亡き友を偲ぶ
会員各位
 先日、小笹夫人から「12月10日、満中陰法要滞りなく相営み、忌明けいたしました。」旨のご挨拶をいただきました。
 葬儀後に益田君も弔問してくれたとのこと、お孫さんの面倒をみていて「忙しくしています。」とお元気そうでした。
 皆様によろしくとのことでしたのでお伝えします。  12/19 菱山

六航会の皆さんへ
 突然の小笹君の訃報に接し、六航会としては生花をお供えし、弔電を差し上げました。
 本日、改めて奥様に弔意をお伝えしたところ、次のようなお話をお伺いしました。お許しがありましたので皆さんにお伝えします。
 お悲しみの中にありながらも奥様はしっかりしたお話をなさったことを申し添えます。小笹君のご冥福を祈りつつ
   23.10.28  会長 菱山克彦

 奥様のお話
1.昨年11月、「肝硬変の末期である。来年の桜が見られるかどうか・・」との診断を受けた。
 以来、毎週通院していた。一時酒をやめたが、長続きしなかった。(酒が好きだったようで、一時は毎晩焼酎を5合飲んでいたとのこと)
2.長期の入院というわけではなく、容態が急変したので救急車で搬送、最後は安らかだった。娘2人の手を握ったまま逝った。
3.家族は、娘3人、孫が中2から2才までの7人いる。
 娘2人は、近所に住んでおり、それぞれ中学校、小学校の先生をしている。孫達がご飯を食べに来るので私は忙しくしている。
 もう1人の娘は横浜である。
4.同期の方々には大変お世話になった。
 通夜には小野さん、告別式には大久保さん(陸、関西六期生会会長)
 京都の星野さん、奈良の兼田さんが来て下さった。
5.「誰にも言うな!」と言われていたのでどなたにもお話していなかったが、主人は好きなことをし、長く入院するでもなく、今年の桜も見て、格好良く逝ったのではと思っている。
 皆様によろしくお伝え下さい。ありがとうございました。

齋藤龍男君を偲ぶ 平成22年6月23日ご逝去 BGMは故人が好きだった「惜別の歌」です。(早瀬洋一君演奏)
 多才な龍さんの作品へリンク⇒@回想録 A故郷紀行 B都都逸.川柳.短歌 Cろくでなし冗句集(頭変僕)

   弔      辞

斎藤龍男君、君の訃報に接したとき、心に大きな穴が開いたような気持ちになったのは私ばかりではないでしょう。龍ちゃんのあの明るい豪快な笑い声が今にも聞こえてきそうで信じられません。
君と初めて会ったのは五十余年前、防衛大学でともに航空五班、電気工学を専攻した時だった。龍ちゃんが勉強している姿をあまり見かけなかったけど、ちゃんとポイントを抑え、出来の悪いわれわれをよく助けてくれたねぇ。
防大を卒業後は松島基地を皮切りに補給幹部として部隊や司令部で持ち前のポイントを抑えた仕事振り、そしておおらかで明るい人柄で人を引き付け大活躍でしたね。特に根室サイトの業務隊長や第六航空団の装備部長などの要職を歴任し、上司はもちろん部下や後輩からも信頼され、また、利き酒名人として地元の酒屋さんから一目置かれているなどの逸話も多く聞いておりました。
退官後はこれまでのキャリアーを生かして日立の関連会社で活躍、また、我々同期生の集まりである六航会では、面倒見の良い人柄に加えて多彩な文才能力を発揮し「他に変え難し」ということで長年にわたり会長を務め、会では各種パーテー、旅行、ゴルフ、テニス、スキーなど夫婦ともども楽しむことが出来ました。そして六航会は今では会員の生活に溶け込んだ存在となり、自他ともに自慢できる会に成長したのであります。
数年前、龍ちゃんの自慢の故郷、弘前に大勢で押しかけたことがありましたね。
日本一の弘前城の桜、独特のリズムと音色の津軽三味線、得意げに説明している龍ちゃんの姿が今でも鮮明に残っております。
また、毎年冬になると龍ちゃんの得意なスキーにお世話になりました。初級者の私を常にエスコートしていろんなスキー場に連れて行ってくれましたね。またスキーの後の温泉、そして一杯飲みながらの夕食会、本当に楽しいひと時でした。
家庭では優しくてきれいな奥さん桂子さん、そして自慢の三人のお子さんに恵まれ順風だった龍ちゃんでしたが、昨年の夏、突然深刻な病に襲われました。約一年にわたる病魔との闘いは常に命を掛けた戦いでありました。

