仏説無量寿経 上巻 一

曹魏の天竺三蔵康僧鎧訳

(一)わたしが聞かせていただいたところは、次のようである。

 あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、一万二千人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。

 みな神通力をそなえたすぐれた聖者たちで、そのおもなものの名を、了本際・正願・正語・大号・仁賢・離垢・名聞・善実・具足・牛王・優楼頻贏迦葉・伽耶伽葉・那提伽葉・摩訶伽葉・舎利弗・大目けん連・劫賓那・大住・大浄志・摩訶周那・満願子・離障・流灌・堅伏・面王・異乗・仁性・嘉楽・善来・羅云・阿難といい、教団における中心的な人たちばかりであった。

 また、大乗の菩薩たちともご一緒であった。
 すなわち、普賢・文殊・弥勒など賢劫の時代のすべての菩薩と、さらに賢護などの十六名の菩薩、および、善思議・信慧・空無・神通華・光英・慧上・智憧・寂根・願慧・香象・宝英・中住・制行・解脱などの菩薩たちとである。

(二)これらの菩薩たちは、みな普賢菩薩の尊い徳にしたがい、はかり知れない願と行をそなえて、すべての功徳を身に得ていた。
 そしてさまざまな場所におもむいて、巧みな手だてで人々を導き、すべての仏の教えを知り、さとりの世界をきわめ尽し、はかり知れないほどの多くの世界で仏になる姿を示すのである。

 まず、兜率天において正しい教えをひろめ、次に、その宮殿から降りてきて母の胎内にやどる。
 やがて、右の脇から生れて七歩歩き、その身は光明に輝いて、ひろくすべての世界を照らし、数限りない仏の国土はさまざまに震動する。
 そこで、菩薩自身が声高らかに、
 「わたしこそは、この世においてこの上なく尊いものとなるであろう」と述べるのである。
 梵天や帝釈天は菩薩にうやうやしく仕え、天人や人々はみな敬う。
 そして菩薩は、算数・文芸・弓矢・乗馬などを学び、ひろく仙人の術をきわめ、また、数多くの書籍にも精通し、さらに、広場に出ては武芸の腕をみがき、宮中にあっては欲望の中に身をおく生活をするのである。

 やがて、老・病・死のありさまを見て世の無常をさとり、国や財宝や王位を捨てて、さとりへの道を学ぶために山に入る。
 そこで乗ってきた白馬と身につけていた宝冠や胸飾りを御者に託して王宮に帰らせ、美しい服を脱ぎ捨てて修行者の身なりとなり、髪をそって樹の下に姿勢を正して座り、六年の間、他の修行者と同じように苦行に励む。
 五濁の世に生れ、人々にならって煩悩に汚れた姿を示し、清らかな流れに身をきよめるのである。
 すると天人が樹の枝をさしのべて岸にあがらせる。
 美しい鳥は左右に取りまいてさとりの場までつきしたがい、天の童子は菩薩がさとりを開くめでたい前兆を感じて草をささげる。
 菩薩はその心を汲んで草を受け取り、菩提樹の下に敷き、その上に姿勢を正して座る。
 そして体から大いなる光りを放つ。
 それを見て、今まさに菩薩がさとりを開こうとすることを悪魔は知るのである。
 悪魔は一族を率いてきて、そのさとりの完成をさまたげようとする。
 しかし菩薩は智慧の力でみな打ち負かし、ついにすばらしい真理を得て、この上ないさとりを成しとげるのである。

 そのとき梵天や帝釈天が現れて、すべてのもののために説法するように願うので、仏となったこの菩薩はあちらこちらに足を運び、説法を始める。
 それはあたかも、太鼓をたたき、法螺貝を吹き、剣を執り、旗を立てて勇ましく進むように、また雷鳴がとどろき、稲妻が走り、雨が降りそそいで草木を潤すように、教えを説き、常に尊い声で世の人々の迷いの夢を覚すのである。

 その光明は数限りない仏の国々をくまなく照らし、すべての世界はさまざまに震動する。
 この光明は魔界にまで及び、魔王の宮殿をも揺り動かすのである。
 そこで悪魔どもはみな恐れをなして、降伏してしたがわないものはない。
 このようにして世間の誤った教えをひき裂き、悪い考えを除き去り、さまざまな煩悩を打ち払い、貪りの堀を取り壊すのである。
 正しい法の城を固く守って広く人々に法の門を開き、煩悩の汚れを洗いきよめ、ひろく仏の教えを説き述べて、人々を正しいさとりの道へ導き入れるのである。
 また、人里に入って食を乞い、さまざまな供養を受け、施しの相手となって人々に功徳を積ませ、教えを説くにあたっては笑みをたたえ、人々の悩みに応じてさまざまな教えの薬を与え、その苦しみを除く。
 さらにさとりを求める心を起こさせてはかり知れない功徳を与え、菩薩には仏となることを約束してさとりを得させるのである。

