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   南京新唱(抄) 會津 八一
       明治四十一年八月より大正十三年に至る

 南京(なんきゃう)。ここにては奈良を指していへり。「南都」といふに等し。
 これに対して京都を「北京」といふこと行はれたり。鹿持雅澄(カモチマサズミ)の『南京遺響』佐佐木信綱氏の『南京遺文』などいふ書あり。
 みな奈良を意味せり。ともに「ナンキン」とは読むべきにあらず。

春日野にて

かすがの に おしてる つき の ほがらかに
               あき の ゆふべ と なり に ける かも

 春日野・かすがの。若草山の麓より西の方一帯の平地をいふ。古来国文学の上にて思出深き名にて、今も風趣豊かなる実景なり。
 おしてる・照らすといふことを、さらに意味を強めていへり。
 この歌を作者の筆跡のまま石に()りたる碑は、春日野の一部にて古来「とぶひ野」といふあたりに立ちてあり。
 『古今集』に「かすが野の飛火の野守(のもり)いでて見よ今いく日ありて若菜摘みてむ」といふ歌あり。そのあたりなり。これを見ん人は、その位置を春日神社の社務所にて確めらるべし。

かすがの の みくさ をり しき ふす しか の
                 つの さへ さやに てる つくよ かも

 みくさ・「み」は接頭語。草。
 さやに・さやかに。分明に。
 つくよ・つきよ。月夜。「よひづくよ」「ほしづくよ」「さくらづくよ」などあり。

うちふして もの もふ くさ の まくらべ を
               あした の しか の むれ わたり つつ

 うちふして・「うち」は接頭語。次に来る語を強む。
 ものもふ・物を思ふ。物思ひす。

つの かる と しか おふ ひと は おほてら の
              むね ふき やぶる かぜ に かも にる

 つのかると・「かる」は「刈る」。
 鹿は本来柔和の獣なれども、秋()けて恋愛の時期に入れば、牡はやや粗暴となり、時にはその角を以て人畜を害することあり。
 これを恐れて(あらかじ)め之を一所に追ひ集めて、その角を伐るに春日神社の行事あり。この行事に漏れて、角ありて徘徊するものを誘ひ集め、捕へてその角を伐ること行はる。ある日奈良公園にて散歩中に之に()ひし作者は、その伐り方の(はなは)だ手荒なるを見て、やや鹿に同情したる気分にて、かく詠めるなり。
 むね・棟。

こがくれて あらそふ らしき さをしか の
             つの の ひびき に よ は くだち つつ

 あらそふ・牝を争ひて相闘ふなり。時としては、一頭乃至(ないし)数頭の牝鹿(めじか)を独占せんとて、牡鹿(おじか)(たがひ)に角を以て搏ち合ふなり。
 その音春日野の夜の闇を貫きて十四五メートルの彼方(かはた)にも聞ゆ。
 さをしか・牡鹿。「さ」は接頭語。
 「小男鹿」または「棹鹿」など宛字(あてじ)するは穏かならず。
 よはくだちつつ・「くだつ」とは「下る」「傾く」の意。
 夜のくだつとは、更け行くをいふ。
 「つつ」といふ助詞は、同じ動作の繰返して行はるるに(もち)ゐる。
 現代語にて継続の意味に用ゐるとは同じからず。

うらみ わび たち あかしたる さをしか の
              もゆる まなこ に あき の かぜ ふく

 わぶ・思ひわづらふ。鹿の心を擬人法にていへるなり。

かすがの に ふれる しらゆき あす の ごと
              けぬ べく われ は いにしへ おもほゆ

 あすのごと・「ごと」は「如く」。明日にもならばといふこと。
 けぬべく・消えなんばかりに。雪は明日にも消ゆべし。われも消え入らんばかりの心にて、上代のことを思ふといふなり。

もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の
                 ねむり しづけき はる の ゆき かな

 ふぢ・藤。春日山のほとりには、杉の古木多く、それに(まと)へる藤にも老木多し。
 よる・倚る。よりかかる。身を寄す。

をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
               ながるる つきひ とどめ かねつ も

 をぐさ・「を」は接頭語。ただ「草」といふに同じ。
 しか・鹿。上下の(あご)を左右にゆるく噛み合せて草を食ふ。その顎の暫くも止まざる如く、歳月は流れ去るといふに思ひ合せて詠めり。
 『万葉集』の歌人は獣の同じ習性を「春の野に草食む駒の口やまず()を忍ぶらむ家の子ろはも」など云へり。また『万葉集』の鹿は、ただ里遠く木隠れて鳴く本能の姿なりしに、藤原時代に入れば、(たちま)ち神格を帯びて記録に現はるるものあり。
 しかるに此の集に見るところの鹿は、往々にして社頭の行人(かうじん)の心に似たるものを帯び(きた)れるが如し。

興福寺をおもふ

はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり
              ほとけ の には に はな さく らし も

 興福寺・法相宗(ほっさうしゅう)三大本山の一。藤原不比等(ふひと)が和銅三年七一〇厩坂寺(ウマサカデラ)をここに移したるに始まり、藤原氏の氏寺として、歴代の官寺たる東大寺と対峙(たいじ)して二大勢力の一となり、遂には堂塔の数も百宇を超ゆるに及べりといふ。中世以後には僧兵を蓄へて武威を張り、或は春日の神輿(みこし)を擁して朝廷に強訴(がうそ)し、或は比叡山、多武峯(たふのみね)等と相攻伐(あひこうばつ)し、その間兵火に(かか)ることも(しばしば)なりしも、従つて近畿の最大勢力となり、嘉吉(かきつ)元年一四四一に記録せるこの寺の『官務牒疏(てふそ)』によれば、山城、大和、近江、摂津、伊賀の五国にわたり、二百数十の社寺の上に統御の権を握りしが、享保(きゃうほう)二年一七一七金堂(こんだう)、西金堂、講堂、南円堂が罹災(りさい)して伽藍(がらん)の中枢を失ひ、明治に入りては諸制度の一変のために全く衰弱に陥れり。
 その五重塔と東金堂とが、今も奈良市の景観の中心を成せるは、真に多とすべきも、その建立(こんりふ)は室町時代を(さかのぼ)るものにあらず。
 これより古きものには、北円堂と三重塔とがあれど、これ等もまた、鎌倉時代を上るものにあらざるのみならず、観光者にしてその存在に注意するものまた少し。
 ひとり観音霊場西国第二番の札所として、わづかに徳川初期に再興したる南円堂に(さい)するものあるのみ。
 ただ境内に桜樹多く、ことに「いにしへの奈良の都の八重桜」と称する一株の老木は、この寺の地つづきなる学芸大学の庭上にあり。
 桜には千年の古木あるべくもあらねど、この名を聞きたるのみにても感想また多かるべし。
 『大和名所図会』には当時に於ける樹姿を描けり。
 そもそも天平時代に於けるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、(すべか)く先づ『続日本紀(しょくにほんぎ)』と『万葉集』とを読み、(あは)あはせて『興福寺流記(こうふくじるき)』または『諸寺縁起集』中のこの寺の条を読むべし。
 まことに咲く花の匂ふが如きものありしを知るべし。