龍ちゃんはその間一度も弱音も吐かず平然と真正面から戦いに挑んだので有ります。そして命を縮めるかも知れない新薬にも挑み、最後は献身的な奥様や家族に見守られ戦いは終わりました。龍ちゃんのこの闘いを通じて、私は確固たる死生観を持った武士道の真髄を見ることが出来たような気がしました。本当に見事でした。龍ちゃんにとってはまだやりたいことがいっぱいあったろう。
しかし、龍ちゃんの人生は名前のとおり、龍のように立派な男の人生でした。そして龍ちゃんの姿と心はこれからも我々の胸の中に永遠に生き続けるだろう。
川の向こうでは松岡や西川らがてぐすね引いて待っていることだろうし、我々も近いうちにそちらに行くだろうから、また一緒に酒でも飲もう。
龍ちゃん、これまでの長年にわたる友情、本当にありがとう。
最後に、龍ちゃんの やすらかな旅立ちを祈っております。合掌

平成二十二年六月二十六日  友人代表  諸石 直樹



松浦信君を偲ぶ
 平成21年1月31日 ご逝去
 防衛大航空6期生の有志(航空5班を主体)は平成21年5月15日、浜松市佐鳴湖の湖畔の龍雲寺に眠る
 「我等がオッチャンこと」松浦信君の墓参を実施し、夕刻は市内において故人を偲ぶ会を実施した。

鎮魂

一、冬去らざりし 遠州の
  大海原に 巨星落つ
  夢想だにせぬ この運命さだめ
  悲運に暮るゝ 我ら置き
  御霊となりし 君は今
  天空駆けて 存せしや

二、共に歩みし 五十年
  同期の渦の 核となり
  纏め上げにし 六航会
  そして五班の リーダーと
  余人に替わる 人ぞ無き
  我らが「おっちゃん」去り逝きぬ

三、文画あやなす 名賀状
  来ぬと思えば なお寂し
  しかれど君が 思い出は
  生きて我らに 宿りける
  君思い来し 妻と子に
  久遠の光 照らしめよ

平成二十一年五月十五日
 於「龍雲寺」墓前
 六航会 齋藤龍男




西川道雄君を偲ぶ
 平成21年2月26日 所沢明生病院にてご逝去
 六航会及び入間会主催により「西川道雄君を偲ぶ会」を3月16日12:00から「レストラン「ニックス」に於いてしめやか且つ盛大に実施した。
 ご遺族の山崎由美さん(長女)、山崎竜偉君(孫)、西川雄一君(長男)と故人の先輩、後輩、
 近隣の友人等26名及び防大同期生、同夫人66名 計95名が参加した。

 式次第 (司会 山田 文中 敬称略)
 1、開式の辞
 2、黙祷
 3、故人の略歴紹介
 4、お別れの言葉(川口元防大指導官、清水先輩、大中先輩、田淵君、斉藤六航会会長)
 5、弔電奉読
 6、参加者献花
 7、献杯(発声は庄先輩)
 8、お礼の言葉(ご遺族、大塚入間会会長)
 7、閉式の辞
       


高橋俊雄君やすらかに
 平成19年12月5日 石心会狭山病院にてご逝去
 通夜式 平成19年12月8日 告別式 9月9日 蓮花院


帰った遺骨の前で何も知らずに眠る第3番目のお孫さんです。
【謝辞】 告別式の参列者に高橋俊雄君のご長男が述べた謝辞です。
 皆様、本日はご多用の中、故 高橋俊雄の告別式にご会葬頂き、まことにありがとうございました。
 こんなにたくさんの方に来ていただいて、父もさぞかし感謝していることと思います。
 父は7ヶ月間闘病生活を送ってきました。
 それは立派に癌と闘っていました。
 いつも周りの者を気遣い、私には泣き言ひとつ言わない強い父でした。
 生前は、母の仏壇に花を絶やさぬ本当に優しい父でした。
 真面目で正義感が強く、電車の中で煙草を吸うチンピラに注意をしたこともありました。
 そんな風に父は、強く、優しく、そして正しく生きる道というものを私たちに示してくれていました。

