四国遍路(区切り打ち・第二回)
   平成二六年一〇月二九日〜一一月一三日
村木鴻二 戻る
 第一回目の歩き遍路は、平成二六年五月一五日から三一日まで、半月をかけて一番札所霊山寺から三七番札所岩本寺までの約四五〇`を、概ね計画通り歩き終えた。
 平成二五年二月に退院して以来、順調に回復した体調が本物であるかどうかを検証したくて、周りには内緒のおっかなびっくりのトライであった。

 家に戻って一カ月もすると、辛かった体験は消え去り、良かったことだけ思い出すのは人間の性か? 早く続きを歩いて結願したいとの願望が強くなる。
 四国のお遍路から帰ると、又、すぐに行きたくなる四国病というのが有るそうだが、正にその症状だ。しかし来年一月、後期高齢者の仲間入りする我が身を思えば、酷暑に四国を歩くのはとても無理、二回目の区切り打ちは気候の良くなる秋と定めて満を持していた。
 そして、行事予定等を考慮し、平成二六年一〇月後半から一一月中旬にかけて第二回目の区切り打ちを実行することにした。

 今回は三七番札所岩本寺から概ね六〇番札所横峰寺を目指すことにする。三七番札所岩本寺から三八番札所金剛福寺までの八七`は、八八ヶ所の札所間で、最大の距離となる。この区間を含め、修業の道場・土佐路(高知県)は、まだ約一八〇`を歩かねばならない。
 この一八〇`の区間には札所は三か所しか無いので、お参りをすることなく、ひたすら歩くだけの日も多くなる。
 そして、土佐路が終わり、菩提の道場・伊予路(愛媛県)に入ってからも、前半の行程では札所が少なく、かつ、山や峠越えの難所が多い道のりで、辛い遍路歩きを覚悟しなければならないようだ。

 前回帰宅後、毎日続けていた歩くトレーニングも夏の暑さで中断、実行前に泥縄で再開したものの不安の残る出発となる。

 前回の区切り打ちで、少しは感謝や我慢の気持ちは醸成されたのではないかの期待は、妻の言によればまだまだのようだ。
 なかなか難しい課題であるが、歩き遍路実施中に「悟る」まではいかなくとも、何かを「感じる」ことくらいは出来るかもしれない。
 自分に期待して挑戦してみたい。

 今回は、三七番札所岩本寺から、六〇番札所横峰寺までの概ね五〇〇`、前回の達成距離とのトータル約一〇〇〇`を目指す。

   頑張るぞ !



参拝手順 
 一、山門で一礼する。 
 二、手水場で手口を清める。
 三、鐘を突く。 
 四、本堂で灯明、線香を上げる。
 五、納め札を納める。 
 六、お賽銭を上げる。
 七、読経する。 
 八、太子堂で四〜七を繰り返す。 
 九、納経所で納経する。

遍路装束


   第一日目 一〇月二九日(水) 晴れ
羽田(JAL)→高知空港(バス)→高知駅(JR)→窪川→
三七番札所岩本寺→黒潮町荷稲(かいね)→土佐佐賀駅(くろしお鉄道)
→荷稲駅→黒潮町土佐佐賀温泉(こぶしの里)


 早朝、妻に車で羽田に送ってもらう。
 予定通り、〇七五五発JAL高知便のシニアー割引をゲット。出発ロビーには、出発を待つ菅笠を持つお遍路さんらしきグループも見える。
 便は定刻に出発、〇九一〇に着陸。高知は秋晴れ、幸先良し。


 一〇〇〇頃、バスで高知駅に到着。早く岩本寺のある窪川まで行きたいが、次の特急は一一三九まで無い。時間を潰すのは、高知駅でも列車でも同じと考え、一〇二〇発須崎行普通列車に乗る。
 須崎は前回歩いた場所、ゆっくり四国を思い出しながらの列車の旅もまた良し。時々、車窓から前回歩いた道が視界に入り、懐かしい。
 一一二八に須崎に到着。コンビニでお握りを求め、駅の待合室で昼食。
 待つほどに高知発一一三九の特急南風3号が到着。
 一二三五に発車、一二四七に窪川到着。
 僅か一二分の特急の旅だった。
 窪川では、かなりのお客が降車したが、殆どがお遍路さん達だ。


 一〇分ほど歩いて、前回打ち止めの三七番岩本寺に到着。
 今回は、前回新米お遍路だからと遠慮した菅笠を被ることにする。
 少しはお遍路に馴れたかな。さっそく菅笠スタイルで写真。


 一三二五 爽やかに秋風が吹き抜ける岩本寺を出発、歩き開始だ。

 秋晴れの風爽やかに岩本寺心新たに遍路再開

 窪川は札所の街、遍路ゆかりの弘法太子像が至る所に。


 街を通り過ぎ、国道56号線を南下。久しぶりの遍路歩きだが快調。
 一五時少し前に今日の宿、土佐佐賀温泉(こぶしの里)に到着。
 まだ、陽も高いので、荷物を宿に預け先まで歩く。


 前回は歩き終わった地点を宿泊地としたので、宿まで無理して長く歩いたり、まだ陽が高いのに宿に入ったりだった。
 しかし、それでは今回のように一八〇`の間に、札所が三か所だけで宿が少ない区間では不効率極まりない。
 そこで陽が高い時は、ぎりぎりまで歩き、歩き終わったところでバスや鉄道などの交通機関を使い宿まで引き返し、翌朝、前日歩き終わった場所まで、再び交通機関を使い進出し、歩きを続けることにした。
 ちょっと姑息にも見えないこともないが、「全コースを自分の脚で歩く」ことは、自分への挑戦としてりたい。くろしお鉄道の土佐佐賀駅に到着。
 最後は一時間に一本の列車に遅れないよう走るように歩く。
 一七三六発のくろしお鉄道で荷稲駅に引き返す。
 二時間半歩いた距離も、乗車時間は一〇分ほど。
 文明の利器の偉大さが身に染みる。山裾にある荷稲駅は、真っ暗闇、ライトを頼りに地図で宿への道を調べていると、高校生の娘さんを迎えに来ていたお母さん、「どうぞ」と車で宿まで送って下さる。
 一日目から四国の親切、接待の恩恵を頂くことに。感謝。
 今日の宿は、前回温泉が多い四国であるにも拘らず、温泉宿に泊まるチャンスが無かったので、今回最初は温泉宿と定めて予約をしておいた。
 一日目、ちょっと張り切りすぎか。無理した体に、温泉が心地良い。
 「今日も無事」
 メールを妻に送り、温泉の余韻に浸りながら眠りにつく。

歩行距離二〇・一`

参考
「心についての功徳は、きちんとお参りすれば歩きでも車でも変わりない」
四国八八ヶ所霊場会 会長、五二番札所大山寺吉川住職

   第二日目 一〇月三〇日(木) 曇り
黒潮町土佐佐賀温泉→荷稲駅(くろしお鉄道)→土佐佐賀→
入野松原→四万十大橋→市野瀬(バス)→
中村市(BHクラウンヒルズ中村)


 五時起き、朝食は昨日コンビニで用意したサンドイッチで済ませ、荷稲駅まで歩く。下り一番列車、〇六一五発のくろしお鉄道に乗る。
 この時間は高校生の通学専用という観の列車だが、列車の壁は小学生のお遍路さん応援メッセージで一杯、感激!


 土佐佐賀駅で降車し、〇六三〇歩き開始。
 海に面した国道56号線を歩く。
 太平洋に昇る日の出の写真をとシャッターチャンスを狙うが、雲が多くチャンスに恵まれ無いまま、有井川に到着。
 有井川から国道56号線を西に向かって歩く。
 途中、穏やかな入り江にの漁港が見える。
 もう漁は終わったのだろうか、船は静かに停泊し、人の動きは無い。
 街道筋にホエールウオッチング案内の看板が目立つ。
 鯨が見えないかと海を見渡しながら歩くが、今はシーズンではなさそうだ。遍路小屋の屋根も鯨型をしている。


 国道56号線を左に逸れ、海沿の遍路道を歩くとやがて入野松原の入り口に到着。時間は〇九三三。
 案内版によると『入野松原は、天正の頃、長宗我部元親の重臣谷忠兵衛忠澄が中村城代の時、囚人を使役して植樹したと伝えられる。
 一方それ以前に松原があった事が「土佐物語」に書かれているので、忠兵衛植樹説は補植説であろうとも言われている』とある。
 それはともかく見応え歩き応えある、広大な九〇f(東京ドーム二〇個分)もある松原だ。


 長い松原の道を抜け、国道の南側に位置する県道を、西に向かってひたすら歩く。
 舗装されているが人も車も少ない。やがて四万十川にぶつかる。
 一二三〇 四万十大橋に到着。橋の長さは六八七b。


 橋の近くにはコンビニや産地直売所があり、賑っている。
 お遍路さんもかなりの数だ。
 朝から此処まで歩いている間、一人も会わなかったのが不思議だ。
 金剛福寺に向う幾つかのルートは、全て四万十川を渡るために、この橋に集中するようだ。お遍路だけでなくドライブの観光客も多い。
 季節が良く、週末は連休ということで四国が賑っているようだ。
 四万十の清流を眺め昼食と休養のひと時を過ごす。
 青空も見え出して秋風が気持ちが良い。

 一三二〇 橋を渡り、今日のゴール・市野瀬を目指す。
 国道321号線を四万十川沿いに三`ほど南下し右折をすると登り道になり、かなりの急坂で辛いが、すすき等の秋の風情が続く。

 一六〇〇bの長い新伊豆田トンネルを抜けると、そこは市野瀬。
 一五四五 休憩所に到着。
 大きなパーキング・エリアがあり、営業している店は無いが、飲み物や食べ物等の自販機が沢山置かれ、トイレなども立派で綺麗に管理されている。頻繁にドライブ中の車や観光バスが立ち寄る。
 エリア内には遍路休憩所もあり、歩き遍路にとっては格好の休憩場所である。
     
 遍路標識が示す距離表示で、八八ヶ所中、最長区間である三七番と三八番の道のりを、やっと半分以上歩いたと実感する。
 ここから八`先には宿はあるが、どの位歩けるか見当もつかず、それにも増して、旅行シーズン、加えて週末連休ということで、宿が混むことが心配で、自宅を出発する前に四万十市中村(旧中村市)に、BH(ビジネスホテル)を予約しておいた。
 市野瀬から若干引き返す感じになるがバスで中村まで行き、明朝再びバスで此処まで進出し歩きを再開するつもりだ。
 一六〇〇にバスに乗車。一六三〇 中村駅に到着。

