魏 史 倭 人 伝
本文 解釈 解説
倭人在帯方東南大海之中
依山島為国邑 旧百余国
漢時有朝見者
今使訳所通三十国
倭人は帯方東南の大海の中に在り。
山島に依りて国邑を為す。旧百余国、
漢の時、朝見する者有り。
今使訳通う所三十国。
(注:紹興本原文に句読点・区切りはない。
解釈に差し支えない文字は現代のものを使用)
従郡至倭 循海岸水行
歴韓国乍南乍東
到其北岸狗邪韓国 七千余里
郡より倭に至るは、海岸に従い水行し、
韓国を経て南ながら東ながらし、
其の北岸狗邪韓国に到る。七千余里。
経路=直線距離ではない。
韓国西岸南下+南岸東行=510`
@
始渡一海千余里 至対馬国
其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
所居絶島 方四百余里
土地山険多深林道路如禽鹿径
有千余戸 無良田 食海物自活
乗船南北市糴
始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る。
其の大官は彦と言い、副は鄙守と言う。
居る所絶島にして、方四百余里なり。
土地山険深林多く道路は禽獣の径の如し。
千余戸有り。良田無く海物を食いて自活し、
船に乗りて南北に市糴す。
対馬海峡西水道=64〜77`
A
上県+浅茅湾+下県=72`
 ∴ 一辺=36`
B
C
又南渡一海千余里
名曰瀚海 至壱岐国
官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林
有三千許家 差有田地
耕田猶不足食 亦南北市糴
又南へ一海を渡る千余里、
名は寛海と言う。壱岐国に至る。
官は又彦と言い、副は鄙守と言う。
方三百里なるべし。竹木叢林多く、
三千ばかりの家有り。やや田地有り。
田を耕せど猶食足らず。又南北へ市糴す。

対馬海峡東水道=50〜75`
D

壱岐一辺=18`
E
F
又渡一海千余里 至松浦国
有四千余戸 浜山海居
草木茂盛 行不見前人
好捕魚鰒 水無深浅
皆沈没取之
又一海を渡る千余里、松浦国に至る。
四千余戸有り、山と海に沿いて居す。
草木盛んに茂り、行くに前人を見ず。
好んで魚鰒を捕らえ、水へ深浅と無く、
皆沈没して之を取る。
壱岐〜伊万里側=50`〜
GH
松浦国のみ官の記述無し。
理由は官が難升米副が都市牛利。
記述は難升米に黄幢を仮した張政
東南陸行五百里 到伊都国
官曰爾氏 副曰泄謨觚 柄渠觚
有千余戸 世有王皆統属女王国
郡使往来常駐所
東南へ陸行五百里にして、糸国へ到る。
官はニキと言い 副はセモコ・ヘゴコと言う
千余戸有り代々王有り皆女王国に統属す。
郡使の往来して常に留まる所なり。
松浦〜伊都国=37`
I
J
東南至奴国百里 官曰司馬觚
副曰卑奴母離 有二万余戸
東南那国に至るは百里、官はシマコと言い
副は鄙守と言う。二万余戸有り。
留まっている伊都国の集落から
奴国の集落に至るは百里 注K
東行至不彌百里 官曰多模
副曰卑奴母離 有千余戸
東行フミ国に至るは百里、官はタモと言い
副は鄙守と言う。千余戸有り。
留まっている伊都国から
不彌国の集落に至るは百里。注KL
南至投馬国水行二十日
官曰彌彌 副曰彌彌那利
可五万余戸
南トマ国に至るには水行二十日、
官はミミと言い、副はミミナリと言う。
五万余戸なるべし。
筑紫〜吉備児島=20日(延喜式)
M
N
南至邪馬台国 女王之所都
水行十日陸行一月 官有伊支馬
次曰彌馬升 次曰彌馬獲支
次曰奴佳提 可七万余戸
南邪馬台国に至る。女王の都する所なり。
水行で十日、陸行で一月。官はイキマ有り、
次はミマショウと言い次はミマカキと言い
次はナカテと言う。七万余戸なるべし。