猿沢池にて

わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり
              いけ を めぐりぬ かさ さし ながら

 猿沢池・興福寺の南にあり。
 この池の岸に「釆女祠(うねめし)」といふものあり。そのほとりに「衣掛柳」キヌカケヤナギといふものあり。
 一たび平城京のさる天皇の寵ちようを得て、やがてまたこれを失ひしを悲みて、身をこの池に投じたる一人の釆女の伝説あり。
 その天皇の歌に「猿沢の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし」、また柿本人麿の歌に「吾妹子わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」など『枕草子』『大和物語』『南都巡礼記』その他にも見ゆ。しかるに、ひとり『七大寺巡礼私記』及び『諸寺縁起集』に収めたる『興福寺縁起』にては、これを桓武天皇の三皇子の皇位継承に伴ふ葛藤によりて生じたる悲劇とし、水死したるものを平城天皇の皇后なりとせり。
 また「猿沢」といふ名につきて『和州旧跡幽考』などには、仏典にいふところの天竺てんぢくの「獼猴池」ミゴウチといふものに摸したる命名の如くにいへど、古来春日山には野猿多く、今日にても、群をなして公園に近き民家の裏庭の果樹を荒らすことさへ珍しからざれば、遠き印度いんどにまで、その起源を求むる必要はなかるべきなり。

奈良博物館にて

くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
                かげ うごかして かぜ わたる みゆ

 奈良博物館・この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少くも一時間を送らるることを望む。
 上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり。
 やうらく・瓔珞。本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾くびかざりをいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへるなり。
 されどこの歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠みたるものなるに、歌集刊行の際、草稿の整理を誤りて、ここに出せるなり。
 それにつきて『渾斎こんさい随筆』に一文を草しおけり。

くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の
                 あさき みどり に はる たつ らし も

 せにそふあし・背に副ふ蘆。所謂いはゆる「百済くだら観音」の光背の支柱を、蘆の茎の形に刻めるものをいへり。
 その支柱に微かすかに残れる白緑びやくろくの彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇よみがへり出で来らむことを、希望を込めて詠めるなり。

ほほゑみて うつつごころ に あり たたす
               くだらぼとけ に しく ものぞ な

 ほほゑみて・一種静かなる微笑を(たた)たたへたり。後に法隆寺夢殿にて詠める歌にても、この一語あり。参照されたし。
 うつつごころ・うつつとも夢ともなき心地、有無の間に縹渺たる心境、かかる意に作者はこの語を用ゐたり。この歌、今にては多少世上に知られ、ほぼ作者のこめたる意味にて解せられ居るが如きも、古人は「正心」、「正気」「本心」の意味にのみこの語を用ゐたるが如し。

 くだらぼとけ・以上二首は、法隆寺よりその頃久しく出陳して、館のホールの中央なる大ケースの正面に陳列してありし俗称「百済観音」クダラクワンオンを詠めるなり。されど、この像の法隆寺に於ける存在は、文献の上にては、遠き上代には遡りがたし。
 恐らく中古に至りて、衰亡せる他の寺より––たとへば玉虫厨子たまむしのずしなどの如く––移入されしものなるべし。元禄、享保の頃、法隆寺の学僧良訓が手録せる『良訓補忘集』及び同じ人の『古今一陽集』には、ともにただ異国よりの将来にして伝歴明かならざるよしを記せるのみにて、特に「百済より」といふことはあらず。
 依つて思ふに、「百済観音」の名が、一般的に固定するに至りしは、恐らく明治時代の中期以後なるべく、作者のこの歌も、或は何程かこの固定に貢献し居るやも知るべからず。ことに亡友浜田青陵君が、大正十五年一九二六に出したる美術随筆集を『百済観音』と名づけ、その赤き表紙に、作者の自筆なるこの歌を金文字にて刷り込みたることなど、この場合として思ひ出さるることなり。
 また作者は、かつてこの像の台座の底面を見たることありしに、「虚空蔵」の三字が達筆に墨書されてありき。
 これは法輪寺にてこの像と殆ど同型、同持物の菩薩像を、同名にて呼び来れると同じく、中古には、虚空蔵菩薩を中心とせる会式の本尊として、便宜上、法隆寺にても通用したることありしなるべし。
 されど倉庫の中より、別に発見されたる、まさしくこの像の宝冠と見るべきものに、阿弥陀の化仏ケブツが透彫すかしぼりに刻まれてあるは、虚空蔵にあらずして観音なることの一確証なり。
 化仏トハ宝冠、宝髻ほうけい、マタハ光背ナドニ、小形の像ノ取リ附ケラレタルヲイフ。

つと いれば あした の かべ に たち ならぶ
                かの せうだい の だいぼさつ たち

 つといれば・「つと」とは卒然としてといふに同じ。
 俳諧の季題に「つと入り」といふことあるも、ここは何等関係なし。
 せうだい・招提。唐招提寺を指していへり。
 作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁あへきを背にして、唐招提寺のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗る偉観を呈したり。

はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
                をゆび の うれ に ほの しらす らし

