俳句集 大空 尾崎放哉著 荻原井泉水輯

序 荻原井泉水
 其人の風格、其人の境地から産れる芸術として俳句は随一なものだと思ふ。俳句はあたまだけでは出来ない、才だけでは出来ない、上手さがあるだけ、巧みさがあるだけの句は一時の喝釆は博し得ようとも、やがて厭かれてしまふ。
 作者の全人全心がにじみ出てゐるやうな句、若くは作者の「わたくし」がすつかり消えてゐるやうな句(此両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出る、小さい形に籠められた大きな味が出るのである。
 芭蕉の境地、一茶の風格に就ては今更云ふまでもない。然し、それから後、俳句といふものが一概に趣味的な停徊的なものになつて、作者の人間、其気稟といふものゝ出てゐるやうな作は殆ど無かつた。
 所謂「俳趣味」といふ既成の見方からすれば、俳句らしくなくとも、其作者のもつ自然の真純さが出てゐれば、其こそ本当の俳句だ、と私は思ふ。而して、其様な本当の俳句を故尾崎放哉君に見出したのである。
   入れ物はない両手でうける
 其受ける物が多すぎて両手からこぼれ落ちさうな感じがする、かうした気持は折につけて私達の生活の中からも顔を出す事もある。その自分ながらのありがたさを捉へて言葉に生かしたものとしても好いが、放哉君の生活を知つてゐる私には、彼が物を蓄ふべき器すらも持たぬ無一物の生活をしてゐて、其ゆゑに限りなく恵まれてゐる気持、全心の感謝を以て受取る気持がうれしいのである。
   こんな好い月を一人で見て寝る
 彼は勿論、「一人」ぎりで或寺の堂守をしてゐたのだが、「こんな好い月」とまで自然にほれ/゛\と是程に融込んでゆく気持は、一寸得難い所である。而して一人でたんのうした上は、結局又一人で「寝る」より外はない、人間らしい淋しさも読む者をしんみりさせる。
   翌は元日が来る仏とわたくし
 今年の総勘定日たる大みそかだといふて世間の人は忙しがりつゝ新年の支度をしてゐるが、自分の所は掛乞ひさへも来ない、仏と二人きりの生活の安らかさ、然し又、その淋しさ、之が本当の人間の気持である。
 「ともかくもあなたまかせの年の暮」と澄ましてゐた一茶よりも、此の放哉君の方に一段の真実がありはしないか。
   肉が痩せて来る太い骨である
 形容枯槁し尽して、其底から全霊全真なるものが出て来る。此句は彼が病気になつてから、自分の骨の太さに自分で驚いた気持として、一個の人間の突きつめた心が丸ぼりに投出されてゐる。
 放哉君の句には、技巧もなく、所謂、俳趣味もない。彼とて、句作にたづさはつてから二十余年、技巧も知つてをれば趣味も知つてゐる、其を捨てゝ捨てきつて、斯うした句境にはいつて来た。丁度、彼が法学士として、或保険会社の支配人としての社会的の地位を捨てゝしまつて、無一物の自然生活にはいつたのと同じ気持なのである。
 放哉君が毎月何百円かの給料を投棄て、妻君をも振棄てゝしまつて、自分から「乞食」と称する事になるやうな、すばらしい生活革命を実行した其動機は、爰でいふまい。彼はすつぱだかになると共に、京都の一燈園に飛込んで来て、托鉢奉仕の行願をはじめた。天香氏にも信じられてゐたらしい。一燈園には物質的の経営に当る宣光社といふ財団がある。天香氏は彼が法学士であり理財の経験もあることだからと思つたのであらう、宣光社の会計を主管してくれと云はれた時、彼はソロバンをはじく事をする位ならば会社で給料を貰つてゐる、御免蒙りますと云つたさうである。
 一燈園を飛出して、或寺に住込んだ。たゞ働いて食はして貰へればいゝ、一燈園風の合掌三昧なのである。
   板じきに夕餉の両膝をそろへる
 けれども、彼が性来の一徹な気質は他と妥協する事が出来ないので、到る処で容れられずに、其から其へと流転してあるいた。
   漬物桶に塩ふれと母は産んだか
 そんな述懐も本当だつた違ひない。
 彼は亡き母の追憶だけを別にして故郷が大きらひ、故郷の人も彼を変人扱ひにして、行衛不明の侭に、お互に音信もしないでゐたと見える。学校時代の友人にも、会社時代の友人にも、彼はすつかり離れてしまつた。
 彼が音信するのは俳句の友人だけになつた。
 而して彼は起きてから睡るまで、仏に仕へる外は俳句に没頭してゐた。勿論、名を求めず、利を求めず、彼は生さへも求めなかつた。
 飯をたくことが面倒なので、焼米をこしらへて置いて、水を飲んで、いつ死んでもいゝといふ気持でゐた。
   大空のました帽子かぶらす
 といふ彼の句もあるが、青空の中にぐつと頭を突込んだやうな心で、彼の生活はすつかり大自然と同化してゐた。さうした境地から、彼の俳句がぐん/\と産れ出て来た。其生活が純粋になつて初めて佳い句が出来る筈だといふ私達の考は、此放哉君を得て立派に立証されたのである。
俳句集 大 空 尾崎放哉著

   須磨寺にて
大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月、京都に来る。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める

