第十二 平家へいけ巻くわん
第百十一句 大臣殿おほいとの最期さいご
大臣殿父子関東下向 関東たたるる事
上人の説法 右衛門督最後
元暦げんりやく二年にねん五月ごぐわつ七日の卯刻うのこく、九郎くらう大夫たいふ判官はうぐわん、大臣殿おほいとの父子ふし具ぐし奉たてまつり、関東くわんとうへぞ下くだられける。
判官はうぐわん情なさけ深き人にて、道みちの程ほど様々さまざまにいたはり慰なぐさめ奉たてまつり給たまひけり。
大臣殿おほいとの、哀あはれ宗盛むねもり親子おやこが命いのちを申し宥なだめさせ給へかしと宣のたまへば、判官はうぐわん、今度こんど義経よしつねが勲功くんこうの賞しやうには、ひたすら御二所おんふたどころの御命おんいのちを申し宥なだめばやとこそ存じ候さうらへ。
よも失うしなひ奉たてまつるまでの事は候さうらはじ。
いかさまにも奥の方へなんどぞ下くだし参まゐらせ候さうらはんずらんと申されければ、大臣殿おほいとの、「東あづまの奥、遠国をんごくの下ほか、夷えびすが住むなる蝦夷えぞが千島ちしまなりとも、」と宣のたまひけるぞいとほしき。
昔むかしは名のみ聞きし海道かいだうの宿々しゆくじゆく、名所めいしよ名所めいしよ見給たまひて、日数ひかず経ふれば、駿河国するがのくに浮島うきしまが原はらにぞかかり給たまふ。
是これは浮島うきしまが原はらと申しければ、大臣殿おほいとの、塩路しほぢよりたえぬ思ひを駿河なる名は浮島に身をば富士のね右衛門督ゑもんのかみ、我なれや思ひにもゆる富士のねのむなしき空の煙けぶりばかりはさる程ほどに人々鎌倉かまくらへ入り給たまふ。
判官はうぐわん、いかばかりか二位殿にゐどの合戦かつせんの様やうをも尋ね給はんずらんと思おもひまうけて下くだられたりけるに、源二位殿げんにゐどの当時たうじいたはりける事有りとて、対面たいめんもし給はず。
判官はうぐわん、さこそ恨うらめしく思おもはれけめ。
梶原かぢはら平三へいざう景時かげときに仰せて、大臣殿おほいとの父子ふしをば源二位げんにゐのおはしける所ところより、庭にはを一ひとつへだてて、対たいの屋に置き奉たてまつり、比企ひきの藤四郎とうしらう能員よしかずをもつて申されけるは、まつたく頼朝よりとも平家に意趣いしゆを思おもひ奉たてまつらず、池いけの禅尼ぜんにいかに申され候さうらふとも、故こ太政だいじやう入道にふだう殿どの御許し候さうらはずは、頼朝よりともいかでか命いのち生きて、廿四年の春秋はるあきをば送り候さうらふべき。
されども悪行あくぎやう法ほふに過ぎ、天てんの責せめのがれがたうして、攻め奉たてまつれとの詔命ぜうめいを蒙かうぶる上うへは、子細しさい申すに所ところなし。
か様やうに又見参げんざんつかまつるこそ、誠まことに本位ほんいにては候さうらへと申すべしとてやられければ、藤四郎とうしらう能員よしかず参まゐりて、此のよし申さんとすれば、大臣殿おほいとの居直ゐなほりて、かしこまつて聞きかれけるこそ口惜くちをしけれ。
国々くにぐにの大名だいみやう小名せうみやう並なみゐたり。
その中に平家の重代ぢゆうだい相伝さうでんの家人けにんども多おほかりけるが、是これを見て、あの心にてこそ西海さいかいの波なみの底そこにも沈しづみ給たまふべき人の、命いのち生きて是これまで下くだり給へ。
今いま居直ゐなほり、かしこまつてましまさば、命いのち生き給たまふべきかとてにくみあへり。
又ある者が申しけるは、猛虎まうこ深山しんざんに有る時ときは、百獣はくじう恐おそれ、恐おそる、檻井かんせいに有るに及およんでは、尾をを動うごかして食しよくを求もとむと言ふ本文ほんもん有り。
さればいかに猛たけき将軍しやうぐんなれども、か様やうになりぬれば、心かはる習ならひ有り。
されば大臣殿おほいとのわるびれ給たまふも理ことわりなりと申してこそ、恥はぢをば少し助けけれ。
同おなじく六月ろくぐわつ九日九郎くらう判官はうぐわん大臣殿おほいとの父子ふしを受け取り、都みやこへ帰かへり上のぼられけり。
大臣殿おほいとのは、是これにて既すでにいかにもならんずるかと思おもうたれば、再び都みやこへ立ち帰かへる事の嬉うれしさよとぞよろこばれける。
右衛門督ゑもんのかみ、若わかうおはしけれども心得給たまひて、何なにか嬉うれしう候さうらふべき。
都にて斬りて渡さんずる料れうにて候さうらふらんとて、帰かへり上のぼる事を恨うらめしげにぞ宣のたまひける。
国々くにぐに宿々しゆくじゆくを過ぎゆくに、ここにてもやここにてもやと思おもはれけれ共ども、尾張国をはりのくに野間のまと言ふ所にぞ着き給たまふ。
大臣殿おほいとの、是これは故こ左馬頭さまのかみ義朝よしともが首かうべを刎はねたる所ところなり。
その墓はかの前まへにてぞ一定いちぢやう斬られんずらむ、大臣殿おほいとのも右衛門督ゑもんのかみも思おもはれける所ところに、判官はうぐわん大臣殿おほいとの父子ふしを具ぐし奉たてまつて、父ちちの墓はかの前まへにて三度さんど伏し拝み、草くさの陰にても、亡魂ばうこん尊霊そんりやう必かならず是これを見給ひて、御心をやすめ給へとぞ申されける。
され共どもそこにても斬られず。
大臣殿おほいとの、今いまはかひなき命いのちばかりは助からんずるぞと宣のたまへば、右衛門督ゑもんのかみ、などか助かり候さうらふべき。
当時たうじは暑きころなれば、首の損ぜん様やうをはかりて、都みやこ近くなりて斬り候さうらはんずらめとて、ひまなく念仏ねんぶつをぞ申されける。
大臣殿おほいとのをばすすめ奉たてまつり給たまひけり。
日数ひかず経ふれば六月ろくぐわつ廿日はつかには、近江あふみの国篠原しのはらの宿しゆくにぞ着き給たまふ。
あくる日廿一日の朝あしたより、大臣殿おほいとのをも右衛門督ゑもんのかみをも引ひき分けて、所々ところどころに置き奉たてまつる。
さてこそ親子おやこの人、既すでに今日けふを限りにて有りけるよと、互たがひに思おもひあはれけり。
出家しゆつけは許されねば力ちからに及およばず。
判官はうぐわん三日路より人を先立さきだてて、大原おほはらの本性房ほんしやうばう湛豪たんがうと言ふ聖ひじりを、大臣殿おほいとのの善知識ぜんぢしきとす。
近江あふみの篠原しのはらに請しやうじ下くだし奉たてまつり給たまひけり。
既すでに斬り奉たてまつらんとするに、大臣殿おほいとの、右衛門督ゑもんのかみはいづくにあるやらん、十七年じふしちねんが間あひだ、一日いちにち片時へんしもたち離れず。
水みづの底そこにも沈しづまずして、憂き名を流すもただ彼が故ゆゑなり。
死なば一所いつしよにてとこそ思おもひしに、生きながら別わかれぬる事の悲かなしさよと泣かれければ、善知識ぜんぢしきの上人しやうにん、さなおぼしめされ給たまひそ。
最期さいごの御有様おんありさまは御覧ごらんぜんについても、互たがひに御心にかかるべし。
此の世は生者しやうじや必滅ひつめつの国なれば、生むまるる者は必かならず死す。
会ふ者は定まつて離るる習ならひ有り。
釈尊しやくそんいまだ栴檀せんだんの煙けぶりをまぬかれ給はず。
いはんや凡夫ぼんぶにおいてをや。
生しやうを受けさせ給たまひてよりこのかた、楽たのしみ栄えて昔むかしも今いまも類たぐひなし。
御門みかどの御外戚おんげしやくにて、丞相しようじやうの位くらゐに至いたり、今生こんじやうの栄花えいぐわ残る所なし。
今いまかかる御目に合はせ給たまふも、ただ前世ぜんぜの御宿業ごしゆくごふなり。
世をも人をも恨うらみおぼしめすべからず。
楽たのしみ尽きて悲かなしみ来たる。
天人猶なほ五衰ごすいの日にあへりとこそ申し候さうらへ。
今年こんねん三十九にならせおはしませば、三十九年さんじふくねんを過ぎ給たまひけるも、おぼしめしつづけて御覧ごらん候さうらへ。
ただ一夜の夢ゆめのごとし。
この後のち七八十を過ごさせ給たまふとも、思おもへば程ほどや候さうらふべき。
秦しんの始皇しくわう、奢おごりをきはめしも、遂つひに驪山りさんの塚に埋うづもれ、漢の武帝ぶていの命いのちを惜しみ給たまひしも、むなしく杜陵とりようの苔こけに朽ちにき。
楽たのしみは必かならず悲かなしみのもとゐなれば、生しやうは又死の因なり。
されば仏ほとけは、我心自空がしんじくう、罪福無主ざいふくむしゆ、観心無心くわんじんむしん、法ほふ無住むぢゆう法ほふと説かれたり。
善も悪もただ空くうなりと観くわんじつるが、まさしく仏ほとけの御心にはあひかなふ事にて候さうらふなるぞ。
いかなれば、弥陀如来みだによらいは五劫ごこふが間思惟しゆいして、おこしがたき願ぐわんをおこしましまし、我等われらを引摂いんぜふし給たまふに、いかなる我等われらなれば、億々万おくおくまん劫ごふが間、生死しやうじに輪廻りんゑして、宝たからの山に入りて手を空むなしくせむ事は、恨うらみの中の恨うらみ、愚ぐなるうちの口惜くちをしき事に候さうらはずや。
ゆめゆめ余念よねんをおこさせ給たまふなとて、戒かいを授さづけ奉たてまつり、しきりに念仏ねんぶつをすすめ申さる。
大臣殿おほいとのたちまちに妄念まうねんをひるがへして、西方さいはうに向かい、高声かうじやうに、念仏ねんぶつとなへ給たまふ所ところに、橘たちばなの右馬允うまのじよう公長きみながと言ふ者、太刀たちを抜きてうしろへまはるを見給たまひて、念仏ねんぶつをとどめて、右衛門督ゑもんのかみも今いまは既すでにかうかと宣のたまひも果てざるに、大臣殿おほいとのの御首は前まへにぞ落ちにける。
是これを見て、善知識ぜんぢしきの上人しやうにんも、公長きみながも、涙なみだせきあへず。
いはんや此の公長きみながは、平家の重代ぢゆうだい相伝さうでんの家人けにんなり。
なかにも新中納言しんぢゆうなごん知盛とももりの卿きやうのもとに、朝夕あさゆふ祗侯しこうの侍さぶらひなりしが、世にあらんとて東国へ下くだり、源氏げんじにつきて、一家の主しゆうの首を斬るこそ口惜くちをしけれ。
その後のち善知識ぜんぢしきの上人しやうにん、右衛門督ゑもんのかみ殿へ参まゐりて、先さきのごとく、戒かいを授さづけ奉たてまつり、念仏ねんぶつすすめ申さる。
右衛門督ゑもんのかみ念仏ねんぶつをとなへ給たまふが、そもそも大臣殿おほいとのの最期さいごの御有様おんありさまはいかにおはしけるやらんと宣のたまへば、善知識ぜんぢしきの上人しやうにん、よに目出めでたくこそ渡らせ給たまひつれと宣のたまへば、なのめならずよろこびて、さらばとく斬れとて、首をのべてぞ斬らせられける。
首は判官はうぐわん持たせて都みやこへ入る。
むくろは善知識ぜんぢしきの聖ひじりの沙汰さたにて、皆みな孝養けうやうしてんげり。
同おなじく廿三日、検非違使けんびゐしども、三条河原さんでうかはらに行き向かつて、大臣殿おほいとのの父子ふしの首を受け取り、三条さんでうを西へ、東ひがしの洞院とうゐんを北へ渡して、獄門ごくもんにぞかけられける。
法皇ほふわうも東ひがしの洞院とうゐんに御車おんくるまを立て、叡覧えいらんある。
さしも御いとほしみ深かりし近臣きんしんにておはせしかば、法皇ほふわうもさすがに哀あはれにおぼしめして、御涙おんなみだせきあへさせ給はず。
三位さんみ以上の人の、首を獄門ごくもんにかけらるる事は、異国いこくにはその例ためしもやあるらん、本朝ほんてうにはいまだ先蹤せんじようを聞きかず。
されば悪右衛門督あくゑもんのかみ信頼のぶよりは希代きたいの朝敵てうてきなりしかば、首かうべを刎ねられたりけれども、遂つひに獄門ごくもんにはかけられず。
今いま平家にとつてぞかくは有りける。
西国さいこくより帰かへりては生きて六条ろくでうを東ひがしへ渡され、東国とうごくより上のぼりては、死して三条さんでうを西へ渡され給たまふ。
生きての恥はぢ、死しての恥はぢ、いづれかさて劣るべき。
第百十二句 重衡しげひら最期さいご
垂衡南都へ渡さるる事 阿弥陀供養 北の方参会
同じく離別の事
本三位ほんざんみの中将ちゆうじやう重衡しげひらは、狩野介かののすけに預あづけられて、去年きよねんより伊豆いづの国におはしけるが、鎌倉殿かまくらどの、南都なんとの大衆だいしゆ、此の人をば定さだめて見たかるらん。
此の次つぎに渡すべし。
源三位げんざんみ入道にふだう頼政よりまさの孫まご、伊豆いづの蔵人くらんどの大夫たいふ頼兼よりかねに仰せて、南都なんとへぞ渡されける。
都みやこへは入れられず。
山科より醍醐路だいごぢへぞ渡されける。
三位さんみの中将ちゆうじやう、守護しゆごの武士ぶしに向かつて宣のたまひけるは、我われ一人の子なければ、此の世に思おもひ置く事も無きが、年来としごろあひ慣れたりし女房にようばうの、日野ひのと言ふ所ところに有りと聞く。
うち過ぐる様やうにて、立ち寄りて互たがひに姿すがたを今いま一度いちど見もし見えもせばやと思ふはいかに、此の事が心にかかりて、冥途めいどもやすく行くべしとも覚えずと宣のたまへば、守護しゆごの武士ぶし、やすき御事にて候さうらふとて、日野ひのにて、太夫の三位さんみの宿所しゆくしよを尋ねて、大納言だいなごんの典侍殿すけどのの御渡り候さうらふやらん。
本三位ほんざんみの中将殿ちゆうじやうどのの只今ただいま奈良ならへ御通り候さうらふが、此のつまにて立ちながら今いま一度いちど見参まゐらせんと候さうらふと言はせければ、北方きたのかた聞きもあへ給はず、いとほしやいとほしやとて、走り出で給たまひたれば、藍摺あゐずりの直垂ひたたれ着たる男をとこの、痩せくろみたるが、縁えんに寄りゐたるぞそれなりける。
北方きたのかた、いかにや夢ゆめかうつつか、是これへ入らせ給へと宣のたまひもあへず、御簾みすのうちに倒れ伏してぞ泣かれける。
三位さんみの中将ちゆうじやう、御簾みすうちかついで入り給たまひたれ共ども、互たがひに涙なみだにむせて、しばしは宣のたまひ出いだす事もなし。