吉備児島〜京都=10日(延喜式)
O
P
自女王国以北
其戸数道里可得略載
其余傍国遠絶不可得詳
女王国より以北は、
其の戸数・道里を略載しうべし。
其の余傍国は遠絶にて詳細を得べからず。
 
次有斯馬国 次有巳百支国
次有伊邪国 次有都支国
次有彌奴国 次有好古都国
次有不呼国 次有姐奴国
次有対蘇奴国 次有蘇奴国
次有呼邑国 次有華奴蘇奴国
次有鬼国 次有為吾国
次有鬼奴国 次有邪馬国
次有躬臣国 次有巴利国
次有支惟国 次有烏奴国
次有奴国
此女王境界所尽
次シマ国有り、次シハキ国有り、
次イヤ国有り、次トキ国有り、
次ミナ国有り、次コクト国有り、
次フコ国有り、次ソナ国有り、
次ソツ国有り、次ソナ国有り、
次コユ国有り、次カナソナ国有り、
次キ国有り、次イゴ国あり、
次キナ国有り、次ヤマ国有り、
次クシ国有り、次ハリ国有り、
次キユ国有り、次ウナ国有り、
次ナ国有り。
これ女王の境界の尽きるところなり。
 
其南有狗奴国 男子為王
其官有狗古智卑狗 不属女王
其の南にコナ国有り。男子が王となる。
其の官はクコチ彦有り。女王に属せず。
 
自郡至女王国万二千余里
男子無大小 皆黥面文身
自古以来 其使詣中国
皆自称大夫
郡より女王国に至るは万二千余里。
男子は大小と無く、皆黥面文身す。
古より以来、其の使いは中国にいたり、
皆自ら大夫と称す。
郡→大和=万二千余里
 ∵郡→筑紫=6000余里(直距離)
筑紫→大和=郡→筑紫 注Q
倭人伝編者の説明
夏后小康之子 封於会稽
断髪文身 以避蛟龍之害
今倭水人 好沈没捕魚蛤
文身亦以厭大魚水禽
後稍以為飾
諸国文身各異 或左或右
或大或小 尊卑有差
計其道里 当在会稽東冶之東
夏后小康の子は、会稽に封ぜられるや
断髪文身し、以て蛟龍の害を避く。
今倭の水人、好んで沈没し魚蛤を捕る。
文身は以て亦大魚水禽をはらう。
後やや以て飾りと為す。
諸国の文身は各異なる。或は左或は右
或は大或は小、尊卑差有り。
其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在り
倭人伝編者の説明
張政の報告
「…松浦国…好捕魚鰒水無深浅 皆沈没取之」
を踏まえた編者の説明
郡→会稽東冶=万二千余里
R
其風俗不淫 男子皆露介
以木緜招頭 其衣横幅
但結束相連 略無縫
婦人被髪屈介
作衣如単被 穿其中央
貫頭衣之
其の風俗は淫らならず。男子は皆露髻し、
木綿を以て頭にかく。其の衣の横幅は、
ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。
婦人は被髪屈髻す。
衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、
頭を貫きてこれを着る。
 
種禾稲紵麻 蚕桑輯績
出細紵絹緜
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓 木弓短下長上
竹箭或鉄鏃 或骨鏃
所有無与但耳 朱崖同
禾稲・苧麻を植え、蚕桑して輯績し、
細苧・絹綿を出す。
其の地牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。
兵は矛・盾・木弓を用い木弓は下短く上長く
竹矢は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。
有無する所但耳、朱崖と同じ。
風俗、産物、動植物の記述
漢書・地理志・粤地条を編者が引用
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室 父母兄弟臥息異処
以朱丹塗其身体
如中国用粉
食飲用扁豆手食
倭地温暖、冬夏生野を食し皆徒裸足なり。
屋室有り。父母兄弟 臥息する処を異にす。
朱丹を以て其の身体を塗るは、
中国の粉を用うる如くなり。
食飲は扁豆を用い手食す。

後出「其会同坐起父子男女無別」と矛盾
複数文献の引用。


扁豆=高坏

其死有棺無郭
封土作塚 始死停喪十余日
当時不食肉 喪主哭泣
他人就歌舞飲食
已葬挙家詣水中澡浴
以如練沐
其の死すや棺有るも郭無く、
土を封じ塚を作る。始め死すや停喪十余日
時に当たりて肉を食せず、喪主は哭泣し、
他人は就きて歌舞飲食す。
已に葬るや家を挙げて水中にいたり澡浴し
以て練沐の如し。
 
