古事記 日本書紀

古事記
 イザナミはイザナギを誘ってまぐわい、蛭子が産まれたので葦船に入れて流した。次の淡島も同じであった。
 そこで今度はイザナギがイザナミを誘ってまぐわい、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州、児島(半島)、小豆島、瀬戸大島、姫島(豊後水道)、五島列島、男女群島(五島の南西)が次々に産まれた。二人は国を産み終わってから、家屋、海や川、風や木、山や野の神などを次々に産んだ。
 そして最後に火の神を産むとイザナミは陰部を焼かれて死んだ。

 イザナミが死んだのでイザナギは嘆き悲しみ、その亡骸を出雲と伯耆の国境の比婆山に葬った。
 イザナギはイザナミを懐かしみ黄泉の国を訪れて、まだ国産みは終えていないから現世に還れとせがんだがイザナミはすでに黄泉の国の食べ物を食べ醜い姿になっていた。
 イザナミはそれでもイザナギの心に従おうと思い、しばらく待ってくれと頼んだがイザナミは待ちきれずに黄泉の国へ足を踏み入れ、清いつま櫛の一歯を折って闇の中に火を灯した。
 見るとイザナミの肢体は胸にも、陰にも燐が光り浅ましくも醜い姿であった。
 イザナギはこれを見て驚いて逃げだすとイザナミは怒りにふるえ、黄泉の醜女、千五百の黄泉の軍を繰りだして追いかけた。
 イザナギはそこで黒い髪飾りの蔓草や先ほどの櫛を後ろ手に投げつけながら黄泉の比良坂に来て坂本にある桃の実を投げつけてやっと難を逃れた。

 現世に帰還したイザナギはその比良坂に千引岩を立ててなおも追い来る醜いイザナミに離縁を言い渡した。
 イザナミはいきりたち
「愛しきわが汝背の命、かくせば汝の国の人一日に千頭絞り殺しに殺さん」と呪ったが、イザナミも負けずに
「愛しきわが汝妹の命、しかせばわれ一日に千五百の産屋を建てん」と言い返した。
 そしてイザナギが言い勝ったので、人は一日に千人死に千五百人産まれることとなった。
 イザナギは黄泉の国の汚れを去ろうと筑紫の日向へ行き、そこで清い流れに身を浸して禊ぎ祓いをした。
 イザナギが清浄の身になって左の目を洗ったとき産まれたのがアマテラスであり、右の目からはツクヨミ、鼻からはタケハヤスサノオが誕生した。

 スサノオは種々の暴行をはたらくようになった。
 アマテラスの営田の畦を切り、溝を埋め、アマテラスの聞こし召す大嘗殿に屎を散らした。
 アマテラスはあえてこれを咎めようとしなかったが、忌みの服屋で神御衣を織っていたとき、その服屋の棟を穿って天の斑馬の皮を剥いで落とし入れ服織女を驚死させるに及んでさすがのアマテラスも怒り天の岩戸に隠れてしまった。そのため天地は真っ暗になった。
 そこで八百万の神々は天の安河原に集いタカムスビの子オモイカネの知恵でアマテラスを岩戸から引き出すこととなった。
 神々は長鳴き鳥を集めて鳴かせ、イシコリドメに鏡、タマノオヤに玉、アメノコヤネ、フトダマの二人に榊を用意させ鏡、玉及び麻織物を榊に垂らし、フトダマには供物を、アメノコヤネには祝詞を奉じさせた。
 そして、アメノウズメはヒカゲノカズラを襷にかけ、ツルマキを髪のかずらとし、笹葉を手に持ち伏せた桶の上に立った。
 そして桶を踏み轟かしながら神が人に乗り移った状態で胸乳を露わに出し腰にまとう裳の紐を押し下げ陰部まで露わにして踊りを続けた。
 八百万の神々がこれを見てどっと笑ったのでアマテラスは自分より尊い神が現れたかと怪しみ岩戸をそっと押し開いた。
 アメノコヤネとフトダマとはすかさず鏡を差しだしてアマテラスに示すとアマテラスは益々怪しみ岩戸から一歩足を踏み出した。
 このとき、岩蔭に待っていたアメノタジカラオはその手を取って引き出し、フトダマがしめ縄を張って岩戸に帰れないようにした。
 こうして高天原、葦原中国までまた照りあかるようになった。
 そこで神々はスサノオに祓いの品を置く台を負わせ髭も手足の爪も抜いて天上から追放した。

 スサノオは追放されて出雲の国の斐伊川の川上の鳥上山に降り立った。
 そこにはアシナズチ、テナズチの老いた夫婦とその娘のクシナダ姫が住んでいた。
 老いた夫婦は姫を中に置いて泣いているのでわけを尋ねると、この地には目は真っ赤なホオズキのように燃え、八つの頭と尾を持ち、その身には樹木が生い立ち、体の大きさは八つの丘を越えわたるほどの越のヤマタノオロチが住んでいて年毎に来ては次々と娘を食ってしまった。
 今年はこの娘の番に当たるので泣き悲しんでいるとのことだった。
 スサノオはこれを聞いて哀れに思いそのクシナダ姫とめあった後、姫を小さな清いつま櫛に化身させ、髪のみずらに隠してしまった。
 次に老夫婦に命じて八度も発酵を重ねて醸造した強い酒を造り、垣根の八ヶ所の門ごとに一つずつ酒船を置いて酒をなみなみと注がした。
 こうして待っているとはたしてオロチが現れて酒船の酒を次々と飲み遂に酔いしれて眠ってしまった。
 このときスサノオは十束剣を抜いてオロチを切る散らしたので、斐伊川は血で真っ赤になった。
 そして尾を裂くとツムガリの太刀が発見された。
 スサノオは不思議に思いこの太刀をアマテラスに奉った。
 スサノオは新居の宮殿を造ろうと出雲の国を探し歩き、須賀の地に宮を造り老父アシナズチをその首長としクシナダ姫と結婚した。
 この二人の間にもうけた六代目の子孫が大国主である。

