楊貴妃 目録

 唐の玄宗皇帝は、馬嵬が原で殺された楊貴妃のことが忘れられず、方士に命じ魂魄の在処を尋ねさせます。
 蓬莱宮に訪ね到り楊貴妃に巡り会った方士は、玄宗の嘆きを伝え形見の品を、それも帝と密かに誓った言葉を承りたいと、貴妃に願います。
 貴妃は七夕の夜に交わした比翼連理の契りの言葉を打ち明け、霓裳羽衣の曲を舞い、方士に別れを告げる。
 これが謡曲「楊貴妃」のあらましです。
 楊貴妃に関連する川柳は、謡曲そのものよりは、白楽天の「長恨歌」などに基づくものの方が圧倒的に多いようです。
 この項では、謡曲にとらわれず広く「楊貴妃」にまつわる川柳を楽しみたいと思います。

 以前「殺生石」を扱った際に、

あっちからは 玉藻こっちからは 貴妃

 という句があり、意味が判らず困っておりました。
 「貴妃」とあるからには「楊貴妃」に違いなかろうと、謡曲の稽古本を開いたところ「蓬莱宮は熱田社是なり、楊貴妃は熱田明神是也」と解説されているのを発見しました。
 謡を習ったのであればもっとよく注意しておかねばと、わが身に言い聞かせ、熱田神宮について調べることといたしました。
 学習研究社「神社紀行・熱田神宮」によると、楊貴妃は実は熱田大神の化身であったという伝説は、鎌倉時代からあったようです。また熱田を蓬莱(中国の伝説にある東の海上にあり神仙が住む霊山)とする考え方も古くからあったようです。
 唐の玄宗皇帝が日本を侵そうとしたとき、これを知った日本の八百万の神々が協議し、熱田大神が楊貴妃に化して唐に赴くこととなった。玄宗は貴妃に心を奪われ政治も疎かとなり、日本侵略どころではなくなる。
 そこへ安禄山の乱が勃発し貴妃は殺されるが、もとの熱田大神に戻り熱田神宮に帰還した、という。玉藻は天竺、唐土から日本に渡り、鳥羽天皇を悩ませましたが、こちらからは熱田明神が楊貴妃となって、玄宗皇帝を悩ませた。
 これでやっと頭初の句の謎が解けました。
 以下も同様の趣旨の句であります。

やまとことばは おくびにも貴妃 出さず

日本には かまいなさるなと 貴妃はいひ

三千の 一は日本の まわしもの

 いずれも、熱田明神が楊貴妃に化して玄宗に近づいたことを詠んだものです。三句目「三千の一」は、長恨歌の

後宮佳麗三千人 後宮の佳麗 三千人

三千寵愛在一身 三千の寵愛 一身に在り

 によるものでしょう。

 さて、貴妃のことを思い切れない玄宗皇帝は、行方を探し求め、東海の蓬莱にいることをつきとめます。その蓬莱が熱田神宮で、方士が敲いた扉が春敲門(東門)である、という。門は戦災で焼失したが、扁額は小野道風筆と伝え現存しています。
 謡曲は、ワキの《名ノリ》で、玄宗皇帝の命で楊貴妃の魂魄の在処を蓬莱宮に尋ねる旨を語ります。

 これは唐土玄宗皇帝に仕え申す方士にて候。
 さても我が君政事正しくまします中に。
 色を重んじ艶を專らとし給ふにより。
 容色無雙の美人を得給う。
 楊家の女たるに依ってその名を楊貴妃と號す。
 然れどもさる子細あって。
 馬嵬が原にて失ひ申して候。餘りに帝歎かせ給ひ。
 急ぎ魂魄の在處をたづねて參れとの宣旨に任せ。
 上碧落下黄泉まで尋ね申せども。
 更に魂魄の在處を知らず候。
 ここに蓬莱宮に到らず候程に。
 この度蓬莱宮にと急ぎ候。
楊貴妃を 上へきらくを 先ずたづね