一日物云はず蝶の影さす

友を送りて雨風に追はれてもどる

雨の日は御灯ともし一人居る

なぎさふりかへる我が足跡も無く

軽いたもとが嬉しい池のさざなみ

静もれる森の中をののける此の一葉

井戸の暗さにわが顔を見出す

雨の傘たてかけておみくじをひく

沈黙の池に亀一つ浮き上る

鐘ついて去る鐘の余韻の中

炎天の底の蟻等ばかりの世となり

山の夕陽の墓地の空海へかたぶく

柘溜が口あけたたはけた恋だ

赤いたすきをかけて台所がせまい

仏飯ほの白く蚊がなき寄るばかり

たつた一人になりきつて夕空

墓原路とてもなく夕の漁村に下りる

高波打ちかへす砂浜に一人を投げ出す

雨に降りつめられて暮るる外なし御堂

昼寝起きればつかれた物のかげばかり

げつそり痩せて竹の葉をはらってゐる

御祭の夜明の提灯へたへたとたたまれる

月の出おそくなり松の木楠の木

何も忘れた気で夏帽をかぶって

ねむの花の昼すぎの釣鐘重たし

氷店がひよいと出来て白波

両手に清水をさげてくらい路を通る

日まはり大きくまはりここは満洲

父子で住んで言葉少なく朝顔が咲いて

砂山赤い旗たてて海へ見せる

声かけて行く人に迎火の顔をあげる

蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る

ほのかなる草花の匂を嗅ぎ出さうとする

潮満ちきつてなくはひぐらし

わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき

茄子もいできてぎしぎし洗ふ

空に白い陽を置き火葬場の太い煙突

むつつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる

裏木戸出入す朝顔実となる

朝顔の白が咲きつづくわりなし

いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘

陽がふる松葉の中で大きな竹かごおろす

蛙の子がふえたこと地べたのぬくとさ

何かしら児等は山から木の実見つけてくる

乞食の児が銀杏の実を袋からなんぼでも出す

船乗りと山の温泉に来て雨をきいてる

もやの中水音逢ひに行くなり

あらしの闇を見つめるわが眼が灯もる

海のあけくれのなんにもない部屋

銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る

古き家のひと間灯されて客となり居る

夕べひよいと出た一本足の雀よ

たばこが消えて居る淋しさをなげすてる

をだやかに流るる水の橋長々と渡る

空暗く垂れ大きな蟻が畳をはってる

蚊帳の釣手を高くして僧と二人寝る

蟻を殺す殺すつぎから出てくる

雨の幾日がつづき雀と見てゐる

雑巾しぼるペンだこが白たたけた手だ

友の夏帽が新らしい海に行かうか

氷がとける音がして病人と居る

すでにあかつき仏前に米こぼれあり

写真うつしたきりで夕風にわかれてしまった

小さい時の自分が居った写真を突き出される

血がにじむ手で泳ぎ出た草原

昼の蚊たたいて古新聞よんで

人をそしる心をすて豆の皮むく

はかなさは燈明の油が煮える

刈田で鳥の顔をまぢかに見た

落葉木をふりおとして青空をはく

からかさ干して落葉ふらして居る

傘さしかけて心寄り添へる

赤とんぼ夥しさの首塚ありけり

血汐湧き出で雑念なし

念彼観音力風音のまま夜となる

障子しめきって淋しさをみたす

屋根の落葉をはきおろす事を考へてゐる

水草ともしくなるままの小波よせる

庭石一つすゑられて夕暮が来る

わらぢはきしめ一日の旅の川音はなれず

寒さころがる落葉が水ぎはでとまった

木槿が咲いて小学を読む自分であつた

墓石洗ひあげて扇子つかってゐる

藁屋根草はえれば花さく

木魚ほんほんたたかれまるう暮れて居る

今朝の夢を忘れて草むしりをして居た

児に草履をはかせ秋空に放つ

ぶつりと鼻緒が切れた闇の中なる

鳩がなくま昼の屋根が重たい

土運ぶ黙々とひかげをつくる

風船玉がをどるかげがをどる急いで通る

財布はたいてしまひつめたい鼻だ

マツチの棒で耳かいて暮れてる

わが足の格好の古足袋ぬぎすてる

生徒等が紀念碑を取り巻いてしまった陽の中

栗が落ちる音を児と聞いて居る夜

夕べ落葉たいて居る赤い舌出す

落葉燃え居る音のみ残して去る

自らをののしり尽きずあふむけに寝る

落葉へばりつく朝の草履干しおく

何か求むる心海へ放つ

波音正しく明けて居るなり

めつきり朝がつめたいお堂の戸をあける

青空ちらと見せ暮るるか

ばたばた暮れきる客がいんだ座ぶとん

大空のました帽子かぶらず

どつかの池が氷つて居さうな朝で居る

猿を鎖につないで冬となる茶店

児に木箱つくつてやる眼の前

ふくふく陽の中たまるのこくづ

落葉たく煙の中の顔である

晩の煙を出して居る古い窓だ

仏体にほられて石ありけり

足音一つ来る小供の足音

足袋ぬいで石ころを捨てる

何かつかまへた顔で児が籔から出て来た

一人のたもとがマツチを持つて居た

昼だけある茶屋で客がうたつてる

大根洗ひの手をかりに来られる

上天気の顔一つ置いてお堂

馬の大きな足が折りたたまれた

打ちそこねた釘が首を曲げた

とまつた汽車の雨の窓なり

鳥がだまつてとんで行った

粉炭もたいなくほこほこおこして

一人つめたくいつ迄薮蚊出る事か

昼ふかぶか木魚ふいてやるはげてゐる

妹と夫婦めく秋草

鉛筆とがらして小さい生徒

お寺の秋は大松のふたまた

小さい火鉢でこの冬を越さうとする

心をまとめる鉛筆とがらす

松かさつぶてとしてかろし

朝々を掃く庭石のありどころ

お堂浅くて落葉ふりこむさへ

をん鶏気負ひしが風にわかれたり

草枯れ枯れて兵営

仏にひまをもらつて洗濯してゐる

大根が太つて来た朝ばん仏のお守する

ただ風ばかり吹く日の雑念

かぎ穴暮れて居るがちがちあはす

二人よつて狐がばかす話をしてる

うそをついたやうな昼の月がある

酔のさめかけの星が出てゐる

考へ事して橋渡りきる

松原児等を帰らせて暮れ居る

おほらかに鶏なきて海空から晴れる

中庭の落葉となり部屋部屋のスリツパ

白い帯をまいてたまさかの客にあふ

山に家をくつつけて菊咲かせてる

しも肥わが肩の骨にかつぐ

板じきに夕餉の両ひざをそろへる

わがからだ焚火にうらおもてあぶる

傘干して傘のかげある一日

こんなよい月を一人で見て寝る

とつぷり暮れて居る袴をはづす

夜中菊をぬすまれた土の穴ほつかりとある

便所の落書が秋となり居る

竹の葉さやさや人恋しくて居る

めしたべにおりるわが足音

小さい家をたてて居る風の中

囮のかごさげてだまつて山にはいる

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

火ばしがそろはぬ儘の一冬なりけり

朝の白波高し漁師家に居る

草履が片つ方つくられたばこにする

むつきを干して小さい二階をもつ

島の女のはだしにはだしでよりそふ

わが顔ぶらさげてあやまりにゆく

葬式の幕をはづす四五人残つて居る

秋風のお堂で顔が一つ

菊の乱れは月が出てゐる夜中

今日も生きて虫なきしみる倉の白壁

黒眼鏡かけた女が石に休んで居るばかり

釘に濡手拭かけて凍てる日である

つめたい風の耳二つかたくついてる

お堂しめて居る雀がたんともどつて来る

たんぼ風まともにうけとぼけた顔だ

蟻が出ぬやうになつた蟻の穴

庭掃いて行く庭の隅なるけいとう

降る雨庭に流をつくり佗び居る

のら犬の脊の毛の秋風に立つさへ

雑草花つける強い夕風

あひる放たるる水底見ゆる

草のびのびししはぶきして窓ある

わが家のうしろで鍬ふるふあるじである

しぐれますと尼僧にあいさつされて居る

人殺しありし夜の水の流るるさま

水たまりが光るひよろりと夕風

針に糸を通しあへず青空を見る

糸瓜が笑ったやうな円右が死んだか

きたない下駄はいて白粉ぬることを知つてる

軍馬たくさんつながれ裸の木ばかり

片目の人に見つめられて居た

すでにすつ裸の柿の木に物干す

冬帽かぶつてだまりこくつて居る

紅葉あかるく手紙よむによし

襟巻長くたれ橋にかかるすで凍てたり

公園冬の小徑いづこへともなくある

写真とつて歩く少し風ある風景

児をおぶつてお嫁さんの顔見に出る

大地の苔の人間が帽子をかぶる

葱がよく出来てとつぷり暮れた家ある

病人よく寝て居る柱時計を巻く

お盆にのせて椎の実出されふるさと

姉妹椎の実たべて東京の雑誌よんでる

かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である

眼鼻くすぼらしてゐた風呂があつうなる

赤ン坊のなきごゑがする小さい庭を掃いてる

大松暮れてくるはだしを洗ふ頃となる

雀のあたたかさを握るはなしてやる

洒もうる煙草もうる店となじみになつた

灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく

帆柱がならんでみんなとまる船ばかり

曇り日の落葉掃ききれぬ一人である

たくさんの児等を叱つて大根漬けて居る

門をしめる大きな音さしてお寺が寝る

うで卵子くるりとむいて児に持たせる

傘にばりばり雨音さして逢ひに来た

あるものみな着てしまひ風邪ひいてゐる

かまきりばたりと落ちて斧を忘れず

事実といふ事話しあつてる柿がころがつでゐる

黒い帯しつかりしめて寒い夜居る

師走の夜の釣鐘ならす身となりて

師走の夜のつめたい寝床が一つあるきり

けもの等が鳴く師走の動物園のま下を通る

雪を漕いで来た姿で朝の町に入る

大雪となる兎の赤い眼玉である

女と淋しい顔して温泉の村のお正月

破れた靴がばくばく口あけて今日も晴れる

榾火に見渡さるる調度である

小鳥がふみ落す葉を池に浮べて秋も深い

焚えさしに雪少し降り明け居る

寒鮒をこごえた手で数へてくれた

落葉掃けばころころ木の実

柿の木を売つた銭を陽なたで勘定してる

反古を読み読み消し壷張りあげた

犬をかかへたわが肌には毛が無い

鞠がはずんで見えなくなつて暮れてしまつた

舟の帆が動いて居る身のまはりの草をむしる

かたい梨子をかぢつて議論してゐる

聞こえぬ耳をくつつけて年とつてる

たくさんある児がめいめいの本をよんでる

借家いつか出来て住む夫婦者の顔

草刈りに出る裏木戸あいたままある

曲つた宿の下駄はいて秋の河原は石ばかり

病人らしう見て過ぐ秋草

吸取紙が字を吸ひとらぬやうになつた

漬物桶に塩ふれと母は産んだか

こんな処に卵子を産んでぬくとく拾ふ

吹けばころがる卵子からの卵子

渓深く入り来てあかるし

笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた

池を干す水たまりとなれる寒月

雪解の一軒の家のまはり

蜜柑を焼いて喰ふ小供と二人で居る

がたぴし戸をあけておそい星空に出る

鉢の椿の蕾がかたくて白うなつて

馬が一疋走つて行つた日暮れる

池の氷の厚さを児等は知つてる

片つ方の耳にないしよ話しに来る

葬式のきものぬぐばたばたと日がくれる

汀にたまる霰見て温泉の村に入る

低い戸口をくぐつて出る残雪が堅い

波立つ船に船をよせようとする

両手をいれものにして木の実をもらふ

すたすた行く旅人らしく晩の店をしまふ

夜中の襖遠くしめられたる

女に捨てられたうす雪の夜の街燈

なんにもたべるものがない冬の茶店の客となる

波へ乳の辺まではいつて女よ

山かげ残雪の家鶏もゐる

濠瑞犬つれて行く雪空となる

落葉拾うて棄てて別れたきり

行きては帰る病後の道に咲くもの

雪が消えこむ川波音もなく暮れる

雪の戸ひそひそ叩いて這入つてしまつた

こんな大きな石塔の下で死んでゐる

雪空火を焚きあげる雪散らす

さはればすぐあく落葉の戸にて

紺の香きつく着て冬空の下働く

あけた事がない扉の前で冬陽にあたつてゐる

水車まはつて居る山路にかかる

椿にしざる陽の窓から白い顔出す

湖の家並ぶ寒の小魚とるいとなみ

うす化粧して凍てた道をいそぐ

牛小屋の氷柱が太うなつてゆくこと

きたない下駄ぬいで法話の灯に遠く座る

雪解の山浅く枯枝あつめる

大きな木ばかりのお寺の朝夕である

島の残雪に果物船をよせる

動物園の雪の門があけてある

岩にはり付けた鰯がかはいて居る

冬川にごみを流してもどる

かきがねしつかりかけて霜夜だ

臼ひく女が自分にうたをきかせて居る

今逢ふて来た顔で炭火をおこす

夜明けの大浪の晴れがまへである

藤棚枯れて居る下の椅子によつて話す

曇り日の儘に暮れ雀等も暮れる

堅い大地となり這ふ虫もなし

墓原雪晴れふむものとてなく

ゆるい鼻緒の下駄で雪道あるきつづける

ふところの焼芋のあたたかさである

霜がびつしり下りて居る朝犬を叱る

鳩に豆やる児が鳩にうづめらる

霰ふりやむ大地のでこぼこ

ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける

高波曳網のつな張り切る

ぽっかり鉢植の枯木がぬけた

宵祭の提灯ともしてだあれも居らぬ

ハンケチがまだ落ちて居る戻り道であつた

にくい顔思ひ出し石ころをける

たまたま蟻を見付け冬の庭を歩いて居る

天辺落とす一と葉にあたまを打たれた

底がぬけた杓で水を呑まうとした

池が氷つてしまったお寺の境内

粉雪散らし来る大根洗ふ顔を上げず

雪空にじむ火事の火の遠く恋しく

雀がさわぐお堂で朝の粥腹をへらして居る

爪切るはさみさへ借りねばならぬ

なんにもない机の引き出しをあけて見る

犬よちぎれる程尾をふつてくれる

残雪の番ひのにはとりが居るばかり

寒に入る地蔵鼻かけ給ふ

松の葉をぬいて歯をせせる朝の道である

先生の家の古ぼけた門である

色鉛筆の青い色をひつそりけづつて居る

月の出の船は皆砂浜にある

節分の豆をだまつてたべて居る

刈田のなかで仲がよい二人の顔

雪空一羽の鳥となりて暮れる

鶴鳴く霜夜の障子ま白くて寝る

花が咲いた顔のお湯からあがつてくる

歯をむき出した鯛を威張つて売る

人を待つ小さな座敷で海が見える

児をつれて小さい橋ある梅林

入営を送つてて来た旗をかついでゐる

ほつかり池ある夕べの小波

コスモスヘなんぼでも高うなる小さい家で

夕べの鐘つき切つたぞみの虫

夕飯たべて猶陽をめぐまれてゐる

道いつぱいになって来る牛と出逢った


小浜にて

背を汽車通る草ひく顔をあげず

今日来たばかりで草ひいて居る道をとはれる

あたまをそつて帰る青梅たくさん落ちてる

剃つたあたまが夜更けた枕で覚めて居る

一人分の米白々と洗ひあげたる

時計が動いて居る寺の荒れてゐる

乞食に話しかける我となつて草もゆ

血豆をつぶさう松の葉がある

考へ事をしてゐる田にしが歩いて居る

風が落ちたままの駅であるたんぼの中

雪の戸をあけてしめた女の顔

するどい風の中で別れようとする

どんどん泣いてしまつた児の顔

新緑の山となり山の道となり

赤ン坊動いて居る一と間切りの住居

田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまつた

どろばう猫の眼と睨みあつてる自分であつた

留守番をして地震にふられて居る

臍に湯をかけて一人夜中の温泉である

病人らしう見て居る庭の雑草

浪音淋しく三昧やめさせて居る

豆を水にふくらませて置く春ひと夜

かぎりなく蟻が出て来る穴の音なく

遠くへ返事して朝の味噌をすつて居る

手作りの吹竹で火が起きて来る

戻りは傘をかついて帰る橋であつた

笑ふ時の前歯がはえて来たは

眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る

百姓らしい顔が庫裡の戸をあけた

釘箱の釘がみんな曲つて居る

かたい机でうたた寝して居つた

お寺の灯遠くて淋しがられる

豆を煮つめる自分の一日だつた

二階から下りて来てひるめしにする

海がよく凪いで居る村の呉服屋

蜘蛛がすうと下りて来た朝を眼の前にす

銅像に悪口ついて行つてしまつた

雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る

きちんと座つて居る朝の竹四五本ある

とかげの美しい色がある廃庭

蛙たくさん鳴かせ灯を消して寝る

寺に来て居て青葉の大降りとなる

芹の水濁らすもの居て澄み来る

池の朝がはじまる水すましである

土塀に突つかい棒をしてオルガンひいてゐる学校

うつろの心に眼が二つあいてゐる

花火があがる音のたび聞いてゐる

母の無い児の父であつたよ

小さい橋に来て荒れる海が見える

淋しいからだから爪がのび出す

屋根草風ある田舎に来てゐる

ころりと横になる今日が終つて居る

一本のからかさを貸してしまつた

雨のわが家に妻は居りけり

海がまつ青な昼の床屋にはいる

瓜うりありくヨボの大きな瓜である

久しぶりのわが顔がうつる池に来てゐる

となりへだんご持つて行く籔の中

籔の中わたしだちの道の筍

何やら鍋に煮えて居る僧をたづねる

蚤とぶ朝のよんでしまつた新聞

小芋ころころはかりをよくしてくれる

朝早い道のいぬころ


京都にて

山寺灯されて見て通る

昼寝の足のうらが見えてゐる訪ふ

宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる

蜘蛛がとんぼをとつた軒の下で住んでる

筍ふみ折つて返事してゐる

逢ひに来たその顔が風呂を焚いてゐた

旧暦の節句の鯉がをどつて居る


小豆島にて

大正十四年八月、香川県小豆郡小豆島土庄町西光寺奥の院南郷庵に入り、十五年四月、そこに没するまで。

眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る

夜明けが早い浜で顔を合す

ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる

いつしかついて来た犬と浜辺に居る

町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る

島の小娘にお給仕されてゐる

山の和尚の酒の友とし丸い月ある

さはにある髪をすき居る月夜

漬物石になりすまし墓のかけである

すばらしい乳房だ蚊が居る

あらしが一本の柳に夜明けの橋

あらしの中のばんめしにする母と子

あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る

足のうら洗へば白くなる

石山虫なく陽かげり

蛍光らない堅くなつてゐる

大松一本雀に与へ庵ある

海が少し見える小さい窓一つもつ

わが顔があった小さい鏡買うてもどる

ここから浪音きこえぬほどの海の青さの

わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなつて居る

すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

四五人静かにはたらき塩浜くれる

夜更けの麦粉が畳にこぼれた

松かさも火にして豆が煮えた

井戸のほとりがぬれて居る夕風

なん本もマツチの棒を消し海風に話す

山に登れば淋しい村がみんな見える

雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た

髪の美しさもてあまして居る

叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る

花がいろいろ咲いてみんな売られる

掃く程もない朝朝の松の葉ばかり

秋風の石が子を産む話

投げ出されたやうな西瓜が太つて行く

壁の新聞の女はいつも泣いて居る

海風に筒抜けられて居るいつも一人

盆休み雨となつた島の小さい家家

風邪を引いてお経あげずに居ればしんかん

風音ばかりのなかの水汲む

鼠にジヤガ芋をたベられて寝て居た

盆燈籠の下ひと夜を過ごし古郷立つ

少し病む児に金魚買うてやる

風吹く家のまはり花無し

青田道もどる窓から見られる

山は海の夕陽をうけてかくすところ無し

家が建てこんで来た町の物売の声

水を呑んでは小便しに出る雑草

船の中の御馳走の置きどころが無い

花火があがる空の方が町だよ

一疋の蚤をさがして居る夜中

木槿の花がおしまひになつて風吹く

追つかけて追ひ付いた風の中

ぴつたりしめた穴だらけの障子である

あけがたとろりした時の夢であつたよ

おそい月が町からしめ出されてゐる

障子張りかへて居る小さいナイフ一挺

思ひがけもないとこに出た道の秋草

わが肩につかまつて居る人に眼がない

蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ

切られる花を病人見てゐる

乞食日の丸の旗の風ろしきもつ

天気つづきのお祭がすんだ島の大松

卵子袂に一つづつ買うてもどる

お祭り赤ン坊寝てゐる

その手がいつ迄太皷たたいて居るのか

陽が出る前の濡れた鳥とんでる

夕立からりと晴れて大きな鯖をもらった

蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽

木槿一日うなづいて居て暮れた

お遍路木槿の花をほめる杖つく

葬式のもどりを少し濡れて来た

道を教へてくれる煙管から煙が出てゐる

病人花活ける程になりし

朝靄豚が出て来る人が出て来る

迷つて来たまんまの犬で居る

山の芋掘りに行くスツトコ被り

人間並の風邪の熱出して居ることよ

さつさと大根の種子まいて行つてしまった

夕靄たまらせて塩浜人居る

己に秋の山山となり机に迫り来

蛙釣る児を見て居るお女郎だ

久し振りの雨の雨だれの音

都のはやりうたうたつて島のあめ売り

厚い藁屋根の下のボンボン時計

三味線が上手な島の夜のとしより

障子あけて置く海も暮れきる

山に大きな牛追ひあげる朝靄

畑のなかの近道戻つて来よる

畳を歩く雀の足音を知つて居る

あすのお天気をしやべる雀等と掃いてゐる

あらしがすつかり青空にしてしまつた

窓には朝風の鉢花

淋しきままに熱さめて居り

火の無い火鉢が見えて居る寝床だ

風にふかれ信心申して居る

小さい家で母と子とゐる

淋しい寝る本がない

竹籔に夕陽吹きつけて居る

月夜風ある一人咳して

お粥煮えてくる音の鍋ふた

一つ二つ螢見てたづぬる家

早さとぶ小鳥見て山路行く

雀等いちどきにいんでしまった

草花たくさん咲いて児が留守番してゐる

爪切つたゆびが十本ある

来る船来る船に一つの島

漬物石がころがつて居た家を借りることにする

鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい

夜の木の肌に手を添へて待つ

秋日さす石の上に背の児を下ろす

浮草風に小さい花咲かせ

障子の穴から覗いて見ても留守である

朝がきれいで鈴を振るお遍路さん

入れものが無い両手で受ける

朝月嵐となる

秋山広い道に出る

口あけぬ蜆死んでゐる

咳をしても一人

汽車が走る山火事

静かに撥が置かれた畳

菊枯れ尽したる海少し見ゆ

流れに沿うて歩いてとまる

海苔そだの風雪となる舟に人居る

とんぼの尾をつまみそこねた

麦がすつかり蒔かれた庵のぐるり

墓地からもどつて来ても一人

恋心四十にして穂芒

なんと丸い月が出たよ窓

ゆうべ底がぬけた柄杓で朝

風凪いでより落つる松の葉

雪の頭巾の眼を知つてる

自分が通つただけの冬ざれの石橋

籔のなかの紅葉見てたづねる

大根抜きに行く畑山にある

麦まいてしまひ風吹く日ばかり

今朝の霜濃し先生として行く

となりにも雨の葱畑

くるりと剃ってしまつた寒ン空

夜なべが始まる河音

よい処へ乞食が来た

雨萩に降りて流れ

寒なぎの帆を下ろし帆柱

庵の障子あけて小ざかな買つてる

師走の木魚たたいて居る

松かさそつくり火になった

風吹きくたびれて居る青草

嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる

鉄砲光つて居る深雪

霜濃し水汲んでは入つてしまった

一人でそば刈つてしまった

冬川せつせと洗濯している

昔は海であつたと榾をくベる

寒ン空シヤツポがほしいな

蜜柑たべてよい火にあたつて居る

とつぷり暮れて足を洗つて居る

昼の鶏なく漁師の家ばかり

海凪げる日の大河を入れる

働きに行く人ばかりの電車

雪の宿屋の金屏風だ

わが家の冬木二三本

家のぐるり落葉にして顔出してゐる

墓原花無きこのごろ

山火事の北国の大空

月夜の葦が折れとる

墓のうらに廻る

あすは元日が来る仏とわたし

掛取も来てくれぬ大晦日も独り

雪積もる夜のランプ

雨の舟岸により来る

山奥の木挽と其の男の子

夕空見てから夜食の箸とる

ひそかに波よせ明けてゐる

冬木の窓があちこちあいてる

窓あけた笑ひ顔だ

夜釣から明けてもどつた小さい舟だ

児を連れて城跡に来た

風吹く道のめくら

旅人夫婦で相談してゐる

ぬくい屋根で仕事してゐる

絵の書きたい児が遊びに来て居る

山風山を下りるとす

裸木春の雨雲行くや

おそくなつて月夜となつた庵

松の根方が凍ててつはぶき

舟をからつぽにして上つてしまった

小さい島に住み島の雪

名残の夕陽ある淋しさ山よ

故郷の冬空にもどつて来た

一日雪ふるとなりをもつ

みんなが夜の雪をふんでいんだ

山吹の花咲き尋ねて居る

春が来たと大きな新聞広告

雨の中泥手を洗ふ

枯枝ほきほき折るによし

静かなる一つのうきが引かれる

山畑麦が青くなる一本松

窓まで這つて来た顔出して青草

渚白い足出し

久し振りの太陽の下で働く

貧乏して植木鉢並べて居る

霜とけ鳥光る

久しぶりに片目が蜜柑うりに来た

障子に近く蘆枯るる風音

八ツ手の月夜もある恋猫

仕事探して歩く町中歩く人ばかり

あついめしがたけた野茶屋

どつさり春の終りの雪ふり

森に近づき雪のある森

肉がやせて来る太い骨である

一つの湯呑を置いてむせてゐる

やせたからだを窓に置き船の汽笛

婆さんが寒夜の針箱おいて去んでる

すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる

春の山のうしろから煙が出だした


其以前の作

大正五年より十三年まで、各年とも其前に註す。
十一、十二年は朝鮮及び滿洲にあり。
十二年秋、戦を擲ち、無一物となりて一燈園に投ず。大正五年

ひねもす曇り浪音の力かな

護岸荒るる波に乏しくなりし花

海が明け居り窓一つ開かれたり

手紙つきし頃ならん宿の灯の見ゆ

水の音が濃くなり行けば赤い灯が

児等と行く足もと浪がころがれり

馬の鈴しやんしやんと急がるる町の灯

あかつきの木木をぬらして過ぎし雨

灯をともし来る女の瞳

   大正六年

海は黒く眠りをり宿につきたり

花屋のはさみの音朝寝してをる

窓あけて居る朝の女にしじみ売

つと叫びつつ駈け去りし人の真夜中

雪晴れしみち停車場に着く車

しつとり濡れし橋を行く雨の明るさ

つめたく咲き出でし花のその影

休め田に星うつる夜の暖かさ

駈けざまにこけし児が泣かで又駈ける

とはに隔つ棺の釘を打ち終へたり

焼き場の煙突の大いさをあふぐ

若葉の匂の中焼場につきたり

御仏の黄な花に薫りもなくて

今日一日の終りの鐘をききつつあるく

青服の人等帰る日が落ちた町

軍艦のどれもより朝の喇叭が鳴れり

大正七年

霜ふる音の家が鳴る夜ぞ

妻が留守の障子ぽつとり暮れたり

雪は晴れたる小供等の声に日が当る

眼をやめば片眼淋しく手紙書き居る

赤い房さげて重い車を引く馬よ

元日暮れたりあかりしづかに灯して

日が少し長くなり夕煙あかるく

線路工夫にのみ明けし朝の堅い土

小供等さけび居り夕日に押合へる家

冷やかな灯ありけり朝の竹籔

流るる水にそれぞれの灯をもちて船船

肴屋が肴読みあぐる陽だまり

芽ぐめるもの見てありく土の匂

わが肌をもむあんま何を思ひつつ

チヤブ台に置かるる縁日の赤い花

山深々と来て親しくはなす

ぢつと子の手を握る大きなわが手

落つる日の方へ空ひとはけにはかれたり

仏の花に折れば咲きつづくけしの花

松はあくまで光りて砂にならぶ墓

嵐の夜あけ朝顔一つ咲き居たり

大風の空の中にて鳴る鐘

マツチつかぬ夕風の涼しさに話す

日まはりこちら向く夕べの机となれり

妻を叱りてぞ暑き陽に出で行く

寺の屋根見つつ木の葉ふる山を下り行く

口笛吹かるる朝の森の青さは

大正八年

葬列足早な足に暮色まつはり

亀を放ちやる昼深き水

大正十二年

土くれのやうに雀居り青草もなし

途に児等は泣くどの家にも灯火

松の実ほつほつたべる燈下の児無き夫婦ぞ

風の中走り来て手の中のあつい銭

四ツ手網おろされ夕の野面ひつそり

稲がかけてある野面に人をさがせども

何もかも死に尽したる野面にて我が足音

氷穿ちては釣の糸深々と下ろす

氷れる路に頭を下げて引かるる馬よ

田ずそ親しく雪解水流れそめたり

海苔をあぶりては東京遠く来た顔ばかり

長雨あまる小窓で杏落つるばかり

昼火事の煙遠くへ冬木つらなる

焼跡はるかなる橋を淋しく見通し

春日の中に泥厚く塗りて家つくる

いたくも狂へる馬ぞ一面の大霜

かぎりなく煙吐き散らし風やまぬ煙突

母の日ぬくとくさやゑんどう出そめて

夏帽新しく睡蓮に昼の風あり

草に入る陽がよろしく満洲に住む気になる

朝からヨボが喧嘩して楽隊通る

犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼

わが腕からとつた黄色い水がフラスコで鳴る

ここに死にかけた病人が居り演習の銃音をきく

小供等たくさん連れて海渡る女よ

遠く船見付けたる甲板の昼を人無く


一燈園にて

山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る

ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人人

落葉掃き居る人の後ろの往来を知らず

牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり

流るる風に押され行き海に出る

船は皆出てしまひ雪の山山なり

砂浜ヒヨツコリと人らしいもの出て来る

つくづく淋しい我が影よ動かして見る

昼めし云ひに来て竹籔にわれを見透かす

ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる

皆働きに出てしまひ障子あけた儘の家

静かなるかげを動かし客に茶をつぐ

花あわただしさの古き橋かかれり

夕日の中へ力いつぱい馬を追ひかける

落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事

月夜戻り来て長い手紙を書き出す


入庵雑記

島に来るまで

 この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に座らせてもらふ事になりました。
 庵は南郷庵と申します、も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。
 西光寺は小豆島八十八ケ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつて居りますから番外であります。己に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
 庵は六畳の間にお大師様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです、其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈があるわけであります。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと思ふ程であります。庵は、西南に向つて開いて居ります、庭先きに、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮音を絶やさぬのであります。
 此の大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります、之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主円心禅門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に座つて居る私の眼から離れた事がありません、此の発願主円心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。
 此の庵も大分とそこら中が古くなつて居るやうですが、私より以前、果して幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且はゆつくりと寝させてもらつた事であらう、それは一に此の円心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであらう、全く難有い事である。円心禅門といふ人は果してどんな人であつたであらうかと、それからそれと思ひに耽るわけであります。
 東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。
 此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居ますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になつて居るのであります。
 茲は瀬戸内海であり、殊にズツと入海になつて居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。
 此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入つて参ります。
 それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。
 さて、入庵雑記と表題を置きましたけれども、入庵を機会として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思つて居るのであります。私の流転放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。
 此間には全く云ふに云はれぬ色色な事がありました、此頃の夜長に一人寝てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。
 然るに只今はどうでせう、私の多年の希望であつた処の独居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で営ませていたゞいて居るのであります。
 私にとりましては極楽であります。
 処が、之が皆わが井師の賜であるのだから、私には全く感謝の言葉が無いのであります。
 井師の恩に思ひ到る時に私は、きつと、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を朗読して居るでありませう、何故なれば、どう云ふものか、私は井師の恩を思ふ時、必普門品を思ひ、そして此の経文を読まざるを得ぬやうになるのであります。理窟ではありません。
 観音経は実に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります、井師もきつと共鳴して下さる事と信じて居ります。猶、此機会に於て是非とも申させていただかねばならぬ事は西光寺住職杉本宥玄氏についてゞあります、已に此庵が西光寺の奥の院である事は前に申しました通り、私が此島に来まして同人井上一二氏を御尋ね申した時、色々な事情から大方、此島を去つて行く話になつて居りましたのです、其時此庵を開いて私を入れて下すつたのが杉本師であります。
 杉本師は数年前井師が島の札所をお廻りになつた時に、井上氏と共に御同行なされた方でありまして、誠に温厚親切其のものゝ如き方であります、師とお話して居ますと自ら春風蕩漾たるものがあります。私は此の尊敬す可き師の庇護の下に此庵に座らせてもらつて居るので、何と云ふ幸福でせうか、──又、同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり尽せりでありまして、是等一に、井師を機縁として生じて来たものであると云ふ事に思ひ到りますれば、私は茲に再び、朗々、観音経を誦さなくてはならない気持となるのであります。
 丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります、其頃井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました、井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句──新派俳句と云つた時代です──が非常に盛で、其結果「一高俳句会」といふものが出来、句会を開いたものでした。
 句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。
 そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一ツ宛持つて来ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だつたと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです、虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上にたてゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした、日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやつたのですから、それは閑静なものでしたよ。
 処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました、そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました、処が此縁が決して切れては居りませんでした。
 火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます、世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこありませんね。其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやつて居たわけであります、そして茲に機縁を見出したものか層雲第一号から再び句作しはじめたものであります、それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居りまする内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係となつて来た訳なのであります。そこで、私が此島に参りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。
 井師の此度の今熊野の新居は清洒たるものではありますが、それは実に狭い。井師一人丈ですらどうかと思ふ位な処へ、此の飄々たる放哉が転がり込んだわけです。
 而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい、一人釣りの蚊帳の中に、井師の布団を半分占領して毎晩二人で寝たわけです。其の狭い事狭い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまったのです。鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有つたのではあるが、全く呉下の旧阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい経験もありませう、又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです、包擁力が出来て来たのであります。
 井師は私に決してミユツセンと云つた事がありません、一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります、それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな気持になつて来るのであります、之が大慈悲でなくてなんでありませう。
 井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれ共、其私に与へた印象は深甚なものでありました。
 井師と二人で田舎路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になつたねえ」といふたつた一言に直に私が共鳴するのです。
 或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢つて極めて自然に、ソツと夏帽をとつて頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。
 二人で歩いて居て、井師も亦、妻も児も無い人なんだなと思つてつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手くそなのです、而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ、何時でも着物の着方の下手くそなので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。
 下駄の先鼻緒に力を入れて突つかけて歩くもの故、よく下駄の先きをまだ新らしいうちに壊してしまつたり、先鼻緒を切つたりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。
 其外、床の間の上に乗せてあつた白袴……恐らくは学生時代のであつてほしかつたが……一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。
 僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとつては実に異常なもので有つたのであります。
 井師は今、東京に帰つて居らるゝ日どりになつて居る、なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ気持がして来るのです。私は茲で又、観音経を読まなければならぬ。
 机の上には、いつでも此のお経文が置いて有るのですから──。扨、私は此辺で一寸南郷庵に帰らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。
 我昔所造諸悪業。皆由無始貪瞋癡。
 従身口意之所生。一切我今皆懴悔。

