国民学校国語教科書
『初等科國語八』

目 録
一   玉のひびき
二   山の生活二題
三   ダバオへ
四   孔子と顔回
五   奈良の四季
六   萬葉集
七   修行者と羅刹
八   國法と大慈悲
九   母の力
十   鎌倉
十一  末廣がり
十二  菊水の流れ
十三  マライを進む
十四  靜寛院宮
十五  シンガポール陷落の夜
十六  もののふの情
十七  太陽
十八  梅が香
十九  雪國の春
二十  國語の力
二十一 太平洋

附 録
一 熱帶の海 二 洋上哨戒飛行 三 レキシントン撃沈記 
四 珊瑚海の勝利

    一 玉のひびき

御製
 いそ崎にたゆまずよするあら波を(しの)ぐいはほの力をぞおもふ
 西ひがしむつみかはして榮ゆかむ世をこそいのれとしのはじめに
大正天皇御製
 としどしにわが日の本のさかゆくもいそしむ民のあればなりけり
 (しほ)風のからきにたへて枝ぶりのみなたくましき磯の松原
明治天皇御製
 いにしへのふみ見るたびに思ふかなおのがをさむる國はいかにと
 あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな
 目にみえぬかみの心に通ふこそひとの心のまことなりけれ
 さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
 高殿の窓てふまどをあけさせてよもの櫻のさかりをぞみる
昭憲皇太后御歌
 朝ごとにむかふ鏡のくもりなくあらまほしきは心なりけり
 廣前に玉(ぐし)とりてうねび山たかきみいつをあふぐ今日かな
 大宮の火桶(ひおけ)のもとも寒き夜に御軍人は霜やふむらむ

    二 山の生活二題

     銅山
 入坑の時刻がせまつた。
 坑口の前の線路には、幾十臺の軌道車(きだうしや)が、鑛員たちの乘るのを待つてゐる。集合した鑛員は、東方へ向いて整列する。
 鐵かぶとに似た帽子をかぶり、作業服・ぢか足袋(たび)に、(しり)あてといつたいでたちである。
 嚴かな國民儀禮を行つたのち、いつせいに體操をする。朝の光を受けて、元氣よく腕をのばし、足を擧げ、胸を張る。
 體操がすむと、みんな軌道車に乘り込む。
 出發に際し、事務所の係員が、
「今日も、十分氣をつけて働いてください。では、元氣で行つていらつしやい。」と挨拶(あいさつ)する。軌道車が動きだすと、擴聲器から快活な行進曲が響いて來る。坑口には、大きな~棚があつて、その下を通過する時、鑛員たちは、
「無事に働かしてください。」と心から祈る。
 さうして、まつしぐらに坑道へ進んで行く。
 一歩坑内へはいれば眞暗で、あたりの岩石に、軌道車の響きがごうごうと反響する。鑛水のにほひがして來る。
「採鑛へ總進軍。」と書いた電燈看板に迎へられて、三キロ、四キロと坑内深くはいつて行く。やがて軌道車からおり、昇降機に分乘して、數百メートルのたて坑を一氣におりて行く。
 そこから、各自受持の採鑛現場へと急ぐ。
 アセチレン燈をたよりに、ほら穴を奥へ奥へもぐつて行く。
 地熱のために暑くなり、温度が高いのでむしむしする。
 上着などは脱いでしまふ。
「さ、仕事にかからう。」
 鑛石の肌はだが美しい。
 色が美しいのではない、形が美しいのでもない。
 彈丸になり、武器になり、機械になる貴い銅が、この鑛石の中に眠つてゐるのだ。
 日本を守つてくれる寶が、この中に生きてゐるのだ。
 さう思ふと、鑛石の光澤も、ひだも、硬度も、重量感も、みな美しく見えて來るのだ。
 鑿岩(さくがん)機をかかへて、「ダ、ダ、ダ、ダ。」と鑛石に穴をあける。
 いくつもあける。あけてはそこへ爆藥をつめる。爆破させる。
 もうもうと、煙やガスが立ちこめる。
 これがリれるのを待つて、鑛石運搬の鑛員がやつて來る。
 シャベルですくつては、トロッコに積み込む。たちまち鑛石滿載のトロッコが、一臺、二臺、三臺とできあがる。やがて、十臺、二十臺と長くつながつて、坑外へ運搬されて行く。
 まさに山の幸を得ての凱旋がいせんだ。鑛石を運んでしまつたあとの坑内に、支柱を組み立てる鑛員が仕事にかかる。
 太い、がんじような材木を、鳥居のやうな形にがつしりと組み合はせる、岩石がくづれないやうに、働く人の足場が落ちないやうにと念じながら。
 かうして、鑛石を掘る人、鑛石を運ぶ人、支柱を立てる人──これらがいつしよになつて、坑内で働いてゐる。
 めいめい勝手なことはできない。
 心を一つにすることが、かんじんだ。
 一分のすきも許されない。もしあれば、危險といふ()が、すぐねらつて來るからである。
 鑛員同志に「申し送り」があり、「申し受け」があつて、たがひに堅く連絡を取るのもそのためである。これはちやうど、かまをたく人、運轉する人、方向を見定める人などが、いつしよになつて艦船を走らせるのと變りはない。
 鑛員たちは、だれも見てゐない眞暗なところで仕事をするので、なまけようと思へば、なまけられないことはない。
 しかし、決してそんな氣持にはなれない。なれないどころか、戰線に彈丸を一發でも多く送つてやりたいと思へば、いくら働いても働いても、なほ足りないやうな氣がする。
 七時間の勞働時間も、やがて過ぎてしまふ。
「交代の時間だ。」
 鑛員たちは、現場を引きあげて昇降機に乘る。
 再び軌道車に搖られて、歸途につく。疲れた五體ではあるが、働きぬいた滿足で心は輕やかである。
 ごうごうと響く車の音は、見送つてくれる山の歡聲である。
 C風一陣、坑内から坑外へ出る。太陽の輝くい空、何といつてあの明かるさをいひ表したらよいだらう。

     石の山
 見あげるばかり高く切り立つた山だ。御影石の山々だ。
 山の肩のあたりから、刃物でそいだやうに突つ立つてゐて、眞晝の日光が、まぶしいほど反射して來る。
 あちらの山でも、こちらの山でも、三四人づつ一かたまりになつて、石の上で働いてゐる。
 鑿のみを持つ人、それを槌つちで打つ人、その穴に水をさす人。
 堅い石に、長い鑿を打ち込んで行くこの仕事は、生やさしいものではない。
 眞直に打ち込むのだ。第一、並み並みならぬ根氣がいる。
 槌の音は、いかにものんびりと響いてゐるが、一槌ごとに心をこめて打つてゐる音である。
 一センチ、二センチ、石に穴があく。それが積り積つて、五メートル、八メートルにもなるのである。
 日の出から日の入りまで、同じやうな仕事を、くり返しくり返し續けてやる。たとへ日が照らうが、風が吹かうが、じりじりと續けられて行く。
 十分深く穴を掘つてしまふと、火藥を固くつめる。爆音とともに、家ほどもある御影石が、ごろんごろんと、倒れ落ちる。
 その大きな石を二つに割り、四つに割り、用途によつては更にいくつにも小さく割つて行く。堅い、大きな石が、小さな鑿と槌で、思ひ通りにぱくんぱくんと割れる。
 割られた石材は、石積み車に載せられて、山の道をすべるやうに運ばれて行く。日がな一日、露天で働く石工たちは、みんな日にやけて、顔も、腕も、K々としてゐる。
 いかにも丈夫さうだ。
 けれども、仕事の相手は大きな岩であり、山のからだである。それで、石工の姿は、山の中で見かけると至つて小さく、たよりなく見える。よく、あの兩腕で石が割れるものだ。
 よく山と取り組んで働けるものだと思ふ。一人前の石工になるためには、早くから弟子入りをしなければならない。
 弟子たちは、石くづをかたづけたり、仕事場の掃除をしたり、鑿などをやく火のふいごをふいたりする。
 かうして、三年も五年も石の山に通つては、石工の仕事を見覺えて行くのである。
 大きな石が、おもしろいほど思ひ通りに割れる腕前になるには、長い間の汗みどろの努力がひそんでゐる。
 たとへば石を割るには、石の目を見わけなければならない。
 石の目といふのは、ちやうど板でいへば、木目のやうなものである。小さな雲母や、石英や、長石などが、ごちやごちやに入り混つてゐる石の面を見て、その目を見わけ、それによつてこの石はかう割れるといふことが判斷される。
 もし石の目を見まちがへれば、石は、とんでもない方向にひびが入り、思はない倒れ方をする。石の山で働く人は、大まかで荒つぽい仕事をしてゐるやうで、決してさうではない。
 一生を石の中で暮してゐる石工たちには、心なき岩石も意志あるかのやうに思はれ、その岩石を何百萬年もだきかかへてゐる母のやうな山の心も、わかるやうな氣がするといふ。

  三 ダバオへ

 ダバオヘ、ダバオヘ。
 一萬八千名の在留邦人を、一刻も早く救ひ出したいと、北方から疾風のやうに、皇軍はダバオをめざして押し寄せた。
 武装した兵士を滿載したトラックが、ダバオ市内に突入して、町の十字路にさしかかると、棍棒こんぼうを持つた二三人の男がとび出して來た。
 「萬歳、萬歳。」
 シャツもズボンも破れて、泥だらけだ。足も手も顔も、ほこりにまみれ、目だけが異樣に光つてゐる。
 「日本人か。」
 トラックの上から勇士がどなつた。もちろん日本人であつた。
 その人々の顔には、感激の涙がとめどなく流れた。
 さうして、声をふるはしながら、
「ありがたうございました。」と、何べんもくり返すのであつた。
「日本人は、みんな無事ですか。どこにゐますか。」と、トラックの上の兵士たちは口々にたづねた。
「みんな無事で、學校に監禁されてゐます。」といふ答へを聞くが早いか、トラックは、市の中央部へ突き進んで行つた。
 ダバオ攻撃部隊は、ダバオ州政廳・市役所・裁判所・電話局などの要所をまたたく間に占領して、屋上高く日章旗をかかげた。
 兵士を載せたトラックが、帝國領事館の横へ來ると、そばの學校から、K山のやうな邦人の群が、わあつとなだれを打つて道路へ押し出して來た。
 大東亞戰爭開始以來、この學校に監禁されてゐた約八千の邦人が、皇軍の入城を知つて、狂喜してこれを迎へたのであつた。
 トラックの上の兵士たちは、高く手を振つて挨拶あいさつしながら、敵を急追してフィリピン中學校附近まで前進した。
 すると、今までしんと靜まり返つて、死んだやうになつてゐた校舎の中から、どつとばかりに四千名の邦人が出て來た。
 校庭は、「萬歳、萬歳。」の聲で埋つた。
 トラックは、校庭の中央に止つた。
 部隊長は、トラックの上に立ちあがつて、やさしい、いたはりの心のこもつたことばで訓示をした。
 人々の中からは、かすかにすすり泣きの聲がもれた。
 部隊長の訓示が終ると、林のやうに靜かになつてゐた邦人の間から、嚴かに君が代の合唱が起つた。
 不動の姿勢をしたトラックの上の勇士も、校庭に居並ぶ邦人も、ほほを傳ふ涙を拂ひもせず、泣きながら歌ひ、歌ひながら泣いた。

