壺の花(小曲十五章)


  コスモス

一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に、どつしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、少しも撓たわまない、
その太陽の重味に。


  手

百姓の爺ぢいさんの、汚よごれた、
硬い、節ふしくれだつた手、
ちよいと見ると、褐色かつしよくの、
朝鮮人蔘にんじんの燻製くんせいのやうな手、
おお、之これがほんたうの労働の手、
これがほんたうの祈祷きたうの手。


  著物

二枚ある著物きものなら
一枚脱ぐのは易やすい。
知れきつた道理を言はないで下さい。
今ここに有るのは一枚も一枚、
十人じふにんの人数にんずに対して一枚、
結局、どうしたら好いのでせう。


  朱

小さな硯すゞりで朱しゆを擦る時、
ふと、巴里パリイの霧の中の
珊瑚紅さんごこうの日が一点
わたしの書斎の帷とばりに浮うかび、
それがまた、梅蘭芳メイランフワン
楊貴妃やうきひの酔つた目附めつきに変つて行く。


  独語どくご

思はぬで無し、
知らぬで無し、
はぬでも無し、
だ其れの仲間に入らぬのは、
余りに事の手荒てあらなれば、
歌ふ心に遠ければ。

  飛蝗ばつた

わたしは小さな飛蝗ばつた
幾つも幾つも抑おさへることが好きですわ。
わたしの手のなかで、
なんと云ふ、いきいきした
この虫達の反抗力でせう。
まるで BASTILLEバスチユ の破獄らうやぶりですわ。


  蚊

蚊よ、そなたの前で、
人間の臆病心おくびやうしん
拡大鏡となり、
また拡声器ともなる。
吸血鬼の幻影、
鬼女きぢよの歎声たんせい


  蛾

火に来ては死に、
火に来ては死ぬ。
愚鈍ぐどんな虫の本能よ。
同じ火刑くわけいの試練を
幾万年くり返す積つもりか。
と、さうして人間の女。


  朝顔

水浅葱みづあさぎの朝顔の花、
それを見る刹那せつなに、
うつくしい地中海が目に見えて、
わたしは平野丸ひらのまるに乗つてゐる。
それから、ボチセリイの
派手なヴィイナスの誕生が前に現れる。


  蝦蟇がま

まかり出ましたは、夏の夜
虫の一座の立て者で御座る。
歌ふことは致しませねど、
態度を御覧下されえ。
人間の学者批評家にも
わたしのやうな諸君がゐらせられる。


  蟷螂かまきり

男性の専制以上に
残忍を極める女性の専制。
蟷螂かまきりの雌めす
その雄をすを食べてしまふ。
しゆを殖やす外ほか
恋愛を知らない蟷螂かまきり


  玉虫

もう、玉虫の一対つがひ
綺麗きれいな手箱に飼ふ娘もありません。
青磁色せいじいろの流行が
すたれたよりも寂さびしい事ですね。
今の娘に感激の無いのは、
玉虫に毒があるよりも
いたましい事ですね。


  寂寥せきれう

やうやくに我れ今は寂さびし、
独り在るは寂さびし、
薔薇ばらを嗅げども寂さびし、
君と語れども寂さびし、
筆執りて書けども寂さびし、
高く歌へば更に寂さびし。


  小鳥の巣

落葉おちばして人目に附きぬ、
わが庭の高き木末こずゑ
小鳥の巣一つ懸かれり。
飛び去りて鳥の影無し、
小鳥の巣、霜の置くのみ、
小鳥の巣、日の照てらすのみ。


  末女すゑむすめ

我が藤子ふぢこここのつながら、
小学の級長ながら、
夜更よふけては独り目覚めざめて
寝台ねだいより親を呼ぶなり。
「お蒲団ふとんがまた落ちました。」
我が藤子ふぢこ風引くなかれ。


   薔薇の陰影
  (雑詩廿五章)


  屋根裏の男

暗い梯子はしごを上のぼるとき
女の脚あしは顫ふるへてた。
四角な卓に椅子いす一つ、
そばの小さな書棚しよたなには
手ずれた赤い布表紙
金字きんじの本が光つてた。
こんな屋根裏に室借まがりする
男ごころのおもしろさ。
女を椅子いすに掛けさせて、
「驚いたでせう」と言ひながら、
男は葉巻に火を点けた。


  或女あるをんな

舞うて疲れた女なら、
男の肩に手を掛けて、
汗と香油かうゆの熱ほてる頬
男の胸に附けよもの。
男の注いだペパミント
男の手から飲まうもの。
わたしは舞も知りません。
わたしは男も知りません。
ひとりぼつちで片隅に。――
いえ、いえ、あなたも知りません。


  椅子の上

寒水石かんすゐせきのてえぶるに
薄い硝子がらすの花の鉢。
かひの形かたちのしやぼてんの
真赤まつかな花に目をやれば、
来る日で無いと知りながら
来る日のやうに待つ心。
無地の御納戸おなんど、うすい衣きぬ
台湾竹たいわんちくのきやしやな椅子いす
恋をする身は待つがよい、
待つて涙の落ちるほど。