やや有りて、三位さんみの中将ちゆうじやう涙なみだ押しのごひて、重衡しげひら去年こぞ一谷いちのたににて何にもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、生捕いけどりにせられて、京鎌倉かまくら引ひきしろはれて、恥はぢをさらし、遂つひには奈良ならを滅ほろぼしたりし、伽藍がらんの敵かたきなりとて、既すでに渡され候さうらふぞや。
今いま一度いちど見奉たてまつり候さうらはばやと思おもふほかは、今生こんじやうに取り止とどむる事なし。
か様やうに見奉たてまつれば、死出しでの山をもやすく越えなんと思おもふ事こそ嬉しけれ。
人にすぐれて罪深うこそあらんずらめども、此の世には後世ごせとぶらふべき者も覚えず、いかなる有様ありさまにておはすとも、忘わすれ給たまふなよ。
出家しゆつけをもして、髪をも形見かたみに奉たてまつらばやとは思おもへども、それも許されぬぞとて泣き給へば、北方きたのかた、軍いくさは常の事なれば、必かならず去年こぞの二月にぐわつ七日を限りとも知らずして、別わかれ奉たてまつりしかば、越前ゑちぜんの三位さんみの上うへの様やうに、水みづの底そこにもと思おもひしかども、先帝せんていの御事が心苦こころぐるしかりし上うへ、まさしく此の世におはせぬとも聞きかざりしかば、今いま一度いちど見奉たてまつる事もやと、今日けふまでは有りつるに、既すでに限りにておはすらん事の悲かなしさよ。
もしやと思おもふ頼たのみも有りつるものをとて、泣き給へば、三位さんみの中将、昔むかしの姿すがたを変へずして、互たがひに見奉たてまつりし事こそ嬉しけれ。
慰なぐさむ事は、夜を重かさね、日を送おくるとも尽くすべからず。
奈良ならへも遠く候さうらふ。
武士ぶし共どもの待つらんも心なし。
暇いとま申さんとて出で給へば、北方きたのかた、泣々なくなく袖そでに取り付きて、しばらく申すべき事有りとて、袷あはせの小袖こそでに新しき浄衣じやうえを取り添へて、御姿おんすがたのいたくしをれて見えさせ給たまふに、是これを召せとて、着せ奉たてまつり給へば、三位さんみの中将ちゆうじやう、是これを着かへて、もと着給たまひたるは形見かたみに御覧ごらんぜよとて置かれけり。
北方きたのかた、それもさる事にて候さうらへ共ども、はかなき筆ふでの跡あとこそ、朽ちぬ形見かたみにては候さうらへと宣のたまへば、御硯おんすずり召し寄せて、一首いつしゆの歌うたをぞ書かれける。
せきあへぬ涙なみだのかかる唐衣からごろも後のちの形見かたみに脱ぎぞかへぬる
北方きたのかたの返歌へんかに、
脱ぎかふる衣ころもも今いまは何なにかせん今日けふを限りの形見かたみと思おもへば
三位さんみの中将ちゆうじやう、契ちぎりあらば、後のちの世にては生むまれあひ奉たてまつらん、一ひとつ蓮はちすにと祈いのらせ給へと、涙なみだおさへて出で給たまふ。
北方きたのかた、走りもついておはしぬべくはおぼしめされけれども、それもさすがなれば、御簾みすのうちに倒れ伏してぞ泣かれける。
その声こゑ庭にはまで聞こえければ、三位さんみの中将ちゆうじやう、先さきへと急ぐよしにておはしけれども、馬むまをもすすめ給はず、泣かれけるこそ哀あはれなれ。
南都なんとの大衆だいしゆ、三位さんみの中将ちゆうじやうを受け取りて、東大興福こうぶく両寺りやうじの大垣おほがき引ひきまはし僉議せんぎしけるは、そもそも此の重衡しげひらの卿きやうは、重犯ぢゆうぼんの悪人たる上うへ、三千さんぜん五刑ごけいのうちにも漏れ、修因しゆういん感果かんくわの道理の極きはまりをなせり。
掘頸ほりくびにやすべき、鋸のこぎりにてや切るべきとぞ申しあへる。
老僧らうそう共申しけるは、ただし伽藍がらんを破滅せし時とき、やがて生捕いけどりにもしたらば、もつともさこそすべけれ共ども、遥はるかに年月としつきを経へ、武士ぶしの手より渡したるを、さ様やうにせんには、僧徒そうとの法ほふに穏便をんびんならず。
ただ守護しゆごの武士ぶしに返して、木津川こつがはの辺にて斬るべしとて、又武士ぶしの手へぞ渡しける。
八条はつでうの女院にようゐんに、木工允もくのじよう政時まさときと申すは、三位さんみの中将ちゆうじやうのもと召し使はれし侍さぶらひなり。
是これを聞き、最期さいごの有様ありさま今いま一度いちど見奉たてまつらんとて、鞭むちをあげて馳せてゆく。
只今ただいますでに斬り奉たてまつらむとする所ところに、馳せ着いて、馬むまより飛んでおり、人の中を押しわけ押しわけ参まゐりけり。
三位さんみの中将ちゆうじやう、是これを見て、いかに政時まさときか。
さん候ざうらふ。
重衡しげひら只今ただいま最期さいごにてあるぞ。
いかにしても今いま一度いちど仏ほとけを拝し奉たてまつり、斬らればやと思おもふはいかがすべきと宣のたまへば、やすき御事にて候さうらふとて、守護しゆごの武士ぶしに、しばらく候さうらへと申し述べて、走りまはり、仏ほとけを尋ね奉たてまつる。
或る古堂ふるだうより仏ほとけを一体迎ひ奉たてまつり、出で来たる。
さいはひに阿弥陀あみだにてましましけり。
河原かはらの砂いさごに据すゑ奉たてまつり、政時まさときが狩衣かりぎぬの左右さうの袖そでのくくりを解きて、仏ほとけの御手にかけ奉たてまつり、五色ごしきの糸と観くわんじて、三位さんみの中将ちゆうじやうに控へさせ奉たてまつる。
三位さんみの中将ちゆうじやう、仏ほとけを拝し奉たてまつり、申されけるは、我われ不慮ふりよに伽藍がらん焼滅の余殃よあうにまとはる。
ただし達多だつたが逆心ぎやくしん有りしも、天王てんわう如来によらいの記別きべつに預あづかる。
閻王えんわうが悪逆あくぎやくもすなはち善根ぜんごんの身を得る。
願はくは悪業あくごふをひるがへし、安養あんやう浄土じやうどへ引導いんだうし給へと、念仏ねんぶつ高声かうじやうにとなへて、首をのべてぞ斬られける。
日来ひごろの悪行あくぎやうのにくさはさる事なれども、今日けふの此の有様ありさまを見て、守護しゆごの武士ぶしも、千万せんまんの大衆だいしゆも、皆みな袖そでをぞ濡らしける。
首をば般若寺はんにやじの大卒都婆おほそとばの前まへに釘付けにこそかけられけれ。
治承ぢしようの合戦かつせんの時とき、ここに打ち立つて、伽藍がらんを滅ほろぼしたりし故ゆゑなり。
北方きたのかた、大納言だいなごんの典侍殿すけどのは、哀あはれや三位さんみの中将ちゆうじやうの、たとひ首は斬られたりとも、むくろは捨ててこそ置かんずらめ。
何なにとかして是これを取りて孝養けうやうせばやとて、観音くわんおん冠者くわんじや、地蔵ぢざう冠者くわんじやと言ふ中間ちゆうげん、十力じふりき法師ほふしと言ふ力者りきしやを召して、輿を迎ひに遣はしたれば、げにもむなしう捨て置きたる。
むくろを輿に舁き入れ奉たてまつり、日野ひのへ帰かへり参まゐりたれば、北方きたのかた走り出でて、むなしき姿すがたを見給たまひて、いかばかりの事か思おもはれけん、二目とも見給はず、やがて引ひきかづいでぞ臥されける。
首をば大仏だいぶつの聖ひじり、俊乗しゆんじよう上人しやうにん、衆徒しゆとに乞うて日野ひのへやらる。
首もむくろも煙けぶりになし、骨をば高野かうやへ送られけり。
墓はかをば日野ひのにぞ建てられける。
法界寺ほふかいじと言ふ寺より僧を請しやうじて、様さまを変へ、三位さんみの中将ちゆうじやうの後世ごせをぞとぶらひ給たまひける。
第百十三句 大地震だいぢしん
九重の塔たはるる事 天文の博士占ふ事
文徳の御時の地震 朱雀の御時の地震
同おなじく七月九日の午刻むまのこくばかり、大地だいぢおびたたしう動うごいてややひさし。
怖おそろしなんどもおろかなり。
赤県せきけんのうち、白河しらかはのほとり、六勝寺ろくしようじ九重くぢゆうの塔たふをはじめて、あるいは倒れ、あるいは破れ崩くづる。
在々所々ざいざいしよしよ、皇居くわうきよ民屋みんをく、全まつたきは一宇もなし。
あがる塵ちりは煙けぶりのごとく、崩くづるる塵ちりは鳴神なるかみのごとし。
天てんくらうして日の光ひかりも見えざりけり。
老少らうせうともに魂たましひを消し、鳥獣けだものことごとく心をまよはす。
遠国ゑんごくも近国きんごくも又かくのごとし。
山崩くづれて河かはを埋うづみ、海傾かたぶいて浜をひたす。
沖漕ぐ船ふねは波なみにただよひ、陸くが行く駒こまは足あしの立てどころをまよはす。
大地だいぢ裂けて水みづ湧き出で、岩いは割れて谷へころぶ。
洪水こうずいみなぎり来たれば、岡をかに登のぼりてもなどか助かるべき。
猛火まうくわ燃え来れば、河かはをへだてても支ささへがたし。
鳥にあらざれば空そらをもかけがたく、龍りゆうにあらざれば雲にも入りがたし。
ただ悲かなしかりけるは大地震だいぢしんなり。
四大種しだいしゆのなかに、水すい火くわ風ふうはつねに害をなせども、大地だいぢは異ことなる変をなさざるに。
法皇ほふわうは新熊野いまぐまのへ御幸ごかうなつて、御花参まゐらせ給たまひけるが、此の大地震だいぢしん出で来て、家いへども震ふるひたふされ、人多おほく打ち殺され、触穢しよくゑ出で来にければ、六条ろくでう殿どのへ還御くわんぎよなる。
天文博士てんもんはかせ馳せ参まゐりてののしる事限りなし。
法皇ほふわうは南庭なんていに握屋あくやをたててぞましましける。
主上しゆしやう輿に召して、池のみぎはに出御しゆつぎよなる。
夕ゆふさりの子刻ねのこくには大地だいぢ必かならず打ち帰かへるべしと御占おんうらなひ有りければ、安堵あんどする者上下一人もなし。
遣戸やりど障子しやうじを立てて、天てんの鳴り地ぢの動うごく度たびには、只今ただいまぞ死ぬるとて、高く念仏ねんぶつ申しける声こゑ、所々しよしよにおびたたし。
七八十、八九十の者もの共どもも、世の滅めつすると言ふ事はさすがに昨日きのふ今日けふとは思おもはざりつるに、こはいかにせんとて、喚をめき叫ぶ。
是これを聞きて、幼をさなき者もの共どもも、泣き悲かなしむ。
文徳天皇もんどくてんわうの御時おんとき、せいゑい三年さんねん三月さんぐわつ十三日じふさんにちの大地震だいぢしんは、東大寺とうだいじの大仏だいぶつの御み頭ぐし落ちたりけるとぞ承うけたまはる。
朱雀院しゆしやくゐんの天慶てんけい二年にねん四月しぐわつの大地震だいぢしんには、主上しゆしやう五丈ごぢやうの握屋あくやをたててぞましましけると見えたり。
開闢かいびやくよりこのかた、かかる事あるべしとも覚えず。
平家の怨霊をんりやうにて世の失せべきかとぞ申しける。
建礼門院けんれいもんゐんは、たまたまたち宿やどらせ給たまふ吉田よしだの御房ごばうも、此の大地震だいぢしんに傾かたぶき破れて、いと住ませ給たまふべきたよりも見えず、何事なにごとも昔むかしには変かはり給たまひたる憂き世なれば、情なさけをかけ奉たてまつり、是これへと申さるる人もおはさず。
みどりの衣ころものしほじみ、宮門きゆうもんを守まぼるだにもなし。
心のままに荒れたる籬まがきは、しげ野のほとりよりも露けくて、折知顔をりしりがほに、いつしか虫の声々こゑごゑ恨うらむらんも哀あはれなり。
夜もやうやう長くなりければ、いと御眠おんねぶりもさめがちに、明あかしかねさせ給たまひけり。
尽きぬ御物思おんものおもひに、秋の哀あはれさへうちそひて、しのぎがたくぞおぼしめす。
第百十四句 腰越こしごえ
九郎判官伊予守になる事 同源氏あまた受領の事
梶原讒訴 申状
同おなじく八月はちぐわつ九日、九郎くらう判官はうぐわん伊予守いよのかみになる。
そのほか源氏げんじ五人受領じゆりやうす。
甲斐かひ源氏げんじ安田やすだの三郎さぶらう義貞よしさだ遠江守とほたふみのかみ、加賀美かがみの次郎じらう遠光とほみつ信濃守しなののかみ、一条いちでうの次郎じらう忠頼ただより駿河守するがのかみ、大内おほうちの太郎たらう維義これよし相模守さがみのかみ、信濃しなの源氏げんじ平賀の四郎しらう義信よしのぶ武蔵守むさしのかみにぞなされける。
そのころ九郎くらう判官はうぐわん鎌倉かまくらより討たるべきとぞ聞こえける。
判官はうぐわん内々ないない宣のたまひけるは、弓矢ゆみや取る身の親の敵かたきを討ちつる上うへは、何事なにごとか是これにすぎたる思おもひ出あるべきなれども、関より東ひがしは源二位殿げんにゐどののおはすれば申すに及およばず、西国さいこくは義経よしつねがままとこそ思おもひつるに、是これこそ思おもひのほかの事なれ。
わづかに伊予いよの国、没官領ぼつくわんれい廿にじふ余箇所よかしよ賜たまはつて、侍さぶらひ十人付けられたりしも、鎌倉殿かまくらどの内々ないない宣のたまふ事有りければ、皆みな鎌倉かまくらへ逃げ下くだり、旗差はたざしの料れうにとて付けられたる、足立あだちの新三郎しんざぶらうばかりぞ候さうらひける。
源二位げんにゐと兄弟きやうだいなる上うへ、ことに父子ふしの契ちぎりをして、浅からず、去年こぞの正月しやうぐわつ、木曾きそ左馬頭さまのかみ追討ついたうせしよりこのかた、度々どどの合戦かつせんをして、平家遂つひに攻め落とし、四海をすましめ、一天いつてんをしづめて、勲功くんこう比類なき所ところに、いかなる子細しさい有りて、鎌倉かまくら源二位げんにゐか様やうに恨うらみは思ひ給たまふらんと、上かみ一人より、下しも万民ばんみんにいたるまで不審ふしんをなす。
是これは今年こんねんの春はる、渡辺わたなべにて船揃ふなぞろへの有りし時とき、判官はうぐわんと梶原かぢはらと、逆櫓さかろ立てう立てじの論をし、大きに努られし事を、梶原かぢはら本意ほいなき事にして、讒言ざんげんして、遂つひに失うしなひけるとぞ聞こえし。
世をしづめ給たまひて、鎌倉殿かまくらどの、今いまは頼朝よりともを思おもひかくる者、奥おくの秀衡ひでひらぞあらん。
そのほか、覚えずと宣のたまへば、梶原かぢはら申しけるは、判官はうぐわん殿どのも、おそろしき人にて御渡らせ給たまひ候さうらふものを。
うちとけ給たまひては、かなふまじきよし申しければ、頼朝よりとももさ思おもふなりとぞ宣のたまひける。
