四国遍路(区切り打ち・第三回)
         平成二七年四月八日〜四月一八日
村木鴻二 戻る
 第一回目、第二回目と重ねてきた四国遍路も最後の区切り打ちを残すのみとなった。

 前回、都合により六〇番札所の横峰寺のお参りを省いて、六四番札所前神寺まで歩いた。今回は前神寺からのスタート前に、先ずは横峰寺をお参りし、一番から六四番までの抜けを無くして、遍路ルートの連続性を確保したい。

 愛媛県 (菩提の道場・伊予)でお参りを残している札所は、横峰寺と三角寺の二つの札所である。八八ヶ所の札所中残すは、この二ヶ所と香川県 (涅槃の道場・讃岐)の二二ヶ所の札所となる。
 香川県は四国では最小の県であり、札所間の距離は短いのだが、その反面、山が多く起伏のある厳しいルートになる。

 昨年連休明けの五月の中旬に実施した第一回目の区切り打ちは、気候的には一見良さそうに思えたのだが、暑すぎて体力消耗が極めて大きく疲労した記憶が強烈に残った。
 この教訓から、今回は気温が低い連休前の四月に歩くことに決めていた。学生の春休みとゴールデンウイークの連休を避けると、実施の期間は極めて限定されることになる。行事や他の予定を考慮して、今回は四月八日から約一〇日間の予定で歩くことに決めた。

 これまで、二回にわたり区切り打ちを実施したが、その都度事前にある程度の距離を歩き、歩くことの準備を怠りなくやってきた。
 しかし、今回は前二回の成功の所為か、楽観的な気持ちが支配し、事前訓練に甘さが出てしまった。
 十分な事前訓練を怠った付けが、どの程度なのか不安だ。

 靴は前回で使い物にならなくなってしまったので、新しい物に更新しなくてはならなくなった。歩き遍路にとって靴は、いうまでもなく大切な装備品であり、選定には慎重を期す必要がある。
 前二回の体験で「メレルの靴」は、踵外側の底が擦り切れるという不具合が発生したものの、歩き易く、豆も出来難いことも証明された。
 又、耐久性に関しても、私の良いとはいえない歩き方を考えれば、
 一〇〇〇`も歩けば底が擦り切れるのは当然とも思える。
 以上のことから、今回もタイプは少々異なるが、やはり「メレルの靴」を選んでしまった。
 二,三回の試し履きしか出来なかったが、満足して出発。


   第一日 四月八日(水) 曇りのち晴れ
羽田(JAL)→松山空港(バス)→JR松山駅(JR予讃線)→
伊予小松駅→西条市小松(旅館小松)

 前二回と同様、妻に羽田に送ってもらい、〇七三五発JAL松山便で出発。〇九〇五 松山空港に着陸。
 この日は北東からの冷湿な気流の影響で、出発の東京は最高温度七度六分というお花見時期としては異例の寒さであった。
 松山は東京に比べれば十五度という温度ではあったが、この時期としては寒く、ダウン着用の観光客が多い。
 今回は第二回目に打ち残した六〇番札所横峰寺からの開始であるが、横峰寺は西日本の最高峰、石鎚山(標高1982b)の北側中腹標高750bに建つ札所である。中途半端な時間から登山しても、今日中に下山出来ないので、明日早朝から登ることに当初から決めていた。
 余裕がある本日の時間は、前回印象に残った石手寺をじっくりと再参拝、そして道後、松山の街の散策に使うことにする。


 午後からJR予讃線で西条市小松に向かう。
 満開は少し過ぎているが、未だ咲き誇る桜が沿線の各所で目に付く。四国は、桜の花が咲くのも散るのも、関東よりもかなり早いと思っていたのだが、こんなに綺麗に桜が残っているとは意外である。
 自宅のある浦安と殆ど同じ感じだ。
 「旅館小松」には夕食前にチェックイン。
 今回の区切り打ちのスタートは、前回最後に泊まり、好印象だった「旅館小松」からと決めていた。案の定、お遍路仲間に好評の宿は、夕食の座敷に十五名程が一堂に会するという盛況ぶり。

 お遍路達は、今日六〇番横峰寺を打ち終えた者、明日挑戦する者と半々くらい。横峰寺を終えた者の話によると、今日は山に雪が降る天気で難渋だったらしい。明日の好天を願うばかりだ。

 明日のルートを確認、準備を済ませ、妻にその日の状況を知らせる定例の「無事メール」を打って、早めに就寝。

   第二日 四月九日(木) 曇りのち晴れ
伊予小松→六〇番札所
横峰寺(よこみねじ)→六四番札所前神寺(まえがみじ)
伊予西条伊予西条駅(JR)→伊予小松駅→
西条市小松(旅館小松)


 前回は国道13号から伊予小松に入り、六〇番横峰寺を後回しにして、六一番香園寺から六四番石神寺まで歩いた。今日は後回しにした六〇番横峰寺を打って六四番までの抜けを無くすことが目標だ。
 地図の赤実線のように、伊予小松から直接横峰寺を打ち前神寺まで歩くつもりだ。
 その後、JRで「旅館小松」に引き返し連泊する予定だ。
 〇六三〇 早い朝食を済ませ、宿を出発。連泊をするので、荷物は昼食(お握り)とお参りの道具だけを入れた肩がけ鞄だけの軽装備。宿から南方に松山自動車道の高架をくぐって、海を背に山に向かう。
 三〇分ほど歩くと大きな採石場にぶつかる。
 いよいよ舗装も切れ、急こう配の山道になる。


 〇八〇〇頃、横峰寺から六一番香園寺に下る通常の遍路道(地図の点線)とぶつかる。今日はこの道を反対に登る。
 最近は私と同じルートを歩くお遍路も多いようだが、朝早い所為か前後にそれらしきお遍路は見当たらない。
 ひたすら朝露に濡れる深山を登る。
 所どころで山桜の終わりを告げる花びらが道を彩る。
 途中香園寺に向かう一人歩きのお遍路三人とすれ違う。
 二人は男性で、もう一人は女性だ。歩き遍路の正規ルートを歩いて来たのなら、この時間にこの場所で会うということは、出発は夜明け前の筈だ。
 三人ともフル装備で荷物が重そう。男性はともかく女性には感服。
 第三回目の歩き遍路の初日は、険しい山道となったが、背負う荷物も無く順調に歩くことが出来る。昨日までは天候が厳しく辛い山登りを強いられたようだが、今日は天候も回復しコンディションは上々。
 早々と横峰寺の裏手から桜と雪が残る境内に到着。

 

六〇番札所横峰寺(よこみねじ) 〇九二八
 横峰寺は修験道の祖と言われるが石鎚山で修行中、石鎚山の山頂に蔵王権現の姿を感得、その姿を石楠花の木に刻み、安置したのが始まりという。
 大同二年(807)、弘法大師がこの寺を訪れ、四二歳厄除け星供の法を修め、伽藍を建立して六〇番札所としたとされる。
 横峰寺は神仏習合で石鎚山社の別当寺として時代を送ったが、明治の廃仏毀釈で神社になり、寺号を除かれていたが、明治四二年横峰寺として再興を果たした。
 ここまで六四ヶ所の札所を歩いてきたが、お寺と神社は極めて強い係わりがあることを教えられた。
 この横峰寺の本堂も神社を思わす権現造り。これも「仏も神もみなありがたい」と説いた弘法大師の教えを表しているという。

 さくら花匂う伽藍の横峯に 遅雪積もり春冬競演


 一〇一三出発。横峰寺は古来、四国八八ヶ所の最大の難所といわれたようだが、現在では麓の西条市から林道が開通し、山頂の駐車場まで車でお参りすることが出来る。
 私もこの林道を歩いて下り、六四番前神寺に向うことにする。
 同じ道を下るお遍路も見かける。


