冷たい夕飯(雑詩卅四章)

  我手の花

我手わがての花は人染めず、
みづからの香と、おのが色。
さはれ、盛りの短みじかさよ、
ゆふべを待たで萎しをれゆく。

我手わがての花は誰れ知らん、
入日いりひの後のちに見る如ごと
うすくれなゐを頬に残し、
淡き香をもて呼吸いきすれど。

我手わがての花は萎しをれゆく……
いと小ささやかにつつましき
わが魂たましひの花なれば
しをれゆくまますべなきか。


  一すぢ残る赤い路

ふぢとつつじの咲きつづく
四月五月に知り初めて、
わたしは絶えず此処ここへ来る。
森の木蔭こかげを細こまやかに
曲つて昇る赤い路みち

わたしは此処ここで花の香
恋の吐息の噴くを聞き、
広い青葉の翻かへるのに
若い男のさし伸べる
優しい腕の線を見た。

わたしは此処ここで鳥の音
胸の拍子に合ふを知り、
花のしづくを美しい
てふと一所いつしよに浴びながら、
甘い木の実を口にした。

今はあらはな冬である。
霜と、落葉おちばと、木枯こがらしと、
たゞれた傷を見るやうに
ひとすぢ残る赤い路みち……
わたしは此処ここへ泣きに来る。


  砂の塔

「砂を掴つかんで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか、其時そのときが、
さては無益むやくな其その労が。

しかも両手で掴つかめども、
指のひまから砂が洩る、
する、する、すると砂が洩る、
かろく、悲しく、砂が洩る。

寄せて、抑おさへて、積み上げて、
かゝへた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
ぐに崩れて砂になる。」

砂の塔をば建てる人
これに答へて呟つぶやくは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」


  古巣より

空の嵐あらしよ、呼ぶ勿なかれ、
山を傾け、野を砕き、
ところ定めず行くことは
地に住むわれに堪へ難がたし。

野の花の香よ、呼ぶ勿なかれ、
し花の香となるならば
われは刹那せつなを香らせて
やがて跡なく消えはてん。

の間の鳥よ、呼ぶ勿なかれ、
れは固もとより羽はねありて
枝より枝に遊びつつ、
花より花に歌ふなり。

すべての物よ、呼ぶ勿なかれ、
われは変らぬ囁さゝやきを
乏しき声にくり返し
初恋の巣にとどまりぬ。


  人の言葉

しや、悪しやを言ふ人の
まれにあるこそ嬉うれしけれ、
ものかずならで隅にある
わが歌のため、我れのため。

いざ知りたまへ、わが歌は
泣くに代へたるうす笑ひ、
灰に著せたる色硝子いろがらす
死に隣りたる踊をどりなり。

また知りたまへ、この我れは
春と夏とに行き逢はで、
秋の光を早く吸ひ、
月のごとくに青ざめぬ。


  闇に釣る船
(安成二郎氏の歌集「貧乏と恋と」の序詩)
真黒まつくろな夜よるの海で
わたしは一人ひとり釣つてゐる。
空には嵐あらしが吼え、
四方しはうには渦が鳴る。

細い竿さをの割に
なり沢山たくさんに釣れた。
小さな船の中なか七分しちぶ通り
光る、光る、銀白ぎんぱくの魚さかなが。

けれど、鉤はりを離すと、直ぐ、
どの魚うをもみんな死あがつてしまふ。
わたしの釣らうとするのは
こんなんぢやない、決して。

わたしは知つてゐる、わたしの船が
だんだんと沖へ流れてゆくことを、
そして海がだんだんと
深く険けはしくなつてゆくことを。

そして、わたしの欲しいと思ふ
不思議な命の魚うを
どうやら、わたしの糸のとどかない
底の底を泳いでゐる。

わたしは夜明よあけまでに
是非とも其魚そのうをが釣りたい。
もう糸では間に合はぬ、
わたしは身を跳をどらして掴つかまう。

あれ、見知らぬ船が通る……
わたしは慄おのゝく……
もしや、あの船が先きに
底の人魚を釣つたのぢやないか。


  灰色の一路

ああ我等は貧し。
貧しきは
身に病やまひある人の如ごとく、
隠れし罪ある人の如ごとく、
また遠く流浪るろうする人の如ごとく、
常に怖おびえ、
常に安やすからず、
常に心寒こゝろさむし。

