晶子鑑賞 平野萬里
 「新墾筑波を過ぎて幾夜か寝つる」といふ形、即ち五七・七の片歌といふ短い唄がわが民族の間に発生し、それが二つ重つて五七・五七・七の今の短歌の形が出来たのは何時の頃であらうか。
 少くもそれは数千年の昔のことで、その後今日までこの形式をかりて思ひを抒べた人々は恐らく幾千万の多きに上ることであらう。
 その内本来無名の民衆を除いて所謂歌人だけを数へても今日分明してゐるもの数千名はあらう。
 それほど短歌の形式はわが民族の好みに合つてゐるらしく今日でも数万人が朝に夕にこの形式を玩んでゐるやうだ。
 しかしその多数の歌人、非歌人の中にあつて我が與謝野晶子さん位沢山の歌を詠み、また優れた歌を詠んだ人は先ず無からう。
 人麻呂歌集の歌が全部人麻呂の作だとしても、貫之、和泉式部、西行、定家、伏見院さては近世の誰彼を以て比べても比較にはならない。
 二十代からなくなる六十五まで詠みつづけ、万を単位にして数へるほど詠まれたのであるから単に量の上からだけでも驚くに足りるのに、その内少くも二千首は秀歌の部類へ入るべき作で、之を古来の秀歌――私の標準に従ふと千首とはない――に比すると質の上からも一人で全体を遥に凌駕してゐる様に私には思はれる。
 しかし之を鑑賞する上からいふとその数の多い事が甚しく妨げとなつて、折角の宝も国民大衆とは殆ど交渉なく、少数のお弟子さん達の間にもてはやされ或は僅に好事家の書棚の隅に眠つてゐる位に過ぎない。
 之は甚しく不合理な事であると共に恐ろしく勿体ないことでもある。
 今や私達の日本は文化国家として新発足をする事になつたが、何を土台としてその上に何を建つべきであらうか。答の一半は明亮である。
 曰く近代の反動的風潮を一掃せよ。
 之を歌に就いて云へば万葉を一掃せよといふ事になる。
 罪が万葉にあるわけではないが、万葉の悪歌を祖述する反動的日本主義がわるいのである。
 又古臭い万葉などにこだはつてゐては新らしい詩歌の天地など開けつこはない。我より古を為すといふことが一番よいのであるが、誰にでもは望めない。多くの場合拠り処がほしいであらう。今日の短歌の拠り処は大体二つあつて、一は万葉、一は啄木であるやうだ。
 啄木は大に宜しいが、万葉は暫く之を捨つべきであらう、その万葉の代りになるものとして私はここに晶子歌をとりあげて之を国民大衆に紹介したい。
 而してまだ諸君の全く知らない、日本にもこんなよいものがあるといふ事を分つて貰ひ、精神的食糧の一部にも当てて貰ふと共に来るべき新文化建設の礎にもして欲しいと思つて之を書き出すわけだ。
 さうは云ふものの私にも晶子歌の全体などとても分らない。
 その分つた人は故寛先生一人位のものだらう。
 云ひ直せば、晶子歌のほんとうの読者は唯一人よりゐなかつたとも云へるわけだ。
 私など半分も分るか分らない位である。
 人間の偉らさが違ふのだから仕方ない。
 それにしても今日斯ういふ試みをする上に私以上の適任者があるかといへばそれも無ささうである。
 そこで止むを得ず私が当るのである。
 前置はその位にして直ちに歌を引き出さう。
 私は近年岩野喜久代さんのイニシヤチフによつて「晶子秀歌選」なる一書を編んだ。
 この本も紙型が焼けたので今では珍本になつてしまつたが、作者が前後四十余年間に作つたといはれる数万首中当時私の見る事の出来た二万余首を資料として二千六百首を選んだものである。
 のち之を年代順に春夏秋冬二巻に分ち、その前にプレリウドとして「乱れ髪」、「源氏振」の二小巻を付けて之を作つた。私は自分が選んだものながらこんなよい本はないと思つて日夜珍重し讃歎してゐる。
 私はこの本を台本として青年層の読者の為にはその中から美しいまた不覇奔放な初期の作から順に、然らざる読者層の為には晶子歌の完成した縹渺たる趣きを早く知つて貰ひたく晩年の作から逆に交互に拾つて行くことにする。

  黒髪の千筋の髪の乱れ髪
かつ思ひ乱れ思ひ乱るる

 明治三十四年七月、作者二十四歳の時出た第一集「乱れ髪」は一躍著者の文名を高からしめ、その自由奔放、大胆率直な内容と稍唐突奇矯な表現とを以て一世を驚倒させ毀誉相半ばしたものであるが、作者に取つては一生後悔の種ともなつた。
 罪は主としてその表現法にある。明治の歌を研究する人が出たら分ることと思ふが、私の胡乱な記憶と推定とに従へば、晶子調、之を拡げていへば明星調、いひ替へれば明治新調の成立したのは明治三十六年頃の事で、それ以前を私は発酵時代と名づける。
 さうして「乱れ髪」はその混沌たる発酵時代を代表してゐるのである。
 試みに開巻第一の歌
 夜の帳にさきめきあまき星の今を
下界の人の鬢のほつれよ
 を取つて見よう。
 あの星のまたたくのを見てゐると天上界では人々翠帳にこもつて甘語しきりなるを思はせるのに、その同じ時下界の私は一人で悶々としてゐるといふ様な意味に解せられるが、「星の今を」など随分無理な言ひ廻しであり、終りの「よ」なども困りものである。
 しかし詩の内容と外形とは二にして実は一つのものであるから、作者と雖後になつては之を如何ともしかたがなかつたものと思はれる。
 その「乱れ髪」の中にも相当調つた歌が少しはある。
 秀歌選には二十二首採つたが、この黒髪の歌もその一つで、私は之を開巻第一首とした。
 乱れ髪といふ本の名がどこから来たものか、つひ質さずにしまつたが、或はこの歌などから採られたのではないかとも思はれる。私はさう思つて秀歌選ではその「乱れ髪」の巻のはじめに置いて見たのである。
 一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作でそれだけのものであるが、髪の字を畳みかけて三つ重ね、その印象を読者の脳裏に刻みつけつつ、思ひ乱れ思ひ乱れと更に二つ言葉を重ね深く強く言ひ表はして成功してゐると私は思ふ。
 「かつ」といふ字句もよく利いてゐる。
 作者は岩波文庫本を自ら選ぶに当つて「乱れ髪」から十四首を採つたが、この歌は這入つてゐない。作者も重く見ず、世間的に有名な歌でもないが、繰り返し朗誦して厭くことを知らない佳作だと私は思つてゐる。

  鵠沼の松の敷波ながめつつ
我は師走の鶯を聞く

 病歿の前年昭和十六年の十二月、十二月は作者の誕生月であるから病床にありながら最後とも思はれる内祝もすませ、折から初まつた戦争の事を思へば いくさある太平洋の西南を思ひて我は寒き夜を泣く と歌ひながらも暫くは之を忘れ、心静かに木高い杉並辺には今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。
 上から見ると海の波の様にも見えるといふのであらう。
 何時の初冬であらうか、私も御いつしよに鵠沼に行つて皆で歌を詠んだことがあるが、この歌を読むと寝ながらその松林を想像に描いてゐる光景が私の脳裏にまざまざと浮んで来る。
 洵に大家の間吟として相応しい心憎い歌といふべきであらう。
 その内秀歌選の再版を出す様な折もあらうが、その際は極く少し許り改訂を試みたい。
 即ち軍に関係したものや満洲開拓の分などは削りたい。
 さうすると巻尾の歌はこの歌になるであらう。
 又鵠沼の歌には十三年頃詠まれた
 鵠沼は広く豊かに松林伏し
春の海下にとどろく
 といふのがある。

  ゆあみして泉を出でしわが肌に
触るるは苦し人の世の衣きぬ

 「乱れ髪」の五十八首目にあり、裸体讃美の歌であるから、同集の持つ華麗な彩色の一つに数へられる。
 その頃明星は一條成美の簡単なスケツチ風裸絵の為に発売を止められた。
 さういふ時代であつたからこれも珍しかつたのである。
 集中無難な歌の一つで、それ故に作者も前記十四首の中に入れてゐる。

  禅院のそとの高松水色に
霙けぶりて海遠く鳴る

 禅院は鎌倉の円覚寺を斥し、それは作者が好んで訪れ、又故寛先生の忌日なども大抵はここで行はれた因縁の深い寺院である、それを病床で空想に描いた歌で、この海もまた作者に最も親しい海である。
 鎌倉の海を思ふと直ちに私の口から出て来る歌がある。それは
  鎌倉の由井が浜辺の松も聞け
君と我とは相思ふ人
 といふ歌である。
 「佐保姫」に出てゐるが、明治四十一年だと思ふ、私の動坂の寓居の歌会で作られたものである。
 はじめ互選の際作者を知らぬ儘に余りあらはなので私がけなしつけた処、後でそれが晶子さんのだと分つて、私の感じは不思議に表裏一転し忽ち之を讃美するやうになつた。
 さういふことがあつたので、今でも忘れないでゐる。
 若い人よ、歌を作るなら大胆に率直にこんな風に作つて見たら如何ですか。

  黒髪は王者を呼ぶに力わびず
竜馬来たると春の風聴く

 これは第二集「小扇」(明治三十七年一月出版)の巻尾の歌で、調子の出来上つた後の作であるが、内容は「乱れ髪」を特色づける凛々たる勇気を誇示して恥ぢない歌だ。
 若い女が何物をも動かさずには置かない自らのはちきれさうな力を讃へるもので、日本文学にはそれまであまりなかつた思想である。
 春風を竜馬の訪れと聞くなど驚くべき矜貴といふべきである。
  罪多き男こらせと肌きよく
黒髪長くつくられし我
 とか又有名な
  やは肌のあつき血汐に触れも見で
さびしからずや道を説く君

 など同じテマに属する一連の作があること昔は誰でも知つて居た。

  正月に知れる限りの唱歌せし
信濃の童女秋も来よかし

 久しく病床に伏す人の何物かを待つ気持がこれほどよくあらはれてゐる歌は多くあるまい。又
 危しと命を云はず平らかに
笑みて我あり友尋ね来
 とも歌はれてゐる。
 余り屡々病床を御尋ねしなかつた私などはこれらの歌を読むとほんとうにすまなかつたといふ気がする。

  こし方や我れおのづから額ぬかくだる
謂はばこの恋巨人の姿

 之は作者自身の場合を述べたものであるから、事実を知らないとよく分らない。
 晶子さんが與謝野夫人になるには実に容易ならぬ障礙を突破しなければならなかつた。
 寛先生の側にも面倒があり、作者は
 親兄の勘当ものとなり果てし
わろき叔母見に来たまひしかな
 といふ歌のやうに、父兄から勘当同様の身となり、剰へ新夫妻は恋仇の恐ろしい報復を受けて一時は文壇の地位をさへ危くしたほどであつた。
 それは即ち一切の因習、道徳、義理、人情、善悪等を超越した行為であつた。
 それは殆ど宗教的の意義をさへ持つてゐた。
 或は人間至上主義といつたら反つて当つてゐるかも知れない。
 晶子さんの人間として偉大な一生はこの強烈な恋の道行から出発し、それを一筋に最後まで押し進めていつたことに尽きる。これだけの予備知識を以て臨めば、この歌の意味もその強い調子も自ら分るであらう。
 自分自身にさへも頭が下るといふのである。
 又人間性に対し深く考へさせられるこの一つの場合が簡潔に巨人の姿の一句で表現せられてゐることも適切である。これに依つて晶子さんが自身の場合をどう見てゐたかよく分り、世間の道徳律などを盾に彼此批判すべき筋のものでないことも分つて、悲痛の響をさへ帯びてゐる歌である。
 さうは云ふものの作者も亦唯の人間だ。
 その人間らしい歌に
 親いろせ神何あらんとぞ思ふ
ああこの心猛くあれかし
 といふのも見出される。

  紅べにの萩みくしげ殿と云ふほどの
姫君となり転寝うたたねぞする

 これは病床から偶々起き上つて坐椅子か何かに助けられ、僅に接し得る外界、庭の萩を見ながら詠まれたもので、作者の平安趣味のすらすらと少しも巧まずに眼前の風物を縁にあらはれてゐる気持のよい歌である。しかし斯ういふ歌はあまり真似をしてはいけない。
 真似ても歌にはなりにくい。
 なぜなら人間の反映がこの歌を為してゐる。
 さういつても過言でないからである。

  少女をとめなれば姿は羞ぢて君に倚る
心天ゆく日もありぬべし

 晶子さんを親しく知らない人は、その書いたものから逞しい女丈夫などを想像するかも知れないが、実は若い時から物静かなはにかみやで、見た所は純日本風のしとやかな奥様でしかなかつた。
 唯心中に炬火が燃え盛つてゐて、又自らの天分を高く評価して居られたのが他との相違である。
 それをその儘詠出するとこの歌になる。

  片隅に柿浸されし上つ毛の
古笹の湯の思はるる秋

 静かに病床に横たはる長い病人が、大分薄れた意識で曾遊の地を思ひ出す場合、印象の強く残つたものだけが浮び上つて来ることだらうと推定される。
 従つてさうして出来た歌も自ら印象的のものとなつて、殆ど凡てが金玉の響を伝へ、その数は少いが健康時の作の持たぬ濃いニユアンスを持つのはその処である。
 この歌もその一つで、渋を抜く為に温泉に浸されてゐた柿の色が強く印象に残つてゐたものと思はれてこの歌が出来たのであらう。
 作者が笹の湯に遊んだのは十四年頃で
 逞しき宿屋の傘を時雨やみ
大根の葉へ我置きて行く
 などその時も多数の作が残つてゐる。

  紫の我が世の恋の朝ぼらけ
もろての上の春風薫る

 久しくあこがれてゐた恋がいま成就しようとしてゐる、その時の心を、かぐはしい朝の春風がもろ手の上にをどるといふ境に具象した歌であるが、こんな歌さへ晶子以前には決してなかつただらう。
 因に紫といふ色は晶子好みとでもいふべき色で、著る物なども多くこの色で染められ晩年まで変らなかつたといふことである。

  友帰り金剛峰寺の西門の
入日に我をよそへずもがな

 常に吟行を共にした御弟子の近江滿子さんが一人高野山に登られたのを病床で想像しながら詠まれた歌の一つ。
 何れ死ぬのであらうが死ぬ事はやはり淋しい事だ。
 そんな事は思ひたくないといふ感じを西門の入日に托した歌で、さういふ場合の心細い感じが洵によくあらはれてゐる。しかしまた脱俗した趣きもあり健康時には反つて出来さうにもない歌である。
 同じ時の作に
 色づきし万年草のひさがるゝ
高野の秋も寒かりぬべし
 桔梗など刈萱堂に供へつゝ
高野の山を友の行くらん
 などがある。

  つばくらの羽にしたたる春雨を
受けて撫でんかわが朝寝髪

 日本では女の髪を黒髪といつて女そのものと同じ値をつけてゐる。
 その大切な黒髪を少女心のこよなくいたはる心持を詠んだ歌であるが、情景相応した気持のよい出来栄えで乱れ髪の中では最も無難な歌の一つに数へられる。

  刈萱は烏の末の子と云はん
顔して著たるぶつさき羽織

 昭和十五年の春夫人の仆れた脳溢血は可なり程度の強いもので一時は意識さへ朦朧となられたが次第に囘復し翌年の夏には起き上ることが出来、やがて上野原の依水荘へ出養生に行かれるまでになつた。
 精神力も著しく囘復し、半切なども書かれ、歌もここでは沢山よまれた。
 その帰途、小仏峠辺で車窓に映つた光景の一つがこれだと思はれる。
 ぶつさき羽織は武人の著た羽織で刀を差す為に背中から下が裂けてゐるあれである。
 烏の末の子とでもいふ様な顔をしてぶつさき羽織を著てゐる刈萱が車窓に映つたのである。
 斯ういふ表現は全く個人的な印象に本づくものであるから他人はどうすることも出来ない。
 唯それが天才の目に映じたものである場合に読者はそれに依つてものを見る目を開けて貰ふことが出来るだけである。
 天才の作品を読むことに依つて生活が豊かになるのはその為である。
 また斯ういふ表現法は従前の日本には無かつたことであるが、実は少しも珍しくはない。また短歌のやうな短い形式の詩では、斯ういふ風な表現によつて印象を適確に再現し得る場合が多い訳でもある。

  春短し何に不滅の命ぞと
力ある乳を手に探らせぬ

「乱れ髪」の代表的な作として久しく喧伝せられたものの一つであるが、これなどは今取り出して見ても若い生命の躍動が感ぜられて面白い。
 難は少しく明白に過ぎることだが、古陋な因習を断ち切つて人間性を強く主張するにはこの位にやらねばならなかつたのである。
 この歌の基調は現在主義であつて生命不滅観や既成宗教の未来観などを蹴とばしたものであるが、また同じ作者のものが一生を通じて生活の基調を為してゐて少くも変ることがなかつた。

  唐傘からかさのお壼になりし山風の
話も甲斐に聞けばおどろし

 前記依水荘に出養生に行つて居られた時の作の一つ。
 夏の山の雨は往々にしてすさまじい勢ひを見せるものだ。
 この間にもさういふ雨が降つたと思はれ
 その昔島田の橋に君の会ひ
我の会ひたる山の雨降る
 といふ歌があるが、その風雨の中を帰つて来た人の話を聴いて、こわいことだと山国の甲斐にあることを感じたのである。

  わが春の笑みを讃ぜよ麗人の
泣くを見ずやと暇ひまなきものか

 これは第三集「毒草」にある歌で、その調子は既に生長してゐて流麗まことに鶯の囀ずる如きものがある。
 さて歌の意味であるが一寸分りにくい。
 当時作者の好んで歌つた京の舞姫の場合ではないかと思ふ。
 さうだとすれば朝は「私の笑顔をほめよ」といひ夕は「こんな美人が泣いてゐるのに」と戯れつつたわいない一日を過ごすといふ様に解せられるが如何いふものだらうか。

  死も忘れ今日も静に伏してあり
五月雨注ぐ柏木の奥

 これも大分よくなられてからの歌だと思ふが、前の西門の入日の歌もあり又末嬢の藤子さんの家の焼けたことを依水荘で聞かれて
 やがてはた我も煙となりぬべし
子の家の焼くるのみかは
 と死の近づきを想見する歌もあるが、床上生活の大部分はこの歌のやうに静かに余りものを考へずに休んで居られた時間であつたらうと想像せられる。
 人間性の尊貴のために又自己の天分を高度に発揮しようとしてその旺盛な生活力を駆つて一生奮闘し続けた作者を知るものに取つては、せめて残された床上の生活位は安らかなものであつて欲しかつたが、事実もさうであつたらしくこの歌をよんでほつとした人も多いことであらう。

  いとせめて燃ゆるがままに燃えしめよ
斯くぞ覚ゆる暮れてゆく春

 春はいま終らうとしてゐる、その間だに青春の血の燃ゆるに任せようといふ例の積極的な力強い感じが批の打ち処なく美しくあらはれてゐる名歌の一つ。作者もこの歌は捨てなかつた。

  隅田川長き橋をば渡る日の
ありやなしやを云はず思はず

 昼夜寝続けてゐる病人の幻想にあらはれるものは必ずや多少とも深い印象の残されたものに相違ない。隅田川もその一つであつて、一時は浜町辺の病院にゐる幻覚をつづけ
 大君の都の中の大川に
ほとりして病む秋の初めに
 といふ歌さへ作られてゐる程であつた。
 この歌は、思想の動揺に堪へる気力がない、も一度直つて隅田川を渡れるか如何かそんなことさへ口へ出したり考へたりしないで置かうといふので、意識のうすれた心情がよく現はれてゐてあはれが深い。

  松前や筑紫や室むろの混り唄
帆を織る磯に春雨ぞ降る

 この歌はどういふものかあまり本に出て居ない。與謝野家がまだ渋谷の丘の下の家にゐた頃四五人集つて歌をよむこと毎月一度位はあつたやうであるが、ある日のさういふ席で作られたものである。
 当時歌の作り方の分らなかつた初心の私に強い印象を刻みつけた歌であるから今に忘れないものの一つである。偶々その席に来合せた故馬場孤蝶先生もまたこの歌にひどく感心したやうな記憶がある。
 「室」は室の津である、あとは説明を要しないが、如何にものどかな磯の景色が絵のやうに浮ぶではないか。
 ただし之は明治の大御代の話であるから今日の読者には如何か分らない。

  身のいたしゆたのたゆたに縞葦の
浸れる川へ我も入らまし

 同じ姿勢で寝つづけてゐる病人が、体が痛いのでどうかしたいと思つた時、ふと豊かな水の中で静かに縞葦のゆれる光景が目に浮んだ。
 あの葦のやうに川へつかつたら如何だらう。
 如何にも気持がよささうだと途方もない空想を描く歌である。さうしてこの途方もない空想こそ詩人に与へられた一つの特典なのである。

  紅あけの緒の金鼓寄せぬと覚まさばや
よく寝る人を憎む湯の宿

 京の舞姫を詩題に使つたもの若い晶子さんのやうなのは先づない。
 (後を吉井勇君によつて継承せられてはゐるが)。
 この歌もその一つで、有馬辺の小さな朝の光景のスナツプである。
 「金鼓」は軍鼓で、但し紅い紐がついてゐるから女持の軍鼓である。
 敵が攻めて来ましたよといつて起しませうかといふわけなのであらう。
 世間一般の歌といふものが味もそつけもないつまらない唯事歌となり了つて既に久しい。
 どうです、少しこんな歌でもも一度はやらせて世直しがして見たいとは思ひませんか。

  日を経ては香に焦げたる色となる
初めは白き山梔くちなしの花

 之も病床吟であるから、瓶に挿した山梔の花を詠じたものである。
 もし露地の花をよんだものだとするとこれではいけない、何故なら少しも露地の景色があらはれてゐないからである。瓶の山梔を毎日眺めてゐると既に色づいて来て香にこげたやうな色になつたといふので如何にも床上の山梔の花のやつれてゆく様がその儘にあらはれてゐる。
 やつれながらも尚匂つてゐるのを香にこげたといふ風にいつたのだと解くものがあるかも知れないがさう迄考へなくてもよからう。

  相見んと待つ間も早く今日の来て
我のみ物は思ふ衰へ

 由来純抒情詩のカテゴリイに属する作にはむづかしくて意味の分りにくいのが少くないが、特にこの作者のにはそれが多い。中には女でなければ分らないのもあるし、分つたやうで分らないのもある。
 この歌などもどうもよく分らない。
 再会を約した日が今日となつてしまつたがこの私の衰へ様は如何だ、それはこちら許りが物思ひにふけつた為である。さうとも知らずにこのやつれた様を何と思ふだらうといふ様に私は解くが果して如何いふものか。

  経文を伝法院に学ばんと
貞子の語り蟋蟀の鳴く

 由来家常茶飯事を歌によんで立派な歌にしたてたこと作者のやうな人は先づなかつた。
 この歌などもさうだ。
 貞子とは多分今赤須貞子となつた元の圓城寺さんのことだらうと思ふが、貞子さんは病中最も多く病床に侍した人の一人である。
 その貞子さんが話の序に或は伝法院の表に観音経読誦会の立札か何か立つてゐた話をして私も出て見ませうかしら位のことをいつたのではないか。
 それをしかし一寸面白いことだと聞手は思ふ。
 蟋蟀がしきりに鳴いてゐる。先づこんな風にとかれるが淡々として何ともいへない面白味が感ぜられる。
 それは私一人の感に止るであらうか。

  里住の春雨降れば傘さして
君とわが植う海棠の苗

 渋谷時代の作。
 「海棠の苗」とは盆栽にする様な小さい木の意味であらう。海棠は花の咲く前に掘り起して鉢に植ゑればやがて葉が出て花が咲く。
 一日小雨のそぼふるのをよい事に露地の苗を掘り上げ鉢に移し植ゑてやつた、之も町娘の知らなかつた里住みのをかしさであるといふのであらうか。
 この歌は第四集「恋衣」の歌だ。
 調子が調つてゐて隙のないのも蓋しその所である。

  わが上に残れる月日一瞬に
よし替へんとも君生きて来よ

 中年以後晶子さんには心臓の弱い自覚病状があり、折々病床にも伏したに反し、良人寛先生は全くの健康体を享楽することが出来た。
 そこで晶子さんは良人にみとられながら先に死んでゆく運命にあるものと信じてゐた。
 然るに事実は之に反し
 我死なず事は一切顛倒す
悲しむべしと歎きしは亡し
 といふことになつてしまつた。
 元来寛先生は作者にとつては尋常の配偶者以上の意味を持つ存在で、晶子さんをしてよくその天分を発揮させ大を為さしめたものは実に寛先生であり、歌の場合特に晩年は唯一人の読者ですらあつた。
 であるから側に先生の居ないことがどれ程寂しいことであつたか想像される。
 さうして多数の歌がこの心情を記録してゐるがこれがその最後のもので、悲痛を極めて居る。

  やや広く廂出したる母屋造もやづくり
木の香にまじる橘の花

 「母屋造」は普通の入母屋造の略ではなく、王朝の寝殿造のことで栄花か源氏の光景を詠じたものと思はれるが、蜜柑の花の咲く暖地に出来た新建築と見ても構はない、木の香と橘の匂ひと交錯する趣きを味へばそれでも宜しからう。橘を思ふと私は直ぐ
 五月待つ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
 といふ歌を思ひ出す。
 作者の潜在意識にも或はこの歌があつたかも知れない。

  明るくて紀とし子は楽し薔薇を摘み
茅花抜く日も我れみとる日も

 どんな静かな、またどんなじめじめした席であらうと紀子さんが一枚加はれば、朝日の射し込んだやうに急に明るくなる。
 生れついてさういふ賑やかさを紀子さんは持つてゐる。
 その人を歌つたこの歌の何とまた明るくて楽しいことよ。病人がこの人の看護でどれ程楽しい思ひをしたか、歌がその儘を示してゐる。
 茅花抜くといふのは紀子さんが「茅花抄」といふ歌集を出したのに因る。

  海恋し潮しほの遠鳴り数へては
少女となりし父母の家

 この歌などは既に文学史上クラシツクに入るべきもので、今更鑑賞もをかしい位のものだが、いへば堺の生家を思ひ出した歌で海は静かな大伴の高師の海である。

  自らは不死の薬の壼抱く
身と思ひつつ死なんとすらん

 発病の翌年の春意識の漸く囘復して歌を作りうるまでになつた時のもので、芸は長く命は短しの句を現実に自己の上に体験する作である。
 作者は自己の天分を深く信じその作が不朽のものであることを疑はないのに、それにも拘らず現に今死なうとしてゐる。
 而してそれを如何することも出来ないといふ心であらう。同じ頃の歌に
  病む人ははかなかりけり縺れたる
文字の外にはこし方もなし
  木の間なる染井吉野の白ほどの
はかなき命抱く春かな
 といふ様なのがある。
 之等はしかし、悲痛といふより反つてもの静かなあきらめの調子を帯びてゐて同調し易い。

  つゆ晴の海のやうなる玉川や
酒屋の旗や黍もろこしの風

 之は決して写生の歌ではない。作者の白日夢でありシンフオニイである。
 歌を解剖したり色々詮議立をしたりなどしてはいけない。ドビツシイを味ふやうにその儘味へば滋味尽くる所を知らないであらう。
 繰り返し繰り返し唯口に任せて朗誦すればそれでよいのである。

  船下り船上りくる橋立の
久世の切戸に慰まぬかな

 之は昭和十五年の春作者の試みた最後の旅行で、御弟子さん数名と橋立に泊つて作つた歌の一つだ。
 橋立は與謝野の姓の本づく所で特に因縁が深く、そこの山上には歌碑も建つてゐる。
 美しい水の上を遊船がしきりに上下する久世の切戸を見てゐれば厭きることもない。
 それだのに私は慰まない。
 あるべき人がゐないからである。
 それが因縁の深い橋立だけにあはれも深い。

  髪に挿せばかくやくと射る夏の日や
王者の花の黄金向日葵こがねひぐるま

 雑誌「明星」の基調の一つは積極性であつた。
 さびやしをりの排撃であつた。花なら夏の向日葵が之を代表する。
 寛先生に有名な向日葵の詩があり、作者にこの歌がある。
 実際渋谷の家も千駄谷の家も表は向日葵で輝いてゐた、蒲原有明先生の如きもこの花を当時の新詩社の象徴だつたとして囘顧し居られる。

  たかだかと太鼓鳴り出づ鞍馬山
八島にことの初まりぬらん

 同じ時鞍馬山に遊んだ作の一つ。
 貫主僧正が御弟子さんなので屡々遊ばれ、この折は金剛寿命院の新築が成功した際とて沢山歌を読まれてゐる。急に太鼓が鳴り出したのでおや八島で戦ひが初まつたらしいといふ牛若の生長した義經を使つたノンセンスを言ひ構へ、それに依つて当の鞍馬の情景を彷彿せしめた歌だ。
 こんな手法は相当の達人でなければやれない事だが又やつてはならない事でもある。

  八月や水蘆いたく丈伸びて
われ喚びかねつ馬洗ふ人

 蘆が伸びて視界を隠した為、呼んでも声が届かない様な錯覚に陥る、そこに興味の中心が置かれてゐるやうであるが、その田舎びた環境と共に珍しい面白い歌である。

  花見れば大宮の辺の恋しきと
源氏に書ける須磨桜咲く

 誰にでもよいから試みに須磨にて桜の咲くのを見て詠めるといふ前書の歌を作らせたらどうであらう。
 これ以上の歌が出来ようか。私は出来まいと思ふ。
 啄木でも吉井勇君でも出来まい。
 いはんや他の諸君など思ひもよらない。
 須磨桜などいふ造語の旨さはたまらない。

  今日充ちて今日足らひては今日死なん
明日よ昨日よ我の知らぬ名

 これこそ晶子さんの一生を通じて生活の基調となつてゐた哲学であり宗教であつて、六十五年の偉大な生涯は唯その実行に外ならなかつた、しかし浅薄な刹那主義と混同して貰ひたくない。
 四十余年の長い間作者に接近した私としては、禅の即今に通じ、道元禅師の今日一日の行持に通じ、耶蘇の空飛ぶ鳥の教へに通ずる永遠の現在らしいものを生れながらにして身に著けてゐた人だと思ふ外はない。

  花吹雪兵衛の坊も御所坊も
目におかずして空に渦巻く

 有馬での作。何々坊といふのは有馬の湯の宿特有の名でその広大な構へと相俟つてこの温泉の古い歴史と伝統とを誇示してゐる。
 有馬には桜が多くその散り方の壮観が思はれるが、それが坊名をあしらふことによつて有馬情調そのまゝに表現されてゐる。

  下京しもぎやうや紅屋べにやが門かどをくぐりたる
男うつくし春の夜の月

 うつくしはもとかはゆしとあつてそれ故に名高かつた歌の一つである。
 ここには作者の意志を尊重して改作の方に従つたが、晶子フアンの一人兼常博士などはかはゆしでなければいけないと主張される。
 成程さう聞くとかはゆしの方がよいかも知れない。
 しかし要は下京あたりの春の夜の情調が出ればそれでよいのであらう。
 紅屋とは紅花を煮て京紅をつくる家の意味であらう。
 若旦那か番頭か美男が一人門から出て来たといふのであるが、断るまでもなくこれは明治時代の話です。

  山荘へ凧吹かれぬと取りに来ぬ
天城なりせば子等いかにせん

 伊豆三津の五杉山荘滞在中の作、子供が山荘へ落ちた凧を取りに来た。山荘だからよかつたものの、このうしろの天城山へでも飛んだのだつたらどうだらうといふ即事のユウモアであるが、このユウモアがこればかりの些事を生かして一個の詩を成立させてゐるのである。

  網倉の隅に古網人ならば
寂しからまし我がたぐひかは

 どこの漁村でも網倉といつたものはあらう。
 三津浜のそれは相当大きなもので私もそれをのぞいて見たことがある様な気がする。
 その隅の方に今は使はれない古網が棄てられてあつた。
 作者はそれを我が身に引きくらべ、わたしどころではないと寂しさうな古網に同情した歌である。非情をとらへて生あるものの様に取り扱ふ手法は何も珍しい事ではないが、この作者の場合は実に迫つて相手の非情に自己の生命を分けてゐるやうにさへ感ぜられる。

  養はるる寺の庫裡なる雁来紅
輪袈裟は掛けで鶏とり追はましを

 この歌も今日では立派なクラシツクで、古来の名歌と一列に朗々として誦すべきものの一つであらう。
 庫裡の前の雁来紅が真紅に燃えて秋も漸く深い、さて配するにこの寺の養子であるいたづら盛りの小僧さんを以てして情景を浮び上らせてゐるわけだ。
 寛先生自身又その令兄達皆幼時からそれぞれ寺に養はれた事実があるが、それがこの歌のモチイフを為してゐること勿論の話だ。

  雪厚し長浜村の船大工
槌打つほどの赤石が岳

 これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。
 それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。
 三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。
 浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。
 低くて手が届きさうにさへ見える、長浜村の船大工なら槌でこつこつ叩けさうな気がする。
 まあそんな風にこじつけて見るより外私には致し方がないが、まあ意味はどうでも宜しい。
 赤石岳と船大工の取り合せが面白いので私は之を愛誦する。

  さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶
小褄こづまとる手に雪散りかかる

 京の芸子のこつてりした風俗は、作者の好みによく合致したものらしく、第一集乱れ髪の主要テマとなつたと共にそれからも長い間歌題を供給した。この歌などもその最も成功したものの一つで、説明する迄もなく、昔の鴨東辺の情景が絵のやうにはつきり現はれてゐる。
 同じ雪の夜の歌に
  友禅の袖十あまり円く寄り
千鳥聞く夜を雪降り出でぬ
 之は舞子ばかりの集りらしい。又
  川越えて皷凍らぬ夜をほめぬ
千鳥啼く夜の加茂の里びと
 又明けては
  後朝きぬ/″\や雪の傘する舞衣
うしろ手見よと橋越えてきぬ
  冬川は千鳥ぞ来啼く三本木
紅友禅の夜著干す縁に
  舞衣五人紅いつたりあけの草履して
河原に出でぬ千鳥の中に
  嵐山名所の橋の初雪に
七人渡る舞衣かな
 など色々あるが皆とりどりに面白い。

  再生の荷葉かせふと拝む大愚なき
世に安んじてよく眠れ牛

 伊豆伊東に近い大室山の麓にこの頃一碧湖といはれてゐる吉田の大池がある。
 その丘陵上に島谷亮輔さんの抛書山房があるが、先生夫妻の好んで遊ばれた所である。
 近年乳牛も飼はれてゐたので、乳牛の歌も数首作られた、その一つ。
 大愚といふ和尚は支那にも日本にも居る。
 荷葉の生れ替りだといつて牛を拝んだといふ話、私は知らないがありさうな話だ。
 牛から云へば至極迷惑のことでくすぐつたいこと夥しく、こんなことが始終あつては落付いて眠れもしない。
 しかし安心するがよい、牛の拝めるやうな大悟徹底した坊さんは今日ゐないからといふわけである。
 牛を詠んだのやら禅僧をなめたのやら、どちらつかずの辺にこの歌の面白味が漂ふのであらう。

  酒造る神と書きたる三尺の
鳥居の上の紅梅の花

 私はこの社のことを知らないからこれ以上説明しようもないが、三尺の鳥居といふからは極く小さいもので従つて或は路傍の小社らしくも思はれる。
 或は造り酒屋の庭の隅などにあるものも想像される、さうだとすれば鳥居の文字と紅梅とを取り合せて早春の田舎の情調を出さうとしたものではなからうか、すつきりした気持のよい歌である。

  春雨の早雲寺坂行きぬべし
病むとも君がある世なりせば

 箱根の湯本で之もお弟子の鈴木松代さんの経営する吉池の奥の別棟に、少しく病んで逗留して居られた時の作。
 もし世が世であつたら、雨を侵し病を押してでも直ぐ上の旧道へ出て急な早雲寺坂を登りもするのだが、今はとてもそんな気力はない、室にこもつて一入春雨にぬれる箱根路の光景を想像するだけだといふ例の良人を欠く心持を春雨に托し病に托し情景相かなはせた歌だ。

  手力たぢからの弱や十歩とあしに鐘やみて
桜散るなり山の夜の寺

 山寺の夜桜を賞する女連れが試みに鐘をついた所、嫋々として長く引くべき余音が僅に十歩行くか行かないうちに消えてしまつた。女の力なんて弱いものねといふほどの興味を表へ出した朧月夜の日本情調である。

  雲にして山に紛まがふも山にして
雲に紛ふも咎むる勿れ

 二つ前のそれと同じ時湯本で早春の箱根に雲の往来する姿を朝夕眺めつつ、或時は雲にして山に紛ひ、或時は山にして雲に紛ふ変幻極りない山の事象を其の儘正抒し、それをかりて同時に現象世界の不合理不都合を許容しようとする心持をさへ咎むる勿れといふ一句で象徴したものと解せられないこともない。

  伽藍過ぎ宮を通りて鹿吹きぬ
伶人めきし奈良の秋風

 山川草木一切成仏といひ有情非情同時成道などといつて大乗仏教には人とその他とを区別しない一面がある。晶子さんは大乗経典も一通り読んで居られるが、晶子さんの同じ思想、同じ感じは経典から学び取つたものでなくて生れながらにして持つてゐたものらしい。
 擬人法が少し過ぎる位に使はれるのもこの思想感情のあらはれで作者にとつては少しもわざとらしいことではないのであらう。
 この歌の場合などは「めきし」となつてゐて擬人とまで行つて居らず、奈良を吹く秋風が伽藍の中でも、お宮の中でも伶人らしく振舞つてそれぞれの楽を奏して来たが、しまひに春日野に出て鹿の背を撫で、なほ嫋々たる余音を断たないといふほどの心で人を驚かすほどのことはないが、他の多くの場合には後に出て来る筈だが大にそれがある。

  千鳥啼き河原の上の五六戸が
甘げに吸へる日の光かな

 之はまだ健康体であつた十四年の正月、上野原の依水荘での作。
 窓から冬枯の川原が広広と見渡され、千鳥が啼き、川糸遊が立ち山の朝日が昇つて初春らしい気分になる。河原の左側の堤の上の農家の家根がさも甘さうに日光を吸つてゐるといふのであるが、対境に同感するやさしい心、歌に裏をつける心持も同時に感ぜられる。

  比叡の嶺に薄雪すると粥くれぬ
錦織るなる美くしき人

 一寸難しい歌だが、こんな風にも解せられる。
 北山の辺で錦を織つてゐる美人の許へ男が通つてゆく。
 いつもならその儘早く帰してしまふのであるが、冬も進んで今朝は特に寒く叡山に薄雪が見える、恋人に寒い目をさせまいと暖かい朝粥を食べさせて帰したと。
 別の解釈もあらうが兎に角綺麗な古京らしい歌で、時代が帰らぬやうに斯んな歌も今の京都では出来ないであらう。
 兼常博士に教はつたことだが、叡山に何とか懴法会の行はれる日は粥接待といふ行事があるさうで、それは霰の降る様な寒い日ださうである。

  先立ちて帰りし友の車中の語
聞かで知るこそあはれなりけれ

 昭和十三年の秋、笹の湯から法師温泉を廻られた時、行を共にした中に二、三先に帰つた人達があつた。
 あの人達が車中話す第一の話は何だらう、晶子先生もすつかり年をとつて弱られましたねといふのであらう。
 聴かずとも分る。その位自分は衰へてしまつた。
 ことに前にこの法師温泉へ来た頃に比べると自分ながらよく分るといふわけで、読後の感じの恐ろしい位の歌だ。

  京の衆に初音まゐろと家毎に
鶯飼ひぬ愛宕をたぎの郡

 晶子秀歌選を作るに当つて私はそのプレリウドの一つに「古京の歌」なる小題を設け、八十五首を収めた。
 曰く
「年二十四で上京される迄両親の膝下で見聞された京畿の風物は深く作者の脳裡に刻み込まれてゐて、上京後も長い間ここに詩材を求められた。舌足らずの感ある初期の作中でも京の舞姫を歌つたものは難が少い。
 風物鑑賞は作者の最も得意とする処で本集後半の歌の大部分はこの種類に属してゐるがそれが早期にあらはれた分中、京畿を対象とするものを収めた」と。
 そこで鑑賞の方も若い面はしばらく「古京の歌」ばかりになる。この歌も別に説明を要しない。
 唯上等の読者はその中に鶯の囀るやうな音楽を聴き分けることが出来るに違ひない。

  法師の湯廊を行き交ふ人の皆
十年ばかりは事無かれかし

 法師温泉は今時珍しい山の中の温泉で電灯さへない。
 温泉は赤谷川の川原を囲つたやうな原始的な作りで、長い廊下でおも家と結ばれてゐる。
 そこで湯に入る為に「廊を行き交ふ」ことになる。
 私は十余年を隔ててゆくりなくもまた法師湯に浸つた。
 しかしその間に私には一大変化が起りこのやうにやつれてしまつた。
 今日ここへ来て湯に入る人達だけは、せめてあと十年間は事の起らないよう、祈らずにはゐられないといふので、洵にこの作者に著しい思ひやりの深い、自他を区別しない温かい心情のにじみ出てゐる作である。

  鳴滝や庭滑らかに椿散る
伯母の御寺の鶯の声

 手入れのよく届いた御寺の庭を庭なめらかにといひ、椿をあしらひ、鶯をあしらひ更に伯母の御寺と限定具象して鳴滝辺の早春の情調を漂はせた美しい作である。

  赤谷川人流すまで量まさる
越の時雨はさもあらばあれ

 赤谷川はその源を越後境の三国峠に発して法師湯の前を流れる常時静かな渓流である。
 それが急に水量が増した。
 越後側に降つた時雨がどんなものであるかそんなことは考へないことにするが、唯この目前の水量の増し方は如何だ、一歩足を入れゝば押し流されさうだ。

  春の水船に十人とたりの桜人さくらびと
皷打つなり月昇る時

 嵯峨の渡月橋辺の昔の光景でも想像しながらこの歌を読めば完全に鑑賞出来ようといふものである。
 さくらびとは造語で舞子達の桜の花簪でもさしてゐるのを戯れたものと見てよからうか。
 勿論古歌のさくらびととは何の関係もない。

  故ありて云ふに足らざるものとせぬ
物聞橋へ散る木の葉かな

 新々訳源氏物語が完成してその饗宴が上野の精養軒で開かれた。
 可なりの盛会であつた、その直後に伊香保吟行が行はれ、四五人で千明ちぎらに泊つた。
 私も同行したが、平常は分らなかつた衰へが、不自由勝な旅では表面へ出て来て私の目にもとまつた。
 前の車中の話の歌が心にしみたのもその故である。
 作者が初めて伊香保に遊ばれたのは「私の盛りの時代」と自らいはれる大正八年頃の事で沢山歌が出来てゐる。
 この行は夫妻二人きりのものではなかつたか。
 この歌をよむとその際であらう。
 物聞橋の上で何事かあつたらしい。
 物聞橋は小さいあるかなきかの橋ながら、私にとつては如何でもよい唯の橋ではない。
 その時は初夏で満山潮の湧くやうであつたが、今は秋やうやく深く木の葉が散つて来る。
 さうして私は一人になつて衰へてその上に立つてゐる。
 万感交々至る趣きが裏にかくれてはゐるが、表は冷静そのもので洵に心にくい限りである。

  春の雨高野の山におん稚児の
得度とくどの日かや鐘多く鳴る

 春雨が降つて天地が静かに濡れてゐる。
 その中に鐘がしきりに鳴つてゐる。
 この歌のめざす情景はそれだけのものだが、それに具体性を与へて印象を深めるために高野山の得度式を持ち出したわけであらう。
 音楽的にも相当の効果をあげてゐる。

  心にも山にも雲のはびこりて
風の冷たくなりにけるかな

 前と同じ時榛名湖畔での作。
 秋も深く湖畔の風が冷い、山には雲が走る、ただに山許りかは、人の心も雲で一杯だ。
 山上のやるせない秋のさびしさがひしひしと感ぜられる。同じ時の歌に
 一つだに昔に変る山のなし
寂しき秋はかからずもがな
 相馬岳榛名平に別れ去る
また逢ふ日など我思はめや
 などがある。

  六月の同じ夕ゆふべに簾しぬ
娘かしづく絹屋と木屋と

 町娘鳳晶子でなければ決して作れない珍品である。
 又それは撫でさすりたい位の見事の出来でもある。
 絹屋は呉服屋、木屋は材木屋のことだらうと思ふが、或は商号かも知れない。
 兎に角堺の町の商家に違ひない。
 互に近所同志で、同じ年頃の娘があつて、何れも美しく大事にかしづかれてゐる。
 その二軒が夏が来たので戸を払つて簾をおろした。
 それが相談した様に同じ日でもあつたといふのである。
 何と珍しい趣向の歌ではないか。
 いくら褒めても褒め足りない様な気がする。
 その音楽的効果も亦すばらしい。

  提灯ちやうちんに蛍を満し湯に通ふ
山少女をば星の見に出づ

 天城の山口の嵯峨沢の湯に遊んだ時の作。
 蛍の多い所と見え、土地の娘が提灯に蛍を一杯入れそれを明りにして湯に通ふ光景にぱつたり出合つた作者は感心して呆然と見送つた。
 空には初秋の星が降る様に光つてゐる。
 上からこの珍景を見て居るのだらう。

  舞の手を師の褒たりと紺暖簾
入りて母見し日も忘れめや

 少女時代の思ひ出が多数歌はれてゐるその中の一つ。
 源氏や西鶴に読み耽る以前にこんなあどけない時代もあつたのであらう。しかし遊芸の如きは幾許もなく抛棄せられ独り文学少女が育つて行つたらしい。

  南国の星の大島桜より
大きく咲ける春の夜の空

 之も前記抛書山荘での作。
 空気の澄んだ天城山麓で見る東海の星は、東京などより大きくも見え色も美しい。
 それを丁度そこに咲いてゐた花の小さい野生の大嶋桜を引き合ひに出して、染井吉野には及ばないが、大嶋桜よりは星の方が大きい位だといつたので、表現法の最高の標準が示されてゐる歌だ。

  川風に千鳥吹かれてはたはたと
打つや蘇小そせうが湯殿の障子

 京の芸子を歌つた歌は無数にあるが、この一首だけその調子が他と違つてゐる。
 それが珍しいのでここへあげた。
 晶子さんの歌には、内容からも表現法からも調子からも殆どありとあらゆる体が網羅されてゐて、欠けてゐるものがありとすれば口語体の表現位のものだらう。
 であるからこの歌にあらはれてゐる様な調子が出て来ても何の不思議もないが、ただ芸子ものだけに少し変なのである。
 蘇小は校書といふと同じく芸者の支那名で白楽天にある言葉の由、それだけに調子もどことなく漢文調を帯び、甚しく芸者屋らしくなくなつてゐる処が面白い。

  湯本なる石の館やかたの二階より
見ゆやと覗く哈爾賓の雪

 早春函根の湯本での作。
 石の館とあるので川に臨んだ福住の二階らしい。
 春といふのに雪が降り出して夜の間に大分積つた。
 まるで哈爾賓辺の話の様である。
 湯本の福住の二階から哈爾賓の雪が見えるかどうか一つ覗いて見ませうといふ程の心であらうか。
 突如として哈爾賓の出て来た所が頗る面白い。
 併し哈爾賓は作者曾有の地であるからそれほど突飛な話ではないかも知れない。

  み目覚めの鐘は智恩院聖護院
出でて見給まへ紫の水

 本によつては聖護院が方広寺になつてゐる。
 五条辺に聞こえるものとしてはその方がよい理由でもあつての変更かと思ふが、地理的事実など何あらうと詩は詩であつて、事実ではないのであるから私はどこ迄も聖護院にして置きたい。
 聖護院でなければ調子が出ない。この歌の眼目は鴨川に臨む青楼らしい家の春の朝の情調を伝へるにある。
 その為には、歌のもつ音楽面が可なり大切である。
 方広寺では音楽がこはれてしまふ。
 この歌の持つメロヂイとリトムとを味はふ為には読者は必ず高声に朗誦しなければいけない。
 この場合にも私はさう云ひ度い。

  箱根風朝寒しとはなけれども
生薑の味す川より吹くは

 之も哈爾賓の雪と同じ時の作で、やはり早川に臨んだ福住の二階座敷の歌である。朝になつて硝子障子をあけると川から風が吹き込む。
 それは箱根風で寒いとは思はないが、生薑の味がする。
 といふのはやはり少しは寒い意味であらう。これも哈爾賓の雪と同じでその突飛な表現に生命が宿つてゐるともいへる。