 歩き遍路も昔ながらの険しい道だけでなく、楽な道を選べるのも開発のおかげか。しかし、お遍路を乗せた車とすれ違う度、何とも釈然としない気持ちで舗装をされた林道を下る。林道を過ぎ黒瀬湖の側で国道12号線に入る。
 黒瀬湖はダム湖だが水量豊かな美しい湖だ。
 一二〇五 12号線と県道の分岐点の黒瀬峠で、お寺の境内を借り、遅咲きの桜に囲まれて黒瀬湖を眺めながら昼食を取る。
 宿で作ってもらったお握りが旨い。
 静寂の中、時が止まった様な錯覚に陥る至福の休憩。
 立ち難い気持ちを抑え出発。県道に入り伊予氷見方面に北上。
 松山自動車道の高架をくぐり右折し、地図を頼りに前神寺を目指す。大きな鳥居の石鎚神社の前を通り、やがて前神寺山門に到着
 一三五八。


 前回、第二回目の打ち止めはこの前神寺であった。気になっていた横峰寺も打ち終わり、一番から六四番まで抜けが無くなりホッとする。
 明日、ここ前神寺からスタートするつもりであったが、天気予報によると明日は大荒れらしい。
 負担を軽くしておくのが良策と西条まで足を延ばすことにする。
 前神寺は山門からお参りをして、先を急ぐ。
 田舎の遍路道から国道11号線に入り東進。
 加茂川を渡り西条の市街地に入って、一五〇一伊予西条駅に到着。
 JR予讃線で伊予小松まで引き返し、一五四四 宿に帰り着く。

 「旅館小松」が遍路仲間には人気の宿であることは既に述べたが、一番の理由は夕食。肉屋兼業の宿の夕食はデラックス。
 肉体労働のお遍路にとっては大変うれしい。前回の打ち止めもここに泊まったが、その時の好印象で、今回もスタートから連泊。
 一泊目は豚・鶏肉のしゃぶしゃぶ、二泊目は牛すき焼きとメニューもダブらないよう気を使ってくれるのが嬉しい。
 今日も一七名のお遍路と盛況。その中連泊は私を含めて三人。


 旨い夕食とビール、お遍路仲間とも話に花が咲く。
 しかし、明日が有るので解散も早い。
 自室に帰り、妻へ「無事メール」。
 そして、明日の準備と宿の予約をすませ就寝。

歩行距離三〇・四`

   第三日目 四月一〇日(金) 強雨
伊予小松駅(JR)→伊予西条駅→中央市土居(旅館松屋)

 〇六三一 伊予小松駅から伊予西条行に乗車、〇六四〇に昨日歩いた最終地点の伊予西条駅に到着。

 次の札所六五番三角寺の次は、八八ヶ所中最も標高が高い場所に位置する六六番雲辺寺である。
 歩き遍路にとって、雲辺寺を打つには、ベースキャンプ的な池田町佐野に一軒しかない遍路宿「民宿岡田」に泊まるのが最良。
 「民宿岡田」は大変混むということなので、十日ほど前に、予約し押さえた。他の宿は一日か二日前で十分確保出来るが「民宿岡田」は、そうは行かない。この宿泊を基本に計画を立てると、今日は中間付近に位置する四国中央市土居に泊まるのが最適ということだ。
 今日の行程、約二五`は若干短いとも思えるが、この大雨を考えると大変良い計画となったようだ。

 〇七〇〇 雨はまだ本格的ではないが、ポンチョを着て大雨の準備怠りなくスタート。国道11号線を東に三〇分ほど歩くとそれまで小降りであった雨が狂ったように強くなる。
 西条市を抜け、新居浜市に入り11号線と並行する遍路道を東進する。雨は強くなったり、弱くなったりで止むことは無く、カメラを出す余裕もない。今日は途中の画像無し。

 一一〇〇 休憩を兼ね国道筋のうどん屋で昼食を取る。

 濡れたポンチョを再度被り出発。新居浜市の長野という所で11号線に戻り、高低差一〇〇bの関の戸峠を目指して坂道を登る。
 初日がいきなりの山登り、今日は二日目とあって、疲労も溜まり、かなり辛い。やっとの思いで登り切り四国中央市に入る。

 一四〇五 「旅館松屋」に到着。かなり早い到着であったが、天気のこともありチェックイン。宿も快く受け入れてくれる。
 この後一五〇〇頃からさらに雨足は強くなったので、助かる。
 関の戸で追い抜いたMさんもすぐに到着。
 前後して他のお遍路も到着、泊りのお遍路は私を含めて五人ほど。
 夕食まで時間はあるが、全員雨衣、着衣、靴の手入れに追われる。
 宿には屋根付きの物干し場が有り、大いに助かる。特記すべきは、私を除く四人は靴の中まで水でグチャグチャであり、後の手入れが大変そうであったが、私の靴はあの大雨の中を歩いて来たにもかかわらず靴下も濡れていない。
 靴にこだわり、「メレルの靴」を選んだ甲斐があったというものだ。
 お遍路五人で夕食を共にするが、話題は明日の天気。
 どうやら雨は今夜峠を越すらしい。明日は雨の無い遍路をしたい。

 濡れた荷物、雨衣等も乾燥機等を駆使して準備完了、
「無事メール」の後、街路を強く叩く雨音を聞きながら眠りにつく。

歩行距離二五・二`

   第四日 四月一一日(土) 曇りのち晴れ
四国中央市土居→六五番札所
三角寺(さんかくじ)
三好市池田町佐野(民宿岡田)


 〇六〇〇 朝食。雨は上がったようだ。やれやれの心境。
 〇六三一 松屋旅館を出発。昨夜の豪雨の所為か山は雲で霞む。


 土居を出発し、11号線と並行に走る遍路道を東進する。
 11号線は右図の通り、瀬戸内海側を走る四国のメイン道路。
 JR予讃線、松山自動車道並びに県境で松山自動車道に接続する高松自動車道も11号線と並行して走る。
 今回の歩き遍路は南北に多少ずれることもあるが、基本的には西条市から国道11号線沿いのルートを東方向に歩くことになる。
 土居を出発し、やがて四国中央市の中心である旧伊予三島市に入り、方向を南東に取り、松山自動車道の高架を潜って標高五〇〇bの三角寺を目指す。毎度のことであるが、歩き始めて三日目、疲れがピークに達している。
 かつ、一日目の山登りで右膝辺りに違和感と若干の痛みが残る。
 今回は距離も短いしと、安易に臨んだ付けが回ってきているようだ。


 松山自動車道をくぐる地点の標高は一〇bなので、丸々五〇〇bの山道挑戦だ。登り口の公園で休息を取り、山道に備える。
 前後して、同宿のMさん達も出発。
 途中振り返ると伊予三島川之江港が眼下に広がる。
 伊予三島は製紙工業で有名とか、巨大煙突からの煙が雲と一体となり不気味な景色。

 雨止みて霞に煙る急坂を 健脚競う遍路の仲間

 幾通りかルートがあるが、明日からのことも考え、距離は伸びても、なるべく膝に負担がかからないルートを選択。
 途中最近の雨で遍路道も危険個所が発生しているようで、迂回路が多い。急ごしらえの迂回路の案内は曖昧で紛らわしい。
 その度にスマホで道を確認する。
 どうやらMさん達とは違う道を歩いているらしい。
 急勾配の坂道を登り、参道入り口から七三段の石段を登りきると、梵鐘が吊り下げられ鐘楼門になっている仁王門に到着。
 罪の汚れを取り去るべく鐘を撞いて境内に入りなさいということか。

六五番札所三角寺(さんかくじ) 一一〇八


 三角寺は伊予の最後の札所で、標高八二六bの平石山の中腹、約五〇〇bに建つ。弘法大師が三角の護摩壇を築き、国家安泰と万民福祉を祈念し、これにちなんで寺号は三角寺。
 その護摩壇跡が太子堂と本坊の間の「三角の池」の中の島となって残っている。また、古来開運魔除けや安産子安の観音様として信仰を集めている。

 納経を済ませ、納経所脇のベンチを借りて、コンビニで求めた握り飯の昼食。一二〇〇を過ぎたところで、出発。
 三角寺は愛媛県最後の札所、「民宿岡田」は徳島県三好市。雲辺寺は 香川県と徳島県の正に県境に位置するが、住所は徳島県三好市。
 しかし、讃岐の最初の札所となる。この辺りは三県にまたがる県境、おまけに今まで目印にしてきた松島自動車道は愛媛の県境で終わり、高松、徳島、高知の三つの自動車道に分岐している。
 地図を詳細に確認し、「民宿岡田」に向け境目峠を目指す。
 境目峠の名も県境に由来しているのだろう。
 山道を下り、川滝で国道187号線に乗る。天気は急激に回復。
 青空も見え出し、周りの山も春らしく華やいで見えてくる。

