修 証 義
[総 序] 水野弥穂子 訳
第一節 生 死
生しょうを明あきらめ死しを明あきらむるは仏家ぶっけ一大事いちだいじの因縁いんねんなり、
我々が生きているとはどういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見きわめるのが仏教者として最も大切な根本問題であります。
生まれてから死ぬまで、我々は迷い苦しみのまっただ中に生きているようですが、その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏(覚さとったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死しょうじはないのです。
但ただ
ただこの生まれてから、死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の
是この時とき初はじめて
こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむ世界から完全に縁が切れた生き方が自分のものになります。
唯ただ一大事いちだいじ因縁いんねんと究尽ぐうじんすべし。
生を明らかにし死を明らかにする、ただこれこそが一番大事な根本問題であるということに徹底しなさい。
第二節 人 身
人身にんしん得うること難かたし、仏法ぶっぽう値おうこと希まれなり、
人間の身に生まれてくることは非常に得がたいことであり、その上仏法にめぐりあうことも滅多にないことです。
今いま我等われら宿善しゅくぜんの助てすくるに依よりて、已すでに受うけ難がたき人身にんしんを受うけたるのみに非あらず、遇あい難がたき仏法ぶっぽうに値あい奉たてまつれり、
我々は今、前世で行った善根の力に助けられて、このように得がたい人間の身にうまれてきたばかりでなく、滅多にめぐりあえない仏法にもめぐりあわせていただいているのです。
生死しょうじの中なかの善生ぜんしょう、最勝さいしょうの生しょうなるべし、
生れては死ぬ存在の中では、一番善めぐまれた生涯であり最高にすぐれた生涯でありましょう。
最勝さいしょうの善身ぜんしんを徒いたずらにして露命ろめいを無常むじょうの風かぜに任まかすこと勿なかれ。
この最高にすぐれた、善めぐまれた身を無駄にして、露のようにはかなく消える命を無常(死)の風の吹くに任せて終わらせてはなりません。
第三節 無 常
無常むじょう憑たのみ難がたし、知しらず露命ろめいいかなる道みちの草くさにか落おちん
死(無常)というものは、いつやってくるか、予想もつかないのです。草叢に宿る露のようなはかない命は、いつ、どこで消えるか、全くわからないものです。
身み已すでに私わたくしに非あらず、命いのちは光陰こういんに移うつされて暫しばらくも停とどめ難がたし、
大体、自分のこの身体が(因縁和合でできているもので)自分のものではありません。
命は又、
紅顔こうがんいづくへか去さりにし、尋たずねんとするに蹤跡しょうせきなし。
少年の日の若さにあふれたあの顔は、どこへ行ってしまったのでしょう。年老いた今は、さがし求めようとしても、あとかたもありません。
熟つらつら観かんずる所ところに往時おうじの再ふたたび逢おうべからざる多おおし、
よくよく観察してみると、すぎ去ったことは、二度とめぐり合えないことばかりです。
無常むじょう忽たちまちち到いたるときは国王こくおう大臣だいじん親しんじつ従僕じゅうぼく妻子さいし珍宝ちんぽうたすくる無なし
死(無常)が突然やってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も、妻子も財産も、手をかして助けてくれるわけにはいかないのです。
唯ただ独ひとり黄泉こうせんに趣おもむくのみなり、己おのれに従したがい行ゆくは只ただ是これ善悪ぜんあく業等ごっとうのみなり。
たった一人で黄泉あのよへ旅立つばかりです。
どこまでも自分についてくるものといっては、ただ自分が作った善行・悪業ばかりです。
第五節 三 時
善悪ぜんあくの報ほうに三時さんじあり、
