晶子詩篇全集 與謝野晶子

美濃部民子夫人に献ず

自序
美濃部民子様
 わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。
 かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。
 ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。
 奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。
 お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。
 わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。
 何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。
 この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。
 永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。
 今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。
 制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。
 統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。
 山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。 
與謝野晶子

   雲片片
    (小曲五十六章)

  草と人

如何いかなれば草よ、
風吹けば一方ひとかたに寄る。
人の身は然しからず、
おのが心の向き向きに寄る。
なにか善き、何なにか悪しき、
知らず、唯だ人は向き向き。

  鼠

わが家いへの天井に鼠ねずみめり、
きしきしと音するは
のみとりて像を彫きざむ人
も寝ぬが如ごとし。
またその妻と踊りては
廻るひびき
競馬の勢きほひあり。
わが物書く上に
屋根裏の砂ぼこり
はらはらと散るも
彼等いかで知らん。
されど我は思ふ、
我は鼠ねずみと共に栖めるなり、
彼等に食ひ物あれ、
よき温かき巣あれ、
天井に孔あなをも開けて
折折をりをりに我を覗のぞけよ。

  賀川豐彦さん

わが心、程ほどを踰えて
高ぶり、他を凌しのぐ時、
何時いつも何時いつも君を憶おもふ。

わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入めいれば、また
何時いつも何時いつも君を憶おもふ。

つつましく、謙へりくだり、
しかも命と身を投げ出だして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦とよひこの君。


  人に答へて

時として独ひとりを守る。
時として皆と親したしむ。
おほかたは険けはしき方かた
づ行きて命傷つく。
こしかたも是れ、
く末すゑも是れ。
許せ、我が斯かる気儘きまゝを。


  晩秋の草

野の秋更けて、露霜つゆしも
打たるものの哀れさよ。
いよいよ赤む蓼たでの茎、
黒き実まじるコスモスの花、
さてはまた雑草のうら枯れて
まだらを作る黄と緑。


  書斎

だ一事ひとことの知りたさに
れを読み、其れを読み、
われ知らず夜を更かし、
取り散らす数数かずかずの書の
座を繞めぐる古き巻巻まきまき
客人まらうどよ、これを見たまへ、
秋の野の臥す猪の床とこ
はぎの花とも。


  我友

ともに歌へば、歌へば、
よろこび身にぞ余る。
賢きも智を忘れ、
富みたるも財を忘れ、
貧しき我等も労を忘れて、
愛と美と涙の中に
和楽わらくする一味いちみの人。

歌は長きも好し、
悠揚いうやうとして朗ほがらかなるは
天に似よ、海に似よ。
短きは更に好し、
ちらとの微笑びせう、端的の叫び。
とにかくに楽し、
ともに歌へば、歌へば。


  恋

わが恋を人問ひ給たまふ。
わが恋を如何いかに答へん、
たとふれば小ちさき塔なり、
いしずゑに二人ふたりの命、
真柱まばしらに愛を立てつつ、
そうごとに学と芸術、
汗と血を塗りて固めぬ。
塔は是れ無極むきよくの塔、
更に積み、更に重ねて、
世の風と雨に当らん。
なほひくし、今立つ所、
なほ狭し、今見る所、
あまつ日も多くは射さず、
寒きこと二月の如ごとし。
頼めるは、微かすかなれども
だ一つ内うちなる光。


  己おのが路みち

わが行く路みちは常日頃つねひごろ
三人みたり四人よたりとつれだちぬ、
また時として唯だ一人ひとり

一人ひとりく日も華やかに、
三人みたり四人よたりと行くときは
更にこころの楽たのしめり。

我等は選りぬ、己おのが路みち
ひとすぢなれど己おのが路みち
けはしけれども己おのが路みち


  また人に

病みぬる人は思ふこと
身の病やまひをば先きとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は年頃としごろ恋をして
世の大方おほかたを後のちにしぬ。
かかる立場の止み難がたし、
人に似ざれと、偏かたよれど。