 山桜散りし山はだ今もなお 優雅に染める薄紅の色

 国道を歩きいよいよ境目峠に近づく。
 境目峠を越すには国道も入れて四つのコースが有り選択に迷う。
 山越えの遍路道は険しく迷い易いとのベテランお遍路達の情報もあり、逡巡しながら歩いていると、国道のトンネルをリコメンドする「民宿岡田」の看板を発見。
 看板に従いトンネルを歩き、一五三〇「民宿岡田」に到着。
 遍路客は一四、五名か、定員一杯の満員状態のようだ。
 前宿で同宿のMさんも「民宿岡田」が取れず、八`先の白地温泉にある民宿に泊まり登山口に送迎してもらうとか。この週末、「民宿岡田」に宿泊出来ないお遍路が続出しているようだ。

 さっそく風呂と洗濯。
 「民宿岡田」のご主人はテレビでも有名な名物親父、御年八五歳、昔は鉄道マンで、民宿を任せていた奥さんが無くなってから一人で切り盛りされていたが、最近は息子さん夫婦が帰って来られたそうだ。
 満員の食堂で、ご飯や汁物、ビールの世話をしながら食事の客に気を遣う。夕食が一段落したところで、やおら立ち上がると手作り資料で翌日の雲辺寺登山のブリーフィング。ユーモアを交えた語り口のルートの説明やエピソードは客の関心を引く。食堂に和気藹々のムードが漂う。これが名物親父と呼ばれる所以だろう。
 あの菅元首相も「民宿岡田」に泊まり、翌朝雲辺寺に向ったそうだ。
 雲辺寺に登りついた後、「約三時間掛かって到着した」と電話で報告があったそうだ。何が何でも、この所要時間には、負けたくない。

 名物親父のブリーフィングで食堂も和気藹々、ドイツ人のお遍路・Qさんも話に加わる。Qさんは奥さんが日本人、ドイツ在住だが、奥さんが里帰りの都度、日本に同行し、歩き遍路を敢行しているとか。
 今回は二回目の遍路を歩いているそうだ。
 楽しい団らんのひと時も終了し、自室へ。
 ベタベタとサロンパスを張り、筋肉痛の治療。筋肉痛は時間が経てば回復する自信があるのだが、右膝の痛みはちょっと気になる。

 いよいよ明日は雲辺寺、やや興奮気味か?
 楽しかった夕食の状況等を「無事メール」に乗せて送る。
 気持ち良く眠りにつく。

歩行距離二九・二`

   第五日 四月一二日(日) 晴れ
池田町佐野→六六番札所
雲辺寺(うんぺんじ)→六七番札所大興寺(だいこうじ)
六八番札所
神恵院(じんねいん)・六九番札所観音寺(かんのんじ)
七〇番札所
本山寺(もとやまじ)→観音寺市本大町(本大ビジネスホテル)

 〇六二五 朝食を済ませ、名物親父に見送られ「民宿岡田」を出発。ドイツ人のQさんは既に出発しており、二番目の出発である。
 天気は晴れで申し分なし。

 一`程佐野の部落を歩いて、登山口に着く。
 ここから標高九二七bの雲辺寺山の山頂付近九一〇bに位置する雲辺寺まで、一気に登る。
 登山口の標高は二七〇bなので標高差は六五〇b。
 昔から「遍路ころがし」と呼ばれる険しい急勾配の山道である。
 スタミナを考え、ゆっくりと登っていると、白地からマイクロバスで登山口まで送られてきたお遍路五、六人のパーティに抜かれる。


 菅元首相の所要時間三時間に負けたら子孫末代までの恥とラストスパート、ゴール二`手前で、途中追い抜かれたお遍路を再度抜き返し、〇八三九 所要時間二時間一四分で到着。

六六番札所雲辺寺(うんぺんじ) 〇八三九


 嵯峨天皇の勅願を受けこの山に登った弘法大師が、千手観世音菩薩を刻んで本尊とし、ここを札所に定めたと伝わる。
 学僧があつまる学問道場として栄え「四国高野」と呼ばれていた。
 境内のあちこちに立つ五百羅漢像が目に入る。
 弘法大師が唐へ留学した際の地、赤岸鎮福建省の五百羅漢院の羅漢像を模したものという。

 下界は雲の下で見えないが、雲上の雲辺寺からの山並みの眺めは、想像以上に素晴らしい。
 やっとここまで来たのだと、今までの道のりが感慨深く頭を巡る。

 雲上の山並み遥かに広がりて 眺め至福の雲辺寺かな

 憧れの雲辺寺を去り難くあちこち見て回る。
 小一時間を過ごして、やっと出発。
 ロープウエイ乗り場の側を通り、山道を下る。
 この坂道は下の自動車道まで、高低差七六〇bを四`で下る急な坂。脚に対する負担は登りよりはるかに下りの方が大きい。
 山道の最後、前日の雨で滑り易くなった急坂に尻餅をつき、しばらく膝に力が入らず起き上がれないほどであった。
 やっとの思いで、坂の緩やかな自動車道に出て、六七番大興寺に向う。

六七番札所大興寺(だいこうじ) 一二三七


 かつては真言宗二四坊と天台宗一二坊が有り、二つの宗派から成り立っていたという変わった歴史を持つ。
 その名残りに、弘法大師と天台大師智を祀る二つの太子堂がある。また、仁王門にある高さ三・一四bの金剛力士像は、鎌倉時代の仏師運慶作と伝わる。

 「民宿岡田」がお接待で持たせてくれたお握りの昼食を取り、休息。
 寺の飼い猫が可愛く愛嬌をふりまく。一三〇六 出発。
 「民宿岡田」の名物親父がくれた地図に従い観音寺市の外れから、
高松自動車道を潜り中心街に入る。
 地図は間違いやすい所など丁寧に説明してあり、大いに助かる。
 JRの観音寺駅を海側に抜け、財田川の河口付近、瀬戸内海を見下ろす高台に広がる琴弾公園を目指す。やがてこの公園の一角にある神恵院と観音寺の二つの寺名が記された山門に到着。

六八番札所神恵院(じんねいん)・六九番札所観音寺(かんのんじ) 一五一四


 二つの札所が共存するに至った背景には、同じ琴弾公園にある琴弾八幡宮が大きく係っている。
 大同年間(806〜810)、法相宗の高僧・日証上人が、琴弾山頂で修行中、船上で琴を弾く翁のお告げを感得し社殿を造って琴弾八幡宮として祀り、別当寺として観音寺も開く。
 その後弘法大師がこの地を訪れ、琴弾八幡宮を六八番札所に、別当寺の観音寺を六九番札所に定める。
 明治の神仏分離で琴弾八幡宮は四国霊場から外れる。
 その際、琴弾八幡宮の本地仏は、観音寺に移され、東西二つの金堂の中、西金堂に祀られた。
 現在、この西金堂が神恵院になり、東金堂が観音寺本堂になっている。観音寺本堂は国の重要文化財で、シンプルな寄棟建築でありながら室町建築らしい優美な建物で特に屋根の曲線が美しい。
 今日の行程は、ここまで地図上では二三`余り、雲辺寺からは下りだから楽だと判断して、七〇番本山寺まで歩く計画を作った。
 しかし、楽だと考えた雲辺寺からの下りが大誤算、疲労に加え、右膝の違和感が痛みに変わる。歩くスピードも極端に落ち、此処にも予測より一時間近く遅い到着となった。

 一五四〇 出発。納経は一七〇〇までなので、今日は本山寺のお参りだけにして、納経は明朝にすると腹を括って財田川沿いを歩く。
 今日中に本山寺を打ち終わるつもりなのだろう、急ぎ足で若いお遍路が追い抜いていく。
 長閑な田園風景の行く手に五重の塔が見えてくる。
 本山寺の五重の塔らしい。少し頑張れば今日中に納経も終えることが出来るかもしれないと最後の力を振り絞る。
 頑張りが功を奏し、山門を潜る。残り一五分。