さればにや、去さんぬる夏のころ、平家の生捕いけどり共あひ具ぐして、関東くわんとうへ下向げかうせられける時とき、腰越こしごえに関せきを据すゑて、鎌倉かまくらへは入れらるまじきにて有りしかば、判官はうぐわん本意ほいなき事に思おもひて、少しもおろかに思おもひ奉たてまつらざるよし、起請文きしやうもん書きて参まゐらせられけれ共ども、用もちゐられざれば、判官はうぐわん力ちからに及およばず。
その申状まうしじやうに曰いはく、
源みなもとの義経よしつね恐おおそれながら申まうし上あげ候さうらふ。
意趣いしゆは、御代官おんだいくわんのその一ひとつに選えらばれ、勅宣ちよくせんの御使おんつかひとして、朝敵てうてきを傾かたぶけ、累代の弓矢ゆみやの芸げいをあらはし、会稽くわいけいの恥辱ちじよくをきよむ。
抽賞ちうしやうおこなはるべき所ところに、思おもひのほかに虎口ここうの讒言ざんげんによつて、莫大ばくたいの勲功くんこうを黙もだせられ、義経よしつね犯をかす事なくして咎を蒙かうぶる。
功こう有りて誤あやまり無しといへども、御勘気ごかんきを蒙かうぶるの間あひだ、むなしく紅涙こうるいを流す。
つらつら事の心を案ずるに、良薬りやうやく口に苦し、金言きんげん耳にさかふるの先言せんげんなり。
是これによつて、讒者ざんしやの実否じつぴを糾ただされず、鎌倉中かまくらぢゆうに出入しゆつにふをとどめらるるの間あひだ、素意そいを述のぶるにあたはず。
いたづらに数日すじつを送り、此の時ときにあたつて、骨肉こつにく同胞どうはうの義を絶ぜつす。
既すでに宿運しゆくうんきはまる所ところか。
将又はたまた前世ぜんぜの業因ごふいんか。
悲かなしきかな、此の条でう父母ぶも尊霊そんりやうの再誕さいたんにあらずんば、誰たれか愚意ぐいの悲歎ひたんを申し開ひらかんや。
いづれの輩ともがらか哀憐あいれんの思おもひを垂たれられんや。
事こと新しき申状まうしじやう、述懐じゆつくわいにあひ似たりといへども、義経よしつね身体しんたい髪膚はつぷを父母ぶもにうけ、いくばく時節じせつを経へず、故こ守殿かうのとの御他界ごたかいの後のち、みなし子ごとなつて、母の懐中くわいちゆうに抱いだかれ、大和国やまとのくに宇多郡うだのこほり龍門りゆうもんの牧まきにおもむきしよりこのかた、一日いちにち片時へんしも安堵あんどの思おもひに住ぢゆうせず、かひなき命いのちばかりながらへるといへども、京都きやうとの経廻けいくわい治ぢしがたきの間あひだ、諸国しよこくに流行るぎやうせしめ、身を在々所々ざいざいしよしよに隠し、辺土へんど遠国をんごくを棲すみかとし、土民どみん百姓はくせい等らに服仕ぶくしせられ、しかれば幸慶かうけいたちまちに純熟じゆんじゆくして、平家の一族いちぞく追討ついたうせんがために、上洛しやうらくせしめ、手合てあはせに木曾きそ義仲よしなかを誅戮ちゆうりくせしよりこのかた、ある時ときは峨々ががたる巖石がんぜきに駿馬しゆんめに鞭むちうち、敵かたきのために身を滅ほろぼさん事を顧かへりみず。
ある時ときは漫々まんまんたる大海だいかいに孤舟こしうに棹さをさし、風波ふうはの難なんを恐おそれず、屍かばねを鯨鯢けいげいの鰓あぎとにかけ、甲冑かつちうを枕まくらとし、弓矢ゆみやを業げふとする本意ほんい、しかしながら亡魂ばうこんの憤いきどほりをやすめ奉たてまつり、年来ねんらいの宿望しゆくばうを遂げんとする事他事たじなし。
あまつさへ義経よしつね五位尉ごゐのじように補任ぶにんせらるるの条でう、当家たうけの面目めんぼく、稀代きたいの重職ちようじよく、何事なにごとか是これにしかんや。
しかりといへども今いま悲かなしみ深うして嘆き切せつなり。
仏神ぶつじんの御助けにあらずんば、なんぞ愁訴しうそを達たつせんや。
是これによつて諸寺しよじ諸社しよしやの牛王ごわう宝印ほういんの裏をひるがへし、野心やしんを挿さしはさまざる旨むね、日本国中につぽんごくぢゆうの大小だいせうの神祇じんぎ冥道みやうだうを驚おどろかし奉たてまつり、数通すつうの起請文きしやうもんを書き進しんずといへども、猶なほもつて宥免いうめんなし。
わが朝てうは神国しんこくなり。
神しんは非礼ひれいを受けず。
頼たのむ所ところ他たにあらず、ひとへに貴殿きでん広大くわうだいの慈悲じひを仰あふぎ奉たてまつり、便宜びんぎをうかがひ、高聞かうぶんに達たつせしめ、秘計ひけいをはこばしめ、誤あやまりなき旨むね、放免はうめんに預あづからば、積善しやくぜんの余慶よけい家門かもんに及および、永く栄花えいぐわを、子孫しそんに伝つたへ、年来ねんらいの愁眉しうびを開ひらき、一期いちごの安寧あんねいを得え、讒訴ざんそを言はず。
しかしながら省略せいりやくせしむ。
諸事しよじ賢察けんさつを垂れられんものをや。
誠惶せいくわう誠恐せいきよう敬うやまつて白まうす。
元暦げんりやく二年にねん六月ろくぐわつ日進上しんじやう大膳だいぜんの大夫殿だいぶどのとぞ書かれたる。
第百十五句 時忠ときただ能登のと下くだり
頼朝文覚ちうじやう 義朝菩提院建立の事
平家生捕り流罪の事 建礼門院大原寂光院隠居
さる程ほどに改元かいげん有りて、文治ぶんぢと号かうす。
文治ぶんぢ元年ぐわんねん八月はちぐわつ廿一日、鎌倉かまくら源二位げんにゐ頼朝よりともの卿きやう、片瀬かたせと言ふ所ところに出でられけり。
文覚もんがく上人しやうにんの迎へとぞ聞こえし。
故こ左馬頭さまのかみ殿の首、年来ねんらい獄門ごくもんにかかり、後世ごせとぶらふ人もなかりしを、義朝よしともの召し使つかひける紺掻こうかきの男をとこ、時の大理に会ひ、様々さまざまに申しうけ、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの流人るにんにてましましけれ共ども、末すゑ頼たのもしき人なれば、世に出で尋ねらるる事もこそあらんとて、東山ひがしやま円覚寺ゑんがくじと言ふ所ところに深く納めて置きたりけるを、文覚もんがく聞き出だし頸にかけ奉たてまつり、同おなじく鎌田兵衛かまだびやうゑが首かうべをば、弟子でしが頸にかけさせ、紺掻こうかきの男をとこも具ぐして下くだられけるとかや。
頼朝よりともは御色おんいろ召され、聖ひじりをば大床おほゆかに置き奉たてまつり、わが身は庭上ていしやうに立ちて、首かうべを受け取り給たまふぞ哀あはれなる。
是これを見る大名だいみやう小名せうみやう涙なみだを流さずと言ふ事無し。
岩間いはあひに道場だうぢやうを建て、御為おんためと供養くやう有り。
勝長寿院しようぢやうじゆゐんと名づけらる。
公家くげよりも哀あはれにおぼしめすにや、故こ左馬頭さまのかみの塚つかに、内大臣ないだいじん正二位じやうにゐを贈らる。
勅使ちよくしは左大弁さだいべん兼忠かねただなり。
頼朝よりとも武勇ぶゆうのほまれによつて、亡父ばうぶまで贈官ぞうくわん贈位ぞうゐに及およびけるこそ目出めでたけれ。
同おなじく廿三日、平氏へいじの生捕いけどり、少々せうせう都みやこに残のこりたるを、遠流ゑんるすべしとて、配所はいしよを定さだめらる。
平大納言だいなごん時忠ときただ能登のとの国、内蔵頭くらのかみ信基のぶもと佐渡の国へ、兵部少輔ひやうぶのせう尹明まさあきら隠岐国おきのくにへ、讃岐さぬきの中将ちゆうじやう時実ときざね上総国かづさのくにへ、法勝寺ほつしようじの執行しゆぎやう能円のうゑん備後びごの国へ、二位にゐの僧都そうづ全真ぜんしん安芸の国へ、中納言ちゆうなごん律師りつし忠快ちゆうくわい武蔵国むさしのくにへと定さだめらる。
平大納言だいなごん時忠ときただ既すでに近日きんじつ都みやこを出づべしと聞こえしかば、預あづかりの武士ぶしに、暇いとま乞こひ給たまひて、建礼門院けんれいもんゐんの渡らせ給たまふ吉田よしだの御房ごばうへ参まゐりて申されけるは、同おなじ都みやこの内うちに候さうらはば、つねに御行方おんゆくへをも承うけたまはるべく候さうらふに、責せめ重うして、既すでに配所はいしよにおもむき候さうらふ。
再び旧里きうりに帰かへらん事今いまは有りがたくこそ候さうらへとて、涙なみだにむせばれければ、女院にようゐん、誠まことに昔むかしの名残なごりとては、そればかりこそおはしつるに、此の後のちは誰たれかはとぶらふべきとて、御衣ぎよいの袖そでをしぼり給たまふ。
此の大納言だいなごんと申すは、出羽ではの前司せんじ具信とものぶが孫まご、兵部ひやうぶ権ごんの大輔たいふ時信ときのぶが子なり。
建春門院けんしゆんもんゐんの御兄おんせうとにて、高倉たかくらの上皇しやうくわうの御外戚おんげしやくなり。
楊貴妃やうきひが幸さいはひせし時とき、楊国忠やうこくちゆうが栄さかえたりしがごとし。
八条はつでうの二位にゐ殿も姉にておはせしかば、太政だいじやう入道にふだうの小舅こじうとにて、兼官けんぐわん兼職けんじよく心のままに思おもふがごとし。
子息しそく時家ときいへ中将ちゆうじやうになり、我われ正二位じやうにゐの大納言だいなごんに至いたり給たまひぬ。
今いましばらくも平家の世にてあらましかば、大臣おとどは疑うたがひなからまし。
父ちち時信ときのぶは、官途くわんども無下むげに浅かりしかども、逝去せいきよの後のちこそ左大臣さだいじんを賜たまはられけれ。
太政だいじやう入道にふだう、天下てんがの大小だいせうの事一向いつかう此の大納言だいなごんに宣のたまひあはれければ、人平関白くわんばくとぞ申しける。
検非違使けんびゐし別当べつたうにも三箇度さんがどまでなり給たまひぬ。
此の人庁務ちやうむの時ときは、窃盜せつたう強盗がうだうをば捕とらへて、右みぎの肘ひぢ腕うで中より打ち落とし、追おつ放ぱなされければ、悪別当あくべつたうとぞ人申しける。
西国さいこくにおはせし時とき、三種さんじゆの神器しんぎこと故ゆゑなく都みやこへ返し入れ奉たてまつれと仰せ下くださる院宣ゐんぜんの御使おんつかひ花形はながたが面おもてに、波方なみがたと言ふ焼印やきじるし差されたりしも、此の大納言だいなごんのしわざなり。
法皇ほふわうもやすからずおぼしめされけれども、故こ建春門院けんしゆんもんゐんのゆかりなりければ力ちからに及およばず。
九郎くらう判官はうぐわん親したしくなりしかば、心ばかりはいかにもして流罪るざいを申し宥なだめばやと思おもはれけれども、鎌倉殿かまくらどの許されもなければ力ちからに及およばす。
合戦かつせんをし、先さきを駆けねども、はかりごとを帷幄ゐあくの内うちにめぐらしける事、ひとへに此の大納言だいなごんのしわざなりければ、理ことわりとぞ見えし。
年たけ齢よはひ傾かたぶきて後のち、妻子さいしにも別わかれつつ、見送みおくる人もなくして、越路こしぢの旅へおもむき給たまひけん、心のうちこそ悲かなしけれ。
志賀しが唐崎からさき、うち過ぎ堅田かただの浦うらにもなりしかば、漫々まんまんたる湖上こしやうに、引ひく網を見給たまひて、大納言だいなごん泣々なくなくかうぞ宣のたまひける、
帰かへり来んことは堅田かただに引ひく網の目にもたまらぬわが涙なみだかな
昔むかしは西海さいかいの波なみの上うへにただよひて、怨憎懐苦をんぞうゑくを船ふねのうちに積つもり、今いまは北国ほつこくの雪ゆきのうちに埋うづもれて、愛別離苦あいべつりくの悲かなしみを故郷こきやうの雲に重かさねたり。
日数ひかず経ふれば、能登のとの国にぞ着き給たまふ。
かの配所はいしよは浦うらちかき所なりければ、つねは浪路なみぢ遥はるかに遠見ゑんけんして、慰なぐさみ給たまひけるに、岩いはの上うへに松の有りけるが、根ねあらはにして、波なみに洗あらはれけるを見給たまひて、大納言だいなごんかうぞ宣のたまひける、
白波しらなみのうち驚おどろかす岩いはの上うへに根ね入いらで松のいくよ経へぬらん
か様やうに詠えいじ、明あかし暮らし給たまひて、かの配所はいしよにて、大納言だいなごん遂つひにはかなくなり給たまひけるこそ哀あはれなれ。
建礼門院けんれいもんゐん秋のころまでは吉田よしだの御房ごばうに渡らせ給たまひけるが、ここも猶なほ都みやこ近くして、たまぼこの道行き人の、人目ひとめもしげし。
露の御命おんいのち風を待たん程ほどは憂き事の聞こえざらん、いかならむ山の奥へも入りなばやとはおぼしめせども、さるべきたよりもなかりけり。
ある女房にようばう、吉田よしだの御房ごばうへ参まゐりて申しけるは、大原おはらの奥、寂光院じやくくわうゐんと申す所ところこそ、静しづかに目出めでたき所ところにて候さぶらふなれと申しければ、女院にようゐん、是これはしかるべき仏ほとけの御すすめにてぞあらん。
山里やまざとはもののさびしき事こそあんなれども、世の憂きよりは住みよからんなる物をとて、泣々なくなくおぼしめし立たたせ給たまひけり。
冷泉れいぜんの大納言だいなごん隆房たかふさの北方きたのかた、七条しつでう修理しゆりの大夫だいぶ信隆のぶたかの女房にようばうのはかりごとにて、御乗物おんのりものなんどをも沙汰さたし奉たてまつりけり。
文治ぶんぢ元年ぐわんねん長月ながつき廿日はつかあまりの事なりければ、四方よもの梢こずゑの色々いろいろなるを御覧ごらんじて、遥はるかに分け入り給たまひ、山かげなれば、日も早く暮れにけり。
野寺のでらの鐘かねの入相いりあひの声こゑさびしく、いつしか空そらかきくもりうちしぐれつつ、嵐あらしはげしく木の葉ひとしく、鹿の音ねかすかにおとづれて、虫の声々こゑごゑたえだえなり。
寂光院じやくくわうゐんは、岩いはに苔こけむしてさびたる所ところなりければ、住ままほしくぞおぼしめす。
翠黛すいたいの色、紅葉もみぢの山、絵ゑに書くとも筆ふでも及およびがたし。
庭にはの萩原はぎはら霜しもふりて、籬まがきの菊きくのかれがれにうつろふ色いろを御覧ごらんじても、わが身の上うへとやおぼしめしけん。
寂光院じやくくわうゐんのかたはらに、方丈はうぢやうなる御庵室ごあんじつを結むすばせ給たまひて、一間ひとまを仏所ぶつしよにしつらひ、一間ひとまを御寝所ぎよしんじよにこしらへて、昼夜ちうや朝夕てうせきの御つとめ、長時ちやうじ不断ふだんの御念仏おんねんぶつおこたらず、天子てんし聖霊しやうれい、成等正覚じやうどうしやうがく、一門いちもんの亡魂ばうこん、頓証とんしよう菩提ぼだいと祈いのり給たまふ。