 大国主の兄弟は八十神あったが彼らは大国主に国を譲って退いた。
 それは次のような事情からだった。
 ある日、八十神達は各々八神姫を妻にしようと思いオオムナチに袋を負わせ因幡に向かう途中気多の海辺で裸の兎を見つけた。
 この兎は隠岐の島に住んでいたがこの地に渡ろうとして鰐鮫を騙したので衣服を剥がされたのであった。
 八十神は兎を憐れまずかえってこれをいじめたがオオムナチは傷を治す方法を教えてやったので兎はもとの体になった。

 八頭姫はオオムナチの妻になる意志を八十神に明らかにしたので八十神はオオムナチを殺そうと謀り、伯耆で赤猪猟に誘い火で焼いた大石を猪に見かけて追い落としたのでオオムナチは死んでしまった。
 泣き悲しんだ母の御祖神は天上のカンムスビに請願した。
 そこでカンムスビはキサ貝姫と蛤貝姫を遣わして薬を作らせたのでオオムナチは生き返った。
 八十神はさらにオオムナチを山に誘い大木の割れ目に騙し入れて押しつぶした。
 このときもオオムナチは命を失ったが御祖神が死体を探し出して治療して生き返らせた。
 御祖神はまた凶事が起こるのを恐れてオオムナチを紀の国の大屋彦のもとへ避難させた。
 しかし八十神はそこへも追っていったので大屋彦はオオムナチをスサノオの居る根の堅州国へ遣わした。

 オオムナチがスサノオのもとへ行くと娘のスゼリ姫に合った。
 二人は直ちにまぐわいした。
 姫が「いと麗しき人来ましつ」と父に報告するとスサノオはいで見て
「これこそ葦原しこ男ぞ」と讃えた。
 スサノオはオオムナチに数々の試練を与えた。
 蛇の部屋に寝かせたり、百足と蜂の部屋に寝かせたり、鳴り鏑を大野の中に射入れてその矢を取ってこいと命じ周りから火をつけたりした。しかしオオムナチはそのつど妻のスゼリ姫や鼠の知恵で助かった。
 スサノオはオオムナチを家へ連れてかえり今度は自分の頭に巣くうシラミを取れと命じた。見るとそれは百足であった。
 やがてスサノオが眠りにはいるとオオムナチはその隙を狙ってスサノオの生太刀と生弓矢と天詔琴を奪いスゼリ姫を背負った逃げだした。
 そのとき詔琴が木に触れて地もとどろに鳴ったのでスサノオは目を覚ましオオムナチを追いかけた。
 しかし黄泉比良坂まで逃げ延びると遂に及ばなくなった。
 このときスサノオはオオムナチを讃えて
「その汝が持てる生太刀、生弓矢を持って汝が庶兄弟を坂の御尾に追い伏せ、また川の瀬に追い払い大国主となり、またうつし国玉の神となりわが娘のスゼリ姫を嫡妻としウカノ山の山本に底津石根に宮柱太しり高天原に千木高りして居よ。是汝」と言った。
 こうしてオオムナチは国を造ることになった。

 大国主が出雲の美保の崎に居たとき波の穂を分け天蔓草船に乗り鵞の皮の衣を着てやってきた神があった。
 それはカンムスビの子のスクナヒコで
「汝葦原のしこ男と兄弟としてその国を造り固めよ」との命に従ってやってきたのである。
 このスクナヒコは「ことごとく天の下のことを知れる神」であった。
 大国主とスクナヒコは二人してこの国を造り固めた。
 後にスクナヒコは海を渡って常世の国へ行ったので大国主は「何れの神と共に国造りをしたらよいか」と憂えたがこのとき三輪山の神が海を照らして現れ「相造り成さん」と言った。

国譲り物語り
 天照は「豊葦原の瑞穂国はわが子アメノオシホミミの支配する国である」として彼をこの国土へ遣わすこととした。
 しかしそこは荒ぶる国神達が居て非常に騒がしい状態であった。
 そこでタカムスビと天照の命により八百万の神々は天の安河原に神集いしてオモイカネの知恵で将軍を下界に遣わして説き伏せることにした。
 そしてアメノホヒが遣わされたが彼は大国主に媚びつき三年経っても復奏しなかった。
 高天原の神々はそこで天若彦に弓矢を賜って説き伏せさせた。
 しかしこの神も八年経っても復奏しなかったので神々は鳴き女という雉を遣わした。
 ところが天若彦は「その鳴く声いと悪し」と言って矢を放ち雉を射殺してしまった。
 しかもその矢は雉の胸を貫通して高天原にまで達した。
 高木がその矢を取って地上に放つと眠っていた天若彦にあたって彼はなくなった。
 高天原の神々は三度目にタケミカズチノオを下界に送った。
 この神は出雲の大社付近の浜に降り立ち十束剣を突き立て
「汝が占有しているこの葦原中国は御子の支配すべき国である」と宣言した。
 このとき大国主の子コトシロヌシはたまたま魚釣りに出かけていたが帰ってきて国土の返上を承知し乗ってきた船を踏みかたぶけ青柴垣に身を隠した。
 一方もう一人の子のタケミナカタは承知せずタケミカズチノオに力比べを迫ったが結局かなわないで信濃の国諏訪の海まで逃げたあげく帰順した。そこで大国主も国土の返上を誓うこととなった。
 タケミカズチノオはたぎしの小浜に天御舎を造って大国主を祀り、国土平定の終わったことを高天原に報告した。