  車の跡

ここで誰たれの車が困つたか、
泥が二尺の口を開いて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度みたび四度よたび、人の滑すべつた跡も見える。
其時そのとき、両脚りやうあしを槓杆こうかんとし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、自みづから励はげむ者は
折折をりをり、これだけの事にも
その二つと無い命を賭ける。


  繋縛

木は皆その自みづからの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由な魂たましひを持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ寝台ねだいに起き臥しする。


  帰途

わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしは其れを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしは其れを感じる。
玄関から御門ごもんまでの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太い縞しまを作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた紫陽花あぢさゐの重たい花束。
どこかで蝉せみが一つ鳴く。


  拍子木

風ふく夜なかに
まはりの拍子木ひやうしぎの音、
だ二片ふたひらの木なれど、
かしの木の堅くして、
としつつ、
手ずれ、膏あぶらじみ、
しんから重たく、
二つ触れては澄み入り、
嚠喨りうりやうたる拍子木ひやうしぎの音、
如何いかに夜まはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。


  或夜あるよ

部屋ごとに点けよ、
百燭しよくの光。
かめごとに生けよ、
ひなげしと薔薇ばらと。
慰むるためならず、
らしむるためなり。
ここに一人ひとりの女、
むるを忘れ、
感謝を忘れ、
ちさき事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。


  堀口大學さんの詩

三十を越えて未いまだ娶めとらぬ
詩人大學だいがく先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
が家いへの女むすめか放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。


  岬

じやうが島しま
岬のはて、
さゝしげり、
黄ばみて濡れ、
その下に赤き切きりぎし
近き汀みぎはは瑠璃るり
沖はコバルト、
ここに来て暫しばし坐すわれば
春のかぜ我にあつまる。


  静浦

トンネルを又一つ出でて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦しづうらの口の津。
わが敬けいする龍三郎りゆうざぶらうの君、
幾度いくたびか此この水を描き給たまへり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
いその路みちは観つつ曲る、
なほしばし歩あゆまん。


  牡丹

ヴェルサイユ宮きゆうを過ぎしかど、
われは是れに勝まさる花を見ざりき。
牡丹ぼたんよ、
葉は地中海の桔梗色ききやういろと群青ぐんじやうとを盛り重ね、
花は印度いんどの太陽の赤光しやくくわうを懸けたり。
たとひ色相しきさうはすべて空むなしとも、
なにか傷いたまん、
牡丹ぼたんを見つつある間あひだ
豊麗炎熱えんねつの夢に我の浸ひたれば。


  弓

きかな、美うつくしきかな、
矢を番つがへて、臂ひぢ張り、
引き絞りたる弓の形かたち
射よ、射よ、子等こらよ、
鳥ならずして、射よ、
だ彼の空を。

まとを思ふことなかれ、
子等こらと弓との共に作る
その形かたちこそいみじけれ、
だ射よ、彼の空を。


  秋思

わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏れいろうとして涼し。
目を上げて見れば
かの青空あをそらも我れなり、
その木立こだちも我れなり、
前なる狗子草ゑのころぐさ
涙しとどに溜めて
やがて泣ける我れなり。


  園中

たで枯れて茎猶なほあかし、
竹さへも秋に黄ばみぬ。
そのの路みち草に隠れて、
草の露昼も乾かず。
咲き残るダリアの花の
泣く如ごとく花粉をこぼす。
童部わらはべよ、追ふことなかれ、
向日葵ひまはりの実を食む小鳥。


  人知らず

つばさ無き身の悲しきかな、
常にありぬ、猶なほありぬ、
大空高く飛ぶ心。
れは痩馬やせうま、黙黙もくもく
重き荷を負ふ。
 人知らず、
人知らず、人知らず。


  飛行船

よその国より胆太きもぶと
そつと降りたる飛行船、
の間に去れば跡も無し。
我はおろかな飛行船、
君が心を覗のぞくとて、
見あらはされた飛行船。


  柳

もと七なゝもと立つ柳、
冬は見えしか、一列の
廃墟はいきよに遺のこる柱廊ちゆうらうと。
春の光に立つ柳、
今日けふこそ見ゆれ、美うつくしく、
これは翡翠ひすゐの殿とのづくり。


