ、中納言は、すでにはしたなき事がらになり、門に兵を置きなんどして、「御所中をさがしたてまつるべし」と聞こえしかば、「こはいかがすべし」とて、御所中の女房たち、あきれ、騒がしく見えたり。
 若君、生年七歳にならせ給ひけるが、これを聞こしめし、女院の御前に参りて申させ給ひけるは、「今はこれほどの御大事に候へば、力におよばず候。ただとくとく出ださせ給へ」と申させ給へば、女院、「人の七つなんどは、いまだ何事も思はぬほどぞかし。われゆゑ大事出で来たらんことを、かたはらいたさに、かくのたまふいとほしさよ。よしなかりける人を、この六七年手慣れしことよ」とて、御衣の袖をぞしぼらせまします。
 御母三位の局は申すにおよばず、女官ども、局々の女、童部にいたるまでも、涙をながし、袖をしぼらぬはなし。
 御母三位の局、泣く泣く御衣を召させたてまつり、出だしまゐらせ給ふも、ただ「最後の御いでたち」とぞおぼしめされける。
 中納言も、同じく袂をしぼりつつ、御車のしり輪にまゐり、六波羅へわたしたてまつる。
 前の右大将宗盛、この宮を一目見たてまつり、父の入道に申されけるは、「前の世にいかなるちぎりが候ひけん。一目見たてまつりしより、あまりに御いとほしう思ひたてまつり候。この宮の御命には、宗盛かはり候はん」と申されければ、入道、「ものも知らぬ宗盛かな」と、しばしは聞きも入れ給はざりけるが、重ねて再三申されければ、「さらば、とくとく出家せさせたてまつりて、御室へ入れたてまつれ」とぞのたまひける。
 右大将大きによろこびて、女院へこのよし申されければ、女院、御手を合はせてよろこばせまします。
 御母三位の局の御心のうち、いかばかりうれしうおぼしめしけん。
 やがて御出家ありて、釈氏に定まらせ給ふ。
「安井の宮道尊」と申せしは、この宮の御ことなり。
 また、奈良にも一所ましましけり。
 御乳人讃岐の重秀が出家せさせたてまつり、北陸道越中の国へ落ちくだりたりしを、木曾、「主にしたてまつらん」とて、越中の国に御所造りて、もてなしたてまつりけるが、木曾上洛のとき、同じくこの宮も御のぼりありて、還俗ありしかば、「還俗の宮」とも申しけり。
 また「木曾の宮」とも申す。
 のちには、嵯峨の野入にわたらせ給ひしかば、「野入の宮」とぞ申しける。
 むかし、登乗といふ相人あり。
 宇治殿、二条殿をば、「ともに関白の相まします。御歳八十」と申したりしもたがはず。
 帥の内大臣をば「流罪の相まします」と申したりしもたがはず。
 聖徳太子、崇峻天皇を「横死の相まします」と申させ給ひたりしも、馬子の大臣に殺され給ひにき。
 かならず相人ともなけれども、しかるべき人々はかうこそめでたくおはしますに、そもそも相少納言は「めでたき相人」とこそ申せしに、この宮を見損じまゐらせて、失ひたてまつるこそあさましけれ。
 兼明親王、具平親王、「前の中書、後の中書の王」とて、賢王の聖主皇子にてわたらせ給ひしかども、つひに御位にもつかせ給はざれども、いつかは御謀叛おこさせ給ひし。
 また、後三条院の第三の皇子輔仁の親王をば、「東宮の御位ののちは、かならずこの宮をば太子に立てまゐらせ給へ」と仰せおかせられたりしに、東宮御かくれありしかども、白河の院、いかがおぼしめしけん、つひに太子にも立てまゐらせ給はず。
 あまつさへ、この親王の御子を御前にて源氏の姓をさづけたてまつりて、無位より一度に三位に叙して、やがて中将になしたてまつり給ひけり。
 これ花園の左大臣殿の御ことなり。
 一年源氏、無位より三位になることは、嵯峨の天皇の御子、陽成院の大納言定郷のほかは承りおよばず。
 また、高倉の宮討ちたてまつらんとて、調伏の法修せられける高僧たち、勧賞おこなはる。
 前の右大将宗盛の子息、侍従清宗、三位して「三位の侍従」とぞ申しける。
 今年十二歳。
「父の卿もこのよはひにては、わづかに兵衛佐にてこそおはせしに、おそろし、おそろし」とぞ人申しける。
 これは、「源の以仁ならびに頼政法師追討の賞」とぞ聞書にはありける。
「源の以仁とは、高倉の宮を申しけり。まさしく太上法皇の御子を討ちたてまつるのみならず、凡人にさへなしたてまつるぞあさましき。 

