四国遍路(第一回)
平成二六年五月一五日〜五月三一日
村木鴻二 
四国遍路
 何故、四国遍路などと、大それた考えに至ったかは、自分でも良く判らない。心の何処かに存在した、これまでの人生に対する感謝や反省、病気回復に対する感謝、体調回復の証明、妻の献身に対する感謝、孫たちを含む家内幸福の祈願等、諸処の思いが遍路実行に走らせたのだと思う。
 平成一〇年に国立がんセンター中央病院で膵臓腫瘍の摘出手術を実施し、成功したものの、毎年三ないし四回は三九度以上の発熱を伴う胆管炎に悩まされてきた。
 そして、極めつけは二四年一〇月、二五年一月と胆管炎とそれが原因と思われる膵炎、敗血症を併発し、二回の入院を繰り返した。
 幸いにも病院の誠意に満ちた治療のおかげで、二五年二月三日に退院をすることが出来た。
 通院時、運動やパーティ等の出席も難しかろうと考えていた体調も、十キロ減った体重の回復と共に好転し、あれだけ悩まされていた胆管炎も発症することなく一年四ヵ月余りを経過した。











 遍路の起源は諸説あるが、弘法大師が庶民救済の方便として四国の地に「路を(あまね)く」循環式霊場を施したと考えられている。
 四国八八ヵ所の霊場は、密教の胎蔵界曼荼羅で説かれている仏道修得の千道場に倣って阿波を「発心」、土佐を「修行」、伊予を「菩提」、讃岐を「涅槃」に分けられている。
 阿波の発心は、仏門を信じ、悟りを開こうと決意することで、歩き出し心境と重なる。土佐の行程は総距離四百キロメーター近くあり、体力と精神力が問われる修行と言える。伊予の菩提は、苦行を乗り越え、煩悩をかき捨てた知恵を得ること、讃岐の涅槃は、一切のとらわれから脱し、煩悩の火が消えた悟りの境地を意味する。
 このように、四国の自然を利用した遍路の行程が四つの道場として言い表されている。
 八八の札所を礼拝祈願しながら、札所間の空間を歩いて修行しし心身を養うことに意義があるのだ。この歳で遅きの感、無きにしも非ずだが、四国の自然に身を置き、困難を乗り越え、尊敬と信心、感謝と思いやり、我慢が出来ることを目指して、頑張るのも良いことだと思う。
 一度に八八ヵ所全ての札所を巡拝する「通し打ち」は、体力や行事予定等を考えると困難であるので、区間を決めて何回かに分けながら巡拝する「区切り打ち」で実施することにした。
 今回は阿波の一番札所霊山寺から土佐の三七番札所岩本寺までの「区切り打ち」で挑戦することにした。
 時期は五月連休の旅行シーズンが終わって、世の中が落ち着く中旬から下旬にかけて実施することにして、準備を開始する。
 四月当初、歩き遍路の装備の中で最も重要と思われる靴を、種々の情報を参考に厳選し「メレル」カメレオン=ストームゴアに決定し購入する。
 バックパックは、娘の登山用を借りることにし、主要装備品はこれで用意ができた。巡礼用の菅笠、金剛杖は持ち運びを考え、現地で購入することにし、白衣、納経帳、納め札などの巡礼用品はネットで購入して、装備、装束の準備は完了した。四月当初から五月の連休にかけて、体調に応じ、概ね毎日一〇から二〇キロ、多いときは三〇キロの歩行訓練を重ねる。昨年の入院の経緯から、二、三日で体調を壊して、遍路中断の可能性が無いとは言い切れないので、妻を除き、誰にも具体的な話をしないまま、実行第一日目を迎える。


 バックパックと持参の荷物

   第一日目 五月一五日(木) 小雨のち晴れ
坂東駅→一番札所霊山寺(りょうぜんじ)→二番札所極楽寺(ごくらくじ)→三番札所金泉寺(こんせんじ)
→四番札所大日寺(だいにちじ)→五番札所地蔵寺(じぞうじ)→六番札所安楽寺(あんらくじ)
→七番札所十楽寺(じゅうらくじ)(十楽寺宿坊)

 五月一五日(木)、待ちに待ったお遍路開始の日である。
 早朝小雨模様の中、自宅から羽田まで妻に送ってもらう。予定した徳島空港行JAL便(〇七二〇発)のシニア割引券を順調にゲット。
 値段は一二九五〇円也、夜間高速バスよりも安価とか、年金暮らしには大変助かる。
 徳島空港に無事到着、リムジンバスでJR徳島駅に向かう。
 雲は垂れ込めているものの雨はまだ降りだしてはいない。
 JRを利用し、徳島駅から、一番札所霊山寺がある坂東駅に向かう。
 一〇四五 坂東駅に到着。無人駅を出て地図を見ながら駅前通りを歩き右折すると霊山寺の山門が見える。無事到着。

一番札所霊山寺(りょうぜんじ) 一〇五五
 霊山寺は「一番さん」と親しまれ、「逆打ち」や「区切り打ち」などを除き、原則としてここから多くの遍路が歩き始める。
 第一番と定められたのは、弘法大師が密教の阿字五転(発心・修業・菩提・涅槃・利他)の法則に従って、四国の東北の角・鳴門市を発心点としたためで、ここから右回りに八十八ヵ所を巡る遍路道がつくられたという。

 遍路用品は概ねネットで購入していたが、航空機の持ち込みは面倒が伴うだろうと現地調達を計画していた金剛杖を運動用品の売店で購入する。
 売店はこれからお遍路を開始すると思われる客で賑わっている。
 お遍路さんがこんなに沢山いるのかと驚く。
 遍路ツアーと思われるバスの団体も多い。白衣を着て、金剛杖を持って準備完了、今回、菅笠はフィッテングが難しそうなので回避。
 団体遍路を参考に、本堂、太子堂のお参りをする。
 般若心経を教本片手に唱える。
 「経を読むのにたとい暗ずるとも本を見るべし」が正しい作法とか、完璧に暗唱していない私にありがたい作法である。
 その後、納経所で納経帳に墨書綬印してもらう。
 これらの手続きを「お納経」という。
 お参りと納経には、二〇分から三〇分は掛りそうだ。
 また納経時間は〇七〇〇から一七〇〇と決められているとのこと。
 明日からこれらの時間を念頭に、お遍路を歩く計画を立て、札所を巡ることになる。


 いよいよスタート。心配していた雨が降り出す。

 五月雨に煙る伽藍の霊山寺 心静かに発心の一歩

 小雨の中を遍路開始。遍路道には、県道や国道のような歩行・車両双方が往来する現代の生活道路である遍路道と山道や田んぼの畦道のような昔の儘保存されている遍路道がある。


 遍路道には遍路道保存協会が遍路医師や道しるべの支柱を建立し、また電柱、道路標識の支柱に道しるべ「遍路シール」を添付して案内してくれる。
 一番から二番は一・四`しかなく二〇分で歩いてしまう。
 歩くペースがよくわからない。
 遍路道には遍路道保存協会が遍路医師や道しるべの支柱を建立し、また電柱、道路標識の支柱に道しるべ「遍路シール」を添付して案内してくれる。


二番札所極楽寺(ごくらくじ) 一一五〇

 弘法大師お手植えの長命杉は、長寿の他病気平癒や諸願成就、太子堂の安産大師子宝と安産のご利益があるといわれる。
 極楽寺を出る時、納経所で昔ながらの遍路道を尋ねると、マムシが出るので自動車道併用の遍路道を薦められる。都会人に見えるのか。
 蛇は大丈夫だからと、地元農家の作業用路でもある畦道の遍路道を歩く。初日で仕方がないとも思うが、歩くペース配分が判らない。
 又、じっくりと各札所を観察する余裕も作れない。折角の機会であるので、もう少し各札所の言われなどを観察したいと思う。
 金泉時に到着する頃、雨は本格的に降り出す。

三番札所金泉寺(こんせんじ) 一二三〇
 弘法大師が掘った「黄金の井戸」があり、水面を覗いて自分の顔が映ると長生きをするといわれている。又、庭園に源義経が屋島に向かう途中に立ち寄った際、弁慶が持ち上げて見せたという「弁慶の力石」がある。


四番札所大日寺(だいにちじ) 一四〇〇

 本堂は弘法大師が三度拝んで一つ刻んで作ったと言われる大日如来像が祀られている。
 金泉寺から大日寺と相当の降りになった雨も、大日寺を出発する頃には上がり、五月晴れに好転。道端に咲く花、鶯の鳴き声に心が洗われる。
 地蔵寺までは二`、山道の遍路道を歩き等身大の五百羅漢像が並ぶ奥の院を経由してアプローチする。



五番札所地蔵寺(じぞうじ) 一四五〇


 地蔵寺の本尊である延命地蔵の胎内には、弘法大師の彫った勝軍地蔵菩薩が納められており、源頼朝や義経、蜂須賀家などの武将から厚い信仰を集めたと伝えられている。地蔵寺を出発すると,丁度下校時間らしく、多くの小学生や中学生と会う。
 全員が活発に「こんにちは」の挨拶をくれる。
 何とも清々しく元気が出る。