天照の孫降臨
 神々はアメノオシホミミの子ヒコホノニニギに豊葦原瑞穂国を治めさせることにした。
 いよいよ天下りを始めると天の八街で上は高天原下は葦原中国を照らす者が居たのでアメノウズメにその名を問わせると、それは猿田彦が天照の孫降臨の御前に仕えるために現れたのであった。
 神々はニニギにアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤを従えさせ八尺の勾玉、鏡、草薙の剣を授け
「この鏡はわが御霊としてわが前をいつくが如くいつき奉れ」と命じた。
 ニニギは天の岩倉を離れ天の八重棚雲を押し分け筑紫の日向の高千穂のクジフル岳に天下った。
 そのときアメノオシヒと天津久米は天の石ゆきを負い、くぶ椎の太刀をはき、天のはじ弓を持ち、天のまかご矢をたばさんで御前に立って仕え奉った。

 ニニギは笠沙の岬で美しい一人の乙女に合った。
 名を問うとオオヤマツミの娘アタツ姫と言った。この美しい娘はまたの名をコノハナサクヤ姫と言ったが姉の石長姫は醜い女であった。
 ニニギは美しい妹を娶りたいと思いその父君に乞うとオオヤマツミは喜び醜い姉も一緒にニニギに奉った。
 しかしニニギは石長姫があまりにも醜いので送り返しコノハナサクヤ姫と一夜の契りをした。
 ニニギはコノハナサクヤ姫が一夜で妊娠したのを不審に思って彼女を咎めた。
 姫はこれに答え
「わがはらみし子もし地元の男の子ならば無事に産めないであろう。もしニニギの御子ならば無事に産めるであろう」と言い戸口のない八寿殿に入り周りを土で塞ぎ火をその周りに付けて産んだ。
 こうしてその火の燃えさかるときに三柱の神が産まれた。
 三柱はホデリ、ホスセリ、ホオリであった。
 ホデリは海幸彦といいホオリは山幸彦といった。

 

 山幸彦は兄に獲物を捕る道具を交換しようと乞いやっと許されて釣り針を得て魚を釣りに行ったが一魚も得られないばかりか釣り針を無くしてしまった。
 山幸彦は剣をつぶして五百本、千本の釣り針を作り償おうとしたが海幸彦はどうしてもその罪を許さなかった。
 山幸彦が途方にくれていると海の霊が海辺に現れ海の神の宮への道を教えてくれた。
 その宮には海神の美しい豊玉姫がいて従女と水を汲んでいるところであった。
 姫は山幸彦を恋しく思いすぐまぐわいして父の海神に彼を紹介した。
 海神は手厚くもてなし山幸彦は姫と共に三年間その宮に居着いてしまった。
 山幸彦は釣り針のことを思い出して海神に訴えると海神は大小の魚どもを呼び集めて問うた。
 すると一匹の鯛が喉に何かが突き刺さって物が食べられず困っていることがわかった。
 その鯛の喉を探るとはたして針が見つかったのでこれを山幸彦に与えた。
 海神はさらに故郷へ帰って兄に釣り針を返してもなお聞き入れられないときの用心にと呪文を教え潮の満ち引きを自由にする潮満玉、潮乾玉を授けた。
 山幸彦はそれを貰って一匹の鰐鮫に乗って故郷へ帰った。
 兄の海幸彦はなおも山幸彦を許さなかったが
「攻め戦わば潮満玉を出して溺らし、もしそれ憂いもうさば潮乾玉を出して活かし」と海神から教えられた通りに兄の海幸彦をさんざん苦しめたので海幸彦は降参して
「吾は今より後汝尊の昼夜の守り人となりて仕え奉らん」と誓った。
 その子孫は今に至るまでその溺れたときの種々の技を演じて絶えず仕え奉っている。

 海神の娘の豊玉姫は後から追いかけてきて海辺の渚に鵜の羽をもって萱として産屋を造り山幸彦の子を産もうとしていた。
 姫は
「あだし国の人は産むときになれば本つ国の形をもって産むなり。願わくは吾をな見まさいそ」と言って八尋鰐の姿になった。
 山幸彦はそれを覗き見し驚いて逃げたので姫は
「これはいと恥ずかし」と言って子を産み終えたまま海へ帰っていった。
 この御子がアマツヒタカヒコナギサタケウガヤフキアエズである。
 山幸彦は高千穂の宮に住まいウガヤフキアエズはその乳母の玉依り姫を妻として磐余彦ほか四人の男子を産んだ。
 