 ゆっくりと風呂に入り、疲れを癒す。
 宿に隣接する地元の物産館で、土佐清水のブランド「清水の鯖」で作った鯖鮨と四国名産のみかんを買い求め夕食。
 時間が遅くなったせいか鯖鮨は五〇%オフの二五〇円と信じられない値段、お得感を満喫。缶ビールが美味い。
 「今日も無事」に加え、土佐清水のブランド鯖の旨さなどをメールにして妻に送る。

 二日目無事終了。

歩行距離三三・八`

   第三日目 一〇月三一日(金) 曇り時々小雨
中村駅(バス)→市野瀬→海岸→遍路道→
三八番札所金剛福寺(こんごうふくじ)
→土佐清水市足摺岬(民宿あしずり)

 〇八二〇 中村駅にてバスに乗る。この時間が一番バス、遅い出発だが仕方がない。〇八四五 市野瀬から歩き開始。


 雨は降ったり止んだりが続く。
 途中のコンビニで昼食用のおにぎりを調達。
 一一三〇 大岐海岸入り口に到着。雨は上がったようだ。
 大岐海岸は足摺岬の花崗岩が浸食運搬されたもので延々一六〇〇bに及ぶ白砂青松の海浜。
 一六〇〇b位と歩き出したのは良いが、砂は何とも歩き難い。
 体に対するダメージはかなりのもので、後で大いに悩まされる。
 砂地に残る足跡は先行するお遍路さんの物だろうか。
 広い砂浜に人影は無い。



 くっきりと足跡だけが一筋に残る浜路を我一人行く

 大岐海岸の砂浜に悪戦苦闘した後、足摺岬に東海岸、中央、西海岸と三本ある遍路ルートの中、最もポピュラーな東海岸のルートを選択して歩く。お昼近かくなると多くの金剛福寺から打戻りのお遍路さん達に出くわす。窪津までの道は変化に富み興味をそそる。

 窪津を過ぎると、菅笠を被ることが出来ないほど風が強くなる。
 海辺近くとはいえ、海抜五〇b以上はある断崖の道、アップダウンが激しい。大岐海岸でのダメージがじんわりと効いて来て辛い。
 国道なのに、車両の交差も儘ならぬ狭い道幅の箇所も有り大変。


 岩本寺から約八一`を踏破し、やっとの思いで足摺岬、金剛福寺に到着。

 三八番札所金剛福寺(こんごうふくじ) 一六〇九


 大師は海原の果てに観世音菩薩が住む理想郷、浄土を感得して太平洋に突き出した足摺岬に寺院を開いたと伝わる。
 戦国時代以降、補陀落浄土に渡ろうと僧侶が箱詰めにされた小舟で旅立つ補陀落渡海が盛んだったとか。
 足摺岬の断崖周辺には大師ゆかりの七不思議伝説が点在する遊歩道があるが、風も強く日暮れも間近で、宿まで更に一キロ歩かねばならないので断念し、宿へ急ぐ。
 断崖から覗く海は、波高く岩を打ち荒れ狂っている。 

 南風強く白波豪快に大師ゆかりの足摺の岬

 夕食は海の幸、満載。今回足摺に泊まることも、計画の目玉にしていたので大いに満足。お遍路仲間Qさんが同宿。
 一緒に食事をし、情報交換をする。
 明日は大荒れの天気らしい。気にしても仕方がない。
 成るように成ると達観。
             
 今日は菅笠を、風に持って行かれそうになり苦労した。
 購入したままの状態で「こんな簡単な結び紐の状態で良いのだろうか?」と思いながら被っていたのだが、案の定、強風下不安定で固定出来なかった。
 売店では何も言ってくれなかったが、安物は買った後、自分の頭のサイズに合わせ補強などを施す必要があったようだ。バックパックをひっくり返し、タオルや紐などをかき集め、泥縄式大修理を実施。
 「今日も無事」メールもそこそこに、一〇時過ぎ、布団に入る。
 雨の音が強くなっている。

歩行距離二七・八`

   第四日目 一一月一日(土) 雨(土砂降り)
足摺岬(バス)→
以布利(いぶり)→市野瀬(バス)→中村駅→
中村市(BH中村プリンスホテル)


 〇六〇〇 起床。予想通り外は篠突くような大雨。加えて風も強い。
 前回も含めて、遍路開始以来、最悪の天気。昨日歩いた遍路道は、道幅の狭い所も多く、この豪雨の中では車とのすれ違いは、非常に危険だ。
 「全コースを自らの脚で」の誓いはあるが、取り敢えずQさんと宿の前からバスに乗ることにする。

 〇七一二 中村行のバスに乗車、足摺岬発のバスには七人のお遍路さんが乗っていた。
 他に乗客は無く、バスは我々を入れて九人のお遍路さんの貸切状態。
 しばらくバスに身を任す。雨は弱まる兆しはないが、危険な道も過ぎたようなので、以布利でバス停を降りる。八人の「この雨の中、本当に歩くのですか」の言葉や態度にもめげず、一人敢然と降車。
 バスに一〇`程お世話になったが、あの道は昨日歩いた道、想定外の大雨だから、許してもらうことにする。
 今日は、大雨で予定通り歩けそうにないし、連休初日で宿も混んでいることを見越して、昨夜急遽変更、中村のBH(ビジネスホテル)を予約した。本来ならば、市野瀬に到達する前に、左折北上するルートを想定していたのだが、これも、急遽変更。



 土砂降りの雨強まりて遍路我の弱気とガチンコ勝負



 一二三〇 コンビニで昼食を買うも、食べるスペースが無い。仕方なくしばらく歩いて、道端のトーチカ風のバス待合室を拝借し、食事。
 休んでいる中に、あんなに激しかった雨が嘘のように止む。
 一四〇〇 市野瀬のドライブインに到着。
 昨日ここを出発したのだが、嘘の様でもっと前だったように思える。
 長い雨との苦闘の所為か。トイレ脇の無料休憩所に、九大大学院生のW君が荷物を広げて、納まっている。
 聞けば、大学院を休学して歩き遍路を実施中。
 自分の将来の道などを模索する遍路だそうだ。

   「若者、頑張れ」

 宿泊費は使わなくて遍路する方針なので、昨夜はここに泊まり、今日は朝からの大雨で待機中。この時間に雨が上がっても、この先無料で泊まれる場所や施設が無いので、もう一泊だそうだ。


 W君と別れてバスに乗る。
 一四五七 中村着。連休で駅近の宿は満員で今日は少々遠い地区。
 一昨日の宿は駅近で何かと便利だったのだが。
 疲れた体にムチ打ち、歩くこと三〇分、やっと宿に辿り着く。
 昨日は御馳走だったので、今日はコンビニ弁当。風呂が有れば十分。

 「今日も無事」メールは、毎晩欠かさず打つつもりだが、その日の出来事などは、疲労や眠気の度合いでその内容の濃さはまちまち。
 今日は眠気に勝てず、メールは「今日も無事」だけ。ゴメンナサイ。
 帰宅したら写真を基にじっくり説明するからと、心の中で言い訳をして就寝。

歩行距離一六・九`

   第五日 一一月二日(日) 小雨のち曇り
中村駅(バス)→市野瀬→三原→平田→三九番札所
延光寺(えんこうじ)
宿毛市幸町(BH秋沢ホテル)


 中村駅と市野瀬間は二往復目だ。
 約二二分の行程だが、片道七〇〇円と都バス等に比べるとかなり高い。何時も大型バスに、客は二,三人しか乗っていないことを考えると、この値段も致し方ないのかもしれない。〇八四五 市野瀬を出発。
 中村駅を出発する時は小雨だったが、バスが一六〇〇bの新伊豆田トンネルを出ると、雨は止んでいた。山一つ越えると天気も違うようだ。
 お遍路さんが幾組か前後を歩いている。昨日金剛福寺を終わり、延光寺へのルート上で泊まった朝立ちのお遍路さん達だ。私はここが歩き始めだから、スタミナ的には有利だと中村泊まりを正当化しながら出発。
 今日の遍路道は海沿いを離れ内陸、山の自然がいっぱい。
 しかし、かなりのアップダウンがある山道が続く。




 雨上がり濡れる路傍に慎ましくの花心和まん

 途中遍路宿が提供している休憩所に立ち寄る。
 休憩所の一画で、おばさん達が酒饅頭を作っている。
 明日からのお祭りのための饅頭作りだそうだ。
 遍路宿は二日前から休んでいるとか。昨日大雨にならなければ此処に泊まるつもりだったのだが、中村泊まりに変更して正解か。
 饅頭は如何にも旨そう。一つ百円也。
 一つ頼んだら、「只でいいよ」とお接待を受けることに。
 二つと言えば良かった。残念。

 饅頭を食べ、水分を補給して先を急ぐ。
 三原を通り過ぎると道幅も広くなり、アップダウンも少ない。
 中筋川ダムの景勝を経て平田の街に入る。
 直角にぶつかった国道56号線を左折し1,5`程西に歩き、56号線から山側に逸れて、更に2`ほど歩くと延光寺に辿り着く。

 三九番札延光寺(えんこうじ) 一五一二


 土佐最後の札所。赤亀が竜宮城から背負ってきたという銅の梵鐘には「延喜十一年正月」(911)と刻まれ、国の重文に指定されている。
 又、境内には、大師が水不足で苦しんでいた人々のために杖を突いて湧かせた眼病に効くとされる「眼洗い井戸」がある。


 一五三二 延光寺を出発。
 延光寺から国道に出るまで、田舎道が続きお遍路さんがかなり歩いている。延光寺に向う車も、白衣を着たお遍路さんドライバーが多い。
 連休だからだろう。道の両脇には、果樹園の柿の畑が続く。