また、貧しきは
常に身を卑ひくくし、
常に力を売り、
常に他人と物の
駄獣だじうおよび器械となり、
常に僻ひがみ、
常に呟つぶやく。

常に苦くるしみ、
常に疲れ、
常に死に隣りし、
常に耻はぢと、恨みと、
常に不眠と飢うゑと、
常にさもしき欲と、
常に劇はげしき労働と、
常に涙とを繰返す。

ああ我等、
れを突破する日は何時いつぞ、
恐らくは生せいのあなた、
死の時ならでは……
されど我等は唯だ行く、
この灰色の一路いちろを。


  厭な日

こんな日がある。厭いやな日だ。
わたしは唯だ一つの物として
地上に置かれてあるばかり、
んの力もない、
んの自由もない、
んの思想もない。

なんだか云つてみたく、
なんだか動いてみたいと感じながら、
鳥の居ない籠かごのやうに
わたしは全まつたく空虚からである。
あの希望はどうした、
あの思出おもひではどうした。

手持不沙汰ぶさたでゐるわたしを
人は呑気のんきらしくも見て取らう、
また好いやうに解釈して
浮世ばなれがしたとも云ふであろ、
口の悪るい、噂うはさの好きな人達は
衰へたとも伝へよう。

んとでも言へ……とは思つてみるが、
それではわたしの気が済まぬ。


  風の夜

をりをりに気が附くと、
屋外そとには嵐あらし……
戸が寒相さむさうにわななき、
垣と軒のきがきしめく……
どこかで幽かすかに鳴る二点警鐘ふたつばん……

子供等を寝かせたのは
もう昨日きのふのことのやうである。
狭い書斎の灯の下もと
良人をつとは黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆を執る。

きり……きり……きり……きり……
なにかしら、冴えた低い音が、
ふと聞きこえて途切とぎれた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また途切とぎれた……

あらしの音にも紛れず、
ぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……

る直覚が私に閃ひらめく……鋼鉄質の其その音……
私は小さな声で云つた、
「あなた、何なにか音がしますのね」
良人をつとは黙つてうなづいた。
其時そのときまた、きり……きり……きり……きり……

「追つて遣らう、
今夜なんか這入はひられては、
こちらから謝らなければならない」
と云つて、良人をつとは、
笑ひながら立ち上がつた。

私は筆を止めずにゐる。
私には今の、嵐あらしの中で戸を切る、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、
ぴつたりと合つて快い。

もう女中も寝たらしく、
良人をつとは次の間で、
みづから燐寸まつちを擦つて、
そして手燭てしよくと木太刀きだちとを提げて、
廊下へ出て行つた。

も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門の潜くゞり戸が幽かすかに開いた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
あらしの中の泥坊に気が附いた。

私達の財嚢ぜにいれには、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人ひとりの知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……
 と云ふ音がまだ耳にある。


  小猫

小猫、小猫、かはいい小猫、
すわれば小ちさく、まんまろく、
歩けばほつそりと、
うつくしい、真つ白な小猫、
生れて二月ふたつきたたぬ間
孤蝶こてふ様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。

子供達が皆寝て、夜が更けた。
一人ひとりわたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへは寂さびしいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声で啼く。

こんな時、
さきの主人あるじはお優しく
そつとおまへを膝ひざに載せ
どんなにお撫でになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱く間がない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。

がますます更けて、
午前二時の上野の鐘が幽かすかに鳴る。
そして、何なににじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次の間で鳴つてゐる。


  記事一章

今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時四十しじふ二分。
そして此時このときから十七じふしち分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。

宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人をつとと私はいつもの通り、
まつたく黙つて書斎に居た。
一人ひとりは書物に見入つて
折折をりをりそつと辞書を引き、
一人ひとりは締切しめきりに遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜まいよの習はし……
飯田町いひだまちを発した大貨物列車が
崖上がけうへの中古ちゆうぶるな借家しやくや
船のやうに揺盪ゆすつて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
だぼんやり
もう午前二時になつたと感じた外ほかは。

それから間も無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
ぐ鼻の先の外そとで、
突然、一つの嚔くしやみが破裂した、
「泥坊の嚔くしやみだ、」
刹那せつなにかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。

「何んだね」と良人をつとが振ふり向いた時、
その不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口を抑おさへて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊が嚔くしやみをしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人ふたりの緊張が笑ひに融けた。
こんなに滑稽こつけいな偶然と見える必然が世界にある。


