修 証 義

   [総 序]                   水野弥穂子 訳

  第一節 生 死
しょうを明あきらめ死を明あきらむるは仏家ぶっけ一大事いちだいじの因縁いんねんなり、
 我々が生きているとはどういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見きわめるのが仏教者として最も大切な根本問題であります。
生死(しょうじ)の中なかに仏ほとけあれば生死しょうじなし、
 生まれてから死ぬまで、我々は迷い苦しみのまっただ中に生きているようですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏(覚さとったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死しょうじはないのです。
ただ生死(しょうじ)すなわち涅槃ねはんと心得こころえて、生死(しょうじ)として厭いとうべきもなく、涅槃ねはんとして欣ねごうべきもなし、
 ただこの生まれてから、死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃(さとり)の境地と心得たらいいのであって、そうなると、いやがり、きらうべき生死しょうじという迷いの生活もなく、ねがい求めるべき涅槃(さとり)の境地というものもありません。
このときはじめて生死(しょうじ)を離はなるる分ぶんあり、
 こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ世界から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。
ただ一大事いちだいじ因縁いんねんと究尽ぐうじんすべし。
 生を明らかにし死を明らかにする、ただこれこそが一番大事な根本問題であるということに徹底しなさい。

  第二節 人 身
人身にんしんること難かたし、仏法ぶっぽううこと希まれなり、
 人間の身に生まれてくることは非常に得がたいことであり、その上仏法にめぐりあうことも滅多にないことです。
いま我等われら宿善しゅくぜんの助てすくるに依りて、已すでに受け難がたき人身にんしんを受けたるのみに非あらず、遇い難がたき仏法ぶっぽうに値い奉たてまつれり、
 我々は今、前世で行った善根の力に助けられて、このように得がたい人間の身にうまれてきたばかりでなく、滅多にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
生死しょうじの中なかの善生ぜんしょう、最勝さいしょうの生しょうなるべし、
 生れては死ぬ存在の中では、一番善めぐまれた生涯であり最高にすぐれた生涯でありましょう。
最勝さいしょうの善身ぜんしんを徒いたずらにして露命ろめいを無常むじょうの風かぜに任まかすこと勿なかれ。
 この最高にすぐれた、善めぐまれた身を無駄にして、露のようにはかなく消える命を無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。

  第三節 無 常
無常むじょうたのみ難がたし、知らず露命ろめいいかなる道みちの草くさにか落ちん
 死(無常)というものは、いつやってくるか、予想もつかないのです。草叢に宿る露のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか、全くわからないものです。
すでに私わたくしに非あらず、命いのちは光陰こういんに移うつされて暫しばらくも停とどめ難がたし、
 大体、自分のこの身体が(因縁和合でできているもので)自分のものではありません。
 命は又、光陰(つきひ)と共に先が短くなるもので、ちょっとの間も引きとめておけるものではありません。
紅顔こうがんいづくへか去りにし、尋たずねんとするに蹤跡しょうせきなし。
 少年の日の若さにあふれたあの顔は、どこへ行ってしまったのでしょう。年老いた今は、さがし求めようとしても、あとかたもありません。
つらつらかんずる所ところに往時おうじの再ふたたび逢うべからざる多おおし、
 よくよく観察してみると、すぎ去ったことは、二度とめぐり合えないことばかりです。
無常むじょうたちまちち到いたるときは国王こくおう大臣だいじんしんじつ従僕じゅうぼく妻子さいし珍宝ちんぽうたすくる無
 死(無常)が突然やってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も、妻子も財産も、手をかして助けてくれるわけにはいかないのです。
ただひとり黄泉こうせんに趣おもむくのみなり、己おのれに従したがい行くは只ただれ善悪ぜんあく業等ごっとうのみなり。
 たった一人で黄泉あのよへ旅立つばかりです。
 どこまでも自分についてくるものといっては、ただ自分が作った善行・悪業ばかりです。

  第四節 因 果
いまの世に因果いんがを知らず業報ごっぽうを明あきらめず三世さんぜを知らず善悪ぜんあくを弁わきまえざる邪険じゃけんの党侶ともがらには群ぐんすべからず、
 現代において因果の道理を知らず、善悪の業おこないには必ず善悪の報いがあることをはっきりさせず、現世があれば過去世もあり、未来世もあるということをしらず、善とは何か、悪とは何かという分別もない間違った見かんがえの人々が多いのです。そういう人々の群なかまになってはなりません。
大凡おおよそ因果いんがの道理どうり歴然れきぜんとして私わたくしなし、
 すべて、因あれば果ありという実際のすじ道は歴然はっきりとあらわれていて、人間の自分勝手は全く通用しないのです。
造悪ぞうあくの者ものは堕ち修善しゅぜんの者ものは陞のぼる、毫釐ごうりも違たがわざるなり、
 悪を造る者は悪い境遇におちてゆき、善事を(つと)めるものはよい境遇になってゆき、毫釐(うのけ)でついたほどのくるいもありません。
し因果いんがぼうじて虚むなしからんが如ごときは、諸仏しょぶつの出世しゅっせあるべからず、祖師そしの西来せいらいあるべからず。
 もし因もなく果もなく、なんにもないということになったら、諸仏がこの世に出現されるということもなく、菩提達磨尊者がインドからはるばる中国まできて、仏法を伝えて下さるということもあるはずがないのです。

