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仏説無量寿経 下巻 四

(三四)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。
 なぜなら、他の仏がたの国の天人や人人はおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。
 今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪と、五痛と、五焼に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。
 しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う」

 釈尊が続けて仰せになる。

「それでは、その五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう」

(三五)釈尊が仰せになる。

「第一の悪とは次のようである。
 天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。

 善い行いをすることを知らず、五逆十悪の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。
 天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。
 それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。
 また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。

 世の中には法令に定められた牢獄があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。
 それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。
 この世にも現にこのような苦痛がある。
 さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。
 苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。

 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。
 次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであってそのこころはおのずから行くべきところに行くのである。
 そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。
 こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。
 その痛ましさはとてもいい表すことができない。
 世の中にはこのような因果の道理がある。
 たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。
 これを第一の大悪、第一の痛、第一の焼という。
 その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければその人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。
 これを第一の大善というのである」

(三六)釈尊が言葉をお続けになる。

「第二の悪とは次のようである。
 世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わしあっている。
 言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。

 もし上に立つものが愚かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく。
 国法を守り世情によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇な目にあうばかりである。
 これは道理に反している。
 このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。
 それは各自が貪りと怒りと愚かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。
 そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅してしまう。

 あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素姓の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利益を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。
 また裕福でありながらも物惜しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。
 こうしていよいよ命が終わる時には、何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。
 善も悪も禍も福も、すべては因果の道理にしたがうのであり、天人や人間として生れるものもいれば、地獄や餓鬼や畜生の世界に生れるものもいる。
 そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。

 世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。
 他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。
 心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。

 この世には現に法令に定められた牢獄があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。
 前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。

 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。
 その痛ましさはとてもいい表すことができない。
 これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。
 その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きいように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、なその人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。
 これを第二の大善というのである」

(三七)さらに釈尊が言葉をお続けになる。

「第三の悪とは次のようである。
 世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。
 しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。
 そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。

 そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。
 そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。
 きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。
 そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。

 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。
 あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。
 ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。

 このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。
 その痛ましさはとてもいい表すことができない。
 これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。
 その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。
 これを第三の大善というのである」

(三八)さらに釈尊が言葉をお続けになる。

「第四の悪とは次のようである。
 世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。
 二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。

 あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。
 また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。
 しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。
 また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。

 このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。
 自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。

 このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。
 だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。
 そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。
 また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。
 罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。
 やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。
 そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。
 まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。

 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。
 その痛ましさはとてもいい表すことができない。
 これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。
 その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。
 これを第四の大善というのである」

(三九)さらに釈尊が言葉をお続けになる。

「第五の悪とは次のようである。
 世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてる。
 親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。
 その逆らうようすはまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。

 また物のやりとりにしまりがなく、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。
 そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。
 そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。
 それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。
 そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。
 相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。
 それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮しむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。
 親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。
 心にはいつも悪い思いをいだき、口にはいつも悪い言葉をいい、身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。

 また古の聖者たちや仏がたの教えを信じない。
 修行により迷いの世界を離れてさとりを得ることを信じない。
 人が死ねば次の世に生れ変わることを信じない。
 善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。
 さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家のものを傷つけようとさえ思っている。
 そのため身内のものから憎みきらわれて、そんなものは早く死ねばいいと思われるほどである。

 このような世間の人々の心はみな同じである。
 道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。
 また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。
 このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。
 しかし、やがては必ず死ぬのである。
 それを哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理が厳然としてあることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。
 どれほど懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。
 そして、いよいよこの世の命が終ろうとするとき、心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである。
 以前から善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。

 この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。
 善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。
 まことに因果応報の道理は必然である。
 悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。
 善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。
 この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。
 そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。
 それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。
 このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。

 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。
 その痛ましさはとてもいい表すことができない。
 これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。
 その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。

 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。
 これを第五の大善というのである」

(四〇)続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。
 いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。
 あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。
 そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。

 長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。
 これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。
 人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。
 たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。
 身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。

 因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。
 ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。
 これは今も昔も変ることがない。
 まことに痛ましい限りではないか」