  砂

川原かはらの底の底の価あたひなき
砂の身なれば人採らず、
風の吹く日は塵ちりとなり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
しひしがれて世にありぬ。
まれに川原かはらのそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、月見草つきみさう
ひるがほ、野菊、白百合しろゆり
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。


  怖ろしい兄弟

ここの家いへの名前人なまへにん
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかり勝つて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣の家うちへ押しかけて、
かばひ手のない老人としより
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や家蔵いへくらを寄越よこせ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
とほの昔に
近所から分け取りにされて居たんだ。
その恩返おんかへしをしろ」と云つた。
なんぼよいよいでも、
隣の爺おやぢには、性根しやうねがある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひ掛がかりを拒こばんだ。
押問答が長引いて、
二人ふたりの声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
こぶしを振上げ相さうになつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰が弱ゑいなあ、兄貴、」
「脅おどしが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり刄物はものを突き附けねえんだ、」
「文句なんか要らねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを口口くちぐちに云つて、
兄を罵のゝしる兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひ掛がかりなんかしたんだと
兄の最初の発言を
とがめる兄弟とては一人ひとりも居なかつた。
おお、怖おそろしい此処ここの家いへ
名前人なまへにんと家族。


  駄獣だじうの群むれ

ああ、此この国の
おそるべく且つ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる勿なかれ。
わざはひなるかな、
此処ここに入はひる者は悉ことごとく変性へんせいす。
たとへば悪貨の多き国に入れば
大英国の金貨も
七日なぬかにて鑢やすりに削り取られ
その正しき目方を減ずる如ごとく、
一たび此この門を跨またげば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処ここに在り難がたし。
見よ、此処ここは最も無智なる、
最も敗徳はいとくなる、
はた最も卑劣無作法なる
野人やじん本位を以もつ
人の価値を
最も粗悪に平均する処ところなり。
此処ここに在る者は
民衆を代表せずして
私党を樹て、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声ばせいとを交換す。
此処ここにして彼等の勝つは
もとより正義にも、聡明そうめいにも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
だ彼等互たがひ
阿附あふし、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金わうごんとを荷にな
多数の駄獣だじう
みづから変性へんせいするにあり。
彼等を選挙したるは誰たれか、
彼等を寛容しつつあるは誰たれか。
この国の憲法は
彼等を逐ふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎としごとに、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も臭くさく醜き
彼等駄獣だじうの群むれ
寝藁ねわらの如ごとく踏みにじらる……


  或年の夏

米の値の例れいなくも昂あがりければ、
わが貧しき十人じふにんの家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦を粟あはに、また小豆あづきに改むれど、
なほわが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らを何なんと叱しからん、
わかき母も心には米を好めば。

「部下の遺族をして
窮する者無からしめ給たまはんことを。
わが念頭に掛かるもの是れのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころ咽むせばるる。


  三等局集配人(押韻)

わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日に五ヶ村そんを受持ち、
集配をして身は疲れ、

暮れて帰れば、母と子と
さびしい膳ぜんのさし向ひ、
しゞみの汁で、そそくさと
済ませば、何なんの話も無い。
たのしみは湯へ行くこと。

湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来て善くする、
大衆文学の噂うはさ
わたしは唯だ知つてゐる、
その円本ゑんほんを配る重さ。

湯が両方の足に沁む。
あかと土とで濁にごされた
底でしばらく其れを揉む。
ああ此この足が明日あすもまた
桑の間あひだの路みちを踏む。

この月も二十日はつかになる。
すこしの楽らくも無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。

小説家がうらやましい、
菊池寛くわんも人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。


  壁

バビロン人の築きたる
雲間くもまの塔は笑ふべし、
それにまさりて呪のろはしき
巨大の塔は此処ここにあり。

千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きて展び、
つるぎを植ゑし頂いたゞき
空わたる日を遮さへぎりぬ。

なにする壁ぞ、その内に
今日けふを劃しきりて、人のため、
ひろびろしたる明日あすの日の
目路めぢに入るをば防ぎたり。

壁の下もとには万年の
小暗をぐらき蔭かげの重かさなれば、
病むが如ごとくに青ざめて
人は力を失ひぬ。

曇りたる目の見難みがたさに
く方かた知らず泣くもあり、
羊の如ごとく押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。