  第五節 三 時
善悪ぜんあくの報ほうに三時さんじあり、
 善行、悪行の報いについては、その報いを受けるときから言って三種あります。
一者ひとつには順現じゅんげん報受ほうじゅ、二者ふたつには順次じゅんじ生受しょうじゅ、三者みつには順後じゅんご次受じじゅ、これを三時さんじという、
 第一は順現報受です。
 この世で行った善悪の報いをこの世で受けます。
 第二は順次生受です。
 この世で行った善悪の報いを次の生で受けます。
 第三は順後次受です。
 この世で行った善悪の報いを受けず、次の世でも受けず、次の次の生以後、百千生の間に受けるのです。
 これを三時と言います。
仏祖ぶっその道どうを修習しゅじゅうするには、其の最初さいしょより斯の三時さんじの業報ごっぽうの理を効ならい験あきらむるなり、
 仏祖の道を修行してゆくには、その最初から、この三時にわたって善悪の行いに報いがあるという理すじみちをよく聞いて、はっきりさせておくのです。
しかあらざれば多おおく錯あやまりりて邪見じゃけんに堕つるなり、胆ただ邪見じゃけんに堕つるのみに非らず、悪道あくどうに堕ちて長時ちょうじの苦を受く。
 そうでないと、多くは間違って邪見(因果の道理をわきまえない間違った(かんがえ)におちいり、そればかりではなく、地獄・餓鬼・畜生という三悪道におちて長時(えいえん)の苦しみを受けます。

  第六節 悪 業
まさに知るべし今生こんじょうの我身わがみふたつ無し、三つ無し、
 だから、よくよく知っておかなければならないのです。
 この世に生を受けた自分の身体はたった一つ、二つも三つもあるものではありません。
いたづらにして邪見じゃけんに堕ちて虚むなしく悪業あくごうを感得かんとくせん惜おしからざらめや、
 もし因果を否定する間違った考えにおちると、この大事な身体で悪業をつくり、悪の報いを身に受けなければなりません。それは全く何の役にも立たぬ無駄なことで、何ともったいないことではありませんか。
あくを造つくりながら悪あくに非あらずと思おもい、悪あくの報ほうあるべからずと邪思惟じゃしゆいするに依りて悪あくの報ほうを感得かんとくせざるには非あらず。
 また、悪を造っておいて悪ではないと思っていたり、悪の報いなんかあるはずないと、間違った思惟(かんがえ)を持つことによって、悪の報いを身に受けないですむというものではありません。

  第二章 懺悔滅罪               服部松斉 訳

  第七節 滅 罪
仏祖ぶっそあわれみの余あまり広大こうだいの慈門じもんを開ひらき置けり、
 仏陀釈尊や歴代の祖師がたは、衆生の迷い苦しみを見かねて、誰でもいつでも入れる大きな救いの門を開いておいて下さった。
れ一切いっさい衆生しゅじょうを証入しょうにゅうせしめんが為ためなり、人天にんてんたれか入らざらん、
 これは、すべての人びとをして、みずから体験し悟らしめんとする為である。これを聞いて、入ろうとしないものがいるであろうか。
の三時さんじの悪業報あくごっぽうかならず感かんずべしと雖いえども、懺悔さんげするが如ごときは重おもきを転てんじて軽受けいじゅせしむ、又また滅罪めつざい清浄しょうじょうならしむるなり。
 さて、われわれが良からぬ行為をするならば、その影響はアトにのこってくるが、もし仏祖のおしえに随って懺悔するならば、悪影響も好転して軽く受けることが出来よう。
 また、さらにいえば、心は清々しい爽やかな気持ちにもどらせてもらえるのである。

  第八節 浄 心
しかあれば誠心じょうしんを専もっぱらにして前仏せんぶつに懺悔さんげすべし、
 ゆえに、まごころこめて、仏の前に自らの罪過つみとがを告白し、その許しを乞うところの懺悔の行をするがよい。
恁麼いんもするとき前佛ぜんぷつ懺悔さんげの功徳力くどくりきわれを拯すくいて清浄しょうじょうならしむ、
 こうすると、懺悔の功徳があらわれて、われわれを罪の苦しみから救い、重苦しい捉われより解き放ってくれるのである。
の功徳くどくく無礙むげの浄信じょうしん精進しょうじんを生長しょうちょうせしむるなり。
 そればかりではない、のびのびとした深い心情にみちびいてくれ、心機一転、これからシッカリやるぞという気持ちや、報いは報いとして甘んじて受け、その償いをしようとする決意すら生れてくるのである。
浄信じょうしん一現いちげんするとき、自陀じたおなじく転てんぜらるるなり、
 人は懺悔したおかげによって、ほとけごころとなり、このような気持ちになると、自分のみか接する人びとも変わってくるものである。
その利益りやくあまねく情じょう非情ひじょうに蒙こうぶらしむ。
 心のはたらく人間やどうぶつにたいしてだけでなく、心なき木石等のあらゆるものに愛情が豊かになるのである。