 柿の実がたわわに実る里山につるべ落としの秋の夕暮

 国道56号線は四国の幹線道路、昼間山の中で歩いた道は立派な舗装道路だったが、車や人に会うことが稀であったのに比べると雲泥の差、車も多く交通量は半端でない。今日は昨日の少なかった歩行距離を取り戻そうと、アップダウンの道をかなり歩いた。最後は宿はまだか、まだかの思いで、の彼方に夕日に浮かぶ宿毛の街を発見した時は、「あれがパリーの灯だ」ならぬ「あれが宿毛の灯だ」の心境で、ホッとする。

 一七〇四 ホテル到着。

歩行距離三〇・七`

   第六日目 一一月三日(月) 晴れ(風強し)
宿毛市幸町→松尾峠→四〇番札所
観自在寺(かんじざいじ)
愛南町柏(遍路宿柏坂)


 〇七〇〇 宿を出発。
 今日は修行の道場・土佐路最後の札所延光寺から、菩提の道場・伊予路最初の札所観自在寺へと至る松尾峠越えの遍路道。
 いわゆる高知県と愛媛県と県境越えのコースである。
 松尾峠までは標高差三〇〇bでアップダウンの道が続く。

 伊予と土佐の国境にあるこの峠は、南予と土佐を結ぶ街道が通り、通行が盛んで、享和元年(1801)の記録に、普通の日で二百人、多い日で三百人が通ったと記されているそうだ。
 それも昭和四年に宿毛トンネルが貫通してからは、この峠を通る人は無くなり、その頃あった地蔵堂や茶屋も、今は跡だけが残っている。
 生活が懸かっていたとはいえ、こんな峠を行き来していた昔の人は本当に凄いと思う。
 峠で休憩をする間、何人かのお遍路さんが通り過ぎて行く。 
 松尾峠からは、愛媛県側の一本松に向かって一気に下る。
 松尾峠を下っている時、靴底に何か引きずるような抵抗感を感じ、チェックすると靴に不具合が発生。
 この靴は前回のお遍路終了直前、踵の外側のゴム底が摩耗し、布地が見える状況になり、騙し騙し帰宅した代物。
 しかし、何と言っても履きやすさ抜群、見た目も立派に見えるので、不具合箇所を修理すべく、ネットで修理キットを求めて修理したのだが、松尾峠の山道には耐えられず、修理箇所がれてしまった。
 靴を引きずらないように用心して歩く。
 一〇二〇 愛南町の旧一本松町地区に到着。
 街の入り口付近の広場で祭り衣装の子供達に出くわす。

 やっとコンビニを発見。瞬間接着材を購入して、靴の応急修理をする。
 修理は成功したようで、その後順調に歩ける。
 一一月三日は、愛南町の秋祭りで、この祭りは各地区毎、みこし、牛鬼、四つ太鼓、五つ鹿、唐獅子、山車等が街を練り歩く盛大なものだということが、やがて判明する。珍しい牛鬼は鬼面の巨大な牛の作り物で、地区によって顔が違う祭りには欠かせない人気者だとか。
 祭り参加の若者が目立つ。
 連休でもあり、故郷へ帰省した若者達だろう。



 威勢良くみこし牛鬼秋祭り帰省の若者パワー全開



 旧一本松町を通り過ぎると豊田の辺りで僧都川にぶつかり、観自在寺の入り口まで、遍路道として川沿いの土手の道が続く。
 河原には整備された広場が至る所にあり、各地区毎町内を練り歩いた後の牛鬼やみこしが、集結して盛上っている。
 広場近くは、通り抜けるのも大変な賑わいである。
 土手の道はお祭りムード一色。都会では味わえない地方の珍しい文化に遭遇するのも、お遍路ならではの特権だ。
 旧の繁華街が見えて来た所で橋を渡ると、観自在寺。

四〇番札所観自在寺(かんじざいじ) 一三二八
 山門に「平城山」の額が掲げられているのは、大同二年(807)平城天皇の勅願を受けて弘法大師が開山したからだという。
 平城天皇の遺髪が納められたと伝わる五輪塔がある。
 阿波の一番から見て四国の裏側にあることから、「四国霊場の裏関所」と呼ばれている。


 一三五八 観自在寺を出発。街を出て、国道56号線を西に歩く。
 この辺りから、西風に逆らいながらの前進になる。
 強風注意報も発令されているようだ。菅笠に受ける風圧は凄いが、足摺の宿で実施した修理は成功のようだ。
 愛南町は旧一本松町、旧御荘町等の多くの旧町村の合併で出来ておりかなり広い。今日の宿も愛南町で旧内海村。
 愛南町のお祭りは、宿に着くまで、強風の中続いていた。

 西日にきらきらと輝く海を見ながら、八尾坂峠を下り、愛南町柏(旧内海村)に入る。


 一六二五 宿(柏坂)に到着。宿は典型的なお遍路宿。
 部屋は寝るだけでテレビ等一切無い。食事付きで、四千円。
 疲れて寝るだけだから、これで良い。食事は兼業のスナックで、お祭りバージョンの赤飯のおにぎり、おでん等を頂く。
 宿のオーナーはとても仲の良いおしどり夫婦でした。



歩行距離二九・五`

   第七日目 一一月四日(火) 快晴
愛南町柏→宇和島市駅近(BH宇和島オリエンタル)


 昨夜、宿が用意してくれたお握りを部屋で食べ、〇六三〇出発。
 快晴で風も治まり、絶好のお遍路日和。
 宿のある柏から四一番札所龍光寺までは四〇`余り、札所の近くにも宿はあるが、宇和島市の中心街を観たくて、宇和島泊りにする。
 柏から山の道と海沿いの道(国道56号線)の二者択一の選択は、昨日松尾峠越えで苦労したので、今日は海沿いの道を選ぶ。
 歩き出してすぐに内海トンネル。車が通るトンネルが新設され、古いトンネルは歩行者、自転車専用になっている。
 このトンネルは歩行者にとって、安全で快適。こんなトンネルばかりだと、「八八ヶ所お遍路」も世界遺産登録出来そうなのだが。


 快晴で海と空のコントラストが素晴らしい。絶景。
 宇和海は真珠の産地として、三重県英虞湾と並び称されているが、この国道56号線の愛南町御荘から宇和島までは至る所で、真珠の養殖が観られる。


 途中から海沿いの道と別れ、内陸のアップダウンの国道56号線を歩き、宇和島市津島町に入る。
 丁度お昼時期、四国の讃岐風うどんを食べたくて、店を捜す。
 この津島町、かなり大きい街なのに、見つけることが出来なかった。
 体力消耗を考慮し早目に諦め、コンビニでお握り・スイーツを求め、河原で昼食。

 今日は朝早く出発し行程が捗ったので、休憩を十分に取り出発。
 歩くスピードも余裕のペースダウン。

 木漏れ日の揺れる山道黙々と歩く背中に秋風そよぐ

 宇和島警察署を右手に見ながら国道56号線を北上、宇和島の街中に入る。
 暫く歩くと宇和島城の天守閣が青い空をバックに、その威容を現す。
 藤堂高虎が改築をし、高虎転封の後、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が一〇万石を賜り、元和元年(1615)に入城したと伝えられる名城。
 天赦園公園(天赦園は、七代藩主宗紀が隠居所として整備した風雅な大名庭園)を横目に、宇和島城入り口を通り過ぎてJR宇和島駅に到着。宿は駅から一〇分弱。一五二七 到着。


 宿泊のBHは駅近であるが、向かいは公園で閑静な場所だ。
 ホテルのロビーと直結して、大きなコンビニが併設されており、飲食コーナーもホテル側に完備している。
 最近のコンビニは食事の種類も多く、温めてくれる上、美味しい。
 本当に便利になったものだ。ビールを飲みながら、かつ丼に舌鼓。

歩行距離三〇・五`

   第八日目 一一月五日(水) 晴れ
宇和島市幸町→四一番札所
龍光寺(りゅうこうじ)→四二番札所仏木寺(ぶつもくじ)
四三番札所
明石寺(めいせきじ)西予市宇和町卯之町(せいよしうわちょううのまち)(まつちや旅館)

 朝食は昨夜、コンビニで求めておいた。
 朝早い出立には、誠に便利。〇六三〇に余裕をもって、出発。
 約一〇`を歩くと、龍光寺にアプローチするお遍路さん達が多くなる。多分JR利用のお遍路さん達と合流したのだろう。


 凛として肌刺す大気心地良く朝日眩しい龍光寺への道

四一番札所龍光寺(りゅうこうじ) 〇九一二
 札所の入り口に鳥居が有り、長い階段の途中に札所、最上段には稲荷社があって、麓の里を眺めることが出来る。神は仏の化身とする明冶以前の思想を基にした神仏習合の形を良く残している。


 龍光寺を出ると門前の通りにみかんの無人販売所。
 みかん好きの私にとっては堪えられない。
 百円也の一袋を買い求め、さっそく歩きながら口にする。
 小さいが甘くてジューシイ、旨い。


 龍光寺から次の仏木寺までは二・六`の田舎道。池あり、花ありで、中々の風情、良い天気も相まって歩き遍路冥利を満喫。


 里山や田舎道を楽しんでいる中に、仏木寺到着。

四二番札所仏木寺(ぶつもくじ) 一〇一二
 弘法大師が唐から投げた宝珠をこの地で見つけ、宝珠が掛かる楠で本尊の大日如来を彫って祀ったと伝わる。家畜やペットにご利益があるとされ、「牛の大日さん」と親しまれているとのこと。


 仏木寺を出発して、山道の遍路道を明石寺に向う。
 歯長峠(標高四〇〇b)越えの遍路道は難所として知られる。
 写真が示すように垂直の木に対する柵の角度で急坂が良く判る。


 山道を下りきり、歯長峠入口の休憩所で昼食を兼ね一時間ほど休憩。一三二〇頃出発、沿いに歩く。
 約一時間ほど歩いて、明石寺の入り口に到着。
 ここから、急な坂道をかなりの距離歩かされ伽藍に到着。
 明石寺の標高は二八〇bとかなり高い。

四三番札所明石寺(めいせきじ) 一四三八
 明石寺には、美しい女神が願かけに大石を山の上へ運び上げた伝説が有り、地元では「あげいしじ」と呼ばれているとか。
 六世紀に欽明天皇の勅願で創建され、時代ごとに栄衰を繰り返し、弘法大師や源頼朝らが復興に務めたらしい。
 伽藍はかなり古く立派なもので、多くが国の登録有形文化財だそうだ。