ああ人皆よ、何なにゆゑに
古代の壁を出でざるや、
永久とはの苦痛に泣きながら
なほその壁を頼めるや。

をりをり強き人ありて
いかりて鉄の槌つちを振り、
つれなき壁の一隅ひとすみ
崩さんとして穿うがてども、

衆を協あはせし凡夫ぼんぷ等は
れを捕とらへて撲ち殺し、
穿うがちし壁をさかしらに
太き石もて繕つくろひぬ。

さは云へ壁を築きしは
もとより世世よよの凡夫ぼんぶなり、
まれに出で来る天才の
至上の智慧に及ばんや。

時なり、今ぞ飛行機と
大重砲だいぢゆうはうの世は来きたる。
見よ、真先まつさきに、日の方かたへ、
「生きよ」と叫び飛ぶ群むれを。


  不思議の街

遠い遠い処ところへ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争いくさをしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費にふひにと
国立銀行の小切手を呉れる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省くわんしやうが無い、
大臣は畑はたけへ出てゐる、
工場こうぢやうへ勤めてゐる、
牧場ぼくぢやうに働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者ぎよしやをしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒せうしやとした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を云はない、
そして男と同じ職を執つてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論もちろん裁判所は民事も刑事も無い、
もつぱら賞勲の公平を司つかさどつて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
しかし長長ながながと無用な弁を振ふるひはしない、
大抵は黙つてゐる、
まれに口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、
同時に裁決する女が聡明そうめいだからだ。
また此この街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、踊をどりも、
勿論もちろん名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
まつたくへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
おほちがひの街だ。
遠い遠い処ところへ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。


  女は掠奪者

大百貨店の売出うりだしは
どの女の心をも誘惑そそる、
祭よりも祝いはひよりも誘惑そそる。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
おほよそ何処どこにあらう、
三越みつこしと白木屋しろきやの売出うりだしと聞いて、
胸を跳をどらさない女が、
にはかに誇大妄想家とならない女が。……
その刹那せつな、女は皆、
(たとへ半反はんたんのモスリンを買ふため、
躊躇ちうちよして、見切場みきりば
半日はんにちを費つひやす身分の女とても、)
その気分は貴女きぢよである、
人の中の孔雀くじやくである。
わたしは此の華やかな気分を好く。
早く神を撥無はつむしたわたしも、
美の前には、つつましい
永久の信者である。

けれども、近頃ちかごろ
わたしに大きな不安と
深い恐怖とが感ぜられる。
わたしの興奮は直ぐに覚め、
わたしの狂熱きやうねつは直ぐに冷えて行く。
一瞬の後のちに、わたしは屹度きつと
「馬鹿ばかな亜弗利加アフリカの僭王せんわうよ」
かう云つて、わたし自身を叱しかり、
さうして赤面し、
はげしく良心的に苦くるしむ。

大百貨店の閾しきゐを跨またぐ女に
掠奪者でない女があらうか。
掠奪者、この名は怖おそろしい、
しかし、この名に値する生活を
実行して愧ぢぬ者は、
ああ、世界無数の女ではないか。
(その女の一人ひとりにわたしがゐる。)
女は父の、兄の、弟の、
良人をつとの、あらゆる男子の、
知識と情熱じやうねつと血と汗とを集めた
労働の結果である財力を奪つて
我物わがものの如ごとくに振舞つてゐる。
一掛ひとかけの廉やす半襟を買ふ金かねとても
女自身の正当な所有では無い。
女が呉服屋へ、化粧品屋へ、
貴金属商へ支払ふ
あの莫大ばくだいな額の金かね
すべて男子から搾取するのである。

女よ、
(その女の一人ひとりにわたしがゐる、)
無智、無能、無反省なお前に
男子からそんなに法外な報酬を受ける
立派な理由が何処どこにあるか。
お前は娘として
その華麗な服装に匹敵する
どんなに気高けだかい愛を持ち、
どんなに聡明そうめいな思想を持つて、
世界の青年男子に尊敬され得るか。
お前は妻として
どれだけ良人をつとの職業を理解し、
どれだけ其れを助成したか。
お前は良人をつとの伴侶はんりよとして
対等に何なんの問題を語り得るか。
お前は一日の糧かてを買ふ代しろをさへ
自分の勤労で酬むくいられた事があるか。
お前は母として
自分の子供に何なにを教へたか。
お前からでなくては与へられない程の
立派な精神的な何物なにものかを
少しでも自分の子供に吹き込んだか。
お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。

