尋常小学修身書 巻六
教育ニ関スル勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ
 此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ
 博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ
 進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ
 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
 是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ
 爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
 斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所
 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
 朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日

  御 名  御 璽

尋常小学修身書巻六 児童用

   第一課 皇大神宮

 皇祖天照大神をおまつり申してある皇大神宮は、伊勢の宇治山田市にあります。
 神域は神路山のふもと、五十鈴川の流にそひ、いかにも神々しい処で、一たび此処にはいると、誰でもおのづと心の底まで清らかになります。
 皇室ほ一方ならず皇大神宮を尊ばせられます。
 天皇陛下は皇族を祭主に御任命になつて御祭事をすべつかさどらせられ、新年祭・神嘗祭・新嘗祭には、勅使をおさし立てになつて幣帛をさゝげさせられます。
 勅使をおさし立てになる時には、天皇陛下は親しく幣物を御覧になつて、御祭文をお授けになり、勅使が退出するまでは入御になりません。
 なほ神嘗祭の当日には、宮中でおごそかに御遥拝の式を行はせられます。
 又毎年の政始には、第一に皇大神宮の御事をきこしめされ、皇室や国家に大事のある際には、必ず皇大神宮に御親告になります。
 大正天皇の御即位の礼を行はせられた時にも、御みづからその趣をお告げになりました。
 皇大神宮の宮殿は、二十年毎に新にお造りになつて、おごそかに正遷宮の御儀式を行はせられます。
 皇室は御遷宮の御事を至つて大切に遊ばされ、明治四十二年に御遷宮のあつた時にも、明治天皇ほこの御事を深く大御心にかけさせられ、前もつて工事等のくはしい書きものをさし出させて一々御覧になりました。
 皇室はかやうに厚く皇大神宮を御尊崇になります。
 国民も昔から厚く皇大神宮を敬ひ、一生に一度は必ず参拝しなければならないことにしてゐます。 

   第二課 図運の発展

 明治の初にあたつて、明治天皇は、世界の文明をとり入れて我が国の発達をはかり公論によつて政治を行ふといふ大方針をお立てになりました。
 それから僅か六十年余りの間に我が国運は非常な進歩発展をとげました。
 昔は、国民は国の政治にはもとより、自分等の住む町や材の政治にもたづさはらなかつたのです。
 それが今日では、自分等の住む市町村の事は大体自分等の間ですることになり、また衆議院議員を選挙しなどして国の政治にも参与することになりました。
 昔は、寺子屋などで少数の子供が読み書きやそろばんを少しばかり習つただけで、国民の中には字の読めない者もたくさんありました。
 明治になつてから次第に教育が盛になり、今日では小学校が到る処にあつて、国民は皆一通りの教育を受けられるやうになりました。
 その外諸種の学校が備つて、誰でも更に進んで十分に教育を受けることが出来ます。
 又学問・技芸は我が国に昔からあり来つたものや支那から伝つたものばかりであつたが、明治になつてから、盛に西洋のものも取り入れて発達をはかつたために、今日では学問も技芸も非常に進歩しました。
 始めて東京横浜間に鉄道がしかれてから六十年たつただけですが、今日では何処へ行くにも汽車を利用することが出来ます。
 又始めて汽船を見て驚いたのは八十年程前ですが、今日の我が国は、汽船の数では英・米二国の次に位してゐます。
 明治以前には通信は専ら飛脚によつたので、ずゐぶん不便でしたが、現今では何処にも郵便や電信・電話の設があつて、非常に便利に通信が出来るやうになりました。
 昔は、護国の任に当つたのは武士だけでしたが、明治になつて徴兵令がしかれてから、国民は皆兵役について我が国を護ることになりました。
 それがために陸海軍の備が十分整つて、明治二十七八年・同三十七八年の両戦役には、国威を世界に輝かすことが出来ました。
 我が国は、徳川幕府が久しい間外国と交通することを禁じてゐたので、明治以前には余程世界の大勢に後れてゐました。
 それがため、外国と交際を開いた時には、大そう不利益な条約を結び、その後長らく苦しみました。
 しかし国民はよくこれに耐へ、力を合はせて国の繁栄をはかつた結果、遂に外国も我が実力を認めたので、我が国は條約を改正することが出来て、外国と対等に交際することになりました。 

   第三課 国運の発展(つゞき)

