幻想と風景(雑詩八十七章)

  曙光

今、暁あかつき
太陽の会釈に、
金色こんじきの笑ひ
天の隅隅すみずみに降り注ぐ。

れは目覚めざめたり、
光る鶴嘴つるはし
幅びろき胸、
うしろに靡なび
空色の髪、
わが青年は
悠揚いうやうとして立ち上がる。

裸体なる彼れが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見て羨うらやめり。

青年の行手ゆくてには、
蒼茫さうばうたる
無辺の大地、
その上に、遥はるかに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
みちの如ごとく横たはるは、
だ、彼れの歩み行
孤独の影のみ。

今、暁あかつき
太陽のみ
光の手を伸べて
れを見送る。

  大震後第一春の歌

おお大地震だいぢしんと猛火、
その急激な襲来にも
我我は堪へた。
一難また一難、
んでも来よ、
それを踏み越えて行く用意が
しかと何時いつでもある。

大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那せつなに永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在の魂たましひ

おお此の魂たましひである、
はがねの質を持つた種子たね
火の中からでも芽をふくものは。
おお此の魂たましひである、
天の日、太洋たいやうの浪なみ
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。

我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、溌溂はつらつたる素朴と
未曾有みぞうの喜びの
精神と様式とが前に現れる。

たれも昨日きのふに囚とらはれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りの剥げた額縁に入れるな。
手は断えず一いちから図を引け、
トタンと荒木あらきの柱との間あひだに、
汗と破格の歌とを以もつ
かんかんと槌つちの音を響かせよ。

法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。

新しく生きる者に
日は常に元日ぐわんじつ
時は常に春。
百の禍わざはひも何なにぞ、
千の戦たゝかひで勝たう。
おお窓毎まどごとに裸の太陽、
軒毎のきごとに雪の解けるしづく。

  元朝の富士

今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
うつくしいパステルの
こな絵具に似た、
浅緑あさみどりと淡黄うすき
すみれいろとの
きとほりつつ降り注ぐ
静かなる暁あかつきの光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅さんごこうの熔岩ラヷ――
新しい世界の噴火……

わたしは此時このとき
新しい目を逸そらさうとして、
思はずも見た、
おお、彼処かしこにある、
巨大なダンテの半面像シルエツトが、
巍然ぎぜんとして、天の半なかばに。

それはバルジエロの壁に描かれた
青い冠かんむりに赤い上衣うはぎ
細面ほそおもて
凛凛りゝしい上目うはめづかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
その優やさしく気高けだかい顔を
いつぱいに紅あかくして微笑ほゝゑむ。

人人ひとびとよ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰あふげ、共に、
しゆに染まる今朝けさの富士を。

  伊豆の海岸にて

石垣の上に細路ほそみち
そして、また、上に石垣、
いその潮で
千年の「時」が磨減すりへらした
大きな円石まろいし
層層そうそうと積み重ねた石垣。

どの石垣の間あひだからも
椿つばきの木が生えてゐる。
琅玕らうかんのやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な支那しなの貴女きぢよ
笑つた口のやうな紅あかい花。

石垣の崩れた処ところには
山の切崖きりぎし
煉瓦色れんがいろの肌を出し、
下には海に沈んだ円石まろいし
浅瀬の水を透とほして
かめの甲のやうに並んでゐる。

沖の初島はつしまの方から
折折をりをりに風が吹く。
その度に、近い所で
さい浪頭なみがしらがさつと立ち、
石垣の椿つばきが身を揺ゆすつて
落ちた花がぼたりと水に浮く。

  田舎の春

正月元日ぐわんじつ、里さとずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ木枯こがらしはをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い鼓弓こきふを鳴らせども、
軒端のきはの日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。

上には晴れた空の色、
濃いお納戸なんどの支那繻子しなじゆすに、
光、光と云ふ文字を
銀糸ぎんしで置いた繍ぬひの袖そで
春が著て来た上衣うはぎをば
枝に掛けたか、打香うちかをり、
ちらり、ほらりと梅が咲く。

  太陽出現

薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。

珊瑚紅さんごこうから
黄金わうごんの光へ、
まばゆくも変りゆく
ほのほの舞。

あけぼのの雲間くもまから
子供らしい円まろい頬
真赤まつかに染めて笑ふ
地上の山山。

今、焔ほのほは一ひと揺れし、
世界に降らす金粉きんぷん
不死鳥フエニクスの羽羽はばたきだ。
太陽が現れる。

  春が来た

春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板はりものいたの紅絹もみのきれ、
立つ陽炎かげろふも身をそそる。

春が来た。
亜鉛とたんの屋根に、ちよちよと、
妻に焦こがれてまんまろな
ふくら雀すゞめもよい形かたち

春が来た。
遠い旅路の良人をつとから
使つかひに来たか、見に来たか、
わたしを泣かせに唯だ来たか。

春が来た。
朝の汁スウプにきりきざむ
ふきの薹たうにも春が来た、
青いうれしい春が来た。

  二月の街

春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。

春よ春、
うす衣ぎぬすらもはおらずに
二月の肌を惜をしむのか。

早く注せ、
あの大川おほかはに紫を、
其処そこの並木にうすべにを。

春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風そよかぜとして軒のきに置け。

その手には
屹度きつと、蜜みつの香、薔薇ばらの夢、
ちゝのやうなる雨の糸。

おもふさへ
しや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。

春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。

  我前に梅の花

わが前に梅の花、
うすき緑を注したる白、
ルイ十四世じふしせの白、
上には瑠璃るり色の
支那絹しなぎぬの空、
目も遥はるに。

わが前に梅の花、
心は今、
白金はくきんの巣に
に酔ふ小鳥、
ほれぼれと、一節ひとふし
高音たかねに歌はまほし。

わが前に梅の花、
心は更に、
空想の中なる、
羅馬ロオマを見下みおろす丘の上の、
大理石の柱廊ちゆうらう
片手を掛けたり。

  紅梅

おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
紅梅の花、
薄暗うすくらい長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎ貼りした障子の中の
冬の明あかりに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな帛片きれ
のりと、鋏はさみと、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工てざいくに造つた花と云はうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の赤玉あかだまを綴つゞつた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜと云ふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒げんかんと北風きたかぜとに曝さらされて、
あの三月さんぐわつに先だち、
おそる怖おそる笑つてゐる。

  新柳

空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。

すこし離れて見るときは、
散歩の路みちの少女をとめらが
深深ふかぶかとさす日傘パラソルか。

かげに立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ鳳凰ほうわう
雲より垂れた錦尾にしきをか。

空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば翡翠ひすゐの露が散る。

  牛込見附外

牛込見附うしごめみつけの青い色、
わけて柳のさばき髪がみ
それが映つた濠ほりの水。

柳の蔭かげのしつとりと
黒く濡れたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い護謨輪ごむわの馳せ去れば、
あとに我児わがこの靴のおと。

黄いろな電車を遣りすごし、
見上げた高い神楽坂かぐらざか
なにやら軽かろく、人ごみに
気おくれのする快さ。

我児わがこの手からすと離れ、
風船玉だまが飛んでゆく、
のきから軒のきへ揚あがりゆく。

  市中沙塵

柳の青む頃ころながら、
二月の風は殺気さつきだち、
都の街の其処そこここに
砂の毒瓦斯どくがす、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。

よろよろとして、濠端ほりばた
山高帽を抑おさへたる
洋服づれの逃げ足の
操人形あやつりに似る可笑をかしさを、
外目よそめに笑ふひまも無く、

さと我顔わがかほに吹きつくる
痛き飛礫つぶてに目ふさげば、
かろき眩暈めまひに身は傾かしぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。

