俊 寛 芥川龍之介

 俊寛(しゅんかん)云いけるは……神明(しんめい)(ほか)になし。(ただ)我等が一念なり。
 ……唯仏法を修行(しゅぎょう)して、今度(こんど)生死(しょうし)を出で給うべし。
(俊寛)いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。
 見せばやな 我を思わぬ 友もがな 磯のとまやの (しば)(いおり)

    源平盛衰記(げんぺいすいせいき)

 俊寛様の話ですか? 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。
 いや、俊寛様の話ばかりではありません。
 このわたし、――有王ありおう自身の事さえ、飛とんでもない嘘が伝わっているのです。
 現についこの間も、ある琵琶法師びわほうしが語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂くるい死じにをなすってしまうし、わたしはその御死骸おなきがらを肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談かたらいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯しょうがいを御送りになったとか、まことしやかに語っていました。
 前の琵琶法師の語った事が、跡方あとかたもない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはり好い加減の出たらめなのです。
 一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも我われは顔がおに、嘘ばかりついているものなのです。
 が、その嘘のうまい事は、わたしでも褒めずにはいられません。
 わたしはあの笹葺ささぶきの小屋に、俊寛様が子供たちと、御戯おたわむれになる所を聞けば、思わず微笑を浮べましたし、またあの浪音の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。
 たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師びわほうしの語った嘘は、きっと琥珀こはくの中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。
 して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘はいつのまにか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたはおっしゃるのですか? なるほどそれもごもっともです。
 ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる鬼界きかいが島しまへ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。
 しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。
 ただわたしの話の取り柄は、この有王が目のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。
 ではどうかしばらくの間あいだ、御退屈でも御聞き下さい。

 わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承じしょう三年五月の末、ある曇った午ひる過ぎです。
 これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと俊寛しゅんかん様に、めぐり遇う事が出来ました。
 しかもその場所は人気ひとけのない海べ、――ただ灰色の浪なみばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。
 俊寛様のその時の御姿は、――そうです。
 世間に伝わっているのは、
「童わらわかとすれば年老いてその貌かおにあらず、法師かと思えばまた髪は空そらざまに生い上あがりて白髪はくはつ多し。よろずの塵ちりや藻屑もくずのつきたれども打ち払わず。頸くび細くして腹大きに脹れ、色黒うして足手細し。人にして人に非ず。」と云うのですが、これも大抵たいていは作り事です。
 殊に頸くびが細かったの、腹が脹れていたのと云うのは、地獄変じごくへんの画からでも思いついたのでしょう。
 つまり鬼界が島と云う所から、餓鬼がきの形容を使ったのです。
 なるほどその時の俊寛様は、髪も延びて御出おいでになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、そのほかは昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。
 昔よりも一層いっそう丈夫そうな、頼もしい御姿おすがただったのです。
 それが静かな潮風しおかぜに、法衣ころもの裾を吹かせながら、浪打際なみうちぎわを独り御出でになる、――見れば御手おてには何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「僧都そうずの御房ごぼう! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王ありおうです!」
 わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
 俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。
 が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生こんじょうでは、お前にも会えぬと思っていた。」
 俊寛様もしばらくの間あいだは、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日きょう会っただけでも、仏菩薩ぶつぼさつの御慈悲ごじひと思うが好い。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房ごぼうは、――御房の御住居おすまいは、この界隈かいわいでございますか?」
「住居か? 住居はあの山の陰かげじゃ。」
 俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山いそやまを御指しになりました。
「住居と云っても、檜肌葺ひわだぶきではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