  易者に

ものを知らざる易者かな、
我手わがてを見んと求むるは。
そなたに告げん、我がために
占ふことは遅れたり。
かの世のことは知らねども、
わがこの諸手もろで、この世にて、
上なき幸さちも、わざはひも、
取るべき限り満たされぬ。


  甥

をひなる者の歎くやう、
「二十はたち越ゆれど、詩を書かず、
をどりを知らず、琴弾かず、
これ若き日と云ふべきや、
富む家いへの子と云ふべきや。」
これを聞きたる若き叔母、
目の盲ひたれば、手探りに、
をひの手を執り云ひにけり、
「いと好し、今は家いへを出よ、
さびしき我に似るなかれ。」


  花を見上げて

花を見上げて「悲し」とは
君なにごとを云ひたまふ。
うれしき問ひよ、さればなり、
春の盛りの短くて、
早たそがれの青病クロシスが、
さとき感じにわななける
女の白き身の上に
毒の沁むごと近づけば。


  我家の四男

おもちやの熊くまを抱く時は
くまの兄とも思ふらし、
母に先だち行く時は
母より路みちを知りげなり。
五歳いつゝに満たぬアウギユスト、
みづから恃たのむその性さが
母はよしやと笑みながら、
はた涙ぐむ、人知れず。


  正月

紅梅こうばいと菜の花を生けた壺つぼ
正月の卓テエブル
格別かはつた飾りも無い。
せめて、こんな暇にと、
絵具箱を開けて、
わたしは下手へたな写生をする。
紅梅こうばいと菜の花を生けた壺つぼ


  唯一ゆひいつの問とひ

だ一つ、あなたに
お尋ねします。
あなたは、今、
民衆の中なかに在るのか、
民衆の外そとに在るのか、
そのお答こたへ次第で、
あなたと私とは
永劫えいごふ、天と地とに
別れてしまひます。


  秋の朝

白きレエスを透とほす秋の光
木立こだちと芝生との反射、
そとも内うち
浅葱あさぎの色に明るし。
立ちて窓を開けば
木犀もくせいの香ひややかに流れ入る。

椅子いすの上に少しさし俯うつ向き、
おのが手の静脈の
ほのかに青きを見詰めながら、
静かなり、今朝けさの心。


  秋の心

歌はんとして躊躇ためらへり、
かかる事、昨日きのふ無かりき。
し悪しを云ふも慵ものうし、
これもまた此この日の心。

れは今ひともとの草、
つつましく濡れて項垂うなだる。
悲しみを喜びにして
さわやかに大いなる秋。


  今宵の心

なんとして青く、
青く沈み入る今宵こよひの心ぞ。
指に挟はさむ筆は鉄の重味、
書きさして見詰むる紙に
水の光流る。


  我歌

求めたまふや、わが歌を。
かかる寂さびしきわが歌を。
それは昨日きのふの一ひとしづく、
底に残りし薔薇ばらの水。
それは千とせの一ひとかけら、
砂に埋うもれし青き玉たま


  憎む

憎む、
どの玉葱たまねぎも冷ひやゝかに
我を見詰めて緑なり。

憎む、
その皿の余りに白し、
寒し、痛し。

憎む、
如何いかなれば二方にはうの壁よ、
ひ合せて耳を立つるぞ。


  悲しければ

へ難がたく悲しければ
我は云ひぬ「船に乗らん。」
乗りつれど猶なほさびしさに
また云ひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物の如ごと
呼び掛くること無く、
しばらくして、円まるき月
波に跳をどりつれば云ひぬ、
「長き竿さをの欲し、
かの珊瑚さんごの魚うをを釣る。」


  緋目高ひめだか

鉢のなかの
活溌くわつぱつな緋目高ひめだかよ、
赤く焼けた釘くぎ
なぜ、そんなに無駄に
水に孔あなを開けるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。