第四十句 鵺ぬえ

 そもそも、〔この〕頼政と申すは摂津守頼光が五代の後胤、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なり。
 保元に御方にてまつ先駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。
 平治にまた、親類を捨て、参りたりしかども、恩賞これ疎かなり。
 重代の職なれば、大内の守護うけたまはりて年久しかりしかども、昇殿をば〔いまだ〕ゆるされざりけり。
 年たけ、よはひかたぶいてのち、述懐の和歌一首つかまつりてこそ昇殿をばゆるされたりけれ。
 人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月を見るかな
 とつかまつり、昇殿したりけるとぞ聞こえし。
 四位にてしばらく候ひけるが、つねに三位に心をかけつつ、
 のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな
とつかまつりて三位したりけるとぞ聞こえし。
 すなはち出家し給ひて、今年は七十七にぞなられける。
 この頼政、一期の高名とおぼえしは、近衛の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。
 大法、秘法を修せられけれども、しるしなし。
 人申しけるは、「東三条のもとより黒雲ひとむらたち来たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ」と申す。
「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。
「所詮、源平の兵のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし」とさだめらる。
 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの将軍、前の陸奥守源の義家を召さる。
 〔義家は、〕香色の狩衣に、塗籠藤の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。
 御悩のときにのぞんで、弦がけすること三度、そののち御前のかたをにらまへて、「前の陸奥守、源の義家」と高声に名のりければ、聞く人みな身の毛もよだつて、御悩もおこたらせ給ひけり。
 しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、頼政をえらび申さる。
 そのころ兵庫頭と申しけるが、召されて参られけり。
「わが身、武勇の家に生れて、なみに抜け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛の者をしりぞけ、違勅の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ変化のものをつかまつれとの勅定こそ、しかるべしともおぼえね」とつぶやいてぞ出でにける。
 頼政は、浅葱の狩衣に、滋藤の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、頼みきりたる郎等、遠江の国の住人、猪の早太といふ者に黒母衣の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。
 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ人の言ふにたがはず、東三条の森のかたより、例のひとむら雲出で来たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。
 雲のうちにあやしき、ものの姿あり。
 頼政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無帰命頂礼、八幡大菩薩」と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、ひやうど射る。
 手ごたへして、ふつつと立つ。
 やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。
 早太、つつと寄り、とつて押さへ、五刀こそ刺したりけれ。
 そのとき、上下の人々、手々に火を出だし、これを御覧じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたなり。
 鳴く声は、鵺ぬえにぞ似たりける。
「五海女」といふものなり。
 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御剣を頼政に下し賜はる。
 頼長の左府これを賜はり次いで、頼政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二声、三声おとづれて過ぎけるに、頼長の左府、
 ほととぎす雲居に名をやあぐるらん
 と仰せかけられたりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ、弓わきばさみて、
 弓張り月のいるにまかせて
 とつかまつりて、御剣を賜はつてぞ出でにける。
「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける」と、君も臣も感ぜらる。
 さてこの変化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。
 頼政は、伊豆の国を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狭の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。
 頼政はゆゆしうこそ申したれども、遠国は知らず、近国の源氏だにも馳せ参らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。
 また、去んぬる応保のころ、二条の院御在位のときに、鵺ぬえといふ化鳥禁中に鳴いて、しばしば宸襟を悩ますことありき。
 先例をまかせ、頼政を召されけり。
 ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺ぬえただ一声おとづれて、二声とも鳴かず。
 めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。
 頼政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺ぬえの声しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。
 鏑の音におどろいて、虚空にしばしはひめいたり。
 二の矢を小鏑とつてつがひ、ふつと射切つて、鵺ぬえと鏑とならべてまへにぞ落したる。
 禁中ざざめいて、御感ななめならず、御衣をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、頼政にかづけさせ給ふとて、「むかしの養由は、雲のほかの雁を射にき。
 いまの頼政は、雨のうちに鵺ぬえを射たり」とぞ感ぜられける。
 五月闇名をあらはせるこよひかな
 とおほせられたりければ、頼政、
 たそがれどきも過ぎぬと思ふに
 とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。
 そののち伊豆の国を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。
 日ごろは山門の大衆こそ乱れがはしきことども申せしに、今度は穏便を存じて音もせず。
 南都、三井寺は事を乱し、あるいは宮を扶持したてまつり、あるいは御むかへに参る。
「これ、もつぱら朝敵なり」とて、「奈良をも、三井寺をも攻めらるべし」とぞ聞こえける。
「まづ寺を攻めらるべし」とて、同じく二十六日、蔵人頭重衡、中宮〔亮〕通盛、その勢三千余騎、園城寺へ発向す。
 寺も思ひきりしかば、逆茂木ひき、戦ひけり。
 大衆以下法師ばら三百人ぞほろびける。
 その官軍、寺中に攻め入りて火をかけければ、焼くるところは、本覚院、常喜院、真如院、花園院、大宝院、青龍院、鶏足院、普賢堂、八間四面の大講堂、教待和尚の本坊ならびに本尊等、護法善神の社壇、二階楼門、経蔵、灌頂堂。
 すべて堂舎、塔廟六百三十七宇、大津の在家千五百余地、焼きはらふ。
 わづかに金堂ばかりぞ残りける。
 大師の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体も灰燼となるこそかなしけれ。
 法文聖教の焼けけぶりは、大梵天王のまなこもたちまちにくれ、諸天微妙のたのしみもながくほろび、龍神三熱の苦しみも、炎にむせんでいよいよまさるらんとぞおぼえたる。
 それ三井寺は、「近江の擬大領がわたくしの寺たりしを、天智天皇に寄せたてまつりて、御願所となす。もとの仏もかの帝の御本尊。しかるを生身の弥勤と聞こえ給ひし教待和尚、百六十年おこなひて、大師に付嘱し給ひき。覩史多天王、摩尼宝殿よりあまくだつて、はるかに龍花下生のあかつきを待たせ給ふ」と聞こえつるに、こはいかにしつることぞや。
 天智、天武、持統、これ三代の皇帝の御宇、産湯の水を召されたりしによつてこそ、「三井寺」とは名づけけれ。
 かかる聖跡なれども、いまはなにならず。
 顕密、須臾にほろびて、伽藍さらに跡なし。
 三密の道場もなければ、鈴のこゑも聞こえず。
 一夏の仏膳もなければ、閼伽の音もせざりけり。
 宿老、碩徳の明師はおこなひにおこたり、受法相承の弟子は、また経教にわかれたり。
 寺の長吏八条の宮、天王寺の別当をとどめられさせ給ふ。
 僧綱十余人、解官せらる。
 悪僧には、筒井の浄妙坊明秀にいたるまで三十余人ぞ流されける。

続く

栞 巻一、二 三、四 五、六 七、八 九、十 十一 十二 書架