 哉が国の人口は、六十年前には三千余万でしたが、今日では八千万にも及んでゐます。
 これらの国民があまねく教育を受け、国の内外で仕事に励むのですから、将来の発展は一層めざましいに違ありません。
 我が国は昔から農業を本とする国ですから、その方面は相応に発達してゐました。
 又周囲が海であるから水産業は昔から盛で、現今では世界で一二を争ふ位です。
 しかし商業は、主に明治になつてから進歩しました。
 昔は商人がめい/\僅かな資本をもつて、国内だけで取引をしてゐましたが、明治になつてからは商業の会社もだん/\出来て、今日ではその数が一万以上になり、大資本をもつて、国内のみならず外国とも盛に取引をするやうになりました。
 又工業の発達したのも明治になつてからで、昔は手でした事をだん/\機械でするやうになり、五十年前には工場の数が千余であつたのが、今日では数万もあつて、紙でも糸でも織物でも大仕掛にこしらへてゐます。
 かやうに政治・教育・産業等あらゆる方面の発達をはかるために、我が国は種々の施設をして来ました。
 そのための費用が、三十年前には年額数千万円でしたが、近年では十数億円に達してゐます。
 これらの費用は国民が負担するのですから、国民の富も増してゐることがよくわかります。
 我が国は、かやうな発達の結果、欧洲大戦の後には世界の大国の中に列することになりました。
 我が国をこれまでに盛にするのは決して容易なことではありません。
 ひつきやう明治の初以来、天皇御みづから国民をお率ゐになり、国民も皆一体になつて大御心を仰いでつとめて来たからです。
 しかし現在でも、英・米・独・仏等の諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります。
 将来我が国が更に発達してこれらの国々と肩をならべて共共に、文明の進歩をはかつて行くやうになるのは、我等の責任です。 

   第四課 国交

 隣近所同志互に親しくして助け合ふことが、共同の幸福を増す上に必要なことは、いふまでもありません。
 それと同様に、国と国とが親しく交り互に助け合つて行くことは、世界の平和、人類の幸福をはかるのに必要なことです。
 今日各国互に条約を結び、大使・公使を派遣して交際につとめてゐるのも、主としてこれがためであります。
 明治天皇は、諸外国との和親について非常に大御心をお用ひになりました。
 明治四十一年に天皇の下し賜はつた詔書の中にも、益国交を修めて列国と共に文明の幸福を楽しまうと仰せられてあります。
 欧洲大戦の終に平和会議がパリーで開かれた時、我が国もこれに参加しました。
 この会議の結果、出来上つたのが平和条約で、将来世界の平和に大切な国際連盟規約はこの条約の一部です。
 この条約の実施された大正九年一月十日に、大正天皇は詔書を下し賜はつて、万国の公是によつて平和の実を挙げ我が国力を養つて時世の進歩に伴なふやうに勉めよと国民にお諭しになりました。
 今上天皇陛下は皇太子であらせられた時、欧洲諸国を御巡歴になりました。
 半年の間、陛下は到る処の国々で御交際におつとめになり、いつも非常に好い感じをお与へになりました。
 これがため各国との和親がどれ程増したかははかり知られません。
 我等も国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当つては、常に彼我の和親を増すやうに心掛けませう。 

   第五課 忠君愛国

  民のため心のやすむ時ぞなき 身は九重の内にありても

 これは明治天皇の御製でありますが、この有難い思召は、すなはち御代々の天皇が我等国民の幸福をお思ひになる大御心です。
 我等国民は祖先以来、かやうに御仁慈であらせられる天皇をいたゞいて、君のため国のために尽すのを第一の務としてゐます。
 昔から国に大事が起つた場合には、楠木正戌や広瀬武夫のやうな人が、身命をさゝげて君国を守りました。
 また平時にあつては、作兵衛・伊藤小左衛門・高田善右衛門のやうな人が、それ/゛\農・工・商等の職業に励んで我が国の富強を増し、中江藤樹・貝原益軒・円山応挙のやうな人が、学問や技芸につとめて我が国の文明を進めました。
 我等はよく我が身を修めて善良有為の人となり、祖先の美風をついで、国の大事に際しては身命をさゝげて君国を守り、平時に於ては各その職分を尽して我が国の富強を増し文明を進め、忠君愛国の実を挙げなければなりません。 

   第六課 忠孝

 北条氏が滅びて、後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、間もなく足利尊氏が反きました。
 楠木正成は諸将と共に尊氏を討つて九州に追払ひましたが、その後、尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上つて来るとの知らせがあつたので、勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴きました。
 正成はこれを最後の戦と覚悟して、途中桜井の駅でその子正行に向ひ、
「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きつと君に忠義を尽し奉れ。それが第一の孝行である。」とねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。
 この時正行は十一歳でした。
 正成はそれから兵庫に行つて遂に湊川で討死しました。
 家に帰つてゐた正行は、父が討死したと聞いて、悲しさの余り、そつと一間に入つて自殺しようとしました。
 我が子の様子に気をつけてゐた母は、この有様を見て走りより、正行の腕をしつかとおさへて、
「父上がお前をお返しになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。その御遺言を母にも話して聞かせたのに、お前はもうそれを忘れましたか。そのやうなことで、どうして父上の志をついで、忠義を尽すことが出来ますか。」と涙を流して戒めました。
 正行は大そう母の言葉に感じ、それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失はず、遊戯にも賊を討つまねをしてゐました。
 正行は大きくなつて、後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。
 そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めさせました。
 正行は勝負を一戦で決しようと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁して最後のお暇乞を申し上げました。
 天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、汝を深く頼みに思ふぞとの御言葉さへ賜はりました。
 正行はそれから四条畷に向ひ、僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戦ひましたが、此の日朝からのはげしい戦に、味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とう/\兄弟さしちがへて死にました。
 