中にも先帝せんてい、二位殿にゐどのの御面影おんおもかげ、いかならん世にか、忘わすれ奉たてまつるべきとおぼし〔めし月日つきひ〕送らせ給たまひけり。
清涼殿せいりやうでんの花を結むすびし朝あした風来たつて匂にほひをさそひ、長秋宮ちやうしうきゆうに月を詠えいぜし夕ゆふべ、雲おほうて光ひかりを隠す。
昔むかしは玉楼ぎよくろう金殿きんでんの床とこの上うへに、錦にしきの衾ふすまを敷き、妙たへなる御住おんすまひなりしかども、今いまは柴しば引ひき結むすぶ庵いほりのうち、よその袂たもともしぼりける。
軒に並ならぶる植木うゑきを七重しちぢゆう宝樹ほうじゆとかたどり、岩間いはまにつもる水みづをば八功徳水はつくどくすいとおぼしめす。
かくて神無月かみなづき十日とをかのひあまりのころに、庭にはに散り敷きたる楢ならの葉はを鹿の踏みならし過ぎければ、女院にようゐん、あれ見よや、是これ程ほどに人目ひとめまれなる所ところに、いかなる人の来たるやらん。
しのぶべきならばしのばんと仰せられければ、大納言だいなごんの局つぼね、御障子みしやうじをあけて見給へば、人にてはなくして、鹿のうつくしげなるが、二つ連れて、楢ならの葉はを踏みならし過ぐるにてぞ有りける。
その時とき大納言だいなごんの局つぼね、岩根いはねふみ誰たれかは問とはん楢ならの葉はのそよぐは鹿の渡るなりけり女院にようゐん哀あはれにおぼしめし、泣々なくなく御障子みしやうじに書きすさみ給たまひけり。
第百十六句 堀河ほりかは夜討ようち
土佐房上洛 土佐房最後 三河守範頼義経討手の事
義経緒方頼まるる事
鎌倉かまくら源二位殿げんにゐどの、土佐とさ昌俊しやうしゆんを召して、九郎くらうは定さだめて謀叛むほんの心もあらんずらむ、勢せいどものつかぬ先さきに討たばやと思おもふなり。
大名だいみやう小名せうみやうどもを上のぼせば、宇治うぢ勢田せたの橋はしを引ひき、天下てんがの大事だいじに及およびなんず。
わ僧小勢こぜいにて上のぼり、夜討ようちにも日討ひうちにも、物詣ぶつけいする様やうにて、九郎くらうをたばかつて討ちて参まゐらせよと宣のたまへば、かしこまつて承うけたまはり、やがてその日、五十騎ごじつきばかりにて、都みやこへ上のぼる。
元暦げんりやく二年にねん九月廿九日、土佐房とさばう都みやこへ上のぼりつきたれ共ども、判官はうぐわんの宿所しゆくしよへは、その日も参まゐらず、次つぎの日も参まゐらず。
既すでに三日みつかのひになりけるに、判官はうぐわん武蔵房むさしばう弁慶べんけいをもつて、いかに上のぼられて候さうらふと聞くに、かうとも承うけたまはらざるやらん。
又源二位殿げんにゐどのより仰せらるる旨むねは候さうらはぬかと尋ねられければ、昌俊しやうしゆん聞きもあへず、弁慶べんけいに対面たいめんして、連れて判官はうぐわんの宿所しゆくしよへぞ参まゐられける。
判官はうぐわん出で会ひ見参げんざんし給たまひて、いかに一昨日より上のぼられ候さうらふと承うけたまはるに、今いままではかうとも申され候さうらはぬやらん、又鎌倉殿かまくらどのより御文おんふみなんどは候さうらはぬかと尋ねられければ、昌俊しやうしゆん、さん候ざうらふ。
鎌倉殿かまくらどのよりは、さしたる事も候さうらはねば御状おんじやうは参まゐらせられ候さうらはず。
御ことばに申せと仰せの候さうらひしは、当時たうじ京都きやうとに何事なにごとも候さうらはぬは、さて渡らせ給たまふ故ゆゑかとこそおぼしめされ候さうらへ、と仰せの候さうらひしが、是これは、世の中もおだやかになりて候さうらふ間あひだ、七大所詣しちだいしよまうでつかまつらんとて、暇いとま申してまかり上のぼり候さうらふが、道みちよりいたはる事候さうらひて、とかくして上のぼり着いては候さうらへども、いまだ快気くわいきならず候さうらふ間あひだ、やがても参まゐらず候さうらふと申しければ、伊予守いよのかみ、さはよもあらじ。
梶原かぢはらが讒言ざんげんについて、鎌倉殿かまくらどの、つねは義経よしつねを討たんと宣のたまふなると聞く。
大勢おほぜい上のぼせば、宇治うぢ勢田せたの橋はしをも引ひき、天下の大事に及およびなん。
わ僧小勢こぜいにて上のぼり、夜討ようちにも討ちて参まゐらせよとて上のぼせられたるにこそと宣のたまへば、土佐房とさばう顔色がんしよくかはつて、まつたくさる事候さうらはず。
さ候さうらはば起請きしやうを書いて見参げんざんに入るべしと申す。
書かうとも書かじとも御房ごばうが心よと宣のたまへば、やがて三枚の起請文きしやうもんを書いて、一枚をば焼いて呑みなんどして帰かへりければ、武蔵房むさしばう申しけるは、此の法師ほふしは起請きしやうは書きて候さうらへども、何なにとやらんあやしう覚え候さうらふ。
追おつつきてしやつが首かうべを刎ね候さうらはばやと申せば、伊予守いよのかみ、思おもふに何程なにほどの事かあるべき。
ただ帰かへせとて帰かへされけり。
伊予守いよのかみ、そのころ磯禅師いそのぜんじと言ふ白拍子しらびやうしが娘むすめに、静しづかと申す女をんなを愛あいして置かれたりけるが、只今ただいまの法師ほふしは、起請きしやうは書きて候さぶらへ共ども、子細しさい有りと覚え候さぶらふ。
人をつけて見せさせ給はでと申せば、童わらは一人見せに遣はす。
土佐房とさばうもおそろしき者にて、判官はうぐわん定さだめて人をつけて見せ給たまふらんと覚えて、是これも門に人を立てて見する程ほどに、けしかる童わらはの一人たたずみける所を捕とらへて問ふに落ちねばやがて打ち殺す。
既すでに暗くらうなるまで見えざりければ、又静しづか女をんなを〔一人〕見せに遣はす。
女をんな程ほどなく走り帰かへり、土佐房とさばう只今ただいま物詣ぶつけいとて打ち出で候さぶらふ。
此の使つかひは斬られて見え候さぶらふと申しもはてねば、その勢五十騎ごじつきばかりにて、伊予守いよのかみの六条ろくでう堀河ほりかはの宿所しゆくしよへ押し寄せて、鬨ときをどつと作つくる。
伊予いよの守かみ折節をりふし灸治きうぢして、物具もののぐすべき様やうもなくてましましけるが、鬨ときの声こゑに驚おどろいて、かつぱと起きて、鎧よろひ取つて着、矢やかき負ひ、弓取り、御馬おんむま参まゐらせよと宣のたまへば、馬むまに鞍置き、縁えんのきはに引つ立てたり。
うち乗りて、天竺てんぢく・震旦しんだんは知らず、義経よしつねを手ごめにしつべき者は覚えぬ物をと名のり叫さけんで駆け給へば、つづく者には、鈴木すずきの三郎さぶらう重家しげいへ、亀井の六郎重常しげつね、佐藤さとう四郎兵衛しらうびやうゑ忠信ただのぶ、伊勢の三郎さぶらう義盛よしもり、源八げんぱち兵衛びやうゑ広綱ひろつな、熊井くまゐ太郎たらう、江田えだの源三げんざう以下いげの兵つはもの廿余騎よき、喚をめいて駆く。
昌俊しやうしゆんが勢五十騎ごじつき、散々さんざんに駆けやぶられて、残のこり少すくなく討たれけり。
伊予守いよのかみの方には、源八げんぱち兵衛びやうゑ膝の節ふし射られ、熊井くまゐ太郎たらう内兜うちかぶと射られて引ひきしりぞく。
ころは十月じふぐわつ廿日はつかの夜なりければ、暗くらさはくらし、雨は降る。
昌俊しやうしゆんが頼たのむ所ところの兵つはもの、散々さんざんに討ち散ちらされ、昌俊しやうしゆん馬むまを射させ、徒立かちだちになつて、鎧よろひ脱ぎ捨て落ちけるが、いかにもして今夜北国ほつこくの方へと思おもひけれ共ども、かなはずして、その夜鞍馬くらまの奥僧正そうじやうが谷だににぞ逃げ籠こもる。
伊予守いよのかみの兵つはものども、後をつないで追つかくる。
鞍馬寺の僧共そうどもは是これを聞き、判官はうぐわんはいにしへのよしみ他にことならず深かりければ、もろともに尋ねゆく。
老僧らうそうの鎧よろひ直垂ひたたれ着たる法師ほふし一人、僧正そうじやうが谷だによりからめ取り、おめおめと亀井の六郎に具せられて、次つぎの日の未ひつじの刻ばかりに、伊予守いよのかみの六条ろくでう堀河ほりかはの宿所しゆくしよにぞ出で来たる。
坪のうちに引ひき据すゑたり。
伊予守いよのかみ縁えんより、いかに御房ごばう、起請きしやうには落ちたるぞと宣のたまへば、昌俊しやうしゆん大きにうち笑わらつて、さん候ざうらふ。
有事ありごとに書いて候さうらふ程ほどに落ちて候さうらふよとぞ申しける。
命いのち惜しくば助けんぞ。
鎌倉かまくらに下くだりて、源二位殿をも今いま一度いちど見奉たてまつれと宣のたまへば、昌俊しやうしゆん、まさなや、殿程ほどの大将軍たいしやうぐんを討ち奉たてまつらんと思おもひかかつて上のぼらんずる者が、殿を討ち奉たてまつらずして、命いのち生きて再び鎌倉かまくらへ下くだるべしとは覚えず。
御恩には急ぎ首を召せとぞ申しける。
心ざしの程ほど神妙しんめうなりとて、中務丞なかつかさのじよう知国ともくにと言ふ京侍さぶらひに仰せて、法性寺ほつしやうじの柳原やなぎはらにて斬られけり。
雑色ざつしき足立あだちの三郎さぶらう清経きよつねを鎌倉殿かまくらどの旗差はたざしの料れうにとて付けられたりけるが、内々ないないは判官はうぐわんいかなるあらぬ振舞ふるまひの時ときは、夜を日に継ついで馳せ下くだりて申すべしと御約束有りて、付けられたりければ、昌俊しやうしゆんがなりゆく有様ありさまを見て、ひそかに都みやこを逃げ出で、鎌倉かまくらへ参まゐり、此のよし一々いちいちに申せば、源二位殿げんにゐどの大きにさをがれけり。
舎弟しやてい三河守みかはのかみを呼びて、御辺ごへん九郎くらうが討手うちての大将たいしやうに上のぼり給へと有りければ、三河守みかはのかみ辞し申し給たまひけり。
鎌倉殿かまくらどの怒いかつて、さては御辺ごへんも九郎くらうと同心どうしんごさんあれ。
今日けふよりして頼朝よりとも兄弟きやうだいの儀ぎあるべからず、鎌倉かまくら中にもおはすべからずと宣のたまへば、三河守みかはのかみ大きに驚おどろき給たまひて、急ぎ上のぼるべきよし申されけれども、許されず。
まつたくおろかに思おもひ奉たてまつらずと百枚の起請きしやうを書いて捧げ給たまひしか共ども、猶なほも用もちゐられず、遂つひに伊豆いづの北条ほうでうへ追おつ下くだし、そこにて失うしなはれけるとぞ聞こえし。
舅しうと北条ほうでうの四郎しらう時政ときまさを大将軍たいしやうぐんにて、六万ろくまん余騎よきをさし上のぼせらる。
判官はうぐわんは鎮西ちんぜいの方へ落ちばやと思おもひ立ち給たまふ。
ここに緒方をがたの三郎さぶらう維義これよしは威勢ゐせいの者なりける間あひだ、義経よしつねに頼たのまれよと宣のたまふ。
維義これよし申しけるは、さ候さうらはば御内みうちなる菊池きくちの次郎じらう高直たかなほは年来ねんらいの敵かたきにて候さうらふ。
賜たまはつて首かうべを刎ねんと申す。
申すまで無くやがて賜たまはりてければ、六条河原ろくでうかはらにて斬られにけり。
維義これよしかひがひしく頼たのまれけるとかや。
第百十七句 義経よしつね都落みやこおち
義経御下し文申請けらるる事
同じく吉野の奥に赴かるる事
同じく奥州へ下らるる事 三郎先生十郎蔵人討手の事
同おなじく十一月じふいちぐわつ一日ひとひのひ、伊予守いよのかみ院ゐんの御所ごしよへ参まゐり、大蔵卿おほくらきやう泰経やすつねの朝臣あつそんをもつて申されけるは、義経よしつねこそ、鎌倉かまくらより討たれべきにて候さうらへ。
宇治うぢ勢田せたの橋はしをも引ひきて、しばし支ささへべく候さうらへども、君の御為おんため心苦こころぐるしく候さうらへば、西国さいこくの方へ落ち行かんと存知ぞんぢ候さうらふ。
度々どど朝敵てうてきを平たひらげ候さうらひし忠功ちゆうこう、いかでか御忘おんわすれ候さうらふべき。
鎮西ちんぜいの者もの共どもに心を一つにして、合力がふりよくすべきよし、院庁ゐんちやうの御下文みくだしぶみを賜たまはり候さうらはばやと申しければ、法皇ほふわうおぼしめしわづらはせ給たまひて、大臣だいじん公卿くぎやうに此のよしを仰せ合あはせらる。
人々申されけるは、洛中にて合戦かつせんつかまつらば、朝家てうかの御大事たるべし。
逆臣ぎやくしん京中きやうぢゆうを出だしなば、おだやかしき事にこそ候さうらはんずれと、諸卿しよきやう一同いちどうに申されければ、法皇ほふわうさらばとて、やがて庁ちやうの御下文みくだしぶみをなされけり。
同おなじく三日みつかのひ卯刻うのこくに、伊予守いよのかみ、叔父をぢ三郎さぶらう先生せんじやう義明よしあき、十郎じふらう蔵人くらんど行家ゆきいへ、鎮西ちんぜいの住人ぢゆうにん、緒方をがたの三郎さぶらう維義これよし相あひ具ぐして、その勢三百さんびやく余騎よき、都みやこに一ひとつのわづらひをなさず、西国さいこくへこそ落ち行きけれ。
摂津国つのくにの源氏げんじ太田おほたの太郎たらう頼基よりもと、手島てしまの冠者くわんじや頼季よりすゑ、是これを聞き、九郎くらう判官はうぐわん西国さいこくへ落ち行きけるを、矢一つをも射ずんば、鎌倉かまくらの聞こえあしかりなんとて、三百さんびやく余騎よきにて追つかけたり。
伊予守いよのかみ宣のたまひけるは、きたなし。
殿原とのばら返し合あはせて一合戦ひとかつせんせよと有りければ、兵つはものどもとつて返し、喚をめいて駆く。
太田おほたの太郎たらう、手島てしまの冠者くわんじやは人目ひとめばかりに矢一つ射懸けて引ひきのかんとしける所ところに、手痛う駆けられて引ひき退く。
伊予守いよのかみ、事の手合てあはせ、門出かどで好よげなり。
うてやうてやとて、その日摂津国つのくに大物だいもつの浦うらにぞ着き給たまふ。
それより船ふねに乗り押し出いだす。
平家の怨霊をんりやうや強こはかりけん、にはかに西風はげしく吹きて、頼たのみつる三郎さぶらう先生せんじやう、十郎じふらう蔵人くらんど、緒方をがたの三郎さぶらうが乗つたる船ふねどもは、いづくの浦うらにか吹き寄せけん、行き方知らずぞなりにける。