よし原に 居るのにへきら くまでたづね

西瓜をば 下黄泉へ つけるなり

 「上碧落下黄泉まで尋ね申せども」を扱ったものです。
 「碧落」は碧空、道家でいう青空のこと、落は広大の意。
 二、三句目は文句取り。三句目「黄泉」はよみの国。
 この場合は井戸。もっとも楊貴妃とは無関係。以下、「長恨歌」より
(以下、『高木正一「中国詩人選集・白居易」岩波書店』による)

コウ道士鴻都客 臨コウの道士 鴻都の客
能以精誠致魂魄 能く精誠を以て魂魄を致まね
爲感君王展轉思 君王が展転の思いに感ずるが為に
遂ヘ方士慇懃覓 遂に方士をして慇懃に覓もとめしむ
排空馭氣奔如電 空を(ひら)き気を()りて(はし)ること(いなずま)の如し
昇天入地求之遍 天に昇り地に入りて之を求むること(あまね)
上窮碧落下黄泉 上は碧落を窮きわめ 下は黄泉
兩處茫茫皆不見 両処 茫茫として 皆な見えず

 方士は蓬莱宮に到り太真殿の額がある宮を見つけ出します。

忽聞海上有仙山  忽ち聞く 海上に仙山有り
山在虚無縹渺間  山は虚無縹渺(ひょうびょう)の間に在りと
樓閣玲瓏五雲起  楼閣は玲瓏として五雲起こり
其中綽約多仙子  其の中 綽約しゃくやく 仙子多し
中有一人字太眞  中に一人有り 字あざなは太真
雪膚花貌參差是  雪膚花貌(かぼう)参差(しんし)として是れならん

「ありしヘえに從つて蓬莱宮に来てみれば。宮殿盤々として更に辺際もなく。荘巌巍々として宛ら七寶を鏤めたり。
 漢宮萬里のよそほひ、長生驪山の有様も。これには更になぞろふべからず。あら美しの所やな。またヘへの如く宮中を見れば、太眞殿と額の打たれたる宮あり。先づこの所に徘徊し、事の由をも窺はばやと存じ候」
「むかしは驪山の春の園に、共に眺めし花の色。移れば變る習ひとて。今は蓬莱の秋の洞に、獨り眺むる月影も、濡るゝ顔なる袂かな。あら戀しのいにしへやな」
「唐の天子の勅の使。方士これまで參りたり。玉妃は内にましますか」

ゆふ霊も たいしんでんは きえぬなり

唐の人 魂を日本で めつけ出し

 せっかく太真殿まで尋ねて来たのですから、消えてもらっては困ります。二句目は、熱田神宮を蓬莱とする伝承に基づくものでしょう。熱田神宮と楊貴妃伝説については、かなり長くなりますので、この項の最後にまとめたいと思います。

 さて、謡曲の筋とはかなり前後しますが「長恨歌」に沿ってストーリーを進めてゆきます。

漢皇重色思傾國 漢皇 色を重んじて 傾国を思う
御宇多年求不得 御宇 多年 求むれども得ず
楊家有女初長成 楊家に女むすめ有り 初めて長成す
養在深閨人未識 養われて深閨に在り人未だ識らず
天生麗質難自棄 天生の麗質は自ずから棄て難く
一朝選在君王側 一朝 選ばれて君王の側に在り
廻眸一笑百媚生 眸を廻らして一度笑えば百媚生じ
六宮粉黛無顔色 六宮の粉黛 顔色無し
春寒賜浴華清池 春寒くして浴を賜う華清の池
温泉水滑洗凝脂 温泉水滑らかにして凝脂に洗ぐ
侍兒扶起嬌無力 侍兒扶け起こせば嬌として力無し
始是新承恩澤時 始めて是れ新たに恩沢を承けなん時
 我もそのかみは、上界の諸仙たるが。
 往昔の因みありて、假に人界に生まれ来て。
 楊家の深窓に養はれ、未だ知る人なかりしに。
 君聞し召されつゝ。
 急ぎ召し出し後宮に定め置き給ひ。
 偕老同穴の語らひも縁盡きぬれば徒に。
 又この島にたゞ一人。歸り來りてすむ水の。
 あはれはかなき身の露の。邂逅に逢ひ見たり。
 靜かに語れ憂き昔。

