だいひかく うつら うつら に のぼり きて
(大悲閣うつらうつらに登り来て丘の彼方の都をぞ見る)
だいひかく
「大悲閣、京都市西京区嵐山山腹にある黄檗宗の寺、千光寺の山号。
嵐山の中腹にあり、京洛を一望する絶景の山寺として有名である 」
うつらうつら
「浅い眠りにひきこまれるさまを表す。ここでは心がぼんやりしているさま」
歌意
大悲閣までぼんやりとして登ってきたが、ここに立つと丘の彼方に京の都が一望できるではないか。
ぼんやりとしながら山道を登ってたどり着いた大悲閣・千光寺から見る絶景の感動が伝わってくる。
南京余唱四二首、最後の作である。
秋篠寺にてたかむら に さし いる かげ も うらさびし
(竹群にさし入る光もうら淋し仏いまさぬ秋篠の里)
秋篠寺「奈良市西部秋篠の里にある奈良朝最後の官寺」
竹群「竹林」 さし入るかげ「差し込む日の光」
うらさびし「うらは心、なんとなく淋しい」
ほとけいまさぬ
「明治初期の廃仏毀釈の嵐で、諸仏は奈良博物館に置かれていた」
歌意
竹林に差し込む日の光も心淋しく感じられる。
(寺を離れて)御仏がおられないこの秋篠の里では。
当時(明治)の激しい廃仏毀釈の旋風の中で、仏は博物館の預けられ、寺は荒廃していた。
八一が訪れた時は年老いた僧一人だったと言う。
もちろん、平成二年以降の秋篠宮(礼宮)ブームによる喧騒などからは全く想像できないうら淋しい世界だった。サ行音の多用から醸し出される調べの中に秋深い村里を訪れた彼の感傷を味わいたい。
注 秋篠寺
奈良時代の末期(七八〇年)光仁天皇の
焼失により鎌倉時代に再建された本堂は簡素で奈良の古刹の穏やかな趣がある。 重厚で御仏の宝庫ともいえる東大寺三月堂と対比するなら、堂と御仏が程よいこの本堂は違った意味で魅力的だ。
堀辰雄が称賛した
たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて
(坂の岸の梢に衣かけて清き川瀬に遊びて行かな)
たきさかのきし「滝坂の渓流の岸」
こずゑ「渓流のほとりの木の梢」
きぬ「衣服」 ゆかな「ゆきたい。”な”は願望の助詞」
歌意
滝坂を流れる渓流の岸辺の木の梢に服をかけて、清らかな川の流れの中で遊んでゆきたいものだ。
歌が詠まれた大正一〇年ごろは豊かな渓流だったと思われるが、今はわずかな水量になっている。
八一は秋の滝坂を楽しみながら、樹木と渓流を詠み込んだ。そこには尊敬する良寛の「自然の中に心を遊ばせる」が生き生きと受け継がれている。
この歌の調べは八一の以下の自註を参照
この歌偶然にも「カ」行の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」あり。幾分音調を助け居るが如し。
後に法隆寺金堂の扉の音を詠みたる歌の音調の説明を参照すべし。
注 掲載歌は南京新唱から、「豆本」では「こずゑ」が「もみぢ」になっている。
この「豆本」は
大正一一年に作られ、市島春城に送られたもの。
その当時の見事な書跡を見ることが出来る。
法隆寺の金堂にて(第二首)たち いでて とどろと とざす こんだう の
(立ち出でてとどろと閉ざす金堂の扉の音にくるる今日かな)
たちいでて「(金堂の拝観を終えて)表に出ると」
とどろととざす
「轟き響くような音と共に扉を閉ざす。法隆寺金堂にて第一首の自註で言う。扉は・・・甚だ重きものなり。これを閉ざす音に悠古の響きあり。四五十年前は一人の拝観者ありても、その一人のために、一々これを開閉したれども、今はその響を知らざる人多かるべし」
歌意
金堂から表に出ると案内人の扉を閉ざす音がひっそりとした境内に大きく響き、その音と共に今日も暮れていく。
ひっそりとした法隆寺の夕暮れ、金堂の重い扉を閉ざす音が「とどろ」に響きわたった。
悠久の時の流れと現存する法隆寺の只中で八一の詩情が大きく揺り動かされた。「とどろ」という音から、静謐の世界を浮立たせ、さらに一一あるタ行音の音韻効果で律動的な調べを作った。
現在の法隆寺では望むべくもないが、この歌を口ずさみながら金堂の前に目を閉じてたたずめば、喧騒の世界とは全く違う世界に誘われる。
奈良博物館即興(第一首)たなごごろ うたた つめたき ガラスど の
(たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)
奈良博物館
「“この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少なくとも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり” 鹿鳴集自註 南京新唱 “くわんおん”の歌、解説より」
たなごころ「掌、手のひら」 うたた「いよいよ、ますます」
ガラスど
「百済観音は現在は法隆寺百済観音堂に安置されているが、当時は、寄託されて奈良博物館中央のガラス張りの大ケースにあった」
くだらぼとけ
「百済観音。法隆寺にある飛鳥時代の国宝の木造観音菩薩像である。和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』で有名」
歌意
手のひらに触れるガラスのケースはますます冷たさを増すが、百済観音に見入っていつまでも立ちつくし、立ち去ることができない。
ガラスケースの冷たさとは対照的に八一の観音に見入る姿勢は熱く、我を忘れるほどである。
和辻が亀井がそして八一が没入した百済観音は美しい。
新薬師寺の金堂にてたびびと に ひらく みどう の しとみ より
(旅人に開く御堂のしとみより迷企羅が太刀に朝日さしたり)
新薬師寺
「奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山。聖武天皇の病気平癒のため光明皇后が建立したと言われている。薬師如来は目が大きく眼病に効くと言う信仰がある。薬師寺とは全く別の寺である」
みどう「御堂 本堂のこと」
しとみ
「蔀 雨戸のこと。上下二枚あり、上を開けて光を取り入れる」
めきら「迷企羅大将 十二神将のひとつ。国宝」
歌意
訪れた旅人の私のために開かれた本堂の蔀からさし込む朝日が迷企羅大将のかざす太刀に輝いたことだ。
昔は訪れる旅人に乞われて、蔀を開けて外光を入れたという。今でもその風情が残っているが現住職がステンドグラスを導入するという話を聞いてからは行ったことがない。この寺には有名な仏像で盗難にあった「香薬師」があった。
小説の材料になったりしている。
高畑にてたびびと の め に いたき まで みどり なる
(旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)
高畑「奈良市高畑町、春日大社を抜けた新薬師寺のあたり」
ついぢ
「
ひま「隙、あいだ」
歌意
奈良の旧跡を訪ねて遠くからやってきた旅人の私の目に沁みて痛いほどに、崩れた築地の間に見える萌え立つ緑の菜の色である事よ。
作者はこう記している。
「奈良の築地の破れは、伊勢物語以来、あはれ深いものであるが、ただ見た目にも、これほど旅人の胸を打つものは少ない」
だだの荒廃ではない、長い歴史の重みがある古都の風景を「目に痛きまで」の緑の鮮やかさの中で詠んでいる。その味わいと「の」の効果的な使い方による調べの良さを楽しんで下さい。
香薬師を拝してちかづきて あふぎ みれども みほとけ の
(近づきて仰ぎ見れどもみ仏のみそなわすともあらぬ淋しさ)
あふぎみれども
「高く安置された仏を敬いながら見上げて拝す」
みそなはす
「見るの尊敬語。ご覧Iなっておられる」 あらぬ「無い」
歌意
(うっとりとした眼の)香薬師に近づいて仰ぎ見るのだが、はるか彼方を見られているようで、私をご覧になっているようには思えないこの寂しさよ。
作者は自分を無視しているかのように見えて「さびしい」と表現しているが自著の解説で「あのうっとりとした、特有の目つきからも来てゐる」と書いている。
香薬師の目そのものの「さびしさ」でもあると言うのだ。ここから、もう少し広義な意味での「さびしさ=寂寥」を歌い上げたと言ってもいい。
この仏像は三度の盗難に会い、今は見ることが出来ないが作者自身が「自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり」と述べているように本堂西に八一の数ある石碑の最初として置かれている。