 元の道には戻らず、境内から山道に入り宿がある卯之町まで下る。
 明石寺から一・五`の距離だが、意外に苦労する。
一五三〇頃宿(まつちや旅館)に到着。

 宿はJR卯之町駅の近くの西予市の中心地にある。
 当初の卯之町の中心地はもっと東に在り、近代になって、卯之町駅の開設や国道56号線の開通に伴い移動したらしい。
 そのため、旧中心地は伝統的建造物が良好な形で残され、重要伝統的構造物群保存地区となっている。
 保存地区には、江戸中期から昭和初期までに建てられた商家が並び、白壁・うだつ・出格子といった伝統的な街並みが続く。
 又、国の重要文化財である開明小学校や大正期の建築である卯之町キリスト協会などがある。

 まつちや旅館はお遍路仲間には評判がすこぶる良い旅館で、特に女将は名物女将として有名。
 評判通り、お遍路の泊り客は一〇名位と満員状態。
 夕食時には女将が接待に現れ、卯之町の歴史やお遍路に係わる話題を興味深く語ってくれた。




歩行距離二五・八`

   第九日目 一一月六日(木) 晴れ
西予市卯之町→大洲市大洲城→内子町内子(松乃屋旅館)


 〇七〇〇宿を出発。
 国道五六号線に出ると通学の子供達と行きかう。カメラを向けると恥じらう子、オハヨーの挨拶やハイタッチをしてくる子らとさまざま。



 登校の子らと交わすハイタッチうれしき朝のスタート

 昨日は、お参りをする札所が三か所で納経の時間を気にする一日だったが、四三番札所明石寺から四四番札所大宝寺までは約七〇`の長丁場、今日は札所無しの歩きだけ。黙々と、国道56号線を歩く。
 時々、国道を離れて並行する旧道に入ったり、山道に入ったりする。
 多分国道56号線が完備する前の道なのであろう。
 旧道には昔の家並みが、そのまま残っている箇所も有り、興味をそそる。途中、遍路小屋で先行するお遍路さんに追いつく。
 その中の一人に、四日目市野瀬のパーキング・エリアで宿泊していた九大大学院生のW君がいた。
 接待用のみかんを食べながら、旧交を温める。



 国道56号線の登り道を歩き、標高三〇〇bの鳥坂トンネル入り口に到着。
 この鳥坂トンネルは、僅かに高くなっている側道を歩くしかなく怖い。
 トンネルを通らなければ標高四七〇bの山を越えなくてはならない。
 今回は前回の教訓を生かし、自転車の警告ライトを利用しトンネル用警告灯を作成して持参した。さっそく実用試験。


 無事トンネルを通り抜け、国道56号線を下り、大洲市の街に入る。
 大洲市は、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町で、「伊予の小京都」と呼ばれる。
 標識の「おはなはん通り」が気になって、少し回り道だけど歩くことに。
 やがて、肱川にかかる橋にさしかかる。
 橋上から肱川の清流と係留される鵜飼用の屋形船が目に入る。
 何とも長閑な風景。


 橋を渡りきると川筋に公園がある。
 綺麗に整備をされ気持ち良さそう。
 振返れば対岸に大洲城、時間も良し、宿(まつちや)が持たせてくれたお弁当で昼食にする。絶景に癒され疲れも飛ぶ。

 大洲城の歴史は、鎌倉時代末期に始まり、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景を始め、多くの大名たちの造営を経て、近世城郭として整備されたお城。明治時代一部を残し解体されたが、平成一六年に地元住民の熱意で、豊富な資料を基に復元された。
 お城ファンには垂涎のお城だそうだ。


 明日はお遍路ルートでも有名な難所、今日は歩けるだけ歩こうと、まだ宿を取っていない。今日は調子が良いので四〇`は行けると判断、内子の一〇`先の大瀬中央の宿に電話を入れるが、満員で断られる。
 大瀬中央には他に宿は無く、それ以上の歩きは無理なので、内子泊まりにする。

 一二〇八 歩き開始。一時間ほどで永徳寺のお堂に到着。
 お遍路さんが三人お参りをしている。石に彫られた縁起を読むと、十夜ヶ橋は、弘法大師とは関係の深い由緒のある場所であった。

 国道56号線からそれて山間のお遍路道を五`ばかり歩いて、一五四〇 JR予讃線の内子駅に到着。

 宿は内子駅から約一〇分、町並み保存地区にある。
 内子町は松山市から約四〇`南西に位置し、明治末から大正にかけて木蝋や生糸で栄えた街。
 現在は嘗て財を成した商家が立ち並ぶ町並み保存を手掛かりに、白壁と木蝋が有名な観光の街である。
 一五五〇 内子座に到着。宿は目の前であるが、内子座の威容に魅せられ、陽が高い中に写真をと、疲れも忘れて撮影。
 内子泊まりは、距離を稼げず残念に思っていたが、内子座を始め歴史的な街並みに対面出来、結果的には大変良かったと思う。
 内子座は大正の初め地元の娯楽の場として発案され、大正天皇即位を祝して地元有志の出資により建設。
 農閑期に歌舞伎や文楽、後に映画や落語も演じられたという。
 昭和四〇年代には、ホール的に活用され、その後老朽化により取り壊されようとしていたところ、町民の要望もあり、町並み保存の核として復元、今日に至る。今日では、歌舞伎、文楽の他、各種講演、会合等に活用されているそうだ。それにも増して、内子の街観光の目玉だ。


 一六〇〇 宿(松乃屋旅館)到着。急遽予約した宿は、観光の目玉、町並み保存地区にある立派な割烹旅館でした。びっくり。

歩行距離三二・四`

   第一〇日目 一一月七日(金) 晴れ
内子町内子→内子町小田→能祖峠(のうそのとうげ)久万高原(くまこうげん)
旧久万町(笛ヶ滝)

 〇六三〇 宿を出発。


 内子の街並み保存地区を後に、小田川沿いに国道379号線を東進する。今までお世話になった国道56号線ともしばらくお別れだ。
 今日は、伊予路きっての難所、内子町内子の標高は約一〇〇b、四四番札所大宝寺は五六〇b、門前町久万高原町久万まで到達するためには、かなり高い峠越えの厳しい山道も控えている。歩きお遍路は、普通大瀬や小田付近で宿泊して、この難所を歩くのが常識とか。
 私は昨日は内子から一〇`先の大瀬中央まで進出しようとしたが出来なかった。その分内子を楽しんだのだが。
 この時期、四国の軽井沢と言われる久万高原町は、紅葉が見頃で観光客が集中するらしく、宿も混むそうだ。
 〇八一〇前後に大瀬中央辺りを通過。
 この先、大宝寺の門前町までは、次の三つのルートがある。
A:大瀬→突合→(鶸田峠(ひわたとうげ)遍路道)→三嶋神社→鶸田峠→久万町
B:大瀬→突合→小田→三島神社→(畑峠遍路道)→三嶋神社→
 鶸田峠→久万町
C:大瀬→突合→小田→三島神社→真弓→農祖峠(のうそのとうげ)→久万町
 このルート選びでコンフューズしたのが、三島神社と三嶋神社、違う神社だと判るまでかなりの時間を要した。
 AとBはいずれも鶸田峠を経由するのだが、最高標高は七九〇b、Cは農祖峠経由で標高は六五〇b、距離はA、BがCより二`短い。
 山道の整備状況等はわからない。遍路仲間の情報が一番だが、昨夜は同宿の仲間も居ず、情報収集は出来なかった。少し距離は長くても高度が低い方が、体力消耗度も少ないだろうとルートCを歩くことにする。
 ルート選択は悩ましい。


 突合で国道379号線と別れ国道380号線に入る。
 3`位歩くとかなり大きい街にはいる。
 県立の高校(小田高校)もある。
 一一四四 町役場前の道の駅(小田の里せせらぎ)に到着。
 かなりの車で賑っている。昼食、休憩。
 まだ二〇`余り歩かなくてはならない。直ぐに出発。
 道路標識にスキー場のルートの記載がある。
 四国にもスキー場があるのに驚き。


 二車線の立派な国道を歩いていると、急に一車線になり、その状態がかなり続く。
 先ほどの道の駅にはかなりの車がいたけど、往来する車もいない。
 間違った道に入ってしまったかと不安になる。
 途中道路工事のおじさんにこの道が国道なのかどうかを聞く。
 「間違いなく国道だけど、予算が少なくてね」という答えと愚痴。
 取り敢えず一安心。その後も広くなったり、狭くなったりの道が続く。
 一四〇四 新真弓トンネルを通り抜け、大きな内子町から久万高原町に入る。トンネルの標高は五七〇b、かなり高地まで登って来た。
 紅葉も目に付く。これから、しばらくは父野川沿いの下り道が続く。
 同じ国道三八〇号線とは思えない位、良く整備されている。
 不二峰まで歩き、左折二名川沿いに歩き、農祖峠遍路道の入り口に到着。地図によるとこの辺りの標高は四九五b、アスファルト道路から、一転険しい山道。


 最初は林道、その中狭い険しい山道が続き、農祖峠に達する。
 時刻は一五四六。後四`程、何とか明るい中には着けそうだ。


 山道から里山の舗装道路に出て、緩やかな下りの坂道を惰性に任せて歩く。


 里山の道から国道33号線に入ると大宝寺の門前町、久万高原町(旧久万町)。宿も間近になる所で、地元の猟師達が猪を捌いている所に出くわす。
 珍しいので見せてもらう。お遍路してるのに殺生している所に立ち会うのは、如何なものか?と思いながらも、合唱して見学。
 後で般若心経の解説書に次のくだりを発見。納得。

 「不殺生」生き物の生命を殺してはならない。
 じゃ、明日から肉も魚も野菜も食べられない。
 「不邪淫戒」男女の肉体関係は、禁止だ。
 こんな戒律を守ったら、人類の子孫は絶えてしまう。
 だから、般若心経は、そんな夢幻の教えの現実に合わない古い仏教の教えから離れなさい。
 と忠告する。「一切の顛倒した夢想から遠く離れろ」と。
「超訳般若心経 境野勝悟著」を参考

 一七一〇 宿(笛が滝)到着。
 宿はウイークリーマンション風で、部屋は三階、今日は強行軍だったので、三階までの階段が堪える。食事は別棟の食堂で午後六時と言われ、「もう少し遅くして」と、お願いをしても、優しそうな女将さんなのに、何故か駄目だし(後で納得)、出来るだけ早くで了解を貰う。
 食事を食べそびれたら大変、筋肉痛、疲れと闘いながら、大急ぎで風呂、洗濯を済ませる。やはり六時には間に合わず、十分余り遅れて、風呂上がりのぼんやり気分で、別棟の食堂のドアを開く。

 一瞬、?????? 正面の食卓に原が座っている。???? ここ何処???? 東京???? 厭々ここは久万町。ではこの人、原君に似た人??? 頭がこんがらがる。冷静に、冷静に。・・・・・やはり原君だ。
 にやにやと笑っている。どうして?どうして君はここに居る?????


