日本史資料

漢書・地理志
 夫れ楽浪(BC一〇八~三一三)海中に倭人あり。
 分かれて百余国と為る。
 歳時を以て来たり献見すと云う。

後漢書・東夷伝
 建武中元二年(五八)倭の奴国、貢ぎを奉じて朝賀す。
 使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
 光武、賜うに印綬を以てす。
 安帝の永初元年(一〇七)倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。
 恒霊の間(一六七~一六八)倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。

東大寺山古墳出土鉄剣(奈良県) 一八四~一八八年
 中平□□五月丙午造作支刀
 百錬清剛上応星宿下辟不祥

赤烏元年銘鏡(山梨県きつね塚古墳) 二三八年
 赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅
 服者君候宣子孫寿万年(画文帯神獣鏡)

景初三年銘鏡(大阪府和泉市黄金塚古墳) 二三九年
 画文帯神獣鏡 景初三年陳是作□□之保子宣孫

三角縁神獣鏡(島根県加茂町神原神社古墳) 二三九年
 景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地□出吏人
 □□伍至三公田人□之保子宣孫寿如金石兮

魏志 東夷伝 倭人条 別添 二三九年

赤烏七年銘鏡(兵庫県宝塚市安倉古墳) 二四四年
画文帯神獣鏡
 赤烏七年五月廿五日丙午時加日中
 造作明竟百□幽□服者富貴長楽未央
 子孫富昌□□□□陽□□□…

七支刀銘文(奈良県石上神宮)
[表]泰和四年(三六九)五月十六日、丙午正陽、
 百錬鉄七支刀を造る。出て百兵を避く。
 供供たる候王を宜しくす。□□□□作。
[裏]先世以来、未だ此の刃有らず。
 百済王世子、奇生聖音、
 故に倭王旨の為に造り、後世に伝宗せんとす。

高句麗好太王碑銘
 …百残・新羅は旧これ属民にして、由来朝貢す。
 而るに倭、辛卯の年(三九一)を以て、来たりて海を渡り、
 百残・□□・新羅を破り、以て臣民と為す。
 六年丙申(三九六)を以て、王窮ら水軍を率い、残国を討科す。…残王困逼し、男女生口一千人・細布千匹を献出し、王に帰して自ら誓う、今より以後、永く奴客と為らんと。…
 九年己亥(三九九)百残、誓いに違い倭と和通す。王平城を巡下す。而るに新羅、使を遣わして王に白いて伝く、
「倭人、其の国境に満ち、城池を壊破し、奴客を以て民と為せり。王に帰して命を請わん」と。…
 十年庚子(四〇〇)歩騎五万を教遣し、往きて新羅を救わしむ。男居城より、新羅城に至る。倭その中に満てり。
 官兵方に至り、倭賊退く。…
 十四年甲辰(四〇四)而るに倭、不軌にして帯方の界に侵入す。…倭寇壊敗し斬殺さるもの無数なり。

宋書・倭国伝
 倭国は高麗の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。
 高祖の永初二年(四二一)詔して曰く
「倭讃万里貢を修む。遠誠宜しく甄すべく叙授を賜うべし」と。

 …讃死して弟珍立つ。
 使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭、百済、新羅、
任那、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して叙正せられんことを望む。
 詔して安東大将軍、倭国王に叙す。

 …二十年(四四三)倭国王済、使を遣わして奉献す。
 また以て安東大将軍、倭国王に叙す。
 二十八年(四五一)使持節都督倭、新羅、任那、加羅、
秦韓、慕韓六国諸軍事を加う。安東将軍は故の如し。

 …済死す。世子興、使を遣わして貢献す。
 世祖の大明六年(四六二)詔して曰く
「…宜しく爵号を授くべく、安東将軍、倭国王とすべし」と。

 興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭、百済、新羅、
任那、加羅、秦韓、慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
 順帝の昇明二年(四七八)使を遣わして表を上る。曰く
「封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖でい窮ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に暇あらず。
 東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国。…」と。
 詔して武を使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙す。

稲荷山古墳出土鉄剣銘(埼玉県)
[表]辛亥年(四七一)七月記す。
 乎ワ居臣、上祖の名は意冨比コ、其の児多加利足尼、
 其の児名はテ已加利ワ居、其の児名は多加披次ワ居、
 其の児名は多沙鬼ワ居、其の児名は半テ比、
[裏]其の児名は加差披余、其の児名は乎ワ居臣、
 世々杖刀人の首と為り、事え奉り来たり今に至る。
 ワ加多支ル大王の寺斯鬼宮に在る時、吾、天下を左治し、
 此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事せる根原を記す也。