 をゆび・「おゆび」といはば「お」は接頭語にて、ただ「ゆび」といふに同じきも、「をゆび」は小指なり。
 小指の末端は最も鋭敏なるものなればかく詠めるなり。
 うれ・末端。
 ほのしらすらし・ほのかに認識したまふなるべしといふなり。
 『万葉集』には「ほの聞く」といふ語あり。中古には「ほの見る」「ほの聞く」「ほの思ふ」などいへる例あれば「ほの知る」とつづけたるなり。
 「しらす」は「しる」の敬称。「らし」は推量。

こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の
               だいまんだら に あぶ の はね うつ

 こんりよう・紺綾。紺色の綾地あやぢに金銀泥にて描きたる縦広一丈にあまる大曼荼羅だいまんだら。金剛界、胎蔵界の二幅あり。
 空海七七四-八三五が唐土より齎もたらすところといふ。
 高市たけち郡高取町子島寺の出陳なりき。

高畑にて

たびびと の め に いたき まで みどり なる
               ついぢ の ひま の なばたけ の いろ

 高畑・たかはたけ。奈良市の町名。東大寺より南方に当る。
 新薬師寺のある所。
 ついぢ・「築き地」の転。また「ついひぢ」「ついがき」などといふ。土を築き上げ、その中に屋根瓦、石塊、木柱などを塗り込めて作れる塀。「ひま」とは崩れたる間隙。『枕草子』には「人にあなづらるるもの、ついぢのくづれ」、『伊勢物語』には「ついひぢの崩れより通ひけり」、『古今著聞集ここんちよもんじふ』には「ついぢの上に瞿麦ナデシコをおびただしく植ゑられたり」など諸書にいろいろの例ありて聯想れんさう豊なり。

かうやくし わが をろがむ と のき ひくき
             ひる の ちまた を なづさひ ゆく も

 のきひくき・この辺は、奈良にても、やや場末なれば、軒低き家多きなり。
 なづさふ・なつかしむ。

新薬師寺の金堂にて

たびびと に ひらく みだう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり

 新薬師寺・高畑町にあり。古来東大寺の末寺たり。
 西の京に薬師寺あるを以て「新」の字を加へたるなり。
 これを混同する人多けれども全く別寺なり。聖武天皇の眼疾平癒のために、天平十九年七四七光明皇后の建つるところ。
 天平勝宝二年七五〇寺領を定めて五百町を寄せ、住僧百余人に及べる一伽藍なりしが、宝亀ほうき十一年七八〇雷火によりて、一日にしてその金堂コンダウ、講堂、西塔サイタフを失へり。
 今この寺にて金堂と称するものは、その位置、構造、規模などより考ふるに、決して最初の金堂にはあらずして、わづかに残存せる一棟、たとへば食堂ジキダウなどにてありしが如し。
 また今の金堂にて、本尊薬師如来を囲繞せる十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃滅せる岩淵寺イハブチデラより移入せりといふ伝説あり。
 しかるにこの寺の別堂に近頃まで安置せる「香薬師かうやくし」の立像りふざうは、その様式、これ等の神将群よりも更に古し。
 いづれも本末を顛倒てんたうせるものの如し。またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪ひ去られて、その寺の東金堂の壇上に陳列され居りしことは、保延ほうえん六年一一四〇の『七大寺巡礼私記』に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承四年一一八〇の罹災によりて堂とともに全滅して、今また見るべからず。諸仏の運命も、その果敢はかなきこと、人間界に似たりといふべきなり。
 しとみ・蔀。後世にいたりて造りつけたるものなるべし。平素は密閉して堂内は暗黒なれども、たまたま美術行脚あんぎやの人々など来りて乞はるる時にのみ、寺僧は之を開きて暫く外光を入るるなり。
 めきら・「迷企羅」の漢字を宛つれども、実はその漢字には意味なく、梵名ぼんめいの原音の宛て字なり。薬師如来に従属する十二の神将の一。ただしこの寺の十二神将は、その製作、日本に現存する神将像中最も古く、したがひて、その形式は後世に固定せるいづれの儀軌ぎきにも吻合ふんがふせざるが故ゆゑに、凡おほよそかかる場合には一一の名称は、その寺にて従来称となへ来りしところに従ふを穏当とす。しかるに作者がこの歌を詠じたる時には、本尊の右側に立ちて、太刀を抜き持ち、口を開きて大喝せるさまにて、怒髪の逆立したるこの一体には、寺にては、久しくその脚下に「迷企羅大将」の名標を添へおきたりしかば、作者はその意を尊重して、かくは詠じたるなり。
 然しかるにその後、現住職福岡師の勉強にて、この群像は最も『恵什鈔けいじふせう』の儀軌に近きことを発見し、今は同鈔に従ひて、一一の名称を改め、堂内の配列をも変へ居るなり。

 特に初心の読者のために述べんに、ここに「儀軌」といへるは、礼拝らいはい祈祷の対象として仏像の製作をなし、これを厳飾し、または仏具の配列など為さんとするに当り、それぞれ特殊の形式に従はしむるやうに規定せるものをいふ。されども、その儀軌にも種類ありて、必ずしも互に一致せざるのみにあらず、いづれにするも、平安朝初期に密教が我が国に渡来せる後に、やうやく盛に行はれ来りしことなれば、それ以前の古像を、之を以て律することは、この歌の作者の躊躇ちうちよせんとするところなり。
 なほこの書の中「軍荼利夜叉明王ぐんだりやしやみやうわう「百済観音」「九品くほんノ弥陀みだ」「中宮寺本尊」の条に儀軌の一端に触れたり。
 それらによりて、儀軌といふものをよく理解せらるべし。

香薬師を拝して

みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
                やまとくにばら かすみて ある らし