二月の風の憎きかな、
乱るる裾すそは手に取れど、
髪も袂たもとも鍋鶴なべづる
灰色したる心地して、
砂の煙けぶりに羽羽はばたきぬ。

  弥生の歌

にはかに人の胸を打つ
高い音じめの弥生やよひかな、
支那しなの鼓弓こきうの弥生やよひかな。

かぼそい靴を爪立つまだてて
くるりと旋めぐる弥生やよひかな、
露西亜ロシアバレエの弥生やよひかな。

薔薇ばらに並んだチユウリツプ、
黄金きんと白との弥生やよひかな、
ルイ十四世じふしせいの弥生やよひかな。

  四月の太陽

ああ、今やつと目の醒めた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇りやうあんの日は過ぎたのに、
永く見詰めて寝通ねとほした
暗い一間ひとまを脱け出して、
柳並木の河岸かしどほ
塗り替へられた水色の
きやしやな露椅子バンクに腰を掛け、
白い諸手もろてを細杖ほそづゑ
銀の把手とつてに置きながら、
風を怖おそれて外套ぐわいたう
うすい焦茶の襟を立て、
やまひあがりの青ざめた
顔を埋うづめて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、美うつくしい
うすくれなゐの微笑ほゝゑみ
太陽の頬にさつと照り、
おほひ切れざる喜びの
底ぢからある目差まなざし
きんの光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町こまち娘を選りぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば口口くちぐち
細い腕かひなをさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中の駅しくなれば、
いざ此処ここにして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざ魂たましひをすこやかに
はた清くして、晶液しやうえき
したゝる水に身を洗へ。
やがて、そなたの行先ゆくさき
すべての溝が毒に沸き、
すべての街が悪に燃え、
腐れた匂にほひ、熱あつい気息いき
雨と洪水、黴かびと汗、
蠕虫うじ、バクテリヤ、泥と人、
其等それらの物の入りまじり、
濁り、泡立ち、咽せ返る
夏の都を越えながら、
けがれず、病まず、悲かなしまず、
信と勇気の象形うらかた
細身の剣と百合ゆりを取り、
ああ太陽よ、悠揚いうやう
秋の野山に分け入れよ、
其処そこにそなたの唇は
黄金きんの果実このみに飽くであろ。

  雑草

雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
みちを残して青むなり。

雑草こそは正しけれ、
如何いかなる窪くぼも平たひらかに
まろく埋うづめて青むなり。

雑草こそは情なさけあれ、
けもののひづめ、鳥の脚あし
すべてを載せて青むなり。

雑草こそは尊たふとけれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑ほゝゑみながら青むなり。

  桃の花

すくすく伸びた枝毎えだごと
まろくふくらむ好い蕾つぼみ
若い健気けなげな創造の
力に満ちた桃の花。

この世紀から改まる
女ごころの譬たとへにも
私は引かう、華やかに
この美うつくしい桃の花。

ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人の頬も、
さつと真赤まつかに酔はされる
愛と匂にほひの桃の花。

女の明日あすの熱情ねつじやう
世をば平和にする如ごとく、
今日けふの世界を三月さんぐわつ
絶頂に置く桃の花。

  春の微風

ああ三月さんぐわつのそよかぜ、
みつと、香と、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ。

そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして微触ほのかなれども、
いと長きその喜びは既に溢あふる。

また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロとの
ぬか寄せて心酔ひつつ読みし書ふみなれ。

ああ三月さんぐわつのそよかぜ、
今、そなたの第一の微笑ほゝゑみに、
人も、花も、胡蝶こてふも、
わなわなと胸踊る、胸踊る。

  桜の歌

花の中なる京をんな、
薄花うすはなざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。

女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中に何なにやら晴れがまし。

春の遊びを愛づる君、
知り給たまへるや、この花の
分けていみじき一時ひとときを。

日は今西に移り行き、
知り給たまへるや、木がくれて、
青味を帯びしひと時を。

日は今西に移り行き、
静かに霞かすむ春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。

  緋桜ひざくら

赤くぼかした八重ざくら、
その蔭かげゆけば、ほんのりと、
歌舞伎かぶき芝居に見るやうな
江戸の明あかりが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめ気の、
おもはゆながら、絃いとにつれ、
なにか一ひとさし舞ひたけれ。

さてまた小雨こさめふりつづき、
目を泣き脹らす八重ざくら、
その散りがたの艶いろめけば、
豊國とよくにの絵にあるやうな、
繻子じゆすの黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。

  春雨

工場こうばの窓で今日けふ聞くは
慣れぬ稼かせぎの涙雨なみだあめ
弥生やよひと云へど、美うつくしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦れんがの塀や、煙突や、
トタンの屋根に濡れかかり、
すゝと煙を溶きながら、
石炭殻がらに沁んでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして門田かどたのれんげ草。

  薔薇の歌(八章)

賓客まらうどよ、
いざ入りたまへ、
いな、しばし待ちたまへ、
その入口いりくちの閾しきゐに。

知りたまふや、賓客まらうどよ、
ここに我心わがこゝろ
幸運の俄にはかに来きたれる如ごとく、
いみじくも惑へるなり。

なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱ひとかゝへのかずかずの薔薇ばら

如何いかにすべきぞ、
この堆うづたか
めでたき薔薇ばらを、
両手もろでに余る薔薇ばらを。

この花束のままに
太き壺つぼにや活けん、
とりどりに
さき瓶かめにや分わかたん。

づ、何なにはあれ、
この薄黄うすきなる大輪たいりん
賓客まらうどよ、
君が掌てのひらに置かん。

花に足る喜びは、
うつくしきアントニオを載せて
羅馬ロオマを船出ふなでせし
クレオパトラも知らじ。

まして、風流ふうりうの大守たいしゆ
十二の金印きんいんを佩びて、
楊州やうしうに下くだる楽たのしみは
言ふべくも無し。

いざ入りたまへ、
今日けふこそ我が仮の家いへも、
賓客まらうどよ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
  ×
一つの薔薇ばらの瓶かめ
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの薔薇ばらの瓶かめ
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの薔薇ばらの瓶かめ
君と我との
あひだの卓に置かん。
さてまた二つの薔薇ばらの瓶かめ
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの瓶かめ
何処いづこにか置くべき。
化粧けはひの間にか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き藻風さうふうの君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
  ×
今日けふ、わが家いへには
どの室しつにも薔薇ばらあり。
我等は生きぬ、
香味かうみと、色と、
春と、愛と、
光との中に。

なつかしき博士はかせ夫人、
その花園はなぞのの薔薇ばらを、
朝露あさつゆの中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どの室しつにも薔薇ばらあり。

同じ都に住みつつ、
我は未いまだその君を
まのあたり見ざれど、
にほはしき御心みこころの程は知りぬ、
何時いつも、何時いつも、
花を摘みて賜たまへば。
  ×
われは宵より
あかつきがたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
熱病ねつびやうの人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士はかせ夫人の賜たまへる
ほのほの色の薔薇ばらありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は其処そこに」と。
  ×
今朝けさ、わが家いへ
どの室しつの薔薇ばらも、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑ほゝゑめる唇なり、
皆、歌へる唇なり。
  ×
あはれ、何なんたる、
若やかに、
好色好色すきずきしき
微風そよかぜならん。
青磁の瓶かめの蔭かげ
宵より忍び居て、
この暁あかつき
大輪たいりんの薔薇ばら
ほのかに落ちし
真赤まつかなる
一片ひとひらの下もとに、
あへなくも圧されて、
息を香に代へぬ。
  ×
瓶毎かめごと
わが侍かしづき護まも
宝玉はうぎよくの如ごと
めでたき薔薇ばら
あまつ日の如ごと
盛りの薔薇ばら
恋知らぬ天童てんどうの如ごと
清らなる薔薇ばら
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及び難がたしと。

此処ここ
われに親しきは、
肉身の深き底より
むに已まれず
燃えあがる熱情ねつじやう
れにひとしき紅あかき薔薇ばら
はた、逸早いちはや
うれひを知るや、
青ざめて、
月の光に似たる薔薇ばら
深き疑惑に沈み入
烏羽玉うはたまの黒き薔薇ばら
  ×
薔薇ばらがこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角な瓶かめから
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうな塊かたまり
月の光のやうな線、
ラフワエルの花神フロラの絵の肉色にくいろ
つつましやかな薔薇ばら
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に凭
尼達のやうには青ざめず、
清く貴あてやかな処女の
高い、温かい寂さびしさと、
みづから抑おさへかねた妙香めうかう
金色こんじきをした雰囲気アトモスフエエルとの中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
  ×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの五月ごぐわつの薔薇ばら
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この疵きずだらけの卓テエブルの上へ、
薔薇ばらよ、そなたは
どんな貴女きぢよの飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れな忙せはしい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季はなどきは短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしと是れを感じる。
でも、薔薇ばらよ、
私は窓掛を引いて、
そなたを陰影かげの中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
なほ、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。