ああ、わたしは是れを考へる、
さうして戦慄せんりつする。
憎むべく、咀のろふべく、憐あはれむべく、
づべき女よ、わたし自身よ、
女は掠奪者、その遊惰性いうだせい
依頼性とのために、
父、兄弟、良人をつとの力を盗み、
可愛かはいい我子わがこの肉をさへ食むのである。

わたしは三越みつこしや白木屋しろきやの中の
華やかな光景を好く。
わたしは不安も恐怖も無しに
再び「美」の神を愛したいと願ふ。
しかし、それは勇気を要する。
わたしは男に依る寄生状態から脱して、
わたしの魂たましひと両手を
わたし自身の血で浄きよめた後のちである。
わたしは先づ働かう、
わたしは一切の女に裏切る、
わたしは掠奪者の名から脱のがれよう。

女よ、わたし自身よ、
お前は一村いつそん、一市、一国の文化に
直接なにの貢献があるか。
大百貨店の売出うりだしに
お前は特権ある者の如ごとく、
その矮ひくい、蒼白そうはくなからだを、
最上最貴の
有勲者いうくんしやとして飾らうとする。
ああ、男の法外な寛容、
ああ、女の法外な僭越せんえつ
(一九一八年作)

  冷たい夕飯

ああ、ああ、どうなつて行くのでせう、
智慧も工夫も尽きました。
それが僅わづかなおあしでありながら、
融通の附かないと云ふことが
こんなに大きく私達を苦くるしめます。
たゞしく受取る物が
本屋の不景気から受取れずに、
幾月いくつきも苦しい遣繰やりくり
恥を忘れた借りを重ねて、
ああ、たうとう行きづまりました。

人は私達の表面うはべを見て、
くらしむきが下手へただと云ふでせう。
もちろん、下手へたに違ひありません、
でも、これ以上に働くことが
私達に出来るでせうか。
また働きに対する報酬の齟齬そご
これ以下に忍ばねばならないと云ふことが
おそろしい禍わざはひでないでせうか。
少なくとも、私達の大勢の家族が
避け得られることでせうか。

今日けふは勿論もちろん家賃を払ひませなんだ、
その外ほかの払ひには
二月ふたつきまへ、三月みつきまへからの借りが
義理わるく溜たまつてゐるのです。
それを延ばす言葉も
今までは当てがあつて云つたことが
むを得ず嘘うそになつたのでした。
しかし、今日けふこそは、
うそになると知つて嘘うそを云ひました。
どうして、ほんたうの事が云はれませう。

なにも知らない子供達は
今日けふの天長節を喜んでゐました。
中にも光ひかる
明日あすの自分の誕生日を
毎年まいとしのやうに、気持よく、
弟や妹達と祝ふ積つもりでゐます。
子供達のみづみづしい顔を
二つのちやぶ台の四方しはうに見ながら、
ああ、私達ふたおやは
冷たい夕飯ゆふはんを頂きました。

もう私達は顛覆てんぷくするでせう、
隠して来たぼろを出すでせう、
体裁を云つてゐられないでせう、
ほんたうに親子拾何人が餓かつゑるでせう。
まつたくです、私達を
再び立て直す日が来ました。
恥と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、
私達を試みる
赤裸裸の、極寒ごくかんの、
氷のなかの日が来ました。
(一九一七年十二月作)

  真珠貝

真珠の貝は常に泣く。
人こそ知らね、大海おほうみ
風吹かぬ日も浪なみ立てば、
なみに揺られて貝の身の
ところさだめず伏しまろび、
千尋ちひろの底に常に泣く。

まして、たまたま目に見えぬ
小さき砂の貝に入
なみに揺らるる度たびごとに
さとく優やさしき身を刺せば、
避くる由よしなき苦しさに
貝は悶もだえて常に泣く。

忍びて泣けど、折折をりをり
涙は身よりにじみ出で、
貝に籠こもれる一点の
小さき砂をうるほせば、
清く切なきその涙
はかなき砂を掩おほひつつ、
日ごとに玉たまと変れども、
貝は転まろびて常に泣く。

東に昇る「あけぼの」は
その温あたたかき薔薇ばら色を、
よるく月は水色を、
にじは不思議の輝きを、
ともに空より投げかけて、
砂は真珠となりゆけど、
それとも知らず、貝の身は
なみに揺られて常に泣く。