 菩薩は最後に世を去る姿を示すのであるが、その後も教えは人々を限りなく救うのである。
 さまざまな煩悩を除き、多くの善根を与え、余すことなく功徳をそなえていることは実にすぐれており、はかり知ることができない。

 菩薩はまた、多くの国々をめぐってまことの教えをひろめる。
 それは清らかで少しも汚れがない。
 幻を見せる術にたけたものが、男の姿や女の姿、その他さまざまな姿を思いのままに現すように、この菩薩たちも、すべての法に通じて尊い境地に達しているから、その教化は自由自在で、数限りない仏の国土に現れて、少しもおこたることなく、人々を哀れみいたわるのである。
 このようにすべての手だてを菩薩は余すことなくそなえている。

 また、仏の説かれた教えのかなめをきわめ尽しており、その名はすべての世界に至りとどいて人々を巧みに導く。
 数限りない仏がたは、みなともにこの菩薩をお守りになる。
 菩薩は仏のそなえておいでになる功徳をすべてそなえ、仏の清らかな行いをすべて行う。
 仏と同じように、その導きはよく行きとどいて、他の菩薩たちのためにすぐれた師となり、奥深い禅定と智慧で人々を導く。
 すべてのものの本質をきわめ、すべての人々のありさまを知り尽し、すべての世界のすがたを見とおしており、いたるところに身を現してさまざまな仏がたを供養するが、その速やかなことはちょうど稲妻のようである。

 教えを説くにあたり、何ものも恐れない智慧をそなえ、すべてのものは幻のようで、決して執着するべきでないという道理をさとり、さとりの道をさまたげる悪魔の網をひき裂き、さまざまな煩悩を断ち切っている。
 そして声聞や縁覚などの位を超えて、空・無相・無願三昧を得て、また人々を救う手だてを施して、声聞・縁覚・菩薩の三種の教えを説く。
 声聞や縁覚を導くためにひとまず世を去る姿を示すのであるが、菩薩自身としては、すでに修めるべき行もなければ求めるべきさとりもなく、起こすべき善もなければ滅ぼすべき悪もなく、みな平等であるという智慧を得て、すべての教えを記憶する力と数限りない三昧と、すべてを知り尽す智慧を欠けることなくそなえている。
 そこで説法のよりどころとなる禅定に入って、深く大乗の教えを知り、尊い華厳三昧を得て、すべての経典を説き述べるのである。

 また、菩薩自身は深い禅定に入り、今おいでになる数限りない仏がたをまたたく間にすべて見たてまつることができる。
 そして苦難に深く沈んでいるものも、仏道修行のできるものもできないものも、それらをみな救って、まことの道理を説き示す。
 しかも如来の自由自在な弁舌の智慧を得ており、またあらゆる言葉に通じていて、どのようなものをも教え導くのである。
 すでに世間の迷いを超え出て、その心は常にさとりの世界にあって、すべてのことがらについて自由自在である。
 さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。
 さらに、如来の奥深い教えをすべて身にそなえ、人々の仏種性を常に絶やさないように守り、大いなる慈悲の心を起して人々を哀れみ、その慈愛に満ちた弁舌によって智慧の眼を授け、地獄や餓鬼や畜生への道を閉ざして人間や天人の世界への門を開く。
 すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、親孝行な子が父母を敬愛するようである。
 まるで自分自身を見るように、さまざまな人々を見るのである。

 菩薩たちは、このようなすべての善根によって人々をさとりの世界に至らせ、仏がたのはかり知れない功徳をみな人々に与えるのである。
 その智慧の清く明らかなことは、とうてい思いはかることができない。

 このようなすぐれた菩薩たちが数限りなく集まり、この経を説かれた集いに臨んだわけである。

(三)そのとき釈尊は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられた。
 そこで阿難は釈尊のお心を受けて座から立ち、衣の右肩を脱いで地にひざまずき、うやうやしく合掌して釈尊にお尋ねした。

 「世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。
 まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。
 そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。
 わたしは今日までこのような尊いお姿を見たてまつったことがございません。
 そうです。
 世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、特にすぐれた禅定に入っておいでになります。
 また、煩悩を絶ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。
 また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。
 また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。
 そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。
 過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。
 そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」

 そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。
 「阿難よ、天人がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか」

 阿難が答えていう。
 「天人が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます」

 そこで釈尊は仰せになった。
 「よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。
 そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。
 如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。
 世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。
 このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。
 だから、今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての天人や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。

 阿難よ、知るがよい。
 如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。
 その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。
 わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。
 なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を得ておいでになるからである。
 阿難よ、わたしはこれからそなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい」