  牡丹の歌

おお、真赤まつかなる神秘の花、
天啓の花、牡丹ぼたん
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、牡丹ぼたん
愛の花、熱ねつの花、
幻想の花、焔ほのほの花、牡丹ぼたん
コンテツス/ド/ノワイユを、
ルノワアルを、梅蘭芳メイランフワンを、
梅原龍三郎りようざぶらうを連想する花、牡丹ぼたん

おお、そなたは、また、
宇宙の不思議に酔へる哲人の
大歓喜だいくわんぎを示す記号アンブレエム、牡丹ぼたん
また詩人が常に建つる
熱情ねつじやうの宝楼はうろう
柱頭ちゆうとうを飾る火焔模様、牡丹ぼたん
また、青春の秘経ひきやうの奥に
愛と栄華を保証する
運命の黄金きんの大印たいいん、牡丹ぼたん

おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き接吻ベエゼの唇、牡丹ぼたん
我は狂ほしき眩暈めまひの中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
あつき、熱あつきヒユウマニズムの唇、牡丹ぼたん
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が真赤まつかなる心の花、牡丹ぼたん

  初夏はつなつ

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
髪をきれいに梳き分けた
十六七の美少年。
さくら色した肉附にくづきに、
ようも似合うた詰襟つめえり
みどりの上衣うはぎ、しろづぼん。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
青い焔ほのほを沸き立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいと噛み切り吹く笛も
つつみ難がたない火の調子。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
ほそいづぼんに、赤い靴、
つゑを振り振り駆けて来た。
そよろと匂にほふ追風おひかぜに、
枳殻きこくの若芽、けしの花、
青梅あをうめの実も身をゆする。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
五行ばかりの新しい
恋の小唄こうたをくちずさみ、
女の呼吸いきのする窓へ、
物を思へど、蒼白あをじろ
百合ゆりの陰翳かげをば投げに来た。

  夏の女王

おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の皷動こどうに調子を合せて、
万物が一斉に
うんと力りきみ返り、
肺一いつぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色こんじきに光る夏、
真紅しんくに炎上する夏、
火の粉を振撒ふりまく夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する焼酎せうちうの夏、
乱舞する獅子頭ししかしらの夏、
かう云ふ夏のあるために
万物は目を覚さまし、
天地てんち初生しよせいの元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と姑息こそくとから、
小さな怨嗟ゑんさから、
見苦みぐるしい自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂へきれきの一音いちおん
それが振鈴しんれいだ、
見よ、今、
赫灼かくしやくたる夏の女王ぢよわうの登場。

  五月の歌

ああ、五月ごぐわつ
そなたは、美うつくしい
季節の処女をとめ
太陽の花嫁。

そなたの為めに、
野は躑躅つゝじを、
水は杜若かきつばたを、
森は藤ふぢを捧さゝげる。

微風そよかぜも、蜜蜂みつばちも、
はた杜鵑ほとゝぎすも、
だそなたを
めて歌ふ。

五月ごぐわつよ、そなたの
桃色の微笑ほゝゑみ
木蔭こかげの薔薇ばら
花の上にもある。

  五月礼讃らいさん

五月ごぐわつは好い月、花の月、
芽の月、香の月、色いろの月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬しやくやく、藤ふぢ、蘇枋すはう
リラ、チユウリツプ、罌粟けしの月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠まきかんむりに矢を背負ひ、
あふひをかざす京人きやうびと
馬競うまくらべする祭月まつりづき
巴里パリイの街の少女等をとめら
花の祭に美うつくしい
あてな女王ぢよわうを選ぶ月、
わたしのことを云ふならば
シベリアを行き、独逸ドイツき、
君を慕うてはるばると
その巴里パリイまで著いた月、
菖蒲あやめの太刀たちと幟のぼりとで
去年うまれた四男よなん目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚しゆろの木が
馬来マレエの島を想おもはせる
微風そよかぜの月、青い月、
プラチナ色いろの雲の月、
蜜蜂みつばちの月、蝶てふの月、
ありも蛾となり、金糸雀かなりや
卵を抱いだく生うみの月、
なにやら物に誘そゝられる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
をどりの、楽がくの、歌の月、
わたしを中に万物ばんぶつ
堅く抱きしめ、縺もつれ合ひ、
うめき、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海あをうみの、
森の、公園パルクの、噴水の、
庭の、屋前テラスの、離亭ちんの月、
やれ来た、五月ごぐわつ、麦藁むぎわら
細い薄手うすでの硝杯こつぷから
レモン水すゐをば吸ふやうな
あまい眩暈めまひを投げに来た。

  南風

四月の末すゑに街行けば、
気ちがひじみた風が吹く。
砂と、汐気しほけと、泥の香と、
温気うんきを混ぜた南風みなみかぜ

細柄ほそえの日傘わが手から
気球のやうに逃げよとし、
髪や、袂たもとや、裾すそまはり
羽ばたくやうに舞ひ揚あがる。

人も、車も、牛、馬も
同じ路みち踏む都とて、
電車、自転車、監獄車、
自動車づれの狼藉らうぜきさ。

鼻息荒く吼えながら、
人を侮り、脅おびやかし、
浮足立たせ、周章あわてさせ、
逃げ惑はせて、あはや今、

踏みにじらんと追ひ迫り、
さて、その刹那せつな、冷ひやゝかに、
からかふやうに、勝つたよに、
見返りもせず去つて行く。

そして神田の四つ辻つじに、
下駄を切らして俯うつ向いた
わたしの顔を憎らしく
のぞいて遊ぶ南風みなみかぜ

  五月の海

おお、海が高まる、高まる。
若い、やさしい五月ごぐわつの胸、
群青色ぐんじやういろの海が高まる。
金岡かなをかの金泥こんでいの厚さ、
光悦くわうえつの線の太さ、
寫樂しやらくの神経のきびきびしさ、
其等それらを一つに融かして
音楽のやうに海が高まる。

さうして、その先に
美しい海の乳首ちゝくびと見える
まんまるい一点の紅あかい帆。
それを中心に
今、海は一段と緊張し、
高まる、高まる、高まる。
おお、若い命が高まる。
わたしと一所いつしよに海が高まる。

  チユウリツプ

今年も五月ごぐわつ、チユウリツプ、
見る目まばゆくぱつと咲く、
猩猩緋しやう/″\ひに咲く、黄金きんに咲く、
べにと白とをまぜて咲く、
人に構はず派手に咲く。

  五月雨

今日けふも冷たく降る雨は
白く尽きざる涙にて、
世界を掩おほふ梅雨空つゆぞら
重たき繻子しゆすの喪の掛布かけふ

空は空とて悲しきか、
かなしみ多き我胸わがむね
墨と銀との泣き交かは
ゆふべの色に変る頃。

  夏草

庭に繁しげれる雑草も
見る人によりあはれなり、
心に上のぼる雑念ざふねん
一一いち/\見れば捨てがたし。
あはれなり、捨てがたし、
捨てがたし、あはれなり。

  たんぽぽの穂

うすずみ色の梅雨空つゆぞらに、
屋根の上から、ふわふわと
たんぽぽの穂が白く散る。

ねつと笑ひを失つた
老いた世界の肌皮はだかは
枯れて剥がれて落ちるのか。

たんぽぽの穂の散るままに、
ちらと滑稽おどけた骸骨がいこつ
前に踊つて消えて行く。

なにか心の無かるべき。
ほつと気息いきをばつきながら
思ひあまりて散るならん、
梅雨つゆの晴間はれまの屋根の草。

  屋根の草

ひとむら立てる屋根の草、
んの草とも知らざりき。
梅雨つゆの晴間はれまに見上ぐれば、
綿より脆もろく、白髪しらがより
細く、はかなく、折折をりをり
たんぽぽの穂がふわと散る。