     海

 庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至つてがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。
 これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく、と云ふ処から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。縁を人に絶つて身を方外に遊ぶ、などゝ気取つて居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふつたとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。
 八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其の前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしと/\と降る日でも、風がざわ/\吹く日でも、一日中、朝から黙つて一人で座って居ります。
 座つて居る左手に、之も拝借もの…と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残つて居つた、たつた一つの什器であつた処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。
 此の火鉢は殆んど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるりが、凡そこれ以上に毀すことは不可能であらうと思はれる程疵だらけにしてあります。
 之は必、前住の人が煙草好きであって、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン毀して居た結果にちがひないと思ふのです、誠に御丹念な次第であります。
 此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらんとし過ぎたことであります。
 此の南よりの一本の柱と申すのが、甚形勝の地位に在るので、遥に北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。
 居ながらにして首を少し前にのばせば、そこは広々と低みのなだれになつて一面の芋畑、そして遠く、土庄町の一部と、西の空の開いて居るのが見えるのであります。
 東は例のこの庵唯一の小さい低い窓でありまして、其の窓を通して渠の如き海が見え、海の向ふには、島のなかの低い山が連つて居ります。
 西はすぐ山ですから、窓によつて月を賞するの便があるのみで、別に大した風情は有りませんのです。
 お天気のよい日には毎朝、此の東の空に並んで居る連山のなかから、太陽がグン/\登って来ます。
 太陽の登るのは早いものですね、山の上に出たなと思つたら、もう、グツグツグツと昇つてしまひます。
 その早いこと、それを一人座ってだまつて静に見て居る気持ツたら全くありません。
 私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大低な脳の中のイザコザは消えて無くなつてしまふのです。
  「賢者は山を好み、智者は水を愛す」といふ言葉があります、此の言葉はなかなかうま味のある言葉であると思ひます、但し、私だけの心持かも知れませんが──。
 一体私は、ごく小さな時からよく山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとつて来るに従つて、山はどうも怖い……と申すのも可笑しな話ですが、……親しめないのですな。殊に深山幽谷と云つたやうな処に這入つて行くと、なんとはなしに、身体中が引き締められるやうな怖い気持がし出したのです、丁度、怖い父親の前に座らされて居ると云つたやうな気持です。
 処が、海は全くさうでは無いのであります、どんな悪い事を私がしても、海は常にだまつて、ニコ/\として包擁してくれるやうに思はれるのであります。
 全然正反対であります。ですから私は、これ迄随分旅を致しましたうちで、荒れた航海にも度々出逢つて居りますが、どんなに海が荒れても、私はいつも平気なのであります、それは自分でも可笑しいやうです。よし、船が今微塵にくだけてしまつても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます、丁度、慈愛の深い母親といつしよに居る時のやうな心持になつて居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。
 つまり私は、人の慈愛…と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。処がです、此の、個人主義の、この戦闘的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。
 そこで、勢之を自然に求める事になつて来ます。
 私は現在に於ても、仮令、それが理窟にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。
 母の慈愛─母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。
 善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を…その大願をたてられた仏の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。
 猶茲に、海に附言しまして是非共ひとこと聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。
 私が、流転放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て…そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふ事であります、勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光りといふものを見逃がす事も出来ません。
 之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつが絶対に見られないことであります。
 私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧模糊たるものに憧憬れて、三年の間、瓢々乎として歩いて居たといふわけであります。
 それが、この度、仏恩によりまして、此庵に落ち付かせていたゞく事になりまして以来、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す訳で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年内の人間好時節といふ次第なのであります。

     念仏

 六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。
 此の六畳が大変に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳代へをしたばかりのとこなのださうでした、六畳の仏間は奇麗になつて居ります。此の島の人…と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて来て、この六畳の仏間にみんなが座つて、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。
 それはお念仏を申すとか、御詠歌を申す、とか島の人は云ふのです.それで、只単に「申しに来ました」とか、「申さうぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。
 そこで可笑しい事には、この御念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶしと新ぶしとがあるのであります。「旧ぶし」と云ふのは、ウンと年とつたお婆さん連中が申す調子であります、「新ぶし」は中年増と云つたやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふしであります。そのふし廻しを聞いて居りますと、旧ぶしは平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶしの方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓座あり、中々に面白いものであります。
 ですから、其の持つて居る道具にしても、旧ぶしの方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶしの方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な鈴を持ちます。
 その鈴の棒の処々には、洋銀か、ニツケルかのカネの輪の飾りが填めこんでありまして、ピカ/\く光つて居る、棒の上からは赤い房がさがつて居る。中々美しいものでありますが、それを右の手に持つてリンリン振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十人も調子が揃つて奇れいなものであります。
 処がです、此の両派が甚合はない、云はゞ常に相嫉視して居るのであります、何しろ、一方は年よりばかり、一方は若い連中、と云ふのでありますから、色々な点から考へて見て、是非もない次第であるかも知れませぬ。
 一体、関東の方では、お大師さまの事をあまりやかましく云はないやうですが、関西となると、それはお大師さまの勢力といふものは素破らしいものであります。
 私が須磨寺に居りました時、あすこのお大師さまは大したものでありまして、殊に盆のお大師さまの日と来ると、境内に見世物小屋が出来る、物売り店が並ぶ、それはえらい騒ぎ、何しろ二十日の晩は夜通しで、神戸大阪辺から五万十万と云ふ人が間断なくおまゐりに来るのですから全くのお祭であります、……丁度、東京の池上のお会式……あれと同じ事であります。その時のことでしたが、ある信者の団体は一寸した舞台を拵へまして、御詠歌踊と云ふのをやりました、囃しにはさき程申し上げました美しい鈴と、それに小さい拍子木がはいります、其の又拍子木が非常によく鳴るのです、舞台では十三から十五六迄位の美しい娘さんが、手拭と扇子とをもつて、御詠歌に合して踊るのであります。此島には未だ、この拍子木も、踊もはいつて来て居らぬやうでありますが、何れは遠からずしてやつて来る事でせう。
 然し、島の人々の信心深い事は誠に驚き入るのでありまして、内地ではとても見る事が出来ますまい。祖先に対する厚い尊敬心と、仏に対する深い信仰心には敬服する次第であります。慥か、お盆の頃の事でしたが、庭の前の道を、「此のお花は盆のお墓にあげようと思つて此春から丹念に作つて居りましたが……」など云ひ交しながら通つて行く島人の声をきいて居まして、しんみりとさせられた事でした。

    鉦たたき

 私がこの島に来たのは未だ八月の半ば頃でありましたので、例の井師の句のなかにある「氷水でお別れ」をして京都を十時半の夜行でズーとやつて来たのです。
 ですから非常に暑くて、浴衣一枚すらも身体につけて居られない位でした、島は到る処これ蝉声嘒々。
 しかし季節といふものは争はれないもので、それからだんだんと虫は啼き出す、月の色は冴えて来る、朝晩の風は白くなつて来ると云ふわけで、庵も追々と、正に秋の南郷庵らしくなつて参りましたのです。
 一体、庵のぐるりの庭で、草花とでも云へるものは、それは無暗と生えて居る実生の鶏頭、美しい葉鶏頭が二本、未だ咲きませぬが、之も十数株の菊、それと、白の一重の木槿が二本……裏と表とに一本宛あります、二本共高さ三四尺位で、各々十数個の花をつけて居ります、そして、朝風に開き、夕靄に蕾んで、長い間私をなぐさめてくれて居ります。まあこれ位なものでありませう。あとは全部雑草、殊に西側山よりの方は、名も知れぬ色々の草が一面に山へかけて生ひ繁つて居ります。然し、よく注意して見ると、これ等雑草の中にもホチホチ小さな空色の花が無数に咲いて居ります、島の人は之を、かまぐさ、とか、とりぐさ、とか呼んで店ります。
 丁度小鳥の頭のやうな恰好をして居るからださうです、紺碧の空色の小さい花びらをたった二まい宛開いたまんま、数知れず、黙りこくつて咲いて居ます。私だちも草花であります、よく見て下さい──と云つた風に。
 かう云ふ有様ですから、追々と涼しくなつて来るといつしよに、所謂、虫声喞々。あたりがごく静かですから昼間でも啼いて居ます、雨のしとしと降る日でも啼いて居ります。ですから夜分になつて一層あたりがしんかんとして来ると、それは賑かな事であります。私は朝早く起きることが好きでありました、五時には毎朝起きて居りますし、どうかすると、四時頃、まだ暗いうちから起き出して来て、例の一本の柱に上によりかゝつて、朝がだんだんと明けて来るのを喜んで見て居るのであります。さう云つた風ですから、夜寝るのは自然早いのです。暮れて来ると直ぐに蚊帳を吊つて床の中には入つてしまひます、殆んど今迄ランプをつけた事が無い、これは一つは、私の大敵である蚊群を恐れる事にもよるのですけれども、まづ、暗くなれば、蚊帳のなかにはいつて居るのが原則であります、そして布団の上で、ボンヤリして居たり、腹をへらしたりして居ります。ですから自然、夜は虫鳴く声のなかに浸り込んで聞くともなしに聞いて居るときが多いのであります。ヂツとして聞いて居ますと、それは色々様々な虫が鳴きます、遠くからも、近くからも、上からも、下からも、或は風の音の如く、又波の叫びの如く──。その中に一人で横になつて居るのでありますから、まるで、野原の草のなかにでも寝てゐるやうな気持がするのであります、斯様にして一人安らかな眠のなかに、いつとは無しに落ち込んで行くのであります。其時なのです、フト鉦叩きがないてるのを聞き出したのは──。
 鉦叩きと云ふ虫の名は古くから知つて居ますが、其姿は実の処私は未だ見た事がないのです、どの位の大きさで、どんな色合をして、どんな恰好をして居るのか、チツトも知りもしない癖で居て、其のなく声を知つてるだけで、心を牽かれるのであります。此の鉦叩きといふ虫のことについては、かつて、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られたやうに思ふのですが、只今、チツトも記憶して居りません。只、同氏が、大変この虫の啼く声を賞揚して居られたと云ふ事は決して間違ひありません。東京の郊外にも──渋谷辺にも──ちよい/\居るのですから、御承知の方も多いであらうと思はれますが、あの、カーン、カーン、カーンと云ふ啼き声が、何とも云ふに云はれない淋しい気持をひき起してくれるのです。それは他の虫等のやうに、其声には、色もなければ、艶もない、勿論、力も無いのです、それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の声々と少しも混雑することなしに、只、カーン、カーン、カーン………如何にも淋しい、如何にも力の無い声で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものを持つて居るのです。そのカーン、カーンと云ふ声は、大低十五六遍から、二十二三遍位くり返すやうです、中には、八十遍以上も啼いたのを数へた…寝ながら数へた事がありましたが、まあこんなのは例外です、そして此虫は、一ケ所に決してたくさんは居らぬやうであります、大低多いときで三疋か四疋位、時にはたつた一疋でないて居る場合──多くの虫等の中に交って──を幾度も知つて居るのであります。
 瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーンと云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。どう考へて見ても、この声は、地の底、四五尺の処から響いて来るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の声では無い、……、坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黒い衣をきて、たつた一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、静かに、……鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、仏から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない……只而し、秋の空のやうに青く澄み切つた小さな眼を持つて居る小坊主……私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。
 其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雑草のなかに居たのであります。私は最初その声を聞きつけた時に、ハツと思ひました、あゝ、居てくれたか、居てくれたのか……それもこの頃では秋益々闌けて、朝晩の風は冷え性の私に寒いくらゐ、時折、夜中の枕に聞こえて来るその声も、これ恐らくは夢でありませう。


 土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります、島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。今でも絵はがきで見ますと、其の当時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で残つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆んど石から出来上つて居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立って居るかなり高い山の頂上には──それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない──実になんとも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合つて、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの、耶馬渓よりも、と称せられて居る寒霞渓を、其の岩石を、懐深く大切に愛撫して居ることを──。
 私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのでああります、而も岩山であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。
 話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の径、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません、否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行って黙って居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない、反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの。風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。処が、石に至ってはどうでせう、雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。
 私は屡々、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころを産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覽なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云つたやうなものがあります、その道の方では、これをくろたまと云つて居ります。ですから、木と同様、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな……とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑気に遊んで居るときはよいのですが、一度吾々の手にかゝつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思って、三寸から四寸位も削りとつて見るのですが、中はもうボロボロで、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまつて居るのですな、決局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々軽くなつて居るかも知れませんな…とか、かう云ったやうな話は、ザラに聞く事が出来るのであります。石よ、石よ、どんな小さな石ツころでも生きてピンピンして居る、その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。
 庵は町の一番とつぱしの、一寸小高い処に立つて居りまして、海からやつて来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります、庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます、そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。そして、どれも、これも、皆勿体ない程立派な石塔であります、申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです、そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります、墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆んど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません、只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります、地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、私のなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを──。


 市中甚遠からねば、杖頭に銭をかけて物を買ふ足の労を要せず、而も、市中又甚近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳静なり、それ、巣居して風を知り、穴居して雨を知る……
 かう書き出しますると、まるで、鶉衣にある文句のやうで、すつかり浮世離れをして居る人間のやうに思はれるのですが、其の実はこれ、俗中の俗、窃に死ぬ迄の大俗を自分だけでは覚悟して居るのであります。が然し、庵の場所は全く申し分なしで、只今申上た通り、市中を去る事余り遠くもなく、さりとて又近過ぎもせず、勿論、巣居であり、穴居でありますが、俗物にとつては甚以て都合の宜しい位置に建つて居るのであります。巣と申せば鳥に非ずとも必ず風を聯想しますし、穴と申せば虫に非ずとも必ず雨を思ひ起します、入庵以来日未だ浅い故に、島の人々との間の交渉が、自らすくなからざるを得ないから、自然、毎日朝から庵のなかにたつた一人切りで座つて居る日が多いのであります。独居、無言、門外不出……他との交渉が少いだけそれだけに、庵そのものと私との間には、日一日と親交の度を加へて参ります。一本の柱に打ち込んである釘、一介の畳の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出来ませんのです。
 今暫くしますれば、庵と私と云ふものとが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参ることゝ信じて居ります。只今は正に晩秋の庵……誠によい時節であります、毎朝五時頃、まだウス暗いうちから一人で起き出して来て…庵にはたつた一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります……東側の小さい窓と、西側の障子五枚とをカラリとあけてしまつて、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します、そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。この頃になると電気が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、旭日の登る準備を始めて居ります、其の雲の色の美しさ、未だ町の方は実に静かなもので、何もかも寝込んで居るらしい、たゞ海岸の方で時折漁師の声がきこえてくる位なもの──。これが私のお天気の日に於ける毎日のきまつた仕事であります、全く此頃お天気の日の庵の朝、晩秋の夜明の気持は何とも譬へやうがありません。若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別様な面白味があるのであります。島は一体風の大変よく吹く処で、殊に庵は海に近く少し小高い処に立つて居るものですから、其の風のアテ方は中々ひどいのです。此辺は余り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります、それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります、一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の真ツ赤な色ではないのです、之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます、実になんとも形容出来ない程美しいことは美くしいのだけれども、その真ツ赤の色の中に、破壊とか、危惧とか云つた心持の光りをタツプリと含んで、如何にも静かに、又如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、…間も無くそろそろ吹き始めて来ます、庵の屋根の上には例の大松がかぶさつて居るのですから、之がまつ先きに風と共鳴を始めるのです、悲鳴するが如く痛罵するが如く、又怒号するが如く、其の騒ぎは並大抵の音ぢやありません。庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居る切りなのですから、だんだん風がひどくなつて来ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切つてしまひます、それでおしまひ。外に閉める処が無いのです。ですから、部屋のなかはウス暗くなつて、只西側の明りをたよりに座つて居るより外致し方がありません。こんな日にはお遍路さんも中々参りません、墓へ行く道を通る人も勿論ありません。風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで来るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで参ります。庵は余り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します、大松独り威勢よく風と戦つて居ります。夜分なんか寝て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶつかつて其の儘押し上げるものと見えまして、寝て居る身体が寝床ごといつしよにスーと上に浮きあがづて行くやうな気持がする事は度々のことであります、風の威力は実にえらいものであります。私の学生時代の友人にK……今は東京で弁護士をやつて居ります……と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい、本郷のある下宿屋に二人で居ました時なんかでも、夜中に少々風が吹き出して来て、ミシ/\そこらで音がし始めると、とても一人でじつとして自分の部屋に居る事が出来ないのです。それで必ず煙草をもつて私の部屋にやつて来るのです、そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸つたりしてゴマ化して置くのですね。私も最初のうちは気が付きませんでしたが、とう/\終ひに露見したと云ふわけです、あんなに風の音を怖がる男は、メツタに私は知りません、それは見て居ると滑稽な程なのです。処が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始つたのです。それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由来、高い処にあがるのが怖いのです、それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、断崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデングの頂上の欄干もなにもないその一角に立つて垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです、そんな処に長く立つて居ようものなら、身体全体が真ツ逆様に下に吸ひ込まれさうな気持になるのです、イヤ、事実私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません、と申すのは、さう云ふ高い処から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。処が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平気の平左衛門なのです、例へば浅草の十二階……只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意気地無し奴がと云ふやうな顔付をして私を苦しめるのです。丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。浅草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乗せて、それを下からスル/\とあげて、高い空からあたりを見物させる事をやつたことがあります。処がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乗者で、そして大に痛快がつて居るといふ有様なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全体、此島は雨の少い土地らしいのです、ですから時々雨になると大変にシンミリした気持になつて、座つて居ることが出来ます。しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍らしいのでした。そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも来ず、一日中昼間は手紙を書くとか、写経をするとか、読経をするとかして暮します、雨が夜に入りますと、益々しつとりした気分になつて参ります。


 庵のなかにともつて居る夜の明りと申せば、仏さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであつたのですが、お地蔵さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。一に西光寺さんの御親切の賜であります、入庵以来幾月もたゝないのですが、どの位西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に浴しました事か解りません、具体的には少々楽屋落ちになりますから、これは避けさせていたゞきます……それだけの明りがある丈であります、扨、庵の外の灯ですが、之が又数へる程しか見えないのであります。北の方五六町距つた処の小さい丘の上にカナ仏さまがあります……矢張りお大師さまで……其上に一つの小さい電燈がともつて居ります。それから西の方は遥か十町ばかり離れて町家の灯が低く一つ見えます、東側には海を越えた島の山の中腹に、ポツチリ一つ見えます、多分お寺かお堂らしいですが、以上申上た三つの灯を、而もどれも遥かの先に見得る丈であります、しぜん、庵のぐるりはいつも真ツ暗と申してさし支へありますまい。イヤ、お墓を残して居りました。庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリと一つ二つ灯が見えることがあります。之は、新仏のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです。「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリとして山の上に灯つて居ります。私は、こんな淋しい処に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりやなんです、それで夜淋しくなつて来ると、雨が降つて居なければ、障子をあけて外に出て、このたつた三つしかない灯を、遥の遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがつて居るのであります。墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれ共さうさうは贅沢も云へない事です。庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。例の、昼間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大変便利であります。何が幸になるものか解りませんね、後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。
 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深酷な感じを忘れる事が出来ません、此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものゝ様子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ケ谷にあります、紅葉の名所で有名な永観堂から七八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツンと一軒立つて居ります、それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります、いつぞや北朗さんとお二人で (一文字抜け)にお尋ねにあづかつた事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります、用水は山水、之が竹の樋を伝つて来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は、毎日、去る者あり、来るものありといふのでした、在園者は実によく変ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日新嘗祭の日を卜して園にとび込みました。私は満洲に居りました時、二回も左側湿性肋膜炎をやりました、何しろ零度以下四十度なんと云ふ事もあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません、其時治療してもらつた満鉄病院々長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると…と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなつて居るのであります。満洲からの帰途、長崎に立ち寄りました、あそこは随分大きなお寺がたくさん有る処でありまして、耶教撲滅の意味で威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです、何しろ長崎の町は周囲の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません.そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした、そこで機縁が一燈園と出来上つたと云ふわけであります。長崎から全く無一文、裸一貫となつて園にとび込みました時の勇気と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。何しろ、此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる位なら早くくたばつてしまへ、せめて幾分でも懴悔の生活をなし、少しの社会奉仕の仕事でも出来て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。殊に京都の酷寒の時期をわざ/\選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。
 京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツ風のやうなものぢやありません、そして鹿ケ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。一体、園には、春から夏にかけては入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウンと減つてしまひます、いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ、何しろ死ねば死ねの決心ですから、怖い事はなんにもありません、園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトーでありますから、園では朝から一飯もたべません、朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります、禅が根底になつて居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者はお光り、お光り、お光りを見る、と申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ、以前、耶教徒の在園者が多かつたときは、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやつたものださうです、それも、オルガンを入れてブーカ/゛\やり、一方では又、仏党の人々が木魚をポク/\叩いて読経したのだと申しますから、随分、変珍奇であつたであらうと思はれます。現在では皆読経に一致して居ります、読経がすむと六時から六時半になります、それから皆てく/\各自その日の托鉢先き(働き先き)に出かけて行くのです。園から電車の乗り場まで約半里はあります、そこからまづ京都の町らしくなるのですが、園の者は二里でも三里でも大抵の処は皆歩いて行く事になつて居ります──と申すのは無一文なんですから。先方に参りまして、まづ朝飯をいたゞく、それから一日仕事をして、夕飯をいたゞいて帰園します。帰園してから又一時間程読経、それから寝ることになります。何しろこ一日中くたびれ果てゝ居ることゝて読経がすむと、手紙書く用事もなにもあつたもんぢやない、煎餅のやうな布団にくるまつて其儘寝てしまふのです。園にはどんな寒中でも火鉢一つあつた事なし、夜寝るのにも只障子をしめるだけで雨戸は無いのですから、それはスツパリしたものです。
 扨、私が灯火に対して忘れる事の出来ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して来て、遥か山の下の方に、まだ寝込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮闘に疲れ果てゝ今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、数千万の白たゝけた京都の町々の灯を眺めて立つて居る時と、夜分まつ暗に暮れてしまつてから、其日の仕事にへト/\に疲労し切つた足を引きづつて、ポツリ/\暗の中の山路を園に戻つて来る時、処々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遥か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歓楽の都……京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他数万の灯火の生き/\した、誇りがましい輝かさを眺めて立つて居た時の事なのです。此時の私の心持なのであります。此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツとして居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです、灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/゛\感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
 次に、この毎日の仕事……園では托鉢と申して居ります……之が実に雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモットの代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません、これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日/\やつて居ります間に、大に私のためになることを一つ覚えたのであります。それはかう云ふ事です、百万長者の家庭には入つて見ても、カラ/\の貧乏人の家庭には入つて行って見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云つた風なことなのです、ですから万事思ふまゝになつて、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無いと云ふ事でありました。仏力は広大であります、到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとほうり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやつて来たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら気の方は慥であつても、筋肉・体力の方が承知を致しません、無理は出来ない、力は無くなつて居る、園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニ若い者に負けるものかと云ふ元気でやつて居つたものゝ、到底長続きがしないのです。ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の青年がよろしいやうです、又実際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません、居つても続きません。私は入園した当時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです、こんな若い年をして、何処に人生に対し、又は宗教に対して疑念なんかを抱くことが出来るであらう?…而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます、年輩者には駄目です。天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない、あの園が、二十年の歴史を持つて居ると云ふ点だけ考へて見ても解る事です、そして、智能の尤すぐれた人であります。茲に一つの挿話を書いて置きませう、或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタは俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、えゝさうです。どうです。一日に百句位作れますか? さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であつたのであります、園で俳句をやつて居る人々もあるやうでしたが、大抵、ホトトギス派のやうに見受けました。
 いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタ/\して来ましたから、此の入庵雑記もひとまづ此辺で打ち切らしていたゞかうと思ひます。筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません、次に西光寺住職、杉本師に対しまして、之又御礼の言葉も無い次第であります。杉本師は、同人としては玄々子と称して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相対座して御話して居ると、全く春風に頬を撫でられて居るやうな心持になるのであります、此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。同人、井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として、此際、遠慮して置きます。扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。南無阿弥陀仏。(十四年、十一月五日)