其行来渡詣中国
恒使一人不梳頭 不去蚤蝨
衣服垢汚 不肉食 不近婦人
如喪人 名之為持衰
若行者吉善
共顧其生口財物 若有疾病
遭暴害 便欲之殺
謂其持衰不謹
其の行来渡りて中国に詣でるに
恒に一人は頭を梳らせず、蚤虱を去らず、
衣服垢汚し、肉を食せず、婦人に近付かず
喪人の如くす。之を名付けて持衰と為す。
もし行く者吉善なら、
共に其の生口財物を与え、もし疾病有り
暴害に遭はば、即ち之を殺さんと欲す。
其れ持衰が謹まざると謂う。
 
出真珠 青玉 其山有丹
其木有椴 杼 豫樟 楙 櫟
投橿 烏号 楓香
其竹篠 幹桃支
有薑 橘 椒 茗荷
不知以為滋味 有爾猴 黒雉
真珠・青玉を出す。その山には丹あり。
其の木にはとど・ひ・楠・木瓜・くぬぎ・
柏・橿・烏号・楓香有り。
其の竹は篠、幹・桃支なり。
生姜・橘・山椒・茗荷有るも、
以て滋味と為すを知らず。じ猿・黒雉有り。
産物、動植物の記述を前出と分離記述している。
張政報告の引用。
張政のかえりを送る時の貢が含まれている。
其俗挙事行来
有所云為 則灼骨而卜
以占吉凶 先告所卜
其辞如令亀法
視火拆吉凶
其の俗は事を挙げて行き来するに、
云為する所有らば則ち骨を灼き而して卜し
以て吉凶を占い先ず卜する所を告ぐ。
其の辞は令亀法の如く、
火拆を見て吉凶を占う。
 
其会同坐起 父子男女無別
人性嗜酒 見大人所敬
但拍手当以跪拝
其の会同坐起には、父子男女の別無し。
人の性は酒を好む。大人の敬うを見れば、
ただ手を拍ちて以て跪拝に当てる。
前出「父母兄弟臥息異処」と矛盾
複数文献の引用。
其人寿考 或百年 或八九十年
其の俗国大人皆四五婦
下戸或二三婦
婦人不淫 不妬忌
其の人は寿考が或は百年或は八九十年。
其の俗は国の大人は皆四、五婦、
下戸も或いは二、三婦なり。
婦人は淫らならず、妬忌せず。
 
不窃盗 少争訴
其犯法 軽者没其妻子
重者滅其門戸及宗族
尊卑各有差序 足相臣服
窃盗せず。争訟少なし。
其の法を犯すや軽き者は其の妻子を没し、
重き者は其の門戸及び宗族を滅ぼす。
尊卑各々差序有り、相臣服するに足る。
 
収租賦 有邸閣 国国有市
交易有無 使大倭監之
租賦を収むるに邸閣有り、国々に市有り。
有無を交易し、使大倭之を監す。
 
自女王国以北 得置一大卒
検察諸国 諸国畏憚之常治
伊都国 於国中有如刺使
女王国より以北には、特に一大卒を置き、
諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に
糸国に治し、国の中に於いて刺使の如く有り。
 
王遣使詣京都 帯方郡 諸韓国
及郡使倭国 皆臨津捜露
伝送文書賜遺之物詣女王
不得差錯
王 遣使して京都・帯方郡・諸韓国へいたり、
郡使の倭国へ及ぶや皆津に臨み捜露す。
文書・賜遺之物を伝送し女王にいたるに、
差錯するを得ず。

悌儁の及んだ糸の津で
文書・賜遣之物を捜露している様子
下戸与大人相逢道路
逡巡入草 伝辞説事
或蹲或跪 両手拠地為之
恭敬対応声曰噫
比如然諾
下戸は大人と道路に相逢はば、
逡巡して草に入り、言葉を伝え事を説くに
或いは蹲り或いは跪き、両手は地に拠り之
を為す。恭敬対応の声をあいという。
比するに然諾の如し。
 