 聞けば妻からの情報を基に、今朝羽田を出発、私の宿泊地を旧久万町辺りと定めて、昨日妻に連絡をした情報だけを頼りに宿(笛が滝)をさがし当てたらしい。急遽決めた宿で、昨日は時間的余裕が無く、かつ、メール時、メモが見つからず、私は妻に「四四番大宝寺近くの三階建ての遍路宿」としか連絡出来なかったのだが。
 久万高原町の面積は愛媛県内市町村で最大、遍路宿も旧久万町に限らず、他の旧町村にも存在する。
 私の歩き具合によっては、宿泊地は旧久万町の手前も先もあり得たのだから、ピンポイントで探し当てたのは凄い。

 今回の出発前、原君と会った時、ヨーロッパの「巡礼の道」を踏破した彼は、歩き遍路に人一倍興味を示したのだが、まさかこんな待ち伏せのハプニングを実行するとは。しかし、感激のうれしいハプニングだった。ここ二、三日、妻が先の計画を具体的に知りたがる訳がやっと判り納得。
 但し、お遍路歩きの行動は、かなりアバウトで行き当たりばったりなのだ。女将も、同席のお遍路仲間Gさんも、我々の遍路途中の難しいピンポイントジョイン・アップに感心、そして感激、祝ってくれた。
 しかも、彼は明日から二日ほど、歩き遍路に付き合うとのこと。
 暫し疲れも忘れ、話に夢中。
 お互いちょっとした興奮を振り切り、明日に備えて部屋へ。

 さっそく、「今日も無事」と原君の待ち伏せハプニングをメール。
 今朝、妻は原君から「本日ジョインアップを敢行する」との電話を貰い心配してメールを待っていたようだ。
 ジョインアップ成功に安堵した旨の返信。幸せな気持ちで眠りに。

歩行距離三六・四`

   第一一日目 一一月八日(土) 曇り
旧久万町→四四札所
大宝寺(たいほうじ)→四五札所岩屋寺(いわやじ)
久万高原町東明神唐子(
桃里庵(とうりあん))

 〇七〇〇 宿を出発。門前町を大宝寺に向う。原君歩く体制万全。


 門前町を歩くと、ほどなく大宝寺の総門に到着。


 総門をくぐり、境内は近いと思いは裏切られ、かなりの距離を歩き、大宝寺仁王門に到着。大きな草鞋が飾られている。原君、昨日既にお参りしていて、この大草鞋にいたく感心して、一句詠んでいた。

 紅葉踏み 草鞋百年 大宝寺  稔


四四番札所大宝寺(たいほうじ) 〇七二三


 大宝寺は冬には雪が降る久万高原に在る。
 四三番から約七〇`、峠をいくつも越えてたどり着かなくてはならない。仁王門の大草鞋は、そんな苦労を象徴しているのだと思う。
 百済の聖僧が山中に安置していた十一面観音を、大宝元年(701)に兄弟の猟師が見つけて祀ったのが始まりだという。
 八八ヶ所の丁度半分で「中札所」とも呼ばれる。

 原君に札所参拝の手順を教え、お参り。
 知人に遍路のベテランがいるとのことで、遍路用品も沢山借りたらしいが、今回はその中から首に掛ける輪袈裟だけを持参したとのこと。
 様になっている。

 納経所脇の山道に入り、岩屋寺を目指す。樹林を抜け、峠を越える。
 峠を越え、下ったところで県道12号線にぶつかり右折、東に進んで、久万高原ふるさと村をやり過ごし、八丁坂入り口から再度山道の遍路道に入る。



 憧れの巡礼の道完歩せり友と一緒に遍路を歩く

 修行場である岩屋寺に至るこの道は峻険な急坂が続く。
 遍路石を過ぎ標高七五〇bのピークを越えたら下り坂。

 この山道は、岩屋寺の正面からではなく、裏手の山側からアプローチする遍路道である。やがて巨岩の裂け目を登る行場せり割行場に到着。

 せり割行場は、鎌倉時代に時宋を開いた一遍上人が修業して「一遍聖絵」(国宝)にも登場する。行場を下ると本堂に到着。

四五番札所岩屋寺(いわやじ)  一一一四
 そそり立つ岩に寄り添うように本堂や太子堂が並び、山岳霊場独特の緊張感が漂う。
 弘仁六年(八一五)に、弘法大師が木像と石像の二体の不動明王を刻み、木造は本尊として本堂に安置(金剛界)、石像は奥の院の秘仏として岩窟(胎蔵界)に封じ込め、全山を本尊・不動明王としたと伝わる。




 太子堂横に垂直に近い梯子が有り、登ると岩窟の見晴らし台がある。
 登ったのは良いが怖くて立ち竦む女性参拝者を助け降ろして、我々も登る。境内は紅葉シーズンに週末が重なり、お参り客が多い。
 納経所も外の通路まで、納経(持参の納経帳に寺名、本尊名などを墨で書いてもらい朱印を頂く)の参拝者が列をなしている。
 自らお参りして納経をするのが当たり前だと思うのだが、バスツアーのお遍路は、同伴の旅行ガイドが全員の納経帳を持参して納経を実施する。急坂を上るのが嫌で、お参りもせずバスで待ってる人達もいるとか。
 これまでの札所では、納経をしてくれる寺の住職、お坊さん等、納経所の方達は、歩き遍路や個人の参拝者を団体の納経を中断して優先的に納経をしてくれた。
 それが慣習だと思っていたのだが、ここでは、外に並ぶ長蛇の列も無視、ガイド持参の納経帳、白衣や掛け軸への納経を続ける。
 納経料は納経帳で三〇〇円、この時期、稼ぎ時であろうが、今まで感じていた山岳霊場の厳粛な気持ちも吹っ飛ぶ。
 並ぶ皆のためと、クレームを申し上げたが、無視された。
 カッカと頭にくる。遍路修業、未だ成し得ず、悟りの道遠し。
 やっとの思いで納経を済ませ、気を取り直して、長い参道を下り、仁王門へ。茶店が並ぶ門前を抜け、直瀬川を渡ると県道12号線に出る。


 県道を二`程歩くと自然が約四千万年かけて造った礫岩峰「古岩屋」の大岩壁をバックに紅葉が美しい。
 散策をする観光客も多い。やがて古岩屋の休憩所に到着 一三〇三。
 通りの向かいは立派な佇まいの国民宿舎古岩屋荘。
 パーキングエリアは車で一杯。
 広場では観光客相手のイベントも開催され賑っている。


 地元の観光イベントに便乗、うどんを注文して、宿で作ってくれた接待の握り飯と一緒に食べる。原君、折角の接待の握り飯、出発時、玄関に忘れたらしく、悔やむことしきり。


 後から追いついてきたJ君と同席で休憩。
 神奈川の大学生で、彼も「自分を見つめる」お遍路だとか。この後、イベントのくじ引きで、原君、古岩屋荘レストランの食事券を当てる。
 接待の弁当を忘れた罪滅ぼしに、宿「笛ヶ滝」の女将に送ると張り切っていたが。
 私も今夜の宿で遍路仲間に接待したいと賞品のお酒を狙ったが外れ。
 一三四〇 出発。県道を打戻りの形で旧久万町の国道33号線まで戻る。国道33号線を北上、長閑な山里が左右に広がる。
 一句読もうか、と楽しい道行。彼は俳句、私は和歌。

 道遠く煙たなびくの久万(くま)(さと)  稔

 枯葉焼く煙幾筋たなびきて里山長閑(のどか)秋の夕暮


 一七四三 宿(桃李庵)に到着。
 桃李庵は、お遍路には名が知られた遍路宿で、松山市との境である三坂峠の近い所にある。
 機械メーカーを希望退職し、工事事務所兼宿舎だった建物を購入して、本名は名乗らず久万高原にちなんだ「久万五郎」という名を通すご主人は、歩き遍路が早く寝床につき、早朝出発することを気遣って、「歩き遍路」専用の宿に徹し、一般の観光客や工事関係者は泊めないそうだ。

 この日は、我々二人を含め、六人の歩き遍路が泊まっていた。
 前の宿(笛ヶ滝)で同宿だったGさんも一緒。
 薪ストーブの暖房は、宿の中は何処でも浴衣一枚で十分暖かい。
 部屋は個室だが、テレビ等の余分な物は無い。
 聞くところによると電波状況が悪くて、テレビは映らないそうだ。
 食堂のテレビは、DVD専用とか。風呂は到着順。
 全員が風呂に入ったところで、食事。和気あいあいと話が弾む。
 明日はどうやら雨らしい。
 テレビの天気予報は駄目なので、誰かのスマホの情報しかない。


 明日の準備もあり、九時には全員部屋に戻る。
 周りの静けさに「今日も無事」メールを打つ音も気になる。
 早々に就寝。


歩行距離二五・五`

   第一二日目 一一月九日(日) 雨後曇り
久万高原町東明神唐子(
桃里庵(とうりあん))→四六番札所浄瑠璃寺(じょうるりじ)
四七番札所
八坂寺(やさかじ)→四八番札所西林寺(さいりんじ)
四九番札所
浄土寺(じょうどじ)→五〇番札所繁多寺(はんたじ)
五一番札所
石手寺(いしてじ)→道後温泉(BHさくら)