判官はうぐわんの船ふねも、同国どうこく住吉すみよしの浦うらに吹き寄せらる。
都みやこより召し具せられたる女房にようばうども、十余人よにん、住吉すみよしの浜はまに捨て置きて、静しづかばかり召し具ぐして、その勢廿余人よにん、大和国やまとのくに吉野よしのの奥おくへぞ落ちられける。
捨て置かれたる女房にようばう共、あるいは松の下した、あるいは砂いさごの上うへに、袴はかまふみしだき、袖そでを片敷かたしき泣き伏しける。
人是これを哀あはれみ、京へ送おくりけり。
吉野よしの法師ぼふし此の事を聞いて、九郎くらう判官はうぐわんの此の山に籠こもりたんなる。
いざや討ち取り、鎌倉殿かまくらどのの見参げんざんに入らんとて、弓矢ゆみや兵杖ひやうぢやうを帯たいし、数百人すひやくにん攻め来たると聞こえしかば、伊予守いよのかみ、吉野山よしのやまにも跡とめず、ふせぎ矢や射させ、吉野山よしのやまをも落ち、その年は都みやこほとりに忍び給たまひけるが、文治ぶんぢ二年にねんの春はるのころ、秀衡ひでひらを頼たのみて、奥州あうしうへ落ち行かれけり。
同おなじく十一月じふいちぐわつ七日、北条ほうでうの四郎しらう時政ときまさ、六万ろくまん余騎よきにて都みやこへ入る。
やがてその日院参ゐんざんして、義経よしつね行家ゆきいへ義明よしあき等らが謀叛むほんの由奏聞そうもんす。
たちまち誅戮ちゆうりくすべきの旨むね、院宣ゐんぜんを下くださる。
去さんぬる一日ひとひのひは、義経よしつね申すによつて、鎮西ちんぜいの将軍しやうぐんたるべき御下文みくだしぶみをなされ、同おなじく七日には、頼朝よりとも申さるるによつて、義経よしつね追罰ついばつすべき旨むね、院宣ゐんぜんを下くださる。
朝あしたに変かはり夕ゆふべに変へんずる世の中の不定ふぢやうこそ口惜くちをしけれ。
又諸国しよこくに守護しゆごを置き、庄園しやうゑんに地頭ぢとうをなし、反別たんべつ兵粮米ひやうらうまい宛ておこなふべきよし奏聞そうもんす。
法皇ほふわうおぼしめしわづらはせ給たまひて、太政だいじやう大臣だいじん以下いげの公卿くぎやうに此のよしを仰せ合あはせらる。
人々申されけるは、帝王ていわうの怨敵をんできを滅ほろぼしつる者は半国はんごくを賜たまふと言ふ事、無量義経むりやうぎきやうに見えたり。
されどもいまだ我わが朝てうにその例れい無し。
源二位殿げんにゐどの申状まうしじやう過分くわぶんなりと君も臣も仰せられけれども、源二位殿げんにゐどの重かさねて申されければ、文治ぶんぢ元年ぐわんねん十一月じふいちぐわつ廿日はつか、頼朝よりともの卿きやう日本国につぽんごくの大将たいしやう兼けん地頭ぢとうに補ふせらる。
いまだ先例せんれい無き恩賞おんしやうなり。
吉田よしだの大納言だいなごん経房卿つねふさのきやうをもつて、か様やうの事申されけり。
此の大納言だいなごんは何事なにごとにつけても、直すぐき人と聞こえ給へり。
平家に結むすぼふれたつし人々も、源氏げんじの強つよりし後のちは、脚力きやくりきを下くだし、文を遣はし、様々さまざま関東くわんとうをへつらひ給たまひしかども、此の大納言だいなごんは一度いちどの事も悪わるびれ給はず。
此の大納言だいなごんと申すは、権ごんの右中弁うちゆうべん光房みつふさの子なり。
十二にて父ちちに遅おくれ給たまひておはせしかば、次第しだいの昇進しようじんとどこほらず、夕郎せきらう貫首くわんじゆを経へて、参議さんぎ大弁だいべん、中納言ちゆうなごん、太宰帥ださいのそつ、遂つひに正二位じやうにゐ大納言だいなごんに至いたり給たまふ。
世の中の善悪ぜんあくは錐きり袋ふくろを脱だつするがごとし。
十郎じふらう蔵人くらんどは天王寺てんわうじに有りと聞こえしかば、北条ほうでう討手うちてを下くだす。
信濃国しなののくにの住人ぢゆうにん、家原いへはらの九郎くらう、常陸国ひたちのくにの住人ぢゆうにん、石間いしまの〔五郎〕二人、百騎ひやくきばかりにて天王寺てんわうじに下くだる。
窪くぼの雅楽頭うたのかみ兼春かねはるがもとに有りと聞こえしかば、そこを寄せてさがすになし。
兼春かねはる娘むすめ二人有り。
ともに行家ゆきいへの思者おもひものなり。
いかでか知るべきなれ共ども、具ぐして京へぞ上のぼりける。
十郎じふらう蔵人くらんどは、郎等らうどう一人具ぐして、徒立かちだちにて天王寺てんわうじを立ち出でて、熊野くまのの方へと落ち行く程ほどに、一人ひとり下部しもべがいたはる事有りて、行きもやらざりければ、和泉国いづみのくに八木郷やぎのがうと言ふ所ところに逗留とうりうす。
亭主ていしゆの男をとこは見知りて、急ぎ都みやこへ上のぼりて申しければ、北条ほうでうやがて討手うちてを下くださる。
山僧さんぞうに西の北谷きただにの法師ほふし、常陸房ひたちばう正明しやうめいと言ふ悪僧あくそうを呼びて、あつぱれ御辺ごへん十郎じふらう蔵人くらんど殿の和泉国いづみのくににおはすなる、討ち奉たてまつりて、鎌倉殿かまくらどのの見参げんざんに入り給へかしと言ひければ、常陸房ひたちばう、さ候さうらはば勢を賜たまはつて下くだり候さうらはんと申す。
忍びておはすなれば大勢おほぜいにてはかなふまじ。
小勢こぜいにて下くだるべし。
雑色ざつしき大源次だいげんじ宗安むねやすと言ふ大男おほをとこをはじめとして、下部しもべ十四五人ぞ付けられける。
天王寺てんわうじへ下くだるには、摂津国つのくにを経へて京へ入る。
常陸房ひたちばうは河内路かはちぢを経へて馳せ下くだる。
和泉国いづみのくに八木郷やぎのがうに下くだり着き、件くだんの家をさがすに無し。
板敷いたじき放ち、天上てんじやうさがせ共どもなかりけり。
正明しやうめい門に立ちけるに、百姓ひやくしやうの妻つまかとおぼしき女をんなの通りけるに問へども知らずと申す。
知らぬ事はあるまじと、荒けなく問とひければ、よに尋常じんじやうなる人のただ二人あれなる家にと教をしへける。
十郎じふらう蔵人くらんどは、小袖こそでに大口おほぐちばかりにて、紺の直垂ひたたれ着たる男をとこ、酒さけあはせんとする所ところに、正明しやうめい黒革威くろかはをどしの腹巻はらまきに、四尺ししやく二寸の太刀たちを抜き飛とんで入る。
男をとこ逃げゆくを、常陸房ひたちばう追つかくる。
是これは行家ゆきいへの郎等らうどう也。
十郎じふらう蔵人くらんど是これを見て、行家ゆきいへは我われなるぞ。
返かへせと宣のたまへば、常陸房ひたちばうとつて返かへす。
蔵人くらんど草摺くさずりのはづれを切られければ、かなはじとや思おもひけん、太刀たちを捨ててむずと組む。
互たがひに大力だいぢから、勝負しようぶなかりしに、大源次だいげんじ宗安むねやす、礫つぶせにてちやうど打つ。
下臈げらふなればとてさる例ためしやあると宣のたまへば、足に縄なはをかくるとて、あまりにあわてて二人が四つの足をぞ結ゆうたりける。
かかりければ、下部しもべ共ども出で来たり、様々さまざまにして搦めてげり。
十郎じふらう蔵人くらんど、御房ごばうは頼朝よりともが使つかひか、北条ほうでうが使つかひかと問とはれけるこそ神妙しんめうなれ。
急ぎ具ぐして上のぼる程ほどに、渡辺わたなべにて北条ほうでうの子息しそく、時房ときふさのおぼつかなさに下られけるに行き逢うたり。
正明しやうめい安堵あんどして、その夜は江口えぐちの長者ちやうじやがもとにぞとどまりける。
次つぎの日北条ほうでう赤井河原あかゐがはらに行き向かつて首かうべを刎ねてげり。
兄の信太しだの三郎さぶらう先生せんじやう義明よしあきは、伊賀国いがのくに千戸せんどと言ふ山寺やまでらにおはしけるが、当国たうごくの住人ぢゆうにん、服部はつとり平六へいろく時定ときさだと言ふ者に取りこめられ、自害じがいしてんげり。
服部はつとりやがて首を取り、鎌倉かまくらへ下くだる。
此の服部はつとりと申すは、平家祗侯しこうの者なりしが、本領ほんりやう伊賀いがの服部はつとりをぞ返し賜たびにける。
常陸房ひたちばうは十郎じふらう蔵人くらんどの首持ち、鎌倉かまくらへ下くだる。
神妙しんめうなりとは宣のたまへ共ども、大将軍たいしやうぐん討ちつるその恐おそれとて、武蔵国むさしのくに笠井かさゐへ流されけり。
されども咎なければ、次つぎの年赦免しやめん有りて、但馬たぢまの国太田おほたの庄しやう、摂津国つのくに葉室はむろの庄しやう、此の二箇所にかしよを正明しやうめいにぞ賜たまはりけれ。
第百十八句 六代ろくだい
北条六代生捕る事 文覚六波羅へ参らるる事
請受け六代 六代御前大覚寺へ参らるる事
都みやこの守護しゆごに上のぼられける北条ほうでうがもとへ、源二位殿げんにゐどの言ひ上のぼせられけるは、平家の子孫しそん定さだめて多おほかるらん、尋ね出だし、失うしなひ給へと宣のたまひければ、平家の子孫しそん尋ね出だしたらん人は、何事なにごとも望みのままたるべしと披露ひろうしければ、京の者案内あんないは知りたり、尋ねもとめけるこそうたてけれ。
下臈げらふの子なれども、色白く見めよきは、かの中将ちゆうじやうの若君わかぎみ、此の少将せうしやうの公達きんだちなんどと申す。
父ちち母はは悲かなしめば、あれは介錯かいしやくが申す事なりとて、奪うばひ取り、幼をさなきをば水みづに入れ、土つちに埋うづみ、おとなしきをば首を斬る。
その中に小松こまつの三位さんみの中将ちゆうじやう維盛これもりの子息しそく、六代ろくだい御前ごぜんとて、年もおとなしくおはする上うへ、平家嫡々ちやくちやくの正統しやうどうなり。
是これを失うしなはれよと鎌倉かまくらより宣のたまひ上のぼせられければ、北条ほうでう尋ねかねて、既すでに下くだらんとする所ところに、ある女房にようばう、六波羅ろくはらへ来たりて申しけるは、是これより西、遍照寺へんぜうじの奥、小倉山をぐらやまの麓ふもと、大覚寺だいかくじと申す所に、小松こまつの三位さんみの中将殿ちゆうじやうどのの北方きたのかた、若君わかぎみ姫君ひめぎみ相あひ具ぐして、此の三年みとせ住み給たまふぞと教をしへける程ほどに、北条ほうでうやがて人を遣はして見せられければ、使つかひこの房中に入り、人を尋たづぬるよしにて、籬まがきのひまより見入れたれば、折節をりふし白き狗ゑの子この走り出でたるを取らんと、いつくしげなる若君わかぎみの走り出で給たまひたるを、乳母めのとかとおぼしき女房にようばうのあわてて続いて出で、あなあさましや、人もこそ見候さうらふらめとて、急ぎ引ひき入れ奉たてまつる。
一定いちぢやう此の人なるべしと心得て、使つかひ帰かへりて申せば、北条ほうでう五百騎ごひやくきばかり大覚寺だいかくじへ押し寄せ打ちかこめ、是これに小松こまつの三位さんみの中将殿ちゆうじやうどのの若君わかぎみのましますなる、北条ほうでうと申す者御迎へに参まゐりて候さうらふと人を入れて言はせければ、母はは御前ごぜん、ただ我われを先さきに失うしなへとてぞ泣かれける。
此の三年みとせは高くだにも笑わらはざりし人々の、声こゑをあげてぞ叫び給たまひける。
北条ほうでうげにもさこそおぼしめし給たまふらめとて、強しひて房ばうにも攻め入り給はず、出だし奉たてまつらるるを待つ程ほどに、日もやうやう暮れゆけば、重かさねて使つかひをいれて、別べちの御事候さうらふまじ。
出だし参まゐらさせ給へと言はせければ、斎藤さいとう五斎藤さいとう六、北方きたのかたの御前おんまへに参まゐり、敵かたき四方しはうをかこみ候さうらふ。
いづくより漏れ候さうらふべきやと申せば、六代ろくだい御前ごぜん、遂つひにのがれ候さうらふまじ。
武士ぶし共どもうち入りさがしなば、各々おのおのも憂うかるべし。
とく出ださせ給へ。
命いのち生きて六波羅ろくはらに候さうらはば、又参まゐらんと宣のたまへば、髪かきなで結ゆひなんどして、御装束おんしやうぞくさせ奉たてまつり、母はは御前ごぜん黒木くろきの数珠じゆずのちひさきを取り出だし、や御前ごぜん是これを持つて念仏ねんぶつ申し、父ちち御前ごぜんと一ひとつ所ところに生むまれよと宣のたまへば、御前ごぜんには別わかれ参まゐらするとも、父ちち御前ごぜんには必かならず同所どうしよにこそと、おとなしやかにぞ宣のたまひける。
今年こんねんは十二歳、見めかたちいつくしくたをやかに、涙なみだのすすみけるを、弱よわげを見せじとや、押おさゆる袖そでのひまよりも、あまりて涙なみだぞこぼれける。
さてもあるべきならねば、輿に乗せてぞ出だし給たまふ。
斎藤さいとう五斎藤さいとう六御供おんともしけり。
北条ほうでう乗替のりがへに乗せんとしけれ共ども、最期さいごの御供おんとも苦しからずとて、六波羅ろくはらまで裸足はだしにてこそ参まゐりけれ。
母ははや乳母めのとはむなしきあとにとどまりて、いかにせんとぞもだえ給たまふ。
又こそと慰なぐさめつることばのおとなしさを、いつ忘わすれつとも覚えず、年来としごろ長谷の観音くわんおんを頼たのみ奉たてまつりしに、定業ぢやうごふは仏ほとけもかなはせ給はぬにや、されば夕ゆふさりや斬られん、暁あかつきや斬られんずらむなんどと、夜よもすがら寝給はねば、夢ゆめさへも見ざりけり。
限りあれば、鶏人けいじん暁あかつきをとなへ、長ながき夜もはや明けぬ。
六波羅ろくはらより斎藤さいとう五、若君わかぎみの御文おんふみ持ちて参まゐりたり。
北方きたのかた、先まづいかにやと問ひ給へば、別べちの御事候さうらはずと申す。
此の文を見給へば、別べちの御事候さうらはず。
御心苦おんこころぐるしくなおぼしめされそ。
いつしかみなみな恋こひしくこそと、おとなしく書かれたりければ、無惨むざんの者の心やと、文ふみを顔かほに押し当ててぞ泣き給たまふ。
斎藤さいとう五暫時ざんじもおぼつかなく候さうらふに、暇いとま申して帰かへらんとしければ、御返事賜たまはりけり。
六波羅ろくはらへたち帰かへる。
乳母めのとの女房にようばうは、そこともなくあこがれゆく。
或る人いたはりける様やうは、高雄山たかをさんの文覚もんがくと言ふ人こそ、当時たうじ鎌倉殿かまくらどのの大切たいせつにおぼしめす人なれ。