善行、悪行の報いについては、その報いを受けるときから言って三種あります。
一者ひとつには順現じゅんげん報受ほうじゅ、二者ふたつには順次じゅんじ生受しょうじゅ、三者みつには順後じゅんご次受じじゅ、これを三時さんじという、
第一は順現報受です。
この世で行った善悪の報いをこの世で受けます。
第二は順次生受です。
この世で行った善悪の報いを次の生で受けます。
第三は順後次受です。
この世で行った善悪の報いを受けず、次の世でも受けず、次の次の生以後、百千生の間に受けるのです。
これを三時と言います。
仏祖ぶっその道どうを修習しゅじゅうするには、其その最初さいしょより斯この三時さんじの業報ごっぽうの理りを効ならい験あきらむるなり、
仏祖の道を修行してゆくには、その最初から、この三時にわたって善悪の行いに報いがあるという理すじみちをよく聞いて、はっきりさせておくのです。
爾しかあらざれば多おおく錯あやまりりて邪見じゃけんに堕おつるなり、胆ただ邪見じゃけんに堕おつるのみに非あらず、悪道あくどうに堕おちて長時ちょうじの苦くを受うく。
そうでないと、多くは間違って邪見(因果の道理をわきまえない間違った
第六節 悪 業
当まさに知しるべし今生こんじょうの我身わがみ二ふたつ無なし、三みつ無なし、
だから、よくよく知っておかなければならないのです。
この世に生を受けた自分の身体はたった一つ、二つも三つもあるものではありません。
徒いたづらにして邪見じゃけんに堕おちて虚むなしく悪業あくごうを感得かんとくせん惜おしからざらめや、
もし因果を否定する間違った考えにおちると、この大事な身体で悪業をつくり、悪の報いを身に受けなければなりません。それは全く何の役にも立たぬ無駄なことで、何ともったいないことではありませんか。
悪あくを造つくりながら悪あくに非あらずと思おもい、悪あくの報ほうあるべからずと邪思惟じゃしゆいするに依よりて悪あくの報ほうを感得かんとくせざるには非あらず。
また、悪を造っておいて悪ではないと思っていたり、悪の報いなんかあるはずないと、間違った
第二章 懺悔滅罪 服部松斉 訳
第七節 滅 罪
仏祖ぶっそ憐あわれみの余あまり広大こうだいの慈門じもんを開ひらき置おけり、
仏陀釈尊や歴代の祖師がたは、衆生の迷い苦しみを見かねて、誰でもいつでも入れる大きな救いの門を開いておいて下さった。
是これ一切いっさい衆生しゅじょうを証入しょうにゅうせしめんが為ためなり、人天にんてん誰たれか入いらざらん、
これは、すべての人びとをして、みずから体験し悟らしめんとする為である。これを聞いて、入ろうとしないものがいるであろうか。
彼かの三時さんじの悪業報あくごっぽう必かならず感かんずべしと雖いえども、懺悔さんげするが如ごときは重おもきを転てんじて軽受けいじゅせしむ、又また滅罪めつざい清浄しょうじょうならしむるなり。
さて、われわれが良からぬ行為をするならば、その影響はアトにのこってくるが、もし仏祖のおしえに随って懺悔するならば、悪影響も好転して軽く受けることが出来よう。
また、さらにいえば、心は清々しい爽やかな気持ちにもどらせてもらえるのである。
第九節 解 脱
其その大旨だいしは、願ねがわくは我われ設たとい過去かこの悪業あくごう多おおく重かさなりて障道しょうどうの因縁いんねんありとも、
さて、懺悔の仕方のおおよそをいうと、こういう気持ちをもって、仏にお願いするとよい。
「わたくしは、たとえ過去の罪過つみとがが多く積もって、求道のさまたげになっている救い難い人間でありましょうとも、
仏道ぶつどうに因よりて得道とくどうせりし諸仏しょぶつ諸祖しょそ我われを愍あわれみて業累ごうるいを解脱げだつせしめ、学道がくどう障さわり無なからしめ、
どうか、仏道によっておさとりになられた仏祖のかたがたよ、わたくしを
其その功徳くどく法門ほうもん、晋あまねく無尽むじん法界ほうかいに充満じゅうまん弥綸みりんせらん哀あわれみを、我われに分布ぶんぷすべし、
その功徳広大なみ教えと、天地万物に普く及ばれている大慈悲とを、わたくしにもお分かち下さいますように。」と、静かに祈るのである。
仏祖ぶっその往昔おうじゃくは吾等われらなり、吾等われらが当来とうらいは仏祖ぶっそならん。