  五月雨と私

ああ、さみだれよ、昨日きのふまで、
そなたを憎いと思つてた。
魔障ましやうの雲がはびこつて
地を亡ほろぼそと降るやうに。

もし、さみだれが世に絶えて
だ乾く日のつづきなば、
都も、山も、花園も、
サハラの沙すなとなるであろ。

恋を命とする身には
涙の添ひてうらがなし。
空を恋路にたとへなば、
そのさみだれはため涙。

降れ、しとしとと、しとしとと、
赤をまじへた、温かい
黒の中から、さみだれよ、
網形あみがたに引け、銀の糸。

ああ、さみだれよ、そなたのみ、
わが名も骨も朽ちる日に、
うもれた墓を洗ひ出し、
涙の手もて拭ぬぐふのは。

  隅田川

隅田川、
隅田川、
いつ見ても
土の色して
かき濁り、
もくして流ながる。

今は我身わがみ
引きくらべ、
土より出たる
隅田川、
隅田川、
ひとしく悲し。

く人は
悪を離れず、
く水は
土を離れず。
隅田川、
隅田川。

  朝日の前

あはれ、日の出、
山山やまやまは酔へる如ごとく、
みな喜びに身を揺ゆすりて、
黄金きんと朱しゆの笑まひを交かはし、
海と云ふ海は皆、
にじよりも眩まばゆき
黄金きんと五彩の橋を浮うかべて、
「日よ、先
此処ここより過ぎたまへ」とさし招き、
さて、日の脚あしに口づけんとす。

あはれ、日の出、
万象ばんしやう
一瞬にして、奇蹟の如ごと
すべて変れり。
大寺おほてらの屋根に
はとのむれは羽羽はばたき、
裏街に眠りし
運河のどす黒ぐろき水にも
銀と珊瑚さんごのゆるき波を揚げて、
早くも動く船あり。
人、いづこにか
静かに怠りて在り得べき。
あはれ、日の出、
神神かうがうしき日の出、
われもまた
かの喬木けうぼくの如ごとく、
光明くわうみやう赫灼かくしやくのなかに、
高く二つの手を開ひらきて、
新しき日を抱いだかまし。

  虞美人草

虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
たはれた風も肩先を
深く斬られて血を浴びる。

虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
はたは火焔の渠ほりとなり、
入日いりひの海へ流れゆく。

虞美人草ぐびじんさうも、わが恋も、
ああ、散るままに散るままに、
散るままにこそまばゆけれ。

  罌粟の花

この草原くさはらに、誰だれであろ、
波斯ペルシヤの布の花模様、
真赤まつかな刺繍ぬひを置いたのは。

いえ、いえ、これは太陽が
土を浄きよめて世に降らす
点、点、点、点、不思議の火。

いえ、いえ、これは「水無月みなづき」が
真夏の愛を地に送る
あついくちづけ、燃ゆる星眸まみ

いえ、いえ、これは人同志
恋に焦こがれた心臓の
象形うらかたに咲く罌粟けしの花。

おお、罌粟けしの花、罌粟けしの花、
わたしのやうに一心いつしん
思ひつめたる罌粟けしの花。

  散歩

河からさつと風が吹く。
風に吹かれて、さわさわと
大きく靡なびく原の蘆あし

あしの間あひだを縫ふ路みち
何処どこかで人の話しごゑ、
そして近づく馬の跑だく

小高こだかい岡をかに突き当り
みちは左へ一廻ひとめぐり。
私は岡をかへ駈け上がる。

下を通るは、馬の背に
男のやうな帽を被
亜米利加アメリカ婦人の二人ふたりづれ。

緑を伸べた地平には、
遠い工場こうばの煙突が
赤い点をば一つ置く。

  夏日礼讃

ああ夏が来た。この昼の
若葉を透とほす日の色は
ほんに酒ならペパミント、
黄金きんと緑を振り注ぎ、
広く障子を開けたれば、
子供のやうな微風そよかぜ
衣桁いかうに掛けた友染いうせん
長い襦袢じゆばんに戯れる。

ああ夏が来た。こんな日は
君もどんなに恋しかろ、
巴里パリイの広場、街並木、
珈琲店カツフエの前庭テラス、Boiボワ の池。
私も筆の手を止めて、
晴れた Seineセエヌ の濃紫こむらさき
今その水が目に浮うかび、
じつと涙に濡れました。

ああ夏が来た、夏が来た。
二人ふたりの画家とつれだつて、
君と私が Amianアミアン
塔を観たのも夏である。
二度と行かれる国で無し、
私に帽をさし出した
お寺の前の乞食こじきらに
物を遣らずになぜ来たか。

  庭の草

庭いちめんにこころよく
すくすく繁しげる雑草よ、
弥生やよひの花に飽いた目は
ほれぼれとして其れに向く。
人の気づかぬ草ながら、
十三塔じふさんたふを高く立て
風の吹くたび舞ふもある。
女らしくも手を伸ばし、
れを追ふのか、抱いだくのか、
上目うはめづかひに泣くもある。
五月ごぐわつのすゑの外光ぐわいくわう
汗の香のする全身を
香炉かうろとしつつ焚くもある。
名をすら知らぬ草ながら、
葉の形かた見れば限り無し、
さかづきの形かた、とんぼ形がた
のこぎりの形かた、楯たての形かた
ペン尖さきの形かた、針の形かた
また葉の色も限り無し、
青梅あをうめの色、鶸茶色ひわちやいろ
緑青ろくしやうの色、空の色、
それに裏葉うらはの海の色。
青玉色せいぎよくいろに透きとほり、
地にへばりつく或る葉には
緑を帯びた仏蘭西フランス
牡蠣かきの薄身うすみを思ひ出し、
なまあたたかい曇天どんてん
細かな砂の灰が降り、
南の風に草原くさはら
のろい廻渦うねりを立てる日は、
坪ばかりの庭ながら
紅海沖こうかいおきが目に浮うかぶ。

  暴風

洗濯物を入れたまま
大きな盥たらひが庭を流れ、
地が俄にはかに二三尺じやくも低くなつたやうに
姫向日葵ひめひまはりの鬱金うこんの花の尖さきだけが見え、
ごむ手毬でまりがついと縁の下から出て、
潜水服を著たお伽噺とぎばなしの怪物の顧眄みえをしながら
腐つた紅あかいダリアの花に取り縋すがる。
五六枚しめた雨戸の間間あひだあひだから覗のぞく家族の顔は
どれも栗毛くりげの馬の顔である。
雨はますます白い刄やいばのやうに横に降る。

わたしは颶風あらしにほぐれる裾すそを片手に抑おさへて、
泡立つて行く濁流を胸がすく程じつと眺める。
ひざぼしまで水に漬つかつた郵便配達夫を
人の木が歩いて来たのだと見ると、
れた足の儘まゝ廊下で跳をどり狂ふ子供等は
真鯉まごひの子のやうにも思はれた。
ときどき不安と驚奇きやうきとの気分の中で、
今日けふの雨のやうに、
物の評価の顛倒ひつくりかへるのは面白い。

  すいつちよ

青いすいつちよよ、
青い蚊帳かやに来て啼く青いすいつちよよ、
青いすいつちよの心では
恋せぬ昔の私と思ふらん、
さびしい寂さびしい私と思ふらん。
思へば和泉いづみの国にて聞いたその声も
今聞く声も変り無し、
きさくな、世づかぬ小娘の青いすいつちよよ。

青いすいつちよよ、
青いすいつちよは、なぜ啼きさして黙だまるぞ。
わたしの外ほかに聞き慣れぬ男の気息いきに羞はぢらふか、
やつれの見えるわたしの頬
ほつれたるわたしの髪をじつと見て、
虫の心も咽むせんだか。

青いすいつちよよ、
なにも歎なげくな、驚くな、
わたしはすべて幸福しあはせだ、
いざ、今日けふ此頃このごろを語らはん、
来てとまれ、
わたしの左の白い腕かひなを借すほどに。