 格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ。 

   第七課 祖先と家

 我等の家では、父は職業に励み、一家の長として我等を保護し、母は父を助け、一家の主婦として家事にあたり、共に一家の繁栄と子孫の幸福をはかつてゐます。
 父母の前は祖父母、祖父母の前は曾祖父母と、我が家は祖先が代々維持して来たものです。
 代々の祖先が家の繁栄と子孫の幸福をはかつた心持に於ては、いづれも父母とかはりがありません。
 我等はかやうに深い祖先の恩を受けて生活してゐるのです。
 この恩を感謝し、祖先を尊ぶのは、自然の人情であり、また人の道であります。
 一家の中で、一人でも多くよい人がゐて、業務に励み、公共の事に力を尽せば、一家の繁栄を増すばかりでなく、また家の名誉を高めることになります。
 また僅か一人でも不心得の者がゐて、悪いことをしたり、務を怠つたりすれば、一家の不名誉となり、その繁栄を妨げます。
 一人の善悪の行は、たゞその人だけのことと思ふのは大きな間違で、一家全体の幸不幸となり、祖先の名にもかかはります。
 それ故一家の人々は、皆心をあはせて家の名誉と繁栄の為に力を尽し、祖先に対してはよい子孫となり、子孫に対してはりつぱな祖先となるやうに心掛けることが大切であります。 

   第八課 沈勇

 明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。
 午前十時、演習を始めると、問もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。
 この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。
 その上悪ガスがこもつて、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないやうになつたので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。
 そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいつて来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。
 遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守つたことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くやうな事があつてはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく記してあります。
 次に部下の遺族が困らぬやうにして下さいと願ひ、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
 艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだあり/\と見えてゐました。
 遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
 
 格言 人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ。 

   第九課 進取の気象

 高田屋嘉兵衛は淡路の人で、子供の時から船乗となつて人に雇はれてゐましたが、後兵庫に出て回漕業を始めました。
 さうしてまだあまり人の行かなかつた北海道へまでも出かけて家業につとめたので、家もだんだん豊になりました。
 其の頃ロシヤ人が千島に入り込むらしいので、幕府は警備の役人を出し、また国後・択捉への航路を開くために、特に熟練した船長を募りました。
 しかし北の方の海は浪風もはげしく寒気も強くて航海が危険であらうと恐れて、誰一人応ずる者がありません。
 嘉兵衛は深く決心して進んで募に応じ、この困難な仕事を引受けました。
 嘉兵衛はまづ図後島に渡りました。
 図後から択捉へ渡る海上は殊に難所ですから、いろ/\苦心して潮流の模様を調べた結果、廻り路をすれば安全であることを見きはめたので、いよ/\船を出しました。
 しばらくすると霧が深くなつて行先も見えなくなり、その上始めての航路なので、水夫等はしきりに危険を気遣つたが、嘉兵衛は自分の考へた通りに船を進めて、無事に択捉島に着きました。
 さうして十分島内を視察して引返し、この航路の安全であることを役人に報告しました。
 次の年にもまた嘉兵衛は幕府の命を受けて択捉島に渡り、所々に漁場を開いて土人に産業を授けました。
 その後、嘉兵衛はロシヤの軍艦に捕へられてカムチャッカに行き、それを機会に、その当時我が国とロシヤとの間に起つてゐた争を解いて国の為に功を立てました。 

   第十課 工夫

 久留米絣を発明したのは井上でんといふ人です。
 でんは機織が好きで、子供のうちに早くも一通り織れるやうになりました。
 しかし生まれつき勝気でしたから、どうかして世間にない目新しい物を織出さうと、常に工夫をこらしてゐました。
 或日でんは、着古した黒い地の仕事着があちこち白くすれて模様かと思はれるやうになつてゐるのに気がつきました。
 これは面白いと思つて、ほぐして糸にしてみると、黒い糸が所々白くなつてゐるので、黒と白の斑の糸で織れば、きつと面白い模様の織物が出来るに違ないと考へつきました。
 そこでためしに白糸を所々くゝり、藍汁につけて斑に染め上げ、その糸を機にかけて、どんな織物が出来るかと胸を躍らせながら織つてみると、かすり模様があらはれて面白い織物が出来ました。
 それからいろいろと改良を加へて、後には非常に手の込んだ模様でも織れるやうになりました。
 久留米絣は、今日では誰でも知らない者がない位に広く用ひられてゐます。 

   第十一課 自立自営

 フランクリンは、今から二百余年前に北アメリカのボストンで生まれました。
 家が貧乏な上に兄弟が多いので十歳で学校をやめて家業の手伝をしました。
 しかし幼い時から読書が好きで、小遣銭をためては本を買ひ、少しでも暇があると、熱心にそれを読みました。
 そのために早くから倹約と勉強のよい習慣がつきました。
 十二歳の時、兄の印刷工場で仕事を習ふことになりましたが、子供ながらもよく働いて仕事を覚え、間もなく一人前の職工になりまLた。
 其の間にも知合の人からいろ/\な本を借受けて、一日の仕事がすむと、それを読むのを楽しみにしてゐました。
 十七歳の時、ボストンからフィラデルフィヤに行つて、ある印刷工場に雇はれました。
 そこで一生けんめいに働いて、遂に二十四歳の時には独力で印刷業を経営し、長くフィラデルフィヤに住居するやうになりました。
 それから後も、常に学問を怠らず徳行に励んだので、遂にはりつぱな人になり、アメリカ合衆国の独立の際に大功を立てました。
 