   書簡
放哉の書簡はきはめて多し、たま/\編者の手許に残りをりしものの中より、選択して≡十六編を収む、他の友人に送りしものは「層雲」誌上に発表せり。

(十四年三月廿三日、神戸市兵庫永沢町、後藤氏方より)

 荻原様       二十三日             尾崎生
 今日ハ相済マヌ事申上ゲマスガ御許シ下サイマセ、私ハ厄年ノセイカ、未ダ「業」ガ尽キヌノカ、スマ寺デ大分落付キカケテ居タ処、約三ケ月前カラ、ボツ/\エライ問題ガオキテ来マシタ、簡単ニ申セバ、只今ノ「インゲン様」ト云フ本尊ヲ、隠居サセテ、他ニ、三人ノ住職ガ居リマスガ、之ガ会計カラ、何カラ全部、自分ノ権利中ニオサメルト云フ事ナノデス、目下スマ寺内ニ、使用人卜云ツタ様ナモノ約二十人程アルノデスガ、之等ノ連中ガ、双方ニ分レテ、イロ/\暗闘ガオキタノデス、御察シ下サイ、問題ハ益々紛々然トシテ、檀家総代十何人ト云フモノ、辞職スルト云フサワギ、一人超然トシテ居タノデスガ、「インゲンサン」側ノ役僧卜云フ人ト、少シ仲ヨクシテ居タタメ、ドウヤラ、「インゲンサン」側卜見ラレテ居ルラシイ──ウルサイ世ノ中デスネ。
 扨、問題ハ益々、紛糾シテ、ドウトモ出来ナクナリ、茲ニ或ル有力者ガアラハレテ、日下、鋭意、解決中ナノデス、近イ内ニハキマルラシイ、只、私ハ、当分其ノ有力者ノ親類ノ表記ノ宅ニ御厄介ニナツテヰマス、問題片付ケバ、帰寺シテ、大師堂カ或ハ奥ノ院ノ番人トナル筈ダサウデス、一時ハ全部二十何人ヲ、解雇スルト迄ナツテ居タノデスガ、目下、ゴタ/\シテヰマス。
 役僧ハ、其ノ有力者ノ家ニ泊ツテ居マス、──全部私ガ引受ケルカラト云フノデ、──
 扨、茲ニ来テ已ニ一週間ニナリマス、困ルノハオ小遣──無一文生活ハオ寺デナクテハ出来マセン、ナントカ、カントカシテ来マシタガ、トウ/\堪へキレナクナツテ、御願ヒシマス、五円デモ、十円デモヨイカラ、此ノヤムナキ場合ヲ御助ケ下サイマセンカ、待ツテ居マス。
 コンナ事、オ願ヒスル事ハ、最早将来ナイ考デ居リマス、ドウカ頼ミマス、アト五六日モスレバ帰山出来ルト思ヒマスガ──
 兎ニ角、一応帰山シテ、ソレカラ又、ウルサケレバ、自分カラ、ドツカ、オ寺ヲサガシテ、出ヨウカト思ツテ居リマスガ、只今ノ処デハ、兎ニ角「有力者」ノ人ニ対シ、一度ハ帰山セナケレバ其ノ人ノ顔モ立タヌワケデアリマス。
 ウルサイ事デスネ、ドウシテ、カウ、私ハ行ク処落チ付ケナイ事件ガ生ジテ来ルノデセウカ?ナサケナクナリママス。
 一燈園モ、ダメデス、古イ人々ハ大抵出テシマツタサウデス(中略)私ハ矢張リ、オ寺カラオ寺ト落チ付キ処ヲ求メテ、漂浪シテ歩ク事デセウ、矢張オ寺ガヨイト思ヒマス。
 コンナ事デ、二三ケ月前カラ、俳句モ作ル気ニナラズ、何モシタクアリマセン、オ許シ下サイ、此ノ時期ヲ経過シタラ大ニ勉強シマス。
 此ノ家ニ居ル間ノ、オ小遣ノ件、出来レバ五円ヨリ十円送ツテ下サレバ有難イ事デス、オ風呂ニ行ク金モナイノデ困ツテ居マス、事情ヲブチアケテ、御願ヒシテ、一日モ早ク待ツテ居マス。イヤナ手紙、内容故、読ミ返シモセズニ出シマス。 ○御返事来ル迄、此ノオ宅デ待ツテ居リマス、何卒御願申シマス。
二  (四月二十九日、京都洛東、一燈園より)
 荻原様       二十九日            放哉生
 拝啓、本日、層雲着、御礼申上候、京都は毎日/\雨にて寒いのに閉口致居り申候。
 天香氏、未だ四国より帰らず、帰れば、一寸、ヤヽコシイと思居候、神戸より通信未だなし、ダマサレタノカナ?
 水だきのゴチ走の御礼。帰ツテ、園のマツ黒イ麦めしニ、コーコデ、オ茶カケテ、かきこむ位ノ昨今ニ有之候。
 アンタノ家ヲ京都ニたてる件如何、是非御実行ヲ乞フ、勿論小生、留守番、掃除番、台所番として。御一考ヲ乞フ。
 今日ハ、御礼申し上げたくて。敬具。
三  (五月十二日、一燈園より) (葉書)
 啓 おハガキ、拝受、近々御帰洛の由、其後例の、仲裁人から又ハガキが来て、自分から通知する迄は、小生が直接オ寺に帰られては困る故、今少し、待つてくれと申して来ました、小生は大和尚の方の味方と見られて(法学士の参謀として……全く、いゝ迷惑なこつてすね……私が今少し、野心があれば、大に面白い芝居が打てる処ですがね)、三住職から、大に睨まれてるのださうだから、小生が、仲人ヌキでズツトお寺に帰ると、具合がわるいさうです、全く、イヤになつてしまふ。【一】
四  (五月十二日、一燈園より) (葉書)
 処で、表記のオ寺、若狭国小浜町浅間常高寺(禅寺ださうです)に人がいるさう故、兎に角当分、ソコに居る考で、一両日中に出発します。御手紙下さい……少し落ち付いて俳句が生れて来る気持を養ひたい、今の気持ではどうにもならん、(中略)アナタには大抵、コンドはお眼にかゝれないで、表記のオ寺に行つてしまふ事と思ひます……手紙を下さい、サヨナラ。【二】
五  (若狭小浜、常高寺より)
 井さま       十七日            放生
啓 京都ニ御出ノ事ト思ヒマス、旅ノ御疲労ハ出マセンカ。
 今日ハ、余リ可笑シイカラ、オ寺ノ様子ヲ、一寸書イテ見マセウ、此ノ寺ノ和尚サンハ、例ノ天下道場、伊深デ修業シタ人、機鋒中々鋭イガ只、覇気余リアリト云フ訳カ、少々、ヤリスギタンデスネ、ソレカラ、坊サントイフ者ハ、通ジテ実ニ細カイ、「モツタイナイ」ヲ通リコシテ、「リンシヨク」ト云フ方ニ、ナリカケノモノデスネ。
 茲モ御多分ニ洩レズ、米カラ、炭カラ、味噌カラ、ソノ使ヒ方至レリ尽セリ、シカモ例ノ百丈和尚ノ「一日為サヾレバ一日喰ハズ」ヲ毎日、二三遍位宛、聞カサレルノダカラ実ニ耳ガ痛クナル。
 朝ハ、四時起ト、五時起トノ時ガアリマス、四時ハ中々コタヘル、ソレデ、台所一切、オ使カラ、庭ノ草トリ、全部ヤルノデスガ、少シ、火鉢ノソバニ坐ハツテルト、気持ハ悪イラシイ、シカシ、サウ/\モ出来ンカラ、気持悪イノハ知ツテ居ルケレ共、火鉢ノソバニ坐ツテ居テ、時々皮肉ヲ云ツテヤリマス、禅宗ダケニ、話トナルト、中々面白イ処ガアリマス、今年五十八才ノ和尚ナレ共、足ガ痛クテ先ヅチンバ也、座敷中ヲ杖ヲツイテ歩キマス、チンバデモ、一人前ノ仕事ヲ、コチ/\ヤリマス、全ク、ヨク身体ガ動クニ、感心シテ居マス、アレデ、足ガ完全ダツタラドノ位、身体ヲ動カスノカト思フ。
 コノ寺ハ、板ノ間ガ非常ニ広イノデ、四ツン這ニナツテ、フクノデ、大体ガツカリシテシマヒマスヨ……
 扨、以上ノ事ハ、何デモナイ事也、茲ニ困ツタ事ハ、一寸以前ニ申上ゲタ事ガアルト思フガ、余リ、ヤリスギタノト、横暴ナノトデ、末寺(十ケ所バカリアリマス、此オ寺ハ中本山)ノ和尚連中全部カラ、反対サレテ、末寺ヲ離レルト云フ事ヲ申出シ、ソレカラシテ、寺ノ什器ガ無クナツテシマツテルトカ、ソノ他、金銭上、イロンナ関係デ、本山(妙心寺)ニ申出シ、遂ニ和尚ハ、本春、住職ノ名義ヲトラレテシマツテ、末寺ノ某寺ノ和尚ガ、兼務住職トナリマシタ。
 デスカラ、此ノ和尚ハ、今ハ、居候ノ様ナモノ、末寺ノ連中デハ、早クオ寺ヲ出テシマツテクレト待ツテ居ル、処ガ和尚ハ、例ノガマンデ(二ケ年スレバ、住職ニ復スル明文ガアルトノ事デス)コノ寺ヲ出ナイト、ガンバツテ居ルト云フ処……小生、コンナ事ハ少シモ知ラズニ来タ、妙ナコツテスネ……デスカラ、末寺ノ某僧ナドハ『アナタハ、エライ処ニ来マシタ、トテモ、アノ坊サンデハツトマラン、早ク京都ニ帰ンナサツタ方ガヨイ』トカ、『オ米ハマダアリマスカ』トカ、キク人モアルト云フ有様……オ察シ下サイ。
 ソレモ未ダヨシトシテ、困ツタ事ハ、和尚ニ収入ガ少シモ、ナクナツタ事也、イロ/\研究シテ見ルト日常ノ小遣、買物ニ対スル代金全部ヲ、先月モ先々月モ、一文モ払ツテ居ナイ、ソノ為ゾロ/\催促ニ来ル……小生ガ、コレヲ、コトワリヲシテ退去セシメル役……此ノ間ノ支払ノトキハ、妙策一番、玄関ノ戸ニ「支払ハ二十日ニシテ下サイ」ト、大キク張リ出シタモンデス、(カウナツテ来ルト、寧ロ面白イ)扨コノ二十日ニ払ヘルヤラ払へヌヤラ、今ノ処、雲煙漠々タリ。多分、払へヌ方デセウ、其ノ時和尚、如何ナル妙案ヲ出スカ、今カラ、タノシミデ見テ居マス………ト云フノハ、ヨク/\困ツテ、此ノ間、和尚ノ命ヲ奉ジテ、「軸」ヲ百本バカリ(ツマラヌモノバカリ)小生、某所ニ、カツイデ行キマシタ……イヤ、ソノ重タイ事/\……処ガ、ドウモ、之ガ、オ金ニナラン、或ハ又、和尚ガ、タテマシタ新家ヲ、担保ニシテ、オ金ヲカリルベク、役所ニ登記ノ事デ、小生ガ、数回行ツタガ、檀家、本山ノ承諾ナキ故トテ、之モペケ……ギリ/\ニナツテ来テ居マス、ソレニ、他ニ大口ノ借金ガアツテ、此ノ利子ヲ、サイソクニ来テルノモ有ル、トテモ、面白イ……。
 ソコデ、毎日ノタベ物ヲ、御ラン下サイ、米ハ、壺ニマダ半分程アリマス、味噌モ、桶ニ半分程アル、炭ハ俵ニ三分一程アル、………コレ丈ナリ……何ニモ買ハン(買ヘナイノダカラ)。
 オカヅハ、大豆ノ残ツテルノヲ毎日煮テ喰フ、味噌汁ノ中ニハ裏ノ畑カラ、三ツ葉ト、タケノコ(今ハ真竹デス)ヲ毎日トツテ来テアク出シテ、之レヲ、味噌汁ニ入レテ煮テ喰フ外ニハナンニモ、買ハン──
 小生、オ寺ニ来テ以来、毎日/\同ジ事ヲ、クリカヘシテ居ル、実ニ、シンプルライフ。
 アンマリ毎日、筍(カタクナツテ居マス、時ハヅレダカラ)ヲ喰フノデ、腹ノ中ニ、「籔」ガ出来ヤシナイカト、心配シマス、呵々、ソレト、大豆ヲ毎日/\煮テ喰フノデ、鳩ポツポノ様ダ、時々和命ニ「和尚サン、コノ豆ハ鳩ガ好キデスネ」ト、皮肉ヲ云ツテミルト、「サウヂヤ/\鳩ノ好物ヂヤ」ト、スマシテヰル。
 何シロ、エライ面白イ様ナ、ナサケナイ様ナ事ヂヤト思ヒマス。
 今度ノ私ノ俳句ニ「筍」ノ句ガ大分アリマスガ、ソノ「筍」ハ、右ノ事情ノ「筍」故オ察シ下サイ、竪クテ、味モナンニモナイ……
 扨、以上、コレ等ノ、オサマリガ、ドウケリガツクノカ、オ米モ大分、無クナツテ来タカラ、近イウチニ又『局面』ガ一転回スル事ト思ヒマス……其時又、御報シマス。
六  〔八月一日、京都三哲、竜岸寺より) (葉書)
○淋シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ。
○近所ノ子供ニ読書ヤ英語デモ教へテ、タバコ代位モラヒタイ。
〇小サイ庵デヨイ。
○ソレカラ、スグ、ソバニ海ガアルト、尤ヨイ』済ミマセンガ、タノミマス、今、十二時ヲ打ツタ処、朝五時カラ、身体ノウゴキ通シテ、手足ガ痛ミマス、ヤリキレ申サズ候』
 第二信  コレカラ寝マス。
七  (八月十三日、小豆島、渕崎村、井上一二氏方より)
 啓、一二氏健在に有之侯、一二氏よりの電報及手紙御覧下されし事と存申侯、扨、色々の御事情の為御厚意ありながら一寸早い事には行かぬわけに有之候、その為、出発前御相談申上候通り、台湾行ときめ申候、最近出航十八日故、ソレニテ、所謂台湾落ときめ申侯、旅費三十五円、後援会基金(一二氏に大いにひやかされ候)中よリ御郵送御願申上候、ソレ迄、一二氏宅にゴロ/\して居るつもりなれ共、其間に一二氏の好意にてどつかよい処をあたつて見てやるとの御親切に有之候、但、かゝる事は急いではダメの事故、兎に角台湾行ときめ申候、サレド右の御願、北朗氏とも御相談下され、御郵送御たのみ申上候、一二氏宅にて作句して遊ばしていたゞいて居る間が極楽と存じ申候。
 ソレデハ御大切に、マタ、イツあへるやら、御達者を念じ申候、猶御願。
台湾行とイツシヨに、セツタ(船に乗るに便利故)と、アンタの、フダンの浴衣一枚御送り下され度候(ムギワラ帽はコチラで買ひます)れうちやんによろしく御礼申上候。
 此手紙一二氏へ御覧を願ひし上差出し申候 敬具。
 荻原様 榻下    十三日               尾崎生
    展墓の約はたします。
八  (八月三十日、小豆島西光寺奥院南郷院より)
 井様                           放哉生
 今日の手紙ハ「秘中の秘」といふ手紙……ソレハ、カウ云フワケ也……一日、井上氏が、ヒヨツトヤツテ来テ、実ハ、其後、西光寺サンニ聞イテ見ルト、此庵ノ来春三四月迄ノ収入ハ、全部デ百円程也、其中カラ、原価四五十円ヲ差引クト、残リハ五拾円程也、ソレデ一年ヲヤツテ行カネバナラントノ話、ソレデハ、トテモ出来ナイ、今迄居タ人ハ、葬式ガアレバ其処ニ行ツテ手伝ツテ、晩めしヲ喰ツテ来ルト云フ様ナ風ニヤツテ居タノデ出来タサウダガ、私ニハトテモ、ソレハ出来ヌ事ダシ、大イニ困ツタ……トノ事、之ニハ小生モ実ニ困リ入リ、驚キ入リ、折角死場所ヲ得タト思ツテ喜ンデ居タ処へ、マルデ、不意ニ、九天直下ニ落サレタ様ナ気ガシテ、例ノスコヤケノ気ニナリ、矢ツ張リ台湾落デノタレ死ヲスルカ、ト、ヤケナ態度ニ出カケタレ共、大イニ考ヘテ、○芋ノオ粥デモタベテ行ケバ五拾円デモヤレヌ事ハアルマイ○夜分デモ、小供ニ英語ヤ其他教へテモ、小遣位ハアガルデアラウ○其他西光寺サンハ、アト、二三ケ月スレバ、他ニ一軒ノ庵ガアク、之ハ、悠々一年喰ツテ行ケル米ガアガルト云フ話ヲキイタ事ガアル……以上三方法ノ中、ドレカトレバ、ヤツテ行ケヌ事ハアルマイト井上氏ニ相だんセシ処、井上氏ハ、ドレモ余リさん成セヌラシイ、ソシテ、一度、所用旁、京都ニ出テ、アンタにも相だんし、或ハアンタニ此島ニ来テモラツテ、西光寺サント、アンタと、井上氏と三人で相談シタラ、名案ガ出ルヤモ知ラヌトノ事、私が云ふのニ、ソレハ井師とても、困りはしないか、別ニ名案ハアルマイと思ふが、ソレヨリ、アナタガ西光寺サンニ、ゴエンリヨなすつて居る様子ダが、私が西光寺サンニ直接ブツカツテ、腹蔵ナイ処ヲキイタ方がヨクハナイカト云ツタ処が、井上氏ハ、ソレハヨカラウトノ事デ、西光寺サンニ私がアツテ話シテ見タ処が、西光寺サンハドウ云フモノカ、大イニ私ヲヒゴシテ、ソレハ井上氏ノ御心配ニハ及バヌ、私が、ナントカシマス、ソシテ、二三ケ月スレバ出来ル庵、(一年分クヘル庵)ニ入レテアゲテモヨイシ、兎ニ角、私ニ一任シテオイテ下サレバ、ナントカシマス、但、私ガ井上氏ヲサシオイテ、アナタヲ保護スルト云フ事ハ、出スギカモ知レヌ故、私ガアナタを万事世話シテアゲルと云ふ事ハ、井上氏ニハ極内密ニシテオイテ下サイトノ事ニて、全く誠意カラ出テヰル言葉デ、大イニ感泣シマシタ……ドウカ、アナタカラ此点ニ関シ、西光寺サンニ、特ニ御礼状出シテ下サイマシ……アナタニハ此事ヲ申シテヤルト、西光寺サンニ話シテオキマシタカラ……(中略)ドウヤラ、私モ、又、ヤケヲ起サナイデモ、朝カラ、木魚ヲ叩イテ、句作シテ居レバヨササウデス、御安心下サイマセ……シカシ、一時ハ全ク途方ニ暮レマシタノデス、私ノ「業」ガマダツキナイノカト、実際、又、流転ノ旅ニ出ルノカト、泣キマシタ、シカシ、右様ナ事トナリマシタ故、トニ角、此島デ死ナシテ貰へル事ニナルラシイノデス、処デ西光寺サンニ、其辺ノ御礼状、何卒々々御タノミ申シマス。(下略)
九  (九月二日、南郷庵より)
  井 様      二日              放生
 啓、今日ハ二日、和倉カラノハガキイタヾキマシタ故、日程ノ予定通リ茲一両日中ニハ御入洛ノ事ト思ヒマス」扨テ、色々変ツタ事ヲ申シ上ゲテ、又、放哉がダマサレタカナナド、狐ニツマヽレタ様ナ処ガアリハシナイカト思フカラ、其後ノ情報ヲ一寸申上マス」西光寺サンハ、前便申上タ通リ「アナタノスキナ時迄、御出下サイ、失礼ダガ、金銭上ノ少々ノ御助力ナラバ、御心配ナク申シテ下サイ、毎月、オ留守番(庵ノ)代トシテ差上ル事ハ、私ノ心持トシテ全ク自然的ニウレシイノデスカラ、遠慮シテ下サルナ(中略)大体、以上ノ如ク実ニナントモ、感泣ノ外ナシ……只、井上氏ハ「二タ月ヤ三月寝テ遊ンデ居タ処デ、自分ノ家カラ、米デモ、ナンデモ持ツテ来ルカラ、平気ニ静養ナサイ……何レ、オ盆ガスンデユツクリシテカラ、用件ヲカネ、一度入洛シテ、先生ニアツテ、名案ヲ出シテモラハウカ、又ハ島ニ一度来テモラツテ、西光寺サント私ト三人デ相談シタラ、名案ガ出ルカモシレン、マア、ソレ迄ハ、ユツクリ寝テ、静養シテ居タラヨイデセウ」……大略サウ云ツタ様ナ処……実ハ小生此ノ三年間、流転ノ旅ニスツカリツカレマシタ、ソレデ、安定ノ地ヲエタイ……(台湾ニ行ク考モ、モトハ茲カラ出タノデスガ)身心共ニ疲労シタノデス……処ガ、ハカラズ当地デ、妙ナ因縁カラ、ジツトシテ、安定シテ死ナレサウナ処ヲ得、大イニ喜ンダ次第デアリマス……『之デモウ外ニ動カナイデモ死ナレル』私ノ句ノ中ニモアリマスガ(昨日、東京ニ百句送リマシタ中)只今、私ノ考ノ中ニ残ツテ居ルモノハ只、「死」……之丈デアリマス、積極的ニ死ヲ求メルカ、消極的ニ、ヂツトシテ、安定シテ居テ死ノ到来ヲマツテ居ルカ……外ニハナンニモ無イ……ソレト関聯シテ、コヽ一週間程、私ハ自分ノ生活状態ヲ変更シテ見マシタ……ソレハ「米」ヲ焼イテオク事デス、ソレカラ「豆」ヲイツテ置キマス、ソレト、「塩」「ラツキヨ」「梅干」ノモラツタノガアリマス、ソレト「麦粉」「オ砂糖」……以上ダケシカ私ノ身体ノ中ニハイルモノハ一品モアリマセン、勿論、魚ナンカ少シモタベマセン……「焼米」「焼豆」ハ中々竪クテ、一日ニ少シシカタベラレマセン……ソシテ、番茶ノ煮出シタノト、前ノ井戸水トヲ、ガブ/\呑ム事デス、一日土瓶ニ四ハイ位呑ンデシマヒマス……腹ガヘツテ/\何ノ仕事モ出来マセン、立チ上レバ眼ガクラ/\トマヒマス、ソシテ妙ナ事ニハ、時々頭痛ガシマスネ……ツマリ、私ハ例ノ断食ヘノ中間ノ方法ヲトツテ見タノデス……果シテ、之デヤツテ行キウル自信ガツケバ、井上氏ニモ西光寺サンニモ、何ノ御心配ヲカケナクテモ、此儘、此ノ南郷庵主人トシテ、安定シテ、死ヌ事ガ出来ル……之ガ何ヨリノ希望ナノデス、今日デ、一週問位ニナリマスガ、ナントナク身体ノ調子ガヨクナツテ来テ、之ナラヤツテ行ケルカモ知レマセン、ソシタラ実ニ万歳デス……ソシテ、身体ガ衰弱シテ、自然、死期ヲ早メル事トナレバ、実ニ一挙両得ト云フワケデ、益々万歳デアリマス……(妙ナハナシダケレ共、小便ムヤミニ行クケレ共、大便ハ一向行キマセンネ)……未ダ申シ忘レマシタ、一度腹ガヘツテタマラヌノデ、西光寺サンカラ「ジヤガ芋」ヲモラツテ来テ、「三ツ」煮テ、塩ヲツケテ、一日タベマシタ、大イニ腹具合ガヨイデス、此島ハ「サツマ芋」ノ産地ノ由故、時々「芋」ヤ「大根」ヲ井上氏ヤ西光寺サンカラモラフ位ハ、ナンデモナイ事ト思ヒマス……此生活様式ガ、ホンモノニナツタラ、大イニ喜ンデ下サイ……未ダ一週間デスカラネ、但、ドウシテモ、ヤツテ見ル考、サウナレバ、ドナタニモ心配カケナイデスム……ソシテ、唯一ノ残ツテ居ル希望ノ「死」ヲ、最モ早ク、ソシテ、安住シテ、自然ニ、受入レル事ガ出来ル……ソシテ、只、ソレ迄句作ヲ生命トシマセウ、(ソレ迄トハ勿論、死ヌ迄デスヨ)今日ハ、オ盆ノ仏様ノブドウヲ少シタベマシタ、ウマイデスネ……ドウカ此ノ私ノ生活様式ガ成功スル様、心カラ念ジテ下サイマセ……何シロ、急ニヤラズニボツ/\ヤツテ行ク考デ有リマス……ソレデ、矢張リ、「後援会」ノ方ハ、前便ノ通リニ計画シテ下スツテ、御保管ヲ願ヒマス……ソシテ、井上氏ナリ、西光寺サンナリニ、ヤムナクオ借リシタオ金ノ支払(生活費、タバコ代、シヤツ代ト云ツタ様ナモノ)ニアテヽモラヒタイノデス、此間モ、私、二三人ニ「押シ付ケ」デハ無ク、願ヒ状出シテ見タ処ガ(同人ノ中デ)大分、「脈」モアル様子、ドウカ御願申シマス……但、此ノ私ノ「生活様式」ガ完全ニナレバ、……日ナラズシテ、其必要無キニ至ルヤモ知レマセンシ、又、例ノ「死」ガ到来スレバ、葬式代(国ノ兄姉デモ出シテクレマセウガ)ノ一部ニナツテシマフカモ知レマセン、マア笑談ハヌキニシテ、此上トモニ、御世話様ヲタノミマス、ソレカラ、甚申上兼ネル次第デスガ、例ノ大部分台湾行ノ考デ「浴衣一枚」キタキリ雀デトビ出シタモンデスカラ、時「秋冷」トナルト、シヤツナリ、ヅボンナリ「袷」位ホシイ、羽織ニハ、例ノ、常称院カラモラツタ「道行」ヲ着ル事トシマス、ソレデ、ソンナ物ノ費用トシテ、井上氏宛ニ送ツテイタヾイタ、三十五円ノ旅費ハ(此家ニハイルニツイテ、買ツタ、鍋トカ、ドビントカ、其他共)大部分ハ費消サレル事卜思フノデアリマス』只今ノ処、井上氏ノ処ニアル中カラ十円位、残シテオイテ、其以外ノ金デ「秋冷」ノ用意ヲシテ、扨此ノ九月カラ、新ラシイ「生活様式」ノ実行ニハイル考デ居ルノデス、否已ニ実行シテ居ルノデスガ……目下ハマダ、フラ/\シテ、大抵横臥シテ居ルノデス……其中ニハ必ズヤ元気ガ出テ来ルト思ツテ居リマス……