江田舟山古墳出土太刀銘(熊本県) 五~六世紀
 天下治めすワ加多支ル大王の世、事え奉る典曹人、
 名は无利テ、八月中、大いなる鋳釜と、
 併せて四尺の廷刀とを用い、八十度練り、
 六十度捩たる三寸上好の□刀なり。
 此の刀を服する物は長寿、子孫注々其の恩を得る也。
 其の統ぶる所を失はず。刀を作れる者の名は伊太加、
 書せる者は張安也。

人物画像鏡(和歌山県隅田八幡宮) 五〇三年
 癸未年八月日十、大王の年、男弟王、
 意柴沙加宮に在せし時、斯麻、長寿を念じ、
 開中費直穢人、今州利二人等を遣わし、
 白上銅二百旱を取り此の鏡を作る。

岡田山一号古墳出土太刀銘 六世紀
 各田部臣□□素□□□刀也

憲法十七条(日本書紀) 六〇四
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤うること無きを宗と為せ。人皆党有り、亦達れる者少なし。
 是を以て或いは君父に順はず、乍た隣里に違う。
 然れども、上和ぎ下睦びて、事を論うに諧いぬるときには、即ち事理自ずから通う。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬え。…人尤だ悪しき者少なし。
 能く教うれば従う。…
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。君をば則ち天とす。
 臣をば則ち地とす。天覆い地載せて、四時順り行き、
 万気通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、
 則ち壊るることを致さんのみ。
 是を以て君言うときは臣承り、上行えば下靡く。…
四に曰く、郡卿百寮、礼を以て本とせよ。
 其れ民を治むる本、要ず礼に在り。上礼なきときは、
 下斉らず。下礼なきときは、必ず罪あり。
五に曰く、餐を絶ち欲を棄てて、明らかに訴訟を弁めよ…
六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、古き良き典なり。
 是を以て人の善を匿すことなく、悪を見ては必ず匡せ。
七に曰く、人各任あり。掌ること濫れざるべし。…
八に曰く、郡卿百寮、早く朝りて晏く退でよ。
九に曰く、信は是義の本なり。事毎に信在るべし。
 其れ善悪成敗、要ず信に在り。
 群臣共に信あらば、何事か成らざらん。
 群臣信なくば、万事悉く敗れん。
十に曰く、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違うことを怒らざれ。…
十一に曰く、功過を明に察て、賞罰必ず当てよ。
 日者、賞は功に在きてせず。罰は罪に在きてせず。
 東大寺山古墳出土鉄剣事を執れる群卿、賞罰を明むべし。
十二に曰く、国司、国造、百姓に斂ること勿かれ。
十三に曰く、諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。…
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むことあること無かれ。…
十五に曰く、私に背きて公に向くは、是臣の道なり。
 凡そ人私有れば必ず恨み有り、憾み有るときは必ず同らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。…
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。故、冬の月に間有らば、以て民を使うべし。
 春より秋に至るまでは農桑の節なり。民を使うべからず。
 それ農せずは何をか食はん。桑せずは何をか服ん。
十七に曰く、夫れ事は独り断むべからず。必ず衆と論うべし。

律令制度
○里と戸(令義解・戸令)
 凡そ戸は、五十戸を以て里と為よ。里毎に長一人置け。
 戸口を検校し、農桑を課植し、非違を禁察し、賦役を催駈することを掌る。若し山谷阻り険しくして地遠く希ならん処には、便に随いて量りて置け。
 凡そ計帳造らんことは、年毎の六月の三十日の以前に、
 京国の官司、所部の手実責へ、具に家口、年紀を注せよ。…
 凡そ戸籍は、六年に一度造れ。
 十一月の上旬より起こりて、式に依りて勘へ造れ。
 里別に巻と為せ。総べて三通写せ。…
 二通は太政官に申し送れ。
 一通は国に留めよ。…凡そ戸籍は、恒に五比留めよ。
 其れ遠き年のは、次に依りて除け。
 近江の大津の宮の庚午の年の籍は除くことをせず。