六番札所安楽寺(あんらくじ) 一六〇〇

 この寺は中世、阿波藩祖蜂須賀家政が遍路や旅人の宿泊や接待の施設である駅路寺の役目を負わせたと言う。
 今でも宿坊は大きく温泉もあるらしい。
 しかし、人気で混むと判断し、又、少しでも先に進むことを優先し、七番札所の十楽寺宿坊を今日の宿にした。

七番札所十楽寺(じゅうらくじ) 一六三〇
 寺名の十楽は、臨終時に阿弥陀如来と二五の菩薩に迎えられ、姿が美しくなったり五感が満たされたりする極楽で得られる十の楽しみのこと。
 本堂脇に祀られた治眼疾目救済地蔵尊は、眼病や失明した人の治療に霊験があるとされ、参拝者が絶えないという。


 お参り「お納経」を済ませ、十楽寺宿坊にチエックイン。
 宿坊はこれが本当にお寺の宿坊か?と思えるほど立派で、そこいらのビジネスホテルなど足元にも及ばない。
 さっそく明日の計画、宿の予約、洗濯等を実施。意外と時間が掛る。
 風呂で会った同宿のお遍路さんに、「脚にきてますね」と言われてしまった。
 今日は昼から歩き始めて一八`位しか歩いていな。
 これで、脚にきてたら明日以降が思いやられる。今日は遍路初めの日、歩くことより、他のことに気を使いすぎて疲れたのだ。と自分言い訳をし、明日は大丈夫と自分を励ます。風呂上がりの缶ビールがうまい。
 食事話終わって、部屋に帰ると疲れと共に睡魔が襲う。

 歩行距離一八`

   第二日目 五月一六日(金) 晴れ
十楽寺宿坊→八番札所熊谷寺(くまだにじ)→九番札所法輪寺(ほうりんじ)→十番札所切幡寺(きりはたじ)→一一番札藤井寺(ふじいでら)→吉野川市鴨島(旅館三笠屋)

 十楽寺を〇七四〇と比較的遅い出発。一時間で熊谷寺に到着。

八番札所熊谷寺(くまだにじ) 〇八四〇


 山手にあり、高さが一三bある仁王門や、江戸時代に建立された多宝塔、太子堂などの伽藍が森をバックに落ち着いて佇む。

 天気はまさに五月晴れ田園を縦断する遍路道は,はるか彼方の山並みをバックに長閑な景色である。

九番札所法輪寺(ほうりんじ) 〇九三〇


 八八ヵ所で、唯一涅槃像を本尊にする札所。

 〇九五五 法輪寺を出発して間もなく、遍路道で靴を直している女性のお遍路さんに遭遇。
 菅笠は持っているけど、白衣は着ていないし、金剛杖も持っていない。
 その代りに大きなカメラをぶら下げている。今流行のカメラギャルか?と思いながら、「カメラが大きくて大変だね。」と声をかけて追い抜く。
 年のころは、高校生か、大学生にみえる。
 今はお休みでもないのにと、疑問が広がる。
 なかなかの健脚で、すぐに追いつかれる。前後しながら遍路道を歩いていると「どちらから来られたのですか?」とか、いろいろ質問が来る。
 やはり田舎の若い女性は、素直で可愛いなどと思いながら、「学校はお休み?」と聞くと、「私は社会人で、徳島のミニコミ誌の編集長。アラ・フォーです。」との返事。これはこれは大変失礼、素直で可愛く、とても四〇近くなんて思えなかった。


 遍路取材の仕事中とのことで、この後、次の札所切幡寺に着くまで、取材を受けることになった。私の年齢七四歳には、今度は彼女がビックリ。
 若い時のスポーツの質問の答え、「バスケット」には「私も高校のバスケットの選手、徳島のベスト2」、フルマラソンの経験にも「私、今も走っています」と、取材ながら共通点も多い。
 雑誌が完成したら送ってくれる約束も出来た楽しい道行でした。
 編集長が遍路道にある店などの取材をするということで別れ、切幡寺の近くまでアプローチ。切幡寺門前のお店の人が、道は打戻り(来た道を戻る)なので、荷物を置いて参拝して来いと親切に言ってくれたけど、たいしたこと無いだろうと、そのまま寺に向かう。
 これが大間違いで、山腹に立つ本堂への三三三段の石段とその前後の坂道は半端でなく、肩に荷物が食い込み、泣かされることになる。
 人の親切は素直に聞くものだ。反省、反省。

一〇番札所切幡寺(きりはたじ) 一一一〇


 弘法大師がこの地を訪れた時、機織りを業としていた娘が、大師に七日間の施しをし、結願の日にその織っていた布を惜しげなく切って差し出した。
 大師は千手観音を刻み、その志に答えたという。そのとき娘は即身成仏して千手観音になったといわれ、この寺の由来でもある。

 一一三〇 切幡寺を出発。
 今日の計画は、後九・三`先の一一番札所藤井寺までだ。
 途中遍路小屋・空海庵で休憩。

 お昼には国道12号線の「うどん亭」(阿波市八幡)に入る。
 遍路途中で初めて入るお店で、心落ち着く、そして、やはり四国のうどんは美味しい。
 遍路小屋・空海庵


 十分休養を取り、藤井寺に向かう。
 途中四国三郎・吉野川を渡る。明日は土曜日、今日はお遍路さんが多いようだ。
 この沈下橋(潜水橋)を渡る時も、三〜四組の同時に渡っていた。
 遍路小屋・空海庵の後、午後からは休息の場所が無い。
 川の堤などどこでも良いのに、決心がつかないまま歩き続ける。
 これも反省点だ。
 五`くらい歩いたら休むのが、長距離を歩くときのこつ。
 これに気付くのは、もう二、三日後のことになる。


 だんだんリュックを重く感じだして、肩が痛い。
 そういえば、歩くことには慣れておこうと本番の靴で、ある程度の訓練を繰り返してきたが、リュックを背負っての訓練はしてこなかった。
 こんなに辛いとは想定外である。それでも何とか、藤井寺に到着。
 今日も下校時の子供たちに励まされた。

 下校時の地元の子らの激励に 疲れた体再チャージ

一一番札所藤井寺(ふじいでら) 一四二〇
 平安時代は七堂伽藍が並ぶ真言密教の大寺院として栄えたが、戦国時代、長宗我部氏の兵火にかかって消失し、江戸期の延宝年間に再興と同時に臨済宗の寺へ改宗された。境内には、弘法大師お手植えという五色に咲く藤があり、寺名の由来でもある。
 本来ならば、藤井寺の宿坊に泊まり、明日早朝に焼山寺への登り口を出発するのが理想的であるが、同じ考えの人間が多くて、宿坊は満員。
 しかも明日は土曜日である。予約が遅すぎた。
 宿は遍路保存協力会発行のガイドブックに従い、寺から三`の距離にある吉野川市のJR鴨島駅近くの三笠屋旅館にした。この当たりの情報も、日を重ねるにつれ要領が分ってくるが、二日目では、そうはいかない。

 本日の札所遍路のノルマを果たしたと言う安心感と遍路道にある「遍路シール」などの案内が無いので、宿を探すのに苦労する。
 明日早朝、藤井寺までの三`の体力を消耗し、肝心の焼山寺の登山に支障が出ると考え、タクシーで行くことにして、宿に頼んで予約をした。
 遍路道を外れて宿泊したので、元の遍路道の位置に復帰するために、タクシーを使用するのだから許されるだろう。
 出発前はあれも必要、これも必要と荷物にしたが、余計なものが多いことに二日間歩いてみて気付く。
 例えば下着も毎日洗濯をするので二日分あれば十分と言う具合である。この際、余計と判断した物を宅急便で自宅に送り返すことにした。
 多分三キロ位は軽くなったようだ。肩、足は極めて痛い。
 風呂でマッサージをし、貼り薬をベタベタと貼る。
 駅の近くの旅館なので、トイレは洋式だろうという思惑は外れ、しゃがむのに大いに苦労する。

歩行距離二三`

 編集長・池田さん約束通り、六月後半にミニコミ誌「徳島人」を送ってくれた。この「徳島人」はA4版の雑誌で、この手の雑誌としては秀逸である。
 最高と言っても過言ではない。
 編集長、自らの写真を表紙に掲載するなど、なかなかの実力者のようだ。
 定価が三五〇円であるが、採算の取れる値段ではないので、県か市が補助金を出しているのだろう。徳島の意気込みを感ずる。



   第三日目   五月一七日(土)  晴れ
吉野川市鴨島(旅館三笠屋)→藤井寺→一二番札所焼山寺(しょうさんじ)
神山町(植村旅館)

 〇六三〇 三笠屋旅館を予約のタクシーに乗って出発。
 朝早い出発なので、宿の女将さん握り飯を作ってくれる。
 大きな握り飯二個に塩鮭、卵焼き、塩昆布に漬物、それにバナナが一本の豪華な朝飯弁当である。
 〇六五〇 藤井寺の脇の登山口から、焼山寺に向けて出発。
 焼山寺は九三八bの焼山寺山の九合目、八三〇bのところにある。
 決して高い山ではないが、一気に標高を上げる山道は、「遍路ころがし」として有名。
 しかも、単純に登るだけではなく、焼山寺一三`の行程は、登り下りを繰り返す遍路道の中でも屈指の難所である。