 かうやくし・香薬師。奈良時代前期と思おぼしき形式を、その製作の細部に有する小像にて、傑作の名高かりしを、昭和十八年一九四三第三回目の盗難に罹りたるままにて、遂に再び世に出で来らず。
 惜しみても余りあり。
 正倉院に伝来せる天平勝宝八歳七五六の『東大寺定界図』に「新薬師寺堂」の東北に当る丘陵地帯に「香山堂」の名あり。おもふに、わが「香薬師」は、本来この堂に祀れるを、何故なにゆゑかこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一字を仏名の上に留めたるなるべく、寺そのものも、この像あるがために、『延暦僧録』エンリヤクソウロクまたは『東大寺要録』その他に見ゆる如く「香薬寺」といふ別名を得るに至りしなるべし。
 『延暦僧録』に曰いはく「皇后マタ香薬寺九間ノ仏殿ヲ造ル。七仏浄土七躯を造リ、請しやうジテ殿中ニ在リ。塔二区ヲ造リ東西ニ相対ス。鐘一口いつくヲ鋳ル。住僧百余」と。亦た以て今日の諸堂の衰微と甚だ相似ざるものなりしことを知るべし。
 また「香山」の二字は、或は「カグヤマ」と和様に読むべきこともあれど、ここにては「カウゼン」を正しとす。ヒマラヤ山脈の中にて、今は「カイラーサ山」と称するものを指して、仏典にては「香酔山」又は「香山」と書き、また、かの『梁塵秘抄りやうぢんひせう』の中にて「香山浄土」または「香山」と書けるは、共にこれなり。
 うつらまなこ・何所どこを見るともなく、何を思ふともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の最も著しき特色なり。されど「うつらまなこ」といふ語は、さきに出でし「うつつごころ」とともに、古人に用例あるを知らず。或はこの歌の作者の造語ならむ。

ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の
               みそなはす とも あらぬ さびしさ

 あふぎみれども・高さ二尺四寸の立像にて、決して高しとはいふべからざるも、薬師堂の正面の壇上に、やや高く台座を据ゑたれば、「仰ぎ見る」とは詠めるなり。
 この歌の作者自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり。
 嶋中雄作君の建つるところ。

高円山をのぞみて

あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に
                ゆきて しめさむ いも も あら なく に

 高円山・たかまどやま。春日山の南、新薬師寺の東にあたる小丘。
 聖武天皇の離宮ありしところ。後々まで萩の名所となれり。『万葉集』に「宮人の袖つけ衣ごろも秋萩に匂ひよろしき高円の宮」「わが衣摺れるにはあらず高円の野べ行きぬれば萩の摺れるぞ」などあり。
 なほ後世この山の萩の歌多し。
 そでにはすらじ・奈良時代には植物の花葉をそのまま衣服に摺りつけて模様とすること行はれたり。これを「はなすりごろも」また「すりごろも」などいふ。

滝坂にて

かき の み を になひて くだる むらびと に
                いくたび あひし たきさか の みち

 滝坂・『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に毛氈もうせんを敷きて、小宴を開くの図を出し、その上に「千里ノ楓林ふうりんハ煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟アリ」と題せり。文字の誇張はさることながら、この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。
 くだる・石切峠より下り来るなり。

まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
               くひ もて ゆきし たきさか の みち

 まめがき・字書によれば「葡萄柿」「ころ柿」など、みな「まめがき」といふ別名あるよし。されど、ここに詠みたるは、極めて小粒の柿といふまでのことなり。すなはち「豆本」「豆電球」の「豆」のごとし。

かけ おちて いは の した なる くさむら の
               つち と なり けむ ほとけ かなし も

 つちとなりけむ・この歌はかかる仏もあるべしと想像して詠みしなるも俗に「寝仏」と名付けて、路傍に顛落てんらくして、そのまま横たはり居るものもあるなり。

たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて
               きよき かはせ に あそびて ゆかな

 たきさかの・この歌偶然にも「カ行」の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」一あり。幾分音調を助け居るが如し。後に法隆寺金堂の扉の音を詠みたる歌の音調の説明を参照すべし。
 ゆかな・「な」は希望の助辞。

ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の
                 あかき はさみ に あき の かぜ ふく

 はにふ・埴はにのあるところ。
 あかきはさみ・胴体小さく、鋏のみ赤き沢蟹は、川岸を駈けめぐること神速にして飛ぶが如し。

地獄谷にて

いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
               まつ の はやし に めじろ なく なり

 地獄谷・滝坂より進みて石切峠の急坂を攀ぢ、左側に石仏群を見る。久寿二年一一五五の刻銘、保元ほうげん二年一一五七の墨書あり。
 それより東南に小径を進むこと三百メートルに地獄谷石窟あり。
 その壁上に六体の仏菩薩像を線刻し、もと彩色を施し、所々に金箔を押したる痕跡あり。藤原時代の作と見らる。
 『沙石集しやせきしふ一二七九『春日御流記かすがごりうき』の二書には同文にて、解脱上人ゲダツシヤウニンの弟子なる璋円しやうゑんは死後魔道に堕ちて、その霊が、或る女に憑きて、その口を藉りて云はしめし言葉として、春日明神は、春日野の下に地獄を構へて、毎朝亡者まうじやの口に清水を灑そそぎ入れて、正念しやうねんに就かしめ、大乗だいじようの要文えうもんを唱へ聞かせて得脱とくだつせしめらるるよしを記せり。
 されど、これを以て「地獄谷」の名称の起源となすとも、今の石窟中の諸像の製作時代には関するところ無かるべし。

東大寺にて

おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
              おほき ほとけ は あまたらしたり