日本書紀
神武天皇
・磐余彦一五歳で太子となり日向のアヒラツ媛を后としタギシミミを産む。
  ・四五歳。
 塩土老翁に聞きしに、
「東に美国あり。青山四に周れり。
 その中に天磐船に乗りて飛び降れる者あるといえり。
 余おもうに、彼の地は必ず以て天業を広め弘べて、天下に光宅るに足りぬべし。蓋し六合の中心か。
 その飛び降れる者は、おもうにこれニギ速日というか。
 何ぞ就いて都らざらんや。」
 と言い諸皇子、船師を率いて東征に向かう。
  ・速水の門で倭直部の始祖に導かれ宇佐に着く。
  ・宇佐で国造の祖、宇佐津彦が食事を出し侍臣の中臣氏の遠祖に宇佐津媛を娶す。
  ・筑紫の崗の水門に一年滞在し安芸に至り七年滞在
・吉備に入り行宮の高島宮を建て八年滞在
・浪速に至る。水路をさかのぼり草香の邑、白肩の津に至る。
  ・生駒山で長臑彦と戦い流れ矢が五瀬の肘に当たる
・紀伊の亀山で五瀬亡くなる。
  ・名草の村で名草トベを討つ。
  ・熊野に至り暴風に遭い兄二人海に入って亡くなる
・タギシミミと荒坂の津でニシキトベを討つ。
  ・月の輪熊を見て全員病気になり高倉下に剣を貰って元気になる。
  ・山中で道を失い、やた烏と大伴氏の遠祖に導かれて宇陀の下県に達する。
  ・弟猾を味方に付け兄猾を討つ。
  ・吉野首部、吉野のクズ部、鵜飼部の始祖の協力を得る。
  ・磯城でヤソタケルを殺しその一族を宴席で謀殺する。
  ・弟磯城を味方に付け兄磯城を討つ。
  ・長臑彦がその神主の物部氏の遠祖に殺される。
  ・葛城、磐余で土蜘蛛四人を殺す。
  ・畝傍山東南の橿原に宮を造る。
  ・媛蹈鞴五十鈴姫を正妃とする。
  ・橿原の宮で即位する。
  ・皇子ヤイとヌナカワミミ産まれる。
  ・ウズ彦をヤマトの国造、宇陀の主水部の遠祖弟猾を邑の県主、弟磯城を磯城の県主、やた烏(苗裔は葛野の主殿の県主部)を賞した。
  ・ヌナカワミミを皇太子とする。
  ・橿原の宮で崩じ畝傍山の東北陵に葬られる。
  ・タギシミミは父の妃を娶い弟を殺そうとしてヤイとヌナカワミミに殺される。
 ヤイは肥の君、阿蘇の君、筑紫の三家の連、小長谷造、
 柘植の直、伊予の国造、信濃の国造、陸奥の磐城の国造、
 常陸の那珂の国造、伊勢の船木の直、尾張の丹波の臣等の祖である。
 
長臑彦(要旨・解説)
 古くから大和にいた集落の長。
 難波へ上陸した五瀬皇子、磐余彦は信貴越えか亀瀬越えで生駒山を越え大和へ入ろうとした。
 しかし長臑彦は河内の草江の坂へ出て、これを追い払った。
 五瀬皇子はそのときに負った流れ矢の傷がもとで没するが、残った磐余彦は仲間と共に南の熊野から再上陸し、大和入りを再開した。
 数々の味方を得たり敵を倒したりして磐余彦は進み、長臑彦は再び対決することになった。
 争いは一進一退であったが休戦して和議に入った。
 そこで長臑彦は自分の妹ミカシキヤヒメが天孫ニギハヤヒの命へ嫁しており、天津神の子を奉じていることで正統性を主張した。
 またニギ速日命が天津神の子である証拠も示した。
 しかし磐余彦もまた天津神の子である証拠を示した。
 天津神間のことが理解できなかった長臑彦は、再び武力に訴えようとした。
 これを知ったニギ速日命は、長臑彦を討って磐余彦に帰順した。
 大和に割拠した勢力が次第に朝廷中心に統一されていったことを確認する筋立てである。
 ニギ速日命は物部氏の遠祖とある。
 
倭トト日百襲姫の命
 第七代孝霊天皇の娘。母は磯城県主の娘。
 未然のことを察知する能力に秀でた女として知られ、第一〇代崇神朝に、大彦命が耳にした童女の歌謡の意味を解き、武埴安彦の謀反を予知した。
 三輪山の大物主神との神婚説話をもつ。
 姫命は、ある日、夜分に通ってくる夫の顔を見たいと請うた。
 大神は、道理であるとし、翌朝に女の櫛笥に入っていると約したが自分の姿に決して驚かぬよう念をおして去った。
 しかし姫命は、明くる朝、櫛笥の中にいた長さ太さが衣紐のような小蛇の姿を見て驚き叫んでしまった。
 大神は恥をかかされたと思い、女にも恥をかかせてやると言って、三輪山へ帰っていった。
 はたして姫命は空を仰ぎ、悔いて腰を落としたが、そのとき、箸に陰部を突かれて没した。
 姫命の墓は昼は人造り夜は神造るといわれる大作業で、大阪山から墓まで人を並べ、山の石を手渡しで運んで墳丘に葺いたという。
 姫命には大物主神がよりついた記事もあり神意を体でうける巫女としての原初的あり方が窺われる。
 箸墓と称する古墳発生期、三世紀後半頃の墳墓が、奈良県に現存している。
 それを「魏志」にある、死せる女王のために築いた「径百余歩」の塚の記載と符合しにくいが、姫命の事跡と共通点もあるので、卑弥呼と姫命を同一人物とみる説が起こったこともある。
 
