対馬海峡西水道を渡る
1. 潮流 海峡横断に適している日、その日の時間ごとの適した航路があります。古代人は経験上知っていたと思われます。
 下表は日平均と時間ごとに切り替えられ、年月日時を入れて潮流変化を観察できます。
 表の最初は最新なので図の下の「年月日時」を小さく指定しアニメーションで見れます。

*潮は月の形状で次のように変化します。
旧暦 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
月の形状
新月新月     上弦上弦    満月満月      下弦下弦
潮の呼称





























*更に一日では次のように変化します。
   旧暦.月相       ・月と太陽の角度:潮汐(-00時--薄明--日出--9時--正午--3時--日没--薄暮-)
  1. さく/新月しんげつ
  2. 既朔きさく/繊月せんげつ
  3. 三日月みかづき
  4. 上弦じょうげん/弦は左上
  5. 上弦じょうげん
  6. 十日夜とおかんや
  7. 十三夜じゅうさんや
  8. 小望月こもちづき
  9. 満月まんげつ/望月もちづき
  10. 十六夜いざよい
  11. 立待月たちまちづき
  12. 居待月いまちづき
  13. 寝待月ねまちづき/臥待月ふしまちづき
  14. 更待月ふけまちづき
  15. 下弦かげん/下旬の弦月
  16. 二十三夜月にじゅうさんやづき
  17. 有明月ありあけづき
  18. 二十六夜
  19. つごもり/月篭つきこもり
  20. 仝上
  • 348 – 036度:大潮 (-干--上--満--下--干--上--満--下-)
  • 036 – 072度:中潮 (-上--満--下--干--上--満--下--干-)
  • 072 – 108度:小潮 (-満--下--干--上--満--下--干--上-)
  • 108 – 120度:長潮 (長く潮が変わらない)
  • 120 – 132度:若潮 (潮が再び大きく若返る、長潮の翌日)
  • 132 – 168度:中潮 (-上--満--下--干--上--満--下--干-)
  • 168 – 216度:大潮 (-干--上--満--下--干--上--満--下-)
  • 216 – 252度:中潮 (-上--満--下--干--上--満--下--干-)
  • 252 – 288度:小潮 (-満--下--干--上--満--下--干--上-)
  • 288 – 300度:長潮 (長く潮が変わらない)
  • 300 – 312度:若潮 (潮が再び大きく若返る、長潮の翌日)
  • 312 – 348度:中潮 (-上--満--下--干--上--満--下--干-)
  • 348 – 036度:大潮 (-干--上--満--下--干--上--満--下-)
付録 潮汐表
*考察
 月相から航路の潮汐を読み渡航の難易を判断する。その航路の潮汐流のパターンを経験、記憶していることが必須。
*例
 (満月の)下げ潮時、巨済島の南端付近から南南東に漕ぎ出す(順潮)。
 経路、?島、アル島、鴻島付近に至り(略20Km)進路を東、対馬上島に向ける。強い順潮に乗り対馬に到着する。(略40Km)
 行程は略60Kmになるが平均1ノット以上の順潮が期待できるので漕ぐ距離は略40Km程度。
*参考
 対馬、壱岐間も同様に潮読みが必要だが、対馬、沖ノ島(北九州宗像市北)間は略毎日順潮である。
 沖ノ島からは大島(宗像市)を経由し北九州に至る。瀬戸内、出雲に向かうには壱岐経由よりかなり近い。
 沖ノ島に大陸から渡った国宝級の品数百点があるのも納得できる。これを不思議と言えば古代人に知見不足と言われよう。
 なお九州から対馬に渡るのはこのルートは潮流上困難で松浦、壱岐経由であったろう。