 ホントニ、今ノ簡易生活ガ(只今ノ様ニ、少シ大風ニ吹カレルト、スグ、ブチタホサレサウナ、ヒョロ/\デ無クテ、少シ腹ノ底カラノ元気ガ出テ来テ)……ホンモノニナツタラ、一ケ月ノ食費ハ、ホントニ、オ話シニモナラヌ程ノモノダラウト思ヒマス……ソシテ、悠然トシテタツタ一ツ残ツテ居ル、タノシミノ「死」ヲ、自然的ニ受入レタイト思フノデアリマス……ドウカ、成功スル様ニイノツテ下サイ。
一〇  (二十五日、南郷庵より)
 啓、小為替封入の御手紙本日着、例により感佩……扨一二氏御たづねした事と思ひます、シンミリお話し下すつた事と思ひます……何分共御たのみ申します……明日位、一二氏との御話合の手紙が来るだらう……と心待ちに待つて居ります、別段変つた事もありますまいけれ共……井児氏──色々申してくれるので──万事、井師一人と御相だん下さい、……只、井師の言葉が……即「実行」なんだからと申してやつた事です……なんか「品物」を送つて来てくれるのですか、相済まぬ事であります……「時々、衣類に不足なきや云々」……例により御気をつけ下すつて有難う御座います、何しろ、自分が寒くなる事故、大いに考へましてネ、呵々……大抵方法はついて居ります考(勿論、常称院の和尚からモラツタ……道行きを、羽織の代りに常用する考……妙な恰好の放哉坊が出来上りますよ、呵々)シカシ、ヒヨツとして……アンタの着古しの(綿入レ)をいたゞくかも知れぬが、之はマダ先の話し……只、例のシャツは「寒がり」の事とて、二枚位着ます故(一枚……ハ私の、今迄着テ居タ分を(ママ)送ラセマシタケレ共)モシ、之モ、着古しがあつたら、メリヤスシヤツの上下を、秋冬ヲ通ス分ヲ送ツテモラヒ得レバ……其外ニハナンニモ入りません(下略)
  井 さ ま      二十五日 放  生
一一 (二十七日、南郷庵より)
  井 さま       二十七日    秀生(東京宛第二回目ノ通信)
 啓、東京へ帰られると、いろんな用事がつめかけて居て、いそがしい事と思ひます、ソレで、簡単に書かうかと思つたが、アナタ丈には少し長くなつても書いて見ないと、私の気がどうも済まぬので、とう/\書いてしまひました、夜、寝る前にでも読んで見て下さい……二十五日京都出の御手紙只今拝見、只、何も申す事無し……おかげに有之候……どうなつて行くか、アナタの御言葉通りに、ヤツテ行きます、それが一番よい方法と思ひます。さてこれから少し書きたい事は、全く、ゴタクですが、まあよんで下さいな、決して弁解は致しません、事実を申しあげる、まあ、夜長の一興位なところで……(中略)第一、アンタ、そんなに豪遊(?)するオ金といふものがありません……(中略)例の「監獄」にでも這入らなければコノ自分のホンネの沈静と云ふものは出来ないか知らんナド、時々思つてみる私なんだから、ムシヤ、クシヤした時は、悪魔主義に激変する傾向が大いに有るのですからネ……(一二君は、コンナ事ハ知りますまいよ、只、ヤケ酒の、淋しいから呑む位な処でせう)……私としては、今少し深い根抵から自分の「行動」が出て来る様にうぬぼれて居ますが(ソンナ事ハドウデモヨイデス)マア、そんな事でアノ際アレ丈のオ金を、ミンナ呑んでしまつた、郵便局に、手紙を入れて(タシカ、アナタの処へか?)其近所に一寸した料理ヤがある、其の前に、東京の「バー」の様なものがある、之に這入つた処が、誰も居ない、呼んだら向うから女が出て来た、オ酒を呑んでると、女はスーと帰つてしまふ、ナンテ無あいそな奴だらうと、ムシヤクシヤする、又、呼んでキクト、私は芸者ですから、イケマセン……仲居が今来ます……ナニが芸者ダイ、となるワケですネ、芸者ダカ、芋掘りダカ、ワカラン恰好ヲシテ居ルクセニ、オ酌の一杯モシナイナンカ、馬鹿ニシテヤガル……ト云フ様ナ事ニナリマス、其家はスグ出タノダガ、アトできくと土庄町一番の料理やださうで、笑はせますネ、ソコで、芸者君(内ゲイシヤ)大イニ威張ツタト云フワケ……東京者ニハワカリマセンヤネ……其ノ帰り、又、一軒よる、某家の妻君(夫婦)が昔有名ナ芸者ダサウデ(?)ムカシ、東京本郷真砂町ニ、囲ヒ者トナツテ居タト云フワケ……ソンナ事が無暗トウレシクナルモンデ、呵々……処へ女髪結が来テ、カミヲ結フ……コイツハワルイ者が来た……諸方ニシヤベリチラスナと思つたが果して正にしかり……ダカラ、私ハ其後、西光寺サンニハ……アノ、ムシヤクシヤノ一時的ノ出来事ニツイテハ、大イニアヤマツテ、了解ヲエテアリマス……一二君ニハナンニモ云はん、スマシテ居タモノデス……キツト、誰カラカ聞イテ居ルト、高を括ツて居タカラ……ソレカラ、西光寺ノ前ノ小サイ家デ呑ンデ(之ハ、タシカ、此店カラ西瓜ヲ買ツテ、西光寺サンニ、小僧サンのオミヤゲに持つて行かせましたと思ふ)……ソレカラ、仏崎、舟出(漁師の小供四人のせた)の一件……以上ニテ種切に有之侯、一寸、一二君ガ庵ニ来タ晩カラカケテ、翌日ト(其ばんハ庵に帰ツテ勿論寝タノデスヨ、決シテ誤解無キ様ニ)呑ミマシタ……処ニ、西光寺サンノ(私が(ママ)全部御話シテシマツタセイカ!)非常ナ厚意を受ケ、ソレ以来……門外不出……種ハコレ切リ──一二君ハ、ナント申シタカ知ランガ、全ク、コレキリ、奇れいニ白状シテオキマス……之デセイ/\シマシタ……どうか御安心下さい……コレカラ反対の方の御心配をかけるかも知れませんよ呵々(形容枯槁の方で)……万事は今日の御手がみの御言葉通リニヤツテ行きます」
 島ノ夜ハ、此頃、正ニ「半弦」の月……よい気持です、おかげ/\」
 島ノ近所ノ人が「アナタハ朝カラ机ノ前ニ座ツテ居ル計り……ウマイ物ヲタベルデハ無シ、別嬪サンモ、奥サンモナシ、ナニガタノシミデ生キテヰマスノゾイ」トキカレル時ニハ弱リマス、自分デモワケガ解ランノダカラ、呵々……トント話ヲセンモンダカラ、此頃ハ「病人扱ヒ」ニシテ……「アナタハドツカ御悪イデセウ」トキクカラ「エヽ、少々、弱ウ御座ンシテネ」ハイヽ気ナモンデセウ!呵々、結局「病人」ニナツテル方ガウルサクナクテヨイデスヨ、呵々、御笑ヒ下サイマセ、   サヨナラ
◎俳句、多クテ済ミマセンガ、ドシ/\取捨シテ下サイマセ、タノミマス、ドン/\作リマス。
一二  (十月六日、南郷庵より)
(前略)小生の「句」多くてお困りでしたらう、おいそがしい中を……アンマリよいのはありませんか、マア、けなされなかつた丈、メツケモノと云ふ処ですネ、一日に必、十句ハ精進して居ります、カナリ近頃は推敲もして見ます、其の内には……近いうちにはホメテもらう時が必来ると信じて勉強して居ます、只、数の多い丈は御許し下さい、私としては、ドンナ、マヅイ句であつても、それがホントに吐いた言葉で、嘘で無いもの、作りもので無い故、捨てゝしまへないので、ソレデ、なんでもかんでも、コミにして、アンタの処に突つ込んで置くのです、丁度、不用だけれども捨てられもせず、人にやられもせず、毀されもせぬ物を、ミンナオ寺にあづけて、安心して居るやうに、呵々、アナタはオ寺なんだから、御めん下さい。(下略)
  井さま        五日           放哉
一三  (十月九日、南郷庵より)
(前略)今日はお大師サマの日(旧の二十一日)ですけれ共、サツパリまゐつて来る人も無い……只松風ばかり』
 ハガキで……小包の中から何が出るか、。アテてみよといふ事でしたから、ハテ、オ菓子でも這入つて居るかな、小サイ人形でも出て来るかと思つて居たのです。今日、昼便で小包着、早速ニコニコしながらアケテ見る。風呂敷の糸を、タンネンにとつて、二枚フロシキが出来て大変有難い、今迄「芋」かなにか包んで行つたり来たりするのに、井上氏の処から一枚借りて居ましたのです、色々有難う、放哉、俄かに衣裳モチになつてしまつて、之丈着れば、寒い事はありません……中から頗る古風なサルマタが(白い)出て来たのは面白かつた(アレハ中々涼しさうでよいです)ソレカラ、奈良の鹿の皮の財布と同じ色合で、又模様もその様な絹の帯(ヤハラカイ四角な)は、正に乞食放哉の着用す可きモノぢやない、上等すぎますよ……帯と申せば、多分……寝巻の(?)帯迄、すまぬ事です……(皮の手提げ)はコレカラ大いに重宝になる事と思つて居ます、シヤツもヅボン下もあるし、「寒サは何時でもヤツテ来い」と、大いに心丈夫になつて居ます……コレデ何もかも有ります、偏に御礼/\』
 其後、庵は益々平穏無事、何しろ門外不出ですから……アンマリ報告する事がバツタリ無くなつたので、ボンヤリして居る形です……その方が結構なのです』(下略)
 之から京都はよいですな、秋の京都……諸方を又、ヒマ/\に御散策の事でせう、紅葉は、コレカラですネ……イツゾヤ永観堂の紅葉の下の床几の上で、二三人で「謡」をうたつて、オ酒を呑んで居たのに……京都ダナと云ふ気がした事でしたが……悠然とした気持で此の筆を擱き得る事を更めて感謝いたします。
 荻原様 榻下    八日                尾崎生
一四  (十月十一日、南郷庵より) (葉書)
 啓、層雲……咋日着、大分厚いものが出来ましたな……ポツ/\読む考で居ります、……例の「絹の角オビ」ネ、うれしがつて、早速着用に及んで居りますよ……腹の処ダケが立派なので、「腹」をたゝいて大いに得意になつて居ます、サヨナラ
一五  (十月十四日、南郷庵より) (葉書)
 啓、オ祭……島デハ年中ノ最大行事ラシイ、皆、新ラシイ下駄ト、新ラシイ(シヤツポ)ヲカブツテ、嬉々として歩いて居ます。昨夜、オ祭ノゴチ走ヲ、西光寺サンハジメ、向フノ家等カラオ酒ヲツケテ、モツテ来テクレル、大イニ面喰ツテ、而し呑ミマシタ、弱クナリマシタヨ、大イニ酔フ……今日ハ又、淵崎のオ祭リ……約束ガシテアルノデ又、御チ走になりに井上氏ノ宅へ行キマス……而シテ、酒呑ンダコトワリを申します……其(呑ンダ)事ヲ、アヤマル意味デ一本。匆々
一六  (十月十八日、南郷庵より)
 啓、此頃、島ハオ天気ツヾキ、ソレニ、昨日ガ神嘗祭、今日ガ日曜日、其ノ前ガ丁度オ祭と云フノデスカラ、オ祭気分ガ今日迄持チ込ンデ来テ居テ、町モ村モ、賑カラシイ、一寸卵子ヲ買ヒニ行ツテモ無イ(皆メイ/\ノ家デ、オ祭ニタベタリ、売ツタリシテシマフ故)タマ/\、鶏ヲカツテル家デモラフト、一ツ七銭カラ七銭五厘……物ガ高クナツテマス……之デハ商売人ノ家デカヘバ、十銭以上ハドウシテモ取ルデセウ……何シロ、放哉ノ生活ニハ此ノオ祭ハ甚不自由也……但、今日デオシマヒダラウト思ヒマス……コノローカルカラーノオ祭デ、都会ニ移住スル人々ノ「足」ヲ止メ得レバ幸ナレ共、ドウデスカナ……何シロ、都会ノ祭トハ異ツタ大シタモノデスナ……(人々ノ気分ガ)今日ハ旧ノ九月一日デスヨ、書ク急件ト云フ物モナイカラ、近頃一人デ考ヘテ居ル事ヲ書イテ見マス……(中略)
 マア、ソレハソレとして、次ノ事モ旅人君ガ北朗君ヲタヅネタとしてみれば已ニ御存知ノ事卜思フカラ、書キマス……私ノ病気ノ事……
 入庵以来、風邪ガモトデ……売薬五十銭二包、ホシノ三十銭ノ包一ツ、根気ヨク呑ンダガ中々ナホラヌ、已ニ一ケ月位ナホラヌ……益々ワルク、昼モ夜モ、咳通シデ、咳ハ出ル……夜ハ寝ラレズ……之デイヨ/\死ヌカナ……「今ガ放哉ノ死ニ時カモ知ラン」ナド考へテ居タノデスガ……何シロ苦シイので……(医者ニカヽル事ハシツテルガ)神戸ハ近シ──旅人君ノ家ニイツカ大イニ厄介カケテ、普通以上ニ知リ合ツテル中ダシ……ト思ツタノデ、タノンデヤツタ処ガ……其ノ症状デハ「急性気管枝炎」ラシイトシテ、「薬」ヲ送ツテクレマシタ、大イニ感謝……私ハ「喘息」ニナツタカト思ツタガ……キカンシ炎ト云へバ、肺病見タイナモノダナ、呵々……矢張リ、死ンダ方ガヨイカナト思ツタガ……其ノ「薬」ヲ呑ンデルト、追々とヨクナリマシタ、已ニ発病以来二ケ月弱デスカラ……少々、コヂレテ来テ居ルラシイ、ソレデ……此間、非常ニ寒カツタ日カラ、又少シ「咳」ガ出ルノダガ、其後、旅人君ノ「神薬」ヲ呑ンデヰルト、大イニヨクナツテ来タノデス、今日ナンカ非常ニヨロシイ──故ニ、決シテ御心配御無用/\、私ハダマツテ居ル考へデシタガオ医者サンガ「入洛」シテ見レバ──以上申シテオキマス、決シテ/\心配シテ下サイマスナ……二三日スレバ、全快シマスヨ、一ツハ、栄養不良ノ為、早ク全快シタイト思ツテ、実ハ此手紙ノマツサキニ書イタ「卵子」ヲ買ツテ、時々呑ムノデス、大イニ贅沢也……苦シイノニ一番閉口……然シ、モウ、ヂキワケ無クナホリマス──
 「焼米」デハ、ナホリがオソイト見えますネ、人間のカラダハ困つたモンデスナ……
之デ失礼。
 井師 榻下         十五日              放生
一七  (十月二十五日、南郷庵より)
 啓、今「原稿」着……御意思ヲ守ツテ、ナル可ク一日モ早ク返送スル考デ居リマス、……今日「れうチヤン」より、名文達筆の、テガミをもらひ、大にうれしく、但、ウレシク無イ事ハ、(「此間ノ松タケ、オ宅マデ、トヾカナイノデ、ヒキカヘシタトノ事」デ、通知ガアリマシタカラ、今日又中味ヲ、トリカヘテ、駅送リニテ御送リ致シマス、ドウカ、コレヲモツテ、トリニ行ツテ下サイ、御願)……と云ふワケデ実ニ、妙ナ事ニナツタモノデ、……何日、マツテモ来ナイ筈デスヨ、呵々……又、コンド駅送リデスカラ、高松カラ、舟デ、コヽマデ来テ、ドコカニ保管スルカ今ソレヲ、タヅネテヰマス、ソコ迄、此ノ受取書ヲモツテ、出カケルワケデアリマス……アノ松たけ実にエライ松茸ニ有之候、呵々……ヤハリ、乞食放哉ガ、松タケナンカ、喰ベヨウと思ふからコンナにして仏が示シテ下サル事ト思ツテ居マスヨ。(下略)
 荻原 様 侍史      二十五日            放生
一八  (十月二十六日南郷庵より)
 啓、此手紙、京都ニ出シマス……病気全快乞御安心……(中略)
 次ガ、大変ナ、マツタケ……コン度ノ松タケ位、大変ナモノハ無イ……封入ノモノ(れうちやんノ送リモノ)ヲ出シテ、大イニ考へテ居タ処、ユーベ、夜分ニナツテ、高松桟橋より……ハガキ来ル(小荷物茲ニ在リ、早速、トリニ来レ)ソレカラ、村ノアル人ヲタノンデ、今夜、高松ニ船デ行く、荷船ノ人ニ、其ノハガキヲタノミコンデモラツタワケ、多分、今晩……其ノ松タケがとゞくダラウと云ふ事です、ヤレ/\……松タケ、正ニ半分以上ハ、報酬モノト覚悟致居申候(タノンダ人ニ)呵々。○第一、ナゼ、最初ノ便ガ中途デ、逆送サレタノカ、之ガ、アヤシイデスネ──宛名ガチガフ事ハアルマイシネ……此ノ松タケ実ニエラシ、高松カラノハガキデ受取(封入ノモノ)ハ不用。面白イキネン故送リマス……
 コゝ迄書イテ又、御願ト云フワケデハナイガ、私ハ元来大変松タケガスキナンデスカラ、コレカラサキ、ウント安クナツテカラデヨロシイ、惣菜モノニ、ザク/゛\煮込ンデ、外ノモノトイツシヨニ煮テタベタイノデス──御気ガツイタ時ガアツタラ、ウント、アトデヨロシイ故、ドンナノデモカマヒマセンカラ、惣菜用ニ送ツテモラヒ得レバ幸甚ト思ヒマス』
 今日ハコレダケ……アヽ、御礼ヲ云フノヲ忘レテ井マシタ、難有う/\(殊ニ中味ヲ二度モ代ヘタト云フノダカラ、スミマセンデシタ)
  荻 原 様 侍史     二十六日夜           放 生
一九  (十一月四日、南郷庵より)
 啓、此手紙着く頃は御帰洛かと思つて居ります、よい時候ですから、御旅行も御心持よかつた事と存じます、島の方ハ別して変つた事も無之候、よいお天気つゞきであります、庵の東側の山よりの小さい庭に、黄色な目玉菊が、たくさんに毎日咲き出したので、何よりうれしく、毎日、朝からこればかり見て居ます、お大師さま、お地蔵さまに、何遍折つて来て、さしてあげても、アトから、アトからと、咲いてくれます、実にうれしい、ナル程、黄菊白菊其外の名は無くもがな、であります、そして大きな菊よりも、寧ろ、コンナ、小さな、目玉菊の方が、庵には、又、私には、ふさはしい気がして居ます。
 此間、風邪で、一週間程臥床して、五十句、病床吟を送つて置きました(層雲社へ)来月でも亦、ゆつくり御らんをねがひます。
 例の、大さわぎの松たけ、正に落掌、大丈夫、くさつて居ませんでしたから、御安心下さいませ、そして、更めて御礼申します、又、れうちやんの手数にも、御礼申します。