 謡曲では「楊家の深窓に養われ」、長恨歌では「楊家有女」。
 楊家とは、蜀州(今の四川省)で司戸しこの官にあった楊玄エン(ようげんえん)の家をいう。そこの娘の名は玉環。
 最初は玄宗の皇子寿王の妃であったが、のち帝の側近高力士がこれを見つけて宮中に選び入れた。これが後の楊貴妃です。

楊貴妃も 元かつがれた 女なり

 「かつぐ」は、だます、あざむく。寿王の妃であったのを無理矢理宮中に連れて行ったことをいうのでしょう。

やうきひを 湯女に仕立てる りさんきう

湯あがりは 玄宗以来 賞美する

楊貴妃は 小原で壱ッ のんだやう

 長恨歌の有名な一節「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」を詠んだもの。
 「小原(おはら)」は二寸五分の平盃をいうようです。
 小原庄助さんから名付けられたのかも知れませんね。
 「浴を賜」わって、からだがほんのりと桜色になっている風情でしょうか。かくして、貴妃は玄宗の寵愛を一身に受けることとなります。それに伴い貴妃の一族もそれぞれ恩典に浴することと相成ります。

姉妹兄弟皆列土 姉妹 兄弟 皆土くにを列つら
可憐光彩生門戸 憐れむべし 光彩 門戸に生ず
遂令天下父母心 遂に天下の父母の心をして
不重生男重生女 男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ
一チ女 出世して九ウそく うかむ也

やうきひは ろくな一ッ家は 持たぬ也

八日には 楊国忠へ 加増なり

 長恨歌にある「列土」とは、大名になって国を列ねることをいう。楊貴妃のお蔭で縁につながる九族までみな出世。
 従兄の楊国忠が宰相に、姉三人はそれぞれ秦国夫人、韓国夫人、カク国夫人の称号を賜って、女大名としての待遇を受けています。このことは、杜甫の「麗人行」にも歌われています。
 それにしてもろくな一家ではない、というのが二句目。
 おまけに安禄山までをも養子にしてしまうのですから。
 最後の句は、ここより七月七日の場面に入れたほうがよいかも知れません。比翼連枝の誓いの後であれば、なんでも貴妃の望みは叶えられたでしょうから…。

 玄宗と貴妃との歓楽は、安禄山の叛乱により破局へと導かれてゆきます。
 安禄山は突厥系の胡人。平盧・范陽・河東の三節度使を兼ね強大な軍事力を有していました。玄宗に取り入るため、子のない貴妃と養子縁組をしたといいます。
 以下、安禄山に関する句を拾ってみます。

おかあさん などとろく山 きひにいひ

国忠を 伯父さんと ろくさんはいひ

双六で 安禄山は どふを喰い

 貴妃がおかあさんならば、楊国忠は伯父さんになるのでしょうか。ただし安禄山と楊国忠とは互いに反目する間柄でした。
 三句目の「胴を喰い」の意味が解っていません。
 すごろくにまつわるものとしては、

朱三を ふつたらもふ寝なと 貴妃はいひ

後宮で 朱三々々と うまひこゑ

やうきひは いふ程の目の 出た女

双六の そばにれいしの うつたかさ

双六なかば 国忠さま 御らく馬

 「朱三」はサイコロの三のぞろ目のこと。
 一、二などのぞろ目は「重一」「重二」などと呼ぶが、三と四のみ「朱三」「朱四」と呼ぶようで、玄宗と貴妃の双六ゲームがそもそもの発端のようです。
 なお、玄宗と貴妃の双六ゲームについては、『平治物語』にあります。主題とは少しはずれますので別項にて。
 三句目、「朱四」は楊貴妃が四のぞろ目が欲しいときに、サイコロに願をかけて振り、四のぞろ目を出したことに由来しますが、そのことを詠んでいるのではないかと推測しています。
 「茘枝(れいし)」は、英名では「ライチ」中国料理にはつき物の果物。
 樹になっているときは鮮赤色であるが、摘み取ると色あせて茶色く変色し、鮮度の保持が非常に難しい果樹のようです。
 楊貴妃が好んだことで有名で、玄宗は貴妃の機嫌をとり結ぶべく、嶺南地方に産するレイシを八日八晩かけて長安まで運ばせたといわれています。レイシをむしゃむしゃとやりながら双六をしているのでしょうか。
 最後の「国忠さま御らく馬」の意味、解っておりません。