  浪のうねり

島の沖なる群青ぐんじやう
とろりとしたる海の色、
ゆるいうねりが間を置いて
大きな梭をさを振る度たび
釣船一つ、まろまろと
たらひのやうに高くなり、
また傾きて低くなり、
空と水とに浮き遊ぶ。
君と住む身も此れに似て
ひろびろとした愛なれば、
悲しきことも嬉うれしきも
だ永き日の波ぞかし。


  夏の歌

あはれ、快きは夏なり。
万年の酒男さかをとこ太陽は
一時ひとときにその酒倉さかぐらを開けて、
光と、熱ねつと、芳香はうかうと、
七色なないろとの、
巨大なる罎ブタイユの前に
人を引く。

あはれ、快きは夏なり。
人皆ギリシヤの古いにしへの如ごと
うすき衣きぬを著け、
はた生れながらの
裸となりて、
飽くまでも、湯の如ごとく、
光明くわうみやう歓喜くわんぎの酒を浴ぶ。

あはれ、快きは夏なり。
人皆太陽に酔へる時、
たちまち前に裂くるは
夕立のシトロン。
さて夜よるとなれば、
金属質の涼風すゞかぜ
水晶の月、夢を揺ゆする。


  五月の歌

ああ五月ごぐわつ、我等の世界は
太陽と、花と、麦の穂と、
瑠璃るりの空とをもて飾られ、
空気は酒室さかむろの呼吸いきの如ごとく甘く、
光は孔雀くじやくの羽はねの如ごとく緑金りよくこんなり。
ああ五月ごぐわつ、万物は一新す、
竹の子も地を破り、
どくだみの花も蝶てふを呼び、
はちも卵を産む。
かかる時に、母の胎を出でて
清く勇ましき初声うぶごゑを揚ぐる児
抱寝だきねして、其児そのこ
初めて人間のマナを飲まする母、
はげしき熱愛ねつあいの中に手を執
婚莚こんえんの夜の若き二人ふたり
若葉に露の置く如ごとく額ひたひに汗して、
桑を摘み、麻を織る里人さとびと
共に何なにたる景福けいふくの人人ひとびとぞ。
たとひ此この日、欧洲の戦場に立ちて、
鉄と火の前に、
大悪だいあく非道の犠牲とならん勇士も、
また無料宿泊所の壁に凭りて
明日あすの朝飯あさはんの代しろを持たぬ無職者も、
ああ五月ごぐわつ、此この月に遇へることは
如何いかに力満ちたる実感の生せいならまし。


  ロダン夫人の賜へる花束

とある一つの抽斗ひきだしを開きて、
旅の記念の絵葉書をまさぐれば、
その下より巴里パリイの新聞に包みたる
色褪いろあせし花束は現れぬ。
おお、ロダン先生の庭の薔薇ばらのいろいろ……
我等二人ふたりはその日を如何いかで忘れん、
白髪しらがまじれる金髪の老貴女きぢよ
ひろき梔花色くちなしいろの上衣うはぎを被はおりたる、
けだかくも優やさしきロダン夫人は、
みづから庭に下りて、
露おく中に摘みたまひ、
我をかき抱いだきつつ是れを取らせ給たまひき。

花束よ、尊たふとく、なつかしき花束よ、
その日の幸ひは猶なほ我等が心に新しきを、
わづかに三年の時は
無残にも、汝そなた
埃及エヂプトのミイラに巻ける
五千年前ぜんの朽ちし布の
すさまじき茶褐色に等しからしむ。

われは良人をつとを呼びて、
かつて其その日の帰路きろ
夫人が我等を載せて送らせ給たまひし
ロダン先生の馬車の上にて、
今一人ひとりの友と三人みたり
感激の中に嗅ぎ合ひし如ごとく、
ぬかを寄せて嗅がんとすれば、
花は臨終いまはの人の歎く如ごとく、
つと仄ほのかなる香にほひを立てながら、
二人ふたりの手の上に
さながら焦げたる紙の如ごとく、
あはれ、悲し、
ほろほろと砕け散りぬ。

おお、われは斯かる時、
必ず冷ひややかにあり難がたし、
我等が歓楽も今は
この花と共に空むなしくやなるらん。
許したまへ、
涙を拭ぬぐふを。

良人をつとは云ひぬ、
「わが庭の薔薇ばらの下もと
この花の灰を撒けよ、
日本の土が
これに由りて浄きよまるは
印度いんどの古き仏の牙きば
教徒の齎もたらせるに勝まさらん。」