 只、コンナ事申し上げんでもよい事だが、書いて見ませう、桟橋の保管料とか、庵迄の運ちんで、皆で、九拾弐銭もつて行きました、之は全く、最後の、一番の、粗忽者の放哉が、時日を、おくらかしたタメに生じた事、自業自得……最後に、私の大なる粗こつ者を発揮したワケです。呵々
 此間の手紙、ナンダカ叱られた様な気がして淋しい……病気で寝てゐるセイもあつたでせうし何もかも、私の、そこつ者に御許し下さい、之からは、大いに、つゝしんで書く事にします、大いに考へます、他人様の事など申しません、自分の事を考へねばなりません。
  荻原 様    十一月四日              尾崎生
二〇  (十二月二十三日、南郷庵より)
 啓、松ノ実来タデスヨ、五六日も前ニナリマスカ、其ノ時直ニハガキデ礼状ヲ出シマシタヨ、扨ハ私ノハガキノ方ガ行方不明ニナリマシタカナ、カチン/\実ヲコハシテヤツテマスヨ、下手ヲスルト、中ノ実モ何モグチヤ/\ニコハシテシマフノデ、中々呼吸モノナンデスヨ、ソレデハ更メテ御礼
 イロ/\ト御話シ承リ、只何事モ申シマセン……只、此頃デハ色々ナ、オバーサン連中ガ来テクレマス、今月ノオ大師サンニハ(旧十一月)皆デ庵ニ来テ、大イニ騒グノダトテ、タノシミニシテ井マス、私ノ事ヲオヂユツサン(御住職ノ意)アンタモ、ウタツテ、オドリナサイヨと申して居ます、大いに恐縮します……四十二才ノ厄年ヲヒカヘテ、コンナ島ニ来テ、放哉ナルモノ、婆サン対手ニ踊ルトハ、蓋シ浮世ハ面白イデスナ、ドウナル物ヤラ、ホントニ来年ノ厄年ハドウナル事ヤラ……イヤ/\「日日是好日」デスカナ
 此間墓ノ帰リニ西光寺サンガ見エテ、長イ事二人デ、雑だんシテ井マシタ、障子モ、ミンナ張リカヘル事ニシマシタ、何シロ寒サガコタヘマスノデ……北朗ガ、夫婦住居ノ清洒タル処カラ来テミレバ……ナンデモ、カデモ、汚ク見エルノデスヨ、ソンナモノデハ無イデスカナ、住メバ都デスヨ、掃除ハシマストモ、私ガ左ノ手ノオヤユビヲ痛メテ、一週間程薬ヲツケテ、グル/\巻ニシテ居テ、掃除ガ出来ナンダ時ヲ、北朗ガ来テ見タノデスヨ、私ダトテ、ホコリノ中ハキラヒ也、ホントニオ互ニ年ヲトルト、先ノ事/\ト、サキ/\計リ考へラレテ困リマスナ、若イ時ハカウデモナカッタノダケレ共、此頃又馬鹿ニサキノ事ガ気ニナリマス、困ツテ居リマス。北朗、今朝、ハガキオコシマシタ、長逗留デスナ、扨ハ、個展ガ成功カナト大イニ喜ンデ居リマス、(終リニ、年ヲコス参円ノ御礼/\/\) 御礼ヤラ何ヤカヤ書キツケマシタ。匆々 拝
  井師 座下      二十三日         放哉生
 二伸 吹ク/\寒クヨク吹きます、此西風昼夜ブツ通しで、四日でも五日でも平気で吹きまくります、殊に一昨夜来の大暴風となりしものは、塀ヲタホシ、屋根ヲハギ、庵ノ土塀の壁の「上ぬり」約一間半程、ドツカニ持つて行つてしまひました。風が「壁」ヲ持つて行くとはハヂメテ也……放哉コンナ処に住むのはハヂメテにて、朝鮮、満州の酷寒ノ地ノ方ガハルカニ暮しよいですな、コンナに風ハフカズ、第一設備がよいから……烈風ナンデスカラ、一日中周囲が怒号してる雑音ばかりです、気狂になりさうですな、島の人が平気(?)デ居ル処を見ると、モトモト島ノ人ハ鈍感か、習慣か(小供ノ時カラノ)と思ひますよ、慥に、鋭い人は、神経衰弱ニナリマスナ、障子丈デネルノデスガ……昼デモ夜デモ、其ノ障子ニ烈風ガ砂利ヲ叩キ付ケマス、其ノバリ/\/\ト云フ音、イヤですな、全く夜昼ノベツ幕なしに、四日でも、五日でも、ゴー/\ヒユー/\やられて、気がムシヤクシヤして来ます、落着かれないんですな、冬中、コレダと云ふのだから、放哉大いに、アキラメテハ居ます……之も『修業』です。
二一  (十二月二十七日、南郷庵より)
  井 師 座下      二十七日昼          放 哉 生
 今日ハ旧ノ十一月十一日、新ノ十二月二十六日卜云フ日……此ノ日、朝カラ妙二風呂ニハイリ度イ気持ガ出テ来タ、可笑シイ事ダナと思ふ、(或ハ新年ガ近イカラ、旧イ習慣ガ、ソンナ気ヲサセタノカ)正ニ決シテ威張ルワケデモなんデモナイガ、這入リ度イ気持ガ今迄ハ出テ来なんだノデスヨ、……ソレガ、今朝カラノ気持!正ニ四ケ月目ノ入浴也、午後三時頃カラ、ワクと云ふから、アゴヒゲと口ヒゲとヲ、ゴク短カク、ハサミデ刈ツテ、……頭モ大分、後頭部ハノビテ居ル様ダガ……コレハ此儘止して、扨、銭湯に行く、早いから二三人シカ居らぬ……湯銭参銭也、全く、よい気持になつて……四ケ月ブリのよい気持になつて、(エライもんだ、手も足も、白くなりましたよ)帰庵しました、扨、其ノ銭湯で、姿見ニ、私ノカラダヲ久しぶりニウツシテ見テ、実に驚いたの、ナンノつて……マルデ骨と皮也、私ノ「顔」ハ、昔カラ、病気シテ長ク寝テ居テモヤセナイ顔ナンデス、之デハ、十貫目モアルマイ、(十四貫近クアツタノダガ)……痩セタリナ/\、コレデハ到底、コレカラ、肉体労働ハ出来ヌ、只、カウシテ座つて、掃き掃除位サセテモラツテ、早く死ぬこと/\、と思ふと、全く自分乍ラ、アキレ過る程、ヤセタ/\、驚き申候」(下略)
二二  (十二月二十九日、南郷庵より)
 啓、茲一両日、無風シカモ時々小雨といふのですから……大ニ落付いてしまつて其の気持のよい事……牢屋から出て来た様な、全くです(風がないと、決して酷寒ではないのですから(中略)
 今夜アンタニ訴へて見たいと思つたのは「旅人の悲哀」といふ事であります「ストレンヂヤーの悲哀」……島崎藤村ガ「本」ダツタカ?雑誌ダツタカ、自分ガ(フランス)ニ居タ時の「ストレンヂヤーの悲哀」を書いて居たのをよんで涙無き能はずでアリマシタ、而も、此ノ時の「悲哀」ハ私がコレカラ書く様な、「あくどい」ものでは無かつたと、オボエテ居ります、ソレハ、此島ノ土着ノ住民(何代モ何代モ住ンデル)ニ関してゞあります、之等「土着民」ハ、他国から移住して来て、此島デ生活スル人々を、常ニ「異端者」扱ひにします、そして常ニ「ウノ目タカノ目」で其ノ人々ノ行動ヲ見テ居テ、一寸シタ事があると、直ニ之を同人土着者間にフレ廻りて悪口を申します。故ニ他国から移住した連中ハ常ニ小サクなつて居なければナリマセン、……自分ノ生レタ(土)……郷里ヲ見捨て、他国で生活スルト云フ事ハ已ニ其ノ間、何等かの悲シイ「歴史」ガ有ルニ相違ありません……此ノアハレナ旅人……ストレンヂヤーを彼等土着民ハ、同情ヲ以テ見ズシテ、カヘツテ機会アレバ、之レヲハネ出し、追ヒ出サントシテ常ニ「異端者」トシテ注意ヲ怠ラナイ……トハ何卜云フケツの穴ノ小サイ……日本人ノ、クセデセウ、特ニ小サイ島ノ住人トシテ、益「穴」モ小サイ……トテモ「度」スべカラズ、コンナ連中ガ、オ大師サン信心モ何モアツタモンデスカ、……全クアキレ返ルトハ此ノ事に候、気ノ毒ナ旅人ニハ、コチラから進んで同情シテ、仲よく暮して行くのが「人間ノ道」ぢやありませんか、ソレが全く正反対……ソシテ其の旅人ノ行動ヲシラベル係リハ、多ク用事ノ無イ(死ヌヨリ外ニハ)婆サン爺サンガ、引ウケル、ソレデ、有ル事無イ事シラベテ来テハ手柄顔に話ス、コレニ若い男女(主ニ女)が声援する。「ストレンヂヤー」ハ小サクナラザルヲ得ンヂヤ有リマセンカ?──私モ漸ク此頃私ノ味方ニナツタ婆サン爺サン其他、西光寺サン等カラ、聞キダシタ事デスガ、私ガ此ノ庵ニ来ルトスグカラ御多分ニ洩レズ「ストレンヂヤー」としての、調査ガ始ツタサウデス──其中面白イノヲ二三申シマセウカ、△坊主ダサウナ、△イヤ、俗人ダ、△「カギ文」ノ嫁サンノ兄キダ……コレナンカ秀逸、△西光寺サンノ兄サンダ……之モ秀逸、△高松ノ人ダ、△岡山ノ何郡カラ来テ井ル、△俳句ヲヤル人ダ、△酒呑ミダ、△アレハ、ナントカ云フ処ノ役者デアツタ……旅役者ハ秀逸也、△平民ダ、△士族ダ(此ノ族籍ハ直接私ニキカレタ爺サンガアツテ驚入り申候)、△拾万円モアル財産家ノムスコデ病気デ来テ井ルノダサウナ、大ニ秀逸也、△女房モ児モアルサウナ、△オ経ハ少シモヨメヌサウナ、△イヤ、オ経ハ長イ事習ツタ人ダサウナ、△此頃見タ様ニ、一日ニオ遍路サンノ、サイセンが弐銭カ参銭位カ上ラヌノデ、ドウシテ タベトルダロ、△アンマリ肴ヲウリニ行ツテモトント買ハナイ……一体何ヲ喰ツテルダロ、△町ニ少シモ出テ来ヌガ、病人ダらう……、△オ米ハ(カギ文)カラ送ツテ来テ、(オ金)ハ西光寺サンカラ出ルサウナ(アル婆サンの如キハ、西光寺サンニ行ツテ南郷庵ノ人ニウツタ物ノオ金ハ、オ寺デ払ヒマスカ、ドウデスカ? 突ツ込ミニ行キシ由也……「旅人」故、夜逃ヲサレテハ困ルト思ヒシ由也、コンナ事カキ出シタラ、キリがありませんからヤメマス……コンナ事最近キヽ出シタ事実ニ候……
   ○此ノ「冬ニ夜話」ハ近頃カラ私ノ唯一無二ノ味方トナッタ(但、オ金モ少々ヤルノデスヨ「孫」ニ菓子ヲ買ツタリネ呵々)アル婆サンガ『何シロ、アンタも「旅の人」ダカラ、「悪口」云ハレテモ、カマハズ、がまんナサイマセ』ト申シタ、其ノ「旅の人」ト云フ事ガ、異様ニ聞エタノデ、ソレカラソレと聞キ出シテ、コレ丈ノ材料ヲ得タワケデスヨ、呵々
 ナント云フ、オセツカイナ、オ世話様ナ事デセウカ……アーイヤダ/\全ク、(ストレンヂヤー)ノ悲哀デスナ……。
 アンタ方ノ処ニモツテ行クヨリ外ニハ、島デハ誰一人として心カラ此ノ、アハレナ旅人ニ同情シテクレルモノハ無いのだ、……涙なき能はずデス、(西光寺サンノヤウナ人ヲ得テ私ハ、放哉ツク/゛\有りがたい事だと思つてゐますよ)……コンナ土着民連ヲ一度支那カ、満州アタリニ追ヒヤツテ、世界ハヒロイ事、他人には、心から同情セナケレバナラナイ事を骨迄シミコマセル必要ハナイデセウカ。(下略)
  井師 座 下      二十八日夜            放哉
二三  (十五年一月十三日、南郷庵より)
 啓、金の催促手紙になつてしまつて、是はアンタのポケツトを煩はし、况やソレが、御母サンの、供養に送られる分をいたゞくとは、どうも、なんとも、恐縮の外ありません、一月三十一日、三週忌の事は、必ず致します、実は北朗氏は、知つて居たか知らぬが、私の亡母と、亡姪二人及び先に白骨になつて来て、ひとばん、とまつて行つた、一燈園時代の友人の、名前と、この四人の名前が、チヤンと、オ大師様の前に、張りつけてあるのでありまして、それで、私が、オ経をよむ度ニハ、即供養の心持にもなつて居る次第です、今後は、アンタのおつ母さんの戒名もいつしよに書かしてもらひまして、コレカラ、年中供養いたしませう、之も妙な御えんと申せばさうも思へる、私は、例の層雲社の句会の時……。
 桂子サンが、二階にタクサン菓子を、もつて来られた時、別嬪サンだなあ、と思つた時、その時、アンタが、黒足袋の親ゆびの辺を、糸で盛につゞくつた足袋を、はいて居られたので、コレハと思つた時その時、なんかの用事で、下におりて、おつ母さんにお目にかゝつた事が、ありました切りですがな……。つく/゛\御礼申します』(中略)
 アノ家の、アノ谷の、雪景色は、よいでせうなあ……行つて見たいなあ、ホントに行つて、話したい……御礼状 
  井師 座下      十三日             放哉生
二四  (一月二十八日、南郷庵より)
 啓、何かと御いそがしい事でせう、御上京中は、色々用事があるでせうな、島ハ今日、旧の十二月十四日であります、アト半月計りで、大節季を済まして、お正月となるわけであります。只々烈風は依然たるもので、サゾカシ寒いお正月で御座いませう、チヨイ/\こゝ、そこ、の支払も、奇れいにして、私も島の人並に、お正月のお餅をたべたいものだと思つてゐます、二月分の例の○、出来ますれば、なるべく、此度は早く送つていたゞきたいと思つて居ります、勝手千万な申分ですが、大抵、旧ノ二十日頃から勘定をしめるさうですから、ソノ方にも、奇れいに払ひたいと思ふのであります……決して足は出さぬ考……御安心を乞ひます……不時の収入は、其の後一文もありませんから、之又、御安心して下さい。
△今日、送りました、句稿百句……御序に御在京中に見て置いてもらふと有りがたい、コノ最近の百句ハ、非常に苦吟しましたが、アトで見ると、割合に、その結果が、現はれて居らぬ様で残念であります……勉強致します。(中略)
 此の頃妙ニ、ウナギのかばやきと、マグロのスシを、思ひ出します、不思議です、死ぬ迄に一度たべたいものだと思ひます。
 一寸、風が、今、コヤミになつて居ります。
   井師 座下     二十七日           放生
二五  (二月八日、南郷庵より)
 啓、今日、只今、慥に(薬代)到着しました。
 又、なんか書いて下さるのですか、ホントになんといふ御縁だやら……御礼』今朝から風が珍しく落ちて、よい気持で落ち付いて居ります、風が無いと空気もうすらぎますし、例の木を打つたり、砂をとばしたりする雑音が、バタリと無くなるので、それこそ、オコリが落ちた様な気になつて、ポカンとしてゐます。菜の花が咲いて、お遍路のスヾガちり/\なつて、雲雀が囀る頃はよいでせうな……待遠しい事ですな、島の人にきくと、五月六月はなんとかいふ大暴風が吹く時ださうです、それが暴風としては、冬期よりもひどいさうです、ソレが済むと、……夏のソヨ/\とした海風が岡から吹きこむ、涼しい、よい季節になります、八月からは知つて居るのだから……この五月六月の大暴風といふ奴に、今からオヂケをふるつて居ます。それにしても実によく吹く処ですな、瀬戸内海の島に、こんな処があることは、ホントに夢にも思はぬ意外な事でした、島の人は、子供の時からの習慣ですね……烈風には、平気なものですな、そして裏のオ婆サンなんか……(コンナにひどい風がよく吹くから、此の島は空気がよいのです)と、心から信じてゐるのだから……益々手がつけられませんのです。呵々……(中略)
 層雲二月号来ました、……ポツ/\読んで居ります、……裏の写真の処にある「わらやふるゆきつもる」には、スツカリ感心させられてしまひました……短詩形なるものが、皆、かう行くと異議無しデスケレ共、中々、それは大問題ですな……此頃、妙な短詩形にはイヤになります……一度読んでみて、ピタリと来ても、二度よみ、三度よんでゐると、始めと異つたダラシの無いものになつてしまふのは、どういふモノでせうか、何等か、そこに恐ろしい「力」といふものゝあるとなしとの相違でせうな……「力量」の相違は、怖いですな……「わらやふるゆきつもる」……読めば読む程しんみりして来る、批評を許しませんね……近頃コレ程、こたへた句はありませんでした、然も此頃、大いに苦吟しましたのですが……どうもホメてもらへさうなものが無いので、ガツカリします、然し大いに苦吟してるのですよ……サヨナラ
 御礼の序に、ゴタ/\書きました。
 井師 座下          二月八日          放哉
二六  (二月九日、南郷庵より)
 啓、旅人サンが、まだ「薬」を(咳の)……送つてくれないものですから……引つゞきこゝのお医者の「オ薬」を呑んでましたら「今日又、別な「請求書」を、よこしまして、至急に払つてもらひたいらしい事を申して来ました、……私は三十日迄に(旧の)払へばよいと思つて居たのですけれ共カウ……「旅の者」には……毫末の信用無く…さいそくされては、どうも、落付いて居れませんので……不足の処を……西光寺サンから御拝借して、只今、全部、オ医者に支払つてしまひました…早く旅人君が、タヾの「薬」送つてくれゝばよいなあと、それのみ、首をのばして待つて居る次第であります。……どうも重ね/\で、ナントか、かとか、行違ひになりまして、相済まぬ事ダラケです、御許し下さい……至急に……此前に、モラツタ(請求書)と、今回(本日モラッタ)請求書に(受領判)を押してもらひまして御手許迄差出します……いつなり共、又御序に、不足弐円弐拾五銭、を送つて置いて下さいませんか。西光寺サンに御かへし致します。
 又、ナンカ、あなたが、半折のものでも書いて下さるのですか!実に/\恐縮千万の次第であります、あゝ、此の御恩、常時に、思ひ出す事であります……
 少々「咳」がコヂレましたので、大いに閉口いたしました。
 アナタはお達者で何より結構ですね……ドコもお悪い事は無いですな、アンタのお悪かつたと云ふ様な、記憶が一寸ありませんですな、ありがたい事であります。
 西光寺サンの(もち搗きで)…(もち)を、大きな本箱にいつぱいと(白砂糖)たくさんもらひました……(餅)も(砂糖)も多過ぎますので……放哉面喰つて、恐縮して居ます、トテモ一人ではタベ切れない……(水餅)にしても長くあるだらうと思つて居ます……西光寺サンは、ドカリ/\と、……(ケチ/\せずに)親切して下さいますので……放哉の様な気持の奴は……大いに感銘する次第であります……之も亦ありがたい事であります……(二枚同封……請求書、受領証……)今日はタラズメの御願やら……何やかや申上けます。敬白
  井師 座下    二月八日            放生
二七  (二月十一日、南郷庵より)
 井師 榻下     二月十日             放哉生
 啓、今日は、旧二月二十八日……アト二日でお正月元日、今日、西光寺サンが久し振りで来られて、二人で、お大師サンの花を全部「松」に取代へました、(お地蔵サンも同様)
 一寸お正月らしい、今迄、話して帰られた処です。(中略)
 昨日、旅人君から(薬)を送つて来くれました、……愈々、コレカラは、たゞの「薬」がいたゞけるワケになりました……旅人君とは、一度、其のオ宅に泊つて、大いに発展して、放談万丈の交渉が、タツタ、一日一夜あつた切りなんですけれ共……大変な親切にしてくれました、……今回も、先生の新薬の注射薬を是非ヤレ(咳がとまる)と云ふて……オコル様にすゝめて来ます…実にありがたい事だ……大いに注射する考であります、ホントにありがたい事だ、南無阿弥陀仏。
 元日に、一二君の処へ、大いに、放哉、心からの敬意を表して(庭先迄ナリ共)行く気であつた処が……今日、西光寺サント色々はなして居て……放哉、頭はははげて居るし……黒の法衣を着てゐるのだから……ソンナものが元日の朝早くから、フラフラとびこんでは……呵々、二日にしたらどうです?……で異議なし、徹(ママ)回……呵々……イヤ、色々の事がありますよ。