 玄宗と貴妃の驪山宮での日々を突如として打ち破ったのは、安禄山の叛乱でした。

漁陽ヘイ鼓動地來 漁陽ヘイ鼓 地を動どよもして来たり
驚破霓裳羽衣曲 驚破す 霓裳羽衣曲
九重城闕煙塵生 九重の城闕 煙塵生じ
千乘萬騎西南行 千乗 万騎 西南に行く
翠華搖搖行復止 翠華は揺揺として()いて復た止まり
西出都門百餘里 西のかた都門を出でてより百余里
六軍不發無奈何 六軍発せず 奈何ともする無く
宛轉蛾眉馬前死 宛転たる蛾眉 馬前に死す

 ついに玄宗は西南のかた蜀の成都を目指し、おちのびて行きます。やがて、都の城門の西、百里あまりの馬嵬駅に辿りついたとき、近衛の兵士達が騒ぎ、貴妃は玄宗の馬前で殺害されます。

むごちない 事をばぐわいが 原でする

むごい死にやう やうきひと 高尾也

 楊貴妃の死を詠んだもの。
 「ばぐわい」は馬嵬。
 「むごちない」は「むげちない」むごい、残酷だの意。
 二句目の「高尾」は、江戸吉原の妓楼三浦屋お抱えの太夫で二代目高尾(いわゆる「仙台高尾」)のこと。
 仙台藩主伊達綱宗の意に従わず、芝の下屋敷へ舟で連れて行く途中、隅田川の三又で吊るし斬りにされたという巷説があります。
 謡曲のストーリーに戻します。
 方士は太真殿で貴妃に巡り逢い、玄宗皇帝の嘆きを伝え、帰るに際して形見の品を乞います。

「さてしもあるべき事ならねば。急ぎ歸りて奏聞せん。さりながら御形見の物を賜び給へ」
「これこそありし形見よとて、玉の釵取り出でゝ。方士に與へ賜びければ」
「いやとよこれは世の中に。類あるべき物なれば。いかでか信じ給ふべき。御身と君と人知れず、契り給ひし言の葉あらば。
 それを證に申すべし」
「げにげにこれも理なり。思ひぞ出づる我も亦。その初秋の七日の夜、二星に誓ひし言の葉にも」
 天に在らば願はくば、比翼の鳥とならん。
 地に在らば願はくば、連理の枝とならんと誓ひし事を。
 ひそかに傳へよや。
 私語なれども今洩れ初むる涙かな されども世の中の。
 されども世の中の。流轉生死の習ひとて。
 その身は馬嵬に留まり魂は、仙宮に到りつゝ。
 比翼も友を戀ひ獨り翼を片敷き。連理も枝朽ちて。
 忽ち色を變ずとも。おなじ心の行方ならば。
 終の逢瀬を頼むぞと語り給へや

 貴妃は方士の願いに、形見の品として玉の釵を与えますが、方士は楊貴妃にお目通りした間違いのない証拠として、玄宗と二人で交わした誓いの言葉を聞かせて欲しいと申します。
 ここで貴妃が洩らすのが有名な
在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝」です。