七〇番札所本山寺(もとやまじ) 一六四五


 本山寺は大同二年(807)、平城天皇の勅願により、弘法大師が建立したと伝わる。二万平方bの境内に国宝の本堂を始め、五重塔、仁王門、太子堂、十王堂、客殿等が並び、大寺院の面影を残す。
 戦国時代、長宗我部軍が本堂で住職を斬りつけた際、脇仏の阿弥陀如来が右手から血を流したことに驚き軍勢が退散し、兵火を逃れたという逸話が残る。

 急いで本堂、太子堂のお参りを済ませ、バックパックの姿のまま、納経堂に駆け込む。納経のお坊さんから「ご苦労様」とねぎらいの言葉を頂き、頑張って良かったとホッと一息。
 納経を済ませてから、重文の仁王門、鎌倉時代の寺院建築として国宝指定の本堂、明治四三年再建の五重の塔をゆっくりと堪能。

 宿は本山寺から約一`。一七三〇 クタクタになってチェックイン。
 今日は久しぶりにビジネス・ホテルでの泊まり。
 風呂の順番やトイレの競争、皆で食卓を囲む煩わしさが厭になり、時には一人きりになりたくて、ビジネス・ホテルを予約する。
 しかし、今日のように疲労困憊で、遅い宿への到着の時は、宿でサーブしてくれる食事が便利。なかなか思惑通りには行かないものだ。
 ホテルの近くのスーパーに食事等を買いに出かける。
 スーパーでQさんと再会。同じホテルに泊まっており、夕食等の購入らしい。ドイツ人なのに、慣れたもので器用に買い物をしている。

 風呂に入り、遅めの食事。

 明日は、又天気が荒れる予報。
 二日目の雨でポンチョの首回りが裂けてしまったので、百円ショップで破れを止めるためのクリップとビニール製の薄手の簡易カッパを購入する。本格的なポンチョに買い替えることも考えたが、あいにくこの辺りには百円ショップしか店が無い。
 ビニール傘も持っているので何とかなるであろう。

 宿で遅めの食事の後、右膝の治療や「無事メール」の作成、送信を大急ぎで実施。何とか二二〇〇までに、布団に潜り込む。

歩行距離二八・六`

 「参考」
 今日、万歩計は五六四〇四歩、三七・六一`を示している。
 山道は設定の歩幅では歩けず、歩数が増えるのだろう。

   第六日 四月一三日(月) 雨のち曇り
観音寺市本大町→七一番札所
弥谷寺(いやだにじ)
七二番札所
曼荼羅寺(まんだらじ)→七三番札所出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
七四番札所
甲山寺(こうやまじ)→七五番札所善通寺(ぜんつうじ)
七六番札所
今倉寺(こんぞうじ)→七七番札所道隆寺(どうりゅうじ)
丸亀市(アパホテル)


 〇五〇〇 起床。昨夜スーパーで買い置きしたサンドイッチで朝食。
 今日は七つの札所をお参りするつもり。〇六〇〇 出発。
 国道11号線を歩く。雨は小降りなので傘のみ使用していたが、三〇分もしない中に、傘だけでは横殴りの雨で上体も濡れる状態になる。
 慌てて開店前の店先を借りてポンチョを着る。
 登山用雨衣のズボンを穿き(ポンチョが有るので、上衣は持参せず)、下に白い簡易カッパを着てバックパックを担ぎ、その上に黄色のポンチョを着て破れをクリップで止めるという重装備。

 今日は雨の不快さに加えて、右膝の調子が極端に悪く痛い。
 何度も足を止めて屈伸運動を繰り返すが、一向に痛みは引かない。
 これまで右膝の調子が悪いので、右足を庇うつもりで右手に杖を持って歩いていたのだが、他に手段が無く思い切って、杖を左に持ち替えてみると痛みが和らぎ楽になる。予想外だった。
 人の体とは解からないものである。
 途中11号線を離れ県道の遍路道を歩く。〇九〇〇を過ぎるとさすがの大雨も小降りになり、やがて弥谷寺が建つ弥谷山の麓に到着。
 仁王門の手前にある俳句茶屋から境内までは石段が続く。
 参道は雨に濡れた緑に囲まれ、山寺らしい静謐な雰囲気に包まれている。

七一番札所弥谷寺(いやだにじ) 〇九一八
 山門に到着したものの、石段の参道が延々と続く。
 やがて、高さ約五bの金剛拳菩薩像が目に入る。
 此処から約一〇八段の階段を上がると太子堂、さらに階段を上がり合計三七〇段の階段を登って、やっと本堂だ。


 弥谷寺は古くから霊山とされる香川県西部にある標高三八二bの弥谷山中腹に建ち、行基が開創したと伝わる。
 弘法大師の生地に近く、七歳の大師が学問に励んだという獅子の岩屋が太子堂の奧にある。
 山上の寺でありながら境内には多くの堂宇が立ち並ぶ。
 太子堂は靴を脱いでお参りをする。
 雨の中、装備を脱ぎ、靴を脱ぐ作業は、お遍路にとっては、なかなかの重労働でもあるし、時間もかかる。淡々とこれをこなすのも修業。


 脚の休息、雨衣の始末等に時間が掛かり、到着から出発まで二時間近く滞在する。

 一〇五〇 出発。
 雨は止むが、下りの山道はぬかるんで滑りやすく歩き難い。
 雨は上がり、杖を左に持ち替えてからは、右膝の痛みもそれほど気にならなくなった。
 山道を下り舗装路に出たら、すぐに曼荼羅寺に着く。

七二番札所曼荼羅寺(まんだらじ) 一一五六

 縁起では、推古4年(596)、讃岐国の領主佐伯一族の氏寺として創建された八八ヶ所の霊場で最も古い寺。
 弘法大師が亡き母の冥福を祈るために訪れ、唐から持ち帰った曼荼羅を安置し、曼荼羅寺と改号。

 曼荼羅寺から、農村風景が続く道を五〇〇b、一〇分も歩くと、出釈迦寺に着く。

七三番札所出釈迦寺(しゅっしゃかじ) 一二二三
 出釈迦寺の背後にそびえる我拝師山に、奥の院、捨身ヶ嶽禅定が有り、七歳の大師が「仏の教えで人々を救いたい。叶わぬなら身を諸仏に捧げる。」と断崖から身を投げた場所。これは捨身という命がけの行で、釈迦如来と天女が現れ、大師を抱きとめたといわれる。


 一二三一 出発。この辺りはコンビニも見当たらず、非常用のパワージェルを歩きながら摂って、昼食にする。
 田園風景の中を四〇分ほど歩くと小高い山が見えてくる。
 甲山寺はその麓に佇む。

七四番札所甲山寺(こうやまじ) 一三一五

 弘法大師が善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を立てようと霊地を捜していると、甲山の中腹で白髪の老人が現れ、「ここが探し求めていた聖地なり。この地に寺を建てれば守護する。」と告げられる。
 大師は早速、石を削って毘沙門天像を刻み、山の岩窟に安置したのが甲山寺の始まりという。
 弘田川沿いの道から住宅地を抜けていくと善通寺東院と西院の間の道に出る。やがて東西院の中間に到着。先ずは中門を潜り、東院の本堂に向かう。

七五番札所善通寺(ぜんつうじ) 一三四二


 善通寺は弘法大師誕生の地。
 寺伝によれば善通寺の創建は大同二年(807)。
 唐から帰国した弘法大師が、先祖の菩提を供養するため、唐の都長安の青龍寺を模して建てたとされる。本堂がある「伽藍(東院)」と御影堂(太子堂)を中心とした「誕生院(西院)」からなる。
 御影堂がある場所は大師の生家である佐伯氏の屋敷があったところ。善通寺の名の由来は、大師の父、佐伯善通の名を寺号にしたと伝えられる。真言宗善通寺派の総本山であり、高野山、東寺と合わせ空海の三大霊跡とされる名刹。
 東院で目立つのが善通寺のシンボル的存在の五重の塔、創建以来何度も火災に遭ってその度に再建を繰り返し、現在の塔は弘化二年
(1845)から六〇年余りの歳月をかけて再建されたもの。