 此頃、「句作」の「熱」と申しますか、「気分」と云ふか? 馬鹿に旺盛になりまして……寝る時も頭を錬りつゝ寝入る、朝オキルと、床の中で、ねて居る間又考へて居る……処が、不思議な事は夜寝入る時に、一寸よいな……と思ふ句が、一句二句浮ぶことがありますが……それを、朝は皆忘れてゐます、……ソレ切りです。(時々昼時分思ひ出す句もありますが)手帖をモツテ寝ません、只(作句の頭を錬る)丈の必要ナンデスカラ、只、考ヘナガラ、錬りナガラ、ねるのです……何故、カウ……自分でも(茲半月ばかり前からですよ)……「熱」が出て来たのか?不思議に思つて居ります……次の句は如何
    △わが夜の雪ふりつもる
 例の、アンタのまねヲシタのだが……ドウモくさい……矢張り、(藁屋)は動きませんな、(読めば読む程、コタヘテ来ますね)
    △大晦日暮れた掛取も来て来れぬ
    △四角な庵の元日
    △つきたての餅をもらつて庵主であつた
    △夜中の天井が落ちて来なんだ
 アナタの便りに「句」を書く事なんか、ホントに珍らしい気がします。(下略)
二八  (二月十八日、南郷庵より)
 啓、旅人君、ハガキをよこして曰く「君の病名の事は井師に丈け白状せり」ト……呵々……何も、コチラから広告して歩く必要も無いのだから、ワカル迄、当分、ダマツテ居てくれ、又心配サレルからと申し、旅人も、大賛成なりしが、ソレが、忽ちにして(みなとの会のトキ?)…「白状セリ」は、心細い男だな、呵々……アゝ……事実は事実でありまして……例の左ロクまく全部ユ着が……モトで、此の「島」の人外境の烈風、寒風にヤラレたんですな……マア、済んだ事は仕方がありません、此の咳薬で「咳」がとまつたら、「薬」は何にも用ひぬ考です……そして、ヤスイものでも、自分が、はらのへツタ時うまいと思ふモノを喰へば、ソレが、滋養分と思つてますから……其の余は……例の心的修養と……静座……俳句三昧とで……完全に信じて居ます……「咳」だけで(昼は出マセンが、夜、ネルと出ルノデコイツに参つて居るのですよ)……未だ「血」も出さず、他に異状ありません……旅人君が……注射ヲセヌトなぐるぞ(同氏考案の、ヨク咳ヲトメル薬の由也)と申来り、なぐられては大変故、今日、第一回を自分でヤル考ナレ共、此の不器用者の放哉……「注射」のヤリ方に大困りですよ、呵々……但、旅人君に感謝してます。(中略) 一人ダト実に絶対安静ナンカ、心的修養!ニタヨルほかありません……大いに「読経」もします考……読経してるときは、全く(放哉)ハどつかに、とんで行つてしまつて無いのです「読経」ヤメルと……又、立もどつて居ります、イヤ、其の早い事/\、呵々
 之丈、御報告……非常に衰弱して、慥に、死期は早めたでせう、ケレ共、近々、元気ニナツテ行く心持ですから……大丈夫、メツタに死にはしません……死ぬ気がしたら御報告申します。呵々……
 此間「暦」を買つて来ました、(旧暦が入用故)……シカシ(放哉死ぬ日)とは、どこにも書いてありません、呵々……旅人君の白状ニヨリ……之丈、事実を報告します……
 井上氏……西光寺サン……マダ御承知アリマセン(医師ニモサウ話してあります)……決して御心配下さいますな……サヨナラ
 寒風が冷タイ、困ル/\
 今少シデ、「暖」ニナルト辛抱シテマスヨ
  井師 座下     二月十七日           放生
二九  (二月二十日、南郷庵より)
 啓、今日は七日正月だと云ふので、アチコチで、三味線ひいたり、唄つたりして、酒を呑んでます、島の人々、イツ迄唄つてイツ迄酒を呑んだら満足するのか?不思議な事ですな、然し不相変の寒い烈風中ですよ、潮が強いのか、潮風が強いのか、この辺一帯には、(梅の木)も(桃の木)も一本も無いさうです、寒い「殺風景」な処ですな……梅の木、梅の花の咲かぬ処、桃の花の咲かぬ処、なんと云ふ淋しい春でせうか?只遠く離れた、山の奥の方から(梅の木)や(桃)を売りに出て来るさうです……実に、ナサケナイ土地ですな、第一、(オ米)といふものが出来ぬので、(サツマ芋)が出来る土地柄なんだから実にあきれますな……(梅の木)が一本も無いからと云つて(鴬)も居らぬと云ふ理屈はあるまいな、などゝ、一人で考へて見たりしますよ。呵々…マア…「暖か」になりかけてから、「夏分」にかけて、ヨイ土地なんでせう、(シカシ、五六月に一年中の大暴風がアルさうですけれ共、呵々)
△此の土地……冬、寒気、烈風……書いて居ても、イヤなれ共……放哉、此の庵が気に入つてしまつた……考へて見ると、スツカリ周囲から解放されて、他人の顔を見ないでもよし、他人と話をしないでもよし、只、イツモ一人で……静で……此の厭人主義ノ私ニ、スツカリ気に入つた、冬は寒風ハイヤだが、……なる可く……此の庵で……他人と、スツカリ(手紙以外ニハ)……交渉を絶ツタ……(不自由、貧弱ダケレ共)……自由勝手な、放哉一人の天地デ、死なしてもらひたい……「薬」も呑まねば……死期もせまるだらう、或は激変もあろだらう、そして、早く、……此の「庵」で死なしてもらひたい。此ノ「庵」ヲ出ル位なら、全く、死んだ方が(目下の放哉としては尤も適切に)よいのです、一人でいろんな事ヲ考へてます、御許し下さいませ。……何等一ツノ「執着」をも持つて無い放哉故……全く、今の「死」は「大往生」であり、「極楽」であります。
△此事は已に申上げましたかな? 静座してオ経をよんでゐると、……放哉、ドツカニとんで行つてしまつて……只、オ経の声ばかりであります……外には何にもない……オ経ヲヤメルといつの間にやら放哉坊主、チヤンと、もどつて来て座つてゐます、イヤ、その早いこと/\。読メバ、どつかに居なくなるし……ヤメルト……チヤンと、もどつて来て座つてます……困つた放哉坊主だよ……
 どつか、行つてしまつた切りで、永久に、もどつて来るなよ。咄 咄』
  井師 座下      十九日              放生
三〇  (三月一日日、南郷庵より)
 啓、「三月分」封入の御来書、御礼/\。
 風が、追々に、衰へ来り、大に喜んで居ります。セキハ、服薬のためにトマツテ居ます、それで、旅人君の、注射、已に、五回やりましたよ……十回迄ヤレバ「服薬セズ」共、「咳」が出ないといふ約束で……それがタツタ一ツのうれしさで、ヤツテますよ、「咳」がとまりサヘすれば……絶対に(服薬)セヌ考ですから……どんなに呑気でせう、、晴々するでせう!
 後援会の事ヤラ、コン度のオヘンロ時期の収入の事ヤラ、ソレニヨリ、その後の方策にツイテの事ヤラ……只、放哉……仏に感謝する外、言葉をもちません、ナント云ふ、幸福な男だらう!……と思ひました。
 △此頃……オ酒呑ンデ見ヨウかと、思つても、呑めない……カラダが、ダメになつたのです……オ酒……と思つても……ウンと呑める時に呑んだ方が、よいなと思ひますよ、呵々
 滋養分ノ件、例の此の前申上げた通り……ア、うまいなと、思ふものが、滋養になる(ヤスイものでも)と思つてます……ソレハ……卵もスキだし、バナヽもスキだけれ共、そんな、ゼイタクを申し上げられる放哉では、絶対に無いのですよ、呵々、マア(分相応ニ)甘んじて……喜んで、如何なる天運でも甘受します、決して、滋養分の事心配して下さいますな……(下略)
  井師 座下    三月一日              放哉生
三一  (三月十五日、南郷庵より)
 啓、心配せぬ様にと、色々、なぐさめの御言葉いたゞき、感佩します……私、アナタ宛の手紙は、例の、用が無ければ書く、淋しければ書くと云つた風なんですから……勿論、読みツ放しにしていたゞきたいのですよ……バナナ……松茸の話、思ひ出しても可笑しくなりますね、呵々……それに、此頃、のどが痛くて(セキ)をするので……たべものがノドにつかへてイタイ、(卵子)が一番よいのですけれ共ネ、(ネーブル)……此間一二君に申してやつたら、皆売つてしまつてナンニモ無い、之がおしまひだと、五ツ六ツ、小さいのをもらひました……残り一つも無いさうです……おへんろ出かけますがマダ……ほんものになりません……ポツリ/\ですな。
 私の句、イロ/\なほしていたゞいてありがたし/\……全く、モウ(句作三昧)より外、只今は、毎日、何も致しませんのですよ。
         十五日                 放哉生
井師 座下(病気……元気ハアルノデスガネ 呵々)
三二  (三月十六日、南郷庵より)
 井師 座下      三月十五日         放哉生
 啓、全く夜になりました、又書きます、……旅人君の親切ニテ(おくすり)を呑み、注射をなし、元気の処は中々よくなつたのですが……一寸永い間のもの故、身体衰弱甚しく、非常にヤセて…肉体の一挙手一投足が、少しも云ふ事をきいてくれませんのです……カラダの自由がキカヌこいつには大いに困つて居ます、……処が、十日程前から(或はモット以前から?)咽喉が痛みはれ……めし(オ粥デモ)が、のどが痛くて、コシ兼ねるのです、蜜柑の汁でも、素敵に、のどにしみるのです、オ薬と水とは(熱く無ければ)しみませんが、中々はれてゐるので、らく/\とのどヲコサズ……のどヲコス時、痛い……ツキモドス……そして(声)ハスツカリつぶれてしまつて、少しも発声出来ず……ドンナうまい物、目の前にあつて、ハラがヘツて居ても……のどがイタクテたべられぬ……正に餓鬼道也、大いに閉口……毎日、昼時分ニナルト、少シ、ハラガヘル故、(オ粥ニ卵子ヲカケテ)……痛いのを(のどの)がまんして、二杯位流し込む……ソレ丈にても……痛いので、益々食欲少しも無し……之ハ大変ナ事ニナツタト、放哉モ少々、驚キ候……処デ不得止、例の医者に来てもらつた処(医者の処までヒヨロ/\して歩けぬ故に)……医者の方が……大いに驚いてしまつて、困つて居ます……とりあへず(ウガイ薬)ヲヤツテ居マス……之がキイテ、痛ミガ取レルトヨイガ……若シ、トレナケレバ、めしがたべられぬ故……衰弱餓鬼道に依るオダ仏也……只今の処、(ウガイ)ヲ盛ニヤリ居リ申侯、茲、一週間計リノ間ガ……放哉ノ「命」ヲ少シデモ長ク、トリトメルカ、どうかと云ふ、七分三分ノカネ合、エライ大変ナ処ニ候…(一寸旅人ニ報告丈シタリ)オ医者ニ又オ金ヲ払はねばならぬ……スミマセヌ/\』
 放哉モ、此度ハ一寸、驚いて、大いに考へて居マス、然し平生ノ如ク、安静也……乞御安心──自分乍ラ感心シテ居マスヨ 呵々……          
 どう、ころぶ事か……一週間後ニハ御報告出来る事と思つて居ます……旅人も心配して居るでせう……一寸、アンタ丈に御報告してオキマス……オン敵、いよ/\ヤツテ来たかな?南無阿弥陀仏
三三  (三月二十日、南郷庵より)
 啓、島は此頃又、メッキリ寒くなりまして、風が弱つて居る時でも寒くてたまりません、アンマリ淋しいので、ウラのおばあサンにたのんで探してもらつて、(木瓜)の小サイ鉢植ヲ弐拾銭で買つて来てもらひました、蕾の大きなのが二ツ三ツ見えるやうであります……以前カラ私は此の(木瓜)と云ふ花が好きです……此頃、例の山海の珍味何一つ(タトヒ目前にありとしても)たべられないのだから……自然、眼で見るもの、匂ひをかぐものに限ります
 毎日、盛んに(ウガヒ)と(ヌリ薬)と……一生懸命なれ共、其効果中々……
○非常ニウマイたばこが呑んで見たいのです……
 満洲に居たとき(スリー キヤツスル)と云ふたばこ…慥か、英国製を盛にのみました、…実に私の口にあつてウマかつた……アチラで関税がかゝらないで五拾銭でしたから……東京では税金が中々タカイ故、三円もしますかな、(五十本入りの丸い缶で)アンタにはたのんで計し恥かしいから……コレ迄ナンニモねだつた事が無いから……此際ではあるし、(タバコ)一ツ位ねだつてもよからうと思つて……今日、武二君の処ヘタノンデやつた処ですが?……武二君、裸木氏其他二三氏と云ふ処で、五十銭宛もハズンでもらつたら……(スリー、キヤツスル)五拾本人りの缶一ツ位出て来さうなものですが……タノンデやつてわるかつたでせうか?……ヨイ匂ひが頗る恋しい……紫の煙りが恋しい
○アノ三階デ、生ビールで、ウマイものを、ウントたべてからでないと死ニ切レナイなあ、呵々(註曰、マグロすしも、カバヤキも、(エビテンプラ)モ今ハダメになりました……イヤ/\今一度、必、タベテ見せるぞよ、呵々/\/\)サヨナラ
  井師 座下    三月十九日記            放哉生
三四  (三月二十一日、南郷庵より)
 啓、──勿論、アンタは了解して下すつてる筈と、思ひますが、今日、旅人が、コンナ、ハガキ(同封)ヲ、オコシましたので、為念ニ又、一筆書きます、(中略)……どうやら、此ノ調子デハ(早く死なれさうだな)と内々、自分デハ喜んで居るのです……全くの処、アンタ丈ニハ解つてもらへると思ふ……どうして、京郡ナンカニ出かけて養生する気は毛頭無し……只、此の風寒くて、イヤな庵でサヘ……此ノ(庵)ニ居レバ(人の顔を見る必要が無いので厭人病者ニハ尤よし)尤落ちつく故……コヽデ死にたい……(此ノ庵を出る位なら、死んだ方がましだ)……と堅く自分で自分に、約束して居ります次第、どうやら、早く死ねさうで喜んで居るのですよ……此の間西光寺サンが見えた時……笑話の末が、全く此ノ庵ヲ出ル位なら、私ハ今(食を断つても)死期を早めます決心也……西行も、そのキサラギのもち月の頃と、申したぢやありませんかと、申したら、西光寺サンも、笑談ぢやない……養生して下さいな、と見舞に来てくれられたのです……私の考と、旅人の考とは根本的に、ちがふのだから……此の点、アンタは、十分了解して下すつてる事と思ひます……此ノ私ノ、根本観念は、いつぞや私の、病気報告の手紙の中に、(イノ一番に)たしか、アンタに書いて置いたと思つて居ります、御記憶くださいませう、どうか安心して放哉を、死なして下さい…‥御願であります。
○放哉、元気ハ頗ル盛ナリ……手紙も、ドシ/\書きます、只、足がフラ/\します……又、書きますが……旅人の、ハガキが気になつたから一寸書きました。
○此ノ手紙も、東京宛に出しませう。(ヒガンの中日に候)サヨナラ
  井師 座下       三月二十一日         放哉生
二伸 お遍路、マダ、中々寒くて出かけません……殊に今頃のは、伯耆、因幡、但馬、備前者で……(ローソク)なんか、タテヌと云ふ話です……エライ事があるものですな、呵々……扨、腰ヌケタリと雖、放哉、机ノ前ニ座ル……ウラの婆さんなるもの、大ニ奮発して(ローソク)代をあげる事に約束ズミ故……大した事ハアルマイが、相応にはあがる見込也……何しろ放哉、元気甚だ盛故、万事、乞御安心(只コノ庵デ是非共、死ナセテモラヒマス……無理ヲシテモ、呵々)。
 東京ハ之カラ(桜)ですな。サヨナラ
三五  (三月二十二日、南郷庵より)
 拝啓、今朝御手紙久し振りにありがたく御礼申上候
 封入の御厚志により、扨、何を買ひませうかな? 呵々
 まぐろのスシも、カバヤキもダメになつたのだから……実はアンタ宛手紙二本東京層雲社宛に送つてあるのです、(ラヂオ吹込上京と思ひ)……其手紙内容ハ別ニ変つた事はないが、(旅人から妙なハガキが来たので……そして、京都出養生の事など書いて来たので……之は大変、旅人は、放哉の心持知らない……放哉は、此の「庵」にくつ付いて、例の死ぬる考……「庵を出ぬ」考でせう、厭人病から、呵々…目下、已に、「食」が絶断せられて居ると同様……之レニ一ツ、意思的ニ輪をかければ、直に大往生をとげる事必然也……(ドウヤラ早く死ねるヤウだと喜んでる、放哉の気持が旅人には解らぬのですよ、呵々)
 処が、茲にどうも奇跡らしいものあり……アンタガ(大へんな事です)と云ハレシ(喉頭結核)と来ると……期して、死をまつ可し(ナンにも入ラヌ故)……但、之デハ死ニキレナイ、外ニ心残リハないが、スキやきで一杯ヤツテ死にたいな……と云ふので、大いに、ウガイ、ヌリ薬ヲヤル……島ノ医者ハ、医者の方がもはや近々死ヌルモノとキメテ、一人で泡を喰つてるから面白い……処が、十日程たちましたが、少し、何も出ナンダ(声)が少し出カケタ、塩からいのや、アツイのは絶対イケヌが(バナナ)位は少し、シムのをがまんスレバ、のどをこし出した事ですよ……医者ハ大イニ又面喰つてます、奇跡らしい、呵々──のどに物がはいり出した処で、死期は大抵わかつて居るのだが……(喉頭結核)の苦しみ丈ケ、免れさしてクレヽバ放哉正ニ大往生也……矢ツ張り、スキやきで一杯やれるワケですよ……実に奇跡也/\、大いにウガイ、ヌリ薬の事/\/\……さう云ふ目下の有様ニ候……足がタタヌ故、腰ヌケの様なれ共、お遍路に対する準備は之又、よく出きたもので……ウラのお婆さんが主任として大活動の事となる……大いに成績上る可し、呵々/\。……
 昨日一二君の処から、彼岸中日のゴ馳走もらふ……大部分、婆サン氏ヘヤツタが、大分のどを越したモノもあります……全く此の咽喉は奇跡也/\(只一時的の現象でない様にと念じてゐます……いつときは、水もは入りカネて、サスガの放哉……ボンヤリ致し候よ、呵々)ウガイ、ヌリ薬、大いにヤツテ居ますよ……
〇此間(のどの食欲)と云ふ、面白い、経験を得ましたが……又、何れかいて見ますよ、のどにアレ程の食欲がアルものとは今迄知りませんでしたな、御礼状がこんなに長くなりました。
○目で見る方や、匂をカグ方へ……気がとられ(水も、のどにハ入りかねる時ハ)此間(木瓜)を弐拾銭也で小サイ鉢を買つて来てもらつて「蕾」をみてゐるのです……私は此の(木瓜)がスキでしてね、昔から。
  井師 座下    三月二十二日昼        放哉生
三六  (三月二十六日、南郷庵より) (葉書)
 啓、廿五日出(京都)、おはがき拝見……よくワカリました、解りました、勝手なこと計り申し御許し下さいまし。丁寧に、口金をアケテ、其儘スグ、すへる様に迄して置いて下すつて(タバコ)ありがたし/\、竹のパイプが、は入つて居ました、以前ハ、無かつたものだが……不相変紫の煙はよい、ウマイな、どうして日本に、コンナ、タバコの葉が、出来ないでせうかな?……島ノ烈風猶止まず、コイツ一番困りものに候   匆々