 格言 天ハ自ラ助クル者ヲ助ク。 

   第十二課 公益

 フランクリンは自分の住んでゐるフィラデルフィヤをりつぱな所にするためにいろ/\と力を尽しました。
 フランクリンは知人と相談し、資金を出しあつて図書館をこしらへました。
 これがもとで方々に同じ様な図書館が出来て、そのおかげでこの地方の人々の知識がだん/\進んで来ました。
 フランクリンはまた新聞紙を発行しました。
 その頃の新聞紙の記事には間違や無益なことが多かつたが、フランクリンは正しい有益な記事を自分の新聞紙に載せたので、大そう世間のためになりました。
 またその頃は一般に消防の方法が不十分でしたから、火事があると、きつとその度に大きな損害がありました。
 そこでフランクリンは、火事の予防法を調べ、それを印刷して配りました。
 又同志の者を集めて消防組を作り、火事があるとすぐにかけつけて消防につとめることにしました。
 かやうな消防組がだん/\出来たので、フィラデルフィヤでは火事の損害が少くなりました。
 フランクリンはまた工合のよいストーブを発明したので、
「専売特許を願ひ出てはどうか。」と言つてすすめる友人もありましたが、
「広く行渡れば人々のためになることだから。」と言つてきき入れませんでした。
 其の外フランクリンは、寄付金を集めてフィラデルフィヤにはじめて中学校を立てたり、有益な暦を工夫して発行したり、街路を改良したり、病院を開いたりして、公益の為に力を尽しました。
 中でも電気を研究して、雷が電気の作用であることを証明し、避雷針を発明して広く世人を益したことほ有名な話です。 

   第十三課 共同

 久留米の東、筑後川に沿うた地方では、水が近くにありながら、川底が深く流が急なために、灌漑の便利が悪くて作物が出来ず、人々が大そう困つてゐました。
 今から二百六十年ばかり前に、此の地方に栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞といふ五人の庄屋がありました。
 五人は村々の困難をどうかして救ふ方法はあるまいかと、いろ/\相談し合ひ、十分測量もした上で、遂に筑後川に大きな堰を設け、掘割を作つて、水を引くより外はないと決しました。
 しかし、これは今まで誰も企てたことのない大工事であるから、久留米藩の許を受けるのは、なか/\容易ではあるまいと思つたので、
「我々が一旦かく思ひ立つた以上は、どんな事があつても生死を共にして、きつとこの企を成就しよう。」と、互に堅く誓ひました。
 他の庄屋たちがこの企を聞いて、中には仲間に入りたいと申し込む者もありましたが、五人は
「この大工事が成就しなかつたら、これを企てた我々は一命を捨てねばならぬかも知れない。むやみに人を仲間に入れて迷惑をかけてはならない。」と言つてことわりまLた。
 しかし、だん/\詰をきいて、その庄屋たちの志の堅いのを知り、仲間入をさせ、一しよになつて工事の許可を願ひ出ました。
 久留米藩では、かやうな大工事はとても成し遂げることは出来まいと思つたので、なか/\許しませんでした。
 その上、この計画の水路に当つてゐる村々の庄屋の中には、
「この堰を作ると洪水の際に危険である。」と言つて反対する者も出て来ました。
 五人の庄屋は度々藩の役所に出て、計画の確であることを一同熱心に説きました。
 藩の役人は五人に向ひ、
「もし計画通りに行かなかつたら、お前方はどうするか。」ときゝますと、
「その場合には私共五人が責を負うて、どんな重い刑罰でも快くお受けいたします。」と答へました。
 そこで役人も五人の決心の堅いのに感じ、とう/\その願を許しました。
 五人の庄屋は、仲間の庄屋たちと一しよに村の人々を指図して、いよ/\工事にとりかゝりました。
 監督に来た藩の役人は、もし計画通りに行かなかつたら、ふびんながら五人を重く罰すると、改めて言渡しました。
 工事に集つた人々は口々に、
「五人の庄屋を罪に落してはすまない。」と言つて、夜昼一生けんめいに働き、女・子供までも手伝つて木や石を運びました。
 それで、さしもの大工事も意外にはかどり、大きな堰が出来上りました。
 果して五人の庄屋の計画通りに、筑後川の水がどん/\と掘割に流れ込みました。
 その時の人々の喜はたとへやうもありませんでした。
 此の成功を見て、外の村々でも水を引きたいと願ひ出たので、また此の堰と掘割をひろげることになりました。
 はじめ工事に反対した庄屋も、今度は水の分前にあづかりたいと願ひ出ました。
 先に願ひ出た庄屋たちは
「あの人々は工事に反対したのですから、我々の村に水が来るまでは、さしひかへさせて下さい。」と申し立てましたが、五人は
「此の企はもと/\此の地方の人を救ふためですから、同時に願をお許しになるやうに。」と言つたので、役人もそれに同意しました。
 これまで水が少くて作物のとれなかつた此の地方が、収穫の多い仕合はせな土地になつたのは、此の五人の庄屋が心をあはせ必死になつて力を尽したおかげです。 