 わたしはそう云いかけたなり、また涙に咽むせびそうにしました。
 すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心いごころは悪くない住居じゃ。寝所ねどころもお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが好い。」と、気軽に案内をして下さいました。
 しばらくの後のちわたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村ぎょそんへはいりました。
 薄白い路の左右には、梢こずえから垂れた榕樹あこうの枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺ささぶきの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。
 が、そう云う家の中に、赤々あかあかと竈かまどの火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐なつかしい気もちだけはして来ました。
 御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人りゅうきゅうじんだとか、あの檻おりには豕いのこが飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。
 しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子えぼしさえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。
 殊に一度なぞはある家の前に、鶏とりを追っていた女の児さえ、御時宜おじぎをしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺うかがって見ました。
「成経なりつね様や康頼やすより様が、御話しになった所では、この島の土人も鬼おにのように、情なさけを知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流人るにんとは云うものの、おれたちは皆都人みやこびとじゃ。辺土へんどの民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。業平なりひらの朝臣あそん、実方さねかたの朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、東あずまや陸奥みちのくへ下くだった事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになった後のちでさえ、都恋しさの一念から、台盤所だいばんどころの雀すずめになったと、云い伝えて居るではありませんか?」
「そう云う噂うわさを立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界きかいが島しまの土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
 その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。
 これはちょうど榕樹あこうの陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後うしろを遮さえぎられたせいか、紅染べにぞめの単衣ひとえを着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。
 すると御主人はこの女に、優やさしい会釈えしゃくを返されてから、
「あれが少将の北きたの方かたじゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
 わたしはさすがに驚きました。
「北きたの方かたと申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
 俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷うなずいて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の胤たねじゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う辺土へんどにも似合わない、美しい顔をして居りました。」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、頬ほおのふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そのために今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云わぬ。」
 わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈じょうろうを見せてやっても、皆醜みにくいと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。ただ好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代不変ばんだいふへんとは請合うけあわれぬ。その証拠には御寺みてら御寺の、御仏みほとけの御姿みすがたを拝むが好い。三界六道さんがいろくどうの教主、十方最勝じっぽうさいしょう、光明無量こうみょうむりょう、三学無碍さんがくむげ、億億衆生引導おくおくしゅじょういんどうの能化のうげ、南無大慈大悲なむだいじだいひ釈迦牟尼如来しゃかむににょらいも、三十二相そう八十種好しゅこうの御姿おすがたは、時代ごとにいろいろ御変りになった。御仏みほとけでももしそうとすれば、如何いかんかこれ美人と云う事も、時代ごとにやはり違う筈じゃ。都でもこの後のち五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄なんばんほくてきの女のように、凄すさまじい顔がはやるかも知れぬ。」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。」
「所がその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈じょうろうの顔は、唐朝とうちょうの御仏みほとけに活写いきうつしじゃ。これは都人みやこびとの顔の好みが、唐土もろこしになずんでいる証拠しょうこではないか? すると人皇にんおう何代かの後のちには、碧眼へきがんの胡人えびすの女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ。」