 私の親父は自衛官でした。
 世の中の人たちがあまり知らないところで私たちの生活を護ってくれていたことを、私たちは知っています。
 私たちは小さいころから父の仕事の仲間に囲まれて生活していましたが、その人たちは皆、強く優しい心と強い絆を持っていることを知っています。
 私は普通の会社に勤めて十数年になりますが、最近、自分は本当に世の中の人の役に立っているのだろうかとか、仕事の仲間と本当に心を開いて付き合えているだろうかと考えることがあります。
 私にとって親父の人生は、とても羨ましい人生です。
 もう少し長く子供や孫たちを見守っていて欲しかった気持ちはありますが。
 しかし、親父の人生が素晴らしかったことに変わりはありません。
 その人生にかかわって下さった皆様 本当にありがとうございました。

平成19年12月9日 喪主 高橋一雄


松岡功君やすらかに・・・
 平成19年9月17日  立川病院にてご逝去
 通夜式 平成19年9月20日 告別式 9月21日 於セレモアつくば 立川会館


永尾和夫君13回忌
 去る10月18日〜20日に渡辺君が世話役となり、永尾君の遭難した現地において13回忌の集いを実施しました。
(参加者)
・18日夜 ペンション「銀河」
 永尾家 実弟 永尾誠氏
 防大山岳部OB 柴山2期、西山4期、三部8期、高中11期、福楽15期の各氏
 六航会 浮田夫妻、長田、白川、渡辺、早瀬
 その他 眞神氏(友の会)
・19日 遭難現場 永尾氏、浮田夫人を除き前夜の参加者
・20日 あやめ平
 永尾君が遭難した翌日(2月20日)に行く予定だった場所なので白川、渡辺、早瀬の三人で「あやめ平」頂上へ行き彼を偲んだ。
 途中の山中で熊に遭遇したが、空さんのザックに着けた鈴の音に驚いたのか熊は一目散に林の中に退散した。


21日 前武尊遭難現場

20日夜 ペンション「銀河」

雪崩の発生源の剣が峰

あやめ平の山頂

斎藤嘉夫君の一周忌によせて
 斎藤嘉夫君の一周忌にあたる平成16年2月6日、同期有志15名 彼の自宅の仏壇にお参りをした。
 その席で斎藤龍男君がささげた鎮魂歌である。

亡き友への鎮魂歌

 嘉夫よ酒なくして君を語れない。
 言葉の酒を飲んでくれ。

一、白梅芽吹く 去年こぞの春
  浦霞立つ 桃川
  花春爛漫 黄桜
  松緑染む 武蔵野も
  愛でることなく 逝きし君
  無情なりけり この運命さだめ

二、北の誉の 益荒男が
  剣菱かざし 奮い立ち
  戦い続けし 七余年
  北の勝鬨 無きままに
  武勇は尽きて 倒れしも
  我らは捧ぐ 月桂冠

三、秋田山峰 白雪
  溶けて湧き出づ 高清水
  両関流れ 一の蔵
  醸す美味酒 君に注ぐ
  我らと共に 酔い痴れて
  ふて千鳥の 天狗舞

四、今は昔の 富久娘
  君がの 子供達
  ねのひ待ち侘ぶ 初孫
  萬歳楽にて 太平山
  安堵にして飲め ゆっくりと
  二斗六升の 言葉酒

平成十六年二月六日
一周忌に詠む 頭変僕
*こだわり (1)命日2月6日を意識して26銘柄=26升=2斗6升 (2)秋田の主要5銘柄 (3)6期にちなみ1節6行

齋藤嘉夫君やすらかに・・・
 通夜:平成15年2月8日 葬儀:2月9日 川口セレモニアルホール

弔 辞
 斉藤嘉夫君、そう呼んでももう君は答えてくれない。天寿とは言え人の命とはかくも儚いものなのか。
 惜しまれる人から先に天にお召しになる神とはまた無慈悲でもある。
 自ら選んだ生甲斐のある仕事を終えたら、残りの自由な時間を家族や友人達と楽しく過ごすのが君や我々の共通の夢願望であったのに、こんなにも早く逝ってしまうとは本当に悲しく悔しくてならない。

 秋田の地に生れた君は、崇高な国防の志を持って防大第六期生として入学、武人としての文武の道に邁進し、卒業後は航空自衛隊の最先端の戦力たる戦闘機操縦者への道を選んだ。
 その優れた人間性と秀でた能力、及び若きより空手道で鍛え上げた気骨と精神を持って、難関を克服して見事にファイターパイロットになった。