放哉へ送る 井泉水

常高寺へ

 「近況を報ずるの文」拝見した。どうも其様子では「三合」どころではないらしい、大に同情ををしまないが、筍はどこも同じだ、私の寺でも、いま裏の籔の筍をさかんにたべてゐる、これはやはり筍として味ふべき物ではない、真竹の子なのだから「筍といふ概念」をたべてゐるやうなものだ。ともかく、腹をこはさぬやうにすべし。
 其後、須磨寺との関係に就て、吉報を聞かぬやうだが──やつぱり駄目なのか──又、きれいにだまされたと見える。だますのもむづかしいだらうが、気持好くだまされるといふ事は実にむづかしいものだ。かなり修行を要する事だ。然し、そろ/\其堂に入つて来たやうだね、喜ぶべし/\。
 三四日前、常照院を一寸訪問した、これは私として用事もあつたのだが、和尚は好く来てくれたなどゝ云つて、一人で火をおこして茶を入れてくれたりして、かなり長く話した。その時、君の話が、勿論まつさきに出たんだが、和尚は君の為めに、ころもを仕立てて送つたと云ふではないか、而して君がどこかに落付くといふ意志があるならば、最初の約束通り、寺をさがして上げようといふのだ。山科あたりに、さうした寺がなくはないのださうだ、和尚の言葉に依ると、二人以上は喰へないが、最少限度(いや最大限度か)二人までならばどうにか喰へるから、尾崎君も細君を呼びよせて落付く事を考へてはどうかといふのだ、尤もさうした処では、村の者の為めに手紙の代書や貸借上のぢだんに口をきく位の事はしてやらねばならぬさうだが、其代り大根やきうり位はずいぶん持つて来てくれるさうだ。これは耳よりの話ではないかと思ふ。須磨や小浜もよからうが、いつも寺の暗闘の犠牲になつてゐたり、米粒の底を視(ママ)いて案じてゐたり、ひとの借金の云ひ訳ばかりしてゐても初まるまい。常照院の和尚にとつくりと頼んで見てはどうだらうか。そこで奥さんは御達者ですか。奥さんを筑紫の国へ流謫して何年になりますかね。もう赦免にして、呼びかへしても好い時分じやありませんかね。而して山科あたりの、やはらかい竹の子籔のありさうな所の寺を一つさがして貰つて、根をはやす工夫をするさ。尤も常照院の和尚も云つてゐたが、お経は読まずともいゝが、毎朝かゝさず、村中にきこえるやうに木魚をたゝく事は怠つてはならぬとの事だ、それに門のすみに「法学士尾崎秀雄法律事務所」といふ看板でも掲げて、大根三本で抵当権設置の相談にでも応じてやれば、たしかに食ふには困るまいと思ふ。
 さう/\、それから肝心の事を書き忘れた。常照院の和尚が云ふてゐた事だが、お寺を世話するからには、酒はぜつたいに禁じて貰はねばならぬとの事だ。あの和尚も、君の酒には大分、こりたと見え。つまり去年の四条で飲んだかへりの事から、一切がぐれはじめたのだからね。あの時は和尚も、あまりに一てつすぎると、私まで腹だゝしく思つた程だつたが、あの和尚も、根には人の好い所があるやうだ。ともかく、一つ、みつしり考へて其上の返事に依つて、和尚にたのみ込む事は私が引受けてあげてもいゝ。
  二伸、北朗から手紙が行つたか。例の三合徳利は、三合以上は飲まぬといふ約束が守れるのをしかと見とゞけてから作る由なり。(六月十九日)


南郷庵へ

 正月もまぢかになつた。其後おん平安無事なることゝ思ふが、北朗が去つてから大風の吹いた跡のやうに、一層さびしくなつた事は御察しする。北朗とは、其からまだ逢はないが、兄の事に就て大分話があるやうな事を云ふて来てゐる。其にしても、南郷庵の歳晩歳旦はさぞ長閑な事であらう。門松を立てるに及ばず、支払をする要はなし、春着も作らず、餅もつかず、それでも間違なく、春にはなるのだから、有難いものではないか。
  年立つや新年ふくべ米五舛
といふ芭蕉庵の春も思はせるが、どうだ、米五舛はあるか如何。先達而、一二が来ての話に、米がなくなりはしないか、と使をもつて聞かした所、いつもまだあるまだある、と云つて、一向にへらないらしいのが却て心配だと云ふてゐた。もう、病気はすつかり好くなつてゐる事と思ふが──此頃は、やはり焼米を用ひてゐるのか、それで米のへり方が少いならば兎も角、米の代りに他から液体の米を輸入するやうな事はあるまいと思ふものゝ、其がもとで、平地に波瀾を起すやうでは……と、之はこちらでも心配になる。
 着る物は足りてゐる事と思ふがどうだ。北朗の通信に、やはらかものを着流し、とある。「いでや我よき衣きたり──」か、いや
  誰やらの姿に似たりけさの春
か。之も芭蕉庵を思はせるが、此冬は暖いので、仕合せな事だ。私は島の冬を知らないけれども内海の中ではあり、京都辺と比べれば着物一枚は違ふことであらう。凪いだ日などは、塩田がホカ/\と日光を吸ふて、陽炎が立ちさうに、海はベツタリと空を映して、四国の五剣山が夢のやうに霞んでゐるさまさへ、眼に見える気がする。
 もう二三ケ月すればお遍路季節になる。御ろうそくも忙がしからうが、御さいせんもはいる事だらう。私が歩るいた時は南郷庵辺が丁度雨になつて先を急いだ事だつたが、其次の甘露庵では藤の花がきれいに咲いてこぼれてゐた印象は今でもはつきりとしてゐる。夫から、之は一寸、思付いたのだが、お遍路サンの為めに手紙や納札の代筆でもしてやつたらば、功徳にもならうと思ふ。私もお遍路をしてゐる時、ハガキを頼まれた事があつた。お遍路は文字の書けないやうな人が多いからきつと喜ぶだらう。「てがみかいてあげます」といふ紙札でも貼つたらばね……。そこに、窓から首の見える放哉を描き、雀を二三羽配すると、之はたしかに俳画にもなる。
 別便で一つ送つた物がある。朝鮮の友人から貰つた松の実のおすそ分けだ。兄が朝鮮時代の句に、「淋しい夫婦で松の実わつてたべる」といふのがあつたかと思ひ出したのと、庵居の徒然に一粒一粒と割る心持もふさはしからうと思つたので──其中にヤツトコが一つついてゐる、之も朝鮮から送つて来たまゝのものだ。一体、仙人が食ひはじめた物かも知れぬが、不老長寿の薬だとか聞く。せい/゛ \健康を祈る。(十二月十二日)


放哉の事 井泉水

◇放哉が死んだ──四月七日の夜八時頃──此の突然の訃報に私は驚いた。彼のノドが腫れて食事が通らないという事を知つたのは、三月の十日頃だつた。旅人からの消息で、喉頭結核の疑もあるといふ事と、果して、さうとしたらば回春の見込はあるまいといふ事だつた 然し、旅人とて自分で診察したのではなし、ただ放哉からの書簡で知るのみだから(放哉は薬をもらふ都合から旅人にだけは病気の容態をくはしく知らしてゐたのである)断定的に云へる事でなし、さうでなくてくれゝば好いと念じながら、然し、事実さうとしたらば人事の尽し得られるだけにしてやりたいと北朗とも相談し、島の中では医薬の点も遺憾の事が少くあるまいから、京都に呼んで治療をすゝめる事、(之は放哉自身が断つて来た)後援会の有志にも限りがある事だから、他に方策を講ずる事なども打合せつゝあつたのだった。其中、放哉自身から、又ノドが通るやうになった、奇蹟々々などゝいふて来るので、少しく安心してゐた所だつたのである。

◇彼が死んだといふ電報を手にしたのは八日の午前二時だつた。私は仕事の手放しえられぬ時だつたが、そんな事を云ふてゐる場合ではないので、すぐ出立する用意をした。北朗も一緒に行くといひ出した。立つ前に一二から放哉の病状に就て委しい手紙が来てゐた。島の医者の診断に寄ると、彼は以前から結核に冒されてゐたのだが、其はさして進んではゐなかつた。風邪をひいて、非常にセキをした為めに、喉頭に患部をうつして喉頭結核になつた。それから最近には腸も犯された、それが致命的になつたらしいといふのである。あの首筋の短い、頭のハゲた、糖尿体質らしい放哉が結核で倒れようとは意外だつた。去年の秋、北朗が彼を訪ふた時も、彼はセキ通しにセイてゐたし、ひどく痩せてゐたといふ話だつたが、私達は、それは単なる風邪と営(ママ)養不良の為めだらう位に考へてゐた。彼のセキは余程、彼を苦しめたらしい、彼は死ぬのはかまはぬが、セキの苦しみだけは免れたいと云ふので、旅人は何か注射の薬を送つてやり、彼は自分で其を試みてゐたが、其だけでは救ひえなかつた程、彼の病根は深くくひ込んでゐたのであつた。
◇然し、死といふ事に対しては、彼は平気であつた。彼は死に面しての恐怖や不安を感じてゐなかつた。彼には一人の係累もなく、又、我を執すべき仕事もなく、真に無一物の境涯にある放哉であつて、天空のやうにカラリとした気持にすわつてゐたからである。小豆島に渡つてからの彼は、物質といふべきものゝ何一つも持たなかつた。着る物などは私達から送つた。食べる物は一二から送つて貰ふやうに私は頼んだ。住すべき庵は玄々子の恵む所である。彼の日常に入用な雑品は後援会から送つたのもあるし、同人諸君のうちから個人的にずいぶん送られてゐたらしい。彼は、自分の欲しい物があると、遠慮なく夫々に所望をする、而して恵まれてゐた自分を自分で喜んでゐたのである。島の庵居生活は、不自由いへば実に不自由であつたらうが、彼はそこに悠々自適して、入庵以来、我が死所を得たりといふ気持でゐたらしい事は、彼の文章にも書簡にも見える。彼は、物質的には実に貧しく、淋しく死んだやうだが、精神的にはすつかり満足しきつてゐた事が、彼を悼む心の中にも、せめてもの慰めと思ふ所である。
◇私と北朗とが小豆島に着いたのは九日の朝だつた。一二、玄々子とも相談をした上、南郷庵の後丘に埋葬することゝした。急を聞いて駈つけたといふ放哉の妹サンも見えてをり、葬式にかゝる時、彼の国から姉サンと、従弟といふ人も見えた。かうした肉親のある事をも、彼は死ぬまで自身で口外しなかつたのだが、葬式に際して困るとも思つたので、私が他から聞き出して知らしたのであつた。彼は、親戚といふものに或る反感をもつてゐるらしく見えるまでに、最後まで「絶対に一人」を通しきつたのである。

◇放哉の事を思ふと、まことに夢の如くでもあり、又、ふしぎな因縁があるやうにも思はれる。彼と私と知り合つたのは一高に居た頃である、其事を彼は「入庵雑記」の初めに書いてゐたが、一高俳句会の席上で顔を合はすといふだけで、格別ふかい交際をした訳ではなかつた。当時、夏目漱石の「我輩は猫である」が評判になつてゐたが、一高の校友会雑誌に「我輩はランタンである」といふ文章を書いたものがある、ランタンとは消燈後寄宿舎の廊下に吊してある油燈で、其油燈自身の見る所として、消灯後の寄宿舎の百鬼夜行する様を描いたのである。それは実に明暢自由なる達文であつて、誰が書いたのだと喧しかつたが、其の筆者は彼、放哉だつたのである。大学時代には彼はさして勉強もせず、又、俳句もさして熱心でなかつたらしい。鎌倉の円覚寺へ行つて参禅をしたのは其頃だつたらう。卒業後、赤門出の法学士として東洋生命保険会社に入り、累進して契約課長の椅子を占めてゐた。俳句も気が向けば作るといふ風で、決して上手ではなかつた。渋谷に家があつた頃、同人達が時々遊びに行つても、句の話などよりも、まあ一杯飲めといふ風で、彼はいつも長火鉢の前にトグロを巻いて、杯を手から離した事はなかつたといふ。彼の妻君が非常なハデ好きで、家では朝から風呂を立て、女中が二人もゐたといふ話である。
◇彼が朝鮮火災保険会社の支配人となつて彼地にわたり、突然、やめるやうになつたまでの事情を私は好くしらない。彼はたゞ自分の「馬鹿正直」の為めだといつてゐる。兎も角、彼は非常な決心をしたので、一燈園に飛込んで来た時は──彼は其妻君さへも、どこかへ振り捨てゝ来て、全く無一物の放哉だつたのである。彼が、俳句に復活し、又、彼の俳句が光つて来たのは、それからの事である。

◇私と彼との密接なる交渉も其から始まる。十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢つたのは、知恩院内の常照院であつた。其寺へ、彼は一燈園から托鉢に来たのが縁故となつて、常住の寺男に住み込んでゐた。私が尋ねて行つた時、彼は一燈園(の)制服のやうな紺の筒紬を着て、漬物桶を洗つてゐたが、前から和尚に其日は暇を貰ふ事を話してあつたらしく、手拭で身体をはたいて、其手拭を又腰にさして、私と一緒に連立つた。何しろ久濶を叙する意味で、其夕、四条大橋の袂の或家で一緒に飯をたベた。彼は一燈園に入て以来、禁酒をしてゐたのださうだが、今夜は特別だからと云つて、禁を破つて大に飲んだ事だつた。其翌日、私から再び常照院を訪れると、和尚の話に「尾崎サンはもう出て貰ふ事にしました」との事、聞けば前夜、院に戻つてからもメートルをあげすぎて、すつかり和尚の感情を害してしまつたらしいのである。彼の流転生活はそれからはじまる。彼は常照院を追はれて、須磨寺に行き、須磨寺を出されて(之は酒の上ではなく寺内の葛藤のまきぞへを食ふたといふ訳)、小浜の常高寺に赴き、小浜では和尚の借金の弁疏係をしてゐたがお寺其物が経済的に破綻したので、彼も居たゝまれずに京都に戻つて来た。私の京都の寓居に暫くゴロ/\してゐたのは其頃である。彼はやはり寺の下男がいゝ、とて、三哲の龍岸寺といふ寺へ行つたが、そこの和尚とは性格的に全く合はないので、又飛出して来た。さうした流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといつていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である。

◇放哉は、今は台湾にゐる友人をたよつて、流転しようかと云つてゐたが、其は寒がりやの彼が、台湾は暖いから佳いといふ考もあつたのである。然し、「まあ、台湾落までせずとも好からう、内地だとて四国辺はかなり暖かからうから……」と私が考へたのが小豆島で、そこには遍路のまゐる沢山の寺や庵があるので、その堂守として住込むべき所がありさうに思つたからである。果して、西光寺の南郷庵がたま/\明いたとて遂にそこが彼の最後までの巣になつたのだつたが、小豆島の冬は想像と違つて寒く、殊に今年は何十年ぶりといふ珍らしい強風の日が続いたさうで、其風で彼はノドをいため、其が彼の死をはやめたものとすると、こゝでも、小豆島行をすゝめた私は、何といつていゝか解らぬ、ふしぎな因縁の悲しさを感ぜざるを得ないのであるが、島へ行つてからの彼自身は、すつかり落付いて、「若し再び此島を追はるゝならば、むしろ海に投じて死する考……」などゝいふて来てゐたのである。

◇その「再び島を追はれる……」懸念といふのは、又しても酒の事なのである。京都を立つて行く時一晩、私の所で大に飲んだ上に今後の禁酒を誓はして、彼が餞別に句を書いてくれといふまゝ、彼の扇に「翌からは禁酒の酒がこぼれる」と私は書いて、「翌からは/\」といふて飲むのぢやないぞ、といふて笑つたが、果して其の通り、酒はやめられず、而して飲めば、例の全放哉を発揮して眼中に人間がなくなるから、しぜん、あたりが困るのである。その迷惑を私は一二からも聞いて、島にゐる気ならば神妙にしてくれねば困る、さもなくば台湾へ行くか、と少し強い調子で云ふてやつた返事が、上の「むしろ海に投じて死する考……」といふ言葉だつた。けれども、斯うも短い命と知つたならば、飲みたい酒を浴びる程飲ましてやりたかつた、としみ/゛\くやまれもするのである。

◇彼の俳句がいよ/\燦然たる光を発したのは、小豆島に渡つてから以後であつた。彼は、そこで「俳句三昧」に入つてゐたといつても好い。彼ほど真剣に句作したものはなく、彼ほど其生命を俳句にやきつけたものはない。彼が此地上に於ける紀念として此「放哉句集、大空」の一巻を私が作つた事は、彼に対する最後の悲しい友情である。

放哉──初めは芳哉と書す──本名は尾崎秀雄、明治十八年一月二十日、鳥取市に生る。父は法律家なりといふ。第一高等学校を経、東京帝国大学を卒へ、明治四十一年、法学士たり。東洋生命保険会社に入り、本社、朝鮮大阪両支店に歴任し、本社に戻りて契約課長の椅子を占む。後、朝鮮火災保険会社創立に際し、支配人として功を成す所あり。大正十二年、翻然として自ら無一物となつて京都一燈園に来り、托鉢の生活に入る。それより、京都常照院、兵庫須磨寺、小浜常高寺等に寺男として住込み、十四年夏、讚岐小豆島南郷庵に移るや、ひそかに死処を得たりとして門外に出でず。十五年四月七日、夕、島の漁師夫妻の手に抱かれて瞑目す南郷庵裏手の墓地に葬る。行年四十二。戒名、「大空放哉居士」此書名「大空」は之に因る。

 尾崎放哉 全句 句歴 大空 序 須磨寺にて 小浜にて 京都にて 小豆島にて 其以前の作 一燈園にて
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