 わたしは自然とほほ笑みました。
 御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教訓なすったのです。
「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ。」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、通かよって来るような気がしました。
 が、御主人は榕樹あこうの陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまたおっしゃるのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房にょうぼうのやつに、毎日小言こごとを云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」

        三

 その夜わたしは結い燈台とうだいの光に、御主人の御飯を頂きました。
 本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰おおせもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇みつくちの童わらべも居りましたから、御招伴ごしょうばんに預あずかった訳なのです。
 御部屋は竹縁ちくえんをめぐらせた、僧庵そうあんとも云いたい拵こしらえです。
 縁先に垂れた簾すだれの外には、前栽せんざいの竹たかむらがあるのですが、椿つばきの油を燃やした光も、さすがにそこまでは届きません。
 御部屋の中には皮籠かわごばかりか、廚子ずしもあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになっていたのですが、廚子や机はこの島の土人が、不束ふつつかながらも御拵おこしらえ申した、琉球赤木りゅうきゅうあかぎとかの細工さいくだそうです。
 その廚子の上には経文きょうもんと一しょに、阿弥陀如来あみだにょらいの尊像が一体、端然と金色こんじきに輝いていました。
 これは確か康頼やすより様の、都返りの御形見おかたみだとか、伺ったように思っています。
 俊寛しゅんかん様は円座わろうだの上に、楽々と御坐りなすったまま、いろいろ御馳走ごちそうを下さいました。
 勿論この島の事ですから、酢や醤油しょうゆは都ほど、味が好いとは思われません。
 が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠なます、煮つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、ほとんど一つもなかったくらいです。
 御主人はわたしが呆あきれたように、箸はしもつけないのを御覧になると、上機嫌に御笑いなさりながら、こう御勧おすすめ下さいました。
「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭梧桐くさぎりと云う物じゃぞ。こちらの魚うおも食うて見るが好い。これも名産の永良部鰻えらぶうなぎじゃ。あの皿にある白地鳥しろちどり、――そうそう、あの焼き肉じゃ。――それも都みやこなどでは見た事もあるまい。白地鳥と云う物は、背の青い、腹の白い、形は鸛こうにそっくりの鳥じゃ。この島の土人はあの肉を食うと、湿気しっきを払うとか称となえている。その芋いもも存外味は好いぞ。名前か? 名前は琉球芋りゅうきゅういもじゃ。梶王かじおうなどは飯の代りに、毎日その芋を食うている。」
 梶王と云うのはさっき申した、兎唇みつくちの童わらべの名前なのです。
「どれでも勝手に箸はしをつけてくれい。粥かゆばかり啜すすっていさえすれば、得脱とくだつするように考えるのは、沙門にあり勝ちの不量見ふりょうけんじゃ。世尊せそんさえ成道じょうどうされる時には、牧牛ぼくぎゅうの女難陀婆羅むすめなんだばらの、乳糜にゅうびの供養くようを受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下ひっぱらじゅかに坐っていられたら、第六天の魔王波旬はじゅんは、三人の魔女なぞを遣つかわすよりも、六牙象王ろくげのぞうおうの味噌漬みそづけだの、天竜八部てんりゅうはちぶの粕漬かすづけだの、天竺てんじくの珍味を降らせたかも知らぬ。もっとも食足くいたれば淫いんを思うのは、我々凡夫の慣ならいじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も天っ晴ぱれ見上げた才子じゃ。が、魔王の浅間あさましさには、その乳糜を献けんじたものが、女人にょにんじゃと云う事を忘れて居った。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山せつざん六年の苦行よりも、これが遥かに大事だったのじゃ。『取彼乳糜かのにゅうびをとり如意飽食いのごとくほうしょくし、悉皆浄尽しっかいじょうじんす。』――仏本行経ぶつほんぎょうきょう七巻の中うちにも、あれほど難有ありがたい所は沢山あるまい。――『爾時菩薩食糜そのときぼさつびをしょくし已訖従座而起すでにおわりてざよりしてたつ。安庠漸々あんじょうにぜんぜん向菩提樹ぼだいじゅにむかう。』どうじゃ。『安庠漸々あんじょうにぜんぜん向菩提樹ぼだいじゅにむかう。』女人にょにんを見、乳糜に飽かれた、端厳微妙たんごんみみょうの世尊の御姿が、目のあたりに拝おがまれるようではないか?」
 俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい竹縁ちくえんの近くへ、円座わろうだを御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、都みやこの便りでも聞かせて貰おう。」とわたしの話を御促おうながしになりました。
 わたしは思わず眼を伏せました。
 兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯おくれたのです。
 しかし御主人は無頓着に、芭蕉ばしょうの葉の扇おうぎを御手にしたまま、もう一度御催促ごさいそくなさいました。
「どうじゃ、女房は相不変あいかわらず小言こごとばかり云っているか?」
 わたしはやむを得ず俯向うつむいたなり、御留守おるすの間あいだに出来しゅったいした、いろいろの大変を御話しました。