  涼夜りやうや

星が四方しはうの桟敷に
きらきらする。
今夜の月は支那しなの役者、
やさしい西施せいしに扮ふんして、
白い絹団扇うちはで顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。


  卑怯

その路みちをずつと行くと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯ひけふな利口者りこうものであつた私、
それ以来、私の前には
岐路えだみち
迂路まはりみちとばかりが続いてゐる。


  水楼にて

空には七月の太陽、
白い壁と白い河岸かし通りには
海から上のぼる帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板を叩たゝ
船大工の槌つちがひびく。
私の肘ひぢをつく窓には
快い南風みなみかぜ
窓の直ぐ下の潮は
ペパミントの酒さけになる。


  批評

我を値踏ねぶみす、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽に値のあらば。


  過ぎし日

づ天あまつ日を、次に薔薇ばら
それに見とれて時経ときへしが、
疲れたる目を移さんと、
して漸やうやくに君を見き。


  春風はるかぜ

そこの椿つばきに木隠こがくれて
なにを覗のぞくや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い椿つばきの花が散る。

君の心を究きはめんと、
じつと黙もだしてある身にも
似るか、素直な春の風、
赤い笑まひが先に立つ。


  或人の扇に

扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春を留とゞむるすべを知る。


  桃の花

花屋の温室むろに、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
のぞくことをば怠るな、
人の心も温室むろなれば。


  杯さかづき

なみなみ注げる杯さかづき
眺めて眸まみの湿うるむとは、
如何いかに嬉うれしき心ぞや。
いざ干したまへ、猶なほがん、
のちなる酒は淡うすくとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注ぐ酒なれば。


  日和山ひよりやま

鳥羽の山より海見れば、
清き涙が頬を伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に云ふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
せる美神ヴェニユスの肌のごと
すべて微笑ほゝゑむ入江をば。
志摩の国こそ希臘ギリシヤなれ。


  春草しゆんさう

弥生やよひはじめの糸雨いとさめ
をかの草こそ青むなれ。
雪に跳をどりし若駒わかごま
ひづめのあとの窪くぼみをも
まろく埋うづめて青むなれ。


  二月の雨

あれ、琵琶びはのおと、俄にはかにも
初心うぶな涙の琵琶びはのおと。
高い軒のきから、明方あけがた
夢に流れる琵琶びはのおと。

二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの樋とひに身を隠し、
それと云はずに琵琶びはを弾く。


  秋の柳

夜更よふけた辻つじの薄墨の
せた柳よ、糸やなぎ。
七日なぬかの月が細細ほそほそ
高い屋根から覗のぞけども、
なんぼ柳は寂さびしかろ。
物思ふ身も独りぼち。


  冬のたそがれ

落葉おちばした木はYワイの字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星みやうじやう
黄金きんの句点を一つ打つ。
薄く削つた白金プラチナ
神経質の粉雪よ、
おこりを慄ふるふ電線に
ちくちく触さはる粉雪よ。