そして、仏祖も昔は私たちと同じように悩まれたのだ。
我等も一生懸命でやりさえすれば、仏祖のような心境に近づくことが出来るのだ、と心にいいきかせ、勇を鼓するのである。
第三章 受戒入位 桜井秀雄 訳
第十一節 三 法
次つぎには深ふかく佛法僧ぶっぽうそうの三寶さんぽうを敬うやまい奉たてまつるべし、
(懺悔して新生の一歩を踏み出した)次には、最高の人格である仏・すべてに通ずる真理まことの法・そして法を依り処とした和平の相すがたである僧を三つの宝といい、(仏の教えを仰ぐものは)この三つの宝を深く敬うのでなければならない。
生しょうを易かえ身みを易かえても三寶さんぽうを供養くようし敬うやまい奉たてまつらんことを願ねごうべし、
生まれかわり、死にかわりし、(また、この世で苦しく悲しい時でも、楽しく嬉しい時でも)あこがれの心を忘れまいと誓い願うのでなければならない。
西天さいてん東土とうど仏祖ぶっそ正伝しょうでんするところは恭敬くぎょう佛法僧ぶっぽうそうなり。
インドから中国を経て、真実の道を正しく伝えてこられた祖師がたの生きざまは、この三つの宝を敬い、尊ぶということであった。
第十二節 歸 依
若もし薄福はくふく少徳しょとくの衆生しゅじょうは三寶さんぽうの名字みょうじ猶なほ聞きき奉たてまつらざるなり、
もし(正信もなく欲望のまにまにすごし)福徳が薄うすく少ない人人ありとすれば、このような人たちは、三宝の名前さえ耳にすることはないであろう。
何いかに況いわんや歸依きえし奉たてまつることを得えんや、
ましてや、三つの宝に全生命を投げ入れて、依り処とすることなどあろうはずがない。
徒いたずらに所逼しょひつを怖おそれて山~さんじん鬼~きじん等とうに歸依きえし、或あるいは外道げどうの制多せいたに歸依きえすること勿なかれ、
(そして自らが招きながら)他の何ものかに
彼かれは其その歸依きえに因よりて衆苦しゅくを解脱げだつすることなし、
そのようなものを依り処としたところで、物心両面にわたる、いろいろな苦しみから、のがれることができるものではない。
早はやく佛法僧ぶっぽうそうの三寶さんぽうに歸依きえし奉たてまつりて、衆苦しゅくを解脱がだつするのみに非あらず菩提ぼだいを成就じょうじゅすべし。
早く仏と法と僧との三つの宝を、おのれの生命の依り処とし、いろいろな苦しみから、とき・はなたれ・のがれるだけでなく、正しい智慧に目覚めるということこそ果たすべきみちである。
第十三節 三 歸
其その歸依きえ三寶さんぽうとは正まさに淨心じょうしんを專もっぱらにして、或あるいは如來にょらい現在世げんざいせにもあれ、或あるいは如來にょらい滅後めつごにもあれ、合掌がっしょうし低頭ていずして口くちに唱となへて云いわく、南無なむ歸依きえ佛ぶつ、南無なむ歸依きえ法ほう、南無なむ歸依きえ僧そう、
まず三宝に帰依する作法の基本は、正しく・まじりけのない信心をかたむけ、み仏が、この世に在いましたときでも、また、み仏が入滅されたあとであろうが、常に合掌・礼拝し、口に南無帰依仏南無帰依法南無帰依僧とお唱えするのである。
佛ほとけは是これ大師だいしなるが故ゆえに歸依きえす、法ほうは良薬りょうやくなるが故ゆえに歸依きえす、僧そうは勝友しょうゆうなるが故ゆえに歸依きえきえす、
かくて、偉大なる導師みちびきてたる仏に帰依し、迷妄の病を癒いやす良き薬である法を頂き、勝すぐれた友だちである僧と和してゆくのである。
佛弟子ぶつでしとなること必かならず三歸さんきに依よる、何いずれの戒かいを受うくるも必かならず三歸さんきを受ううけて其その後のち諸戒しょかいを受うくるなり、然しかあれば則すなわち三歸さんきに依よりて得戒とくかいあるなり。
仏弟子となるには、必ず(全身全霊をかたむけ)仏法僧の三宝にきえすべきであり、仏教の世界には、いろいろな戒律もあるが、どんな戒をうけようとも、まず三宝へ帰依し、そのあとで、いろいろな戒を受けるべきであり、従って三宝帰依によってのみ、はじめて受戒ができ得たというべきである。
第十四節 感 應
此この歸依きえ佛法僧ぶっぽうそうの功コくどく、必かならず感應かんのう道交どうこうするとき成就じょうじゅするなり、