されば上臈じやうらふの公達きんだちをも弟子でしにとほしがり給たまふなると言ひければ、足にまかせて迷まよひ行く。
高雄山たかをさんへ尋ね入り、尾崎をざき房ばうに行き、小松こまつの三位さんみの中将ちゆうじやう殿の若君わかぎみ、今年こんねんは十二歳になり給たまふ。
よにいつくしくましませしを、昨日きのふ武士ぶしに取られてさぶらふぞ。
あまりにいとほしく候さぶらへば、乞こひ取り御弟子おんでしにし給へかしと申しければ、文覚もんがく、さて一定いちぢやう此の山に置き給はんか。
御命おんいのちだに助かり給はば、聖ひじりの御房ごばうの御ままとぞ申しける。
武士ぶしは誰たれなるらん。
北条ほうでうと申せば、さては知らぬ人かとこそ思おもうたれ。
行きて尋ねんとて出いづる。
一定いちぢやうとは覚えね共ども、大覚寺だいかくじへ帰かへり、此のよし申せば、母はは御前ごぜん先まづよろこび給たまひけり。
文覚もんがく六波羅ろくはらへ行きて、此のよし尋ねられければ、北条ほうでう、さ候さうらへばこそ。
平家は一門いちもん広ひろかりしかば、子孫しそん多おほからん、尋ね取つて失うしなへと鎌倉かまくらより承うけたまはり候さうらふ。
その中に嫡々ちやくちやくの正統しやうどう、六代ろくだい御前ごぜんとて有り。
必かならず尋ね出だし失うしなひ奉たてまつれと候さうらひしかば、聞き出だし迎へ奉たてまつり候さうらへども、あまりいたはしさに、いまだともかくもせずとぞ語かたられける。
幼をさなき人はいづくに候さうらふぞやと問とはれければ、御覧ごらんぜよとて、若君わかぎみのおはす前まへにぞ入れられける。
髪姿かみすがたよりはじめて、袴はかまの着際きぎはにいたるまで、すべていつくしかりけり。
黒木くろきの数珠じゆずのちひさきをつまぐり給たまふ。
聖ひじり見給たまひて、何なにとか思おもはれけん、涙なみだぐみ給へば、なかなか目もあてられず。
たち返かへる末すゑの世、いかなる毒となるとも、いかでか助けざるべき。
前世ぜんぜの何なにの契ちぎりぞや、あまりにいとほしくおぼゆるものかな。
文覚もんがく鎌倉かまくらに下くだりて申し請こうて見候さうらはん、いかに北条ほうでう、文覚もんがくが鎌倉殿かまくらどのに忠ちゆうを尽つくせし事は、御辺ごへんかねて見給たまひしかば、今更いまさら申すに及およばねども、伊豆いづの北条ほうでうに流されておはせし時とき、勅勘ちよくかんを申し宥なだめんとて、千里ちさとの道みちを遠しとせず、粮料らうれうの支度したくにも及およばず、富士川ふじがは大井河おほゐがはに押し流され、宇津うつの山やま高師山たかしやまにて、山賊さんぞくに衣裳いしやうをはぎ取られ、命いのちばかり生きて、福原ふくはらの御所ごしよへ参まゐり、院宣ゐんぜん申し出だし奉たてまつりし約束やくそくには、いかなる大事だいじをも申せと宣のたまひしぞかし。
されども契ちぎりを重くして、命いのちを軽かろんず。
されば鎌倉殿かまくらどのに受領神じゆりやうしん託たくし給はずは、よも忘わすれ給はじ。
廿日はつかの命いのちを助け給へとて出でられけり。
斎藤さいとう五斎藤さいとう六、聖ひじりをただ生身しやうじんの仏ほとけの様やうに思おもひて、三度さんど伏し拝み、よろこびの涙なみだを流し、大覚寺だいかくじへ参まゐり、此のよしかうと申せば、嘆き沈しづみておはせしが、急ぎ起きあがり、此の三年みとせ長谷はせの観音くわんおんに祈いのる祈いのりはここぞかし。
鎌倉かまくらの御許しは知らねども、暫時ざんじの命いのちを延べんにこそとて、明あかし暮らし給たまふ程ほどに、廿日はつかを過ぐるは夢ゆめなれや、聖ひじりはいまだ見えざりけり。
さる程ほどに十二月十五日じふごにちにもなりにけり。
北条ほうでうさのみ都にて年月としつきを送おくるべき様やうなし。
明日みやうにち下くだらんとぞひしめきける。
斎藤さいとう五斎藤さいとう六、大覚寺だいかくじへ参まゐり、北条ほうでうは既すでに明日みやうにちたち候さうらふ。
何なにとて聖ひじりはいまだ見えさせ給はぬやらんと申せば、北方きたのかた、さればとよ、よくば先さきに人をも上のぼせてん、ただ悪あしうしてぞ遅おそかるらん。
さて失うしなはんずる有様ありさまかと宣のたまへば、さん候ざうらふ。
いかさまにも暁あかつき程ほどにてや候さうらはん。
その故ゆゑは、近く召し使つかひ候さうらひし、家子いへのこ郎等らうどう共、若君わかぎみを見参まゐらせて、よにも御名残おんなごり惜しげにて、明日みやうにちこそ既すでにまかり下くだり候さうらへとて、念仏ねんぶつ申すも候さうらふ。
そばに向むいて涙なみだぐむ者も候さうらふと申せば、さて六代ろくだいはいかにあるぞと宣のたまへば、人の見参まゐらせ候さうらふ時ときは、御念誦おんねんじゆつまぐらせ給たまひて、さらぬ様やうにもてなし、さなき時ときは、御涙おんなみだにむせばせ給たまふと申す。
それはさぞあるらん。
心なき者だにも、命いのちをば惜しむぞかし。
さておのれらはいかにせんと宣のたまへば、いづくまでも御供おんともつかまつり、何なににもならせ給たまひて候さうらはば、煙けぶりとなし参まゐらせ、御骨を取り、高野かうやに納め奉たてまつり、兄弟きやうだい共に法師ほふしになり、後世ごせとぶらひ参まゐらせんとこそ申し合あはせて候さうらへとて、泣々なくなく暇いとま申して、六波羅ろくはらへたち帰かへる。
同おなじき十六日じふろくにちの卯刻うのこくに、北条ほうでう既すでに関東くわんとうへ下くだる。
若君わかぎみ輿に乗せ奉たてまつり、六波羅ろくはらをぞうち出でける。
有為うゐ無常むじやうのさかひ、今日けふ此の人越こえ給たまひなんずとて、見る人袖そでをぞぬらされける。
駒こまをはやむる武士ぶしあれば、我われを殺すかと胸さわぐ。
そばにささやく者あれば、今いまを限りと肝きもを消す。
松坂まつざか四宮河原しのみやがはらかと思おもへば、関寺せきでらをもうち越こえて、大津の浦うらにもなりにけり。
粟津あはづか野路のぢかと思おもへども、その日も斬らでぞやみにける。
斎藤さいとう五斎藤さいとう六物をだにも履はかずして、足にまかせて行く。
北条ほうでう駒こまの足を早めける程ほどに、駿河国するがのくに千本せんぼんの松原まつばらにもかかり給たまふ。
ここにて輿かき据すゑ、敷皮しきがはしき、若君わかぎみをおろし奉たてまつる。
北条ほうでう、斎藤さいとう五斎藤さいとう六をそばに呼びて、今いまはとくとく帰かへり給へ。
今日けふより後のちは何なにをかおぼつかなく思おもひ給たまふべきと宣のたまへば、斎藤さいとう五斎藤さいとう六是これを聞き、さてはここにて失うしなひ奉たてまつるよと思おもふに、物も言はず。
北条ほうでう、六代ろくだい御前ごぜんに申しけるは、何なにをか隠し参まゐらせ候さうらふべき。
聖ひじりにや逢あひ候さうらふと、是これまでは具ぐし参まゐらせつるなり。
一業いちごふ所感しよかんの人にて渡らせ給へば、誰たれ申すともよも鎌倉殿かまくらどの御用おんもちゐ候さうらはじ。
足柄あしがらよりあなたまでも具ぐし参まゐらせんと存じ候さうらへども、鎌倉殿かまくらどのの聞こしめされん所ところをも恐おそれにて候さうらへば、近江あふみの国にて失うしなひ参まゐらせたるよしをこそ披露ひろうつかまつり候さうらはめと申せば、六代ろくだい御前ごぜん、斎藤さいとう五斎藤さいとう六を召し寄せて、汝等なんぢらわが果はてを見つる物ならば、あなかしこ大覚寺だいかくじにて申すなよ。
母はは御前ごぜん嘆き給はば、冥途めいどの障さはりともなるべし。
関東くわんとうに送おくりつけて候さうらふが、当時たうじ人に預あづけられて有りと申すべしと宣のたまへば、斎藤さいとう五斎藤さいとう六、君に後おくれ参まゐらせて、安穏あんをんに都みやこまで上のぼりつくべし共とも覚えず候さうらふとて、泣々なくなく西に向け参まゐらせ、十念じふねんすすめ奉たてまつる。
太刀取たちどり北条ほうでうに目を合あはせ、いづくに太刀たちを打ち当て参まゐらせんとも覚えず候さうらふ。
自余じよの人にと辞退じたい申せば、さらばあれ斬れ、是これ斬れとて、斬手きりてを求もとむる所ところに、文袋ふみぶくろ頸にかけたる僧の、葦毛あしげの馬むまに乗りて馳せ来たる。
是これは高雄たかをの聖ひじりの弟子でしなりしが、あの松原まつばらにて、只今ただいま召人めしうとの斬られ給たまふと人申せば、あまりの心もとなさに、笠かさを上げてぞ招きける。
北条ほうでう是これを見て、子細しさい有り、しばしとて待たれけり。
松原まつばら近くなりければ、此の僧馬むまより飛んでおり、若君わかぎみ許されさせ給たまひて候さうらふ。
鎌倉殿かまくらどのの御教書みげうしよ是これに候さうらふとて、北条ほうでうに奉たてまつる。
ひらいて是これを見れば、小松こまつの三位さんみの中将ちゆうじやう維盛これもりの子息しそく尋ね出だして候さうらふなるを、高雄たかをの聖ひじりのしきりに申さるるの条でう、預あづけ申すべし。
北条ほうでうの四郎しらう殿どのへ、頼朝よりともとぞ書かれたる。
御自筆おんじひつなり。
御在判おんざいはんなり。
神妙しんめうなり神妙しんめうなりとて巻き給へば、斎藤さいとう五斎藤さいとう六、なかなかあきれて物言はず。
北条ほうでう、家子いへのこ郎等らうどうども、皆みなよろこびの涙なみだをぞ流しける。
さて文覚もんがく来きたられたり。
六代ろくだい御前ごぜん乞こひ請うけたりとて、気色きしよく誠まことにゆゆしげなり。
父ちち三位さんみの中将ちゆうじやう殿は数度すどの軍いくさの大将たいしやうなれば、いかに申すともかなふまじきと、鎌倉殿かまくらどのの宣のたまひしを、聖ひじりが奉公ほうこうのよしみを様々さまざま申しこしらゆる程ほどに、遅おそかりつるよと宣のたまひける。
北条ほうでう、さ候さうらへばこそ廿日はつかと宣のたまふ日数ひかずも既すでに延び候さうらふに、思おもへばかしこうこそ今いままでのがし参まゐらせて候さうらへとて、ともによろこびの色いろをなし、御輿おんこしに乗せて奉たてまつり、斎藤さいとう五斎藤さいとう六をば乗替のりがへに乗せて上のぼす。
此の程ほど何事なにごとにつけても情なさけ深かりし事今更いまさら嬉しきにつけても尽つきせぬ物は涙なみだなり。
若君わかぎみ物こそ宣のたまはね共ども、よにも名残なごり惜しげに思おもはれたり。
一日路ひとひぢなんども送おくり参まゐらせべう候さうらへども、鎌倉かまくらに参まゐりて申すべき大事だいじあまた候さうらへばとてひき別わかる。
聖ひじりは若君わかぎみ請け取り、夜を日にして上のぼる程ほどに、尾張国をはりのくに熱田あつたの辺へんにして年も暮れぬ。
正月しやうぐわつ五日いつかのひの夜に入りて、都みやこへ上のぼり着き、二条にでう猪熊ゐのくまの岩上いはがみと申す所に、文覚もんがくの里房さとばう有り。
そこに入れ奉たてまつり、息いきをぞつかせける。
夜中やちゆうに大覚寺だいかくじへおはして見給へば、門を立てて人なかりければ、音おともせず。
築地ついぢの崩くづれより若君わかぎみの飼かひ給たまひたる狗ゑの子こが走り出でて、尾ををふりて迎むかひけるに、母上ははうへはいづくにましますぞと問ひ給たまひけるこそせめての事なれ。
斎藤さいとう五築地ついぢを越えて、門かどをあけ、入れ奉たてまつるに、近ちかう人の住みたる所ところとも見えざりけり。
されば何なにとなり給たまひたる事どもぞや。
いかにしてかひなき命いのちを生きたるぞやと倒れふし、泣かれけり。
命いのちを継つがんと思おもふも、此の人々に今いま一度いちど見もし見えもし奉たてまつらんと思おもふが為なりとて、夜よもすがら嘆き悲かなしみ給たまふぞ誠まことに理ことわりと覚えて哀あはれなる。
明けて後のち、近里きんりの人に問ひ給へば、年のうちは大仏だいぶつ詣まうでと聞こえさせ給たまひしが、正月しやうぐわつの程ほどは長楽寺ちやうらくじに御籠おんこもりとこそ承うけたまはり候さうらへと申しければ、斎藤さいとう五急ぎかしこに尋ね下くだりて、母上ははうへに会あひ参まゐらせて、此のよし申しければ、母上ははうへ、こはされば夢ゆめかや夢ゆめかやとよろこばれけり。
急ぎ大覚寺だいかくじに帰かへり、若君わかぎみを見参まゐらせさせ給たまひて、嬉しさにも先出さきだつ物は涙なみだなり。
はやはや出家しゆつけし給へと宣のたまへ共ども、聖ひじり惜しみ奉たてまつりて出家しゆつけをばせさせ奉たてまつらず、高雄たかをに迎へ奉たてまつりて、置き参まゐらせらる。
母上ははうへのかすかなる御住おんすまひをも見つぎ給たまひけるとぞ聞こえし。
その後のち鎌倉殿かまくらどの、文覚もんがくのもとへ、便宜びんぎの時ときは、いかに維盛これもりの子こは、昔むかし頼朝よりともを相さうし給たまひし様やうに、朝敵てうてきをも滅ほろぼし、会稽くわいけいの恥はぢをきよむべき者ものにて候さうらふやらんと宣のたまへば、文覚もんがく、すべて不覚人ふかくじんにて候さうらふ。
御心やすかるべしと申されけれ共ども、鎌倉殿かまくらどの、見る所ところ有りてぞ乞こひ請うけ給たまふらん。
謀叛むほんおこさば定さだめて方人かたうどせん聖ひじりなり。
ただし頼朝よりともが一期いちごの間あひだはいかでか傾かたぶくべき。
子供こどもの末すゑは知らぬと宣のたまひけるぞおそろしき。
第百十九句 大原おはら御幸ごかう
法皇と女院と御参会の事 六道問答 龍宮城の夢見
女院死去
文治ぶんぢ二年にねんの春はるのころ、法皇ほふわうは、女院にようゐんの大原おはらの閑居かんきよの御住おんすまひ御覧ごらんぜまほしくおぼしめされけれ共ども、二月きさらぎ弥生やよひの程ほどは余寒よかんも猶なほいまだはげしく、峰みねの白雪しらゆき消きえやらで、谷たにの氷こほりもうちとけず。
かくて春はる過ぎ夏なつにもなりぬ。
賀茂かもの祭まつりのころにもおぼしめし立たたせ給たまひける。