   弟十四課 慈善

 宮崎県茶臼原の広い高原に、有名な岡山孤児院を移した茶臼原孤兄院がありました。
 十戸程あるその家族舍には、どれにも子供が十二三人づつ居つて、保姆の世話を受けて普通の家庭に居ると同じ様に幸福にくらしてゐまLた。
 この子供たちは院の小学校に通ひ、課業が終ると家族舍に帰つて、一しよに楽しく家事や耕作の手伝をしました。
 小学校を卒業した後は、専ら農事や裁縫を習ひ、一人前になつた上で、世に出ることになつてゐました。
 この孤児院を開いた人ほ石井十次です。
 十次は天性、情深い人でありました。
 小さい時、氏神のお祭に、近所の或子供が縄の帯をしめてゐるとて、仲間の者にいぢめられてゐるのを見て、かはいさうに思ひ、自分の博多帯ととりかへてやつたことがありました。
 十次は大きくなつて岡山の医学校にはいりましたが、在学中に実地研究のため、しばらく片田舎のある診察所に行つてゐたことがありました。
 此の診察所の隣には大師堂があつて、毎夜巡礼が来て寝て行きます。
 十次は毎朝、大師堂に飯を持つて行つて巡礼にめぐみました。
 或朝、いつもの様に大師堂に行つて見ると、あはれな子供の巡礼が二人、ぼんやり立つてゐたので、十次は飯を与へて帰りました。
 しばらくすると、子供等の母だといつて一人の女巡礼がたづねて来て、ていねいにお礼を述べ、不幸な身の上について、いろいろと話しました。
 十次はそれを聞いて気の毒でたまらず、年上の子を預つて世話をすることにしました。
 この時十次は、世間にたくさん居る同じ様な不幸な子供をどうしても助けねばならぬと堅く決心しました。
 それから間もなく岡山孤児院をたてて、だん/\多くの孤児を収容しました。
 十次は孤児院の事業のために、いろ/\の困難を忍んで一生力を尽しました。
 十次の世話になつて世に出て、りつぱに独立の生活を営んでゐる者がたくさんあります。 

   第十五課 清廉

 明治三十七八年戦役に、陸軍大将乃木希典は第三軍司令官として出征しました。
 ある時、家族へ手紙を出さうとすると、巻紙がなくなつてゐました。
 卓上には軍用の郵便紙がたくさんありましたが、大将はそれには手もふれず、そばにゐる参謀長に
「紙の持合はせはないか。」と言つて、半紙をもらつて用を弁じました。
 大将がりつぱな手柄を立てて、明治三十九年にめでたく凱旋した時、ある人が家の宝としてゐる槍の身を大将におくつて祝ひますと、大将は
「お志はありがたいが、この槍は受けるわけにはいかない。どうぞこれはあなたの家に保存して置いて下さい。」といふ手紙を添へて送り返しました。
 その人が後に大将に面会し、
「国の為にお尽しになつて、めでたく凱旋なされたのをお祝ひ申すつもりでさし上げましたのに、お受け下さらなかつたのは残念です。」と言ひますと、大将はたゞくり返しくり返しありがたうと礼をいふばかりなので、その人はいよ/\大将の清廉なのに感心しました。
 その頃大将が学習院長であつたので、その人は更に元寇の役の絵を画家にかかせて、
「学生数育の資料にせめてこればかりはお納め下さい。」と言つておくりました。
 大将は喜んでそれを受けました。
 明治四十二年、学習院の新しい校舍が出来上つた時、宮中から大将へ御下賜金がありました。
 大将は職員一同に
「此の度の御下賜金は皆さんの御苦労を思し召されての御事と思ひます。」と言つて、その金を皆かつをぶしの切手にかへ、一々ていねいに水引をかけて、職員に分ちました。 

   第十六課 良心

 我等は何かよい事をすると、人にほめられないでも自分で心嬉しく感じ、また何か悪い事をすると、人に知れないでも自分で気がとがめます。
 これは誰にも良心があるからです。
 この良心は、幼少の時にはまだ余り発達してゐないのですが、親や先生の教を受けて次第に発達し、善い事と悪い事との見わけがはつきりつくやうになります。
 さうなると、人の指図を受けないでも善い事はせずには居られないやうに感じ、悪い事はすることが出来ないやヤうに感じます。
 我等は自分の良心の指図に従はねばなりません。
 人が見てゐないからとて、自分の良心の許さないことをしては、自分で自分の心を醜くすることになります。
 我等はよく自分をつゝしんで、天地に恥ぢないりつぱな人にならねばなりません。
 明治天皇の御製に
  目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり とあります。
 今から百三四十年前、仙台に林子平といふ人がありました。
 非常に愛国心の深い人で、一般人はまだ外国の事情がわからなかつた当時、早くも世界の大勢を知つて国防の大切なことを説きました。
 幕府は子平を、根もない事を説いて世人を迷はす者として、その兄の家に幽閉しました。
 子平はそれから後、毎日一室の中に居つて一歩も家から出ないので、友達は子平が病気になりはしないかと心配して、
「誰も見てゐるわけではなし、気晴しに少しぐらゐ出て歩いたらどうか。」と言つてすゝめました。
 子平は、そんなかげひなたのある行をすることは、どうしても自分の良心が許さないので、
「御親切は有難いが、それでは上を欺くことになる。たとひ見てゐる人がなくても、そんなことは出来ない。」と答へました。 