  上総の勝浦

おお美うつくしい勝浦、
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に、
海と街とを抱いてゐる。

此処ここへ来ると、
人間も、船も、鳥も、
青空に掛る円まろい雲も、
すべてが平和な子供になる。

太洋たいやうで荒れる波も、
この浜の砂の上では、
柔かな鳴海なるみ絞りの袂たもと
かろく拡げて戯れる。

それは山に姿を仮りて
静かに抱く者があるからだ。
おお美うつくしい勝浦、
此処ここに私は「愛」を見た。

  木の間の泉

の間の泉の夜となる哀かなしさ、
静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。

の間の泉の夜となる哀かなしさ、
微風そよかぜなげけば、花の香ぬれつつ身悶みもだえぬ。

の間の泉の夜となる哀かなしさ、
黄金こがねのさし櫛くし、月姫つきひめうるみて彷徨さまよへり。

の間の泉の夜となる哀かなしさ、
笛、笛、笛、笛、我等も哀かなしき笛を吹く。

  草の葉

草の上に
更に高く、
だ一ひともと、
二尺ばかり伸びて出た草。

かよわい、薄い、
細長い四五片へんの葉が
朝涼あさすゞの中に垂れて描ゑが
女らしい曲線。

優しい草よ、
はかなげな草よ、
全身に
青玉せいぎよくの質しつを持ちながら、
七月の初めに
もう秋を感じてゐる。

青い仄ほのかな悲哀、
おお、草よ、
これがそなたのすべてか。

  蛇

へびよ、そなたを見る時、
わたしは二元論者になる。
美と醜と
二つの分裂が
宇宙に並存へいぞんするのを見る。
蛇よ、そなたを思ふ時、
わたしの愛の一辺いつぺんが解わかる。
わたしの愛はまだ絶対のもので無い。
蛮人ばんじんと、偽善者と、
盗賊と、奸商かんしやうと、
平俗な詩人とを恕ゆるすわたしも、
蛇よ、そなたばかりは
わたしの目の外ほかに置きたい。

  蜻蛉とんぼ

木の蔭かげになつた、青暗あおぐら
わたしの書斎のなかへ、
午後になると、
いろんな蜻蛉とんぼが止まりに来る。
天井の隅や
がくのふちで、
かさこそと
銀の響ひゞきの羽はねざはり……
わたしは俯向うつむいて
物を書きながら、
心のなかで
かう呟つぶやく、
其処そこには恋に疲れた天使達、
此処ここには恋に疲れた女一人ひとり

  夏よ

夏、真赤まつかな裸をした夏、
おまへは何なんと云ふ強い力で
わたしを圧おさへつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春の間あひだに貯めた
命の力を強く強く使はされる。

夏、おまへは現実の中の
ねつし切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを取入とりいれよう、
おまへに騎つて行かう、
太陽の使つかひ、真昼まひるの霊、
涙と影を踏みにじる力者りきしや

夏、おまへに由つてわたしは今、
特別な昂奮かうふん
偉大な情熱じやうねつと怖おそろしい直覚とを以もつ
わたしの脈管みやくくわんに流れるのを感じる。
なんと云ふ神神かうがうしい感興、
おお、熱ねつした砂を踏んで行かう。

  夏の力

わたしは生きる、力一ちからいつぱい、
汗を拭き拭き、ペンを手にして。
今、宇宙の生気せいき
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が一片いつぺんあの空から覗のぞいてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと一所いつしよに燃え上がる。

  大荒磯崎にて

海が急に膨ふくれ上がり、
ち上がり、
前脚まへあしを上げた
千匹せんびきの大馬おほうまになつて
まつしぐらに押寄おしよせる。

一刹那いつせつな、背を乾してゐた
岩と云ふ岩が
身構へをする隙すきも無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。

いそは忽たちまち一面、
銀の溶液で掩おほはれる。
やがて其れが滑すべり落ちる時、
真珠を飾つた雪白せつぱくの絹で
さつと撫でられぬ岩も無い。

一つの紫色むらさきいろをした岩の上には、
波の中の月桂樹げつけいじゆ――
緑の昆布こんぶが一つ捧さゝげられる。
飛沫しぶきと爆音との彼方かなたに、
海はまた遠退とほのいて行く。

  女の友の手紙

手紙が山田温泉から著いた。
どんなに涼しい朝、
山風やまかぜに吹かれながら、
紙の端はしを左の手で
おさへ抑おさへして書かれたか。
この快闊くわいくわつな手紙、
涙には濡れて来ずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。

  涼風

涼しい風、そよ風、
折折をりをりあまえるやうに
窓から入はひる風。
風の中の美うつくしい女怪シレエネ
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を翻ひるがへし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎わかあゆのやうに、
溌溂はつらつと跳ね反かへらせる風。

  地震後一年

九月一日いちじつ、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は誰たれも、誰たれも、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那せつなに来る、
明日あすに、明後日あさつてに来る。
私達は油断なく其れに身構へる。
から喪へ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
しも誰たれかが
大平楽たいへいらくな気分になつて、
もう一年いちねんたつた今日こんにち
あのやうなカタストロフは無いと云ふなら、
それこそ迷信家を以もつて呼ばう。
さう云ふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月一日いちじつ、地震の記念日。
  古簾

今年も取出とりだして掛ける、
地震の夏の古い簾すだれ
あの時、皆が逃げ出したあとに
この簾すだれは掛かつてゐた。
れがおまへを気にしよう、
置き去りにされ、
いへと一所いつしよに揺れ、
風下かざしもの火事の煙けぶりを浴びながら。

もし私の家うちも焼けてゐたら、
すだれよ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目に家うちに入はひつた私が
蘇生そせいの喜びに胸を躍らせ、
さらさらと簾すだれを巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。

すだれは古く汚よごれてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしい簾すだれよ、
共に災厄さいやくをのがれた簾すだれよ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうに沸く。
おまへも私も生きてゐる。

  虫干の日に

虫干むしぼしの日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴ヨオロツパの旅にて
わが被たりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里パリイの流行モオド
リボンと、花と、
はね飾りとは褪せたれど、
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。
ほこりと黴かびを透とほして
是等これらの帽の上に
セエヌの水の匂にほひ、
サン/クルウの森の雫しづく
ハイド/パアクの霧、
ミユンヘンの霜、維納ウインの雨、
アムステルダムの入日いりひの色、
さては、また、
バガテルの薔薇ばらの香
仏蘭西座フランスざの人いきれ、
なほ残れるや、残らぬや、
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。
アウギユスト・ロダンは
この帽の下もとにて
我手わがてに口づけ、
ラパン・アジルに集あつま
新しき詩人と画家の群むれ
この帽を被たる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手の後のち
なほ一たびこの帽を擡もたげて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべて十とせの前まへ
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。

  机に凭りて

今夜、わたしの心に詩がある。
やなの上で跳ねる
銀の魚うをのやうに。
桃色の薄雲の中を奔はし
まん円まるい月のやうに。
風と露とに揺ゆすれる
細い緑の若竹わかたけのやうに。

今夜、私の心に詩がある。
私はじつと其その詩を抑おさへる。
さかなはいよいよ跳ねる。
月はいよいよ奔はしる。
竹はいよいよ揺ゆすれる。
苦しい此時このとき
楽しい此時このとき

  蜂

夕立の風
のきの簾すだれを動かし、
部屋の内うち暗くなりて
片時かたとき涼しければ、
我は物を書きさし、
空を見上げて、雨を聴きぬ。

書きさせる紙の上に
何時いつしか来きたりし蜂はち一つ。
よき姿の蜂はちよ、
腰の細さ糸に似て、
身に塗れる金きん
なにの花粉よりか成れる。

し、我が文字の上を
はちの匍ふに任せん。
わが匂にほひなき歌は
素枯すがれし花に等し、
せめて弥生やよひの名残なごりを求めて
はちの匍ふに任せん。

  わが庭

おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、
明るい朱しゆに、紫に、冴えた黄金きんに。
破れた障子をすつかりお開け、
思ひがけない幸福しあはせが来たやうに。