    四 孔子と顔回

      一
「ああ、天は予をほろぼした。天は予をほろぼした。」
 七十歳の孔子は、弟子顔回の死にあつて、聲をあげて泣いた。
 三千人の弟子のうち、顔回ほどその師を知り、師のヘへを守り、師のヘへを實行することに心掛けた者はなかつた。
 これこそは、わが道を傳へ得るただ一人の弟子だと、孔子はかねてから深く信頼してゐた。
 その顔回が、年若くてなくなつたのである。
「ああ、天は予をほろぼした。天は予をほろぼした。」
 まさに、後繼者を失つた者の悲痛な叫びでなくて何であらう。
      二
 十數年前にさかのぼる。孔子が、弟子たちをつれて、匡きやうといふところを通つた時、突然軍兵に圍まれたことがある。
 かつて陽虎やうこといふ者が、この地でらんばうを働いた。
 不幸にも、孔子の顔が陽虎に似てゐたところから、匡人は孔子を取り圍んだのである。
 この時、おくればせにかけつけた顔回を見た孔子は、ほつとしながら、
「おお、顔回。お前は無事であつたか。死んだのではないかと心配した。」といつた。すると顔回は、
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」と答へた。
 孔子は五十餘歳、顔回は一年であつた。
 わが身の上の危さも忘れて、孔子は年若い顔回をひたすらに案じ、また顔回は、これほどまでその師を慕つてゐたのであつた。
      三
 それから數年たつて、陳ちん・蔡さいの厄があつた。孔子は楚の國へ行かうとして、弟子たちとともに陳・蔡の野を旅行した。
 あいにくこの地方に戰亂があつて、道ははかどらず、七日七夜、孔子も弟子も、ろくろく食ふ物がなかつた。
 困難に際會すると、おのづから人の心がわかるものである。
 弟子たちの中には、ぶつぶつ不平をもらす者があつた。
 き一本な子路が、とがり聲で孔子にいつた。
「いつたい、コの修つた君子でも困られることがあるのですか。」
 コのある者なら、天が助けるはずだ。
 助けないところを見ると、先生はまだ君子ではないのか──子路には、ひよつとすると、さういふ考へがわいたのかも知れない。
 孔子は平然として答へた。
「君子だつて、困る場合はある。ただ、困り方が違ふぞ。困つたら惡いことでも何でもするといふのが小人である。君子はそこが違ふ。」
 子貢しこうといふ弟子がいつた。
「先生の道は餘りに大き過ぎます。だから、世の中が先生を受け容れて用ひようとしません。先生は、少し手かげんをなさつたらいかがでせう。」
 孔子は答へた。
「細工のうまい大工が、必ず人にほめられるときまつてはゐない。ほめられないからといつて、手かげんするのが果してよい大工だらうか。君子も同じことだ。道の修つた者が、必ず人に用ひられるとはきまつてゐない。といつて手かげんをしたら、人に用ひられるためには、道はどうでもよいといふことになりはしないか。」
 顔回は師を慰めるやうにいつた。
「世の中に容れられないといふことは、何でもありません。今の亂れた世に容れられなければこそ、ほんたうに先生の大きいことがわかります。道を修めないのは君子の恥でございますが、君子を容れないのは世の中の恥でございます。」
 このことばが、孔子をどんなに滿足させたことか。
      四
 孔子は、弟子に道を説くのに、弟子の才能に應じてわかる程度にヘへた。
 孔子の理想とする「仁」についても、ある者には「人を愛することだ。」といひ、ある者には「人のわる口をいはないことだ。」と説き、ある者には「むづかしいことを先にすることだ。」とヘへた。いづれも「仁」の一部の説明で、その行ひやすい方面を述べたのである。ところで顔回には、
「己に克つて禮に復かへるのが仁である。」とヘへた。
 あらゆる欲望にうちかつて、禮を實行せよといふのである。その實行方法として、
「非禮は見るな。非禮は聞くな。非禮はいふな。非禮に動くな。」とヘへた。
 朝起きるから夜寝るまで、見ること、聞くこと、いふこと、行ふこと、いつさい禮に從ひ、禮にかなへよといふのである。
 ここに、「仁」の全體が説かれてゐる。
 さうして、顔回なればこそ、この最もむづかしいヘへを、そのまま實行することができたのである。
      五
 孔子は顔回をほめて、
「顔回は、予の前でヘへを受ける時、ただだまつてゐるので、何だかぼんやり者のやうに見える。しかし退いて一人でゐる時は、師のヘへについて何か自分で工夫をこらしてゐる。決してぼんやり者ではない。」といつてゐる。また、
「ほかの弟子は、ヘへについていろいろ質問もし、それで予を啓發してくれることがある。しかし、顔回は質問一つせず、すぐ會得して實行にかかる。かれは、一を聞いて十を知る男だ。」ともいつてゐる。
 孔子がよく顔回を知つてゐたやうに、顔回もまたよくその師を知つてゐた。顔回は孔子をたたへて、
「先生は、仰げば仰ぐほど高く、接すれば接するほど奥深いお方だ。大きな力で、ぐんぐんと人を引つぱつて行かれる。とても先生には追ひつけないから、もうよさうと思つても、やはりついて行かないではゐられない。私 が力のあらん限り修養しても、先生は、いつでも更に高いところに立つておいでになる。結局、足もとにも寄りつけないと感じながら、ついて行くのである。」といつてゐる。顔回なればこそ、偉大な孔子の全面を、よく認めることができたのである。
      六
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」といつた顔回が、先生よりも先に死んでしまつた。
 ある日、魯の哀公あいこうが孔子に、
「おんみの弟子のうち、最も學を好むものはだれか。」とたづねた。孔子は、
「顔回といふ者がをりました。學を好み、過ちも二度とはしない男でございましたが、不幸にも短命でございました。」と答へた。

    五 奈良ならの四季

  若草山も春日かすが野も
  かすみこめたる春景色、
  古き都のなごりとて
  花はむかしの色に咲く。
  古人いへらく、
   奈良七重七堂伽藍がらん八重櫻。

  大佛殿に佛燈の
  光は今もかがやきて、
  正倉しやうさう院は天平の
  むかしを固く封じたり。
  古人いへらく、
   虫干しやをひの僧とふ東大寺。

  鹿の鳴く音にさそはれて、
  三笠みかさの山をはなれけん、
  滿月はやく猿澤さるさは
  池の水の面に浮かびたり。
  古人いへらく、
   仲麻呂なかまろの魂祭せん今日の月。

  佐保の川原は水あせて、
  石にささやく音靜か。
  かへりみすれば葛城かつらぎ
  山のいただき雪白し。
  古人いへらく、
   大佛を見かけて遠き冬野かな。

    六 萬葉集

 今を去る千二百年の昔、東國から徴集されて、九州方面の守備に向かつた兵士の一人が、
 今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯(みたて)と出で立つわれは
といふ歌をよんでゐる。「今日以後は、一身一家をかへりみることなく、いやしい身ながら、大君の御楯となつて出發するのである。」といふ意味で、まことによく國民の本分、軍人としてのりつぱな覺悟を表した歌である。
 かういふ兵士やその家族たちの歌が、萬葉集に多く見えてゐる。
 御代御代の天皇の御製を始め奉り、そのころのほとんどあらゆる身分の人々の作、約四千五百首を二十巻に收めたのが、萬葉集である。
 かく上下を問はず、國民一般が、事に觸れ物に感じて歌をよむといふのは、わが國民性の特色といふべきである。
 武門の家である大伴おほとも氏・佐伯さへぎ氏が、上代からいひ傳へて來たのを、大伴家持おほとものやかもちが長歌の中によみ入れた次のことばは、今日國民の間に廣く歌はれてゐる。
 海行かば水づくかばね、
 山行かば草むすかばね、
 大君の邊にこそ死なめ、
 かへりみはせじ。
「海を進むなら、水にひたるかばねともなれ、山を進むなら、草の生えるかばねともなれ、大君のお側で死なう、この身はどうなつてもかまはない。」といつた意味で、まことにををしい拐~を傳へ、忠勇の心がみなぎつてゐる。
 萬葉集の歌には、かうした國民的感激に滿ちあふれたものが多い。
 有名な歌人、柿本人麻呂かきのもとのひとまろや、山部赤人やまべのあかひとの作も、また萬葉集によつて傳へられてゐる。
 (ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
 人麻呂の歌である。文武もんむ天皇がまだ皇子でいらつしやつたころ、大和やまとの安騎野あきので狩をなさつた。
 人麻呂も御供に加つた。
 野中の一夜は明けて、東には今あけぼのの光が美しく輝き、ふり返つて西を見れば、殘月が傾いてゐる。
 東西の美しさを一首の中によみ入れた、まことに調子の高い歌である。
 人麻呂は、特に歌の道にすぐれてゐたので、後世歌聖とたたへられた。
 和歌の浦に潮みち來れば(かた)をなみあしべをさしてたづ鳴きわたる
 紀伊きいの國へ行幸の御供をした時、赤人が作つた歌である。
「和歌の浦に潮が滿ちて來ると、干潟がなくなるので、あしの生ひ茂つてゐる岸べをさして、鶴が鳴きながら飛んで行く。」といふ意味で、ひたひたと寄せる潮の靜かな音、鳴きながら飛んで行く鶴の羽ばたきまでが、聞かれるやうな感じのする歌である。
 をのこやも空しかるべき萬代に語りつぐべき名は立てずして
 山上憶良やまのうへのおくらの作である。
 憶良は、遣唐使(けんたうし)に從つて支那へ渡つたこともある。この歌は、
「いやしくも男と生まれた以上、萬代に傳ふべき名も立てないで、どうして空しく死なれようか。」といふのであつて、後人を奮起させるものがある。
 あをによし奈良(なら)の都は咲く花のにほふがごとく今さかりなり
 東大寺の大佛ができ、インドから高僧が渡海して來たころのはなやかな奈良の都を、ありありと見るやうな氣がする。
 小野老をののおゆの歌である。
 萬葉集には短歌が多いが、後世の歌集に比べて長歌の多いのが、一つの特色となつてゐる。
 大和には群山むらやまあれど、
 とりよろふ天あめの香具かぐ山、
 登り立ち國見をすれば、
 國原はけぶり立ち立つ、
 海原はかまめ立ち立つ。
 うまし國ぞ、
 あきつ島大和の國は。
 舒明(じょめい)天皇の御製で、長歌としては短いものの一つである。
「大和の國には、たくさんの山々があるが、中でもりつぱに整つた香具山に登つて、國のやうすを見ると、平地は廣々として、かまどの煙があちらこちらに立ちのぼり、海のやうに見渡される池には、かもめがあちらこちらに飛び立つてゐる。大和は、ほんたうにりつぱなよい國である。」といふのであつて、美しい光景を目の前に見るやうにお歌ひになつてゐる。
 萬葉集の歌は、まことに雄大であり明朗である。
 それは、わが古代の人々が、雄大明朗の氣性を持ち、極めて純な感情に生きてゐたからである。
 「萬葉」とは「萬世」の意で、萬世までも傳へようとした古人の心を、われわれは讀むことができるのである。

