常陸風土記年表
崇神天皇以前(西暦三〇〇年以前)
- 父の神が新嘗祭の日に筑波山へ来た。
- 経津の大神が葦原の中津国を平定し、志太郡竹来里に甲・戈・盾・剣・玉類を置いて高天原へ帰った。
- 鹿島の天の大神が高天原より豊葦原瑞穂の国の平定に降った。
- 立速日男(ハヤフワケ)の命が久慈郡松沢の松の木の枝に住み着く。後に賀毘礼の峰へ移った。
- 鹿島郡の沼尾に天から水が流れ出て沼となった。
崇神天皇時代(西暦三〇〇年頃)第一〇代天皇
- ヒラナスの命が新治の蝦夷を征伐しその地の初代国造となった。
- 建鹿島の命が行方郡板来の郷、古高の村、安斬りの里、江崎の邑などで国栖のヤサカシ、ヤツクシの軍勢を討伐した。そして命は那珂国の初代国造となった。
- 海上の命が久慈郡薩都里で国栖(土蜘蛛)を討伐した。
- 黒坂命が茨(野バラ)を使用して国栖を討伐し茨城の名称が始まった。命は陸奥の蝦夷征伐帰陣の途中に多賀の角枯山で他界した。
その葬式行列の様子から志太の名称が始まった。
- ウネメ臣筑箪の命が紀の国の国造となり、自分の名を国名として筑波と称した。
- 大中臣カムキキカツの命が天皇の夢判断をし、鹿島の大神に太刀、鉾、鉄弓、鉄矢、ころ、板状鉄、練り鉄、馬、鞍、やたの鏡、絹織物などを奉納させた。
- カムハタ姫の子孫長幡部の遠祖タテの命が美濃の国から久慈の太田郷へ移住しウツハタを織った。
垂仁天皇時代(四世紀初頭)崇神天皇の子 第一一代天皇
- 鹿島郡白鳥里へ白鳥が飛来し少女となり溜め池の築造工事をしたが失敗した。
景行天皇時代(四世紀中頃)崇神天皇の孫 第一二代天皇
- 天皇が下総の国印旛の鳥見丘から国見をして霞に被われた村を発見した。
そのためこの村を霞の郷(行方郡香澄里)と呼んだ。
- 天皇が志太郡浮島の仮御座所へ移り雄栗村碓井に井戸を掘らせた。
- 景行天皇の子、日本武尊(第一五代応神天皇の祖父)が東国各地を征伐した。
その尊との関係で次の地名が始まった。
常陸国志太郡乗浜村、茨城郡玉里村、
行方郡玉清井戸、梶無川、鴨野、当間郷、
うるわしの小野、はずむ野、大生村、大賀村、
鹿島郡角折浜、久慈郡相鹿、多賀郡相田村、
同郡藻島などである。
- 鹿島の大神の命令で中臣サヤマの命が鹿島津の宮に船三隻を奉納した。
成務天皇時代 第一三代天皇 日本武尊の弟
- タケミサヒの命が多賀国造に任命され多賀国が成立した。
神功皇后時代(四世紀末頃)第一四代仲哀天皇(日本武尊の子)の皇后 第一五代応神天皇の母・茨城国造の初代多祁許呂の命が朝廷に仕えた。その子息の一人は筑波使主と称し茨城郡湯座連の初祖となった。
- 韓国征伐軍に従軍した古津彦が行方郡田里(道田郷)を賜った。
継体天皇時代(六世紀初頭)
- ヤハズ氏の麻多智が行方郡の谷にいたツチノコを退治して水田一〇町を開拓した。
ツチノコの社殿が造営された。
孝徳天皇時代
- 大化二年
- 高向大夫と中臣幡織田連などが東国の統治者となった。
- 常陸国が成立し旧国造支配地は郡となった。
- 当麻大夫が国司のとき行方郡男高里に溜め池が築かれた。
- 同 五年
- 中臣○子と中臣部兎子らが東国八国統治者高向大夫に願って下総国海上郡国造の支配地軽野より南の一里、那珂国造支配地の寒田より北の五里をそれぞれ分割し鹿島の神の郡を新設した。このとき神戸は五八戸。
- 六五三 年
- 茨城国造壬生連の麻呂と那珂国造壬生直の夫子らは高向大夫と中臣幡織田大夫に願って茨城から八里、那珂から七戸を分割し行方郡を新設した。
- 物部氏の河内と会津は高向臣に願って筑波と茨城両郡から七〇〇戸を分割しもと日高見国に志太郡を新設した。
- 多賀国造磐城直の美夜部と磐城郡の造部の志許赤らは高向大夫に願い多賀郡を多賀と磐城二郡に分割した。
- 行方郡鴨野に桝の池が築かれた。
- 茨城国造の壬生連の麻呂が行方郡に椎井の池を築いた。
天智天皇時代
- 藤原鎌足の封戸調査に軽直の黒麻呂が久慈郡へ派遣され溜め池を築いた。
- 鹿島神宮に朝廷から初めて使人が派遣され社殿の造営がなされた。
- 磐城で造られた大船が鹿島郡軽野で難破した。
持統天皇時代
- 持統四年・鹿島神宮の神戸は二戸が公民戸に編入されたので六五戸となった。
天武天皇時代
- 慶雲元年・国司ウネメ朝臣が鍛冶職佐備の大麻呂らに鹿島郡若松浦の砂鉄を利用させ剣を造らせた。