雲の歌 土井晩翠

ゆふべは崑崙の谷の底
けさは芙蓉の峯の上、
万里の鵬の行末も
馳けり窮めむ路遠み、
無限のあらしわが翼、
空の大うみわが旅路。

空の大海星のさと
緑をこらすただなかなに
懸かる微塵の影ひとつ、
見る見る湧きて幾千里
あらしを孕み風を帯び
光を掩うてかけり行く。

いかづち怒り風狂ひ
山河もどよみ震ふとき、
天潯(てんじん)高く傾けて
下界に注ぐ雨の脚、
やめば名残の空遠く
泛ぶ七いろ虹のはし。

曙の紫こむらさき
澄みてきらめく明星の
光微かに眠るとき
覚むる朝日を待ちわびつ、
やがて焔の羽添へて、
中ぞら高くのぼし行く。

しづけき夜半の大空に
ほのめき出づる月の姫、
下界の花を慕ひつつ
半ば恥らふ面影を
ために掩はむわが情
軽羅の袖と身を代へて。

照りて万朶の花霞
花にも勝る身の粧、
あるは帰鳥の影呑みて
ゆふべ奇峯の夏の空、
海原遙か泛びては
紛ふ白帆の影寒く。


織ればわが文春の波、
染むれば巧み秋の野辺。
羽蓋凝りて玉帝の
御駕空に駐るべく。
錦旗かへりて天上の
御遊の列の動くべく。

跡とこそ替れ替りなき
自然の巧みわが匂ひ
巓に靉く夕暮は
天女羅綾の舞ごろも、
断片風に流れては
われ晴空の弧月輪。

影縹緲の空遠く
ゆふべいざよふわが姿、
無心のあとは有情の
誰が高楼の眺めぞや、
珠簾かすかに洩れいでて
咽ぶ妻琴ねも細く。

千仭高ききり崖の
嶺に聳たつ松一木、
緑の枝に寄りかかり
風の袂を振るふとき
鳴く音すみて来るたづに
貸さむ今宵の夢の宿。

岸の柳ともろともに
水面に影を宿すとき
江山遠き一竿の
不文のひじり何と見む、
思は清く身は軽く
自在はわれに似たる身の。

自然の姿とこしへに
われは昨日の我ながら
嗚呼函関の紫も
昔のあとぞ遙かなる、
帝郷遠し影白く
泛べば慕ふ友や誰れ。

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