其国本亦以男子為王往七八十
年 倭国乱 相攻伐歴年
其の国本亦男子を以て王と為し、往くこと
七八十年、倭国乱れ、相攻伐して年をふる。
 
乃共立一女子為王
名曰卑弥呼 事鬼道 能惑衆
年已長大 無夫婿
有男弟 佐治国
自為王以来 少有見者
乃ち共に一女子を立て王と為す。
名は卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆
を惑わす。年すでに長大なれど、夫婿無し。
男弟有り。たすけて国を治む。
王と為りてより以来、見えたる者少なし。
共立
=嫡子以外を国内の有力者が共に王として立てること。
以千人自侍婢 唯男子一人
給飲食 伝辞出入居処
宮室 楼観 城柵厳設
常有人持兵守衛
婢千人を以て自に侍らし、唯男子一人、
飲食を給し、ことばを伝え居処に出入りす。
宮室・楼観に城柵厳しく設け
常に人有りて兵を持ち守衛す。
婢は機織り女性
女王国東渡海千余里
復有国 皆倭種
女王国の東 海を渡ること千余里にして、
また国有り。皆倭種なり。
 
又有侏儒国 在其南
人長三四尺
去女王四千余里
又侏儒国有りて、其の南に存す。
人の長け三、四尺、
女王を去ること四千余里なり。
山、崖の横穴墓を住居と間違え伝わる。
又有裸国 黒歯国 復在其東南
船行一年可至
又裸国・黒歯国有り。また其の東南に存す。
船行一年にして至るべし。
ミクロネシア、メラネシア、ポリネシア
参問倭地絶在海中洲島之上
或絶或連
周旋可五千里
参問せし倭地は絶えて海中の洲島上に在り
或いは絶え或いは連なり
周旋すること五千里なるべし。
張政が参り問うた倭地は、
対馬、壱岐、松浦、伊都で、
周旋(立ち巡る)した距離は往復五千里。
景初三年六月
倭女王遣大夫難升米等詣郡
求詣天子朝献
太子劉夏遣使
将送詣京都
景初三年六月
倭の女王は大夫難升米等を遣し郡に詣ら
しめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太子劉夏は吏を遣わし、
将い送り京都に詣らしむ。
 
其年一二月 詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑弥呼
その年一二月、詔書し倭の女王に報じて曰
く、親魏倭王卑弥呼に制詔す。
 
帯方太守劉夏遣使
送汝大夫難升米 次都市牛利
奉汝所献男生口四人 女生口
六人 斑布二匹二丈以至
帯方太守劉夏は、吏を遣わして、
汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、
汝が献ずる所の男の生口四人女生口六人、
斑布二匹二丈を奉じて以て至らしむ。
生口は献じた斑布の織物職人。
農奴やメイドでは貴重なペイロードを費やす献上対象にならずまた魏朝の正史に載せない。
汝所在踰遠 乃遣使貢献
是汝之忠孝 我甚哀汝
汝の在る所遙か遠きに、乃ち使を遣わし貢
献す。是汝の忠孝、我甚だ汝を哀しむ。
 
今以汝為親魏倭王仮金印紫綬
装封付帯方太守仮授
汝其綏撫種人 勉為孝順
今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮
し、装封し帯方太守に付して仮授せしむ。
汝其の種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。
 
汝来使難升米 牛利
渉遠道路勤労 今以難升米
為率善中郎将 牛利為率善校尉
仮銀印青綬 引見労賜遣還
汝の来使難升米、牛利、
遠く渉り道路に勤労せり。今難升米を以て
率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、
銀印青綬を仮し、引見労賜して還らしむ。
 
今以絳地交龍錦五匹
絳地繍粟袿十張 氈絳五十匹
紺青五十匹 答汝所献貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹
細斑華袿五張 白絹五十匹
金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚
真珠鉛丹各五十斤 皆装封
付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝国中人
使知国家哀汝
故鄭重賜汝好物也
今絳地交龍錦五匹、
絳地繍粟袿十張、茜絳五十匹
紺青五十匹を以て汝が献ずる貢直に答う。
又特に汝に句文錦三匹、
細斑華袿五張、白絹五十匹
金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚
真珠・鉛丹各五十斤、皆装封して、
難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、
悉く以て汝の国中の人に示し、
国家が汝を哀しむを知らしむべし。
故に鄭重に汝に好物を賜うなり。
 