 歩き始めてほどなく遍路ころがしがスタートする。
 今日は土曜日のせいか、お遍路さんが多く遍路ころがしに挑戦している。

 〇八〇五 藤井寺から、三・二`、標高四四〇bの長戸庵にたどり着く。既に到着をしている遍路仲間も沢山休息している。
 昨日の荷物を軽くする策が功を奏し、肩に痛みは残るものの、辛さは激減、昨日とは打って変わって楽である。百グラムでも荷物を減らすことが大切と言う先人の教訓を身に染みて感じる。

 宿でもらったバナナとカロリーメートを朝食にして食べる。
 握り飯は昼食に取っておく。
 その間にも、後続のお遍路が到着をして長戸庵は満員状態。
 朝食もそこそこに済ませ出発。
 途中元気な若いお遍路の何人かに追い抜かれる。
 もう少し若い時に歩くべきだったの想いが頭をよぎる。
 長戸庵からしばらくは穏やかな道となるが、疲れを癒す間もなく急こう配の下り坂に変わる。
 下りきった所が焼山寺との中間点、番外霊場柳水庵だ。
 〇九三〇 到着。柳水庵を過ぎるとあれだけ多かったお遍路は視界から消えて、一人歩きになる。若くて元気なお遍路は先を行き、それ以外の多くのお遍路は後続となっているらしい。聞こえてくるのは木々のそよぐ音、小鳥のさえずる声、そして自分の足音と金剛杖に付けた鈴の音だけ、自然の中に溶け込んでしまった錯覚に陥る。
 再び急な登りを登っていくと、ピークに大師お手植えと伝わる一本杉の巨木が見えてくる。根元には巨木を背に弘法大師像が立っている。
 標高七四五bの浄蓮庵だ。一一五〇 到着。


 折角七〇〇b以上も登ったのに、焼山寺は向かいの山。
 そちらに向かって、急坂を駆け降りるように神山町左右内川の集落まで下り、左右内川の橋を渡る。この先に最後の急な登りが待っている。
 正午を過ぎたので、左右内川の清流を眺めながら、昼食をとる。旅館の女将が作ってくれた握り飯弁当が、本当に美味い。感謝、感謝である。

 昼食で元気を取り戻し最後の登りに挑戦。
 一三〇〇過ぎに焼山寺にたどり着く。

一二番札所 焼山寺(しょうさんじ) 一三〇〇


 標高九三八bの焼山寺山は大宝年間に拓かれた修験道の中心地。
 その八合目に位置する焼山寺は、深い霧と樹齢約五〇〇年の巨杉に覆われた霊気漂う山岳寺院だ。
 この地に修業に訪れた弘法大師が、住民を困らせる古池に棲む火を噴く大蛇を、虚空蔵菩薩の加護を受けて岩窟に閉じ込めたという伝説が残る。

 急坂を喘ぎ登りし焼山寺 四方の峰に神秘漂う

 焼山寺にも宿坊があるが、明日の日曜日、お遍路に限定されないトレッキングのイベントが焼山寺と藤井寺間であるとかで、宿坊は満員状況。
 それなら少しでも先へと、焼山寺から一〇・二`先の植村旅館まで頑張ることにした。この辺が遍路新米の悲しさ、一〇`位と多寡を括っていたのだが、これが想定外の山道で、大変な辛さを伴うことになる。
 ベテランはさて置き、遍路ころがしの焼山寺を目指す通常のお遍路は、焼山寺に到着すれば、宿坊か、近くに宿を取るらしい。

 焼山寺からの下りは杉林を抜ける遍路道で快調に歩くものの、下り切った寄居中から、又、山道、この山道が想定外で辛いこと、辛いこと。
 それでも、明日楽になると、自分を励まし、午後五時に植村旅館に到着。焼山寺付近から一三番札所二〇キロの遍路行程途中に、宿は植村旅館以外に無く、植村旅館は遍路宿としては有名な老舗旅館らしい。
 綺麗で親切、苦労して歩いた甲斐があった。

歩行距離二六`

   第四日目   五月一八日(日)  晴れ
神山町(植村旅館)→一三番札所大日寺(だいにちじ)→一四番札所常楽寺(じょうらくじ)
→一五番札所国分寺(こくぶんじ)→一六番札所観音寺(かんのんじ)→一七番札所井戸寺(いどじ)
→徳島市南二軒屋町(オリエント・BH)

 〇六五〇 朝食を済ませ植村旅館を出発、大日寺に向かう。
 
 昨日植村旅館まで進出していたので、大日寺まで一〇`で済むが、焼山寺付近の出発であれば、二〇`は歩くことになったろう。
 昨日苦労した甲斐があったというものだ。
 大日寺に向い鮎喰川に沿って、ひたすら歩く。
 透明度の高い鮎喰川が朝日にきらめく。途中駒坂橋を渡る。
 この橋は潜水して、通行出来なくなることが多いらしい。
 好天気で本当に良かった。



一三番札所大日寺(だいにちじ) 〇九四五


 今日は日曜日、かつ、都会徳島に近いので、バスで回るお遍路さんが多い。
 一三番札所大日寺から、一七番札所井戸寺までは八・三`の間に、四つの札所が立て込んでいる。
 歩きながらソイ・ジョイを昼食に、一気に回ることにする。

一四番札所常楽寺(じょうらくじ) 一〇三五

 常楽寺は弥勒菩薩を本尊とする八八番唯一の札所とか。
 「流水岩の庭園」と呼ばれる奇形の岩盤の上にあり、独特の雰囲気を醸し出している。大きなイチイの古木はあらゆる病気に霊験があるとされ、「アララギの霊木」とも呼ばれている。

一五番札所国分寺(こくぶんじ) 一一一三
 聖武天皇の勅命(741)で、全国六八か所に置かれた国分寺、国分尼寺の一つ。創建当時は七重の塔を持つ壮大な伽藍を構えていたが戦国時代に焼失した。鐘楼の前には旧国分寺時代の立派な礎石が残っている。


一六番札所観音寺(かんのんじ) 一二〇三
 集落の中にこじんまりとある札所。「夜泣き地蔵」が祀られ、子供の夜泣きが止まると言うことで、何枚もよだれかけが掛けられている。


一七番札所井戸寺(いどじ) 一三一〇


 井戸寺の本尊は、聖徳太子の作と伝わる七仏の薬師如来座像である。
 又、弘法大師作の十一面観音像は国の重要文化財。
 日隈太子堂には、弘法大師が村の水不足を見て一夜にして湧かせた「面影の井戸」があり、水面に顔が映れば無病息災と伝えられている。

 一三五〇 井戸寺を出発、本日の宿がある徳島市の中心に向かって歩く。
 徳島市に隣接する鳴門市西部の一番札所霊山寺を出発して、反時計回りに徳島市に帰って来たことになる。

 遍路四日目位になると、歩くペースや距離によって、宿や札所で一緒になる顔見知りも増えてくる。一緒に歩くのは歩幅やスピードが異なるので、原則として避けてきたが、井戸寺出発後途中から、後は宿だけと言う安心感も手伝い、札幌から来たと言う遍路三回目のIさんにいろいろ遍路情報を聞きながら一緒に歩く。
 彼の宿は徳島駅近くと言うことで別れ、眉山公園のロープウエイを右手に見ながら、徳島駅の二つ先のJR二軒屋駅前のビジネス・ホテルまで歩く。
 今日の宿は、遍路経路上と言うことで選んだのだが、遍路のベテランたちは、少し遍路道からは外れることになるが、コンビニなど便利な、かつアコモデーションの良い徳島駅付近の宿を選ぶらしい。
 案の定、不便であまり綺麗とは言えない宿だった。足に豆などは出来なくて助かっているが、筋肉の痛みは最高レベルまで達しているようだ。
 それでも明日の予習、洗濯、身体の手入れ、自宅への連絡を、習慣か義務感のようにこなす自分に驚く、自分がいる。

歩行距離二七・三`

   第五日目   五月一九日(月)  晴れ
徳島市南二軒町(オリエント・BH)→一八番札所恩山寺(おんざんじ)
一九番札所立江寺(たつえじ)→勝浦町(金子や旅館)

 今日も宿まで約二三`。一日約三〇`を目標にしているので、もう少し歩きたいのだが、二〇番、二一番札所の鶴林寺、太龍寺も標高五〇〇b以上の山中に在り、今日中に制覇するのは難しい。
 と言うことで、鶴林寺麓の「金子や」までの計画になる。
 〇七〇〇 BHを出発。
 朝食は昨日コンビニで調達したサンドイッチで済ます。
 国道55号線を小松島市に向け南下。
 朝通勤のため徳島市中心へ北上する車のラッシュである。
 国道の歩道を歩く自分が、何となく場違いの異分子に思えてくる。
 勝沼橋を渡り小松島市に入り、やがて遍路小屋に到着する。
 やっと自分がお遍路中の現実に戻る。