    七 修行者と羅刹らせつ

 色はにほへど散りぬるを、わがよたれぞ常ならむ。
 どこからか聞えて來る尊いことば。美しい聲。
 ところは雪山せっせんの山の中である。
 長い間の難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふとこのことばに耳を傾けた。
 いひ知れぬ喜びが、かれの胸にわきあがつて來た。
 病人が良藥を得、渇者がC冷な水を得たのにもまして、大きな喜びであつた。
 「今のは佛の御聲でなかつたらうか。」と、かれは考へた。
 しかし、
「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。
 無常は生ある者の免れない運命である。」といふ今のことばだけでは、まだ十分でない。
 もしあれが佛のみことばであれば、そのあとに何か續くことばがなくてはならない。かれには、さう思はれた。
 修行者は、座を立つてあたりを見まはしたが、佛の御姿も人影もない。ただ、ふとそば近く、恐しい惡魔あくまの姿をした羅刹のゐるのに氣がついた。
「この羅刹の聲であつたらうか。」
 さう思ひながら、修行者は、じつとそのものすごい形相を見つめた。
「まさか、この無知非道な羅刹のことばとは思へない。」と、一度は否定してみたが、
「いやいや、かれとても、昔の御佛にヘへを聞かなかつたとは限らない。
 よし、相手は羅刹にもせよ、惡魔にもせよ、佛のみことばとあれば聞かなければならない。」
 修行者はかう考へて、靜かに羅刹に問ひかけた。
「いつたいおまへは、だれに今のことばをヘへられたのか。思ふに、佛のみことばであらう。それも前半分で、まだあとの半分があるに違ひない。前半分を聞いてさへ、私は喜びにたへないが、どうか殘りを聞かせて、私に悟りを開かせてくれ。」
 すると、羅刹はとぼけたやうに、
「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹がへつてをります。
 あんまりへつたので、つい、うは言が出たかも知れないが、わしには何も覺えがないのです。」と答へた。
 修行者は、いつそう謙遜な心でいつた。
「私はおまへの弟子にならう。終生の弟子にならう。
 どうか、殘りをヘへていただきたい。」
 羅刹は首を振つた。
「だめだ、行者さん。おまへは自分のことばつかり考へて、人の腹のへつてゐることを考へてくれない。」
「いつたい、おまへは何をたべるのか。」
「びつくりしちやいけませんよ。わしのたべ物といふのはね、行者さん、人間の生肉、それから飲み物といふのが、人間の生き血さ。」といふそばから、さも食ひしんばうらしく、羅刹は舌なめずりをした。
 しかし、修行者は少しも驚かなかつた。
「よろしい。あのことばの殘りを聞かう。さうしたら、私のからだをおまへにやつてもよい。」
「えつ。たつた二文句ですよ。二文句と、行者さんのからだと、取りかへつこをしてもよいといふのですかい。」
 修行者は、どこまでも眞劒であつた。
「どうせ死ぬべきこのからだを捨てて、永久の命を得ようといふのだ。
 何でこの身が惜しからう。」
 かういひながら、かれはその身に着けてゐる鹿しかの皮を取つて、それを地上に敷いた。
「さあ、これへおすわりください。つつしんで佛のみことばを承りませう。」
 羅刹は座に着いて、おもむろに口を開いた。
 あの恐しい形相から、どうしてこんな聲が出るかと思はれるほど美しい聲である。
「有爲うゐの奥山今日越えて、淺き夢見じ醉ひもせず。」と歌ふやうにいひ終ると、
「たつたこれだけですがね、行者さん。でも、お約束だから、そろそろごちそになりませうかな。」といつて、ぎよろりと目を光らした。
 修行者は、うつとりとしてこのことばを聞き、それをくり返し口に唱へた。
 すると、
「生死を超越してしまへば、もう淺はかな夢も迷ひもない。
 そこにほんたうのりの境地がある。」といふ深い意味が、かれにはつきりと浮かんだ。
 心は喜びでいつぱいになつた。この喜びをあまねく世に分つて、人間を救はなければならないと、かれは思つた。
 かれは、あたりの石といはず、木の幹といはず、今のことばを書きつけた。
 色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ。
 有爲の奥山今日越えて、淺き夢見じ醉ひもせず。
 書き終ると、かれは手近にある木に登つた。そのてつぺんから身を投じて、今や羅刹の餌食ゑじきにならうといふのである。
 木は、枝や葉を震はせながら、修行者の心に感動するかのやうに見えた。
 修行者は、
「一言半句のヘへのために、この身を捨てるわれを見よ。」と高らかにいつて、ひらりと樹上から飛んだ。
 とたんに、妙なる樂の音が起つて、朗かに天上に響き渡つた。
 と見れば、あの恐しい羅刹は、たちまち端嚴な帝釋天たいしやくてんの姿となつて、修行者を空中にささげ、さうしてうやうやしく地上に安置した。
 もろもろの尊者、多くの天人たちが現れて、修行者の足もとにひれ伏しながら、心から禮拜した。
 この修行者こそ、ただ一すぢに道を求めて止まなかつた、ありし日のお釋迦しやか樣であつた。

    八 國法と大慈悲

 赤穗あかほの浪士らうし、大石内藏之助くらのすけを始め四十餘人が、亡君淺野内匠頭たくみのかみの仇、吉良上野介きらかうづけのすけを討つて、あつぱれ本望をとげたといふので、江戸市中はすつかり興奮してしまつた。
「感心な者だ。」
「それでこそほんたうの武士である。」
「まことに忠臣の鑑。」
 ほとんどあらゆるほめことばが、かれらに浴びせられた。
 しかし、徒黨を組んで天下を騷がすといふことは、重い罪である。
 かれらは、罪人としてひとまづ細川越中守ゑつちゆうのかみ以下、四人の大名にお預けといふことになつた。
「お預けになつても、きつとそのうち助命になるに違ひない。」
 世間の人々は、だれもさう考へた。
 將軍綱吉つなよしは、さすがにこの事件の始末に心を痛めた。
 まづ役人たちに評議をさせ、また學者の意見をも徴した。すると、
「かれらは、まことに忠義の者どもである。もしこれがお仕置きになれば、今後忠義を勵ます道がないであらう。」といふのが、多くの人々の一致した意見であつた。かうした天下の輿論(よろん)に對して、ただ一人荻生徂徠(をぎふそらい)のいふところは違つてゐた。
「亡君の仇を報いたのは、義には相違ないが、みだりに騷動を起したのは、結局私情を以つて國法を破つたのである。これを許せば、國家の政治が成り立たない。」
 綱吉は、元來情に動かされない人ではないが、しかし理非にも明かるい人であつた。再三再四、考へた結果、
「切腹を申しつけよ。」と命じた。
 天下を騷がした者は、たとへ武士でも、普通ならば打ち首である。
 切腹といふのは、どこまでも武士の名譽を重んじた扱ひであつた。
 だが、世間はすつかり失望してしまつた。
 正月が過ぎて、二月にいよいよ切腹といふことがきまつた。
 細川越中守を始め、浪士を預つた大名も殘念とは思ひながら、かうなつては何ともしやうがない。それぞれ、準備に取りかかつた。
 二月一日に、輪王寺宮公辨法親王が江戸城へおいでになつた。
 綱吉は、法親王に種々御物語をしたついでに、
「政治を行ふ身ほどつらいものはございませぬ。淺野内匠の家來のこと、いろいろお聞き及びでございませうが、何とか助ける道はないかと思ひましたけれども、さやう致しては政道が立ちませず、まことにせんないことでございます。」と、いかにも心ありげに申しあげた。
 佛の慈悲によつて、助ける道でもあらばといふ下心であつたらう。
 すると法親王は、
「いや、御苦心のほどお察し申します。」と仰せられただけで、やがて御退出になつた。
 このうはさが世間にもれて、だれいふとなく、
「法親王はおえらいお方と承つてゐたのに、將軍家のなぞがお解けにならなかつたとは。」と、歎じる者が多かつた。
 すると、またこのことが法親王のお耳にはいつた。
 法親王は左右の者に、
「あの話を、將軍から聞いた時ほど苦しいことはなかつた。
 もとより、將軍の心はよくわかつてゐた。自分とても、かれらを法衣の袖にくるんで助けたいのは山々であるが、それはかへつてかれらの心であるまい。散ればこそ、花は惜しまれるのだ。かれらをりつぱに國法に從はせるのが、佛の大慈悲であると思つて、自分はわざと將軍のなぞも解かず、そのまま退出したのである。」と仰せられた。
 元禄げんろく十六年二月四日、大石内藏之助ら一味の者は、いさぎよく切腹して、名を後世に輝かした。

    九 母の力

 元治元年九月二十五日の夜である。
 あと四年で明治維新ゐしんの幕が切つて落されようといふ時だ。
 天下の雲行きは、ほとんど息苦しいまでに切迫してゐる。
 周防すはうの山口では、今日も毛利侯の御前會議で、氣鋭の井上聞多ぶんたが、反對黨を向かふにまはして、幕府に對する武備を主張した。
 堂々としたその議論に、反對黨は、ぐうの音も出なかつた。
 その夜である。
 下男淺吉の提燈ちやうちんにみちびかれながら、聞多が、山口の町から湯田の自宅へ歸る途中、暗やみの中に待ち受けてゐる怪漢があつた。
「だれだ、きみは。」と、それがだしぬけに聲をかける。
「井上聞多。」と答へるが早いか、後に立つた今一人の怪漢が、いきなり聞多の兩足をつかんで、前へのめらせた。
 すかさず第三の男が、大刀を振るつて聞多のせなかを眞二つ。
 それを、ふしぎにも聞多のさしてゐた刀が防いだ。
 うつ向けになつた際、刀がせなかへまはつてゐたのである。
 それでも、せ骨に深くくひ込む重傷であつた。
 氣丈にも聞多は立ちあがつて、刀を拔かうとした。
 すると、一刀がまた後頭部をみまつた。
 更に、前から顔面を深く切り込んだ。
 ほとんど無意識に、聞多はその場をうまくのがれた。
 あたりは眞のやみである。
 かれらは、なほも聞多をさがしたが、もうどこにも見つからなかつた。
 多量の出血に、しばらくは氣を失つてゐた聞多が、ふと見まはすと、そこはいも畠の中であつた。からだ中が、なぐりつけられるやうに痛む。
 何よりも、のどがかわいてたまらない。向かふに火が見える。
 聞多は、そこまではつて行つた。それは農家のともし火であつた。
「おお、井上の若旦那樣。どうしてまたこれは。」
 驚く農夫に、やつと手まねで水を飲ませてもらつた聞多は、やがて農夫たちの手で自宅へ運ばれた。
 淺吉の急報によつて、聞多の兄、五郎三郎は、押つ取り刀でその場へかけつけたが、もう何もあとの祭、どこにも人影はなかつた。
 弟の姿も見えない。
 再び家に取つて返すと、今農夫たちにかつがれて歸つた弟のあさましい姿。
 驚き悲しむ母親。とりあへず、醫者が二人來た。
 しかし、聞多のからだは、血だらけ泥だらけである。
 醫者は、ばう然としてほとんど手のくだしやうも知らない。
 聞多は、もう虫の息であつた。
 母・兄・醫者の顔も、ぼつとして見分けがつかない。
 からうじて一口、
「兄上。」とかすかにいつた。兄の目は、涙でいつぱいである。
「おお、聞多。しつかりせい。敵はだれだ。何人ゐたか。」
 たづねられても、聞多には答へる力がなかつた。
 ただ、手まねがいふ。
「介錯かいしやく頼む。」
 兄は、涙ながらにうなづいた。どうせ助らない弟、頼みに任せてひと思ひに死なせてやるのが、せめてもの慈悲だ。
 決然として、兄は刀を拔いた。
「待つておくれ。」
 それは、しぼるやうな母の聲である。
 母の手は、堅く五郎三郎の袖にすがつてゐた。
「待つておくれ。お醫者もここにゐられる。たとへ治療のかひはないにしても、できるだけの手を盡くさないでは、この母の心がすみません。」
「母上、かうなつては是非もございませぬ。聞多のからだには、もう一滴の血も殘つてゐませぬぞ、手當てをしても、ただ苦しめるばかり。さあ、おはなしください。」
 兄は、刀を振りあげた。その時早く、母親は、血だらけの聞多のからだをひしとだきしめた。
「さあ、切るなら、この母もろともに切つておくれ。」
 この子をどこまでも助けようとする母の一念に、さすが張りつめた兄の心もゆるんでしまつた。
 聞多の友人、所郁太郎ところいくたらうが、その場へかけつけた。
 かれは、蘭方らんぱう醫であつた。かれは、刀のさげ緒をたすきに掛け、かひがひしく身支度をしてから、燒酎せうちうで血だらけの傷を洗ひ、あり合はせの小さな疊針で傷口を縫ひ始めた。
 聞多は、痛みも感じないかのやうに、こんこんと眠つてゐる。
 ほかの醫者二人も、何くれとこの手術を手傳つた。
 かうして、六箇所の大傷が次々に縫ひ合はされた。それから幾十日、母の必死の看護と、醫者の手當てとによつて、ふしぎにも一命を取り止めた聞多が、當時の母の慈愛の態度を聞くや、病床にさめざめと泣いた。
「聞多、三十歳の壯年に及んで、何一つ孝行も盡くさないのに、今母上の力によつて、萬死に一生を得ようとは。」
 ほどなく明治の御代となつた。
 昔の聞多は井上馨かをるとして、一世に時めく人となつた。
 從一位侯爵にのぼり、八十一歳の光榮ある長壽を終るまで、功績は高く、信望はすこぶる厚かつた。それにしても、この母の慈愛によらなかつたら、三十歳の井上聞多は、山口在に非命の最期をとげたであらう。
 まことにありがたく尊いのは、母の力であつた。