 〇六二〇 朝食を済ませ、宿のご夫婦に見送られ、未だ暗い雨の中を出発。


 今日は札所を六つも巡る。
 道もかなり複雑で、しかも雨、難儀を覚悟。
 しかし、昨夜同宿の歩き遍路のベテランGさんと同行することになる。
 Gさんを含め四人のパーティで出発。
 Gさんはベテランながら、初心者の我々にいろいろ親切丁寧に教えてくれる。「俺は何回目」と自慢げに話すお遍路が多い中で、そんなことはおくびにも出さず、我々の質問にボソっと「一三回目」と答えてくれた。
 住まいは東京葛飾。
 国道33号線を歩き、途中三坂峠から山道の遍路道に入る。
 時々凄い雨が襲いかかってくる。出発時、それほど強くないと判断し、面倒がってポンチョを着なかったつけが厳しい。


 一時間二〇分ほど歩き、山の休憩所で休憩。急いでポンチョを着る。
 着た途端、雨は弱まり、降ったり止んだりになった。悔しい。

 休憩所を出発し、山道を下ると山里の部落に到着。
 ここには明治末期から大正初期に建てられた遍路宿が休憩所になっているが、残念ながら平日はオープンしていないらしい。


 雨も小降りになってきたようだ。
 途中弘法大師ゆかりの網掛け石が置かれる場所を通過。


 石に網目模様が有り、網を被せた石・網掛け石と呼ばれる。この石は、「昔、久谷の里で農作業の邪魔になる二個の岩を村人総出で動かそうとしたが、びくともせず途方に暮れ困り果てていた時、通りかかった弘法大師が難渋している村人を救おうと大きな石に網を架け、天秤棒で運ぶ途中、棒が折れて一つは大久保に飛び、一つがここに残った」という伝説が地元に残る。
 今日は、Gさんが山道も山里の道も、スムースに案内してくれるので、こんな雨の日に係わらず道に迷うこともなく、地図調べ等の時間の浪費もなく順調に進む。雨の中、地図を片手の我々だけでは、「坂本屋」や「網掛け石」を探し当てて、観賞する余裕など無かったに違いない。
 この雨の中、本当にGさんと一緒で良かった。
 やがて県道に入り、松山市浄瑠璃町の久谷の街に到着。

四六番札所浄瑠璃寺(じょうるりじ) 〇九一八


 浄瑠璃寺は奈良の大仏開眼に先立ち布教のため訪れた行基菩薩が白檀の木で薬師如来を彫って本尊に祀ったのが始まりと伝わる。
 約百年後に弘法大師が訪れた際は荒廃していたが復興し、札所に定めた。樹齢千年を超えるイブキビャクシンの大木がその歴史を見守る。
 原君の体験「歩き遍路」は、浄瑠璃寺で終了。
 印象深い札所、険しい遍路道、雨の歩き遍路、典型的な遍路宿、親切な遍路仲間、全てが充実した二泊三日の「歩き遍路」でした。
 バスで松山市に出る原君を三人で見送り、我々は次の八坂寺に向う。
 原君、どうも有難う。
 君の待ち伏せは、一生忘れられない感激の嬉しいハプニングでした。

  浄瑠璃寺と八坂寺は〇・九`と近距離にあり、あっという間に到着。

四七番札所八坂寺(やさかじ) 一〇一三


 仏画が鮮やかに描かれた天井の山門に迎えられる。
 修験道の開祖、役行者が開いたとされ、文武天皇の勅願で飛鳥時代に堂宇が建てられた古刹。
 本堂へ登る石段の一〇段目左脇には「九難を去る救いの手」という手形が有り、足や目の病気にご利益があるという。
 一〇三〇出発。雨はまだ降り続く。
 Lさんは札幌在住、お遍路も初めてで、歳も私と同じ。
 ちょっと耳が悪いらしく、後ろから来る車は要注意。
 Gさんが先頭、Lさんを挟んで私の順で歩く。
 門前の太鼓橋を渡り石段を下って参道に出る。

四八番札所西林寺(さいりんじ) 一一一七


 大同二年(807)に弘法大師が四国の霊蹟を巡礼した際に逗留したという。その時、周辺の村が大干ばつで苦しんでいたため、大師は錫杖を突いて水脈を発見したと伝えられる。
 寺の西南三〇〇bのところにある「杖の淵」がその遺構で、今も大地を潤し、名水百選に指定されているそうだが、寄ることは出来なかった。
 西林寺からは県道40号線を右へ、直ぐに遍路道に入り、道なりに進んで小野川の遍路橋を渡る。複雑な遍路道だが、ベテランのGさん、わが庭のごとくすいすいと先導してくれる。
 やがて県道にぶつかり左に曲がると伊予鉄道久米駅が見える。
 駅から次の札所浄土寺はすぐそこ。
 コンビニに寄り、各人思い思いに昼食を購入して山門へ。

四九番札所浄土寺(じょうどじ) 一二三五


 本堂には口から六体の阿弥陀如来を吐く空也上人像(重文)がある。
 勿論見ることは叶わず。空也上人は平安時代中期に三年間、この近くに草庵を結び、地域の教化や布教に努めた。本堂厨子に書かれた室町時代から江戸時代の落書きは、遍路の貴重な資料になっている。
 雨は小降りに、それぞれ雨に濡れぬ場所を探して昼食。
 一三一〇 出発。
 五〇番繁多寺も、車道を避けた歩き遍路道で一・七`。
 あっという間に到着。

五〇番札所繁多寺(はんたじ) 一三三三
 松山市内を見渡す小高い丘にある。伊予の豪族、河野家に生まれた一遍は、青年期に此処で三カ月籠って修業をした。
 晩年には「浄土三部経」を奉納。又、境内には徳川四代将軍家綱の念持仏だった歓喜天像を祀る歓喜天堂がある。


 歩き遍路実施中のフランス人のご夫婦が休んでいた。
 「八八ヶ所周るのですか」の質問に、「今回は松山を中心に、二〇ヶ所くらい歩く」と言う答えだった。外人のお遍路さんもかなり歩いている。

 松山城や松山市街、瀬戸内海の眺めを楽しむ。
 
 繁多寺の丘より見えし我を待つ松山の街小雨に霞む

 さて、今日残すは五一番石手寺のみ、ラストスパート。
 山門を出て右へ。坂道を下り住宅地に入る。お屋敷町を進んで、石手川の遍路橋を渡ると直ぐに石手寺の門前。繁多寺を出て四〇分。
 名物焼き餅や土産物の露店が並ぶ回廊を抜けると国宝・仁王門。
 両脇の仁王像は運慶作。境内に入ってすぐの右手に三重の塔、これも国宝。正面の一段高い所に本堂、右手に太子堂が建つ。

五一番札所石手寺(いしてじ) 一四三三

 仲見世の賑わい抜けて辿り着く仁王睨みし石手寺の門



 元祖遍路の衛門三郎が死ぬ間際に弘法太子に石を授かり、その後、石を持って生まれ変わったという説話が有り、寺名にもなっている。
 参道の入り口に衛門三郎の石像が建つ。今日は雨にもかかわらず、日曜日でもあり、又、松山の中心から近いとあって境内は相当混んでいる。
 Gさんが「村木さん、菅笠被ってると上が見えないでしょう。三重の塔の屋根越しを見てごらんなさい。大方、初めての人は見逃すよ。」と言われて、その方角を見ると、何と大きな弘法大師の像が丘の上から見下ろしていた。今日はこの様な事が沢山あり、その度に「Gさんと一緒で良かった」の繰り返し。


 一五〇〇前、石手寺を出発。山道の遍路道から、道後に向かう。
 今日は日曜日ということもあり、早目に道後のBHを予約したら、たまたまGさんと一緒のホテルであった。
 途中Lさんの泊まるユースホステルを経由して、道後に入る。
 雨は完全に上がったようだ。有名な「道後温泉」の建物を裏側からアプローチし、表側に回ると、つい鼻の先に今夜の宿の看板が見える。
 「道後温泉」は観光客が列をなして切符を買っている。
 後から入りに来るつもりだが、混むことだろう。
 一五三〇 宿(BHさくら)にチェックイン。


 今日は、Gさんに大変お世話になった。Gさんが居なければ、こんなに早くチェックインは出来なかったであろう。明日は、Gさんは知り合いの宿まで強行軍ということで、同行は此処までとなる。
 ホテルのフロントで感謝を申し上げて別れる。
 濡れた衣服の後始末をして、道後の街に出る。
 街は観光客で大賑わい。「道後温泉」も、夕方のせいもあり、観光客の列が到着時より更に長くなっていた。
 「道後温泉」と宿の中間にある「椿の湯」で我慢する。
 これも、温泉の質は変わらないし、浴場もほとんど同じと言うGさんのアドバイスに従った。「道後温泉」は観光客主体、「椿の湯」は地元主体らしく、地元の人が多い感じ。
 さすが道後の温泉を想わせる「いい湯」であった。極楽。極楽。

 一一月三日に応急処置をした靴底、今日午前中の雨と山道で完全にいかれてしまった。街中を靴の修理部品を求めて歩き回ったが、観光地のこと、それらしき店は無い。仕方なく、コンビニで安いスリッパを購入し、スリッパの底を使い修理を試みることにする。
 とにかくこの靴で、今回の区切りは、完歩したい。
 夕食、明日の朝食を買い求め、宿に帰る。
 夕食後、さっそく靴をドライヤーで乾かし修理に取り組む。
 カッターや接着材は前回買った分が役に立つ。
 見た目には、なかなかの出来栄え。どれくらい持つかは疑問だが。


歩行距離 三〇・六`

   第一三日目 一一月一〇日(月) 晴れ
松山市道後
(BHさくら)→五二番札所太山寺(たいさんじ)
五三番札所
円明寺(えんみょうじ)→松山市北条辻→
松山市菊間菊間駅
(JR予讃線)→伊予北条駅→
北条辻
(北条水軍ユースホステル)

 昨日、コンビニで買っておいた朝食を食べ、〇七〇〇にBHを出発。
 今日は快晴。早朝の空気が清々しい。道後から西進、護国神社、松山大学のグランド横を抜けて国道196号線に入り、北上する。
 途中鴨川辺りから、国道を西にそれ、田舎の道を歩き太山寺に着く。

五二番札所太山寺(たいさんじ) 〇九一三


 広い境内の最上段にある本堂は、嘉元三年(1305)松山城主河野家が寄進した入母屋造りの本瓦葺きで国宝。
 現在の本堂は三代目だが、用明二年(587)建立の初代本堂は一晩で建ったことから「一夜建立の御堂」と言われていたそうだ。
 鐘楼堂の壁一面に描かれた地獄絵、極楽絵は圧巻。
 太山寺から少し打ち戻って国道183号線に乗り、東進する。
 途中で外人お遍路用の標識を発見。珍しい。