黒ずんだ緑に、灰がかつた青、
陰気な常盤木ときはぎばかりが立て込んで
春と云ふ日を知らなんだ庭へ、
永い冬から一足いつそく飛びに夏が来た。
それも遅れて七月に。

まあ、うれしい、
ダリヤよ、
わたしは思はず両手をおまへに差延べる。
この開ひらいて尖とがつた白い指を
なんと見る、ダリヤよ。

しかし、もう、わたしの目には
ダリヤもない、指もない、
だ光と、熱ねつと、匂にほひと、楽欲げうよくとに
眩暈めまひして慄ふるへた
わたしの心の花の象ざうがあるばかり。

  夏の朝

どこかの屋根へ早くから
群れて集あつまり、かあ、かあと
いた鴉からすに目が覚めて、
すかして見れば蚊帳かやごしに
もう戸の外そとは白しらんでる。

細い雨戸を開けたれば、
れぼつたいやうな目遣めづかひの
鴨頭草つきくさの花咲きみだれ、
荒れた庭とも云ふばかり
しつとり青い露がおく。

日本の夏の朝らしい
このひと時の涼しさは、
人まで、身まで、骨までも
水晶質となるやうに、
しみじみ清く濡れとほる。

くりやへ行つて水道の
栓をねぢれば、たた、たたと
思ひ余つた胸のよに、
バケツへ落ちて盛り上がる
こゝろ丈夫な水音も、

わたしの立つた板敷へ
裏口の戸の間あひだから
新聞くばりがばつさりと
投げこんで行く物音も、
薄暗がりにここちよや。

  蝉

せみが啼く。
いぶるよに、じじと一つ、
わたしの家いへの桐きりの木に。

その音につれて、そこ、かしこ、
せみ、蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ
いろんな蝉せみが啼き出した。

わたしの家いへの蝉せみの音
最初の口火、
いま山の手の番町ばんちやう
どの庭、どの木、どの屋根も
七月の真赤まつかな吐息の火に焦げる。

枝にも、葉にも、瓦かはらにも、
のきにも、戸にも、簾すだれにも、
流れるやうな朱しゆを注した
光のなかで蝉せみが啼く。

無駄と知らずに、根気よく、
砂を握つかんでずらす蝉せみ

なべの油を煮たぎらし、
のろひごとする悪の蝉せみ

重い苦患くげんに身悶みもだえて、
鉄の鎖をゆする蝉せみ

悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと
水晶の珠数じゆずを鳴らす蝉せみ

思ひ出しては一ひとしきり
泣きじやくりする恋の蝉せみ

せみ、蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ
あつい真夏の日もすがら、
せみの音
き止んで、また啼き次ぐ。

さて誰だれが知ろ、
かず、叫ばず、ただひとり
かげにかくれて、微かすかにも
羽ばたきをする雌めすの蝉せみ

  新秋

朝露あさつゆのおくままに、天地あめつち
サフイイルと、青玉せいぎよく
真珠を盛つたギヤマンの室しつ
朝の日の昇るまま、天地あめつち
黄金わうごんと、しろがねと
珊瑚さんごをまぜたモザイクの壁。
その中に歌ふトレモロ――秋の初風はつかぜ

  初秋はつあきの歌

初秋はつあきは来ぬ、白麻しらあさ
明るき蚊帳かやに臥しながら、
の更けゆけば水色の
麻の軽かろきを襟近く
打被うちかづくまで涼しかり。

上の我子わがこは二人ふたりづれ
大人おとなの如ごとく遠く行き、
夏の休みを陸奥みちのく
山辺やまべの友の家いへに居て
今朝けさうれしくも帰りきぬ。

休みのはてに己おのが子と
別るる鄙ひなの親達は
夏の尽くるや惜しからん、
都に住めるしあはせは
秋の立つにも身に知らる。

貧しけれども、わが家いへ
今日けふの夕食ゆふげの楽しさよ、
黒川郡くろがはぐんの山辺やまべにて
我子わがこの採れる百合ゆりの根を
我子わがこと共にあぢはへば。

  初秋の月

世界はいと静かに
涼しき夜よるの帳とばりに睡ねむり、
黄金こがねの魚うを一つ
その差延べし手に光りぬ、
初秋はつあきの月。

紫水晶むらさきずゐしやうの海は
黒き大地だいぢに並び夢みて、
一つの波は彼方かなたより
柔かき節奏ふしどり
その上を馳せ来きたる。

波は次第に高まる、
麦の畝うねの風に逆さかふ如ごとく。
さて長き磯いその上に
拡がり、拡がる、
しろがねの網あみとして。

波は幾度いくたびもくり返し
しき光の魚うをを抱かんとす。
されど網あみを知らで、
常に高く彼処かしこに光りぬ、
初秋はつあきの月。

  優しい秋

誇りかな春に比べて、
優しい、優しい秋。
目に見えない刷毛はけ
秋は手にして、
日蔭ひかげの土、
風に吹かれる雲、
街の並木、
かやの葉、
かづらの蔓つる
雑草の花にも、
一つ一つ似合はしい
い色を択えらんで、
まんべんなく、細細こまごまと、
みんなを彩ゑどつて行く。
御覧ごらんよ、
その畑はたけに並んだ、
小鳥の脚あしよりも繊弱きやしや
蕎麦そばの茎にも、
夕焼の空のやうな
うつくしい臙脂紫ゑんじむらさき……
これが秋です。
優しい、優しい秋。

  コスモスの花

少し冷たく、匂にほはしく、
清く、はかなく、たよたよと、
コスモスの花、高く咲く。
秋の心を知る花か、
うすももいろに高く咲く。

  秋声

初秋はつあきの日の砂の上に
ひろき葉一つ、はかなくも
薄黄うすきを帯びし灰色の
影をば曳きて落ち来きたる。
あはれ傷つく鳥ならば
血に染みつつも叫ばまし、
秋に堪へざる落葉おちばこそ
反古ほごにひとしき音おとすなれ。
  秋

秋は薄手うすでの杯さかづきか、
ちんからりんと杯洗はいせんに触れて沈むよな虫が啼く。
秋は妹の日傘パラソルか、
きやしやな翡翠ひすゐの柄の把手とつて
明るい黄色きいろの日があたる。

さて、また、秋は廿二三にじふにさんの今様いまやうづくり、
青みを帯びたお納戸なんどの著丈きだけすらりと、
白茶地しらちやぢに金糸きんしの多い色紙形しきしがた
唐織からおりの帯も眩まばゆく、
園遊会の片隅のいたや楓もみぢの蔭かげを行き、
少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。

それから後ろのわたしと顔を見合せて、
「まあ、いい所で」と走り寄り、
「どうしてそんなにお痩せだ」と、
十歳とをの時、別れた姉のやうな口振くちぶりは、
優しい、優しい秋だこと。

  街に住みて

葡萄ぶだういろの秋の空を仰あふげば、
初めて斯かるみづみづしき空を見たる心地す。
われ今日けふまで何なにをしてありけん、
くりやと書斎に在りしことの寂さびしきを知らざりしかな。
わが心今更いまさらの如ごとく解かれたるを感ず。

葡萄色ぶだういろの秋の空は露にうるほふ、
かる日にあはれ田舎へ行かまし。
そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋つりなべの湯気を嗅ぎ、
そこにて尻尾しりをふる百舌もずの甲高かんだかなる叫びを聞き、
そこにて刈稲かりいねを積みて帰る牛と馬とを眺め、
そこにて鳥兜とりかぶとと野菊のきくと赤き蓼たでとを摘まばや。

葡萄ぶだういろの秋の空はまた田舎の朝によろし。
砂川すなかはの板橋の上に片われ月づきしろく残り、
「川魚御料理かはうをおんれうり」の家いへは未いまだ寝たれど、
百姓屋の軒毎のきごとに立つる朝食あさげの煙は
街道がいだうの丈たけ高き欅けやきの並木に迷ひ、
もみする石臼いしうすの音、近所隣となりにごろごろとゆるぎ初むれば、
「とつちやん」と小ちさき末すゑ娘に呼ばれて、
門先かどさきの井戸の許もとに鎌磨かまとぐ老爺おやぢもあり。
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の如ごとく、
突きあたりて曲る、行手ゆくての見えざる広き坂を、
今結びし藁鞋わらぢの紐ひもの切目きりめすがすがしく、
男も女も脚絆きやはんして足早あしばやに上のぼりゆく旅姿こそをかしからめ。