 若き時には、空においてわが国を守るための激しい戦闘訓練に、自ら戦闘機を駆って大空を縦横無尽にかけまわり、極限の死生感のもと、それこそ命をかけての過酷な毎日であったと思う。
 あるときには、標的機として夜間飛行訓練中、攻撃にきた戦闘機に後ろから追突され、垂直尾翼をもぎ取られた状態で帰還し、運良く九死に一生を得た話しなど、皆を驚かせるあってはならない事件もあった。

 しかし、君は生き延び、部隊の指揮官として、飛行隊長、飛行群司令、将官となっては航空団司令兼ねて基地司令の要職等を歴任、航空自衛隊の発展に多大な貢献を尽くしたことは君を知る誰もが知っている。
 わが国を守るという大儀と信念を貫き、慈愛と厳しさと情熱をもって、多くの部下を鍛え導き、人間として武人として組織と部下に残した業績は図り知れず、その精神は今からも末永く受け継がれ、生き続けていくものと信じている。

 操縦コースがずっと一緒で当時われわれの学生長だった君との思い出は、その頃から四十年経った今も尽きることはない。
 若いころから、仲間とのたあいのない談笑の中にあっても、物事の本質を突き知性とひらめきを感じさせてくれる何かを君は持っていた。
 また、東北生れの君は無類の御酒好きで、盃を上げて嬉しそうに目を細め「これはお米のジュースだ」と言って飲んでた君の笑顔が今も目に浮かぶ。
 ほろ酔い加減で歌ってくれた「突きと蹴りとは空手の技よ、妙は虚実の間にあり・・・」の声が今は何故か意味深く懐かしい。

 囲碁も麻雀も滅法強かった。
 また、操縦桿を握る時と勝負する時の鋭い眼光とは裏腹に、一旦仕事から離れたら、温和で優しい人柄とユーモア溢れる話しぶりで皆に好かれ、友人や部下のみならず、基地周辺の民間の人達からも信頼と敬愛の念を持って慕われる素晴らしい男であり人物であった。

 自衛隊を退官後の第二の人生の会社でも、きっと同じような感じ方で社員の方とも接していたものと想像している。
 六航会の囲碁同好会も君が率先立ち上げてくれた。 かけがえのないそんな君が、愛する家族や友人知人を残してこんなにも早々と天に召されてしまった。
 生前、同期生数名で病院へ見舞いに行った時、さりげなく歓談する君ではあったが、その心の奥に秘めた天命への自覚と達観の心境をふと感じたのは私だけではなかったと思う。
 辛く寂しく悲しいけれどそれがとうとう現実になってしまった。

 現役の時代には航空戦の仮想敵と闘い、やめてからは五年余に亘るしつこい病いとの闘い、5回も6回も重ねた辛い手術、それは、肉体的、精神的に我々の想像を絶する程熾烈ものであったに違いない。
 献身的な奥様に見守られながら、最後の最後まで全力で、今まで培った武士道を貫いて君らしく戦い抜いたそのことに、荘厳なまでの深い感動を禁じ得ない。
 おそらく君は、自ら信じた大道をまっしぐらに歩み、初心を貫徹した自分の人生と、自分を支えてくれた優しいお家族はじめ多くの君を思う人々がいたことに満足しているのではないかと思う。

 惜しみて余りある今日を迎えてしまったけど、君の姿と心は皆の胸の中に永久に生き続けている。
 我々も間もなくそばに行くだろう。そしたらそちらで又一緒に酒を飲もう。嘉夫君、今度こそ、今まで羽ばたき続けた翼をゆっくり休めて、どうか安らかに眠ってくれ。

 平成十五年二月九日 同期生代表 西 川 道 雄


近藤豊實君一年祭報告(齋藤)
 5/13(日)1200より高尾にある「泉が郷」の霊園において近藤君の納骨式と一年祭が執り行われ参加して参りました。
 初夏の風涼やかにして天真っ青。高台に立つお墓からの眺めまたよく、すがすがしい一年祭でした。
 参加者は空:松岡、西川、白川、星野、大塚、齋藤 太田。陸(ラグビ−部):大西、山下、薄井、岡野、若林
 尚幹候校の区隊長時の部外の教え子数名が参加して居たことが印象的で、近藤君の人徳が偲ばれ、感じいりました。
 頭変僕が調子づき別添の詩をまた創りました。