    十 鎌倉かまくら

  七里が濱の磯傳ひ、
  稻村が崎、名將の
  劒投ぜし古戰場。

  極樂ごくらく寺坂越え行けば、
  長谷はせ觀音の堂近く、
  露坐の大佛おはします。

  由比ゆひの濱べを右に見て、
  雪の下道過ぎ行けば、
  八幡はちまん宮の御やしろ。

  登るや石のきざはしの
  左に高き大いちやう、
  問はばや遠き世々の跡。

  若宮堂の舞の袖、
  しづのをだまきくり返し、
  かへしし人をしのびつつ。

  鎌倉宮にまうでては、
  つきせぬ親王みこのみうらみに、
  悲憤の涙わきぬべし。

  歴史は長し七百年、
  興亡すべて夢に似て、
  英雄墓はこけむしぬ。

  建長、圓覺古寺の
  山門高き松風に、
  昔の音やこもるらん。

    十一 末廣がり

大名 「このあたりの大名でござる。太郎冠者くわじやあるか。」
冠者 「お前に。」
大名 「たいそう早かつた。汝を呼び出したのは、餘の儀ではない。明日のお客の引出物に、末廣がりを出さうと思ふ。汝は大儀ながら京へのぼり、急いで求めてまゐれ。」
冠者 「かしこまりました。」
大名 「急げ。」
冠者 「はつ──さてさて、それがしの主人は、立板に水を流すやうにものをい ひつけられるお方ぢや。まづ急いでまゐらう。とかく申すうちに、これはもう都ぢや。や、うかと致した。それがしは末廣がり屋を存ぜぬが、何と致さう。や、物の欲しい時は、大聲に呼ばはるものと見える。それがしも呼ばはつてみよう。末廣がりを買はう、末廣がりを買はう。」
わる者「これは京に住まひ致すわる者でござる。何者かは知らぬが、わいわいわめいてゐる。ひとつ當つてみませう──なうなう、そなたは何をわいわいわめいてゐられるぞ。」
冠者 「それがしは、田舎ゐなかからまゐつた者でござる。末廣がり屋を知らぬによつて、かやう申すのでござる。」
わる者「それがしは、末廣がり屋の主人でござる。」
冠者 「それは仕合はせなこと。末廣がりはござらうか。」
わる者「いかにも。」
冠者 「急いで見せてくだされ。」
わる者「心得ました──はて、何を賣つてくれようか。や、よいことがある。
これにからかさがあるから、これを賣つてやらう──なうなう、田舎の人、これぢや。」
冠者 「や、それが末廣がりでござるか。」
わる者「いかにも。」
冠者 「なるほど、廣げれば大きな末廣がりぢや。ここに御主人の書きつけがあるによつて、それに合つたらば買ひませう。」
わる者「では、お讀みくだされ。」
冠者 「まづ地紙よくとござる。」
わる者「これ、地紙とはこの紙のこと。きつねの鳴くやうに、こんこんといふほど、よく張つてござる。」
冠者 「骨みがき。」
わる者「これ、骨みがきとはこの骨のこと。とくさをかけてみがいてあるによつて、すべすべ致す。」
冠者 「要かなめもとしめて。」
わる者「かう廣げて、この金物でじつとしめるによつて、要もとしめてでござる。」
冠者 「さてさて、書つけに合つてうれしうござる。して、價はいかほどでござらうか。」
わる者「高うござるぞ。」
冠者 「いくらほどでござるぞ。」
わる者「十兩でござる。」
冠者 「それはまた高いことぢや。一兩ばかりになりますまいか。」
わる者「なう、そこな人、そのやうに安いものではござらぬ。賣りますまい。」
冠者 「いや、十兩のうち、一兩ばかりも引いてくださらぬかといふのでござる。」
わる者「よろしうござる。賣つてあげませう。」
冠者 「かたじけなうござる。さらば、さらば。」
わる者「なうなう、そなたは定めて主人持ちでござらう。」
冠者 「いかにも。」
わる者「主人といふ者は、きげんのよいこともあり、惡いこともある。もし、きげんが惡うござつたら、かうかうはやして舞はれたらよからう。」
冠者 「さてさて、かたじけなうござる──まづ御主人に急いでお目にかけよう。殿樣ござりますか。」
大名 「太郎冠者、もどつたか。」
冠者 「歸りました。」
大名 「大儀であつた。急いで見せい。」
冠者 「はつ。」
大名 「これは何ぢや。」
冠者 「末廣がりでござります。」
大名 「これが。」
冠者 「はあ。殿樣の御合點まゐらぬも道理でござります。かう致しますと、 ぐつと廣がります。」
大名 「いかにも大きな末廣がりぢや。して、あの書きつけに合はせてみたか。」
冠者 「合はせましたとも。お讀みくだされ。」
大名 「まづ地紙よく。」
冠者 「それこそ氣をつけました。これ、この通り、きつねの鳴くやうに、こんこんといふほど、よく張つてござります。」
大名 「骨みがきは。」
冠者 「これ、この骨でござります。とくさをかけてみがいてあるによつて、すべすべ致します。」
大名 「要もとしめては。」
冠者 「かう廣げまして、この金物でじつとしめます。」
大名 「やい、太郎冠者。そちは末廣がりを知らぬな。末廣がりとは、扇のことぢや。おのれは古がさを買うて來て、やれ末廣がりで候の、骨みがきで候のと申しをる。すさりをらう。」
冠者 「お許しくだされ──さういはれれば、なるほどこれは古がさぢや。これは、へんなことになりをつた。おお、さうぢや。あれをはやして、ごきげんをなほさう。
    えいえい、
    かさをさすならば、
    人がかさをさすならば、
    おれもかさをささうよ。」
大名 「や、おのれ、買物にはまんまとだまされて、申しわけに、はやしものをするとは。いやいや、あきれたやつめ。や、これはこれは。や、これはおもしろいぞ。
    げにもさうよ、
    げにもさうよの。
    かさをさすならば、
    人がかさをさすならば、
    おれもかさをささうよ。
    げにもさうよ、
    げにもさうよの。」

      十二 菊水の流れ

       櫻井の驛
 延元元年五月十六日、楠木正成くすのきまさしげ都をたち、五百餘騎にて兵庫ひやうごへくだる。これを限りの合戰と思ひければ、その子正行まさつらが今年十一歳にて供したりけるを、河内かはちへ返さんとて、櫻井の驛にてさとしけるやう、
「獅子ししは子を産み、三日にして、數千丈の谷に投ず。その子、まことに獅子の氣性あれば、はね返りて死せずといへり。いはんや汝すでに十歳に餘りぬ。一言耳にとどまらば、わがヘへにたがふことなかれ。今度の合戰、天下の安否と思へば、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思ふなり。正成すでに討死すと聞かば、天下は尊氏たかうぢがままなるべし。しかりといへども、一旦の身命を助らんために、多年の忠烈を失ひて、敵に降ることあるべからず。一族のうち、一人も生き殘りてあらん間は、金剛山こんがうざんのほとりにたてこもり、敵寄せ來たらば、命にかけて忠を全うすべし。これぞ汝が第一の孝行なる。」とて、かたみに菊水の刀を與へて、おのおの東西へ別れけり。

       湊川みなとがはの戰
 正成、弟正季まさすゑに向かつて申しけるは、
「敵、前後をさへぎつて、御方は陣をへだてたり。今は、のがれぬところとおぼゆるぞ。いざや、まづ前なる敵を一散らし追ひまくつて、後なる敵と戰はん。」といひければ、正季、
「しかるべくおぼえ候。」とて、七百餘騎を前後に立てて、大勢の中へかけ入りけり。
 直義ただよしの兵つはものども、菊水の旗を見てよき敵なりと思ひ、取り込めてこれを討たんとしけれども、正成・正季、東より西へ破つて通り、北より南へ追ひなびけ、よき敵と見れば組み落して首を取り、取るに足らぬ敵どもは、一太刀打つてかけ散らす。正成と正季と、七たび合ひて七たび分る。
 その心、ひとへに直義に近づき、組んで討たんと思ふにあり。
 かくて直義の五十萬騎、楠木が七百餘騎に打ちなびけられて、須磨すまの方へと引き返す。尊氏これを見て、
「新手を入れかへて、直義討たすな。」と下知しければ、吉良きら・石堂いしだう・高かう・上杉の者ども六千餘騎にて、湊川の東へかけ出で、あとを突かんと取り巻きけり。正成・正季、取つて返してこの勢にかかり、打ち違へ、かけ入り、三時が間に十六度まで戰ひけるに、その勢しだいに亡びて、のちにはわづかに七十三騎となりにけり。
 今はこれまでと、湊川の北に、民家の一むらありけるに走り入り、甲を脱いでその身を見れば、正成十一箇所まで傷を負ひたり。
 七十二人の者ども、皆五箇所、三箇所、傷を負はぬはなかりけり。
 客殿に並みゐて、念佛十返ばかり同音に唱ふ。
 正成、座上にゐつつ、弟正季に向かひ、
「この期において、おんみの願ふところは何ぞ。」と問ひければ、正季からからと打ち笑ひ、
「七たびまで人間に生まれて、朝敵を滅さばやと存じ候。」と申す。
 正成、げにもうれしげなる氣色にて、
「われもさやうに思ふなり。いざさらば、同じく生をかへて、この本懷ほんくわいを達せん。」とちぎり、兄弟ともにさし違へて、同じ枕に伏しにけり。
 橋本正員まさかず・宇佐美うさみ正安・~宮寺正師まさもろ・和田正隆まさたかを始めとして、一族十六人、從ふ兵五十餘人思ひ思ひに並みゐて、一度に腹をぞ切つたりける。

       母のヘへ
 正行、敵より送り來たれる父の首を見て、悲しみにたへず、ひそかに持佛堂の方へ行きけり。母あやしと思ひ、あとより行きてやうすを見れば、正行は、父が兵庫へ向かふ時、かたみにとどめし菊水の刀を右の手に拔き持ちて、袴はかまの腰を押しさげ、自害せんとぞしゐたりける。
 母、急ぎ走り寄り、正行がかひなに取りついて、涙を流しいひけるは、
「汝、幼くとも、父の子ならば、これほどの道理に迷ふべしや。
 よくよく思ひても見よかし。父上、兵庫へ向かはれし時、汝を櫻井より返されしは、父のあとをとぶらはせんためにもあらず、腹を切れと殘されしにもあらず。
 われ、たとへ戰場にて命を失ふとも、汝、生き殘りたらん一族どもを助け養ひ、今ひとたび軍を起し、朝敵を滅して、御代を安んじ奉れといひおかれしところなり。その遺言をつぶさに聞きて、この母にも語りしものが、いつのほどに忘れけるぞや。かくては父の名も失ひ、君の御用にも立ちまゐらせんことあるべしとも思はれず。」と、泣く泣くいさめて、拔きたる刀をうばひ取る。正行、腹も切り得ず泣き倒れ、母とともにぞ歎きける。
 正行、父の遺言母のヘへ、身にしみ心にしみて忘れず。そののちは、童どもと戰のまねして、「これは朝敵の首を取るなり。」といひ、竹馬にむちを當てて、「これは尊氏を追ひかくるなり。」などいひて、はかなき遊びにも、ただこのことのみを思ひけり。