 東院から中門を出て西院の仁王門を潜る。
 仁王門から回廊が御影堂まで続く。お参りをして納経を済ませ、再び中門から東院に渡り、一四一〇 南大門から金倉寺に向う。
 南大門を出るとしばらく綺麗に整備をされた参道が続く。
 最近まで市長をされた防大の先輩、亡き宮下さんの功績に違いない。
 感慨深く歩く。


 参道を善通寺駅方向に向かい、JR土讃線を立体交差で越えて、国道319へ出る。国道の東側に並行する旧道を歩く。
 やがてどっしりとした仁王門が見えてくる。

七六番札所今倉寺(こんぞうじ) 一四五八

 弘法大師の甥で、天台寺門宗の開祖、智証大師が生まれた場所。
 五歳の頃に詞利帝母(鬼子母神)の化身である天女が現れ、
「仏道に入るならずっとお守りします。」と告げられた伝説がある。
 こうしたいきさつから、太子堂には弘法大師と智証大師、更に天台大師、伝教大師が祀られている。
 四国霊場で太子堂に弘法大師以外が安置されるのは数少ない。

 一五〇五 出発。約一時間一〇分、長閑な雰囲気の住宅街を歩く。

七七番札所道隆寺(どうりゅうじ) 一六一五
 和銅五年(712)、この地を治めていた豪族、和気道隆が光る桑の大木に矢を射ると、乳母が倒れて死んでいた。
 悲しんだ道隆はその桑の木で薬師如来を彫って祀ると不思議にも乳母が生き返ったという縁起がある。
 後に弘法大師も薬師如来像を刻み、道隆の像を胎内に納めた。

 一六四五 出発。
 JR予讃線と並行に走る交通量の多い県道21号線を歩く。
 丸亀市の中心、丸亀城近くのアパホテルを目指す。
 本日は到着が遅くなることを予期して、二日続けてだが、ビジネス・ホテルに泊まることにした。幸いにも、杖を左に持ち替えてから、右膝の痛みは減じて予定通り完歩出来た。

 一七二〇 ホテルに到着。すぐ近くにコンビニも有り、便利。
 早速夕食を調達。今日は歩きながらの昼食で、空腹は極限状態。
 風呂もそこそこに夕食。若干食べ過ぎか?と思うくらい食べる。

 何時もの手順に従い「無事メール」等をこなして、就寝。

歩行距離三二・三`

   第七日目   四月一四日(火)   雨のち曇り
丸亀市大手町→七八番札所
郷照寺(ごうしょうじ)
七九番札所
天皇寺(てんのうじ)→八〇番札所国分寺(こくぶんじ)
八一番札所
白峰寺(しらみねじ)→坂出市(簡保の宿)

 〇六三五 昨晩コンビニで揃えたサンドイッチで朝食を済ませ出発。
 今朝も雨、今回の区切り打ちは雨が多い。
 特に朝方の雨が多くて、スタートの気持ちにブレーキがかかる。
 昨晩と同じコンビニに寄って、昼食を用意し、丸亀市のメイン道路を東に向け歩く。彼方に丸亀城が霞む。

 丸亀市を抜け、瀬戸大橋を眺望する街、宇多津町に入ると、すぐに郷照寺。

七八番札所郷照寺(ごうしょうじ) 〇七四五

 奈良時代に行基が開山し、後に弘法大師が自身の姿を彫って厄除け祈願をしたことから「厄除うたづ大師」として、今も信仰を集める。
 正応元年(1288)、時宗の開祖、一遍上人が三ヶ月逗留して踊り念仏の道場を開いたことで、真言と念仏の二つの法門が伝わる特異な霊場。〇八〇二 出発。宇多津町を過ぎると坂出市。


 坂出市役所前を通り、JR予讃線する住宅地の遍路道を東進、途中踏切を渡り、天皇寺への田舎道を歩く。
 やがて寺の山門ならぬ朱色の鳥居が見えてくる。
 それも左右に脇鳥居を持つ三輪鳥居という格式の高い鳥居だ。
 鳥居には「崇徳天皇」の額。この鳥居の先が天皇寺の境内。

七九番札所天皇寺(てんのうじ) 一〇〇八

 寺の創建は、弘法大師がこの近くに湧く泉で霊感を得て、霊木で十一面観世音菩薩を刻み、一堂を建立。
 その後、保元の乱(一一五六)に敗れ、讃岐に流され崩御した崇徳上皇の棺が安置されたことから、二条天皇が崇徳天皇社を建て別当寺とした。

 一〇二八 雨が上がったので、雨衣を脱ぎ、出発。
 田舎道をJR予讃線沿いに歩く。
 途中で老人用の手押し車を押す買い物帰りのお婆さんに出くわす。
 挨拶を交わし行き過ぎようとすると、「ちょっと待って」と呼び止められ、大きなバナナの房から三本取り分けてお接待。有難く頂く。
 親切がうれしい。土産店が並ぶ門前町から仁王門へ。
 仁王門の前には枝を水平に広げた松の木が迎えてくれる。

八〇番札所国分寺(こくぶんじ) 一一五四


 聖武天皇の勅願で建てられた讃岐の国分寺。創建当時の規模を残す広い境内には鎌倉時代に再建された入母屋造りの本堂を構える。
 四国最古の梵鐘は、音色が美しく江戸時代高松藩主が城に持ち帰ったという。本堂、梵鐘共に国指定重要文化財。

 納経を済ませ、納経所前に設置されたベンチで、朝購入したお握りの昼食をとる。国分寺の飼い猫が、ちょっとおしゃまにベンチの周りをデモンストレーション。なかなかの美形。

 一二二三 食事を終わり出発。
 国分寺を出発をして、しばらくすると山道。
 国分寺の街を見下ろす風景は、変化に富み、道も歩き易い。
 昔は遍路ころがしといわれた道だが、看板等から、自治体やボランティアが熱心に整備しているのが窺える。


 山道を登り切り、標高三八〇bの一本松に到着。
 此処から自衛隊演習場横を走る自動車道をしばらく歩く。
 時々思い出したように、静寂を破って、機銃掃射の音が響く。
 こんな所でも地道に、国の防衛のため訓練をする自衛隊が存在する。感激、ご苦労様。自衛隊の宿舎脇の山道を下り白峰寺を目指す。
 この山道は先ほど登った国分寺町管轄の山道とは違って、雨で水浸し状態の箇所が多く、滑りやすい。
 苦労を重ね、やっとの思いで白峰寺に到着。

八一番札所白峰寺(しらみねじ) 一五〇五
 赤嶺、黄の峰、青峰、黒峰、白峰からなる五色台の白峰に建つ札所。
 弘法大師とその甥にあたる智証大師の開基。
 崇徳上皇がこの地で崩御。上皇の御廟所「頓証寺殿」がある。
 白峰山には相模坊という心優しい天狗が棲み、小僧の仕事を手伝ったという話が残る。


 山門を出て下って来た山側の道とは反対方向の舗装路を下る。
 突然視界が開け瀬戸内海が視界に飛び込んでくる。
 瀬戸大橋が雲間からの陽を浴びて姿を見せる。

 突然に視界開けし瀬戸内に 夕日を浴びて大橋映える

 白峰寺から瀬戸内の海を堪能しながら、県道を歩き
「簡保の宿・坂出」に、一五五三 到着。

 この簡保の宿は、風光明媚な五色台の山懐に抱かれ静けさに満ちている。天然温泉の湯は豊かで、瀬戸大橋、島影の瀬戸内海を眺望できる最高の場所にある。二階か三階の建物で、部屋数は四〇位か。
 全部瀬戸内に面するという今回のお遍路で泊まる宿の中では、最高級の部類だ。昨日まであくせくと回り、疲労も溜まっているので、少々ペースダウンをし、リフレッシュしようと急遽選んだ宿であるが、大成功のようだ。このような宿が遍路宿に登録されているのもうれしい。