 近藤君一年祭時追悼の詩

一、さくら花散る こぞの春
  妻と娘に ぬくもりと
  遺影の中に 笑み残し
  銀河の彼方へ 旅立ちぬ
  神なり給ふ 君は今
  何を思うて 過ごせしや
二、命果つるは 無念よと
  思いて見ても せんなきか
  君を偲びし 一年祭
  泉が郷に 下り来て
  ラガーと同期と 家族等と
  思いの酒に 酔いしれよ
三、柱なくした 妻と娘を
  神なる君は とこしえに
  力の限り 見守れよ
  明日に望み 抱きつつ
  彼等がしあわせ つかむまで
 「花散るも 桜木みどり 色深く」

 平成十三年五月十三日 頭変僕

近藤豊實君の一年祭に寄せて(松岡)
 近ちゃん お安らかに
 はじめに
 近藤豊實君が不帰の客となられ、はや五十日が過ぎてしまいました。
 私が近藤君の急を知った以降、折りに触れ、自分の気持ちなどを書き綴ったメモがありましたので、今回それを整理しまとめてみました。
 また一人、同期生を不治の病で失い、勝者必滅、会者常離とはいえ、人生の儚さを感ぜずには居られません。
 御遺族のお慰めに、少しでもお役に立てばと願っております。
 平成十二年七月 松岡 功

 4月16日(日)、御前山の登山の帰り、数馬からの道を下りながら、昨年春の入間会のハイキングを思い出していた。
 走りながら、途中、近ちゃんの自宅へ立ち寄り、お見舞いをして行くことに決めた。
 「あきるの駅」の近くから自宅に電話をしたが「使われていない」旨、告げるだけで埒が明かないので、記憶をたどり近藤家を探すことにした。
 やっとこさ見つけた近藤邸には、表札が無く鍵も掛かっていた。急に不安になった。
 近所の老婆の言うには『近藤さんは遂最近、神奈川の方へ引っ越されたよ』『お宮のお世話をしてくれていた御主人はだいぶ痩せられてね』と言うことだった。
 神隠しにでもあったような変な気持ちになった。何故引越しを・・・…?何処へいったのだろう・・・・?
 去年の10月、国立癌センターへ見舞って以来、近ちゃんには久しく会っていなかった。
 通院しながら抗癌剤の点滴治療を受けていたが、投薬後の副作用で気持ちが悪くなると言うことで、癌センターとは目と鼻の先に居ながら、会うことも無く直接話すチャンスも無かった。
 老婆の『痩せられてね』と言う言葉がいやに引っかかった。
 “誰からも何の噂も聞いていなかったのに、ひょっとすると・・・・…”と考えると急に心配になった。
  病み進み ひっそりと越す 友悲し

 自宅に帰り早速、“大塚ならば知ってるはず”と電話をしたが、引越しのことは承知していなかった。
 会社すじの情報で、大和市に引っ越し、入院中であることが間もなく判明した。
 4月18日(火)、取るもの取りあえず癌センターへ向かった。
 病棟の看護婦が教えてくれた病室は個室だった。一瞬“かなり悪いのでは?”と不吉な予感がした。
 彼は以前に比べかなり痩せていた。何本ものビニールチューブが彼の身体にまとわり付いていた。
 食事を身体が受け付けないと言うことで、点滴で栄養を補給していた。
 痛みがひどくなった時、薬の量を増やすのだとモルヒネが使われていた。
  点滴と モルヒネに身を託す 友哀れ

 薬の影響で時々もうろうとする時以外は、近ちゃんらしくユーモア心も残っていた。
 病魔と戦いながら、もう1度という気持ちが伝わってくるようで、明るいものを感じた。
  望み持つ 友の瞳に 救いあり

 引越しの理由が判った。末の娘さんの通勤が、あきる野からでは余りに遠いので今の新居を見つけたと聞かされた。
 自分は重病人なのに、自ら建てた家を後にして引っ越しをした親の心に、胸が熱くなった。
  我が身より 娘を思う おや父心

 しかも、新居に1日も住むこと無く入院したことが、奥様には気がかりで、どう仕様もないとのことであった。
  一度でも 連れて帰って 夜の談

 病室は17階なので眺めは素晴らしかった。昔話で彼を慰めるのが精一杯だった。
 帰りしな、「入院していることを誰にも言うな!」と強く念を押された。
 私が病室に入った時も「誰から聞いた?」と詰問されていたので、彼の強い思いを感じ取った。
  これだけは 誰にも言うなと 念を押し