2. 舟
 縄文時代、弥生時代の舟については多くの出土があり、また銅鐸などにも描かれている。
弥生時代後期(2世紀〜3世紀後半)の古墳(福井県坂井郡春江町の「井向遺跡」)から出土した銅鐸に描かれている舟は12人で漕ぐようになっており、全長14mである。
同時代と思われる「大石遺跡」(福井県)の銅鐸では櫂が両舷合わせて18〜20とみられるので全長15m程度の大型船である。
弥生時代中期(前1世紀〜2世紀)の古墳(奈良県天理市の「清水風遺跡」)から出土した土器には櫂が左右に17本ずつあり(計34本)、帆柱も描かれている。このことからこの舟は全長20mと考えられる。
実際に出土した舟(大阪府八尾市の久宝寺遺跡〔弥生時代後期から古墳時代初期、3世紀後半〕)は全長20mもあった。
 ところで、この時代から「帆」があったが、それはあまり使われず、櫂で漕ぐのが一般的だとされている。
 それは帆舟は風を利用するため重心を失い易かったといわれている。
 それでは、この時代の舟はどのくらいの速度が出たのであろうか。
*参考:手漕ぎ船の概要
・ガレー船:ギリシャ時代 長さ 40m弱 幅 4m弱 漕ぎ手 50人から170人(3段櫂) 最大速度 7.5~11.5ノット
・八十楫船:万葉の時代、大阪=筑紫間防人の移動に用いた。楫が多くあったが80丁ということではない。
・二四丁櫓船:静水 連続4時間 8ノット
・七丁櫓船:沿岸、湾内で使用。速度 6ノット、カッターより速い。全長 11.7m 幅 2.5m 深さ 0.9m
・カッター:長さ 9m 幅 2.45m 深さ 0.85m 漕ぎ手 12人 速度 3~4ノット 1.5トン
なみはや号全長 12.0m 幅 1.93m 高さ 3.00m(船底より) 深さ 0.72m 重量 約5.0t(丸木船部分) 漕手 8名
 大阪市「高廻り2号墳」より出土した船型埴輪を原型とした。装飾展示用にデフォルメされているデザイン。
野生号排水量13トン、全長16.5m、漕ぎ手14人で巡航2ノット(時速3.7km)。
 テストでは2ノット、実際に海峡を渡った実績では平均1.7ノット。
 野生号は西都原出土の舟形埴輪 をモデルにしている。実験用であり実用性は考慮されていない。
*考察 
 潮を択べば3ノットで大陸への航海は可能である。
 外洋でも使えるカッター並みの幅 2.45m、深さ 0.85m、長さ9mでは漕ぎ手12人で不足、巡航2ノット程。
 漕ぎ手24人では長さ16m、巡航3ノット以上。長さ20.5mでは漕ぎ手32人、巡航4ノット以上。
 深さ85㌢の丸木舟が作れれば左舷、右舷を別に作って左右合わせれば必要な船は作れる。
 古代人は知恵・知識・技能とも、現代の要らぬ知識だけで生業している有識者より優れていた。
都と地方の行程(人力は時代で不変)
延喜主計式 上り(負荷) 下り(空身)
 東海道
  安房国 34日 17日
  上総国 30日 15日
  下総国 30日 15日
  常陸国 30日 15日
 東山道
  上野国 29日 14日
  下野国 34日 17日
 北陸道
  越後国 34日 17日
  佐渡国 34日 17日
 山陰道
  石見国 29日 15日
  隠岐国 35日 18日
 南海道
  土佐国 35日 18日
 西海道
  大宰府 27日 14日
  豊後国 31日 16日
参考:東海道53次は空身で14、5日
 日本武尊は筑波-甲斐200㌔を10日
水行七千余里
狗邪韓国
渡海千余里
対馬国
渡海千余里
壱岐国
渡海千余里
松浦国
陸行五百里
糸国
百里
那国
百里
フミ国
水行二十日
陸行一月
トマ国
水行十日
邪馬台国

3. 邪馬台国
 邪馬台国への経路は漢文であるから句読点を恣意的につければ種々の解釈ができる。この経路を短く考えたのは江戸時代の国学者本居宣長や以後の白鳥倉吉です。彼らは大和朝廷が支那に従属外交をしたのを信じたくなかった。別添の日本書紀の解釈でも同じです。
 邪馬台国は前項で考察した古代人の「必要な知恵、知識、技能」をもってすれば別添のとおりになる。

4. 結び
 最初に日本列島に住みついたのは氷河期に大陸とつながった経路で渡ってきた古モンゴロイドです。
 最後の氷河期には古モンゴロイドと新モンゴロイドがともに移住、その後大陸、半島では戦乱と競争を嫌った古モンゴロイドは姿を消した。
 本州、九州、四国とその間の島々に住んだ新旧モンゴロイド(倭人)は航海術を発展させ数千年前から大陸との往来を可能としてきた。これは倭人が温帯ジャポニカが分化する前の稲を栽培していることでも推察できる。
 揚子江から日本まで沿岸、渡海で意図的に倭人が持ち込んだものである。半島経由でないことはDNAで明らかになった。倭で産する黒曜石、金などの交易品として種々の植物種を持ち帰った。四書五経、仏典など衣食住に役立たないものは後の世に閑人が出るまで必要なかった。
 今では古モンゴロイドが多く見られる地域は日本、チベット他にアンダマン島、バイカル東北など限定されている。古モンゴロイドの和の生き方を絶やさないために古モンゴロイド-倭人-日本人とつながる歴史を忘れてはならない。