八葉はちえふの御車おんくるまに召し、忍びの御幸ごかうなりけれ共ども、花山院くわさんのゐん、徳大寺とくだいじ、土御門つちみかど以下いげ、公卿くぎやう六人、殿上人てんじやうびと八人参まゐられけり。
大原おはら通どほり日吉ひよしの御幸ごかうと御披露ごひろう有りて、清原きよはらの深養父ふかやぶが作つくりし補陀落寺ふだらくじ、小野をののたかむら大后宮だいごぐうの旧跡きうせき叡覧えいらん有りて、それより御車おんくるまをとどめて、御輿おんこしにぞ召めされける。
遠山とほやまにかかる白雲しらくもは、散ちりにし花の形見かたみなり。
青葉あをばに見ゆる梢こずゑには、春はるの名残なごりぞ惜しまるる。
はじめたる御幸ごかうなれば、御覧ごらんじなれたる方もなし。
岩間いはまをつたふ水みづの音おともしづけくて、行き来の人も跡あと絶えたり。
寂光院じやくくわうゐんは古ふるう造つくりなせる山水せんずいの、木立こだち、よしあるさまの御堂みだうなり。
甍いらか破れては霧きり不断ふだんの香かうをたき、枢とぼそ落ちては月常住じやうぢゆうの灯ともしびをかかぐとも、か様やうの所ところをや申すべき。
岸きしの柳やなぎ露つゆをふくみ、玉たまをつらぬくかと疑うたがひ、池いけの浮草うきぐさ波なみにただようて、錦にしきをさらすかとあやまたる。
松まつにかかれる藤波ふぢなみの、梢こずゑの花の残のこれるも、山郭公やまほととぎすの一声ひとこゑも、今日けふの御幸みゆきを待ちがほなり。
深山みやまがくれの習ならひなれば、青葉あをばにまじる遅桜おそざくら、初花はつはなよりもめづらしく、水みづの面おもに散りしきて、よせ来る波なみも白妙しろたへなり。
法皇ほふわう是これを叡覧えいらんあつて、かくぞおぼしめしつづけらる。
池水いけみづにみぎはの桜さくら散りしきて波なみの花はなこそさかりなりけれ
庭にはの青草あをくさ露つゆ重く、籬まがきにたふれかかりつつ、外面そとも小田をだに水みづ越えて、鴫しぎ立つひまもなかりけり。
女院にようゐんの御庵室ごあんじつを御覧ごらんずれば、垣かきには蔦つたはひかかり、忍草しのぶまじりの忘草わすれぐさ、瓢箪へうたんしばしばむなしく、草くさ顔淵がんゑんが巷ちまたにしげしと覚え、庭にはには蓬よもぎ生おひしげり、藜〓れいでう深く鎖とざして、雨あめ原憲げんけんが枢とぼそをうるほす共とも言いつつべし。
板いたの葺き間もまばらにて、時雨しぐれも霜しもも置く露つゆも、漏る月影つきかげにあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。
うしろは山、前まへは野辺のべ、いささ小笹をざさに風さわぎ、世に立たたぬ身の習ならひとて、憂きふししげき竹たけの柱はしら、都みやこの方かたのことづては、間遠まどほに結へるませ垣がきや、わづかに言こと問ふ物とては、峰みねに木伝こづたふ猿さるの声こゑ、賤しづが爪木つまぎの斧をのの音おと、これらならではさらになし。
まさきの葛かづら、青あをつづら、来る人まれなる所なり。
法皇ほふわう御庵室ごあんじつに入らせ給たまひて、人やある人やあると召されけれ共ども、御答おんいらへ申す人もなし。
やや有りて奥おくの方かたより、老いたる尼公にこう一人参まゐり候さぶらふとぞ申しける。
女院にようゐんはいづちへ行啓ぎやうげいなるぞと仰せければ、此のうしろの山に花はな摘みに入らせ給たまひて候さぶらふと申せば、いかに花はな摘みて参まゐらすべき者も付き奉たてまつらぬにや、さこそ世よをのがれ給たまふとも、今更いまさら習ならひなき御わざはいたはしくこそと仰せければ、尼公にこう涙なみだをおさへて、事新しき申し事にては候さぶらへども、釈迦しやか如来によらいは、中天竺ちゆうてんぢくの主あるじ、浄飯大王じやうぼんだいわうの太子たいし、され共ども迦毘羅城かびらじやうを出でて、檀特山だんどくせんに入り、高き峰みねには爪木つまぎを拾ひろひ、深き谷たにには水みづを掬むすび、雪ゆきをはらひ、氷こほりを砕くのみならず、難行なんぎやう苦行くぎやうの功こうを積み、遂つひに正覚しやうがくをなし給たまふ。
前世ぜんぜの宿執しゆくしふをも、後世ごせの宿業しゆくごふをもさとらせ給たまひて、捨身しやしんの行ぎやう、修しゆしましまさんには、何なにの御はばかりか候さぶらふべきとぞ申しける。
此の尼公にこうの気色けしきを御覧ごらんずれば、身に着たる物は、絹布けんぷとも見分けず、あさましげなる作法さほふなり。
此のさまにてか様やうの事申す不思議ふしぎさよ。
汝なんぢはいかなる者ぞと御尋ね有りければ、尼公にこう涙なみだにむせび、しばしは物も申さず。
やや有りて涙なみだを押し拭のごひて、是これは少納言せうなごん入道にふだう信西しんせいが娘むすめ、阿波あはの内侍ないしと申す者にて候さぶらふ。
母ははは紀伊きいの二位にゐの娘むすめ也。
紀伊きいの二位にゐは、又法皇ほふわうの御乳母おんめのとなりしかば、さしも御近おんちかう召し使はれし御事に御覧ごらんじ忘わすれはて給たまひて、今更いまさら夢ゆめかと驚おどろかせましまして、法皇ほふわうも御衣ぎよいの袖そでをしぼりあへさせ給はず。
御障子みしやうじを開ひらきて御覧ごらんずれば、来迎らいかうの三尊さんぞん東ひがし向きにおはします。
中尊ちゆうぞんの御手みてには、五色ごしきの糸いとをかけられたり。
普賢ふげんの絵像ゑざう、善導和尚ぜんだうくわしやうならびに先帝せんていの御影みえいなんどもましましけり。
御前おんまへの机つくえには、八軸はちぢくの妙文めうもん、九帖くでうの御袈裟おんけさ置かれたり。
総そうじて諸卿しよきやうの要文えうもん共ども色紙しきしに書きて、所々ところどころに置かれたり。
蘭麝らんじやの匂にほひにひきかへて、香かうの煙けぶりぞ心細こころぼそく立ち上のぼる。
昔むかし大江おほえの貞基さだもと法師ぼふし、天台山てんだいさんの麓ふもと、清涼山せいりやうざんに住ぢゆうしける時とき、詠えいじたりし、笙歌せいが遥はるかに聞こゆ孤雲こうんの上うへ、聖衆しやうじゆ来迎らいかうす落日らくじつの前まへと書かれたり。
かの浄名居士じやうみやうこじの方丈はうぢやうの室しつの内うちに三万六千の榻しぢを並べ、十方じつぱうの諸仏しよぶつを請しやうじ奉たてまつりけんも、かくやとぞ覚えたる。
少しひきのけて、女院にようゐんの御製ぎよせいとおぼしくて、
思おもひきや深山みやまの奥に住すまひして雲井くもゐの月をよそに見んとは
一間ひとまなる障子しやうじを、開ひらきて御覧ごらんずれば、竹たけの御棹さをに、麻あさの御衣ぎよい、紙かみの衾ふすまをかけられたり。
さしも本朝ほんてう漢土かんどの妙たへなる類たぐひを尽くし、綾羅りようら錦繍きんしうの粧よそほひも、さながら夢ゆめになりにけり。
供奉ぐぶの殿上人てんじやうびとも、まのあたりに見参まゐらせし事なれば、今いまの様やうに覚えて、皆みな袖そでを濡らしける。
さる程ほどにうしろの山の細道ほそみちより、濃き墨染すみぞめの衣ころも着たる尼あま二人、木の根ねをつたはり下おり下くだる。
先さきに立ちたるは、樒しきみつつじ藤ふぢの花入れたる花筐はながたみを肘ひぢにかけたり。
今いま一人は爪木つまぎに蕨わらび折をり具ぐしてぞいだきたる。
花筐はながたみ肘ひぢにかけ給へるは、かたじけなくも女院にようゐんにてぞましましける。
爪木つまぎに蕨わらび折り添そへていだきたるは、大宮おほみやの太政だいじやう大臣だいじん尹通まさみちの孫まご、鵜飼うかひの中納言ちゆうなごん伊実これざねの卿きやうの御娘おんむすめ、先帝せんていの御乳母おんめのと、大納言だいなごんの典侍すけの局つぼねなり。
一念いちねんの窓まどの前まへには摂取せつしゆの光明くわうみやうを期ごし、十念じふねんの柴しばの枢とぼそには、聖衆しやうじゆの来迎らいかうをこそ待ちつるに、思おもひのほかに法皇ほふわうの御幸ごかうなりたる口惜くちをしさよ。
さこそ世を捨すつる身となりたるとも、かかるさまにて見え参まゐらせん事心憂く悲かなしくて、ただ消えも入らばやとぞおぼしめされける。
宵々よひよひごとの閼伽あかの水みづ、掬むすぶ袂たもともしをるるに、暁あかつき起きの袖そでの上うへ、山路やまぢの露もしげくして、しぼりかねさせ給たまひけん。
山へも立ち帰かへらせ給はず、御庵室ごあんじつにも入り給はず、やすらはせ給たまふ所ところに、内侍ないしの尼あま参まゐりて、御花筐おんはながたみを賜たまはりぬ。
是これ程ほどに憂き世をいとひ菩提ぼだいの道みちに入らせ給はん上うへは、今いまは何なにのはばかりか候さぶらふべき。
はやはや見参げんざん有り、還御くわんぎよなし参まゐらせ給へと申せば、げにもとやおぼしめしけん、泣々なくなく法皇ほふわうの御前おんまへに参まゐり給たまふ。
互たがひに御涙おんなみだにむせばせ給たまひて、しばしは仰せ出ださるる事もなし。
やや有りて法皇ほふわう御涙おんなみだをおさへ、此の御有様おんありさまとはゆめゆめ知り参まゐらせ候さうらはず。
誰たれか言こと問ひ参まゐらせ候さうらふと仰せければ、女院にようゐん、冷泉れいぜんの大納言だいなごん、七条しつでう修理しゆりの大夫だいぶ、此の人々の内方うちかたよりこそ、時々ときどき問ひ候さぶらへ。
その昔むかしはあの人々に訪とぶらはれべしとはつゆも思おもひより候さぶらはざつし事をとて、御涙おんなみだにむせび給へば、法皇ほふわうをはじめ参まゐらせて、供奉ぐぶの人々も御袖そでしぼりあへ給はず。
女院にようゐん重かさねて申させ給たまひけるは、人々にも後おくれしは、なかなか嘆きの中のよろこびなり。
その故ゆゑは、五障ごしやう三従さんじゆうの苦しみをのがれ、釈迦しやかの遺弟ゆいていにつらなり、比丘びくの聖名しやうみやうをけがし、三時さんじに六根ろつこんを懺悔さんげし、人々の後生ごしやうをとぶらひ候さぶらへば、生しやうをかへてこそ六道ろくだうを見るなるに、是これは生きながら六道ろくだうを見てさぶらふと申させ給へば、法皇ほふわう、是これこそ大きに心得候さうらはね。
異国いこくの玄弉げんじやう三蔵さんざうは、悟さとりの中に六道ろくだうを見、本朝ほんてうの日蔵にちざう上人しやうにんは、蔵王ざわう権現ごんげんの力ちからにて、六道ろくだうを見たりと承うけたまはる。
まさしく女人によにんの御身にて、即身そくしんに六道ろくだうを御覧ごらんぜられん事いかが候さうらふべき。
女院にようゐん、げに理ことわりの仰せと覚え候さぶらへども、六道ろくだうを見候さぶらふ様やうを、あらあらなぞらへ申すべし。
此の身は平相国しやうこくの娘むすめにて、女御にようごの宣旨せんじを下くだされ、后きさきの位くらゐにそなはつて、皇子わうじを産うみ奉たてまつり、位くらゐにつけ給たまひしが、天子てんしを子に持ち奉たてまつる上うへは、大内山おほうちやまの春はるの花、色々いろいろの衣更ころもがへ、仏名ぶつみやうの年としの暮くれ、摂禄せつろく以下いげの大臣だいじん公卿くぎやうに賞しやうぜられし有様ありさまは、四禅しぜん六欲ろくよくの雲くもの上うへ、八万はちまんの諸天しよてんに囲繞ゐねうせられてんも、かくやとこそ覚え候さうらひしか。
さても去さんぬる寿永じゆえいの秋の初め、木曾きそとかや言ふ者に、都みやこを攻め出だされ、はるばるの波なみの上うへにただよひて、室山むろやま水島みづしまとかやの軍いくさに勝ちて、人々少し色いろを直なほして有りしに、又一いちの谷たにとかやの軍いくさに負けて、一門いちもん数十人すじふにんしかるべき侍さぶらひ三百さんびやく余人よにん滅びしかば、日来ひごろの直垂ひたたれ束帯そくたいも、今いまは何なにならず、鉄くろがねをのべて身にまとひ、もろもろの獣けだものの皮かはを足あし手てに巻き、喚をめき叫びし声こゑの絶えざるは、帝釈たいしやく〓王ごわうの須弥しゆみの半天はんてんにして、互たがひに威勢ゐせいをあらそふらん、修羅しゆらの闘諍とうじやうも、かくやとこそ覚え候さぶらひしか。
山野さんやひろしといへども、休やすまんとするに所ところなし。
貢物みつぎものも絶えしかば、旅のつとめに及およばず。
供御ぐごはたまたま供そなゆけれども、水みづをも奉たてまつらず。
大海だいかいに浮かぶといへども、それ潮うしほなれば、飲むにも及およばず。
衆流海しゆりうかい飲のまんとすれば、猛火まうくわとなりなん餓鬼道がきだうも、かくやとぞ覚えたる。
さて年月としつきを送おくる程ほどに、過ぎにし春はるの暮くれに、先帝せんていをはじめ奉たてまつり、一門いちもんともに門司もじ赤間あかまの波なみの底そこに沈しづみしかば、残のこりとどまる人どもの喚をめき叫ぶ声こゑ、叫喚けうくわん大叫喚だいけうくわんの地獄ぢごくの底そこに落ちたらんも、是これに過ぎじとぞ聞こえし。
さても又武士ぶし共どもに捕とらはれて上のぼり候さぶらひし時とき、播磨国はりまのくに明石浦あかしのうらとかやに着きたりし夜、夢ゆめ幻まぼろしとも分わかたず、なぎさに出で西にしを、さし歩みゆけば、金銀きんぎん七宝しつぽうを散りばめて、瑠璃るりをのべたる宮みやの内うちへ参まゐりたり。
先帝せんていをはじめ参まゐらせ、一門いちもんの人々ども並なみゐて、同音どうおんに提婆品だいばほんを読誦どくじゆし奉たてまつる間あひだ、是これはいづくぞと申ししかば、二位にゐの尼あま、是これは竜宮城りゆうぐうじやうと答こたへ申せし程ほどに、あな目出めでたや、是これ程ほどゆゆしき所ところに苦しみは候さぶらはじと申せば、二位にゐの尼あま、此の様やうは、竜畜経りゆうちくきやうに見えて候さぶらふぞ。
それをよく見給たまひて、後世ごせとぶらひ給へと申すと思おもひて、夢ゆめはさめ候さぶらひぬ。
是これをもつてこそ六道ろくだうを見たりと申し候さぶらへ。
わが身みは命いのち惜しからねば、朝夕あさゆふ是これを嘆く事もなし。
いかならん世よにも、忘わすれがたきは安徳天皇あんとくてんわうの御面影おんおもかげ、心しんの終をはり乱れぬ先さきにと悲かなしめば、ただ臨終りんじゆうの正念しやうねんばかりなりと申させ給たまひもあへず、又涙なみだにむせばせ候さうらへば、法皇ほふわうをはじめ参まゐらせて、供奉ぐぶの人々、公卿くぎやう殿上人てんじやうびと、御袂おんたもとしぼりもあへ給はず。