  第九節 解 脱
その大旨だいしは、願ねがわくは我れ設たとい過去かこの悪業あくごうおおく重かさなりて障道しょうどうの因縁いんねんありとも、
 さて、懺悔の仕方のおおよそをいうと、こういう気持ちをもって、仏にお願いするとよい。
 「わたくしは、たとえ過去の罪過つみとがが多く積もって、求道のさまたげになっている救い難い人間でありましょうとも、
仏道ぶつどうに因りて得道とくどうせりし諸仏しょぶつ諸祖しょそわれを愍あわれみて業累ごうるいを解脱げだつせしめ、学道がくどうさわり無からしめ、
 どうか、仏道によっておさとりになられた仏祖のかたがたよ、わたくしを(あわれ)んで、従来積んできた我見妄想より解き放ってくださり、求道が開けてくるようにお導き下さい。
その功徳くどく法門ほうもん、晋あまねく無尽むじん法界ほうかいに充満じゅうまん弥綸みりんせらん哀あわれみを、我われに分布ぶんぷすべし、
 その功徳広大なみ教えと、天地万物に普く及ばれている大慈悲とを、わたくしにもお分かち下さいますように。」と、静かに祈るのである。
仏祖ぶっその往昔おうじゃくは吾等われらなり、吾等われらが当来とうらいは仏祖ぶっそならん。
 そして、仏祖も昔は私たちと同じように悩まれたのだ。
 我等も一生懸命でやりさえすれば、仏祖のような心境に近づくことが出来るのだ、と心にいいきかせ、勇を鼓するのである。

  第十節 懺 悔
我昔がしゃく所造しょぞう諸悪業しょあくごう、皆由かいゆう無始むし貪瞋癡とんじんち、従じゅう身口意しんくい所生しょしょう、一切いっさい我今がこんかい懺悔さんげ
 我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、皆いつとも知れず我がみにまつわりついている貪むさぼり、瞋いかり、愚おろかさの妄想が原因です。他から来たのでなく、すべて我が身、我が口、我が意こころより生じた罪過つみとがです。
 わたくしは今、仏の前に一切を懺悔します。
かくの如ごとく懺悔さんげすれば必かならず仏祖ぶっその冥助みょうじょあるなり、心念しんねん身儀しんぎ発露ほつろ百仏びゃくぶつすべし、
 このように懺悔すると、必ず仏祖は目に見えぬお力をかしてくださるのである。だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。
発露ほつろの力ちから罪根ざいこんをして銷殞しょういんせしむるなり。
 自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過つみとがをつくり出す根ともいうべき貪瞋癡とんじんちの妄念を消滅せしめ、清浄なる心境にいたらしめてくれるのである。
 懺悔こそ新生の第一歩である。

   第三章 受戒入位               桜井秀雄 訳

  第十一節 三 法
つぎには深ふかく佛法僧ぶっぽうそうの三寶さんぽうを敬うやまい奉たてまつるべし、
 (懺悔して新生の一歩を踏み出した)次には、最高の人格である仏・すべてに通ずる真理まことの法・そして法を依り処とした和平の相すがたである僧を三つの宝といい、(仏の教えを仰ぐものは)この三つの宝を深く敬うのでなければならない。
しょうを易え身を易えても三寶さんぽうを供養くようし敬うやまい奉たてまつらんことを願ねごうべし、
 生まれかわり、死にかわりし、(また、この世で苦しく悲しい時でも、楽しく嬉しい時でも)あこがれの心を忘れまいと誓い願うのでなければならない。
西天さいてん東土とうど仏祖ぶっそ正伝しょうでんするところは恭敬くぎょう佛法僧ぶっぽうそうなり。
 インドから中国を経て、真実の道を正しく伝えてこられた祖師がたの生きざまは、この三つの宝を敬い、尊ぶということであった。

  第十二節 歸 依
し薄福はくふく少徳しょとくの衆生しゅじょうは三寶さんぽうの名字みょうじほ聞き奉たてまつらざるなり、
 もし(正信もなく欲望のまにまにすごし)福徳が薄うすく少ない人人ありとすれば、このような人たちは、三宝の名前さえ耳にすることはないであろう。
いかに況いわんや歸依きえし奉たてまつることを得んや、
 ましてや、三つの宝に全生命を投げ入れて、依り処とすることなどあろうはずがない。
いたずらに所逼しょひつを怖おそれて山~さんじん鬼~きじんとうに歸依きえし、或あるいは外道げどうの制多せいたに歸依きえすること勿なかれ、
 (そして自らが招きながら)他の何ものかに(せま)られていると思い、身の不安におびえて、ついに山の神だとか、得体(えたい)の知れない鬼神を(たの)みとし、また邪教の霊廟にすがるような愚かなことをしがちであるが、そのようなことをしてはならない。
かれは其その歸依きえに因りて衆苦しゅくを解脱げだつすることなし、
 そのようなものを依り処としたところで、物心両面にわたる、いろいろな苦しみから、のがれることができるものではない。
はやく佛法僧ぶっぽうそうの三寶さんぽうに歸依きえし奉たてまつりて、衆苦しゅくを解脱がだつするのみに非あらず菩提ぼだいを成就じょうじゅすべし。
 早く仏と法と僧との三つの宝を、おのれの生命の依り処とし、いろいろな苦しみから、とき・はなたれ・のがれるだけでなく、正しい智慧に目覚めるということこそ果たすべきみちである。