崇神天皇(要旨・解説)
 第一〇代天皇。
 第九代開化天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒビ)の次男。
 母は物部氏の遠祖。
  ・十九歳で皇太子になる。
  ・ミマキ姫を皇后とする。他に紀伊と尾張の妃あり。
  ・磯城へ遷る。
  ・天照大神を紀伊の妃との間に産まれた豊鋤入姫に託し倭の笠縫邑に祀る。
  ・太田田根子を探して大物主神を祀らせる。
  ・大彦を越の道(越前、越中、越後)へ、武沼河別を東方の一二国へ、ヒコイマス王を丹波の国へ遣わした。(四道将軍の派遣)
・出雲フルネの反乱を抑えた。
  ・河内、大和に多数の池溝を造り(依網池、カリサカの池、
 酒折の池)一方で人民を校定してユハズ調、手末調を徴発した農業開発、税制の開始。
 「イリ王朝」「三輪王朝」という新政権の創始者とみる説もある。
 古代天皇の贈り名は後世の創作とみられる名が多いが、崇神(ミマキイリ彦)と垂仁(活目イリ彦)のイリは造作した証拠が無く実在を否定できない。
 姑が三輪山を神体とする大物主神の妻となり、宮居磯城端垣の宮が三輪山麓であることから、崇神朝は四世紀前後、三輪山の祭祀権を奪って新政権を樹立したものという。
 これに関連して崇神の贈り名の「ミマ」が朝鮮の任那(王の地の意)に由来するとし、崇神は任那にいた騎馬民族の首領で渡海して大和または九州を武力制圧した制服王朝の初代であるとする説もある。
 崇神は神武と共にハツクニシラス天皇と言われ、始祖伝説が二重であることもこれらの説の根拠になっている。
 また一続きだったハツクニ記事を国史編纂過程で分割したとする解釈、崇神が本来の始祖であったが神武を観念上の始祖として後に架上したとする説がある。
 


垂仁天皇
 第一一代天皇。
 第一〇代崇神天皇の子で母は大彦の命の娘。
 三輪山麓の纏向のタマキの宮を宮居とした。
 外交では、任那の王子ツヌガアラシトの帰国に際し、新羅が紛争を起こし新羅・任那間に隙を生じたこと、新羅の王子天日槍が六種の神宝を携え、近江、後但馬へ移って住した。
 国内では、皇后とその兄サホ彦の謀反、大和の当麻の蹴速と出雲の野見宿禰の相撲、大和姫の命の死没に際し殉死を禁じ、新皇后ヒバスヒメノ命の葬送では埴輪が創案された逸話がある。
 事物の淵源についての説明が多く、細かくいうとホムツ別王が鵠を見てものを言うようになった逸話から、鳥取部、ホムツ部の創設が語られ、イニシキの命が石上神宝を創出し管理していた話から川上部以下一一の品部の設定と物部氏への官吏権の移行などを説明して起源を明示している。
 全体として天皇本人の事跡とすべき記事が少なく、独自性がない。
 諡を活目入彦といい、崇神と共に古様な「イリ」の名なので、実在生が高い天皇である。
 しかし諡の他に信ずべきものは少ない。

 


景行天皇
 第一二代天皇。
 纏向ヒシロの宮にいて、後に志賀高穴穂の宮へ遷った。
 その大半が蝦夷、クマソなど帰服せぬ征討談である。
 まず九州を巡行し、クマソタケル、熊県の弟熊らを討ち、その他多数の土蜘蛛を制圧している。
 ついでクマソが再び叛したことや東方の蝦夷についての情報を受けて、子のヤマトタケルノミコトにクマソ征伐、蝦夷征伐を命じた。
 しかしヤマトタケルノミコトは生還できず、天皇は彼の死を悼み偲んでその平定の跡をたどり、上総あたりまで巡行した。
 また征伐の一方で天皇の八〇人の子女中、七七人を国造・別・稲置・県主に任じ国郡を授けたといい、この時期に大和朝廷の国土の拡大と内政安定が図られた。
 諡はオオタラシ彦オシロ別という。
 タラシは舒明以降の七世紀に多いが別は応神から始まる五世紀特有の称である。そこで系譜上否定できない。
 だが「景行記」にはヤマトタケルノミコトの征討談しかなく、これを除くと天皇独自といえる事跡はない。

景行天皇の二男ヤマトタケル
 ある日天皇はオウスに向かい
「どうしたことか汝の兄は朝夕の食事に姿を見せない。汝がいって兄をさとせ」と命じた。
 しかしそれから五日たっても兄は姿を見せなかった。
 天皇は不審に思い問いただすとオウスは
「朝早くかわやへ入るところを待ち捕らえて掴み拉ぎ手足をもぎ取って薦に包んで投げ捨ててしまいました」と答えた。

 天皇はオウスの健く荒きことをかって西の方のクマソの調略を命じた。オウスはおばの大和姫の衣、裳を給わり剣を懐に入れて任地へ向かった。クマソの家では宴が行われていた。
 そこでオウスは女装して易々とその中にたち交じり宴たけなわのときにわかに立って兄のクマソタケルを刺し弟も組み伏せてしまった。
 弟はオウスの勇武に驚き
「西の方に吾二人を除き健く強き人なし。
 しかるに大和の国には吾二人にまさり健く男はましけり」と言って倭建命の名を奉った。
 オウスは帰路、山の神、川の神皆と和平し、出雲の出雲建とも和平して大和の都へ帰還したが父の天皇はその勇武を恐れてか再び東方十二国の人たちとの和平を命じた。
 オウスは伊勢の大御神の宮に立ち寄り大和姫に別れを告げ姫から草薙の剣と袋を給わり、尾張では国造の祖ミヤズ姫を訪れ帰り上れるときには結婚することを誓って東国へ下っていった。
 オウスは相模の国の焼津でその国の国造に欺かれ野火に攻めたてられたが草薙の剣を抜いて草を切り払いその難を逃れた。
 さらに道を東にとって、走り水の海を渡ったが暴風雨にみまわれ危うく命を落とすところであった。
 しかし妻の弟橘姫が身を海中に投じて海神の怒りを和らげた。
 オウスはこうして「荒ぶる蝦夷」たちと和平し
「山川の荒ぶる神ども」と和平し相模の足柄、甲斐、信濃を経て尾張へ入った。
 ここでオウスはミヤズ姫と契りを果たしたが草薙の剣をそこへ置いて旅立った。
 このころにはオウスの体はいたく衰えついにノボノでその生涯を閉じその魂は美しい白鳥になって天へ昇っていった。