この三宝に、わが身を投げ入れたときの、はたらきは、必ず自らの心と三宝の徳が、ひびきあい・交わりあい・一体となるときのみ成なり就とげられるのである。
設たとひ天上てんじょう人間にんげん地獄じごく鬼畜きちくなりと雖いえども、感應かんのう道交どうこうすれば必かならず歸依きえし奉たてまつるなり、
世には、ちょっとしたことで有頂天うちょうてんになっているものもあれば、ウカウカ過ごしている人間もあれば、地の底に沈むよう苦しみにあえぐものもあれば、たえず飢えガツガツしている餓鬼や、無知で愚かな畜生のような心をもつものもなしとしないが、ひとたび仏法を学び・我が仏に入り・仏が我に入り全く一体となれば、どんな人でも、そのさまを帰依というのである。
已すでに歸依きえし奉たてまつるが如ごときは、生生しょうしょう世世せせ在在ざいざい處處しょしょに搨キぞうちょうし、必かならず積功しゃっく累コるいとくし、阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提さんぼだいを成就じょうじゅするなり、
すでに、この処に至って安心決定すれば、生きかわり・死にかわり・いずこにあり、そこに、そのすぐれたはたらきが増し、きっと、そのはたらきを積み重ねざるをえなくなり、そこに、この上ない、すばらしい悟りの道をえるのである。
知しるべし三歸さんきの功コくどく其それ最尊さいそん最上さいじょう甚深じんじん不可思議ふかしぎなりといふこと、世尊せそん已すでに證明しょうみょうしまします、衆生しゅじょう當まさに信受しんじゅすべし。
三宝帰依のはたらきは、もっとも尊く・この上なく実に深く、常識的な判断で思いはかる議はかることのできないものであることは、ブッダがすでに証明してくれているのですから、この世のすべての人は、この証明を心から信じうけがうべきである。
第十五節 浄 戒
次つぎには應まさに三聚浄戒さんじゅじょうかいを受うけ奉たてまつるべし。
次には、まさに三つの総合的な清浄の誓願の戒を受けなさい。
第一だいいち攝律儀しょうりつぎ戒かい、第二だいに攝善法しょうぜんぽう戒かい、第三だいさん攝衆生しょうしゅじょう戒かいなり、
即ち、第一は、すべての不善を為さないこと、第二に、あらゆる善行に励むべきこと、第三に、永く世のため人のために尽くそうと誓うことである。
次つぎには應まさに十重禁戒じゅうじゅうきんかいを受うけ奉たてまつるべし
次に十項目の大切な禁戒いましめを守ると誓いなさい。
第一だいいち不殺生ふせっしょう戒かい、第二だいに不倫盗ふちゅうとう戒かい、第三だいさん不邪婬ふじゃいん戒かい、第四だいし不妄語ふもうご戒かい、第五だいご不 酒ふこしゅ戒かい、第六だいろくく不説過ふせっか戒かい、第七だいしち不自讃毀佗ふじさんきた戒かい、第八だいはち不慳法財ふけんほうざい戒かい、第九だいく不瞋恚ふしんい戒かい、第十だいじゅう不謗三寶ふぼうさんぽう戒かい、
即ち、第一いのちあるものを、ことさらに殺さず、第二に与えられないものを手にすることなく、第三に道ならざる愛欲を犯すことなく、第四にいつわりの言葉を口にせず、第五は酒に溺れて生業を怠らず、第六他人の過あやまちをせめたてず、第七己れを誇り他の人を傷つけず、第八物でも心でも施すことを惜しまず、第九怒りに燃えて自らを失わず、そして第十仏法僧の三宝を謗そしり不信の念をおこすまいと誓うのである。
上來じょうらい三歸さんき、三聚浄戒さんじゅじょうかい、十重禁戒じゅうじゅうきんかい、是これ諸佛しょぶつの受持じゅじしたまふ所ところなり。
以上、これらの三つの帰依の信仰と、三つの清らかな請願とそして十条の戒めの実行とは、もろもろのみ仏が、正しい生き方としてうけがい・持たもたれてきた道なのである。
第十六節 受 戒
受戒じゅかいするが如ごときは、三世さんぜの諸佛しょぶとの所證しょしょうなる阿耨多羅あのくたら三藐さんみゃく三菩提さんぼだい金剛こんごう不壊ふえの佛果ぶっかを證しょうするなり、
受戒といい、仏道のきまりを守ると誓願することは、過去・現在・未来にわたり、常にいます、あらゆるみ仏のお悟りになった最高無上の道であり、そして金剛石の如く壊やぶれることのない仏としての完全な人格が具わるのである。