 洗濯を済ませ、ゆっくりと温泉に入り疲れを癒す。
 チャージも出来、脚の調子も戻ったようで、何とか結願まで頑張れそうだ。

 明日は、又、朝方荒れる予報。
 宿の予約、「無事メール」を終わり、再度温泉に入り就寝。

歩行距離二四・四`

   第八日目 四月一五日(水) 曇り時々雨
坂出市白峰→八二番札所
根香寺(ねごろじ)→八三番札所一宮寺(いちのみやじ)
高松市屋島中町(ひろせ旅館)


 〇五〇〇に目が醒める。
 全ての準備を済ませ、食堂で朝食を取っていると、それまで穏やかだった窓越しの天候が窓に雹が打ち付けるような大荒れに急変する。
 一度バックパックに仕舞い込んだ雨具を引出し、装備を整える。
 〇七二五 嵐は通り過ぎた宿を出発。
 自衛隊の演習場の横まで舗装の県道を歩く。
 途中で白峰寺に向うお偏路と行き交う。
 国分寺で泊まったというMさんも白峰寺に向っていた。昨日歩いた自動車道を一本松まで歩き、下りの山道に入り、根香寺を目指す。
 山道の遍路道は、このところの雨の所為で泥沼状態。
 急坂は、非常に滑りやすい。

 根香寺は五色台の青峰に建つ札所、仁王門を潜って境内へと進むと、いったん石段を下り、又登るという変わったアプローチとなる。

八二番札所根香寺(ねごろじ) 〇九〇一


 弘法大師が唐に渡る前に回路の安全を祈願し、五代明王を祀って創建。その後大師の甥の智証大師が霊木に千手観音像を刻んで安置。
 その霊木の根株が香りを放っていたことから根香寺が寺名になった。

 〇九一八 雨の心配が無くなったので、雨衣を納めて出発。
 舗装された自動車道の下りに、ゆっくりと身を任せ、視界に広がる瀬戸内の島影を楽しむ。ゆったりと時が流れていく。幸せな気持ち。
 この後、思いもよらない災難が待っているとも知らず。
 山道は足元が悪く大変なので、距離は遠くなるが、坂の勾配が緩く足元の良い自動車道のヘヤピンカーブを下る。
 途中ショートカット出来る遍路道の道標に出くわす。安全第一と一〇bほど通り過ごすが、距離を短縮したい欲望に駆られ引き返す。
 道標もあることだし、勾配も適当で、山道は枯葉に覆われ泥濘でもない。大丈夫だと判断して、思い切って下ることにする。
 ところが、枯葉で隠れた部分はコンクリートで、一足踏み入れた途端滑ってしまう。ここで尻餅を突けばズボンが汚れる程度で済んだのだが、歳を考えないで立て直すべく抵抗してしまう。
 尻餅をつかぬよう前方に踏鞴を踏んだ途端、背中のバックパックが前方へのベクトル力と化して、左右の木々が飛んで行くほど加速がつき、コントロールが利かなくなってしまう。
 このままでは危ないと右前方へ体を投げ出し、右肩でショックを吸収するつもりが、勢いで右顔面を打つ。まさしく顔面制動である。
 しばらく起き上がれない。
 どうやら骨折のような大怪我は無さそうで、血も出ていない。
 顔面は腫れてくる感じだが、眼鏡はしている。恐る恐る立ち上がる。
 白衣とズボンは泥だらけだが、身体は大丈夫のようだ。
 取り敢えず、安全で平らな場所まで移動したいのだが、どうも目の焦点が合わない。漸く眼鏡の右レンズが無いことに気付く。
 どうやら右顔面を打った時に飛んだようだ。山道は落ち葉と雨でグチャグチャ状態で、レンズは見つけることは出来なかった。大変な事であったが、怪我は軽微で歩ける状態だったことで良しとするしかない。

 山道で激しく転ぶ災難も 怪我が無いのは仏の情け

 遠近両用だった眼鏡無しでも、遠中距離は支障ないが、近距離、特に手元が駄目なので、地図やスマホを見る時は、老眼鏡をいちいち掛けたり、外したりしなくてはならない。
 ズボンや白衣の汚れは、タオルで泥を落とすのが精一杯で、顔も手も水で洗いたいのだが、歩いても、歩いても水場がない。その中、山を下り切り、鬼無の街でJR予讃線の踏切を渡って、飯田町に入る。
 人に会うのも恥ずかしい。
 一一四八 瀟洒なお遍路休憩所を見つける。
 立派な洗面所、トイレも完備している。
 さっそく、ズボン、白衣を洗い、予備の衣服と着替える。
 泥に汚れた顔や手も綺麗に洗うことが出来る。
 顔の右半面は腫れ、目の周りが内出血でパンダ状態。鏡で顔を細部チェックすると眼鏡の枠で圧迫したらしく、眼鏡型の傷がついている。
 有難いことに、水をふんだんに使えることで、いろいろ処置が出来る。


 休憩所はちゃんとした建物で、部屋も瀟洒。大師様の姿や、お経など遍路ゆかりの品を祀る場所もあり、思わず感謝の合掌。
 机上には、接待用の甘い梅漬けが置かれており、有難く頂く。
 美味しくて一〇個近くも御馳走になる。
 これぞ、まさしく「地獄で仏」であった。
 一二三〇 充分に休息をとり、リフレッシュして出発。
 田園風景の中を標識に従い香東川沿いに南下、途中お遍路道の橋が決壊しており、大回りを強いられる。今日は本当に厄日だ。
 根香寺から約一五`の長い行程を歩き切り、田村神社の鳥居と向かい合う一宮寺の仁王門に到着。

八三番札所一宮寺(いちのみやじ) 一四三三
 一宮寺は大宝年間(701〜704)に創建され、当初は大宝院と呼ばれたが、田村神社が八世紀初めに創られると、その管理を行う別当寺となり、寺名も一宮寺と改められる。
 その後、弘法大師が訪れて聖観世音菩薩を刻んで本尊とした。
 戦国時代に長宗我部氏の戦火で堂宇を焼失したが、再興。
 延宝七年(一六七九)、田村神社と分けられ、今に至る。


 田村神社の門前の道を
北上、高松自動車道の高架を潜り、高松市の中心街を避けて、詰田川沿いの遍路道を歩き、やがて国道11号線に合流。そのまま道なりに進んで琴電屋島駅前の「ひろせ旅館」に、一七〇〇 到着。

 「ひろせ旅館」は、御主人の高齢化に伴い食事を出さない泊りだけの宿になっていた。食事の調達にスーパーを捜す。夕暮れで薄暗くなると、眼鏡無しでは大変不便であることを思い知らされる。
 薄暗くなると見えにくく識別が利かず、又、西日を浴びると今まで眼鏡のUVカットの機能に慣れていた所為か、強烈に眩しい。

 風呂に入って、やっと落ち着く。何とも辛い一日であった。
 妻には、余計な心配をかけまいと、転倒の経緯は伏せ、その他の情報で、「無事メール」を送る。詳細は帰宅してから。

歩行距離三三・六`

   第九日目   四月一六日(木)   晴れ
高松市屋島中町→八四札所
屋島寺(やしまじ)
八五番札所
八栗寺(やくりじ)→八六番札所志度寺(しどじ)
八七番札所
長尾寺(ながおじ)→さぬき市(ながお路)

 〇七〇〇 朝食を済ませ、宿を出発。
 屋島小学校の脇を通り、急坂を登る。
 かなりの数の地元の人達が朝のウオーキングで屋島寺を目指している。


 屋島は高松から瀬戸内海に突き出た半島のようになっている。
 だがその昔は、四国とはごく細い海峡で隔てられた島であったらしい。この地は、平家が源義経の急襲により、瀬戸内海を西に敗走、最後壇ノ浦で敗れて、平家滅亡のきっかけとなった戦いの現場だ。

八四番札所屋島寺(やしまじ) 〇七五四



 後に奈良に唐招提寺を開いた鑑真が、唐から奈良へ向かう途中屋島に立ち寄り、北嶺にお堂を設けたのが始まり。
 寺が今の南嶺に移ったのは、弘仁元年(810)のこと。仁王門の先に四天門が有り、これをくぐると、正面に単層入母屋造の本堂が建つ。
 鎌倉時代末期の建築物で、国の重文。