ちょくとうに あたまのかざり 壱本へり

そうもふしや 御がてんだよと 貴妃はいゝ

その文月の 七日の夜 いやらしさ

ひよく連理は 平人の千話でなし

大汗に なつて玄宗 さゝめごと

むつ言を ちよくしへかたる 美しさ

七月の 八日玄宗 づつうする

 初句、貴妃が方士に玉の釵を一本与えましたから。
 二句目、七月七日の誓いの言葉を伝えれば(そう申しゃ)、玄宗も承知をするでしょう。
 四句目の「千話」は痴話。並大抵の痴話ではありませんからね。
 次の「勅使」は尋ねて行った方士のこと。
 方士ものろけ話でたまったものじゃないですよね。
 最後の句、玄宗も一晩中貴妃とお楽しみとあっては、翌日は頭痛もするでしょう。
 「在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝」に係わる文句取り。

天にあらば 月地にあらば 敷初

さゝめ事 天にあらは あらしか月

連理の枝は 紅葉と 榊なり

 この三句、意味がよく解っていません。
 最後の句、紅葉と榊はいずれも高尾のことをいうようです。
 高尾山は紅葉の名所。
 吉原三浦屋十一代目高尾太夫は、姫路藩主榊原政岑に身請けされ榊原高尾と呼ばれています。
 ただ榊原政岑は大名の身で遊里に通い、大金を投じて身請けをしたことを幕府に咎められ越後高田に左遷、高尾もそれを苦として尼になったと伝えられています。

 ここらで謡曲とは直接関係ありませんが、楊貴妃にちなんだ句をいくつか拾ってみます。
 先ずは楊貴妃に直接かかわるものから。

美しひ かほで楊貴妃 ぶたを食い

美しひ 顔でれいしを やたらくい

しよく好ミ するはやう家の むすめなり

玄宗は おむくちう王は きやんが好き

飛燕すう わりに楊貴妃は むつちり

 初句および二句目。
 豚を食うのは中国の風習、当然のことではありますが、楊貴妃が豚を食う図を想像すると…(ほっといてちょーだい)。
 「茘枝(れいし)」すごろくの場面でも登場した貴妃ご寵愛の果物です。
 三句目は、このことを詠んだものでしょう。
 四句目、殷の紂王が寵愛したのは姐妃。
 「お無垢(むく)」は、世慣れなくてうぶな様子。
 これに対して「お(きゃん)」は、活発でややもすると軽はずみな様子。おてんば。
 楊貴妃と姐妃(いずれも国を滅ぼす原因となった)を比べるとそうなるのでしょうか。
 最後の句、「すうわり」は、すらりとしてしなやかなさま。
 以下、武部利男「中国詩人選集・李白」によると、「飛燕」は漢の成帝の愛姫、趙飛燕。やせ型の美人でその軽やかな舞はツバメが飛ぶようであったから、飛燕と呼ばれた。
 漢代随一の美女とされ、やせた美人の代表は趙飛燕、ふとった美人の代表は楊貴妃とされている。唐詩において趙飛燕をうたうとき、多くの場合楊貴妃そのひとを暗にさす。楊貴妃と趙飛燕をうたった詩として、李白の「清平調詞」が有名です。
 この詩は、玄宗が楊貴妃を伴って沈香亭の牡丹を見物していた。宴会の席上宮廷歌人の李亀年が一曲歌うこととなったが、玄宗が「名花を観賞し、妃が御前にいるのに、古い歌詞を歌うことはあるまい」そこで李白を呼べ、ということになったが、その日も李白は二日酔いがさめていなかった。
 しかし、花ときそう楊貴妃のあでやかな姿を見て、たちどころに歌いあげたといわれるのが「清平調詞」三首である。
 しかしながら、日ごろ李白を快く思っていない高力士が、貴妃を趙飛燕になぞらえたところがあるのは、暗に貴妃を侮辱したものだと讒言したため、李白は玄宗に才能を認められながらも、官職を得ることができなかったという。
 その「其二」

一枝紅艶露凝香  一枝の紅艶 露 香を凝らす
雲雨巫山枉断腸  雲雨巫山 枉むなしく断腸
借問漢宮誰得似  借問す 漢宮誰か似るを得たる
可憐飛燕倚新粧  可憐の飛燕 新粧に倚

(美人の多かった漢の宮中で誰が一番楊貴妃と似ているだろうか、飛燕が新しい粧いをほこっているのがそれだ。)