誰たれの智人ちにんか欣求ごんぐせざらん、
正眼まさめでものをみる知恵のある人なら、誰でも欣よろこんで、これを求めないものはなかろう。
世尊せそん明あきらかに一切いっさい衆生しゅじょうの為ために示しめしまします、
ブッダは、あきらかに、この世のすべての人々に、この理ことわりを示しておられる。
衆生しゅじょう佛戒ぶっかいを受うくれば、即すなわち諸佛しょぶつの位くらいに入いる。位くらい大覺だいがくに同おなじうし已おわる、眞まことに是これ諸佛しょぶつの子みこなりと。
即ち「世の人人が、仏の戒法を受け誓願の式を修すれば、そのまま、み仏の位に入り、大いなる
第十七節 功 コ
諸佛しょぶつの常つねに此中このなかに住持じゅうじたる、各々かくかくくの方面ほうめんに知覺ちかくを遺のこさず、
あらゆるみ仏が、この戒法の世界にあって、安らかに住し、これを持たもち続けるさまは、意識的に、それを知り・感ずるというような心のとらわれを残していないから、戒を
「すべし」とか「すべからず」と受けとめるのではなく、そうせずにはおれない完全自在の世界に遊んでいるのである。
群生ぐんじょうの長とこしなへに此中このなかに使用しようする、各々かくかくの知覺ちかくに方面ほうめん露あらわれず、
戒法を頂き、すでに諸仏の位に入り仏と同体の群生が、長く仏道の中に生きる・使用するといっても、知り感ずるという心の思いがなくなるわけではないが、思う心にカゲやしこりがあらわれることなく、純粋そのもので、これを受戒の誓願をはたしたさまというのである。
是時このとき十方じっぽう法界ほうかいの土地とち草木そうもく牆壁しょうへき瓦礫がりゃく皆みな佛事ぶつじを作なすを以もって、其その起おこす所ところの風水ふうすいの利uりやくに預あずかる輩ともがら、皆みな甚妙じんみょう不可思議ふかしがの佛化ぶっけに冥資みょうしせられて親ちかき悟さとりを顯あらはす、
受戒によって、この境地に達したすがたは、次のようにも表しえよう。
即ち、受戒の誓いがなされたときは、ちょうど天地に存する土地や草木の自然界にも似て、垣根・壁土・瓦や小石のはてまで、みなそれぞれが、その役目を果たしており、風の恵みで草木は花を開き実を結び、水の流れにうるおいをえ、常に相依相関し自らも生かされ、また他を生かすという、人の気づかないままの資たすけあいの中で、その本領を発揮しているごときもので、それを悟さとりを顕あらわすというのである。
是これ無為むいの功コくどくとす、是これを無作むさの功コくどくとす、是これ發菩提心ほつぼだいしんなり。
これは、たくまず・はからいのない自然じねんのはたらきの力というべきで、これにめざめさせて頂く受戒の誓願に生きるすがたを、まことのホトケゴコロが発おきたというのである。
第四章 発願利生
第一節 仏の願いをおこす
菩提心を発おこすというは、己おのれ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、
発菩提心、すなわち菩提心をおこすということは、苦しみ悩み多き人生において、自分が仏の境地にいまだ達していないということであっても、他人をやすらぎ(彼岸)の世界にわたそうという願いをおこしその実現につとめることです。
設たとい在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗じみとくどせんどたの心を発おこすべし。
たとえ在家信者であろうとも、たとえ出家の身であろうと、あるいは天上界のような福分の多い境遇であっても、悩み多き人間的世界の境遇であっても、逆境の人であっても、順境の人であっても、まずはやく(自未得度先度佗)自らはまだ仏の境地に到達していなくともまず、他人を先に渡そうとする仏の心をおこすべきです。
第二節 仏道のすばらしい法則
其その形陋いやしというも、此この心を発おこせば、已すでに一切衆生の導師なり、
その人の外見や境遇が、いやしめられるような人であっても、この誓願をおこしているならば、すでに一切衆生を正しい教えに導く先達者であり指導者なのです。