 彼のやつれた面立ちと、モルヒネの点滴は私の気持ちを重苦しくするのに十分過ぎた。
 1週間後に訪れた時、近ちゃんは2人部屋に移り、ちょうど書き物をしている時だった。その姿を見、気持ちが少し明るくなった。
 しかし、かたくなに人の見舞いを受けたがらない気持ちは微動だにしていなかった。
  許可も無く 兄貴呼んだと 怒るせこ夫子
  告げるまで 人を呼ぶなと 妻に言い

 自分の弱っているところを見せたくない、一徹な気持ちが良く理解できた。
 この気持ちがある限り彼は大丈夫だろうと自分を慰めてみた。
 コールデンウイークが終わった5月9日(火)、約2週間振りに近ちゃんに会った。 素人の目にも衰弱振りが見て取れた。
 しかし「トイレは助けられながらも自分で行く」と聞き安堵する。
  痛み出す 時間がとみに 近くなり

 奥様から、最近、「夢を見ながらニコニコ笑っている時がある」と聞かされる。痛みが薄らいでいるのであろうか。
  思い出を 夢に覗いて 笑み浮かべ

 1週間後訪ねた時、近ちゃんは身体を横にして腰と膝を少し曲げ、すやすや眠っていた。
 彼の寝顔を覗き込み、安らかな時が一時でも長くあることを願って“さよなら”をした。
 5月22日(月)、また個室に戻っていた。もうろうとする時間が以前より長くなったような気がする。
 時々、話しに応じてくれるが途中から話しが続かなくなる。
 「会いたい人はいないのか」と遠回しに尋ねるが、まだ誰にも会いたくないようだった。
 帰りしな、近ちゃんの手を握った。彼も強く握り返してきた。
 「力が有るじゃないか」と話すと、「俺を 試しているのか」と切り替えしてきた。
  手を握る “俺を試す”と 共笑い

 奥様と部屋を出た時、大声で呼び止められた。戻ってみると、「連絡先の名刺を欲しい」と言うことなので、1枚手渡して帰った。
  大声を あげて行く友 呼び止める

 5月29日(月)、大塚から電話が掛かった。奥様が、その後の相談に会社を訪ねられたとのことなので、一緒に見舞うことにした。
 2時に落ち合い病室へ向かう。不安が募り気持ちが落ち着かない。
 近ちゃんはすごく弱っていた。目は開いているが視点がなかなか合わないようで、必死に声のする方に顔を向けた。
 照れを隠しながら彼独特の冗談っぽい口調で「俺はもう駄目だぞ」と繰り返した。
 冗談のように聞き取れないことはないが、初めて聞く彼の弱気な言葉だった。これだけは彼の口から聞きたくなかった。
 なんだか悲しくなり、言葉に窮してしまう。
 「そんな事を言うな!諦めるな!」と励ましてみたが、励ます声に力が入らなかった。熱いものを抑えるのに必死だった。
  “もう駄目”と 漏らす言葉に 力なし

 これ以上いたたまれない気持ちと、病人を疲れさせまいと言う気持ちが整理できないまま、彼の傍を離れた。
 離れしな、また彼の手を握った。
  握る手に 先週の力 伝わらず

 我々を見送りながら、彼は伏したまま、右手を右胸の当たりまで持ち上げて、微かに振ったように見えた。
  さよならと 懸命に腕 振り上げる

 彼独特のユーモアで、寝ながら敬礼をしたかったのではと思えた。
 面会室で奥様と、事が起きた場合の連絡方法などについて打ち合わせた。実に悲しい打ち合わせであった。
 数日前、お母さんがお見舞いに来られた話しを聞かされ、何故かホット、救われた気がした。
 年金の加入状況等報告書の書き方についての宿題をもらい癌センターを後にした。
 年金の書類の書き方について説明に出向いたのは翌々日5月31日(水)の午後だった。
 病室の前で奥様と立ち話をし、近ちゃんの様子を尋ねたら、「安定しているし、当分大丈夫でしょう」と言うことだった。
 “一目会って行こうかな”と迷いの気持ちがあったが、一昨日会ったばかりなので、奥様の言葉もあり、次にしようと病院を後にした。
 夜、電話が鳴った。、大塚の弱々しい声が聞こえた。『先ほど急逝された』の連絡だった。耳を疑った。信じたくなかった。
 今日の午後、会わずに帰ったことが急に悔やまれてきた。強引にでも会って帰ればよかったと、残念でならなかった。
 近ちゃんと俺はそんなに親しい間柄ではなかった。
 奈良の幹部候補生学校で一緒に区隊長をやったぐらいで、あとは六航会、入間会でのお付き合いが主なものだった。
 住まいが中央線の沿線だと言うことで、「沿線会をやろう」と何度かすすめられたことはあった。
 3年前、近ちゃんが胃の手術をした時から変わった。
 大腸がんの手術をして死の淵を覗いた私は、大手術をした近ちゃんを放っておくわけにはゆかなかった。
 大きな手術をした者にしか解らない悩みがあるからだ。
 彼は「手術が好きなお医者でね、胃潰瘍だったよ」と言っていたが、それ以上の心配をせずにはおれなかった。
 その後の検査で具合が良くないと聞いた時、心配が大きく膨らんだ。“まずい”と思った。
 術後1年、3年、5年がハードルであることは、この病気の常識であったからだ。