 やがて、国道を離れ昔ながらの樹木に覆われた遍路道を経由して恩山寺に到着する。



一八番札所恩山寺(おんざんじ) 〇九一〇


 弘法大師がこの寺で修行時、母親が訪ねて来たが、女人禁制で入れないため、大師が一七日間滝に打たれて女人解禁を成就させ迎え入れたと伝えられる。母親玉依御前はこの寺で出家し、剃髪した髪が太子堂前の剃髪所に納められている。
 〇九四〇 恩山寺を出発。山間の遍路道を歩き立江寺に向かう。
 途中、ミカンの花や路端の草花の自然を満喫する。



一九番札所立江寺(たつえじ) 一一〇〇
 立江寺は阿波の関所寺と呼ばれ、悪行をした遍路は改心しないと、ここから先へは進めないといわれている。

 一一三〇 金子やに向かって出発。
 時間には余裕があるが、宿に早く着くのも宿側の準備があり、遍路礼儀に反するらしい。一五〇〇以降の到着が常識とか。
 と言ってゆっくり歩くと、ペースが変わり疲れる。
 ペースを変えず休憩で時間調整をせざるを得ない。

 途中県道を歩いていると地元のおばさんが「こんにちは、ご苦労様」の挨拶をくれる。「有難うございます」と答え、ペースを落とさず歩くが、おばさんかなりの距離、並行して歩いてくる。健脚である。そして、「接待するので、ちょっと休みなさい」と言って、写真のベンチに案内される。
 接待を断わらないのも遍路の礼儀、重い物を接待されると大変などと考えていると、自宅へ戻ったおばさんがクーラーボックスを抱えて現われた。
 飲み物などであればウエルカム。しかし、ボックスの中身は、布製の「ポケット・ティシュ入れ」が沢山並んでおり、好きなものを選べと言われる。
 種々の布切れを使って作ったとか。なかなかのセンスである。
 有難く頂く。
 お遍路のためのベンチの設置もおばさんで、お遍路さんに会えば、毎日こうして「ティシュ入れ」の接待をしているらしい。
 時間調整もあり、おばさんから地元の話をいろいろ聞く。
 晴れ渡った「彼方に見える山が次の札所鶴林寺」、「その向こうの山が次の太龍寺」などと、話を聞きながら、のんびりと長閑な時が過ぎる。

 おばさんの接待に深く感謝し、出発。時間を調整したつもりであったが、午後二時過ぎに金子屋についてしまった。
 「金子やさんすみません。」この辺りが、まだまだお遍路初級者だ。

 「金子や」には明日早朝鶴林寺に向かうお遍路さんが七組とかなりのお客で満員状態。
 明日の予報が「正午頃から雨」と言うことで、話題は明日の天気に集中。
 何とか太龍寺までの山道を歩き終わるまで、雨が来ないことを祈って就寝。

歩行距離二二・八`

   第六日目   五月二〇日(火)  曇りのち雨
勝浦町(金子や)→二〇番札所鶴林寺(かくりんじ)→二一番札所太龍寺(たいりゅうじ)
二二番札所平等寺(びょうどうじ)→阿南市新野町(山茶花)

 「金子や」で昼飯のおにぎり二つを作ってもらい、午前七時に出発。
 上天気で予報の雨が嘘のよう。鶴林寺も太龍寺も標高六百b以上あり、行程には「遍路ころがし」が存在する。何とか太龍寺を昼までにクリアーしたいと頑張る。宿を先に出発した遍路仲間を次々に追い抜く。
 遍路六日目であるが、初めのころの疲れや筋肉の痛みが軽くなり、調子が良い。七四歳、捨てたものではないと自画自賛。
 麓から高低差四七〇bを登ると杉やヒノキが並ぶ境内に入る。

二十番札所鶴林寺(かくりんじ)  午前八時一〇分


 弘法大師が修業に訪れると二羽の鶴が小さな黄金の地蔵を守護していた。大師は霊木で地蔵菩薩を彫り、胎内に黄金仏を納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたという。〇八三〇 出発。
 喘ぎ喘ぎ、ちょっと無理をしてるかなと自問自答しながら、一一〇〇前に太龍寺の裏側にある山門に着く。
 もう少しスローペースで良かったのだが、何せ天気との勝負、太龍寺到着でやっとホッとできる。

二一番札所太龍寺(たいりゅうじ) 一一一〇


 「西の高野」と呼ばれる太龍寺山の山頂近くにあり、弘法大師の著書「三指指帰」にも記され、大師が実際に修業した場所と確認出来る数少ない霊場であるらしい。「金子や」で作ってもらったおにぎりを食べる。
 梅干しだけのおにぎりだが達成感も手伝い、美味しい。雨はまだだが、出発時の好天とは裏腹に黒雲が現れ徐々に空を覆いつつある。
 一一五〇 バックパックに雨カバーを装着するなど、雨の準備をして、太龍寺を次の札所平等寺に向け出発。
 午前中の強行軍で、太龍寺からの急坂の下りはかなり堪える。
 足はがくがく。
 一時間半くらい歩いたところで、阿瀬比の遍路小屋に到着。ゆっくりと靴を脱ぎ、足を延ばして休む。平等寺まで後五`ほど、雨はまだだ。
 十分休息を取って出発。再び山道となり、大根峠を越える辺りからポツポツと降り始める。山道での傘は危険と傘なしで歩く。
 一四三〇頃やっと山道を抜け、アスファルトの道路に出る。
 雨は本降りとなり傘を開く。天が(お遍路だから仏だろうか)、山道が終わるまで、雨を待っていてくれたような気がする。
 「有難うございました」の言葉が自然に出る。

二二番札所平等寺(びょうどうじ) 一五〇〇



 弘法大師が掘った井戸は、「弘法の霊水」と知られ万病に効くと言われる。
 本堂には不自由な足が治ったお遍路が納めたと言う三台の箱車が祀られている。

 納経の後、山門と隣り合わせの遍路宿「山茶花」に駆け込む。
 濡れた物の片づけもそこそこに、風呂を頂き、そしてビール。
 遍路宿は何はともあれ風呂だ。風呂が良ければ少々のことは許せる。
 遍路宿の夕食は、概ね泊まりのお遍路全員が一堂に会し頂く。
 情報交換の場ともなる。

 前にも登場した札幌から来られたIさん、遍路歴三回のベテラン、平地を歩く時は、とても一緒には歩けない位の早いペースで歩く。
 しかし山道はとても苦手らしい。
 今日も大変苦労して、途中、雨とあまりの疲れでバスを使ったようだ。
 そう言えば、太龍寺を出発する時、喘ぎ喘ぎ到着したIさんと会ったのを思い出す。人夫々得て不得手があるようだ。

 どこから来られたか分からないが、六五歳と言うSさん、ちょっと恰幅が良く社長さんタイプ。遍路歴は五回と言う。
 今回は番外も気ままに迂回して回っておられるようだ。
 このSさん宿、では、夕食時必ず瓶ビール四本飲む。
 聞くと翌日には影響なく、歩くエネルギー源とか。
 それにしても経済的には大変だ。
 我々仲間では、「ビール四本のSさん」で通っている。
 そのSさん、今日途中で接待を受けたそうだが、何と大きな甘夏を四個も貰い、捨てるわけにもいかず宿まで運んで来たそうだ。
 宿について甘夏を測ったら三`以上もあったとか。
 食後のデザートとして、遍路仲間に接待してくれた。
 「ご苦労様、御馳走様でした。」

歩行距離二一・五`

  第七日目   五月二一日(水)  曇りのち晴れ
阿南市新野町(山茶花)→二三番札所薬王寺(やくおうじ)→海陽町鯖瀬(海山荘)

 二三番札所薬王寺は阿波国最後の霊場である。
 平等寺から二二`も離れているが、二二から二三番室戸の最御崎寺までは、さらに七五`と遠い道のりとなる。昨日雨を予想して、平等寺まで、二一・五`しか歩いてないので、今日は少々無理をするつもり。
 〇六三〇 出発。


 昨夜は大荒れの天候で、真夜中、物凄い雷鳴、雷光で目が覚めた。
 雨も宿前のアスファルト道路を凄い音で打ち付けていた。
 その雨も上がり、出発時には曇りの状態であったが、九`くらい歩き、海が見える由岐坂峠にさしかかる頃になると、急激に青空が広がってきた。雨上がりの爽やかな五月晴れの中、快調に歩を進める。
 前後して同宿だったお遍路仲間も歩いている。