       吉野參内
 正平二年十二月二十七日、楠木正行、弟正時ら一族をうちつれて、吉野の皇居に參向し、四條中納言によりて奏し奉る。
「父正成、勤皇の軍を以つて大敵を打ち破り、先皇の御心を休めまゐらせ候。しかるに、ほどなく天下また亂れ、逆臣西國より攻めのぼり候間、かねて思ひ定め候ひけるか、つひに湊川にて討死仕り候。
 その時、正行十一歳に相成り候ひしを、合戰の場へはともなはで、河内へ返し、生きてあらん一族を助け養ひ、朝敵を滅して御代を安んじまゐらせよと申しおきて死して候。しかるに、正行・正時、すでに壯年に及び候。このたびこそ、手を盡くして合戰仕り候はずば、父の申しし遺言にもたがひ、かひなき世のそしりをも受くべく候。
 もしまた病にかかり、早世仕ることも候はば、君の御ためには不忠の身となり、父のためには不孝の子ともなるべきにて候間、今こそ師直もろな ほ・師泰もろやすの軍に立ち向かひ、身命を盡くして合戰仕り、かれらが首を正行が手に掛けて取り候か、正行・正時が首をかれらに取らせ候か、二つのうちに戰を決すべきにて候。おそれ多くは候へども、今生にて今ひとたび、玉顔を拜し奉らんために參内仕り候。」と申しもあへず、はらはらと涙を甲の袖に落しつつ、義心その氣色にあらはれければ、中納言、いまだ奏し奉らざる先に、まづ直衣なほしの袖をぞぬらされける。
 主上、すなはち南殿のみすを高く巻かせて、玉顔殊にうるはしく、諸卒をみそなはし、正行を近く召したまふ。
「汝、二度の戰に勝つことを得て、敵軍の氣を屈せしむ。
 重代の武功、返す返すも~妙なり。大敵、今勢を盡くして來たるなれば、今度の合戰は天下の安否たるべし。進むべきを知つて進むは、時を失はざらんがためなり。退くべきを見て退くは、後を全うせんがためなり。朕ちん、汝を以つて股肱ここうとす。つつしんで命を全うすべし。」と仰せ出されければ、正行、頭を地につけて、とかくも申しあげず、ただこれを最後の參内と思ひ定めて退出す。
 正行・正時以下、今度の合戰に一足も引かず、一つところにて討死せんと約束したりける者ども百四十三人、先皇の陵みささぎに參つて御いとまを申し、如意輪堂によいりんだうの壁板に、おのおの名字を書き連ねて、その末に、
 かへらじとかねて思へばあづさ弓なき數にいる名をぞとどむる
 と、一首の歌を書きとどめ、その日吉野をうち出でて、敵陣へとぞ向かひける。

     十三 マライを進む

 密林とゴムの林が無限に續くマライに、ただ一筋の鋪装ほさう道路が、北から南へ走つてゐる。この道路を、わが機械化部隊が、英軍をけちらしながら、寸時の休みなく追撃する。
 まことに奔流のやうな戰車隊・車輛しやりやう隊の前進である。
 敵は次々に敗軍し、敗走する。
 敗走するにしたがつて、橋といふ橋を片端から破壞する。
 橋には、前もつて爆藥が仕掛けられてあり、退却の際、スイッチ一つで爆破して行くのである。
 いかに快速を發揮する機械化部隊も、橋が落ちれば立ち往生になる。それを立ち往生させないやうに、わが工兵隊のすばらしい活躍が展開する。
 隊長の命令一下、工兵隊は、きほひかかるやうに前進する。
 ハンマーや、シャベルや、つるはしを荷物臺にしばりつけ、鐵砲をかついだ工兵が、自轉車のペタルをふんで、橋梁けうりやう地へかけつける。
 橋梁材料をぎつしり積んだトラックが、あとから、あとから追ひかける。
 そこには、まだ砲彈が飛びかひ、敵兵が、モーターボートで川を傳ひながら、工兵隊をねらひ撃ちして來る。爆破された橋の上には、やつかいにも、敵のトラックや戰車がおいてきぼりになつてゐる。
 橋の土臺には、ごていねいにも地雷が埋設してある。
 このじやま物を取り除き、この危險物を掘り出す作業が、砲彈が飛び、ねらひ撃ちの銃丸が飛んで來る中で、平然と行はれる。
 熱帶の木材には、チークのやうに重いものがある。トラックから投げ出された木材を、すつぱだかの工兵が、肩でかついで運ぶのだ。
 大きな槌つちで橋柱を打ち込む兵隊、組み立てられて行く梁はりにのぼつて、釘やかすがひを打ち込む兵隊。みんな、汗でびしよぬれである。
 のどがかわくと、椰子やしのからを破つてその水を飲み、熟しかけのパイナップルをかじる。肩まで濁流だくりうにつかつて、打ち込まれる橋柱を、しつかり支へてゐる兵隊がある。シャツ一枚で、作業を指揮する隊長がある。
 その上を、熱帶の太陽がかんかん照りつける。
 全員が、マライ人よりKく日にやけて、齒だけが妙に白い。
 ハンマーを振るつてゐる兵隊の顔から、手先から、胸から、汗のしづくが、スコールのやうな勢ではね落ちる。からだは油光に光り、Kい肌はだには、田虫と汗もが一面の地圖をゑがいてゐる。ここの橋が三分の一ほどできあがつたころ、もう他の一隊は、橋梁材料を肩にかついで、前線の橋へと急いでゐる。
 ここの橋が完成しない以上、トラックは通じないから、すべての材料は兵隊の肩へ載せられ、砲火ををかしてのかけ足である。めざす橋のもう一つ向かふは敵前で、そこには歩兵の徒歩部隊が出てゐるだけである。
 まだできあがらない橋のたもとには、戰車隊・野砲隊・衛生隊が、しびれを切らして待ちかまへてゐる。そこで、橋がひとたび完成するが早いか、一時に爆音が起り、戰車・大砲・トラックが、續々と橋を乘り切つて行く。
 工兵隊は、餘つた材料をトラックに積み、汗を拭ふまもなく、器材と人員の點檢を受けて、これもそのままトラックへ乘り込み、前進する。
 かうして敵が次々に爆破して行く橋梁を、わが工兵隊は、また片端からかけ渡して、戰車を通らせ、大砲を前進させて、敵に立ちなほる餘裕よゆうを與へないのである。この工兵隊の勞苦、思へばただ頭がさがる。
 一言半句、不平もぐちもこぼさず、ひたすら任務を遂行する姿には、~の尊ささへ感じられるのである。

    十四 靜寛院宮

     一
 鳥羽とば・伏見ふしみの一戰に、コ川慶喜よしのぶは、はしなくも朝敵といふ汚名をかうむつた。すでに大政を奉還したかれに、逆心などあるべきではないが、しかし何事も時勢であつた。
 朝臣のうちには、あくまでコ川を討たなければ、武家政治を土臺からくつがへして、新日本を打ち立てることができないとする硬論がある。
 幕臣にはまた、三百年の舊恩を思つて、主君の馬前に討死しなければ、いさぎよしとしないやたけ心がみなぎつてゐる。
 かれは「慶喜討つべし。」と叫び、これは「君側Cむべし。」といきまく。
 兩々相打ち相激して遂に砲火を交へ、しかもコ川方がもろくも敗れたのである。たとへ、慶喜に不臣の心がなかつたとしても、朝敵の名をかうむるのは、けだし當然であつた。
 慶喜は、事のすこぶる重大なのを知つて、大阪から海路江戸へ歸つた。かれは、靜寛院宮に事の次第を申しあげて、切に天朝へおわびのお取り成しを願ひ、身は寛永寺の一院に閉ぢこもつて、ひたすらに謹愼の意を表した。
     二
 靜寛院宮親子ちかこ内親王は、仁孝にんかう天皇の皇女、孝明天皇の御妹、明治天皇の御叔母をば君で、御幼名を和宮かずのみやと申しあげた。宮が、御兄孝明天皇の御心を安んじ奉り、國のため民のためには、水火の中をもいとはない御覺悟で、將軍家茂いへもちに嫁ぎたまうたのは、當時から七年前のことである。しかも、この御降嫁による公武一和の望みは、ほんの束の間の夢であつた。やがて長州征伐の大事が起つて、家茂はその陣中に薨こうじ、續いて杖柱とも頼みたまふ孝明天皇が崩御ましました。
 宮には、この兩三年、御涙の乾くひまもない御身であらせられた。
     三
 慶喜叛逆はんぎやくの報がいち早く江戸に達した時、宮はさすがに御憤りをお感じになつたが、慶喜の言上するところを一々お聞きになるに及んで、事情止むを得なかつたかれの心中をあはれみたまうた。
 やさしい女性によしやうの御心に、熱火が點じられた。
 われ、かたじけなくも皇胤くわういんに生まれたとはいへ、ひとたび嫁してはコ川の家を離れないのが女の道、コ川の家は何とかして護らなければならない。そればかりか、追討の官軍がたちまち江戸表に押し寄せるとすれば、コ川の恩義を思ふ舊臣たちが、おめおめと江戸城を明け渡すはずはない。
 その結果、江戸市中が兵火にかかれば、百萬の市民はどうなることか。
 コ川の家を救ふことは、結局江戸百萬の市民を救ふことである──宮は、御心に深く決したまふところがあつた。一日、上じやうらふ土御門藤ふぢ子は、宮の御文を奉持して、東海道を西へのぼつた。官軍は、今や潮のやうに東へ寄せて來る。コ川の家は、まさに風前のともし火であつた。
 この間にも、主家の難を救はうと、朝廷へ寛大の御處置を請ひ奉る歎願書をたづさへた關東方の使者は、櫛の齒を引くやうに京都へ向かつたが、いづれも途中官軍に押さへられて、目的を達しない。
 無事京都に着くことのできたのは、宮の御使ひだけであつた。
     四
 宮の御文は、實に言々血涙の御文章であつた。
「何とぞ私への御憐愍ごれんびんと思し召され、汚名をすすぎ、家名相立ち候やう、私身命に代へ願ひあげまゐらせ候。是非是非官軍さし向けられ、御取りつぶしに相成り候はば、私事も、當家滅亡を見つつ長らへ居り候も殘念に候まま、きつと覺悟致し候所存に候。私一命は惜しみ申さず候へども、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致し居り候。心中御憐察あらせられ、願ひの通り、家名のところ御憐愍あらせられ候はば、私は申すまでもなく、一門家僕かぼくの者ども、深く朝恩を仰ぎ候事と存じまゐらせ候。」
 コ川を討たねば止まぬの硬論を持する朝臣たちも、この御文を拜見してひとしく泣いた。コ川に對する朝議は、この時から一變した。
 それは全く義を立て、理を盡くし、情を述べて殘るところあらせられぬ宮の御文の力であつた。
     五
 朝敵の汚名はすすがれ、コ川の家名は斷絶を免れた。
 舊臣たちは、ほつと安堵あんどの胸をなでおろした。
 江戸城は、官軍方の西郷隆盛さいがうたかもり、コ川方の勝安芳かつやすよしのわづか二回の會見で、しかも談笑のちに開城の約が成立した。
 江戸市民は、兵火を免れた。さうして、幸ひはただそれだけではなかつた。當時、歐米おうべいの強國は、ひそかにわが國をうかがつてゐたのである。
 現にフランスはコ川方を應援し、イギリスは、薩長さつちやうを通じて官軍に好意を見せようとしてゐた。もし、日本が官軍と朝敵とに分れて、長く戰ふやうにでもなつたら、そのすきに乘じて、かれらは何をしたかもわからない。思へば、まことに危いことであつた。