  暑き日の午前

暑し、暑し、
曇りたる日の温気うんき
あぶら障子の中にある如ごとし。
狭き書斎に陳べたる
十鉢とはちの朝顔の花は
早くも我に先立ちて熱ねつを感じ、
友禅の小切こぎれ
れて撓たわめる如ごとく、
また、書きさして裂きて丸まろめし
ある時の恋の反古ほごの如ごとく、
はかなく、いたましく、
みすぼらしく打萎うちしをれぬ。
暑し、暑し、
机の蔭かげよりは
ちひさく憎き吸血魔
藪蚊やぶかこそ現れて、
ひざを、足を、刺し初む。
されど、アウギユストは元気にて
彼方かなたの縁に水鉄砲を弄いぢり、
けんはすやすやと
枕蚊帳まくらかやの中に眠れり。
この隙すきに、君よ、
筆を擱きて、
浴びたまはずや、水を。
たた、たたと落つる
水道の水は細けれど、
その水音みづおとに、昨日きのふ
ふと我は偲しのびき、
サン/クルウの森の噴水。


  隠れ蓑

わたしの庭の「かくれみの」
常緑樹ときはぎながらいたましや、
時も時とて、茱萸ぐみにさへ、
枳殻からたちにさへ花の咲く
夏の初めにいたましや、
みどりの枝のそこかしこ、
たまたまひと葉二葉ふたはづつ
日毎ひごとに目立つ濃い鬱金うこん
若い白髪しらがを見るやうに
染めて落ちるがいたましや。
わたしの庭の「かくれみの、」
見れば泣かれる「かくれみの。」


  夜の机

西洋蝋燭らふそくの大理石よりも白きを硝子がらすの鉢に燃もやし、
夜更よふくるまで黒檀こくたんの卓に物書けば幸福しあはせ多きかな。
あはれこの梔花色くちなしいろの明りこそ
咲く花の如ごとき命を包む想像の狭霧さぎりなれ。

これを思へば昼は詩人の領りやうならず、
あまつ日は詩人の光ならず、
けだし阿弗利加アフリカを沙漠さばくにしたる悪しき※の気息いきのみ。

うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める白蝋はくらふの明り。
この明りの中に五感と頭脳とを越え、
全身をもて嗅ぎ、触れ、知る刹那せつな――
一切と個性とのいみじき調和、
理想の実現せらるる刹那せつなは来きたり、
ニイチエの「夜よるの歌」の中なる「総すべての泉」の如ごとく、
わが歌は盛高もりだかになみなみと迸ほとばしる。


  きちがひ茄子

とん、とん、とんと足拍子、
ほらを踏むよな足拍子、
つい嬉うれしさに、秋の日の
長い廊下を走つたが、
何処どこをどう行き、どう探し、
うして採つたか覚えねど、
わたしの袂たもとに入はひつてた
きちがひ茄子なすと笑ひ茸たけ
わたしは夢を見てゐるか、
もう気ちがひになつたのか、
あれ、あれ、世界が火になつた。
何処どこかで人の笑ふ声。


  花子の歌四章(童謡)

  九官鳥

九官鳥はいつの間
だれが教へて覚えたか、
わたしの名をばはつきりと
優しい声で「花子さん。」

「何なにか御用」と問うたれば、
九官鳥の憎らしや、
聞かぬ振ふりして、間を置いて、
「ちりん、ちりん」と電鈴ベルの真似まね

「もう知らない」と行きかけて
わたしが云へば、後ろから、
九官鳥のおどけ者、
「困る、困る」と高い声。


  薔薇と花子

花子の庭の薔薇ばらの花、
花子の植ゑた薔薇ばらなれば
ほんによう似た花が咲く。
色は花子の頬の色に、
花は花子のくちびるに、
ほんによう似た薔薇ばらの花。

花子の庭の薔薇ばらの花、
花が可愛かはいと、太陽も
黄金きんの油を振撒ふりまけば、
花が可愛かはいと、そよ風も
人目に見えぬ波形なみがた
薄い透綾すきやを著せに来る。