楊貴妃へ 長いうちわを さし懸ける

楊貴妃は かんせんぬひの 上着也

 どちらも絵姿のイメージを句にしたものでしょうか。
 「かんせんぬひ」は閑静縫い。袋物の縁を始末するとき、糸を現したまま打ち違いにからげ縫いにしたもの。
 閑静は創始者の名。

 続いて、楊貴妃そのものとは無関係ですが、貴妃を引き合いにしたものを少々。

楊貴妃の やうだとほめる 空な事

楊貴妃に 飯を焚かせて 豊後節

楊貴妃の 供をしている 掛人

楊貴妃の うたい宵から 二度通り

 この四句、表面どおりの意味でよいような気がしますが、裏に何かあるのか。もう少し調べてみたいと思います。

 最後に、謡曲の世界へ戻ります。貴妃は、方士が別れを告げて帰るのを引きとめ、ありし夜遊のさまを見せようと、霓裳羽衣の曲を舞い、天冠の釵を抜いて再び方士に与えます。方士はこれを捧げ持ち、玄宗皇帝の待つ都へと帰って行きます。

「羽衣の曲。稀にぞ返す少女子が」袖打ち振れる、心著しや。
 心著しや。
「戀しき昔の物語」戀しき昔の物語。
 つくさば月日も移り舞の。證の釵また賜はりて。
 暇申してさらばとて。勅使は都に歸りければ。
「さるにてもさるにても」君にはこの世逢ひ見ん事も。
 蓬が島つ鳥。浮世なれども戀しや昔。
 はかなや別れの、蓬莱の臺に。伏し沈みてぞ留まりける。

 長恨歌も終りに近づいてまいりました。
 楊貴妃が別れに臨んで方士に釵を与え、玄宗皇帝に伝言を託すシーンから最後まで。

唯將舊物表深情 唯だ旧物を将て深情を表さんと
鈿合金釵寄將去 鈿合(でんごう)金釵(きんさ)寄せ将て去らしむ
釵留一股合一扇 釵は一股を留め 合は一扇
釵擘黄金合分鈿 釵は黄金を擘き 合は鈿を分つ
但ヘ心似金鈿堅 但だ心をして金鈿の堅きに似しむれば
天上人間會相見 天上 人間(にんげん) (かなら)ず相い見ん
臨別慇懃重寄詞 別れに臨んで慇懃に重ねて(ことば)を寄す
詞中有誓兩心知 詞の中に誓い有り 両心のみ知る
七月七日長生殿 七月七日 長生殿
夜半無人私語時 夜半人無く 私語の時
在天願作比翼鳥 天に在りては願わくは比翼の鳥と()
在天願爲連理枝 地に在りては願わくは連理の枝と為らんと
天長地久有時盡 天長地久 時有りて尽きんも
此恨綿綿無盡期 此の恨みは綿綿として尽くるの(とき)無し

 都に帰った方士は、玄宗皇帝に蓬莱宮で楊貴妃と再会したことの次第を復命致すことでしょう。

玄宗は なきなき耳の あかをほり

 さて玄宗皇帝は、楊貴妃恋しさの涙にあけくれながら、報告の一語一句を聞き漏らさぬため、持ち帰った形見の釵で耳のあかを掘りながら、方士の話す一部始終を聞いたことでありましょう。形見の釵がこんなことで役立つなんて、さすがの楊貴妃も思いもよらなかったことでした。

熱田神宮と楊貴妃伝説

 熱田神宮については、「神奈備にようこそ」神奈備掲示板の過去ログ(平成一四年一〇月一八日)を検索、そこで紹介されている「海と列島文化第八巻・伊勢と熊野の海(小学館)」を参考にいたしました。