 昨年の5月15日(土)には入間会の春のハイキングの幹事を快く引受けてくれ、あんなに元気に楽しそうに秋川の浅間尾根を案内してくれたのに………。歩いた後、五日市のそば屋でそばをすすり、あんなに美味しそうに日本酒を飲んでいたのに………。
 信じられなかった。

 翌日、大塚と大和市のお宅を訪れた。六航会会長の白川夫妻がすでに見えていた。
 奥の部屋に亡骸が安置されていた。そっと寝顔にお参りをさせてもらった。
  最後まで 弱みを見せず 友拒み
  目は窪み 頬骨とがらせ 友は逝く

 最後に会った時、鼻の上の窪みに紅い擦り傷があったのに、寝顔にはそれが無かった。不思議なことに、消えてしまっていた。
 安らかな、きれいな寝顔であった。
 6月2日(金)の通夜祭、6月3日(土)の葬場祭には多くの友人が会いに来てくれた。
 最も親しかったラクビー部の面々、気の置けない陸海空の同期生、苦楽を共にした施設幹部の仲間達・・・…。
 近ちゃんの人柄が皆を呼び寄せたのだとつくづく思った。
  旅立ちを 多くの友に 見送られ
  花園へ ボールを蹴って 走り行く

 それにしてもあの写真は素晴らしかった。あの顔は肉親に対する笑顔であろう。家族に残した最後の財産だと思う。
 あの写真を思い起こすと、私の気持ちも何故か和やかになって行く。


山口彰君に捧げる歌
 11月24日(土)快晴の下、毛呂山高福寺において山口彰君の一周忌及び納骨の儀が行われ同期生有志が参列しました。
 その際に捧げられた六航会会長齋藤龍男君作成の鎮魂の歌です。

  亡き友への挽歌

一、月影冴ゆる とき師走
  毛呂山出でて 黄泉にゆく
  君を送りて 早や一年
  集い来たりし 「ろくでなし」
  君が遺影を 前にして
  在りし日のこと 語らんや

二、寺影落とす 猿沢の
  水面に浮かぶ 病葉を
  見つめて佇む 女人ひとのあり
  都を旅立つ 時早く
  おぼろ思いと 過ぎにけり
  遠き日の夢 古都遥か

三、酒と色香の 奈良大路
  通う男の 影二つ
  今懐かしき 夜半の月
  現世にこころ 残しつつ
  逝きにしき君を 思う時
  色即是空 無常なり

四、君天空の その世界
   菩薩の心に 抱かれて
  うつつ抜かして な忘れそ
  年に一度の 迎え火を
  一心に焚く 妻と娘の
  君追悼の 真心

「汝が愛し 妻と娘子
 護れかし 武州毛呂山 そしてこの国」

 平成十三年十一月二十四日
 於高福寺 齋藤龍男こと頭変僕

高福寺山門と墓前で住職さんがまいた護符です。


富田武征君の墓参
 平成14年秋のお彼岸の一日(9月21日)、同期生有志は高尾霊園のお墓へお参りし彼を偲び、ご冥福をお祈りした。


 「ますらお」(6期生卒業30周年記念誌)寄稿文
  「硫黄島の月下美人」山口彰 「体調あれこれ」近藤豊實 「雑感」永尾和夫
 「朝井先生とのつらい想い出」 永尾和夫が防大山岳会誌「踏み跡」(S 59.12.18)に寄せた文です。

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