  春の月雲簾して暗き時
傘を思ひぬ三条の橋

 三条の大橋を半ば渡つた時俄に黒い雲が来て簾でもおろしたやうに春の月をかくして暗くなつてしまつた。
 雨が落ちねばよいが、傘を持つてくればよかつたと思ふ。
 思ふものは無論作者のすきな蘇小なのであらう。
 雲すだれするとは面白いいひ方である。

  黒潮くろしほを越えて式根の島にあり
近づき難し幽明の線

 十二年頃の事だらうと思ふが近江さん達と伊豆七島の幾つかを廻られたことがある。世の中がまだ静かだつた頃とは云ひながら、中々思ひきつた企てでもあつた。
 流石に沢山の御土産がもたらされた。之もその一つ。
 黒潮を越えて遠くこんな所までも来たが、なほ幽明の境の線は遠くして遠い。
 逢ふ由のない悲しみが言外に強く響いてゐる。
 式根島には海岸の岩礁の間に湯が湧いてゐて島人はそれに這入る。
 その湯の興味が多数詠まれてゐるので二三つ紹介すると
  紫の潮と式根の島の湯を
葦垣へだて秋風ぞ吹く
  式根の湯海気かいき封じておのづから
浦島の子の心地こそすれ
  秋風が岩湯を吹けど他国者
窺ふほどは海女あま驚かず
  硫黄の香立てゝ湯の涌き青潮の
入りて岩間に渦巻を描
  地奈多の湯海に鄰れど人の世に
近き処と思はずに浴ぶ
  海女あま少女をとめ海馬かいばめかしき若人も
足附の湯に月仰ぐらん
  唯二人岩湯通ひの若者の
過ぎたる後の浜の夜の月
 などがある。又他国者の珍しさが
  沙に居て浅草者の宿男
島に逃れて来しわけを述ぶ
 などとも歌はれ居り、又船の歌には
  夜の船の乾魚の荷の片蔭に
あれどいみじき月射してきぬ
 といふのもあり、兎に角この島廻りは一寸風変りなものだつたらしい。

  十五来ぬ鴛鴦の雄鳥の羽の如き
髪に結ばれ我は袖振る

 男の元服に相当する様な風俗でもあつたものらしく、十五になつたので鴛鴦鳥を思はせる様な髪をゆはせられた、さて鏡に向つて自分もいよいよ一人前の女になつたのかと喜び勇んだことを思ひ出した歌でもあらうか。
 まことに素直な歌で気持がよい。

  湖の舟の動きし束の間に
我唯今を忘れけるかな

 野尻湖でよまれた歌であるが、何とでも解釈が出来よう。
 私は今、舟の動いた拍子に過ぎ去つた日が忽然と帰つて来て現在に変つた趣きに解いて置かうと思ふ。
 それにしても何といふ旨い歌だらう。
 一生に一首でよいからこんな歌が作つて見たい。

  天竺の流沙に行くや春の水
浪華の街を西す南す

 昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが、それが見事に成功し、既にクラシツクとして我が民族のもつ宝物の一つになつてゐる歌。
 いくら晶子さんでもざらに出来る歌でないこと勿論である。
 天竺の流沙はゴビの沙漠の事であらうが、そこへは沢山の川が流れ込んで消えてしまふ。
 大阪を流れる春の水の心持は流沙へ流れ込む水のそれに似てゐるやうに私は思ふといふわけなのであらう。
 天竺といひ流沙といふ処に仏典とその伝統を匂はせ歌にゆかしさと奥行を与へて居ること、全く作者の教養に本づくもので、作者が常にお弟子さん達に広く修養をすすめて居る理由もここに存するのである。
 水の縦横に流れる大阪の生態は作者の喜ぶものの一つであつたと見え、晩年こんな作もある。
  清きにも由らず濁れることにまた
由らず恋しき大阪の水 

  秋風や一茶の後の小林の
田代の彌太に購へる鎌

 私は杜甫など読んだこともないが、詩を作るなら人を驚かす様なものを作れといつてゐるさうである。
 流石に杜甫はえらいと思ふ。
 こんな広言の吐ける詩人は古今東西幾人も居まい。
 その一人に日本にも一茶がゐる。
 作者は若い時蕪村を学ばれ直接大きな影響を受けて居られたが、一茶からのそれは環境が違ふので大して認められない。
 併し可なり重く見られてゐたのではなからうか。
 この歌などもその証拠の一つで柏原に一茶の跡を尋ねられた時の作。又同じ時
  火の事のありて古りたる衣著け
一茶の住みし土倉の秋
 とも作られてゐる。

  お縫物薬研の響き打ち続く
軒下通ひ道修町行く

 大阪に道修どしよう町といふ薬屋許りの町がある。
 この間夫君と時を同じくしてなくなられた茅野雅子さんのお里増田氏などもその一軒であつた。
 今の事は知らないが、昔は恐ろしく狭い町だつた。
 「お縫ひもの」とは多分さういふ看板の文字で、今なら和服仕立とある所だらうか。
 その薬屋の間にこんな看板のかかつた家も多かつたのであらう。
 軒下通ひとは両側から軒がつき出してゐたのでもあらう。
 所謂明治の good old time を偲ばせる。
 風俗歌としてまことに面白い歌だ。

  妙高の白樺林木高こだかくも
なるとは知らで君眠るらん

 妙高は良人と共に幾度か遊んだ処であるから感懐も深いものがあつたらう、白樺林の大きくなつたことは如何だ。
 それとも知らず君は武蔵野の地下深きこと八尺の臥床に今なほ眠つてゐるといふので、一人になつて初めて池の平に泊つた時の作である。又この時の歌に
 山荘の篝は二つ妙高の
左の肩に金星とまる
 斑尾は浮き漂へるものと見え
心もとなき月明りかな
 などがある。

  皷打ち春の女の装ひと
一人して負ふ百斤の帯

 日本の女の帯の美々しさを、その最も典型的な京の芸子の皷を打つ春著姿にかりて詩化したもの。
 「百斤」とは男子一人の重さで、又その荷なひうる最大の重さでもある、即ち人を驚かずに足る表現法がここにも用ゐられて効果を挙げてゐる。
 百斤を用ひた他の例に
 百斤の桜の花の溜りたる
伊豆のホテルの車寄せかな
 といふのがある。熱海ホテルでの歌である。

  村上の千草ちぐさの台の秋風を
君あらしめて聞くよしもがな

 十二年の秋新鹿沢に遊んだ時の作。
 村上の千草の台とはその名が余りに美しいので、或は作者の命名かも知れない。
 高原の秋風のすばらしさを故人をかりて述べたもので、この歌には追懐の淋しさなどは少しも見られない。

  仁和寺の築地のもとの青蓬
生ふやと君の問ひ給ふかな

 この歌も京情調を歌ふクラシツクの一つ。
 天才の口から流れ出た日本語の音楽である。

  涼しくも黒と白とに装へる
大船のある朝ぼらけかな

 十二年の夏伊豆の下田での作。
 夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな光景を折から碇泊してゐた白と黒との段々染の様な大船を中心にして描出したものである。
 涼しくもとあるので夏である事が分るやうになつてゐる。同じ時の作に
  安政の松陰も乗せ船の笛
出づとて鳴らばめでたかるべし
  ありし日の蓮台寺まで帰る身と
なりて下田を行くよしもがな
 などがある。

  秋まつり鬱金うこんの帯し螺を鳴らし
信田の森を練るは誰が子ぞ

 一分の隙もない渾然として玉の様な歌であるが、なほ古い御手本がなくはない。
  白銀の目貫の太刀を下げ佩きて
奈良の都を練るは誰が子ぞ
 といふ歌がそれであるが、換骨脱胎もこれ位に出来れば一人前である。

  東海を前にしたりと山は知り
未ださとらず藤木川行く

 相州湯ヶ原滞在中の作。
 折からの五月雨で藤木川の水嵩がまし水勢も強い。
 それを見てゐると自分の行く先を知るものの様には思へない。
 然しうしろの山々は目があるから知つてゐる。
 自分達の前には東海が広がつてゐることを知つてゐる。
 しかし低い処を突進してゆく川には目がない。
 行く先に東海があらうなどとは夢にも知らずに流れてゆく。
 先づこんな感じがしたのであらうか。
 成るほどと教へられる。又同じ時の歌に
 梅の実の黄に落ち散りて沙半ば
乾ける庭の夕明りかな
 山の湯が草の葉色を湛へしに
浸る朝あしたも物をこそ思へ
 などがある。

  往き返り八幡筋の鏡屋の
鏡に帯を映す子なりし

 あああの頃は罪が無かつたと嘆息をさへ伴ふ少女の日の囘顧であらう。
 更に幼い頃を囘顧したのに
 絵草紙を水に浮けんと橋に泣く
疳高き子は我なりしかな
 といふのがあるが、前に比べるとこの方ばずつと余音に乏しいやうだ。

  月落ちてのち春の夜を侮るに
あらねど窓を山風に閉づ

 之も伊豆の吉田の大池の畔でよんだ作。
 月も這入つた様だし風が寒くなつたので窓を閉めるのであるが、月が落ちたからとて春の夜を侮るわけではありません、山風が出て寒いからですといひわけをせずには居られぬ心、それが詩人の心である。

  岡崎の大極殿の屋根渡る
朝烏見て茄子を摘む家

 これは晶子さんには珍しい写生の歌で、春泥集にある。勿論作者の本領ではないが、何でも出来ることを一寸示した迄の作であらう。
 しかしその正確さは如何だ、時計の針が時を指すにも似て居る。

  梅花の日清和源氏の白旗を
立てざるも無き鎌倉府かな

 故寛先生の三囘忌を円覚寺で営んだ時の作(二月二十六日)。
 梅の真盛りの時節であつた。
 先生は梅を好むこと己れの如く、その嘗て使はれた筆名鐵幹も梅を意味し、又その誕生日はいつも梅の花で祝はれた。
  我が梅の盛りめでたし草紙なる
二条の院の紅梅のごと
 といふ如きもので、これは六十の賀が東京会館で催された時の作の一つである。
 即ち梅花の日は即ち夫の日といふほどの意味で忌日を斥し、その日鎌倉を行くに梅咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉らしく抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府の字の如きも之を使ひこなし得る人もう一人あらうとも思はれない。また同じ景色を詠じて
  天地にものの変へんなどありしごと
梅連りて咲ける鎌倉
 とも又
  鎌倉の梅の中道腰輿えうよなど
許されたらばをかしからまし
 ともある。お寺では
  梅咲く日羅浮の仙女となりて入る
万法帰源院の門かな
  梅散るや放生会など行はゞ
をかしかるべき大寺の池
 などの作がある。同夜は海浜ホテルに泊られ
  鎌倉の梅の中より鐘起る
春の夕となりにけるかな
 の作が残されてゐる。

  白牡丹咲かば夜遊の淵酔に
君を見んとす春闌けよかし

 晶子さんの若い頃の歌は、その取材の上から大別して三つになる。
 一つは幼時から見聞した京畿の風物を囘顧するもの、京の舞姫に関するものも便宜この中に入れて置く。
 一つは源氏、栄花等にあらはれてゐる平安朝の生活を自らその中の人物となり、又は三者の立場に立つて詠じたもの。第三はその他であるが、その第二は晶子さん独特の境地で、そこへは当時一しよに作歌に精進した才人達誰もついて行かなかつたし又行けもしなかつた。
 私は前記秀歌選を作るに当つてこの種の歌らしいものを拾つて仮に源氏振といふ一項を起して見た。鑑賞上その方が便宜が多からうと思つたからで、外に大した意味はない。
 この歌などがその一例、牡丹が咲いたらそれを機会に夜宴が開かれよう、その時こそ君の御姿が見られよう、春が闌けて早く牡丹の咲く頃にならないかなといふ藤氏の女あたりの心持を詠んだものと察せられる。
 淵酔は宴会の意味。

  山の月雪を照して我が友が
四人に分つ振り出し薬

 十二年の二月同行四人で箱根早雲山の大雄山別院に泊して珍しい一夜を明かされた時の作。友の一人が少し風気で携行した葛根湯か何か煎じてゐたが、山上の寒さの身にしむ宵とて皆に分けて飲ませる光景、外の山には雪が積つてゐてその上を弦月が照らしてるといふわけである。又その時の作には
  山寺は雲に満ちたる二月にて
鉛の色す夕暮の庭
  雪白き早雲山の頂きに
近くゐて聞く夕風の音
 などがあり、その帰途十国峠を過ぎては
  峠路の六里の間青海を
見て枯草の世界を伝ふ
 といひ、熱海から多賀へ出て一泊されては
 海に向き材木積める空地のみ
僅に白き夕月夜かな
 の歌を残しこの行は終る。

  み侍み経を艶に読む夜など
をかしかりける一人臥しかな

 源氏の紫の上などを思つて読まれたものではなからうか。
 近世の読経は陰気くさくもあり、宗旨の匂ひが紛々として鼻をつくが、平安朝のそれは全く感じが違ひ、著しく音楽的に響いたものの様で、されば艶にとあらはされ、心よくなめらかに響いてくる読経の声を聞くなど君の帰らぬ夜もまたをかしといふ心であらうか。
 また おこなひに後夜起ごやおきすなる大徳のしはぶく頃に来給ふものか といふ歌なども同じ姫君の上であらう。
  春の宵君来ませよと心皆
集めて念ず小柱のもと
 これは少し違つて花散る里といつたやうな人の歌かもしれない、かういふ歌をよむと、明治三十七八年頃渋谷の御宅で先生の源氏の講義を聞いてゐる学校の生徒達を思ひ出す。私もその一人であつた。
 夫人は赤ちやんを抱いてわきから助言された。
 その頃も斯ういふ種類の歌が盛に作られたやうである。

  大島が雪積み伊豆に霰降り
涙の氷る未曾有の天気

 作者には
  大昔夏に雪降る日記など
読みて都を楽しめり我
 といふ歌があり、日記は吾妻鏡を斥すのであらうが、季節はづれの天候を短い歌の中でこなすことは極めて難しいわざで先づ成功は望めない。
 平生暖かい筈の伊豆に一日寒波が襲来し、椿の大島に雪が積り、伊豆山には霰が降り故人を偲ぶわが涙は為に凍ると遠きより近きに及びその光景を抒しつつ未曾有の天気と結んだ手際のあざやかさ、洵に見事なものである。

  捨て書きす恋し恨めし憂し辛し
命死ぬべしまた見ざるべし

 これも紫の上のやうな若い人の歌で、たとへば草紙に手習ひをしてゐる様子を戯れて詠じたものと見てもよからう。
 底をついた表現とでもいひたいやうな歌ひぶりが面白い。

  戸立つれば波は疲れし音となる
ささねば烈はげし我を裂くほど

 十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。
 それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。
 この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台
 三方に涙の溜る海を見て
伊豆の網代の松山に立つ
 故なくば見もさびしまじ下の多賀
和田木の道の水神の橋
 などが数へられる。

  麗色の二なきを譏りおん位
高きを嘲あざみ頼みける才

 源氏の恋人達の中には一寸見当らない。
 清少納言は恋愛の対象として如何か。
 栄花の中の藤氏の実在人物にはあるかも知れない。或は作者自らもし平安時代にあつたら斯う歌ふであらうとも思はれる。
 私はあの人の様な美人ではない、あの人のやうに位も高くはない。
 しかし私にはあの人達の持つてゐない才がある。
 容色と位と才と男はどれを取るだらう、といふのである。
 作者に才を頼む心があつたので興が深い。

  そこばくの山の紅葉を拾ひ来て
心の内に若き日帰る

 十二年の秋の盛りに日光に遊ばれ、中禅寺湖畔に宿つた時の歌。
 この時は紅葉の歌が沢山出来てゐる。
  水色の橡の紅葉に滝の名を
与へまほしくなれる渓かな
  掻き分けて橡の葉拾ふ奥山の
紅葉の中に聖者もありと
 といふ様に色々の紅葉、その中には聖者のやうな橡紅葉もあつて、それを持ち帰つて並べて見ると雛でも飾るやうで久しく忘られた若い心が帰つて来た。

  牡丹散る日も夜も琴を掻き鳴らし
遊ぶ我世の果つる如くに

 牡丹散るとそこで切つて読むのである。
 またしまひは遊ぶ我が世と続くのであらう。咲き誇つた牡丹の花も遂に散つた、それを見た美女が私達は日夜管絃の遊びにふけつてゐるが其の終りもこんな風なのであらうと忽ち無常観に打たれた処であらう。

  男体の秋それに似ぬ臙脂えんじ虎と
云ふものありや無しや知らねど

 紅葉の真盛りの男体山を真向正面から抒して、まるで臙脂色の虎――もしそんなものがゐたら――赤い斑の虎のやうだといつたのである。
 しかし臙脂虎とは紅をつけた虎の意味で悍婦を斥すと辞書にある。
 従つてありやなしや知らねどといふ言葉の裏には悍婦の意も自ら含まれてゐるのであらう。
 又同じ時同じ山を詠んだ歌に
 歌舞伎座の菊畑などあるやうに
秋山映る湖の底
 わが閨に水明りのみ射し入れど
全面朱なり男体の山
 などがあり、又戦場が原に遊んでは
 宿墨をもて立枯の木をかける
外は白けし戦場が原
 さるをがせなどいふ苔の房垂れて
冷気加はる林間の秋
 といふ様なすばらしい歌もこの時出来てゐる。

  男をば謀ると云ふに近き恋
それにも我は死なんとぞ思ふ

 わたしといふ女はまあ何といふ女であらう。男をはかる位の軽い気持ではじまつたこの度の恋でさへ今私は死ぬほどの思ひをしてゐるとわが多情多恨を歎くのであるが、之も王朝のことにしないと味が出て来ない。

  旅の荷に柏峠の塵積り
心に古き夢の重なる

 柏峠は伊東から大仁へ越える峠で作者が、良人と共にいく度か通つた所である。見ると旅の鞄にほこりが厚くついて居る、柏峠のほこりだ。
 その様に私の心は往日の思ひ出で一杯だといふ情景を相応せしむる手法の一例である。
 この行それから湯が島に行かれたが、その道で
 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の
橋を越ゆれば伊豆寒くなる
 と詠まれ、又著いては 湯が島の落合の橋勢子の橋見ても越えてもうら悲しけれ と詠まれてゐる。

  手に触れし寝くたれ髪を我思ひ
居れば蓬に白き露置く

 家に帰れば夏の夜は早く明け、蓬には白玉の露が置く。
 手の先には寝くたれ髪の感覚がそのまま残つて居て、我は呆然として女を思ふ、白露の玉を見ながらといふこれも平安期の情景の一つ。

  ほのじろくお会式桜枝に咲き
時雨降るなる三島宿かな

 御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。
 それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。
 この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

  輦てぐるまの宣旨これらの世の人の
羨むものを我も羨む

 手車に乗つて宮中へ出入することを許す宣旨であるから高い位の意味で、世人の羨む高い位を私も羨む。
 私は美しいからそれだけでよささうなものだが、手車で宮中へはいれる様な身分ならばとそれも羨しくないことはない。
 その位な想像をしてこの歌を読むもよからう。

  川の洲の焚火に焦げて蓬より
火の子の立てる秋の夕暮

 十二年の仲秋信濃の上山田温泉に遊んだ時の作。
 所謂写生の歌であるが、作者はこの歌に於て、尋常でない副景を描いて目に見えるやうに自然を切り取り、その上で之を秋の夕暮といふ枠の中へ収めて一個の芸術に仕上げてゐる。
 千曲川の川原蓬が焚火の火に焦げてそれが火の子になつて飛び出す秋の夕の光景、それをその儘抒しただけであるが、直ちに人心に訴へる力を備へ正に尋常の写生ではない。

  挿頭かざしたる牡丹火となり海燃えぬ
思ひ乱るる人の子の夢

 誰かあれ、欧洲語に熟した人があつたら試みにこの歌を訳して見たらと私は思ふ。
 或は既に訳されて居るかも知れない。
 この頃の晶子歌は相当訳されてゐて世界の読詩家を魅了したものであるから。
 この歌などはその内容だけで欧洲人は感心するだらうのに、日本人にはその言葉の持つ音楽さへ味はへるのだから喜びは重るわけだ。
 どうかその積りで味はつて頂きたい。
 敗残の我が民族もこんな詩を持つてゐるのだと世界に誇示して見たい。
 思ひ乱れるわが夢を形であらはさうか、それは髪にかざした牡丹が火になりそれが海に落ちて海が燃える、君看ずや人の心の海の火の、燃えさかる紫の炎を、それが私の夢の形だ。
 まづく翻訳するとこんな風にもならうか。

  白波を指弾くほど上げながら
秋風に行く千曲川かな

 晶子さんほど繊細で微妙な感覚の琴線を持つ人を私は知らない。
 欧洲の詩人の詩にはいくらもありさうであるが、わが国の少くも歌人の間には断じて第二人を知らない。
 千曲川を秋風が撫でて白波を立ててゐる。その白波の高さを指で弾くほどと規定して事象に具体性を与へ得るのは全く霊妙な直覚力によるもので、感覚の鋭敏な詩人に限つて許されることだ。

  転寝の夢路に人の逢ひにこし
蓮歩のあとを思ふ雨かな

 とてもむつかしい歌で私にはよく分らないが、こんな風にとけるかもしれない。糸のやうな春雨が降つてゐる。
 静かにそれを見てゐるとこんな風な幻像が浮ぶ。
 男のうたたねの夢の中へ麗人が逢ひにゆく。
 その互ひ違ひにやさしく軽く運ばれる足跡が宙に残る。
 それが雨になつて降る。他の解があれば教へを受けたい。第五集「舞姫」の巻頭の歌で、作者も自信のある作に違ひないから慎重を期したい。

  稲の穂の千田ちたきざをなし靡く時
唯ならぬかな姥捨の秋

 山の上まで段々に田が重つてゐてそこへ秋風が吹いて来て稲の穂が縦にさへ一せいに靡く不思議な光景を唯ならぬの一句に抒した測り知れないその老獪さは如何だ。しかし同じ景色も之を平抒すれば
  風吹きて一天曇り更科の
山田の稲穂青き秋かな
 となる。

  思ふとやすまじきものの物懲ものごり
乱れはててし髪にやはあらぬ

 これもむつかしくてほんとうは私には分らないが、代表歌の一つだから敬遠するわけにも行かず、強いて解釈する。
 すまじきものの物懲りとは勿論人を恋することで、恋などすべきでないことをした為お前の髪も心もすつかり乱れてしまつたではないか。
 そのお前が懲りずまにまた人を思ふといふのかと自分に言つてきかせる歌のやうにもとれるが、ほんとうは人称がないので私には見当がつかない。

  寺の僧当山たうざんのなど云ひ出づれ
秋風のごと住み給へかし

 姥捨の長楽寺での作。寺を正抒しては
  秋風が稲田の階を登りくる
姥捨山の長楽寺かな
 となるのであるが、それだけでは情景があらはれない。
 そこでこの歌となる。姥捨山は姥捨の伝説をもつ月の名所であるから坊さん得意になつて縁起か何かまくし立てようとするのを聞きもあえず一喝を食はせた形である。歌人だから風流に秋風のやうに住菴なさいといふだけで、折角の名所に住みながらそれでは台なしですよとは言はない。
 この歌に似た趣きのものが、嘗て上林温泉に遊ばれた時のにもある。曰く
 上林み寺の禅尼放胆に
物はいへども知らず山の名
 僧尼をからかふ気持は昔からあるが元来笑談のすきな晶子さんにこの種の作のあることもとよりその所である。
 彫刻師凡骨などのお伴をした時は、その度によくからかはれたもので蜀山流の狂歌が口を突いて出た、それを皆で笑つたものだ。

  白百合の白き畑の上渡る
青鷺連あをさぎづれのをかしき夕

 日常生活を一歩も出ない常識歌を作つて、それが詩でも何でもない唯言であることを忘れてゐる或は初めから御存知ない連中が斯ういふ作を見たら何といふだらう。作者の製造した景色で実景でないからそんなものは価値がない、また技巧も旨過ぎるなどといふかも知れない。
 しかしそんな批判はこの歌の値打を少しも減らさない。ゴエテに「詩と真実」といふ表題の本があるが、それでも分る通り、詩は真実ではないのであつて、絵そらごとといふ言葉のある様に虚の一現象である。
 写生が作詩の一方法であつて、この方法を取つてよい詩の生れることのあるのは否定できないが、あくまで一方法であつて全部ではない。
 詩は事実ではない。作者の精神の反映である。
 実の反映も虚であり、虚の反映はもとより虚である。
 美は虚であり詩は虚である。この詩は作者の空想にあらはれた美が結実し言葉に表現されたもので、丁度作曲家の脳裏に浮んだ美が形を為し音楽として五線譜上にあらはれるのと同じわけである。
 詩は言葉の音楽であり、音楽は音波のゑがく詩であり、等しく詩人の心の表現でその本質は同じものである。
 又モネの画面などは絵具で之を試みたものだ。
 この歌などは色彩の音楽を言葉で表現したものでそれ以上詮索は無用である。
 しかし強ひて試みれば和蘭陀のある地方又は輸出百合を栽培する地方などにはこんな畑もないことはあるまい。

  更科の田毎の月も生死いきしに
理も瞬間に時移るため

 生死の理こそこの年頃作者の脳裏にこびりついて放れなかつたものの第一であらう。
 その作者に縁あつて姥捨の月を賞する日が廻つて来て、一夕田毎の月の実況を見た。しかし作者の場合には、その美に打たれる代りに、わが抱懐する哲学理念に比べて之を観察してしまつた。
 現在が次の瞬間に過去になる。
 生は現在、死は過去である。
 月が動き時が移る、その度に月影は一枚の田から次の田に移る、それが田毎の月で、前の田の月は死に、次の田の月が生れる。生死は二にして一、同じものの時を異にしてあらはれるものに過ぎない。
 さう作者は感じたのである。
 之を読むと作者は仏教哲学をもよく咀嚼してゐるやうである。

  若き日のやむごとなさは王城の
ごとしと知りぬ流離の国に

 これも言葉の音楽の一つ。
 故あつてさすらひ人となつた現在を以て、若き日を囘顧すればそれば王城の様に尊貴な時であつたといふので、それだけのものであるが、わが民族の持つ言葉の音楽としてやがてクラシツクとなるであらう。
 さうして神楽や催馬楽の場合に亜がう。

  更科の木も目あるごと恐れつつ
露天湯にあり拙き役者

 上山田の温泉には露天湯があると見え、作者も物好きにそれに浸つて見た。
 入つては見たがそこら辺の木さへが目を持つて居て裸の私を見てゐるやうで恥しい、拙い役者が舞台の上でおどおどしてゐるやうな恰好は自分でもをかしい。
 木に目があるといひ、拙い役者といひ、短い詩形を活かすに有効な手段をいくらでも持ち合せて居る作者にはただ驚歎の外はない。露天湯の歌をも一つ。
  我があるは上の山田の露天の湯
五里が峰より雲吹きて寄る

  日輪に礼拝したる獅子王の
威とぞたたえんうら若き君

 前の若き日のやむごとなさの王城を生物であらはすと獅子王の威光となる。
 この辺の若い歌何れも晶子調が見事に完成した明治三十七年以降のもので、その内容も当時国の興りつつあつた盛な気分や情操を盛るもの多く、今日から振り返つて見ると洵に明治聖代の作であるといふ感が深い。
 単に調子だけでも二度とこんな歌は出来まい。

  干杏ほしあんず干胡桃をば置く店の
四尺の棚を秋風の吹く

 昔の東京なら駄菓子屋といふやうなものであらう。
 干杏干胡桃何れも山の信濃の名産、それを並べた店の四尺程のけちな棚を天下の秋風が吹く光景である。
 之は単なる写生の歌ではない、秋風が吹くといふ所に作者が強くあらはれて抒情詩の一体を成すのである。

  我と燃え情火環に身を捲きぬ
心はいづら行へ知らずも

 我と我が自ら燃やした情火ながら全身がそれに包まれてしまつた。
 さて心王は一体どこへ行つたのだらう、行へが分らない。
 これも我が民族の持つ最上級の抒情詩の一つで既にクラシツクになつてしまつた。私達は唯口誦することによつて心の糧とするばかりである。

  更科の夜明けて二百二十日なり
千曲の岸に小鳥よろめく

 前夜は出でて心ゆくまで姥捨の月を賞したのに、その夜が明けて今日は二百二十日だ。而して急に野分だつた風が吹き出し千曲川の岸では風の中で小鳥のよろめくのが見える。
 この歌ではよろめくが字眼でそれが一首を活かしてゐるのであるが、更科の夜明けての一句も大した値打ちを持ち、この一句で環境が明亮になるのである。

  家七間霧にみな貸す初秋を
山の素湯さゆめで来しやまろうど

 赤城山巓大沼のほとりにその昔一軒の山の宿があつた。
 東京の暑気に堪へぬ高村光太郎君が夏中好んで滞在してゐた。
 そこへ一夏同君を尋ねて寛先生、三宅克巳、石井柏亭両画伯などと御一しよに私も行つたことがある。
 作者はこの時は御留守居であつたが、私達が吹聴したその風光にあこがれてその後子達を連れて登られ、途中雷雨の為にひどい目に会はれたことがある。
 そのために赤城の風光は一時御機嫌にふれてひどい嘲罵に会ひ、先に行つた私達のでたらめであつたと言はれたことを覚えて居る。
 しかしこの歌を読むとやはり当時のあの赤城の宿らしい感じがする。
 客など殆どなくその代りに霧が来て室を占領し、肴は山のものと大沼の魚だけである。
 それを山の素湯といひ、こんな所へよくいらつしやいましたといふわけである。

  我が為に時皆非なり旅すれば
まして悲しき涙流るる

 これは上山田への途上千が滝のグリインホテルに泊つた時の作で、当時の心持がよく窺へる歌だ。家に居れば淋しさに堪へられない、そこで友を誘つて旅に出たが、旅に出て見れば家に居るにまして一草一木往時の思ひ出のしみないものもなく涙ばかり出て来る。
 それを一句に時皆非なりと簡潔に表現したのである。又その時の歌に
 わが友と浅間の坂に行き逢ふも
恋しき秋に似たることかな
 といふのもある。

  花草の満地に白と紫の
陣立てゝこし秋の風かな

 前の白百合の白き畑の場合と同じく色彩の音楽で、前のは初夏、之は仲秋の高原の心持であらう。
 それを旗さしものの風に靡く軍陣によそへて画面に印した迄である。

  蜜柑の木門かどをおほへる小菴を
悲しむ家に友与へんや

 相州吉浜の真珠荘は作者の最も親しい友人の一人有賀精君の本拠で、伊豆の吉田の抛書山荘と共に何囘となく行かれ、ここでも沢山の歌がよまれてゐる。今そこには大島を望んで先生夫妻の歌碑が立つてゐる。
 その蜜柑山に海を見る貸別荘が数棟建つてゐる。
 その一つを悲しむ為の家として私に貸しませんかと戯れた歌である。
 悲しむ家といふ表現に注意されたい。
 こんな一つの造句でも凡手のよく造り得る所ではない。

  二十六きのふを明日と呼びかへん
願ひはあれど今日も琴弾く

 過去、現在、未来を比べ、今年は私も二十六だ、過ぎ去つた若い日を未来に返し、も一度あの頃の情熱に浸りたい願ひはあるが、それもならず今日も一日琴を弾いて静かに暮してしまつた。
 作者二十六歳の作で実感だらう。

  集りて鳴く蝉の声沸騰す
草うらがれん初めなれども

 これも吉浜での作。
 油蝉の大集団であらうが、蝉声沸騰すとは抒し得て余蘊がない。
 しかしこの盛な蝉の声も実は草枯れる秋の季節の訪れを立証する外の何物でもないといふので、一寸無常観を見せた歌である。

  萠野ゆきむらさき野ゆく行人かうじん
霰降るなりきさらぎの春

 これも言葉の音楽で別に意味はない、初めの二句はいふまでもなく額田の女王の歌茜さす紫野行き標野行きの句から出て居るのであるが、その古い日本語の音楽を今様に編曲して元に優るとも劣らないメロヂイを醸成してゐること洵にいみじき極みといふべきだらう。

  わが踏みて昨日を思ふ足柄の
仙石原の草の葉の露

 仙石原は函根の中でも作者夫妻の最も親しんだ所でその度に無数の歌が詠まれてゐる。
 これは朝露を踏みながらそれらを囘顧する洵に玉のやうな歌である。又
  黄の萱の満地に伏して雪飛びき
奥足柄にありし古事
 といふ歌もこの時作られてゐるが之は昔私も御一しよに蘆の湖へ行く途上に出会つた雪しぐれの一情景を囘顧したものである。

  春雨やわが落髪を巣に編みて
そだちし雛の鶯の啼く

 春雨が降つてゐる、鶯が鳴いてゐる。
 この鶯こそ私の若い落髪を集めてこしらへてやつた巣の中でやしなはれた雛の育つたもので、いはゞ私の鶯だ。
 といふのであるが、少女の空想のゑがき出したものであつて差支ない。

  吹く風に沙羅早く落つ久しくも
我は冷たき世に住めるかな

 沙羅の花は脆いと聞くが、今日仙石に咲くこの花も風が吹く度に目の前で落ちる。落ちて冷い地上に敷く心地はその儘私の心地に通ふ。
 思へば私としたことが長い間冷たい世の中に住んでゐたものである。
 この様な感覚の共鳴によつて情と景との結ばれる例は余人の余り試みず、独り晶子歌に多く見られる処である。

  遠つあふみ大河流るる国半ば
菜の花咲きぬ富士をあなたに

 大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。
 あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。
 世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。
 自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。
 日本人に斯ういふ勇気があつたればこそ満洲事変も起り大東亜戦争も起つたのであらう。
 雀が鳥の飛び方を知らないと凰を笑ふやうなものだ。

  我もまた家思ふ時川下へ
河鹿の声の動き行くかな

 十二年の夏多摩の上流小河内に遊んだ時の作。
 河鹿が盛に啼いたものらしい、その河鹿の声が川下の方へ移つてゆく、丁度その時私もまた遥か川下の家のことを思ひ出してゐた。同じ時の河鹿の歌に
 風の音水の響も暁の
河鹿に帰して夏寒きかな
 といふこれもすばらしい一首がある。
 河鹿に帰するとは何といふ旨い言廻しだらう。
 万法帰一から脱体したものであらうが唯恐れ入る外はない。

  高き家に君とのぼれば春の国
河遠白し朝の鐘鳴る

 これも亦日本語の構成する音楽。
 森々たる春の朝の感覚に鐘の声さへ加はつて気の遠くなるやうなリトムの波打つてゐる歌である。

  荷を負ひて旅商人あきびとの朝立ちし
わが隣室も埋むる嵐気

 これも小河内の夏の朝の光景である。
 川から吹き上げる嵐気が室にあふれる。
 この室ばかりではない。
 昨夜旅商人の宿つて今朝早く立つていつた小さい隣の室にさへあふれる。
 旅商人を点出して場合を特殊化した所にこの歌の面目は存し、それが深刻な印象を読者の心に刻むのである。この時の歌にはまた
 渓間なる人山女魚やまめ汲み行く方に
天目山の靡く道かな
 などいふのもある。

  すぐれて恋ひすぐれて人を疎まんと
もとより人の云ひしならねど

 私はこの「人」を他人の意として解釈する。
 恋をする位なら人にすぐれた恋をし、人を疎む場合には之も人にすぐれて疎まうと云つたのは、それは他人ではなくもとより私自身であつた。
 それなのに実際はどうか。
 私にはこんな意味に取れるが果して如何。
 他の解あらば教へを乞ひ度い。

  ことは皆病まざりし日に比べられ
心の動く春の暮かな

 十二年の春四月の末つ方大磯でかりそめの病に伏した時の作の一つ。
 病まぬ日は昔を偲ぶをこととしたが、今病んでは事毎にまだ痛まなかつた昨日の事が思はれて心が動揺する。
 ましてそれは心の動き易い行く春のこととてなほさらである。
 この時の歌はさすがに少し味が違つて心細さもにじんでゐるが同時に親しみ懐しみも常より多く感ぜられる。二三を拾ふと
  いづくへか帰る日近き心地して
この世のものの懐しき頃
  大磯の高麗桜皆散りはてし
四月の末に来て籠るかな
  小ゆるぎの磯平らかに波白く
広がるをなほ我生きて見る
  もろともに四日ほどありし我が友の
帰る夕の水薬の味
 等があげられる。

  われを見れば焔の少女君見れば
君も火なりと涙ながしぬ

 これは作者自身の場合を正抒し、それを涙流しぬで歌に仕上げたものであるが、これほどのものも当時作者の外誰にも出来なかつたことを私は思ひ出す。

  華やかに網代多賀をば行き通へ
泣くとて雨よ時帰らんや

 多賀の佐野屋で網代湾に降る早春の雨を見ながら雨に話しかける歌。
 雨よ降るなら華やかに降つて網代と多賀の海上を勢ひよく往復するがよい、めそめそ泣いて降つたとて過ぎ去つたよい日は決して帰つてこないのだからと雨にいふ様に自分にいつてきかせるのである。

  紫と黄色と白と土橋を
胡蝶並びて渡りこしかな

 たとへば日本舞踊で清姫のやうな美姫を三人並べて踊らせる舞台面があつたとする。それを蝶に象徴するとこの歌になる。
 象徴詩はもと実体がないのであるから、読む者が自由に好きなものを空想してはめこむが宜しい。

  瀬並浜宿の主人が率ゐつゝ
至れる中にあらぬ君かな

 汽車が著いたので瀬並温泉の宿の主人が客を案内してどやどや帰つて来た。その中にも君は居ない。
 そんな気の迷ひはよさうと思ふがつい思はれるといふ位の感じであるが、目前の小景をその儘使う所にこの歌の値打ちが存するのであらう。

  たたかひは見じと目閉づる白塔に
西日しぐれぬ人死ぬ夕

 日露戦争は主として軍人の戦ひであつて国民はあまりあづからなかつた。せいぜい提灯行列に加はつた位のものである。
 非戦論も大して咎められなかつた。当時の青年層は大体に於て我関せず焉で、明星などその尤なるものであつた。
 晶子さんは一歩進んで有名な「君死にたまふことなかれ」といふ詩を作つて反戦態度を明かにした位で、問題にはなつたが、賛成者も多かつた。
 この白塔の歌はいふ迄もなく、遼陽辺の戦ひを歌つたもので白塔はまた作者自身でもある。

  長岡の東山をば忘れめや
雪の積むとも世は変るとも

 雪の長岡へ来て故人と共に遊んだ往年の秋を思ひ出し、雪景色とはなつたが、又世の中が変つて私は一人ぽつちになつて旅をしてゐるが、ここの東山をどうして忘れることが出来よう。
 誰にでも使へる様な平凡な言葉が平凡に組合されてゐるに過ぎないこの一首の歌が、反つて強く人の心に訴へる所のあるのは如何したことであらう。
 晶子歌の持つ不思議の一つである。
 この時の歌をも一つ。
  我が旅の寂しきことも古へも
我は云はねど踏む雪の泣く

  遠方をちかたに星の流れし道と見し
川の水際みぎはに出でにけるかな

 恋人達の試みる夏の夕の郊外散策の歌である。
 とうとう川に出ましたね、さつき星の流れた辺ですよといふのであらうが、尤も之はむかしの話で今日の様にどこへ行つても人のごみごみしてゐる時代にはこんなのどかな歌は出来ないであらう。

  大海のほとりにあれば夜の寄らん
趣ならず闇襲ひくる

 十二年の早春興津の水口屋に宿つてゐた時の作。
 家の裏は直ぐ大きな駿河湾で、大海のほとりにあるといふ感じのする宿である。
 日が暮れて夜が静かに忍びよるのではなく、この海辺に夜の来る感じは、いきなり暗闇くらやみが襲ひかかるといふ方が当つてゐる。さうしてこの感じによつて逆に読者は自分も大海の辺に宿つてゐる気分になるのである。

  春の宵壬生狂言の役者かと
はやせど人はもの云はぬかな

 春の夜の恋人同志の小葛藤である。
 「壬生狂言」は京の壬生寺の行事となつてゐる一種の黙劇で決して物を云はない。
 即ちおこつて口をきかなくなつた相手をからかふのである。
 この狂言は念仏踊の進化したものでをかしみたつぷりのものらしい。従つてはやせどといふのである。

  天地の春の初めを統べて立つ
富士の高嶺と思ひけるかな

 久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。
 私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。
 その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。
 私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。
 ことにその調子の高いこと類がない。
 又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く
 類ひなき富士ぞ起れる清見潟
駿河の海は紫にして
 大いなる駿河の上を春の日が
緩く行くこそめでたかりけれ

  春の海いま遠方をちかたの波かげに
睦語りする鰐鮫思ふ

 終日のたりのたりかなでは曲がない。
 そこで遥か遠方に鰐鮫の夫婦を創造して彼等に睦語りをさせることにより、春の海の情調を具象させるのである。

  君に教しふ忽忘草なわすれぐさの種蒔きに
来よと云ひなば驚きてこん

 この君は親しい女友達である。
 少しあの方の足が遠のいてゐる由の御たよりに接し意外に思ひます。
 しかし何でもないことですよ。斯う書いてやつて御覧なさい。
 春が来ました、忽忘草の種を蒔きに来て下さいと。
 それだけで驚いて来ますよと書き送る形であらう。
 これも明治の歌を代表するものの一つで、立派なクラシツクである。

  薄曇り立花屋など声かけん
人もあるべき富士の出でざま

 やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。
 それはどうしても羽左衛門といふ形である。
 大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。
 私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。外の役者ではだめである。
 これからの若い人達の為にこの間まで羽左といふ小さい天才役者のゐたことを書きつけて置いてこの歌の感じをよそへることにする。

  君は死にき旅にやりきと円寐しぬ
後ろの人よものな云ひそね

 別に説明を要しないであらう。
 唯その言葉の音楽の滑るやうな快調がほんとうに味はへれば、それでこの歌の観賞は終るわけである。

  長閑なり衆生済度の誓ひなど
持たぬ仏にならんとすらん

 同じく鉄舟寺での作。
 その時の住持は私も一度御目にかかつたが近頃珍しい老清僧で、知客、典座の役まで一人で引受けられる位気軽な、良寛ほども俗気のない方だつた。
 さういふ和尚さんを相手に何の屈托もなく春の一日を遊び暮す作者の心持、それがあらはれてこの歌になるのである。

  君まさぬ端居やあまり数多き
星に夜寒を覚えけるかな

 夫の留守を一人縁に出て涼んでゐたが、ふと夜空を仰ぐと降るやうな一面の星だ。
 それを見てゐると急に寒くさへなる。
 作者に於ては冴えた星の光と寒さとの間に何か感覚のつながりがあるであらう。

  明星の山頼むごと訪ねきて
積る木の葉の傍に寝る

 十二年の晩秋箱根強羅の星山荘にあつての作。
 明星の山は前の明星が岳である。
 あの山を頼みにして訪ねて来たのに、この落葉の積りやうは如何だ、まるで落葉の中に寝に来たやうだ。
 積る木の葉の傍に寝るとは何といふ旨さだ、唯恐入つてしまふ。

  相人よ愛欲せちに面痩せて
美くしき子によきことを云へ

 面痩せて美しき子即ち痩せの見える細面ほそおもての美人が、愛欲の念断ち難く痩せるほど悩んで、未来を占はせてゐるのだ、人相見さん、ほんとうは如何あらうとこの人にだけはよいことをいつてあげておくれ、可哀さうと思ふなら。字面どほりに解釈すればこんなことになるのだが、相人が相人でない場合もあり得るので、別の解も出て来るだらう。
 それは鑑賞者の自由だ。

  多摩の野の幽室に君横たはり
我は信濃を悲みて行く

 十二年の秋大人数で奥軽井沢三笠の山本別邸に押しかけた折の作。
 この頃は時の作用で悲しみも大分薄らいで居られたが、軽井沢へ著いて歩いて見るとまた急に昔が思はれて、私は今かうして大勢と一しよに信濃路を歩いて居るのに同じ時に君は多摩墓地の墓標の下深く眠つて居るのだと自他を対比させ、も一度はつきり悲しい境遇を自覚する心持が歌はれてゐるやうである。

  君帰らぬこの家一夜に寺とせよ
紅梅どもは根こじて放はふ

 随分思ひ切つた歌である。晶子さんでなければ云へないことだ。
 しかし実際の晶子さんは、思想上の激しさに拘らず、どんな場合でも手荒なことの出来なかつた、つつしみ深い自省力を持つた人だつた。
 しかし女の嫉妬に美を認めて之をうはなり妬み美しきかなと讃美した作者は自身も相当のものであつた。
 この歌なども実感そのままを歌つたものと見てよからう。
 但し寺とせよといふ句は家を捐てて寺とする平安文化の一事象から出て来たのであらうからその方に詳しい晶子さんでなければ云へない所だし、紅梅など根こじにこじて捨ててしまへなども実に面白い思ひ付きだ。

  雨去りて又水の音あらはるゝ
静かなる世の山の秋かな

 同じ時の歌。
 今思へば既に澆季に這入つてゐたといふものの、あの頃はまだ静かな世の中であつた、嘘のやうな話だが、それ故にこんな歌を詠めたのだ。
 晶子さんの事を思ふと私どもはいつもああいい時に死なれたと思ふ。
 晶子さんの神経の細さはとても戦禍などに堪へえられる際でない、さうしてその鋭さの故に、雨が止んで反つて水音の顕はれる山の秋の静けさもはつきり感ぜられるのである。
 同じ時朴の落葉を詠んだ歌に その広葉煩はしとも云ふやうに落とせる朴も悲しきならん といふのがあるが、この煩はしとも云ふやうな感じなどは、ただの神経の琴線には先づ触れない電波の一種ではなからうか。

  やはらかに寝る夜寝ぬ夜を
雨知らず鶯まぜてそぼふる三日

 今日の進歩した私達から見ればこの位の表現は何の事もないかも知れないが、明治三十七八年頃の事で作者も漸く二十七八にしかならなかつた当時、春雨が鶯をまぜて降るなどいふ考へ方をした作者の独創性オリヂナリテは全く驚くべきである。快い春雨がしとしとと三日も続けて降つて居る、しかしその春雨も家の中の人が、一夜は何の気遣ひもなくよく眠れ、又次の夜はまんじりとも出来なかつたことなどは少しも知らない、唯鶯をまぜてしとしとと降るだけの芸だ。
 先づそんな意味であらうか。

  白河の関の外なる湖の
秋の月夜となりにけるかな

 十一年の仲秋岩代に遊び猪苗代湖に泊して詠んだ歌の一つ。
 猪苗代は緯度からいふと白河の関の直ぐ外側にあるのだからこれでいいわけだが、実は秋といふ季節が連想をそこへ運んだのかも知れない、例の秋風ぞ吹く白河の関の仲介で。
 そんなことは如何でもよいが猪苗代湖の秋の月夜のすばらしさが例の堂々たる詠みぶりから天下晴れてあらはれてゐる。

  行く春や葛西の男鋏刀はさみして
躑躅を切りぬ居丈ばかりに

 今を盛りと咲き誇つてゐた躑躅も漸く散つて春も暮れようとする一日、一体に大きくなり過ぎてゐたそれらの躑躅の手入れに植木屋を入れた。来た職人は葛西寺島村の生れで堀切の菖蒲の話などをする。
 こんな案梅な歌であらう。
 行く春の郊外の静かな一日である。

  後ろにも湖水を前にせざるもの
あらざる草の早くうら枯る

 同じ時裏磐悌の火山湖地帯にも遊んだが、その時の作。私は側まで行つてつひに行き損じたが、湖沼の水色のとても美しい処ださうだ。
 それで なにがしの蝶の羽がもつ青の外ある色ならぬ山の湖 私ならカプリの洞の潮の色と恐らく云つたであらうと思はれる歌である。
 西洋の詩では句法が散文に比し大に違つてゐて誰も怪しまないのは、韻を踏む必要上さうしないことには文を成さないからである。然るに歌でも詩でも日本には韻を踏むといふ事がないから自由に歌へる。
 日本の詩歌には成るほど音数の制があつてリトムは具つてゐるが韻を踏むといふ厄介千万な習慣がないのではじめから自由詩のやうなものである。
 それだから句法も散文と違はないものが用ゐられるわけだ。
 しかし歌のやうな短いものの中へ、これからの新らしい複雑な思想を盛るには、形を壊してしまふか、新たに従来ない様な句法を採り入れるか何れかによらねばなるまい。
 前者は啄木によつて試みられたもの、後者は晶子さんが若い時乱れ髪でやつて成功しなかつた方法である。
 それに懲りてか晶子さんは成るべく之を避けた。
 教養の豊かな字彙に富んだ晶子さんなら避けることも出来るが、之からの若い人達にはそれは望めない。
 勢ひこれからは従来の散文にない新らしい句法のどしどし用ひられる時代が来よう。
 私はむしろそれを望む。
 この歌の初めの一句「後ろにも」は本来なら次の「湖水を」の次に来なくては意味が取りにくいのであるが、短歌のもつ制約の為にそれが顛倒したのである。
 こんな所からはじめて見たらどんなものであらうか。
 秋の進まないのに草の早く枯れかかつたのは、山の上だからでもあらうが、前後に湖沼を控へ朝夕その冷気を受けるからであらうといふのである。