  惜しき頸輪

我もやうやく街に立ち、
物乞ふために歌ふなり。
ああ、我歌わがうたを誰れ知らん、
惜しき頸輪くびわの緒を解きて
日毎ひごとに散らす珠たまぞとは。


  思おもひは長し

おもひは長し、尽き難がたし、
歌は何いづれも断章フラグマン
たとひ万年生きばとて
飽くこと知らぬ我なれば、
恋の初めのここちせん。


  蝶

はねの斑まだらは刺青いれずみか、
短気なやうな蝶てふが来る。
今日けふの入日いりひの悲しさよ。
思ひなしかは知らねども、
短気なやうな蝶てふが来る。


  欲望

れも取りたし、其れも欲し、
飽かぬ心の止み難がたし。

時は短し、身は一つ、
多く取らんは難かたからめ、
中に極めて優れしを
今は得んとぞ願ふなる。

されば近きをさし措きて、
及ばぬ方かたへ手を伸ぶる。


   小鳥の巣
   (押韻小曲五十九章)
  小序。
 詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。
 散文の横書にあらずやと云ふ非難は、放縦なる自由詩の何れにも伴ふが如し。
 この欠点を救ひて押韻の新体を試みる風の起らんこと、我が年久しき願ひなり。
 みづから興に触れて折折に試みたる拙きものより、次に其一部を抄せんとす。
 押韻の法は唐以前の古詩、または欧洲の詩を参照し、主として内心の自律的発展に本づきながら、多少の推敲を加へたり。
 コンソナンツを避けざるは仏蘭西近代の詩に同じ。
 毎句に同韻を押し、または隔句に同語を繰返して韻に押すは漢土の古詩に例多し。(一九二八年春)
  ×
砂を掘つたら血が噴いて、
入れた泥鰌どぢやうが竜りようになる。
ここで暫しばらく絶句して、
序文に凝つて夜が明けて、
覚めた夢から針が降る。
  ×
時に先だち歌ふ人、
しひたげられて光る人、
豚に黄金こがねをくれる人、
にがい笑わらひを隠す人、
いつも一人ひとりで帰る人。
  ×
赤い桜をそそのかし、
風の癖くせなるしのび足、
ひとりで聞けば恋慕れんぼらし。
雨はもとより春の糸、
窓の柳も春の糸。
  ×
見る夢ならば大きかれ、
うつくしけれど遠き夢、
けはしけれども近き夢。
われは前をば選びつれ、
わかき仲間は後のちの夢。
  ×
すべてが消える、武蔵野の
砂を吹きまく風の中、
人も荷馬車も風の中。
すべてが消える、金きんの輪の
太陽までが風の中。
  ×
花を抱きつつをののきぬ、
花はこころに被かぶさりぬ。
論じたまふな、善き、悪しき、
なにか此この世に分わかつべき。
花と我とはかがやきぬ。
  ×
凡骨ぼんこつさんの大事がる
薄い細身の鉄の鑿のみ
髪に触れても刄の欠ける
もろい鑿のみゆゑ大事がる。
わたしも同じもろい鑿のみ
  ×
林檎りんごが腐る、香を放つ、
冷たい香ゆゑ堪へられぬ。
林檎りんごが腐る、人は死ぬ、
最後の文ふみが人を打つ、
わたしは君を悲かなしまぬ。
  ×
いつもわたしのむらごころ、
真紅しんくの薔薇ばらを摘むこころ、
雪を素足で踏むこころ、
青い沖をば行くこころ、
切れた絃いとをばつぐこころ。
  ×
韻がひびかぬ、死んでゐる、
それで頻しきりに書いてみる。
皆さんの愚痴、おのが無智、
れが覗のぞいた垣の中うち
戸は立てられぬ人の口。
  ×
泥の郊外、雨が降る、
れた竈かまどに木がいぶる、
踏切番が旗を振る、
ぼうぼうとした草の中
屑屋くづやも買はぬ人の故ふる
  ×
指のさはりのやはらかな
青い煙の匂にほやかな、
好きな細巻、名はDIANAデイアナ
命の闇やみに火をつけて、
光る刹那せつなの夢の華。
  ×
青い空から鳥がくる、
野辺のべのけしきは既に春、
細い枝にも花がある。
遠い高嶺たかねと我がこころ
すこしの雪がまだ残る。
  ×
つちを上げる手、鍬くは打つ手、
扇を持つ手、筆とる手、
炭をつかむ手、児を抱く手、
かげに隠れて唯だひとつ
見えぬは天をゆびさす手。
  ×
高い木末こずゑに葉が落ちて
あらはに見える、小鳥の巣。
鳥は飛び去り、冬が来て、
風が吹きまく砂つぶて。
ひろい野中のなかの小鳥の巣。
  ×
人は黒黒くろぐろぬり消せど
すかして見える底の金きん
時の言葉は隔へだつれど
ゆるは歌の金きんの韻。
ままよ、暫しばらく隅すみに居ん。
  ×
いつか大きくなるままに
子らは寝に来ず、母の側そば
母はまだまだ云ひたきに、
きんのお日様、唖おしの驢馬ろば
おとぎ噺ばなしが云ひたきに。
  ×
ふくろふがなく、宵になく、
山の法師がつれてなく。
わたしは泣かない気でゐれど、
からりと晴れた今朝けさの窓
あまりに青い空に泣く。
  ×
おち葉した木が空を打ち、
枝も小枝も腕を張る。
ほんにどの木も冬に勝ち、
しかと大地たいちに立つてゐる。
女ごころはいぢけがち。
  ×
玉葱たまねぎの香を嗅がせても
青い蛙かへるはむかんかく。
裂けた心を目にしても
廿にじふ世紀は横を向く、
太陽までがすまし行く。
  ×
話は春の雪の沙汰さた
しろい孔雀くじやくのそだてかた、
巴里パリイの夢をもたらした
荻野をぎの綾子あやこの宵の唄うた
我子わがこがつくる薔薇ばらの畑はた
  ×
れも彼方かなたへ行きたがる、
明るい道へ目を見張る、
おそらく其処そこに春がある。
なぜか行くほどその道が
今日けふのわたしに遠ざかる。
  ×
青い小鳥のひかる羽はね
わかい小鳥の躍る胸、
遠い海をば渡りかね、
泣いてゐるとは誰れが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ峰。
  ×
つうちで象をつうくつた、
大きな象が目に立つた、
象の祭がさあかえた、
象が俄にはかに吼えだした、
えたら象がこおわれた。
  ×
まぜ合はすのは目ぶんりやう、
その振るときのたのしさう。
かつくてえるのことでない、
わたしの知つたことでない、
若い手で振る無産党。