  馬場孤蝶先生

わたしの孤蝶こてふ先生は、
いついつ見ても若い方かた
いついつ見てもきやしやな方かた
ひんのいい方かた、静かな方かた
古い細身の槍やりのよに。

わたしの孤蝶こてふ先生は、
ものおやさしい、清んだ音
おつの調子で話す方かた
ふらんす、ろしあの小説を
わたしの為めに話す方かた

わたしの孤蝶こてふ先生は、
それで何処どこやら暗い方かた
はしやぐやうでも滅入めいる方かた
舞妓まひこの顔がをりをりに、
扇の蔭かげとなるやうに。


  故郷

さかいの街の妙国寺、
その門前の庖丁屋はうちよや
浅葱あさぎ納簾のれんの間あひだから
光る刄物はもののかなしさか。
御寺おてらの庭の塀の内うち
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄そてつをば
立つて見上げたかなしさか。
御堂おだうの前の十とをの墓、
仏蘭西船フランスぶねに斬り入つた
重い科とがゆゑ死んだ人、
その思出おもひでのかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷に来は来たが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。


  自覚

「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
ふるへた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことを云へば其その日から
わたしの世界を知りました。


  約束

いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男は酔つた振ふり
あの見え透いた酔つた振ふり
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」


  涼夜りやうや

場末ばずゑの寄席よせのさびしさは
夏の夜ながら秋げしき。
枯れた蓬よもぎの細茎ほそぐき
風の吹くよな三味線しやみせん
曲弾きよくびきの音のはらはらと
螽斯ばつたの雨が降りかかる。
寄席よせの手前の枳殻垣きこくがき
わたしは一人ひとり、灯の暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へば夜が更ける。


  渋谷にて

こきむらさきの杜若かきつばた
ろと水際みぎはにつくばんで
れた袂たもとをしぼる身は、
ふと小娘こむすめの気に返る。
男の机に倚り掛り、
男の遣つかふペンを執り、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。


  浜なでしこ

逗子づしの旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒まつくろに焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著みづぎすがたの脛白はぎじろ
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。


  恋

むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
たがひにくどくど云ひ交かはす。

当世たうせいの恋のはげしさよ、
つねは素知そしらぬ振ふりながら、
刹那せつなに胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムを焚くやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの白鳥はくてうが死ぬやうに。


  夏の宵

いたましく、いたましく、
流行はやりの風かぜに三人みたりまで
我児わがこぞ病める。
梅霖つゆの雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しき喉のどに咳せきするよ。
兄なるは身を焼く熱ねつに父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
いだきすかして、売薬の
安知歇林アンチピリンを飲ませども、
せきしつつ、半なかばゑづきぬ。
あはれ、此夜このよのむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇うちはとり児等こらを扇あふげば、
蚊帳かやごしに蚊のむれぞ鳴く。


  如何に若き男

如何いかに若き男、
ダイヤの玉たまを百持てこ。
空手むなでしながら採り得べき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめの紅あかきくちびる。


  男

男こそ慰めはあれ、
おほぎみの側そばにも在りぬ、
みいくさに出でても行きぬ、
さかほがひ、夜通よどほし遊び、
腹立ちて罵のゝしりかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女をとめらに己おのが名を告り、
きぬれば棄てて惜をしまず。


  夢

わが見るは人の身なれば、
死の夢を、沙漠さばくのなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消し難がたき世のなかの夢。


  男の胸

名工めいこうのきたへし刀
一尺に満たぬ短き、
するどさを我は思ひぬ。
あるときは異国人とつくにびと
三角の尖さきあるメスを
われ得まく切せちに願ひぬ。
いと憎き男の胸に
き白刄しらはあてなん刹那せつな
たらたらと我袖わがそでにさへ
指にさへ散るべき、紅あか
血を思ひ、我れほくそ笑み、
こころよく身さへ慄ふるふよ。
その時か、にくき男の
ひがたき心宥ゆるさめ。
しかは云へ、突かんとすなる
その胸に、夜よるとしなれば、
ぬかよせて、いとうら安やす
夢に入る人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸に我れかき抱いだき、
眠ること未いまだ忘れず。
その胸を今日けふは仮さずと
たはぶれに云ふことあらば、
れ如何いかに佗わびしからまし。


  鴨頭草つきくさ

鴨頭草つきくさのあはれに哀かなしきかな、
わが袖そでのごとく濡れがちに、
濃き空色の上目うはめしぬ、
文月ふづきの朝の木のもとの
板井のほとり。


  月見草

はかなかる花にはあれど、
月見草つきみさう
ふるさとの野を思ひ出で、
わが母のこと思ひ出で、
初恋の日を思ひ出で、
指にはさみぬ、月見草つきみさう


  伴奏

われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。

にしき、こがね、
女御にようご、后きさき
すべて得ばや。

ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。

黒きひとみ、
ながき髪、
しじに濡れぬ。

恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。


  初春はつはる

ひがむ気短きみじかな鵯鳥ひよどり
木末こずゑの雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、甲高かんだか
てつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも木蔭こかげの下枝しづえには
あれ、もう、愛らしい鶯うぐひす
雪解ゆきげの水の小ながれに
軽く反そり打つ身を映し、
ちちと啼く、ちちと啼く。
その小啼ささなきは低くても、
春ですわね、春ですわね。


  仮名文字

わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所とめどなく乱れ散る涙のしづく。
たれかまた手に結び玉たまとは愛でん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我が夫な読みそ、
君ぬらさじと堰きとむる
しがらみの句切くぎりの淀よど
青き愁うれひの水渋みしぶいざよふ。


  子守

みなしごの十二じふにのをとめ、
きのふより我家わがいへに来て、
つになる子の守もりをしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
すぢを引き、環くわんをゑがきて、
箪笥たんすてふ物を教へぬ。
我子わがこらは箪笥たんすを知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。


