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仏説無量寿経 下巻 三

(二二)釈尊が阿難に仰せになった。

「さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。
 なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。
 すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。
 無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。
 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる」

 さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。
 なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。
 すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。
 すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。
 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

(二三)また阿難に仰せになる。

「すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩・中輩・下輩の三種がある。
 まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。
 このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。
 そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。
 だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい」

(二四)釈尊が続けて仰せになる。

「次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。
 そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。
 このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。
 その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。
 そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」

(二五)さらに続けて仰せになる。

「次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。
 もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」

(二六)釈尊が阿難に仰せになった。

「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。
 そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。
 そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。
 南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」

(二七)そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。

 東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、その国々の菩薩たちは、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見る。
 南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
 菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花とかぐわしい香と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養したてまつる。
 みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
「実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
 その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」と。
 うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊いこの仏を礼拝したてまつる。
 その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う。
 そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
 もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
 そこで観世音菩薩は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。
 どうぞ、そのお心をお説きください」と。
 仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。
 これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
 わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
 菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる。
 すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
 すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
 すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである 」と。

 仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界を得るがよい。
 無量寿仏の清らかな国に往ったなら、すぐさま神通力を得て、無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
 この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
 そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
 そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな 国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
 もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
 清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
 以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
 おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
 過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。

 声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
 まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
 如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。
 ただ仏だけがお知りになることができる。
 たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
 そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
 その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。
 もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。
 教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそわたしのまことの善き友である。
 だからさとりを求める心を起すがよい。
 たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
 そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」と。

(二八)釈尊が阿難に仰せになった。

「その国の菩薩たちは、みな一生補処の位に至ることができる。
 ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。

 阿難よ、その国の声聞たちが身から放つ光は一尋であるが、菩薩の放つ光は百由旬を照らす。
 中でもふたりの菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」

 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。

「そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」

 釈尊が仰せになる。

「ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。
 このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである。

 阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる。
 そして、資質に応じてあるものは音響忍や柔順忍を得、あるものは尊い無生法忍を得るのである。
 またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。
 ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」

 続けて釈尊が仰せになる。

「その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。
 香り高い花・音楽・天蓋・幡など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。
 菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。
 この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。
 そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。
 菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。
 このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである」

(二九)さらに釈尊が阿難に仰せになる。

「無量寿仏が声聞や菩薩たちに法をお説きになるとき、すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる。
 そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない。
 そのとき、あたり一面からおのずから風がおこって宝の樹々に吹きわたると、さまざまな音を出し、数限りなく美しい花を降らし、その花が風に運ばれて国中に散りしかれる。
 このような供養がおのずからおこり、絶えることがない。また天人はみな、数えきれないほどの香り高い花や万にものぼるさまざまな種類の音楽で、無量寿仏をはじめ菩薩や声聞たちを供養する。
 香り高い花をひろく散らし、さまざまな音楽を奏で、自由に行き交うのであるが、そのときの快さ楽しさはとても言葉にいい尽くすことができないほどである」

(三〇)さらに釈尊が阿難に仰せになる。

「無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。

 その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着する心もない。
 どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも疎んじることがない。
 自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。
 あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与えようとするのである。
 いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。
 つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜
ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。

 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべてその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を修行し、仏のさとりを求める。
 その眼は五眼の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している。
 こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。
 真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである。

 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き、奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する。
 その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない。
 大乗の教えをきわめて、人々をさとりの世界に至らせ、疑いの網をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て、仏の教えをすべて残すことなく知り尽している。
 その智慧は大海のように深く広く、その禅定は須弥山のように揺らぐことがない。智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており、清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている。

 それはまた雪山のようである。
 すべての功徳を等しく清らかに照らし輝かすから。
 また大地のようである。
 清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから。
 また清らかな水のようである。
 さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから。
 またさかんに燃える火のようである。
 煩悩の薪をみな残らず焼き尽くすから。
 また激しく吹く風のようである。
 どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから。
 また大空のようである。
 すべてのものにとらわれないから。
 また蓮の花のようである。
 世俗の中にあっても汚れに染まらないから。
 また大きな乗りもののようである。
 多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから。
 また厚い雲のようである。
 雷鳴をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから。
 また大雨のようである。
 すぐれた教えを甘露のように降りそそいで人々を潤すから。
 また鉄囲山のようである。
 さまざまな悪魔や外道のものも揺り動かすことができないから。
 また梵天のようである。
 さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから。
 また尼狗類樹のようである。
 すべてのものをおおってその木陰に入れるから。
 また優曇華のようである。
 世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから。
 また金翅鳥のようである。
 すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから。
 また小鳥のようである。
 決して余分にはたくわえないから。
 また牛の王のようである。
 何ものにも負かされないから。
 また象の王のようである。
 すべてを巧みに制御するから。
 また獅子の王のようである。
 何ものをも恐れることがないから。
 その慈悲の広いことは大空のようである。
 すべての人々を平等に慈しむから。

