万里の長城の歌 土井晩翠

   (一)

生ける歴史か数ふれば
齢は高し二千年
影は万里の空遠き
名も長城の壁の上
落日低く雲淡く
関山看す看す暮れんとす、
征驂恨み留りて
俯仰の遊子身はひとり。

絶域花は稀ながら
平蕪の緑今深し、
春乾坤に回りては
霞まぬ空も無かりけり、
天地の色は老いずして
人間の世は移らふを
歌ふか高く大空に
姿は見えぬ夕雲雀。

嗚呼跡ふりぬ人去りぬ
歳は流れぬ千載の
昔に返り何の地か
かれ蓁皇の覇図を見む、
残塁破壁声も無し
恨みも暗し夕まぐれ
春朦朧のたゞなかに
俯仰の遊子身はひとり。

   (二)

三皇五帝あと遠く
「六王終わりて四海一」
四海の黔首ひれふして
雷霆の威に声もなし、
「わが宮殿を高うせよ」
一たび呼べば阿房宮
「わが辺境を固うせよ」
二たび呼べば万里城
春は驪山の花深く
秋は上郡の雲暗く。

管絃響き雲に入る
舞殿の春の夕まぐれ
袂を挙げて軽く起つ
三千の宮女花のごと
花を散らして玉光に
浮かす歌扇の風もよし
彫竜の欄奥深く
薫ほる蘭麝の香を高み
珠簾を洩るゝ銀燭の
光消えなで夜や明けむ。

西臨淘の嶺高し
こゝ遼東の谿深し、
流を埋め山を截り
塁を連ぬる幾千里

かゞりの焔天を焼き
つるぎの光霜凝ほり
殺気夏猶ものすごく
守は孟士二十万
漠のこなたに胡笳絶えて
匈奴の跡ぞ遠ざかる。

   (三)

「北夷の憂絶果てゝ
境は堅し国安し
先王の書も焚け果てぬ
天下の儒家も埋まりぬ
わが万世の業成りぬ」
君王の思しかなりき。

知るや夜半の阿房宮
後庭深く森暗く
歌台の響よそにして
独りあらしのつぶやきを
「浮世の花の一盛り
褪むるに早き色見ずや」

聞け長城の秋の営
旌旗の暗に消ゆるとき
またゝく光露帯びて
星の(ひそ)かにさゝやくを
「富も力も一場の
夢覚め果てん後如何に

   (四)

春静かなる東海の
緑を涵す波の上
不死の金闕遠くして
童女五百の船いづこ
絳霞の光天上の
花とこしへに匂へども
土に下れば冷露の気
示は独り世の脆さ、
至尊の栄は高くとも
名を玉籍に留め得じ
金人十二鋳りなせど
かれに無象のつるぎあり。

心を焦し身を砕く
あゝ韓朝の一孤臣
爾の策は成らずとも
無常の風はあらかりき、
天地静かに夜更けて
独り巳橋のかたほとり
流は咽ぶ秋の声
燃ゆる心も静まりて
思ふやいかに人力の
脆き命の定りを、
鉄椎血無し博浪沙、
鮑魚臭有り沙丘台。

   (五)

嗚呼死屍未だ冷えずして
かれ『万葉の業』いづこ
暗君嗣ぎて上に在り
佞豎の害のなどあらき、
民の怒は火の如く
戍卒は叫び兵は起ち
楚人の一炬閃きて
咸陽の宮皆焦土。

()れざる空に虹懸けし
複道の跡今いづれ、
雲あらざるに竜飛べる
長橋の影はたいかに、
袁蘭露に悲めば
遺宮空しく草の宿
驪山の麓春去れば
花ことごとく涙あり。

斬蛇のつるぎ炎情の
光もさはれ窮みあり、
甘泉殿の夜半の月
かれも浮雲の恨みあり、
其移り行く世の習ひ
二京の花をよそにして
辺土に立てる長城の
連雲の影あゝ絶えず。

   (六)

邦は亡びて邦に嗣ぎ
人は代わりて人を追ふ、
鼎は移る朝二十、
歳は流るゝ暦二千、
中華幾たび烽挙がり
長城の壁越来り
また越去りし国たみの
数さへいかに世々の跡。

山川影は潜らねど
春夢空しく跡も無し、
群雄の覇図いたづらに
残すは独り史上の名、
独り辺土に影絶えず
齢重ねて二千歳
残塁苔に今青む
長城の影尊としや。

民の膏血世の笑ひ
逆政のかたみそれながら
歴史の色に染められし
万里の影ぞなつかしき、
其面影に忍びでゝ
泣くは懐古の露のみか、
暮春の恨み誰がために
霞も咽ぶ夕まぐれ。

   (七)

霞も咽ぶ夕まぐれ
遊子俯仰の物思ひ、
北夷禦ぎし長城の
昔の跡は替らねど
時世空しく流れては
中華の姿あすいかに、
蓁漢魏晋移り行く
昔の跡を引換て
西のあらしの吹き寄する
黄海の波今あらし。

西暦一千九百年
東亜のあらしあすいかに、
中華の光り先王の
道この民を救ひ得じ、
愛を四海に伝ふべき
神人の教いま空語、
看ずや豺狼の欲飽かで
「基督教徒」血をすゝり
群羊守る力無く
「異教の民」の声呑むを。

俯仰古今の物思ひ
遊子の恨いつ尽きむ、
征驂恨み嘶ける
響きを返す壁のもと
思も遠く眺むれば

霞たゞよふ大空の
自然の楽絶果てつ
関山暮れて星出でて
根を含む長城の
姿は闇に呑まれ行く。

さらあば別れむとこしへに
わが長城の壁のもと
(尽きぬ思は大空の
星の光に任かせ置きて)
其星移る千載の
時の流の末遠み
潜らで影を尚とめむ
残塁にまた忍びでゝ
我世の今日を歌ふべき
後の詩人はわれしらず。

嗚呼、「永劫の脈博」は
いづれの時か絶果てむ、
人生旧を傷みては
千古の替らぬ情の歌、
破壁無き傍に
また落日の影を帯び
流るゝ光積もり行く
三千の昔忍ぶ時
かれ永遠の声挙げて
何の国語に歌ふらむ。

興廃移り悲喜まじる
一人の跡国の跡
笑の蔭に涙あり
暗のあなたにひかりあり
玉楼の花風恨み
残塁のあらし天の楽
嗚呼千載の後の世の
詩人よ既に君の歌
今も響けり長城の
暗に隠るゝ壁の中。

 注釈

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