  うつら病む春くれがたやわが母は
薬に琴を弾けよと云へど

 薬に琴を弾くといふ云ひ方は日常語では誰でも使ふが、歌の中で使つたのは晶子さんがはじめてでそれだけ、その効果は頗る大きかつた。
 今日の感じでもやはり面白いと思ふ。
 名工苦心の跡ではなく、唯の軽いタツチに過ぎないが面白い。

  盆の唄「死んだ奥様おくさを櫓に乗せて」
君をば何の乗せて来らん

 信州松本の浅間温泉に泊つた時丁度盆で盆踊りを見た所、「死んだ奥様を櫓に乗せて」と唄ひ出した。
 さうだ盆といへば、君の帰る日であるが何に乗つて帰るのだらうと反射的に歌つたもので、をかしみをまじへた悲哀感がよく出てゐる。

  牡丹植ゑ君待つ家と金字して
もんに書きたる昼の夢かな

 明治末葉寛先生のはじめた新詩社の運動には興国日本の積極性を意識的に表現しようとする精神が動いてゐた。この歌の如きもその精神のあらはれで、従来のか細い淋しい又はじみな日本的なものを揚棄して、一躍してインド的なギリシア的な積極性の中へ踊り込んだものである。
 この精神は相当長い間衰へずに作者の護持する所であつたが、時の経過は争はれず、晩年の作には段々かういふ強い色彩が見られなくなり、しまひにはもとの古巣の日本的東洋的なものに帰つてしまはれたのは是非もない次第だ。
 しかし之からの日本は再び明治の盛な精神に立戻るのであらうから、そこで若い晶子はどうあつてもも一度見直されねばならないのである。

  大般若転読をする勤行ごんぎやう
争ひて降る山の雨かな

 十二年五月雨頃奥山方広寺に暫く滞留して水月道場の気分に浸られた折の作。大本山と呼ばれる様な大きな禅院では毎早朝一山の僧侶総出の勤行があり、さうして大抵は大般若経転読の行持も一枚挾まる様だ。
 転読とは御経を読むのではなく、めいめい自分の前の大きな御経の本を取つて掛け声諸共にばらばらつと翻すのである。
 それが揃つて行はれるので洵に見事なものだ。
 その時降つてゐた山の雨がその音を打ち消さうとしていよいよ強く降り出す光景である。
 方広寺の環境がよく偲ばれる歌だ。この時は又
  奥山の白銀の気が堂塔を
あまねく閉す朝ぼらけかな
 などいふ響のいい歌も出来てゐる。

  秋の風きたる十方玲瓏に
空と山野と人と水とに

 いふをやめよ、如斯は一列の概念であると。
 概念であらうと何であらうと優れた詩人の頭の中で巧妙に排列され、美しいリトムを帯びて再び外へ出て来た場合にはそれはやはり立派な詩である。
 この歌などは他の完璧に比し或は十全を称し難いかも知れないが尚、少し開いた所で野に叫ぶヨハネの心持で高声に朗誦する値打ちは十分ある。

  鉄舟寺老師の麻の腰に来て
驚くやうに消え入る蛍

 この鉄舟寺老師こそ先にも云つた通りの、一生参学の事了つた老翁の茶摘み水汲み徳を積む奇篤な姿である。
 一生の好伴侶を失つて淋しい老女詩人と少しもつくろはぬ老僧とがやや荒廃した鉄舟寺の方丈で相対してゐる。
 そこへ久能の蛍が飛んで来て老師の麻の衣にとまつた。
 とまつたと思つたら光らなくなつた。
 とまつた所が徳の高い菩薩僧の腰であることの分つた蛍は恐縮して光るのをやめたのである。
 驚くやうにといふ句がこの歌の字眼である。

  川添ひの芒と葦の薄月夜
小桶はこびぬ鮎浸すとて

 渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐて之もその一つである。
 それらはしかし東京の郊外となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の歌である。
 芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつた。
 夏の日も暮れて薄月がさしてゐる。岸には男の取つて来た鮎を窓のある小桶に入れたのを持つて水に浸けにゆく女がゐる。
 これも亦明治聖代の一風景である。

  浜ごうが沙をおほえる上に撤き
鰯乾さるる三保の浦かな

 三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。
 その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。
 今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。
 而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。
 三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。
 その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。
 さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。
 普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、そこを反つて興じたわけなのであらう。

  わが哀慕雨と降る日にいとど死ぬ
蝉死ぬとしも暦を作れ

 君を思ふ哀慕の涙がことに雨の様に降る日がある。
 そんな日附の所へ、いとど死ぬ日、蝉死ぬ日などと書き入れた暦を作らせて記念にしたい。
 こんな心であらうが珍しい面白い考へだ。
 暦のことはよく知らないが昔の暦にはそんな書入れがあつたのであらう。
 これも当時から相当有名な歌であつた。

  義経堂ぎけいどうをんな祈れりみちのくの
高館に君ありと告げまし

 鞍馬山での歌。そこに義經を祭る義経堂がある。
 その前で祈つてゐる女がある。
 靜しづかさんのみよりのものでもあらうか、さうなら君は御無事で奥州秀衡の館に昔の様にして居られますと教へてやらうといふ歌だが、その裏にはこの女にはまだ君といふものがあるのに君のありかを知つてゐる私には反つてそれがないといふ意が隠れてゐる。

  秋霧の林の奥の一つ家に
啄木鳥きつつき飼ふと人教へけり

 故あつて失踪した人、恐らくは自分を思つてその思ひの遂げられぬことが分つた為に失踪したらしいあの人が、秋霧の深い山の奥の一軒屋にかくれ住んで啄木鳥を友として静かに暮してゐるといふ噂がこの頃聞えて来た。一つの解はかうも出来るといふ見本だ。
 読者は自己の好む儘に解いてそのすき腹を満たすが宜しい。

  大阪の煙霞及ばず中空に
金剛山の浮かぶ初夏

 六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。
 あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。
 その煙霞といつたのは写生で殊更に雅言を弄んだのではない。

  後朝きぬぎぬや春の村人まだ覚めぬ
水を渡りぬ河下の橋

 川上の女の家を尋ねてのあした、村人さへまだ起きぬ早朝、朝靄のほのかに立ち昇る静かな春の水を見ては幸福感に浸りつつ河下の橋を渡つて家路に急ぐ心持であらう。晶子さんの所謂、恋をする男になつて詠んだ歌の無数にあるものの一つだ。

  狭霧より灘住吉の灯を求め
求め難きは求めざるかな

 何といふ旨い歌だ。
 これも十二年の初夏六甲山上の丹羽さんの別荘に宿られた時の歌。
 薄霧の中に麓の灯が点々として見られる。
 あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。
 しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、故人がさうだ、だから求めても分らないものは初めから求めないことにした。
 眼前の夜景によそへてまたもやるせない心情を述べたものである。
 求めるといふ言葉の三つ重つてゐる所にこの歌の表現の妙も存するのであるが、誰にでも出来る手法ではない。

  君に似しさなり賢こき二心こそ
月を生みけめ日をつくりけめ

 私は君唯一人を思ふ、それだのに君はさうではなく同時に二人を思つてゐるやうだ、それは二心ふたごころと云つて賢いのであらう、丁度天に日と月とがあるやうなものだ。
 しかし私は二心は嫌ひだ、どこまでも一人に集中する。
 それが愚かしいことであらうがなからうがと云ふので、之は晶子さんの初めからの信条であり又信仰でもあつた。それ故
  やごとなき君王の妻に等しきは
我がごと一人思はるゝこと
 といふ歌もあり又
  天地に一人を恋ふと云ふよりも
宜しき言葉我は知らなく
 などいふのもある。

  伊香保山雨に千明ちぎらの傘さして
行けども時の帰るものかは

 十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿千明ちぎらの番傘をさして町へ出掛け物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。
 この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。それは
  氷よりたまたま大魚釣られたり
榛名の山の頂の春
 と歌はれ、又
  我が背子を納めし墓の石に似て
あまたは踏まず湖水の氷
 といふ作も残されてゐる。

  思はれぬ人のすさびは夜の二時に
黒髪梳きぬ山ほととぎす

 少し凄い歌で人を詛ふやうな気持が動いてゐる。
 山の中の光景で、男に思はれない一人の女が夜の二時に起き出して髪を梳いてゐるとほととぎすが啼いて通つた。
 華やかなことの好きだつた晶子さんには斯ういふ一面もあつた。
  誓ひ言我が守る日は神に似ぬ
少し忘れてあれば魔に似る
 その魔に似る一面で、時には強烈な嫉妬の形を取つて現はれることもあつたやうだ。

  雪被かぶり尼の姿を作るとも
山の愁は限りあらまし

 箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。
 山の愁はしかしそれだけのもの、形丈のものであらう。しかし生きてゐる限り私の心にある愁は何時迄も続いてゆくといふのである。

  君が妻は撫子挿して月の夜に
鮎の籠篇む玉川の里

 これも昔の玉川風景の一つ。
 鮎漁を事とする里の若者をとらへて詠みかけた歌であらう。
 昼摘んだ川原撫子を簪代りに挿した若い女房が月下に鮎の籠を編む洵にそれらしい情景が快く浮んで来る。

  返へらざる世を悲しめば如月の
磯辺の雪も度を超えて降る

 早春大磯に滞在中、雪の余り降らない暖かい大磯には珍しい大雪が偶々降り出した。
 返らない世を悲しむ私の心を知つてか知らずにか、この雪の降り方は尋常ではない。度を越した悲哀を形にして私に見せてくれる様でもある。そんな心であらう。
 この大磯滞在中の作には面白いのが多いから二三挙げよう。丁度節分だつたのでこんな歌がある。
  大磯の追儺つゐなの男豆打てば
脇役がいふ「ごもつともなり」
 その大雪の光景は又
  海人あまの街雪過ちて尺積むと
出でて云はざる女房も無し
 と抒述されてまるで眼前に見る様だ。
 その雪の上を烏が一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、
  この磯の一つの烏百羽ほど
君と見つるは鎌倉烏
  となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを
  東京の吹雪の報の至れども
君が住む世の事にも非ず
 と軽く片付けたのなど何れもそれぞれ面白い。

  半身に薄紅うすくれなゐの羅うすもの
衣纏ひて月見ると云へ

 さて如何いふ光景を作者は描かうとしたのであらうか、これだけでは分らない。
 読者は好む儘に場合を創り出してよからう。
 たとへば奥様は余り暑いのでベランダで半裸体になつて月を浴びてゐます、ですから御目にかかれませんと云へとのことですと小間使ひか何かに旨を含めて男を断るといつたやうな場合である。

  我が手をば落葉焼く火にさし伸べて
恥ぢぬ師走の山歩きかな

 自分では最後まで形の上でも若さを失はない様に努めて居られたが、年六十を越えて枯れきつた老刀自の面目はちよいちよいその片鱗を示し、これなどもその一つと見てよからう。

  地は一つ大白蓮の花と見ぬ
雪の中より日の昇る時

 言葉といふ絵具を使つて絵を描く絵師がある。
 この作者もその一人であるが、若い時から特別の技量を具へてゐて容易に人の之に倣ふを許さなかつた。
 而して大きな光景を描く時に特にはつきり之が現はれたものである。この歌の如きもその一例である。
 白皚々たる積雪を照らして金の塊りの様な朝日が登つて来る、まるで一つの大きな白い蓮の花だ。作者の椽大な筆でもこれ以上の表現は先づ出来まいと思はれる極限まで書いてゐる。而して殆ど何時もさうである。

  鹿の来て女院を泣かせまつりたる
日の如くにも積れる落葉

 久し振りで平家をあけてこの行りを読んで見る。
 斯くて神無月の五日の暮方に庭に散り敷く楢の葉を物踏みならして聞こえければ、女院世を厭ふ処に何者の問ひ来るぞ、あれ見よや、忍ぶべきものならば急ぎ忍ばんとて見せらるるに、小鹿の通るにてぞありける。
 女院、さて如何にやと仰せければ、大納言佐の局涙を押さへて、
  岩根踏み誰かは訪はん楢の葉の
戦ぐは鹿の渡るなりけり
 女院哀れに思召して、此歌を窓の小障子に遊ばし留めさせおはしますとある。
 建禮門院は史上の女性の内でも作者の好んで涙を注いだ人で、既に前にもほととぎす治承寿永の歌を出したが、平家を詠ずる歌の中にも
  西海の青にも似たる山分けて
閼伽の花摘む日となりしかな
 といふのがある。まだあるかも知れない。

  水仙を華鬘けまんにしたる七少女
氷まもりぬ山の湖

 赤城山頂の大沼は冬は一枚の氷となつてしまふ。
 それを切り出して氷室に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの産業になつてゐた。その大沼の凍つた冬の日の光景を象徴しようとしたもので、華鬘は印度風の花簪であるから従つてこの七少女も日本娘ではない、当時藤島武二画伯が好んで描かれたやうなロマンチツクな少女を空想して氷の番をさせたのである。
 ただ七少女だけは神武の伝説に本づくのであらうから少しは日本にも関係はある。

  家家が白菊をもて葺く様に
月幸ひす一村の上

 十二月の冬の月が武蔵野の葉を落した裸木と家根とを白く冷くしかし美しく照してゐる、それを白菊をもて葺くと現はし、月のお蔭でさうあるのを月幸ひすと云ひ又それを広く村全体に及ぼした差略など唯々恐れ入る。ことに月幸ひすとは何といふ旨さだ。

  恐ろしき恋醒心何を見る
我が目捕へん牢舎ひとやは無きや

 恋の醒めた心で見直すと光景は全く一変するだらう。
 美は醜に、善は悪に、実は虚に、真は偽に変るかも知れない。
 そんな恐ろしい光景を見ない様に私の目をつかまへて牢屋に入れたいが、そんな牢屋はないだらうかといふのである。
 目を牢獄につなぐといふ様な思ひ切つた新らしい表現法は当時から晶子さんの専売で誰も真似さへ出来なかつた。

  思ひ出に非ずあらゆる来し方の
中より心痛まぬを採る

 故人と共に過した四十年の人生は短いものでもなく随分忍苦に満ちた一生ではあつたが、生甲斐のあるやうに思つた年月も少くはない。私は既に年老い心も弱くなつたので、人の様に様々の思ひ出に耽る気力はない。
 今私の為し得ることは、一切の過去の出来事の中から老の心を痛ませない様なものだけを取り出して見ることである。それが私の思ひ出である。
 何といふあはれの深い歌であらうか。

  今日もなほうら若草の牧を恋ひ
駒は野心忘れかねつも

 こんなに好い事が重つてゐる、それだのに今日もなほ、野放しだつた頃、親の家に居て仕度い三昧に暮してゐた頃のことが忘られず、不満に似たやうな心も起きる、困つたことねと先づこんな風な心持ではないかと思はれるが、もと象徴詩の解釈だから、それは如何やうとも御勝手だ。

  筆とりて木枯の夜も向ひ居き
木枯しの秋も今一人書く

 之は寛先生の亡くなられたその年の暮に詠まれた歌であるが、之より先
 源氏をば一人となりて後に書く
紫女年若く我は然らず
 といふ身にしみる歌が作られて居り更に
 書き入れをする鉛筆の幽かなる
音を聞きつつ眠る夜もがな
 といふのもあつて、老詩人夫妻の日常生活がよく忍ばれるのであるが、それがこの場合は年も暮れんとし木枯しの吹きすさぶ夜となつただけに哀れも一しほ深いのである。

  判官と許され難き罪人は
円寝ぞしけるわび寝ぞしける

 判官は判事で男とすべきであらうから従つて罪人は女といふことになる。
 さてこの罪人の許され難き罪とは何であらうか。
 しかし裁判は終結しない儘休憩となり、ごろ寝をする、しかしもともと終結してゐないのであるから佗寝以上には進みやうがない。
 依つてその罪も相当重い罪であることが分るわけである。

  冬の夜の星君なりき一つをば
云ふには非ず尽く皆

 この歌が分りますか。
 私は一読して分らなかつた、多くの場合星を人に擬するや特定の光の強いものとか、色の美しいものとかを斥すやうである。
 然るにこの歌では満天の星屑尽く君だといふのであるから一寸様子が違つて分らなくなるのである。
 即ち星一つを一つの人格と見る癖があるので分らなくなるのではないか。
 もしさういふ先入見を取り去つてしまつたら如何か。
 作者の相対するものは星を以つて鏤めた冬の夜空全体であつて特定の星ではない。
 夜空全体が君となつて我に相対するのである、くり返して読む内にそんな風に私には思はれて来たが果して如何か。之も教へを乞ひたい歌の一つだ。

  春の磯恋しき人の網洩れし
小鯛かくれて潮煙しぬ

 春の磯を歩いてゐると静かに寄せる波が岩の間にもまれてぱつと小さい潮煙が上がる。
 おやと思ふと鯛の岩影にかくれる幻像が浮んだ。
 あの鯛はきつと恋しいと思つた人の網につひはいり損じ、ぷりぷりして岩の間にかくれたのだといふ空想が続いて浮ぶ。若い娘をかすめたいはれのない不合理な幻想ではあるが春の磯の気分がよくあらはれてゐる。

  ことさらに浜名の橋の上をのみ
一人渡るにあらねどもわれ

 十年の秋蒲郡に遊んだ作者は、ホテルの方にでも泊られたらしく
  遠き世も見んと我して上層の
部屋は借れると人思ふらん
 又橋では
  入海の竹島の橋踏むことを
試みぬべき秋の暁
 など詠まれてゐるが、その帰途出来たのが、昔なら「浜名の橋を渡るとて」といふ前書のあるべきこの歌である。
 殊更この橋の上に限つて一人で渡るのではない、どの橋も一人で渡り、どこへ行くのも一人きりだ。
 それだのにこの橋に限つて私一人で渡つてゐるやうな気がするのは如何いふわけだらう。
 浜名の橋といふ平安の昔懐しい名所の橋だからそんな気がするのだらうか。こんな風にも取れる歌である。

  雲往きて桜の上に塔描けよ
恋しき国を俤に見ん

 これも若い娘の好んで描く幻像あこがれを歌つたものらしく何のこともないが、その気分が歌の調子の上に如何にもよく出て居る。
 斯ういふ歌を朗誦すると私なども一足跳びに四十年位若くなる。

  湖は月の質にて秋の夜の
月を湖沼の質とこそ思へ

 この歌は如何あつても老晶子でなければ作れない歌だ。
 島谷さんの抛書山荘から上に中秋の明月が懸り下に吉田の大池のある風景を非絵画的に少しも形態に触れることなく、その本質のみを抽出して詠出したもので一寸類の少い作例である。しかも両鏡互に相映じて一塵をも止めざる趣きは同時に達人の心境でもある。

  君まさず葛葉ひろごる家なれば
一叢ひとくさむらと風の寝にこし

 茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。
 風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。

  裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の
侮り難しあきらめぬ蝉

 これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。
 諦めないといふことも斯くては侮り難い。
 東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に
 山裾に汽車通ひ初めもろもろの
蝉洗濯を初めけるかな
 といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては
 もろともに引き助けつつこの山を
越え行く虫の夜の声と聞く
 といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。

  恋人は現身後生善悪よしあし
分たず知らず君をこそ頼め

 ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向ひたむきな心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。

  松山の奥に箱根の紫の
山の浮べる秋の暁

 下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。
 こんな歌は、いくら作者でもさう沢山は出来ないと私は思ふ。その一読之亦何の奇もないところに高手の高手たる所因が存するのであらう。
 清水のやうな風味が感ぜられる。

  形てふ好むところに阿ねるを
疚しと知りて衰へ初めぬ

 女は己れを愛するものの為に形づくるといふ教へもあり、麗色は君の好む所であり我が好む所でもある。
 しかし容色の上に私達の愛は成立してゐるのではない、もつと精神的なつながりであり、全身全霊を以てするものである。
 だから、容色を整へる為に憂き身をやつすのはどうも面白くない。
 さういふ考へになつたため我が身に構はなくなつたり急に衰へてしまつた、困つたことになつてしまつた。
 表の意味はその通りであらう。
 しかし実は我が身の衰へ初めたのを気にして、それはきつと構はなくなつた為でその外に理由はないのだと自ら言ひわけをする心持を歌つたのではなからうか。

  筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し:
諏訪蓼科は立縞の雨

 十年の八月八ヶ岳の麓の蓼科鉱泉に行かれた時の歌。
 夏の山の雨が立縞のやうに音を立てて降つてゐる。
 しかし西の空、その下は筑摩川が流れ、伊那の渓谷が横たはり安曇の連山の起るその西空には真赤な雲が出てゐる。周囲身近かな現象と山国信濃の大観とを併せ抒した素晴らしい歌である。

  なほ人は解けず気遠し雷の
音も降れかし二尺の中に

 君と我との隔りは僅に二尺しかない。
 それに私の出来るだけのとりなしはして見たが、まだすつきりと心が解けない、そして寂しいうとましいこの場の空気は晴れようともしない。
 ええ一そのこと夕立がして私のきらひな雷でも鳴るがよい。
 さうすれば局面が展開されよう。
 それを二尺の間隔へ雷の音が降るとやつたきびきびしさはいつものこととは言へ感歎に値する。

  荷を積める車とどまり軽衿かるさん
子の歩み行く夕月夜かな

 カルサンは即ち「もんぺ」で今では日本国中穿たざる女もないが、この間までは山国の女だけしかしなかつた。
 その「もんぺ」を穿いた女が、着いたトラックから降りて自分だけの荷を担いで夕月の中を我が家へ帰つてゆく。
 それを作者はなつかしさうに見送つてゐる。
 これも八ヶ岳山麓の月のある夕の小景で、カルサンといふ洵に響きのよい舶来語を使つて昔のもんぺ姿を抒してゐるのが面白い。今や漸く一般化した婦人の労働服をあらはす言葉としてこれを使つて見たら如何だらう。

  わが鏡撓たわ造らせし手枕を
夢見るらしき髪映るかな

 鏡に写つた我が黒髪には紛ふ方なき大きな撓が出来てゐる、その撓を見てゐると影の形に添ふ様に之を造らせた手枕の形が現はれる、さうして鏡は、私が今しがた迄手枕をして横になり物思ひにふけつてゐたのだといふことをはつきり示してくれる。私はその間何を思つてゐたのだらうか。
 先づそんな様な趣きの歌ではなからうかと思はれる。
 作者はここでも例によつて我が黒髪をさへ擬人して夢を見させてゐる。

  山の霧寂滅為楽としも云ふ
鐘の声をば姿もて告ぐ

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響ありといふ、平家の書き出しから進んで道成寺の文句となり、甚だ耳に親しくなつてゐる鐘声にこもる四句の偈中寂滅為楽の妙境が鐘声といふ音楽に現はれる代りに、絵画的の姿、形をとつて現はれたものが目前の山の霧であつて、即ち仏法最後の涅槃境に外ならないのであらう。

  夕には行き逢ふ子無き山中に
人の気すなり紫の藤

 夕方になれば人も通らない淋しい山の径だが、春が来れば紫の藤が咲く。それの艶にやさしい姿を見るとまるで人にでも逢つたやうで懐しい。
 作者の何にでも注がれる深い同情心がたまたま山中の野生ひの藤に注がれた一例である。

  蓼科に山と人との和を未だ
得ぬにもあらで物をこそ思へ

 わたしは山を愛して常に山に遊ぶ、山と人との調和の如きは、私の場合には、直ぐに出来て何の面倒も入らない。この蓼科でも同じことで私と山とは既にすつかり溶け合つてゐて、その間につけこむ空虚はないのである。
 それだのになほ物思ひに沈むのは如何したことだ。
 しかしそれは山の罪ではない、別に理由があるからだ。

  木の下に白髪垂れたる後ろ手の
母を見るなり山ほととぎす

 皐月が咲き蜜柑の花が咲くやうになると人里近くにも山ほととぎすが出て来てしきりに啼く。
 その声を聞いてゐると何の理由もなく年老いた母の姿が目の前にあらはれる。
 それは木の下に白髪をかき垂れ後ろ手をして立つてゐる姿だが、不思議なこともあるものだ。
 聴覚と視覚と相交錯し相影響する詩人の幻像であるからどうにもしやうがないが、歌が旨ければ読者はつり込まれてついそんな気になるのである。
 それだけでよいのであらう。

  暗き灯を頼りて書けば蓼科も
姥捨山の心地こそすれ

 山の中の電灯の火が恐ろしく暗い。
 その暗い灯の下で物を書いてゐると、ふと、この蓼科も今の世の姥捨山で年老いた自分はここに捨てられてゐるのだといふ気がして来た。全くありさうな連想でその頃の心の寂しさやるせなさがよくあらはれてゐる。

  武蔵野は百鳥栖めり雑木の
林に続く茅かや草の原

 この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうにかしましいものであつた。
 それを百鳥栖めりとやつたのである。

  山寺に五十六億万年を
待てと教へて鳴り止める鐘

 寛先生の百日祭がつゆ晴れの円覚寺で行はれた。
 恐ろしく蒸し暑い日で法要終了後帰源院で歌を作つたが、暑さに堪へないで外に出て鐘楼へあがつて諸人鐘を撞いた。
 それで当日は皆鐘の歌がある。
 これもその一つで、五十六億万年とは弥勒仏出現の日で、その日が来ればまた逢へるかも知れないからそれまでは待てといつて鐘が鳴り止んだ。
 山寺の鐘の教ふる所であるから正しいのであらうが、さりとては余りに長過ぎる話ではないか、とても待てさうにもない。

  海底の家に日入りぬ厳かる
大門さしぬ紫の雲

 これは海の落日を、日の大君のお帰りといふ程の心を晶子さん得意の筆法で堂々と表現したものである。
 日の入つたあとに紫雲が涌き出して厳かに大門を閉ぢるなど印度の経文にでもありさうだ。

  笹川の流れと云ふに従ひて
遠く行くとも君知らざらん

 越後の寺泊から北上して出羽に向ふ車中での作。
 一人淋しく辺土を旅する心がこんなによく現はれてゐる歌は少い。
 ただ静かに打ち誦して老女詩人の旅情に触れ、少しでも私達の魂を洗はせて貰はう。同じ時の作には
 遠く来ぬ越こしの海府の磯尽きて
ねずが関見え海水曇る
 などがある。

  自らの腕によりて再生を
得たりし人と疑はで居ん

 もし私といふものがあつて此の人を愛してやらなかつたら、此の人はとうに死んで居たらう、少くとも精神的には。して見れば私は此の人を再生させた大恩人で誰もかなはない貴重な存在でなければならない。
 私はそれを疑はない、何も心配はしないといふのであるが、実は心許ない感じがあつての事であらう。

  北海の唯ならぬかな漲ると
いふこと信濃川ばかりかは

 越後の寺泊で五月雨に降りこめられた時の歌。
 海さへ為にふくれ上つて信濃川の漲るやうな心持が北海の上にも見られた。
 それが作者には唯ならぬ様子として映つたのである。
 唯ならぬとは女の孕んだ時などに使はれる言葉で、さういふ気持がこの時にも動いてゐる。

  君乗せし黄の大馬とわが驢馬と
並べて春の水見る夕

 春宵一刻千金とまでは進まぬその一歩手前の夕暮の気持を象徴的に詠出したものであらうか。男は黄の大馬――そんなものはあるまいが――に乗り女は小さいから驢馬に乗り、それが並んで川に映つてゐる。
 春の夕の心が詩人の幻にあらはれてこんな形を取つたのであらう。

  寺泊馬市すてふ海を越え
佐渡に渡さん駒はあらぬか

 今日は馬市が立つといふので表がざわめいてゐる。
一躍して海を越え佐渡に渡すことの出来るやうな駿馬が多くの中には一頭位居ないであらうか。佐渡には旧友渡邊湖畔さんが蹲つて居られるが、私が突然行つてあげたら喜ばれるだらうになどいふわけである。

  思はるる我とは無しに故もなく
睦まじかりし日もありしかな

 初めの頃の事を思ふとまだ恋などといふ形も具へずに子供同志の何の理由もなく唯睦じく語り合つたのであつた。
 何時頃からそれが恋になつたのであらうか。
 それは兎に角としてさういふ初めの頃の事も懐しく思ひ出される。善良なやさしい非難の余地のない斯ういふ歌も作者はいくつか作つてゐる。

  良寛が字に似る雨と見てあれば
よさのひろしといふ仮名も書く

 寺泊の海に降る五月雨を何とはなしに眺めて居るとそれが段々良寛の字に似て来た。良寛はこの辺りの人であるから、その事が頭にあつてこんな感じも出て来たのであらう。さて降る雨に良寛の字といつても雨の事だからせいぜい仮名であらう、それを書かせてゐるとそのうちによさのひろしといふ仮名の書かれてゐることをも発見したといふのである。
 何といふ面白い歌だらう。
 俗調を抜き去つた老大家でなくては考へも及ばない境地である。
 しかしこの仮名の署名は実際に故人によつても幾度か使はれたことのある字句だ。

  天地あめつちのいみじき大事一人いちにん
私事とかけて思はず

 私の様な非凡人のする事は、それが一私人の私事であつても、それは同時に天地間の重大事件となり得るのである。
 私はさう思つて事に当つてゐる。
 君を愛する場合もその通り、これは私事ではありません、天地間の重大事件です、ですからその積りで御出でなさい。この歌は如何といふ場合にも当て嵌まるが、こんな風に取つても差支ないであらう。

  山山を若葉包めり世にあらば
君が初夏我の初夏

 故人に死に別れた年の初夏、始めて家を離れ箱根強羅の星さんの別荘に向はれ、傷心を青葉若葉に浸す事になつた時の作。
 去年までの世の中なら一しよに旅に出て心ゆく迄初夏を味はつたことであらうに、今年は一人強羅に来て新緑の山々に相対してゐる。
 唯一年の違ひが何という変り方だ。実際その前年も故人と共に塩原に遊んで、君の初夏我の初夏を経過してゐる位だから感慨も深い筈だ。

  人ならず何時の世か著し紫の
わが袖の香を立てよ橘

 前にも一度 rebers した古今集の 五月待つ花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を本歌とすることいふ迄もない。「人」は他人の意で、昔の人と云はれて居るが、それは他人ではない、前生の私である、昔の人の袖の香とは、何時の世にか私の著た紫の袖の移り香のことである。
 歌の様にも一度立てておくれ、私はそれを嗅いで前生の若かつた日を思ひ出すことにしよう。私は古今集の中ではこの歌が最も好きだが、作者も亦好まれてゐるやうだ。

  山に来てこよなく心慰めば
慰む儘に恋しきも君

 家にあつて嘗めたこの四十日程の苦しさ辛さから逃れて山に来たが、柔い若葉の山を見ては傷ついた心もすつかり慰められる、さて慰められて見ると悲しいにつけ嬉しいにつけやはり恋しいのは君である。

  語らねば夜離人よがれびととも旅行きし
人とも憎み添臥して居ぬ

 少し許り仲違ひをして物を言はぬ情景である。
 夜離れ人は平安語で、この頃女の許に通はなくなつた男、即ち今日も来ない男のやうに又は旅に出て行つてしまつた男のやうに憎んで、ここには居ないことにしよう、さうすれば物を言はぬこと位さして問題にするにも当るまい位のことであらう。

  強羅にて蘆の湖見難きと
見難くなりし君と異なる

 強羅から蘆の湖は見えない、見えないが山の後には確かにある、その証拠にぐるりと山を一廻りすればいつでも湖を見ることが出来る。
 しかし君を見ることの難しいのはそれとはわけが違ふ。
 山を廻らうが、秋が来ようが、再び見る由はない。
 斯ういふ風に一つの歌に一つの新味が盛られて居て飽くことを知らないのが作者の境界で珍重すべき限りである。

  ひろびろと野陣のぢん立てたり萱草は
遠つ代よりの大族うからにて

 萱草は恐ろしい繁殖力を持つ宿根車で忽ち他を圧倒し去り萱草許りの一大草原を為すことも珍しくない様だ。
 この歌はさういふ萱草の大草原を歌つたもので、花が咲いて真赤になつた光景を平家の陣とも見立て、何しろ上代からの大家族なのでそれも道理だといふのである。

  人伝に都へ為べき便り無し
唯病のみ宜しとも云へ

 心中の苦悩の如きは山の消息とは違つて人伝に伝へやうがない。
 帰つたら唯病気は少し宜しいと云つて下さい。
 言伝はそれ丈です。之も箱根の歌。

  独り寝はちちと啼くなる小鼠に
家鳴りどよもし夜あけぬるかな

 偶々君の留守に一人寝をする夜など、鼠が天井でちいちい鳴くのが、家鳴り鳴動するやうに耳を刺戟し、おちおち眠ることもならず、遂に夜が明けてしまふ。
 をかしいほどの弱虫だが、事実はさうなのだから仕方がない。

  紫の乾くやうにもあせて行く
箱根の藤に今は似なまし

 一人になつたこれからの私のあるべきやうは。
 それは唯この箱根の藤の花の、時過ぎては乾くやうに日々少しづつ衰へて行けばそれでよいのであらう。

  遠き火事見るとしもなきのろのろの
人声すなり亥の刻の街

 火事は一つばんで遠い。
 それにも拘らず、火事とさへ云へば見えても見えずとも飛び出して見るのが街の人だ。遠いので話し声も一向弾まないが、これが今夜午後十時の街の光景である。
 冬になると毎晩半鐘を聞いた昔の東京の場末の情調がよく出て居る。

  足柄の山気さんきに深く包まれて
ほととぎすにも身を変へてましs

 ほととぎすを不如帰と書くのはその啼き声の写音であらうが、帰るに如かずといふ言葉の意味から色々支那らしい伝説が生れ、ほととぎすに転身して不如帰不如帰と啼く話なども出来てゐる。
 そんなことも或はこの歌のモチイフになつて居るかも知れないが、初夏の山深い処で直ちにその啼くのを聞いたら、傷心の人誰も血に泣くほととぎすに為り度くなるであらう。しかしこの歌の響きは必ずしもそんな血涙数行といふ様な悲しいものではない。
 むしろ前三句の爽快な調子が、伝説的悲劇性を吹き飛ばしてゐるので、反つて明朗なすがすがしい気分のほととぎすが感ぜられる許りである。

  まじものも夢も寄りこぬ白日に
涙流れぬ血のぼせければ

 明るい真昼間、何の暗い影もない白日の下で、涙が溢れるやうに出て来るのは如何したことであらう。
 虫物まじもののせゐでも夢のせゐでもあり得ない。
 血が頭に上つたからだ、外にわけはない。
 それならなぜ血が上つたのか、答ふるにも及ぶまい。

  許されん願ひなりせば君が死を
せめて未来に置きて恐れん

 この歌の値打ちは最後の「恐れん」の一句にある。
 この考へは遂に常人の考へ及ばざる所で、一人晶子さんに許された天恵のやうなものだ、これあるが為に歌が生きて来るのである。
 君の死を未来に置きたい位は誰も望む所であるが、置いて恐れようとは普通は考へないのである。既に恐れようといふのであるから、未来へ持つていつても現在に比しそれほどよいことにはならない。
 そこで許されん願ひなりせばと大袈裟にはいふものの、無理なえて勝手な願ひでも何でもない、今と大した変化を望んではゐないことになる。
 非望は人の同情を惹かない、もし「恐れん」がなかつたら非望になるのである。この歌の生命を分解すると先づこんなことにならうか。

  ほととぎす東雲時しののめどきの乱声らんじやう
湖水は白き波立つらしも

 これも赤城山頂の大沼などを想像しての作であらう。
 山上の初夏、明方ともなれば、白樺林にはほととぎすが喧しい位啼き続けることだらう、その声が水に響いて静かなまだ明けきらぬ湖水には白波が立つことだらう。作者はこんな想像をめぐらして楽しんでゐる、而してそれを歌に作つて読者に頒つのである。

  宮の下車の夫人おしろいを
購ひたまふさる事もしき

 多分同行の近江夫人が先に帰られるのを送つて宮の下まで車で行かれた時、作者が降りると夫人も降りて、序に店へ入つて汽車中の料にする積りか何かの白粉を買つたのであらう。それを見て嘗ては私もこんなこともしたのだと往時を囘顧したわけである。
 この歌の面白さは、しかし、買ふものが白粉である所に存するので、さういふことは優れた作者だけが弁へてゐる。

  ませばこそ生きたるものは幸ひと
心めでたく今日もありけれ

 生の喜びまたは生命の幸福感を詠出したものであらうが、そののんびりした調子に何となく源氏の君を迎へる紫の上のやうな心持が感ぜられないでもない。

  山山が顔そむけたる心地すれ
無残に見ゆる己れなるべし

 山を見るに、けふは如何したことか、どの山にも皆顔を背けたやうな形が見える。
 私の姿がけふは特にみじめに見える為、見るに忍びないのであらう。
 一種のモノロオグで、わが衰へを自ら怪しむ心の影が山に映じ山をして顔をそむけしむるのである。

  椿散る島の少女の水汲場
信天翁は嬲られて居ぬ

 伊豆の大島の様なのどかな風光を描出する歌。
 椿と、少女と、水の少い島にたまたま涌き出してゐる泉と、阿房鳥の信天翁と、これ丈の景物を絵具として描出した一枚の絵である。
 これを鑑賞するものは、果してそれらが旨く纏つて一個の小天地を成してゐるか如何か、それを調べて見るわけである。

  ほととぎす雨山荘を降りめぐる
夜もまた次の暁も啼く

 ほととぎすが一晩中啼く、それを作者は強羅の山荘で聞くのであるが、夜は大雨で山荘を中にとり囲む様な気持で降つて居る、その雨の音を衝いて甲高いほととぎすの声が聞こえる、作者はそれを聞きながら寝てしまつた、夜が明けて目が覚めると雨はやんだがほととぎすはなほ啼いてゐる、恐らく一晩中啼いてゐたのであらう。
 この歌にはさういふ場合が特定されてゐるのである。

  旅人は妻が閨なる床ゆかに栖む
蟋蟀思ふ千屈菜みそはぎの花

 旅人が留守する妻を思ふ歌の代表的なものの一つに軍王の
 山越しの風を時じみ寝る夜落ちず
家なる妹をかけて偲びつ
 といふのがある。
 上代人の単純な線の太い健康さの出てゐる歌である。
 当時私達は万葉集をしきりに研究した。
 晶子さんは別に理由があつて余り好まれなかつたが、それでも埒外には出なかつた。
 唯我々は他と違つて万葉をまねようとはしなかつた。
 しかし旅に出た男が家にある妻を思ふといふ様なテマのあるのは、やはり万葉を読んだ影響のあらはれでもあらう。しかしテマを万葉に仮りただけで、吾々の作る処は常に現代の歌であつた。
 而して万葉人などの夢にも想到しない繊度と新味とを出さうと努めたのであつた、作者は千屈菜の花の咲いてゐるのを見てふと蟋蟀の事を思つた。
 これは近代人の感覚である。
 併しそれはモチイフであつて詩即ち芸術品にはまだならない。
 この感じは何かに具象されなければならない、而してその場合が特殊なものであるほど芸術品としての値は高くなるわけである。
 そこで作者は先づその蟋蟀を閨の床下で啼くものに特定し、またその閨を夫を旅に出した妻の空閨に限定し、感覚の持主をその旅に出てゐる夫としたのである。
 さういふ段取りで一個の芸術品としてのこの歌が出来上る。
 これは私の勝手気儘な臆測であるが順序立てて考へるとこんな風にもなるかといふ事を歌を作る人の御参考までに記したに過ぎない。
 而してモチイフたる感覚が近代感覚であるので、結果も万葉の旅人の感情などとは丸で違つてくるのである。

  ほととぎす明星岳によりて啼く
姿あらねどさばかりはよし

 朝早く起き日の覚める様な青葉の色を楽しんでゐると、向ひの明星山でほととぎすが啼き出した。
 声はあるがほととぎすの常として姿は見えない。
 姿の見えないといふ事は故人の場合には既にこの世の中に居ないといふことを表はしてゐて、私はその為に日夜悲しんでゐる。然るにほととぎすの場合は姿が見えずともちやんと生存して啼いてゐるのだ。
 姿のないのもこの程度なら歎くにも当るまいに、私の場合はさうでないから困るのである。

  白刃もて刺さんと云ひぬ恋ふと云ふ
唯事千度聞きにける子に

 私の手には白刃があります、これであなたを刺す為に私は来ました。
 私は斯う云つてしまつた。
 何故ならその男は多くの女に思はれ、その度に I love you のノンセンスを千度も聞いたわけで、何の感じもあるまいと思つたからである。
 私の場合に限つてそれがどんなに他の友達の遊戯と違つてゐるかを初めから知らせる為であつた。
 しかしそれは冗談ではない。
 私としてはほんとうに刺し兼ねないのだ。
 作者の之を作つた時の気持の中にはこんな感じも少しはあつただらうか。

  ゆくりなく君を奪はれ天地も
恨めしけれど山籠りする

 寛先生の亡くなられたのは全く偶然の結果であつて罪は旅行にある。
 それ故に「ゆくりなく」といひ、天地即ち山川を恨むといふのである。
 君を奪つたのは天地であり自然の風光である、それを思へば恨めしいが、その恨めしい天地の恩を得るためにまた私が来て山籠りをする、をかしいことがあるものだ。

  素足して踏まんと云ひぬ病める人
白き落花の夕暮の庭

 早く盛りを過ぎた桜が夕暮の庭を白く見せる程吹雪のやうに散つて居る。直り方の病人が出て来てそれを見て、ああ素足でその上を踏んで見たいなと云つた。
 家の中を歩くのが漸くでまだ外へは出ない病人のことだから、降りてあの柔かさうな落花を素足で踏んだらさぞ気持のよい事だらうと思うのは成るほどもつともだと作者の同情してゐる歌であらう。

  足柄の五月の霧の香に咽ぶ
君あらぬ後杜鵑と我と

 五月の若葉時の足柄は好天必ずしも続かず雨や霧の日も多い。その霧の足柄山を包んだ日にその中でほととぎすがしきりに啼き出した。
 君と共に咽ぶ筈の山の霧であるが君なき後とて図らずも杜鵑と二人で咽んでゐる所ですとあの世の人へ報告する心持も持つてゐるやうな歌である。

  戸を繰れば厨の水に有明の
薄月射しぬ山桜花

 昔はどこの家にも水甕といふものがあつて一杯水が張つてあつたものだ。
 朝起きた主婦が台所の戸を繰ると水甕の水から怪しい光が反射してゐる。
 それは有明の月の光のやうな明るさである。
 よく見ると外そとの山桜の花が映つてそれが光つてゐたのであつた。
 つまり春の朝の山桜の花の心が薄月の感じで表現されてゐるわけだ。

  ほととぎす山に単衣ひとへを著れば啼く
何を著たらば君の帰らん

 山の初夏も稍進んで袷を単衣に著替へたらその日からほととぎすが啼き出した。
 今度何に著替へたら君が帰つてくるのだらう。
 一々の景物が一々心を掻き乱す種となつた時期の作。

  喜びは憂ひ極る身に等し
二年三年高照る日見ず

 心に大きな心配事を持つてゐる人は自分の頭の上に杲々と日が輝いてゐることなどは忘れてゐる。
 それはさうあるべきことだ。
 しかし私の場合はその反対で、喜びに溢れてゐるのであるが、この二年三年といふものやはり太陽など見上げたこともない。
 して見れば喜びも憂ひもそれが大きい場合には結果は同じである。
 物を対照させて効果をあげる一班の表現法があるがこれもその一例である。

  ほととぎす虎杖いたどりの茎まだ鳥の
脚ほど細き奥箱根かな

 青葉若葉に掩はれた早雲山の自然林は目が覚める様に美しいが、その下を歩いて根方を観察すると虎杖の茎などまだ鳥の脚の様に細い。
 さすがに奥箱根である。それだからほととぎすも啼くのだ。

  鳥立とだち見よ荊棘おどろのかげの小雀こがらだに
白鷹羽す形して飛ぶ

 鳥の飛び立つ勢ひを見るがよい。
 籔蔭から飛び立つ小さな雀でさへ、白鷹の羽根を伸ばす形と同じ形をして飛び立つではないか。
 まして人間、為すあらんとする人間の出発だ、よく見るがよい、勢ひのよさを。
 先づこんな意味ではないかと思ふがはつきりは分らない。

  山暗し灯の多かりし湯本とて
はた都とてかひあるべしや

 さすがに山奥の庭は暗い。
 暗いので余計にものが思ひ出され悲しさも加はるやうだ。
 しかしそれだからと云つてここへ来る途に立ち寄つた灯の多くついた湯本へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じことだ。

  花鎮祭に続き夏は来ぬ
恋しづめよと禊してまし

 「花鎮祭」は昔、桜の花の敵る頃、疫病を鎮める目的で神祇官の行つた神事。
 鎮花祭も済んでいよいよ夏になつた。
 それにつれて私の恋心も日ましに猖獗を極める、そこで今度は恋鎮祭です、そのため禊をして身を浄めませう。
 鎮花祭の行事の如きは忘られて久しい、作者が古典の中から採り出して之に新生命を吹き込む手腕の冴えいつもながら見事なものだ。

  見出でたる古文によりやるせなく
君の恋しき山の朝夕

 寛先生歿後書翰などの蒐集が行はれた。
 それを夫人は先に
 亡き人の古き消息人見せぬ
少は恋に渡りたる文
 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。
 その中の一通にひどく昔を思ひ出させるものがあつたのであらう。

  河芒ここに寝ばやな秋の人
水溢れてば君と取られん

 これも亦昔の秋の玉川の風景である。
 芒が暖かさうに秋の強い日射しを受けて真綿のやうに光つて居る。
 それを折敷いて寝たらさぞ気持がよからう。
 秋の水が溢れて来たらそのまま溺れてしまはう、君と一しよならかまはない。
 秋をテマにした軽快な情調である。

  茫々と吉田の大人うしに過去の見え
それよりも濃く我に現る

 寛先生歿後、先生と晩年十五年間親交を続けた説文学者吉田學軒氏は五七日に当つて夫人に一詩を呈した。曰く。
 楓樹蕭々杜宇天。不如帰去奈何伝。
 読経壇下千行涙。合掌龕前一縷香。
 志業未成真可恨。声名空在転堪憐。
 平生歓語幾囘首。旧夢茫々十四年。
 夫人は直ちにこの詩の五十六字を使つて五十六首の挽歌を詠まれ寝園と題して公表された。
 何れも金玉の響きを発する秀什である。
 これからその内の幾つかを拾つて当時を偲ぶことにしよう。
 吉田さんには旧夢茫々とうつる過去も私の目にはもつと濃い形に現はれる。
「それよりも濃く我に現はる」とは如何だ、日本語も斯うなると字面から光が射すやうだ。

  ある宵の浅ましかりし臥所
思ひぞ出づる馬追啼けば

 道を迷ひその内日が暮れてしまひ山小屋みたやうな所で仮寝をしたことがある。それを思ひ出した。
 灯を慕つて飛んで来た馬追が啼き出した為である。
 その夜も馬追がしきりに啼いてゐた。
 浅ましかりしとは云ふものの実は懐しい楽しい思ひ出なのである。

  青空の下もとに楓の拡りて
君亡き夏の初まれるかな

「青空の下に楓が拡がる」初夏の光景を抒してこれ以上に出ることは恐らく出来まい。
 それだけはじめての夏を迎へる寡婦の心持がまざまざと出て居る。

  河烏水食む赤き大牛を
美くしむごと飛び交ふ夕

 これも亦玉川の夏の夕らしい光景であるが、万有の上に注がれるこの作者の温かい同情がここでは河烏の上に及んで、牛を中心に一幅の平和境を形作らせてゐることが注目される。
 作者の自然を見るやいつもかうして同情心が離れない。
 それ故に景を抒しつつ立派な抒情詩となるのである。

  我机地下八尺に置かねども
雨暗く降り蕭かに打つ

 寛先生は如何いふわけか火葬が嫌ひだといふことなのでその感情を尊重して特に許可を受けて土葬にした。
 その為、多摩墓地の赤土に恐ろしく深い穴を掘つて棺をその中へ釣り降ろした。
 この歌の地下八尺はそれをいふのであるが、字面は木下杢太郎君の発明したものを借用したらしい。
 五月雨がしとしと降つて居る、世の中は暗い。
 丸で地下八尺の処に眠つてゐる君の側へ私の机を据ゑた感じだ。