 蓬莱山は、中国の神仙思想において説かれる神山の一で、神仙が住み常人の行き着けぬところとされていた。
 蓬莱山の思想はわが国にももたらされ、その空想上の神山への憧れは現実の世界にそれを求め、具体的に比定された場所の一つが熱田神宮であった。
 蓬莱説は一般的にいって徐福伝説に結びついており、熱田神宮の場合も徐福伝説と結びつけようとする考え方があったようであるが、それとは異なる楊貴妃伝説を媒介とする説が主流を占めているところに、熱田蓬莱説の特徴がある。
 熱田と楊貴妃が結びつくような説が考え出されるにいたった理由は明確ではないが、十四世紀前半に成立した、比叡山の僧光宗の著作『渓嵐拾葉集』に、「唐の玄宗皇帝、楊貴妃とともに蓬莱宮に至る。
 その蓬莱宮は我が国の今の熱田明神是なり」と述べ、社壇の後ろにある五輪の塔婆が楊貴妃の墳墓であるとしている。
 また南北朝時代の作とされる『曽我物語』にも、楊貴妃は熱田明神であり蓬莱宮は熱田であるとしている。
 熱田明神=楊貴妃説は、水野守俊の作といわれる『尾陽雑記』に、玄宗皇帝が中国を支配しさらに日本をも侵略しようとした。そのとき熱田明神が楊貴妃となって唐に渡り、玄宗皇帝の心を蕩かして世を乱れさせたので、日本を攻めることができなくなった。その後楊貴妃は馬嵬で殺されたが、その幽魂の居所を方士に尋ねさせたところ、蓬莱山にいることがわかった。
 その尋ねていった蓬莱山というのが、熱田社である。
 と述べられている。
 『尾陽雑記』は、口碑と文献資料を混在させた著作であるが、正徳五年(一七一五)の序文を持つ井沢長秀(蟠竜子)の『広益俗説弁』も、俗説としてほとんど同じ内容を掲げたうえで「今案ずるに此説甚だ非なり」と否定している。
 『渓嵐拾葉集』にあるように、熱田明神=楊貴妃説は南北朝時代にすでに登場しているし、蓬莱山だけでは必ずしも楊貴妃には直結しないから、この種の伝承は以外に早くから成立していたかもしれない。天文年間(一五三二〜五五)にこの地を通った谷宗牧の『東国紀行』にも、
「唐の代おこりて我国をかたぶけんとせしにも、貴妃に生まれたまひて彼世をみだれしもこの御神の力とぞ。
 方士がたずね来れる蓬莱も此勝地を申となり。
 長恨歌の大真院此宮の春敲門思ひよせられたり。
 はるばるいりぬる海づら。宮中の大末神代おぼえたる景色。
 霜がれをしらぬみどり。常住不滅の表相うたがふべからず」と記されている。この楊貴妃=熱田明神説は、中世における長恨歌研究そのもののなかに採用されており、『尾陽雑記』や『広益俗説弁』に引かれている俗説は、もともとは和文による長恨歌の注釈書のなかに見られる。
 『長恨歌并琵琶引私』の外題を持つ室町時代の写本には
「此ノ蓬莱ト云ハ日本ニ尾張ノ熱田明神ヘ尋行ト云義」だとし、それは
「玄宗ノ日本ヲ攻テ取ラントスル処ニ熱田明神ノ美女ト成リテ玄宗ノ心ヲ迷スト云」うことによるもので、
「此社ニ春敲門ト云フ」名の門があって「春ノコロ此ノ扉ヲ道士ガ敲ク故ニ其ノ門ノ額ヲ如此打ト云」ことをろんじている。
 熱田明神が楊貴妃になる理由については、『広益俗説弁』が
「思うにそのかみ好事の者あつて蓬莱をもつて日本の事とし」たと述べたうえで、
「日本武尊其姨倭姫の御衣を服し、婦女のかたちに似て川上梟帥たけるを誅し、其帰路伊勢国能褒野のぼのに薨じ給ふことをもって熱田明神楊貴妃となつて玄宗の心を蕩し、馬嵬に死なりと妄作せしものならん」と説いているのが注目される。

油谷町の楊貴妃漂着伝説

 山口県長門市油谷町には楊貴妃漂着伝説が伝えられており、楊貴妃の墓、楊貴妃の像もあります。
 町そのものを「楊貴妃の里」としてPRしています。
 以下は長門市(旧・油谷町)の公式ホームページからの転載であります。