  第十三節 三 歸
その歸依きえ三寶さんぽうとは正まさに淨心じょうしんを專もっぱらにして、或あるいは如來にょらい現在世げんざいせにもあれ、或あるいは如來にょらい滅後めつごにもあれ、合掌がっしょうし低頭ていずして口くちに唱となへて云いわく、南無なむ歸依きえぶつ、南無なむ歸依きえほう、南無なむ歸依きえそう
 まず三宝に帰依する作法の基本は、正しく・まじりけのない信心をかたむけ、み仏が、この世に在いましたときでも、また、み仏が入滅されたあとであろうが、常に合掌・礼拝し、口に南無帰依仏南無帰依法南無帰依僧とお唱えするのである。
ほとけは是れ大師だいしなるが故ゆえに歸依きえす、法ほうは良薬りょうやくなるが故ゆえに歸依きえす、僧そうは勝友しょうゆうなるが故ゆえに歸依きえきえす、
 かくて、偉大なる導師みちびきてたる仏に帰依し、迷妄の病を癒やす良き薬である法を頂き、勝すぐれた友だちである僧と和してゆくのである。
佛弟子ぶつでしとなること必かならず三歸さんきに依る、何いずれの戒かいを受くるも必かならず三歸さんきを受ううけて其そののち諸戒しょかいを受くるなり、然しかあれば則すなわち三歸さんきに依りて得戒とくかいあるなり。
 仏弟子となるには、必ず(全身全霊をかたむけ)仏法僧の三宝にきえすべきであり、仏教の世界には、いろいろな戒律もあるが、どんな戒をうけようとも、まず三宝へ帰依し、そのあとで、いろいろな戒を受けるべきであり、従って三宝帰依によってのみ、はじめて受戒ができ得たというべきである。

  第十四節 感 應
この歸依きえ佛法僧ぶっぽうそうの功コくどく、必かならず感應かんのう道交どうこうするとき成就じょうじゅするなり、
 この三宝に、わが身を投げ入れたときの、はたらきは、必ず自らの心と三宝の徳が、ひびきあい・交わりあい・一体となるときのみ成り就げられるのである。
たとひ天上てんじょう人間にんげん地獄じごく鬼畜きちくなりと雖いえども、感應かんのう道交どうこうすれば必かならず歸依きえし奉たてまつるなり、
 世には、ちょっとしたことで有頂天うちょうてんになっているものもあれば、ウカウカ過ごしている人間もあれば、地の底に沈むよう苦しみにあえぐものもあれば、たえず飢えガツガツしている餓鬼や、無知で愚かな畜生のような心をもつものもなしとしないが、ひとたび仏法を学び・我が仏に入り・仏が我に入り全く一体となれば、どんな人でも、そのさまを帰依というのである。
すでに歸依きえし奉たてまつるが如ごときは、生生しょうしょう世世せせ在在ざいざい處處しょしょに搨キぞうちょうし、必かならず積功しゃっく累コるいとくし、阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提さんぼだいを成就じょうじゅするなり、
 すでに、この処に至って安心決定すれば、生きかわり・死にかわり・いずこにあり、そこに、そのすぐれたはたらきが増し、きっと、そのはたらきを積み重ねざるをえなくなり、そこに、この上ない、すばらしい悟りの道をえるのである。
るべし三歸さんきの功コくどくれ最尊さいそん最上さいじょう甚深じんじん不可思議ふかしぎなりといふこと、世尊せそんすでに證明しょうみょうしまします、衆生しゅじょうまさに信受しんじゅすべし。
 三宝帰依のはたらきは、もっとも尊く・この上なく実に深く、常識的な判断で思いはかる議はかることのできないものであることは、ブッダがすでに証明してくれているのですから、この世のすべての人は、この証明を心から信じうけがうべきである。

  第十五節 浄 戒
つぎには應まさに三聚浄戒さんじゅじょうかいを受け奉たてまつるべし。
 次には、まさに三つの総合的な清浄の誓願の戒を受けなさい。
第一だいいち攝律儀しょうりつぎかい、第二だいに攝善法しょうぜんぽうかい、第三だいさん攝衆生しょうしゅじょうかいなり、
 即ち、第一は、すべての不善を為さないこと、第二に、あらゆる善行に励むべきこと、第三に、永く世のため人のために尽くそうと誓うことである。
つぎには應まさに十重禁戒じゅうじゅうきんかいを受け奉たてまつるべし
 次に十項目の大切な禁戒いましめを守ると誓いなさい。
第一だいいち不殺生ふせっしょうかい、第二だいに不倫盗ふちゅうとうかい、第三だいさん不邪婬ふじゃいんかい、第四だいし不妄語ふもうごかい、第五だいご不 酒ふこしゅかい、第六だいろくく不説過ふせっかかい、第七だいしち不自讃毀佗ふじさんきたかい、第八だいはち不慳法財ふけんほうざいかい、第九だいく不瞋恚ふしんいかい、第十だいじゅう不謗三寶ふぼうさんぽうかい
 即ち、第一いのちあるものを、ことさらに殺さず、第二に与えられないものを手にすることなく、第三に道ならざる愛欲を犯すことなく、第四にいつわりの言葉を口にせず、第五は酒に溺れて生業を怠らず、第六他人の過あやまちをせめたてず、第七己れを誇り他の人を傷つけず、第八物でも心でも施すことを惜しまず、第九怒りに燃えて自らを失わず、そして第十仏法僧の三宝を謗そしり不信の念をおこすまいと誓うのである。
上來じょうらい三歸さんき、三聚浄戒さんじゅじょうかい、十重禁戒じゅうじゅうきんかい、是れ諸佛しょぶつの受持じゅじしたまふ所ところなり。
 以上、これらの三つの帰依の信仰と、三つの清らかな請願とそして十条の戒めの実行とは、もろもろのみ仏が、正しい生き方としてうけがい・持たもたれてきた道なのである。