二三番札所薬王寺(やくおうじ) 一二〇〇


 薬王寺は阿波国最後の札所で、仁王門をくぐると三三段の女厄坂、
四二段の男厄坂があり、本堂右には男女厄坂(還暦の厄坂)と呼ばれる
六一段の石段がある。
 弘法大師が平城天皇の勅願を受けて開基し、嵯峨、など歴代の天皇から篤い保護を受けた厄落としの寺として知られる。
 お遍路や観光客も多い。国道55号線に面し、最寄りのJR日和佐駅周辺を含め、ドライブインや道の駅となかなかの賑わいである。
 ドライブイン近くのうどん屋に入り、月見とろろ定食を食べる。
 うどんは四国でも香川の讃岐うどんが有名だが、徳島のうどんも捨てたものではない。一二四五 十分に英気を養い出発。ここからはひたすら二四番札所最御崎寺を目指し南下を続けることになる。
 遍路道は、アスファルトとコンクリートで舗装された道が八〇lだそうだ。膝を痛めたり、下半身の疲労も激しいらしい。国道55号線を歩きながら、膝は大丈夫だが下半身はかなり疲れることを思い知る。
 牟岐からは昔の遍路道で、岬を越える山道が続く。
 木々の間から、海を臨む。


 疲れもピークに、そして黄昏時、鯖大師で有名なJR鯖瀬駅近くの海山荘に着く。今日は相当な距離を歩いたが、平等寺を出発して海岸に出るまではゆったりした下りの道が多く、かつ、昨日ゆっくり休んだことと雨上がりの爽やかな天気にも助けられ、思ったよりはダメージは少なかった。

歩行距離四三・一`

   第八日目   五月二二日(木)  晴れ
海陽町鯖瀬(海山荘)→佐喜浜町(民宿徳増)

 今日もひたすら国道55号線を南下することになる。明日以降のことを考えれば、出来るだけ距離を稼ぐに越したことはない。
 しかし、今日は打つべき札所は無いので、納経時間等の制約も無く、
〇七〇〇とやや遅めの出発とする。


 海沿いの55号線が果てしなく続く。歩くのに飽きて、嫌気を感じる。
 しかし、そのうち無心に、歩く自分に気付く。これが無我か?
 国道とはいえ、車の往来は少なく、寄せては返す波の音が響く。
 それにハモルように鶯が鳴く。
 東京では味わえない何とも長閑な気分である。

  潮騒の合間を縫って鶯の 声励ましの阿波の海辺路
  潮騒に負けじとハモル鶯の 声心地良き阿波の海辺路


 一一二四 高知県に入る。
 海岸線に近い国道55号線をひたすら歩く。


 一六〇〇を過ぎ、はるか彼方に鹿岡鼻の夫婦岩が見えてくる。


 一六五五 民宿徳増に到着。
 いよいよ徳島県から高知県に入った。発心の道場・阿波の国(徳島県)から修業の道場・土佐の国(高知県)に足を踏み入れたことになる。
 一つ壁をクリアーした感じ。お遍路にも慣れてきたようだ。
 今夜の宿は、何となく名前に引かれて選んだのだが、これが大当たり。
 宿は自前の生簀を持っているとかで、夕食は海の幸のオンパレード。
 しいら、カツオ、マグロの刺身、金目の煮付け、トコブシの煮物、烏賊と山菜の天ぷら、筍とワカメの酢物など、お膳は一杯であった。
 写真を撮れなかったのが悔やまれる。
 二日間のトータル約八〇`は、さすがにダメージが大きく足にきている。
 明日はいよいよ室戸岬。足のケアーを慎重に実施して備える。

歩行距離四一・二`

   第九日目   五月二三日(金)  晴れ
佐喜浜町(民宿徳増)→二四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)→二五番札所津照寺(しんしょうじ)
二六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)→室戸市元(民宿浦島)

 〇七〇〇「今度は旅行で、妻を連れて来るよ」と、送りに出てきた宿の
二代目と話し、民宿徳増を出発。
 今回のお遍路中、此処まで宿泊した宿の中では最高点の宿であった。
 天気は最高、空あくまでも青く、海は水平線の彼方までくっきりと見える。出発後直ぐに昨日遙かに見えていた夫婦岩を通過。


 国道55号線を南下、日差しは強いが湿度は低く、気持ちが良い。
 昨日の疲れが嘘のように、快調に歩が進む。
 〇九五〇ごろ、室戸岬の、千二百年前に空海が修行をして悟りを開き、自らを「空海」と名付けたと言われる洞窟、御厨人窟(みろくど)に到着をする。


 「岬観光ホテル」を過ぎ、登山口から本堂まで、標高一六五b、距離
七三〇bの山道を登る。
 途中空海にまつわる伝説が残る捩り岩などを経て、山門に到着。

 二四番札所最御崎寺(ほつみさきじ) 一〇三〇


 青年空海が御厨人窟に籠り、求聞持法の修法に励んだのが一九歳の頃。
 後に唐から帰国した大師は、嵯峨天皇の勅願により、再び室戸岬を訪れ、虚空蔵菩薩像を刻んで本尊とし伽藍を建立。歴代天皇の崇敬は厚く、足利尊氏はこの寺を土佐国の安国寺とした。
 江戸時代は藩主山之内氏の祈願寺として栄えた。
 境内から見渡す空と海はあくまでも青く澄み渡り、弘法大師が自らを「空海」と名付けた奥深い何かを感じさせる。

 果てしなく紺碧続く空と海 大師悟りの室戸の岬

 最御崎寺を後にして、くねくねと曲がる坂道を、海岸沿いの道へと下る。
 左手にはきらめく海、そして先には、今から歩く遍路道が果てしなく続く。

 左手に海を見ながら、新しい国道55号線と並行に走る旧道の平たんな道を西に向かって歩く。旧道のあちらこちらに室戸台風の高潮による犠牲者の慰霊碑が祀られている。
 慰霊碑と同じように海抜と避難経路を示す看板が目に付く。
 海抜はおよそ五bで、一〇b以上の場所は無い。
 南海地震可能性の報道も多い昨今、避難経路の看板が気になる。

 どこか懐かしい室津漁港を過ぎると街の中に津照寺の山門が現れる。

 二五番札所津照寺(しんしょうじ) 一二四五


 小高い丘にあり、漁師町にある山門から長い階段を登って参る。
 大漁と海上安全を守る本尊の延命地蔵は、別名「楫取地蔵」と呼ばれ、江戸時代の土佐藩主山内一豊が暴風雨で遭難しかけた時、僧の姿となって舵を取り、港へ導いたという伝説が残っている。

 山門脇のお土産屋兼食堂で昼食。
 四国の今回の旅で初めてそばにぶつかり、思わず注文する。
 しかし、やはり四国はうどんが旨い。

 店先の小夏というみかん、徳島県の街道筋でも気になっていたのだが、どうも宮崎の日向夏と同じ物のようだ。試に一つ買って、食べてみる。
 正しく日向夏で、美味しい。自分が四国にどっぷり浸かっているので、妻にも四国を味わって(参加して)もらう意味で、一箱自宅に送ることにする。柑橘類が好きな妻は、きっと喜ぶだろう。
 生活感のある海辺の道を歩き、今日の宿民宿「浦島」に到着。
 荷物を預かってもらい金剛頂寺に向かう。リュックを下せば、楽なものでかなりの山道もあっという間に歩き、金剛頂寺に到着。

二六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ) 一四四五
 金剛頂寺は、土佐湾に突き出した行当岬の椎の原始林に覆われた山上にある。嵯峨天皇の勅願により、大師が密教道場として創建。
 本尊の薬師如来は大師の作と言われる。
 境内には、大師が人々を飢えから救うために三合三勺の米を炊くと万倍にもなったという「一粒万倍の釜」がある。


 ゆっくりと宿の「浦島」まで下り、後は休息に充てる。
 夕食時一緒になった和歌山からのFさん、バリバリの現役サラリーマン、区切り打ちで、これまで三〇回以上のお遍路をこなしている猛者。
 今日は同僚と三二回目の区切り打ちで、毎日五〇`以上のペースで歩いているそうだ。
 このお遍路とは別に実施中の一人歩きのお遍路は、三三回目で既に愛媛の途中まで達しているという。
 同時並行に二つの区切り打ちのお遍路を実施中というわけだ。
 世の中には、すごい人がいるものである。

歩行距離二五・九`

   第一〇日目   五月二四日(土)  晴れ
室戸市元(民宿浦島)→安田町唐浜(浜吉屋)→二七番札所神峰寺(こうのみねじ)
安田町唐浜(浜吉屋)

 午前六時半に宿を出発。昨日金剛頂寺は打っているので、山道を避け、直接神峯寺に向うことにする。
 旧道から、国道55号線に入り、北西の方角へと針路を取る。
 直ぐに「鯨の里」を左手海側に見ながら通過。
 55号線右手の山側には、今旬の琵琶の畑が散在する。


 ひたすら海岸線沿いの55号線を歩く。どこまでも続く海、少し海を外れたかなと思っても、すぐに海のそばに戻る。途中土佐の伝統的な意匠の商家が立ち並ぶ吉良川の町並みを通過する。
 白いなまこ壁や瓦の屋根が何とも風情がある。
 県の保存地区に指定されているということだ。
 歩き続けて七時間、やっと神峯寺の麓になる唐の浜に到着。
 宿である浜吉屋の軒先で、途中コンビニで求めたおにぎりを食べさせてもらい、荷物を預け身軽になって、打戻りで神峯寺に向う。
 神峯寺までの道は、「真っ縦の急坂」と呼ばれる遍路ころがしの急坂が続く山道だが、身軽ゆえに一気に仁王門に達する。

