久保田万太郎

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

神田川祭の中を流れけり
 「窓の下には神田川、三畳一間の小さな下宿」…
 万太郎の句は、この神田界隈を流れて隅田川へと注ぐその神田川を実に平明な言葉で、平明な俳句的骨法で、恐ろしいほど的確に描きあげている。

新参の身にあかあかと灯りけり
 「新参」とは新参の奉公人のことで、今では死語となったものの一つであろう。
 「あかあかと灯りけり」と「ありのままに、さりげなく」、何の変哲もないような表現に、その「新参の奉公人」の「あわれ」な境遇の姿が浮かび上がって来る。

ふゆしほの音の昨日をわすれよと
 「ふゆしほ」は冬汐。「昨日」は「きのふ(う)」の詠み。
 この句には「海、窓の下に、手にとる如くみゆ」との前書きがある。

ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに
 「ボヘミアンネクタイ」・「若葉さわやかに」…、何と骨格だけで俳句ができている。「永井荷風先生、逝く。先生の若い日を語れとあり」、この句は断腸亭主人・荷風への追悼句なのである。

セルの肩 月のひかりにこたへけり
 「木下有爾君におくる」との前書きのある一句。「セルの肩」の上五の次に、一字の空白があり、ここで「間」(ポーズ)を取るのであろうか。

初午や煮しめてうまき焼豆腐
 小沢碧童の、昭和四年作の句に「初午や煮つめてうまき焼豆腐」という句があり、この類想句だというのである。万太郎俳句の良き理解者であった安住敦さんが「引っ込めるべきではないか」という助言に、焼豆腐は「煮つめて」ではなく「煮しめて」が正しいのですと、万太郎は平然としていたという。

来る花も来る花も菊のみぞれつつ
 この句には、「昭和十年十一月十六日妻死亡」との前書きがある。
 この夫人は万太郎とのいざこざで、自分で自分の命を絶ったというのが、その真相らしい。しかし、この句などを見ると、万太郎の、その時の心境は、この句の「みぞれ」のように、寒々とした惨めなものであったろう。

芥川竜之介仏 大暑かな
 竜之介が服毒自殺を遂げたのは、その前年のことであり、この句はその一周忌での追悼句ということになる。
 この句の詠みは「芥川竜之介(ぶつ)
」で切り、「大暑かな」と続けるのであろう。
 竜之介には、その死後に刊行された『澄江堂句集』という句集があるが、
 その句の中に、「兎も片耳垂るる大暑かな」という「破調」という前書きのある句があるが、万太郎は、竜之介のこの句の「大暑かな」を本句取りにしていることは言うまでもない。

鶏頭の秋の日のいろきまりけり
 「きまりけり」の下五の「けり」止めの余情とその時間的経過を醸し出している点は心憎いばかりである。子規の「鶏頭の十四五本はありぬべし」等々、鶏頭の句には名句が多いが、この万太郎の句も、鶏頭の名句として、これからも、永く詠み続けられていく句の一つであろう。

桐一葉 空みれば空 はるかなり

したたかに 水をうちたる 夕ざくら

蝶ひくし 青葉ぐもりと いふ曇り

冬紅葉 冬のひかりを あつめけり

柳の芽 雨またしろき ものまじへ

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