   第十七諾 憲法

 人が団体をなして生活するには、誰も守らなければならない規則が必要です。
 もしかやうな規則がなく、めいめい勝手気まゝなことをしたら、とても一しよに生活することは出来ません。
 それで国のやうな団体では、特に規則が必要です。
 国の規則はすなはち法令であつて、国民はこれによつて保護され、社会はこれによつて安寧秩序を保たれるのです。
 国民がもし法令を重んじなかつたら、国は秩序がみだれてその存立を全うすることが出来ません。
 我が大日本帝国憲法は、天皇がこれに依つて我が国をお治めになる大法で、したがつて法令の本になる最も大切な規則です。
 明治天皇は皇祖皇宗の御遺訓に基づかれて、国の繁栄と国民の幸福とをお望みになる大御心から、君臣共に永遠にしたがふべきこの大法を御制定になり、明治二十二年の紀元節の日に御発布になりました。
 憲法には、万世一系の天皇が我が国をお治めになることを示して、昔から変らない国体の本を明らかにしてあります。
 また国民に国の政治に参与する権利を与へ、法律によつて、国民の身体・財産等を保護し国民に兵役・納税の義務を負はせることがきめてあります。
 さうして天皇が我が国をお治めになるのに、一般の政務については国務大臣をお置きになつて輔弼をおさせになり、法律や予算は帝国議会の協賛を経ておきめになり裁判は裁判所におさせになることになつてゐます。
 憲法と一しよに制定された皇室典範は、皇位継承・践詐即位等皇室に関する大切な事柄をきめてある規則で憲法と同じく図の大法であります。 

   第十八課 国民の務(其の一)

 今日文明諸国は、皆協同して、戦争を避け平和を保つために、出来る限りの力を尽してゐます。
 しかし、世界にたくさんある国と国との間には、いろ/\の原因からいつ戦争が始らないとも限りません。
 それで、もし我が国にも禍が及んで、国の安危に関するやうなことが起つたら一大事です。
 それ故に、我等が一致して我が国の防衛に心を用ひ、その安全をはかるのは最も必要なことです。
 我が国は昔から一度も外国のために国威を傷つけられたことはありません。
 これは御代々の天皇の御稜威と、我等の祖先が忠誠勇武であつたこととによります。
 我等も祖先が心を一つにして守護して来たこの国を守つて、光栄ある歴史を汚す事のないやうにしなければなりません。
 我が国民中、満十七歳から満四十歳までの男子は、皆兵役に服する義務があります。
 それで満二十歳になると必ず徴兵検査を受け、体格の完全で強壮な者の中、抽籤に当つた者は、現役兵となつて陸軍又は海軍に入ります。
 もし国に一大事が起つた時は、現役にある者はもちろん、その他兵役に服する義務のある者は召集に応じて出征します。
 兵役に服して国の防衛に当る事は、我等国民の最も大切な義務であると共に、また大きな名誉であります。
 我等は少年の時から身体をきたへ元気を養ひ、成長の後は徴兵検査に合格して海軍に入り、名誉ある護国の義務を果すことが出来るやうにしませう。
 また軍隊に入ることが出来ない者でも、常に心身を養つて、万一の国難にあたる覚悟がなければなりません。 

   第十九課 国民の務(其の二)

 我が国を防衛して其の存立を全うするには、陸海軍の備がなくてほなりません。
 国民の教育を進め国運発展の基を固くするには、学校を設けなければなりません。
 その他、公共の安寧秩序を保ち、通信・交通を便にし、産業の発達をほかるなど、国民共同の福利を増すために、国の為さなければならない事がたくさんあります。
 したがつて国にはこれ等の仕事をするための費用がいります。
 我等は市町村民として市町村の費用を分担するために、租税を納めなければならないことを学びました。
 国の費用も同様に、我等が国民として分担するのが当然で、それがためにもまた租税を納めなければなりません。
 もし国民が租税を納めなければ、国の仕事に必要な費用の出みちが壇く、国は何事もすることが出来ません。
 したがつて国民の幸福を進め国を盛にすることはとても望めないのはもちろん、国の存立さへ危くなります。
 納税は兵役と共に国民の大切な義務であります。
 租税には国全体の費用となる国税と、府県の費用となる府県税と、市町村の費用となる市町村税とがあります。
 国税は法律できまり、府県税・市町村税は法律で定められた範囲内で、それ/゛\府県会・市町村会の議決できまります。
 我等はこれ等のきまりに従つて税金を納めるのです。
 我等は自ら進んで租税を納め、国を盛にする心掛が大切です。
 我等がもし納税に関する申告を怠つたり、納税の期限に後れて督促を受けたりすると、国に無益の手数をかけます。
 まして申告を偽つて脱税をはかつたり、期限に後れて滞納処分を受けたりするやうなことがあつては、自分の恥であるばかりでなく、国の仕事の妨になります。 

   第二十課 国民の務(其の三)