  ×
鳥を追ふとて安壽姫あんじゆひめ
母に逢ひたや、ほおやらほ。
わたしも逢ひたや、猶なほひと目、
載せて帰らぬ遠い夢、
どこにゐるやら、真赤まつかな帆。
  ×
鳥屋が百舌もずを飼はぬこと、
そのひと声に百鳥ももどり
おそれて唖おしに変ること、
それに加へて、あの人が
なぜか折折をりをりだまること。
  ×
さかしに植ゑた戯れに
あかい芽をふく杖つゑがある。
指を触れたか触れぬ間
石から虹にじが舞ひあがる。
寝てゐた豹へうの目が光る。
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われにつれなき今日けふの時、
花を摘み摘み行き去りぬ。
だやさしきは明日あすの時、
われに著せんと、光る衣きぬ
とせをかけて手に編みぬ。
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がらすを通し雪が積む、
こころの桟さんに雪が積む、
いて見えるは枯れすすき、
うすい紅梅こうばい、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
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はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくも揃そろうた赤インキ、
ろしあまがひの左書ひだりがき、
づは二三日にさにちあたらしい。
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うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さに音が細る、
こころ余れど身が凍こほる。
うぐひす、そなたも雪の中。
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あまりに明るい、奥までも
けはなちたるがらんだう、
つばめの出入でいりによけれども
ないしよに逢ふになんとせう、
闇夜やみよも風が身に沁まう。
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摘め、摘め、誰れも春の薔薇ばら
今日けふの盛りの紅あかい薔薇ばら
今日けふに倦いたら明日あすの薔薇ばら
とがるつぼみの青い薔薇ばら
摘め、摘め、誰れも春の薔薇ばら
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おのが痛さを知らぬ虫、
折れた脚あしをも食むであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
はずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
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夢にをりをり蛇を斬る、
蛇に巻かれて我が力
ようこと無しに蛇を斬る。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人を斬る。
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身を云ふに過ぐ、外ほかを見よ、
黙黙もくもくとして我等あり、
我が痛さより痛きなり。
を見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものは己おのれなり。
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論ずるをんな糸採らず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていと賢さかし、
言葉は多し、手は白し、
れを耻ぢずば何なにを耻づ。
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人に哀れを乞ひて後のち
涙を流す我が命。
うら耻はづかしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああ我れとても人の中うち
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なみのひかりか、月の出か、
寝覚ねざめを照てらす、窓の中。
遠いところで鴨かもが啼き、
心に透とほる、海の秋。
宿は岬の松の岡をか
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十国じつこく峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
はなれたれば、人を見て
みちを譲らぬ牛もある。
海に真赤まつかな日が落ちる。
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すべての人を思ふより、
だ一人ひとりには背そむくなり。
いと寂さびしきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
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雲雀ひばりは揚がる、麦生むぎふから。
わたしの歌は涙から。
空の雲雀ひばりもさびしかろ、
はてなく青いあの虚うつろ、
ともに已まれぬ歌ながら。
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鏡の間より出づるとき、
今朝けさの心ぞやはらかき。