  わが心寂しき色に染むと見き
の如してふ事の初めに

 火の如き事の初めとは恐らく交歓第一夜を斥すのであらう。
 その時心を走つた一抹の寂しさがあつた、それを私は忘れることが出来ないといふのであらう。
 これは炉上の雪でなく、火の中の氷といふ感じで誰も恐らく味はつたのでは無からうか。

  一人にて負へる宇宙の重さより
にじむ涙の心地こそすれ

 君と暮した四十年間十余人の子女を育てて私は重荷を負ひ続けて来た、しかし半ばは君に助けられつつ来たのである。
 今は一人で全宇宙を背負ふことになつたのであるから、その重さからでも涙はにじみ出るであらう。
 又ついで
 業成ると云はば云ふべき子は三人
他は如何さまにならんとすらん
 とも歎いて居られるが結果は一人の例外なくこれら凡ての子女をも女の手一つで立派に育て上げられたのであるから驚き入る外はない。

  もの欲しき汚な心の附きそめし
瞳と早も知りたまひけん

 君に対する時だけは少くも純真な心でありたいと心掛けて来たが、この頃はいつしか人間の本性が出て来てそれが色にも顕はれるやうになつた。敏感な君のことだからとうにそれに気づいて居られるのであらう。
 ああいふ御言葉が出るのもその為であらう。
 「どうしたらよからう、恥しいことでもある」先づこんなことでは無からうかと思はれるが、よくは分らない。

  君が行く天路に入らぬものなれば
長きかひなし武蔵野の路

 何時の日であつたか、皆で多摩墓地へ詣でた事がある。
 その帰途車がパンクして仕方なしにぽつぽつ歩き出したことがあつた。
 それによつて多摩に通ずる街道の真直ぐでどこまでも長いことを皆身にしみて経験した。
 君の辿られる天路へ之が通ずるものならこの長い長い武蔵野の路もその甲斐があるのだがと、この一些事さへ立派な歌材を提供したわけであつた。

  来啼かぬを小雨降る日は鶯も
玉手さしかへ寝るやと思ふ

 愛情の最も純粋な優にやさしい一面を抽出して他を忘れた場合斯ういふ歌が出来る。糸の様な春雨が降り出した。それに今朝は鶯の声がしない、きつと雨を聞きながら巣の中で仲よく朝寝をして居るであらう。
 今日の様な世相からこんな歌の出来た明治の大御代を顧るとまるで嘘のやうな話である。

  魂は失せ魄滅びずと道教に
云ふごと魄の帰りこよかし

 人の生じて始めて化するを魄と曰ひ、既に魄を生ず、陽を魂と曰ふ(左伝)又魂気は天に帰し、形魄は地に帰す(礼記)とあつて古くは少し違つてゐるが、道教では精神を亡びる魂と亡びざる魄との二つに分けて魄は亡びないことになつてゐる。私は既成宗教を信じないからそんなことは如何でもよいが、この道教の言ひ分は俗身に入り易く信じ易い、そこで魄は亡びないといふことにしてそれだけでも帰つて貰ひたい。
 どんなに喜んで私はそれを迎へることだらう。

  椿散る紅椿散る椿散る
細き雨降り鶯鳴けば

 これは音楽である。
 春雨と鶯と椿とを合せるトリオである。
 唯その中では椿が飛び出して甲高い音を出してゐるわけで、それが頗る珍しい歌である。

  いつとても帰り来給ふ用意ある
心を抱き老いて死ぬらん

 心の赴くままに矩を越えざる哲人の境地はやがて寂しい我が家刀自の境地でもあつた。
 女史晩年の作の秀れて高い調子は斯る境地から流れ出す自然の結果で、諸人の近づく能はざる所以も亦ここに存するのであらう。

  紫の蝶夜の夢に飛び交ひぬ
古里に散る藤の見えけん

 ドガの描いたバレエの踊り子の絵を思ひ出して下さい。
 その踊り子達が絵の中から抜け出して舞台一面に踊り出したら、この歌の紫の蝶の飛び交はす夢の様な気分になるかも知れない。
 (ほんとうの踊り子は俗で駄目だ。)
 又古里に散る藤の見えけんと言つても上の夢の説明ではありません、別の夢を並記して色彩の音楽を続けたまでの事です。
 何の意味もありはしない。
 音楽の中から意味を探すこと丈はしない方が賢明だ。

  亡き魄の龕と思へる書斎さへ
田舎の客の取り散らすかな

 寛先生の葬儀当時の有様は雑誌「冬柏」を見れば窺はれるが、文壇から退かれて久しい割には極めて賑やかに進行し従つて采花荘の混雑も一通りではなかつた。
 先生の書斎だらうが何だらうが客で溢れてゐた。
 その際は仕方がないとしてもあとから出て来た人達の内誰かが多少の不行儀を繰り返したかも知れない。
 こんな歌の残つたことは少し残念だが、実はそれほどの事はなかつたやうだ。
 之は前記吉田さんの詩中にある「龕」といふ字を詠み込む為に作られた歌だからである。
 私はさう思つてゐる。しかし事実は如何であらうと、歌としては実に面白い歌だからここにも抜くのである。

  浅ましく涙流れていそのかみ
古りし若さの血はめぐりきぬ

 枕言葉などいふのんきなものを我々はめつたに使はなかつたが、この石の上だけは晶子さんが時々使つた。
 オオルドミスといふ程でもない古女の場合が考へられる。
 恋など再びしようとは夢にも思つてゐなかつた古女が、人の情にほだされてうかうか近づいて行つたが、或日その人の告白と強い抱擁とに逢つたやうな場合ではないか。止め度もなく涙が流れ出る一方久しく眠つて居た昔の若い血が突然目を覚まして心臓から踊り出す。
 涙はいよいよ流れて止まない。
 そんなことではないかと思ふが如何であらうか。

  我死なず事は一切顛倒す
悲しむべしと歎きしはなし

 昭和九年正月雪の那須で病まれた夫人は一時相当の重態であつたらしく、寛先生は痛心の余り血を吐く様な歌を沢山詠んで居られる、この悲しむべしと歎くといふのがそれである。例へば
 妻病めば我れ代らんと思ふこそ
彼の女も知らぬ心なりけれ
 我が妻の病めるは苦し諸々に
我れ呻うめかねど内に悲む
 世の常の言葉の外の悲しみに
云はで守りぬ病める我妻
 など殆ど助からない様な様相を一時は呈したらしい。
 その時死ぬべきであつた私が死なずに事は一切顛倒し、歎いたものが逆に歎かれるものになつた不思議な運命を直截簡明に抒し去つたものだが、純情に対する純情の葛藤であるから人心を打たずには置かない。

  これ天馬うち見るところ鈍の馬
埴馬の如きをかしさなれど

 これ作者の自負であらう。
 作者は若くしてその異常な本分を発揮した為世間も早くから天才女と認めて清紫二女に比べ、自分もそれを感じてゐた。
 しかし一面美しくもなし、話は下手だし、字は拙し(後には旨くなつたが)、才気煥発などとは凡そ縁の遠い地味な存在でもある。
 見た所鈍な馬であり埴馬の様なをかしい馬だが、これでも一度時至れば空をゆく天馬になれるのだ。
 あんまり見くびつて貰ひ度くないといふのであらう。
 何か憤る所でもあつて発したものであらう。

  在し在さず定かならずも我れ思ひ
人は主人あるじの無しとする家

 この家の主人は死んでしまつてゐないのだと他人は簡単に極めてしまつて疑はない。しかし妻である私はさうは思はない、半信半疑である、死んだやうでもあり、そのうちに旅から帰つて来さうでもある。
 他人の様に簡単に片づけられないのが妻の場合である。

  麦の穂の上なる丘の一つ家
隈無く戸あけ傘造り居ぬ

 恐らく昔の渋谷の奥の方ででも見た実景を単に写生したものであらうが、隈なく戸あけが旨いと思ふ、景色の中心がよく掴まれてゐる。

  人の世に君帰らずば堪へ難し
斯かる日既に三十五日

 如何かしてまた帰つて来るうな気がして毎日を送つて居るのだが、ほんたうにこの世へは帰らないのだとすればそれは堪へ難いことである。
 斯ういふ空頼めを抱いての日送りも既に三十五日になるが何時迄続くのであらう。

  十三の絃弾きすます喜びに
君も命も忘れける時

 恋愛を超え、生命を超えて芸術の三昧境に入る心持であるが、その場合音楽が一番適当なので昔のこと故十三絃の箏を選んだのであらう。
 実際晶子さんの琴を弾くのを聞いたこともなし、そんな話も聞かないが、琴の歌は相当多いから習はれたのではあらう。

  源氏をば一人となりて後に書く
紫女年若く我は然らず

 紫式部が源氏を書き出したのは夫に死に別れた後であるが、その年は若かつた。
 私も今一人になつたが、既に六十になる。
 大変な違ひだ。何が書けようか。
 といふのであるが、しかし作者は既にこの時には源氏の新々訳に着手して居たのではなかつたらうか。

  雨の日の石崩道いしくえみちに聞きしより
けものと思ふ山ほととぎす

 雨中赤城登山の記念の一つであらう。
 負へる石かと子を迷ひといつたあの大雨の中で、石の崩れ落ちる山路で聞いたほととぎすは何としても猿のやうな形のけものの声としか思はれなかつた。
 その記憶があるので今でもほととぎすを聞くとそんな気がする。

  移り住む寂しとしたる武蔵野に
一人ある日となりにけるかな

 作者の設計に成る荻窪の家が落成して移られた当時の歌に
 身の弱く心も弱し何しかも
都の内を離れ来にけん
 恋しなど思はずもがな東京の
灯を目に置かずあるよしもがな
 など云ふのがあつて余程寂しかつたものに違ひない。
 何しろ荻窪の草分けで、東京へ通勤するものなどは一人も居なかつた時代のことであるから肯かれる。
 その寂しい思ひ出のある武蔵野に一人取り残されたのである。

  みくだもの瓜に塩してもてまゐる
廊に野馬嘶く上つ毛の宿

 胡瓜をむいてそれに塩をふりかけ、みくだものとして恭しく献上に及ぶ、その廊下には塩でも嘗めたい風に放牧の野馬が遊びに来て人なつかしく嘶く、これが上州の一宿屋の風景であるといふのであるが、これも赤城山上青木屋のそれであらう。

  思ひ出は尺取虫がするやうに
克明ならず過現無差別

 思ひ出といふものは尺取虫が尺をとりつつ進む様に規則正しくそれからそれと遡つたり又はその逆に昔から順を追つて思ひ出すなどといふものではない。
 過去現在一切無差別に一度に出て来て頭を混乱させる、それが今の私を苦しめる思ひ出の実態である。

  泣寝してやがてその儘寝死ねじにして
やさしき人の骸からと云はれん

 作者には斯ういふ女らしいやさしい一面がある。
 その一面を抽出して手の平の上で愛撫してゐる心持、それがこの歌である。

  少女子が呼び集めたるもののごと
白浜にある春の波かな

 昭和十年早春偶々上京した蘆屋の丹羽氏夫妻等と伊豆半島を一週し、その途上二月二十六日先生の六十三の誕生日が祝はれた。即ち
 浅ましや南の伊豆に寿し君が
六十三春かこれ
 といふのがそれであるが、この行病を得て遂に起たず
 歓びとしつる旅ゆゑ病得て
旅せじと云ひせずなりにけり
 とそれが先生の最後の旅行になつてしまつた其の件、下田から白浜へ来て作られた歌の一つ。
 びちやびちや打ち寄せる静かな春の波の様子が情趣豊かにあらはされてゐる。又同じ波は
 白浜の砂に上りて五百波
しばし遊ぶを遂ふことなかれ
 とも歌はれてゐる。

  生れける新しき日に非ずして
忘れて得たる新しき時

 私達の間に新らしい日が産れて、その為に仲が直り過去の気まづいいきさつが一掃されたといふのではありません、それは唯過去を忘れた報酬として新らしい時が得られただけのことです、ですから少しでも思ひ出せば折角の新らしい時も亦旧い時に変ります、御互に気をつけて徹底的に忘れませう。
 それが一番よいことなのです。

  十字架の受難に近き島と見ゆ
上は黒雲海は晦冥

 十年の二月、熱海の水口園に泊られた時、暴風雨に襲はれてゐる前の初島を詠んだ歌で、十字架の難に逢つて居るとはいかにも適切な言ひ廻しであるが、同時にそれは作者の同情のいかに細かいかを物語つてゐると言へるのである。
 上は黒雲海は晦冥も十割表現で之亦作者の特技の一つであらう。又同じ島が今度は靴になつて
 雨暗し棄てたる靴の心地して
島いたましく海に在るかな
 とも歌はれてゐるが、感じが強く出てゐるだけこの方を好む人が多いかも知れない。

  君来ずて寂し三四の灯を映す
柱の下の円鏡かな

 円鏡は昔の金属製のものを斥すのであらうからこの灯も電灯ではなく、ぼんぼりか行灯であらう。
 三四の灯といふので相当広い室でなければならないことになる。
 併し女主人公一人より居ない様子だ。
 それで一寸環境が忖度しにくいのであるが、男の来ないことをそれほど気にも留めず、鏡が寂しさうだといふのであるから女主人公もただの女ではなささうな気もする。

  拝殿の百歩の地にて末の世は
油煙をあぐる甘栗の鍋

 昭和十年作者夫妻は鎌倉の海浜ホテルで最後の正月を過ごされた。一日鶴が岡八幡に参詣して
 み神楽を征夷将軍ならずして
わが奉る鶴が岡かな
 と歌ひ上げたが、その帰りにその征夷将軍の殺された石段を降りて来ると直ぐその下に甘栗屋が店を出してゐた。
 その対照が余りをかしいので、この歌が出来たのであらう。好個の俳諧歌。

  人妻は六年とせ七年暇いとま
一字も著けず我が思ふこと

 先づ一字の難もない完璧とも絶唱ともいふべき歌であらう。
 結婚後七年として即ち三十歳位の時の作であるから油も乗りきつてゐるわけだが。
 一字も著けずわが思ふことなどの旨さは歌を作つたことのないものには分るまいが、それは大したものなのですよ。
 しかし調子の上の先縦はそれらしいものが全く無くはない。私はすぐ石川の女郎の
  志可の海人あまは布刈り塩焼き暇なみ
櫛笥の小櫛取りも見なくに
 を思ひ出した。

  初春に乗る鎌倉の馬車遅し
今年の月日これに似よかし

 讖を為すといふ事があるが、この歌などもそれらしく思はれる。
 ヰクトリア型とかドロシユケとかいふのであらう簡易な馬車が不思議に鎌倉にだけ残つてゐて見物人を便した、夫妻も正月気分で物好にその馬車に乗つたものらしい。
 久しく自動車に慣れた近代人には牛の歩みの遅々としていかにも初春の気分になる。
 年を取るに従つて一年の立つ早さが段々早くなる、糸の先に石をつけて廻すやうだと云はれてゐる。
 この馬車の遅い様に今年だけは月日の立つのもゆつくりして欲しいと希つたのであるが、思ひ設けぬ結果となつてそれから三月目に良人を失ひ、その後の八九ヶ月の長さは果して如何であつたであらう。
 感慨なしにこの歌は読まれない。

  飲みぬけの父と銅鑼打つ兄者人あじやひと
中に泣くなる我が思ふ人

 サアカスの娘の歌である。
 昔我々は天地人間あらゆるものを歌つてやらうとした事があつた。
 この歌などもその試みの一つであるが、その後いつしかさういふ企てもやんでしまつたので、落し種ででもあるやうにぽつねんと今に残つてゐるのである。
 しかし眼前の小景や日常茶飯事を詠む許りが歌の能でもあるまい。
 大に眼を開いて万般の事象特に人間界の種々相に歌材を求める時代がその内には来ようから、この歌などもさういふ際には好個の御手本とならう。
 この歌の姉妹歌がもう一つある。曰く
 兄達は胡桃を食らふ塗籠の
小さきけものの類に君呼ぶ

  沙川の大方しみて海に出づ
外へ流るる我が涙ほど

 遠浅の沙浜を歩いてゐると川の水の大部分は沙にしみ込みその末が僅に海に落ちるのを渡ることがよくある。
 由井が浜にもあつたやうだ。
 私の泣くのをこの頃人はあまり見かけないであらうが、それは涙が外へ流れないからである。
 水が沙にしむ様に中へしみ込んでしまつて外に出ないから人の目に触れないだけのことである。

  花草の原のいづくに金の家
銀の家すや月夜蟋蟀

 月夜の蟋蟀の声を金鈴銀鈴と聞く心持からその栖家が「金の家銀の家」となるので、交感神経による音感と視感との交錯である。
 花草の原は少し未熟だが月夜蟋蟀の造語は成功してゐる。
 (造語ではなく昔の人の使ひ古した言葉かも知れないが)

  正月の五日大方人去りて
海のホテルの廊長くなる

 正月休みで雑沓してゐた海浜ホテルも五日になれば大方引上げて客が疎らになつた、そのために廊下が長くなつたやうな気がする。
 この感覚は清少納言の持つてゐたもので、また優れた多くの詩人の生れながらに持つてゐる所のものである。
 我が国でも芭蕉、蕪村、一茶近くは漱石先生など持ち合せて居たが、不幸歌人中には一人も見当らない。

  風吹けば馬に乗れるも乗らざるも
まばらに走る秋の日の原

 之を写生と見たいものは見ても宜しいが、私は広い草原に野分だつた風の吹いて居る心持を人馬の疎らに走る象によつてあらはした一種の象徴詩だと思ふ。
 私は少年の日多分二百十日の頃だと思ふが寛先生に連れられて渋谷の新詩社を出て玉川街道を駒沢辺まで野分の光景を見に行つたことがある。
 その頃の草茫々たる武蔵野を大風の吹きまくつて居た光景がこの歌を読むとどうやら現はれて来る。

  僧俗の未だ悟らず悟りなば
すさまじからん禅堂の床

 円覚寺の僧堂で居士を交じへて雲水達の坐禅をしてゐる処へ偶々行き合せたものらしい。
 平常でも石の様に冷い僧堂が寒中のこととて凍りつく許りに見えたことであらう。
 しかしその一見冷い中にも修行者の集中した精神力から自然に迸る生気は脈々として感ぜられる、まだ悟らないからいい様なものの、もし一時にこれだけの人数が悟つたらどんなことになるだらう、その凄じい勢ひに禅堂の床などは抜けてしまふであらうと云ふのである。
 寛先生は若い時、天竜寺の峨山和尚に就いて参禅し多少得る処があつた様であるから、這般の消息は分つてゐるが、夫人は何らその方の体験なく唯禅堂の様子を窺つた丈で悟の前後の歓喜をよくこれだけ掴まれ、又適確に表現されたものだと思ふ。

  古里を恋ふるそれよりやや熱き
涙流れきその初めの日

 男を知つた第一夜の心を自分から進んで歌ふことは余りなかつたことと思はれるが、作者は臆する処なく幾度か歌つてゐる。
 その時流れた涙の温度をノスタルジアのそれに比して明かにしてゐる。
 之亦生命の記録の一行として尊重さるべきであらう。

  夕明り葉無き木立が行く馬の
脚と見えつつ風渡るかな

 疎らな冬木立に夕明りがさして歩いてゆく馬の脚の様に思へる、そこへ風が吹いて来て寒むさうだ。
 馬の脚などといふとをかしい響きを伴ふのでぶちこわしになる恐れのあるのを、途中で句をきつてその難を免れてゐる所などそんな細かい注意まで払はれてゐる様だ。

  緋の糸は早く朽ち抜け桐の紋
虫の巣に似る小琴の袋

 家妻の為事に追はれ何年か琴など取り出して弾いたこともない。
 大掃除か何かで偶々取り出されたのを見ると、縫ひ取つてあつた緋の糸は朽ち抜け桐の紋などは虫の巣の様になつてゐる。
 歳月の長さが今更思はれるといふ歌である。
 之より先楽器の袋を歌つた歌がも一つある。それは
 精好せいがうの紅あけと白茶の金欄の
交箱に住みし小鼓
 といふので、之亦偶々取り出して見た趣きであらう。
 精好とは精好織の略で絹織物の一種である。

  十二月今年の底に身を置きて
人寒けれど椿花咲く

 十二月今年の底とは何といふすばらしい表現だ。
 かういふ少しも巧まぬ自然さを達人の筆法といふ。
 十二月は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれた位で、早咲きの椿を十二月に見る事は作者に取つては嬉しいことなのである。

  粉黛の仮と命のある人と
二あるが如き生涯に入る

 生命のある真の人間と、人前に出る白粉をつけ紅をさした仮の人間と二人が同じく私の中に住むやうな生活がとうとう私にも来てしまつた。
 而してこの間までの若い純真さは半ば失はれてしまつたが、人生とは斯ういふものなのであらう。

  東京の裏側にのみある月と
覚えて淡く寒く欠けたる

 師走の空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を照らすとは言ひ得て妙といふべく、或はこれ以上の表現はあるまいとさへ思はれる位だ。
 誰か旨い英語に訳して見たら如何かと思ふ。

  思ふ人ある身は悲し雲涌きて
尽くる色なき大空のもと

 野に立つて目を放つと地平からむくむく雲が涌き上つてきていつ果てるとも知れない。
 思ふことなしに見れば一つの自然現象に過ぎまいが、人を思ふ私が見ると丁度物思ひの尽きない様にも見えて悲しくなる。

  正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ
戒むるごとそそのかすごと

 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。
 同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。
 当時一しよに私の家などで運座をやつた仲間の生き残つてゐるのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けてゐるのは同君位のものであらう。
 戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であつたが、その時は最早小包便など利かなくなつてゐたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまつたが今頃は如何して居られることだらうか。
 その山城君は五十になつて恋をした、しかも熱烈な純真なものでさへあつたらしく沢山歌を詠んでゐる。
 それを本人は隠さうともしなかつた。
 恋の猛者とは年老いてなほ若い者に負けない気力を示した意味であるが、大勢の子供があり既に初老を越えた身の何事だといふのが戒むる意味、その純真な態度を知つては大に若返るのもいい事だ少しはやるがよいといふのがそそのかす意味、あなたを恋の猛者だと冷かすがその中には以上二つの意味が這入つてゐるのですよ。
 といふわけである。
 何となく奥行のある俳諧歌だとは思ひませんか。
 尚山城君は近年「紙銭を焼く」といふ歌集を出してゐる。
 琉球の郷土色が濃厚に出て居て珍しい集である。

  高き屋に登る月夜の肌寒み
髪の上より羅をさらに著ぬ

 月を見て涼を入れようと半裸体の麗人が高殿へ登つてゆく、いくら夏でも上層は冷い、そこで髪の上からトルコの女のするやうに羅うすものを一枚被いて残りの階を登つて行く。
 少し甘いが、紫色の一幅の画図を試みたものである。

  山行きて零れし朴の掌たなぞこ
露置く刻こくとなりにけるかな

 秋の漸く深い水上温泉へ行つた時の歌。
 奥利根に添ひどこ迄も上つて行くと秋の日の暮れ易く道端に零れてゐた朴の葉の上にもう露が置いてゐた。
 では帰りませうといふ心であらう。

  半生は半死に同じはた半ば
君に思はれあらんにひとし

 生きるならば全生命を燃やして生きます。
 半分生きるといふのは半分死ぬことですいやなことです、丁度あなたが半分だけ私を思つて、あとの半分で外の人を思ふのと同じです、私の堪へ得る所ではありません。
 恐らくは、はた半ば以下を言ひ度い為に、前の句を起したので目的は後の句にあるのであらう。

  月出でん湯檜曾ゆびその渓を封じたる
闇の仄かにほぐれゆくかな

 月出でんで勿論切る。
 その底を利根川の流れる湯檜曾渓谷にはもう二時間も前から闇といふ真黒な渦巻とも気流とも分らないものが封じ込まれてゐたが、それが少しづつではあるがほぐれ出すけはひの見えるのは月が出るのであらう。
 闇がほぐれるとは旨いことを云つたものだ。

  神無月濃き紅の紐垂るる
鶏頭の花白菊の花

 十一月といふ季節を音楽的に表現したものである。
 写生画を見るやうな積りで見てはならない。
 花の写生をしようなどいふ意図は毛頭ないからである。

  承久に圓位法師は世にあらず
圓位を召さず真野の山陵

 この一首の調子の気高さ、すばらしさ、帝王の讃歌として洵に申し分のない出来だ。
 真野の山陵は佐渡に残された順徳院のそれである。
 作者は二囘佐渡に遊びその度にこの院を頌してゐる。
 院は歌人でもあり、歌学者としても一隻眼を具へ八雲御抄の著があつて当時の大宗匠定家にさへ承服しない見識が見えてゐて、晶子さんはそれを嘗て、定家の流に服し給はずと歌つてゐる位のお方だ。
 又西行は当時の権威に対し別に異は立てなかつたが窮屈な和歌を我流に解放した人である。
 もし西行が承久に生きて居たら、白峰に参つたやうに佐渡へも必ず渡つてもしそれが生前であつたら院の御機嫌を伺つたことであらう、院はどれほど喜ばれたことであらう。
 しかし時代が違つた為山陵すら白峰のやうに之を召すことはなかつた。
 一人の知音なく遠い佐渡で淋しく崩ぜられた院の上がいかにも帝王らしい高雅な調べで表現されてゐる。

  梅雨つゆ去りぬ先づ縹草初夏の
瞳を上げて喜びを云ふ

 梅雨が上つていよいよ夏だといふはればれしい感じは恐らく凡ての草木の抱く所であらう。
 この歌ではその最初の声を発するものが縹草即ち小さい露草で、可哀らしい紫の瞳を上げて子供らしく嬉しい嬉しい嬉しいといふ様に見える。
 成るほどさうかも知れない。

  大きなる護岸工事の板石の
傾く上に乗れる青潮

 これは新潟港の所見である。
 護岸工事の傾斜したコンクリイトの板石に秋の潮がさして来る、その心を濡らす様な青さ。
 青潮にはその中に作者の心が溶けてゐて抒情性がそこに生れるのである。
 単純に天地の一角を切り取つた無情の写生ではない。

  雨の日は我を見に来ず傘さして
朝顔摘めど葵を摘めど

 私は花作りです、いつも庭へ出て花の世話をします、それをあの人は見に来ます、私を恋して居るのでせう、私はさう思つてゐました、さうして見られるのを楽しみました。
 それに如何でせう、雨の日は来ません、私は見られたさが一杯で傘をさして葵の日には葵を摘み、朝顔の日には朝顔を摘んで待ちましたが、遂に見に来ませんでした、そんな浅はかな恋があるでせうか、あの人のことはもう考へないことにしませう。

  はてもなき蒲原の野に紫の
蝙蝠のごとある弥彦かな

 越後蒲原の平野から弥彦山を望んだ第一印象で、同地を故郷とする堀口大學君が激賞してゐる歌だ。
 私の知らぬ景色だから批評の限りでないが、堀口君が感心してゐるのだから間違ひはあるまい。

  二十三人をまねびて空笑みす
男のすなる偽りも云ふ

 人を見ればをかしくもないのに作り笑ひをして歓心を求めたり、又男の様にうそを云つたり私も大分違つて来た。
 何時頃からこんなになつたのであらう、さうだ二十三の時だ、そんなことを覚えたのは。
 これも作者の場合に示された人間記録の一である。

  永久とこしへと消えゆく水の白波を
一つのことと思はるべしや

 過去とか未来とかいふものは思想上には考へられるが実在はしない、実在するのは現在だけである。
 従つて永久といつても現在の外にはない、現在が永久であり、永久は現在である。
 こんな哲理を考へながら渓流を見て居ると岩にせかれて白波の立つては消えるのが注意を惹く。
 現在と永久とが一つのものならば、消えてゆく波と永久とが同一物といふことになる。
 そんなことはどうしても考へられない。
 現象即実在、差別即平等、沙婆即寂光土など同一カテゴリイに属する思想で皆詩人の厳定しにくい処であらう。

  火に入らん思ひは激し人を焼く
炎は強し何れなりけん

 私は火の中に跳び込んで自分を焼いてしまふ位激しい感情の持主です、又私の情熱は相手を焼き殺してしまふ位強烈なものです、そのどちらが働いてこんなことになつたのでせう、分りますか、どちらも同じものですよ。

  川東中井の里は五十度の
傾斜に家し爪弾きぞする

 昭和九年の秋上州四万に遊ばれた時の作。
 私は四万へは行つたことがないので説明しかねるが、渓流に臨んだ急勾配の斜面に川東の中井部落といふのがあり、そこから爪弾きの音が聞こえて来た。
 今にも滑り落ちさうな崖の途中の様な処に住みながらいきな爪弾を楽しんでゐるとは如何した人達であらうと感心して居る心であらう。
 五十度の傾斜といふ新らしい観念と爪弾といふ古い情趣との対照がことに面白い。

  火の中の極めて熱き火の一つ
枕にするが如く頬燃えぬ

 頬が燃えるやうに熱くなるのは如何いふ場合であらうか。
 それによつて情熱を言ひ現はすことも考へられないではないが、羞恥に堪へられぬやうな場合の方が当つて居るやうに思はれる。
 この歌の場合も最上級の羞恥を現はしたものと見てよいやうである。
 燃らば唯一度しかない場合のものとも見られる。

  川の幅山の高さを色ならぬ
色の分けたる四万の闇かな

 山の蛾が飛び込むので閉めてあつた障子をあけ廊へ出て九月の外気に触れて見た。
 谷底の様な四万の夜は真暗だ。
 しかしその色のない闇の中にも川の幅を示してゐる闇もあり、山の高さを現はしてゐる闇もあつて、ちやんと区分され、その上に星空が乗つてゐるのであつた。
 これだけのことが色ならぬ色の分けたるで表現されてゐる。

  なつかしき心比べといと辛から
心比べと刻刻移る

 劇が決闘であるやうに、愛も亦決闘である。
 唯常の状態ではそれが極めて温和に行はれる為少くも闘争の外観を示さず、「心比べ」といふ程の静的な様相を呈するのである。
 併しその本質はやはり決闘であつて、色々の種類の決闘が相ついで行はれる。
 懐しい決闘が行はれるかと思へば次には辛辣なのが行はれ、時間はどんどん立つてゆく。

  人間に灯の見まほしき欲ありと
廊を踏みつつ知れる山の夜

 これも前の闇の歌の続きである。
 長い廊を踏んで湯殿に通はうとするに、灯のついてゐる座敷とて一つもなく、山の夜は唯真暗で水の音のみその中に高い。
 ああ明りが欲しいと思ふとその瞬間人間には五欲の外に灯の見たい欲がも一つあつたのだといふことに気がついた。

  実まことしき無き名なりけり実しき
名なりし故に今日も偲ばゆ

 無き名を立てられて思はぬ悲劇となり、又は大に困つたり、少くも迷惑した様な場合が昔からいろいろ歌にも詠まれてゐる。
 しかしこの歌のやうにそれが懐しい記憶となつて残つてゐる場合は恐らくないだらう。
 こんな体験は誰にでもあるのだらうが、今まで歌へないでゐたのを作者が取り出して歌つたのである。

  武蔵野の風の涼しき夜とならん
登場したり文三と月と

 この春(二十一年)栄養失調でなくなつた江南文三君である。
 文三君は近年先生の近くに住んでゐたので、いつもぶらりと出掛けたものらしい。
 そこで「登場したり」となるので、客のするやうな常の訪問でないことが分る。
 ぶらりとやつて来たのは文三許りでなく月も昇つた、けふは暑さもそれほどでない、今に風も出て涼しくならうから大にとぼけた話でもしませうといふ心持である。
 江南君は渋谷時代からの古いお弟子で少しエキセントリツクな人物だから「登場」することにもなるのである。

  なつかしきものを偽り次次に
草の名までも云ひ続けけり

 わたくしの一番なつかしいのはあなたですとそれが云へない許りに、清少納言のやうにそれほどでもない自然現象から人事百般に渉つて並べ立てしまひには草の名までも数へたが皆嘘であつた。
 そんなこともあつたがをかしいわけのものである。

  恋のごと旧恩のごと身にしむと
月の光を思ふ秋かな

 昔から今まで月の歌は数限りなく作られこれからも作られるであらうが、月の光その物を抽象して示す場合は極く少く、大抵は月光を浴びた環境及び之に対する印象を詠むのであらう。
 然るにこの歌は秋といふ以外は一切の外境に触れず月光そのものに恋を感じ旧恩を感じて之を人に伝へるのである。
 ことに旧恩と月光などは詩人の媒介なくしては結合する機会はあるまい。

  憂き十年一人の人と山小屋の
素子の妹背の如く住みにき

 明治三十四年から十年間の晶子さんは相当世間に認められ独り歌許りではなく新訳源氏を出しては上田敏さんから紫女と才分を等しうするものと折紙をつけられ、太陽に鏡影録といふエツセイを書いては鴎外先生に平塚明子さんと並称されるなど文壇人としては相当華やかな存在であつた。
 しかるにその暮しは如何であつたかといふに、お話にならぬほど粗末なものであつた。
 それに大家のお嬢さんとして何不足なく育つた人であるだけ、生活のみじめさは人一倍身にしみて味はれたに違ひない。
 この歌などもその現はれである。
 成るほど憂き十年であつたに違ひない。
 山小屋の炭焼夫婦も二人なればである。
 その様に共に住む一人の人があればこそ来たのであるが、さてこの先は如何なることであらう。

  比が根山秋風吹けど富士晴れず
拠なく靡く草かな

 十国峠を通るに相当強い秋風が海の方から吹いて来る、けれども中天の雲を吹き飛ばすだけの力はなく富士は曇つた儘姿を現はさない。
 而してそれに失望するのは自分だけではない、それより富士を拠として日々その生を続けてゐるこの比加根山の草の方が可哀さうだ、頼りなささうに秋風に靡いて居るその姿。
 十国峠の草山の物足らぬ心持が淋しい位よく出てゐる。

  わが産屋うぶや野馬が遊びに来ぬやうに
柵つくらせぬ白菊の花

 これも昔の渋谷辺の心持で、産屋の前に数本の白菊が咲いてゐる。
 それを斯ういふ形で表現したわけだ。
 あの辺から玉川へかけては昔の武蔵野の俤が残つてゐて野馬でも遊んでゐさうな心持がしてゐた。
 そこで外の時ならよいが、御産のすまないうちにそんな闖入者があつては困るので白菊を植ゑて柵にしたのです。
 さて闖の字を書いて見るとここにも野馬の遊びにくる趣きが出てゐてをかしい。

  御堂より高かる空に五山浮き
松風の鳴る広業寺かな

 明治の画家寺崎廣業氏の山荘を禅寺にしたらしく信州渋の上林にある。
 小さくとも寺であるから主家おもやを御堂と呼び、その上の空に山々の聳えてゐるのを禅宗寺院に因んで五山と呼び、松風を添へて山寺の風致を引き出すわけである。

  撥に似るもの胸に来て掻き叩き
掻き乱すこそ苦しかりけれ

 掻き叩きといふから丁度長唄の撥の気持であらう、さういふものが来て胸を叩くので感情は忽ち混乱してしまふ、その苦しさといつたら無い。
 そんなことが往々あつたが、今また丁度来て私の胸を掻きむしつてゐる最中だ。
 その正体は何物か、それは分らない。
 しかし撥のやうなものらしい。
 苦しいが打ち払ふ術もなく叩くに任せてゐるのである。
 之では説明も要領を得ないが象徴詩は仕方がない。

  駅二つ裾野の汽車は越えつれど
山の蛍は飛ぶを急がず

 妙高山腹の赤倉温泉での作。
 今しがた田口を出た遠い汽車の灯が見て居るうちに裾野を廻つて二本木に着き、そこをも越えて大急ぎで山を走り下りてゆく。
 その間同じ小さい灯ながらこの辺を飛ぶ山の蛍はどうかといへば、何の目的もなくふわりふわり飛んでゐる許りで、汽車の灯などどうあらうと見向きもしない。
 僅に二種の小さい灯を比較するだけで越後平野を見渡す妙高の夜景をぼんやりではあるが描出してゐる。

  男にて鉢叩きにもならましを
憂しともかこち恨めしと云ふ

 どうですこの頃の私のこぼし方、朝から晩まで不平許り、辛いと云つたり恨めしいと云つたり、誰の為にこんな苦労をするのだらう。
 もし私が男だつたら、私はいつそ鉢叩きにでもなりますよ、さうしてお念仏を申しながら瓢箪を叩いて廻りますよ、その方がどれほど苦労が少いでせう。

  薬師山霧に化かはりて我が岸の
板屋楓が薬師に化る

 昭和九年七月赤城山上大沼でひどい霧に会はれたその時の歌。
 対岸の薬師山が忽ち化して霧になつたと思つたら、此の岸の板屋楓が今度は反つて薬師に化けた。
 をかしいこともあるものだといふ座興であるが、対岸の薬師山には恐らく薬師を本尊とするお寺か何かあるか、或は伝説でもあつて薬師に関係があるのであらう。
 さうでないと面白くない。

  物語二なき上手じやうずの話より
ものの哀れを思ひ知りにき

 私は嘗て年寄許りの席で老妓の昔話を聞いたことがある。
 大阪の話である。
 一つは滑らかな大阪弁がさうさせたのでもあつたらうが、私は感に堪へて聞いてゐた。
 この歌を読んでその時のことを思ひ出すが、確にもののあはれを思ひ知つたといふのであらう。
 恐らく誰にでもさういう体験はあらうか。

  恋をして徒になる命より
髪の落つるは惜しくこそあれ

 恋をすればいふ迄もなく命はすりへつてしまふ、かけ替のない命をすりへらすとは何といふ惜しいことだらう。
 しかしそれよりも尚惜しいのはこの頃のやうに髪の落ちることだ、かう毎日毎日落ちていつたら一体どうなるのだ。
 有形無形何れかと問はれた若い女の答である。

  山の霧焔なりせば如何ならん
白き世とのみ見て許せども

 これは実に恐ろしい想像である。
 霧が寄せて山も湖水も草も木も青白いものになつた。
 見るものはそれを白い世界が出来た位に安心して見てゐるが、もし霧でなくて火焔であつたらどんなものだらう、思つても恐ろしい事だと自分の空想に自分で怯へる不思議な歌である。

  やごとなき君王の妻に等しきは
我がごと一人思はるゝこと

 作者にははじめ山川登美子さんといふ恋の競争者がゐて、その為にどれ程悩んだか知れなかつた。
 しかしそれは登美子さんの知つたことではなかつたし、その内この妹のやうなお友達も若くして世を去つたので、漸くこの歌のやうな境界が出現した。
 その後は多少の葛藤はあつても其の儘遂に変ることはなかつた。
 それを思ふと幸福な一生だつたと言はざるを得まい。
 この歌の嬉しさうな調子を見ればさう評して間違ひはあるまい。

  ほととぎす妄りに鳴かず一章を
読み終へて後一章を次ぐ

 咢堂先生を嘗て莫哀山荘に御尋ねした時軽井沢では梅雨期にはほととぎすが喧しい位啼くといふ御話であつた。
 私はさういふほととぎすをラヂオの録音以外には聴いた事がない。
 このほととぎすは伊豆の吉田のそれで私の隠宅尚文亭で毎年聞くものと同じものらしく、少しく間を置いて啼いたものらしい。
 この歌の鳥は咒文か真言か鳥の国の文章を読むものと見做されてゐるが、一章を読み了へて後一章を次ぐとはよく聴いたもので、これ以上的確な写生はあるまい。

  髪あまた蛇頭する面振り
君にもの云ふ我ならなくに

 メヅウサはもとは美しい女であつたが、ミネルバの怒りに触れて、髪の毛を蛇に変へられ、その目で見られたものは恐ろしさに何物も皆化石してしまふといひ伝へられる女である。
 そんなメヅウサのやうな顔をしてあなたに物を云つて居る私ではないとは思ふものの、もしさうであつたら如何しよう、あり得ないことでもないから。
 半信半疑又は我を疑ふ場合であらう。

  誓ふべし山の秘密を守るべし
蛾よ我が路に寄り来る勿れ

 若葉の頃塩原での歌。
 散歩の途上であらう余程多くの山の蛾に襲はれたらしく悲鳴をあげた形である。
 悲鳴のあげ方が人間扱ひで面白い。
 この様に何もかも人間扱ひにする、それを晶子さんの常套手段だとするのは当つて居ない。
 さうではなく晶子さんの神経には万有が直ちに人間として感ぜられるのである。

  朝顔の蔓来て髪に花咲かば
寝てありなまし秋暮るゝまで

 例の千代の 朝顔に釣瓶とられて貰ひ水 といふ句を子規がけなしつけて理窟だと言つた。
 その通りだと思ふ。
 しかしもしこの歌を同じ理由でけなすものがあつたら、それは当らない。
 この歌は朝顔の美を詠んだものではない。
 朝寝がしたいのである。
 朝顔でもはつて来て髪に花が咲いたらそれをよいことに起きないのだがといふので、句の様に理窟ぜめに朝顔の美を称するのでも何でもない。

  馬遣れば山梨えごの白花も
黄昏時は甘き香ぞする

 馬遣ればは馬に乗つてその木の下を通ればといふ意味だと思ふが、即ち花の咲いてゐる直ぐ下を通るので、何の匂ひもしない白い花だが黄昏時にはさすがに甘い匂ひが感ぜられるといふのではなからうか。
 山梨えごの花なるものを知らないからはつきりは分らない。

  青白し寒し冷たし望月の
夜天に似たる白菊の花

 いく度か云つた様に斯ういふ歌は一種の音楽である。
 それ故内容などに就いて彼此れ野暮な詮索をしないことだ。
 唯高声に或は低声に朗々と吟じ去り吟じ来つて日本語の美を味はへばそれが一番よいことであつて、精神生活はその都度向上するわけである。

  心経を習ひ損ねし箒川
夜のかしましき枕上かな

 心経は般若心経で門前の小僧誰も知つてゐる短いお経である。
 しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響きの代りに途方もない乱調子が続いて、やかましくて寝つかれないといふのである。

  冬の夜を半夜寝ねざる暁の
心は君に親しくなりぬ

 冬の夜長を殆ど眠らず尖つた心の儘に物思ひにふけつてしまつた。
 しかし段々労れてくるにつれにぶつたとげも遂にはぼろりと落ちて、もとの円味のある心になり、夜の明ける頃にはやうやく親しむ気分にさへなつた。
 つまり疲労のお蔭で仲直りが出来たといふわけなのであらうか。

  五月の夜石舟にゐて思へらく
湯の大神の縛いましめを受く

 石舟は石の湯舟でいはふねと読むのではないかと思ふが確かではない。
 五月といへば山の夜も寒くはない、外は暗い、外から若葉の匂ひがしみこむ様だ。
 渋い感触の石造の湯舟に浸つて目を閉ぢて居ると心気朦朧としてこの儘いつまでも浸つて居たい様な出るにも出られない様な心持になる、それは丁度湯の神の咒文で縛られて居る感じである。

  逢はましと思ひしものを紅人手
一つ拾ひて帰りこしかな

 鎌倉の様な処へ出養生に行つてゐる少女の歌である。
 逢へるだらうと思つた何時も逢ふ人に今日は逢へず、その代りに紅人手を一つ拾つて帰つてきたが、その物足りなさ。
 自分の知らぬ間に私はあの人を思ふ様になつてゐたのであらうかなど自問する場合であらう。

  峯々の胡粉の桜剥落に
傾く渓の雨の朝かな

 これも塩原の朝の小景。
 散り際の一重の深山桜が峰々にあちこち残つてゐる、それに雨が降りかかつて渓に散りこむ姿は塗つた胡粉のぽろぽろ剥げてゆく感じである。
 それを「胡粉の桜」と直截に云つた所がこの歌の持つ新味である。

  石七つ拾へるひまに我が心
大人になりぬ石捨ててゆく

 少し道歌の気味はあるが、人間の欲望の哲学が平易に語られてゐるので捨て難い歌だ。
 人間は生長するに従つて欲望に変化を来し、最後に無欲を欲するに至つて人格が完成する。
 欲望とは独楽のやうなものだと云ふ人があるが、この歌ではそれが七つの石――何の役にも立たぬ石ころ――になつてゐる。

  いと寒し崑崙山に降る如し
病めば我が在る那須野の雪も

 九年の正月那須で雪に降りこめられその中で俄に重態に陥つた時の作。
 病床から硝子戸越しに降りしきる那須野の雪を見て居ると寒さが身にしみ入る様で、西蔵境の崑崙山脈に降つてゐる雪の様に感ぜられる。
 氷点下何度といふ代りに標高一万米突の崑崙山を持つて来たわけもあるが、「病めば我がある」といふ件、重態に落ちた体験の持主なら容易に同感出来る境地である。
 私も若い時冬の最中寒い大連で生死の境に彷徨し同じ様な心細さを感じたことがあつた。

  紫に春の風吹く歌舞伎幕
憂しと思ひぬ君が名の皺

 昔の劇場風景。
 昔の芝居は朝から初まり幕合が長かつた。
 快い春風が明け放たれた廊下から吹き込んで引幕に波を打たせる、それは構はないが、大事の君の名の所に雛が寄つて読めなくなるのが悲しい。
 大きくなつた半玉などの心であらうか。

  那須野原吹雪ぞ渡る我が上を
それより寒き運命渡る

 この時は大分の重態で御本人も寛先生も死を覚悟された模様であつた。
 この歌にもそれがよく現はれてゐる。
 那須野原吹雪ぞ渡るといふ調べの荘厳さは死そのものの荘厳さにも比べられるが、一転してそれより寒き運命渡ると死に向ふ心細さを印し以て人間の歌たらしめてゐるのであるが、蓋し逸品と称すべきものの一つであらう。

  人捨つる我と思はずこの人に
今重き罪申し行なふ

 人捨つるは人を捨てるの意であらう。
 人を捨てることの出来るやうな残酷な強情な私とは思ひません、ですからどこまでも捨てずに行きます、しかしこの度のことは何としてもただでは許せません、これから重い刑を申し渡しますからその積りでおいでなさい。
 要するに口説歌とでも解すべき、抒情デテエルであるが、これも新古今辺から躍出して多少とも新味のある明治の抒情詩を作り出さうとした作者の試みである。

  雪積る水晶宮に死ぬことと
寒き炬燵となど並ぶらん

 私は今雪の降り積る水晶宮の中で氷の様な冷い神々しい感じで静かに死んでゆく。
 それだのにその側に那須温泉の寒さうな炬燵が置いてある、どうしたことであらう。
 これは恐らくは実際に見た重病人の幻像であらう。

  昔の子なほかの山に住むといふ
見れば朝夕煙たつかな

 明治の末年故上田敏先生が大陸の象徴詩を移植しようとして訳詩の業を起され、当時の明星が毎号之を発表してそのめざましい新声を伝へたことがある。
 それらは後にまとめられて海潮音一巻となつた。
 この訳詩は、上田さんの蘊蓄がその中に傾けられたとでも言はうか、その天分が処を得て発揮されたとでも言はうか、実に見事な出来で、寛先生の数篇の長抒事詩以外日本の詩で之に匹敵するものはないと私は信じてゐる。
 私は今定形詩に就いて云つて居るので、律動のみの自由詩には触れない言である。
 この海潮音は当時私達新詩社の仲間に大きな感激を齎らし、他から余り影響を受けない晶子さんとて免れるわけはなかつた。
 この歌などがその現はれではないかと思ふ。
 斯ういふ現実放れのした歌は、その後我々の方でも余り作られなくなつてしまつたが惜しいわけである。
 自縄自縛といふことがあるが、現在の歌作りがそれである。

  白山に天の雪あり医王山いわうさん
次ぎて戸室とむろも酣の秋

 昭和八年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。
 白山は加賀の白山で、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山これも冬景色に近い、次が前の戸室だが、ここは今秋酣で満目の紅黄錦のやうに美しい。
 三段構への秋色を手際よく染め上げた歌。

  見えぬもの来て我教しふ朝夕に
閻浮檀金の戸の透間より

 閣浮檀金とは黄金の最も精なるものの意であらう。
 詩を斎く黄金の厨子があつて、その戸の透間から目に見えぬ詩魂が朝に晩に抜け出して来ては私に耳語する。
 その教へを書きとめたものが私の歌である。
 さういつて大に自負したものの様に思へるが、果してどうか、別に解があるかも知れない。

  美くしき陶器すゑものの獅子顔あげて
安宅の関の松風を聞く

 昔は海岸にあつた筈の安宅の関が今では余程奥へ引込んでゐると聞いてゐる。
 その安宅の関へ行かれた時の作。
 そこに記念碑でも立つてゐて九谷焼の獅子が据つてゐるものと見える。
 天高き晩秋、訪ふものとてもない昔の夢の跡に松風の音が高い。
 それを聞くもの我と唐獅子と。