  寂しき日

あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、寂さびしき、寂さびしき此この日を。
だまされまし、賺すかされまし、
よしや、よしや、
見殺みごろしに人のするとも。


  煙草

わかき男は来るたびに
よき金口きんくちの煙草たばこのむ。
そのよき香り、新しき
うれへのごとくやはらかに、
けぶりと共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我が怖おそるるも、喜ぶも、
だその手なる煙草たばこのみ。


  百合の花

素焼の壺つぼにらちもなく
投げては挿せど、百合ゆりの花、
ひとり秀ひいでて、清らかな
雪のひかりと白さとを
あてな金紗きんしやの匂にほはしい
ベエルに隠す面おもざしは、
二十歳はたちばかりのつつましい
そして気高けだかい、やさがたの
侯爵夫人マルキイズにもたとへよう。
とり合せたる金蓮花きんれんくわ
麝香じやかうなでしこ、鈴蘭すゞらん
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函はうぎよくいれの蓋ふたをあけ、
黄金きんの腕環うでわや紫の
斑入ふいりの玉たまの耳かざり、
真珠の頸環くびわ、どの花も
あつい吐息を投げながら、
華奢くわしやと匂にほひを競きそひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、其等それらの楽欲げうよくと、
世の常の美を軽かろく見て、
わが侯爵夫人マルキイズ、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて微笑ほゝゑむか。
花の秘密は知り難がたい、
けれど、百合ゆりをば見てゐると、
わたしの心は涯はてもなく
拡がつて行く、伸びて行く。
れと我身わがみを抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
ねつと、涙と、まごころの
中に一所いつしよに融け合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつて行く。


   月を釣る
   (小曲卅五章)


  釣

人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しい夜よるに釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの釣鈎つりばりに餌ゑさは要らない、
わたしは唯だ月を釣る。


  人中

だ一人ひとりある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりと細ほそりやつるる。
平生へいぜいは湯のやうに沸く涙も
かう云ふ日には凍るやらん。
立枠たてわく模様の水浅葱みづあさぎ、はでな単衣ひとへを著たれども、
わが姿、人にまじればうら寂さびしや。


  炎日

わが家いへの八月の日の午後、
庭の盥たらひに子供らの飼ふ緋目高ひめだか
生湯なまゆの水に浮き上がり、
琺瑯色はふらういろの日光に
焼釘やけくぎの頭あたまを並べて呼吸いきをする。
その上にモザイク形がたの影を落おと
静かに大きな金網。
の葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする幅広はゞびろの帯こそ大蛇だいじやなれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。


  月見草

夜あけ方がたに降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た岩代いはしろ
摺上川すりがみがはが想おもはれる。
砂に埋うもれて顔を出す
れた黄いろの月見草つきみさう
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさし覗のぞき、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。


  明日

過ぎこし方かたを思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方ゆくへ知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日あすも弧を描ゑがかん、
踊りつつ往かん、
くひかり、水色の長き裳の如ごとくならん。


  芸術

芸術はわれを此処ここにまで導きぬ、
こんこそ云はめ、
われ、芸術を彼処かしこに伴ひ行かん、
より真実に、より光ある処ところへと。


  力

われは軛くびきとなりて挽かれ、
駿足しゆんそくの馬となりて挽き、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。


  走馬灯

まはれ、まはれ、走馬灯そうまとう
走馬灯そうまとうは幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
なほまはれ、まはれ、
まはらぬは寂さびしきを。

桂氏かつらしの馬は西園寺氏さいをんじしの馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。


  空しき日

女、三越みつこしの売出しに行きて、
寄切よせぎれの前にのみ一日ひとひありき。
帰りきて、かくと云へば、
男は独り棋盤ごばんに向ひて
五目並べの稽古けいこしてありしと云ふ。
(零れいと零れいとを重ねたる今日けふの日の空むなしさよ。)
さて男は疲れて黙もだし、また語らず、
女も終つひに買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
わづかに高浪織たかなみおりの帯の片側かたかはに過ぎざれど。


  麦わら

それは細き麦稈むぎわら
しやぼん玉を吹くによけれど、竿さをとはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、麦稈むぎわらも束として火を附くれば
ゆゆしくも家いへを焼く。
わがをさな児は賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いて行くよ。


  恋

一切を要す、
われは憧あこがるる霊たましひなり。
物をしみな為そ、
し齎もたらす物の猶なほありとならば。――
初めに取れる果実このみは年経としふれど紅あかし、
われこそ物を損ぜずして愛づるすべを知るなれ。


  対話

「常に杖つゑに倚りて行く者は
その杖つゑを失ひし時、自みづからをも失はん。
われは我にて行かばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さて云ひぬ、
「な偽いつはりそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」


  或女

古き物の猶なほ権威ある世なりければ
かれは日本の女にて東の隅にありき。
また彼かれは精錬せられざりしかば
なほあらがねのままなりき。
みづからを白金プラチナの質しつと知りながら……


  爪

物を書きさし、思ひさし、
広東カントン蜜柑みかんをむいたれば、
あゐと鬱金うこんに染まる爪つめ
江戸の昔の廣重ひろしげ
名所づくしの絵を刷つた
版師はんしの指は斯うもあらうか。
あゐと鬱金うこんに染まる爪つめ