設たとい七歳しちさいの女流なりとも即ち四衆ししゅの導師なり、衆生の慈父じふなり、
たとえ七才の幼い女子であっても、そのこころをおこしているならば、直ちに四衆(男性の僧、女性の僧、男性の仏教徒、女性の仏教徒)の指導者であり、慈悲あふれる父ともいえるのです。
男女なんにょを論ずること勿れ、此れ仏道極妙ごくみょうの法則なり。
誓いの心を起こすに男女の区別などはないのです。これこそ仏道におけるこの上なくすぐれた法則なのです。
第四節 四つの智慧の実践
衆生を利益すというは四枚しまいの般若あり、
一切衆生を救済利益するには四種の方法があります。
一者ひとつには布施ふせ、二者ふたつには愛語あいご、三者みつには利行りぎょう、四者よつには同時どうじ、
ひとつには布施、ふたつには愛語、三つには利行、四つには同事です。
是れ則ち薩垂の行願なり、
これらはそのまま菩薩方の行であり誓願に基づくものです。
其その布施というは貪らざるなり、
その布施というのは、むさぼらないということです。
我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実じつなるべきなり、
施すべきものが自分に無いとしても、布施の意義をそこなうものではないのです。
例えば優しいまなざしで接する・なごやかな顔をみせる・やさしい言葉をかける・思いやりをかける・自分の体で奉仕する・人に席を譲ってあげる・自分の家を他人の為に提供するということも立派な布施の行為なのです。施すものの軽少は問題ではなく布施の心が大切なのです。
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
それゆえに、一句一偈といったわずかな教えであっても布施すべきです。
此生侘生ししょうたしょうの善種となる、
今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。
一銭一草の財たからをも布施すべし、
たった一銭であっても、たとえわずかな物であっても人の為に布施すべきです。
此世侘世しせたせの善根を兆す、
そうすれば必ず今世にあっても来世にあっても、しわせの善根の功徳が現れてくるようになるのです。
法も財たからなるべし、財たからも法なるべし、
教えは法施であり財宝と思い布施すべきです、また、財を施すのに法施の心をもってするならば財も法であります。
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒わかつなり、
ただどちらの布施であっても相手からのおかえしをあてにしないで、自分のもてる力量に応じて布施することが大切なのです。
舟を置き橋を渡すも布施の檀度だんどなり、
川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。
治生ちっしょう産業固より布施に非ざること無し。
社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来布施の精神に基づくものでありますから布施にほかならないのです。
第六節 人のよろこびは我がよろこび
利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧ぜんきゅうを廻らすなり、
利行というのは、身分の上下に関係なく、誰に対しても慈愛の心をもって利他救済のよりよき手だてをはたらかせることです。
窮亀きゅうきを見病雀びょうじゃくを見しとき、彼が報謝を求めず、唯単ひとえに利行に催おさるるなり、
晋の孔愉は、余不亭で子供にいじめられている亀を買い取って川に放してあげた。後漢の揚宝は、ふくろうにいじめられ傷ついた雀を助けてあげた。
この亀や雀は後に恩返しをして孔愉も揚宝も孫の代まで栄えたということであるが、しかし窮亀や病雀を救った報酬などを求める心を考えず利行の心からなされたものであったからこそ報恩感謝が現れるのです。ただ無心に相手の為によかれとおもう心にひかされて助けてあげるのです。
愚人ぐにんぐにん謂おもわくは利侘を先とせば自らが利省かれぬべしと、爾しかには非あらざるなり、