 御主人が御捕おとらわれなすった後のち、御近習ごきんじゅは皆逃げ去った事、京極きょうごくの御屋形おやかたや鹿ししヶ谷たにの御山荘も、平家へいけの侍に奪われた事、北きたの方かたは去年の冬、御隠れになってしまった事、若君も重い疱瘡もがさのために、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人姫君ひめぎみだけが、奈良ならの伯母御前おばごぜの御住居おすまいに、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼にはいつのまにか、燈台の火影ほかげが曇って来ました。
 軒先の簾すだれ、廚子ずしの上の御仏みほとけ、――それももうどうしたかわかりません。
 わたしはとうとう御話半なかばに、その場へ泣き沈んでしまいました。
 御主人は始終黙然もくねんと、御耳を傾けていらしったようです。
 が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配そうに、法衣ころもの膝を御寄せになりました。
「姫はどうじゃ? 伯母御前にはようなついているか?」
「はい。御睦おむつましいように存じました。」
 わたしは泣く泣く俊寛様へ、姫君の御消息ごしょうそくをさし上げました。
 それはこの島へ渡るものには、門司もじや赤間あかまが関せきを船出する時、やかましい詮議せんぎがあるそうですから、髻もとどりに隠して来た御文おふみなのです。
 御主人は早速さっそく燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍はべり。……さても三人みたり一つ島に流されけるに、……などや御身おんみ一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許おんもとに侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居すまいし量はかり給え。……さてもこの三とせまで、いかに御心みこころ強く、有とも無とも承わらざるらん。……とくとく御上おんのぼり候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
 俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈じゃな。――おれも都には未練みれんはないが、姫にだけは一目会いたい。」
 わたしは御心中ごしんちゅうを思いやりながら、ただ涙ばかり拭ぬぐっていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王ありおう。いや、泣きたければ泣いても好い。しかしこの娑婆しゃば世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
 御主人は後うしろの黒木くろきの柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房にょうぼうも死ぬ。若わかも死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形やかたや山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱くげんを受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人衆苦しゅうくの大海に、没在ぼつざいしていると考えるのは、仏弟子ぶつでしにも似合わぬ増長慢ぞうじょうまんじゃ。『増長驕慢ぞうじょうきょうまんは、尚非世俗白衣所宜なおせぞくびゃくえのよろしきところにあらず。』艱難かんなんの多いのに誇る心も、やはり邪業じゃごうには違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土ぞくさんへんどの中うちにも、おれほどの苦を受けているものは、恒河沙ごうがしゃの数かずより多いかも知れぬ。いや、人界にんがいに生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎たんを洩らしているのじゃ。村上むらかみの御門みかど第七の王子、二品中務親王にほんなかつかさしんのう、六代の後胤こういん、仁和寺にんなじの法印寛雅ほういんかんがが子、京極きょうごくの源大納言雅俊卿みなもとのだいなごんまさとしきょうの孫に生れたのは、こう云う俊寛しゅんかん一人じゃが、天あめが下したには千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されているぞ。――」
 俊寛様はこうおっしゃると、たちまちまた御眼おんめのどこかに、陽気な御気色みけしきが閃ひらめきました。
「一条二条の大路おおじの辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも憐あわれに見えるかも知れぬ。が、広い洛中洛外らくちゅうらくがい、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――有王ありおう。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。十方じっぽうに遍満へんまんした俊寛どもが、皆ただ一人流されたように、泣きつ喚わめきつしていると思えば、涙の中うちにも笑わずにはいられぬ。有王。三界一心さんがいいっしんと知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶためには、まず増長慢を捨てねばならぬ。世尊せそんの御出世ごしゅっせいは我々衆生しゅじょうに、笑う事を教えに来られたのじゃ。大般涅槃だいはつねはんの御時おんときにさえ、摩訶伽葉まかかしょうは笑ったではないか?」
 その時はわたしもいつのまにか、頬ほおの上に涙が乾いていました。
 すると御主人は簾すだれ越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。」と、何事もないようにおっしゃるのです。
「わたしは都へは帰りません。」
 もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。
 今度はそう云う御言葉を、御恨おうらみに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、御側勤おそばづとめをするつもりです。年とった一人の母さえ捨て、兄弟にも仔細しさいは話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、そのためばかりではありませんか? わたしはそうおっしゃられるほど、命が惜いように見えるでしょうか? わたしはそれほど恩義を知らぬ、人非人にんぴにんのように見えるでしょうか? わたしはそれほど、――」
「それほど愚かとは思わなかった。」
 御主人はまた前のように、にこにこ御笑いになりました。