    十五 シンガポール陷落の夜

  この夜、滿洲國皇帝陛下は、
  大本營の歴史的な發表を聞し召し、やをら御起立、
  御用掛吉岡少將に、
  「吉岡、おまへもいつしよに、日本の宮城を遙拜しよう。」
  と仰せられ、うやうやしく最敬禮をあそばされた。
  御目には、御感涙の光るのさへ拜せられた。
  更に、皇帝陛下は南方へ向かはせられ、
  皇軍の將兵、戰歿の勇士に、しばし祈念を捧げたまうた。

  深更を過ぎて、お電話があり、
  吉岡少將がふたたび參進すると、
  「吉岡、今夜、おまへはねられるか。
   今、日本皇室に對し奉り、慶祝の親電を、
   書き終つたところである。
   あす朝早く、打電の手續きをしてもらひたい。」
  と、陛下は仰せられた。
  この夜、陛下のおやすみになつたのは、
  午前二時とうけたまはる。

  あけて二月十六日、寒風はだへをさす滿洲のあした、
  皇帝陛下は、建國神廟しんべうに御參進、
  天照大神の大前に、御心ゆくまで御拜をあそばされた。

    十六 もののふの情

     沈むギリシヤ國旗
 太平洋の夜明け、遠い地平線上に、K煙のなびくのが潛望鏡に寫つた。
「汽船だ。」
 わが潛水艦は、全速力で煙のあとを追つた。
 近づいて見ると、五千トンぐらゐの商船だが、國旗を掲げてゐない。
 國旗を掲げない船は、撃沈してかまはないのだ。
 大膽だいたんにも浮かびあがつて堂々と接近して行くと、汽船からは、するするとギリシヤの國旗があがつた。ギリシヤは敵國である。
 敵船撃沈に遠慮はいらない。
 ぐんぐん近づくと、敵船は、もうもうとK煙を吐いて逃げ出した。
 甲板かんぱんで船員たちがあわてふためいてゐるのが、手に取るやうに見える距離まで追ひつめて、砲口をじつと向けると、敵船は急に止つた。
 その瞬間、轟然ぐわうぜんたる響きとともに、わが潛水艦から撃ち出した砲彈は、船腹にみごと命中して、吃水きつすゐ線に穴をあけた。
 なほもわが潛水艦は、敵船の周圍をぐるりとまはりながら、砲撃を續けた。
 撃ち出す砲彈は、一發も目標をはづれない。
 文字通り百發百中だ。船は、ぐつと左舷に傾いた。
 敵の乘組員は、船を捨てて二隻のボートに乘り移つた。
 敵船は、左舷に傾いたまま靜かに沈んで行く。
 わが潛水艦の甲板には、艦長を始め乘組員が、不動の姿勢で立つてゐる。煙突が波間にかくれて行つた。
 横倒しになつたマストに掲げられたギリシヤの國旗が、朝の太陽に照らされながら、緑の波の上に光つてゐる。その國旗も、吸ひ込まれるやうに海の中へ姿を沒してしまつた。
 わが潛水艦の甲板からは、一時にさつと右手を擧げて、沈んで行くギリシヤ國旗に、敬禮が送られた。

     發射止め
 眞赤な太陽が、シドニー沖の海面に落ちてから、二時間もたつたころであつた。
 よい獲物はないかとさがしてゐる潛望鏡に、あかあかと燈火をともした二本煙突の大きな客船の姿が寫つた。
 アメリカから、濠洲がうしうへ向かふ敵船に違ひない。
 急いで魚雷發射の準備がなされた。
 乘組員たちは、今か今かと發射の命令を待つてゐた。
 吸ひつけられるやうに潛望鏡をのぞいてゐた艦長は、敵船の行動としては餘りに大膽すぎると思つて、しげしげと見た。
 すると、白い船體の舷側に、十字のしるしが赤く描かれてゐる。
「發射止め。」──魚雷發射の持ち場についてゐた勇士たちは、艦長のこの命令を意外に思つた。
「敵の病院船だ。攻撃は中止する。」
 艦長は、潛望鏡から目を離しながらかういつた。
「艦長、敵はわが病院船バイカル丸を撃沈しました。今こそ、われわれに仇を討たせてください。」
 涙を浮かべてくやしがる乘組員をなだめながら、艦長は、
「日本には武士道がある。武士道こそは、わが潛水艦魂なのだ。日本人は、斷じて卑怯ひけふなふるまひをしてはならない。」とおもむろにいつた。潛水艦は、思ひきりよく攻撃態勢を捨てて、ぐるりと艦首を向けかへた。

     野戰病院にて
 昭和十七年二月十九日、わが陸の演sは、ジャワのバリ島を奇襲し、その上陸に成功した。バリ島の敵の野戰病院には、アメリカの航空將校が、白い寝床の上に横たはつてゐた。
 顔から腕、腕から胸へかけて燒けただれ、視力もほとんど失はれてゐた。
 かれは、アメリカから濠洲へ派遣された四十名の航空將校の一人で、わがジャワ攻略に先立ち、濠洲からジャワのバンドンへ移り、偵察隊として出動の途中、この島に不時着して負傷したのであつた。
 病院がわが軍に占領されたことを知つた時、この將校は、恐怖と失望とでがつかりしたやうすであつた。
 しかし、一日、二日とたつうちに、その氣持はだんだんなくなつて行つた。
 上半身にやけどをした敵の將校は、夜となく晝となく、しきりに苦痛をうつたへた。目が見えない上に、手の自由もきかない。食事は子どものやうに一々たべさせ、繃帶はうたいは日に何回となく取り代へ、傷の手當てをていねいにしてやることは、並みたいていのことではなかつた。
 しかし、二人のわが衛生兵は、代る代る徹夜てつやして、心からしんせつに看護をしてやつた。
 椰子やしの葉越しに、窓から月の光が美しくさし込む夜であつた。
 この敵の將校は、寝床の上に半身を起して、さめざめと泣いてゐた。
 英語の少し話せる衛生兵の一人が、片言の英語で慰めてやると、
「私の今の身の上を悲しんで泣いてゐるのではありません。あなたがたが、私に示されたしんせつと、あなたがた同志の友情のうるはしさに、しみじみ感じて泣いてゐるのです。かうした温かい心は、アメリカの軍隊には決してありません。私は、日本の軍隊がつくづくうらやましくてならないのです。」といつて、二人の衛生兵の手を、自由のきかない兩方の手で、堅く握つた。

     十七 太陽

 私たち人類にとつて、否、すべての生物にとつて、太陽ほどありがたいものがあるだらうか。
 太陽は、私たちに絶えず熱と光とを送つてよこす。
 地上のあらゆる生物は、この熱、この光のおかげで生きてゐるのである。
 月は死の世界であるといふことを、私たちはすでに知つた。
 太陽こそは、あらゆる生命の源泉なのである。
 あらゆる生命の源泉であるだけに、それはまた實に偉大な存在である。
 直徑凡そ百四十萬キロもある一大火球だといふ。
 もちろん、かういつただけでは、ほとんど見當がつかない。
 月は、地球を中心として、ぐるぐる廻つてゐる。
 今、かりにそのままそつくり移して、地球を太陽の中心に置くとしても、月は太陽の内部を廻るだけである。
 地球と月との距離が、今の約二倍なくては、月が太陽の表面を廻るわけにはいかない。
 また、月を直徑三センチのピンポンの球、地球を十二センチのゴムまりとしてみても、太陽は直徑十三メートルといふ大きなものになつて、ちよつと手近にたとへるものが見つからない。
 この大きな太陽が、私たちの住む地球から見ると、だいたい月と同じ大きさに見えるのは、いふまでもなく、太陽が月より非常に遠いところにあるからである。地球から太陽への距離は、凡そ一億五千萬キロで、月への距離の約四百倍に當る。
 一時間四百キロの速さで飛ぶ飛行機に乘つて行くとしても、ざつと四十三年かかるわけである。これほど遠いところにありながら、太陽は、私たちに十分な熱と光とを送つてくれる。
 夏の日の暑さから考へてみてもわかるやうに、太陽から出る熱量は、すばらしいものである。
 太陽そのものの温度は、表面で約六千度、内部はもつと高熱である。光の強さに至つては、ほとんど普通のことばでいひあらはすことができない。
 これを燭光しよくくわうであらはすと、その數は、三の次に零を二十七つけたものになる。濃い色ガラス、またはKくいぶしたガラスを通して太陽を見ると、表面にKいごま粒のやうなものが見えることがある。それが太陽のK點と呼ばれるもので、見たところごま粒のやうだが、實は地球より大きいのがあり、時には地球の十數倍もあるのが現れることがある。
 K點は、太陽の表面に起る大きなつむじ風だといはれ、その數や大きさは、凡そ十一年を周期として搆クしてゐる。
 太陽のやうな天體は、ただ一つあるだけであらうか。
 かりに、太陽をもつともつと遠いところで見るとすれば、結局は、あの、夜の空に銀の砂子をまいたと見える小さな星と、同じものになつてしまふであらう。
 つまり太陽は、夜の空に無數に輝く星の一つなのであるが、われわれに近いために、特に大きく、明かるく見えるに過ぎない。廣い廣い宇宙には、太陽と同じやうな天體が、ほとんど數へ切れないほど存在する。
 さうして、その中には、太陽より小さいもの、太陽とほぼ同じ大きさのものもあるが、また太陽の數百倍といふすばらしいものがあるのである。

    十八 梅が香

               芭 蕉ばせを
 梅が香にのつと日の出る山路かな
 山路來て何やらゆかしすみれ草
 古池やかはづとびこむ水の音
               蕪 村ぶそん
  春の海ひねもすのたりのたりかな
 春雨にぬれつつ屋根の手まりかな
 菜の花や月は東に日は西に
 富士ひとつうづみ殘して若葉かな