  いそのかみ古き櫛司に埴盛りて
君が養ふ朝顔の花

 これも写生歌ではないと思ふ。
 詩人が朝顔を作るとしたらこんな風に作るだらう、またかうして作つて欲しいといふ気持の動きが私には感ぜられる。
 そこがこの歌の値打ちである。

  秋風や船、防波堤、安房の山
皆痛ましく離れてぞ立つ

 昭和八年の秋、横浜短歌会席上の作。
 空気が澄んで遠近のはつきり現はれた横浜港の光景である。
 その舟と防波堤と安房の山との間に生じた距離が三者の間のなごやかな関係を断ち切つて、離れ離れに引き離してしまつた。
 その離散した感じが作者の神経に触れて痛ましい気持を起させたのである。

  誓言わが守る日は神に似ぬ:
少し忘れてあれば魔に似る

 我々がまだ若かつた時分、パンの会の席上であつたと思ふが、寛先生が内の家内は魔物だと冗談の様に云はれた言葉を、印象が強かつた為であらう、私は遂に忘れなかつた。
 この歌で見ると、それは夫である寛先生の見方であつた許りでなく、夫人自身が自らさう思つて居たらしい。
 勿論いつもいつも魔であられては堪らない。
 神様の様な素直な大人しい女である時の方が多く、それは誓言を守つて居る時であるが、少しでもそれを忘れると本来の魔性があらはれて猛威を振ふことになる、又晩年の作にこんなのもある。
  我ならぬ己れをあまた持つことも
魔の一人なる心地こそすれ

  わが梅の盛りめでたし草紙なる
二条の院の紅梅のごと

 これは昭和八年二月寛先生六十の賀――梅の賀が東京会館で極めて盛大に行はれた時の歌で、草紙はいふ迄もなく源氏物語、二条の院は紫の上を斎く若い源氏の本拠。
 そこに咲いた紅梅の様に盛大であつたと喜ぶのであるが、その調べの高雅なこと賀歌として最上級のものである。

  心先づ衰へにけん形先づ
衰へにけん知らねど悲し

 心が先に衰へれば心の顕現したものに外ならぬ形の従つて衰へるのは理の見易い所である。
 しかし反対に形が先に衰へても、それが鏡などで心に映れば心もそれに共感して衰へ出すであらう。
 私の場合はどちらであらうか。
 はずまなくなつた心が先か、落ち髪がして痩せの見える形が先か、それは分らない、しかし悲しいのはどちらも同じことである。

  梅に住む羅浮の仙女も見たりしと
君を人云ふ何事ならん

 羅浮の仙女とは、隋の趙師雄の夢に現はれて共に酒を汲んだ淡粧素服の美人、梅花の精で、先生も若い時分には羅浮の仙女にも会はれたことだらうといふ話を人がして居るが何のことだらうととぼけた歌。
 之も前と同じ時の賛歌で同じく梅に因んでの諧謔である。
 めでたく六十にもなつたのだ、若い時があつたといふ証拠のやうなそれほどの事を今更誰が咎めませうといふ心であらうか。

  先に恋ひ先に衰へ先に死ぬ
女の道に違はじとする

 女庭訓にあるやうな日本の婦道を歌つたものでも何でもない。私はかう思ふ。
 この頃しきりに髪が落ち目のふちに小皺が見え自分ながら急に衰へを感じ出したが、さてどうにもならないといふ時、自分に言つて聞かせる言ひ訳だらうと思ふがどうであらうか。

  秋寒し旅の女は炉になづみ
甲斐の渓にて水晶の痩せ

 秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。
 これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。
 富士山麓の十月は相当寒い。
 旅の女は炉辺が放れられない。
 しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

  一端の布に包むを覚えけり
よねと白菜しらなと乾鮭からさけを我

 世話女房になりきつた巾幗詩人の述懐であるが、流石に明治時代は風流なことであつた。
 今なら「こめ」「はくさい」「しほざけ」と云ふに違ひない。

  いつまでもこの世秋にて萩を折り
芒を採りて山を行かまし

 伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。
 島谷さんの抛書山荘から歩いて行ける。
 この歌の舞台で、奈良の三笠の山を大きくし粗野にした景色である。
 終日山を行つて終日山を見ず、萩を折り芒を採つてどこまでも行きたい様な心持を作者に起させたに違ひない。

  表町我が通る時裏町を
君は歩むと足ずりをする

 足ずりをするは悔しがることである。
 事余りに明白なので解説の必要もないが、その表象する場合は数多くあらう。
 誰でも一度や二度覚えはあらうから読者は宜しく自己の体験に本づいて好きな様にあてはめて見るべし。
 歌が面白く生きて来るだらう。

  黄昏に木犀の香はひろがれど
未だつつまし山の端の月

 夕方になると木犀の香は一層高くなり遠くへもひろがる。
 空気の澄んだ湖の家のこととて尚更いちじるしい。
 その強烈な匂ひに対して山の端に出た三日月のこれはまたつつましいこと、形は細く色は淡い。
 作者は人の気のつかない色々の美を、その霊妙な審美眼を放つて瞬間的に之を捕へ、歌の形に再現して読者に見せてくれる為に生きてゐた様な人であるが、対照の美をいはゞ合成する場合も往々ある、この歌などがその例で、これは自然の知らない作者の合成した美である。

  水無月の熱き日中の大寺の
家根より落ちぬ土のかたまり

 天成の詩人も若い頃即ち修養時代には色々他の影響を受ける。
 この歌には蒲原有明さんの匂ひがしてゐる。
 ある近代感を現はさうとした作で、この人には一寸珍しい。

  天草の西高浜の白き磯
江蘇省より秋風ぞ吹く

 昭和七年九月、九州旅行の最後の日程として天草へ廻られた時の作。
 西高浜の白砂に立つて海を見てゐると快い初秋風が吹いて来る。
 対岸の江蘇省から吹いてゐるのだから、潮の匂ひの中には懐しい支那文化の匂ひもまじつてゐるに違ひない。
 そんな心持であらうか。
 この歌も恐ろしくよい歌だが、同じ秋風の歌でこれに負けない寛先生の作がある。
 私は一度ある機会に取り出して賞美したことがあつたが、序にも一度引用しよう。
  開聞のほとり迫平せひらの松にあり
屋久の島より吹き送る秋
 前の天草が日本の西端なら、この開聞が岳は日本の南端で、その点もよく似てゐるがその調子の高いことも同じ程で何れもやたらに出来る種類の歌ではない。

  水隔て鼠茅花の花投ぐる
事許りして飽かざらしかな

 幼時を思ひ出した歌。
 斯ういふ種類の歌には余りよい歌はない、その中でこの歌など前の鏡の歌と共に先づ無難なものの一つであらう。

  天草の白鶴浜の黄昏の
白沙が持つ初秋の熱

 これは何といつても天草であること、白鶴浜であることが必要で、房州の白浜辺の砂ではこれだけの味は出て来ない。
 固有名詞の使用によつて場所を明確にし、その場所の持つ特有の味、色、感じを作中に移植する方法は、作者の最も好んで用ゐる所であるが、この歌などはその代表的なもので、それに依つて生きて居るのである。

  君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ
思はぬことも云ふあまつさへ

 これは勿論下の方の思はぬことも云ふあまつさへを言ひたい許りに出来てゐる歌で、この句によつて恐らく不朽のものとならう。
 外国語に翻訳されたら例へば巴里のハイカイといふ如き形を取つて世界的の短詩となるであらう。

  巴浜、巴の上に巴置く
岬、松原、温泉が岳

 これも天草の歌。
 温泉岳が見えるのだから東側の浜であらう。
 巴のやうな形をして居るのであらう、その巴の上に岬と松原と海を隔てた温泉岳が三つ巴を為して乗つてゐるといふのであらう。
 巴の字が巴の様に三つ続く所に音楽があつて興を添へてゐる。

  翅ある人の心を貰ふてふ
事は危し得ずば憂からん

 翅ある人とはキリスト教の天の使か羽衣の天女か何れでもよいが、うそ偽りのない清い心の持主を斥すのであらう。
 さういふ清い心を貰つて自分の心としたら如何であらう。
 危いことだ。
 この恐ろしい世の中には一日も生きてゐられないかも知れない。
 さうかと云つて貰はないことはなほいけない。
 汚い心で生きるのでは生甲斐もありはしない。
 何れも不可である、それが人間の真実の姿なのであつた。

  牛の群彼等生くれど争ひを
知らず食めるは大阿蘇の草

 晶子さんは人と争つたことがない、徹底的に闘争が嫌ひであつた。
 徹底した平和主義者であつた。
 その繊細な神経が暫時の不調和をも許さなかつたからである。
 阿蘇の大草原に放牧されてゐる牛の群の争ひを知らずに生きて居る姿に人生の理想を見た作者であつた。
 寛先生の発明であるが、私達は昔絶句と呼んで短歌に二音加へた新らしい形式を試みたことがある。
 即五・七・七の片歌に短歌の下の句を加へたものとも見られ、又は片歌を二つ重ねた旋頭歌の第四句の五音を削つたものと見てもよい、五・七・七・七・七といふ形である。
 七が重るので七絶から思ひ付いて絶句と呼んだのでもあらうか、故大井蒼梧君がある日席上で作つたのに斯ういふのがあつた。
  天地に草ある限り食ふと大牛よい哉その背我に貸さずや 席上大に賞讃を博したものなので未だに覚えてゐるが、同君も基督教徒の平和主義者であつた。
 牛と平和とはよく同調する。

  いみやらんわがため恋しき人
生みし天地思ひ涙流るゝ

 あの人を恋した許りにこんなに苦しんでゐる。
 私の為には悪人であるあの人もいつの日か天地の生んだものである事を思ふと私を生んでくれた同じ天地が恨めしくなる。
 もし天地があの人をあの時生んでくれなかつたらこんな悩みもなかつたであらうと思ふと悔しくて涙がこぼれる。

  石は皆砒素を服せる色にして
河原寂しき山の暁

 上野原を流れる桂川の河原である。
 砒素を毎日少しづつ呑むと肌の色艶がよくなつて若返るといはれ、欧洲の女優などが試みるさうである。
 河原の石のつやつやしたしかしどことなく寂しい色をした山の暁である。
 砒素を服した様な色だといへば少し心持が出る。
 いくらつやがあつても元来毒である。
 しまひには毒に中つて死んでしまふ色であるから寂しいのであらう。

  昨日わが願ひしことを皆忘れ
今日の願ひに添ひ給へ神

 我が儘勝手な願ひであつて、恋愛の本質亦然り、それを歌ふ抒情詩の内容も同じやうなものであらう。
 そこが面白いのである。
 義理、人情、宗教、道徳から解放された自由な人間活動がその中で行はれるのである。

  倶忘軒百歩離れて我れ未だ
世事を思はず桜散り敷く

 熱海の藤原さんの別墅を尋ねた時の光景。
 満開の桜があまり見事なので荘を離れて百歩いまだ世事を思ふ暇さへなく桜吹雪に吹きまくられてしまつたといふのである。
 倶忘軒は亭の名であらう。又同じ桜花の光景が
 断崖きりぎしに門もんあり桜を霞這ひ
天上天下てんじやうてんげ知り難きかな
 とも歌はれてゐる。

  子等の衣皆新しく美くしき
皐月一日花菖蒲咲く

 晶子さんは学者として論客として女性解放者として教育者として各方面に女らしくない大活動を転囘した人であつたが、その本質はやはり抒情詩人であつた。
 何よりの証拠はその衣装道楽である。
 女らしさと芸術家気質とが混合したものであらう。
 従つて少しでも余裕が出来れば御子さん方の衣類も新調されたであらう。
 従つて斯ういふ歌が出来るわけだ。
 子供達が新らしい著物を著る衣替への心持と花菖蒲の咲くメイデイの心持との快い共鳴と同時に母親としての満足もよくあらはれてゐる歌である。

  小室山黒髪の夜となりにけり
雨は梅花の油なりけん

 早春の雨が降つて寒さのゆるんだ心持を歌つたもので、小室山は川那ホテルの上の草山。
 女の黒髪の様な艶に柔い夜が小室山を包んでしまつた。
 先程の雨は髪の油ででもあつたのだらう。
 梅花の油は椿の油に梅花の匂ひをつけた香油の意であらう。
 しかしこの梅花を点じた所に早春の気持が覗いて居るのである。

  おどけたる一寸法師舞ひ出でよ
秋の夕の掌てのひらの上

 をかしみ多く歌つてはあれど、底には秋の夕のやるせない心持が流れてゐる様に響く。
 一体おどけた歌の少い人であるからこれなどは珍しい方だ、この外にも前の句を思ひ出せないが、あとの句は 御名は鳥帽子ゆらゆらの命 といふのがあつた。

  掌に峠の雪を盛りて知る
涙が濡らす冷たさならず

 物を規定するのに大抵の人は正攻法を用ひ肯定的にやる、それ故に微に入り細に入る時は忽ちつかへて匙を投げてしまふ。
 然るに逆に搦手から否定的に行くと案外旨くゆくものである。
 作者はこの呼吸をよく知つて居る。
 この雪の冷さを肯定的に規定することは短い歌のよくする所でないが、この歌の様にやれば随分細かい温度の差まで相当明白に表現することが出来る。
 それ許りでない、涙の温度迄知れるといふ副産物さへあるのである。

  ある時のありのすさびも哀れなる
物思ひとはなりにけるかな

 今の歌の様でもない、昔からある詠み人知らずの名歌のやうな歌である。
 或はこれに似たものが多くの中には一首位あるかも知れない。
 なぜならこれほどの体験は誰にでもあることで、従つて一人位は歌つただらうと推定し得るからである。
 作者の歌としては寧ろ凡作に属するものであらうが、それにも拘らず、普遍的実相に触れた小さなクラシツクとして存在の価値はありさうである。

  雪ぞ降る人磨くべき要無きか
越の平の白玉の山

 雪の名所上越線湯沢の光景である。
 あとからあとから雲が降つて白玉の山はむやみに上へ許り高くなつてゆく。
 一体それで宜しいのか、形をととのへ白玉をして光あらしむるには折々磨いてやらねばならないのではないかと反問しそれによつて前景を彷彿させるのであるが、さういふ反問の出るのは同時にやむにやまれぬ芸術心の現はれたものでもある。

  わが肱に血塗るは小き蚊の族も
すると仇を誘ひけるかな

 私のけんまくが少しあらすぎた為か、君の気勢がさつぱり上がらず、抵抗もなく反能もなく反撃もない。
 これでは劇は進行しない。
 私はしまひにかういつてやつた。
 私の血で肱を塗る位の事は蚊でもやつてのけますよ。
 それを大の男がこれだけ攻撃されて手だしをしないとは如何した事です、どこからでも突いて御いでなさい、女の赤い血を出して見たいとは思ひませんかとこれでもかといふ風に敵慨心を刺戟して見ました。

  月出でて昼より反りし心地すれ
鈴虫の啼く三津の裏山

 いつであつたか三津浜の五松山荘に行つた時の作。
 私もこの時には御伴をした。
 残暑の酷しい折で裏山の叢で鈴虫が鳴いてゐた。
 か細い夕月が出て居た。
 著いて風呂から上がつた時の光景である。
 三ヶ月を昼から反つて居たやうに思ふといふことであるが、これなどは霊感に近い詩人の直覚によらなければ出て来ない考へである。

  男来て狎れ顔に寄る日を思ひ
恋することは懶くなりぬ

 恋にも上中下何階かの品等がある。
 雨夜の品定めの如きも未だその全貌を尽しては居まい。
 その最下級のもの、それが最も多い場合なのであらうが、ふとそんなまぼろしが浮んだ、男がなれなれしく寄つてくる、ああいやなことだ、そんなのも恋なら、恋などしたくもないと云つた心であらうか。
 又は、恋をしてもよいと思つて居る男ではあるが、あの男とてそのうちに狎れ顔に寄つてくるのではないか、さう思ふと進んで恋をする気にはならなくなる。
 こんな風にも取れる。

  初蛙淡路島ほど盛り上る
楓の下に鳴く夕かな

 楓の若葉が独り盛り上がる様な勢で、行く春の庭を圧倒してゐる心持を須磨から見た淡路島の感じで表現したすばらしい出来の歌である。
 前にも 青空の下に楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな といふ歌を出したが、初夏を代表するものとしてはやはり楓の若葉が一番であらう。

  憂き指に薄墨散りぬ思ふこと
恨むことなど書きやめて寝ん

 日記など書き出したが筆もつ指に薄墨が散つた。
 ああこの可哀さうな指、朝から色々のことに使はれて労れてゐるだらう可哀さうなこの指をこの上労するには忍びない。
 墨でよごれたのをよい折に書かうと思つた考へや恨みごとなどは止めにして寝ることにしよう。

  下総の印旛の沼に添ふ駅へ
汽車の入る時散る桜かな

 うしろに漫々たる印旛沼を控へ白い雲の様に見える満開の桜が、入つた汽車のあふりではらはらと散つた田舎の小駅の光景が捨て難く、三里塚へお花見に行つた時序に読まれたものであるが、歌も亦捨て難い。
 この時の三里塚の歌の中には
 四方より桜の白き光射す
の御牧みまきの朝ぼらけかな
 などいふ佳作もある。

  たをやめは面変りせず死ぬ
毒といふ薬見て心迷ひぬ

 心中の情景でもあらうか。
 この薬は青酸カリか何かであらう。
 一寸見はただの塩の様なものだ。
 それを男から見せられた。
 もとより覚悟の前であるから心動ぜず面変りもしなかつた。
 唯その薬が余り他愛ないものなので、反つてこんなものを呑んで果して死ねるのだらうか、もし死ななかつたら如何だらうと心が迷つたのみである。
 一応こんな風に説いて見たが余り自信はない。
 或は象徴詩かも知れない。
 又さうでもなく心中とは全然無関係のものかも知れない。

  麻雀の牌の象牙の厚さほど
山の椿の葉に積る雪

 この雪は伊香保の正月の雪であるが、この歌はそんなことに一切触れず、反つて麻雀牌に張つてある象牙の厚さを寸法として椿の葉に積つた山の雪の厚さを測定してそれだけで恐ろしい程の印象を与へるのである。

  長椅子に膝を並べて何するや
恋しき人と物思ひする

 若い時代の歌の内、最も平和な最も幸福な而してまた最もプラトニツクなものを求めたらこの歌が出て来るだらう。
 歌の中の人物の為に私は今更めて乾杯したい。
 時是昭和二十一年クリスマスイイヴ。

  二荒山雲を放たず日もこぼれ
雨もこぼるる戦場が原

 男体白根は雲中に出没し、戦場が原は秋霧が渦を巻いて白け渡り索漠たる光景を呈してゐる。
 それでも霧の去来する僅の間隙から日光のこぼれることもあり、又反対に濃い霧が来た時は雨になつてばらばら零れることもある。
 併し何れも零れる程度だと省筆を用ゐて霧を抒した歌である。

  君に文書かんと借りしみ
吉野の竹林院の大硯かな

 竹林院に泊つた人の話によると大硯があるさうだといつであつたか何かの話の序に誰かそんなことを云ひ出して大笑ひをした事があつた。
 この歌は蓋し調子がいいからであらう、それ程即ち「大硯」が供へつけられる程有名な歌であつた。
 今読んで見ても実に調子がよい。
 名調子とでも云ひたい位だ。

  もろもろの落葉を追ひて桐走しる
市川流の「暫」のごと

 落葉の歌は世間にも随分多いし、この作者も実に沢山作つてゐる。
 しかしこの「暫」の様なのは二つとない。
 その見立ての凄さ、地下の団十郎も舌を巻くであらう。

  はかなごと七つ許りも重なれば
離れ難かり朝の小床も

 つまらない頼りにもならない様なことでもそれが七つも重ると自ら意味も生じ頼もしさも出て来てはかないながらそれらしい形が具つて来る。
 そんなわけもないまぼろしを追ふ許りにつひ朝の床も離れにくくなる。
 しかし幾ら重つてもはかなごとは遂にはかなごとなのであらうが。
 こんな風に考へて見たがこれでよいとも思へない。
 誰でも別に考へて見て下さい。

  木枯しす妄語戒など聞く如く
君と語らずなりにけるかな

 五戒十戒何れの戒にも妄語戒はある。
 外には木枯しが吹いてゐる。
 木枯しの声は厳しい。
 妄語戒のやうだ。
 薄い舌でべらべら口から出任せの嘘を一夏しやべり続けた罰に凡ての木の葉を打ち落してしまふぞといふ木枯しの妄語戒は厳しい。
 さう思ふと君と話すことさへ憚られ、つい言葉少なになつて行つた。

  逆に山より水の溢れこし
驚きをして我は抱かる

 初めて男に抱かれた時の感じはこんなものであらうと女ではないが分る気がする。
 この歌がなければ遂に分らなかつたかも知れないから、読者の情操生活はそれだけ豊富になるわけだ。
 よい歌の功徳である。

  霧積の泡盛草の俤の
見ゆれど既にうら枯れぬらん

 霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。
 しかし秋も既に終らうとしてゐる今頃はとうにうら枯れてしまつたことだらう。
 蓋し凋落の秋の心持を「泡盛草」に借りて表現するものであらうか。

  左右を見後ろを見つつ恋せよと
祖のいひしことならなくに

 四方八方見廻しながら注意深く恐る恐る恋をしろなどと私達の祖先はそんな教訓は残して居ません、それだのに如何でせう、私の態度はそんな教訓でも残つてゐて、それに従つてでも居るやうではないか、何といふ恥知らずなことであらう。

  いと親し疎しこの世に我住まず
なりなん後も青からん空

 十年後私が死んで地上に居なくなつた場合の秋の空を思ふと、やはりけふの様に青い事だらう、さう思つて改めて空を見ると、空の青さが親疎二様に見えて来る。
 親しいのは今の青。
 親しくないのは後の青。

  よき人は悲しみ淡し我がどちは
死と涙をば並べて思ふ

 善人賢人の悲しみを見るに淡々として水の様だ。
 それに対して我々のそれは如何かと云ふと、涙の隣に死が並んでゐる。
 悲しむ時は死ぬほど悲しむ。
 これは作者晶子さんの飾らぬ衷情で、或一時期には悲壮な覚悟をさへしたことのある事実を寛先生の口から私は聴いてゐる。

  風立てば錦の如し収まれば
螺鈿の如し一本桜

 桜を歌つた歌はこの作者には特に多い。
 荻窪の御宅には弟子達の贈つた数本の大木の染井吉野もあつて、春ともなれば朝夕仔細に観察する機会が与へられた。
 この歌の如きもその結果の一つであらう。
 動静二相を物の形態を借りて表現せんとしたものであるが、螺鈿の静相はよく分る、静かなる螺鈿の如しと云つてもをかしくない。
 錦の動相は如何か。
 昔から紅葉を錦に譬へるが川を流れる紅葉の場合などは正に動相である。
 しかしこの場合の動相はそんなことではない。
 錦のきらきらする心、それが風にもまれる桜の心なのであらう。

  神ありて結ぶといふは二人居て
心の通ふことをいふらん

 一寸無味乾燥な aphorism のやうにも聞こえるが、二人居て心の通ふといふ処を重く見て、二人が同じ席に居て無言の儘心を通はしてゐる状態を思ひ浮べ、神ありて結ぶを御添へ物の様に軽く扱へば歌らしく響いて来てやはり面白いのである。

  春寒し未だ南の港にて
復活祭を燕待つらん

 斯ういふ歌の作者こそ、読者から厚い感謝を捧げらるべきであらうと私は思ふ。
 なぜなら春が寒いといふ事象の外この場合何もないので本来なら歌は成立しない筈である。
 然るにその無の中へ詩人の空想が躍り出し形を造り出し生命を与へ、それによつて初めて春寒の感じが具象化され、読者の心の糧となるのである。
 仍てその功は徹頭徹尾詩人の空想が負ふべきである。

  言葉もて謗りありきぬ反そむくとは
少し激しく思ふことかな

 言葉に出た所では批謗としか思はれぬ様な事をしやべり歩く私である、人が聞いたら恋の反逆者のやうに思ふかも知れない、併しそれは言葉の上だけのことである。
 反逆と見えるのは実は前より少し許り激しく思ふことで、逆どころか順に進んで居たのである。
 日本の女性にも数個の好抒情詩を残した人が少しはある。
 額田女王、狹野茅上娘子、小町、和泉式部の様な人々である。
 しかしその内容は何れも大らかなのびのびした強烈ではあつても単純な古代人の情操を出るものはなく、近代人の複雑な感覚に働きかけることは出来ない。
 そこで日本の抒情詩に複式近代性を与へようと意識的に挺身したのが晶子さんであつた。
 さうして幾首かの傑作、幾十首かの秀作を残した。
 中に意味の取りにくい晦渋な難物の混じつてゐるのもその為である。
 惜しいことに之を次ぐものがない。
 これからの若い人に期待される。

  美くしき秋の木の葉の心地して
島の浮べる伊予の海かな

 私も幾囘か美しい島の浮んでゐるあの辺を船路で通つたことがあるが、これ程の歌は遂に作れなかつた。
 これはしかし陸地から見た感じで、洵にたわいない様なものだが、精選された快感が風の様に吹いてゐる。

  いと熱き火の迦具土の言葉とも
知らずほのかに心染めてき

 今思へば、母の胎をさへ焼いたといふ赤熱した雷火のやうな言葉だつたのを、さうとも知らず、やさしいことを言ふものだと思つてなつかしい心持さへ起したが、未熟な少女心とは云へ見当違ひもひどかつた、と生成した心は思ふのである。

  伊予路より秋の夕暮踏みに来ぬ
阿波の吉野の川上の橋

 これは形の上では単なる報告である。
 報告が詩になる為にはそれぞれの条件が備はらねばなるまい。
 この場合にはそれは何であらうか。
 作者はこの日伊予と阿波との国境を目指して車を駆つた。
 そんな経験はめつたにないことである。
 之が一つ。
 その国境は四国第一の大河吉野川が源を発して南向する地点である。
 之が一つ。
 しかもその谿流には橋がかかつてゐて、それを渡れば現に阿波の国である。
 之が一つ。
 時は何物をも美化しなければやまない、しかも淋しい感じも伴ふ秋の夕暮である。
 之が一つ。
 作者はその橋桁の上を現に踏んでゐる。
 この時こんなことの出来るのは日本人中唯数人に過ぎない。
 之が一つ。
 以上の条件が具つて初めて詩になつたわけである。
 仇やおろそかには出来ない。

  毒草と教へ給へど我が死なぬ
間は未だそのあかしなし

 無論象徴詩である。
 そんな考へは美しいがいけないことで身を亡ぼす基であると、世の賢人達は教へて下さるが、私は承服出来ない、私の死なない間はさういふ証拠はありません。
 思想の代りに感情を持つて来て賢人の代りに平凡な恋人をして云はしめてもそれでもよい。

  讃岐路のあやの松山白峰に
君ましませばあやにかしこし

 この歌の下に流れてゐる感じは、前にあげた圓位と順徳院の真野の山陵の場合と全く同一で五百年を隔てて古への薄幸な帝王を忍ぶ悲壮ではあるが冷静な心持である。
 さればその感じも自らあらはれてその調子の高いこと、前の歌にも劣らない。
 あやの松山は崇徳院の流され給ふた所、又山陵の存在地でもあつた。保元物語に
 浜千鳥あとは都に通へども
身は松山に音をのみぞ泣く
 といふ御歌がありその頂を白峰といふらしい。
 あやは阿野又は繞で郡の名、そのあやにあやにかしこしのあやを引かけ、ここに寛先生の短歌革新運動以来追放されて久しいかけ言葉が復活した次第である。
 しかも大真面目に壮重に復活したのであつて、かけ言葉もここ迄来れば立派な音楽でもある。

  春につぎ夏来ると云ふ暇無さ
黒髪乱し男と語る

 晶子さんの秀歌の中には、同じ程の本分のある人なら作れさうな歌も少くはない。
 しかしこの歌に限つて晶子さんでなければ出来ない。
 私はさう思つてこの歌をよむのであるが、理由はよく説明が出来ない。
 或は作者の俤が裸で躍る様な感じが四五両句に感ぜられる、その為かも知れない。
 一首の意は恋愛三昧に日もこれ足りないのであらうが、ヰインの女のそれのやうに心易いものでなく、相当深刻なものであることは黒髪乱しが語つてゐる。

  雲遊ぶ空と小島のある海と
二つに分けて見るべくもなし

 秋の空が海に映り、海の青が空に映る瀬戸内の風光を、空には雲を遊ばせ、海には島を浮せ各その所を得しめた儘、之を併せて帰一させ、二にして一の実相として彷彿させる大手腕の歌だ。

  隣り住む南蛮寺の鐘の音に
涙の落つる春の夕暮

 暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて暮された事があつた。
 その時の歌。
 これは秋の夕暮ではいけないので、又夏や冬ではなほいけない、春でなければならないことは少しく歌を解するものなら分るであらう。
 唯私は涙を盛つた袋のやうな人であつたことを斯ういふ歌を読んで思ひ出す。
 涙が出ることを泣くといふならば一生泣き暮した人でもあつた。
 それは併し最も自然に立琴が風に鳴るやうなものであつた。

  渓に咲くをとこへしぞと我が云へど
信ぜぬ人を秋風の打つ

 歌の一面には、その相が特殊化されればされるほど段々価値の高まつてゆく一面がある。
 他面にはその反対の場合もあり、天地創造にも比すべき茫漠たる美が存在する、晶子さんの場合は、その両面とも人の行かれない極限迄行つて居る。
 それだからこそ秀歌が多いわけでもある。
 この歌には第一の場合の恐ろしい特殊面が出て居る。
 これは上州の奥の法師温泉――高村光太郎君によつて我々の間に紹介された古風な炭酸泉――に滞在中一日赤谷川の渓谷伝ひに三国峠へ登つたことがあつた。
 その途での出来事。
 見なれない花が咲いて居るのを、作者は、これは女郎花の一種で、渓に咲くをとこへしといふものだと教へた。
 それを聴いた人がそんな変な話があらうかといふ様な顔をした。
 作者は本草にはとても詳しいので決してでたらめは云はない、それに信じないとは怪しからんと思つた途端に秋風が吹いて来てその人の頬を打つた。
 残暑の酷しい折とて快い限りであつた、それをいい気味だ、人のいふことを信じない罰だと戯れたのである。
 何と細かい場面ではないか、これだけの特殊相がこの一首に盛られてゐるのである。
 凡庸の作家の企て及ぶ所でないことがこれで御分りであらう。

  人の世にまた無しといふそこばくの
時の中なる君と己れと

 貴方も私も未だ若いのですよ、若い時は人生に二度とないといふではありませんか、しかしその時は余り長くはありません、私達は今その貴重な時の中に起居してゐます、思ひの儘に振舞つて能率をあげませう。

  その下を三国へ上る人通ひ
汗取りどもを乾す屋廊かな

 法師温泉は川原に涌くのを其の儘囲つたもので、主屋は放れた小高い処に建てられて居り、其の間が長い廊でつながり、廊について三国街道が走つてゐる、廊には昨日三国へ上つた婦人客の汗取りがずらつと干してある、その下を三国を経て越後へ通ふ旅人が通るのである。
 これも山の温泉の特殊相である。

  恋人の逢ふが短き夜となりぬ
茴香の花橘の花

 橘が咲き茴香が咲き夏が来た、短い夜はいよいよ短くなつた、たまの逢瀬を楽しむ恋人達には気の毒だが、せめては暗にも著しいこれらの茴香の匂ひ、橘の匂ひでも嗅がせたい。

  山涼し少し蓮葉に裾あげて
赤土坂を踏める夕立

 赤土の坂道に山の夕立の降る光景である。
 さつと来てさつとあがる女の様な夕立だ。
 蓮葉に少し裾をかかげて赤土の坂を上つて行く。
 お蔭で涼しくなつたといふのであるが、夕立が赤土の坂に当つて泥がはね返り、もし人が通つてゐたら裾をよごしさうなので、それを避ける気持が動いて、「少し蓮葉に裾あげて」となつたものでもあらうか。
 兎に角さういふ場合の夕立の心持がよく出て居る。

  一人はなほよし物を思へるが
二人あるより悲しきはなし

 この歌も既にクラシツクとして登録されてゐるものではないか。
 一人で物を思ふさへ辛いことだがなほ忍ぶべし、それを二人して同時に物を思ふとは何といふ悲しいことだ。
 斯う私が書き流してさへ面白いのであるから、外国語にも翻訳出来る。

  こころみに都女を誘へりと
霧のいふべき山の様かな

 昭和六年九月の法師温泉吟行には夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんと四人の派手な都女が加はつて、当時電灯さへ点かなかつた奥山を驚かした。
 しかし霧の方から云へば逆で、都女を誘つたのは自分で、けふはどんな反応があるか一つためして見るのだ、きつと驚くに違ひないと云ひたさうに山を降りて来たのである。

  限りなく思はるゝ日の隣なる
物足らぬ日の我を見に来

 これはもとより女から来た誘ひの手紙である。
 どういふ場合に来たものか、受取つた男になつて考へてごらんなさい。
 随分難渋な文句だから一つ分離して見よう。[#「。」は底本では欠落]
 限りなく思はれる日即ち大満足の日の次に物足らぬ日のあるのはよく分る。
 その物足らぬ日に来いといふなら、その前日も来てゐたのであるから、結果は毎日来いといふことになる。
 何だつまらない。
 毎日来いならさう云へばよいのに、こんな廻りくどいことをいふのは如何いふ訳だ。
 その答がこの歌である。

  蟋蟀の告ぐる心を露台にて
旅の女が過たず聞く

 昭和六年八月六甲山上の天海菴に泊した時の作。
 山の上は既に秋で蟋蟀が鳴いてゐる、その訴へが旅の女にはよく分る、分りすぎる位よく分る。
 しかしその訴へが何であるかを歌は語らない。
 読者自ら聞いて知るべきであらう。

  脚下あしもとの簪君に拾はせぬ
窗には海の燐光の照る

 海に臨むホテルのサロンで起つた極めて小さい出来事ではあるが、それが詩人に拾はれ不朽化されて音楽になる、さうするとこの歌になるのである。
 どうした拍子か簪が落ちた。
 それを男が拾つて差し出した。
 女はそれを受け取つて髪にさした。
 さうして窗から首を出して海を見た。
 海には燐光が燃えてゐた。
 しまりのない口語詩に直すとこんな風になる。

  生田川白く長きと炎天と
相も向ひて何となるべき

 万葉の頃の生田川は少しは水も流れてゐたらうに、今見るそれは一本の長い白い沙の帯に過ぎない。
 それが夏の炎天の下で乾き切つて居る。
 この儘ではどうにもなりさうにない、その名の様に川などには断じてなれさうもないが、それでよいのであらうかとあやしむ心であらう。
 炎天下の生田川は私も知つてゐるが、これ以上何と歌へよう。

  宿世をば敢て憎まず我涙
いと快く涌き出づる日は

 作者は仏教の因果観を信ずるものでないだらうから、現在が宿世の結果だなどとは思ふまい。
 ここで宿世といふのは従来の観念を借りただけで、ただ現状をといふほどの意味であらう。
 こんなに気持よく泣ける日はない。
 こんなことなら辛い悲しいと思ひ勝ちであつた現在の境遇も憎むには当らない気がして来た。
 果然快い涙も流れるのである。

  教坊の楽がくと脂粉の香のまじる
夏の夕に会へるものかな

 昭和八年八月高野山の夏期大学の講義を終へた夫妻は大阪へ出て然る人の饗宴に列した、南地宗右衛門町の富田屋らしい。
 教坊の楽は芸者楽の支那名である。
 涼しい結界即ちいとも神聖な山から降りて来て暑い大阪の夏の夕に出会はした。
 しかもその夕たるや教坊楽とべにおしろいの交錯したいとも賑やかな華やかな夕で、我が上ながら急激な変化に驚く。
 歌によると当夜の板書中には艶千代、里榮、里葉、玉勇などの名が見える。

  よそごとに涙零れぬある時の
ありのすさびに引合せつつ

 涙の多い作者のことであれば、自分には何の関りもないよそごとにも涙が零れたのであらう。
 別にいつの場合かに起つたひよつとした出来事を思ひ出すにも当るまいと思ふが、なぜかと反問すれば自分にもそれに似た些事があつたのだといふ訳なのであらう。

  宝蔵の窗の明りの覚束な
鳥羽の后の難阿含経

 高野山のムゼウムの覚束ない照明をそしり、鳥羽院の皇后が難阿含経を手写し、高野に収めたものなども陳列されてゐるが、いかにも暗くて字体の鑑賞も出来ないと訴へるのである。
 高野山では親王院に宿られ沢山歌をよまれてゐるが余りよいのはない。

  一人寐て雁を聴くかな味わろき
宵の食事の幾時の後

 一人寝の所在なさに聴き耳を立てると雁の声が聴こえて来た。
 それにしても晩の食事のまづかつたこと。
 夫婦生活十年の後に到達した境地である。
 昔は秋になれば東京の空にも雁の声が聞こえたのである。

  亡き人の札幌と云ふ心にて
降りし駅とも人に知らるな

 この亡き人は有島武郎さんのことで有島さんは札幌出でもあり、又ここの大きな耕地を相続されたのを小作人に無償で分配して処分されたこともある。
 そこで亡き人の札幌となる。
 武郎さんと晶子さんとは暫時ではあつたが心と心と相照した間柄で、無言の恋をお互に感じつつそれも相当の程度に昂じたが遂に発せずに武郎さんは死んでしまつたのであつた。
 これは寛先生もよく知つてゐた事実である。
 併し人が誤解しないとも限らないから「人に知らるな」と断つたのである。
 しかし又面白さうにわざわざ人に吹聴してゐる気味もなくはない。

  少女子の心乱してあるさまを
萩芒とも侮りて見よ

 ひどいめに会はせますからといふ続きが略してあるらしい。

  夜の十時ホテルに帰り思へらく
錦の如し函館の船

 人の少い北海道を旅しつづけ今帰らうとしてホテルから見れば連絡船に美しき灯が這入つて居て錦の感じだ。
 ぱつと明るい感じが読者にも感ぜられる。

  もの恐れせずと漸く思ふ日は
生みし娘の髪尺を過ぐ

 作者も漸く長じて物恐れをしない自信が出来て来た。
 それも道理、娘の髪の長さが一尺以上にも達してゐるのだから。
 女が一人前の人間になつたといふ感じと、少し盛りを過ぎたなといふ感じとが接続してゐる心持でもあらうか。

  海峡の船に又あり五月より
六月となり帰り路となり

 青函連絡船の歌で棄て難い趣きはあるが、無意識に踏んだ韻が一面音楽的効果をあげてゐるせゐでもあらう。
 即ち第二句以下にりの音が五つも踏まれてゐる。

  君未だ大殿籠りいますらん
鶯来啼く我は文書く

 しやれのめした歌である。
 作者も漸く成長してこれ許りの余裕が出来たわけだ。

  爪哇のサラ印度のサボテ幸ひも:
斯くの如くに海越えて来よ

 人間は四六時中、意識するかしないかの違ひはあるが、幸ひを求めて居る。
 生きるとは幸ひを求めることでもある。
 しかし之を得るものは少い。
 しかしもし幸ひが爪哇のサラサのやうに印度のサボテンの様に海を渡つて向うから遺つてくるものだつたらどうだらう。
 そんな幸ひが私の家へも来ないかしらといふので、こんな愉快な想像も類が少いが、サラサやサボテンと幸ひを並べたのも等しくサの頭韻を頂くものではあるが突飛で面白い。

  髪乱し人来て泣きぬうらがなし
豆の巻き髭黄に枯るゝ頃

 女友達が訴へに来たが、心の乱れが髪の乱れにもあらはれて、しきりに泣くので私も悲しくなつた。
 初夏の庭にはスヰイトピイの花が終つて、巻髭が黄色に枯れかかつてゐる、それも寂しい光景だ。

  ホテルなる小松の垣よ嵐など
防がんとせで逃げてこよかし

 逗子の渚ホテルらしい光景である。
 葉山へ行つてひどい嵐にあはれた時の歌の一つ。
 この歌位作者を見る様にはつきりあらはしてゐるものも少からうと思はれるので引いて見たが、外境に対する作者にはいつも同じ心が動いてゐるのである。

  夏の夜は馬車して君に逢ひにきぬ
無官の人の娘なれども

 明治末年の頃の華族女学校出の令嬢なにがしの上であらう、極めて稀な例ではあるが日本開明史上の一風俗たることを失はない。
 歌も極めて気持よく出来てゐて階級意識など余り挑発もしないやうである。

  阿修羅在大海辺と云ふことも
思ふ長者が崎の雨かな

 現今の趨勢を以て進むならば或は日本語もその内ロオマ字で記される時期が来ないとも測られない。
 これから歌でも作る人はその覚悟も多少は持ち合す必要があるかも知れない。
 その意味は耳から聴いただけで分る歌でなければ将来性はないといふことである。
 新聞記事のやうな一日の生命しかない歌ならとにかく、日本語の亡びぬ限り永久に伝はるやうな立派な歌を作る場合には一考を煩はして置きたい。
 御経にあるやうな文句が浮んで来たるべき所だといふ春だといふのに長者が崎から逗子の海を吹き捲くる嵐の様を見て居ると印度神話にある阿修羅が荒れてゐるやうだ。
 さう思ふと阿修羅在大海辺といふ文句が浮んで御経の中の光景になる。
 字を見れば意味が分つてとても面白い歌であるが、これをロオマ字で写したら如何であらう、註釈をつけなければ単に音楽的に耳に快い感じを与へるだけで止んでしまふわけだ。
 ロオマ字問題は私達が若い時から考へ続けて来たものであるがいよいよ本気に考へ且つ実行に移す時期が近づいたやうだ。
 平家有王島下の条に諸阿修羅等故在大海辺といふ御経の文句が引いてある。

  軒近く青木の茂る心地よさ
そのごと子等の丈伸びてゆく

 いつもみづみづしい大きな葉を拡げて四時変ることなく真赤な頬つぺたのやうな色の実さへ一杯つけてゐる青木は成るほどさういはれて見ると、どんどん背の伸びて育ちゆく子供達を象徴するものの様に思はれる、私達凡人は詩人に教へられて初めてさういふことが分るのである。

  大山寺笹の幾葉の隠岐見えて
伯耆の海の美くしきかな

 昭和五年五月山陰に遊ばれた時の作。
 大山寺から見た光景。
 絵の様に眼前に展開する。
 洵に申し分のない歌ひ様で、折から端午の節句で笹で包んだ粽でも出たのであらうか、熊笹でもその辺りに繁つてゐたのであらうか、そんな縁で笹の葉が出たのであらうが初夏らしい趣きが現はれる。

  三十路をば越していよいよ自らの
愛づべきを知り黒髪を梳く

 若い女が年をとるに従ひ少し宛若さの失はれてゆくのを感じて歎く心持は多く歌はれてゐるが、この歌の様に反対に三十を越えていよいよ人間としての我が貴さを感じ勢ひ込んで黒髪を梳くといふ様な例は余りあるまい。
 しかしそれがほんとうなのであつて人間はいつも現在を最上のものとして生きてゐるやうだ。
 現在を過去に比して歎く類は何れかといへば因習的な型にとらはれた感じなのではなからうか。
 それだからこの歌のやうに逆に現在を讃美する方に新らしさが生れるのである。

  普明院書院の障子匍ひあるく
大凡隠岐の島ほどの蟻

 やはり大山頂上にある御寺であらう、普明院の書院の障子を偶々大きな蟻が登つてゐた。
 先程から海中にぽつんと浮んでゐる隠岐の島が何とか歌ひたくて仕方がなかつた作者は、直ちにこの蟻を捕へてそれに結び付けて詩心を満足させたわけなのであらう。

  春の日の形は未だ変らずて
衰へ方の悲しみも知る

 単純に若いのでもない、衰へきつて若さが失はれてしまつたのでもない、その中間にあつて両者の相反した感じを同時に味はへる現在の環境を楽しむものでもあらうか。

  元弘の安養の宮ましたりし
御寺の檐に葺く菖蒲かな

 作者は読史家としても一隻眼を具へてゐて特に国史は大方誦じてゐた。
 諸処を吟行する場合もそれが史蹟でさへあれば必ず詠史の作を残してゐる。
 元弘は後醍醐天皇の年号であるから安養の宮はその皇女でもあらうか。
 安養寺に居られた故の御名であらう。
 その安養寺へ来て見ると、折も折端午の節に当つて古風に檐に菖蒲が葺かれてゐた。
 それが、史蹟であるだけ一層趣き深く見えたのである。
 同じ時の歌に 安養寺歯形の栗を比たぐひなき貴女の形見に数へずもがな といふのもあり、又山の雪を見ては隠岐から還幸された天皇を偲んで 御厨の浜より上りましたりし貴人の如き山の雪かな とも詠まれてゐる。

  五人は育み難し斯く云ひて
肩の繁凝しこりの泣く夜となりぬ

 五人目の子の生れた頃の作。
 太陽へ鏡影録を書いたり、色々の新訳物を出したり一家の経済は殆ど夫人の手一つで切り盛りされてゐたらしい。
 その余憤の洩らされた歌で、溜息のやうなものである。
 しかしそれにも拘らず事実は十一人の子女が見事に育て上げられたのである。

  自らを五月の山の精としも
思ふ卯つ木は思はせておけ

 毒うつぎともいはれる卯つ木が紅白とりどりに初夏の山に咲き誇る勢ひは大したもので、藤にしろ躑躅にしろ蹴押され気味である。
 而して我こそ五月の山の精であると自負して居るらしいがそれもよからう、勝手に思はせて置くがよい。
 大してえらくもない連中の威張つて居る世相が同時に象徴されても居るやうだ。

  天地のものの紛れに生れにし
かたは娘の人恨む歌

 人並はづれた才分をたまたま持たされて生れて来た許りに、人並はづれた恋もし人を恨む歌を読むことにもなつたといふ述懐で、かたは娘は反語であらう。

  蜂蜜の青める玻璃の器より
初秋来りきりぎりす啼く

 所謂近代感覚による象徴詩で、ある時期に作者も試みたがその数は多くない。
 今後短歌もこの方向に進む余地が大にありさうだ。
 この歌のきりぎりすは蟋蟀の古語でなく、今の青い大きいきりぎりすとすべきでそれでなくては近代感と合はない。

  高々と山の続くはめでたけれ
海さばかりに波立つべしや

 丹後与謝の大江山辺の景色。
 ここからは下に橋立浜の絶景も見える。
 両者を見較べて山の高きを称へ同時に海は平らな海としてその美を存する趣きである。

  都をば泥海となしわが子等に
気管支炎を送る秋雨

 今日の東京も滅茶滅茶にこはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京の道路と来たらお話にもなにもあつたものではなかつた。
 外国の記者が之を評して潜航艇に乗つて黄海を行くが如しと言つた。
 靴など半分位もぐつてしまつたからである。
 この歌を読むと当時が思ひ出され歴史的意義も少くない。

  落葉よりいささか起る夕風の
誘ふ涙は人見ずもがな

 銀杏や欅の落葉の美しく地に散り敷いた処へ夕風が起つてさつと舞ひ上つた。
 それを見て何の訳もなく涙が出て来た。
 悲しんででも居る様に人は思ふだらうから見られないやうにしよう。
 これも悲しくない涙の例。

  嬉しさは君に覚えぬ悲しさは
昔の昔誰やらに得し

 誰やらとは誰の事だらう。
 嬉しさの与へ手はその昔、悲しさの与へ手ではなかつたか。
 その覚えなしとは云はさぬといふほどの寸法であらう。

  春霞何よりなるぞ桃桜
瀬戸の万戸の陶器の窯

 昭和四年四月尾張の瀬戸に遊んだ時の作。
 春霞とは一体何か。
 私は知つてゐる。
 それは桃の花から立ち登るガス、桜の花から立ち昇るガス、葉もあらうかと思はれる焼物窯から立ち昇るガス、さういふものの合成したものがこの町の上に棚曳いてゐる春霞である。

  相寄りてものの哀れを語りつと
仄かに覚ゆそのかみのこと

 そもそもの逢ひ初めはどんな風であつたか。
 私はかすかに思ひ出すが、近く寄つて物の哀れを語り合つただけである。
 それが如何であらう、けふのこの二人の中は。

  光悦の喫茶の則に従ひて
散る桜とも思ひけるかな

 鷹が峰の光悦家を尋ねた折、折から満開の桜の散るのを見て光悦の御茶の規則に従つて散るものと思つたのである。
 これが晶子さんの見方で他人の決して見ることの出来ない見方である。