 屋島は溶岩台地の山で、頂上は標高二九二bの南嶺と標高二八二bの北嶺に分かれ、瀬戸内海や高松市街の眺めが素晴らしい。
 眼下の東側には源平の帰趨を決めた古戦場が広がる。

 眼を閉じて屋島の台に佇めば つわもの達の幻浮かぶ
 屋島より眺める海は源平の 栄枯を決めた古き
戦場(いくさば)

 屋島寺から東側の山道を下る。
 途中屋島ドライブウエイを横切る遍路道はかなりの急坂。
 昨日の事があるから、極めて慎重に下る。
 老眼鏡は、グラスコードとして包帯を細工し、首から吊り下げて、必要の都度、架け外しすることにした。
 独特な山容の五剣山を目指して歩く。
 約六`歩き、八栗ケーブル登山口に到着。ケーブルカーの待合室には、多くの乗客が待っており、その中にはお遍路姿もかなりの数だ。
 団体ツアーのお遍路のようだ。
 待合室を横に見ながら、参道を登る。参道入り口に草餅屋がある。
 この草餅屋は「男はつらいよ」のロケ地になった店。
 店には寅さんの等身大の人形もいた。
 口は悪いが人の好い女将が草餅を一つ接待してくれる。
 柔らかくて旨い。昼食用に二つ買いこむ。
 参道は舗装をされていて、途中の景色も素晴らしい。
 しかし、歩いて登る人はほとんどいない。



八五番札所八栗寺(やくりじ) 一〇二〇
 屹立する岩峰の五剣山(標高三六六b)の中腹に建つ。
 かっては難所の一つに数えられていたが、現在はケーブルカーで山上まで行くことが出来る。
 弘法大師が唐へ渡る前に成就を願ってこの山に登ったが、その時に境内に埋めた八つの焼き栗が、帰国後、八株の栗の木に成長していたことから八栗寺と名付けられたという。
 戦国時代に焼失の後、文禄三年(一五九四)に本堂が再建され、江戸時代に高松藩主松平氏が諸堂の整備に力を尽くした。


 一〇二五 出発。
 八栗寺の裏参道から下山、やがて国道11号線に乗る。
 そして、途中の交差点から旧道の遍路道に入り、平賀源内邸前を経由し、志度寺の仁王門をくぐる。

八六番札所志度寺(しどじ) 一二三二
 志度寺の歴史は古く、創建は推古天皇の時代(592〜628)。
 弘仁年間(810〜821)に弘法大師が訪れ、霊場としての歴史が始まったという。
 現在の本堂、仁王門は寛文一〇年(一六七〇)に高松藩主松平頼重によって造営されたもので、共に国の重文。
 仁王門には鎌倉時代の運慶作と伝わる金剛力士像が力強く立つ。
 境内は広々とし、多くの見所が点在する。五重塔は昭和五〇年に建立されたものだが、讃岐の古刹らしい威厳を見せる。


 一二五一 八栗寺参道で求めた草餅を昼食として食べ、早々に出発。県道3号やそれに並行する旧道の遍路道を歩く。
 広瀬橋で県道を右折し鴨部川沿いを歩く。
 川沿いの遍路小屋で休憩の後、川を渡り田園風景の広がる遍路道を南に真直ぐ長尾の街に入る。

八七番札所長尾寺(ながおじ) 一五一五
 長尾寺の仁王門は、元禄七年(一六九四)の建築で鐘楼を兼ねている。仁王門の前には、左右一対の「経幢(きょうとう)」と呼ばれる石柱がある。
 それぞれに経文が刻まれ、「弘安六年」「弘安九年」の銘がある。
 一三世紀後半の「元寇の役」で犠牲になった讃岐の将兵を慰霊するために建てられたもので国の重文とか。

 長尾寺は、縁起によると天平一一年(739)、行基が聖観音菩薩を刻んで小堂に安置したのが始まりで、弘法大師が唐へ渡る前に、唐での無事と修行の成就を祈願したと伝えられる。


 今日の宿「ながお路」は、長尾寺と隣り合わせ、一五五〇にチェックイン。明日の結願を目指すお遍路七人が宿泊。

 いよいよ明日結願だ。ゆっくりと風呂に入り、食事を終える。
 「無事メール」で報告をし、明日に備えて早めに就寝。

歩行距離二二・五`

   第一〇日目 四月一七日(金) 晴れ
長尾寺→八八番札所
大窪寺(おおくぼじ)
東かがわ市白鳥町(白鳥温泉)


 〇六五六 朝食を終わり、宿の女将たちに見送られ出発。
 長尾寺の門前町には、結願を目指す最後の宿場として多くの遍路宿が軒を連ねる。
 結願を目指す朝立ちのお遍路達があちこちに目に付く。
 今回の旅は、悪天候が続いたが最後の結願の日は青空の素晴らしい天気になった。

 県道3号に並行する旧道を歩き、前山のお遍路サロンに立ち寄る。
 お遍路さんの情報交換や地域住民との交流の場だそうだ。
 サロン内にある「遍路資料展示室には、江戸時代の紀行本や古地図等、四国遍路の歴史を感じされる資料が展示されている。
 又、結願の歩き遍路には「遍路大師任命書」を発行してくれる。
 資料を見ながら、江戸時代のお遍路に想いを致し、暫し休憩。
 その間に「遍路大師任命書」も発行してもらう。


 この前山お遍路サロンから、大窪寺までのルートは四通りくらい有り迷う。女体山の山越えが距離的には近いが、かなり厳しいらしい。
 連日の雨で、道もかなり荒れているらしく、かつ先日の転倒事故の記憶もトラウマとなり、山道を避けることにする。
 県道3号線を主体に歩くことにする。


 多和の集落から国道377号線へ。途中休憩所で休んでいると同宿だったRさん、宿は違ったが、顔見知りのMさん達が追い付いて来る。一足先に出発し、遍路宿「旅館竹屋敷」の先で旧道に入り、里山をのんびりと登る。

 結願の道踏みしめてやったぞと 声には出さず心で歓喜 
 薫風が結願の道吹き抜けて 汗かく顔に優しくそよぐ


 一一四八 西側の仁王門に到着。境内を横切って、本堂に向かう。

八八番札所大窪寺(おおくぼじ) 一一五二


 寺の歴史は古く、養老元年(717)に行基によって創建されたのが始まり。九世紀初め、唐から帰国した弘法大師がこの辺りの岩窟で秘法を行なった際に大きな窪の側に堂宇を建て、薬師如来を刻んで本尊としたと伝えられる。中世は一〇〇以上の堂塔が建ち隆盛を見せたが、天正年間(1573〜1592)に兵火に遭いほとんどが焼失。
 江戸時代に高松藩主松平氏が再建するも明治三三年(一九〇〇)にまたも火災に見舞われ、山門以外の伽藍を焼失。
 現在の建物はほとんどがその後の再建。とはいえ、山深い緑に包まれた境内は、結願の寺にふさわしい落ち着いたたたずまいを見せる。
 納経所では、結願の証明書を書いてくれるが、明日一番札所霊山寺にお礼参りをするつもりであり、そこでも書いてくれるというのでパスする。それにしても証明書は二〇〇〇円とか、高すぎでは。
 私の様な遍路一回目の人間が、わずかに証明書を求めているが、その他のお遍路は無視のようだ。門前の「八十八庵」で、名物の「打ち込みうどん」で結願のお祝いをする。まだ歩くのでビールはお預け。


 結願まで、後になり先になり歩き、あるいは宿で一緒になったMさんやRさん達を始め、顔なじみになったお遍路仲間が続々と結願のゴールに入って来る。それぞれ別れを惜しみ去って行く。
 岡山のMさん等の中国地方の人は、頻繁にある瀬戸大橋を渡る定期バスで、今日中にお宅に帰り着けるらしい。
 一番札所経由で徳島まで行くのは、私とRさんの二人だけ。
 Rさんとは今夜の宿も同じ。