正始元年
太守弓遵遣建中校尉梯儁等
奉詔書印綬 詣倭国
拝仮倭王齎併詔 賜金帛
錦袿 刀 鏡 采物
倭王因使上表 答謝詔恩
正始元年、
太守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わし、
詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、
倭王に拝仮せしめ詔を齎すに併せ、金帛、
錦袿、刀、鏡、采物を賜わしむ。
倭王使に因りて上表し、詔恩に答謝す。





上表=文字を使う
其四年倭王復遣使大夫伊声耆
掖邪狗等八人 上献生口 倭錦
絳青絹 錦衣 帛布 丹
木柎短弓 矢
掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
其の四年、倭王はまた使の大夫伊声耆
掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、
絳青絹、 錦衣、 帛布、 丹、
木柎短弓、矢を上遣す。
掖邪狗等は壱に率善中郎将の印綬を拝す。
 
其六年 詔賜倭難升米黄幢
付郡仮授
其の六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、
郡に付して仮授せしむ。
 
其八年 太守王斤到官
倭女王卑弥呼与
狗奴国男王卑弥弓呼素不和
遣倭載斯烏越等詣郡
説相攻撃状
遣塞曹縁吏張政等
因齎詔書黄幢 拝仮難升米
為檄告諭之
其の八年、太守王斤官に到る。
倭の女王卑弥呼は、
狗奴国男王卑弥弓呼と素より不和なり。
倭の載斯烏越等を遣わし郡に詣で、
相攻撃する状を説かしむ。
塞曹縁吏張政等を遣わし、
因りて詔書黄幢を齎し、難升米に拝仮し、
檄を為して之を告諭す。





張政は詔書、横幢を難升米に拝仮するため、松浦国へ至る。
その後郡使の常に駐在する伊都国へ至る。
卑弥呼以死 大作塚
径百余歩 殉葬者奴婢百余人
更立男王 国中不服
更相誅殺 当時殺千余人
復立卑弥呼宗女台与年十三
為王 国中遂定
卑弥呼が死せるを以て、大いに塚を作る。
径は百歩、殉葬者は奴婢百余人なり。
更に男王を立てるも、国中服せず。
更相誅殺して、当時千余人を殺す。
また卑弥呼の宗女台与年十三を立てて、
王と為し、国中遂に定まる。
殉葬者=老いた織女


当時=男王のいた内乱の頃
「台与」は「とよ」と読み
「邪馬台」は「やまと」と読む。
政等以檄告諭台与
台与遣倭大夫率善中郎掖邪狗
等二十人 送政等還
因詣台 献上男女生口三十人
貢白珠五千孔 青勾玉二枚
異文雑錦二十匹
政等は檄を以て台与を告諭す。
台与は倭の大夫率善中郎掖邪狗等
二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。
因って台に詣で、男女生口三十人を献上し、
白珠五千孔、青勾玉二枚、
異文雑錦二十匹を貢せり。




「台」は王の居る所。
「生口」は献上品の製造職人

距離、戸数→面積→距離の推定 本文@〜Gへ↑

注@ 平城付近一帯の帯方郡から韓国西岸を南下し南岸を東行して対馬へ渡るに最も近い巨済島に到る距離は約510` 7千余里
 510`÷7千余里=73b/1里
注A巨済島南端から対馬北端の久ノ下崎まで77`、
 対馬西海岸の最も近い地点迄は64`、千余里、
 1日行程77〜64`÷千余里= 77〜64b/1里
注B 対馬上県の西海岸+浅茅湾口+対馬下県の西海岸≒72`
 ∴ 1辺≒36`方4百余里
 36`÷4百余=90b/1里
注C 千余戸に対応する可住面積
注D 対馬海峡東水道≒50〜75`
 千余里50〜75`÷千余里=50〜75b/1里
注E 壱岐一辺≒18`
 方3百里18`÷3百里=60b/1里
注F 3千程の家に対応する可住面積
注G 壱岐〜東松浦半島西側入り江≒50`〜
 千余里 50`〜÷千余里=50b〜/1里