  三月見ぬ恋しき人と寝ねながら
我が云ふことは作りごとめく

 前に
 君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ
思はぬことも云ふあまつさへ
 といふのを説いたが、それは若い恋の場合であつた。
 今度のこの歌は夫婦生活長い後のものであるが、会話に平板を破らうと労力してゐる跡が見え興味が深い。

  青春の鬼に再び守らるる
禁獄の身となるよしもがな

 若き日の夢を再び追ひたい心持ではあるが、鬼といひ禁獄といふ恐ろしい言葉の使つてあるのは意味がある。
 年をとつて酸いも甘いも噛み分けた今は大した欲望とてもない謂はば自由の身である。
 それから見ると強烈な内の促しの支配する若い頃は、青春鬼とでもいふ獄卒の見張りをする獄中にゐるに等しいが、それがも一度さういふ目にあつて見たいのである。

  男をば日輪の炉に灸るやと
一時ひととき磯に待てばむづかる

 鎌倉の様な海浜の夏の逢引で、少し待たされた男の言ひ分で面白い。
 しかし日本の海の夏の沙はまさにこの通りで誇張でも何でもない。
 であるからむづかるのでもある。

  我は泣くこれをば恋の黄昏の
景色と見做す人もあらまし

 今私は泣いてゐる。
 これを見る人は私の恋もいよいよ終りに近く正に黄昏の景色だと思ふ人もあらう、さうでもないのだが。
 斯んな風に直き泣く様ではさうなのかも知れない。

  後ろより危しと云ふ老の我れ
走らんとするいと若き我

 青春と老熟の入り交つて平衡状態を保つ三十過ぎの心の在り方は恐らくこんなものであらうかなれど、何しろ三十年も前の事だから私自身は忘れてしまつて何とも云へない。

  三角帆墨の気多き海に居て
片割月にならんとすらん

 武蔵の金沢に遊んだ時、夕暮に小高い丘に登つて海を見た景色、私も一しよに見たのでよく知つてゐる。
 少し暗くなつた海面に小ヨツトの三角帆がたつた。
 一つ浮いてゐた。
 私もそれを詠んだ筈だ。
 夫人は何と詠むだらうと興味を以て臨んだが遂にこの歌になつた。
 その第一印象の的確にして過らざるに感心したことがあるが、今取り出して見ても浮き出すやうに鮮やかな印象を受け取る。

  髪未だ黄ばまず心火の如し
悲みて聴く喜びて観る

 三十を越えたといふ自覚はあつても髪はまだ黄色にはなつてゐない、火の様な心はその目の様に燃えてゐる。
 人の話をきくにも悲しい話は涙を流して聴き、面白い芝居は心を躍らして見ることが出来る。
 私はまだ若いのだ。

  凋落は我が身の上になりぬると
云ひ過ぎすなり思はざること

 今思ひ出して見ると何と云ひ過ぎの多かつたことよ。
 私の如きもいひ過ぎ許りして居た様だ。
 夫人も相当云ひ過ぎがあつた。
 それに気がついた歌である、いよいよ私の凋落する番が来たなど思ひもしないことをつひ云つてしまつた。
 しかし潜在意識にそんなことがあつて出て来たのかも知れない。
 さうとすればうそでもないのだ、言ひ過ぎだとするのは自ら欺くものである。
 何だかそんな裏の意味もありさうだ。

  紅の海髪おごのりの房するすると
指を滑りぬ春の夜の月

 すこし霞んだ春の夜の月の昇つてくるのを見るとあのぬらぬらする紅い海髪の房がするすると指の間をすり抜ける感触だ。
 暖かい風の吹いて居る静かな海岸の岩の間に顔を出す人魚、近代人の感触は例へば斯ういふ媒介者があつて感ぜられるとも云へる。

  何時となく思ひ上がれる我ならん
君も仇も憎からぬかな

 人間も漸く成熟すると斯ういふ境地に立つ、即ち恩讐一等の境地である。
 それをさうといはずに殊更に卑下して思ひ上がれるといつたのであらう。

  恋もせじ人の恨みも負はじなど
唯事として思ひし昔

 私は少女の頃から色々の古典も新作も読んで恋の葛藤の悲しさ痛ましさ浅ましさ恐ろしさを十分知るにつけ、私は恋などはしない、人の恨みも受けまいと簡単に考へてゐたのであつた。
 それだのに如何だらう。
 人の恨みを受けるやうな人並はづれた危い恋をしてしまつた、恋を知らない少女心はそんなものでしかない。

  島の雨紅襷して樫立の
若衆が出でて来る時も降る

 八丈島へ遊びに行つた時、偶々大賀郷の広場で樫立部落の若衆によつて八丈音頭の踊られるのに出会つた。
 その時は夏の暑い日盛りであつたが、一年二百五十日は降るといふ島の雨が折しも夕立となつて降り出した。
 それがをかしかつたのである。

  仄白き靄の中なる苜蓿うまごやし
人踏む頃の明方の夢

 私は今明方の夢を見てゐる。
 今頃は仄白い大方脚気を直したい人達が靄を分けつつ柔い苜蓿の上をはだしで踏んでゐる頃であらう、それもよし、わが快い夢もよい。

  芝山を桐ある方へ下りて行く
女犬ころ初夏の風

 山本さんの野方の九如園で歌会が開かれた事がある。
 五月牡丹未だ散らず、空には桐の花の咲く日であつた。
 その匂ひをしたつて芝山を婦人客と犬と微風とが降りてゆくのである。

  漸くに思ひ当れる事ありや
斯く物を問ふ秋の夕風

 昔から秋風を歌つた歌は大変な数に達するだらうが、さて余りよい歌はない。最初のものは額田の女王の
 君待つと吾が恋ひをれば吾が宿の
簾動かし秋の風吹く
 で之はよろしい。万葉はこれ一首。
 次は一足飛びに源重光に来る。
  荻の葉に吹く秋風を忘れつつ
恋しき人の来るかとぞ思ふ
 以上二首は積極的であるが、以下は凡て消極的になる。源道濟のは
 思ひかね別れし野辺を来て見れば
浅茅が原に秋風ぞ吹く
 西行からは典型性を帯びて来る。
  荻の葉を吹き棄てて行く風の
音に心乱るゝ秋の夕暮
 後鳥羽院のは一段とすぐれてゐる。
  あはれ昔いかなる野辺の草葉より
かかる秋風吹きはじめけん
 家隆にも一首あり
 浅茅原秋風吹きぬあはれまた
いかに心のあらんとすらん
 伏見院のは
 我も悲し草木も心痛むらし
秋風触れて露下る頃
 永福門院のは
 夕暮の庭すさまじき秋風に
桐の葉落ちてむら雨ぞ降る
 で之は少し趣きが違ひ風も荒く村雨も降る場合だが、その他は大抵似よつた心持が歌はれて居て日本の秋風がどんなものであるかは大体推定される。
 以上あげたのは秋風中の秀歌で、あとの何千首かは凡て風の様に吹かせて置けばよいので問題とするに足りない。
 さて之等に比較する時いかにこの歌が特殊面をもつた近代的のものであるかが分るであらう。
 この場合の近代性は分化を意味するのである。

  桃浦に古船待てり乗るべきか
いかに鹿島の事触もなし

 いかにで切る。
 鹿島の事触れとは、正月の行事の一つ、鹿島大明神の神話と称し神主姿の男が襟に御幣をさし銅拍子を鳴らして年の豊凶、吉凶を触れ歩いたものださうである。
 この歌は昭和六年二月筑波山へ登り霞が浦を渡つて鹿島へ参詣された時の歌。
 「桃浦」は土浦の前の入江の名であらう。
 さて船へ乗らうとするとその待つて居る汽船がいかにも古いぼろ船でとても遥か彼方の潮来までは行けさうもなく途中でこはれてしまひさうに見える。
 さあ乗るべきか止めるべきか、せめてこれから詣らうとする鹿島の神の事触れでもあれば心が極るのに、その前触れもなく困つてしまふといふのである。
 鹿島の事触れなどいふ古い行事を知つて居てその場所に生かして使はれたこと、これなども他人の企て及ばぬ所である。

  生れ来て一万日の日を見つつ
なほ自らを頼みかねつも

「一万日」は三十年弱に当るが、三十年と云つたのではこの場合歌にならない。
 観音様の縁日に四万八千日といふのがあつて珍しく日を以て年を数へてゐるがこんな例は多くはない。
 多くない例を用ひるから歌が成立するので、この場合は万といふ大きな数が歌を動かす動力となつてゐるわけである。

  衰へし身とは夢にも思はれず
苦しき毒を服しけるかな

 もし少しでも自らの衰へを感じてゐたなら、こんな苦しい毒は呑むのでなかつた。
 自分の既に若くないことに気づかず、衰へたなどとは夢にも思つてゐなかつたことの罪である。
 毒は恋で、中年女の悩みを歌つたものであらう。

  不可思議は天に二日のあるよりも
我が体に鳴る三つの心臓

 先に七瀬八峰の二女を双胎として生んだ体験から今度もきつとさうだと思ひ込まれて作られた歌である。
 この時は余程心を悩まされたものと見え この度は命危ふし母を焼く迦具土二人我が胎に居る とも作られてゐる。

  雑草は千万行の文章も
人に読まれずうら枯れにけり

 これは独り雑草の運命である許りでなく、数十億の人類の運命であり、又一切万有の辿る途でもある。
 唯誰も思ひ到らないだけだ。
 作者はよくこの事に気づいた。
 作者の如きは雑草の書く千万行の文章の内の数十行数百行は読み得たものであらう。

  悪竜となりて苦しみ猪となりて
啼かずば人の生み難きかな

 産科の近江湖雄三博士を感憤せしめた歌で、同博士が独逸から無痛安産法を携へて帰朝されたのもこれに本づくのである。
 夫人も一囘体験されて好結果を得られた。
 しかし時代が早かつたと見えこの方法はいつの間にか我が国からその影を絶つたが、この頃の米国辺の空気から察すると大に将来性がありさうで、しまひにはお産の苦痛も昔語りになる時がありさうにも見える。
 さういふ苦しいことも晶子さん以前には誰も本気に歌はうとしなかつたやうで、その事が反つて驚くべきことなのではないか。

  さらさらと土間の中にも三鷹川
浅く流るる島田屋の秋

 武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。
 まだバスなどのない時分で、境から歩いて行つたのである。
 深大寺は余程古い寺でもあり、その環境もよかつた。
 当時は人も行かず、ゆつくり秋の心を楽しませることが出来た。
 島田屋はその門前にある農家の兼ねた蕎麦屋で手打ち蕎麦を食べさせたさうである、先生達はよくそこへ行かれた。
 一度歌会を開かうといふ話もあつたが当時交通が不便だつたので之は実現されなかつた。
 その大きな構への家の中を、直ぐこの境内に湧き出た許りの水量の頗る豊富な三鷹川――作者の命名ではないか――が流れてゐる光景である。
 再び島田屋の蕎麦の食べられる日がいつ廻つて来ることだらう。
 又同じ時の歌に 紫の幕の草を掛け渡す小家に廻る水車かな といふのもある。
 斯ういふあか抜けのした写生の歌は誰にもは出来ない。

  母として女人の身をば裂ける血に
清まらぬ世はあらじとぞ思ふ

 女人の母としての一面をその出発点に於て規定するものであるが、これほどの事さへ晶子さん以前には考へる人がなかつたのではなからうか。

  思へらく千戸の封は得ずもあれ
梅見ん窗を一つ持たまし

 作者は私などに比すればその志は極めて大きかつた。
 千戸の封といふ如き言葉の出て来るのがそれを証明してゐる。
 私も同じあこがれを持つてゐたので、この歌の気持が実によく分つた。
 しかし志の小さい私にはこんな歌は出来なかつた。
 私は作者の晩年、機縁熟して伊東に小菴を結び尚文亭と名づけ、日夕海を見て暮すことが出来るやうになつた。
 そこで如何かして作者をそこへ移したかつたのであるが、既にして遅過ぎた、又遠過ぎることになつてしまつた。
 移動は上野原が最大限であつた。
 その事を私は今でも残念に思つてゐる。

  雲渡る多くの人に覗かれて
早書をする文の如くに

 斯ういふ早書きの体験は誰にもあらう、又なくとも容易に想像出来る。
 けれどもそれを歌材とすること更にそれを雲の運動と結び付けることなど決して出来ることではない。
 千態万状測り知られぬ雲の運動もその一つの相がこれで正確に固定されたわけである。

  事もなく鎌倉を経て逗子に著き
斯くぞつぶやく「昔は昔」

 暫く別居して鎌倉に住んだことがあつた。
 あの時はひどかつた。
 今日は事もなく鎌倉を通り過ぎて逗子に著いた。
 それが少し変にも思はれる。
 そこで昔は昔、今は今別にをかしくはないのだと自分に云つてきかせたといふのであらうか。

  あながちに忍びて書きし跡見れば
我が文ながら涙こぼるゝ

 親のもとに居た頃の昔の手紙が、探し物をしてゐると思ひがけなく出て来た。
 試みに読んで見ると無理をして人にかくれて書いた様子がはつきり出てゐて、その頃のことが思ひ出され涙がぽろぽろ落ちて来た。

  風起り藤紫の波動く
春の初めの片山津かな

 昭和六年一月、北陸吟行の途上、片山津温泉に泊した時の作。
 私はその地を知らないので何とも云へないが、いかにも春の初めらしい気持のよい出来なので幾度か朗誦してあきることがない。

  めでたきもいみじきことも知りながら
君とあらんと思ふ欲勝つ

 斯うすれば富貴も得られ幸福も得られるといふ途を私はよく知つてゐる。
 それにも拘らず、あなたと一しよに居たいと思ふ欲の方が勝つて貧しい暮しを続けてゆくのです。
 大欲は無欲に似たりでせうか。

  入海を囲む岬と島島が
一つより無き櫓の音を聞く

 能登の和倉温泉での作。
 この歌の中には実際櫓の音がしてゐるやうだ。
 印象もこの位はつきり出ると神に近い。
 この時の作も一つ、 海見れば淋し出島の和倉にて北陸道の尽くるならねど 寒い一月の北の入海の心持がよく出て居る歌である。

  腹立ちて炭撤き散らす三つの子を
為すに任せて鶯を聞く

 鴎外先生は決して子女を叱らなかつたさうであるが、晶子さんもまたさうであつたらしい。
 その面目がこの歌に躍如としてあらはれてゐる。
 鶯を聞くといふからもうこの頃は中六番町に移られてゐたことであらう。

  わが踏みて落葉鳴るなり恋人の
聞く音ならばをかしからまし

 昭和四年頃の作で作者五十二歳、血のにじむ様な猛修行をした後に恋を卒業した作者が昔を忘れず今の恋人に聞かせたい様な趣きの見える面白い歌である。
 さうして若い恋人が聞いたら、この落葉を踏む音が天にも昇るやうに響くかも知れないと思ふのである。

  吉原の火事の明りを人あまた
見る夜の町の青柳の枝

 余り繁華な町とは思はれないが青柳の枝は柳の並木らしいので六番町ではないかも知れない。
 その頃吉原に大火があつて全部焼けてしまつたことがあつたが、その時の歌であらう。
 火事を直接詠ぜず、青柳の枝を表に出して悲惨事は之を人の想像に任せる、悪に堪へぬ作者の手法であるが、印象は相当はつきり出てゐる。

  由紀の殿主基の宮居に夜を籠めて
祈り給ふも国民の為め

 昭和の御時の大嘗会の歌である。
 作者は色々の場合に歌を作つた。
 作らせられた場合の方が恐らく多かつたであらうが、さういふ中によい歌はやはり殆どない。
 しかしこの今上御即位の時のものには相当よいのがある。
 それは何といつても今上の人並の人主でないことに本づくものであらう。
 この歌なども真に作者がさう感じて作つて居るので、月並のやうで生命が籠つてゐる。

  何事に思ひ入りたる白露ぞ
高き枝よりわななきて散る

 木の下を歩いてゐると上から朝露が落ちて襟に散りひやりと心を冷した。
 見上げると枝にはなほ露の玉がたまつてゐて今にも散りさうだ。
 それは丁度何事かに深く思ひ入つて慄えながら身を投げる形である。
 さう作者は感じたのであるが、さう云はれればいかにもそんな感じがしさうだ。

  秋風に白く靡けり山国の
浅間の王の頂きの髪

 軽井沢には何度か行かれたが、之は昭和五年頃の作である。
 浅間の煙が颯爽として秋風に靡く壮大な光景を抒し、道理なれそれは山の王の白髪であつたといふわけで、之亦一種の表現法ではあるが、余り屡々用ひない方がよいだらう。

  秋の夜の灯影に一人物縫へば
小さき虫の心地こそすれ

 自己の天分を信じて高く自ら評価し寛弘の女房達に比較されて嬉しいとも思はない才女も秋の夜の灯影で一人淋しく縫物をして居ると平生の矜誇などはどこへやらきりぎりすの様な小さい虫になつた感じである。

  暁に馬悲しめり白露の
厩の軒に散れるなるべし

 明方ふと目をさますと馬の嘶くのが聞こえる。
 その声が哀調を帯びてゐる。
 それはきつと秋の白露が木の枝から厩の軒に散りかかるのを見て物の哀れを感じたからであらう。
 ある時は万有の心を以て心とし、ある時はわが心を以て万有の心とする詩人でなくてはたとへ同情はしてもこの高さには至り得ない。
 これも軽井沢での作。

  鎌の刃の白く光ればきりぎりす
茅萱を去りて蓬生に啼く

 このきりぎりすも昼鳴く虫で、今でも玉川の土堤へ行けばこの光景が見られる。
 しかし見てもなかなか歌へる光景ではない。
 歌つても人が出て来て虫が主にならない。
 特に人を抜いて独り鎌の刃を躍らせて居る所が人の意表に出てそこに新鮮味が生れるのである。

  山の池濁る身ならば濁れかし
労ふ如し秋雨の中

 雲場の池に秋雨が降り込んで濁るに非ず澄むにあらず落ち付きのない池の面をいたづき労ふものの如く見て、濁るならいつそ濁つてしまへば安心が出来るのにと、女らしいデリケエトな感じを出してゐる歌。

  芝居より帰れば君が文著きぬ
我が世も楽し斯くの如くば

 見た所こんな楽しい明るい歌は晶子二万五千首中にも多く類を知らない。
 しかしほんとうは辛いきびしい人生にも一日位こんな日があつてもよからうといふ意味で思つた程楽しい歌ではないのかも知れない。

  霧積の霧の使と逢ふほどに
峠は秋の夕暮となる

 碓氷の坂を登つてゆくと霧の国霧積山から前触れのやうに霧がやつて来て明るかつた天地もいつしか秋の夕暮の景色になつてしまつた。

  飽くをもて恋の終りと思ひしに
この寂しさも恋の続きぞ

 私の恋は遂に達せられた、十分に堪能した、それ故そこで恋は終るものと考へてゐたのに、歓喜の後の悲哀らしい今の寂しさ、これも恋の続きで、少しも終つてはゐなかつたのであるといふわけだが、しかし之は言葉の綾であつて本来の目的は私は今寂しいのだと言ひ度いことにある。
 しかしそれだけでは歌にならないので前の文句を拈出したのである。

  曙をかつて知らざる裏山の
雑木林の夕月夜かな

 軽井沢の奥の三笠山邑の光景で、昼なほ暗い程繁り合つた雑木林の心を曙を一度も知らないといつたので、それによつて影の多い夕月夜の印象がくつきりと浮んで来るのである。

  相あるを天変諭し人さわぎ
君は泣く泣く海渡りけん

 寛先生が渡欧されたのは明治の末年のことで詩人の洋行した最初であり、当時としては相当思ひきつた壮挙であつた。
 日本の詩を世界的の標準にまで高めたい目的を以て行かれたのであつた。
 しかしそれでは面白くないので、恋に結び付け、自分達の恋は世間の批難を買つた許りか、天変まで起つて一所に居てはいけないと諭してゐる、そこでやむを得ず泣く泣く海を渡つて祖国を離れ私から遠ざかつたのであると斯う説明したわけであらう。

  大昔夏に雪降る日記など
読みて都を楽しめり我

 恋などはとうの昔に卒業し学者として静かに書斎に立籠り古書に親しむ作者の俤が其の儘出てゐる。
 日記は吾妻鏡などでもあらうか。

  海越えんいざや心にあらぬ日を
送らぬ人と我ならんため

 良人の跡を追つて渡欧せんと決心した頃の作で、これが晶子さんの一生を通じて持ち続けて変らなかつた処世哲学である。
 即ち心にもない日を送らぬことで、これが因習から解放されることにもなるのである。
 大抵の人は因習の囚となつて心にもない日を送つてあたら一生を無駄に過してしまふのに、独り、我が晶子さんは子の愛をさへ犠牲にして心に叶つた日送りをした。
 普通の日本婦人の何人分かの仕事を一人で、成し遂げたのはその精力が絶倫であつた許りではない、この心掛けがあつてそれを実行に移しえたからであつた。

  呉竹を南の隅に植ゑしより
片寄る春の夕風となる

 夫人の友人の一人で夫人の真価を最もよく了解する詩王高村光太郎君は白桜集の序で、「人知れぬかくれた著想の微妙」なことを挙げてゐるが、この歌などもその一例であらう。
 春の夕風が片寄つて吹くなどといふ妙想はいくら竹叢を横にしてでも誰も思ひつけるわざではない。

  同じ世の事とは何の端にさへ
思はれ難き日をも見るかな

 良人を渡欧させて一人留守をして見ると世の中は正に一変して、何事につけ同じ世の中とは思はれない様な日送りをすることになつた。
 今に至つてこんな思ひもしなければならぬのだらうか。

  茅が崎は引潮時に蛙鳴き
いかに都の恋しかりけん

 七瀬さんの良人即ち唯一人のお婿さんが茅が崎の別邸で若い身空で亡くなつた時之を悼んだ作であるが、その子を思ふ切々たる哀調は永く読むものの心を打たずには置かないであらう。

  その妻を云ひがひなしと憎みつつ
罵りつつも帰りこよかし

 一人留守をすることは最早堪へられない。
 子女養育の大責任を負ひながらその言ひがひなさは何事だと憎まれても罵られても構はない、それよりも帰つて貰ひたいのです。

  崩れたる牡丹昨日の夕風の
如何なりしかは我のみぞ知る

 崩れたる牡丹我のみぞ知ると続くのであらう。
 昨夕のあの風の恐ろしかつたこと、それはそのために崩れた牡丹の私丈が知つて居ることです。
 さういふ牡丹の述懐で、その調子に一抹の凄味が感ぜられる。

  十の子と一人の母と類ひなく
頼み交はすも君あらぬ為め

 何といふやさしい真情の溢れた歌であらう。
 私はこの歌を取つて、同じ様な子を持つ或は夫を失ひ、或は留守をする若い母親にすすめて日常口誦させたいと思ふ。
 彼女等はそれによつてどの位慰められることであらう。

  ゆくりなく流れ会ひたるものながら
沙にあらめと勿告藻なのりそと抱く

 これは鎌倉の海岸で作者が見賭した一静物を歌つたものではあるが、実は人生そのものの象徴で、あらゆる夫婦あらゆる恋仲はこのあらめとなのりそとに過ぎないのである。

  人の世の掟の上の善き事も
はたそれならぬ善き事もせん

 これは晶子さんの道徳標識ともいふべきで、正にこの通りのことを実行された。
 世の中でいふ善事は凡て之を行つた。
 しかし同時に世の中で必ずしもよしとしない善事を躊躇せずに行つた。
 女性解放の如き、男女共学の如き、敬語廃止の如き、死者尊重をやめその代りに生者尊重を力説する如き、御堂関白礼賛の如きその例は無数にあつて因習に囚はれた世人の大多数の肯ぜざる所を善事と信ずるが故に或は行ひ或は説いたのであつた。

  腰越へ向ふ車を見送りて
寂し話を海人の継げども

 昭和四年頃暫く鎌倉姥ヶ谷に行つてゐた時の歌。
 ある日七里が浜へ出て漁師を捕へてしきりに話をしてゐた。
 その時鎌倉の方から一台の自動車が来て腰越へ向つて去つた。
 それを見送つて何故か急に淋しい心持がして来た。
 漁師はそれとも知らずに話を続けてゐる。
 どうですこの一瞬の捕へ難い光景、それが見事に固定されて人心の糧となつてゐるのである。

  臆病か蛇か鎖か知らねども
まつはる故に涙こぼるる

 本来の晶子調から離れてゐて少し借物の気味があるが、尚よく近代感覚が消化され、再現されてゐる。
 何か私にまとひついてゐる、何だか分らない、それは臆病といふ心の病かも知れない、気味のわるい生き物の蛇かも知れない、人を恐ろしい牢獄につなぐ鎖かも知れない。
 それは分らないが何かがまとひついてゐる、さう思ふと涙がぽろぽろこぼれてくる。

  大町の辻読経をば二階にて
聞く鎌倉の夕月夜かな

 大町の辻読経といふことが別にあるのかも知れないが、大町の方向で、日蓮辻説法の格で高声に御経を読んでゐるものがあつて、自分の借りてゐる二階まで聞こえて来る。
 鎌倉は爽やかな初夏の夕月夜だ。
 それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月の光のやうにさしてゐる。

  我が造る諸善諸悪の源を
かへすがへすも健かにせん

 これも晶子哲学の真髄を示すものであり又自ら策励するものでもある。
 行為として現はれることなどは抑々末である。
 それが善であらうと悪であらうと構はない。
 それよりそれらの行為の出て来る根本観念だけは何としても健全なものにして置かねばならぬ。
 私の努力はそのために払はれる。

  海の月前の浜にて人死ぬと
など鎧戸を叩かざりけん

 朝起きて見ると、前の浜に死人があると罵り合ふ声が聞こえる。
 空には残月が懸つてゐる。
 ああこの月は昨夜海の上で見てゐたのだ、前の浜で人が死ぬと一言言つて鎧戸を叩いてさへくれたら、直ぐにも起きて助けにいつたものをと詩人は私かに悔ゆるのである。

  家の内薄暗き日もあてやかに
白きめでたき雛の顔かな

 三月の雛祭のある曇り日のスナツプで、尋常人の気のつかない細かい感触が捕へられてゐる。

  白き門死なん心の進むべき
変に備へて固く閉すらん

 同じく鎌倉での作。
 海に出る白塗の門が固く閉ざされてゐる。
 死なうとする心が私にあつてその進行する方向はいふ迄もなくあの門である。
 そこで変に備へて決して開かないのである。
 「タンタジイルの死」などの思ひ出される感じである。

  天地の薄墨の色春来れば
塵も余さず朱に変りゆく

 一陽来復の心持を色彩を以て現はせば、こんなものであらう。
 塵も余さずと云つて万有にしみ通る春の恩沢をあらはし、然らざれば平板に陥る処を脱出させた。

  古の匂ひ未来の香を放つ
薬かがせよ我が胸迫る

 これも前に幾首か例のあつたやうに言葉の音楽であつて大した意味はない。
 唯朗々と読み上げて一関の感動を覚えればそれでよいのである。
 而してこの歌も既にクラシツクになつてゐる。

  霜月や恋の積るになぞらへて
衣重ぬる夜となりしかな

 十一月になつては一枚一枚重ね著をする枚数が増えて行く、とんと年を重ねるにつれて恋の積るのに似てゐると、その頃五十二、三でなほ若さの残つてゐた作者はさう感じたのである。
 序だからいふが、発句では「や、かな」を使はないことになつてゐるさうだ。
 それには十分な理由がある。
 然るにこの作者は若い時からお構ひなしに盛に使つてゐる。
 私はその多くの場合にやはり承服出来ないものがある。
 例へば 鎌倉み仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな の如き歌では如何にも耳ざはりである。
 然るにこの歌の場合に限つて少しも障らないのは如何いふわけであらうか。

  快き秋の日早く来たれかし
飽ける男のその証あかし見ん

 早く気持のいい秋が来て欲しい。
 あの男は十分恋を満喫し、もう沢山だといつて寄りつかなくなつてしまつたが、果してそれが事実なら、秋になつたらその証拠があがることだらうから。
 私の見解では、満喫したと思つたのは暑さのせいで、私はあの男を満足させた覚えはない。
 それ故気持のよい秋が来たら、腹が急に減つて満腹感などはつひ忘れて必ずまた来るに違ひない。
 而して逆に満腹して居なかつた証拠を見せるであらう。

  過りて病を得たり生れ来て
いくそのことを過りて後

 病気にかかつた期会に過去を顧ると私は生れ落ちてからどれだけ多くの過ちを犯したことであらう、今日斯うして居るのもそれらの過ちの集つた結果である。
 而して最後の過ちが今度の病気である。
 人生とは私の場合には畢竟過誤の別名であるらしい。

  三味線の一の絃のみ掻き鳴らし
時雨通りぬ文書ける時

 巴里の夫の所へ遣る文を書いてゐるとばらばらと少し鈍い音の時雨が通つた。
 三味線の一の絃の感じである。

  塩の湯の浅き所に腹這へる
二人の女奔流と月

 霧島の明礬温泉の夏の月夜の風景。
 湯滝が落ちて奔流となつて溢れてゐる、女が二人腹這ひになつてつかつて居る、昼の様な月がその上を照してゐる。
 こんな光景が浮ぶが果して如何あらうか。
 表現法が面白いから抜き出した。

  わが泣けばロシヤ少女来て肩撫でぬ
アリヨル号の白き船室

 作者が渡欧は大正元年五月で、三十六歳、往きは西伯利亜を通つた。
 アリヨル号は敦賀浦塩間のロシヤ側の定期船。
 例の涙脆い作者は何に感じてか船室で泣き出した、さうすると可哀らしい女ボオイが来て肩を撫でてくれた。
 三十六歳になる当時既に世界に名を知られてゐた女詩人の肩を名もない少女が慰め顔にさするのだから洵にほほゑましい光景である。

  我が友の弱き涙の一しづく
混りし後の寒き温泉

 湯に浸りながら四方山の話をしてゐると友達の目からほろりと涙がこぼれた。
 友達の弱い心から落ちた一雫である。
 それを知ると温泉が急にぬるくなつたやうに思つた。
 これも晶子さんでなければ詠めない歌だ。
 弱き涙といふが如き句でさへその通りであつて、豊富な内容を唯一言で簡潔に表現してゐるのである。

  風吹けば右も左も涯知らぬ
水の中なる芦の葉光る

 之はバイカル湖の景色であるが、その調べの持つ寂しさは異境を通過する旅人の心が自ら反響してゐるのであらう。

  月日をばよそに雲涌く霧島の
山にありとも告げずあらまし

 昨日といはず今日と云はず朝と云はず昼と云はず西からも東からも雲が涌いて変幻限りない様相を呈する霧島に来て居るとでも書いたら子供達は心配するだらう、そんなことは書くまい。

  夕ぐれは車の卓の肱濡れぬ
胡地の景色の心細さに

 胡地はシベリヤである。
 私も一囘シベリヤを通過したことがあるが、風光明媚な内地の景色に慣れてゐる旅人が朝夕シベリヤの荒涼たる風貌に接する場合、特にそれが感覚の鋭敏な女の一人旅である場合、洵に想像に余りがある。
 当時大連にゐた私は夫人のこの壮挙を勇気づける為にハルピンに向け電報を打つたことがあるが、よくも決行されたことであつた。

  山の台対する海はさしおきて
心惹かるゝ青蓬かな

 霧島温泉のある山の台からはその中に桜島の浮く鹿児島湾の東の水面が遥に展望される。
 しかしそれはそれとして、展望台に生えてゐるつまらない青蓬が私の心を惹く、大方武蔵野のそれを思ひ出させるからであらう。

  初夏やブロンドの髪黒き髪
ざれごとを云ふ石のきざはし

 欧羅巴で妙なのは女の髪の色のまちまちなことであるが、特に巴里では黒髪の割合が多い。
 この歌では半々になつてゐるが、それ程でない迄も東洋人たる作者はなつかしく黒髪の方を見たことであらう。
 この石段はどこであらう、その近くに居たと思はれるリユクサンブル絵画館のそれでもあらうか。

  霧島にあれど子等ある武蔵野の
家を忘れず都を忘る

 もし都を忘るといふ結句がなかつたとしたら如何であらう。
 その位な歌なら誰にでもどこででも作れる。
 しかしこの結句を加へることは容易に出来ることではない。
 又その反対に都を忘るといふ事だけであつたら之亦誰にでも出来る。
 忘不忘両者の並ぶ所が珍しいのである。
 荻窪の家がずつと郊外にあつて東京といふ観念から逸脱してゐることもこの歌を作らせた有力な動機ではあつたらうが。

  紅の杯に入りあな恋し
嬉しなど云ふ細き麦藁

 赤い桜んぼか、いちごのシロを飲むのに麦藁を用ひること日本の欧化に従ひ近頃では当り前のことであるが、もとは全くないことで、もしそんなことを東京の真中ででもしたら皆吹き出してしまつたであらう、これはさういふ時代に出来た歌である。
 初めて巴里で斯ういふ飲み方のあることを知つて面白く思つたに違ひない。
 その心持がよく出て居る。

  霧島も霧の如くに時流れ
昔の夢となりぬべきかな

 試みに身を将来に置いて現在をふり返るわけで億劫なことをやつたものだ。
 又縁語を使ふことも枕言葉やかけ言葉と共に明治以来禁断同様であつたが、之も作者は構はずに使ふのである。

  ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
君も雛罌粟我も雛罌粟

 作者夫妻の巴里に遊んだのは欧洲大戦以前の爛熟時代で、私は之を知らないから大に羨ましく思つてゐるが、五月のフランスはこの歌の様に自然も人も恋愛の渦巻に巻き込まれた一個の花園であつたに違ひない。

  闇広く続ける中の市比野を
探りて借れる草枕かな

 市比野の温泉に著いて見ると、既にして薩摩平野は真暗な闇に掩はれてゐて、その中で僅か許りの灯を頼りに探り当てた様な市比野であつた。
 そこ許りが少し明るい日本の片隅の小さな温泉の心持がはつきり出て居る。

  物売りに我もならまし初夏の
シヤンゼリゼエの青き木の下

 五月のシヤンゼリゼエの大通りは、両側のマロニエの街路樹が花をつけ、小さいシヤンデリエヤを一面に飾り立てたやうに見える。
 さうしてエトアルからコンコルドまで何キロかの間それが真直ぐに続く光景は洵に夢の様に美しい。
 その木の下には花売り、新聞売り、くだもの売りの御婆さん達娘達が嬉々として生を楽しんでゐる。
 東洋の旅の女もじつとしては居られないわけだ。

  久見崎の沙の斜面を打ちし如
打たざりし如晴れし雨かな

 小舟を川内河口に浮べ長く海中に突き出した沙の堤防の様な久見崎に遊んだ。
 その途上軽い夕立がしてやがて晴れてしまつた。
 著いて見ると沙が少し濡れて居る、しかしそれは乾いてはゐないといふ程度であるその心持を詠んだものであらうか。

  月射しぬロアルの河の水上の
夫人ピニヨンが石の山荘

 巴里滞在中の夫妻は和田垣謙三博士に連れられ同博士入魂のピニヨン夫人といふ人のツウルの山荘に泊したことがある。
 山荘といふのであるからツウルの町から尚遡つた川上にあるのであらう。
 その石の山荘に射した異国の月は、酔ふ様な初夏の夕とはいへ、旅愁を誘はずには置かなかつただらう。

  逃げ水の不思議を聞けど驚かず
満洲の野も恋をするのみ

 昭和三年五、六月夫妻は満洲に遊んだ。
 これから暫くその時の歌が出て来る。
 大石橋から営口へかけた沙地では時折例の武蔵野の逃げ水の様な現象が見られる、理由はよく分らないと人のいふのを、作者は心の中で、何の不思議があるものか満洲の野が恋をしてゐるだけで、人を誘惑しておいでおいでをしてゐるわけだと微笑しながら聞く歌である。

  昼の程思ひ沈むも許すべし
夜は人並に気の狂へかし

 その頃の巴里の夜は世界の歓楽境を現出し、カルチエ・ラテン辺の小カフェエでも特に美術生の巣であるだけ相当の狂態が見られたものであらう。
 既にして夫人は郷愁にかかつて沈み勝ちであつたらしい。
 それを先生や梅原君などに連れられてカフェエに行つて見るとその通りである。
 せめて夜だけでもあの人達の様に気が狂つてくれたら心も楽にならうものをと思ふのであつた。

  浅緑梨の若葉のそよぐ頃
轎して入りぬ千山の渓

 湯崗子温泉から東方五里の処に千山がある。
 満洲第一の勝地と聞いて、わざわざ轎の用意をして貰つて登山した。
 さうして多数の佳什を残したが、その心の喜びが一見報告のやうなこの歌にもよく出て居る。

  何れぞや我が傍に子の無きと
子の傍に母のあらぬと

 今私が巴里で斯うして居ることは、三千里外に母と子とを引離して居ることであるが、何れの側が一番寂しい辛い思ひをして居るのであらう。
 そばに子のゐない私か、それとも母の居ない麹町の子供達か。
 心にもない日を送りたくない為に私は思ひきつて夫の側へ来たのであるが、それは同時に子供達から遠ざかることとなつて志と違つてしまつた。
 夫人の郷愁はここから生じて遂にまたまた一人で帰朝してしまつたのである。

  無量観わが捨て難き思ひをば
捨て得し人の青き道服

 千山には仏寺の外に道教の廟観がある。
 無量観と名づけ仙骨を帯びた道士がゐて夫妻等を迎へたが、夫人は之等道士達の風貌にいたく好感を寄せてゐる。
 この歌はその現はれで、断ち難き恩愛を断ち切つて山に入つた道士をその著てゐる青服を借りて称へたものである。

  象を降り駱駝を降りて母と喚び
その一人だに走りこよかし

 これはロンドンの動物園で子供達が象や駱駝に乗つて遊んでゐるのを見て作つた歌で、一人位は母さんと呼びながら跳びついて来さうなものだといふ悲しい母の真情がその儘吐露されてゐて、どうでも人を動かさずにはやまない慨がある。

  道士達松風をもて送らんと
云ひつる如く後ろより吹く

 無量観を出て帰途につくと後から風が吹いて来た。
 分れ際に道士達が松風を吹かせて山の下を送つて上げませうと云つた様な趣きである。
 仙骨を帯びた道士の挨拶迄現はれてゐて面白い。

  手の平に小雨かかると云ふことに
白玉の歯を見せて笑ひぬ

 表情沢山な歯並みの美しい巴里女は、一面耽美主義者でもある作者の大に気に入つたらしくこの歌などその一つのあらはれであらう。

  旅人を風が臼にて摺る如く
思ふ峠の大木のもと

 これも千山から降りて来た時の光景であるが、満洲の風がどんなものであるか窺はれて面白い。

  いか許り物思ふらん君が手に
我が手はあれど倒れんとしぬ

 ミユンヘンへ行つた頃の夫人のノスタルヂアは余程昂進してゐてこの歌の通りであつたらしく幾許もなくマルセイユから乗船してまた一人で帰朝されたのであつた。

  夕月夜逢ひに行く子を妨げて
綿の如くに円がる柳絮

 遼陽の白塔公園辺の見聞であるが、柳絮の飛ぶ所なら満洲だらうが、フランスだらうが構はない。
 柳絮と逢引との間に感情の関連を発見した歌である。

  飛魚は赤蜻蛉ほど浪越すと
云ふ話など疾く語らまし

 印度洋の所見であるが、帰心箭の如く、頭の中は子供のことで一杯だつた。
 そこで印度洋上の飛魚も日本の赤とんぼになる訳である。

  尺とりが鴨緑江の三尺に
足らぬを示す蘆原の中

 安東で鴨緑江を見に行つた。
 岸には蘆が繁つてゐる。
 その蘆の一本に尺取虫がゐて、しきりに茎を上つて行く、それを見て居て分つたことだが、この国境の大河鴨緑江の幅も尺取のはかる茎の長さを以て測れば三尺にも足りないことであつた。
 虫の世界ではさういふ風に物をはかるのだらうが面白いことである。
 虫に代つて鴨緑江の幅を測量したわけである。

  子を思ふ不浄の涙身を流れ
我一人のみ天国を墜つ

 芸は長く命は短しといふが、芸術の都巴里を天国とすれば、私の場合には子を思ふ人間性即ち短い命の方が勝ちを占め、その為一人だけ天国を追はれて帰つて来たのである。

  江の中の筏憩へる小景に
女もまじり懐かしきかな

 大陸の大きな河を流れる筏は頗るのんびりしたもので、日本の筏とはその心持が丸で違ふ。
 日本の筏に女が乗る事などは決してあるまい。
 採木公司の筏がついて憩んでゐるのを見ると女が乗つてゐる。
 それが女性である作者の目に珍しく懐しく映つたのである。

  白玉は黒き袋に隠れたり
わが啄木はあらずこの世に

 啄木を傷んだ歌である。
 我々の仲間でいへば啄木はやはり歌が旨かつた。
 私などはいつも啄木には叶はないと感じてゐた。
 しかし友人としては私の方が少し兄貴格であつたので、可哀らしい弟分としか映らなかつた。
 今でも啄木を思ふと両国の明星座の楽屋で鶯笛を吹いた可哀らしい啄木が浮んで来る。
 この歌で白玉に比較されてゐる啄木は、私の記憶にある彼その儘で、晶子さんも同じ様な気持で啄木に対してゐたのではないかと私には思はれる。

  嫩江を前に正しく横たへて
閻浮檀金の日の沈みゆく

 チチハルで見た満洲の赤い夕日であるが、その色は閻浮檀金といふ金中の精金、その前に興安嶺を発した嫩江が真直ぐに流れて居る光景。
 斯ういふ光景も最早日本人の目には当分映るまい。

  心いと正しき人がいかさまに
偽るべきと思ひ乱るる

 どう嘘をいふべきか、私にも覚えがあるが、心の正しい人だつたらその悩みは一しほ深からう。
 可哀さうに麻の如く思ひ乱れてゐるやうだと嘘を云つてゐる相手に深く同情する歌でもあらうか。

  旅人に呉竹色の羅を
人贈る夜の春の雁がね

 チチハルの大人呉俊陞の若い夫人李氏に招かれ嫩江の畔の水荘に一夕を過した時、御別れに美しい虹の様な支那の織物の餞を受けた。
 先程からシベリアに向ふ春の帰雁が江の上をしきりに鳴いて通る。

  白き鶏罌粟の蕾を啄みぬ
我がごと夢に酔はんとすらん

 阿片は罌粟の実の未だ熟さないのを原料として採るので、花の咲かない蕾には無いのかも知れない、しかし下向きに垂れてゐる蕾は反つて重さうでその中には阿片がつまつてゐさうに見える。
 それを鶏が来てちよいと啄んだ。
 今にこの鶏も私のやうにその毒に酔つて沢山夢を見ることだらう。

  哈爾賓は帝政の世の夢のごと
白き花のみ咲く五月かな

 私は明治四十三年頃帝政の世のハルピンに一度遊んだ事があつてその公園の夜の賑はひを知つてゐる。
 夫人の行かれたのは今のソヴィエトになつてからではあるが、尚相当当時の俤を存してゐたに違ひない。
 その後満洲事変直後に私の行つた時は、その風貌は全く違つてゐた。
 その後は更に急変したことであらうから、この歌などは今では当時の記録のやうなものだ。

  小鳥来て少女の様に身を洗ふ
木蔭の秋の水溜りかな

 小鳥の水を浴みてゐる姿に何となく羞らふ様子が見える、それを少女の様にと云つたのでその観察の細かさ詳しさはやはり作者のものである。

  マアルシユカ、ナタアシヤなどの冠りもの
稀に色めく寛城子かな

 寛城子は長春のロシヤ側の駅名で今日ではとうにそんな駅はあるまいが、当時でも随分なさびれ方であつた。
 マアルシユカ、ナタアシヤはロシヤ少女の尋常の名で、ロシヤ風の冠りものをした女が稀に歩くほか人の気はひも感ぜられない光景を描くものであるが、その不思議に柔い響きを持つロシア名を並べて雰囲気を醸し出した所流石に大家の筆触は違つたものだ。

  寒げなる筵の上に手を重ね
瞽女ごぜぞいませる心覗けば

 物乞ひ女の哀れな姿をふと心内に認めて驚いた形である。
 しかしよくよく見ればこの乞食女は誰の心中にも居るのである。

  公主嶺豚舎に運ぶ水桶の
柳絮に追はれ雲雀に突かる

 公主嶺にはもと農事試験所があり、種畜場を兼ねてゐたので支那豚を改良する目的の立派な豚舎があつた筈だ。
 その豚舎へ苦力が水桶を運ぶ。
 その周囲を柳絮が舞ひ、雲雀が縫ふ様に飛んでゆく。
 満洲らしいのびのびした光景である。
 日本ではそんな低い所を雲雀は飛ばない。
 日本なら燕であるべき所が満洲では雲雀なのであるが、雲雀に突かれるとは面白い。

  わが横に甚いたく頽くずほれ歎く者
ありと蟋蟀とりなして鳴く

 蟋蟀の鳴くのを聞いてゐると、私の横に人がひどく泣いてゐるが、可哀さうなわけがあるのだからと取りなし顔にいつてゐる様に聞こえる。
 この頃即ち大正の初めの頃の歌はその後に比しては勿論、それ以前に比しても少しく劣つてゐるやうに思へるが、この歌などは立派なもので、他の時期の秀歌に比し少しも遜色はない。

  重なれる山は浅葱の繻子の襞
渾河は夏の羅の襞

 奉天から撫順へ曲る渾河添ひの景色である。
 折から初夏の山の色水の色の淡い取り合せが色彩の音楽のやうに美しかつたのであらう、その通り歌にあらはれてゐる。

  少女子は夏の夜明の蔓草の
蔓の勢ひ持たざるもなし

 たとへば朝顔の蔓のやうにか細く柔いが、その物にしつかりからみついて夏の夜明にずんずん延びる勢ひは即ち少女の勢ひで誰もこれを押へることは出来ない。

  山桑を優曇華の実と名づけたり
先生いかに寂しかりけん

 尾崎咢堂先生の軽井沢の莫哀山荘は夫妻が吟行の途次必ず立ち寄る処で、私も一度御伴をして行つて咢堂先生も加はつて席上の歌を作つたことがあつた。
 この頃既に先生は何の党にも属せず清教徒として政治的に孤立し大半ここに閑居して居られた形であつた。
 炭窯まであつた広い山荘を歩き廻つた時、山桑が紫の実をつけてゐるのを先生が戯れにうどんげの実といふ名をつけて珍重する由など話されたのであらう、それを直ちに主人の現在の心境を写すに借用した訳で、情景相即した趣きの深い歌である。

  冬来り河原の石も人妻の
心の如く尖り行くかな

 冬ともなれば人妻の仕事が一段とふえるので、それに伴つて心が円味を失ひ自ら尖つてくる。
 丁度その様に河原の石も暖か味を失ひ、堅い影を帯びて尖つて行く様に見える。
 これは河原の石の印象を人妻の心であらはさうとしたものの様であるが、反対に人妻の心の尖つてゆくことを云ひたい許りに河原の石をかりたのかも知れない。

  従はぬ心は心いとせめて
変りはてぬと人の云へかし

 どうも心が進まない、強いて心を翻へす様にし向けて貰ひたくない、又片くなな心だと思はれたくもない、従はぬ心はその儘そつとしてそれには触れずに、せめて晶子さんもすつかり変つてしまつたと位に云はれてやみたいものである。
 まあこんな風にやつて見たが、少しむつかしくてよく分らないのが真相である。

  女より選ばれ君を男より
選びし後の我が世なり是れ

 このみじめさは如何です。
 これが沢山の女の中から私をあなたが選び、私がいひ寄つてくる多くの男の中からあなたを選んで、はじめて私達の恋は実を結んだのです。
 その結果が今日の有様です。
 これは悲観面であるが、反対に今日を讃美したものとも取れる。
 何れでも読者の好むやうに。

  彗星の夜半に至りて出づるとよ
胸を云へるか空を云へるか

 これは何彗星かの出た頃の作である。
 今度の彗星は夜中にならなければ見えないと人のいふのを聞いて、はてそれでは丸で恋をして居るものの胸の中の様だと思つたのである。

  千万の言葉もただの一言も
云はぬも聞きて悲し女は

 女はどんな場合でも悲しい。
 千万言を聴いて悲しむ場合もあり、唯の一言を聴いて悲しむ場合もあり、甚しい場合には云はぬ言葉さへ聴いて悲しむのである。
 而してこの最後の場合があつて一層悲しいわけでもある。