過日、友人達と新薬師寺を訪れたのはこの歌碑が目的の一つだった。
五重塔をあふぎみてちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を
(千年あまり三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔)
五重塔「法隆寺五重塔」 ちとせあまり「千年を超えて」
みたびめぐれるももとせ
「ももとせは百年、それを三回で三百年。ちとせあまりと合わせて千三百年を表す。ここでは聖徳太子千三百年忌を意味する」
ひとひのごとく「まるで一日のように」
歌意
千年を超えて千三百年という長い年月を、まるで一日であるかのようにこの五重塔は静かにたっている。
歌が詠まれた大正一〇年の春、聖徳太子千三百年忌四月一一日を前に寺も斑鳩村もある種の活気があったと言う。太子への思慕を背景に、上の句で表現した塔の長い年月を下の句で一日のごとくと言い表すことによって悠久の歴史の中にたたずむ五重塔を見事に歌い上げた。
上の句「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を」 は最初、全く意味が分からなかったが、解説を読み理解するにつれて歌の素晴らしさが分かった。
八一の薬師寺の塔の歌(すいえんの・・・ あらしふく・・・)と共に味わっていただきたい。
畝傍山をのぞみてちはやぶる うねびかみやま あかあかと
(ちはやぶる畝傍神山あかあかと土の膚見ゆ松の木の間に)
畝傍山
「畝傍山は天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる奈良県橿原市にある山。畝傍とは“火がうねる”の意、ここでは畝傍山を神の山として畝傍神山と詠む」
ちはやぶる「神にかかる枕詞」
あかあかと「日がさして、赤々とした(山肌がみえる)」
まつのこのまに「畝傍山に生えている松と松の間に」
歌意
神の山、畝傍山の松の木の間に日がさして赤々と山肌がみえることよ。
香具山に登った後、畝傍山に対峙して、山肌があらわになっているようすを詠う。その山肌の露出した風景を八一はこんな気持ちで眺めた。
「日のさして、松の木の間に、あからさまに見ゆ。
先にも云へる、上代の三山求婚の争ひのことなど聯想して、木の間より見ゆる山の地膚なども、何となく哀れに思わるるといふなり」(鹿鳴集自註)
豊浦にてちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を
(ちよろづの神の忌むとふ大寺をおして建てけむこの村の辺に)
「とよら。奈良県高市郡明日香村豊浦で、
ちよろづ「千万、限りなく多い数。無数」
かみのいむとふ「(沢山)の神様が忌み嫌われたと言う」
おほてら「大寺、ここでは豊浦寺」
おして
「(神々の反対する寺を)強いて建てた。仏教に対する反目の中で」
歌意
日本の全ての神々が忌み嫌う大寺を反対を押し切って建てたのだなあ、この村のあたりに。
豊浦の地に立って、仏教伝来当時を回顧して詠んだ。今は無き豊浦寺を前にして、蘇我氏と物部氏の歴史的な抗争を思い起しながら、それらを三十一文字に抒情化した八一の力量は素晴らしい。
奈良博物館にてつと いれば あした の かべ に たち ならぶ
(つと入れば朝の壁に立ち並ぶかの招堤の大菩薩たち)
つと
「さっと、突然にと同じ。自註では“卒然としてといふに同じ”と解説」
あした「朝」 かの「あの」
せうだい
「招堤は仏教では寺院、道場を言う。ここでは唐招提寺のこと。七五九年鑑真によって建立された律宗の総本山」
だいぼさつたち
「大菩薩、当時は沢山の仏像が博物館に展示されていた。注参照」
歌意
さっと博物館に入ると、清らかな朝の光の中に壁を背にしてあの唐招提寺の菩薩たちが立っておられることよ。
博物館に入ると同時に立ち並ぶ仏像に出会う。
その迫力を平易な状況表現のみで表している。
仏像が贅沢に並ぶ東大寺の三月堂や室生寺の金堂を思ってみればいい。
「つと」入った時の感動はだれもが共有できる。この歌は「奈良博物館にて」六首中にある八一の代表的な仏像の歌(四首)を俯瞰するような位置にある。