○田制(令義解・田令)
 凡そ田は、長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。
 段の租稲二束二把。町の租稲二十二束。
 凡そ口分田給はんことは、男に二段。
 女は三分が一減せよ。五年以下は給わず。
 其れ地、寛に、狭きこと有らば、郷土の法に従えよ。
 易田は倍して給え。給い訖りなば、具に町段及び四至録せよ。
 凡そ諸国の公田は、皆国司郷土の估価に随いて賃租せよ。
 其の価は太政官に送り、以て雑用に充てよ。
 凡そ田は、六年に一度班へ。
 神田、寺田は、此の限りに在らず。
 若し見死にたるを以て田退くべくは、班はん年に至らん毎に、即ち収り授うに従えよ。

○(令義解・賦役令)
 凡そ調の絹、あし絹、糸、綿、布は、並に郷土の所出に従えよ。
 正丁一人に、絹、あし絹八尺五寸、…美濃のあし絹は六尺五寸、…糸八両、綿一斤、布二丈六尺。…
 若雑物輸さば、鉄十斤、鍬十口、塩三斗、鮑十八斤、
 堅魚三十五斤、烏賊三十斤、…次丁二人、中男四人は、
 各一正丁に同じ。凡そ調は、皆近きに随いて合わせ成せ。
 絹、あし絹、布と両との頭、及び糸、綿の嚢には、具に国、
 郡、里、戸主の姓名、年月日を注して、各国の印を印せ。
 凡そ調庸の物は、年毎に、八月の中旬より起こりて輸せ。
 近国は十月三十日より、中国は十一月三十日、
 遠国は十二月三十日より以前に納れ訖えよ。…
 其れ運脚は、均しく庸調の家に出させめよ。皆国司領し送れ。…
 凡そ正丁の歳役は十日。若し庸取るべくは、布二丈六尺。…次丁二人は一正丁に同じ。
 中男、及び京、畿内は、庸取る例に在らず。…
 凡そ令条の外の雑徭は、人ごとに均しく使え。
 惣べて六十日に過すこと得じ。

調・庸の京までの運搬日数(延喜式)
  五日以内 近畿、美濃
一〇日以内 尾張、徳島県、越前、丹後、但馬、岡山県
二〇日以内 石川、富山県、飛騨、三河、遠江、駿河、
 鳥取、出雲、広島県、周防、香川、愛媛
三〇日以内 長野、山梨、群馬、埼玉、東京、神奈川、
 伊豆、千葉、茨城、石見、長門、福岡、豊前、佐賀、長崎、
 熊本
四〇日以内 新潟県、栃木県、高知県、大分県、宮崎県、
 鹿児島県
四〇日超過 福島県、山形県以北

○軍制(令義解・軍防令)
 凡そ兵士簡び点さん次は、皆比近をして団割せしめよ。…
 其れ点して軍に入るべくは、同戸の内に、三丁毎に一丁を取れ。
 凡そ兵士の上番せんは、京に向かはんは一年、
 防に向かはんは三年。…

○司法制度(令義解・獄令)
 凡そ罪犯らば、皆発らん処の官司にして推断せよ。
 在京の諸司の人、京及び諸国の人、在京諸司にして事発らば、徒以上犯せらば、刑部省に送れ。杖罪以下は当司決せよ。…
 凡そ罪犯せらば、笞罪は郡決せよ。
 杖罪以上は、郡断定して国に送れ。…

 (賊盗律)
 凡そ強盗の財を得らざらんは、徒二年。一尺に徒三年。
 二端に一等を加えよ。十五端、及び人を傷らば絞。
 人を殺せらば斬。…
 凡そ窃盗の財を得らざらんは、笞五十。一尺に杖六十。
 一端に一等加えよ。五端に徒一年。五端に一等加えよ。
 五十端に加役流。