「お前がこの島に止とどまっていれば、姫の安否あんぴを知らせるのは、誰がほかに勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王かじおうと云う童わらべがいる。――と云ってもまさか妬ねたみなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は便船のあり次第、早速さっそく都へ帰るが好い。その代り今夜は姫への土産みやげに、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。またお前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ。」
 俊寛様は悠々と、芭蕉扇ばしょうせんを御使いなさりながら、島住居しまずまいの御話をなさり始めました。
 軒先のきさきに垂れた簾すだれの上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の這う音が聞えています。
 わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。

        四

「おれがこの島へ流されたのは、治承じしょう元年七月の始じゃ。おれは一度も成親なりちかの卿きょうと、天下なぞを計った覚えはない。それが西八条にしはちじょうへ籠められた後のち、いきなり、この島へ流されたのじゃから、始はおれも忌々いまいましさの余り、飯を食う気さえ起らなかった。」
「しかし都の噂うわさでは、――」
 わたしは御言葉を遮さえぎりました。
「僧都そうずの御房ごぼうも宗人むねとの一人に、おなりになったとか云う事ですが、――」
「それはそう思うに違いない。成親の卿さえ宗人の一人に、おれを数えていたそうじゃから、――しかしおれは宗人ではない。浄海入道じょうかいにゅうどうの天下が好いか、成親の卿の天下が好いか、それさえおれにはわからぬほどじゃ。事によると成親の卿は、浄海入道よりひがんでいるだけ、天下の政治には不向きかも知れぬ。おれはただ平家へいけの天下は、ないに若かぬと云っただけじゃ。源平藤橘げんぺいとうきつ、どの天下も結局あるのはないに若かぬ。この島の土人を見るが好い。平家の代でも源氏の代でも、同じように芋いもを食うては、同じように子を生んでいる。天下の役人は役人がいぬと、天下も亡ぶように思っているが、それは役人のうぬ惚れだけじゃ。」
「が僧都そうずの御房ごぼうの天下になれば、何御不足にもありますまい。」
 俊寛しゅんかん様の御眼おめの中には、わたしの微笑が映ったように、やはり御微笑が浮びました。
「成親なりちかの卿の天下同様、平家へいけの天下より悪いかも知れぬ。何故なぜと云えば俊寛は、浄海入道じょうかいにゅうどうより物わかりが好い。物わかりが好ければ政治なぞには、夢中になれぬ筈ではないか? 理非曲直りひきょくちょくも弁わきまえずに、途方とほうもない夢ばかり見続けている、――そこが高平太たかへいだの強い所じゃ。小松こまつの内府ないふなぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、浄海入道より数段下じゃ。内府も始終病身じゃと云うが、平家一門のためを計はかれば、一日も早く死んだが好い。その上またおれにしても、食色じきしきの二性を離れぬ事は、浄海入道と似たようなものじゃ。そう云う凡夫ぼんぷの取った天下は、やはり衆生しゅじょうのためにはならぬ。所詮人界しょせんにんがいが浄土になるには、御仏みほとけの御天下おんてんかを待つほかはあるまい。――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、微塵みじんも貯えてはいなかった。」
「しかしあの頃は毎夜のように、中御門高倉なかみかどたかくらの大納言様だいなごんさまへ、御通いなすったではありませんか?」
 わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました、ほんとうに当時の御主人は、北きたの方かたの御心配も御存知ないのか、夜は京極きょうごくの御屋形おやかたにも、滅多めったに御休みではなかったのです。
 しかし御主人は不相変あいかわらず、澄ました御顔をなすったまま、芭蕉扇ばしょうせんを使っていらっしゃいました。
「そこが凡夫の浅ましさじゃ。ちょうどあの頃あの屋形には、鶴つるの前まえと云う上童うえわらわがあった。これがいかなる天魔の化身けしんか、おれを捉とらえて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降って湧いたと云うても好い。女房に横面よこつらを打たれたのも、鹿ししヶ谷たにの山荘を仮したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王ありおう、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀叛むほんの宗人むねとにはならなかった。女人にょにんに愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀まれではない。大幻術の摩登伽女まとうぎゃにょには、阿難尊者あなんそんじゃさえ迷わせられた。竜樹菩薩りゅうじゅぼさつも在俗の時には、王宮の美人を偸ぬすむために、隠形おんぎょうの術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦てんじくしんたん本朝を問わず、ただの一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人にょにんに愛楽を生ずるのは、五根ごこんの欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛むほんを企てるには、貪嗔癡どんしんちの三毒を具えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの知慧ちえの光も、五欲のために曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――が、それはともかくも、おれはこの島へ渡った当座、毎日忌々いまいましい思いをしていた。」
「それはさぞかし御難儀ごなんぎだったでしょう。御食事は勿論、御召し物さえ、御不自由勝ちに違いありませんから。」
「いや、衣食は春秋はるあき二度ずつ、肥前ひぜんの国鹿瀬かせの荘しょうから、少将のもとへ送って来た。
 鹿瀬の荘は少将の舅しゅうと、平たいらの教盛のりもりの所領の地じゃ。
 その上おれは一年ほどたつと、この島の風土にも慣れてしまった。
 が、忌々いまいましさを忘れるには、一しょに流された相手が悪い。