 また、菩薩たちは嫉妬心を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。
 太鼓を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて愚かさの闇を除き、互いに敬いあい、常に法を説き、雄々しく努め励んで、志が中途でひるむようなことはない。
 菩薩たちは、世を照らす灯となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる。
 いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず、ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び憂えることは何もない。
 さまざまな欲望の刺を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである。
 このようにその功徳や智慧が実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない。

 この菩薩たちは、煩悩の汚れを滅し、さまざまな神通力を自由に使うことができる。
 因の力、縁の力、意思の力、誓願の力、方便の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定の力、智慧の力、聞法の力、六波羅蜜を行ずる力、正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである。

 その国の菩薩たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳や弁舌の智慧などをそなえて世間に並ぶものがない。
 また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる。
 さらに菩薩が修める六波羅蜜の行をきわめ、空・無相・無願三昧や、不生不滅をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞や縁覚の位をはるかに超えすぐれている。

 阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。
 今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない」

(三一)釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。

「 無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。
 またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。

 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。
 それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。
 そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。
 無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。
 しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。
 人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。
 求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。

 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。
 身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。
 それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。

 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。
 牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。
 それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。
 思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。
 怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。
 また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。
 身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。
 その悩みや心配は実にさまざまである。
 そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。

 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。
 田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。
 牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。
 たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。
 そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。
 そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。
 いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。
 そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。
 善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。
 行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。

 世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。
 また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではならない。
 そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。
 争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。
 なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。

 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。
 すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。
 すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。
 善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。
 そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。
 それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。
 行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。
 ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。

 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。
 各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。
 どうしてさとりを求めないのだろうか。
 何を期待しているのだろうか。
 いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。

 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。
 人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。
 善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。
 このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。
 そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。
 もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。
 善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。

 生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。
 あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。
 老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。
 これが無常の道理である。
 すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。
 この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。
 そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。

 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。
 欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。
 そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。
 何という哀れな痛ましいことであろうか。

 あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。
 そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。
 心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。
 こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。
 世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。
 まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。
 それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。 そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。
 これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。

 このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。
 ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮び出ることができない。
 その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。
 実に哀れむべきことである」

(三二)続けて釈尊が弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになる。

「わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。
 人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。
 そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。
 欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。
 本当に楽しむべきものは何一つない。
 さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。
 まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。
 欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。
 もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。
 わたしはそのもののために説いて答えよう」

 弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。

「世尊の神々しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。
 世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます。
 今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。
 世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。
 天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩を離れることができます。

 世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。
 その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。
 今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊が前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。
 世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。
 さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。
 世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。
 今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。
 みな心が開かれて、くもりが除かれました」

(三三)釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

「そなたのいう通りである。
 仏を敬愛することは実に大きな功徳となる。
 仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。
 教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。
 そしてこれを迷いの世界の人人に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。

 弥勒よ、知るがよい。
 そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし、人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。
 そしてその間、そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。
 しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして憂え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。
 そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。
 このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏のことを聞くことができた。
 まことに喜ばしく、実に善いことである。
 わたしもそれをともに喜びたい。

 そなたたちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れようと思うがよい。
 この世は醜く汚れに満ちていて、楽しむべきものは何もない。
 すすんで決断して、身も行いも正しくし、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。
 そして自分が迷いを離れるとともに他の人々をも救い、往生してさとりを得ることをひたすら願って、功徳を積むがよい。
 一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである。
 それから先はずっとさとりにかなって智慧が明らかとなり、永遠に迷いの世界から離れ、ふたたび貪りや怒りや愚かさのために苦しむことはない。
 寿命は一劫でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。
 まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃のさとりに至るのである。
 だから、そなたたちはそれぞれに努め励んで、往生を求めるがよい。
 疑いを起して途中でやめ、すすんで罪をつくることとなり、その国土のほとりにある七つの宝でできた宮殿に生れ、五百年の間、仏を見たてまつらないなどのわざわいを受けるようなことがあってはならない」

 そこで弥勒菩薩がお答えした。

「世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません」

続く  仏説無量寿経・最初  ホーム