  第十六節 受 戒
受戒じゅかいするが如ごときは、三世さんぜの諸佛しょぶとの所證しょしょうなる阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提さんぼだい金剛こんごう不壊ふえの佛果ぶっかを證しょうするなり、
 受戒といい、仏道のきまりを守ると誓願することは、過去・現在・未来にわたり、常にいます、あらゆるみ仏のお悟りになった最高無上の道であり、そして金剛石の如く壊やぶれることのない仏としての完全な人格が具わるのである。
たれの智人ちにんか欣求ごんぐせざらん、
 正眼まさめでものをみる知恵のある人なら、誰でも欣よろこんで、これを求めないものはなかろう。
世尊せそんあきらかに一切いっさい衆生しゅじょうの為ために示しめしまします、
 ブッダは、あきらかに、この世のすべての人々に、この理ことわりを示しておられる。
衆生しゅじょう佛戒ぶっかいを受くれば、即すなわち諸佛しょぶつの位くらいに入る。位くらい大覺だいがくに同おなじうし已おわる、眞まことに是れ諸佛しょぶつの子みこなりと。
 即ち「世の人人が、仏の戒法を受け誓願の式を修すれば、そのまま、み仏の位に入り、大いなる覚者(めざめたもの)として、ブッダと同じ資格をえ、まがうことなくみ仏の子となるのである」と。

  第十七節 功 コ
諸佛しょぶつの常つねに此中このなかに住持じゅうじたる、各々かくかくくの方面ほうめんに知覺ちかくを遺のこさず、
 あらゆるみ仏が、この戒法の世界にあって、安らかに住し、これを持たもち続けるさまは、意識的に、それを知り・感ずるというような心のとらわれを残していないから、戒を
「すべし」とか「すべからず」と受けとめるのではなく、そうせずにはおれない完全自在の世界に遊んでいるのである。
群生ぐんじょうの長とこしなへに此中このなかに使用しようする、各々かくかくの知覺ちかくに方面ほうめんあらわれず、
 戒法を頂き、すでに諸仏の位に入り仏と同体の群生が、長く仏道の中に生きる・使用するといっても、知り感ずるという心の思いがなくなるわけではないが、思う心にカゲやしこりがあらわれることなく、純粋そのもので、これを受戒の誓願をはたしたさまというのである。
是時このとき十方じっぽう法界ほうかいの土地とち草木そうもく牆壁しょうへき瓦礫がりゃくみな佛事ぶつじを作すを以もって、其そのおこす所ところの風水ふうすいの利uりやくに預あずかる輩ともがら、皆みな甚妙じんみょう不可思議ふかしがの佛化ぶっけに冥資みょうしせられて親ちかき悟さとりを顯あらはす、
 受戒によって、この境地に達したすがたは、次のようにも表しえよう。
 即ち、受戒の誓いがなされたときは、ちょうど天地に存する土地や草木の自然界にも似て、垣根・壁土・瓦や小石のはてまで、みなそれぞれが、その役目を果たしており、風の恵みで草木は花を開き実を結び、水の流れにうるおいをえ、常に相依相関し自らも生かされ、また他を生かすという、人の気づかないままの資たすけあいの中で、その本領を発揮しているごときもので、それを悟さとりを顕あらわすというのである。
これ無為むいの功コくどくとす、是これを無作むさの功コくどくとす、是これ發菩提心ほつぼだいしんなり。
 これは、たくまず・はからいのない自然じねんのはたらきの力というべきで、これにめざめさせて頂く受戒の誓願に生きるすがたを、まことのホトケゴコロが発きたというのである。

   第四章 発願利生

  第一節 仏の願いをおこす
菩提心を発おこすというは、己おのれ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、
 発菩提心、すなわち菩提心をおこすということは、苦しみ悩み多き人生において、自分が仏の境地にいまだ達していないということであっても、他人をやすらぎ(彼岸)の世界にわたそうという願いをおこしその実現につとめることです。
たとい在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗じみとくどせんどたの心を発おこすべし。
 たとえ在家信者であろうとも、たとえ出家の身であろうと、あるいは天上界のような福分の多い境遇であっても、悩み多き人間的世界の境遇であっても、逆境の人であっても、順境の人であっても、まずはやく(自未得度先度佗)自らはまだ仏の境地に到達していなくともまず、他人を先に渡そうとする仏の心をおこすべきです。

  第二節 仏道のすばらしい法則
その形陋いやしというも、此この心を発おこせば、已すでに一切衆生の導師なり、
 その人の外見や境遇が、いやしめられるような人であっても、この誓願をおこしているならば、すでに一切衆生を正しい教えに導く先達者であり指導者なのです。
たとい七歳しちさいの女流なりとも即ち四衆ししゅの導師なり、衆生の慈父じふなり、
 たとえ七才の幼い女子であっても、そのこころをおこしているならば、直ちに四衆(男性の僧、女性の僧、男性の仏教徒、女性の仏教徒)の指導者であり、慈悲あふれる父ともいえるのです。
男女なんにょを論ずること勿れ、此れ仏道極妙ごくみょうの法則なり。
 誓いの心を起こすに男女の区別などはないのです。これこそ仏道におけるこの上なくすぐれた法則なのです。