  町名をば順に数ふる早わざを
妹達に教へしは誰れ

 小娘時代の囘顧で、幼時を思ひ出すいくつかの作の中でも最も罪のないもので、微笑を禁じ得ないがどこか才はじけた作者らしい俤があらはれてゐて面白い。

  夜明方喉いと乾くまだ斯かる
心の苦には逢はずして死ぬ

 昭和三年頃病気をして入院された時の作。
 作者は結婚以来今日まで二十数年間其の間大小様々のことで心を苦しめて来たが、今朝夜明の苦しさに比すべき程の苦しみを覚えてゐない。
 それを忍び難い苦痛の様に思つたのは知らなかつたのであると共に、けさの喉の乾きに比すべきものに出逢はずに死んでゆけることをよしとせねばなるまい。
 これは兼て肉体を一方ならず重んずる作者に新たに一の例証を与へた経験でもある。

  ただ子等の楽しき家と続けかし
わが学院の敷石の道

 文化学院の学監としての女史の面目がこんなによく出て居る歌はないと共に、女学校の教師の中にこれほど親切な心を持つた先生が一人でも多くあつて欲しいと思はれる様な歌である。
 つまり文化学院のやり方は生徒を楽しませながら教養を与へるやり方で著々その実をあげてゐる、唯その楽しい生徒が帰つてゆく家庭も等しく楽しい所であつて欲しい、それが憂鬱な場所、不幸な場所、悲惨な場所でないことを望まずにはゐられないといふのである。
 卒業式の日に一人一人が花束を貰ふなどいふ暖か味は晶子さんでなければ持ち合せなかつたことではないか。

  歎くこと多かりしかど死ぬ際に
子を思ふこと万にまさる

 重態で死の幻を見た刹那の感想である。
 やはり子を思ふ不浄の涙が最後の涙である事を知つた偽らざる母性愛の姿である。
 精神は肉体に劣るが、強烈な恋愛も母性愛には若かないのである。

  真白くて五月桜の寂しきを
延元陵に云へる僧かな

 昭和三年の晩春吉野に遊び後醍醐帝の延元陵に参られた時如意輪堂の僧でもあらうか、既に桜は散りはて五月桜の残つてゐたのをさう批判したのであらう。
 その心持はしかし吉野朝の心持でもあるのでこの歌となつたのであらう。

  人よりも母のつとめも知れるごと
君あらぬ日に振舞ふは誰

 良人の留守ともなれば文人としての又愛人としての一面は後退し、母としての晶子さんだけが前進し活躍するのであるが、それが一寸自分にも面白いのである。

  山吹の白花となり零るゝや
春の夕も冷やかにして

 山吹の白くなつてやがて枝から落ちるのは春も進んだ五月になつてのことであるが、そのうら淋しい様子を見ると冷い感じがするのであらう。

  衰ふるもの美くしく三十路をば
後に白き山桜散る

 私も三十を越えて衰へ方に向つた。
 しかしそれは若い時考へたやうないとふべきものではなかつた。
 衰へも亦美しい。
 丁度山桜のあの散り方のやうなものである。
 あの桜は三十を過ぎた私のやうなものだ、而してあの満開時に見られぬ散り方の美しさを見るがよろしいといふので、この人の人柄からすればやはり人生肯定の歌であらう。

  窗鎖さで寐れど天城の頂と
今さら何を語るべき我

 昭和二年頃の歌。
 熱海ホテルに泊られ夏のこととて窗をささずに寐た。
 私も少し若かつたら窗から見える筈の大室山の頂きに対して或は心の丈を訴へたり不満を洩らしたりしたかも知れない。
 しかしすつかり大人になつてしまつた今は語るべき材料もなくなつた。
 唯窗をあけたまま眠る許りである。

  我にある百年は皆若き日と
頼みて之を空しくもせじ

 日日是好日の端的であるが、作者などは生れながらにして之を体得しその覚悟を以て日々最善を尽くしてこられた。
 あれだけの幅のある大きな業績と結果とを残したのは全くその御蔭である。

  雪の後紅梅病めり嘴の
あらば薬を啄ませまし

 晶子の万有教の最も顕著な現はれの一つである。
 荻窪の釆花荘には直ぐ窓際に早咲きの紅梅があつて一月頃にはもう咲く慣はしであつた。
 従つて雪の方が後になる。
 これは紅梅を鶯のやうな鳥の一種と観じ嘴のないのを惜しむ心であつて、比喩でも、象徴でもない、万有を友とする詩人の真情の其の儘吐露しただけのものである。

  憎むにも妨げ多き心地しぬ
わりなき恋をしたるものかな

 憎みたいのである。
 それなのにそれが出来ない色々のわけがあるとは困つた恋をしてしまつたものである。
 歎くが如く喜ぶが如く甚だ単純でない所が晶子さんの開拓した明治抒情詩の新境地であるが、それ許りではない、この歌は調子もよくそつもなくこの時代の作としてはよく出来て居て、円熟した後年の風が既に見えてゐる。

  川ならぬ時の流れの氷れかし
斯くの如くに踏みて行かまし

 これは昭和二年の正月函根の小涌谷の三河屋に滞在中、強羅へ出掛けたことがあつたが、その途で早雲山から流れ落ちる山川の氷つてゐた上を渉つて行つた、その時の歌である。
 形なきものに形を与へ、目に見えぬものを目に見えるものにすることが芸術家、詩人の仕事である。
 然らば時の流れを川の流れに変へさせること位は詩人の茶飯事であらうが、人から見れば面白い感想である。

  後より来しとも前にありしとも
知らぬ不思議の衰へに逢ふ

 三十を越えると自分にも漸く衰へが見えて来たが、しかしよく案ずると不思議なものだ。
 衰へといふものが前途にゐて私の来るのを待つて居た様にも思へるし、若い時色々心を苦しめ身を悩ましたその為に衰へたのであらうから、私のあとから私について来たものの様にも思へる、不思議なものにいよいよ出会つてしまつた。
 これは遂に男の感じない感じでもあるしこの歌のよしあしは私には分らない。

  蜩の声に混じりて降る雨の
涼しき秋の夕まぐれかな

 西行にあつて欲しい歌であり、伏見院にあつて欲しい歌であり、その使つてある文字一つとして珍しいものはない。
 それにも拘らずやはり晶子以前には誰もこれほどの組み合せを作つてゐない。
 言葉のコンビネエシヨンの如何に微妙で又摩訶不可思議なものであるかが分る。

  紫と寒き鼠の色を著て
身をへりくだり老いぬなど云ふ

 紫は作者の最も好む色彩でこれだけは放さないが、三十を越えたしるしにとわざと寒さうな鼠色の下著を重ねて、年をとりましたからと謙遜して見る、それも興なしとはしない。
 これは恐らく実景であつたことだらう。

  我昔前座が原の草に寝て
忘るゝ術を知らざりしかな

 これは昭和二年八月那須での作。
 もし前座が原が那須山上の高原の名でもあるなら、若い頃一度那須へ来た事がある様に思はれるが、その証跡歌などには残つてゐない。
 意は、私は昔ここへ来て草の上に横になつて心の悩みを忘れようとしたことがあつたがそれが出来なかつたことを覚えてゐる。
 今から見れば夢の様な話だが、若い頃の真剣な気持はそんなものであつたといふのであらうか。

  若き日に帰らんことを願はざり
ただ若さをば之に加へよ

 若いといふことは一面愚かなことでもある。
 だから若い頃にも一度帰りたいなどとは決して思はない。
 しかし若いといふことは逞しい力の働くことでもある。
 私は今若さから遠ざかつて愚かしさはなくなつて行くが、元気も同様に減つてゆく。
 そこで今日の熟成はその儘にしてその上に元気のよい若さだけを加へて欲しいと思ふ。
 ここにも常に進歩して止まない作者の心柄が出てゐる。

  移り住みやがて都の恋しさに
心の動く秋の夕風

 夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成してここに移り再び里住みの身となつた。
 ただ往来のみあつて家のなかつた当時の辺鄙な荻窪は都人の住み得る処ではなかつた。
 私は当時芝三光町に居てさへさう思つた。
 この歌は移居の後暫く経つて秋の進んだ夕方に詠まれたものらしい。

  わが鏡顔はよけれど寒げなる
肩のあたりは写らずもがな

 歌が散文でなく外国の詩のやうに韻は踏まないまでも定形の律文である以上必ず「調べ」が存在し、それが歌の価値を最高度に支配するものであることを私は固く信じ且つ史的にも実証してゐるから誰が何と云はうと変らない。
 私にすれば、最も調べの高かつたのは藤原期までで、奈良朝となつては最早下り坂である。
 古今集以下「調べ」などいふほどのものは最早存在しなくなつたが、定家頃に至つて漸く一種の型が出来て来た。
 しかしそれは恐ろしく人工的なもので、丸で精巧な細工物に過ぎず、生命など籠り様もない代物であつた。
 而して明治に至つたのである。
 その間にも幾人か万葉を取り上げ、定家型式の破壊を試みた人があつたがものにならなかつた。
 その理由は万葉の善悪を識別する丈の眼識に欠けてゐたからである。
 万葉に眩惑せられたからであつた。
 それを與謝野先生が出て先づ「小生の歌」で徹底的に破壊してしまつた。
 新詩社の新風はその大破壊の上に酷しい修練の結果打ち建てられたもので、少くも私の信ずる処では、直ちに万葉でいへばその初期即ち奈良朝以前の健全な調べに亜ぐものと思つてゐる。
 この歌の如きは勿論近年の円熟した高雅な調べから見れば大したものではないが晶子さん以前には誰も示し得なかつた「張り」を示してゐる。

  田楽の笛ひゆうと鳴り深山しんざん
獅子の入るなる夕月夜かな

 大正十四年九月津軽板柳の大農松山銕次郎氏の宅で同地の獅子舞を見て作られた歌の一つで蓋し傑作と称すべき作の一つである。
 柳の枝で深山をかたどり、そこへ紫の獅子が舞ひ込むのださうで、 深山は柳の枝にかたどられ舞ひぞ入り来る紫の獅子 とあるのでそれが分るのであるが、田楽の笛ひゆうと鳴りとは何といふすばらしい表現であらう、まるで歌その者が夕月の下獅子になつて動き出す感じだ。
 前の歌で「調べ」のことを高調したが、古くは人麻呂か赤人でなければこれだけの高さには歌へない。
 近年では寛先生の霧島の歌にその比を見る。

  貧しさをよき言葉もて云はんとす
行者の浴ぶる水ならんこれ

 私が今嘗めて居る貧しさはどんなものですか、それを一つ感じのよい言葉で云つて見ませう、寒中行者が浴びる水の様なものです。
 行者が冷い水を浴びることを苦にしない様に私は貧しいことなどを苦にしない。
 進んで冷いとも思はず頭から何杯でも引き被つて之に堪へ、行者が六根の清浄を得るやうに私は自己を磨くのである。
 こんな風にも解せられるが、果して当つてゐるか如何か少し心許ない。

  湖の鱒の産屋の木の槽に
流れ入るなる秋の水音

 十和田湖の有名な和井内姫鱒孵化場の光景である。
 あの清冷氷の様な十和田湖の水のとうとうと流れ込む水音が泉の涌く様に聞こえる。

  われ昔長者の子をば羨みぬ
けふ労ふもその病のみ

 私は子供の時長者の子を羨んだことがあるが、けふ労つてゐるのも同じ貧といふ八百八病の外の病である。
 作者の中年迄の貧苦は相当ひどいもので色々貧の歌のある理由である。

  冬も来て青き蟷螂きりぎりす
炉をめぐりなばをかしからまし

 斯ういふ歌は目前の小景の写生などより一般読者には余程難有い作でなければならない。
 もし詩人が空想してくれなければ決して味はふことの出来ない感想である。
 而してとても面白い感想ではないか。
 この位の余裕は常に誰の心にもあつて欲しいものである。

  君と我が創造したる境にて
一人物をば思はずもがな

 この家この環境は君と我と二人して合作創造したものである。
 物思ひがあるなら二人して分つべきであつて、一人でくよくよ物を思ふ法はない。
 それなのに二つに分けることの出来ぬ物思ひが次々に出て来るのは如何したことであらう。
 したくもない物思ひである。

  婚姻の鐘鳴り親はふためきぬ
ものの終りかものの初めか

 昭和元年七瀬さんが山本直正氏とカトリツク教会で婚姻式を挙げた時の歌。
 これが作者の経験した子女の婚姻の最初のものであつた丈その印象も深かつたものと思はれ、自己の手から、その手しほにかけたものの一人が初めて引き離された。
 それは子女としてのものの終りである、しかし新生活の発足であるから同時にものの初めでもなければならない。
 そこに親の心がふためき迷ふのである。

  魚の我水に帰りし心地して
湯舟にあれば春雨ぞ降る

 魚になつた様な気持がして、とは誰もがいふであらう、入湯と春雨、よく調和したいい気分である。
 この場合しかしさう云つたのでは鈍い感じしか起らない。
 それを「魚の我水に帰る」といへば、人の意表に出て新鮮な感想を喚び起すことになる。
 ここらは学んで出来ることであるから歌を作る人の参考までに申し上げる。

  湖の奥に虹立ちその末に
遠山靡く朝朗かな

 大正十五年五月日光に遊ばれた時の作。
 湖は中禅寺湖で、湖畔の宿から見た朝の景色で、調子のすらりと整つた気持のよい歌である。

  春ながら風少し吹き小雨降る
夕などにも今似たるべし

 今私達の間は大体に於て春の様ななごやかさが支配してゐる、しかしその中にも風が少し許り吹き、雨が少し許り降るけはひがなしとはしない。
 しかし春の夕方雨風の少しあるのも必ずしも悪くはないとも云へる。
 私達の中は今はその辺の処で決してまづいものではありません。

  山山と湖水巴に身を組みて
夜の景色となりにけるかな

 同じ中禅寺湖畔の夜色迫る光景。
 山と湖水と又山と巴に身を組んで夜となるとは恐ろしい程の表現で、それによつて光景は直ちに読者の脳裏に再現される。
 詩人は魔法使ひでもある。

  拝むもの拝まるゝもの二つなき
唯一体の御仏の堂

 晶子さんといふ人は矜恃の高い人であつたから、人の感情を真似たり、共通の思想を我が物顔に取り入れたりはしなかつた。
 然るに此の歌を見るに浄土教信仰の極致が示されてゐる外何もない。
 一首の道歌とも見れば見られ、蓋し晶子歌中の珍物である。
 まさか晶子ともあらうものが真宗坊さんの御説教を聞く筈もなしその教理を取り入れる筈もない。
 然らばそんな既成観念とは関係なく晶子さんの頭に直接にひらめいた実感と見るべきである。
 然らば実に驚くべき直覚力と云はなければならない。
 私などは観念的には学んで知つてゐるが、浄土教信仰に於てそんなことが容易に実現されようとは信じない。
 然るにそれを老婆か誰かの拝仏の姿を見て之を直覚し得たのだから驚かされる。

  物思ひすと云ふほどの唯事の
唯ならぬ世も我ありしかな

 誰でも若い内は物思ひ位はするだらう、そんなことは何でもない唯事に過ぎない。
 しかし私の場合にはその唯事が唯事でなくなる様な非常事態もよく起つたものだと今はすつかり学者になりすましたありし日の情熱詩人が静かに往時を囘顧するものであらう。

  後の世を無しとする身もこの世にて
またあり得ざる幻を描く

 既成宗教を信じない作者は来世を信ずることはない。
 それなのにこの世であり得ざる幻を描いて喜んだり悲しんだりしてゐる。
 それは凡愚の迷信にも劣る愚かしさであるがどうにもならない。

  死ぬ日にも四五日前の夢とのみ
懐しき儘思ふあらまし

 この堪らない懐しさ私は忘れないであらう、例へば死ぬ時が来ても四五日前に見た夢のやうに思ひ浮べることであらう。
 旅の歌が作の全部となつた頃僅に見出される純抒情詩で縹渺たる趣きはあるが中味の捕へようのないものが多い。

  山桜夢の隣りに建てられし
真白き家の心地こそすれ

 作者は自ら白桜院の院号を選んだだけに桜を賞すること常人に過ぎ、その癖染井吉野を木のお化けだとけなしつつも、沢山の歌をよんでゐる。
 その第一は 天地の恋はみ歌に象どられ全かるべく桜花咲く といふので桜花の気持がよく出てゐる。
 次に 朝の雲いざよふ下に敷島の天子の花の山桜咲く といふのがあるが、之は盛な様子を十分に歌つたものだが余音に乏しい憾みがある。
 その第三がこの歌で、この歌では一歩深く入つてその夢の様な美しさの象徴されてゐて申し分がない。

  尽く昨日となれば百歳の
人も己れも異ならぬかな

 百歳の御婆さんとまだまだ若い私との違ひは現在のあり方であつた。
 私はもう若くないに違ひなかつたが、まだまだ色々のものが残つてゐて全部が全部過ぎ去つた訳ではなかつた。
 それがどうであらう。
 全部を全部忘却の過去へ送つてしまつた今となつては百歳のお婆さんと何の違ひがあらう。
 現在零である点に於て全く同じことになつてしまつた。
  悲しみも羊の肝の羹も
昨日となれば異ならぬかな(草の夢)

  ただ一人柱に倚れば我家も
御堂の如し春の黄昏

 これは歌集大正七年出版の「火の鳥」にある作である。
 この「火の鳥」は晶子歌に一時期を画するもので、即ちこれ以後の歌は作者のいふおだやかな人間になつて作つたもので、それ迄のものとは厳然と区別される。
 激動期は既に去つた。
 柱に倚つて一人静観しうる春の夕となつた。
 我が家さへ神聖な御堂の様に思はれるのであつた。

  身の弱く心も弱し何しかも
都の内を離れ来にけん

 昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。
 遠い昔の女性さへ偲ばれる哀調を帯びて珍しく弱音を吐かれたものであつた。
 なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。

  うつむけば暗紅色の牡丹咲く
胸覗くやと思ふみづから

 唯一寸うつむいただけでこれだけの想像が浮ぶのである。
 常に動いてやまない豊富な詩人の思想感情が窺はれる。
 さうして若い時から中年期、成熟期から晩年とその想像力の描き出す形は少し宛違つて来てはゐるが最後迄涸渇することを知らなかつた。

  衰へてだに悲しけれ死ぬことを
容易たやすきものに何思ひけん

 作者は一面激しい感情の持主であつたから折にふれて幾度か死を決したこともあつたらう。
 それを初老といはれる五十近くになつて顧みたものであらう。
 然るにさういふ口の下から、相当の事情があつたにせよその後幾年もなくまた死を決せられたやうで、その時はこんな歌を詠んで居る。
  わが在りし一日片時子の為めに宜しかりしを疑はぬのみ 又 汝が母は生きて持ちつる心ほど暗き所にありと思ふな しかし結局思ひ過ぎであつた。
 しかしそれを最後としてあとは一二囘の波瀾はあつたが比較的静かな境遇に入られたやうである。

  自らは半人半馬降るものは
珊瑚の雨と碧瑠璃の雨

 フアウスト第二部に人首馬身のヒロンがあるが、この半人半馬は女性で詩歌芸術の世界、その世界には紅い珊瑚の雨と碧い瑠璃の雨とが入り混つて降つてゐる、その中を縦横無尽に駈け廻るのである。
 こんなロマンチツクな色彩濃厚な幻想でありながら少しも若い頃のやうなけばけばしさがなく、ゆつたり落付いてゐるのはやはり作者の心の落付きを反映してゐるのであらう。

  日昇れど何の響きもなき如し
夏の終りの向日葵の花

 人の漸く老いて好刺戟あれども何の反応も示さなくなつた様子を象徴するものであらう。
 これも五十頃の作で体験に本づくこと勿論である。

  君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て
囀りし夢また見ずもがな

 私の嫉妬はずゐ分激しかつたがこの頃はもう争ひの種もなくなり、至極平静な生活を続けてゐる。
 君の鳥が他の女の鳥と囀り交す様な夢でさへもう見たくはない。

  知り易き神の心よ恋てふも
それより深きものと思はず

 神は愛なり、この位よく分ることは私にはない。
 なぜなら私の心は愛で一杯になつてゐて、何ものをも愛し得るからである。
 恋の如きもこの愛より深いものとは私は思はない。
 こんなことの云へるのも一面年老いて最早当時の情熱など思ひ出せないからでもあらう。

  ありと聞く五つの戒の一つのみ
破りし人も物の歎かる

 この場合破つた一つの戒と認めらるるのは不飲酒戒で、破らないも同じことである。
 さういふ真面目な正しい落度のない人も物を歎くとは如何したことであらう。
 仏の教へも頼るに足りない。

  足る如く春吹く芽をば見歩きぬ
高井戸村の植米と我

 植米はもし生きてゐたら八十位の御爺さんではなからうか。
 釆花荘の植木は全部この御爺さんの指図で麦畑の中へ植ゑられたのである。
 私の今居る家のも亦殆どさうである。
 実にいい爺さんであつた。
 その好々爺と連れ立つて偶々東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を見て歩く風貌が目に見えるやうである。
 恋などとは何の関係もない心の満足である。

  天人の一瞬の間なるべし
忘れはててん年頃のこと

 思へばこれ十余年せまじき恋をした許りに私の嘗めた辛酸労苦思ひ出すさへ堪へられぬ、きれいさつぱりと皆忘れてしまひたい。
 何忘られないことがあらうか、十余年などは命の長い天人から見れば一瞬間のことに過ぎない。
 而して今から新らしい瞬間を作りませう。

  あな冷た唐木の机岩に似ぬ
人の涙の雫かかれば

 「似ぬ」はこの作者が好んで用ひる語尾の変化で、私なら決して用ひないものだ。
 私なら「似る」といふであらう。
 何故なら似ぬといふと似ないといふ意味が紛れこむ虞れがあるからである。
 作者はしかしさういふ感じがしないと見え至る所にこの変化を用ひてゐる。
 今まで倚つてゐた黒木の机に涙がかかつたので急に冷えて岩ででもある様に感じられるといふのであらうか。
 或は相対する人の涙がかかつてさう感ぜられるといふのであらうか。

  わが街へ高き空より雪降りぬ
寂し心の一筋の街

 之は象徴詩である。
 何とでも読者が勝手に映像を作るが宜しい。
 「高い空」といふ一つの観念を思ひ浮べ、夏に「寂しい一筋の街」を思ひ浮べる。
 その二つを雪でつなぐのである。
 さうするとそこにぼんやりした映像が浮んで来る。
 それは何を象徴するものであらうか。

  侮られ少し心の躍りきぬ
嬉し薬に似ぬものながら

 若さが退くと共に心の平静が得られるやうになつたが、同時に心躍りもしなくなつてそれは我ながら寂しいことであつた。
 それに如何であらう。
 私を侮るものが出て来た。
 私は人の侮りを受けた体験が今度初めてで少し心が躍つて来て嬉しい。
 薬と侮りとは凡そ似てゐないがその作用は相類してゐないでもない。

  夏の夜の鈍色の雲押し上げて
白き孔雀の月昇りきぬ

 夏の夜の月の出の印象で、まことにはつきりしてゐる。
 象徴でも写生でもない、唯印象を伝へんとするもので、この作者以外には余り例が多くない風だ。
 拙くやると比喩になつてしまつて著しく価値が低下する。
 この風は先づ余りやらぬ方が賢い。

  かぐや姫二尺の桜散らん日は
竹の中より現はれて来よ

 二尺の桜といふから鉢植の盆栽の桜か何かであらう。
 その可哀らしさ美しさは如何見ても昔話のかぐや姫の化身としか思はれない。
 そこでこの歌になるので、この桜が散つたらす早く竹の中に忍び入つて、今度は人間のかぐや娘として出て御いでなさいといふのであらう。
 不思議な空想である。

  そのかみの日の睦言を塗りこめし
壁の如くに倚りて歎かる

 この壁を見るとその中には君と私との中に交はされたありし日の睦言が一杯塗りこめられてゐる様に思はれる。
 この壁に倚つて凡てが話されたからである。
 何といふ懐しい壁だらうと思つて倚りかかつて私は泣くのである。

  家にあり病院にある子と母の
隔たる路に今日は雨降る

 作者は十一人の子女を育てられたが最も可愛がられたのは長男の光さんと末娘の藤子さんとで、特に藤子さんは一人で十人分位の慈愛に浴したやうだ。
 その藤子さんがまだ小さくて病気をし、近所の小児科病院に入院させた時の歌である。
 母子の情洵に濃やかで雨のやうに降りそそぐ感じがする。
 なほこの時の歌二首を上げる。
  絵本ども病める枕を囲むとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室

  仄かにも煙我より昇るとて
君もの云ひに来給ひしかな

 恋を卒業した作者が今度は心を溌まして、恋の明るい一面を美しく歌はうと試みたのが「火の鳥」以後の作者の態度である。
 これなどもその一つで恋人の訪問をもの静かに美しく描くものである。

  繭倉に蚕の繭ならば籠らまし
我が身の果を知られずもがな

 これは大正十四年正月下諏訪温泉の亀屋に滞在中の作。
 あの辺に多い繭倉を見ての作。
 しかし感じは蛹の繭に籠つて遂にその姿を見せない所から自分の最後の姿もさういふ風に隠したい気持が動いたのであらう。
 それを拡げて繭倉へ持つていつたのであらう。

  津の国の武庫の郡に濃く薄く
森拡がりて海に靄降る

 大正六年の夏六甲の苦楽園に滞在中の作。
 これがあの辺に遊ばれた最初の行であつたやうだ。
 まだあの辺が開けてゐなかつた当時で、その中に苦楽園が唯一つの存在であつた。
 当時の森に掩はれてゐた六甲の傾斜面がよく写されてゐる。

  諏訪少女温泉いでゆを汲みに通ひ侯
松風のごと村雨のごと

 上諏訪と違ひその頃の下諏訪は温泉の量が極めて少く、塩汲女が海水を汲んで帰るやうにある町角の湯口から湯を汲んでゆくのが見られた。
 それを謡曲の松風に通はせたものであるが、それによつて反つて光景が彷彿するのである。

  夕暮の浅水色の浴室に
あれば我身を月かとぞ思ふ

 作者この時四十歳、まだ若かつたしめつたに温泉などにも行かず、苦楽園の浴室さへ作者には珍しかつたと見え、その心の躍つた様がよくあらはれてゐる。

  大船も寄らん許りの湖の
汀淋しき冬の夕暮

 小波が騒いでゐる許りで何物もない大きな湖水を見て居ると大洋を行く様な大船が今にもそこへ這入つて来さうな気がする。
 さういはれてみるとさういふ気のする(それ迄気がつかなかつたが)冬の夕暮の汀の景色であつた。
 同行した私はその時さう思つてこの歌を読んだものである。

  自らを証あかしとなして云ふことに
折節涙流れずもがな

 私の経験では斯う思ふと云ふ様なことを挟んでは話を進めて行くのであるが、やはりその時の事が思ひ出されて折節涙が出て来て困つた。
 せめて冷静な話の間だけは涙が出なければと思ふ。

  夜の二時を昼の心地に往来する
家の内かな子の病ゆゑ

 子が重病に罹つた場合どの親でも経験したことを代つて云つて貰つた歌である。
 かうは誰にも云へなかつたのである。

  一言の別れに云ひも忘れしは
冬の月夜の凄からぬこと

 一言のは別れのあと、云ひもの前へ来る句で、一言云ひ忘れたのである。
 それは何かと云へば、冬の月夜は少しも凄いものでないといふことである。
 理由はいはずして明白だ。
 君と一しよだつたから。

  しどけなくうち乱れしも乱れぬも
机は寂し君あらぬ時

 之は富士見町の家の書斎の光景、離れの様に突き出した狭い書斎に夫妻は机を並べて仕事をしてゐた。
 それで先生が居ない折は、乱れた机と乱れない机と並んでゐる様子が一角を欠くが故にいかにも寂しく見えるのである。

  わが肩と建御名方の氏の子の
島田と並ぶ夜の炬燵かな

 山国の冬は何事も炬燵がその中心である。
 建御名方は諏訪明神の本体であるからその氏子の島田といふのは諏訪芸者といふことになる。
 一晩小宴を開いた所芸者が這入つてくるといきなり炬燵にすべり入つた。
 晶子さんの隣へ坐つた子は小さい子で見ると島田が肩の処にある。
 炬燵は毎日這入つてゐて珍しくないが芸者の這入つたのが珍しくてこの歌が出来たわけである。

  古へを持たず知らずと為ししかど
昔のものの如く衰ふ

 古人の糟粕を嘗めるを屑しとしない故に私は古い物を持たない又それを知らないといつて新風を誇つて来たのである。
 それが如何であらう、この頃のやうに衰へて来ると昔の人の衰へた様を詠じたのと少しも変らない。

  師走来て皿の白さの世となりぬ
少女の如く驚かねども

 十二月となれば世の中がざわつき、心持に落付きがなくなり皿の白さの持つ荒涼たる光景が現出する。
 もしそれが少女の新鮮な感覚なら驚きに値しようが、古女にその驚きはないものの、興ざめた次第である。
 之も印象歌の一例。

  夕月を銀の匙かと見て思ふ
我が脣も知るもののごと

 夕月を銀の匙と迄は或は感じ得るかも知れない。
 しかしいちどクリイムを食べた時私の脣に触れたので、私の脣の感触も知つてゐる筈だとまで進みうるものは先づ無からう。
 それが詩人の詩人たる所因である。

  恋衣裘かはごろもより重ければ
素肌の上に一つのみ著る

 恋衣といふ衣は裘などに比べればとても重い衣なので私は素肌の上にたつた一枚著て居るだけです。
 重くてとても二枚とは著られません。
 一枚で沢山です。

  いかにして児は生くべきぞ天地も
頼もしからず思ふこの頃

 大正五六年の頃の作で、子女が皆大きくなり、学費等も自然嵩んで来る、如何にしてこの大家族を養うべきかそれのみに日夜心を砕き若くして得た名声を利用して色紙、短冊、半切、屏風などを書きなぐるなど全力を尽くすといへど幾度か自信を失はれたことであらう。
 その時の溜息である。

  穂芒や琵琶の運河を我は行く
前は粟田の裏山にして

 大正十二年仲秋の月を石山に賞し疏水に舟を浮べて京に入られた時の作。
 普通疏水と云はれるものを運河と呼びかへたなどにも多少の配慮が払はれてゐる。
 この短い詩形の中へ当時の環境から感得した名状すべからざる混沌感を捺印するのであるから、用語は十分に吟味されなければならない。
 適当な用語が適当に配置されて初めて朧げながら感じの一部分が再現されるのである。
 用語が適当なれば適当なだけ、その範囲が拡大され、その極限に於て完全に再現されることになるが、そんなことは神技に属する。
 私はあの疏水を自身流れたことはないが、その心持は殆ど完全にこの歌から感得出来るやうだ。

  秋の夜はわりなし三時人待てば
哀れに痩せし心地こそすれ

 これは秋も大分たけて淋しくなつた夜の心持を歌つたもので、人を待つことにしたのは心持を表現する一手段である。
 それに依つて秋の夜の心持が哀れに痩せた若い女の形となつて顕はれてくるのである。

  粟津より石山寺に入る路の
白き月夜となりにけるかな

 瀬田川に沿ひ少しく彎曲した気持のいい遊歩道を仲秋明月の下逍遥する純な混り気のない心持が其の儘再現されてゐる。
 恐らくかへるべき何物もなく取り去るべき一字もない。

  花咲きぬむかしはて無き水色の
世界に我とありし白菊

 これほど新らしい、又縹渺として捕へ難い趣きもあり、又一種の哲理のやうなものをさへ含んでゐる歌は晶子さんにさへ一寸珍しい。
 日本のやうな局限された天地に置いておくべき詩ではない。
 といつて又世界の諸民族中この歌の分るのは或はフランス人位のものかも知れないといふ様な気もする。
 水色の世界とは即ちロゴスであり混沌であり、万法帰源の当体である。
 その中で晶子さんと白菊とがものの芽として共存してゐた。
 それが時至つて一つは詩人として日本に生れ、一は白菊として今日その花を著けここに再び相会したのである。

  石山の観月台に立ちなまし
夜の明けんまで弥勒の世まで

 弥勒の世とは五十六億七千万年後の世であるから永遠といふ言葉のよき代用である。
 西洋風にいつたら聖蘇再誕の日までとなる。
 誰でも、又いくらよい月でもまさか夜明しも出来ない。
 その内厭きても来るし眠くもなつて観月台から引き上げたであらう。
 しかし唯引き上げたのでは面白くない、何とか捨ぜりふを残したい。
 この歌は即ちその捨ぜりふである。
 それがみろくの世などいふ結構な説話があるのでものになつたわけだ。

  もの憎む心ひろがる傍に
あれども君は拘はりも無し

 その起りは何にあつたのか、初めは一寸したことからであらうが、心が変調を来したと見え次第に何もかも憎らしくなつて来た。
 それなのにそれに気がつかずにのんきな男心はすましてゐる。
 よくそんなことで恋が出来るものだ。
 先づこんな所であらうか。
 これはしかし恋人同志の間だけではなく、一般の対人現象として常に私共の体験する所である。

  山早く月を隠せば大空へ
光を放つ琵琶の湖

 自然現象を物理的に詠じたものには違ひない。
 月が西山にはいつてしまへば観月台上は蔭となり、見るものは東方琵琶湖面から反射する月光のみとなる。
 しかし大空へ光を放つとは大した云ひ方で、その為にこの物理現象も詩化されるわけである。

  紫の魚あざやかに鰭振りて
海より来しと君を思ひぬ

 若い女が紫好みの春著を著て新年の挨拶にでも来たのであらう。
 それを晶子さんがまあ綺麗なこととほめながら自分の前へ立たせ魚が鰭を振る形に袖をふらせて見る。
 先づそんな場合の歌でもあらうか。

  人の来て旅寝を誘ふ言ふ様に
雲に乗らまし靄に消えまし

 今日から見れば丸で夢の様な昔話であるが、我が日本にもさういふことの出来た時代があり、選ばれた少数のものにはそれが出来た。
 作者夫妻はこの頃以後少し宛それが出来るやうになつたのは何と云つても羨ましい限りで、而してそれは最後まで続き、遂に靄の中に消え去つた形となつたが、この歌は其の儘実現されたのである。

  頻りにも尋ぬる人を見ずと泣く
わが肩先の日の暮の雪

 街角で落合ふ約束だつた人がどうしても見えない、その内に雪が降り出して肩先を白くする、日は暮れかかる。
 全く泣きたくなつて来た。
 それを代つて肩先に積つた雪が泣いてくれるといふのである。
 之も晶子万有教の一節。

  人間の世は楽みて生きぬべき
所の如しよそに思へば

 大正十三年頃の作で、この頃は多少の余裕も生じたので、人生の明るい面を見たい心持が動いてゐたやうで、それを抒した歌が残つてゐる。この歌はその一つで、他は
 人の世を楽しむことに我が力
少し足らずと歎かるゝかな
 いみじかる所なれども我にのみ
憂しと分ちて世を見ずもがな
 の二つである。
 楽しみたいが力が足りない、私にのみ辛かつたといふ風に分けたくない、人の世をよそから見ると、如何しても楽しんで生きてゆくべき所としか見えない、それが出来ないのは力が足りないからだと思ひ又いい所なのだが私に限つて、辛いのだと初めから分けて考へることを止めたらどうだらうなどと思ひ悩むのであつて、これは連作として三首併せて読まねば意味が完結しないわけだ。

  自らの心乱してある時の息のやうなる雪の音かな

 雪の音は雨の音と異つて、聞こえるやうでもあり聞こえない様でもあり、淋しい様な暖かい様なあいまいなものであるが、作者はそれを心の乱れた若い女の息のやうに感じたのである。
 雪の音を外界から切り離して抽象的に詠むことは作者以前には蓋し無かつたであらうし、又出来ることでもない。
 それを作者は敢て試みたわけで、之を読んで同感し得る人から見れば成功した作といへる。

  川上の峨峨の出湯に至ること思ひ断つべき秋風ぞ吹く

 これは大正十三年九月陸前青根に遊んだ時の作。
 青根の奥深く、蔵王の麓でもあらうか峨々といふ恐ろしく熱い山の温泉のあることを聞いて少し心を動かしたが、車でなど行かれる所でもないので問題にはならなかつた。
 そこで罪を秋風に著せて思ひ止ることにしたのである。

  何時見てもいはけなき日の妹の顔のみ作る紅椿かな

 作者はあらゆる花を愛し、あらゆる花を歌つてゐるが、椿も亦その最も好むものの一つであつて歌も多い。
 蓋しこんな所にもその所因があつたのかも知れない。
 この歌では何時見てもといふ句が字眼である。
 特殊の場合に恐らく誰にでも経験のあるらしい事だが唯気がつかないのだと思ふ。
 それを作者がこの椿の花の場合について代つて云つてくれたのである。

  夕暮に弱く寂しく予め夜寒を歎く山の蟋蟀

 この歌では「予め夜寒を」が字眼で之が無ければ歌にはならない。
 (世間ではこの歌から予めを抜いたやうな歌を作つて歌と思つてゐるらしいが、いらぬ時間つぶしである。
 )初秋とはいへ山の上では夜ふけは相当寒い。
 それを啼き初めの弱い声をきいて蟋蟀も夜寒を感じてゐると思ふのである。

  春の夜の月の光りに漂ひて流れも来よや我が思ふ人

 久しぶりで音楽歌うたが出て来た。
 この歌などが日本文学中の一珠玉になつて若い人達の間に日常口誦されるやうな日が早く来ればよいと思ふ。
 蓋し日本抒情詩はそこから前進するであらうから。

  陸奥の白石川の洲に立ちて頼りなげなる一むら芒

 青根から降り来て白石川の川添ひに暫く車を走らせた時見た川の洲の芒である。
 当時のあくまでもさびれてゐた東北の姿がそこにもあらはれてゐるやうで頼りなげに見えたのである。

  別れつる鼠の色の外套がおほへる空の心地こそすれ

 今し方男に別れて来た女の心をその上にある曇り空で象徴しようとした試みであつて、別れた男の外套の鼠色が空に拡がり、それが心にうつることにしたのである。

  しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きし思ひ出

 フランスを思ひ出した歌の一つ。
 夫妻の巴里の宿は近代画を収めて居るリユクサンブル博物館の辺にあつたやうで、そこへは夏の日の長い巴里では夕食後に行つても尚明るく、夕風がしめやかに旅の心を吹いたのであらう。
 巴里に居たのは大正元年でこの歌の出来たのは十三年であるから十余年の歳月がその間に流れ、作者の歌人としての技量はぐんと進んだ。
 思ひ出の歌の方がすぐれてゐるのはその所である。

  もの云はじ山に向へる心地せよ君に加ふる半日の刑

 ものやはらかな刑であつて、作者の漸く成長したことを思はせる。
 紅梅どもは根こじてほふれといつた様な時代であつたらこんな事では済まされなかつたであらう。
 それにしても山に向へる心地せよとはうまいことをいつたものである。
 この歌などもその内に恋をする若い女性の常識となる日が来るであらう。
 又その位に日本女性の趣味教養が高まらねばだめである。

  二夜三夜ツウルの荘に寝る程に盛りとなりしコクリコの花

 コクリコの花とは虞美人草の俗名ででもあるらしい。
 作者はひなげしとちやんぽんに使つてゐる。
 ツウルの荘はピニヨン夫人のロアル川上の水荘である。
 当時の歌の ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコ我もコクリコ の大に盛なのに対し、この歌には十余年を経てすつかり落付いた作者の心境が示されてゐる。

  額髪ほほけしを撫で何となく春の小雨の降れと待たれぬ

 たわいない歌のやうであるが、棄て難い味なしとしない。
 ほほけしを撫でといふ所もよいのであらう、それが春の小雨といふ小さな期待であることもよいのであらう、何となくもよいのであらう、小さいことだがそれらが三つ重つて軽い楽しい持味を作り出すのであらうか。

  歌の本絵の本尋ね何時立たんセエヌの畔ほとりマロニエの下

 これはフランス囘顧の歌ではなく、四十になつた作者が夢に巴里に遊び、例の河岸の石垣の上に店を出した古本屋を覗き込む歌である。

  よそごとになしてその人死にぬなど話を結ぶありのすさびに

 短篇小説の筋でも話すやうに一くさり我がロマンスを話したがその話の真剣なのに似ず、簡単によそよそしくその人は今は死んでゐないといつて話の結末をつけてしまつた。
 自分でもそれが一寸面白かつたのである。

  前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋の傍

 作者この時四十八歳。
 尚しかし恋の傍らといへるほどの若さと戯れにダンスをさへ弄ぶ快活さとを失つてゐなかつたのである。
 それでゐて、私が今頃になつて漸く感じ出した冬の長さを感じて一生よりも長いやうだと云ひ現はしてゐるのには全く感心させられる。
 感覚の感度の相違である。
 しかし私の場合とは反対にこの冬は恐ろしい冬でなく楽しい冬である。
 さあ恋の傍ら何をしようとするのであらうか。

  足をもて一歩退き翅もて百里を進むわりなさか是れ

 自分には人の持たぬ翅がある。
 この翅は前へ飛ぶことを知つて退くことは出来ない。
 退くには足を以てしなければならない。
 人が一歩歩く間に百里飛んでしまつたのでは調子が合はないから後退しようとするが、足で一歩退くのではどうにもならない。
 まづさういつたやうな不合理である。
 世間の凡俗と自分との距離の大きさを痛感し当惑したものであらう。
 例へばこんな場合がある。
 源氏の作者を二人に分け、宇治十帖を娘の大貳三位の作と断じたのなどは、自分には極めて明白で疑ふ余地のないことである。
 文章を読み破る力のある人、歌の調子又そのよしあしを判別し得る人なら誰でも気がつく筈である。
 それを今日迄誰一人気づくものもなく、又今日私がそれを云ひ出しても一人の同意者も得られない。
 当惑せずにはゐられないではないか。

  落葉ども昔住みつる木の影の写ると知るや暖き庭

 これもいつもの万有教的観察のあらはれで、冬の日の暖かい日ざしはそのまま作者の人間の心の暖かさを呼び出し、地上一面に散らばつて落葉にまで話しかけさせるのである。

  青海波金に摺りたる袴して渡殿に立つわが舞の仕手

 美しい若い女の子の仕舞姿をたたへるものであらう。
 之に続いて 皷よしいみじく清き猩々が波の上をばゆらゆらと行く といふ歌があるので、その舞の猩々であることが分る。

  鴉ども落日の火が残したる炭の心地に身じろがぬかな

 ここに又印象歌うたの内でも最も濃淡のはつきりした一例が見られる。
 冬の落日の印象で、日が沈み終つても尚裸木に止つた儘動かない鵜を火の消えた火鉢の炭のやうに感じたのである。

  束の間も我を離れてあり得じと秋は侮る君の心も

「君の心も」は「君の心をも我が心をも」の略であらう。
 倦怠の夏が過ぎ、快い秋ともなれば、恋の引力が急に増大して離れられなくなる。
 それを見る秋は人の心の弱さ頼りなさを侮らずには居られないであらう。

  寂しさを華奢の一つに人好み我は厭へど逃れえぬかな

 この人は誰でもよい、古人でもよい、寛先生であつてもよい。
 兎に角日本人には寂しさを好むものが多い。
 私は華やかなことは好きだが、寂しさやしをりは大嫌ひだ。
 しかし人生の一面である以上それから逃れるわけにもゆかないのである。

  秋風は長き廊ある石の家吾が為めに建つ目には見えねど

 作者は巴里滞在中、油絵の手ほどきを受け、帰朝後も暫く写生を続け、素人としては雅致なしとしない幾枚かを作り富士見町の壁に懸けてゐたことがある。
 それも作者が造形芸術家としてその資格を欠かない一証ではあるが、この歌などは作者の造形芸術家としての面目を明瞭に表してゐる。
 或は音楽として或は美術として自由自在に自己を表現して余す所のなかつた作者は珍重されなければならない。

  信濃川鴎もとより侮らず千里の羽を繕ひて飛ぶ

 大正十三年八月新潟での作。
 日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。
 千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。
 これは同時に象徴歌うたであつて、どんなことにも全力を尽くして当る作者自身の心掛を鴎に見出したのである。

  天地に解けとも云はぬ謎置きて二人向へる年月なれや

 夫婦生活の謎である。
 その謎は遂に解かれずして今日に至つたが、思へば変な年月を暮したものだ。
 他人も皆さうなのであらうか。
 道歌の一歩手前で止まつた形ともいへる。
 少し匂ひがするがこの位はよからう。
 「なれや」は少し若い。

  大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな

 荒海や佐渡に横たふ天の川 がある以上その上に出来て居る作だと云はれても仕方がないが、詩としての価値はそんなことで左右されはしない。
 詩人としての才分を比較すれば、晶子さんの方が数等上であらうが、この句と歌とだけを比較すれば一寸優劣はつけにくい。
 芭蕉もいい句はやはり大したものである。

  誰れ見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕暮の風

 晶子さんの心が漸く生長して少しのことでは尖らなくなつた頃の作。
 その心持が偶々夏の夕暮の涼風に反映したものであつて、同時にそれは又万国和平の心でもある。

  近づきぬ承久の院二十にて遷りましつる大海の佐渡

 佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。
 近頃の人ならおけさを思ふであらう。
 作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた。
 歌人として史家としてさうあるべきであるが、その感動がよくこの一首の上にあらはれてゐて、自分をさへ一流人として感ずるものの様に響く。

  水の音激しくなりて日の暮るゝ山のならはし秋のならはし

 大正九年初秋北信沓掛の星野温泉に行つた時の作。
 あそこは水の豊富な所だから特にこの感が深かつたのであらう。

  菊の花盛りとなれば人の香の懐しきこと限り知られず

 菊の花の真盛りと人懐しさの極限に達することとの間に如何いふ関係があるのであらうか。
 詩人はものを跳び越えるので、橋を渡して考へなければ分らないことが多い。
 先づ気候が考へられる。
 菊の花盛りは十一月の初旬で空気が澄み一年中一番気持のよい気節で、人間同志親しみ合ふのも最も適してゐる、結婚などもこの月に多いやうである。
 も一つ考へられる橋は菊の匂ひである。
 この匂ひは木犀やくちなしの様に発散しないし、薔薇のやうに高くもないが、近く寄つて嗅ぐ時は一種特別の匂ひがする、それは香水の匂ひなどと違つて極く淡い忘れ難い匂ひである。
 詩人の嗅覚にはそれが人の香のやうに感じたのかも知れない。
 さうだとすれば、人の香の懐しきこと限り知られずとは即ち菊の花に顔を当てた時の感じだ。
 私にはこれ位より考へられないからこれで負けて貰ふことにする。

  薄白く青く冷たき匂ひする二人が中の恋の錆かな

 作者は第十六集「太陽と薔薇」の自序で斯う言つて居る。
 「三十一音の歌としての外形は従来の短歌に似て居ます。
 似てゐるのは唯だそれだけです。
 読者は何よりも先づ、私の個性がどんなに特異な感動を持つて生きてゐるかを、私の歌から読まうとなさつて下さい。
 唯だ感覚に就てだけでも何か他人と違つた私の個性が現はれてゐるとしたら、とにかく私の歌の存在の理由が成立つ訳です。
 」 洵に作者の感覚は従来の日本人のそれとは大分違つてゐる。
 私もこの本でそのことを幾度か説いた様に思つてゐる。
 しかしこの歌のそれは明かに近代感覚であつて、意識して取り入れたものである。
 試みに外国語に訳して見れば分る、少しも日本臭などはせず、近代人なら誰でも其の儘受入れることが出来よう。
 もしこの歌を読んで何のことだか分らないものがあるとすれば、それは万葉集の外何も知らない短歌人か、古今集以下を習ふ和歌人かであらう。

  白銀の笛の細きも燃ゆる火の焔の端も嘗むる脣

 対照の美である。
 対照の美が高級の美となる為には照応すべきものの選び方が大切である。
 もしそれが誰でも思ひつく程度のものなら美は成立しない。
 フルウトの歌口と火焔の端とは可なり距離があつて同日の談でない。
 しかも一方は物そのものであり、一方は恋をする若い女の象徴である。
 その同日の談でないものを同一の脣に当てるから初めて美が成立し、その程度も可なり高いものとなるのである。

  桜疾く咲きたる春と驚きぬ我が送る日のいと寒き為め

 この歌なら誰にでも分るであらう。
 またこの位な体験なら誰にでもあらうから。
 唯その言葉遣ひの甚だ滑らかにおだやかに不自然な所のないのを私は尚ぶ。

  音高く鳴る鈴を皆取り捨てぬ昨日に変ることはこれのみ

 もとより象徴的であるからその解釈は読者の勝手である。
 例へばこんな風の場合がその一つ。
 世間に喧伝してゐる晶子さんの歌は若い時のもの許りで絢爛として目を射るやうなものが多い。
  罪多き男懲らせと肌清く黒髪長く創られし我 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人皆美くしき 咒ひ歌書き重ねたる反古取りて黒き胡蝶をおさへぬるかな 春はただ盃にこそ注ぐべけれ智恵あり額の木蓮の花 人の子に借ししは罪か我が腕白きは神になど譲るべき などいふ様な「乱れ髪」調がそれだとすれば之等は即ち音高く鳴る鈴である。
 そんな鈴は皆取り捨ててしまつた。
 昨日と違ふのはそれだけのことである。
 私自身は少しも変つてゐはしないのに世間はもはや振り向かうともしない。
 鈴などは借物である。
 その借物の音を彼此言はれるのがいやだし特に高い音には厭になつたので皆捨ててしまつたまでである。