 油谷町向津具むかつくにあるニ尊院には二冊の古文書が残されている。およそ二三〇年前(一七六六年頃)ニ尊院福林坊の住職恵学和尚が、土地の古老からこの地にまつわる話を聞き、書き留めたものである。これによると、奈良朝の昔、向津具半島の西側の唐渡口(とうどぐち)というところに、空艫舟(うつろぶね)が流れ着いた。
 舟の中には、玄宗皇帝の愛妃楊貴妃が横たわっていた。
 貴妃は安禄山の叛乱で殺されるところを、近衛隊長が密かに命を助け、舟でここまで流れ着いた。里人たちは貴妃を手厚く看護したが、その甲斐も無く息を引き取られた。
 里人たちは西の海の見える久津の丘にねんごろに葬った。
 それが現在ニ尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられている五輪の塔である。一方玄宗皇帝は悲しみの日々を送っていたが、ある夜の夢に貴妃が現れ
「わたしは日本に流れ着き、土地の人々からは優しくしてもらったが、とうとうこの世の者ではなくなってしまった。」と語った。玄宗は白馬将軍陳安を日本に遣わし、貴妃の霊を弔うため秘蔵の霊仏阿弥陀如来と釈迦如来の二体の仏像と十三重の大宝塔を持たせた。
 陳安は日本で楊貴妃の漂着の地を探し求めたが判明せず、しかたなく京都の清涼寺にニ尊仏を預け帰国した。
 そのうち朝廷では楊貴妃の墓が長門の国、久津の天請寺にあることを知り、ニ尊仏を移すよう清涼寺に命じた。
 清涼寺ではこのニ仏を手放したくはないので、このまま京に置くよう朝廷に嘆願した。困った朝廷では、仏工の名手、天照春日(あまてらすかすが)に命じそっくりの二体の仏像を造らせた、一体ずつを二つの寺に分け合って安置させることとした。
 阿弥陀如来と釈迦如来の二体を本尊としたので
「ニ尊院と名乗り、天下泰平・五穀豊饒の祈願怠り無く奉るべし」との勅命を賜った、ということである。

 先般、加納麻衣子氏から、長門市油谷町を訪れ撮影された楊貴妃の里の写真を頂戴しました。私も謡蹟めぐりの一環としてぜひ訪れたいと思っている場所ではありますが、遠方のこととてなかなか訪問する機会には恵まれておりません。
 ありがたく掲載させていただく次第です。

玄宗皇帝と楊貴妃の双六−「朱三、朱四」のいわれ

 『平治物語』の「叡山物語の事」の段に、玄宗と貴妃の双六について、信西入道が語るところがあります。

 還御の後、卿上雲客
「信西が万よろづの事を知りて候も不思議に覚て候。双六の賽の目に朱三しゅさん・朱四しゅうじと申候、不審に覚候。御尋ね候へ」
 と申されければ、法王信西を召され
「いかに、双六の賽の目に、一が二つをりたるをでつちといふ。
 ニが二つをりたるを(ぢう)ニといふ。重五(でつく)(ぢう)六といふも謂はれたり。三四のめをば(ぢう)三・重四(ぢうし)とこそ云ふべきに、朱三・朱四と云事は如何に」信西畏まって申しけるは
「昔は重三・重四と申し候けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六をあそばされ候けるに、皇帝重三の目が御用にて
『朕が思ひの如くに(をり)たらば、五位になすべし』とて、あそばされけるに、重三の目をり候き。楊貴妃の重四の御用にて
『我思のごとくをりたらば、共に五位になすべし』とて、あそばされければ、重四の目をり候き。
 共に五位になせとてなされ候ぬ。
『五位のしるしにはなにをかすべき』『五位赤衣をきれば』とて、重三・重四の目に朱をさゝれてより以来(このかた)、朱三・朱四とこそ呼び候へ」と奏しければ、月卿雲客、(ことはり)とぞ感じあはれける。

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