  或国

堅苦しく、うはべの律義りちぎのみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気の国、
支那しな人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加アメリカの富なくて、亜米利加アメリカ化する国、
疑惑と戦慄せんりつとを感ぜざる国、
男みな背を屈かゞめて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安やすく、万万歳ばんばんざいの国。


  朝

髪かき上ぐる手ざはりが
なにやら温泉場にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この間に手紙を書きませう、
朝の書斎は凍こほれども、
「君を思ふ」と巴里パリイあてに。


  或家のサロン

女は在る限り
あらけづりの明治の女ばかり。
だ一人ひとりあの若い詩人がゐて
今日けふの会は引き立つ。
永井荷風かふうの書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿うたまろの版画の
「上の息子」の身のこなし。


  片時

わが小さい娘の髪を撫でるとき、
なにか知ら、生れ故郷が懐おもはれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、其れ、とりとめもない事ながら、
片時かたときは黄金こがねの雨が降りかかる。


  春昼しゆんちう

三月さんぐわつの昼のひかり、
わが書斎に匍ふ藤ふぢむらさき。
そのなかに光ひかるの顔の白、
七瀬なゝせの帯の赤、
机に掛けた布の脂色やにいろ
みな生生いきいきと温かに……
されど唯だ壺つぼの彼岸桜ひがんさくら
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の如ごとく我も在るらん。


  雪

障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔すゞはくよりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし覗のぞ
雪のこころの寂さびしさよ。
しづくとなつて融けてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして、わたしは何んとすべきぞ。


  猫

衣桁いかうの帯からこぼれる
なまめいた昼の光の肉色にくいろ
その下に黒猫は目覚めざめて、
あれ、思ふぞんぶんに伸びをする。
世界は今、黒猫の所有ものになる。


  或手

打つ真似まねをすれば、
尾を立てて後あとしざる黒猫、
まんまろく、かはゆく……
けれど、わたしの手は
錫箔すゞはくのやうに薄く冷たく閃ひらめいた。
おお、厭いやな手よ。


  通り雨

ちぎれちぎれの雲見れば、
風ある空もむしやくしやと
むか腹ばら立てて泣きたいか。

さう云ふ間にも、粒なみだ、
泣いて心が直るよに、
春の日の入り、紅べにさした
よい目元から降りかかる。

らせ、濡らせ、
我髪わがかみらせ、通り雨。


  春の夜

二夜ふたよ三夜みよこそ円寝まろねもよろし。
君なき閨ねやへ入ろとせず、
椅子いすある居間の月あかり、
黄ざくら色の衣きぬを著て、
つつましやかなうたた臥し。
まだ見る夢はありながら、
うらなく明くる春のみじか夜


  牡丹

散りがたの赤むらさきの牡丹ぼたんの花、
青磁の大鉢おほばちのなかに幽かすかにそよぐ。
きやんなるむだづかひの終りに
早くも迫る苦しき日の怖おそれを
回避する心もち……
ええ、よし、それもよし。


  女

女、女、
女は王よりもよろづ贅沢ぜいたくに、
世界の香料と、貴金属と、宝石と、
花と、絹布けんぷとは女こそ使用つかふなれ。
女の心臓のかよわなる血の花弁はなびらの旋律ふしまはし
ベエトオフエンの音楽のどの傑作にも勝まさり、
湯殿に隠こもりて素肌のまま足の爪つめ切る時すら、
女の誇りに印度いんどの仏も知らぬほくそゑみあり。
言ひ寄る男をつれなく過ぐす自由も
女に許されたる楽しき特権にして、
相手の男の相場に負けて破産する日も、
女は猶なほ恋の小唄こうたを口吟くちずさみて男ごころを和やはらぐ。
たとへ放火ひつけ殺人ひとごろしの大罪だいざいにて監獄に入るとも、
男の如ごとく二分刈にぶがりとならず、
黒髪は墓のあなたまで浪なみ打ちぬ。
婦人運動を排する諸声もろごゑの如何いかに高ければとて、
女は何時いつまでも新しきゲエテ、カント、ニウトンを生み、
人間は永久とこしへうらわかき母の慈愛に育ちゆく。
女、女、日本の女よ、
いざ諸共もろともに自みづからを知らん。


  鬱金香

黄と、紅べにと、みどり、
なまな色どり……
糝粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
それを活ける白い磁の鉢、
きやしやな女の手、
た、た、た、た、と注す水のおと。
ああ、なんと生生いきいきした昼であろ。
糝粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。


  文の端に

皐月さつきなかばの晴れた日に、
気早きばやい蝉せみが一つ啼き、
なにとて啼いたか知らねども、
森の若葉はその日から
火を吐くやうな息をする。

君の心は知らねども……


  教会の窓

がけの上なる教会の
古びた壁の脂やにの色、
常に静かでよいけれど、
高い庇ひさしの陰にある
まるい小窓こまどの摺硝子すりがらす
たれやら一人ひとりうるみ目に
空を見上げて泣くやうな、
それが寂さびしく気にかかる。


  裏口へ来た男

台所の閾しきゐに腰すゑた
ふる洋服の酔つぱらひ、
そつとしてお置きよ、あのままに。
ものもらひとは勿体もつたいない、
髪の乱れも、蒼あをい目も、
ボウドレエルに似てるわね。


  髪

つやなき髪に、焼鏝やきごて
が当てよとは云はねども、
はずみ心に縮らせば、
焼けてほろほろ膝ひざに散り、
なかばうしなふ前髪の
くちをし、悲し、あぢきなし。
あはれと思へ、三十路みそぢへて
なほ人恋ふる女の身。