  空青し雁の渡るを眺むらん孝標の女も国府の館に

 葛飾の十橋荘で作つた歌。
 そこから国府の台が近く見える。
 そこは更科日記の作者が少女の時代、父の国司(菅原孝標)の手許で過した所である。
 今日は空が晴れて美しい日だから古への文学少女も外を眺めて渡る雁がねを聞いてゐることであらう。
 孝標の女は源氏物語のフアンでこの点晶子さんと同好のよしみがありお気に入りの一人と思はれる。

  紫に墨しみ入りて我が心寂し銀糸の紋を縫はまし

 紫は作者の最も好む色でそれを以て心の象徴としてゐた処、いつしか時の流れの墨の色がしみこんで大分くすんでしまつた。
 それだけでは少し寂しすぎるので、銀糸で縫ひ取りでもしようといふのであるが、さて銀糸の紋とは何であらうか。
 李白でも読まうか、絵でも習はうか、梅蘭芳を見に行かうか、それとも温泉へでも行かうか。
 詩人の心も欲しいものは好ましい刺戟であらう。

  屋根の雪解けて再び雨と降る更に涙にならんとすらん

 屋根の雪(第一変化)の解けて雨垂れになつて落ちる(第二変化)のを眺めてゐると、第三番目に変化したら何になるのだらうと考へるに至つた。
 その時は疑もなく人の涙線に入つて涙となつて流れる様に思はれる。
 もとは同じ水蒸気であるからさうなくてはならぬのであらう。

  薔薇少し米よね用なしと法師より使来たらばをかしからまし

 美と実生活、難しい問題である。
 そこへ更に宗教が出て来て世間と出世間の問題が加はつたのがこの歌である。
 出世間人が出世間人であること、実生活を捨てて美を取ることは現代に於ては勿論いつの世でも一寸珍しい図面ではなからうか。
 そんなことがあつたらそれこそ面白い珍重すべきことなのであるが、実はおあいにく様である。
 不可能事を空想することそれは古人もやつたことであるが、往々にして好詩を形成することがある。

  何事か知らず篝の燃えに燃え宿の主人に叱らるゝ馬

 大正十年八月再び沓掛の星野温泉に遊んだ時の作。
 この時は私も一緒に行つた。
 私は第十七集「草の夢」の為に序を作つたが、その中でこの歌の成立した時の光景を書いてゐるので一寸思ひ出して見る。
 それはある夕方軽井沢の莫哀山荘に尾崎先生を御尋ねしたその帰りに沓掛駅まで歩いて来たことがある。
  ほととぎす沓掛橋を渡る頃夫人の脚は労れたるかな といふ歌を十年振りで私が詠んだ時の事である。
 沓掛駅に来て星野温泉の馬車に乗らうとすると今汽車が著いた所と見え満員で乗れなかつた。
 そこで止むを得ず労れた足を引ずつてあの埃ぽい路を歩いて帰つたことがあつた。
 帰つて見るともう日も暮れてしまひ、捕虫の目的であらう庭には篝がたかれてゐたが、私達が歩いて帰つたのを見て、なぜ迎へに出なかつたのかと主人が馬車を仕舞うとしてゐた馭者を叱かつた。
 それを馬が叱られた様に思つたのである。
 馬は叱られてその意味が分らずきよときよとして向うを見ると篝火が燃えさかつてゐて、それが小言と関係があるやうにも思へるが、この暑いのに何の為に火を焚くのかそれも分らずに当惑して居る形である。

  夏草を盗人のごと憎めどもその主人より丈高くなる

 その頃の星野温泉はまだ出来た許りで、将来庭となるべき所も未だ夏草の原であつた。
 主人は早く草でも刈つてきれいにしたいが何分にも人手がないのでとか何とか言ひわけをすると、それを聞いた寛先生はとんでもない。
 山荘の庭などといふものは草あるが故に貴いので、草を刈つてしまつては町家の庭も同じことになつてさつぱり値打ちがなくなつてしまふとか何とか、主人も主人だが寛先生の方も少し無理な負けず劣らずの夏草問答があつた。
 それを聞いて居て良人の肩を持つたのがこの歌である。

  女郎花山の桔梗を手弱女の腰ほど抱き浅間を下る

 今の千が滝の地は当時は落葉松の植わつた唯の高原で、そこから山の秋草を一抱へ持つて宿の男でも帰つて来たのであらう。
 その束が余り大きかつたので、ダンスをして相手を抱いてゐる形などを聯想したのであらう。

  姑と世にいふものが片隅にある心地する暗き浴室

 姑だけは晶子さんの知らない存在である。
 また許し難い存在であつたかも知れない。
 その姑さんが居るやうだといふのだから余程暗い気味のわるい風呂場だつたに違ひない。
 或は自家発電による暗い電灯の為だつたかも知れない。

  越の国斯かる幾重の山脈の何処を裂きて我来りけん

 前と同じ行、初めて赤倉温泉に浴した時の作。
 北の方日本海に向つて大きく開けてはゐるが、他の三方は皆山で、特に東方は上信越の山々が屏風を重ねたやうに屹立して居る。
 成るほどさう云はれて見ると東から来た筈の私達はトンネルも潜らずに何処を如何して来たものか怪しまずには居られない山の立たずまひである。

  山涼し馬を雇はん値をばもろともに聞く初秋の月

 同じ行赤倉を出て渋の奥にある上林温泉へ廻つたが環境がもの足りなかつたのでも少し奥へ這入りたかつた。
 ここから上州白根へ抜ける路に発甫ほつぽといふ小温泉のあることが温泉案内に書かれてある。
 しかし馬でなければ行かれぬ。
 そこで馬子を呼んで貰つて打ち合せをした。
 初秋の月がその相談を上から聞いて居た。
 しかし雨が降つたか如何かしてこの発甫行きは実現しなかつた。

  大木の倒さるゝ事幾度ぞ胸をば深き森と頼めど

 千古斧鉞を入れぬ処女林のやうに思つて頼みにして来た我が胸にもいつの間にやら忍び入るものがあつてその度に大木が地響打つて伐り倒された。
 ああ人生の悲劇、幾度か幕が降りたがどこ迄続いて行くのであらう。

  賜りし牡丹に代りもの云はん長安の貴女人を怨まず

 天下無双の容色を誇り帝寵を一身に集むる楊貴妃のやうな女に人を怨むといふことはない。
 牡丹の花を見るに、海棠の雨に濡れて怨むが如く訴ふるが如き姿態などは夢にも知らぬ様だ。
 折角頂いた牡丹だが、牡丹に口なし、乃ち代つて私がその美を語らう。
 私は長安の貴女楊氏です、人を怨むなどといふさもしい事は知りません。

  蘭の鉢百も並べて百体の己を見るも寂しはかなし

 澁川玄耳さんが山東省へ行つたきり遂に帰つて来ない。
 しきりに蘭を蒐集して閑を遣るものの如くである。
 一鉢一鉢に自己を打ち込めば百鉢には百鉢の玄耳があらはれるわけだが、我と我が姿を見てもはじまらぬではないかと遠くその心情を憐んだ歌である。
 も一首 泰山を捨てゝ来よとも云ひなまし玄耳の翁唯人ただびとならば といふのがある。
 常人でない玄耳さんの事故泰山なんか捨ててしまつて帰つて御出でなさいと単純にも云へないのである。

  錦木に萩もまじれる下もみぢ仄かに黄なる夕月夜かな

 錦木の下に萩の植込みがあり、錦木は牡丹色に萩は黄色にもみぢしてゐる。
 その上に夕月が掛つた。
 そのうちに錦木の紅は黒く消えてしまつて萩もみぢの黄色のみが仄かに浮き出して来るのである。
 これは純な日本の伝統を襲ふものであるから晶子歌でも翻訳は出来ない。

  物見台さることながら目を閉ぢて我は木の葉の散る音を聴く

 武蔵野にある久保田氏の都築園といふのに遊んだ時の作。
 その中に物見台といふ小高い所があつて登つて見たが、私は物を見る代りに目を閉ぢて反つて木の葉の散る昔を聴いてゐる。
 極く軽いユウモアはあるが別に皮肉ではない。
 さうして反つてよく武蔵野の晩秋の光景があらはれてゐる。

  森に降る夕月の色我が踏みて木の実の割るゝ味気なき音

 これは珍しく押韻の歌があつた。
 啄木流に三行に書くと
森に降る夕月の色
我が踏みて
木の実の割るゝ味気なき音
 はつきりものの音が響いて来て一寸面白い。
 意識して作つたものでは勿論ないが、将来ロオマ字歌が作られる様になつたらこんな方向にも進む機会がないとも限らない。

  降る雪も捕手が伸ばす足も手もうるさき中の美くしき人

 作者は必ずしも芝居好きでなく余り度々も行つて居ないが、それでも芝居の歌をいくつか詠んでゐる。
 これもその一つ。
 芝居のことに暗い私にはこの光景が何の幕切れであるか知る由もないが、見たことはあるやうだ。
 女のやうでもあるが、羽左衛門なら男でも当て嵌まる。
 雪や手や足が邪魔になるやうで邪魔にならずそれぞれの効果を挙げてゐる所が「うるさき」で表現されてゐるのである。

  殿上に鱶七も居て煙草飲むかかる世界を賞でて我来

 考へて見れば歌舞伎劇の世界こそ途方もない世界である。
 千本桜なども正にその一つであらうが、途方もない世界であることもさう云はれて見れば人はやはり忘れてゐる。
 事々物々作者を泣かさぬといふことのないこの世の中で、独り一番目の舞台に限り全くの別世界である。
 感覚の鋭い作者故にこの感も深いのであらう。

  序の曲の急なりあはれ何事にならんと涙滝のごと落つ

 さう思つて芝居には来たのに既にして大ざつまが初まれば、もう駄目である。
 何か非常なことの行はれる予感がして涙が滝のやうに落ちて来る。
 家にあつてはこんな涙は出ないのに。

  何すらん船の数ほど人居たり口野の浦の春の黄昏

 大正十一年二月畑毛から昔の馬車に乗つて静浦に出た。
 海岸には漁夫らしい男が一塊居た。
 何か初まりさうなけはひが感ぜられた。
 その光景が旅の心を打つたのである。

  限りなき命を持ちて居給ふと思ひしならね頼みし如し

 鴎外先生を弔ふ歌の一つ。
 鴎外先生は晶子さんの心から畏敬した先輩の一人であつた。
 従つて同先生から認められたことはどれ位嬉しいことか知れなかつた。
 巴里行の場合なども、偶々満洲から出て来た私が一日夫人の行きたがつてゐる趣きを先生の耳に入れた処、先生は即座にさうだらう、行きたいだらう、宜しいそれでは俺も一つ骨を折らうと言つて三越に話されその方からも何程かの費用が出た筈である。
 それ位晶子さんを可愛がつてゐた先生が俄になくなられたので、その失望は大きかつたらしく、それがこの歌の「頼みし如し」によく現はれてゐる。
 又 何事を思ふともなき自らを見出でし暗き殯屋の隅 といふ歌もあるが、それにも同じ心が出て居る。

  夢醒めて我身滅ぶと云ふことの味ひに似るものを覚ゆる

 夢が浮世か浮世が夢か、畢竟夢の世の中に唯一つ確なことは夢の存在である。
 夢だけは確に夢である。
 その夢の醒めることは即ち我が身の滅びることでなければならない。
 仏教哲学的に云へばさういふ理窟にもなるが、この歌はそんなことには関係なく単に作者の瞬間的の感覚を抒したもので、私にも同じ様な醒め際があるのでよく分る。
 しかしその感覚の根底を為す潜在意識といふものがありとすれば前の理窟のやうなものでは無からうか。

  宮城野の焼石河原雨よ降れ乾く心はさもあらばあれ

 大正十一年十月初めて箱根仙石原に遊んで俵石閣に泊したその時の作。
 丁度早川の水涸れの時期であつたらしい。
 焼石のごろごろして居る河原は見るも惨たらしいが、それは実はわが心が同じ様に乾いてゐるので、それが反映して痛ましく感ぜられるのではないか。
 せめて雨が降つて河原だけでも濡らして欲しい。
 それを見たら私の心も少しは沾ふことだらう。
 といふ様な意味の歌だが、そんなことは如何でも宜しい。
 読者はその調子のすばらしさを味はつて生甲斐を感じて欲しい。

  水落つる中に蹄の音もして心得難き朝朗かな

 作者が単行本として出した最後の集は第十九集「心の遠景」である。
 この集に就いて作者はこんなことを云つてゐる。
 「若し私が長生するならば、斯くいふ今日の言葉に自ら冷汗を覚える日が無いとも限らないのであるが、とにかく小さい私の作物として、今日は「心の遠景」を最上の物として考へてゐるのである。
 」それは昭和四年の事であつたが、その後の事実は作者の予想した通りで、作者の表現法は年と共に進んで極る所がなく、「心の遠景」なども忘却の靄の中に埋没してしまふ許り影の薄い存在となつたのである。
 しかし今私が若い頃からの全詠草を順序を立てて見直して来てすぐ気が付いたことは、まだまだこの辺までは真の自由を得て居ないといふことである。
 その証拠は「太陽と薔薇」の自序にある。
 曰く「私は久しく歌を作つて居ながら、まだ自分の歌に満足する日が無く、絶えず不足を感じて忸怩としてゐる人間です。
 自分はもう歌が詠めなくなつたと悲観したり、歌と云ふものはどうして作るものであつたかと当惑したりすることが毎月幾囘あるか知れません。
 内から自然に湧き上る熾烈な実感の嬉しさに折々出合ふ時でさへ、それの表現に行詰つて唖に等しい苦痛の中に人知れず困り切つてゐることがあります。
 その難関を突破して表現の自由を得た刹那に詩人らしい自負の喜びを感じるにしても、次の刹那にはまた現在の不満を覚えて、自分の歌に対する未来の不安を抱かずにゐられません。
 」私などもつひこの間まで詩人としての自覚がないのでその程度は尚浅いにしても同じ悩みを持つてゐたから、その苦心の状態がよく分る。
 しかしその不自由もやがて完全に縄の解ける日が来て遂には昔の夢になつてしまつた。
 この歌などがその自由を得た日の極く初めの方を記念するものの一つであらう。
 思つたこと――それは摩訶不可思議な、仙人の見る夢のやうな、名状すべからざるものの影に過ぎない――がそのまま歌になつて少しの渋滞の跡も示さない、斯ういふのを表現の自由といふのであつて、作者の如き才分の豊かさを以てしてもここに達するには二十年の苦しい修練を要したのである。
 この作も前のと同じく俵石閣で作つたもの。
 その庭には池があつて山の水が落ちてゐた。
 下の街道には荷を著けた馬が通つてゐた。
 ふと目がさめて見ると不思議な音が聞こえてゐてそれは明かに東京の家ではなかつた。
 ここのこの感じが歌はれてゐるのである。

  上なるは能の役者の廓町落葉そこより我が庭に吹く

 これは富士見町の崖下の家の実景で、秋の終りともなれば崖上の木の葉、中でも金春舞台を囲む桐、鈴懸、銀杏、欅皆新詩社をめがけて散つたのであらう。
 この辺もしかし空襲ですつかり焼けてしまつたといふことである。

  手綱よく締めよ左に馬置けと馬子の訓へを我も湯に読む

 大正十二年一月天城を越えて南伊豆の初春を賞した。
 その時谷津温泉で作つたもの。
 自動車交通の開ける以前の伊豆旅行は凡て円太郎馬車か、馬の背に頼る外無かつた。
 従つて初めて馬に乗るものの為に乗馬の心得が浴場の壁に掛けてあつたとしても必ずしもあり得べからざる事でもない。
 南伊豆の狭い海岸の天城颪の吹きまくる谷津の湯の湯船の中で女の私が乗馬訓を読まうなどとは思はなかつたとをかしいのであるが、しかし如何にもよい訓へだと感心してゐる趣きも見える。

  藤原の理髪の家の前の土馬車を待つ間に夕霜の置く

 私は行つた事がないが藤原の湯とは蓮台寺温泉の事でもあらうか。
 今夜は下田へ行つて泊らうと宿を出て、理髪屋の前で下りの馬車を待つてゐると日が暮れかかつていつの間にか夕霜が白く置いてゐた。
 恐ろしく細かい観察であり、又時所位の限定でもある。
 さうしてそれ故に特殊の美が生ずるのである。

  山に居て港に来れば海といふ低き世界も美くしきかな

 蓮台寺から下田へ来ての感想であるが、「海といふ低き世界」は今では私共の間では熟語になつてしまつてゐる。
 感覚の正確妥当さを証する一例である。

  洞門と隣れる家に僧の来て鉦打ち鳴らす多比の夕暮

 静浦から韮山の方へ出るトンネルの付近は地方有数の石切り場で、いくつかの洞が出来てゐて、一寸風変りな光景を呈してゐる。
 そこへ念仏僧か何か来て鈴を鳴らす。
 日の暮の薄靄が海面を這ふといふ様な光景である。

  七月の夜能やのうの安宅陸奥へ判官落ちて涼風ぞ吹く

 安宅がすんだ、判官は通過した、緊迫が解けた、まあよかつた、ほつとして一息つくと、七月の夜も既に更けて涼しくなつてゐた。

  切崖の上と下とに男居てもの云ひ交はす夕月夜かな

 これも富士見町辺で見掛けられた小景を其の儘切り取つたもの、ありのすさびの一興である。

  鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ

 大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。
 精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。
 西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。
 西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。
 そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。

  勢ひに附かで花咲く野の百合は野の百合君は我に従へ

 文句を云はずについていらつしやいといふべき所を女詩人らしくいふと斯うなるのである。
 斯う云はれて見ると附いて行かざるを得ないであらう。
 野の百合はソロモン王の栄華を尻目にかける頑な心の持主である。

  なつかしき萩の山辺の白雲をおしろい取りて思ふ人かな

 おしろいを解きながら、唯その白いといふ色の縁だけで、白雲の飛ぶ山の景色を思ひ浮べ得るほどの人は、それだけで既に立派な女詩人である。
 次にこの歌に同感し得るほどの女性なら歌人になれる。
 この歌の分らない人は一寸難しい。

  時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る

 これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。
 ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。
 さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。

  花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし

 これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。
 季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。
 百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら一々の花に会釈し廻る趣きである。

  君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はゞ人怪しまん

 有島武郎さんの死を悼んだ歌。
 この両人の関係は前にも一度触れたが、晶子さんを十分に appreciate した多くない人の中で、恋人のやうな気持で近づいたのはこの人だけであつた。
 それだけ晶子さんには掛け替のない男友達であり、同時代人であつた。
 しかし如何にその死を悼む情が痛切であつても、それが同じ年頃の異性である場合、十分に心を抒べることが出来ない。
 それが「苦しい」のである。
 因にその時の挽歌を少し引かう。
  書かぬ文字言はぬ言葉も相知れど如何すべきぞ住む世隔る しみじみとこの六月程物云はでやがて死別の苦に逢へるかな 信濃路の明星の湯に友待てば山風荒れて日の暮れし秋 我泣けど君が幻うち笑めり他界の人の云ひがひもなく から松の山を這ひたる亡き人の煙の末の心地する雨

  休みなく地震なゐして秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街

 大正十二年秋の関東大震災は今日から見れば大したことでもなかつたが、戦争以前の日本人には容易ならぬ異変であつた。
 しかし当時は幸に晶子さんといふ詩人がゐて歌に之を不朽化してくれたので文化史上の一齣を為し得た。
 然るに今囘の戦禍は如何であらう。
 その数倍数十倍に上る災禍も一詩人の詩に作つて之を弔つたものあるを聞かない。
 情ないことになつたものである。

  大正の十二年秋帝王の都と共に我れ亡びゆく

 これなどは昭和二十年春浅くとでもした方がどれ程適切か分らない。
 それにしても晶子さんはよい時に死んだものである。

  天地崩ゆ命を惜む心だに今暫しにて忘れ果つべし

 命を惜む心は人間最後の心であつて、それより先にものはない。
 その最後の心をも忘れる許りに恐ろしかつたのである。
 あの繊細な感覚の持主にして見れば無理はない。

  空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月昇りきぬ

 二十五年も前の事だが九月二日三日とまだ烟の立ち昇る焼跡に昇つた満月の色を私は忘れない。
 日は沈み月は昇るがそれは空の事、人間世界は余震と流言と夕立とでごつた返してゐたのであつた。

  十余年我が書き溜めし草稿のあとあるべしや学院の灰

 作者の新訳源氏物語の出たのは與謝野寛年譜によると大正元年になつてゐるが如何ももつと前のやうな気がする。
 この草稿といふのはそれは併し文語体を以てした抄訳であつた。
 詳細を極めた源氏の講義録のやうなものでそれを土台にして完訳を試みる積りであつたらしい。
 何しろ異常な精力をかつて十年間に書き溜めたのだから厖大な嵩のもので、麹町の家に置くことを危険として文化学院にあづけて置いたものである。
 それを焼いてしまつたのだからその失望の程思ひやられる。
 しかしその灰からフエニツクスのやうに復活したのが一人となつて晩年に書き出して遂に完成した新々訳源氏物語である。
 それがまるで創作のやうによくこなれてゐて他人の追随を許さないのも遠因はここにあるのである。

  鈴虫が何時蟋蟀に変りけん少し物などわれ思ひけん

 鈴虫を聴いて居た筈であつたのに、どうしたことか蟋蟀が鳴いてゐる。
 いつの間に鈴虫は鳴き止んだのであらう、また何時蟋蟀が之に代つたのであらう、私は何か考へてゐたに違ひないといふのである。
 私は音楽を聴きながら常に之と同じ感じを持つ、何か物を考へて居てかんじんの曲を聞いてゐない、さうして時々気がついては曲に耳をかたむけるのである。
 これは私の音楽の場合であるが、蒲原有明さんの場合はそれが芝居で起るのである。
 蒲原さんは芝居を見て居て物を考へてしまふ、といふことは芝居を見てゐて見ないことを意味する。
 それ故に蒲原さんは決して芝居を見ないといふことを御本人から聞いて、私の音楽の場合と同じだなと思つたことがある。
 その最も軽いオケエジヨナルの場合がこの歌である。

  思へらく岳陽楼の階を登りし人も皆己れのみ

 昔聞洞庭水。
 今上岳陽楼。
 呉楚東南拆。
 乾坤日夜浮。
 親朋無一字。
 老病有孤舟。
 戎馬関山北。
 憑軒悌泗流(杜甫)もしこの詩から出たものとすれば岳陽楼の階を登つた人とは杜甫のことになる。
 然らば「皆」の中には李白、白居易、蘇軾等々が数へられ、それらの詩人文人皆我が前身又分身である。
 私は自身をさう考へてゐるとなるのであらう。

  皆人の歩む所に続く路これとも更に思はぬを行く

 我が行く路は荊棘の路であつて、因習に循ふ諸人の道にそれが続くとはどうしても思はれない。
 けれども私はかまはずそれを進んでゆく。
 晶子さんはこの心構へで一生を貫き通した人であつた。
 洵に壮なりといふべきである。

  山の馬繋ぐ後ろを潜るには惜しき我身と思ひけるかな

 越後関山の関温泉へ行つた時作つたもの。
 たまたまかういふ破目に陥つたのであるが、何が幸ひになるか分らない。
 こんな面白い歌もその為に生れて来る。
 矜誇もこの位の程度なら誰でも同感出来るであらう。

  海は鳴り人間の子は歎けども瞬きもせぬ沙の昼顔

 晶子中年の近代調を代表するものの一つで、この頃から晶子歌の世間性がなくなり、其の傾向は年を追ひて甚しくしまひには時代と詩人とは全くの他人となり終つたのである。
 それであるから世間の知つてゐる晶子歌は若い頃の比較的未熟なものに限られることになり、作者は常にそれを歎いてゐたが、しまひにはそれも諦めてしまひ、人に読んで貰はうなどと思ふことなく唯ひたぶるに詠みまくつて墓へ這入つてしまつたのである。
 成るほどこの歌の如きにしても 柔肌の熱き血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然とは行かない。
 男が一人悄然として物思はしげに立つてゐる。
 その前は涯知らぬ大海で汐がごうごう鳴つてゐる。
 沙の上に昼顔が咲いてゐるが何の表情も示さない。
 この三者を取り合せて一枚の絵を構成し、一小曲を組織したのがこの歌である。
 それ故にこの歌にあらはれてゐる美術なり音楽なりを受け入れる準備が読者に出来てゐなければ何のことだか分らないわけだ、それではいつ迄経つてもどうにもならないので私が今度これを書き出して少しづつ受け入れの準備をすることになつた訳だ。

  妙高の山の紫草にしみ黄昏方となりにけるかな

 作者は何万といふ歌を作つたがその三分の二は所謂旅の歌である。
 旅の歌はしかし第三者には余り興味のあるものではない。
 而してそれが何十何百と一度に出て来られては堪らない、ことにそれが毎月続かれては尚堪らない。
 昭和五年雑誌「冬柏」が出てからはさういふ状態が最後まで続いた。
 よほど根気のよいものでなければ読みきれるものではない。
 私如きも正直にいつて読んでゐない。
 私の読んだのは改造社版の全集であるから既に作者の手で厳選を経た沙金のやうなものであつた。
 「晶子秀歌選」を作るに当つて私の閲した二万五千首はさういふ沙金歌で、その外にまだ本人の捨てたものが相当数ある訳でその内暇が出来たらこの沙の分も一度調べて見たいと思つてゐる。
 さうすると一生涯に作つた歌の数も概数が分つてくるわけである。
 閑話休題、さてその沢山の旅の歌の中で最も光つてゐるもう一つにこの歌を数へてよからう。
 大正十三年八月再度赤倉へ遊んだ時の作。
 落日をその背面に収めた妙高山の紫の影が山肌の草にしみ入る様を正叙したものであるが、光景は其の儘読者の脳裏に再現せられ、読者はその中で呼吸し得るのである。
 名歌とはさういふものでなければなるまい。

  母我に白き羅与へたる夏より知りぬ人に優ると

 作者は自己の優逸を賞賛した歌を幾つか作つてゐるが、之を誇る色はない。
 唯因縁として運命として偶然として観ずる丈で誇るべきものとは思つてゐない様だ、そこが嫌味とならない所因である、この歌なども唯自覚した機会を美しく平叙するだけで少しも誇つてはゐない。

  夕焼の紅の雲限り無く乱るる中の美くしき月

 西妙高から初まつて東信越の山々に終る大きな夏の空には真赤な夕焼雲が絵具皿の絵具のやうに散らかつてゐる。
 その雲の間に白い夕月がちんと収つてゐる。
 山の様子が少しも示されてないので唯の天球の歌と見るより仕方がないが実はさういふ環境で作られたものである。

  長持の蓋の上にて物読めば倉の窗より秋風ぞ吹く

 堺の駿河屋の土蔵の中で更科日記か何か取り出して読んでゐる町娘の姿が浮んで来た。
 それは正しく自分である。
 倉の窓からは初秋風が涼しく吹き込んでゐた、丁度今日の様に。

  深山鳥朝あしたの虫の音にまじり鳴ける方より君帰りきぬ

 郭公がしきりに啼くのでどの辺だらうかとその方角を尋ねて居ると暁の露を踏んで早くから散歩に出た良人が、丁度その声のする方から帰つて来た。
 個中の消息誰か之を知らんといふ訳であらう。

  古里の蓬の香など匂ひ来よ松立つ街の青き夕ぐれ

 正月の街は松が立つてゐて外に色がない為何となく青味が勝つて見える。
 そこに若草の萠え出る早春の感じが出て来る。
 さうして故郷の和泉平野の蓬の匂ひが今にもしさうに思へる。
 そんなことを思ひながら暮れてゆく正月の街を見てゐた作者であつた。
 さうしてさういふ正月の街も嘗てはこの東京にもあつたのである。

  昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな

 夏の朝の山上の虹のいつまでも消えない消息を逆に喩への方から引出さうとするので、少し変だが有効な手段でもあるやうだ。

  春立ちぬ人と為したる約束を皆忘れ得ば嬉しからまし

 大晦日から元旦にうつる気分は色々表現され得るであらうが、これなどはその最も適切なものの一つであらう。
 元来時に大晦日も元旦もあつたものではない。
 それすら人の約束である。
 一切の約束を忘れてしまへば空気が残るだけで、それがきれいさつぱり洗はれた立春の本来の姿でもある。

  雲深き越の国なる関の湯に柄杓を持ちて人通ひけり

 関温泉はスキイ人のみが知る不便な山の上の昔風の温泉で私は行つたことがないが、柄杓を持つて田舎の湯治客の通ふ光景は想像することが出来る。
 その柄杓は湯を呑む為もあらうが、それよりも床に寝て湯を汲み上げて体にかける目的のものであらう。
 それほど旧式な山の湯の光景が第一句の雪深きに照応して分るのである。

  うちつけに是は東の春の海鳴ると覚ゆる大鼓かな

 大鼓がぽんと鳴つた。
 さうしてぽんぽんと続くのを聞くといきなり春の海が寄せてでも来たやうな心持になつた。
 富士見町の家の直ぐ上に金春の舞台があつて鼓の音はそこから常にきこえて来た。
 或日突如として起つた大鼓の音がこんな風に聞こえたのであらうが、詩人が之を翻訳すると読者はゐながらにして反つて海潮音を聞くことにさへなる。

  三千の裹くわ頭の法師山を出づこれは王法興隆の為め

 平家物語を詠じた歌の一つで、頭を裹つつんだ叡山の山法師どもが日吉の神輿を担いで山を降る件である。
 鎮護国家の道場とあるから仏法王法何れを重しとする理由もないが、それは明かに仏法興隆のためではないから、勢ひ王法興隆のためであらうが果して如何かといふ様なことであらう。

  白雲と潮の煙けぶりと妄執の渦巻く島の春夏秋冬

 これは俊寛僧都の歌、島は無論鬼界が島。
 白雲は有王島に著き初め山を尋ぬる件に「嶺に攀ぢ谷に下れども白雲跡を埋んで往来の道も定かならず」から取つたもの、「妄執」は都へ帰りたい一念、春夏秋冬は三年の歳月である。

  西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな

 これは寂光院に入られた建禮門院の上である。
 後白河法皇の大原御幸は卯月二十日余りのことで春も開け山にはつつじ藤の咲出づる頃である。
 女院は花篋肘にかけ花摘みに行かれた留守であつた。
 緑濃き春色に西海の青を見て平家没落の跡を思ふのである。

  電柱のまぢかく立つを一本の梢としたるわが家の月

 庭木など低いのが少しはあるが喬木の全くない都内の月見風景である。
 かく観ずれば立派に家にあつて御月見が出来、こみあふ乗物などに乗つてわざわざよそへ出掛けるにも当らないのである。

  凋落も春の盛りのある事も教へぬものの中にあらまし

 子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。
 これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。
 しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。
 教へなくとも子は自覚する。
 自覚したものでなくては用を為さぬからである。
 これも尋常の考へではない。
 尋常なら凋落だけであつて、それでは歌にはならないのである。

  炉はをかし真白き灰の傍に二つ寄せたる脣も見ゆ

 長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする といふ歌が成長するとこの歌になる。
 前の場合では作者は第二人とともに歌ふのであるが、この場合は第三者たる「炉」の位置に身を置いて観察するので、何れの場合も一寸目先が変つてゐて珍しい、さうしてそこに新鮮味が生れるのである。

  激しきに過ぐと思ふは涙のみ多く流るゝ自らのこと

 激し過ぎるといふものがあつたらどんなことだらう、又誰の事だらうと考へて見るとそれは自分のことであつた、それは自分の流す涙の多いことであつた。
 何事につけ晶子さんの涙は流れた、その多過ぎることを御本人が最もよく知つてゐたのである。

  音立てて石の山にも降れよかし下の襟のみ濡らす雨かな

 陰気な五月雨などの降りつづくのをもう沢山だ、降るなら夕立のやうに音をたてて石の山にでも降つたら如何であらう、さうしたら定めて降り足りるであらうに、めそめそ女の泣くやうに降られては人間もあきてしまふといふのである。

  かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴ひて春風通る

 これは町家の春の風景で、春著を著飾つた女の子が四五人羽子板か何か持つて急ぎあしで通つた。
 まさに春風に率ゐられた形だ。
 風の擬人を作者は幾度か試みたが、この歌が最も成功してゐる様である。

  重ぐるし春尽く我が上に残り止まる心地こそすれ

 春の終りの湿気の多い頭の重い状態である。
 詩人のものを考へるや、ある時は自己を中心として世界が囘転するやうに考へ、ある時は自己を空虚にして対境のみ存するやうに思ふのであるが、この歌は初めの場合の最も極端な例で、自己の外に何物も見ない形である。
 詩は常識ではない。
 常識はまた詩であり得ない。
 逆にいへば非常識は詩になり得るわけである。
 それと同じに極端は多くの場合詩になり得るので、この歌では「尽く」がそれに当る。

  高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな

 高力士は玄宗皇帝の取巻き、薔薇の花が楊貴妃になつてめをさまし、高力士と呼ぶ形である。
 薔薇の花の妖艶な姿もここ迄来ればよくあらはれる。

  ソロモンの古き栄華に勝まさるもの野の百合のみと思はぬも我

「思ふも我」がどこかに略されてゐなければならぬ言葉遣ひである。
 しからば何と思ふのであらう。
 勝るもの色々あるだらうが例へば恋などは第一だと思ふも我といふ句が隠れてゐるわけである。
 読者は各自、自身の「思ふも我」を補足して見なければならぬ。

  さかしげに君が文をば押へたり柏の葉より青き蟷螂

 秋も漸く進んで少し寒くなりかけた頃によく蟷螂が家に上つて来て机の上などを横行することがある。
 歌はそれを詠んだものである。
 しかしそれだけでは面白くないから君の文を机にのせ、それが君の文であるから行為はをかしげになり、それで上の句が出来たわけだ。
 さて「蟷螂」を生かして目に見えるやうにするには如何すればよいか。
 作者は色彩を限定することによつて目的を達しようとした、即ち「柏の葉より青き」とやつたのである。

  箱根路の明神山にともる火を忘れぬ人となりぬべきかな

 大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。
 この時の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。
 私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。
 いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へられない。

  彫刻師凡骨をかし湯の宿に人をまねびて転寝ぞする

 日本木版の技術を洋画に応用することは寛先生の考案であり、凡骨がそれを実行したのである。
 恩義に感じた凡骨は死ぬまで與謝野家に出入して変らなかつた。
 その凡骨は元来職人ではあるし少し変つた所もあり可哀らしい所もあつたので、夫人はこれを愛してよく冗談を云つたりからかつたりしたものである。
 旅行にもよくついて行つたがこの時も同行した。
 凡骨に一寸人並みでない所があるので、人並みに昼寝をするのがをかしいのである。

  涙落つ箱根の谷を上る靄またためらはず為すにまどはず

 晶子さんは思ひ切つたことをよく実行した人である。
 しかしそれをする迄には幾度かためらひ又迷つたことであらう。
 今箱根の谷から靄の上つて来る様子を見ると少しも躊躇することなく為たいと思ふことを迷はず断行するものの様だ。
 しかしその前まだ谷に隠れてゐた間は私と同じ様に幾度かためらひ迷つたことであらう、それを思ふと涙がこぼれて来る。

  二三本芒靡けば目に見えぬ支那の芝居の沛公の馬

 この歌なども今では立派なクラシツクとして国宝あつかひを受けて然るべきものであらう。
 解釈したり解剖したり批判したりする必要は更にない。
 唯秋風の吹く土堤か何かを逍遥しつつ朗誦すれば用は足るのである。

  恋をする心は獅子の猛なるも極楽鳥のめでたきも飼ふ

 あらゆる恋がさうであらうとは思はれない。
 ただ作者好みの恋はさうなくてはなるまい。
 獅子の猛なるとは 春短し何に不滅の命ぞと力ある乳を手に探らせぬ であり 我を問ふや自ら驕る名を誇る二十四時を人をし恋ふる であり かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るゝ人の子の夢 である。
 極楽鳥のめでたきとは うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな であり 春の磯恋しき人の網もれし小鯛かくれて潮けぶりしぬ であり 来鳴かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ であり 恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花 である。

  形よき維摩居士かな思ふこと我等に似ざる像といへども

 維摩像を正叙したものであらうが一面象徴詩でもある様だ。
 それは維摩居士の特殊の地位による。
 維摩は居士即ち俗人でありながら仏法即真理を体得し反つて聖者たる仏菩薩を叱咤指揮して憚らない。
 そこに既成宗教の嫌ひな晶子さんをしてこの像を喜ばしめる理由が存するやうに思へるからである。

  人聞きて身に泌むと云ふこと云ひぬ物の弾みはすべてわりなし

 かういふ体験は私にもある。
 唯それが云ひ現はせなかつただけである。
 それを作者が代つて云つてくれたのである。
 要するに物の弾みだ、どれ程多くの行為がもののはずみに行はれ、どれ程多くの言説がもののはづみに人の口から出たことであらう。
 理窟で分ることではない。

  明日といふよき日を人は夢に見よ今日の値は我のみぞ知る

 作者の現在観は幾度か歌はれてゐるが、真正面から堂々と高調してゐる場合が多い。
 然るにこの歌では珍しく他を顧みて、我以外のものが皆今日を忘れ期待を明日以後にかけて人生を送つて居るのを見て、そんなことでよいのかと警告を発する趣きが見える。
 私の少し人より余分に人のなし得ない事をやり了せるのは、今日の値を知つてそれを一杯に使ふからである。

  若き日は安げなきこそをかしけれ銀河の下もとに夜を明かすなど

 この歌は大正十年版の第十六集「太陽と薔薇」にあるのだから四十三四歳の作である。
 子女の一人も未だ成人せず、文化学院も出来てゐない時とて、親として又教育家として青年子女に対する必要のなかつた頃であるから極く楽な気持で詠まれて居る。
 末の弟の夜遊びを喜んで傍観する姉の態度で、何物をか求めてやまない青年の不安な心持にもよい理解が示されてゐる。

  雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪

 大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。
 この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。
 又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。
 熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。

  雪かづく穂高の山と湖と葡萄茶の繻子の虎杖の芽と

 昔は皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に脚下のすかんぽの芽に及んで最も精しく之を叙し読者を現場に誘引する手法である。

  遠方の七重の峰と対ひ咲く榛名の山の山吹の花

 これは峠から湖の方に半ば下つた傾斜面に咲いてゐた山吹の花であらう。
 この歌などは「調べ」がその生命であつて、そこから山吹の花の黄いろい情緒が僅に空中に発散するのである。
 かういふ歌特有の持味は字余りや口語歌では決して出て来ない。
 人間生活が伝統の鎖の一小環であると同様、日本歌の伝統も俄に断ち切るわけには行かぬ。

  娘にて倉の板敷踏みたるにまさり冷き奥山の路

 聯想といふか錯覚といふかとても面白い聯想である。
 こんな聯想、錯覚が浮ぶ丈でその人は既に立派な詩人だと私は思ふ。
 現に私などにはめつたに浮ばない。
 それを凡人といひ、浮ぶ人を非凡人といふ。
 非凡人の数は極めて少いのだから珍重されなければならない。
 早春の奥山の路の冷さは非凡人の感覚を通して初めて味はふことが出来る。
 非凡人あるが故に凡人の精神生活はかうして豊かになるのである。

  舟の人唄を唄へばいと寒き夢かと思ふ湖畔亭かな

 わかさぎ釣の舟でもあらう、舟の男が唄を唄ひ出したので湖畔亭の平静が破れ、初めて生命の躍動が感ぜられた、それはしかし寒い夢でも見てゐる以上のものではなかつた、その位春とはいへ山の上は寒かつたのである。

  雫して黒髪のごと美しき洞に散るなり山桜花

 その中に温泉の涌き出す洞窟でもあらうか、上から雫が落ちてぬれ髪のやうな艶をして居るその口へ今や満開の桜の花が二三片散りこむ湯治場の光景である。
 国破れても、山河あり、伊香保の桜は今年も濡髪色の洞の口へ散るのであらうが、今ではそれを見に行く方法もなし、そんな気分にもなれない。
 せめて先人の歌でも読んで仄かにその趣きを偲ぶことにしよう。

  野焼の火心につくを思はずば人に涙の流れざらまし

 冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らじかもわが心焼く と大昔から歌はれてゐるやうに、春の野を焼く炎の美しさ早さ激しさ恐ろしさは、若い心を焼き尽す胸の炎の好象徴である。
 これは作者が榛名山上で野焼を眺め今にもわが心につくかの如き思ひで涙をこぼしてゐる姿を自ら憐むで作つたもの、惻々として人心を打たずには置かない。

  この山の泉にありと朝まだき我を見知れる風の驚く

 この風は 紫の我よの恋の朝ぼらけ諸手の上の春風かをる の春風であり、 伶人めきし奈良の秋風 であり 花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の風 であり又 君まさず葛葉ひろごる家なればひと叢と寝に来た風 であり、更に かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴つて通つた春風 である、既にそれ位親しい風である、その作者を見知らない筈はあり得ない。
 まさかと思つた伊香保の湯槽でぱつたり出会つたのだから風が驚いたわけだ。

  はらはらと葩はなびらのごと汗散ると暑き夏さへ憎からぬかな

 心の持ちやうで人生は如何にでも変化する、それは唯心論の立場であるが、それほどでなくとも芸術化することによつて地上もある程度住みよい所になる。
 作者などはその心掛けを忘れなかつた人だけに人よりも数倍よい浮世に住んだ人でもあつた。

  羅を昼の間は著るごとし女めきたる初秋の雨

 静かに降る糸のやうな初秋雨の印象である。
 その鮮かさは岩佐又兵衛の墨絵でも見るやうだ。

  大きなる桐鈴懸を初めとし木の葉溜りぬ海の幸ほど

 麹町の家は崖下の低い所にあつたので、秋の暮ともなればこの歌のやうに狭い前庭は落葉で埋つたことであつたらう。
 「海の幸ほど」は面白い、網の底に魚の溜つた光景で、落葉が生きてぴしぴしはねかへる概がある。

  聖書にて智恵の木の実と読みたりし木の実食らひて智恵を失ふ

 聖書にある智恵の木の実とは何であるか。
 アダム・イヴはそれを食べた許りに智恵が出てその罰として天国を追はれた。
 しかし私は同じ木の実を食べながら反つて智恵を失ひ愚かしい行をも敢てするやうになつた。
 否々私許りではない、恋をするほどのものは皆智恵を失つてしまふのである。

  櫨の葉の魚のさまして匍ひ寄るも寂しき園となりにけるかな

 櫨の葉は真赤だから、魚としたら錦魚か緋鯉といふ所であらう、それが池の中でなく、地上を匍ひ歩くのであるから思つた許りでも寂しいのに、それが歌の調子に乗り映つて索漠たる冬の近いことを知らせるもののやうである。

  常磐木の冬に立つなる寂しさを覚ゆる人と知られずもがな

 風霜に会つてその操守を変へぬ常磐木の心は君子の心であり、その寂しさは君子の寂しさである。
 さういふ寂しさを私が感じてゐるなどとは思はれたくない。
 君子などにはなりたくない。

  炉の火燃ゆフランチエスカのこの中にありとも見えて美しきかな

 ダンテの神曲の中のフランチエスカ・ダ・リミニのことであらう。
 炉の火から煉獄の火を思ひ、フランチエスカの出場となるので、斯うなれば富士見町の崖下に捨去られた一本のストオヴも大したものである。

  東山青蓮院のあたりより桃色の日の歩み来るかな

 雀百まで踊忘れずといふほどでもないが、久しぶりで昔の晶子調が出て来た珍しさを感じてその当時読んだ記憶がある。
 私は晶子秀歌選を作るに当つて「古京の歌」なる一巻を作り、そこへ京畿の風物の上に作られた若い時の作八十五首を収めたが「春泥集」以後この種の作はなくなつた。
 それが突如として第十六集「太陽と薔薇」の中へ出て来たのが、この歌である。
 流石にその調子には隙もなくなり落付きも出来てゐるが、内容の若さにはその日に少しも変つてゐない。
 それは中年に至るも少しも若さを変へなかつた作者の心そのままである。

  雫する好文亭の萩の花清香閣の秋風の音

 大正八年頃の秋水戸に遊んだ時の作。
 今の公園、昔の水戸城内の建物の名を二つ並べただけのことだが、その並べ方が天下無双で、丁度遠州や雪舟が庭石を並べるやうなものである。

  わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな

 おなじ折の歌。
 那珂川の河口にある橋であらう。
 いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。
 そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。

  光悦が金を塗りたる城と見ゆ銀杏めでたき熊本の城

 大正七年秋十一月九州に遊んだ折の作。
 清正は武人でありながら算数に明るく土木建物に長じた許りでなく美術をさへ解して居た様で、その作る所名古屋城にしても熊本城にしても立派な美術品である。
 高く自ら標榜する光悦でも喜んで金を塗りさうな城の構へである。
 金はいふ迄もなく銀杏のもみぢである。

  旅寐する人のささやき雨の声潮の響き噴泉の音

 昔の別府、亀の井旅館の雨の夜のシンフオニイである。
 折から十一月の海が荒れて潮の響きさへ遠く聞こえたものらしい。
 旅寝する人のささやきは同行四人の自分らのささやきであらう。

  君と在る紅丸の甲板も須磨も明石も薄雪ぞ降る

 その帰途、紅丸が明石の門にかかつた時雪が降り出した。
 よい時によい雪が降り出したものだと歎息したい位だ。
 もしこの時雪が降らなかつたらこの歌は出来なかつたであらう。
 為に日本文学は一つの大きな損失を来す所であつた。
 その位この歌の値打ちを私は高く評価するものである。
 晶子歌が何程勝れたものであらうと、神品といふべきものだけを拾つたらさう沢山ある筈はない。
 その第一はこの歌でないかと私は思つてゐる。
 再びナチかミリタリズムの世になつて晶子歌が全部亡ぼされる日が来たら、私はこの一首だけを石に彫して地に埋めるであらう。
 私は幾度か別府通ひの船に乗つた、紅丸にも二度乗つた。
 その度に甲板に立つてこの歌を朗誦する私を内海の鴎は聞きあきたことであらう。

  少女達田蓑の島に禊して人忘るとも舞を忘るな

 田蓑の島は淀川河口の三角洲で、難波名所の一つであつたらしい。
 この歌は大正九年五月大阪に行かれた時蘆辺踊りか何かを見て作つた歌。
 田簑の島で禊をして恋を忘れるといふ話を寡聞にして知らないが、蘆辺踊りに興じて毎年やつて欲しいと思ふ心持を少くも田蓑の島に寄せて時所を明かにしたものであらう。
 或は当夜難波十二景といふ様なものを出した中に昔の田蓑の島の場でもあつたのかも知れない。

  貧しさの極り無きと服したる不死の薬は別様のこと

 詩人文人多しといへども私の家ほど貧しい家はなからう。
 しかしそれにも拘らず昂然として私は呼吸してゐる。
 それは私が不死の薬を服し、従つてその作る処は不朽であることを知つてゐるからである。
 それと今現実に貧しい暮しをしてゐることとは別に関係はないのである。

  柏の葉青くひろがり朴の花甘き匂ひす鳥にならまし

 春になつて少しく山路に這入れば、朴の花が白く匂ひ、柏の葉の青く拡がる景色はどこでも見られる。
 唯鳥になりたいとは誰も思ひつかない所であつて、それがこの歌以前にこの歌のなかつた理由である。

  月夜よし海鳥の像の傍らのテラスに合はす杯の音

 巴里のことは今ではすつかり忘却の霧の中に這入つてしまつたのでどこに海鳥の像があつたか思ひ出せない。
 兎に角夏の夕の大きなカフェエのテラスで東洋の客がボツクの杯を合はしたのであらう。
 それを稍十年の後作者が思ひ出して作つた歌である。
 私は巴里を去つて既に二十五年になる。
 何にも思ひ出せないわけだ。

  衆人の喜ぶ時に悲しめど彼等歎けば我も歎かる

 一歩と云はず数歩と云はず世に先んずるものは皆さうであらう。
 人の憂ひに先立つて憂ふるが故である。
 しかし衆人の歎く時には我もまた歎くのである。
 つまり喜ぶといふことを知らずに死んでしまふのが、優れたものの持つて生れた悲しい運命なのである。

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