葡萄ぶだういろの秋の空の、されど又さびしきよ。
われを父母ちゝはゝありし故郷ふるさとの幼心をさなごゝろに返し、
恋知らぬ素直なる処女をとめの如ごとくにし、
なか六番町の庭の無花果いちじくの木の下もと
手を組みて云ひ知らぬ淡あはき愁うれひに立たしめぬ、
おそらくは此朝このあさの無花果いちじくのしづくよ、すべて涙ならん。

  郊外

けたたましく
私を喚んだ百舌もずは何処どこか。
私は筆を擱いて門もんを出た。
思はず五六町ちやうを歩いて、
今丘の上に来た。

見渡す野のはてに
青く晴れた山、
日を薄桃色うすもゝいろに受けた山、
白い雲から抜け出して
更に天を望む山。

今朝けさの空はコバルトに
少し白を交ぜて濡れ、
その下の稲田いなだ
黄金きんの総ふさで埋うづまり、
何処どこにも広がる太陽の笑顔。

そよ風も悦よろこびを堪こらへかね、
その静かな足取あしどり
急に踊りの振ふりに換へて、
またしても円まろく大きく
すゝきの原を滑べる。

縦横たてよこの路みち
幾すぢの銀を野に引き、
あるものは森の彼方かなたに隠れ、
あるものは近き村の口から
荷馬車と共に出て来る。

ああ野は秋の最中もなか
胸一いつぱいに空気を吸へば、
人を清く健すこやかにする
黒土くろつちの香、草の香
穀物の香、水の香

私はじつと
其等それらの香の中に浸ひたる。
またやがて浸ひたると云はう、
さはやかに美しい大自然の
悠久いうきうの中に。

の小さい私の感激を
人の言葉に代へて云ふ者は、
私の側そばに立つて
あかい涙を著けたやうな
ひとむらの犬蓼いぬたでの花。

  海峡の朝

十一月の海の上を通る
快い朝方あさがたの風がある。
それに乗つて海峡を越える
無数の桃色の帆、金色こんじきの帆、
皆、朝日を一いつぱいに受けてゐる。

わたしはたつた一人ひとり
浜の草原くさはらに蹲踞しやがんで、
翡翠色ひすゐいろの海峡に
あとから、あとからと浮うき出して来る
船の帆の花片はなびらに眺め入る。

わたしの周囲には、
草が狐色きつねいろの毛氈まうせんを拡げ、
中には、灌木かんぼく
銀の綿帽子を著けた杪こずゑ
牡丹色ぼたんいろの茎が光る。

後ろの方では、
何処どこの街の工場こうばか、
遠い所で一ひとしきり、
甘えるやうな汽笛の音おと
長い金属の線を空に引く。

  秋の盛り

秋の盛りの美うつくしや、
蘩蔞はこべの葉さへ小さなる
黄金こがねの印いんをあまた佩び、
野葡萄のぶだうさへも瑠璃るりを掛く。

百舌もずも鶸ひはも肥えまさり、
里の雀すゞめも鳥らしく
晴れたる空に群れて飛び、
はちも巣毎すごとに子の歌ふ。

小豆色あづきいろする房垂れて
鶏頭けいとう高く咲く庭に、
ひとしきり射す日の入りも
涙ぐむまで身に沁みぬ。

  朝顔の花

朝顔の花うらやまし、
秋もやうやく更けゆくに、
真垣まがきを越えて、丈たけ高き
こづゑにさへも攀ぢゆくよ。

朝顔の花、人ならば
にほふ盛りの久しきを
世や憎みなん、それゆゑに
思はぬ恥も受けつべし。

朝顔の花、めでたくも
百千もゝちの色のさかづきに
夏より秋を注ぎながら、
飽くこと知らで日にぞ酔ふ。

  晩秋

みちは一ひとすぢ、並木路、
赤い入日いりひが斜はすに射し、
点、点、点、点、朱しゆの斑まだら……
桜のもみぢ、柿かきもみぢ、
点描派ポアンチユリストの絵が燃える。

みちは一ひとすぢ、さんらんと
彩色硝子さいしきガラスに照てらされた
らうを踏むよな酔ゑひごこち、
そして心しんからしみじみと
涙ぐましい気にもなる。

みちは一ひとすぢ、ひとり行
わたしのためにあの空も
心中立しんぢゆうだてに毒を飲み、
臨終いまはのきはにさし伸べる
赤い入日いりひの唇か。

みちは一ひとすぢ、この先に
サツフオオの住む家いへがあろ。
其処そこには雪が降つて居よ。
出て行ことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。

みちは一ひとすぢ、秋の路みち
物の盛りの尽きる路みち
おお美うつくしや、急ぐまい、
点、点、点、点、しばらくは
わたしの髪も朱しゆの斑まだら……

  電灯

狭い書斎の電灯よ、
ひもで縛られ、さかさまに
り下げられた電灯よ、
わたしと共に十二時を
越してますます目が冴える
不眠症なる電灯よ。

わたしの夜よるの太陽よ、
たつた一つの電灯よ、
わたしの暗い心から
吐息と共に込み上げる
思想の水を導いて
机にてらす電灯よ。

そなたの顔も青白い、
わたしの顔も青白い。
地下室に似る沈黙に、
気は張り詰めて居ながらも、
ちらと戦わなゝく電灯よ、
わたしも稀まれに身をゆする。

よるは冷たく更けてゆく。
なにとも知らぬ不安さよ、
近づく朝を怖おそれるか、
さいの終りを予知するか、
女ごころと電灯と
じつと寂さびしく聴き入れば、

死を隠したる片隅の
陰気な蔭かげのくらがりに、
柱時計の意地わるが
人の仕事と命とに
差引さしひきつけて、こつ、こつと
算盤そろばんを弾はじく球たまの音おと

  腐りゆく匂ひ

つぼには、萎しぼみゆくままに、
取換とりかへない白茶色しらちやいろの薔薇ばらの花。
その横の廉物やすものの仏蘭西皿フランスざら
腐りゆく林檎りんごと華櫚くわりんの果
其等それらの花と果実このみから
ほのかに、ほのかに立ち昇る
き香にほひの音楽、
わたしは是れを聴くことが好きだ。
盛りの花のみを愛でた
青春の日と事変ことかはり、
わたしは今、
命の秋の
身も世もあらぬ寂さびしさに、
深刻の愛と
頽唐たいたうの美と
其等それらに半死の心臓を温あたためながら、
常に真珠の涙を待つてゐる。

  十一月

昨日きのふも今日けふも曇つてゐる
銀灰色ぎんくわいしよくの空、冷たい空、
雲の彼方かなたでは
もう霰あられの用意が出来て居よう。
どの木も涙つぽく、
たより無げに、
黄なる葉を疎まばらに余あまして、
小心せうしんに静まりかへつてゐる。
みんな敗残の人のやうだ。
小鳥までが臆病おくびやうに、
過敏になつて、
ちよいとした風ふうにも、あたふたと、
うら枯れた茂みへ潜もぐり込む。
ああ十一月、
季節の喪だ、
冬の墓地の白い門が目に浮うかぶ。
公園の噴水よ、
せめてお前でも歌へばいいのに、
狐色きつねいろの落葉おちばの沈んだ池へ
さかさまに大理石の身を投げて、
お前が第一に感激を無くしてゐる。