○承平・天慶の乱
 …天慶二年(九三九)十一月二十一日を以て、常陸国に渉る。国は兼ねて警固を備えて将門を相待つ。…
 よりて彼此合戦の程に、国の軍三千人、員の如く討ち取られたり。
 …時に武蔵権守興世王、ひそかに将門に議りて云く
「案内を検ぜしむるに、一国を討ちたりと雖も、公の責め軽からじ。同じくは板東を虜掠して、暫く気色を聞かん」といえり。
 将門報答して云く
「将門が念うところもただこれのみ。
 その由何となれば、…苟も将門、刹帝の苗裔、三世の末葉なり。同じくは八国より始めて、兼ねて王城を虜領せんと欲う。今すべからく先ず諸国の印やくを奪い、一向に受領の限りを官堵に追い上げてん。然れば且つは掌に八国を入れ、且つは腰に万民を付けん」といえり。
 …また数千の兵を帯して、天慶二年十二月十一日を以て、先ず下野国に渡る。…
 時に新司藤原公雅、前司大中臣全行朝臣等、兼ねて国を奪わんと欲する気色を見て、先ず将門を再拝して、便ち印やくを捧げ、地に跪きて、授け奉る。…
 将門、同月十五日を以て上毛野に遷る。
 次に、上毛野介藤原尚範朝臣、印やくを奪われ、十九日を以て、兼ねて使を付けて官堵に追う。
 その後、府を領し庁に入り、四門の陣を固めて、且つ諸国の叙目を放つ。
 時に一の昌伎あり、云えらく、八幡大菩薩の使いと口走る。
 朕が位を蔭子平将門に授け奉る。…
 ここに将門、頂に捧げて再拝す。
 いわんや四の陣を挙りて立ちて歓び、数千併せ付し拝す。…将門を名付けて新皇と曰う。…
 且つ諸国の受領を点定し、且つ王城を建つべきの議をなす。
 その記文に云わく
「王城は下総国の底南に建つべし。兼ねてうき橋を以て号けて京の山崎と為し、相馬郡大井津を以て、号けて京の大津とせん」という。
 便ち左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八吏、皆以て点定し、内印、外印鋳るべき寸法、古文、正文を定め了んぬ。…
 (将門記)

○平氏の栄華
 …六波羅殿の御一家の君達いいてしかば、花族も栄ゆうも面を向かえ肩を並ぶる人なし。
 されば入道相国のこじゅうと、平大納言時忠卿ののたまいけるは、
「此の一門にあらざらん人は皆人非人なるべし」とのたまいける。
 かかりしかば、いかなる人も相構えて其のやかりにむすぼれんとぞしける。…吾が身の栄花を極むるのみならず、
 一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、
 次男宗森、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、
 嫡孫維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、
 殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、
 都合六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける。
 日本秋津嶋わずかに六十六国、平家知行の国三十余箇国、既に半国を越えたり。
 其の外庄園田畠いくらという数を知らず。
 綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。
 楊州の金、荊州の珠、呉都の綾、蜀江の錦、七珍万宝一つとして欠けたることなし。
 歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもてあそびもの、おそらくは帝けつも仙洞も是には過ぎにじと見えし。 (平家物語)

鎌倉仏教 ○親鸞(歎異抄)
一 …親鸞におきては
「ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せをこうむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。
 念仏は、誠に浄土に生まるるたねにてやはんべるらん。
 また、地獄に落つべき業にてやはんべるらん。
 惣じてもて存知せざるなり。
 たとえ法然上人にすかされまいらせて、念仏して、地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。…


「善人なおもちて往生をとぐ、況や悪人をや。しかるを世の人常に曰く『悪人なお往生す。いかに況や善人おや』と。
 この条、一旦その謂われあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。その故は、自力作善の人は、ひとえに他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心を翻して、他力を頼み奉れば真実報土の往生をとぐるなり。
 煩悩具足の我らは、何れの行にても生死を離るることあるべからざるを哀れ給いて、願を起こし給う本意、悪人成仏の為なれば、他力を頼み奉る悪人、最も往生の正因なり。
 よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰せそうらいき。

○蒙古の諜状 一二六六年
 上天のけん命する大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。
 朕惟うに、古より小国の君は境土相接すれば、尚講信修睦に務む。
 況や我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。
 か方異域の威を畏れ徳に懐く者悉く数うべからず。…
 高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇し、開国以来、亦時として中国に通ぜり。朕がみに至りては、一乗の使も以て和好を通ずること無し。
 尚王の国これを知ること未だ審ならざるを恐る。
 故に特に使を遣わし、書を持して朕が志を布告せしむ。
 願わくば今より以往、問を通じ好を結び、以て相に親睦せん。
 且つ聖人は四海を以て家と為す。
 相に通好せざるは、あに一家の理ならんや。
 兵を用うるに至りては、夫れたれか好む所ならん。
 王其れこれを図れ。            不宣
  至元三年八月
(東大寺尊勝院文書)