  第三節 人のよろこびを先にして
若し菩提心を発おこおこして後、六趣四生ろくしゅししょうに輪転すと雖いえども其その輪転の因縁皆菩提の行願ぎょうがんとなるなり、
 ひとたびこの菩提心をおこしてのちに、地獄、餓鬼(欲求不満の鬼神)、畜生(動物的)、修羅(争いの人々)、人間、天上(安逸の世界)などの苦渋なるどんな世界であっても、または、ほ乳類、鳥類や爬虫類、虫やかび、業によってのみ生を受けるものなどの四種の生まれ方をする輪廻転生のなかにあっても、その六道のなかに生きていることを機縁にして、かえって真実に生きる道を求める願となり行となるのです。
しかあれば従来の光陰は設い空むなしく過すというとも、今生こんじょうの未だ過ぎざる際あいだに急ぎて発願すべし、
 そのゆえに、たとえ今までは人生をむなしく過ごしてきたとしても、この世の人生のおわらないうちに、いそいで菩提心を起こすべきなのです。
たとい仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道とくどうに回向するなり、或は無量劫ごう行いて衆生を先に度わたして自からは終ついに仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益りやくするもあり。
 たとえ発願してのち自らは悟りが実現するべきご縁が熟していたとしても、まず先に、一切衆生の成仏得道をたすけ、その功徳を人々にめぐらせて、同じ苦しみに悩む人々が仏と出会い道を得られるように、あるいは永遠に済度に専心して、人のよろこびを先にして苦しむ人々を悟りへ渡し、自分はついに仏にならないというように精進しているものもあるのです。まさにこの自未得度先度他の行為が菩薩の行願なのです。

  第四節 四つの智慧の実践
衆生を利益すというは四枚しまいの般若あり、
 一切衆生を救済利益するには四種の方法があります。
一者ひとつには布施ふせ、二者ふたつには愛語あいご、三者みつには利行りぎょう、四者よつには同時どうじ
 ひとつには布施、ふたつには愛語、三つには利行、四つには同事です。
是れ則ち薩垂の行願なり、
 これらはそのまま菩薩方の行であり誓願に基づくものです。
その布施というは貪らざるなり、
 その布施というのは、むさぼらないということです。
我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実じつなるべきなり、
 施すべきものが自分に無いとしても、布施の意義をそこなうものではないのです。
 例えば優しいまなざしで接する・なごやかな顔をみせる・やさしい言葉をかける・思いやりをかける・自分の体で奉仕する・人に席を譲ってあげる・自分の家を他人の為に提供するということも立派な布施の行為なのです。施すものの軽少は問題ではなく布施の心が大切なのです。
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
 それゆえに、一句一偈といったわずかな教えであっても布施すべきです。
此生侘生ししょうたしょうの善種となる、
 今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。
一銭一草の財たからをも布施すべし、
 たった一銭であっても、たとえわずかな物であっても人の為に布施すべきです。
此世侘世しせたせの善根を兆す、
 そうすれば必ず今世にあっても来世にあっても、しわせの善根の功徳が現れてくるようになるのです。
法も財たからなるべし、財たからも法なるべし、
 教えは法施であり財宝と思い布施すべきです、また、財を施すのに法施の心をもってするならば財も法であります。
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒わかつなり、
 ただどちらの布施であっても相手からのおかえしをあてにしないで、自分のもてる力量に応じて布施することが大切なのです。
舟を置き橋を渡すも布施の檀度だんどなり、
 川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。
治生ちっしょう産業固より布施に非ざること無し。
 社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来布施の精神に基づくものでありますから布施にほかならないのです。

  第五節 愛語には廻天の力あり
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発おこし、顧愛の言語を施すなり、
 愛語というのは、どんな人に対してもまず慈しみのこころを起こし、思いやりの言葉をかけてやることです。
慈念衆生じねんしゅじょう猶如ゆうにょ赤子しゃくしの懐おもいを貯えて言語するは愛語なり、
 衆生を慈しみおもうということは、ちょうど自分の赤ちゃんをみるような気持ちをいだいて、いっときも念頭から離さず言葉をかけるのが愛語なのです。
徳あるは讃むべし、
 善行の人に対してはほめたたえ、さらに精進できるようにしてやるべきでしょう。
徳なきは憐れむべし、
 善行のない人には、とがめたりしないであわれみのこころで言葉をかけるべきでしょう。
怨敵を降伏ごうふくし、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、
 自分を恨みにくんでいるような相手であっても、そのにくしみを消し去り、あるいは権力者同士を仲直りさせるにも愛語を根本とするのです。
むかいて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、
 面と向かって愛語を聞けば思わず顔がほころび、こころを楽しくしてくれるのです。
むかわずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
 また人づてに愛語を伝え聞くときには、その言葉は肝に銘じ、たましいの底から感動して忘れられないものです。
愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
 愛語には天下社会の重大な情勢を変える力があることをよくよく肝に銘じ学ばなくてはなりません。