愚かな人は、人助けを先にすれば、自分は損をするにちがいないと考えてしまうが、そうではないのです。
利行は一法なり、
利行の道理は一つで、自分と他人を比較するような対立が無いことなのです。
普あまねく自侘を利するなり。
自他一如と言われる真実の世界なのです。自分も他人もともに利益を受けるということなのです。
第八節 発願の道理を親しく知る
大凡おおよそ菩提心の行願ぎょうがんには是かくの如くの道理静かに思惟すべし、
およそ菩提心の行と願というものは、このような教えというものがあるのですから、よくよく落ち着いて考え心してゆかねばなりません。
卒爾にすること勿れ、
決しておろそかにしないで精進すべきなのです。
済度さいど摂受しょうじゅに一切衆生皆化みなけを被こうぶらん功徳を礼拝らいはい恭敬くぎょうすべし。
衆生を救い衆生をひきうける菩提心の善行によって、一切衆生は大いなる恩恵をこうむるのであるから、それに対してつつしんで礼拝しうやまうべきであります。
第五章 行持報恩第一節 仏との出会いを喜ぶ
第二節 正しい教えを聞く喜び
静かに憶おもうべし、
正法にであえた因縁を心をしずめて、思いめぐらしてみなさい。
正法しょうぼう世に流布せざらん時は、身命を正法の為に拠捨ほうしゃせんことを願うとも値おうべからず、
釈尊の正しい教えが、正しく伝授されたからこそ我々は仏法に遇い感得することもできるのであるが、正法が世間にひろまっていないときには、わが身わがいのちを正しい教えの為に投げ捨てようと誓っても、その機会に出会うことはできないのです。
正法に逢う今日こんにちの吾等を願うべし、
ですから正法に逢うことのできた、今日の我々のご縁をこそ願いよろこぶべきなのです。
見ずや、
しっかり認識しておかなければならないことがあります。
仏の言のたまわく、
正法を願い仏道を成ぜんがために仏は次のように示されるのです。
無上菩提を演説する師に値あわんには、種姓しゅしょうを観ずること莫れ、
真実のこのうえなき教えを説きのべる人に出会ったときには師の生まれをせんさくしてはいけません。
容顔を見ること莫れ、
顔かたちや容貌を気にしてはいけません。
非を嫌うこと莫れ、
欠点やくせをきらってはいけません。
行おこないを考うるこ莫れ、
過去の行いを批判してはいけません。
但ただ般若を尊重そんじゅうするが故に、
菩薩といえども、始めから完全無欠であったわけではないのですから、仏法を聞くときには、ただ、真実の智慧を尊重していくことによってさとりと出会えるのです。
日日三時に礼拝らいはいし、恭敬くぎょうして、更に患悩げんおうの心を生ぜしむること莫れと。
日々の朝昼晩に、礼拝し、煩悩のこころをおこしてはなりません。
第三節 仏縁を喜び恩を忘れず
今の
今日の我々が仏に出会い教えをきくことができるのは、いままで仏や祖師方が身命をかけて伝授され護持されてきた慈悲のおかげです。
仏祖若し
真実の仏法をひとえに仏祖方が単伝しなかったならば、どうして今日まで伝わることができたであろうか。
一句の恩尚なお報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、
それ故に、たった一句の教えでさえも、その因縁のめぐみに感謝すべきであり、たった一つの法の教えにさえも、そのめぐみをよろこび報いるべきです。
況いわんや
ましてや、正法眼蔵という最高の教えを伝えていただいた大いなるご恩に感謝し、報いなければなりません。
病雀尚お恩を忘れず三府さんぷの環かん能く報謝あり、
中国の故事にある、揚宝に助けられた雀はその恩を忘れず、四つの環わを贈って、揚宝家が四代にわたり三公(政府の要職)の位についたという恩返しがあるのです。
窮亀きゅうき尚お恩を忘れず、余不よふの印いん能く報謝あり、
孔愉に助けられた亀も恩を忘れずに、孔愉が余不亭よふていの知事になったとき、印鑑のつまみ飾りの亀の首が傾き、三度印鑑を造り直させたがやはりかたむき、孔愉はあとでそのわけを知り傾いたままの印を使用したという。
畜類尚お恩を報ず、人類争いかでか恩を知らざらん。