  磯にて

浜の日の出の空見れば、
あかね木綿の幕を張り、
静かな海に敷きつめた
廣重ひろしげの絵の水あさぎ。
(それもわたしの思ひなし)
あちらを向いた黒い島。


  九段坂

青き夜なり。
九段くだんの坂を上のぼり詰めて
振返りつつ見下みおろすことの嬉うれしや。
消え残る屋根の雪の色に
近き家家いへいへは石造いしづくりの心地し、
神田、日本橋、
遠き街街まちまちの灯のかげは
緑金りよくこんと、銀と、紅玉こうぎよく
星の海を作れり。
電車の轢きしり………
飯田町いひだまち駅の汽笛………
ふと、われは涙ぐみぬ、
高きモンマルトルの
段をなせる路みちを行きて、
君を眺めし
ゆふべの巴里パリイを思ひ出でつれば。


  年末

あわただしい師走しはす
今年の師走しはす
一箇月いつかげつ三十一日は外よそのこと、
わたしの心の暦こよみでは、
わづか五六日ごろくにちで暮れて行く。
すべてを為さし、思ひさし、
なんにも云はぬ女にて、
する、する、すると幕になる。


  市上

騒音と塵ちりの都、
乱民らんみんと賤民せんみんの都、
静思せいしの暇いとまなくて
多弁の世となりぬ。
舌と筆の暴力は
腕の其れに劣らず。
ここにして勝たんとせば
だ吠えよ、大声に吠えよ、
さて猛たけく続けよ。
卑しきを忘れし男、
醜きを耻ぢざる女、
げに君達の名は強者きやうしやなり。


   第一の陣痛
  (雑詩四十一章)


  第一の陣痛

わたしは今日けふ病んでゐる、
生理的に病んでゐる。
わたしは黙つて目を開いて
産前さんぜんの床とこに横になつてゐる。

なぜだらう、わたしは
度度たびたび死ぬ目に遭つてゐながら、
痛みと、血と、叫びに慣れて居ながら、
制しきれない不安と恐怖とに慄ふるへてゐる。

若いお医者がわたしを慰めて、
生むことの幸福しあはせを述べて下された。
そんな事ならわたしの方が余計に知つてゐる。
それが今なんの役に立たう。

知識も現実で無い、
経験も過去のものである。
みんな黙つて居て下さい、
みんな傍観者の位置を越えずに居て下さい。

わたしは唯だ一人ひとり
天にも地にも唯だ一人ひとり
じつと唇を噛みしめて
わたし自身の不可抗力を待ちませう。

生むことは、現に
わたしの内から爆ぜる
だ一つの真実創造、
もう是非の隙すきも無い。

今、第一の陣痛……
太陽は俄にはかに青白くなり、
世界は冷ひややかに鎮しづまる。
さうして、わたしは唯だ一人ひとり………


  アウギユストの一撃

二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母の頬を打つたことを。
それはおまへの命の
みづから勝たうとする力が――
純粋な征服の力が
怒りの形かたち
痙攣けいれんの発作ほつさとになつて
電火でんくわのやうに閃ひらめいたのだよ。
おまへは何なにも意識して居なかつたであらう、
そして直ぐに忘れてしまつたであらう、
けれど母は驚いた、
またしみじみと嬉うれしかつた。
おまへは、他日たじつ、一人ひとりの男として、
昂然かうぜんとみづから立つことが出来る、
清く雄雄ををしく立つことが出来る、
また思ひ切り人と自然を愛することが出来る、
(征服の中枢は愛である、)
また疑惑と、苦痛と、死と、
嫉妬しつとと、卑劣と、嘲罵てうばと、
圧制と、曲学きよくがくと、因襲と、
暴富ぼうふと、人爵じんしやくとに打克うちがつことが出来る。
それだ、その純粋な一撃だ、
それがおまへの生涯の全部だ。
わたしはおまへの掌てのひら
獅子ししの児のやうに打つた
鋭い一撃の痛さの下もと
かう云ふ白金はくきんの予感を覚えて嬉うれしかつた。
そして同時に、おまへと共通の力が
母自身にも潜ひそんでゐるのを感じて、
わたしはおまへの打つた頬
打たない頬までも熱あつくなつた。
おまへは何なにも意識して居なかつたであらう、
そして直ぐに忘れてしまつたであらう。
けれど、おまへが大人になつて、
思想する時にも、働く時にも、
恋する時にも、戦ふ時にも、
これを取り出してお読み。
二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母の頬を打つたことを。

なほかはいいアウギユストよ、
おまへは母の胎たいに居て
欧羅巴ヨオロツパを観てあるいたんだよ。
母と一所いつしよにしたその旅の記憶を
おまへの成人するにつれて
おまへの叡智が思ひ出すであらう。
ミケル・アンゼロやロダンのしたことも、
ナポレオンやパスツウルのしたことも、
それだ、その純粋な一撃だ、
その猛猛たけ/″\しい恍惚くわうこつの一撃だ。
(一九一四年十一月二十日)