日本武尊(要旨・解説)
 景行天皇の子で、母は播磨の吉備氏の娘。
 勇猛さを恐れた父景行の命令で、九州のクマソ征伐に送られる。
 そこで首領クマソタケル兄弟の家が新築を祝って御室楽をしていたので、その隙に乗じ女装して侵入した。
 宴たけなわの時、先ず兄を刺し、ついで弟を討ったが、その弟から「ヤマトタケルノミコト」の名を献上された。
 帰還の途中、出雲へ立ち寄り、策を用いて出雲タケルも討ち取って凱旋した。
 ところが父景行は再び東方十二道の征伐を命じた。
 ヤマトタケルは、遠征を終えたばかりで、またさしたる軍勢も付けずに送り出される無道をおばに訴え嘆いた。
 おばは草薙の剣と火打ち石を持たせて出征させた。
 東征ではまず相模の国造に騙され野火に囲まれたが、剣と火打ち石のおかげで助かる。
 以降進んで東北南部あたりの蝦夷までを平定し、帰路には東の国造を定め、足柄坂や信濃坂の神も従わせた。
 尾張のミヤズ姫と結ばれたが、剣をおいて伊吹山の神を討ちに行って失敗し、伊勢のノボノで病没した。
 東征中、走り水で妃の弟橘姫が海神に身を捧げ、ヤマトタケルが「吾嬬はや」と妻を偲んだとか、凱旋を目の前にして大和の風景を思い浮かべながら瞑目するなど、悲劇的場面も記されている。
 紀も同様な筋立てだが文学性に乏しい。
 なお風土記に「倭武天皇」とあり、天皇に数える所伝もあった。

神功皇后
 皇后の夫の仲哀天皇は筑紫の香椎の宮で仲の悪いクマソと和平することになった。
 ところがある日、琴をかきなぜタケチノスクネが沙庭に侍って神の命を請うと皇后は神懸かりして
「西の方に国あり。
 金銀を始めとし目燃え輝く種々の珍宝多にその国にあり。
 われ今その国を帰せ賜ん」と神の言葉を口走った。
 しかし天皇はこの言葉を信じなかったので神の怒りに触れて命絶えてしまった。
 人々は国の大ぬさをとって罪という罪、汚れという汚れを去り身を清浄にしてまた神の真意を問うと
「およそこの国は汝が御腹にまします御子の知らさん国ぞ」という託宣を垂れた。
 それは何れの御子かを尋ねると「男子ぞ」と答えこれは天照大御神の御心でありソコツツノオ、ナカツツノオ、ウワツツノオという三柱の神であって
「わが魂を船の上に座さしめ、真木の灰をひさごに納めまた箸、ひらでまでを多に作りて皆々大海に散り浮けて渡らすべし」という託宣であった。

 はたして皇后が神々を祀り軍をととのえ船を浮かべて海へ乗り出すと海原の魚はことごとく御船を負い、追い風を受けた御船は一気に進みその波は新羅の国へ押し上がって国の半ばにまで達した。
 こうして新羅王は霊感の前に降り年毎に船を並べて朝貢し天地と共に変わることなく天皇に仕え奉ることを誓った。

 皇子を孕んでいた神功皇后は石の御裳を腰に巻いてそれを鎮めながら軍に従っていたが筑紫に帰還するとすぐに皇子を分娩した。
 これが後の応神天皇である。
 この地は宇美と名付けられ御裳に巻いた石はいま筑紫の伊都村にある。
 また皇后は松浦県の玉島の川辺で御裳の糸を抜き飯粒を餌として川の年魚を釣ったがその習慣は今もその地に残っている。

 神功皇后は筑紫から大和へ凱旋することとなったが腹違いの二人の皇子カゴサカ、オシクマの二王は皇后が応神天皇を伴って大和へ上ってくるのを妬み二人を討ち取ろうとした。
 しかし応神方はワニの臣の祖タケフルクマを将軍として戦ったので二王は追われて琵琶湖へ身を投じてしまった。

 タケチノスクネは太子の応神を連れて汚れを去って禊ぎをしようと近江、若狭を経て越の敦賀に仮宮を造り太子をその地においた。
 そのときケヒの大神は越の海のイルカを御幣として奉ったが浜に上がったイルカの鼻が血濡れて悪臭を放ったのでこの地を血浦のちに敦賀と呼ぶようになった。