    十九 雪國の春

      Kい土
 濃い空には、春の國から生まれて來たかと思はれる白雲が、山の懷ふところからぽつかり顔を出しては、見るまに大きくふくらんで、輕さうに浮いて行く。
 やはらかな日ざしが、窓いつぱいに降りそそぐ。
 縁先の雪が、かさりかさりと、音を立てて崩れる。
 崩れた雪は、やがて雨落ちのみぞに解け込んで、銀の糸のやうにまぶしく輝きながら、ちよろちよろと流れて行く。
 風はまだうら寒い。
 けれども、家々の窓も障子も、いつせいにあけはなされて、どこからか、カナリヤのさへづりが朗かに聞えて來る。
 庭におり立つた私は、荒なはで枝をつつた松の根もとに、そつと顔を出してゐるKい土を見つけた。
 もう、じつとしてはゐられない。
 私は、その土をしつかりと握つてみた。
 さうして、この一握りの土に、ほのかな春の香を感じるやうにさへ思つた。
「ねえさん、雪の中からお人形が出て來たの。」
 のんきな主人に置き忘れられ、雪にうまつて冬を越した人形が、それでも暖さうな顔をして、妹の小さな手にだかれてゐた。
「その邊をあんまり歩いちやいけませんよ。しやくやくや、すゐせんが、雪の下で、もう目をさましてゐるのですから。」
 ふしぎさうに、あたりを見まはしてゐる妹に、ほほ笑みながら私はかういつた──はちきれるやうな芽をもたげ、雪を割つてのび出ようとしてゐる物の溌剌(はつらつ)たる力を想像しながら。
 ふと、泥まみれの長靴をはいた弟が、せなかのあたりまで泥をはねあげて、垣に沿つた小路を、とんで行くのが見えた。
 と、そのあとを追つかけるやうに、
「もういいかい。」と、これはまたたいそう明かるい聲が、納屋のかげのあたりから、はずんで來た。
      せり摘み
 桑畠の雪もだいぶ減つて、あちらこちらにKずんだ畠の土があらはに出てゐる。
 ずつと向かふには、川べりに並んだはんの木が目立つ。
 一だんと大きなはんの木の間に、かぶつた白い手拭が見える。
「おかあさん。」
 弟が大きな聲で呼んだ。立つてしばらくこちらを見てゐた母が、左手をあげた。弟がかけ出した。
 ぼくも、弟のあとを追ふ。近づいてからまた弟が、
「おかあさん。」といつた。
 三四百メートルも走つたので、熱くてたまらない。
 上着を取つて、はんの木の下枝に掛けた。
 川の少し上手に、よそのをばさんも、せつせとせりを摘んでゐる。
 ぼくらを見てにつこりしたので、ぼくは帽子を取つておじぎをした。
 C水みしづの流れだといふこの川べりは、もうほとんど雪がなくなつて、雜草が一面に芽ぐんでゐる。
 草の芽の間から、立ちあがる水蒸氣のかげもなつかしい。
 いつのまにか向かふ側へ行つた弟は、土遊びに餘念がない。
 母は時々弟の方を見ては、またせりを摘む。母の指先が水にはいると、川底のせりの緑も、高いはんの木の影も、ゆらゆら搖れて一つになる。
 ぼくも、長靴をはいたまま、下手の淺瀬にはいつた。
 足もとからむくむくとにごつて湧きあがつた水が、すぐに流れ澄んで、せりの葉並みがいつそう美しく見える。
 手を入れる。水は思つたより冷たかつた。
 澄んだ水の色、川べりのKい土、草の芽の緑──この三四箇月土を見ることのできなかつた目には、皆たまらなくなつかしい。
 大自然は、今、春の喜びと活動に、よみがへらうとしてゐるのだ。
 ぼくは、もうぢき訪れる春を考へながら、あたりを見まはした。
 リれ渡つた空に、とびが高く鳴いてゐた。

    二十 國語の力

  ねんねんころりよ、おころりよ、
  ばうやはよい子だ、ねんねしな。
 だれでも、幼い時、母や祖母にだかれて、かうした歌を聞きながら、快い夢路にはいつたことを思ひ出すであらう。
 このやさしい歌に歌はれてゐることばこそ、わがなつかしい國語である。
 君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで
 この國歌を奉唱する時、われわれ日本人は、思はず襟えりを正して、榮えますわが皇室の萬歳を心から祈り奉る。
 この國歌に歌はれてゐることばも、またわが尊い國語にほかならない。
 われわれが、毎日話したり、聞いたり、讀んだり、書いたりすることばが國語である。
 われわれは、一日たりとも、國語の力をかりずに生活する日はない。
 われわれは、國語によつて話したり、考へたり、物事を學んだりして、日本人となるのである。國語こそは、まことにわれわれを育て、われわれをヘへてくれる大恩人なのである。
 このやうに大切な國語であるのに、ともすれば國語の恩をわきまへず、中には國語といふことさへも考へない人がある。
 しかし、ひとたび外國の地を踏んで、ことばの通じないところへ行くと、だれでも國語のありがたさをしみじみと感じる。
 かういふところで、たまたまなつかしい日本語を聞くと、まるで地獄ぢごくで佛にあつた心地ここちがし、愛國の心が泉のやうに湧き起るのを感じるのである。
 わが國は、~代このかた萬世一系の天皇をいただき、世界にたぐひなき國體を成して、今日に進んで來たのであるが、わが國語もまた、國初以來繼續して現在に及んでゐる。
 だから、わが國語には、祖先以來の感情・拐~がとけ込んでをり、さうして、それがまた今日のわれわれを結びつけて、國民として一身一體のやうにならしめてゐるのである。
 もし國語の力によらなかつたら、われわれの心は、どんなにばらばらになることであらう。
 してみると、一旦緩急ある時、國を擧げて國難に赴くのも、皇國のよろこびに、國を擧げて萬歳を唱へるのも、一つには國語の力があづかつてゐるといはなければならない。
 國語は、かういふやうに、國家・國民と離すことのできないものである。
 國語を忘れた國民は、國民ではないとさへいはれてゐる。
 國語を尊べ。國語を愛せよ。
 國語こそは、國民の魂の宿るところである。

    二十一 太平洋

  日本の北東から、南西の岸へかけ、
  遠くわが南洋の島々まで、
  太平洋の波は、ひたひたと打ち寄せる。

  北、ベーリングの荒海を巻き、南、南極海の氷原に連なり、
  アメリカ大陸に沿うてひろがる「太平洋」──
  それは、世界第一の海洋の名である。

  島々は、大空の星座のごとく並び、
  艦船は、魚群のごとく進み、航空機は、(つばめ)のごとく渡り、
  世界の電波は、この海洋を越えて縱横に脈うつ。

  かなた、熱帶の海から流れ起るK潮、
  わが大日本の磯を洗ひながら、北上し、
  東へ轉じて、遙かにアメリカの大陸をつく。

  更にわが南洋から巻き起る颱風たいふうは、
  太平洋、南支那海、東支那海、日本海、オホーツク海──
  海といふ海、水といふ水に號令して、
  世界最大の波紋を描く。

  K潮と颱風と、その焦點に、神は大八洲おほやしまを生み、
  皇祖皇宗は國を肇めたまふ。
  そこに世界の原動力が力強くひそみ、
  最高文化の源泉が高鳴つてゐるのだ。

  日向ひうがを船出して、都したまうた國は大和やまと
  わが大日本はおほやまと、また浦安の國であるやうに、
  太平洋は、皇國の鎭めによつてのみ、
  とこしへに「太平」の海なのである。

   崎 磯 霜 銅 坑 鑛 棚 昇 貴 澤 硬 搬
   掘 險 絡 勞 疲 斷 邦 疾 監 政 廳 裁
   狂 孔 慕 厄 コ 能 仁 己 欲 季 徴 般
   觸 浦 鶴 朗 純 渇 超 亡 仇 鑑 黨 騷
   罪 預 評 議 迫 侯 論 識 是 滴 緒 疊
   爵 績 坐 跡 憤 奔 壞 却 揮 躍 展 釘
   遂 寛 汚 還 謹 愼 崩 處 請 陷 歿 捧
   慶 掲 慮 瞬 描 派 遣 怖 握 廻 零 減
   宇 宙 蒸 瀬 湧 訪 踏 緩 赴 焦 肇 鎭

   附 録

     一 熱帶の海

 船は、南支那海を眞直に南下して、いよいよ赤道に近づいた。潮の色は、濃い藍あゐから少しづつ緑に變り、日ざしもさすがに強くなつた。
 くつきりとリれた行く手の空には、眞白な入道雲がむつくりと首をもちあげて、船を招いてゐる。
 あの雲の眞下あたりが赤道であらうか──雲の白さと、空のさと、地平線の緑とが、あざやかに對照たいせうして、まるで大きな七寶燒の置物でも見てゐるやうだ。
 波もすつかり靜かになつて、時々飛び魚が銀色の肌を光らしながら飛んで行く。明日は昭南に入港する。
 そこから針路を北西に取つて、スマトラ島の北端を廻ると、いよいよインド洋だ。太平洋に續く南支那海の潮の色と、インド洋の色とは全く違ふと聞いてゐたが、もうこのあたりから、はつきり變りかけてゐるのもおもしろい。緯度は北緯三度だ。
 このあたりは、時に氣味惡いほど靜かななぎが訪れる。
 さざ波一つ立たない、鏡のやうな海面をすべつて行く船の跡が、いつまでたつても二本のしわを描いて、消えずに殘つてゐる。
 風はぴたりと死んだやうに止んで、地平線から浮かびあがつて來る星の光までが、ぽつんとともつた船のともし火のやうに見える。
 日の出などは、よく船火事と見まちがへられるほど、ぼうつと赤く、大きくもえあがつて、靜かな海面に寫るのである。
 しかし、今日は快い南西の季節風に搖られて、緑の小波はなごやかなささやきを續けてゐる。南西の風に向かつて、かすかに針路を變へたころから、左舷にまはつた入道雲の頭が、そろそろあかね色に染まりかけて來た。
 時計を見ると、二十時を過ぎてゐる。
「すばらしい日の入りが見られますよ。」と、そばに立つてゐた船長がいつた。まつたく熱帶の海の落日は、すばらしい。
 波の一つ一つが、大きな太陽の紅を寫して、首を振り振り體操をする。
 初めはみんな淡紅色の旗を捧げて、歌つてゐるかに見える。
 その歌聲につれて、太陽はいよいよ赤く、大きくなる。
 すると、波どものうち振る旗も、また刻刻に濃さを増して、見渡す限りの海が、眞紅のきらめきにもえ立つて行く。
 その時、船もまた兩舷にかみ出す白いしぶきを、緋色ひいろのねり絹のやうにひるがへして進む。
 赤道といふ文字は、あるひはかうした落日の美觀をいひ表すに、最もふさはしい文字かも知れない。
 ところが、その雄大な美觀を待ちわびてゐるうちに、不意に雲の表情が變つて來た。
 頂を、あかね色に染めかけてゐた入道雲の足もとから、むくむくと二つ三つ、灰色の雲が湧きあがつて來た。
 何といふ延びの早い雲だらう。幾重にも輪を重ねて湧きあがつたと思ふうちに、太陽をさへぎり、空を埋めて行つた。
 わづか四五分の間に、すつかり海面を暗くしてしまつた。
 と思ふまもなく、一際暗いその雲の中央から、繩なはのすだれを掛けたやうな雨足が、さつとたれさがつて來た。スコールだ。
 スマトラ名物の激しいスコールが、海上へのこのこと出て來たのだ。
 緑の地平線は、一瞬のうちに、鉛なまり色に變り、その鉛色の地平線を、右に左に歩いて行くスコールの足が、はつきり見える。
 このスコールの足は、まるでかけるやうに右舷の海を渡つて來る。
 地平線はけむり、視界は急にせまくなつて、のちには、雨足も、雲も、何もかも見えなくなつてしまつた。
 とうとう、スコールが船の上へやつて來たからである。
 船全體が、むちでたたかれてゐるやうな音を立て、話し聲も、機關の音もかき消されて、目の前には、數知れぬ細引きが掛け並べられてゐる。
 こんな太い雨を見たことはなかつた。
 さすがに南洋の名物だ。
 十五分餘りで、スコールは東の方へ去つて行つた。
 たぶん季節風に乘つて、ボルネオ見物にでも行くのであらう。
 船の人々は、ほつとした氣持で、その雨足をじつと見送つてゐる。
 再び行く手に、空が細く割れ目を見せだした。
 その割れ目が靜かにひろがつて、深い藍色が頭の上にかぶさつたころには、もう太陽は沒して殘光は見られなかつた。
 涼風りやうふうに吹き洗はれた空には、みごとな星がいつぱいまき散らされてゐる。
 南十字星は手の屆きさうなところに光つてをり、北斗七星は北のはづれにゐて、内地のありかをささやき顔にまたたいてゐる。
 どの星も大きく、く、呼べば答へるほどの近さに見える。
 だまつて、じつと見つめてゐると、一つ一つの星の呼吸さへ聞えて來るやうだ。このやさしい目を見張つて、永遠にまたたき續けてゐる星のおかげで、昔から、海員や船客たちは、どんなにか慰められたことであらう。
「いい星ですね。まもなく月も出ませう。」
 かういひながら、船長はうつとりと空を見あげた。
「しかし、インド洋へ出ると、こんなおだやかな晩ばかりではありません。五月から八月までは、風速二十メートルぐらゐの南西季節風が、時には十日も續いて高い波が立ちます。
 しかし、波には波の美しさがあつて、非常な勢で船首に碎け散る怒濤どたうの中には、かへつて海國に生まれ、海國に育つた私たちの血潮を湧き立たせる、勇ましい調べがあります。」
 向かひ合つて話してゐる船長の後の空と波とが、明かるさを増して來た。
 スコールの去つた東の海から、やがて月が出て來るのであつた。