  日曜の朝飯

さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。
(顔を洗うた親子八人はちにん、)
みんなが二つのちやぶ台を囲みませう、
みんなが洗ひ立ての白い胸布セルベツトを当てませう。
独り赤さんのアウギユストだけは
おとなしく母さんの膝ひざの横に坐すわるのねえ。
お早う、
お早う、
それ、アウギユストもお辞儀をしますよ、お早う、
何時いつもの二斤にきんの仏蘭西麺包フランスパン
今日けふはバタとジヤムもある、
三合の牛乳ちちもある、
珍しい青豌豆えんどうの御飯に、
参州さんしう味噌の蜆しゞみ汁、
うづら豆、
それから新漬しんづけの蕪菁かぶもある。
みんな好きな物を勝手におあがり、
ゆつくりとおあがり、
たくさんにおあがり。
朝の御飯は贅沢ぜいたくに食べる、
ひるの御飯は肥えるやうに食べる、
よるの御飯は楽たのしみに食べる、
それは全まつたく他人よそのこと。
我家うちの様な家いへの御飯はね、
三度が三度、
父さんや母さんは働く為ために食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へ行き、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。
ゆつくりおあがり、
たくさんにおあがり。
せめて日曜の朝だけは
父さんや母さんも人並に
ゆつくりみんなと食べませう。
お茶を飲んだら元気よく
日曜学校へお行き、
みんなでお行き。
さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。


  駆け出しながら

いいえ、いいえ、現代の
生活と芸術に、
どうして肉ばかりでゐられよう、
単純な、盲目めくらな、
そしてヒステリツクな、
肉ばかりでゐられよう。
五感が七しち感に殖える、
いや、五十ごじつ感、百感にも殖える。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手を繋つなぐ。
すべてが細かに実が入つて、
すべてが千千ちぢに入りまじり、
突風とつぷうと火の中に
すべてが急に角かくを描く。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的に合あはされて、
神秘な踊をどりを断えず舞ふ
だい建築に変り行く。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つて止まぬ殿堂の
白と赤との大理石マルブル
人像柱クリアテイイドの一本に
諸手もろてを挙げて加はらう。
阿片あへんが燻いぶる……
発動機モツウルが爆ぜる……
がくが裂ける……


  三つの路

わが出でんとする城の鉄の門に
くこそ記るされたれ。
その字の色は真紅しんく
恐らくは先きに突破せし人の
みづから指を咬める血ならん。
「生くることの権利と、
のための一切の必要。」
われは戦慄せんりつし且つ躊躇ためらひしが、
やがて微笑ほゝゑみて頷うなづきぬ。
さて、すべて身に著けし物を脱ぎて
われを逐ひ来きたりし人人ひとびとに投げ与へ、
われは玲瓏れいろうたる身一つにて逃のがれ出でぬ。
されど一歩して
ほつと呼吸いきをつきし時、
あはれ目に入るは
万里一白いつぱくの雪の広野ひろの……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この刹那せつな
いな、永劫えいごふに、
この繊弱かよわき身一つの外ほかに無かりき。
われは再び戦慄せんりつしたれども、
だ一途いちづに雪の上を進みぬ。
三日みつかの後のち
われは大いなる三つの岐路きろに出でたり。
ニイチエの過ぎたる路みち
トルストイの過ぎたる路みち
ドストイエフスキイの過ぎたる路みち
われは其の何いづれをも択えらびかねて、
沈黙と逡巡しゆんじゆんの中に、
しばらく此処ここに停とゞまりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風四方よもに吹きすさぶ……


  錯誤

両手にて抱いだかんとし、
手の先にて掴つかまんとする我等よ、
我等は過あやまちつつあり。

手を揚げて、我等の
いだけるは空くうの空くう
我等の掴つかみたるは非我ひが

だ我等を疲れしめて、
すべて滑すべり、
すべて逃のがれ去る。

いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は此内このうちにこそあれ。

我を以もつて我を抱いだけよ。
我を以もつて我を掴つかめ、
我に勝まさる真実は無し。


  途上

友よ、今ここに
我世わがよの心を言はん。
我は常に行き著かで
みちの半なかばにある如ごとし、
また常に重きを負ひて
あへぐ人の如ごとし、
また寂さびしきことは
年長としたけし石婦うまずめの如ごとし。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろより苛さいなむ苦痛なり。
われは愧づ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の大網おほあみにして、
黄金わうごんの時を捕とらへんとしながら、
る所は疑惑と悔くいのみ。
我が諸手もろては常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。


  旅行者

霧の籠めた、太洋たいやうの離れ島、
此島このしまの街はまだ寝てゐる。
どの茅屋わらやの戸の透間すきまからも
まだ夜よるの明りが日本酒色いろを洩もらしてゐる。
たまたま赤んぼの啼く声はするけれど、
大人は皆たわいもない夢に耽ふけつてゐる。

突然、入港の号砲を轟とゞろかせて
わたし達は夜中よなかに此処ここへ著いた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう朝飯あさはんの済んだ頃ころだ、
わたし達はまだホテルが見附みつからない。
まだ兄弟の誰れにも遇はない。

ねんぢゆう旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の此島このしまへ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な放浪者バガボンドだと罵のゝしらう。

わたし達は彼等を覚さまさねばならない、
彼等を生せいの力に溢あふれさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と露西亜ロシアバレエの調子で
彼等と一所いつしよに踊らねばならない、
此島このしまもわたし達の公園の一部である。


  何かためらふ

なにかためらふ、内気なる
わが繊弱かよわなるたましひよ、
幼児をさなごのごと慄わなゝきて
な言ひそ、死をば避けましと。

正しきに就け、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。

飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
せいに勝たんと叫べかし。


  真実へ

わが暫しばらく立ちて沈吟ちんぎんせしは
三筋みすぢある岐わかれ路みちの中程なかほどなりき。
一つの路みちは崎嶇きくたる
石山いしやまの巓いたゞきに攀ぢ登り、
一つの路みちは暗き大野の
扁柏いとすぎの森の奥に迷ひ、
一つの路みちは河に沿ひて
平沙へいしやの上を滑すべり行けり。

