朝井先生とのつらい想い出 防衛大六期永尾和夫

 朝井先生の想い出を書こうとする時、私には何はさておき、先生にお詫びをしなければならない事がある。
 その申し訳のない想い出は、リュックサック盗難事件である。

 ある冬、朝井先生は、一九六九年のアンデス遠征の時お世話になった当時のアルゼンチン駐日大使館付武官フラギオ海軍大佐(後に駐日アルゼンチン大使として再度来日)を蔵王スキーにご招待された。
 新しいコーボルトヒュッテで、朝井先生、フラギオ大佐と御令息、それにお手伝いとして私の四人で樹氷の蔵王を楽しもうという狙いであった。
 コーボルトヒュッテは自炊なので、私は四人分の食料、飲み物…普段の山行と違って、メニューを充分考慮して、松坂牛、ワインなど…で特大のキスリングザック一杯の荷となってしまった。

 先生は、山形行の夜行列車にグリーン車の座席指定を用意して下さっていた。
 いつも乗る満員の車両と違って、グリーン車では大きな荷物を持ち込むのは一寸気がひけた私は、他の客の邪魔にならぬ様、気を利かせたつもりでデッキにザックを置いておいた。
 それが何という事か、翌朝、山形に着いてみるとザックは姿も形も無い。
 一寸、持ってゆくといっても五十キログラムを越す重さである。
 車掌に聞くと確か福島までは有ったと言う。
 鉄道公安官に届け出て、途中の各駅に手配してもらったが後の祭り、食料が無くなってはコーボルトヒュッテ入りも中止、仕方なく蔵王温泉の柏屋にお世話にな つた。

 早速、先生とフラギオ大佐はリフトを利用して、上の台ゲレンデを中心にスキーを楽しまれる。
 私は大佐令息と。
 夕方になって、先生と大佐が仲々宿に帰ってこられないので心配していると、大佐が転倒して怪我をされたとの連絡が入る。
 直ちに診療所へ急行。
 怪我はアキレス腱の一部断裂とか、ギプスが痛々しい。

 この年は雪が少なめで、上の台ゲレンデも一部がアイスバーン状になっていて、そこで転倒されたらしい。
 翌日、二泊三日の予定を切り上げて上野へ帰る。
 途中、山形駅、東京駅で六尺豊かなフラギオ大佐を背負って階段を移動する時、あの時もう少し注意してザックの管理をしておけば、今はコーボルドヒュッテの生活を楽しんでいるのにと、自分の不注意に腹を立て、且つ、先生のフラギオ大佐へのお気持を全く無駄にしてしまった事に申し訳ない気持ちであった。
 その後、先生はこの事について一度も私に話をされた事はないが、先生も無念と思っておいでだったであろう。

 朝井先生との楽しい山の想い出は、一つ一つのシーンとしていつまでも次々と浮かび上がってくるが、その中心にある先生のお考え、人生観といったものは、今、私の生活の指針の一つになっていると言える。
 先生の決して健康とは言えないあのお身体で、何週間にも及ぶ合宿に参加されるその精神力と、物事の真理、究極を求めようとされる科学者としての姿勢、その万分の一も私は実行できないが、そうあるべきだといつも肝に銘じている。

 私が二年生の夏合宿、一次・剣沢三田平定着合宿、二次・台風来襲下の剣岳〜槍岳縦走。
 先生も全日程を参加され、横尾で合宿を解散。
 その後私達は同期生の岩元紀昭君と前穂北尾根〜北穂高岳へ。
 北尾根登撃を終って、夕陽の沈みかかる奥穂の頂上で、私達は前日お別れした先生に再会した。
 先生は恒川チーフリーダーをお伴にザイテングラード経由、やはり奥穂の頂上に到着されたばかりだった。
 夏には珍しい、雲一つない快晴の夕暮れを私達四人は山頂の岩に腰を下ろし、ゆっくりと楽しんだ。

 朝井先生はこの合宿では、剣岳、雄山、槍ケ岳、奥穂高岳と四つの3,000m峯を登頂されたことになる。
 当時の剣岳は3,003m、今は再測量で5m低い2,998m…この長い山行を、お丈夫でないお身体でしかも三十歳も違う若者と同じぺースで来られた御苦労を承知している私は先生に「今年の登山は、先生には全く本望でしょうね」と申し上げて、さらに失礼な事ながら、「もう死んでも悔いはないというお気持でしょう」ど申し上げてしまった。
 先生は、「いや、まだやることは沢山あるよ」と言われたが、このお気持は十年後のアンデス遠征の隊長を務められた事でも表れていると思う。

 そのような先生が亡くなられる前病床にあって、「永年撮り貯めた写真の整理が出来ないのが残念だ。
 お前にやると言った"鳥海ふすま"の写真、一寸待ってくれよ」とお痩せになった身体を起こして言われた。
 私は朝井先生の、病気を克服して最後まで頑張ろうというお気持を期待して、「待っておりますよ、早く元気になって下さい」と申し上げたが、さすがの先生も病魔には勝てず、それが実現しなかったのが一番悲しい想い出である。

 ・・・この夏、槍ケ岳山頂で先生と共にじっと眺めた同じ山々を望みその思い出に耽ろうとしたが、四半世紀を経た今は山頂に溢れんばかりの人々で、感傷的になる余地はなかった。

 〈注〉"鳥海ふすま"は、東北の山々の花。朝井先生はこの清楚な姿、シントメリックな形を愛しておいでだった。

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