 帝国議会は憲法の規定によつて毎年召集され、我が国の法律や予算などを議決する大切な機関です。
 議会で議決したことは天皇の御裁可を経て公布されます。
 帝国議会は貴族院と衆議院から成立つてゐます。
 貴族院は皇族・華族の議員や勅任された議員で組織され、衆議院は選挙権をもつてゐる国民が公選した議員で組織されてゐます。
 我等は将来、帝国議会の議員を選挙し、或はその議員に選挙されて、国の政治に参与することが出来ます。
 帝国議会の議決は国の盛衰に関係しますから、したがつて議員の適否は国民の幸不幸となります。
 我等はさきに市町村会議員を選挙する心得を学びました。
 帝国議会の議員を選挙するにも、同様によく注意して、候補者の中から、性行が善良でありりつぱな考をもつてゐる人を選挙しなければなりません。
 自分だけの利益のために投票し、又は他人に強ひられて適任者と思はない人に投票してはなりません。
 また理由もないのに、自分の選挙権を棄てて投票しないのは、自分のすべきことを怠つて自分を軽んずる行です。
 また帝国議会の議員に選ばれた者は、その職責の重大なことを思ひ、常に国事を以て念とし、かりそめにも私情に動かされず、忠実に職責を果さなければなりません。 

   第二十一課 男子の務と女子の務

 男子も女子も人として国民として行ふべき道に違はありません。
 男子が世の繁栄をはからねばならぬと同じ様に、女子もそれをはからねばなりません。
 また女子が身もちを慎まねばならぬと同じ様に、男子もそれを慎まねばなりません。
 かやうに、人として国民としては違はありませんが、男子と女子とによつて、それ/゛\実際の務はおのづから別れて居ります。
 男子と女子とは生まれながらにして身体も違ひ性質も違つてゐます。
 それで見ても、その務がおのづから違ふことは明らかであります。
 強いことは男子のもちまへで、やさしいことは女子のもちまへです。
 国・社会・家を安全に保護していくやうなことは男子の務で、家庭に和楽を与へ、また子供を養育するやうなことは女子の務であります。
 我等の父母が家庭で実際に行つてゐる事は、すなはちこの男子の務と女子の務との主なものであります。
 父は一家の長として家族を率ゐ、家計を支へ、また外へ出ていろ/\な仕事をして働いてゐます。
 母は主婦として内にゐて父を助け、家をとゝのへ、我等の世話をしてゐます。
 男子と女子とがよく調和して各その務を全うしていけば、家も栄え国も栄えます。 

   第二十二課 勤勉

 伊能忠敬は上総に生まれ、十八歳の時下総佐原村の伊能氏の家をつぎました。
 伊能氏は代々酒や醤油を造り、土地で評判の資産家でしたが、その頃は大分家が衰へてゐました。
 そこで忠敬は、どうかしてもとのやうにしようと思つて、一生けんめいに家業に励み、自分が先に立つて倹約したので、家も次第に繁昌して、四十歳になる頃には、もとよりも豊になりました。
 それで関東に二度も飢饉があつた時、二度とも金や米をたくさん出して、困つてゐる人々を助けました。
 また公職について村のために尽しました。
 五十歳になると家を長女に譲りました。
 しかしそのまま楽をしようとはせず、これから一心に学問をしようと思つて江戸に出ました。
 忠敬はもと/\天文・暦法が好きで、これまでも仕事のひまには少しづつ勉強をつづけて、その知識がかなり深くなつてゐました。
 江戸に出ると間もなく、高橋至時といふ天文学者をたづね、その精密な西洋暦法の話を聞いて大そう感心し、自分より十九も年下の至時の弟子になつて、数年間倦まずたゆまず勉強したので、同門中及ぶものがない程学問が上達しました。
 五十六歳の時、幕府の許を受けて北海道の東南海岸を実地に測量し、地図を作つてさし出しました。
 その後、幕府の命で諸方の海陸を測量することになり、寒暑をいとはず遠方まで出かけて、とう/\七十二歳で日本全国の測量をすませました。
 それからもからだの自由がきかないやうになるまでは、大中小三種の日本地図を作ることにつとめました。
 我が国の正しい位置や形状が始めて明らかになつたのは全く忠敬の手柄です。
 
 格言 精神一到何事カ成ラザラン。 

   第二十三課 師弟

 忠敬の先生の至時は幕府の天文方でした。
 四十歳の時オランダの新しい暦法の書物を得たので、僅か半年の間に、不十分な語学の力でそれを読終つた上に、その書物について著述までもしました。
 もとから病身であつた至時は、このはげしい勉強のために大そう健康を損じて、翌年なくなりました。
 至時は忠敬の根気のよいのに感心し、特に力を入れて教へ、又後には北海道その他の測量を忠敬にさせるやうに幕府にとりなしました。
 さうして新しい知識を得ると、すぐ忠敬にそれを伝へ、忠敬はすぐまたそれを実地に応用して、師弟一体になつて学問のために力を尽しました。
 至時の死んだ時には、忠敬は非常に力を落しましたが、先生の教を空しくしてはならぬと思ひ、その後は一層骨折つて、とう/\日本全国測量の大事業を成しとげました。
 忠敬は七十四歳でなくなりましたが、死ぬ時に
「自分にこれだけの事が出来たのは全く高橋先生のおかげであるから、自分が死んだ後は先生の側に葬つてもらひたい。」と家族の者にいひのこしました。
 今でも浅草の源空寺には、この師弟の墓が並んで立つてゐます。 