われは幾度いくたびか引返さんとしぬ、
し方かたの道には
人間にんげん三月さんぐわつの花開き、
紫の霞かすみ
金色こんじきの太陽、
甘き花の香
柔かきそよ風、
われは唯だ幸ひの中に酔ひしかば。

されど今は行かん、
かの高き石山いしやまの彼方かなた
あはれ其処そこにこそ
なほ我を生かす路みちはあらめ。
わが願ふは最早もはや安息にあらず、
夢にあらず、思出おもひでにあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。


  森の大樹

ああ森の巨人、
千年の大樹だいじゆよ、
わたしはそなたの前に
一人ひとりのつつましい自然崇拝教徒である。

そなたはダビデ王のやうに
勇ましい拳こぶしを上げて
地上の赦ゆるしがたい
んの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。

そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしに解わかる、
そなたの鬱蒼うつさうたる枝葉えだは
休む間無しに汗を流し、
休む間無しに戦わなゝくので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘ギリシヤ闘士の胴のやうな
そなたの逞たくましい幹が
全世界の苦痛の重さを
だひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。

ある時、風と戦つては
そなたの梢こづゑは波のやうに逆立さかだち、
荒海あらうみの響ひゞきを立てて
勝利の歌を揚げ、
また或ある時、積む雪に圧されながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。

千年の大樹だいじゆよ、
蜉蝣ふいうの命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたに由つて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたの蔭かげを踏んで思ひ、
そなたの幹を撫でて歌つてゐる。

ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの根方ねがたに葬られて、
そなたの清らかな樹液セエヴ
隠れた※い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。

なつかしい大樹だいじゆよ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしの魂たましひの上に
さわやかな広い蔭かげを投げてゐる。


  我は雑草

森の木蔭こかげは日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱かよわく低き下草したくさ
葉末はずゑの色の褪せ初めぬ。

われは雑草、しかれども
なほわが欲を煽あふらまし、
もろ手を延べて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。

死なじ、飽くまで生きんとて、
みづから恃たのむたましひは
かの大樹だいじゆにもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。


  子供の踊(唱歌用として)

をどり
をどり
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
まるく輪を描く子供の踊をどり

をどり
をどり
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな凛凛りゝしい身の構へ、
物に怖おそれぬ男の踊をどり

をどり
をどり
身をば斜めに
たもとをかざし、
振れば逆さからふ風かぜも無い、
派手に優しい女の踊をどり

をどり
をどり
くはを執る振ふり
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
まるく輪を描く子供の踊をどり


  砂の上

「働く外ほかは無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
しきりに聞きこえる。
わたしは其その声を目当めあてに近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草たばこの煙を吹きながら、
五六人の男が
おなじやうなことを言つてゐる。

わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい一人ひとり
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
うわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
められた嬉うれしさに
「お仲間よ」と言ひ返した。

けれども、目を挙げると、
その人達の塊かたまりの向うに、
よるの色を一層濃くして、
まつ黒黒くろぐろ
大勢の人間が坐すわつてゐる。
みんな黙つて俯うつ向き、
一秒の間も休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。


  三十女の心

三十女さんじふをんなの心は
陰影かげも、煙けぶりも、
音も無い火の塊かたまり
夕焼ゆふやけの空に
一輪真赤まつかな太陽、
だじつと徹てつして燃えてゐる。


  わが愛欲

わが愛欲は限り無し、
今日けふのためより明日あすのため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。


  今夜の空

今夜の空は血を流し、
そして俄にはかに気の触れた
あらしが長い笛を吹き、
海になびいた藻のやうに
えずゆらめく木の上を、
海月くらげのやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。


  日中の夜

真昼のなかに夜よるが来た。
空を行く日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒くろぐろとした蝶てふのむれ。


  人に

新たに活けた薔薇ばらながら
古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日きのふの声がまじつてる。
真実心しんじつしんを見せたまへ。


  寂寥

ほんに寂さびしい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身が入らぬ。


  自省

あはれ、やうやく我心わがこゝろ
おそるることを知り初めぬ、
たそがれ時の近づくに。
いなとは云へど、我心わがこゝろ
あはれ、やうやくうら寒し。


  山の動く日

山の動く日きたる、
かく云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めざめて動くなる。


  一人称

一人称にてのみ物書かばや、
我は寂さびしき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。


  乱れ髪

ひたひにも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて湯滝ゆだきに打たるる心もち……
ほつとつく溜息ためいきは火の如ごとく且つ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我を褒め、やがてまた譏そしるらん。


  薄手の鉢

われは愛づ、新しき薄手うすでの白磁の鉢を。
水もこれに湛たたふれば涙と流れ、
花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは粗忽そこつなる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更に脆もろく、かよわく……


  剃刀

青く、且つ白く、
剃刀かみそりの刄のこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす啼き、
ハモニカを近所の下宿にて吹くは憂たてけれども、
我が油じみし櫛笥くしげの底をかき探れば、
陸奥紙みちのくがみに包みし細身の剃刀かみそりこそ出づるなれ。