 阿難はお答えした。
 「はい、喜んで聞かせていただきます」

(四)釈尊は阿難に仰せになった。
 「今よりはかり知ることのできないはるかな昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。
 次に光遠という名の仏がお出ましになった。
 その次に月光・栴檀香・善山王・須弥天冠・須弥等曜・月色・正念・離垢・無著・龍天・夜光・安明頂・不動地・瑠璃妙華・瑠璃金色・金蔵・焔光・焔根・地動・月像・日音・解脱華・荘厳光明・海覚神通・水光・大香・離塵垢・捨厭意・宝焔・妙頂・勇立・功徳持慧・蔽日月光・日月瑠璃光・無上瑠璃光・最上首・菩提華・月明・日光・華色王・水月光・除痴瞑・度蓋行・浄信・善宿・威神・法慧・鸞音・獅子音・龍音・処世という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。

(五)その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。
 そのときひとりの国王がいた。
 世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。
 才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。
 この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた 」

 世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
 その光明には何ものも及ぶことなく、太陽や月の光も宝玉の輝きもその前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
 まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
 持戒と多聞と精進と禅定と智慧、これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
 さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
 愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
 その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ輝く光のお力は、世界中を震わせる。
 願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
 布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
 わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
 たとえ多くの仏がたがおいでになり、その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
 ガンジス河の砂の数ほどの仏がたの世界があり、はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
 わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
 住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
 わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
 さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
 願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。
 それこそわたしにとってまことの証である。
 わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
 さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
 いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
 たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。

(六)釈尊が阿難に仰せになった。

 「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、
 ∧この通りです。
 世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。
 どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。
 わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。
 どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください∨と申しあげた」

 釈尊はさらに言葉をお続けになる。

 「そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、
 ∧どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう∨といわれた。
 すると法蔵菩薩は、
 ∧いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。
 世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。
 わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います∨と申しあげた。

 そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、
 ∧たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう∨と仰せになった。
 そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。

 そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。
 その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。
 そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」

 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
 「ところで世自在王仏の国土での寿命は、いったいどれほどなのですか」

 釈尊が仰せになった。
 「その仏の寿命は、四十二劫であった。
 さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。
 このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、
 ∧世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました∨と申しあげた。
 世自在王仏は法蔵菩薩に対して、
 ∧そなたはその願をここで述べるがよい。
 今はそれを説くのにちょうどよい時である。
 すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起させ、喜びを与えるがよい。
 それを聞いた菩薩たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう∨と仰せになった。
 そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、
 ∧では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます∨といって、次のような願を述べたのである」

(七)

一、わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

四、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

五、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が宿命通を得ず、限りない過去のことまで知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

六、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、数限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

七、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない仏がたの説法を聞きとり、すべて記憶することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

八、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が他心通を得ず、数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

九、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十一、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十二、わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十三、わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十四、わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十五、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。
 ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

十六、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、悪を表す言葉があるとでも耳にするようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十七、わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

十八、わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

十九、わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

二十、わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

二一、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二二、わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。
 ただし、その菩薩の願によってはその限りではありません。
 すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。
 ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。
 すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

二三、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けてさまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二四、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二五、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がこの上ない智慧について自由に説法することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二六、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強靭な体を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二七、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。
 かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二八、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

二九、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心にたもち、人々に説き聞かせて、心のままに弁舌をふるう智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三十、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三一、わたしが仏になるとき、国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

三二、わたしが仏になるとき、大地から天空に至るまで宮殿・楼閣・水の流れ・樹々や美しい花など、わたしの国のすべてのものが、みな数限りない、いろいろな宝とさまざまな香りでできていて、その美しく飾られたようすは天人や人々の世界に超えすぐれ、その香りはすべての世界に広がり、これをかいだ菩薩たちは、みな仏道に励むでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

三三、わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

三四、わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名を聞いて菩薩の無生法忍と、教えを記憶して決して忘れない力を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三五、わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三六、わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、命を終えて後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

三七、わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の天人や人々が、わたしの名を聞いて、地に伏してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら、天の神々や世の人々は残らずみな敬うでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

三八、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が衣服を欲しいと思えば、思いのままにすぐ現れ、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけているでしょう。
 裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

三九、わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四十、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が思いのままにすべの数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願い通り、くもりのない鏡に顔を映すように、宝の樹々の中にそれらをすべて照らし出してはっきりと見ることができるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四一、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

四二、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな清浄解脱三昧を得るでしょう。
 そしてこの三昧に入って、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さないでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四三、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四四、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、喜びいさんで菩薩の修行に励み、さまざまな功徳を欠けることなく身にそなえるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四五、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな普等三昧を得るでしょう。
 そしてこの三昧に入って、仏になるまでの間、常に数限りないすべての仏がたを見たてまつることができるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四六、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩は、その願いのままに聞きたいと思う教えをおのずから聞くことができるでしょう。
 そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

四七、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに不退転の位にいたることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

四八、わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

続く

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