そばで花子の歌ふ日は
薔薇ばらも香りの気息いきをして
花子のやうな声を出し、
そばで花子の踊る日は
薔薇ばらもそよろと身を揺ゆす
花子のやうな振ふりをする。

そして花子の留守の日は
涙をためた目を伏せて、
じつと俯うつ向く薔薇ばらの花。
花の心のしをらしや、
それも花子に生き写し。
花子の庭の薔薇ばらの花。


  花子の熊

雪がしとしと降つてきた。
玩具おもちやの熊くまを抱きながら、
小さい花子は縁に出た。

山に生れた熊くまの子は
雪の降るのが好きであろ、
雪を見せよと縁に出た。

くまは冷たい雪よりも、
抱いた花子の温かい
優しい胸を喜んだ。

そして、花子の手の中で、
玩具おもちやの熊くまはひと寝入り。
雪はますます降り積つもる。


  蜻蛉とんぼの歌

汗の流れる七月は
蜻蛉とんぼも夏の休暇おやすみか。
街の子供と同じよに
避暑地の浜の砂に来て
群れつつ薄い袖そでを振る。

さい花子が昼顔の
花を摘まうと手を出せば、
これをも白い花と見て
蜻蛉とんぼが一つ指先へ
ついと気軽に降りて来た。

思はぬ事の嬉うれしさに
花子の胸は轟とゞろいた。
今美うつくしい羽はねのある
さい天使がじつとして
花子の指に止まつてる。


  手の上の花

鴨頭草つきくさの花、手に載せて
見れば涼しい空色の
花の瞳ひとみがさし覗のぞく、
わたしの胸の寂さびしさを。

鴨頭草つきくさの花、空色の
花の瞳ひとみのうるむのは、
暗い心を見透とほして、
わたしのために歎くのか。

鴨頭草つきくさの花、しばらくは
手にした花を捨てかねる。
土となるべき友ながら、
我も惜をしめば花も惜し。

鴨頭草つきくさの花、夜となれば、
ほんにそなたは星の花、
わたしの指を枝として
しづかに銀の火を点ともす。


  一隅いちぐうにて

われは在り、片隅に。
ある時は眠げにて、
ある時は病める如ごとく、
ある時は苦笑を忍びながら、
ある時は鉄の枷かせ
わが足にある如ごとく、
ある時は飢ゑて
みづからの指を嘗めつつ、
ある時は涙の壺つぼを覗のぞき、
ある時は青玉せいぎよく
古き磬けいを打ち、
ある時は臨終の
白鳥はくてうを見守り、
ある時は指を挙げて
空に歌を書きつつ………
さびし、いと寂さびし、
われはあり、片隅に。


  午前三時の鐘

上野の鐘が鳴る。
午前三時、
しんしんと更けわたる
十一月の初めの或夜あるよるに、
東京の街の矮ひくい屋根を越えて、
上野の鐘が鳴る。
この声だ、
日本人の心の声は。
この声を聞くと
日本人の心は皆おちつく、
皆静かになる、
皆自力じりきを麻痺まひして
他力たりきの信徒に変る。
上野の鐘が鳴る。
わたしは今、ちよいと
痙攣けいれん的な反抗が込み上げる。
けれど、わたしの内にある
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、
明方あけがたの霜の置く
木の箱の家いへの中で、
わたしは鐘の声を聞きながら、
じつと滅入めいつて
筆の手を休める。
上野の鐘が鳴る。


  或日の寂しさ

かどに立つのは
うその苦学生、
うその廃兵、
うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
うその紳士、大臣、
うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
うその裁判、
うその結婚、
さうして、うその教育。
浮世小路こうぢは繁しげけれど、
ついぞ真まことに行き遇はぬ。
今年畏かしこくも御即位の大典を挙げさせ給たま
拾一月の一日いちじつに、此この集の校正を終りぬ。
読み返し行くに、愧はづかしきことのみ多き心の跡なれば、
あきらかに和やはらぎたる新あらた代の御光みひかりの下もとには、
ひときは出だし苦ぐるしき心地ぞする。 晶子

晶子詩篇全集 終

 冷たい夕飯-雑詩 我手の花 一すぢ残る赤い道 砂の塔 古巣より 人の言葉 闇に釣る船 灰色の一路 厭な日 風の夜 小猫 記事一章 
 怖ろしい兄弟 駄獣の群 或年の夏 三等局集配人  不思議の街 女は掠奪者 冷たい夕飯 真珠貝 浪のうねり 夏の歌 五月の歌 
ロダン夫人の賜へる花束 暑き日の午前 隠れ蓑 夜の机 きちがひ茄子 花子の歌四章-童謡 九官鳥 薔薇と花子 花子の熊 蜻蛉の歌 
手の上の花 一隅にて 午前三時の鐘 或日の寂しさ 全集