 二七番札所神峰寺寺(こうのみねじ) 一三二〇


 新峯寺は神功皇后が天照大神を祀った神社が起源とされる。
 その後、行基が十一面観音像を彫造して本尊とし、大師が伽藍を建立したとされる。
 本堂や太子堂へ登る石段の両脇に見事な庭園が広がる。
 納経を済ませ、駐車場脇の売店で一服。アイスクリームが美味しい。
 一休み後、出発。下りは遍路ころがしを避け、自動車道を歩く。
 途中「真っ縦の急坂」の登山口で、今朝、宿から金剛頂寺を経由したFさんに会う。神峯寺を打った後も、まだまだ先を目指すらしい。
 下り道の途中の無人売店で琵琶を購入、一箱百円也。
 宿に到着後、食べたが、瑞々しく甘く、美味しい琵琶だった。

 一六〇〇頃、宿「浜吉屋」に到着。
 神峯寺に宿坊が無いこと、また、神峯寺の麓であることで唐の浜には、二軒の遍路宿があるのだが、もう一つの宿が都合で休んでいると言うことで、「浜吉屋」を選ばざるを得なかった。
 沢山のお遍路さんが泊まっているのに、この宿の親父、威張りくさって、感じが悪いこと。今までの遍路宿は差こそあれ、それなりに接待の精神旺盛だったのだが、「このような宿もあるんだ」と思ってしまう。
 まだまだ修養が足りないか。しかし、他のお遍路さんにも評判が悪い。

歩行距離三三・四`

   第一一日目   五月二五日(日)  晴れ
安田町唐浜(浜吉屋)→夜須町(住吉荘)

 今日は打つべき札所は無し、ひたすら海岸線を歩くことになる。
 土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線と並行する55号線を北北西に高知市に向かって歩く。途中防波堤歩道などを経由し、安芸市に入る。


 安芸市の中心街を過ぎ、しばらくすると55号線と海岸線の松林の中を遊歩道が続く。道は平坦だが、今日は体力消耗が激しい。
 若い元気なお遍路に抜かれる。
 気温も高そうだし、連日の疲労が溜まっているのかもしれない。
 琴が浜松原を過ぎて間もなく、地元の特産市場らしき店を見つけ、弁当と小夏を買う。適当な場所で、昼食を取ろうと歩いていると、土佐くろしお線の西分という駅近くに善根宿を発見、休憩所も兼ねているようなので、利用させていただくことにする。

 この遊歩道土佐くろしお線とほぼ並行して走っているが、左の写真のように鉄道は高架、駅は鉄筋の高い建物になっている。


 南海地震を想定したもので、地震発生時、駅は避難所になるように造られているとのことだ。

 一五〇〇前、今日の宿「住吉荘」に到着。
 風呂で汗を流し、宿の周りを散策する。
 宿は夜須町住吉の漁港にある。
 宿の側に、昭和二〇年八月一六日終戦の翌日、誤報による出撃準備中の水上特攻艇・震洋の全てが爆発し一一一名が犠牲になったという第一二八震洋隊の慰霊塔が静かに佇んでいた。


 明日の天気予報の大雨を予期するかのように、海上には雲が立ち込めている。夕食後、雨の準備に大わらわ。
 お遍路仲間も明日歩くか、休息するかで揉めている。
 自分は行けるところまで行くことにして、布団に入る。

歩行距離二四`

   第一二日目   五月二六日(月)  雨
夜須町(住吉荘)→二八番札所大日寺(だいにちじ)→二九番札所国分寺(こくぶんじ)
三〇番札所善楽寺(ぜんらくじ)→高知市高須(ホテル土佐路・たかす)

 〇六〇〇前から朝食、朝のうちはもってくれるかと期待したが、既に雨が降り出していた。宿のご主人に国道55線まで車で送ってもらう。
 未だ降りは本格的ではなく、歩くのに大きな障害とはならない。
 雨が本格的になる前にと、無理をして早足になる。
 ひたすらアスファルトの国道を歩き、大日寺の手前で、昔ながらの遍路道に入り、間もなく大日寺に到着。

二八番札所大日寺(だいにちじ) 〇八〇〇


 大師が四国を巡った弘仁六年(815)、寺は荒廃していたが、楠に爪で薬師如来を彫り、祀って復興したと伝えられる。現在は「爪彫り薬師」と呼ばれ、首から上の病気に霊験あらたかとされている。
 薬師堂の脇には、土佐名水四〇選の一つ「大師御加持水」が涌く。

 大日寺を出発して、次の札所国分寺までの前半は畑の中の道が続く。
 物部川を渡り、香美市の松本太子堂を目指す。
 農業用の用水路も昨夜からの雨で溢れんばかりに水量を増している。


 ふと気付くと、そぼ降る雨の中を何も考えないで歩く自分を発見、無心の境地になって雨に溶け込んだのだろうか?    

 五月雨に溶け込み無心ひたすらに 次寺を目指し歩み重ねる

 松本太子堂に併設の遍路小屋で休憩。
 やがて南国市に入り、国分寺に到着。

二九番札所国分寺(こくぶんじ) 一〇五五


 大師が厄除けの「星供の秘法」を修して霊場に定めたと言われる。
 柿葺き寄棟造りの本堂は、長宗我部元親が永禄元年(1558)に再建し、現在は国指定重要文化財である。
 境内は「土佐の苔寺」の異名を持ち、杉苔が美しい庭園がある。
 重厚で落ち着いた空気が漂う。

 納経もそこそこに国分寺を出発。
 この頃になると雨足は強くなり、風も出てきた。
 軽いだけを良いことに持って来た携帯傘が頼りない。
 歩く途中、郵便局を発見、手持ちが少なくなった旅費を補充。
 現金を持ち歩かなくても良いので、カードさえ持っていれば、何処にもある郵便局は、本当に助かる。いよいよ風雨は強まり、携帯傘は骨が折れ、役に立たないほど壊れてしまう。
 時間も正午を過ぎたので、食事と傘の購入のため、道筋のコンビニ(ファミリーマート)に入る。田舎にこんな大きなコンビニがあるの…とびっくりするような立派なコンビニである。売り場は広く、かつ、買い求めた食品を食べるための椅子が百脚はあるような食堂というべきスペースがある。
 そのスペースの一角にお遍路優先席の表示が有り、二度びっくりである。
 郵便局同様コンビニにも、今回のお遍路では大変お世話になった。
 昔のお遍路は、コンビニも、自販機も、郵便局も無い所を歩き、さぞかし大変だったことだろう。

 コンビニで購入した大きめのビニール傘が非常に具合良い。
 風が強いが透明のビニールを通して、前方の視認も効き、自動車が往来する道路でも安心して歩ける。もっと早く購入すべきであったと悔やまれる。逢坂峠の坂道を登り、後は下りに体を任せ、雨降りしきる中、善楽寺に到着。

三〇番札所善楽寺(ぜんらくじ) 一四一一



 土佐神社の別当寺として札所とされたが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、安楽寺が札所となった。昭和四年に善楽寺が復興して、札所が二つになり「遍路迷わせの三〇番」といわれる時代が続く。
 平成六年に善楽寺が札所、安楽寺が奥の院となり決着したとか。

 この時間になると、雨は「篠突く雨」とはこのような雨をいうのだと思うほどの物凄い降りになる。風も強く、雨も横殴りに襲いかかり、傘を差し、地図を見ての遍路道探しは不可能になり、遍路シール頼りに歩く。
 案の定、雨のためシールを見落として、誤った道を歩いてしまう。
 これも宿に到着して、確認できたことだが、真直ぐ南下すべき44号線から外れ、384号線を南西に三から四`位、歩いてしまったようだ。
 横殴りの雨で確認もままならず、こういう時は地元の人に聞くに如かずと、たまたまホームセンターらしき店の駐車場で車から降りた人に道を尋ねる。
 この人、建築材料を買いに来たとのことであるが、会社に帰る方向に私が歩くべき正しい遍路道があるということで、買い物の後送ってくれることになり、遍路道である44号線に復帰することが出来る。
 地獄に仏とは、正にこういうことをいうのだろう。
 本当に親切な人に巡り合えて、幸いだった。それにしても四国の人は親切で、遍路に対する接待の心が深いとつくづく思う。
 感謝、感謝の出来事でした。時間があれば、今日中に三一番の竹林寺を打って宿に入るという思惑は、大雨と道に迷ったことで流れてしまった。
 やっとの思いで本日の宿、「ホテル土佐路・たかす」に到着。皮肉にも到着と頃を同じくして、あんなに激しかった雨が、嘘のように上がる。
 この宿、部屋や関連施設など、アコモデーションは抜群で、大当たりの宿であった。
 雨の中を苦労して歩いたが、このような宿に巡り合うと苦労も報われる。靴の乾燥器も部屋に持ち込めるように準備され、雨に濡れた服や靴なども、寝るまでに完璧に乾燥することが出来た。
 雨の一日で、振り返れば、いろいろあったが充実した一日でした。
 明日も頑張るぞ。