 一三〇〇 南側の仁王門前を通り、国道377号線に乗り、五明トンネルくぐって境目から、山道の遍路道に入って、宿に向かう。
 大窪寺を出発して、下りの舗装道路が続くと右膝が痛みだす。
 下りは鬼門だ。休み休み、膝を庇いながら歩く。
 途中で休憩中にRさんが追い抜いて行く。一五三五 宿に到着。
 宿である自然休養センター「白鳥温泉」は、第三セクターの運営らしく、立派な設備を持つ宿泊施設だ。
 今日は、結願を祝し、ゆっくり温泉に浸かり、リフレッシュするつもり。

 温泉は綺麗で、湯も良し、疲れも、足の痛みも飛ぶ。
 食堂では、Rさんと一緒に結願をビールで乾杯。
 Rさんは茨城の方で明日夜、徳島から高速バスで東京に出てから、常磐線で水戸まで帰られるとか。お遍路仲間との話の中で、高速バス利用者が意外と多いことを知る。
 勿論、安価であることもあるが(シニアー割引の航空運賃より高い座席もあるようだ)、到着した日は早朝からスタート出来、打ち終わりの日は一日歩いて夜遅く帰ることが出来るというメリットがあるのだ。時間に余裕のある私の様な高齢者は、往復の体力消耗を少なくする方が、重要だとも思うのだが。
 何はともあれ、これも経験と帰路は高速バスを使うことにし、昨夜、高速バスをスマホで予約しておいた。帰りの交通手段はRさんと一致したが、バス会社が異なり同じバスでということにはならなかった。

 Rさんとの会話も一段落したところで解散、部屋に戻り、明日の準備をする。妻に結願の報告をして、就寝。

歩行距離二六・三`

   第一一日目 四月一八日(土) 晴れ
東かがわ市白鳥→一番札所
霊山寺(りょうぜんじ)→板東駅→
(JR高徳線)→徳島駅→(高速バス)→
舞浜(デズニーランド)


 〇六三〇 出発。Rさんは、既に一〇分前に出発をして行った。
 緩やかな下りの県道を東に進み、海に面した引田にでる。
 引田で11号線に乗り、しばらく東進する。
 坂元という所で、休息の後、11号線から山側に右折し、最後の難関、標高二六〇bの大坂を越える。
 一二五五 三番札所金泉寺に到着。歩き遍路開始の第一日目にお参りをした札所だ。無事四国一周を果たした報告のお参りをして、霊山寺を目指し、遍路道を逆打ちの形で歩く。
 一年前に歩いた道で、懐かしい。
 二番札所極楽寺を経て霊山寺に到着。

一番札所霊山寺(りょうぜんじ) 一三五七


 お遍路に関して無知のまま、不安な気持ちでスタートした日のことが思い出される。
 「結願」と「歩きで四国一周」成就の報告をし、お礼のお参りをする。
 納経所で結願の証しである「四国八八ヶ所霊場満願之証」なるものを発行して頂く。ここで、大窪寺では「結願の証」の発行だったが、霊山寺では「満願之証」の発行であることに気付く。
 前者は二千円で後者は千円である。どう違うのかな。

 お礼参りとは、最初に参拝した札所へ、無事結願出来たことの報告と感謝を込めて再度参拝することをいう。
 本来お礼参りは必要ないのだが、霊山寺のお礼参りは、多くの遍路が第一番札所霊山寺から四国参りを始めるため、霊山寺が納経料を二倍稼ぐための商法という説もある。
 しかし、最初に参拝した札所に戻って、巡礼の軌跡の輪を繋げたい、という考えから多くの人がお礼参りをすることも確かのようだ。
 私も、四国をきっちりと一周した達成感を尊重したい。

歩行距離二九・五`

 板東駅から徳島行のJR高徳線は一時間に一本。
 一五三一発の列車を待っていると、Rさんも含め三人の満願のお遍路がジョイン・アップ。列車を待つ間、話に花が咲く。
 一五五七 徳島に到着。遍路仲間も独自の行動へと別れる。
 私が乗車する高速バスは、二二〇七発で、行き先は新横浜、新宿を経由して終点はディズニーランド。
 浦安在住の私にとっては、この上ない終点である。
 さっそく、少々かさ張っても運搬出来そうなので、土産物屋で柑橘好きの妻のために箱詰の文旦等、土産を買い求める。バックパックと土産をロッカーに預け、夜の徳島の市街地に夕食を兼ねくり出す。
 疲れているのに良くやるよ…と自分に感心。
 これも結願の昂揚の所為だろう。せっかくの徳島だからと海鮮の店を捜して、新鮮な魚とビールで、遍路旅最後の乾杯。川辺の野外ステージでは、バンドが集結し、演奏を競うイベントで盛り上がっていました。

 二二〇八 徳島駅前から高速バスに。乗車が週末の土曜日ということ、直前二日前の予約ということで、良い席にはありつけなかったが(料金は約八千円)、東名高速の海老名サービスエリアまで爆睡。

 〇八三〇 妻に舞浜の駅前まで迎えに来てもらい、無事帰宅。
 久しぶりの我が家で、くつろぐ。妻も元気そうだ。何より。
 坂道転倒など、初めての報告もあったが、何はともあれ、結願し、我が家に帰り着いたことを、二人で祝う。

 おわりに

 今回・第三回目の区切り打ちの歩行距離は、結願である八八番札所大窪寺まで二四三・二`、満願の霊山寺まで二八一・八`であった。

 一回目区切り打ち 四四五・八`
 二回目区切り打ち 四四一・七`    合計一一六八・九`
 三回目区切り打ち 二八一・八`

 一般的に四国遍路は一四〇〇`の行程といわれる。
 それは主に国道や県道を行く「車遍路」の場合で、「歩き遍路」の行程は、旧道や山道の近道を歩くので一二〇〇`となる。
 最短を何事もなく歩けば約一一〇〇`なのだが、道に迷ったり、宿が遍路道から多少離れていることもあるので一二〇〇`なのである。
 私も道に迷ったりして、計測出来なかった分もあるので一二〇〇`が妥当と思われる。

 歩き遍路を開始した直後は、その日予定した札所を回ることしか頭に無く、その寺の縁起や興味深いいわれなどに接することなく本堂と太子堂をお参りし、納経をするというだけで、次の札所に向かうことが続いた。

 歩き遍路は、どうしても時間との戦いになることは否めないが、折角のお参りである。
 その札所などの縁起やいわれを知らねばもったいないことに気付き、事前に情報収集をし、札所での短い滞在時間で効率良く境内を回ることに努めた。

 お参りも、最初は形式的であったが、参拝を重ねるうちに、心から「祈り」「拝む」自分に気付く。
 「般若心経」のリズムを心地良く感ずるようになる。

 四国遍路は、曼荼羅に表わされる真言密教の教えにのっとったもので、阿波(徳島)は「発心」、土佐(高知)は「修行」、伊予(愛媛)は「菩提」、讃岐(香川)は「涅槃」の道場とされ、我々一人ひとりが自分の中に存在する仏性に目覚め、成長していく四つの過程と四国の四つの国(県)とを重ね合わせた壮大な発想に基づいている。

 私自身は、体調回復の証明と共にこれまでの人生に対する感謝や反省を含め「自分を見つめなおす」ということで「発心」をした歩きの四国遍路であった。
 簡単に人間変わるべくもないが、大自然の中に身を任せ、大師様と共に八八ケ所を旅したことは、何にも変え難い充実感と喜びを感じている。
 又、道中で苦労したこと、途中から「祈り」を身近に感じて参拝に集中したこと、優しくお遍路を受け入れる四国の人達に感謝の気持ちでいっぱいであること等々、遍路を始める前とは気持ちの上で大いに違う。

 この紀行文は、これからの人生で身体的にお参りが出来なくなっても、読み返すことによって経験した思いや気持ちを忘れることなく、心の中で歩き続けたいとの願いを込めての記録である。

 最後に、心配を黙して四国へ送り出し、いろいろな意味で支えてくれた妻へ、心から「ありがとう」の感謝の言葉を送りたいと思う。

【参考】





 後輩の鬼塚君が扇子と陶器に「般若心経」を写経し、結願のお祝いをしてくれた。感謝!

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