  第六節 人のよろこびは我がよろこび
利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧ぜんきゅうを廻らすなり、
 利行というのは、身分の上下に関係なく、誰に対しても慈愛の心をもって利他救済のよりよき手だてをはたらかせることです。
窮亀きゅうきを見病雀びょうじゃくを見しとき、彼が報謝を求めず、唯単ひとえに利行に催おさるるなり、
 晋の孔愉は、余不亭で子供にいじめられている亀を買い取って川に放してあげた。後漢の揚宝は、ふくろうにいじめられ傷ついた雀を助けてあげた。
 この亀や雀は後に恩返しをして孔愉も揚宝も孫の代まで栄えたということであるが、しかし窮亀や病雀を救った報酬などを求める心を考えず利行の心からなされたものであったからこそ報恩感謝が現れるのです。ただ無心に相手の為によかれとおもう心にひかされて助けてあげるのです。
愚人ぐにんぐにん謂おもわくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、爾しかには非あらざるなり、
 愚かな人は、人助けを先にすれば、自分は損をするにちがいないと考えてしまうが、そうではないのです。
利行は一法なり、
 利行の道理は一つで、自分と他人を比較するような対立が無いことなのです。
あまねく自侘を利するなり。
 自他一如と言われる真実の世界なのです。自分も他人もともに利益を受けるということなのです。

  第七節 入我、我入
同時というは不違なり、自にも不違なり、()にも不違なり、
 同事というのは、自他が違わない、自他の区別をたてないことです。つまり、喜びも悲しみもともに分かち合って違わないことです。
譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、
 たとえばさとりの世界を実現された釈迦牟尼世尊は、人間と同じ形で人間に同ずることによって衆生を救済される。
侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、
 相手を自分と同じようにさせておいて、その後、自分を他人と同じようにさせるという境地というのは、まさに、「入我我入」なのです。如来が我に入って相応じ、我が如来に入って違うことなく相応じるという道理です。
自侘は時に随したごうて無窮なり、
 自分と相手の関係というものは、その時と立場に応じて無限のかかわりがあるのです。
海の水を辞せざるは同時なり、
 あたかも海が、あらゆる河の水をうけ入れているのも同事の有り様です。
是故このゆえに能く水聚あつまりて海となるなり。
 河の水は大海に入れば海の水の諸徳を現じるのです。
 河の水はよく集まりて大海というすばらしい世界を作りうるのです。

  第八節 発願の道理を親しく知る
大凡おおよそ菩提心の行願ぎょうがんには是かくの如くの道理静かに思惟すべし、
 およそ菩提心の行と願というものは、このような教えというものがあるのですから、よくよく落ち着いて考え心してゆかねばなりません。
卒爾にすること勿れ、
 決しておろそかにしないで精進すべきなのです。
済度さいど摂受しょうじゅに一切衆生皆化みなけを被こうぶらん功徳を礼拝らいはい恭敬くぎょうすべし。
 衆生を救い衆生をひきうける菩提心の善行によって、一切衆生は大いなる恩恵をこうむるのであるから、それに対してつつしんで礼拝しうやまうべきであります。

第五章 行持報恩
  第一節 仏との出会いを喜ぶ
この発菩提心ほとぼだいしん、多くは南閻浮なんえんぶの人身にんしんに発心すべきなり、
 この発菩提心というものは、人間世界の境遇にあってもなかなか容易にできるものではないのです。多くは須弥山(しゅみせん)の南方、閻浮州の人間の身においてこそ発心できるのです。
今是かくの如くの因縁あり、願生此娑婆しゃば国土し来きたれり、
 我々はいまかくの如きご縁で、菩提心を発すべき深い因縁があって、この人間世界に生をうけたのです。
けん釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
 そのお陰で釈迦牟尼仏に相まみえ、釈迦牟尼仏の教えをきくことができるご縁となったのです。
 この因縁というものは、何にもかえがたい恵みであるということでありますから、なんで喜ばずにいられるでしょうか。

  第二節 正しい教えを聞く喜び
静かに憶おもうべし、
 正法にであえた因縁を心をしずめて、思いめぐらしてみなさい。
正法しょうぼう世に流布せざらん時は、身命を正法の為に拠捨ほうしゃせんことを願うとも値うべからず、
 釈尊の正しい教えが、正しく伝授されたからこそ我々は仏法に遇い感得することもできるのであるが、正法が世間にひろまっていないときには、わが身わがいのちを正しい教えの為に投げ捨てようと誓っても、その機会に出会うことはできないのです。
正法に逢う今日こんにちの吾等を願うべし、
 ですから正法に逢うことのできた、今日の我々のご縁をこそ願いよろこぶべきなのです。
見ずや、
 しっかり認識しておかなければならないことがあります。
仏の言のたまわく、
 正法を願い仏道を成ぜんがために仏は次のように示されるのです。
無上菩提を演説する師に値わんには、種姓しゅしょうを観ずること莫れ、
 真実のこのうえなき教えを説きのべる人に出会ったときには師の生まれをせんさくしてはいけません。
容顔を見ること莫れ、
 顔かたちや容貌を気にしてはいけません。
非を嫌うこと莫れ、
 欠点やくせをきらってはいけません。
おこないを考うるこ莫れ、
 過去の行いを批判してはいけません。
ただ般若を尊重そんじゅうするが故に、
 菩薩といえども、始めから完全無欠であったわけではないのですから、仏法を聞くときには、ただ、真実の智慧を尊重していくことによってさとりと出会えるのです。
日日三時に礼拝らいはいし、恭敬くぎょうして、更に患悩げんおうの心を生ぜしむること莫れと。
 日々の朝昼晩に、礼拝し、煩悩のこころをおこしてはなりません。