歩行距離三〇・五`

   第一三日目   五月二七日(火)  晴れ
高知市高須(ホテル土佐路・たかす)→三一番札所竹林寺(ちくりんじ)
三二番札所禅師峰寺(ぜんじぶじ)→三三番札所雪蹊寺(せっけいじ)→三四番札所種間寺(たねまじ)
土佐市高岡町(ビジネスイン土佐)

 朝食を済ませ、午前六時四〇分に宿を出発。
 今日は朝から昨日の嵐が、嘘のような穏やかな天気。
 竹林寺は標高一二〇b、高須からは三`ほどの行程。
 田舎道は昨日の雨に濡れた木々が瑞々しく精気を発している。


 竹林寺近くなると、隣接する牧野植物園の園内を進む。
 植物園は高知出身の植物学者牧野富太郎の業績を顕彰して作られた広大な植物園である。

 三一番札所竹林寺(ちくりんじ) 〇七五三


 竹林寺は土佐随一の名刹。行基作の文殊菩薩を祀り、南海第一の学問寺院として多くの学僧名僧が集まったとされる。
 歴代土佐藩主からの帰依も厚く繁栄した歴史を持つ。県内唯一の五重塔や夢想国師作と伝わる庭園がある。雨上がりの竹林寺は美しい。
 朝が早く、人が少ないせいか、しっとりと落ち着いて荘厳な雰囲気が漂っている。心が洗われる想いである。

 嵐明け苔むす山の竹林寺 緑濃くして静かに佇む

 〇八一〇頃、竹林寺を出発、三二番札所禅師峰寺に向う。
 下田川の川辺を歩き、苅松神社、神母神社、石戸神社と神社の門前を通り、石戸池を左に見ながら245号線を左折すると、やがて仁王門に到着。
 仁王門で千葉市からお遍路中のKさんと遭遇。
 Kさんは千葉市のお寺の住職さんだが、六〇歳までは市役所に勤めておられたとかで、世間にも良く通じておられる気さくな住職さんである。
 このところ歩くペースと一日の歩く量が概ね同じくらいらしく、札所や宿でご一緒することが多い。三回目のお遍路ということでいろいろ教えてもらうこともあり、良きお遍路仲間である。
 参道の急な石段を登ると本堂、太子堂に達する。

 三二番札所禅師峰寺(ぜんじぶじ) 〇九五六


 禅師峰寺は、標高八二bの峰山の頂上にあり、土佐沖を航行する船舶の安全を願って行基によって開かれた。
 歴代藩主もこの寺で安全祈願をしてから参勤交代の旅に出たという。
 金剛力士像は平安中期に彫られた国の重要文化財。

 桂浜、浦戸大橋を遠くに望む、土佐湾の大パノラマが素晴らしい。
 禅師峰寺を一〇〇〇過ぎに出発。
 海岸沿いの14号線に並行する遍路道を約六`、西南に向け歩く。
 途中スーパーにより昼食を買う。
 やがて浦戸湾「種崎の渡し」の種崎渡船場に到着。
 渡し船は一二一〇 出航。渡し船が出航するまでの間、前後して到着したKさんと、渡船場待合室で昼食をご一緒する。


 「種崎の渡し」は、江戸時代から、接待で船が渡されていたという。
 昭和三四年に航路ながら県道に昇格したので、乗船料は無料。
 しかし、昭和四七年に浦戸大橋が出来、平成一四年からは、その通行料も廃止されたため、県は渡しの廃止を考えたが、地元住民が猛反発し、全国のお遍路の署名も併せて陳情して、廃止を免れたという逸話が残る。何ともうれしい話である。船旅は、定員一一〇名の渡し船。
 乗客は約一〇名ほど、その半分は歩きお遍路さんたち。距離にして六百b、五分足らずであるが、波静かで、快適な船旅である。
 浦戸大橋が勇壮な姿を見せる。
 乗船後直ぐに対岸の長浜渡船場に到着。
 一`も歩くと雪蹊寺に到着。

 三三番札所雪蹊寺(せっけいじ) 一二三五



 戦国時代の土佐領主、長宗我部氏の菩提寺で元親の法号から雪渓寺と付けられたという。本尊の薬師如来像や脇侍の日光、月光菩薩像は鎌倉時代を代表する仏師運慶の作。
 又、息子の湛慶が彫った毘沙門天像や吉祥天女像、善膩師童子像があり、全て国の重要文化財に指定されているという。
 失礼を顧みないで言うならば、こんなところに鎌倉時代の芸術が数多く存在することにビックリである。

 雪蹊寺を出発し、新川川沿いに種間寺に向う。
 淡々と続く田舎道を黙々と歩く。
 途中の山川、道辺に咲く花に心が和む。


 やがて国道沿いの種間寺に到着。

 三四番札所種間寺(たねまじ) 一四〇八



 寺号は、大師が唐から持ち帰った五穀の種を蒔いたことに由来する。
 本尊の薬師如来像は六世紀後半に百済の仏師が大阪の四天王寺の建立の後、自国に帰るため航海安全を祈願して彫って祀ったものだという。

 この寺は、国道に面し、寺の門は石柱だけで山門が無い。山門が無い札所は珍しくこれまでの札所では、一四番の常楽寺だけであった。
 ここが二つ目である。しかし、寺はなかなか立派で、国道筋にあるせいか、バスでのお遍路さん、観光客が多い。寺と国道を挟んだ向かい側に、立派な遍路休憩所があり、自販機のジュースでしばし休憩。

 種間寺を出発、国道を西に四`ほど歩き、仁淀川大橋を渡る。
 仁淀川沿いに西進し、今夜の宿である土佐市の中心街を目指す。
 仁淀川は波ひとつ立てず、ゆったりと流れている。遙か西の山並みも夕暮れの中に霞たなびき趣のある景色を醸し出している。
 次の札所清瀧寺はあの西の山根のようだ。

 黄昏に仁淀の川面ゆったりと 目指す山根も長閑に霞む

 仁淀川沿いを六百bも歩くと川を離れ土佐市の中心街に入る。宿近くのコンビニで、今夜の夕食、明日の朝食を求める。
 一六三〇 今夜の宿、ビジネスイン土佐に到着。到着後は、どんなに疲れていても、洗濯、乾燥をすることが習い性になってきたようだ。
 今日のノルマの洗濯、乾燥を済ませ、シャワーを浴びて、やっと落ち着く。
 夕食は、鰹の海鮮巻きと鮪巻きのパックとデザートにポンカンである。
 まずは缶ビールで一人乾杯、流石に高知、巻物だけど魚が旨い。

 明日は朝早くこの宿から清瀧寺の打戻りをやるつもり。
 目覚ましをセットし早めに就寝。

歩行距離三〇`

   第一四日目   五月二八日(水)  晴れ
土佐市(ビジネスイン土佐)→三五番札所清瀧寺(きよたきじ)→ビジネスイン土佐→
三六番札所青龍寺(しょうりゅうじ)→須崎市浦の内(民宿みっちゃん)

 〇五〇〇 起床、昨日コンビニで用意したサンドイッチを食べる。
 昨夜早朝の打戻りをフロントに告げていたので、そっと宿を抜けだし、清瀧寺に向う。
 朝の静かな町を抜け、かなり急な坂を登って、高さ一二bの薬師如来像が迎えてくれる清瀧寺に到着。



 三五番札所清瀧寺(きよたきじ) 〇六三〇
 七時の納経所がオープンするまで、かなりの時間、寺を散策。
 山の中腹にあるので景色もなかなかの絶景である。
 昨日歩いた仁淀川も平野の中を蛇のようにうねっている。
 〇七〇〇前にお遍路仲間のKさんが登って来た。
 話し合ったわけではないが、考えることは同じであるようだ。
 納経を済ませ、宿まで一緒に下る。宿で一休み、チェックアウトを済ませ、〇九〇〇に宿を出発して青龍寺に向う。


 土佐市の中心街を外れると直ぐに人通りがなくなる。
 波介川を渡り、ひたすら南下、途中素敵な休憩所にぶつかるが、まだ休憩をするほど歩いてもいないので、横目で見ながら歩き続ける。
 やがて、宇佐湾にぶつかる。
 海岸線を右折すると一キ`先に、宇佐湾から更に内海になる浦の内湾の入り口にかかる宇佐大橋がダイナミックな巨体をあらわす。
 宇佐大橋を渡る前にコンビニに立ち寄り昼食のおにぎりを買う。
 今日の気温はかなり高く、ペットボトルのお茶もハイペースで消費スピードが上がっており、補充する。


 宇佐大橋を渡り、しばらく歩くと道路脇に三陽荘というモダンな大きなホテルにぶつかる。足湯が見えるのでフロントに尋ねると、「お遍路さん無料、どうぞ」と言うことで、素敵な接待を頂くことにする。
 絶景の海を眺めながらの気持ち良いひと時でした。