 東大寺・大仏殿は天平十七年七四五聖武天皇によりて奈良の地にて起工。治承四年一一八〇平重衡によりて焼失。建久六年一一九五源頼朝一一四七-一一九九大檀越だいだんをつとなりて再建。永禄十年一五六七三好、松永の兵火にて焼かれ、宝永五年一七〇八復興落成せり。
 作者が初めてこの寺に詣でたるは、明治四十一年一九〇八あたかも大修理の最中なりしかば、境内には木石の山を築き、鉋鋸はうきよの響ひびき耳を聾ろうし、人夫車馬の来往織るが如く、危あやふくその中を縫ひて進めば、大仏の正面にはいと高き足場を組み上げ、その上より参拝せしめられたり。
 あまたらし・盧舎那仏るしやなぶつ即ち大仏は、宇宙に遍満へんまんすとも、或は宇宙と大さを同おなじうすともいふべし。
 これを「あまたらす」といへり。
 「たらす」とは「充足す」「充実す」の意なり。
 今の大仏は従来幾度か火難に遇ひて、惜しむべし上半身は後世の補修なれども、下半身は原作のままにしてことに座下の蓮弁には、一片ごとに天平のままなる三千世界図の流麗なる線刻あり。
 すなはち『梵網経ぼんまうきやう』に説ける宇宙の図にして、大仏は実にかくの如き世界の、無数に集合せる上に、安坐することを、象徴的に示せるなり。仏教はもとより広汎くわうはん深遠なるものにて、その大綱たいかうを知るさへ、決して容易にあらざれども、奈良地方を巡遊して、その美術的遺品を数をつくして心解せんとするほどの人々は、たとへ年少初学の士なりとも、志を深くし、適当なる指導者を得て、予め相応なる知識的準備をなすを必要とす。
 その準備の深きに従ひて、収穫また従つて多かるべし。『梵網経』に曰く
「コノ時、盧舎那仏即チ大ニ歓喜シ中略、諸もろもろノ大衆ニ示スラク、是ノ諸ノ仏子ヨ諦聴シ、善思シテ、修行セヨ。我已すでニ百阿僧祇却ひやくあそうぎこふ、心地しんちヲ修行シ、之ヲ以テ因トナシ、初テ凡夫ヲ捨テ、等正覚とうしやうがくヲ成シ、号して盧舎那トナス。蓮華台蔵世界海れんげたいざうせかいかいニ住シ、その台周遍あまねク千葉アリ、一葉ハ一世界ニシテ、千世界トナル。我化シテ千釈迦トナリ、千世界ニ拠リ、後ニ一葉世界ニ就キテ、復タ百億ノ須弥山しゆみせん、百億ノ日月、百億ノ四天下してんげ、百億ノ南閻浮提なんえんぶだいアリ。百億ノ菩薩釈迦、百億ノ菩提樹下ニ坐シ、オノオノ汝ガ問フ所ノ菩提薩た土ヘンに垂ぼだいさつたノ心地ヲ説キ、ソノ余ノ九百九十九釈迦ハ、オノオノ千百億ノ釈迦ヲ現ズルコト、マタマタ是かくノ如シ。千華上ノ仏ハ、是レ吾ガ化身ナリ。千百億ノ釈迦ハ、是レ千釈迦ノ化身ニシテ、吾已ニ本原ニシテ、オノオノ盧舎那仏トナル」とあり。またその下巻には「我今盧舎那、方まさニ蓮華台に坐シ、周匝しうさふ千華ノ上、マタ千ノ釈迦ヲ現ジ、一華百億国、一国一釈迦ニシテ、オノオノ菩提樹下ニ坐シ、一時仏道ヲ成ズ」とあり。
 また作者が自筆のままにこの歌を刻したる石碑は、大仏殿の中門の西に当る木立の中にあり。高さ一丈五尺。
 嶋中鵬二氏の建立するところ。

あまたたび この ひろまへ に めぐり きて
              たちたる われ ぞ しる や みほとけ

 ひろまへ・神社仏閣の前庭。

戒壇院をいでて

びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
             まなこ に みつつ あき の の を ゆく

 戒壇院・聖武天皇七〇一-七五六の招請により、天平勝宝六年七五四に我国に渡来せる唐僧鑑真ガンジンは、翌年大仏殿前に戒壇を築きて、天皇、皇后、以下百官、僧俗に戒律を授け、その後大仏殿の西方なる現在の地に之を移せり。しかるに、この院は、幾度か火災に遇ひ、現在の堂宇は、享保十年一七二五の再建立なり。
 堂内の中央なる土壇の上に五重の小塔あり。
 その中に釈迦、多宝の二躯の坐像あり。
 共に満身に罹災の痕あとを示せり。然るに東大寺の僧凝然の『三国仏法伝通縁起』一三一一は最初の戒壇を談かたりて「立ツル所ノ戒場ニ三重ノ壇アリ。大乗菩薩三聚浄戒さんじゆじやうかいを表スル故ニ、第三重ニ多宝塔ヲ安ンズ。塔中ニ釈迦多宝二仏像ヲ安ンズ、一乗深妙理智冥合いちじようじんめうりちめいがふノ相さうを表ハス」といへり。
 ことに壇の四隅には、最初は天平勝宝七年七五五に成りし鋳銅の四天王像を安置したりといふ。また壇を築ける土は、天竺、唐土、日本のものを和して用ゐたれば、之を嘗むれば、その味、天竺の大那爛陀寺ダイナランダジのものの如くなりしといふ。
 びるばくしや・広目天くわうもくてんの梵名Virupaksauと六字目のaの上に「-」、sの下に「・」。「毘楼博叉」又は「毘留羅叉」の漢字を宛つ。
 まゆねよせたる・両の眉を寄せて、遥かなる彼方を見入るが如き目つきをなせり。しかるに奈良に住める一部の人々の中には、この像の目つきは、甚だこの歌の作者のそれに似たりと評する者あれど、果して如何いかん。これにつきて『渾斎随筆』に記せり。

東大寺懐古

おほてら の ほとけ の かぎり ひともして
             よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき

 懐古・『続日本紀』によれば「天平十八年七四六十月、天皇、太上だいじやう天皇、皇后、金鐘寺こんしゆじニ行幸シ、燈ヲ燃シテ盧舎那仏ニ供養シ、仏ノ前後ノ燈一万五千七百余坏はいナリ。夜一更いつかうニ至ルトキ、数千ノ僧ヲシテ、脂燭しそくヲささ敬の下に手ゲテ賛歎供養シテ、仏ヲ繞めぐルコト三匝さんさふセシメ、三更ニ至リテ宮ニ還かへル」また天平勝宝六年七五四正月の条にも「東大寺ニ行幸ス。燈ヲ燃スコト二万ナリ」とあり。
 ここに天皇とは聖武、太上天皇とは元正、皇后とは光明をさせり。
 また金鐘寺とは東大寺の前称なり。

ほとけのかぎり・寺中のいやしくもあらゆる諸仏、諸菩薩、諸天の像にも悉ことごとく献燈せりといふこと。

おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
              ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける

 はたほこ・『万葉集』には「幡幢」、『和名類聚鈔わみやうるいじゆせう』には「宝幢」の漢字を宛てたるも、作者はむしろ『東大寺要録』の如く「幡鉾」の二字を宛てむとす。
 即ち鉾の形をなせる竿に幡ハタを取りつけたるものなればなり。但ただし幡には、金属製なるも、麻製なるも、また絹製なるもあり、従つて彫鏤てうるせるもの、描染せるもの、刺繍せるものもありしなり。
 かの天平十五年七四三の東大寺大仏鋳造発願文ほつぐわんもんに「虹幡」「雲幡」の語あるは、この類の色彩の華やかなる物をいへるなるべく、ことに『東大寺要録』には天平勝宝四年 七五二車駕しやが親臨の条及びその他に「繍幡」の語を用ゐること数回に及べり。即ちこれ作者の謂ふところの、刺繍の紋様ある幡鉾なり。
 また『東大寺要録』には「繍観自在菩薩像三鋪」、『唐大和上東征伝たうだいわじやうとうせいでん』には「繍千手像一鋪」あり。空海の『性霊集しやうりやうしふ』に「荒城大夫奉造幡上仏像願文一首」を載せ、その中に「宝幡ノ上ニ十方の仏菩薩神王等ノ像六十躯ヲ図シ奉ル」の句あり。

奈良坂にて

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
                 こさめ ながるる はる は き に けり

 ならざか・昔は平城京大内裏だいだいりの北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」ウタヒメゴエといひ、もとの般若寺越はんにやじごえの坂を「ならざか」といふこととなれり。
 いしのほとけ・奈良坂の上り口の右側の路傍に俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年一五〇九四月の銘あり。
 その表情笑ふが如く、また泣くが如し。
 またこの像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に「朝日観音」といふものあるに遥かに相対するが如し。

浄瑠璃寺にて

じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
              はる の やまべ を ひとり ゆく なり

 浄瑠璃寺・一名九体寺クタイジ。山城国相楽郡さうらくぐん当尾たうのを村字西小にしをにあり。天元五年九八二多田満仲ただのみつなかの創基、永承二年一〇四七義明の再興と称す。寺名「九体」といふは阿弥陀を想はしめ、「浄瑠璃」の薬師を想はしむると一致せず。
 その間に寺史の変遷を暗示せるなり。
 じやうるり・仏典によれば、東方十恒河沙じふごうがしやの里程に薬師瑠璃光如来やくしるりくわうによらいの浄土あり。これを浄瑠璃世界といひ、これを以て西方阿弥陀如来の極楽世界に対す。
 「恒河」とは即ちガンジス河をいふ。
 その河底の砂粒の限りなきが如き大数を現さんとする表現なり。

かれ わたる いけ の おもて の あし の ま に
                  かげ うちひたし くるる たふ かな

 たふ・塔。藤原時代の三重塔あり。檜皮葺ひはだぶき。治承二年一一七八一条大宮より移建せるもの。この塔内に薬師如来の坐像あり。
 あしのま・蘆の間。

びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に
                  くれなゐ もゆる はうさうげ かな

 はうさうげ・宝相華。図案化したる一種の華麗なる植物文様(もんやう)
 ただしこの歌を詠みし後、数年を経て、作者はふたたびこの寺に至りて堂の床に匍ふやうにして窺うかがひ見るに、この毘沙門像の裾の裏には、この歌にいへる如き鮮紅色の宝相華は見当らざりき。見たる如く思ひ違ひて、帰り来りて後にかくは詠みなししものと見ゆ。

平城宮址の大極芝にて

はたなか の かれたる しば に たつ ひと の
                  うごく とも なし もの もふ らし も

 平城宮址・元明天皇の和銅三年七一〇都を平城京に遷うつし、皇居を平城宮といふ。
 大黒芝・だいこくのしば。もとの大極殿の址あと。「大極」といふことばは里人には耳遠くなりて、いつしか「大黒」となれるなり。一面に芝草を植ゑたり。
 ものもふ・物思ふの略。

はたなか に まひ てり たらす ひとむら の
               かれたる くさ に たち なげく かな

 まひてりたらす・「ま」は接頭語。充分に日光の照らせりといふこと。作者はこの後「平城宮址懐古」七首あり。
 かかげて作者の『全歌集』にあり。
 参読してこの史蹟しせきの余情を偲ぶべし。

海竜王寺にて

しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
               はしら の まそほ かべ に ながれむ

 海竜王寺・別名を「角寺」スミデラ「隅院」スミノヰンなどといふ。
 天平三年七三一光明皇后の立願りふぐわんにて建立。玄ばう日ヘンに「方」げんばうは僧正義淵ぎえんの門より出で、眉目秀麗音声清朗にして学才あり。
 霊亀れいき二年七一六唐に赴おもむき、智周ちしうより法相ほつさうの蘊奥うんあうを受け、皇帝玄宗より紫色の袈裟けさを贈られ、経論章疏きやうろんしやうそ五千余巻を齎して、天平六年七三四得々として帰朝し、聖武天皇及び皇后の殊遇を受け、内道場に出入し、この海竜王寺に居れり。
 当時彼のために企てられしこの寺は、金堂、東西金堂、五重小塔、講堂、経蔵きやうざう、鐘楼、三面僧房、食堂、浴室等を悉く備へたりと称せらるるも、今日にしては、その最初の西金堂と鎌倉時代再建の経蔵とを遺のこせるのみなるは、まことに甚しき凋落てうらくといふべし。
 今は真言律宗。
しぐれのあめ・後世にては、ただ「しぐれ」とのみいふを、『万葉集』だけにても、この語を含みたる歌は十数首に及べるが、作者は暢びやかなるこの語の音調を好めり。
 ことに天平十一年七三九十月、皇后主催の維摩会ユヰマヱに、唐楽たうがく、高麗楽こまがくを供養したるのち、市原王いちはらのおほきみ、忍坂王オサカノオホギミが弾ける七絃琴に合せて、田口家守たぐちのやかもり、河辺東人かはべのあづまひと等数人が歌ひたる仏前の唱歌しやうがに「時雨のあめ間なくな降りそ紅に匂へる山の散らまく惜しも」といへるを、作者は愛唱すること久しかりしかば、図らずも、その皇后に縁浅からざるこの寺に臨みて詠める歌は、おのづから、その余韻を帯び来りて、恰もこれに唱和せるが如きを覚ゆ。されど歌材は、あくまでも、眼前の実情なり。
 また実朝の『金槐集きんくわいしふ』には「いたくなふりそ」の句二度まで見ゆるも、作者の態度は、著者とは互に同じからず。
 まそほ・真赭。「ま」は接頭語。赭色の顔料。建築の塗料とす。
 『万葉集』には「仏ホトケ造るまそほ足らずば水たまる池田の朝臣アソが鼻の上を掘れ」などいひ、「まそほ」には「真朱」の二字を宛てたり。