  第三節 仏縁を喜び恩を忘れず
今の見仏聞法(けんぶつもんぽう)は仏祖面面の行持より来きたれる慈恩なり、
 今日の我々が仏に出会い教えをきくことができるのは、いままで仏や祖師方が身命をかけて伝授され護持されてきた慈悲のおかげです。
仏祖若し単伝(たんでん)せずば、奈何(いか)にしてか今日(こんにち)に至らん、
 真実の仏法をひとえに仏祖方が単伝しなかったならば、どうして今日まで伝わることができたであろうか。
一句の恩尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、
 それ故に、たった一句の教えでさえも、その因縁のめぐみに感謝すべきであり、たった一つの法の教えにさえも、そのめぐみをよろこび報いるべきです。
いわん正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)無上大法の大恩これを報謝せざらんや、
 ましてや、正法眼蔵という最高の教えを伝えていただいた大いなるご恩に感謝し、報いなければなりません。
病雀尚お恩を忘れず三府さんぷの環かん能く報謝あり、
 中国の故事にある、揚宝に助けられた雀はその恩を忘れず、四つの環を贈って、揚宝家が四代にわたり三公(政府の要職)の位についたという恩返しがあるのです。
窮亀きゅうき尚お恩を忘れず、余不よふの印いん能く報謝あり、
 孔愉に助けられた亀も恩を忘れずに、孔愉が余不亭よふていの知事になったとき、印鑑のつまみ飾りの亀の首が傾き、三度印鑑を造り直させたがやはりかたむき、孔愉はあとでそのわけを知り傾いたままの印を使用したという。
畜類尚お恩を報ず、人類争いかでか恩を知らざらん。
 動物でさえ恩を感じ、恩に報いるのですから、まして人間としてその恩義を知らずにいられようか。

  第四節 法にかなう生活こそ感謝の道
その報謝は余外よげの法は中あたるべからず、
 この報恩を他の教えで示すことはできない。
唯当まさに日日にちにちの行持、其報謝の正道なるべし、
 この大恩に報いる方法というのは、ただまさに日日の仏道修行をおこたらず、行持をいたしていくことが正法のご恩に報いる正道なのです。
謂ゆるの道理は日日の生命を等閑なおざりにせず、私に費やさざらんと行持するなり。
 その報謝の道理というのは、一日一日のいのちをおろそかに過ごすことなく、自分だけのために生活するのではなく、浄心精進の仏道を行い保つ生活をすべきなのです。

  第五節 仏の生き方を行いたもつ
光陰は矢よりも迅すみやかなり、身命は露よりも脆もろ
 月日の経つのは矢よりもすみやかであり、人のいのちは草の葉に宿る露よりもはかなくもろいものです。
何れの善巧ぜんぎょう方便ありてか過ぎにし一日を復び環かえし得たる、
 どのような巧みな手段をめぐらしたからといっても、過ぎさってしまった一日をとり返すことは絶対にできません。
いたずらに百歳生けらんは恨むべき日月じつげつなり、悲むべき形骸けいがいなり、
 それゆえに、真実の道を知ることなく百歳ほど長生きしたところで、後悔ばかりの月日に過ぎず、悲しむべき肉体というべきでしょう。
たとい百歳の日月は声色しょうしきの奴婢ぬひと馳走すとも、其その中一日の行持を行取ぎょうじゅせば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生たしょうをも度取すべきなり、
 しかしながら、たとえ百歳の月日は、妄想のおもむくままに刺激されて、欲望の奴隷となって走り回るあわただしい人生だったとしても、その中のたった一日だけでも、無常の世に目覚め、仏の行いを為すならば、百歳の人生も正しい教えにつつまれてゆくばかりか、次の生の百年も正しい教えにつらなり救われることになる。
この一日の身命は尊ぶべき身命なり、
 この一日のいのちというのは、まことにかけがえのない尊いいのちです。
尊ぶべき形骸なり、
 うやまい尊重すべき身命です。
この行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
 この仏としての修行ができる身命は、自分自身でも大切に敬うべきです。
我等が行持に依りて諸仏の行持見成げんじょうし、諸仏の大道通達つうだつするなり、
 これはまさに、我々が仏の道を正しく実行することによって、仏を出生せしめることとなり、仏法の大道があらゆるところにはたらきめぐるということです。
しかあれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子しゅしなり、諸仏の行持なり。
 ここに、我々のこの一日の仏としての修行は、そのまま諸仏の種まきであり、諸仏としての修行の生活でありますから、諸仏との自他一如の仏道となるのです。

  第六節 行持の報恩は仏の道
いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、
 今まで述べた諸仏とは、釈迦牟尼仏のことであります。
釈迦牟尼仏是れ即心是仏そくしんそくぶつなり、
 釈迦牟尼仏とは、二千五百年前のインドで覚られ仏陀となられた歴史上の人物と考えるのはまちがいで、釈尊のさとりとは、生きている自分自身の純粋ないのちとこころそのものです。
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
 過去、現在、未来にも、諸仏がさとられ仏になるときには、みな釈迦牟尼仏となられるのです。
是れ即心是仏なり、
 これが即心是仏(そのままも心これ仏)という仏であります。
即心是仏というは誰たれというぞと審細しんさいに参究すべし、
正に仏恩を報ずるにてあらん。

 このそのままの心是仏という仏とはいったい誰のことをいうのであろうか。ねんごろに真摯に実参実究することです。
 たゆみない浄心精進の行持こそが、仏恩に報いることとなり、仏の道となっていくのです。

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