 太子の応神はついに大和へ帰還した。神功皇后は待ち酒を造りこれを太子へ奉りタケチノスクネはそれを讃えた。

神功皇后(要旨・解説)
 第一四代仲哀天皇の皇后。
 第九代開化天皇の曾孫オキナガノスクネ王の娘で、母は朝鮮からきた天日槍の玄孫葛城タカヌカ媛。
 夫仲哀がクマソ討伐を企て筑紫の橿日宮へ赴いたときに、神懸かりして、金銀彩色の豊かな新羅を先んじて討つべきだと説いた。
 仲哀は従わず宮で急死すると、神功は妊娠中の臨月の身をおし、男装して新羅征伐へ向かった。
 追い風を受けて進撃、風波が新羅の国中を浸したこともあって、新羅王は降伏した。
 土地の図面、人民の籍を差し出させ、今後は飼部となり、春秋には男女の調を出すとの誓約もさせた。
 さらにこの噂を確かめた高句麗、百済の二王も降って朝貢を約した。
 (三韓征伐)
 帰国後、ホンダワケ皇子を産み、海路、大和へ入ろうとした。
 だが前皇妃の子オシクマ王に叛意あるを察知し、神功は武内スクネと武振熊らを遣わして山城・近江で討たせ、これを敗死させた。
 その後ホンダワケを皇太子に立てながら執政し、卓淳国・百済と親交したり新羅を討つなどした。
 神功は名をオキナガタラシ媛といい、この話は近江の国坂田郡のオキナガ氏の祖先女神伝承をもとにしたものとの説もある。
 後に継体天皇が近江から中央へはいると近縁だったオキナガ氏も中央へ進出してゆき、帝記・旧辞の内容に影響を与えたたという。
 神功が皇后でありながら紀に天皇並に一巻を割り振られた特別な扱いや、ホンダワケ(応神)が九州で生まれたことから、従来の天皇家を倒し新しい王朝を始めたと推定する主張もある。

応神紀
 天皇はその妃の兄姫の請いにより瀬戸内海を通って吉備へ行幸した。
 天皇がハタの葦守宮にあったときミトモワケがかしこんで兄弟子孫を膳夫として御餐を奉った。
 そこで吉備の国を割いてその子らに分け与えた。
 まず長子のイナハヤ別には川島県、次男のナカツ彦には上道県、末子のオト彦には三野県を授けミトモ別の弟の鴨別にはハクキ県、兄のウラゴリ別にはソノ県そして応神妃の兄姫にはハトリ県を授けた。

日本書紀
 第一五代天皇。
 第一四代仲哀天皇の子で、母は神功皇后。
 初め軽島豊明宮、後難波大隅宮へ宮居を遷した。
 在位中の記事には対外関係のものが多い。
 百済の振斯王の欠礼を咎めて派兵し王を替えさせたこと、新羅が弓月君傘下の人々の渡来を妨げているとして(三八二年)葛城襲津彦・平群木菟スクネらを送り込んだこと、高句麗の上表文の書式の尊大さを怒って状を破棄したことなどがあり、三国との確執がうかがわれる。
 その一方、先進文化や技術の渡来の様も多く記され、秦氏の祖弓月君、東漢氏の祖阿知使王・都加使主、西文氏の祖で論語・千字文を伝えたとされる王仁などがそれぞれ多数の党類を率いて来朝した。
 これらが総て応神期の出来事かどうかを明らかにする他の証拠はないが、対外的に活発な交流があった時期の大王という記憶が廷内にあって、まとめて記したのではないか。
 応神は和風贈り名をホンダワケまたは大鞆ワケといい、美称が含まれず実名に近い。
 ワケという名称を含むが、ワケを称した天皇は後にも第一七代履中、第一八代反正の例しかなく、その点も後世の造作の跡が希薄である。
 応神朝は前王朝とやや断絶しており、第一二代景行の孫の仲姫を皇后に立てた王朝に婿入りして新しい王朝としたとする説、九州で生まれて大和へ入ったことから五世代前の崇神に率いられて九州へ侵入した騎馬民族が更に難波へ上陸し河内に立てた王朝とみる説がある。

葛城襲津彦
 武内スクネの子で、仁徳の皇后磐之媛の父。
 葛城氏は奈良盆地南西部が本拠で、馬見古墳群がある。
 葛城氏は第一六代仁徳から第二一代雄略の間、大王家の外戚として権勢を誇っていた。
 葛城襲津彦は新羅出兵の将として多数の工人を連れ帰った。
 「百済記」に壬午年(三八二年)(神功紀六二年)のこととして記されている。

仁徳天皇
 大サザキ天皇と称し、第一五代応神天皇の皇子で、母はナカツ姫。
 皇后は磐之媛(葛城氏の娘)倭の五王の讃に比定する説があるが、そうであれば五世紀初頭の王になる。
 また大サザキの名はその山陵からの由来で、実名はホンダワケであり、父応神と同一人格であったものが、父子二人の天皇に分化されたとする説がある。
 陵は堺市の大山古墳に比定されているが、これは五世紀後半の古墳とする見解がある。

履中
反正

允恭天皇
 允恭天皇が亡くなったときその子のキナシカルの太子が位を嗣ぐことになった。
 しかし位につかないうちに太子は同腹の妹のカルノオオイラツメを犯したため人心は弟のアナホの皇子に靡いてしまった。
 そこでキナシカルは大臣の物部のオマエノスクネにたより武器をもって戦おうとしたがアナホの皇子は軍をおこしスクネの家を囲んで太子を捕らえ伊予の湯に流した。