  冬の木

十一月の灰色の
くもり玻璃がらすの空のもと、
うなりを立てて、荒あららかに、
ばさり、ばさりと鞭むちを振る
あはれ木枯こがらし、汝がままに、

緑青ろくしやうの蝶てふ、紅あかき羽はね
琥珀こはくと銀の貝の殻から
黄なる文反古ふみほご、錆びし櫛くし
とばかり見えて、はらはらと
の葉は脆もろく飛びかひぬ。

あはれ、今はた、木の間には
四月五月の花も無し、
若き緑の枝も無し、
も夢も無し、微風そよかぜ
さゝやくあまき声も無し。

かの楽しげに歌ひつる
小鳥のむれは何処いづこぞや。
鳥は啼けども、刺す如ごと
百舌もずと鵯鳥ひよどり、しからずば
枝を踏み折る山鴉やまがらす

諸木もろきは何なにを思へるや、
銀杏いてふ、木蓮もくれん、朴ほゝ、楓かへで
かの男木おとこぎも、その女木めぎ
せて骨だつ全身を
冬に晒さらしてをののきぬ。

やがて小暗をぐらき夜よるは来ん、
しぐるる雲はここ過ぎて
白き涙を落すべし、
月はさびしく青ざめて
森の廃墟はいきよを照てらさまし。

されど諸木もろきは死なじかし。
また若返る春のため
新しき芽と蕾つぼみとを
老いざる枝に秘めながら、
されど諸木もろきは死なじかし。

  落葉

ほろほろと……また、かさこそと……
おち葉……おち葉……夜もすがら……
ひさしをすべり……戸に縋すがり……
土に頽くづるる音おと聞けば……
もろき廃物……薄き滓かす……
びし鍋銭なべせん……焼けし金箔はく……
渋色しぶいろの反古ほご……檀だんの灰……
さては女のさだ過ぎて
歎く雑歌ざふかの断章フラグマン……
うら悲がなしくも行毎ぎやうごと
「死」の韻を押す断章フラグマン……

  冬の朝

空は紫
その下もとに真黒まくろなる
一列の冬の並木……
かなたには青物の畑はた海の如ごとく、
午前の日、霜に光れり。
われらが前を過ぎ去りし
農夫とその荷車とは
畑中はたなかの路みちの涯はて
今、脂色やにいろの点となりぬ。
物をな云ひそ、君よ、
あぢはひたまへ、この刹那せつな
二人ふたりを浸ひたす神妙の
もくの趣おもむき……

  腐果

白がちのコバルトの
うす寒き師走しはすの夜
書斎の隅なる
セエヴルの鉢より
幾つかのくわりんの果は身動みじろげり。

あはれ百合ゆりよりも甘し、
鈴蘭すゞらんよりも清し、
あはれ白き羽二重の如ごとく軽かるし、
黄金きんの針の如ごとく痛し、
熟したるくわりんの果のかをり。

くわりんの果に迫るは
つれなき風、からき夜寒よさむ
あざ笑ふ電灯のひかり、
いづこぞや、かの四月の太陽は、
かの七月の露は。

されど、今、くわりんの果には
苦痛と自負と入りまじり、
むなしく腐らじとする
その心しんの堪こらへ力ぢから
黄なる蛋白石オパアルの肌を汗ばませぬ。

ああ、くわりんの果
冬と風とにも亡ほろぼされず、
心と、肉と、晶液しやうえきと、
内なる尊たふとき物皆を香として
永劫えいごふの間あひだにたなびき行く。

  冬の一日

雪が止んだ、
太陽が笑顔を見せる。
庭に積つもつた雪は
硝子がらす越しに
ほんのりと薔薇ばら色をして、
綿のやうに温かい。

小作こづくりな女の、
年よりは若く見える、
まげを小さく結つた、
ひんの好いお祖母ばあさんは、
古風な糸車いとぐるまの前で
黙つて紡つむいでゐる。

太陽が部屋へ入はひつて、
お祖母ばあさんの左の手に
そつと唇を触れる。
お祖母ばあさんは何時いつの間にか
うつくしい薔薇ばら色の雪を
黙つて紡つむいでゐる。

  冬を憎む歌

ああ憎き冬よ、
わが家いへのために、冬は
恐怖おそれなり、咀のろひなり、
闖入者ちんにふしやなり、
虐殺なり、喪なり。

街街まちまちの柳の葉を揺り落して、
びたる銅線の如ごとく枝のみを慄ふるはしめ、
そのの菊を枝炭えだずみの如ごとく灰白はいじろませ、
家畜の蹄ひづめを霜の上にのめらしめて、
ああ猶なほ飽くことを知らざるや、冬よ。

冬は更に人間を襲ひて、
づわが家いへに来きたりぬ。
冬は風となりて戸を穿うがち、
えんよりせり出し、
霜となりて畳に潜ひそめり。

冬はインフルエンザとなり、
喘息ぜんそくとなり、
気管支炎となり、
肺炎となりて、
親と子と八人はちにんを責め苛さいなむ。

わが家いへは飢ゑと死に隣となりし、
寒さと、熱ねつと、咳せきと、
ねつの香と、汗と、吸入きふにふの蒸気と、
呻吟しんぎんと、叫びと、悶絶もんぜつと、
たんと、薬と、涙とに満てり。

かくて十日とをか……猶なほえず
ああ我心わがこゝろは狂はんとす、
短劔たんけんを執りて、
ただ一撃に刺さばや、
憎き、憎き冬よ、その背を。

  白樺

冬枯ふゆがれの裾野すその
ひともと
しら樺かばの木は光る。
その葉は落ち尽つくして、
白き生身いきみ
女性によしやうの如ごと
師走しはすの風に曝さらし、
なにを祈るや、独り
双手もろでを空に張る。

日は今、遥はるかに低き
うす紫の
遠山とほやまに沈み去り、
その余光よくわうの中に、
しら樺かばの木は
悲しき殉教者の血を、
その胸より、
たらたらと
落葉おちばの上に流す。

  雪の朝

が明けた。
風も、大気も、
鉛色なまりいろの空も、
野も、水も
みな気息いきを殺してゐる。

だ見るのは
地上一尺の大雪……
それが畝畝うね/\の直線を
すつかり隠して、
いろんな三角の形かたち
大川おほかはに沿うた
歪形いびつな畑はたけに盛り上げ、
光を受けた部分は
板硝子いたがらすのやうに反射し、
かげになつた所は
粗悪な洋紙やうしを撒きちらしたやうに
にぶく艶つやを消してゐる。

そして所所ところどころ
幾つかの
不格好ぶかくかうな胴像トルソ
どれも痛痛いたいたしく
手を失ひ、
あしを断たれて、
真白まつしろな胸に
黒い血をにじませながら立つてゐる。

それは枝を払はれたまま、
じつと、いきんで、
死なずに春を待つてゐる
太い櫟くぬぎの幹である。
たとへば私達のやうな者である。

  雪の上の鴉

からす、鴉からす
雪の上の鴉からす
近い処に一羽いちは
少し離れて十四五羽

からす、鴉からす
雪の上の鴉からす
半紙の上に黒く
大人おとなが書いた字のやうだ。

からす、鴉からす
雪の上の鴉からす
「かあ」と一羽いちはが啼けば
さびしく「かあ」と皆が啼く。

からす、鴉からす
雪の上の鴉からす
ゑさが無いのでじいつと
動きもせねば飛びもせぬ。

幻想と風景 曙光 大震後第一春の歌 元朝の富士 伊豆の海岸にて 田舎の春 太陽出現 春が来た 二月の街 我前に梅の花 紅梅 新柳 
牛込見附外 市中沙塵 弥生の歌 四月の太陽 雑草 桃の花 春の微風 桜の歌 緋桜 春雨 薔薇の歌 牡丹の歌 初夏 夏の女王 五月の歌 
五月礼讃
 南風 五月の海 チユウリツプ 五月雨 夏草 たんぽぽの穂 屋根の草 五月雨と私 隅田川 朝日の前 虞美人草 罌粟の花 散歩 
夏日礼讃 庭の草 暴風 すいつちよ 上総の勝浦 木の間の泉 草の葉  蜻蛉 夏よ 夏の力 大荒磯崎にて 女の友の手紙 涼風 地震後一年 
古簾 虫干の日に 机に凭りて  わが庭 夏の朝  新秋 初秋の歌 初秋の月 優しい秋 コスモスの花 秋声  街に住みて 郊外 海峡の朝 
秋の盛り 朝顔の花 晩秋 電灯 腐りゆく匂ひ 十一月 冬の木 落葉 冬の朝 腐果 冬の一日 冬を憎む歌 白樺 雪の朝 雪の上の鴉 全集