 久万川を渡ると、すぐに円明寺に着く。

 五三番札所円明寺(えんみょうじ) 一〇二八


 境内にある高さ四〇aの灯籠には、浮彫にされたマリア像がある。
 キリシタン禁制時代に、隠れ信者の礼拝を寺は黙認していたようで「キリシタン石塔」と呼ばれている。又、慶安三年(1650)の銘がある現存最古の銅板製納め札が残っているとか。

 円明寺を出発し、海岸線に出てJR予讃線の線路沿いに県道347号線を北上する。線路の向こう側には国道196号線が平行に走っている。
 晴天、風が爽やかに吹き抜け、海も穏やかだ。
 海を眺めながら、気持ち良く歩く。
 一三三〇頃、今日の宿である伊予北条に到着。

 朝出発から、二三`位歩いた。この先の宿はもう二〇`位先になる。
 そこまで歩くと四〇`を三〜四`も越えることになり、ちょっとオーバー。しかし、もう少し距離を稼ぎたいので宿に荷物を置いて歩くことにする。
 帰りはJR。伊予北条には三件ほどお遍路宿があるが、ユースホステル、かつ「北条水軍」の宿名に興味を抱き予約した。
 思いとは裏腹に、意外とこじんまりとした小さな宿であった。
 宿に荷物を預け、出発。今まで鉄道を挟み並行して北上していた国道196号と県道347号線は、ここ伊予北条で国道196号線1本になる。今日は、チャンスが無く昼食をしていないことに気が付き、コンビニに寄り、昼食にする。このところ、昼食はお握りかサンドイッチが定番、今日はお握りにする。
 休憩なしの昼食を終わり、海に出っ張った岬を山越えの遍路道でショートカットし、再び国道196号線に出る。
 山道の途中、同じ方向に歩くお遍路さんと一緒になる。
 自分同様荷物無しだ。どちらからともなく話すと、彼も伊予北条泊まりで、歩けるところまで歩き、JRで引き返すとのこと。
 考えることは同じ。さらに北上し、いぶし銀の瓦(菊間瓦)で有名な瓦工場が軒を並べる今治市菊間の街に入る。


 街道筋の大きな果樹園直売の果物屋に寄る。
 みかんが旨そうで無性に食べたくなり、一山買う。
 このみかん、小さいながら、ジュウシーで甘く、大変旨い。運賃込でも浦安ではこんなに安くて旨いみかんは無いだろうと家に送ることにする。
 柑橘類大好き妻の喜ぶ顔が浮かぶ。
 「そろそろ宿に引き返すか」と駅に行くと、先ほど一緒になったお遍路さんも待合室で列車を待っていた。
 列車を待つ間、彼、Nさんと話が弾む。
 Nさんは、富山の人で今回二回目の歩き遍路だそうだ。
 一緒にJRで伊予北条駅まで引き返し、それぞれの宿に向かう。
 宿は駅から一〇分、海のすぐ側。客は一人で、ゆっくりお風呂に入る。
 ユースホステルは、学生時代以来か。
 昔はお酒は飲めなかったはずだが、今はOKになっていた。
 折角なので、生ビールを頂く。
 メインディッシュは醤油麹付ブリの包み焼、なかなかの味。
 烏賊げその天ぷら、蓮のきんぴら、烏賊と里芋の煮物、自家製豆腐、キュウリやナスの漬物等が所狭しと食卓に並ぶ。
 ご主人は創作料理の名人らしく、味付け等、いろいろ工夫がみられる。興味を示すとレシピもいろいろ教えてくれた。

 昨夜、修理をした靴、やっぱり途中で駄目になってしまった。
 雨でなければ、あまり支障はないのだが。一四日には帰京する。
 それまで雨にならないことを祈るのみ。
 幸いにも、天気予報によるとここ四,五日雨は無さそうだ。
 明日は朝早い出発。
 「今日も無事」メールを妻に送り、波の音を聞きながら、何時しか熟睡。

歩行距離 三二・五`

   第一四日目 一一月一一日(月) 晴れ時々曇り
松山市伊予北条(北条水軍ユースホステル)(JR)→
今治市菊間→五四札所
延命寺(えんめいじ)→五五番札所南光坊(なんこうぼう)
五六番札所
泰山寺(たいさんじ)→五七番札所永福寺(えいふくじ)
 五八札所
仙遊寺(せんゆうじ) 宿(仙遊寺)

 伊予北条〇六二一のJRに乗るため、五時に起きて用意。
 朝食はパン、コーヒー、オムレツの洋食。BHでは前日コンビニで用意したサンドイッチ等を食べることはあるが、遍路宿での洋食は珍しい。
 久しぶりの朝のコーヒーが旨い。〇六五八に菊間で下車。
 国道196号線を海岸線沿いに北東に歩く。
 〇八五八 大西町星の浦海浜公園に到着。


 向こう岸に大きな造船所は「来島ドッグ」とか。
 聞いたことがある名前だ。
 北東から、やや海から離れるように国道一九六号線を東進、やがて参道入口の標識に従い左に折れると延命寺。
 仁王門、山門、伽藍と続く。

五四番札所延命寺(えんめいじ) 一〇二二

 延命寺は、かって札所そばにある近見山に伽藍を構え、一帯に沢山の堂舎が点在する学僧が勉強する場所であり、鎌倉時代には高僧疑然が、学僧たちの教義概要書である「八宗綱要」を書いた場所ともいわれている。延命寺のお参りを済ませ、遍路の標識に従い出発。
 快調に歩いていたが、小高い丘にある大きな霊園の中で道を間違えたらしく、遍路の標識が無くなってしまった。
 やっとの思いで大きな道に出たものの、自分の位置関係が定かでない。
 地元の人に聞くに如かずとウオーキングの人に道を聞く。
 聞いた方向に歩くが、何となく悪い予感がして、地図と磁石を出してじっくり腰を据えて調べる。案の定反対方向に歩いていた。
 どうも、この人はあまり遍路に関心が無く、五四番と五五番を取り違えたらしく、終わったばかりの五四番延命寺の方角を教えてくれたようだ。少し手間取ったが、引き返えして歩いていると左から丘を下る道と交差するところで、遍路標識を再発見、遍路道に戻る。
 早めに丘から下りたらしい。やれやれ!
 今治市の中心であるJR今治駅からほど近い南光坊に到着。
 さっきはJRの今治駅の方向を聞くべきだった。反省。

 五五番札所南光坊(なんこうぼう) 一二二一

 隣接するは、海を隔てた大三島に鎮座する、河野水軍の守護神であった伊予一宮大山祇神社の別宮。南光坊はその別当寺だった。
 本尊のは、大山祇神が化身した本地仏で、法華経にある釈迦が出現する以前の仏、過去七仏の一つ。
 「坊」が付く札所は八八の札所の中で、ここ南光坊だけ。
 「院」が付く所がもう一つあるだけで、残りは全て「寺」である。 
 幸運にも今日は本尊の御開帳の日に当たった。
 本堂に上がり、お参りをする。
 先ほどの道に迷う失敗に懲り、入念に地図を調べる。
 しかし、今度は泰山寺までほぼ一本道。迷いようがない。
 途中で今回のお遍路で良く逢う鳥の撮影に成功。
 何という鳥だろうか?

 国道196号線と交差する辺りのコンビニで昼食用のお握り等を求め、ほどなく泰山寺に到着。

五六番札所泰山寺(たいさんじ) 一三三〇

 近くを流れる蒼社川が氾濫を繰り返し、家や人々の命を奪うことが続き、これは悪霊の仕業と恐れられていた頃、弘仁六年(815)、弘法大師が訪れ、河原に堤防を築いて土砂加持の秘法を行い、延命菩薩地蔵を感得。大師が「不忘の松」を植え、堂舎を立てたのが始まりという。
 遍路で回っていると弘法大師の土木事業に係わる伝説が多いのに驚く。昼食と休憩を取る。靴を脱ぎ足の疲労を癒す。
 疲労回復には五分でも一〇分でも靴を脱ぐことが大切。
 泰山寺から東南に針路を取り県道155号線で蒼社川に架かる橋を渡り、直ぐに県道から右に逸れて、田舎の遍路道に入る。
 二`も歩くと栄福寺に到着。

五七番札所永福寺(えいふくじ) 一四四一

 海難事故が後を絶たないと知った弘法大師が府頭山頂で海上安全を祈祷すると、海中から阿弥陀如来像が現れ、これを祀ったのが始まりと伝わる。昭和八年には足の不自由な一五歳の少年が犬に引かせた箱車で参拝した際に足が治癒。
 その箱車が松葉杖と共に奉納され、本堂の縁に置かれていた。
 最後の道のりは田舎の道から山道に入る遍路道。



五八番札所仙遊寺(せんゆうじ) 一六一一
 仙遊寺は標高二五五bにあり、最後の登りは、急坂。
 彼方に尾道に通ずる西瀬戸自動車道の来島大橋を望む。
 一五四三に仁王門に到着したが、此処からの参道が急坂で、本堂までかなり時間が掛かる。


 本尊の千手観音像は、海から上がってきた竜女が一刀三礼で彫り上げたという。又、旧参道に「お加持の井戸」が有り、弘法大師が訪れた際に病に苦しむ人々を助けるために掘ったとして今も信仰を集める。
 今回の第二回歩き遍路で、寺の宿坊で泊まれるのは、この仙遊寺だけだ。風呂は温泉で素晴らしいが、宿坊は質素その物。
 但し、窓からの今治の街と瀬戸内海の一望は、素晴らしい。
 お遍路さんは、昨日菊間で一緒になったNさんを含め四人、他のお二人はベテランお遍路。食堂でベテランのお二人からいろいろ遍路に係わる話を聞きながら食事。
 ベテランの一人、Bさんは北海道旭川から来られており、今回は気の向くまま、宿が気に入れば連泊も厭わず、遍路道も標識に拘らず八八ヶ所を歩くのだとか。ビールがお好きのようで大分出来上がっていた。