ふるてら の はしら に のこる たびびと の
               な を よみ ゆけど しる ひと も なし

 はしらにのこる・作者往年微酔を帯びて東大寺の傍かたはらを過ぎ、その廻廊の白壁に鉛筆を以て文字一行を題して去りしが如し。
 還かへつて自みづから之を記憶せざりしに、十数年にして人ありて之を見たりと称す。信ぜずしてその文を質ただせば、乃すなはち曰く「秋艸道人しうさうだうじん酔ひてこの下を過ぐ」と。これを聞きて苦笑これを久しくしたるも、今は洗ひ去られてまたその痕跡なし。

法華寺本尊十一面観音

ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
               あひみる ごとく あかき くちびる

 法華寺本尊・この寺は、藤原不比等六五九-七二〇の歿後、その次女なる光明皇后七〇一-七六〇が父の遺宅を移して寺となしたるに始まり、天平十三年七四一聖武天皇が東大寺を「総国分寺」とし、「四天王護国ノ寺」と名づけたるに対して、皇后は之を「総国分尼寺にじ」とし、「法華滅罪ノ寺」と名づけたり。この上代に於ける一女人として、その意気の雄邁ゆうまいなるに感ぜざるを得ず。然るに、次第に寺運傾き、鎌倉時代に至りて嵯峨の二尊院の湛空たんくう一一七六-一二五三の修理、西大寺の叡尊えいそん一二〇一-一二九六の復興を経たるも、乾元けんげん二年一三〇三の記録には、すでに「棟破レテ甍いらかアラハナリ。壇崩レテ扉傾ク」とあり。
 しかして応永十五年一四〇八には西塔炎上し、その後興亡二百年の末、堂一宇、塔一基のみとなり果てたるに、今の本堂は、もとの金堂の余材を以て、豊臣秀頼が生母淀君の菩提のために、慶長六年一六〇一片桐且元に命じて再興せしめたるものなりとて、欄杆らんかんの擬宝珠ぎぼしにその刻文あり。創建当時の俤おもかげとては、少数の国宝と、庭前に散在する一々の残礎とによりて空しく之を偲ぶべきのみ。
 ただ本尊十一面観音ありて、今もこの寺の名をして高からしむ。
 依つて想ふに、ここに録したる四首の歌は、この像を天平盛期の製作とし、ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、これらの甘美なる伝説に陶酔して、若き日の作者が詠じたるものなり。されど、この寺の最初の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六ぢやうろくの如来像なりしことは、『諸寺縁起集』『元亨釈書』げんかうしやくしよなどに明かなるのみならず、現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍けふじのものと見ゆる天部像の頭二個を有することを併せて考ふべきなり。
 うつしみに・現身に。この像に対すれば、皇后を目のあたりに見るが如しといふなり。伝説によれば、北天竺の乾陀羅国ケンダラコクの王が、遥にこの皇后の絶世の美貌を伝へ聞き、彫刻家にしてその名を文答師モンダフシといふものを遣はして、皇后に請ひて写生して作らしめたる三躯の肖像のうち、一躯は本国に持ち帰り、他の二躯はこの国に留め、この寺と施眼寺とに安置されたりといふこと『興福寺流記』コウフクジルキ『興福寺濫觴記』ランシヤウキなどに見ゆ。

 この施眼寺今すでに在らず、その像また行く所を知らざるも、『興福寺濫觴記』に引けるその寺の『流記』の一節によれば、像は一度賊のために施眼寺より盗み去られしも、たまたま興福寺の僧寿広の獲るところとなり、天長二年八二五これをその寺の西金堂に安置せりといひ、また皇后在世の日、我が歿する後六十余年にして、この肖像の、この寺に帰すべきを予言せられたりといへり。その事甚だ妄なるが如きも、今もし此の像の様式を以て、天長二年の製作となさば、人多くこれを怪しまざるべし。
 この伝説の中には深く寓するところあるに似たり。

法華寺温室懐古

ししむら は ほね も あらは に とろろぎて
               ながるる うみ を すひ に けらし も

からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
                  うみ に あきたる あかき くちびる

 からふろ・光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢を流して功徳を積まんとせしに、九百九十九人を経て、千人に至りしに、全身疥癩かいらいを以て被おほはれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその濃汁のうじふを吸ひ取らむことを乞ふ。皇后意を決してこれをなし終りし時、その者忽ち全身に大光明を放ち、自ら阿しく門がまえの中に人がしら、その下に「人」が二つ横並び如来アシクニヨライなるよしを告げて昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。
 「からふろ」に往々「唐風呂」の字を充つれども、蒸風呂にて水無きを「から」といひしなるべければ、「空風呂」を正しとすべし。
 現にこの寺の庭上にありて皇后を記念すと称する一宇の浴室は蒸風呂なり。また法隆寺の北方の民家にも、かかる浴場を営みて「からふろ」と称するものあり。
 また『和州旧跡幽考』には「法華寺の鳥居のたつみ、わづかに隔りて、田の中に松の一木ありし所ぞ、阿しく前出と同じ。以下も同じ寺の跡なる。
 当代は鳥居もなく、松も見えず」とあり。この阿しく寺こそは、この奇蹟を記念せんために、皇后が建てしめられしものと云ひ伝へ、なほこの所にこの寺の浴場の遺物とて、大石槽の破片ありしを、天正年中一五七三-一五九一郡山城の築造に石垣の材料にと運び去られしといふこと『法華尼寺縁起』その他に見ゆれば、特殊なる浴室の存在せしことは考ふるに足るべきも、阿しく仏出現の奇蹟は今にして論議にも及ばざるべし。