 三陽荘は宇佐大橋を含む宇佐湾の絶景、青龍寺の遍路ツアー、温泉を売りにした観光ホテルのようだ。しばらくすると青龍寺のお参りが終わった遍路姿の観光客がバスでどっと帰って来たので失礼することにした。
 三陽荘から一五分も歩くと青龍寺山門に到着。

 三六番札所青龍寺(しょうりゅうじ) 一一四五


 青龍寺とは、大師が唐で真言密教を学んだ時の師匠、恵果和尚がいた寺院の名。帰国後、大師がその恩に報いるため、横浪半島のこの地に青龍寺を作ったと伝わる。納経を済ませ、昼食をとる。寺に着く前に足湯に使ったせいか、疲れが無いので、休息もそこそこに出発。
 青龍寺からの遍路道は二手に分かれる。
 横浪半島の山道を進む道と、再度宇佐大橋を渡って本土まで打ち戻りして、横浪半島に囲まれた浦の内湾の北側沿いの遍路道がある。
 打戻りをして、本土側を歩くのが楽のようだが、こちらは満員で宿が無いということで、横浪半島を歩くことにする。
 この道は半島の尾根道で、アップダウンが多い標高一〇〇b以上の横浪スカイラインという自動車道である。
 この半島は、海岸線に山が迫り、点在する小さい湾毎に部落はあるが、昔から交通手段は船が主で、この山道はあまり使われて無かったようだ。
 自動車の発達に伴いハイウエイとして開かれ、遍路道としての利用も増えたと思われる。
   
 青龍寺の奥の院を目指し、古木が生い茂る急坂の山道を登る。


 やがて視界が開け、横浪スカイライン(国道47号線)に出る。
 太平洋が眼下に広がる。ここから、アップダウンを繰り返し、歩道のない自動車道をひたすら歩く。スカイラインの名前がついているが、連休も終わっているので、車が少ないので助かる。
 途中、高校野球や朝青龍で有名な明徳義塾の看板に出くわす。
 あの有名校が、こんな山の中にあることにびっくり。
 又、横綱朝青龍のしこ名は、高校時代明徳義塾に留学していたことを考えると、三六番札所の青龍寺に由来しているのだろう。納得。

 青龍寺を出発して、約七`、やっと今夜の宿、民宿「みっちゃん」がある部落の入り口に到着。この後、標高一二〇bのスカイライン入り口から標高零の宿まで九十九折の坂道を一・五`も歩くことになる。
 下りは良いけど、明日登らなくてはいけないことを考えると憂鬱。

 しかし、この憂鬱も宿のおかみさんの「朝、希望の時間にスカイラインまで送るのが、この地の遍路宿の常識」の言葉に解消。
 この部落にある遍路宿は二軒で、前の宿で一緒だったKさん達は、もう一軒の方に泊まったことを後で知る。自分はなるべく海に近い宿の方が魚は、豊富で美味いだろうと「みっちゃん」を選んだのだが、Kさん達はスカイラインに近い方が良いだろうと、もう一軒の宿を選んだとのこと。
 そして結果的に、Kさん達の宿は漁師兼業の宿で、夕食は、豊富な海鮮の御馳走に大満足だったとか。残念。
 とはいうものの「みっちゃん」の夕食も美味しく、かつ、涼しい海風の入る二間続きの部屋を独占、のんびりとリフレッシュできました。

歩行距離二五・六`

   第一五日目   五月二九日(木)  晴れ
須崎市浦の内(民宿みっちゃん)→中土佐町(福屋旅館)

 今日も快晴。〇六〇〇に起床、朝食を取り、昨日下りながら思ったが、この坂を登ったら、さぞかし体力を消耗するだろうと思う急坂を、「みっちゃん」のおかみさんにスカイラインまで送ってもらう。
 「助かった!」が本心。


 昨日と同じ、アップダウンの激しいスカイラインが続くが、左手の太平洋は朝日でキラキラと神々しい。

 のぼりおり続きし辛き道なれど 広がる海に朝日輝く

 スカイラインを歩いていると、乗用車が追い抜いて停車した。
 何事かと思う間もなく、助手席から四〇代の男性が降りてきて、「厳しい道を選んで、お遍路ご苦労様」と声をかけられ、ビニール袋をお接待だと渡してくれる。走り去る車に感謝し、袋を開けてみると、カシューナッツと最中が入っていた。甘い物を要求する体に、嬉しいお接待である。
 この日、到着した宿で遍路仲間にこのことを話したら、私だけでなく何人かが同じ接待を受けていた。
 運転する人と袋を配る人、二人のチームで、アップダウン厳しい道を歩くお遍路に、心温まるお接待をしているようだ。高知の、四国のお遍路に対するお接待の心意気に、又もや感謝と感心である。
 スカイラインを下り、内之浦北側のお遍路道と合流する辺で、舳先に龍の顔が勇ましい、船に出くわす。
 多分この船で部落対抗の競争でもするのだろう。

 途中で会ったKさんと須崎市の中心街に入る。
 須崎市の中心街は最近開発が進んでいるらしく大きなスーパー等が立ち並ぶ近代的な町である。
 又、高知自動車道も開通間もないようで、高架自動車道が目に付く。
 何回か須崎をお遍路で通ったことがあるKさんも初めての風景らしい。
 須崎の中心街から暫く歩き国道沿いに「道の駅カワウソの里すさき」を発見、もう少し歩くというKさんと別れ昼食休憩とする。一一三〇。

 十分に休んで56号線を南下、一六〇〇前に「福屋旅館」に到着。
 いよいよ明日は、今回の区切り打ちの最終寺、三七番岩本寺である。
 ここまで概ね計画通りであった。
 風呂に入り、洗濯、乾燥を済ませて、畳に大の字になり、暫し放心。
 最後の宿は、今回のお遍路で、初めて夕食が部屋に運ばれるというおまけつき。ビールで乾杯、ゆっくりと夕食を楽しむ。
 鰹の刺身と大きなカマスの塩焼きが美味しい。

歩行距離三一`

   第一六日目   五月三〇日(金)  晴れ
中土佐町(福屋旅館)→三七番札所岩本寺(いわもとじ)(窪川)―(JR)→高知

 いよいよ区切り打ち最後の日である。中土佐から岩本寺に行く遍路道は大坂遍路道、そえみず遍路道、国道56号線と三通りの道がある。
 岩本寺を打ち終わって、今日中に高知まで引き返したいので、JRの時間などを考え、確実に時間が読める国道を歩くことにする。 
 〇七〇〇過ぎに宿を出発。しかし56号線もかなりの登りで辛い。
 標高も最高三百位はある。
 56号線の最高点を、汗をかきかき、やっとの思いで登りきる。



 汗をかき登れば区切り岩本寺 間近と思えば杖音軽やか

 56号線から、床鍋より旧道に入る。
 長閑な田園風景が続き、疲れを癒してくれる。


 四国の米で有名な仁井田の街を過ぎて四万十町に入る。
 途中の休憩所で、食事を取り、ゆっくり休んで、四万十町の役場に近い街中の岩本寺の山門に到着。

 三七番札所岩本寺(いわもとじ) 一二三九


 区切りの最終寺である岩本寺では、ゆっくりと今回のお遍路の感謝を込めてお参りする予定であったが、JR窪川から高知行は午後一時一〇分と余裕無く、慌ただしく納経を済ませる。

 窪川駅発の高知行きの列車に飛び乗る。竹林寺近くの高知市高須を出発したのが二七日(火)の朝、二八日(水)に土佐市、二九日(木)に須崎市、三〇日(金)に中土佐町と三泊四日の歩き遍路の旅で、やっとの思いで岩本寺に到着したが、窪川から高知までのJRの旅は、普通列車で一時間五〇分、一五〇〇には、高知駅に到着した。確かに経路は遍路道が長いが、文明の力の大きさをつくづく感じるJRの旅であった。


 高知駅の近くのビジネスホテルに宿を取り、ゆっくりと風呂に入り寛ぐ。夕方、高知城近くのひろめ市場まで足を延ばし、今回の一番札所から三七番札所までの区切り打ちの成就を、一人で乾杯。



歩行距離二二・五`

   五月三一日(土)

 〇七三〇高知駅発のリムジンバスで高知空港(竜馬空港)に向かう。
 〇九四〇発羽田空港行JAL便は思惑通り空席が有り、シニア割引の航空券をゲットすることが出来る。
 午後一時過ぎに、一七日ぶりの我が家に無事たどり着く。
 妻も元気に迎えてくれる。やはり我が家は天国だ。

 お遍路は途中であるが、人間として、少しは成長していることを、妻も期待していると思う。
 もちろん私自身も期待しているのだが、もう少し時間を。少しは感謝や我慢の気持ちは醸成されたようには思うが、まだまだだ。
 発心の道場をスタートし、修行の道場の途中の段階、この後菩提、涅槃の道場と先は長い。もっと成長できると思う。

 今回は一七日間で、八八分の三七ヶ所の札所を回った。
 トータルの歩行距離は四四五・八`。
 こうして遍路紀行を整理していると、絶対に八八ヶ所を完歩し、お遍路を完遂したいとの想いを強くする。

続く