仏像を信仰の対象と言う次元から離れて、仰ぎ見た時の美的感動を高い次元で詠ったこれら四首は代表的な日本の仏像の歌と言ってよい。
以下に四首を付記する。
奈良博物館にて
くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の
注 八一自註より
・・・作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁を背にして、唐招提寺のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗すこぶる偉観を呈したり。
春日野にて
つの かる と しか おふ ひと は おほてら の(角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る)
つのかる
「鹿の角は春先に自然に落ちる。四月頃から生え始め秋に完成する。この頃角切りを行う。勢子が、鹿を角切り場に追い込んで捕まえ、神官が角を切る」
むねふきやぶる「お寺の棟(屋根)を吹き破るほどの強い風」
歌意
鹿の角切りをするために鹿を追い込み捕まえる勢子たちの荒々しさは、まるで大寺の棟を吹き破る強い風に似ているようだ。
注 八一自註より
鹿は本来柔和の獣なれども、秋
これを恐れて、
この行事に漏れて、角ありて徘徊するものを誘い集め、捕へてその角を伐ること行はる。
ある日奈良公園にて散策中に之に遭ひし作者は、この伐り方の甚だ手荒なるを見て、やや鹿に同情したる気分にて、かく
開山堂なる鑑真の像にとこしへ に ねむりて おはせ おほてら の
(とこしへに眠りておはせ大寺の今の姿にうちなかむよは)
開山堂
「かって鑑真和上座像が安置されていた。今は昭和三八年(一九六四)に境内の北側に作られた御影堂に像はある」
鑑真
「七五三年に来日、東大寺戒壇院で正式の授戒をし、その後唐招提寺を建立。」
鑑真和上座像
「鑑真和上の
とこしへに「永遠に」
ねむりておはせ
「座像は失明した鑑真の姿。その姿を眠っていると表現し、目をつむったままでと呼びかける」
おほてら「ここでは唐招提寺を言う」
いまのすがた
「往時(天平時代)の勢いに比べ、廃仏毀釈等で衰えた今の寺の姿」
うちなかむよは
「お泣きになるよりは。うちは接頭語、よはよりの古語」
歌意
ずっといつまでも安らかに眼を瞑ったままでおいでください。今の世の唐招提寺や仏教の姿をみてお泣きになるよりは。
簡潔で的確な文章に感動する。ここには引用できないが機会があれば読んでほしい。
なお、この御影堂の近くには有名な芭蕉の句碑
「若葉して御めの雫拭はばや」がある。
正倉院の曝涼に参じてとほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を
(遠つ代のみ倉出で来て暮るる日を松の木末にうち仰ぐかな)
正倉院
「奈良の東大寺大仏殿の裏手にある校倉作りの大倉庫。七五六年、聖武天皇没後光明皇后が天皇遺愛の品を中心に六百数十点を東大寺寄進、それらを中心に数千の宝物が収蔵されている。歴代天皇が管理したが、太平洋戦争後に国に移譲される」
「虫干しのこと。毎年一一月に行われ、この時に奈良博物館で正倉院展を行う」
とほつよ「遠く過ぎ去った時代」
みくら「み倉、ここでは正倉院そのもの」
こぬれ
「“こ(木)のうれ(末)”の音変化、樹木の先端の部分。
歌意
遠く過ぎ去った時代の正倉院から出て来て、松の梢に暮れてゆく日を仰ぎ見たことだなあ。
暗い正倉院の中での鑑賞を終えて出てきた時の一首だが、八一によると「倉内は窓なく、小さき入口より射し入る日光のみなれば、双手に懐中電灯を持ち、その焦点を集中してわづかに品物を見るを得るばかりなりき」と言う状況だった。
また、曝涼への参加は「従来は勲位または学芸ある人々のみ」許可されたと鹿鳴集自註に書いている。
とりわけ東大を中心にした官立系が優遇された時代で私立である早大の八一にはなかなか許可が下りなかった。 それゆえ、許可され参加できた八一の感動は大きかった。
暗い倉内で緊張して鑑賞し、明るい戸外にでた一瞬を満ち足りた気持ちで詠っている。