猶なほも名残なごりは惜をしけれ共ども、さてあるべき事ならねば、法皇ほふわう都みやこへ還御くわんぎよなる。
夕陽せきやう西に傾かたぶけば、寂光院じやくくわうゐんの鐘かねの声こゑ、今日けふも暮れぬとうちしめる。
女院にようゐんは法皇ほふわうの還御くわんぎよを御覧ごらんじ送おくり参まゐらせさせ給たまひて、御涙おんなみだにむせばせ給たまひて、立たたせ給たまひたる所ところに、折節をりふし郭公ほととぎすのおとづれて過ぎければ、女院にようゐん、
いざさらば涙なみだくらべん郭公ほととぎす我われも憂き世に音ねをのみぞなく
徳大寺とくだいじの左大臣さだいじん実定さねさだ、御庵室ごあんじつの柱はしらに書きつけけるとかや。
いにしへは月にたとへし君きみなれどその光ひかりなき深山辺みやまべの里さと
その後のち法皇ほふわうも常つねに御訪おんとぶらひ共有りけり。
女院にようゐん遂つひに建久けんきうのころ、竜女りゆうによが正覚しやうがくのあとを追おひ、往生わうじやうの素懐そくわいを遂げ給たまふ。
冷泉れいぜいの大納言だいなごん隆房たかふさの卿きやう、七条しつでう修理しゆりの大夫だいぶ信隆のぶたかの卿きやうの北方きたのかたぞ、最期さいごまでも御訪おんとぶらひは申されけるとかや。
第百二十句 断絶だんぜつ平家
平氏の方人誅せらるる事 頼朝死去 文覚流罪
六代誅戮
さる程ほどに六代ろくだい御前ごぜんは、十四五にもなり給へば、見めかたちいつくしく類たぐひなく見え給へり。
十六と申す、文治ぶんぢ五年ごねん三月さんぐわつに、聖ひじりに暇いとま乞こひ給たまひて、いつくしげなる御髪、肩かたのまはりより鋏みおろし、柿かきの衣ころもなんどをこしらへて出でられけり。
斎藤さいとう五斎藤さいとう六、同おなじ様やうに出でたちて、御供おんともしけり。
先まづ高野かうやへ上のぼりて、滝口たきぐち入道にふだうが庵室あんじつを尋ねておはしつつ、維盛これもりが子にて候さうらふ。
父ちちの行方ゆくへ聞かまほしさに、是これまで尋ねて上のぼり候さうらふと宣のたまへば、滝口たきぐち入道にふだう、急ぎ出で会あひ見奉たてまつれば、少しも違はせ給はず。
只今ただいまの様やうにこそ覚え候さうらへとて、墨染すみぞめの袖そでをぞしぼりける。
やがて具ぐし奉たてまつり、熊野くまのへ参まゐり、三みつの御山へ参詣さんけいし、その後のち浜の宮の御前おんまへのなぎさに立ちて、跡あともなき、しるしもなかりき、遥はるかの海上かいしやうをまぼらへて、わが父ちちは此の沖おきにこそ沈しづみ給たまひぬとて、沖おきより立ち来る波なみに問とはまほしくぞ宣のたまひける。
それより都みやこへ帰かへり上のぼり、高雄たかをに三位さんみの禅師ぜんじとて、行おこなひすましておはしける。
平家の子孫しそんと言ふ事は、去さんぬる元暦げんりやく二年にねんの冬ふゆのころ、一つ二つの子をきらはず、腹の中をあけて見んと言ふばかりに尋ね出だして失うしなひてんげり。
今いまは一人も無しとこそ思おもひしに、新中納言しんぢゆうなごん知盛とももりの末すゑの子、伊賀いがの太夫知忠ともただと言ふ人おはしけり。
三歳さんざいと申しける時とき、都みやこに捨て置き落ち下くだりたりけるを、乳母めのとの紀伊きいの二郎兵衛じらうびやうゑ入道にふだう為成ためなりと言ふ者が養やしなひ奉たてまつり、伊賀国いがのくににある山寺やまでらに置き奉たてまつりたりける程ほどに、十四五になり給へば、地頭ぢとう守護しゆごあやしみける間あひだ、かくてはかなはじとて、建久けんきう七年しちねん三月さんぐわつに具ぐし奉たてまつり都みやこへ上のぼる。
法性寺ほつしやうじの一橋ひとつばしなる所ところに置き奉たてまつる。
そのころ都みやこの守護しゆごは鎌倉かまくらの右大将うだいしやう頼朝よりともの卿きやうの妹いもうと婿むこ、一条いちでうの二位にゐの入道にふだう能保よしやすのままなり。
いにしへは大宮おほみやの二位にゐとて、世よにもおはさざりしが、今いまは関東くわんとうのたよりとて、人の怖おぢ恐おそるる事限りなし。
その侍さぶらひに、後藤左衛門ごとうざゑもん基清もときよと言ふ者、いかがはしたりけん、此の事を聞きて、その勢三百さんびやく余騎よきにて、建久けんきう七年しちねん十月じふぐわつ七日の卯刻うのこくに、法性寺ほつしやうじの一橋ひとつばしへぞ押し寄せたる。
在京ざいきやうの武士ぶし共是これを聞き、劣おとらじと馳せける程ほどに、数千騎すせんぎに及およべり。
件くだんの所は、四方しはうに大竹おほたけ植うゑまはし、堀ほりを二重ふたへに掘り、逆茂木さかもぎ引ひきて、橋はしを引ひきゐたり。
平家の侍さぶらひに聞こふる越中ゑつちゆうの次郎兵衛じらうびやうゑ盛嗣もりつぐ、上総かづさの五郎兵衛ごらうびやうゑ忠光ただみつ、悪あく七兵衛しちびやうゑ景清かげきよ、是これ三人壇浦だんのうらの合戦かつせんより討ちもらされ、山林さんりんにまじはり、源氏げんじを伺うかがひまはりけるが、いにしへのよしみを尋ねて、此の人にぞ付きたりける。
是これをはじめて、城じやうの内うちに究竟くつきやうの者もの共ども廿余人よにんたて籠ごもりて、命いのちも惜しまず戦たたかふ所ところに、面おもてを向むくる者なし。
され共ども寄せ手の者ものども堀ほりを埋うづめて攻め入り攻め入り戦たたかひけり。
城じやうの内うちにも矢種やだね皆みな射尽くして、館たちに火ひをかけ自害じがいしてんげり。
上総かづさの五郎兵衛ごらうびやうゑ忠光ただみつは、その時ときそこにて討死うちじにしつ。
越中ゑつちゆうの次郎兵衛じらうびやうゑと悪あく七兵衛しちびやうゑは、いかがはしたりけん、此の時ときも又落ちにけり。
伊賀いがの太夫知忠ともただは、生年しやうねん十六になり給たまふが、腹かき切り、西に向きて、十念じふねんとなへて果て給たまひぬ。
乳母めのと紀伊きいの次郎兵衛じらうびやうゑ入道にふだうは養君やうくんの自害じがいし給たまひたるを、膝ひざにひきかけ、若君わかぎみも、腹かき切りかさなつてぞ伏しにける。
その子紀伊きいの新兵衛しんびやうゑ、同おなじく次郎、同おなじく三郎さぶらう共ともに討死うちじにしてんげり。
討たるる者十六人、自害じがいする者五人とぞ聞こえし。
後藤左衛門ごとうざゑもん、此の首ども取り集めて、二位にゐ入道にふだう殿どのへ馳せ参まゐる。
二位にゐ入道にふだう車くるまに乗り、一条いちでう大路おほぢへやり出ださせ、実検じつけんせられけり。
紀伊きいの次郎兵衛じらうびやうゑ入道にふだうが首をば見知りたる者もの共ども多おほかりけり。
伊賀いがの太夫の首をば、人いかでかしるべきなれば、見知りたる者なし。
新中納言しんぢゆうなごんの北方きたのかた、治部卿局ぢぶきやうのつぼねとて、七条しつでうの女院にようゐんに候さぶらはれけるを、迎むかひ寄せ奉たてまつり、見せ参まゐらせければ、治部卿局ぢぶきやうのつぼね、いさとよ、三歳さんざいと申す時とき、故こ中納言ちゆうなごん、都みやこに捨て置きて落ち下くだられて後のちは、生きたりとも、死したりとも、我われその行方ゆくへを聞きかず、ただし故こ中納言ちゆうなごんの思おもひ出いだす所ところのあるは、もしさやあらんとて、涙なみだにむせび給たまひけるにぞ、知忠ともただの首にも定さだめける。
小松殿こまつどのの末すゑの子、丹後たんごの侍従じじゆう忠房ただふさは、屋島やしまの軍いくさよりかけはなれて、紀伊きいの国の住人ぢゆうにん、湯浅ゆあさの七郎兵衛しちらうびやうゑ宗光むねみつがもとにぞおはしける。
いかがはしたりけん、此の事関東くわんとうに聞こえて、熊野くまのの別当べつたう湛増たんぞうに仰せて、湯浅ゆあさを攻めらる。
湛増たんぞう湯浅ゆあさがもとへ寄せて、追つ返かへさるる事数箇度すかど、され共どもいまだ攻め落おとさず、丹後たんごの侍従じじゆう宣のたまひけるは、さればとて、忠房ただふさが故ゆゑに、各々おのおのの身をむなしくなし奉たてまつらん事こそいたはしけれ。
ただ我われを都みやこへ具ぐして上のぼれ。
降人かうにんになりて、斬られんと宣のたまへば、いかでかさる事候さうらふべしとて、しきりにかなふまじきよし申しけれども、あまりに宣のたまふ間あひだ、力ちから及およばず。
七郎兵衛しちらうびやうゑ具ぐし奉たてまつり、六波羅ろくはらへぞ出でたりける。
此のよし関東くわんとうへ申しければ、別べちの子細しさいあるまじ。
急ぎ斬るべしと宣のたまへば、六条河原ろくでうかはらにて遂つひに斬り奉たてまつる。
さてこそ湯浅ゆあさは安堵あんどしけれ。
又小松殿こまつどのの御子に、土佐守とさのかみ宗実むねざねと言ふ人おはしけり。
是これは二歳にさいの時とき、大炊御門おほいのみかどの左大臣さだいじん経宗つねむね取りはなちて、廿にじふ余年よねん養育やういくせられき。
されば平家都みやこを落ちし時ときも、相あひ具せざりき。
いかがはしたりけん、此の事関東くわんとうへ聞こえて、関東くわんとうより、攻せむべきにて下くだせなんど聞こえし間あひだ、土佐守とさのかみ、急ぎ出家しゆつけし給たまひて、東大寺とうだいじの俊乗しゆんじよう上人しやうにんのもとへおはして、是これは小松こまつの内府だいふが子にて候さうらふが、三歳さんざいの時ときより、大炊御門おほいのみかどの左府さふ取りはなち、此の廿にじふ余年よねん養育やういくせられき。
されば弓矢ゆみやの本末もとうらを知り候さうらはねども、猶なほ平家のゆかりとて、関東くわんとうより攻せむべきなんど聞こえ候さうらふ間あひだ、髻もとどり切りて、聖ひじりの御房ごばう頼たのみ参まゐらせんとて参まゐりて候さうらふ。
助けさせ給へと宣のたまへば、上人しやうにん、かなふべしとは覚え候さうらはね共ども、申してこそ見候さうらはめ。
その程ほどは是これに忍しのばせ給へとて、東大寺とうだいじの油倉あぶらぐらと言ふ所ところに置き奉たてまつる。
上人しやうにん関東くわんとうへ申されければ、鎌倉殿かまくらどの、対面たいめんをしてこそ。
斬るべき人ならば斬り、助くべき人ならば助けんずれ。
急ぎ先まづ是これへ下くださるべしと宣のたまへば、上人しやうにん力ちから及およばねば、土佐とさ入道にふだう関東くわんとうへ下くだし給たまひけり。
土佐とさ入道にふだう関東くわんとうへ下くだるべしと聞こえし日より水みづをだにものどに入れ給はず、十六日じふろくにちと申すに、足柄山あしがらやまにて遂つひに干死ひじにし給たまふ。
年とし廿三、心のうちこそおそろしけれ。
建久けんきう八年はちねん十一月じふいちぐわつ七日、但馬たぢまの国の住人ぢゆうにん、比気ひきの権守ごんのかみ、越中ゑつちゆうの次郎兵衛じらうびやうゑが首持ちて鎌倉かまくらへ参まゐりたり。
是これ年来としごろ盛嗣もりつぐとも知らずして、権守ごんのかみを頼たのみて仕つかはれける程ほどに、躾しつけ骨柄こつがら、立居たちゐ振舞ふるまひ、ことにふれ抜群ばつぐんに見えける間あひだ、哀あはれ是これは下臈げらふと覚えぬもの哉と思おもひ、是これをあやしめ尋ね聞く程ほどに、盛嗣もりつぐにて有りけるなれば、討ちたりけるとかや。
悪あく七兵衛しちびやうゑも、同おなじき年としの冬ふゆ、鎌倉かまくらにて捕とらはれて宇都宮うつのみやに預あづけらる。
そのころの主上しゆしやうと申すは、後鳥羽院ごとばのゐんの御事なり。
御遊びをのみ御心に入れさせ給たまひて、天下てんがは一向いつかう卿きやうの二品にほんのままなりければ、世の憂うれひ嘆きも絶えざりけり。
高雄たかをの文覚もんがく、是これを見奉たてまつり、世よのあやふき事を悲かなしみて、二宮にのみやは御学問ごがくもんも怠り給はず、正理しやうりを先さきとせさせ給へば、いかがして二宮にのみやを位くらゐにつけ奉たてまつらんとぞ謀りける。
されども鎌倉かまくらの右大将うだいしやうおはしませし程ほどは、申しも出ださず。
主上しゆしやう御位おんくらゐを去さらせ給たまひて、第一だいいちの皇子わうじに譲ゆづり奉たてまつり給たまひけり。
正治しやうぢ元年ぐわんねん正月しやうぐわつ十三日じふさんにちに、鎌倉殿かまくらどの五十三と申すに失せ給たまひて後のち、文覚もんがく此の事取り企くはだてける程ほどに、たちまちに聞こえて、文覚もんがく召し出だされ、年とし八十にあまりて、隠岐国おきのくにへぞ流されける。
上皇しやうくわうあまりに手毬てまりを好このませましましければ、文覚もんがく、追立おつたての庁使ちやうし、令送使りやうそうしに具せられて、都みやこを出でし時ときも、様々さまざまの悪口あつこうども申して下くだりけり。
毬杖ぎちやう冠者くわんじやにおいては、わが流さるる所ところへ迎へ申さんずる物をと言ひてぞ流されける。
隠岐国おきのくにへ下くだり着きて、遂つひに思おもひ死じににぞ死にける。
その有様ありさま、おそろしなんどもおろかなり。
しかるに承久じようきう三年さんねんの夏のころ、一院いちゐん右京うきやうの権ごんの太夫義時よしときを討たんとし給たまひし程ほどに、軍いくさに負け給たまひて、所ところこそおほけれ、隠岐国おきのくにへしも遷うつされ給たまひけるぞあさましき。
六代ろくだい御前ごぜんは三位さんみの禅師ぜんじとて、行おこなひすましておはせしを、文覚もんがく流されて後のち、さる人の弟子でし、さる人の子なり、孫まごなり。
髪は剃りたりとも心はよも剃そらじとて、宮人みやびと資兼すけかねに仰せて、鎌倉かまくらへ召し下くださる。
此のたびは駿河国するがのくにの住人ぢゆうにん、岡辺をかべの三郎さぶらう大夫たいふ承うけたまはつて、鎌倉かまくらの六浦坂むつうらざかにて斬られけり。
十二歳より三十二まで保たもちけるは、長谷はせの観音くわんおんの御利生ごりしやうとこそ覚えたれ。
それよりしてぞ、平家の子孫しそんは絶えにける。
終をはり