     二 洋上哨戒せうかい飛行

 整備員が思ひきり帽子を振つて見送つてくれる基地の朝は、まだやつと明け始めたばかりなのに、先發の各機は、もう洋上遙かに飛び出して行つた。
 今日も、基地の上空は一面の層雲で、行く手はきつと南海特有の積亂雲が多いことであらう。眞Kに空をおほふ彈幕や、いどみかかつて來る敵機をものともしないわが海鷲うみわしにも、變りやすい天候だけはにが手である。
 それに、攻撃目標のない洋上哨戒の單調さは、やりきれないものがある。
 しかし、制海權けん・制空權ともにわが手に握られてゐる大東亞海へ、一機も敵を寄せつけないためには、どんなに天候が惡からうと、早朝から飛び出して、一日中、島影一つ見えない洋上に哨戒飛行を續けるのである。
 雲が低いので、今、機は五百メートル以下の低空を飛んでゐる。
 機上の朝食を終つたばかりなのに、ガラス窓をしめきつた機内は、むれるやうな暑さである。
 出發後一時間ばかり、やつと層雲を拔けたので、少し高度を取つたが、やつぱり暑さに變りはない。
 見渡す限り、大海原は白波一つ立たず、油を流したやうな靜かさ、單調さだ、しかも搭乗員たふじようゐんは、一瞬といへども氣をゆるめてはゐないのである。
「船が見えます。」と、偵察員が突然叫ぶ。なるほど、遙か左前方の地平線上に、ぽつつりとKい船らしいものが見える。
 全員はたちまち配置についた。
 今日こそは、敵に見參したいものである。しかし近づくにつれて、そのKい物は、しだいに大きく空へひろがつて行く。
 あれほど敵艦船であつてくれと願つたのに、やつぱり雲のいたづらだつたのか。
 この洋上では、よくかうしたことがある。
 波がひどくあわ立つてゐるので、潛水艦の潛望鏡かと、近づいて見れば、魚の群だつたりする。
 殊に地平線上の雲の影は、容易に見わけのつかないことが多い。
 晝食も終らないうちに、ものすごい積亂雲が前方に立ちふさがつて來た。
 下は海面すれすれまで、上は五六千メートルもあらう。
 これを避けて北へ遠廻りをする。
 やつと切れめを見つけて、豫定の哨戒線上に針路を取りもどしたと見る間に、白いすだれを掛けたやうなスコールの中へ突つ込む。スコールの中では、灰色の大きな木を押し立てたやうな龍巻さへ起つてゐる。
 海面から巻き起つて雲に達する壯觀は、「天にとどく」などの形容では追つつくものでなく、これに巻き込まれたら一たまりもないのだ。
 更に變針して南へ廻る。風に流される機の方向を正すため、偵察員は偏流へんりう測定器から目が離せず、コンパス・定木ぢやうぎを手にしながら、絶えず現在の位置を海圖に書き込んで行く。
 右へ左へ廻りながら單機で豫定線上を行かなければならないだけに、この測定に寸分の誤あやまりがあつてはならない。
 わづかな誤差ごさから、基地へ歸着することのできない危險さへ起る。
 洋上飛行の目となり、道しるべとなる偵察員の苦勞は、並みたいていのことではない。
 いよいよ、命令された哨戒線の果てまで來た。
 ぐつと機の方向を變へる。
 ああ、今日もとうとう敵は影を見せなかつた。

     三 レキシントン撃沈記

 南方の海は、割合ひおだやかな日が續く。
 ハワイの西方海面を哨戒せうかい中のわが潛水艦は、今日も獲物にありつけず、潛望鏡でのぞく海面は、今落ちかかる太陽の殘光を斜ななめに受けて、異樣に輝き渡つてゐる。
「今日も獲物はないか。また太陽が沈んで行く。」
 潛望鏡をおろしてから、艦長は、ひとり言をいつた。
 だれもだまつてゐる。
 艦長は、また潛望鏡をあげて、くまなく四方を偵察してゐたが、西の方へ向かつた時、
「潛沒。」と、急に元氣な號令をくだした。
 艦は、たちまちさげかぢを取つて、突つ込んで行つた。
「掃海艇らしいものが、こつちへ突進して來る。」
 艦長は、だれにいふともなくさういつてから、
「發射用意。」を發令した。
「發射用意よろし。」の報告があつてから、艦は西へ向かつて全速で突進した。また深度を少しづつ減らして行つて、艦長は、潛望鏡を何秒間かちよつと出して見た。
 その目にうつつたものは何であつたか。
 意外にも、沈みかかつた太陽を背景はいけいにして、斜めにこつちへ向かつて走つて來るレキシントンの姿であつた。さつき見た時は距離が遠かつたので、レキシントンの甲板かんぱんが見えず、あの變にだだつぴろい艦橋の上の方と、マストだけが見えたので、艦長は一見掃海艇と思つたのであるが、今見ると、その下の飛行甲板がはつきり見えて、その艦首のかつかうから、煙突の形から、まさしくレキシントンに違ひないのである。
「獲物は大きいぞ。みんな愼重しんちようにやれ。」
 艦長は、いかにもうれしさうである。
 全艦これを聞いてをどりあがつた。
「よし、のがすな。」
 目と目はおたがひに物をいつて、全員白鉢巻をきりつとしめた。
 できれば體當りと、艦長は心に決した。近づくに從つて、敵艦の推進器すゐしんきの回轉する音がはつきりと聞えて來る。
 それといつしよに、もつと輕い、巡洋艦か驅逐艦らしい推進器の音も混つて來る。敵の警戒は嚴重らしい。
 時はよし、艦長は再び潛望鏡をあげた。
 何といふ天佑てんいうであらう。
 すでに太陽は沒して、西の方だけが眞赤に暮れ殘り、その眞中にくつきりと、レキシントンが大きなからだを浮かし出してゐるではないか。
 周圍は、もう暗くなつてゐる。これなら、潛望鏡を出したまま進んでも、敵から見られるはずはない。
 艦長は潛望鏡を出したまま突進し、その間に、正確に敵の針路と速力を觀測した。
「發射始め。」
 艦長の聲は、全艦に響き渡つた。魚雷はうなりを生じて突進して行く。
 多年手しほにかけた魚雷だ。行けといつた時には、敵艦の胴腹深く飛び込むんだぞと、毎日いつて聞かせてゐる魚雷だ。
 いかに機械でも、心は通じるのである。
 生あるもののやうに飛び出して行つた魚雷のうなりを聞いて、發射管員は、ほつとため息をついた。
 艦は急速に潛沒して行く。こつとの所在を知つてか知らずか、敵の警戒艦が、ちやうど頭の上を通つて行つた。
 その氣味惡い推進器の音が耳に響いて、ちよつと張りの拔けた~經を引きしめさせる。
 ちやうど魚雷が走り終つたと思ふ時である。
 轟然ぐわうぜんたる爆音が、聽音ちやうおん機に吸ひ込まれて來た。
 二回にわたる爆音である。
 魚雷二本が、確かに命中したのだ。
 思はず歡聲があがる。その笑顔がまだ終らないうちに、またしても大爆音が二回、はつきりと聽音された。
 わが魚雷は、みごと敵艦の火藥庫か何かにくひ入り、大爆音をあげて轟沈させたのであらう。それつきり、今まで聞えてゐたレキシントンの推進器の音は、聞えなくなつてしまつた。

     四 珊瑚さんご海の勝利

     一
 五月七日、十一時の晝食前である。
「わが小型航空母艦沈沒す。」と、擴聲器が艦内各部に報じた。
 くちをしさが、足の先から頭のてつぺんまで突き拔けて走る。
「今に見ろ。敵艦隊を一隻も餘さず、珊瑚海の海~のごちそうに供へてやる。」と、齒を食ひしばつた。
 沈沒したこの小さな母艦は、敵五十機の雷爆撃を相手に、敢然と戰ひぬき、不幸にも今この厄にあつたのである。
 すると、今度はすばらしい勝報がやつて來た。
「戰艦一隻撃沈。」
 やつた、やつた。
 わが勇猛果敢な海の荒鷲あらわしが、米のカリフォルニヤ型を撃沈したのだ。
 更に英の戰艦ウォースパイト型にも、大損害を與へたことがわかる。
 どつとあがる歡呼。うれし涙が頬ほほを傳つて流れる。
 十三時三十分ごろ、わが艦隊の左後方の空を、銀翼で切つて飛ぶ大編隊が見えた。みごとな編隊である。
 高度をさげて、いういうと近づいて來る。
 先頭の指揮官機の翼が、きらきら光る。銀翼に、眞赤な日の丸がくつきりと浮いて、望遠鏡にうつつて來た。
 最初、敵の大空襲かと、戰鬪配置について照準せうじゆんを定め、ねらひ續けてゐた高角砲の勇士たちは、みかた機とわかつて狂氣のやうに手を振つた。
 たつた今、戰艦カリフォルニヤ型と、ウォースパイト型を血祭りにあげた、殊勳しゆくん輝く海の荒鷲が、大空高らかに、凱歌がいかをあげて基地へ歸るところである。
 感極まり、萬歳を絶叫ぜつけうする。
     二
 五月八日。くしくも第五回大詔奉戴日ほうたいびに當る。
 祖國日本の姿を思うて、血の高鳴るのを感じた。
 雌雄しゆうをこの一擧に決する最後の決戰は、刻々にせまる。
 殘敵は、今やまつたく袋の中のねずみとなつて、逃げようとどうあせつても、逃げられるものではない。
「敵○○機みかたに向かふ。」の報があつた。
 六時三十分ごろである。
 この時すでに早く、わが勇敢無比な荒鷲部隊は、決死母艦を離れ、決勝の翼をつらねて、敵航空母艦めがけて雷爆撃に向かつてゐた。
 すは、決戰である。
 世界戰史上、いまだかつてなかつた航空部隊と航空部隊との決戰である。
 場所は、パプアの東端から數十海里の海と空だ。
 時間のたつのがもどかしくてならない。
 八時四十分、敵の一機が偵察に來たが、わけもなく撃退される。
 と、豫期にたがはず、一大勝報が、電波に乘つてやつて來た。
「サラトガ型撃沈。」
 やつた。とうとうやつた。
 われら最大の目標であつた敵航空母艦サラトガ型は、かくて珊瑚海に捧げるすばらしい供へ物となつた。
 荒鷲、よくぞやつてくれた。
 目がしらが、じいんと熱くなつて來る。
 そこへまた敵航空母艦ヨークタウン型撃沈の勝報である。
 全身が勝利の喜びで震へるのを、どうともすることができない。
 午後になつて、わが艦隊に敵機來襲。
 濠洲がうしう東岸の基地からでもやつて來たのだらう。
 一隊は左舷から、他の一隊は遠く後方から爆撃して來たが、相變らず、とはうもない高度爆撃だ。
 あたるものではない。
 大きな水柱が、遠い海面にあがつては消えて行く。
     三
 この夜感激の軍艦行進曲が、遙か祖國の東京から放送されて來た。最前線の決戰場、南半球の珊瑚海で聞くラジオ放送──大本營發表である。
「航空母艦サラトガ型、ヨークタウン型二隻撃沈、戰艦カリフォルニヤ型一隻撃沈、戰艦ウォースパイト型一隻に大損害……」
 遠く大戰果は、一億同胞いちおくどうはうに、いな大東亞十億の民族に、全世界に、かく放送されてゐる。軍艦行進曲を聞きながら、われわれは、だまつたまま、靜かに端坐してゐた。

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