 丹波たんばの少将成経なりつねなどは、ふさいでいなければ居睡いねむりをしていた。」
「成経様は御年若でもあり、父君の御不運を御思いになっては、御歎きなさるのもごもっともです。」
「何、少将はおれと同様、天下はどうなってもかまわぬ男じゃ。あの男は琵琶びわでも掻き鳴らしたり、桜の花でも眺めたり、上臈じょうろうに恋歌れんかでもつけていれば、それが極楽ごくらくじゃと思うている。じゃからおれに会いさえすれば、謀叛人の父ばかり怨んでいた。」
「しかし康頼やすより様は僧都そうずの御房ごぼうと、御親しいように伺うかがいましたが。」
「ところがこれが難物なのじゃ。康頼は何でも願がんさえかければ、天神地神てんじんちじん諸仏菩薩しょぶつぼさつ、ことごとくあの男の云うなり次第に、利益りやくを垂れると思うている。つまり康頼の考えでは、神仏も商人と同じなのじゃ。ただ神仏は商人のように、金銭では冥護みょうごを御売りにならぬ。じゃから祭文さいもんを読む。香火を供そなえる。この後うしろの山なぞには、姿の好い松が沢山あったが、皆康頼に伐られてしもうた。伐って何にするかと思えば、千本の卒塔婆そとばを拵こしらえた上、一々それに歌を書いては、海の中へ抛ほうりこむのじゃ。おれはまだ康頼くらい、現金な男は見た事がない。」
「それでも莫迦ばかにはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野くまのにも一本、厳島いつくしまにも一本、流れ寄ったとか申していました。」
「千本の中には一本や二本、日本にほんの土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに冥護みょうごを信ずるならば、たった一本流すが好い。その上康頼は難有ありがたそうに、千本の卒塔婆そとばを流す時でも、始終風向きを考えていたぞ。いつかおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、帰命頂礼きみょうちょうらい熊野三所くまのさんしょの権現ごんげん、分けては日吉山王ひよしさんおう、王子おうじの眷属けんぞく、総じては上かみは梵天帝釈ぼんてんたいしゃく、下しもは堅牢地神けんろうじしん、殊には内海外海ないかいげかい竜神八部りゅうじんはちぶ、応護おうごの眦まなじりを垂れさせ給えと唱となえたから、その跡あとへ並びに西風大明神にしかぜだいみょうじん、黒潮権現くろしおごんげんも守らせ給え、謹上再拝きんじょうさいはいとつけてやった。」
「悪い御冗談ごじょうだんをなさいます。」
 わたしもさすがに笑い出しました。
「すると康頼やすよりは怒おこったぞ。ああ云う大嗔恚だいしんいを起すようでは、現世利益げんぜりやくはともかくも、後生往生ごしょうおうじょうは覚束おぼつかないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野くまのとか王子おうじとか、由緒ゆいしょのある神を拝むのではない。この島の火山には鎮護ちんごのためか、岩殿いわどのと云う祠ほこらがある。その岩殿へ詣でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、たださっき榕樹あこうの梢こずえに、薄赤い煙のたなびいた、禿げ山の姿を眺めただけです。」
「では明日あすでもおれと一しょに、頂へ登って見るが好い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは容易よういには行こうとは云わぬ。」
「都では僧都そうずの御房ごぼう一人、そう云う神詣でもなさらないために、御残されになったと申して居ります。」
「いや、それはそうかも知れぬ。」
 俊寛様は真面目まじめそうに、ちょいと御首を御振りになりました。
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つくらいは、何とも思わぬ禍津神まがつがみじゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。所がその願がんは少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した横道者おうどうものじゃ。天魔には世尊御出世せそんごしゅっせいの時から、諸悪を行うと云う戒行かいぎょうがある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の途みちじゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。もっともこれは岩殿には限らぬ。奥州名取郡おうしゅうなとりのこおり笠島かさじまの道祖さえは、都の加茂河原かもがわらの西、一条の北の辺ほとりに住ませられる、出雲路いずもじの道祖さえの御娘おんむすめじゃ。が、この神は父の神が、まだ聟むこの神も探されぬ内に、若い都の商人あきゅうどと妹背いもせの契ちぎりを結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの実方さねかたの中将は、この神の前を通られる時、下馬げばも拝はいもされなかったばかりに、とうとう蹴殺けころされておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五塵を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、崇あがめろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉えだはじゃ。康頼やすよりと少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野くまのになぞらえ、あの浦は和歌浦わかのうら、この坂は蕪坂かぶらざかなぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童わらべたちが鹿狩ししがりと云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無おとなしの滝たきだけは本物よりもずっと大きかった。」