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。
 誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう」

 さらに釈尊が仰せになる。

「そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。
 上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。
 各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。
 そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。

 そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。
 よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。
 心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。
 なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。
 またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。
 なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。
 ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。

 わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。
 すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。

 仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。
 そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。
 人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 釈尊が仰せになる。

「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。
 だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。
 しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。
 それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。
 そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない」

 そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。

「世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。
 世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。
 そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。
 わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません」

(四一)釈尊はさらに阿難に仰せになった。

「阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。
 すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから」

 そこで阿難は、仰せ通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。

「世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」

 この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々をお照らしになった。
 すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。
 ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれるとき、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の光だけが明るく輝いたのである。

 そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見たてまつった。
 ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてまつり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。

(四二)そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。

「そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」

 阿難がお答えする。

「はい、その通りに見させていただきました」
「ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「はい、その通りに聞かせていただきました」
「では、その国の人々が、百千由旬もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「はい、見させていただきました」
「ではまた、その国の人々の中に胎生のものがいるのを見たか」
「はい、それも見させていただきました」

 釈尊が仰せになる。

「その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でとう利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」

(四三)そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。

「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。
 それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。
そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

 これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳を持ってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。
 これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。

(四四)また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。
 これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。

 弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。
 菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。
 よく知るがよい。
 これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」

(四五)釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。

「たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。
 そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。
 その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。
 さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか」

 弥勒菩薩がお答えする。

「いいえ、そのようなことはないでしょう。
 いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」

 そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「胎生のものもまたその通りである。
 仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。
 このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。

 しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。
 また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。

 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。
 そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい」

(四六)弥勒菩薩がお尋ねした。

「世尊、この世界から、不退転の位にある菩薩がどれくらい無量寿仏の国に生れるでしょうか」

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「この世界からは、六十七億の不退転の位にある菩薩がその国に往生するであろう。
 その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである。
 その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいないものも数えきれないほどいるが、どのものもみなその国に往生するであろう」

 釈尊が続けて仰せになる。

「この世界のものだけが無量寿仏の国に往生するわけではない。
 他の仏の国からもまた同様に数多くその国に往生するのである。

 第一に遠照仏の国からは、百八十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第二に宝蔵仏の国からは、九十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第三に無量音仏の国からは、二百二十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第四に甘露味仏の国からは、二百五十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第五に龍勝仏の国からは、十四億の菩薩がみな往生するであろう。
 第六に勝力仏の国からは、一万四千の菩薩がみな往生するであろう。
 第七に師子仏の国からは、五百億の菩薩がみな往生するであろう。
 第八に離垢光仏の国からは、八十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第九に徳首仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第十に妙徳山仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第十一に人王仏の国からは、十億の菩薩がみな往生するであろう。
 第十二に無上華仏の国には、数えきれないほどの菩薩がいて、みな不退転の位にあり、すぐれた智慧をそなえている。
 すでに数限りない仏がたを供養し、普通なら百千億劫にもわたって修めなければならない尊い行を、わずか七日のうちに修めたほどのすぐれた菩薩であるが、これらの菩薩もみな往生するであろう。
 第十三に無畏仏の国には、七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、行の劣った菩薩や修行僧も数えきれないほどいるが、みな往生するであろう」

 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「この十四の仏の国のものだけが往生するわけではない。
 数限りないすべての仏の国からも同じようにその国に往生するのであり、その数は実に限りなく多い。
 わたしが、ただそのすべての仏がたの名とそれぞれの国から無量寿仏の国に生れる菩薩や修行僧の数をあげるだけでも、夜となく昼となく、一劫という長い間をかけても説き尽すことはできない。
 今はそなたのために、そのほんの一部を説いたに過ぎない」

(四七)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。
 だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。
 なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。
 もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。
 だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

 釈尊が仰せになる。

「わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。
 この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。
 やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。
 そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」

 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。

「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。
 また、仏がたの教えを聞くことも難しい。
 菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。
 ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。
 そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。
 そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい」

(四八)釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。
 一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。

 そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。

 釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。

仏説無量寿経 下巻 終

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