 六〇番の横峰寺は、険しい山の山頂付近にあり、制覇するには明後日までかかる。
 一四日には所用が有り、帰京しなくてはならないので、大いに悩む。
 結論は横峰寺のお参りは断念し、明日は五九番から六四番まで六〇番を抜かして平地の札所を歩き、六〇番は次回挑戦することにする。
 宿坊で、眠気と闘いながら明日の作戦を考える。残すはあと一日、「今日も無事」メールと一四日帰宅の情報等を妻に送り、就寝。

歩行距離 二五・九`


   第十五日目 十一月十二日(水) 曇り(強風)
五八番札所仙遊寺→五九番札所
国分寺(こくぶんじ)
六一番札所
香園寺(こうおんじ)→六二番札所宝寿寺(ほうじゅじ)
六三番札所
吉祥寺(きちじょうじ)→六四番札所前神寺(まえがみじ)
JR石鎚山駅
(JR予讃線)→伊予小松駅→
西条市小松
(ビジネス旅館小松)

 朝六時からお勤め。五時起きで、出発準備をすませ本堂へ。
 正座を覚悟していたが、椅子で助かる。
 般若心経を唱え、お説教を聞き終了。
 霊気漂う山の朝と本堂の何とも言えぬ緊張感に身が引き締まる。

 食事を済ませ、〇七一〇に出発。仙遊寺のある作礼山(標高281b)はトレッキングの山としても有名らしく、山道も整備されている。
 標識に従って山を下る。


 山を下って平地に出ると間もなく伊予と讃岐を結ぶ予讃線にぶつかる。線路沿いを讃岐(東南)の方向に県道を歩く。
 やがて、かつて伊予の国府があったという麓にひっそりと佇む国分寺に到着。山門にお接待のみかんが置かれていた。
 有難く頂き、境内で渇いた喉を潤す。


五九番札所国分寺(こくぶんじ) 〇八五五


 天武天皇が国家鎮護を願って各国に建てさせた国分寺の一つ。
 しかし、天慶2年(939)の藤原純友の乱で灰塵に帰すと、その後も何度となく伽藍を戦火で失う。本格的に復興されたのは江戸時代後期からで、現在の本堂は、寛政元年(1789)に再建されたもの。
 納経を済ませ休憩していると、昨日同宿のBさんがやってきた。
 会釈で先発。国分寺を出発し、県道から国道196号線に乗る。
 蛇腰池という珍しい地名の分岐点で、六〇番への遍路道には乗らず、そのまま国道を南下。国道は平坦な道で歩きやすいのだが、遍路道ではないので標識は無く、地図だけが頼り。
 お遍路さんも歩いてないようだ。途中から風が強くなる。
 しかもまともな向かい風。菅笠を後ろに持っていかれそうで歩き難い。
 ついに菅笠を脱ぎ、背負って歩こうと作業をしていると、Bさんが声をかけて、追い越して行った。昨夜、彼は「今回の遍路は、気ままに道を選んで歩く」と言っていたが、私と同じ道を選んだらしい。
 同じ道を歩く仲間が出来て、何故かほっとする。

 向かい風ゴルフの時も辛いけど遍路歩きはなおさら辛い

 予讃線と並行に歩いているらしく、線路と離れたり近くなったりして、かなり賑いのある壬生川という街に入る。
 正午も過ぎたので、今日こそ念願のうどんを食べようと、捜し当てたうどん屋は満員、仕方なく今日もコンビニにて昼食。昼食も終わり、中山川に架かる橋で写真を取っているとBさんが追い付いてきた。
 先ほど抜かれて、再度抜いた覚えが無かったので不思議に思って聞くと、「車のディーラーが、休憩の穴場なんですよ。車の展示のコーナーのソファでゆっくり休め、店の人も親切にお接待してくれますよ。」とのこと。さすがお遍路のベテラン、初心者には考えもつかぬことをご存じだ。
 この街道筋には、車のディーラーが沢山あったのに。残念。
 Bさんとは、今日も同宿で、六一番、六二番をお参りしてチェックインされることが判り、宿までご一緒することに。
 中山大橋を渡り、予讃線を横切り伊予小松の街に入り、国道11号線とぶつかると直ぐに香園寺。

六一番札所香園寺(こうおんじ) 一三五五

 香園寺は聖徳太子が開基という古刹。一階に大講堂、二階が本堂と太子堂になった鉄筋コンクリートの近代的な大聖堂。
 弘法大師が訪れた際、門前で苦しんでいた妊婦に加持祈祷をすると、無事元気な男の子を出産。この故事から、「子安大師」と呼ばれて、安産子育てのご利益があるという。それにしても、近代的な鉄筋コンクリートの本堂や大師堂は、遍路開始以来、初めてお目にかかった。
 何とも変な感じでしっくりこない。
 違和感を覚えるのは、私だけなのだろうか。

 香園寺を出て、伊予小松の街中を歩き、宝寿寺に向う。
 すぐに駅の側にある宝寿寺に到着。

六二番札所宝寿寺(ほうじゅじ) 一四一五

 平安時代、聖武天皇は一ノ宮を諸国に造営。この地に伊予の一ノ宮神社が建立され、宝寿寺は、その別当寺として創建された。
 弘法大師が逗留中、聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった一一面観世音菩薩像を彫り、本尊とした。
 安産の観音様としても信仰を集める。
 この札所は、昼休みが有り、一二時から一三時の間は、納経をお休みすることで知られている。昼休みで納経所が閉まるのは、八八ヶ所の札所の中で、ここだけだとか。
 
 宝寿寺のお参りを終わり、宿(ビジネス旅館小松)へ。
 Bさんは今から風呂に入り、ビールを飲み、至福の時を過ごすとのこと。私は今日中に六四番までお参りをしたいので、宿に荷物を預け、先を急ぐ。国道11号線を東進。丁度伊予小松から一駅東の伊予氷見の駅の近くにある吉祥寺に到着。

六三番札所吉祥寺(きちじょうじ) 一五二九

 弘法大師が通りがかりに光を放つ檜を見つけ、その霊木で本尊の毘沙門天、更に脇侍の吉祥天と善賦師童子を彫って、人々の貧苦からの救済を祈願して開山した。境内には、眼をつぶって三〇aほどの穴にうまく金剛杖を入れられたら願いが叶うという「成就石」がある。
 お納経を済ませると、筆で寺名などを書いてくれたご住職、お菓子がたくさん載ったお盆を取出し、「疲れたでしょう。甘いものが疲労回復には一番」とお接待。有難くどら焼きを頂く。合掌。

 再び国道を東に、最後の前神寺に向って歩く。
 日が暮れ、曇りとあって、辺りは暗さを増してくる。
 納経の締め切り時間一七〇〇に間に合うよう、疲れを振り払い最後の気力を奮い立たせ歩く。
 国道と並行に遍路道が地図に記載されているが、此処で道を間違えると納経の時間に間に合わなくなる恐れがあるので単純な国道を急ぐ。石鎚神社の大きな鳥居が見え、山側に右折をして山門に辿り着く。

六四番札所前神寺(まえがみじ) 一六二〇

 六〇番横峰寺と同じく役行者が開基した石鎚山を行場とする石鎚山修験道の総本山。石鎚山山頂近くに奥の院の奧前神寺がある。
 七月には、白装束を着た信者たちがホラ貝の音と共に「なんまんだ」と唱え山に向かう山開きの行事が有名。
 辺りは暗くなったが、何とか時間内にお納経を済ませることが出来た。これで今回の区切り打ち打ち止め。
 JR予讃線の石鎚山駅から伊予小松駅まで引き返す。

 宿は満員で別館にしか空きが無く、やむなく別館泊まりだ。
 風呂の順番がご婦人の次で、時間が掛かる。
 やっとの思いで、疲れを癒し、本館へ食事に向かう。
 本館の大広間は夕食の真最中で、どうやら私がしんがりの様だ。
 遍路仲間のBさんとGさんの顔が見える。
 Bさんは先ほどまで一緒だったが、Gさんも同宿とは想像もしていなかった。広間には一五、六人の客が食事をしており、大変な賑わいだ。
 お遍路さんが四分の三、後は観光の一般のお客さん。
 この宿もともと肉屋さんで、夕食が人気の宿。
 今日もボリューム満点の豚肉と鶏肉のしゃぶしゃぶがメインディシュ。

 食事後、BさんGさんの話に加わる。
 BさんGさん、古いお遍路仲間らしい。
 Bさんと私、Gさんと私の小さな二つの輪が、今晩ここで一つの輪になる。これが絆、ご縁かな。お二人は明日六〇番横峰寺に向うそうだ。
 私は区切り打ち止めを告げ、これまでの助勢に感謝を申し上げる。
 明日はゆっくり帰京するつもりなのでお別れの挨拶をして別館に戻る。最後の「今日も無事」メールを送る。
 区切り最後の夜、一四日間を振り返りながら、眠りにつく。

歩行距離 三〇・八`

   第一五日目 一一月一三日(金) 曇り
西条市小松(宿)→伊予小松(JR予讃線)→松山駅(バス)→
松山空港(JAL)→羽田


 昨夜Bさん、Gさんにお別れをしたが、やはり彼等の出発を見送ってから、帰京の途に就きたくて目が覚める。
 〇六〇〇 本館で朝食に仲間入り。
 「ここで打ち止めをして、帰宅するのは残念でしょう?」と言い残して、彼等は横峰寺に向った。

 伊予小松〇七二四発の予讃線松山行に乗車、途中特急に乗り換える予定が、今回の区切り打ち終了で気が緩んだのか、寝過ごしてしまい乗り換えのチャンスを逃す。仕方なくそのまま鈍行で松山まで。
 松山駅からリムジンで空港へ、平日でもあり空席も目立ち、難なくシニアー割引をゲット。
 一三一〇 松山空港を離陸、一四三五には羽田着陸。
 浦安駅までリムジンバスを利用し、一五日ぶりに妻が迎える我が家に到着。久しぶりの我が家にほっとする。

 今回の四国遍路(区切り打ち・二回目)は合計四三九・二`歩いた。
 一回目から換算すると約一〇〇〇`を踏破したことになる。
 後一回の四国行で結願したいと思う。

 さて、少しは成長したところを見せたいが、判定官・妻の評価は?

 二回にわたる歩き遍路一〇〇〇`の成果は、この靴????
          
続く