動物でさえ恩を感じ、恩に報いるのですから、まして人間としてその恩義を知らずにいられようか。
第四節 法にかなう生活こそ感謝の道
其その報謝は余外よげの法は中あたるべからず、
この報恩を他の教えで示すことはできない。
唯当まさに日日にちにちの行持、其報謝の正道なるべし、
この大恩に報いる方法というのは、ただまさに日日の仏道修行をおこたらず、行持をいたしていくことが正法のご恩に報いる正道なのです。
謂ゆるの道理は日日の生命を等閑なおざりにせず、私に費やさざらんと行持するなり。
その報謝の道理というのは、一日一日のいのちをおろそかに過ごすことなく、自分だけのために生活するのではなく、浄心精進の仏道を行い保つ生活をすべきなのです。
第五節 仏の生き方を行いたもつ
光陰は矢よりも迅すみやかなり、身命は露よりも脆もろし
月日の経つのは矢よりもすみやかであり、人のいのちは草の葉に宿る露よりもはかなくもろいものです。
何れの善巧ぜんぎょう方便ありてか過ぎにし一日を復び環かえし得たる、
どのような巧みな手段をめぐらしたからといっても、過ぎさってしまった一日をとり返すことは絶対にできません。
徒いたずらに百歳生けらんは恨むべき日月じつげつなり、悲むべき形骸けいがいなり、
それゆえに、真実の道を知ることなく百歳ほど長生きしたところで、後悔ばかりの月日に過ぎず、悲しむべき肉体というべきでしょう。
設たとい百歳の日月は声色しょうしきの奴婢ぬひと馳走すとも、其その中一日の行持を行取ぎょうじゅせば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生たしょうをも度取すべきなり、
しかしながら、たとえ百歳の月日は、妄想のおもむくままに刺激されて、欲望の奴隷となって走り回るあわただしい人生だったとしても、その中のたった一日だけでも、無常の世に目覚め、仏の行いを為すならば、百歳の人生も正しい教えにつつまれてゆくばかりか、次の生の百年も正しい教えにつらなり救われることになる。
此この一日の身命は尊ぶべき身命なり、
この一日のいのちというのは、まことにかけがえのない尊いいのちです。
尊ぶべき形骸なり、
うやまい尊重すべき身命です。
此この行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
この仏としての修行ができる身命は、自分自身でも大切に敬うべきです。
我等が行持に依りて諸仏の行持見成げんじょうし、諸仏の大道通達つうだつするなり、
これはまさに、我々が仏の道を正しく実行することによって、仏を出生せしめることとなり、仏法の大道があらゆるところにはたらきめぐるということです。
然しかあれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子しゅしなり、諸仏の行持なり。
ここに、我々のこの一日の仏としての修行は、そのまま諸仏の種まきであり、諸仏としての修行の生活でありますから、諸仏との自他一如の仏道となるのです。
第六節 行持の報恩は仏の道
謂いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、
今まで述べた諸仏とは、釈迦牟尼仏のことであります。
釈迦牟尼仏是れ即心是仏そくしんそくぶつなり、
釈迦牟尼仏とは、二千五百年前のインドで覚られ仏陀となられた歴史上の人物と考えるのはまちがいで、釈尊のさとりとは、生きている自分自身の純粋ないのちとこころそのものです。
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
過去、現在、未来にも、諸仏がさとられ仏になるときには、みな釈迦牟尼仏となられるのです。
是れ即心是仏なり、
これが即心是仏(そのままも心これ仏)という仏であります。
即心是仏というは誰たれというぞと審細しんさいに参究すべし、
正に仏恩を報ずるにてあらん。
このそのままの心是仏という仏とはいったい誰のことをいうのであろうか。ねんごろに真摯に実参実究することです。
たゆみない浄心精進の行持こそが、仏恩に報いることとなり、仏の道となっていくのです。