○倭 寇
 明初、沿海の要地に営所を建て、戦船を設く。
 …寇船の至るを見て、たちまち風を望み逃げ匿る。
 而して上に又統率してこれを御ぐものなし。
 故を以て賊帆の指す所、残破せざるは無し。
 三十二年(一五五三)三月、おう直諸倭を勾い、大挙して入寇し、艦を連ねること数百、海を蔽いて至る。
 せつの東西、江の南北、浜海の数千里同時に警を告げ、昌国衛を破る。
 四月太倉を犯し、上海県を破り、江陰を掠め、乍浦を攻む。…
 三十三年、…六月、呉江より嘉興を掠め、還りて択林に屯す。縦横に来往し、無人の境に入るが如し。…
 大抵、真倭は十の三、倭に従う者十の七なり。…
 (明史・日本伝)

ザヴィエルの日本人観
 …日本につきては我らが見聞して知り得たところを次に述ぶべし。
 第一我らが今日まで交際したる人は新発見地中の最良なる者にして、異教徒中には日本人に優れたる者を見ること能わざるべしと思わる。
 この国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心をいだかず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。
 国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思わず。
 彼らの間にはキリスト教諸国にありと思われざるもの一つあり。
 すなわち武士は甚だ貧しきも、武士にあらざるして大なる富を有する者これを大いに尊敬して、甚だ富裕なる者に対するがごとくすることなり。…多数の人読み書きを知れるが故に、速やかに祈祷及びデウスの教えを修得す。
 この地は盗賊少なし。
 盗みをなす者を発見するときはこれを処罰し、何人をも生存せしめざるがゆえなり。彼らは盗の罪を非常に憎悪せり。
 この国の人は善良なる意志を有し、よく人と交わり、大いに知識を求め、デウスのことを聴き、これを解するときは甚だ喜べり。
 予が一生のうちに観たる各国のうち、キリスト教国とキリスト教国にあらざるとを問わず、かくの如く盗を憎む所無し。…
 彼らは道理に合えることを聴くを喜び、罪悪行わるるも理由を挙げてその行うところ非なるを説けば、彼らはこれを禁ずるを道理なりと認む。
 俗人の間に罪悪少なく、また道理に従うことは坊主と称するパードレ及び祭司に勝れり。
 一五四九年 イエズス会士日本通信

宣教師の信長観 一五六九年
 此の尾張の王は、年齢三十七歳なるべく、長身痩躯、髭少なし。声は甚だ高く、非常に武技を好み、粗野なり。
 正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず。
 決断を秘し、戦術は巧みにして、殆ど規律に服せず、部下の進言に従うこと希なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて薄く、日本の王侯を悉く軽蔑し、下僚に対するが如く肩の上より之に語る。
 諸人は至上の君に対するが如く之に服従せり。
 善き理解力と明晰なる判断力を有し、神仏其の偶像を軽視し異教一切と卜を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何者も存せざることを明らかに説けり。
 (耶蘇会士日本通信)

利休の侘び茶
 宗易の云く、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事也。
 家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは、俗世の事也。
 家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。
 是仏の教え、茶の湯の本意也。
 水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶を点てて、仏に供え、人にも施し、吾も呑む、花をたて香を焚く、皆行いのあとを学ぶ也。

島原の乱
 長崎の奉行は反乱の原因を調査し、それが有馬の地の領主である松倉勝家の過酷を極めた虐政によるものであることを見いだした。
 すなわち農民は毎年、一般の貢ぎ物として米と小麦と大麦とを納めたが、その上にヌノとカンガとの二種類を納めなければならなかった。
 更に煙草一株につき税としてその葉の半数を取られたが、それは常に極上で、最も大きな葉が選ばれた。…
 すべては哀れな農民の血と汗の代償として、勝家の収入を増すために行われたので、納められない人々は迫害を加えられ、その妻を取り上げられた。
 たとえ妊婦でも容赦なく凍った水中に投じられ、そのため命を失う者も少なくなかった。…
 勝家の奉行や役人達が、このような傲慢、暴虐によって農民に圧制を加えたことが原因となって、その領主に対する蜂起、反乱となったのであって、キリスト教徒によるものではない。
 ところが、勝家の重臣達は、これはキリスト教徒が蜂起したものと言明して、その虐政を覆い隠し、日本国中の領主達と幕府に対して面目を失わないよう図ったのであった。…
 島原の叛徒は、日野江城と原城の二城を占領し、総勢が立て籠もった。城の固めは厳重だったが兵糧の用意が足りなかった。
 そのことが落城の原因の総てであった。婦女子を除いて三万五千以上の大軍を擁していたからである。
 叛徒は勝家の米倉と軍船を焼き払い、島原の城は殆ど陥落するばかりになった。
 一揆の全軍を指揮した司令官は益田四郎という少年で、十八歳を越えていないということである。
 (ドアルテ・コレアの島原一揆報告書)