安康天皇
 穴興の皇子は即位して安康天皇となり石上穴興宮で天の下を治めたがオオクサカ王を殺してその嫡妻のナカシ姫を皇后としたのでオオクサカ王の子のマヨワ王の恨みをかった。
 マヨワ王は密かに天皇の隙をうかがってこれを殺し葛城の円大臣の家へ逃げ込んだ。
 安康の弟の大長谷王子はこれを知って怒り軍をおこして円大臣の家を囲んだ。
 円大臣は命によって娘の韓姫と五処の屯宅を献じたがなおもマヨワ王をかばって戦った。
 しかしついに刀折れ矢尽きて自刃してしまった。
 このころ朝廷で大長谷王子に勝るとも劣らない有力者に葛城の黒姫の腹に産まれた履中天皇の子のオシハ王、飯豊郎女らがあった。
 大長谷王子は甲を付け弓矢を取りはき狩にことよせてオシハ王を襲い馬から射落とし八つ裂きにして屍を地中に埋めた。
 オシハ王の二人の王子イケ王、オケ王はこれを聞いて逃れ播磨の国のシジムの家に身を隠し馬飼い、牛飼いとして使われる身となった。

雄略天皇
 大長谷王子は即位して雄略天皇となり長谷朝倉宮で天の下を治めた。

雄略紀 七年
 吉備下道地方の豪族前津屋は大女を自分方、小女を天皇方に見立てて戦わし小女が勝つと刀を抜いて殺してしまう。
 また小雄鳥の毛を抜き羽を切り天皇方に見立て大雄鳥に鈴をつけて自分方に見立てて戦わせ赤裸の小雄鳥が勝つと刀を抜いて殺してしまう。
 天皇はこれを聞いて怒り兵士三〇人を差し向け前津屋とその一族七〇人を殺した。

 同じ年吉備上道地方の豪族田狭の妻稚媛の噂を聞いた天皇はこれを召したいと思い田狭を任那国の国司に任じ海外勤務にさせその妻を妃とした。
 田狭は任那に赴任したが天皇のやり方があまりひどいので反逆し新羅に通じた。
 そこで天皇は田狭の子を遣わして事態の収拾を図ったが逆にその子と親の田狭は百済に頼って日本に背こうとした。
 しかしたまたまその子は妻に殺されたので事件は拡大しなかった。

雄略紀 二三年
 雄略天皇が崩御した。
 稚媛は幼子の星川皇子に
「天下の位に上るなら今がそのときです。
 先ず大蔵官を抑えなさい。」と言った。
 星川皇子は大蔵官を抑え官物を自由にしたがすぐ鎮圧されてしまった。
 吉備では稚媛の元嫁ぎ先の豪族が星川皇子の乱を聞いて軍船四十艘で大和攻撃に向かったが乱が鎮圧されたので引き返した。その豪族は土地を奪われた。

清寧天皇
 雄略天皇の皇子として韓姫の腹に産まれたシラカがあり父の跡を継いで清寧天皇となったが子は無く天皇が亡くなると皇嗣は絶えてしまった。
 そこで市部のオシハ王の妹で葛城の忍海にあった飯豊郎女に
「日嗣ぎ知らさん王」を問うとイケ、オケの二王がシジムの家に居ることがわかった。
 朝廷はヤマベノムラジオダテを遣わして二王を捜しだし大和へ連れ帰った。

 朝廷では平群臣の祖シビが勢力をふるっていた。
 朝廷の人たちは
「旦は朝廷へ参赴し昼はシビに門に集う」有様であった。
 二王は軍をおこしてシビの家を襲いこれを滅ぼした。

顕宗天皇
 二王のうちオケ王が先ず位についた。
 これが顕宗天皇で近飛鳥宮で天の下を治めたが子はなかった。

仁賢天皇
 次にイケ王が位を嗣ぎ仁賢天皇となり石上広高宮で天の下を治めた。
 そして雄略天皇の皇女春日大郎女の腹にタシラカノ郎女や小長谷ワカサギを産んだ他多くの皇子女をもうけた。
 
武烈天皇
 次に小長谷ワカサギが位を嗣ぎ武烈天皇となり長谷列木宮で天の下を治めたが子は無かった。

継体天皇
 武烈天皇が亡くなったとき日嗣ぎをうける皇子が絶えてしまっていた。
 そこで応神天皇の五世の孫のヲオドを近江の国から招きタシラカ姫に娶せ継体天皇として天の下を授け奉った。
 ヲオドは磐余玉穂宮で天の下を治めた。
 また尾張連の祖オオシノ連の娘のメコノ郎女を娶ってヒロクニオシタケカネヒ、タケオヒロクニオシタテらをもうけタシラカ姫との間にはアメクニオシハルキヒロニワらをもうけその他多くの皇妃、皇子女があった。
 

日本書紀
 ヲオドは第一五代応神五世の孫ヒコヌシノミコの子で母は第一一代垂仁天皇七世の孫、名はフル姫と言った。
 ヒコヌシノミコはフル姫を愛し近江のミオのナリドコロから越前の三国のサカナイに呼び寄せてヲオドを産んだ。

 武烈天皇は子がなかったので大伴の金村は先ず丹波の桑田の倭彦王を天皇にしようとして兵を設けて迎えに行った。
 ところがその兵を遠くから見た倭彦王は色を失って逃げ行方がわからなくなったので次にヲオドに白羽に矢を立てた。

 使者に迎えられたヲオドが河内の楠葉の宮へ到着すると金村は神器を奉った。
 王は位につき金村を大連、巨勢のオヒトを大臣、物部アラカビを大連とした。
 即位の第五年、都を山城の綴喜へ遷した。
 一二年、都を乙訓へ遷した。
 二〇年、都を磐余玉穂へ遷した。


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