「それでも都の噂では、奇瑞きずいがあったとか申していますが。」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願けちがんの当日岩殿の前に、二人が法施ほっせを手向たむけていると、山風が木々を煽あおった拍子ひょうしに、椿つばきの葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡あとが残っている。それが一つには帰雁きがんとあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二きがんにとなる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日得々とくとくと、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、帰雁きがんはいかにも無理じゃ。おれは余り可笑おかしかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの騒さわぎではない。『明日帰洛みょうにちきらく』と云うのもある。『清盛横死きよもりおうし』と云うのもある。『康頼往生おうじょう』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。舞まいも洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛むほんなぞに加わったのも、嗔恚しんいに牽かれたのに相違ない。その嗔恚の源みなもとはと云えば、やはり増長慢ぞうじょうまんのなせる業わざじゃ。平家へいけは高平太たかへいだ以下皆悪人、こちらは大納言だいなごん以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経なりつね様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛まぎれになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴ぐちばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山いそやまへ槖吾つわを摘みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好いのか、ここには加茂川かもがわの流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣そまの地主権現じしゅごんげん、日吉ひよしの御冥護ごみょうごに違いない。が、おれは莫迦莫迦ばかばかしかったから、ここには福原ふくはらの獄ひとやもない、平相国へいしょうこく入道浄海にゅうどうじょうかいもいない、難有ありがたい難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、怒おこられれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方かたですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透かして見れば、あの死んだ女房にょうぼうも、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑おかしいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目まじめに慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端とたんに、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇うても、挨拶あいさつさえ碌ろくにしなかった。が、その後のちまた遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車ぎっしゃも通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼やすよりでも、やはり居らぬよりは、いた方が好い。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の噂うわさでは御寂しいどころか、御歎き死にもなさり兼ねない、御容子ごようすだったとか申していました。」
 わたしは出来るだけ細々こまごまと、その御噂を御話しました。
 琵琶法師びわほうしの語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯し、悲しみ給えどかいぞなき。……猶なおも船の纜ともづなに取りつき、腰になり脇になり、丈たけの及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また空むなしき渚なぎさに泳ぎ返り、……是具これぐして行けや、我われ乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、漕ぎ行く船のならいにて、跡は白浪しらなみばかりなり。」と云う、御狂乱ごきょうらんの一段を御話したのです。
 俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間あいだは、手招てまねぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更まんざら嘘ではない。何度もおれは手招てまねぎをした。」と、素直すなおに御頷おうなずきなさいました。
「では都の噂通り、あの松浦まつらの佐用姫さよひめのように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる琉球人りゅうきゅうじんじゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、そのほかの言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを交かわる交がわる、饒舌しゃべっていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べにはいつのまにか、土人が大勢おおぜい集っている。その上に高い帆柱ほばしらのあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍おどるような気がした。少将や康頼やすよりはおれより先に、もう船の側へ駈けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇どくじゃに噛まれた揚句あげく、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に六波羅ろくはらから使に立った、丹左衛門尉基安たんのさえもんのじょうもとやすは、少将に赦免しゃめんの教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の中うちには、わずか一弾指いちだんしの間あいだじゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や若わかの顔、女房にょうぼうの罵ののしる声、京極きょうごくの屋形やかたの庭の景色、天竺てんじくの早利即利兄弟そうりそくりきょうだい、震旦しんたんの一行阿闍梨いちぎょうあじゃり、本朝の実方さねかたの朝臣あそん、――とても一々数えてはいられぬ。