注H 4千余戸 対馬と壱岐を併せた面積以上
注I 東松浦半島西側〜伊都国・糸島水道≒37`
 陸行5百里 37`÷5百里=74b/1里
注J 千余戸 邪馬台国直轄領
注K 伊都国〜最も近い奴国の集落=百里
 奴国2万余戸 松浦国の5倍の面積
注L 伊都国〜最も近い不彌の集落=百里
注M 延喜式によれば、筑紫〜吉備児島=20日
注N 5万余戸 奴国の2.5倍の面積
注O 延喜式によれば、吉備児島〜京都=10日
注P 7万余戸 奴国+投馬国の面積
注Q 郡 →筑紫≒6千余里(直距離) ↑Q〜R
 筑紫→大和≒郡→筑紫
 ∴郡→大和=1万2千余里
注R 郡→会稽東冶=1万2千余里


目次

 邪馬台国の位置は様々な解釈がなされているが、ほとんど創作ともいえる恣意的な解釈が少なくない。
 これは水行と陸行の日数からの距離を感覚的な推定で決めていることから生じている。
 倭人条の日数から距離を推定するには、現代人の感性よりも、その時代に近い延喜式を参照したほうがよい。


 また方位を重視し、距離をほとんど無視する論もある。
 しかし、地図が不備な所を、海上は目視の範囲内、陸上は「草木繁茂し、行く人前を見ず」であっても人の通う範囲内で方位を測りそれを基準に旅したわけではない。
 海上は海流の影響、陸上は地形の影響で進むべき方向が目的地への方向と一致しないのが普通だからである。


 水先案内人や陸上の案内人に先導されて通ったところを、正確な方位で表すのは、古代人も現代人も人間の感覚では不可能であり、見通しのできる地点を測量し、それをつなぎ合わせることによって始めて集落や国々の関係位置(方位)が明らかにされる。

対馬海峡西水道の航路
 対馬海峡西水道の航路を釜山付近〜対馬としているものが多いが、ここを櫓櫂の船で渡るには海流の影響で巨済島〜対馬でなければならない。逆に対馬からの航路はやはり海流の影響で対馬〜釜山付近が妥当である。


松浦、伊都、那、不彌の位置
 卑弥呼に多くの賜り品を運んできた最初の使者悌儁は伊都の津に上陸している。
 糸島半島とその南の後背地一帯が伊都国である。

 当時糸島半島の付け根は水路であって唐津湾側と博多湾側は船で往来できた。
 詔書と戦旗のみを難升米に届けにきた二度目の使者張政はそこから陸路5百里離れた松浦国に上陸している。
 松浦国は九州北西部の北に突き出ている東松浦半島、西に突き出ている北松浦半島とその後背地一帯と比定されている。糸島半島方面へ向かうのに陸路を取ったということは東松浦半島西側、伊万里湾側のかなり奥へ着いたと推定される。ここで西と北に突き出ている半島の名称がそれぞれ北松浦半島、東松浦半島と右に90度回転した方位の名称がつけられていることも気にとめておく必要がある。


 奴国のエリアは那珂川流域一帯と比定されている。
 不彌国の位置を対馬から伊都国までの記述と同じように読みとれば奴国から百里であるが、伊都国〜奴国〜不彌国が2百里では戸数2万の奴国が点になってしまい疑問が生ずる。戸数4千の松浦国から戸数千の伊都国まで5百里あるのだから。


 ここで張政が「伊都国は郡使往来のとき常に駐まる所」と書いてあるとおりに解釈すれば疑問は氷解する。
 即ち、伊都国までは郡使が実際に旅した距離を記しているのであり、その先は駐所で倭国の地理を記している。百里は、旅行した距離ではなく国の集落間の距離である。
 投馬国、邪馬台国までも奴国や不彌国を通って行ったとは記していないし伊都国までのように観察描写もない。
 郡使が到着し駐まる伊都の津と投馬国、邪馬台国は水行であり、糸島水道から玄界灘へ出て投馬、邪馬台へ向かう航路があった解するのが最も合理的である。