  煙草

にがきか、からきか、煙草たばこの味。
煙草の味は云ひがたし。
うまきぞと云はば、粗忽そこつ者、
みつ、砂糖の類たぐひと思はん。
我は近頃ちかごろ煙草たばこを喫み習へど、
むことを人に秘めぬ。
蔭口かげぐちに、男に似ると云はるるはよし、
だ恐る、かの粗忽そこつ者こそ世に多けれ。


  女

「鞭むちを忘るな」と
ヅアラツストラは云ひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
け足して我ぞ云はまし、
「野に放はなてよ」


  大祖母の珠数

わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに華奢きやしやを好みしとよ。
水晶の珠数じゆずにも倦き、珊瑚さんごの珠数じゆずにも倦き、
この青玉せいぎよくの珠数じゆずを爪繰つまぐりしとよ。
我はこの青玉せいぎよくの珠数じゆずを解きほぐして、
貧しさに与ふべき玩具おもちやなきまま、
一つ一つ我が子等こらの手にぞ置くなる。


  我歌

わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
また何なにを附け足さん。
わが心は魚うをならねば鰓えらを持たず、
だ一息にこそ歌ふなれ。


  すいつちよ

すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋はつあきの小さき篳篥ひちりきを吹くすいつちよよ、
その声に青き蚊帳かやは更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋はつあきの夜の蚊帳かやは錫箔すゞはくの如ごとく冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。


  油蝉

あぶら蝉ぜみの、じじ、じじと啼くは
アルボオス石鹸しやぼんの泡なり、
慳貪けんどんなる商人あきびとの方形はうけいに開ひらく大口おほぐちなり、
手掴てづかみの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。


  雨の夜

夏の夜のどしやぶりの雨……
わが家いへは泥田どろたの底となるらん。
柱みな草の如ごとくに撓たわみ、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇の如ごとし。
寝汗の香……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き蚊帳かやは蛙かへるの喉のどの如ごとくに膨ふくれ、
肩なる髪は眼子菜ひるむしろのやうに戦そよぐ。
このなかに青白き我顔わがかほこそ
あくたに流れて寄れる月見草つきみさうの蕊しべなれ。


  間問題

相共あひともにその自みづからの力を試さぬ人と行かじ、
彼等の心には隙すきあり、油断あり。
よしもなき事ども――
善悪と云ふ事どもを思へるよ。


  現実

過去はたとひ青き、酸き、充たざる、
如何いかにありしとも、
今は甘きか、匂にほはしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ果実このみを摘むなかれ。


  饗宴

商人あきびとらの催せる饗宴きやうえんに、
我の一人ひとりまじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人あきびとらよ、晩餐ばんさんを振舞へるは君達なれど、
我の食らふは猶なほ我の舌の味あぢはふなり。
さて、商人あきびとらよ、
おのおの、その最近の仕事に就いて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。


  歯車

かの歯車は断間たえまなく動けり、
静かなるまでいと忙せはしく動けり、
れに空むなしき言葉無し、
れのなかに一切を刻むやらん。


  異性

すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、匂にほはしく、派手に、
胸の血の奇あやしくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうら寂さびしく、
冷たく、力なく、
かの茶人ちやじんの間あひだに受渡す言葉の如ごと
寒くいぢけて、質素ぢみなるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かの袴はかまのみけばけばしくて
さびしげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。

  わが心

わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水に附き流るるも是非なや。

  儀表ぎへう

なめさざる象皮ざうひの如ごとく、
受精せざる蛋たまごの如ごとく、
たいを出でて早くも老いし顔する駱駝らくだの子の如ごとく、
目を過ぐるもの、凡およそこの三種みくさを出でず。
彼等は此この国の一流の人人ひとびとなり。

  白蟻

白蟻しろありの仔虫しちうこそいたましけれ、
職虫しよくちうの勝手なる刺激に由り、
兵虫へいちうとも、生殖虫とも、職虫しよくちうとも、
すなはち変へらるるなり。
職虫しよくちうの勝手なる、無残なる刺激は
陋劣ろうれつにも食物しよくもつをもてす。
さてまた、其等それら各種の虫の多きに過ぐれば
職虫しよくちうはやがて刺し殺して食らふとよ。

 壺の花-15篇 コスモス  著物  独語 螇蚸   朝顔 蝦蟇 蟷螂 玉虫 寂寥 小鳥の巣 末女 薔薇の陰影-25篇-屋根裏の男 
或女 椅子の上 馬場孤蝶先生 故郷 自覚 約束 涼夜 渋谷にて 浜なでしこ  夏の宵 如何に若き男   男の胸 鴨頭草 月見草 
伴奏 初春 仮名文字 子守 寂しき日 煙草 百合の花 月を釣る-35篇-釣 人中 炎日 月見草 明日 芸術  走馬灯 空しき日 麦わら 
 対話 或女  或国  或家のサロン 片時 春昼   或手 通り雨 春の夜 牡丹  鬱金香 文の端に 教会の窓 裏口へ来た男 
 磯にて 九段坂 年末 市上 第一の陣痛-41篇 アウギユストの一撃 日曜の朝飯 駆け出しながら 三つの路 錯誤 途上 旅行者 何かためらふ 
真実へ 森の大樹 我は雑草 子供の踊 砂の上 三十女の心 わが愛欲 今夜の空 日中の夜 人に 寂寥 自省 山の動く日 一人称 乱れ髪 
薄手の鉢
 剃刀 煙草  大祖母の珠数 我歌 すいつちよ 油蝉 雨の夜 間問題 現実 饗宴 歯車 異性 わが心 儀表 白蟻 全集