ただ今でも可笑おかしいのは、その中にふと車を引いた、赤牛あかうしの尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、騒さわがぬ容子ようすをつくっていた。勿論少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の下くだらぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、何故なぜおれ一人赦免に洩れたか、その訳をいろいろ考えて見た。高平太たかへいだはおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は憎にくむばかりか、内心おれを恐れている。おれは前さきの法勝寺ほっしょうじの執行しゅぎょうじゃ。兵仗へいじょうの道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太はそこを恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、苦笑くしょうせずにはいられなかった。山門や源氏げんじの侍どもに、都合つごうの好い議論を拵こしらえるのは、西光法師さいこうほうしなどの嵌はまり役じゃ。おれは眇びょうたる一平家へいけに、心を労するほど老耄おいぼれはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好い。おれは一巻の経文きょうもんのほかに、鶴つるの前まえでもいれば安堵あんどしている。しかし浄海入道じょうかいにゅうどうになると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味ぶきみに思うているのじゃ。して見れば首でも刎ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている間あいだに、いよいよ船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は咎とがめるにも及ぶまいと、使の基安もとやすに頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目のほかは、何一つ知らぬ木偶でくの坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも好い。ただ罪の深いのは少将じゃ。――」
 俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた芭蕉扇ばしょうせんを御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。舟子ふなごたちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の直垂ひたたれの裾すそを掴つかんだ。すると少将は蒼あおい顔をしたまま、邪慳じゃけんにその手を刎ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼やすよりにも負けぬ大嗔恚だいしんいを起した。少将は人畜生じんちくしょうじゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子ぶつでしの所業しょぎょうとも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる罵詈讒謗ばりざんぼうが、口を衝いて溢あふれて来た。もっともおれの使ったのは、京童きょうわらべの云う悪口あっこうではない。八万法蔵はちまんほうぞう十二部経中じゅうにぶきょうちゅうの悪鬼羅刹あっきらせつの名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを踏みながら、返せ返せと手招ぎをした。」
 御主人の御腹立ちにも関かかわらず、わたしは御話を伺っている内に、自然とほほ笑んでしまいました。
 すると御主人も御笑いになりながら、
「その手招ぎが伝わっているのじゃ。嗔恚の祟たたりはそこにもある。あの時おれが怒おこりさえせねば、俊寛は都へ帰りたさに、狂いまわったなぞと云う事も、口くちの端へ上のぼらずにすんだかも知れぬ。」と、仕方がなさそうにおっしゃるのです。
「しかしその後のちは格別かくべつに、御歎きなさる事はなかったのですか?」
「歎なげいても仕方はないではないか? その上うえ時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行った。おれは今では己身こしんの中うちに、本仏ほんぶつを見るより望みはない。自土即浄土じどそくじょうどと観じさえすれば、大歓喜だいかんぎの笑い声も、火山から炎ほのおの迸ほどばしるように、自然と湧いて来なければならぬ。おれはどこまでも自力じりきの信者じゃ。――おお、まだ一つ忘れていた。あの女は泣き伏したぎり、いつまでたっても動こうとせぬ。その内に土人も散じてしまう。船は青空に紛まぎれるばかりじゃ。おれは余りのいじらしさに、慰めてやりたいと思うたから、そっと後手うしろでに抱き起そうとした。するとあの女はどうしたと思う? いきなりおれをはり倒したのじゃ。おれは目が眩らみながら、仰向あおむけにそこへ倒れてしもうた。おれの肉身に宿らせ給う、諸仏しょぶつ諸菩薩しょぼさつ諸明王しょみょうおうも、あれには驚かれたに相違ない。しかしやっと起き上って見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所じゃった。何、おれをはり倒した訳か? それはあの女に聞いたが好い。が、事によると人気ひとけはなし、凌りょうぜられるとでも思ったかも知れぬ。」

        五

 わたしは御主人とその翌日、この島の火山へ登りました。
 それから一月ほど御側おそばにいた後のち、御名残り惜しい思いをしながら、もう一度都へ帰って来ました。
 「見せばやなわれを思わむ友もがな磯いそのとまやの柴しばの庵いおりを」――これが御形見おかたみに頂いた歌です。
 俊寛しゅんかん様はやはり今でも、あの離れ島の笹葺ささぶきの家に、相不変あいかわらず御一人悠々と、御暮らしになっている事でしょう。
 事によると今夜あたりは、琉球芋りゅうきゅういもを召し上りながら、御仏みほとけの事や天下の事を御考えになっているかも知れません。
 そう云う御話はこのほかにも、まだいろいろ伺ってあるのですが、それはまたいつか申し上げましょう。

(大正十年十二月)

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