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
                ひと に すはせし ほとけ あやし も

 ししむら・肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。
 あやしも・霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。「も」は接尾語。

秋篠寺にて

たかむら に さし いる かげ も うらさびし
              ほとけ いまさぬ あきしの の さと

 秋篠寺・あきしのでら。生駒いこま郡平城村秋篠にあり。
 今は浄土宗。奈良電車平城駅より西一キロ。平城京の西北の角。
 光仁天皇の命にて宝亀十一年七八〇善珠僧正七二三-七九七の開基。
 もとは七堂伽藍の備はれる大寺なりしも、保延元年一一三五の火災にて講堂以外悉く焼亡し、後再建せられしも、また兵火に遇ひ、現在は講堂のみ本堂として遺り、寺地も甚だしく狭隘けふあいとなれり。
 京都なる宮廷の御修法みずほふに因縁深かりし鎌倉時代製作の大元帥明王だいげんみやうわう像は、今も寺中に鎮座すれども、その堂は近年の造立ざうりふに変れり。
 作者が初めてこの寺を訪ねたる時は、住職と見ゆる一人の高齢の僧ありて、明治初年頃、このあたり諸寺窮乏のさまを詳つまびらかに語れる中に、仏像の多きに人手無くして供養に遑いとまあらぬ寺々にては、夜陰に出でて仏菩薩の像をひそかに他寺の境内に棄て、あるひは他より棄てられしものを、更にまた他に棄てに行きしなどし、甚しきは、それらの破片粗略にせんことも勿体もつたいなしとて、据風呂の薪となしたるもありと云々うんぬん。その僧の語れるところは、世に「ほとけ風呂」といひ伝へたるものありしことの偽いつはりならぬを示せり。
 かげ・太陽の光をいふ。陰影にはあらず。
 ほとけいまさぬ・この歌を詠みしころには、この寺の救脱菩薩グダツボサツ、伎芸天、梵天など、美術として世に聞えたる諸像は多くは博物館などに寄託して、堂内は甚だ寂しかりしをいふ。

まばら なる たけ の かなた の しろかべ に
                しだれて あかき かき の み の かず

かきのみのかず・累々として赤き柿の梢は、秋篠より西京ニシノキヤウのあたりにかけて、晩秋の特異なる一景観なり。

あきしの の みてら を いでて かへりみる
              いこま が たけ に ひ は おちむ と す

 いこまがたけ・生駒山。大和と摂津との境にあり。
 高き山にあらねど、姿よろし。『新古今集』に載せたる西行一一一八-一一九〇の歌に「秋篠や外山トヤマの里やしぐるらん生駒の岳に雲のかかれる」といふは、よく実際の景致を捉とらへたり。

西大寺の四王堂にて

まがつみ は いま の うつつ に あり こせど
               ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も

 西大寺・さいだいじ。生駒郡伏見村字西大寺にあり。
 電車は西大寺駅。寺は称徳天皇が天平神護じんご元年七六五の創建にして、当時は薬師、弥勒みろくの両金堂以下、伽藍の内外を厳飾して華美を極めたることは、宝亀十一年七八〇に記録せるこの寺の『資財流記帳』を精読すれば明かなり。しかるに、その後、承和じようわ十三年八四六以来数度の火災にかかりて、衰廃に就き、鎌倉時代には、叡尊一二〇一-一二九六この寺に住みて法運の恢興くわいこうに努めしも、寺は文亀二年一五〇二罹災して再び頓挫とんざし、今に存する諸堂は、悉く江戸時代の建立となり、天平の面目は地を払ひて失はれたり。
 今は真言律宗。四王堂・堂の名は奉安せる四天王像より来れり。
 創建の初め、それらの像の鋳造に幾度か失敗したるために、称徳天皇自ら寺に臨み、手づから熔銅ようどうを攪拌かくはんして工程に助力して、やうやく完成に至りしといふ。最初のものは七尺の銅像なりき。
 まがつみ・邪鬼。邪神。最初の四天王は、おのおの、型の如く脚下に邪鬼を踏み鎮めて立ちしを、今は、その原作の四体は亡び去りて、後世の拙き補作がこれに代り居るに、その脚下なる邪鬼どもは、多少の損傷は、ともかくも、いづれも原作のものが今日まで遺れること、まことに皮肉とも見ゆべし。ことにその後補の四天王のうちの一躰は、短小貧弱なる木像となれるは、最も憐むべし。
 作者はこの現状に感じてかく歌へるなり。
 いまのうつつに・今の現実に。現実なる今日に。
 ありこす・今日までその存在を続け来たれりといふこと。
 「あり」は、さきに「ありたたす」あり、ここなる「ありこす」、また「ありがよふ」など、すべて同じ語勢なり。ただ『万葉集』の「ありこす」には希願の意味を含めるも、作者のこの場合は、「勝ち越す」「借り越す」などの「こす」にて、意味は同じからざるなり。我等が『万葉集』の歌に於て貴たふとぶものは、その詠歌の態度と声調とにあり。
 千年を隔てて語義の変遷は免かるべきにあらず。
 またこれを避くべきにあらず。ことに又、造語は、時には作者の自由として許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥こうでいして、死語廃格を墨守すべきにあらず。
 新語新語法のうちに古味を失はず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文学としても価値なきに至るべし。

菅原の喜光寺にて

ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
            きしや の ひびき の ゆき かへり つつ

 喜光寺・一名菅原寺。法相宗。伏見村菅原にあり。
 養老六年七二二行基ぎやうき六七〇-七四九の創基にして、天平七年その寂じやくするところといふ。今の金堂は応永年間に建てられしものなるも、創建の土壇と旧礎との上に、天平式の細部を以て造立されたれば、俗間にては「大仏殿試みの雛形」なりと誤伝さるるを、作者は俗間にてしばしば聞きしことあり。
 事実を反対にせるが面白しともいふべし。
 かなしむ・作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。
 境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。
 すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。