フィルモアの国書 一八五二年
 予が志、二国の民をして交易を行わしめんと欲す。
 是を以て日本の利益となし、亦兼ねて合衆国の利益となさんことを欲してなり。
 貴国従来の制度、支那人及びオランダ人を除くの外は、外邦と交易することを禁ずるは、固より予が知るところなり。
 然れども、世界中時勢の変換に随い、改革の新政行わるるの時に当たりては、そのときに随いて新律を定るを智と称すべし。
 蓋し貴国旧制の法律初めて世上に聞こえしの時は、今よりこれをみれば、既に甚だ古りたり。…
 予更に水師提督に命じて、一件のことを殿下に告明せしむ。
 合衆国の舶毎年カリフォルニアより支那に航するもの甚だ多し。
 又捕鯨のため、合衆国人日本海岸に近付くもの少なからず。
 而してもし暴風あるときは、貴国の近海にて往々破船に遭うことあり。もしこれらの難に遭うに方っては、貴国においてその難民を撫恤し、その財物を保護し、以て本国より一舶を送り、難民を救い取るを待たんこと、是予が切に請うところなり。…
 蓋し日本国に石炭甚だ多く、又食料多きことは、予が曾て聞き知れるところなり。
 我が国用うるところの蒸気船は、その大洋を航するにあたって、石炭を費やすこと甚だ多し。
 而してその石炭をアメリカより搬運せんとすれば、その不便知るべし。
 これを以て予願わくは、我が国の蒸気船及びその他の諸舶、石炭、食料及び水を得んが為に、日本に入ることを許されんことを請う。…
 (アメリカ第十三代大統領の国書 ペリー持参)

日露和親条約 一八五五年二月七日 下田
第二条 今より後、日本国とロシアとの境、
 択捉島とウルップ島との間に在るべし。
 択捉全島は日本に属し、ウルップ諸島はロシアに属す。
 樺太島にいたりては日本国とロシア国との間において界を分かたず、これまでしきたりのとおりたるべし。

教育勅語 一八九〇年 クリック
 朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト広遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ代々厥ノ美ヲ済セルハ是我カ国体ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス。
 爾臣民、父母ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭謙己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ、学ヲ修メ業ヲ習イ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ広メ世務ヲ開キ、常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。
 是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン。
 斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ順守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服庸シテ其の咸徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

 明治二十三年十月三十日

 御名 御璽

 お百度詣で
太陽 大塚楠緒子
ひとあし踏みて夫思い
ふたあし国を思えども
三足ふたたび夫おもう
女心にとがありや

朝日に匂う日の本の
国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人もこの世に只一人

かくて御国と我夫と
いずれ重しととわれなば
ただ答えずに泣かんのみ
お百度詣ああとがありや

 君死にたまふこと勿れ
  (旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
一九〇四年 明星 与謝野晶子
 あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、
 末に生れし君なれば、親のなさけはまさりしも、
 親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしへしや、
 人を殺して死ねよとて、二十四まで育てしや

 堺の街のあきびとの、旧家をほこるあるじにて、
 親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、
 旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの、家のおきてに無かりけり。

 君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦ひに、
 おほみずからは出でまさね、かたみに人の血を流し、
 獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、
 大みこゝろの深ければ、もとよりいかで思おぼされむ。

 あゝをとうとよ、戦ひに、君死にたまふことなかれ、
 すぎにし秋を父ぎみに、おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中にいたましく、わが子を召され家を守り、
 安しと聞ける大御代も、母のしら髪はまさりぬる。

 暖簾のれんのかげに伏して泣く、あえかにわかき新妻を、
 君忘るゝや、思へるや、十月とつきも添はでわかれたる、
 少女おとめごゝろを思ひみよ、この世ひとりの君ならで、
 あゝまた誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ

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