   第二十四課 教育

 我等が学校にはいつてから、もう六年になります。
 入学した頃は、まだ幼くて、ものの道理もわかりませんでした。
 それが今では、日常必要な知識や技能も進み、また人の行ふべき道も一通りわかるやうになりました。
 我等がこれまでになることが出来たのは、教育を受けたおかげです。
 人は誰でも教育を受けて、はじめて善良有為の人となることが出来るのです。
 世に立つて、農・工・商その他どんな職業に従事するにしても、教育を受けてゐなければ、よい成績を挙げることは困難です。
 まして職業について改良進歩をはかるには、なほさら教育を受けてゐることが大切です。
 我等が善良有為でよく務を果せば、我等はすなはちよい日本人であるのです。
 我が国民の一人一人が皆かやうな人であれば、国は盛になります。
 我が国では、明治五年に学制が定められて義務教育の基が立ち、同二十三年には教育に関する勅語が下つて教育の大方針がきまりました。
 今日の制度では、各市町村が、その区域内の児童を皆就学させるに足るだけの尋常小学校を設けることになつてゐます。
 国民はその子弟を満六歳から必ず尋常小学校に入学させて、六箇年の課程を卒へさせる義務があります。
 世界の文明国は皆義務教育の制度をしき、しかもなるべく修業の年限を長くすることにつとめてゐます。
 一国の文明の進歩も産業の発達も主としてその国民の教育の程度によつてきまります。
 国の繁栄を願ふ者は教育を受けることの大切なことを知らなければなりません。
 我等は尋常小学校を卒業して後も、身体の発達に注意し、徳行を修め、知能を磨くことを怠らないやうにしませう。
 又事情が許せば、高等小学校や実業補習学校に入り、或は他の学校に進んで、十分に教育を受け、益善良有為の人となるやうにつとめませう。 

   第二十五課 教育に関する勅語

 教育に関する勅語は明治二十三年十月三十日、明治天皇が我等臣民のしたがひ守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜はつたものであります。
 勅語を三段に分けますと、其の第一段には
 朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏速ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存スと仰せられてあります。
 この一段には、まづ皇室の御祖先が我が国をお始めになるにあたつて、其の規模がまことに広大で且いつまでも動かないやうになされたこと、御祖先はまた御身をお修めになり、臣民をお愛しみになつて、万世にわたつて御手本をおのこしになつたことを仰せられ、次に臣民は君に忠義を尽し親に孝行を尽すことを心掛け、皆心を一つにして代々忠孝の美風を全うして来たことを仰せられてあります。
 終に以上のことが我が国体のきつすゐなりつぱな所であり、我が国の教育の基づく所もまたこゝにあることを仰せられてあります。 

   第二十六課 教育に関する勅語(つゞき)

 勅語の第二段には
 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ランと仰せられてあります。
 
 この一段には、初に天皇が我等臣民に対して爾臣民と親しくお呼びかけになり、我等が常に守るべき道をお諭しになつてあります。
 
 其の御趣旨によると、我等臣民たるものは父母に孝行を尽し、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に分を守つて睦まじくしなければなりません。
 また朋友には信義を以て交り、誰に対しても礼儀を守り、常に我が身を慎んで気ままにせず、しかも博く世間の人に慈愛を及すことが大切です。
 また学問を修め業務を習つて、知識才能を進め、善良有為の人となり、進んでこの智徳を活用して、公共の利益を増進し、世間に有用な業務を興すことが大切です。
 また常に皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ、其の他の法令を守り、もし国に事変が起つたら、勇気を奮ひ一身をさゝげて、君国のために尽さなければなりません。
 かやうにして天地と共に窮ない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等の務であります。
 終には、以上の道をよく実行する者は、忠良な臣民であるばかりでなく、我等の祖先がのこした美風をあらはす者であることをお諭しになつてあります。

   第二十七課 教育に関する勅語(つゞき)

 勅語の第三段には
 斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民卜倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フと仰せられてあります。
 この一段には、前の第二段にお諭しになつた道は、明治天皇が新におきめにな壇つたものではなく実に皇祖皇宗がおのこしになつた御教訓であつて、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、またこの道は古も今も変りがなく、どこでも行はれるものであることを仰せられてあります。
 最後に、天皇は御みづから我等臣民と共にこの御遺訓をお守りになりそれを御実行になつて、皆徳を同じくしようと仰せられてあります。
 以上は明治天皇のお下しになつた教育に関する勅語の大意であります。
 この勅語にお示しになつてゐる道は我等臣民の永遠に守るべきものであります。
 我等は至誠を以て日夜この勅語の御趣意を奉体せねばなりません。 

尋常小学校修身書巻六 児童用 終

昭和二年十一月十四日修正印刷
昭和二年十一月十七日修正発行
昭和二年十一月十七日翻刻印刷
昭和二年十一月三十日翻刻発行

尋常小学修身書巻六児童用 臨時定価金拾銭
昭和二年十一月廿二日 文部省検査済
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