鏡の間には塵ちりも無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥インコの色の紅べにつばき。
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そこにありしは唯だ二日、
十和田の水が其の秋の
呼吸いきを猶なほする、夢の中。
せて此頃このごろおもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
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つと休らへば素直なり、
ふぢのもとなる低き椅子いす
花を透とほして日のひかり
うす紫の陰影かげを着す。
物みな今日けふは身に与くみす。
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海の颶風あらしは遠慮無し、
船を吹くこと矢の如ごとし。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
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笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋の脆もろさも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
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地獄の底の火に触れた、
薔薇ばらに埋うづまる床とこに寝た、
きんの獅子ししにも乗り馴れた、
てんに中ちうする日も飽いた、
おのが歌にも聞き恍れた。
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春風はるかぜの把る彩あやの筆
すべての物の上を撫で、
光と色に尽つくす派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹ぼたんの花と人の袖そで
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涙に濡れて火が燃えぬ。
今日けふの言葉に気息いきがせぬ、
絵筆を把れど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥が来ぬ、
空には白い月が死ぬ。
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あの白鳥はくてうも近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春の園その
みちの砂にも歌がある。
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大空おほそらならば指ささん、
立つ波ならば濡れてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは形無かたちなし、
偽りとても如何いかにせん。
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人わが門かどを乗りて行く、
やがて消え去る、森の奥。
今日けふも南の風が吹く。
馬に乗る身は厭いとはぬか、
野を白くする砂の中。
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鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
ひなを素直に育てばや、
育てし雛ひなを吹く風も
ちりも無き日に放たばや。
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牡丹ぼたんのうへに牡丹ぼたんちり、
真赤まつかに燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくの如ごとくに派手なれば。
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ねやにて聞けば朝の雨
なかばは現実うつゝ、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
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赤い椿つばきの散る軒のき
ほこりのつもる臼うすと杵きね
むしろに干すは何なんの種。
少し離れて垣かきしに
帆柱ばかり見える船。
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たび曲つて上のぼる路みち
曲り目ごとに木立こだちより
青い入江いりえの見える路みち
椿つばきに歌ふ山の鳥
花踏みちらす苔こけの路みち

晶子詩篇全集 栞 雲片片-56篇 草と人  賀川豐彦さん 人に答へて 晩秋の草 書斎 我友  己が路 また人に 車の跡 繋縛 帰途 拍子木 
或夜 堀口大學さんの詩  静浦 牡丹  秋思 園中 人知らず 飛行船  易者に  花を見上げて 我家の四男 正月 唯一の問 秋の朝 
秋の心 今宵の心 我歌 憎む 悲しければ 緋目高 涼夜 卑怯 水楼にて 批評 過ぎし日 春風 或人の扇に 桃の花  日和山 春草 二月の雨 
秋の柳 冬のたそがれ 惜しき頸輪 思は長し  欲望 小鳥の巣-59篇 夢と現実-40篇 壺の花-15篇 薔薇の陰影-25篇 月を釣る-35篇 
第一の陣痛-41篇 幻想と風景-87篇 西土往来-29篇 冷たい夕飯-34篇 与謝野晶子作品集